ある晴れた日。
の、午後。
「暇だから暇つぶしに来てあげたわ」
紫は笑顔でそんな事を言った。
「出来れば他を当たってくれないか」
霖之助は笑顔で出口を指した。
香霖堂店内、ありふれた時間と古めかしい空間の中、スキマ妖怪と店主は勘定台を挟んで微笑み合っている。
片や日傘を持ち、片や開いた書物を膝に乗せて。
「あらぁ、どぉして?」
紫は勘定台に上半身を凭れさせ、否応無く強調される豊満な胸部を見せ付け、霖之助の間近に顔を寄せて妖艶に言う。
「そりゃ、迷惑だから」
霖之助は目前で柔らかく形を変える桃源郷や、艶やかな笑顔には目もくれず、ただ紫の目を見たまま素っ気無く言い返した。
紫の目が細まり、甲斐性無しーと呟きながら勘定台から離れる。
「だって暇なんだもの。ふと起きてみたら藍居ないし橙も居ないし、どうしたかと思ったら居間に書置きがあるし」
「……へぇ。……なんて?」
迷惑だと言いながらも霖之助は問いかけた。
〝気になるでしょ光線〟が紫の瞳から物凄い勢いで放射されているからかもしれない。恐ろしい事に、この光線を浴びるといくら興味がなくても気になってしまうのだ。本当に恐ろしい。
「天気が良いからお弁当作ってハイキングですって。失礼しちゃうわ」
腰に手を当てふぅ、と溜息まで交えた紫の答えは、霖之助の予想に反し短いものである。
「健康的で結構じゃないか。紫も見習って合流してきたらどうだい」
笑顔で相槌を打ちながら、暗に出てけと言う霖之助であった。
その笑顔に、紫は口を窄める。
「合流してたら今私はここに居ないじゃないの」
「そうなるね」
「折角ここで暇を潰そうと思ってるのに」
「だから迷惑だって言ってるじゃないか」
「迷惑?」
言われ、紫は軽く周囲を見回す。
店内に居る知的生命体は、彼女と霖之助以外誰も居なかった。
二人っきりである。
一つ屋根の下、男と女が一人ずつ、とも言う。
「具体的にどの辺りが?」
両腕を軽く広げ、ふふんと鼻で笑いながら周囲を強調してみせる。
「存在そのものが」
が、霖之助の返答は文字通り音速で紫を打ち貫いた。
紫理論である〝他に客が居ないからいーじゃない〟は店側からすれば冗談では無いのだ。それに、迷惑とか災厄とかそういうのを撒き散らしがちな類の者は、えてして無自覚であるものである。紫の場合はわざとの時の方が多いかもしれないが。
「という訳だから、健康的になってきたらどうだい。今すぐに」
笑顔だが、眼鏡の奥の瞳は冷徹さすら窺える。
「んー、けれどね?」
紫はそんな霖之助を気にせず片手を上げ、親指を折った。
「霊夢の所はもっと邪険にされるわ」
「そうかい」
「幽々子の所はこの前入り浸ったし」
「そうかい」
「萃香は、お酒って気分でもないし」
「そうかい」
「他の場所へ行っても楽しくないし」
「そうかい」
「だからここに来たの」
「その理屈はおかしいだろうに」
五指の薬指までしか折られていないにも関わらず訪れた結論に、素気無く返し続けようと思っていた霖之助はつい突っ込んだ。存外交友関係が狭い事に驚いたが、考えてみれば紫の素性を多少でも知って尚仲良く出きる相手は限られるだろう。
「あら、おかしくなんてないわよ?」
「……じゃあここが楽しいとでも」
「退屈ではないわね」
腰に手を当てて言った紫に、溜息を零した霖之助は膝上の書物を閉じた。
「つまりはどうあっても出て行くつもりは無い、と。そういう事かい?」
諦観の篭った言葉。それは紫相手では最も必要な事なのかもしれない。
「うん♪」
「分かった。好きなだけ居ると良い」
紫の満面の笑顔を、霖之助は諦念をもって受入れた。やはり、紫相手に諦めは大事だろう。頑張って抗った所で、面白がられて事態は悪化する一方に違いない。
「やったわー」
