これはとても嫌な話だ。
とてもとても嫌な話だ。
忘れたいのに忘れられない、憶えていたくないのに脳裏にこびり付いて離れない。
例えば蛆の湧いた獣の死骸を目にした時のような。
例えば密かに想っていたあの人が、他の誰かと睦まじく手を繋いでいるのを目撃してしまった時のような。
誰が悪い訳でもないし、誰が何をしたという訳でもない。
彼女達は彼女達であったに過ぎない――つまりはそういう事だったのだろう。
彼女達十六夜咲夜、紅美鈴、鈴仙・優曇華院・イナバの三人がこの話の主人公。この思い返すもおぞましい物語の被害者であり、加害者であり、語り部だった。
紅に染まる館の一室。玄関先のホールを抜けて、一番最初に行き着く客間でそれは起こった。
館の主の趣味なのか、過剰なまでに豪華な客間。
一面の赤い絨毯。純白の壁紙。樫のテーブルと椅子。火は入れられていないものの暖炉すらあり、壁には不可解で抽象的な絵画が飾られてある。
そのテーブルで三人は一様にテーブルに肘を付き、頭を項垂れていた。
「ねぇ、どうするつもり?」
言葉を投げ掛けたのは銀髪にホワイトブリムの少女。蒼いメイド服に身を包んだ端正な肢体だが、俯いていて表情は見えない。
「そう言われても……」
答えたのは紅い髪を腰まで伸ばし、大陸風の民族衣装に身を包んだ少女。健康的な手足と女性的な柔らかさが同居した魅力を発していたが、やはり俯いたままでその表情は解らない。
「もぅ、いい加減にしてよ!」
いきなり今まで突っ伏したままだったもう一人の少女が、椅子を蹴倒すような勢いで立ち上がって机を両手で叩いた。
流れる雪のような銀の髪にしなびた二本の耳が揺れ、その赤い眼差しには怒りと苛立ちが混じっている。
美しい――そう形容するのに異論を挟む者など皆無だろうが、今の顔に浮かぶ表情からは何人たりと跳ね除ける苛烈さがあった。
「大体、私は何も関係ないじゃない! 師匠に頼まれて薬を届けにきただけだってのに、何でこんな目に会わなきゃいけないのよ!」
「同情するわ。形だけ」
そんな怒りを撒き散らす少女に対し、冷たい視線を送りながらメイド服の少女も顔を上げた。
その美しい髪と肢体に相応しい端正な顔立ちだが、その視線は絶対零度の剃刀のように蒼く冷たい。
「そうですよ。確かに貴女も巻き込まれただけかもしれませんが、原因を作ったのは貴女じゃないですか?」
赤い髪の少女も顔を上げる。
大きな瞳は子供っぽさすら残っていたが、その豊満な肉体と相まって背徳の感情すら巻き起こる。
もっともそのやつれたような視線は、彼女の魅力を大幅に削いでいた。
「そりゃ……私もこれ何かなーとか思って、思わず触っちゃったけどさ……大体、何でこんなヤバイもんが、客間に堂々と置いてあるのよ!」
そう言って鈴仙は壁際を、抽象的な絵画の飾ってある壁の反対側、本来なら窓の位置にあたる場所に置いてある『ソレ』を指差した。
「……お嬢様の趣味よ」
「うわ、最悪」
「……聞かなかった事にしておくわ。今回ばかりは」
そして三人は、壁際の『ソレ』へと視線を向ける。
何でこんなもんが此処に?
此処は洋風のゴシックな館じゃなかったのか?
いつから此処は世界七不思議に名を連ねるようになったの?
其処には威風堂々と、悠久の時を耐え抜いた漢の中の漢の顔。
口からリングビームでも出しそうなモアイ像が鎮座していた。
§
事の起こりは今から数時間前。
永琳から薬の配達を頼まれた鈴仙は、いつもの事だと特に何の疑いも持たずにそれを承諾した。
今になって思えば、そんな疑う事を知らないような彼女の性格が招いた事だったのかもしれないが、今更それを咎めたところで現状が好転する訳でもなく。
他の二人もそれはよく解っている。解っているからこそ、頭を抱えていたのだ。
ともあれ、客間に通された鈴仙は受取人である咲夜を待っていたのだが、ただ待つだけという行為は次第に彼女を手持ち無沙汰にさせてしまう。そしてそれは見慣れない家具や調度品への好奇心という形で現れていったのだ。
長い間完全な和風建築である永遠亭で暮らしていた鈴仙にしてみれば、そこに置かれている物全てが新鮮な物。
特に見るのも初めてだった『ソレ』に対しては、一層好奇心を刺激されてしまったのだろう。
太古の世界で一体誰が、何のために、何を思ってそれを作ったのか。
真一文字に結ばれた口、大きな鼻、窪んだ目元は帽子の鍔のように突き出た額の所為もあって黒い影となり、じっと見ていれば逆に吸い込まれてしまいそうな程に、暗く、冥い。
古代の人々は皆こんな顔をしていたのだろうか、などと思って鈴仙がその綺麗に磨かれた立派な頬に手を伸ばしたところで、咲夜と美鈴が部屋へと入ってきたのだ。
だが咲夜もよもやそのモアイがそんな物だとは思わなかったのだろう。
触れるだけでは足りなかったのか、両手でペタペタとモアイの顔を撫で回す鈴仙を見ても「壊さないでよね」と注意するだけに留まり、美鈴に至ってはただ見ているだけだった。
その時鈴仙が妙な好奇心を発揮していなければ。
その時咲夜と美鈴が少しでも注意していれば。
だが、全ては後の祭。美鈴が客間のドアを閉めたその瞬間、突然モアイの目が光ったかと思うと、部屋は地震が起きたかのような激しい揺れに見舞われたのだ。
立っていられなくなった三人が床に倒れこんだところで揺れは収まったのだが、異変はそれだけではなかった。
「いたたた……咲夜さん、大丈夫ですか?」
「えぇ、私は平気よ。それより……」
額を擦りながら美鈴が部屋の奥を見ると、先程の揺れで倒れたのか、モアイの下敷きになった鈴仙が伸びていた。
「だ、大丈夫ですか!?」
すぐに美鈴が駆け寄りモアイをどかせて鈴仙を抱き起こすも、鈴仙からの反応は見られない。
「……大丈夫みたいね」
