*この作品は、東方創想話作品集22の『SYMPATHY FOR THE IMMORTAL』近藤氏 の裏バージョンです。
お読みになる前に、是非一度ご覧になって下さい。
「死にたい?」
「まさか」
「生きたい?」
「別に」
「惰性に身を任せるのは、生物として下等ではないかしら?」
「理性で全てを律せる程、傲慢じゃないつもりなんだけどね」
「見てられないわ」
「そうかい?」
「今の貴女はつまらない」
「かもな。自分でもそう思うよ」
竹林に雨が降る。
枯れた竹の葉が地面を覆い、聳える竹の群れが空を覆い、まるで暗い檻の中のよう。
竹の隙間から僅かに覗く黒い空。しくしくと降る雨は、竹林に漂う血臭を朧に霞ませていた。
腹を破られ、口から血を零す妹紅。
虚ろな目に暗い空を映して、雨垂れを瞼で遮ることなく受け止めている。
そんな人の形をしたがらくたを、濡れた前髪を額に張り付かせて見下ろす輝夜。
切り揃えられた前髪が瞳を隠し、その色は読み取れない。
かさり、と。
竹林が僅かに揺れる。それは雨の重さに沈んだ竹が身を捩らせた音。雨音に掻き消される寸前の、ぎりぎりの音。
だけど輝夜はその音に振り向いた。
それは決定的な隙。戦いの場で敵から目を逸らすという自殺行為。
如何に圧倒しようとも、如何に相手が虫の息であろうとも、詰めを誤れば容易く立場は入れ替わる。
生は死に。死は生に。天秤は常に曖昧なまま、いつだってゆらゆらと揺れているもの。
そんな事は知っているのに。そんな事は解っているのに。
だからこそ――輝夜は妹紅から目を逸らした。
さりげなく身体の力を抜く。
脚を切り落されるにせよ、腹を貫かれるにせよ、身体が強張っていては次の行動に支障が出る。脱力し受け入れる事で、次なる手を打てるように。
蓬莱の玉枝。火鼠の皮衣。輝夜の意一つでそれらはすぐに具現する。痛みに対する覚悟は出来ているし、即死さえしなければ突き立てた牙の報いを存分に味わせる事が出来るだろう。
互いに自分の事よりも知っている相手。そして常にその『常識』を超えてきた相手。
今までのパターンからいえば貫手を繰り出す確立が高いが、意表をついて脚払いをしてくるかもしれない。火薬玉を投げ付けられた事もあったし、噴き出す劫火で諸共に周囲一体ごと焼かれた事もある。何をしてくるか解らないが、何をしようと輝夜の心を満たしてくれるに違いない。
だから待った。悟られぬよう口元の笑みを押し殺して待ち望んだ。
その時を、その瞬間を。生命が激しく燃え、生きていると実感できる至福の時を――
目を逸らしてから数十秒。
なのに……衝撃が未だにこない。痛みが伝わってこない。
輝夜の眉が歪む。抑えていた呼気を十数えた時点で、輝夜はゆっくりと妹紅へ顔を向けた。
「――妹紅?」
呼びかける声音に少しだけ震えが混じる。
輝夜は目を見開いて、倒れたままの妹紅の顔を凝視した。
額に掛かる銀の髪。閉じられた瞳。僅かに開いた口元。
口の端には赤い筋が流れ、破れた腹からはおぞましき臓物臭が漂い、捻じ曲がった右足はありえない方向を向いたまま――妹紅は眠っていた。
「――っ!」
思わず右腕を振り上げる。拳を握り、唇を噛み締め、そしてその腕を振り下ろそうとして――止まった。
安らかに眠る妹紅は、降りしきる冷たい雨を全身で受け止めて。痛みも、流れる血も、全てどうでも良いという風に。
ただ過ぎ去りし日々を懐かしむように、微笑むように穏やかに眠る顔。
輝夜はぶるぶると肩を震わせ、噛んだ唇から血が零れ、屈辱が肺腑を灼く痛みに身を捩る。
声も出ない。拳を振り下ろす当てもない。此処にあるのは過去に向けて閉じてしまった遺物。何も生み出さない……冷えた身体。
だらり、と。
振り上げた拳は力なく垂れ下がり、白く染まる吐息を一つ零すと、倒れたままの妹紅に背を向けて輝夜は竹林の奥へと歩き始めた。
帰る場所へ、帰るべき場所へ。
九十七年と五ヶ月ぶりの再会。三百九十三年ぶりの殺し合い。そして二百八十六度目の勝利。
だけどどうしてだろう。
その背中には勝利の喜びも、戦いによる高揚もなく……泣いている子供のようだった。
§
「お帰りなさいませ、姫」
「……ええ」
永遠亭――悠久の時を超え、其処に在り続けるそれは、すでに建物自体が意識を持っているかのよう。
永き時に晒された木造の柱や梁は黒く沈み、雨に伏せて眠っている太古の巨神を思わせる。
その門前で、開かれたままの扉に持たれかかる様に大きな番傘を片手に佇んでいた女性が、戻ってきた輝夜を淡い微笑で迎えた。
赤と青の衣。至るところにあしらった星の刺繍。白く長く束ねた髪。
八意永琳が手にした傘を輝夜に翳すと、輝夜はその手を跳ね除けて目も合わせずそのまま屋敷へと向かっていく。
永琳は軽く肩を竦めると、苦笑と共にその背中へ声を投げ掛けた。
「如何でした?」
「……」
輝夜は答えない。一瞬だけ足を止め、結局答えないまま屋敷の中へと消えていく。
暗い邸内に消えていく背中。出て行く時に見送った時より、一回りも小さく見える背中。その姿が見えなくなるまで、永琳はその場で見送った。
その瞳はまるで意志の感じられない冷たい色。機械のような、人形のような、冷え切った瞳。
やがて輝夜の姿が完全に見えなくなると、傘をゆっくりと畳んでその身に雨を受けながら空を見上げた。
黒々とした雲に封じられた空は、まるで巨大なドーム。
遥か遠き日々に見上げた偽物の空を思い出して、永琳は不快気に首を振った。
「雨、止みそうにないわね……」
冬を間近に控えて、氷のように冷たい雨。
だがそんな冷たさがどうだと言うのだろう?