割と労せずに目的が果たせた事に紫は万歳をして喜びを表現するが、
「ただし」
の冷ややかな一言で両腕が落ちた。
「……実は店の管理が思うようにいかなくてね」
主な原因は紅白なお嬢さんや黒白なお嬢さんである。
そして、その一言から霖之助が何を言いたいか察するのは、紫でなくてもそう難しい事ではない。周りを見れば大体察せられる。
「ん、つまりこの私に整理整頓をせよ、と」
「さもなくば断固出てってもらうよう全力を尽くす所存だけど」
この言葉に紫の目が細まる。これには先程と違う意味が込められていた。
「私としては、その全力がどういう全力なのかに興味があるんだけど」
二重の意味での挑発が伺える言葉、視線、そして仕草。
「……君は」
顎を指先で撫でられるのを全く気にせず、視線の先にある紫の艶笑を何ら構わず、変わらぬ表情のまま霖之助は言った。
「ひょっとしなくても僕で遊びに来たのかい」
すると、紫の全てに一層の艶が浮かぶ。
「駄目かしら?」
「よく分かった。出口はあちらだよ」
だがあまりにも霖之助は素っ気無く。
そしてその拒絶はあまりにもしっかりとしたもので。
これ以上は流石にいけないか、と考え紫は霖之助から―――それでも名残惜しそうに指を離した。
「冗談よ、冗談。そんな冷たい顔しないで」
「これは地さ」
「たまには笑わないと老けるわよ?」
実際、香霖堂に姿を現して以降、紫は微笑み通しである。
対し霖之助は呆れと諦めこそ示したものの、殆ど表情は変わっていない。
魔理沙や霊夢と違い、紫はまだ空気を読むからだろうか。それとも、霖之助が紫に対し魔理沙や霊夢に対するように応じた所で聞きやしないと思っているからか。もしくは、無関心を貫くのが有効だと考えているからか。
「実年齢に比べたら僕は充分に若々しいよ」
「それを言ったら私だってそうなるわ」
やけに誇らしげな紫。
妖怪なんだから当たり前だろう、と霖之助は言いたくなったが、それを言っては紫を喜ばせるだけである。勿論、ちょっと違う意味で。
「だろうね」
よって霖之助の対応は素っ気無い。
「何その等閑な返事」
「さてね」
紫の睨みを、霖之助は膝上の書物を開く事で回避する。
「…………」
「…………」
若干の間。
紫は霖之助を睨み続け、霖之助はそんな紫を無視し続け。
当然、こういう場合先に行動に出るのは紫である。
ただでさえ精神的なダメージは苦手なのだ。このまま霖之助が何とも言わなければ、いくら紫でもちょっと泣きたくなる。かもしれない。
と、いう訳で。
「ほーら。若いでしょ若いでしょう」
紫はばんばんと勘定台を叩く。
二人を隔てる勘定台の高さは、霖之助にとって腰程度の高さ。紫にとってもそれは同じ筈。
「…………」
なのだが。
勘定台を叩くという子供染みた自己主張と、やけに砂糖味と音の高さが加味された紫の声に顔を上げた霖之助は、勘定台に両腕を乗せる紫の姿を見た。胸でなく、腕を。それも、見た限り腰を落としている風でもなく、明らかに子供になっている。
「……いや、幼い?」
ひょいと勘定台から離れ、すっかり若くし過ぎた己を見て紫はそう評価し直す。
ご丁寧に格好諸々のサイズも小さくなった今の姿に合わされていた。
霖之助の口元が軽く痙攣する。
「……そういう非常識極まりない真似をする辺り、いつまでも、どうなっても紫はそのままの紫なのだろうね」
「私は私だもの」
「だろうね。それで、別段格好はどうだって構わないけれど……そうだな、あの辺りを」
「ねぇ」
「…………」
「何か言う事は?」
言い、紫はスカートの裾を片方摘まみ、くるりと回ってみせる。
たかが一回りながら、あまりにも可憐で華やいだ風情があった。
だというのに。
「そんな事より、あの辺りを」
紫は大ダメージを受けた。桁的に阿僧祇程度の。