「いや咲夜さん、今はモアイじゃなくてこの娘をですね」
「何を言ってるの。壊したりしたらお嬢様が煩いのよ」
「いやいやいやいや」
「う…ん……」
「あ、気が付いた?」
「あれ、私……――っつ!」
目覚めた鈴仙が立ち上がろうとしたが、倒れた際に足を捻ってしまったのか、すぐにまた床へと座り込んでしまった。
「情けないわねぇ。美鈴、ちょっと包帯取ってきてくれる?」
「あ、はい。解りました」
そう、異変はそれだけではなかったのだ。
ドアを開けて部屋を出た美鈴は――否、部屋を出ようとした美鈴は、何も言わずにそのドアを閉めてしまった。
「何をしているの? 早く包帯を――」
「咲夜さん……」
「何よ」
「ここって紅魔館……ですよねぇ?」
「なにを馬鹿な事を言っているの。当たり前でしょう」
「ですよねぇ……」
むぅ、とその幼さを残した顔に困惑の色を浮かべながら、美鈴が今一度ドアノブに手をかけて開いてみる。
「……咲夜さぁん」
「何を情けない声を出しているのよ。包帯の場所くらい知っているで――」
いい加減苛立ちを隠せなくなったのか、咲夜が整った眉を顰めて歩いていくが、そのドアの先に広がる光景を見るやいなや、美鈴共々固まってしまった。
「ねぇ美鈴。ここって紅魔館よねぇ?」
「咲夜さん、それさっき私が聞きました」
「……ここ、どこ」
「私に聞かれましても……」
しかし、二人が固まってしまったのも無理はない。
本来ならば廊下へと続いているはずのそのドアの先は、何故かジャングルだった。
そうして、三人は今に至る。
何故ジャングルなのか。そもそも何が起こったのか。
調べようとしていざジャングルの中に突撃してみても、やっぱりそこはジャングルで。
どこまでも、どこまでもジャングルで。
原因は解っても、だからといってどうする事もできず。
テーブルに突っ伏した三人には、最早気力の欠片も残ってはいなかった。
§
がばり、と唐突に頭を上げたのは咲夜である。こんな時でも彼女の冷静さは失われていない。自棄になっていなければ、の話だが。
「……こうしていても、埒があかないわ……何とかしましょう。何とか」
そのままコツコツと靴音を響かせてドアを開けなおす。
「現状の確に……………………」
そこで、彼女は止まった。
そりゃ目の前になんかやたらとデカくて鉄っぽい魚がばっくり口を開いてこっちを見ていれば止まりもするだろう。
というかジャングルは何処に行った。何故真っ暗な夜空みたいな風景が広がっている。
フィンフィン……と音がして魚の口奥が煌々と蒼く光る。
「ちょ……ヤバ!」
咲夜は言いようのない危機感を覚えて慌てて扉の横へと身をどける。
みーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!
魚の口から凄まじい勢いで放たれる蒼光が紅魔館の客間の反対側の壁に突き刺さる!
「あっつい! あつつつつつつつつつ!!!! みみっ! みみがっ!」
レーザーはボケっと扉を見ていた鈴仙の耳を焦がして突き抜けていった。
「うわっ!」
「何々なにナニっ!? なんなのあの魚! なんか青くてあっついの撃ってきたよ!?」
――避けて良かった……
咲夜は内心の冷や汗を覆い隠し、扉の向こうをそうっと覗いて見る。
そこには再び口の中に光を溜め込む魚の姿が――
バタンッ!!
「はぁ……なんだって言うのよ……さっきの密林は何処に行ったのよ……っていうかあの魚はなんだったのよ……」
全身で扉を閉めてもたれかかる咲夜は心底疲れていた。
そのままノロノロとテーブルに戻ってきてばたりと突っ伏せる。
「はふっ! はふっ! なんだったの!? 今のなんだったの!? 私の耳が……ただでさえクシャクシャだって虐められてるのにぃ~……」
鈴仙は自分の耳に必死で息を吹きかけながら疑問だか何だかよく解らないが、とりあえず現状に対する不満を誰ともなしに叫んでいる。
「……それに答えられる人が居ると思います?」
律儀に返事を返す美鈴はテーブルから離れていた。
「美鈴……貴女の番よ……」
その美鈴に咲夜によって白羽の矢が立てられる。
「えー!? 今度は私ですかぁ!?」
「今一番扉に近いからよ……これは命令」
盛大に不満を漏らすが、咲夜はこの館の顔役でもあり、メイド長。逆らえるはずが無いのだ。
「うぅ……わかりましたよ……開ければいいんでしょ、開ければ……」
ブツブツと愚痴を呟きながら扉のノブに手をかける。
「どうかいきなり攻撃されませんように……」
弱気な言葉を漏らしながら、そっと扉を開ける。
ちなみに鈴仙は先程の教訓を生かしているのか、テーブルを離れ、扉の直線状から外れた位置に立っていた。
重々しい音を立てながらゆっくりと扉が開かれる。
そこには、黄色い三角形が浮いていた。
「………………………………はい?」
円錐の頂点を切り取り、そこから逆側に小さいながらも同じような円錐を逆にくっつけて向こう側が見えるようにしたような物だ。
簡単にわかりやすく言うと、黄色いメガホンが浮いていた。
メガホンの向こうはなにやら灰色の大きな建物らしき物が立っている。上下に。
何が何だかまったく解らない。
理解の範疇を超えた光景に三人とも目が点になるのも無理は無い。
ふよふよと、赤い何かがいくつか漂っている。
丸い風船にウネウネとした触手らしき物を生やし、凛々しい眉毛と意思の強そうな目と、突き出た口。
真っ赤な海の悪魔が空を飛んでいた。
真っ赤な海の悪魔こと蛸達は体を歪めると、美鈴に向かって一斉に弾幕を吐き出した。
――ひぇぇ。
少なくとも美鈴はそう言ったつもりだった。
だがメガホンからは、
「給料あげて!」
と大音量が発せられ、蛸の弾幕を次々と打ち落としていく。
――へ?