心も身体も――もうこれ以上。
永琳は視線を下げ、再び輝夜の消え去った屋敷を眺める。
在りし日の喧騒など夢の如く消え去った廃墟。生きているのに死んでいる、死んでいるのに生きている、そんな住処を。
はぁ、と漏らした溜息が白い。
冬の足音がもうそこまで聞こえ始めている。頭の中の何処かが痺れているような、緩やかに腐敗していくような――そんな感覚。
「何を今更――」
永琳の口元に笑みが浮かぶ。紙のように白い肌に、赤い唇が歪に歪む。
その瞳に隠しきれない憂いを秘めたままで――
§
「姫、食事の用意が出来ましたが?」
「いらないわ」
日が落ち、山の影に月が掛かる頃、永琳は襖越しにそう声を掛けたが、返された答えは酷く色のないものだった。
暗い廊下で立ち尽くす永琳。
人気のない廊下は身体の芯まで凍らせるほど薄ら寒く、そしてその答えをすでに予測してた永琳の心もまた冷え切っていて。
遠くに聞こえるイナバたちの喧騒が、もうただのノイズにしか聞こえなくなってどれくらい経つのか。
銀髪の月兎も、黒髪の詐欺師ももういない。たまに顔を合わせても、もう個体の識別すら出来はしない。
彼女たちは彼女たち、自分たちは自分たち。そう割り切れるようになった自分と、初めから識別しようとしなかった姫。
どちらが正しいというものではなく、それはひょっとしたら覚悟の問題だったのかもしれない。
意識的にか無意識にかの違いはあるにせよ、永遠を生きる覚悟が。
だから永琳は軽く目を閉じて、呼吸を意識的に制御してから声を掛ける。
「お身体に障りますよ?」
その労りの言葉すらも、儀礼的。
たかが襖一枚。
たったそれだけの境界が、どうしても超えられないエリコの壁。
沈黙を守る襖は、決して従者からは開ける事が出来ない。そうしてしまった時、二人の関係も終わる。
『この身は全て、姫のために』
遠い誓い。今も胸に残る誓約であり、それは同時に制約でもあった。
だから永琳は「ご自愛を」とだけ告げて、冷たい襖に背を向ける。
歩みを進めるたびにぎしぎしと鳴る板張りの廊下が、足先から熱と一緒に大事な物まで奪っていく。
「そう出来ていたら良かったのかしら」
無意味な仮定。無駄な思考。
友達ではなく従者を選択した、あの日の自分。
そうであったならきっと、姫に掛ける言葉もあっただろう。
その代わり、今この場にいる事すらも出来なかっただろう。
この地上において、いや月においてすらもその存在は異物。姫であるが故に、いや姫であるからこそ――姫にしかなれなかった黒髪の少女。
全てを平等に無価値と捉える事で、全てに興味を持った姫。
喜びも悲しみも、怒りも絶望も、快楽も痛苦ですらも――全てを受け入れ、笑っていた。
にこにこと笑みを絶やさず、ころころと鈴の鳴るような声で。
その姫が……肩を落としている。
「――殺してやりたいわ」
それは静かなる殺意。冷え切った心の奥底に、暗く淀む炎。
脳裏に浮かぶは眩い紅蓮の輝き。月を照らす灼熱の魂。
自分には為しえなかった、姫の対。
食事を用意した広間を通り過ぎ、そのまま研究室を兼ねた自室へ向かう。
寝所とは別の、暗い地下室へ。
長い廊下の奥にある石造りの階段を降りると、突き当たりには厳重に溶接された鉄扉。
ひんやりと冷たい扉に手を付き、永琳が何かを呟くと、重々しい鍵の開く音がした。僅かに扉が内向きに開き、薄暗い階段に室内からの光が零れる。
扉を押し開け室内に踏み入ると、そこは意外な程に整頓された部屋。
如何なる呪力によるものか、永琳が足を踏み入れる前から煌々と天井そのものが光を放ち、磨きぬかれた石の床は鏡のよう。壁際に並ぶ金属製の棚にはフラスコやら不可思議な実験器具等が並んでいるが、黒塗りの頑丈な机と椅子があるだけの無機質で殺風景な部屋。つんと鼻を付く薬品の臭いが、かろうじて此処が研究室なのだと証明している。
人の匂いのしない冷たい密室。だが永琳はこの部屋で、その永き生の大半を過ごしてきたのだ。
その奥に足を向ける。
固い石の床は硬質な音を室内に響かせ、一つの棚の前で足を止めると顔を上げて再び呪を紡いだ。
地下室の封、そしてこの棚の封の二重密室。その鍵を数百年ぶりに開ける。
観音開きの扉を開くと、そこには明らかに実験器具ではない様々なものがきちんと整理されて並べられていた。
猿の手。蒼い輝石。不可思議な光を放つ薬品の詰まったガラス瓶。後はもう何なのかすら解らないものばかりで、意図も用途もそれが物体なのかすら不可解な。
そして棚の奥にひっそりと置かれていた黒い小箱を取り出して、永琳は深く溜息を吐いた。
「……何が天才よ。『再現』すらも出来ない癖に」
箱に向けられた目は嫌悪に塗れ、箱を乗せた指先がその箱を握り潰そうとするのを堪えて微細に痙攣する。
ふいに唾を吐きたい衝動に襲われ、染み一つない磨かれた床に目を落とし数秒躊躇った後――それを実行した。
§
「ねぇ、永琳。生きるってどういう事だと思う?」
「曖昧だし、概念ですらありませんが……変化する事かと」
「石ですら風化して砂に変わるわよ?」
「失礼。言葉が足りませんでした。意志を持って変化する事です」
「意志とはまた曖昧ねぇ。貴女らしくもない」
「私もその程度という事ですよ、姫」
「あらあら」
「おやおや」
「では……私は生きていると言えるのかしら?」
「曖昧ですねぇ」
「ちょっと永琳、そこは肯定で返すところでしょう?」