「……紫?」
霖之助はがくりと四つん這いになっている紫を、勘定台から乗り出して見下ろす。
「うぅぅ……」
妖怪は人間よりも信念に左右されやすく、精神的なダメージが致命傷になるというのに。ひょっとしたら天然だとか朴念仁とかじゃなくわざとやってるんじゃなかろうか、と紫は思う。
だが、どうにか持ち直してしっかりと二本の足で立った時、半泣きな自分を見た霖之助の表情に焦りが浮いたのを見て、天然で朴念仁か、と再認識した。
「……まぁ、あの辺りを頼むよ」
それでも霖之助は紫の望む言葉を言おうとしない。
再認識によりいくらか持ち直した紫だが、これまた大ダメージを受けていた。桁的に極程度の。
だがそういつまでもしょげる訳にも行かず、霖之助の言う事を聞かなければ全力で追い出されるという事も手伝って、どうにか紫は霖之助の示す方向へ顔を向ける。
「…………ああ、あの見た感じ歪な」
紫にはそう見えた。
「……歪?」
霖之助にはただの整頓不足で品物が乱雑な状態な箇所にしか見えない。そういう所を放っておくから商売をやる気が無いと思われるのだ。本当に無いから仕方ないかもしれないが。
「歪じゃないの」
「……まぁ、君がどう思おうと勝手か。ともあれ、あの辺りをきっちりと整頓して欲しい。乱暴に扱いさえしなければ特に支障なく扱える品ばかりだからね」
「ふぅん」
曖昧に頷き、紫は歪なそこへと歩き出す。
その歩みが三歩と行かぬ間に、ふと彼女は霖之助を振り返る。
「それくらいなんで自分でやらないの」
見ると、霖之助は膝の書物に目を落としたところだった。
「僕が今何をしていると思う?」
「いたいけな少女を泣かせた挙句、顎で使おうとしてるわ」
「そうだね。じゃあ、やって貰おうか」
ぞんざいな霖之助の返事。
ただ、どういう訳かそれを聞いた紫の表情はとても愉しそうである。それも意地悪に。
「……あら? 怒った?」
「そういう事を聞く場合、大抵はそうだと思っている確認に過ぎないらしいね」
「怒ってるんだ?」
書物から視線を変えない霖之助に対し、紫は尚も言い募る。
「じゃあ、違うと言ったら信じるのかい?」
「難しいところね」
「で、僕が今何をしていると思う?」
「本を読んでる」
「そういう事さ。じゃあ、やって貰おうか」
「何か理不尽だわー」
ぶう垂れながら肩を竦め、紫は書物に釘付けのままだった霖之助に背を向けた。結局、彼の表情がどうなっているかは見れず終いである。
「君がどうしても居たいと言うからだろう。それに、たまにはちゃんと体を動かすのも大事だよ」
言ってる事は正しいのだが、紫の我が侭をこれ幸いにと良いようにこき使っているだけな気がしなくもない。というかそれだけで他は後付けだろう。
「まるで私がいっつもぐうたらみたいじゃないの」
「僕の知り得る限りではその通りだね」
主な情報源は素敵な紅白とか普通の黒白とかである。後、たまーに金色の妖獣とかも。
「誰から聞いたのか気になるわ」
「こういう情報の出本は聞かない方が良いらしいね」
「気になるわー」
「言わないよ」
「……残念ね」
紫は子供のように口を尖らせた。見た目相応ともいえる。
ともあれ、紫は問題の箇所の前に立った。
小さな体に対し、目前にあるのはごちゃごちゃの見本のようなごちゃごちゃ具合の棚。どれもこれも本来の棚の規則性に反逆するかのように自己主張が激しく、歪とも乱雑とも言える状態である。
「さ、てと」
呟くと、紫は半歩下がって両腕を軽く上げ、それぞれの下にスキマを展開。
次に個々のスキマに手を突っ込むと、棚のごちゃごちゃの前にスキマが二つ現われ、そこから小さな手がにゅうと伸びた。
するとその手がごちゃごちゃの一部を引っ掴み、妖怪特有の人外味たっぷりな怪力でその一部を軽々と引っ張り出し、スキマを経由して手元まで持ってくる。