「イヤン(はぁと」
「ちょっ! 何を言ってるのよ美鈴!」
背後から咲夜の声がかかり、ようやく美鈴は我に返る。
――わわわわわっ!
「ただいまタイムセール中!」
バタン!
「な……なんだったの? 今のなんだったの!?」
うろたえる鈴仙。
「はぁ……………………」
テーブルに突っ伏したまま動かなくなる咲夜。
美鈴も結局咲夜に続くようにノロノロとテーブルに戻ってくると、
「なんだったんだろう……」
と言って突っ伏した。
美鈴はそのまま顔を上げずに冷静に次の犠牲者――といってもいいのだろうか――を指名する。
「次は鈴仙さんですよ~」
声こそやる気は感じられないが、そこに込められた墓場からの呼び声は有無を言わせぬ響きを持っていた。
「えぇ~」
露骨に頬を膨らませて嫌がる鈴仙だが、それを許すような二人ではない。
「私は開けたわよ……」
「おかげで私の耳が焦げましたけどっ!?」
「私も開けましたし……」
「なんか変なコト口走ってただけじゃないですか!?」
必死に抗弁する。
「「じ~~…………」」
「なんですかその目! まるで私が悪いようじゃないですか! 嫌ですよ!? 開けませんよ!?」
「「じぃ~~…………」」
二人の視線の前にたじろいだ鈴仙は二、三歩にじり下がる。
「永遠亭の兎はダメね」
「はぁ、鈴仙さんならあるいは……とも思いましたけどねぇ」
「わかりましたよ! 開ければいいんでしょ! 開ければ! えぇいいですとも開けようじゃありませんか!」
視線と二人の言葉に自棄になった鈴仙が大またでノシノシと歩いて扉に近づく。
ノブを握り締めながら後ろを振り返ると、
「何が出てきたって知りませんからねっ! 開けますよ!?」
と大声で宣言した。
「えいっ!」
力を込め、気合を入れてノブを回す!
「アイン見参!」
「は?」
やたらと凛々しい声が聞こえた。
鈴仙の前には上半身裸の筋肉隆々な金髪独眼のサムライらしき人が刀を構えていたのだ。あまりと言えばあまりの展開だろう。
「ウヌッ! そこな兎妖怪め! この風雲はだか侍アイン様が成敗してくれるでゴザル!」
野太い声でやたらと筋肉を見せ付けるかのような動きをし、汗が飛び散り、割り箸の折れる音が聞こえた。
「この! 正義を愛する! 放浪の侍! アイン様が! そのよぉうな小娘如きの姿で騙されると思ったか! ……しかしながら若い筋肉の漢ならばまだ騙されても良かったのだがな! フハハハハハハ! 喰らえぃ! サムライッ! ソー」
パタン。
静かに鈴仙は扉を閉じた。
「…………………………………………」
沈黙が立ち込める。
「イヤーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!! マッチョでパツキンで汗臭そうなホモがーーーー!!!!」
鈴仙が発狂した。
「なによなによ! 風雲はだか侍って!? アインって何!? 誰!? 知らないわよあんな人!!」
「美鈴……」
「咲夜さん……」
咲夜と美鈴は直視しなかったのか、まだダメージが少なかったようだ。
テーブルに突っ伏したままごろりと顔を向ける。両者の視線の先には異様な存在感を放つモアイ像が鎮座ましましていた。
「原因はやっぱりアレよねぇ……」
「アレですねぇ……」
やる気の無い声で確認し合う。すでに二人とも披露困憊なのだ。それぐらい察して頂きたい。
「なんとかしないと……」
どちらとも無く溜息を吐きながらモアイ像を見る。
「「はぁ…………」」
深い、とても深い溜息が同時に零れた。
「なんなの!? もうアレだって、時代は漢字の漢と書いてオトコと読むの!? そんな汗臭いのがいいの!? おかしいでしょそんなの!! 私だって充分に可愛いじゃない!! なんでみんなオトコがいいの!? ワケわかんない!! ってゆーかもう扉がわかんないし、モアイ像だってわかんない!! もぅ誰かどうにかしてよぉーー!!!!」
鈴仙はまだ精神に重大な傷を負ったままのようだった。
誰もが同情すると思うが、誰もがなりたくなかった役目はいつも彼女に回ってくる運命なのだ。
§
「はぁ」
「ふぅ」
二人の口から溜息が漏れる。
この期に及んで何度目かとかそういう事はどうでもよくなるが、溜息が漏れた。
「うふっ、うふふふふふふ」
机に突っ伏す二人が精神疲労を起こし無闇に疲れている最中、鈴仙ははだか侍が齎した精神的外傷を伴う強烈な体験によって笑いながら微痙攣している。多分トラウマとして当面、アレが夢に出てきたり白昼夢で見ちゃったりするんだろう。可哀想に。
ともあれ、今の鈴仙は壁に向かって体育座りの上小刻みに揺れているという見た感じあまりにも危険な状態である。
突っ伏す二人は目線を動かし、最低限に首を動かし、視線を交わす。
モアイを何とかするよりも、まずは鈴仙を何とかするべきなんじゃないだろうか、と。
数瞬後、拒否権を発動しようとした美鈴の鼻先に即座にナイフが突き立つ事で、色々と決定された。
「ううっ……」
半泣きになりながらよろゆらと立ち上がり、美鈴はモアイと正反対の位置で小さくなっている鈴仙へ目を向ける。
「うーふーふーふーふっふふふふ」
多分あれはもう駄目だ。
今の鈴仙は、後姿と笑い声だけでそんな事を直感的に思わせるに充分だった。
しかし、美鈴は彼女をどうにかせねばならない。こういう時彼女は思う。偉くなろう、と。例えば自分がやりたくない事を部下に押し付けられるくらいに。
「はぁ」
背を丸くしている鈴仙へと歩きながら、溜息がぽろりと落ちた。
正直な所を言えば、歩む足取りはゆっくりなくらいが丁度良いのだが、それを実行しようとすると後ろが怖いので美鈴は平素どおりすたすたと軽い足取りで鈴仙の傍に立つ。