「失礼。未だ至らぬ我が身なれば、寛大な慈悲を持ってご容赦頂けることを切に願います」
「顔が笑っているわよ、永琳」
「おやおや」
「あらあら」
それは遠い昔日の会話。
月から堕とされた輝夜を追って永琳がこの地上にやってきた頃の、再会した二人が共に歩み始めた頃の会話。
あの頃は、二人だけで十分だと思っていた。
あらゆるものに縛られ、空すらも天蓋で覆われたあの檻から飛び出し、この地上で、真円を描く月を背に怖れもなく夜を歩み始めた輝夜の背中を見つめた永琳は、きっと永遠なんて怖くなかった。輝夜と共にあれば、何も怖いものなどなかった。
そう――思っていた。
§
竹取の姫は、月を見ていた。
何千年経とうと変わることのない、あの終わった星を。
雨も上がり、空には雲が僅かに残るだけ。真円を描く月に時折雲が掛かり、月光を朧に霞ませる。
縁側に腰掛け、長く艶やかな黒髪が板張りの廊下に広がり、深い瞳は何の感情も浮かべることなく、ただ月を映している。
白くきめ細かい肌は陶器のように繊細で、着物ごしにすら判る細身の身体は折れそうな程たおやかで。
呼吸も、鼓動も、生命活動の全てが遠い――それは永遠の具現。
あの物語の作者はこの横顔をどう受け止めたのだろうか。
美しい、その一言で十分なのに、どうして月に帰りたい――だなんて。
そんな誤りを。いや……きっとそうであって欲しいと幻想を抱いたのだろう。そうでなければ自身の矮小さに押し潰されてしまうのだろう。
瞬きすらも忘れたように、月だけを眺める横顔。
声を掛ける事すら憚られて、永琳はただ黙ったまま廊下の端で待っていた。
「ねぇ、永琳」
「はい、姫」
ふいに、月から目を逸らさぬまま輝夜がぽつりと呼びかけた。
それはいつもの事。周りに誰かがいる事が当たり前だったから。
別に永琳の存在に気付いていた訳ではないのに、主は呼び、従は応える。
千年を優に超える関係。何万回と繰り返した遣り取り。
勿論今も同じ声音で。平素と変わらぬ鈴の鳴るような声で。
「終わりにしましょう?」
そう――告げた。
永琳は僅かに瞳に憂いを乗せながら、輝夜の言葉を噛み締める。
予測はしていたし、準備もしていたが、それでも改めて問い掛けた。
それは恐らく時間稼ぎ。自分の卑屈さ、矮小さに吐き気を覚えながら、それでも。
「貴女をですか。私をですか。それとも――あの娘をですか?」
「決まっているでしょう?」
「……よくお考え下さい。石は一つしかないのですよ?」
「考える必要なんてないわ」
「姫……」
「あの娘は炎。いつか消えてしまうから炎なのよ」
「……」
「それとも……貴女自身が使いたかった?」
静かに――空気が割れる。
永琳の瞳が真っ直ぐに輝夜を射抜く。
流石にその瞳は無視できなかったのか、輝夜もまた永琳を振り向いた。
交差する視線。交わる想い。
言葉など不要。積み重ねた過去。紡ぐべき未来。
永琳は真の天才。その往き方の全てを演算し尽した末の選択。だから――
「ごめんなさい」
輝夜は小さく頭を下げた。
恐らくは生まれて初めて――心からの詫びを。
「……責めても良いのですよ?」
「え?」
「あの時……蓬莱の薬を生み出した時、私は貴女に憎まれる事を予測していました。極小ではありますが無視できない確率として」
「私がそれを望んだのに?」
「ええ、人とはそういうものですから」
「見くびられたものねぇ」
「これでおあいこです」
「そうね。貴女を許すわ、永琳」
「私も貴女を許しますよ、姫」
声は上げない。
ただ静かに二人は微笑んだ。
「知らない感情を知る事はとても楽しいわ。だけど……」
再び輝夜は視線を外し、夜の庭へと目を向ける。
憂いた微笑を浮かべたまま、そして永琳は無言で主の言葉を受け止める。
「今のあの娘を見ているのは辛いわ。身体を裂かれても、脳を握り潰されても、こんなに辛くはなかったのに」
輝夜は無意識に自身の黒髪の一房を、右手の人差し指に絡ませる。
くるくると、くるくると。
それは何処か子供じみていて。
「もう……見たくないの」
すっと目を閉じて。
月が雲に隠れるように。
「全ては御心のままに」
永琳は両足を揃え、くの字に曲げた右手を腹の前に重ねて深く頭を下げた。
臣下として、従者として、そして――姫に全てを捧げた騎士として。
§
月が白々と輝いている。
余りにも大きく、眩く、見事であるが故に偽物のような月。
竹林を歩く二人の影が塔の様に伸びている。
再構築。トラブル。突然。荒療治。改革。粛正。発見。進歩。
ショック。トラブル。突然。ショック。独断。破壊。中途半端な改革。
迷走する力。ネツァク―ホド。27番目のパス。17番目の文字。ペー、P、口、言葉。火星。
天の雷、崩れる瓦礫、落下する人。
それが――塔のカード。
それを背負って二人は歩く。
暗い竹林を、無言のままで。
檻のように伸びた竹の群れは、無言の観客。幾度も幾度も蓬莱人の生命の輝きを見届けてきた彼らは、今宵この時を迎えて静かにざわめいていた。
かさかさと竹の擦れる音が響き、茶色の竹の葉を踏み締める音が夜風に溶ける。
風は冷たく、夜は静かに、ただ月だけが――
「見えたわね?」
塔の一人がぽつりと呟く。
長い黒髪をさらりとかき上げて夜風に任せながら。
「居明かして 君をば待たむぬばたまの 我が黒髪に霜は降るとも――待つのは好きじゃないし、ね。永琳?」
もう一つの塔が頷く。