後はそれを適当に後ろへぽいぽいほかって、再びスキマへと手を突っ込んだ。
尚、後ろへほかった先にもスキマが開いており、霖之助の血の気が引くような事態にはならなかった。
以下同じ行為を棚の物が無くなるまで繰り返し、棚がさっぱり綺麗になったら今度は手元のスキマを後ろのスキマの先へ繋ぎ、そこに溜まっている物から適当に選んだら棚へと戻していく。
通常、人間ならばもっと手間と時間がかかりそうなものなのだが、紫は事も無く最初から最後まで無造作に棚の整理をこなしていた。
「―――終わったわよー」
そんな声を聞いた霖之助は、二頁も進んでいない書物を閉じて顔を上げる。
そして見た先には、霖之助の注文どおり「きっちり整頓」された棚があり、ふふんと誇らしげな紫が居た。そのサイズがまだ小さいというか幼いのは何かの拘りなのだろう。
「こんな感じで良いかしら?」
紫は外見に似合わない妖艶さを醸しながら言った。
「ああ。そんな感じで」
しかし、霖之助の対応はいつも通り。
これはこれで淡白すぎるのだが、逆に紫を信頼しているのだろう。そう考えれば、彼女だって悪い気はしない。そうでなければいくらなんでも無頓着すぎる。
それに―――紫はてっきり、と考えていたのだがどうもそうでは無いようだ。確かに、そうであるのならあの二人が懐いている理由がちょっと嫌になる。
「じゃあ、次は何かあるかしら?」
「次?」
「無いの?」
意外気な声に意外気な声が返された。
「ああ、そうか。それじゃあ今度はあっちを頼むよ」
霖之助が指差した先は、さっきの棚に勝るとも劣らぬ有様である。
紫のジト目が霖之助へと流れた。
「……ひょっとして、私はここに居る間中店の整理整頓をする破目になるのかしら」
そもそもあっちだのこっちだのと棚を指定される以前に、辺りを見回してみれば全体的にどこもそう変わりない。
ただ霖之助は特に酷い箇所を上から順に紫に言いつけようとしているのだろう。そしてあわよくば最後まで。
「なりかねないだろうね。何せちっとも追いつかないから」
「あなたがぐうたらなだけだと思うわ」
やや得意げに、紫は言われた事を言い返す。
他の誰かが聞いていようものなら、間違いなく「お前が言うな」の類の突っ込みを入れたに違いない。
「日々、決まった分だけはやっているさ。何の邪魔も入らなければ、こうはなっていない」
だが霖之助は言っても益体もない事だと諦めていた。
「邪魔?」
「そう、邪魔」
霖之助の言う邪魔というのは、よもや客の事なんじゃなかろうか、と紫は思った。
多分気のせいじゃないだろう。何せ香霖堂の経営者は森近 霖之助だ。
「まぁいいわ、折角あなたと居られるんだもの。これくらいはやってあげる」
外見にそぐわない嬌艶な仕草と声。彼女が霖之助に向けて放った投げキッスは、相手にその気がなくとも正常な異性ならば一発で虜にできるだろう。
「なんだいそりゃ」
だというのに霖之助は眉を歪め、露骨に―――わざととは考えられない程に不可思議そうな顔をする。
「うふふ」
色々と不満を感じたものの、それ等以上に霖之助の顔がおかしくてつい紫は軽く笑ってしまった。
「……気味が悪いな」
「失礼ね」
「そうかい? でも、やってくれるというのならよろしく頼むよ。おかげで色々と時間を有意義に使えそうだ」
「ところで」
「ん?」
「色々後回しにしてあなたとお話がしたいって言ったら?」
「出てってくれ」
霖之助は微笑みと共に即答した。
紫は桁的に那由他程度の大ダメージを受け、また半泣きになった。
ゆっくりと書物に没頭し、時折聞こえてくる紫の少し慌てたような声や軽い物音などは全て罠と判断して満遍なく無視。霖之助は非常に有意義な時間を過ごしていた。
「……ふむ」