近づくにつれ彼女の笑い声と、小刻みな揺れっぷりによって発生する振動エネルギーで耳の揺れっぷりがとても変だという事がはっきりしていくのが嫌だった。
揺れる月兎を指差し、美鈴は無言のまま咲夜を振り返る。
その意図は単純だ。
そして、そんな美鈴に対し、咲夜は軽く頷く。
この意図も単純だ。
諦念と共に視線を戻した美鈴は、取り敢えず―――
ゴシャッ
風を切る音がした後、割と無残な音がした。
彼女は一分一秒でも早くこの場から出たかったのだ。その点では咲夜も同様であり、恐らくは鈴仙もだろう。
だから、咲夜は美鈴の行為に対し多少目を見開きこそすれ、咎めるような事は一切しなかった。それどころか内心歓迎してさえいたのである。
二十秒後。
「さて、じゃあどうしましょうか」
モアイをに対し、二人の少女が真剣な眼差しを向けていた。
言うまでも無く美鈴と咲夜である。残る一人は今や静かに美鈴の背に括り付けられていた。瀟洒な手際で。
扉を開けたら千変万化な摩訶不思議が展開している事はもはや疑いも無く、とすれば扉以外の場所を脱出路として見立てるのは自然な事と言えた。天井や床や壁を直接ブチ抜くという手もあるが、館を傷つけるくらいならそもそもモアイをそっとしておく理由も無く。
何せ二人は紅魔館のメイド長で門番で、悲しいかな事ここに及んで尚、モアイを破壊しようという手段に訴えようとはしないのだ。どう見ても原因だしどう考えても何とかするのが一番の近道だと百も承知で。
「ま、どかすのが手っ取り早いでしょうね」
間取り上、モアイの先には窓があるのだ。扉から出るのがダメならば窓から出ればどうだろう、という限定的な結界には地味に有効な脱出手段である。
「確かに」
「それじゃ、よろしく」
咲夜は笑顔だった。
「また私ですか!? 順番的にはそっちじゃないですかー」
「私とあなた。さて、比べるまでも無くあなたの方が力持ちだったと思うのだけれど」
「うっ」
「大体あなたさっき動かしてたじゃないの」
「ぅうっ」
対し美鈴は半泣きで抗議するが、咲夜の言う事も尤もなので言葉に詰まってしまう。ここで言葉に詰まるから彼女は咲夜に頭が上がらないのだが。
「わ、分かりました……」
力なく返事をし、項垂れながらも美鈴はモアイへと歩いていく。
これから彼女はモアイを持ち上げるか、さもなくば押すなり引くなりして引き摺り動かすのだ。
この、如何にもごつごつとした、如何にも重たそうで、如何にも漢らしくて、悠然と床にそびえるこれを。
進む足が一瞬くらい躊躇しても誰も咎めないだろう。
そして、その躊躇の間に美鈴はある事に気付く。
「そういえばさっきこれ動かしましたよね、私」
モアイを指差し、美鈴は咲夜を肩越しに振り返った。
「ええそうよ」
「倒れてたのを押し転がしただけだった気がするんですが」
「……それもそうね」
咲夜の返事が少し遅れ、彼女も美鈴も嫌な予感が沸々と沸き上がりつつある。
「これ、普通にしてますよね」
「そうね」
「……いつ動いたんですか?」
そして、美鈴は決定的な一言をそっと述べた。
「聞かないでよ」
対する咲夜の応えはどうしようもなくその通りである。
「……咲夜さぁん」
美鈴の半泣きが四分の三泣きぐらいになった。
「動かしなさい。早く」
「ぅうぅぅっ」
だが咲夜は無情であり、美鈴は歯を食い縛ってモアイへの歩みを再開する。
直後、モアイが吹っ飛んできた。
「え」
グシャッ
轟音と共に、避け様が無いので仕方が無い音がした。少々残酷とも言えるが。
驚く程の速度で錐揉み回転しつつあらぬ方向へ飛んでいく背中合わせの美鈴と鈴仙を見つつ、咲夜は時を止める。
吹っ飛んできたモアイは咲夜に触れる事無く、その他様々と同様に停止。
ただ一人、咲夜だけがやんわりと息を吐いた。
アクロバティックな姿勢で停止している空中の塊は放置する事にして、何がどういう理屈でこんな大きな置物が真横に打ち出されたかのような勢いを見せているのか。
「何がどうなってるのかしら」
今となっては詮無い台詞だが、それでも言わずにはいられない。
音の無い静寂の中を歩み、モアイを回り込んだ所で咲夜は呆れた。
確かにモアイの後ろには窓があったのだが、その窓が開いておりそこからバネが伸びているのだ。
色々と悩みたくもなる状況に対し、咲夜は一つだけ明確な答えを得る。
それは、窓から出てっても結果は扉と変わらないという事。何せ紅魔館はどこを見てもモアイを高速で打ち出せるようなバネは存在しない。
ただ、そのバネがどこから生えているのかとかそもそも倒れた筈のモアイがなんで直立してるのかとか、他にも考えれば考えるだけ無駄な事ばかりである。
だから咲夜は考えない事にした。
そして、出来る事ならこれで終わって欲しいと願いつつ、モアイの進行方向に対しナイフを多数設置。モアイの突進に跳ね飛ばされないよう、空間にしっかりと繋いでおく事も忘れない。
咲夜は、もうこんなデタラメな状況から早く開放されたかった。
その為ならば、後で館の主から罰を受けようと一向に構いやしない程に。
彼女の溜息が零れ、同時に時が動き出す。
バカッ
重く硬い、予定通りの音がした。元通りになりそうにない程度の。
次いで大小さまざまな石が織り成す音の波が幾重にも響き、そして―――
「あ、咲夜さーん」
美鈴が手を振りつつ咲夜を呼ぶ。
「どうしたの?」
呼びかけた時は遠きに、しかし応える時はすぐ傍に。
美鈴の隣で咲夜は返事をした。
「永遠亭の方から薬のお届けが。鈴仙さんです」
しかし美鈴は全く驚くことも無く、慣れた様子で手短に用件を伝える。
「そう」
同じく短い返事。
「どこに通したの?」
歩き出しつつ問う。
「客間―――ラバ・ヌイの間で待たせてます」
「分かったわ」
追随する美鈴の言葉に頷いて、咲夜は優雅な足取りで客間へと向かう。