束ねた銀の髪に夜露を纏わせた従者は、左手に握った弓を構えた。
二人が見つめる先は一軒のあばら家。壁は破れ、戸板もなく、屋根すら穴だらけ。
その残骸から物音が聞こえる。家の中に誰かがいる事は間違いない。
輝夜が視線で促し、永琳が弓を引き絞る。番えた矢に魔力を乗せ、きりきりと軋む弦音が闇に不協和音を生み出して
ひょう
風を切って一筋の光が放たれた。
矢鳴りが止んで静寂が戻り、一瞬後には爆音と轟音、それに炎が夜を終わらせる。
静謐が破れ、灼熱の嵐が吹き荒れ、月も震えた。
「まぁ、この程度では死なないわよね」
燃え盛る瓦礫の中で蠢く影。
銀の髪も破れた服も、昼間会ったそのままで。
炎の中でゆるゆると首を振り、そして――鳳凰がその翼を開いた。
一薙ぎで周囲の炎を吹き飛ばし、炎の翼を背負った影はそのままゆっくりと歩き出す。
その瞳に消えない憎悪を乗せて。
「百五年ぶりの刺客は自ら……か?」
「私は何もしないわよ。ただ、最後くらいしっかりと見届けてあげないとね」
「はっ、自分の最後をか? それともそっちの最後をか?」
輝夜は答えず、ただ笑みだけを浮かべた。
それは久しぶりに見た鳳凰の輝き。昼間のような紛い物ではない本物の翼。
そうとも、惰性の炎など妹紅には似合わない。全てを紅に染めるが故に妹紅なのだ。
「お前のその態度が気に入らないんだよ!」
獣のような咆哮と共に一歩を踏み出す。
輝夜は永琳に向かって一つ頷くと、永琳は懐から取り出した黒い石を右手に握ったまま、弓を構え弦を引いた。
押手である左手の親指と人差し指に掛かる負荷を肘の関節を捻る事で支え、石を握ったままの右手の親指を反らして弦を引っ掛ける。
五重十文字を描く身体の線にブレはなく、矢を番えぬまま大きく引き分けていくと同時に右手の石が淡い燐光を放ち始めた。
それは終局の光。
永琳ですら偶然に助けられる事で一つしか生み出せなかった、奇跡の光。
蓬莱殺しの――秘薬。
光は踊り、交わり、束ねられて一本の矢となる。
射に入った永琳は一切の表情を消し、ただ目標のみを視線で射抜いて。
だが妹紅は退かず、真っ直ぐに、怖れもなく。
「永琳」
妹紅が五歩目を踏み出したところで、輝夜がその名を呼んだ。
矢を生み出したのは従者、矢を番えたのは従者、そして弓を引くのも、狙いを付けるのも従者。
だけど――妹紅を殺すのは自分の殺意なのだと。そう明言するように。
矢は正確に妹紅の左胸を貫いた。
残像すらも見えない神速の射。だけど初めから躱すつもりもなかった妹紅は、心臓に矢を突き立てたまま笑みすら浮かべて。
それがどうした、これだけか?――そう瞳が語っている。
永琳も輝夜も微動だにしない。
もう終わったのだから。
矢は放たれたのだから。
「え……?」
突然妹紅が、糸が切れた人形のように倒れた。
荒い呼吸と漏れる苦鳴が二人の耳に突き刺さる。それは本来、今この場にいる三人の誰か一人だけが迎える事が出来た運命。
地面をのたうち、両手を振り回し、瞳孔が極限まで開かれる妹紅の様子は余りにも酸鼻であったが、彼女たちだけは目を逸らせない。
例えその手が、腕が、指先が醜く皺枯れていこうとも。
例えその髪が抜け落ちていき、その顔が罅割れていこうとも――それでも、ほんの少しだけ、羨ましい、なんて事を。
「お前……何を……」
妹紅の喉から漏れる声までもが、すでに老婆のように枯れていた。
輝夜はそんな妹紅を見下ろしたまま、無言で。
その顔は笑っていなかった──あの楽しげな笑みを浮かべていなかった。
悲しみでもなく哀れみでもなく、喜悦でも憎悪でもなくただ真っ直ぐに妹紅の瞳を見ている。
だから妹紅は全てを理解した。
お互い親よりも永く接した相手。言葉でなくその瞳で全て理解した。
そして皺枯れた顔で、罅割れた声で
「輝夜……お前に解るか? この気持ちが」
満面の笑みを浮かべていた。
死を受け入れて。生を哂って。
震える腕を上げて、真っ直ぐに輝夜を指差して、妬ましい程の見事な笑みを浮かべて。
上げた腕が落ちる。
妹紅はもう輝夜を見ていない。ただ空を、想い出だけを見ている。
崩れていく。妹紅の体が崩れていく。細かい塵となり、風に運ばれて、妹紅の体が崩れていく。
後には何も残らない。
――ざまあみろ。
最後に妹紅は、そう言ったような気がした。
輝夜は黙ったまま動かず。
永琳もまた、黙ったまま動かない。
そして妹紅の最後の欠片が風に消えた時、一羽の鳳凰がその翼を広げた。
翼を羽ばたかせ、一声哀惜の声を上げて、鳳凰が天に向かって飛んでいく。
まるで妹紅の魂を運んでいくように、まるで空へと還っていくように、真っ直ぐに天に向かって羽ばたいていく。
輝夜はそれを見上げて、片手を天にかざした。
見上げていた顔を俯かせると同時に、かざした手から放たれる一筋の光。
「貴方の気持ちなんて、解る訳ないじゃない」
断末魔の叫びをあげて、鳳凰が地に堕ちる。
堕ちながら、鳳凰もまた塵となり、霧散していった。
やがてそれらは光の粒となり、降り注ぐ。
そして、光の粒が落ちた大地に、花が咲いた。
光の粒は無数に落ちる。その分だけ無数に花が咲き乱れる。
輝夜の周り、焼け野原となった大地にも埋め尽くすように花が咲く。
輝夜はゆっくりと、自分の周りを埋め尽くす花にその身を投げた。
「解る訳……ないじゃない」
《 never end 》
お読みになる前に、是非一度ご覧になって下さい。