満足し、書物を閉じる。
「終わったわよ」
すると待っていたかのように紫の声がかけられた。
顔を上げれば、勘定台を挟んだ所にやや頬を膨らませた紫が居る。
「終わった?」
「ええ、終わったわ」
短いやりとり、そして紫から視線を外し視界のその他へと意識を向ければ、成る程、見違えるほどだ。だが見える範囲だけという手の込んだ悪戯の可能性も否定できない。何故なら紫だからだ。
「では、軽く見て回ろうか」
「信用無いわね」
「何、最後は確認するものだろう?」
席から腰を上げ、霖之助はやっと勘定台の内から外へと足を踏み出した。
そして、少し遅れて付いてくる紫と共に店内を一周。
「…………」
全体的に見違えていた。様々な商品が見やすく手に取りやすく丁寧に陳列されている。
腕を組んで感心した表情になっている彼の後ろで、紫は腰に手を当てて得意げになっている。単に普段藍が手際よく色々片付けてしまう分、久し振りだったのでつい夢中になったというだけの話ではあるが。
しかし霖之助は紫を振り返る事も無く勘定台へ戻った。
紫の頬が膨らんだ。
腰を下ろし、新たな書物を手に取った霖之助は考える。
さて、退屈凌ぎに居座られる代償としては、充分どころかお返しを考えた方が良い位の状況だ。……しかし今それを口に出そうものなら、紫はそこに付け込んでくるだろう。雨だからといって盗人に軒先を貸すような真似はあまりに危険だ。
「……それじゃあ、店番を頼むよ」
という訳で、紫への次の仕事を勘定台越しに言い渡す。
「店番を?」
店の奥からこちらに戻ってくる所だった紫は、どこか不満げだ。
「嫌だって言うつもりかい」
「そんな事はないわよ~」
慌てて両手を振る紫。
幻想郷一の大妖怪もこうなっては形無しだ。
「……でも店番って言ったって何をすれば良いのかしら」
尤もな疑問。
そもそも客が居ないし、商品の整理は先程すっかり終わらせてしまっている。
「お客が来たら邪魔をしないように」
「他には?」
「お客が来るまで、僕の邪魔をしないように」
「……他には」
「そうだね、特に何もしないでくれ」
微笑む霖之助。
「ねぇ」
むくれる紫。
「なんだい」
「それって私が居ても居なくても変わらない上に、私がとても退屈で退屈で退屈で退屈で退屈で退屈だと思うのだけれど」
「普段のここもそう変わらないよ。元々客もまばら、来る日より来ない日の方が多いのだしね」
「退屈じゃないの?」
「僕にはこれがある」
そう言って霖之助は膝の書物をぽんと叩く。
紫はますますむくれた。
「私にはなんにも無いわ」
「そうだね」
「退屈じゃないの」
「かもしれないね」
「かもやしれないじゃなくて間違いなく退屈じゃないの」
「だけど、特にこれといってする事はもうないよ」
「私は退屈だからここに来たのよ?」
「らしいね」
「でも結局退屈になってしまいそうだわ」
「そうなるかな」
どこまでもどこまでも暖簾に腕押しである。
「ねぇ」
業を煮やした紫は勘定台に乗り出し、霖之助と間近で顔を合わせた。
「ん」
少し首を動かせばキスくらいは容易い距離だというのに、互いの吐息がくすぐったい距離だというのに、霖之助の顔は涼しいものである。
「こんなに可愛い女の子が退屈だと言ってるのに、あなたは放っておくの?」
「魔理沙みたいな事を言うんだな」
「別段構いやしないわ。それで放っておくの?」
「そりゃあ……」
ふむ、と一息置いて霖之助は考える。
そして、こう言った。
「放っておくよ。今は書物の続きの方が大事だから」
紫は大ダメージを受けた。桁的には不可思議程度の。
「…………」
無言のまま、紫はゆっくりと勘定台から下りた。
その表情は何かを堪えているもの。
それでいて、何かを訴えるもの。
堪えているもの、訴えるものが何であるかは、どちらも些細な事。