向かった先の客間では、鈴仙が物珍しそうにモアイを撫でさすったりしていた―――
とてもとても嫌な話だ。
忘れたいのに忘れられない、憶えていたくないのに脳裏にこびり付いて離れない。
例えば蛆の湧いた獣の死骸を目にした時のような。
例えば密かに想っていたあの人が、他の誰かと睦まじく手を繋いでいるのを目撃してしまった時のような。
誰が悪い訳でもないし、誰が何をしたという訳でもない。
彼女達は彼女達であったに過ぎない――つまりはそういう事だったのだろう。
彼女達十六夜咲夜、紅美鈴、鈴仙・優曇華院・イナバの三人がこの話の主人公。この思い返すもおぞましい物語の被害者であり、加害者であり、語り部だった。
紅に染まる館の一室。玄関先のホールを抜けて、一番最初に行き着く客間でそれは起こった。
館の主の趣味なのか、過剰なまでに豪華な客間。
一面の赤い絨毯。純白の壁紙。樫のテーブルと椅子。火は入れられていないものの暖炉すらあり、壁には不可解で抽象的な絵画が飾られてある。
そのテーブルで三人は一様にテーブルに肘を付き、頭を項垂れていた。
「ねぇ、どうするつもり?」
言葉を投げ掛けたのは銀髪にホワイトブリムの少女。蒼いメイド服に身を包んだ端正な肢体だが、俯いていて表情は見えない。
「そう言われても……」
答えたのは紅い髪を腰まで伸ばし、大陸風の民族衣装に身を包んだ少女。健康的な手足と女性的な柔らかさが同居した魅力を発していたが、やはり俯いたままでその表情は解らない。
「もぅ、いい加減にしてよ!」
いきなり今まで突っ伏したままだったもう一人の少女が、椅子を蹴倒すような勢いで立ち上がって机を両手で叩いた。
流れる雪のような銀の髪にしなびた二本の耳が揺れ、その赤い眼差しには怒りと苛立ちが混じっている。
美しい――そう形容するのに異論を挟む者など皆無だろうが、今の顔に浮かぶ表情からは何人たりと跳ね除ける苛烈さがあった。
「大体、私は何も関係ないじゃない! 師匠に頼まれて薬を届けにきただけだってのに、何でこんな目に会わなきゃいけないのよ!」
「同情するわ。形だけ」
そんな怒りを撒き散らす少女に対し、冷たい視線を送りながらメイド服の少女も顔を上げた。
その美しい髪と肢体に相応しい端正な顔立ちだが、その視線は絶対零度の剃刀のように蒼く冷たい。
「そうですよ。確かに貴女も巻き込まれただけかもしれませんが、原因を作ったのは貴女じゃないですか?」
赤い髪の少女も顔を上げる。
大きな瞳は子供っぽさすら残っていたが、その豊満な肉体と相まって背徳の感情すら巻き起こる。
もっともそのやつれたような視線は、彼女の魅力を大幅に削いでいた。
「そりゃ……私もこれ何かなーとか思って、思わず触っちゃったけどさ……大体、何でこんなヤバイもんが、客間に堂々と置いてあるのよ!」
そう言って鈴仙は壁際を、抽象的な絵画の飾ってある壁の反対側、本来なら窓の位置にあたる場所に置いてある『ソレ』を指差した。
「……お嬢様の趣味よ」
「うわ、最悪」
「……聞かなかった事にしておくわ。今回ばかりは」
そして三人は、壁際の『ソレ』へと視線を向ける。
何でこんなもんが此処に?
此処は洋風のゴシックな館じゃなかったのか?
いつから此処は世界七不思議に名を連ねるようになったの?
其処には威風堂々と、悠久の時を耐え抜いた漢の中の漢の顔。
口からリングビームでも出しそうなモアイ像が鎮座していた。
§
事の起こりは今から数時間前。
永琳から薬の配達を頼まれた鈴仙は、いつもの事だと特に何の疑いも持たずにそれを承諾した。
今になって思えば、そんな疑う事を知らないような彼女の性格が招いた事だったのかもしれないが、今更それを咎めたところで現状が好転する訳でもなく。
他の二人もそれはよく解っている。解っているからこそ、頭を抱えていたのだ。
ともあれ、客間に通された鈴仙は受取人である咲夜を待っていたのだが、ただ待つだけという行為は次第に彼女を手持ち無沙汰にさせてしまう。そしてそれは見慣れない家具や調度品への好奇心という形で現れていったのだ。
長い間完全な和風建築である永遠亭で暮らしていた鈴仙にしてみれば、そこに置かれている物全てが新鮮な物。
特に見るのも初めてだった『ソレ』に対しては、一層好奇心を刺激されてしまったのだろう。
太古の世界で一体誰が、何のために、何を思ってそれを作ったのか。
真一文字に結ばれた口、大きな鼻、窪んだ目元は帽子の鍔のように突き出た額の所為もあって黒い影となり、じっと見ていれば逆に吸い込まれてしまいそうな程に、暗く、冥い。
古代の人々は皆こんな顔をしていたのだろうか、などと思って鈴仙がその綺麗に磨かれた立派な頬に手を伸ばしたところで、咲夜と美鈴が部屋へと入ってきたのだ。
だが咲夜もよもやそのモアイがそんな物だとは思わなかったのだろう。
触れるだけでは足りなかったのか、両手でペタペタとモアイの顔を撫で回す鈴仙を見ても「壊さないでよね」と注意するだけに留まり、美鈴に至ってはただ見ているだけだった。
その時鈴仙が妙な好奇心を発揮していなければ。
その時咲夜と美鈴が少しでも注意していれば。
だが、全ては後の祭。美鈴が客間のドアを閉めたその瞬間、突然モアイの目が光ったかと思うと、部屋は地震が起きたかのような激しい揺れに見舞われたのだ。
立っていられなくなった三人が床に倒れこんだところで揺れは収まったのだが、異変はそれだけではなかった。
「いたたた……咲夜さん、大丈夫ですか?」
「えぇ、私は平気よ。それより……」
額を擦りながら美鈴が部屋の奥を見ると、先程の揺れで倒れたのか、モアイの下敷きになった鈴仙が伸びていた。
「だ、大丈夫ですか!?」
すぐに美鈴が駆け寄りモアイをどかせて鈴仙を抱き起こすも、鈴仙からの反応は見られない。