「死にたい?」
「まさか」
「生きたい?」
「別に」
「惰性に身を任せるのは、生物として下等ではないかしら?」
「理性で全てを律せる程、傲慢じゃないつもりなんだけどね」
「見てられないわ」
「そうかい?」
「今の貴女はつまらない」
「かもな。自分でもそう思うよ」
竹林に雨が降る。
枯れた竹の葉が地面を覆い、聳える竹の群れが空を覆い、まるで暗い檻の中のよう。
竹の隙間から僅かに覗く黒い空。しくしくと降る雨は、竹林に漂う血臭を朧に霞ませていた。
腹を破られ、口から血を零す妹紅。
虚ろな目に暗い空を映して、雨垂れを瞼で遮ることなく受け止めている。
そんな人の形をしたがらくたを、濡れた前髪を額に張り付かせて見下ろす輝夜。
切り揃えられた前髪が瞳を隠し、その色は読み取れない。
かさり、と。
竹林が僅かに揺れる。それは雨の重さに沈んだ竹が身を捩らせた音。雨音に掻き消される寸前の、ぎりぎりの音。
だけど輝夜はその音に振り向いた。
それは決定的な隙。戦いの場で敵から目を逸らすという自殺行為。
如何に圧倒しようとも、如何に相手が虫の息であろうとも、詰めを誤れば容易く立場は入れ替わる。
生は死に。死は生に。天秤は常に曖昧なまま、いつだってゆらゆらと揺れているもの。
そんな事は知っているのに。そんな事は解っているのに。
だからこそ――輝夜は妹紅から目を逸らした。
さりげなく身体の力を抜く。
脚を切り落されるにせよ、腹を貫かれるにせよ、身体が強張っていては次の行動に支障が出る。脱力し受け入れる事で、次なる手を打てるように。
蓬莱の玉枝。火鼠の皮衣。輝夜の意一つでそれらはすぐに具現する。痛みに対する覚悟は出来ているし、即死さえしなければ突き立てた牙の報いを存分に味わせる事が出来るだろう。
互いに自分の事よりも知っている相手。そして常にその『常識』を超えてきた相手。
今までのパターンからいえば貫手を繰り出す確立が高いが、意表をついて脚払いをしてくるかもしれない。火薬玉を投げ付けられた事もあったし、噴き出す劫火で諸共に周囲一体ごと焼かれた事もある。何をしてくるか解らないが、何をしようと輝夜の心を満たしてくれるに違いない。
だから待った。悟られぬよう口元の笑みを押し殺して待ち望んだ。
その時を、その瞬間を。生命が激しく燃え、生きていると実感できる至福の時を――
目を逸らしてから数十秒。
なのに……衝撃が未だにこない。痛みが伝わってこない。
輝夜の眉が歪む。抑えていた呼気を十数えた時点で、輝夜はゆっくりと妹紅へ顔を向けた。
「――妹紅?」
呼びかける声音に少しだけ震えが混じる。
輝夜は目を見開いて、倒れたままの妹紅の顔を凝視した。
額に掛かる銀の髪。閉じられた瞳。僅かに開いた口元。
口の端には赤い筋が流れ、破れた腹からはおぞましき臓物臭が漂い、捻じ曲がった右足はありえない方向を向いたまま――妹紅は眠っていた。
「――っ!」
思わず右腕を振り上げる。拳を握り、唇を噛み締め、そしてその腕を振り下ろそうとして――止まった。
安らかに眠る妹紅は、降りしきる冷たい雨を全身で受け止めて。痛みも、流れる血も、全てどうでも良いという風に。
ただ過ぎ去りし日々を懐かしむように、微笑むように穏やかに眠る顔。
輝夜はぶるぶると肩を震わせ、噛んだ唇から血が零れ、屈辱が肺腑を灼く痛みに身を捩る。
声も出ない。拳を振り下ろす当てもない。此処にあるのは過去に向けて閉じてしまった遺物。何も生み出さない……冷えた身体。
だらり、と。
振り上げた拳は力なく垂れ下がり、白く染まる吐息を一つ零すと、倒れたままの妹紅に背を向けて輝夜は竹林の奥へと歩き始めた。
帰る場所へ、帰るべき場所へ。
九十七年と五ヶ月ぶりの再会。三百九十三年ぶりの殺し合い。そして二百八十六度目の勝利。
だけどどうしてだろう。
その背中には勝利の喜びも、戦いによる高揚もなく……泣いている子供のようだった。
§
「お帰りなさいませ、姫」
「……ええ」
永遠亭――悠久の時を超え、其処に在り続けるそれは、すでに建物自体が意識を持っているかのよう。
永き時に晒された木造の柱や梁は黒く沈み、雨に伏せて眠っている太古の巨神を思わせる。
その門前で、開かれたままの扉に持たれかかる様に大きな番傘を片手に佇んでいた女性が、戻ってきた輝夜を淡い微笑で迎えた。
赤と青の衣。至るところにあしらった星の刺繍。白く長く束ねた髪。
八意永琳が手にした傘を輝夜に翳すと、輝夜はその手を跳ね除けて目も合わせずそのまま屋敷へと向かっていく。
永琳は軽く肩を竦めると、苦笑と共にその背中へ声を投げ掛けた。
「如何でした?」
「……」
輝夜は答えない。一瞬だけ足を止め、結局答えないまま屋敷の中へと消えていく。
暗い邸内に消えていく背中。出て行く時に見送った時より、一回りも小さく見える背中。その姿が見えなくなるまで、永琳はその場で見送った。
その瞳はまるで意志の感じられない冷たい色。機械のような、人形のような、冷え切った瞳。
やがて輝夜の姿が完全に見えなくなると、傘をゆっくりと畳んでその身に雨を受けながら空を見上げた。
黒々とした雲に封じられた空は、まるで巨大なドーム。
遥か遠き日々に見上げた偽物の空を思い出して、永琳は不快気に首を振った。
「雨、止みそうにないわね……」
冬を間近に控えて、氷のように冷たい雨。
だがそんな冷たさがどうだと言うのだろう?