「……大丈夫みたいね」
「いや咲夜さん、今はモアイじゃなくてこの娘をですね」
「何を言ってるの。壊したりしたらお嬢様が煩いのよ」
「いやいやいやいや」
「う…ん……」
「あ、気が付いた?」
「あれ、私……――っつ!」
目覚めた鈴仙が立ち上がろうとしたが、倒れた際に足を捻ってしまったのか、すぐにまた床へと座り込んでしまった。
「情けないわねぇ。美鈴、ちょっと包帯取ってきてくれる?」
「あ、はい。解りました」
そう、異変はそれだけではなかったのだ。
ドアを開けて部屋を出た美鈴は――否、部屋を出ようとした美鈴は、何も言わずにそのドアを閉めてしまった。
「何をしているの? 早く包帯を――」
「咲夜さん……」
「何よ」
「ここって紅魔館……ですよねぇ?」
「なにを馬鹿な事を言っているの。当たり前でしょう」
「ですよねぇ……」
むぅ、とその幼さを残した顔に困惑の色を浮かべながら、美鈴が今一度ドアノブに手をかけて開いてみる。
「……咲夜さぁん」
「何を情けない声を出しているのよ。包帯の場所くらい知っているで――」
いい加減苛立ちを隠せなくなったのか、咲夜が整った眉を顰めて歩いていくが、そのドアの先に広がる光景を見るやいなや、美鈴共々固まってしまった。
「ねぇ美鈴。ここって紅魔館よねぇ?」
「咲夜さん、それさっき私が聞きました」
「……ここ、どこ」
「私に聞かれましても……」
しかし、二人が固まってしまったのも無理はない。
本来ならば廊下へと続いているはずのそのドアの先は、何故かジャングルだった。
そうして、三人は今に至る。
何故ジャングルなのか。そもそも何が起こったのか。
調べようとしていざジャングルの中に突撃してみても、やっぱりそこはジャングルで。
どこまでも、どこまでもジャングルで。
原因は解っても、だからといってどうする事もできず。
テーブルに突っ伏した三人には、最早気力の欠片も残ってはいなかった。
§
がばり、と唐突に頭を上げたのは咲夜である。こんな時でも彼女の冷静さは失われていない。自棄になっていなければ、の話だが。
「……こうしていても、埒があかないわ……何とかしましょう。何とか」
そのままコツコツと靴音を響かせてドアを開けなおす。
「現状の確に……………………」
そこで、彼女は止まった。
そりゃ目の前になんかやたらとデカくて鉄っぽい魚がばっくり口を開いてこっちを見ていれば止まりもするだろう。
というかジャングルは何処に行った。何故真っ暗な夜空みたいな風景が広がっている。
フィンフィン……と音がして魚の口奥が煌々と蒼く光る。
「ちょ……ヤバ!」
咲夜は言いようのない危機感を覚えて慌てて扉の横へと身をどける。
みーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!
魚の口から凄まじい勢いで放たれる蒼光が紅魔館の客間の反対側の壁に突き刺さる!
「あっつい! あつつつつつつつつつ!!!! みみっ! みみがっ!」
レーザーはボケっと扉を見ていた鈴仙の耳を焦がして突き抜けていった。
「うわっ!」
「何々なにナニっ!? なんなのあの魚! なんか青くてあっついの撃ってきたよ!?」
――避けて良かった……
咲夜は内心の冷や汗を覆い隠し、扉の向こうをそうっと覗いて見る。
そこには再び口の中に光を溜め込む魚の姿が――
バタンッ!!
「はぁ……なんだって言うのよ……さっきの密林は何処に行ったのよ……っていうかあの魚はなんだったのよ……」
全身で扉を閉めてもたれかかる咲夜は心底疲れていた。
そのままノロノロとテーブルに戻ってきてばたりと突っ伏せる。
「はふっ! はふっ! なんだったの!? 今のなんだったの!? 私の耳が……ただでさえクシャクシャだって虐められてるのにぃ~……」
鈴仙は自分の耳に必死で息を吹きかけながら疑問だか何だかよく解らないが、とりあえず現状に対する不満を誰ともなしに叫んでいる。
「……それに答えられる人が居ると思います?」
律儀に返事を返す美鈴はテーブルから離れていた。
「美鈴……貴女の番よ……」
その美鈴に咲夜によって白羽の矢が立てられる。
「えー!? 今度は私ですかぁ!?」
「今一番扉に近いからよ……これは命令」
盛大に不満を漏らすが、咲夜はこの館の顔役でもあり、メイド長。逆らえるはずが無いのだ。
「うぅ……わかりましたよ……開ければいいんでしょ、開ければ……」
ブツブツと愚痴を呟きながら扉のノブに手をかける。
「どうかいきなり攻撃されませんように……」
弱気な言葉を漏らしながら、そっと扉を開ける。
ちなみに鈴仙は先程の教訓を生かしているのか、テーブルを離れ、扉の直線状から外れた位置に立っていた。
重々しい音を立てながらゆっくりと扉が開かれる。
そこには、黄色い三角形が浮いていた。
「………………………………はい?」
円錐の頂点を切り取り、そこから逆側に小さいながらも同じような円錐を逆にくっつけて向こう側が見えるようにしたような物だ。
簡単にわかりやすく言うと、黄色いメガホンが浮いていた。
メガホンの向こうはなにやら灰色の大きな建物らしき物が立っている。上下に。
何が何だかまったく解らない。
理解の範疇を超えた光景に三人とも目が点になるのも無理は無い。
ふよふよと、赤い何かがいくつか漂っている。
丸い風船にウネウネとした触手らしき物を生やし、凛々しい眉毛と意思の強そうな目と、突き出た口。
真っ赤な海の悪魔が空を飛んでいた。
真っ赤な海の悪魔こと蛸達は体を歪めると、美鈴に向かって一斉に弾幕を吐き出した。
――ひぇぇ。
少なくとも美鈴はそう言ったつもりだった。
だがメガホンからは、
「給料あげて!」
と大音量が発せられ、蛸の弾幕を次々と打ち落としていく。
――へ?
「イヤン(はぁと」
「ちょっ! 何を言ってるのよ美鈴!」
背後から咲夜の声がかかり、ようやく美鈴は我に返る。
――わわわわわっ!
「ただいまタイムセール中!」
バタン!
「な……なんだったの? 今のなんだったの!?」
うろたえる鈴仙。
「はぁ……………………」
テーブルに突っ伏したまま動かなくなる咲夜。
美鈴も結局咲夜に続くようにノロノロとテーブルに戻ってくると、
「なんだったんだろう……」
と言って突っ伏した。
美鈴はそのまま顔を上げずに冷静に次の犠牲者――といってもいいのだろうか――を指名する。
「次は鈴仙さんですよ~」
声こそやる気は感じられないが、そこに込められた墓場からの呼び声は有無を言わせぬ響きを持っていた。
「えぇ~」
露骨に頬を膨らませて嫌がる鈴仙だが、それを許すような二人ではない。
「私は開けたわよ……」
「おかげで私の耳が焦げましたけどっ!?」
「私も開けましたし……」
「なんか変なコト口走ってただけじゃないですか!?」
必死に抗弁する。
「「じ~~…………」」
「なんですかその目! まるで私が悪いようじゃないですか! 嫌ですよ!? 開けませんよ!?」
「「じぃ~~…………」」
二人の視線の前にたじろいだ鈴仙は二、三歩にじり下がる。
「永遠亭の兎はダメね」
「はぁ、鈴仙さんならあるいは……とも思いましたけどねぇ」
「わかりましたよ! 開ければいいんでしょ! 開ければ! えぇいいですとも開けようじゃありませんか!」
視線と二人の言葉に自棄になった鈴仙が大またでノシノシと歩いて扉に近づく。
ノブを握り締めながら後ろを振り返ると、
「何が出てきたって知りませんからねっ! 開けますよ!?」
と大声で宣言した。
「えいっ!」
力を込め、気合を入れてノブを回す!
「アイン見参!」
「は?」
やたらと凛々しい声が聞こえた。
鈴仙の前には上半身裸の筋肉隆々な金髪独眼のサムライらしき人が刀を構えていたのだ。あまりと言えばあまりの展開だろう。
「ウヌッ! そこな兎妖怪め! この風雲はだか侍アイン様が成敗してくれるでゴザル!」
野太い声でやたらと筋肉を見せ付けるかのような動きをし、汗が飛び散り、割り箸の折れる音が聞こえた。
「この! 正義を愛する! 放浪の侍! アイン様が! そのよぉうな小娘如きの姿で騙されると思ったか! ……しかしながら若い筋肉の漢ならばまだ騙されても良かったのだがな! フハハハハハハ! 喰らえぃ! サムライッ! ソー」
パタン。
静かに鈴仙は扉を閉じた。
「…………………………………………」
沈黙が立ち込める。
「イヤーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!! マッチョでパツキンで汗臭そうなホモがーーーー!!!!」
鈴仙が発狂した。
「なによなによ! 風雲はだか侍って!? アインって何!? 誰!? 知らないわよあんな人!!」
「美鈴……」
「咲夜さん……」
咲夜と美鈴は直視しなかったのか、まだダメージが少なかったようだ。
テーブルに突っ伏したままごろりと顔を向ける。両者の視線の先には異様な存在感を放つモアイ像が鎮座ましましていた。
「原因はやっぱりアレよねぇ……」
「アレですねぇ……」
やる気の無い声で確認し合う。すでに二人とも披露困憊なのだ。それぐらい察して頂きたい。
「なんとかしないと……」
どちらとも無く溜息を吐きながらモアイ像を見る。
「「はぁ…………」」
深い、とても深い溜息が同時に零れた。
「なんなの!? もうアレだって、時代は漢字の漢と書いてオトコと読むの!? そんな汗臭いのがいいの!? おかしいでしょそんなの!! 私だって充分に可愛いじゃない!! なんでみんなオトコがいいの!? ワケわかんない!! ってゆーかもう扉がわかんないし、モアイ像だってわかんない!! もぅ誰かどうにかしてよぉーー!!!!」
鈴仙はまだ精神に重大な傷を負ったままのようだった。
誰もが同情すると思うが、誰もがなりたくなかった役目はいつも彼女に回ってくる運命なのだ。
§
「はぁ」
「ふぅ」
二人の口から溜息が漏れる。
この期に及んで何度目かとかそういう事はどうでもよくなるが、溜息が漏れた。
「うふっ、うふふふふふふ」
机に突っ伏す二人が精神疲労を起こし無闇に疲れている最中、鈴仙ははだか侍が齎した精神的外傷を伴う強烈な体験によって笑いながら微痙攣している。多分トラウマとして当面、アレが夢に出てきたり白昼夢で見ちゃったりするんだろう。可哀想に。
ともあれ、今の鈴仙は壁に向かって体育座りの上小刻みに揺れているという見た感じあまりにも危険な状態である。
突っ伏す二人は目線を動かし、最低限に首を動かし、視線を交わす。
モアイを何とかするよりも、まずは鈴仙を何とかするべきなんじゃないだろうか、と。
数瞬後、拒否権を発動しようとした美鈴の鼻先に即座にナイフが突き立つ事で、色々と決定された。
「ううっ……」
半泣きになりながらよろゆらと立ち上がり、美鈴はモアイと正反対の位置で小さくなっている鈴仙へ目を向ける。
「うーふーふーふーふっふふふふ」
多分あれはもう駄目だ。
今の鈴仙は、後姿と笑い声だけでそんな事を直感的に思わせるに充分だった。
しかし、美鈴は彼女をどうにかせねばならない。こういう時彼女は思う。偉くなろう、と。例えば自分がやりたくない事を部下に押し付けられるくらいに。
「はぁ」
背を丸くしている鈴仙へと歩きながら、溜息がぽろりと落ちた。
正直な所を言えば、歩む足取りはゆっくりなくらいが丁度良いのだが、それを実行しようとすると後ろが怖いので美鈴は平素どおりすたすたと軽い足取りで鈴仙の傍に立つ。
近づくにつれ彼女の笑い声と、小刻みな揺れっぷりによって発生する振動エネルギーで耳の揺れっぷりがとても変だという事がはっきりしていくのが嫌だった。