心も身体も――もうこれ以上。
永琳は視線を下げ、再び輝夜の消え去った屋敷を眺める。
在りし日の喧騒など夢の如く消え去った廃墟。生きているのに死んでいる、死んでいるのに生きている、そんな住処を。
はぁ、と漏らした溜息が白い。
冬の足音がもうそこまで聞こえ始めている。頭の中の何処かが痺れているような、緩やかに腐敗していくような――そんな感覚。
「何を今更――」
永琳の口元に笑みが浮かぶ。紙のように白い肌に、赤い唇が歪に歪む。
その瞳に隠しきれない憂いを秘めたままで――
§
「姫、食事の用意が出来ましたが?」
「いらないわ」
日が落ち、山の影に月が掛かる頃、永琳は襖越しにそう声を掛けたが、返された答えは酷く色のないものだった。
暗い廊下で立ち尽くす永琳。
人気のない廊下は身体の芯まで凍らせるほど薄ら寒く、そしてその答えをすでに予測してた永琳の心もまた冷え切っていて。
遠くに聞こえるイナバたちの喧騒が、もうただのノイズにしか聞こえなくなってどれくらい経つのか。
銀髪の月兎も、黒髪の詐欺師ももういない。たまに顔を合わせても、もう個体の識別すら出来はしない。
彼女たちは彼女たち、自分たちは自分たち。そう割り切れるようになった自分と、初めから識別しようとしなかった姫。
どちらが正しいというものではなく、それはひょっとしたら覚悟の問題だったのかもしれない。
意識的にか無意識にかの違いはあるにせよ、永遠を生きる覚悟が。
だから永琳は軽く目を閉じて、呼吸を意識的に制御してから声を掛ける。
「お身体に障りますよ?」
その労りの言葉すらも、儀礼的。
たかが襖一枚。
たったそれだけの境界が、どうしても超えられないエリコの壁。
沈黙を守る襖は、決して従者からは開ける事が出来ない。そうしてしまった時、二人の関係も終わる。
『この身は全て、姫のために』
遠い誓い。今も胸に残る誓約であり、それは同時に制約でもあった。
だから永琳は「ご自愛を」とだけ告げて、冷たい襖に背を向ける。
歩みを進めるたびにぎしぎしと鳴る板張りの廊下が、足先から熱と一緒に大事な物まで奪っていく。
「そう出来ていたら良かったのかしら」
無意味な仮定。無駄な思考。
友達ではなく従者を選択した、あの日の自分。
そうであったならきっと、姫に掛ける言葉もあっただろう。
その代わり、今この場にいる事すらも出来なかっただろう。
この地上において、いや月においてすらもその存在は異物。姫であるが故に、いや姫であるからこそ――姫にしかなれなかった黒髪の少女。
全てを平等に無価値と捉える事で、全てに興味を持った姫。
喜びも悲しみも、怒りも絶望も、快楽も痛苦ですらも――全てを受け入れ、笑っていた。
にこにこと笑みを絶やさず、ころころと鈴の鳴るような声で。
その姫が……肩を落としている。
「――殺してやりたいわ」
それは静かなる殺意。冷え切った心の奥底に、暗く淀む炎。
脳裏に浮かぶは眩い紅蓮の輝き。月を照らす灼熱の魂。
自分には為しえなかった、姫の対。
食事を用意した広間を通り過ぎ、そのまま研究室を兼ねた自室へ向かう。
寝所とは別の、暗い地下室へ。
長い廊下の奥にある石造りの階段を降りると、突き当たりには厳重に溶接された鉄扉。
ひんやりと冷たい扉に手を付き、永琳が何かを呟くと、重々しい鍵の開く音がした。僅かに扉が内向きに開き、薄暗い階段に室内からの光が零れる。
扉を押し開け室内に踏み入ると、そこは意外な程に整頓された部屋。
如何なる呪力によるものか、永琳が足を踏み入れる前から煌々と天井そのものが光を放ち、磨きぬかれた石の床は鏡のよう。壁際に並ぶ金属製の棚にはフラスコやら不可思議な実験器具等が並んでいるが、黒塗りの頑丈な机と椅子があるだけの無機質で殺風景な部屋。つんと鼻を付く薬品の臭いが、かろうじて此処が研究室なのだと証明している。
人の匂いのしない冷たい密室。だが永琳はこの部屋で、その永き生の大半を過ごしてきたのだ。
その奥に足を向ける。
固い石の床は硬質な音を室内に響かせ、一つの棚の前で足を止めると顔を上げて再び呪を紡いだ。
地下室の封、そしてこの棚の封の二重密室。その鍵を数百年ぶりに開ける。
観音開きの扉を開くと、そこには明らかに実験器具ではない様々なものがきちんと整理されて並べられていた。
猿の手。蒼い輝石。不可思議な光を放つ薬品の詰まったガラス瓶。後はもう何なのかすら解らないものばかりで、意図も用途もそれが物体なのかすら不可解な。
そして棚の奥にひっそりと置かれていた黒い小箱を取り出して、永琳は深く溜息を吐いた。
「……何が天才よ。『再現』すらも出来ない癖に」
箱に向けられた目は嫌悪に塗れ、箱を乗せた指先がその箱を握り潰そうとするのを堪えて微細に痙攣する。
ふいに唾を吐きたい衝動に襲われ、染み一つない磨かれた床に目を落とし数秒躊躇った後――それを実行した。
§
「ねぇ、永琳。生きるってどういう事だと思う?」
「曖昧だし、概念ですらありませんが……変化する事かと」
「石ですら風化して砂に変わるわよ?」
「失礼。言葉が足りませんでした。意志を持って変化する事です」
「意志とはまた曖昧ねぇ。貴女らしくもない」
「私もその程度という事ですよ、姫」
「あらあら」
「おやおや」
「では……私は生きていると言えるのかしら?」
「曖昧ですねぇ」
「ちょっと永琳、そこは肯定で返すところでしょう?」
「失礼。未だ至らぬ我が身なれば、寛大な慈悲を持ってご容赦頂けることを切に願います」
「顔が笑っているわよ、永琳」
「おやおや」
「あらあら」
それは遠い昔日の会話。
月から堕とされた輝夜を追って永琳がこの地上にやってきた頃の、再会した二人が共に歩み始めた頃の会話。
あの頃は、二人だけで十分だと思っていた。
あらゆるものに縛られ、空すらも天蓋で覆われたあの檻から飛び出し、この地上で、真円を描く月を背に怖れもなく夜を歩み始めた輝夜の背中を見つめた永琳は、きっと永遠なんて怖くなかった。輝夜と共にあれば、何も怖いものなどなかった。
そう――思っていた。
§
竹取の姫は、月を見ていた。
何千年経とうと変わることのない、あの終わった星を。
雨も上がり、空には雲が僅かに残るだけ。真円を描く月に時折雲が掛かり、月光を朧に霞ませる。
縁側に腰掛け、長く艶やかな黒髪が板張りの廊下に広がり、深い瞳は何の感情も浮かべることなく、ただ月を映している。
白くきめ細かい肌は陶器のように繊細で、着物ごしにすら判る細身の身体は折れそうな程たおやかで。
呼吸も、鼓動も、生命活動の全てが遠い――それは永遠の具現。
あの物語の作者はこの横顔をどう受け止めたのだろうか。
美しい、その一言で十分なのに、どうして月に帰りたい――だなんて。
そんな誤りを。いや……きっとそうであって欲しいと幻想を抱いたのだろう。そうでなければ自身の矮小さに押し潰されてしまうのだろう。
瞬きすらも忘れたように、月だけを眺める横顔。
声を掛ける事すら憚られて、永琳はただ黙ったまま廊下の端で待っていた。
「ねぇ、永琳」
「はい、姫」
ふいに、月から目を逸らさぬまま輝夜がぽつりと呼びかけた。
それはいつもの事。周りに誰かがいる事が当たり前だったから。
別に永琳の存在に気付いていた訳ではないのに、主は呼び、従は応える。
千年を優に超える関係。何万回と繰り返した遣り取り。
勿論今も同じ声音で。平素と変わらぬ鈴の鳴るような声で。
「終わりにしましょう?」
そう――告げた。
永琳は僅かに瞳に憂いを乗せながら、輝夜の言葉を噛み締める。
予測はしていたし、準備もしていたが、それでも改めて問い掛けた。
それは恐らく時間稼ぎ。自分の卑屈さ、矮小さに吐き気を覚えながら、それでも。
「貴女をですか。私をですか。それとも――あの娘をですか?」
「決まっているでしょう?」
「……よくお考え下さい。石は一つしかないのですよ?」
「考える必要なんてないわ」
「姫……」
「あの娘は炎。いつか消えてしまうから炎なのよ」
「……」
「それとも……貴女自身が使いたかった?」
静かに――空気が割れる。
永琳の瞳が真っ直ぐに輝夜を射抜く。
流石にその瞳は無視できなかったのか、輝夜もまた永琳を振り向いた。
交差する視線。交わる想い。
言葉など不要。積み重ねた過去。紡ぐべき未来。
永琳は真の天才。その往き方の全てを演算し尽した末の選択。だから――
「ごめんなさい」
輝夜は小さく頭を下げた。
恐らくは生まれて初めて――心からの詫びを。
「……責めても良いのですよ?」
「え?」
「あの時……蓬莱の薬を生み出した時、私は貴女に憎まれる事を予測していました。極小ではありますが無視できない確率として」
「私がそれを望んだのに?」
「ええ、人とはそういうものですから」
「見くびられたものねぇ」
「これでおあいこです」
「そうね。貴女を許すわ、永琳」
「私も貴女を許しますよ、姫」
声は上げない。
ただ静かに二人は微笑んだ。
「知らない感情を知る事はとても楽しいわ。だけど……」
再び輝夜は視線を外し、夜の庭へと目を向ける。
憂いた微笑を浮かべたまま、そして永琳は無言で主の言葉を受け止める。
「今のあの娘を見ているのは辛いわ。身体を裂かれても、脳を握り潰されても、こんなに辛くはなかったのに」
輝夜は無意識に自身の黒髪の一房を、右手の人差し指に絡ませる。
くるくると、くるくると。
それは何処か子供じみていて。
「もう……見たくないの」
すっと目を閉じて。
月が雲に隠れるように。
「全ては御心のままに」
永琳は両足を揃え、くの字に曲げた右手を腹の前に重ねて深く頭を下げた。
臣下として、従者として、そして――姫に全てを捧げた騎士として。
§
月が白々と輝いている。
余りにも大きく、眩く、見事であるが故に偽物のような月。
竹林を歩く二人の影が塔の様に伸びている。
再構築。トラブル。突然。荒療治。改革。粛正。発見。進歩。
ショック。トラブル。突然。ショック。独断。破壊。中途半端な改革。
迷走する力。ネツァク―ホド。27番目のパス。17番目の文字。ペー、P、口、言葉。火星。
天の雷、崩れる瓦礫、落下する人。
それが――塔のカード。
それを背負って二人は歩く。
暗い竹林を、無言のままで。
檻のように伸びた竹の群れは、無言の観客。幾度も幾度も蓬莱人の生命の輝きを見届けてきた彼らは、今宵この時を迎えて静かにざわめいていた。
かさかさと竹の擦れる音が響き、茶色の竹の葉を踏み締める音が夜風に溶ける。
風は冷たく、夜は静かに、ただ月だけが――
「見えたわね?」
塔の一人がぽつりと呟く。
長い黒髪をさらりとかき上げて夜風に任せながら。
「居明かして 君をば待たむぬばたまの 我が黒髪に霜は降るとも――待つのは好きじゃないし、ね。永琳?」