揺れる月兎を指差し、美鈴は無言のまま咲夜を振り返る。
その意図は単純だ。
そして、そんな美鈴に対し、咲夜は軽く頷く。
この意図も単純だ。
諦念と共に視線を戻した美鈴は、取り敢えず―――
ゴシャッ
風を切る音がした後、割と無残な音がした。
彼女は一分一秒でも早くこの場から出たかったのだ。その点では咲夜も同様であり、恐らくは鈴仙もだろう。
だから、咲夜は美鈴の行為に対し多少目を見開きこそすれ、咎めるような事は一切しなかった。それどころか内心歓迎してさえいたのである。
二十秒後。
「さて、じゃあどうしましょうか」
モアイをに対し、二人の少女が真剣な眼差しを向けていた。
言うまでも無く美鈴と咲夜である。残る一人は今や静かに美鈴の背に括り付けられていた。瀟洒な手際で。
扉を開けたら千変万化な摩訶不思議が展開している事はもはや疑いも無く、とすれば扉以外の場所を脱出路として見立てるのは自然な事と言えた。天井や床や壁を直接ブチ抜くという手もあるが、館を傷つけるくらいならそもそもモアイをそっとしておく理由も無く。
何せ二人は紅魔館のメイド長で門番で、悲しいかな事ここに及んで尚、モアイを破壊しようという手段に訴えようとはしないのだ。どう見ても原因だしどう考えても何とかするのが一番の近道だと百も承知で。
「ま、どかすのが手っ取り早いでしょうね」
間取り上、モアイの先には窓があるのだ。扉から出るのがダメならば窓から出ればどうだろう、という限定的な結界には地味に有効な脱出手段である。
「確かに」
「それじゃ、よろしく」
咲夜は笑顔だった。
「また私ですか!? 順番的にはそっちじゃないですかー」
「私とあなた。さて、比べるまでも無くあなたの方が力持ちだったと思うのだけれど」
「うっ」
「大体あなたさっき動かしてたじゃないの」
「ぅうっ」
対し美鈴は半泣きで抗議するが、咲夜の言う事も尤もなので言葉に詰まってしまう。ここで言葉に詰まるから彼女は咲夜に頭が上がらないのだが。
「わ、分かりました……」
力なく返事をし、項垂れながらも美鈴はモアイへと歩いていく。
これから彼女はモアイを持ち上げるか、さもなくば押すなり引くなりして引き摺り動かすのだ。
この、如何にもごつごつとした、如何にも重たそうで、如何にも漢らしくて、悠然と床にそびえるこれを。
進む足が一瞬くらい躊躇しても誰も咎めないだろう。
そして、その躊躇の間に美鈴はある事に気付く。
「そういえばさっきこれ動かしましたよね、私」
モアイを指差し、美鈴は咲夜を肩越しに振り返った。
「ええそうよ」
「倒れてたのを押し転がしただけだった気がするんですが」
「……それもそうね」
咲夜の返事が少し遅れ、彼女も美鈴も嫌な予感が沸々と沸き上がりつつある。
「これ、普通にしてますよね」
「そうね」
「……いつ動いたんですか?」
そして、美鈴は決定的な一言をそっと述べた。
「聞かないでよ」
対する咲夜の応えはどうしようもなくその通りである。
「……咲夜さぁん」
美鈴の半泣きが四分の三泣きぐらいになった。
「動かしなさい。早く」
「ぅうぅぅっ」
だが咲夜は無情であり、美鈴は歯を食い縛ってモアイへの歩みを再開する。
直後、モアイが吹っ飛んできた。
「え」
グシャッ
轟音と共に、避け様が無いので仕方が無い音がした。少々残酷とも言えるが。
驚く程の速度で錐揉み回転しつつあらぬ方向へ飛んでいく背中合わせの美鈴と鈴仙を見つつ、咲夜は時を止める。
吹っ飛んできたモアイは咲夜に触れる事無く、その他様々と同様に停止。
ただ一人、咲夜だけがやんわりと息を吐いた。
アクロバティックな姿勢で停止している空中の塊は放置する事にして、何がどういう理屈でこんな大きな置物が真横に打ち出されたかのような勢いを見せているのか。
「何がどうなってるのかしら」
今となっては詮無い台詞だが、それでも言わずにはいられない。
音の無い静寂の中を歩み、モアイを回り込んだ所で咲夜は呆れた。
確かにモアイの後ろには窓があったのだが、その窓が開いておりそこからバネが伸びているのだ。
色々と悩みたくもなる状況に対し、咲夜は一つだけ明確な答えを得る。
それは、窓から出てっても結果は扉と変わらないという事。何せ紅魔館はどこを見てもモアイを高速で打ち出せるようなバネは存在しない。
ただ、そのバネがどこから生えているのかとかそもそも倒れた筈のモアイがなんで直立してるのかとか、他にも考えれば考えるだけ無駄な事ばかりである。
だから咲夜は考えない事にした。
そして、出来る事ならこれで終わって欲しいと願いつつ、モアイの進行方向に対しナイフを多数設置。モアイの突進に跳ね飛ばされないよう、空間にしっかりと繋いでおく事も忘れない。
咲夜は、もうこんなデタラメな状況から早く開放されたかった。
その為ならば、後で館の主から罰を受けようと一向に構いやしない程に。
彼女の溜息が零れ、同時に時が動き出す。
バカッ
重く硬い、予定通りの音がした。元通りになりそうにない程度の。
次いで大小さまざまな石が織り成す音の波が幾重にも響き、そして―――
「あ、咲夜さーん」
美鈴が手を振りつつ咲夜を呼ぶ。
「どうしたの?」
呼びかけた時は遠きに、しかし応える時はすぐ傍に。
美鈴の隣で咲夜は返事をした。
「永遠亭の方から薬のお届けが。鈴仙さんです」
しかし美鈴は全く驚くことも無く、慣れた様子で手短に用件を伝える。
「そう」
同じく短い返事。
「どこに通したの?」
歩き出しつつ問う。
「客間―――ラバ・ヌイの間で待たせてます」
「分かったわ」
追随する美鈴の言葉に頷いて、咲夜は優雅な足取りで客間へと向かう。
向かった先の客間では、鈴仙が物珍しそうにモアイを撫でさすったりしていた―――