もう一つの塔が頷く。
束ねた銀の髪に夜露を纏わせた従者は、左手に握った弓を構えた。
二人が見つめる先は一軒のあばら家。壁は破れ、戸板もなく、屋根すら穴だらけ。
その残骸から物音が聞こえる。家の中に誰かがいる事は間違いない。
輝夜が視線で促し、永琳が弓を引き絞る。番えた矢に魔力を乗せ、きりきりと軋む弦音が闇に不協和音を生み出して
ひょう
風を切って一筋の光が放たれた。
矢鳴りが止んで静寂が戻り、一瞬後には爆音と轟音、それに炎が夜を終わらせる。
静謐が破れ、灼熱の嵐が吹き荒れ、月も震えた。
「まぁ、この程度では死なないわよね」
燃え盛る瓦礫の中で蠢く影。
銀の髪も破れた服も、昼間会ったそのままで。
炎の中でゆるゆると首を振り、そして――鳳凰がその翼を開いた。
一薙ぎで周囲の炎を吹き飛ばし、炎の翼を背負った影はそのままゆっくりと歩き出す。
その瞳に消えない憎悪を乗せて。
「百五年ぶりの刺客は自ら……か?」
「私は何もしないわよ。ただ、最後くらいしっかりと見届けてあげないとね」
「はっ、自分の最後をか? それともそっちの最後をか?」
輝夜は答えず、ただ笑みだけを浮かべた。
それは久しぶりに見た鳳凰の輝き。昼間のような紛い物ではない本物の翼。
そうとも、惰性の炎など妹紅には似合わない。全てを紅に染めるが故に妹紅なのだ。
「お前のその態度が気に入らないんだよ!」
獣のような咆哮と共に一歩を踏み出す。
輝夜は永琳に向かって一つ頷くと、永琳は懐から取り出した黒い石を右手に握ったまま、弓を構え弦を引いた。
押手である左手の親指と人差し指に掛かる負荷を肘の関節を捻る事で支え、石を握ったままの右手の親指を反らして弦を引っ掛ける。
五重十文字を描く身体の線にブレはなく、矢を番えぬまま大きく引き分けていくと同時に右手の石が淡い燐光を放ち始めた。
それは終局の光。
永琳ですら偶然に助けられる事で一つしか生み出せなかった、奇跡の光。
蓬莱殺しの――秘薬。
光は踊り、交わり、束ねられて一本の矢となる。
射に入った永琳は一切の表情を消し、ただ目標のみを視線で射抜いて。
だが妹紅は退かず、真っ直ぐに、怖れもなく。
「永琳」
妹紅が五歩目を踏み出したところで、輝夜がその名を呼んだ。
矢を生み出したのは従者、矢を番えたのは従者、そして弓を引くのも、狙いを付けるのも従者。
だけど――妹紅を殺すのは自分の殺意なのだと。そう明言するように。
矢は正確に妹紅の左胸を貫いた。
残像すらも見えない神速の射。だけど初めから躱すつもりもなかった妹紅は、心臓に矢を突き立てたまま笑みすら浮かべて。
それがどうした、これだけか?――そう瞳が語っている。
永琳も輝夜も微動だにしない。
もう終わったのだから。
矢は放たれたのだから。
「え……?」
突然妹紅が、糸が切れた人形のように倒れた。
荒い呼吸と漏れる苦鳴が二人の耳に突き刺さる。それは本来、今この場にいる三人の誰か一人だけが迎える事が出来た運命。
地面をのたうち、両手を振り回し、瞳孔が極限まで開かれる妹紅の様子は余りにも酸鼻であったが、彼女たちだけは目を逸らせない。
例えその手が、腕が、指先が醜く皺枯れていこうとも。
例えその髪が抜け落ちていき、その顔が罅割れていこうとも――それでも、ほんの少しだけ、羨ましい、なんて事を。
「お前……何を……」
妹紅の喉から漏れる声までもが、すでに老婆のように枯れていた。
輝夜はそんな妹紅を見下ろしたまま、無言で。
その顔は笑っていなかった──あの楽しげな笑みを浮かべていなかった。
悲しみでもなく哀れみでもなく、喜悦でも憎悪でもなくただ真っ直ぐに妹紅の瞳を見ている。
だから妹紅は全てを理解した。
お互い親よりも永く接した相手。言葉でなくその瞳で全て理解した。
そして皺枯れた顔で、罅割れた声で
「輝夜……お前に解るか? この気持ちが」
満面の笑みを浮かべていた。
死を受け入れて。生を哂って。
震える腕を上げて、真っ直ぐに輝夜を指差して、妬ましい程の見事な笑みを浮かべて。
上げた腕が落ちる。
妹紅はもう輝夜を見ていない。ただ空を、想い出だけを見ている。
崩れていく。妹紅の体が崩れていく。細かい塵となり、風に運ばれて、妹紅の体が崩れていく。
後には何も残らない。
――ざまあみろ。
最後に妹紅は、そう言ったような気がした。
輝夜は黙ったまま動かず。
永琳もまた、黙ったまま動かない。
そして妹紅の最後の欠片が風に消えた時、一羽の鳳凰がその翼を広げた。
翼を羽ばたかせ、一声哀惜の声を上げて、鳳凰が天に向かって飛んでいく。
まるで妹紅の魂を運んでいくように、まるで空へと還っていくように、真っ直ぐに天に向かって羽ばたいていく。
輝夜はそれを見上げて、片手を天にかざした。
見上げていた顔を俯かせると同時に、かざした手から放たれる一筋の光。
「貴方の気持ちなんて、解る訳ないじゃない」
断末魔の叫びをあげて、鳳凰が地に堕ちる。
堕ちながら、鳳凰もまた塵となり、霧散していった。
やがてそれらは光の粒となり、降り注ぐ。
そして、光の粒が落ちた大地に、花が咲いた。
光の粒は無数に落ちる。その分だけ無数に花が咲き乱れる。
輝夜の周り、焼け野原となった大地にも埋め尽くすように花が咲く。
輝夜はゆっくりと、自分の周りを埋め尽くす花にその身を投げた。
「解る訳……ないじゃない」
《 never end 》