しかし何か声をかけるでもなく、霖之助は黙ってこちらを見つめる紫を不思議そうな目で見返していた。実際、それ以上の思いは何も抱いていないのだろう。
これで一言でもフォローを口に出来れば、まだ良かったのかもしれないが。
「取り敢えず、あっちの椅子にでも座ったらどうだい」
霖之助の口から出た言葉は空気を全く読んでいなかった。
瞬間、
「霖之助の甲斐性なしの愚物の不能のちんどん屋ーっ!!!」
紫は爆発した。
「―――っ」
耳を劈き、香霖堂全体がびりびりと震動までした超大音声。
突然の事に耳を塞ぐのも間に合わなかった霖之助は、紫の声に鼓膜どころか脳まで大いに揺さぶられて意識が半分以上不明になっている。
そして、ぐらぐら揺れている霖之助にお子様用サイズの扇子を投げ付けると、
「うわああああああああああああああああああああああああああああああああぁんっ!!!」
体裁も何もあったものじゃない大泣き声をあげながら香霖堂から走り去っていった。
後に残されたのは、扇子を真正面から食らってひっくり返っている霖之助と、破壊された出入り口。倒れた霖之助がぴくりともせず、どころか耳から血が一筋垂れている辺りに非常な危険を感じさせた。
だが、香霖堂に客はあまり来ないのである。
さてこれは自業自得なのか、それとも妖怪の自分勝手の被害者なのか。
何にせよ霖之助は地味に絶体絶命となったのだった。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
陽は西に傾き、空が茜色に染まった頃。
草花を編んで作った冠を帽子の代わりに被り、藍と橙は上機嫌で住処に帰ってきた。
「ただいま戻りましたー」
「たー」
玄関を開け、靴を脱ぎ、屋敷に入っていく。
そろそろ彼女等の主も目が覚める頃か、既に覚めて書置きを見て何処かへ出かけているか。まぁまだ寝てたりだらだらしてたりどろどろしてたりしていそうでもある。
だが、そんな平時の繰り返しに基づく予測は現実の前では何の意味も無い。
何せ藍と橙は、果たして何があったものか部屋の隅っこに蹲って明らかにいじけている紫の姿を目にしたのだから。
「……紫様?」
藍はおっかなびっくり主の背に呼びかける。
壁に向かっている紫は何の反応も示さない。
「紫さまー、ちゃんと紫さまの分の冠も編んで来ましたよ?」
何を思ったのか橙の気楽な言葉。
満面の笑顔と共に、彼女の手には彼女等が被っているのと同じ可愛らしい冠があった。
それでも紫は何の反応も示さない。
藍は書置きこそ残したものの黙って出かけた事に対する新たな嫌がらせかと思い、橙は自分等の被る冠さえ見ていただければきっと機嫌が直ると思い。
しかし現実は。
「ねぇ藍」
奈落の底から響いてきそうな紫の声。
「はィっ」
思わず毛を逆立てた藍の返事は裏返り、その隣の橙に至っては腰砕けになっている。
「私って美人よね?」
「は?」
問われた内容に、藍は顔を顰めた。著しく何を今更だからだ。
「可愛いわよね?」
そうこうする内に紫が再び問うてくる。
「それはもう、紫様が見目麗しいのは疑うべくも無い所ではないですか」
なので藍は自信と自慢と僅かな羨望を込めて、はっきりと応えた。
「……そう。なら、いいわ」
「……はぁ、そうですか」
それでも沈みきったままの主を見、それから藍と橙は心配そうに顔を見合わせた。
果たしてハイキングを楽しんでいた間、何があったのだろう。
藍にも橙にも、それを窺い知る事はできなかった。
の、午後。
「暇だから暇つぶしに来てあげたわ」
紫は笑顔でそんな事を言った。
「出来れば他を当たってくれないか」
霖之助は笑顔で出口を指した。
香霖堂店内、ありふれた時間と古めかしい空間の中、スキマ妖怪と店主は勘定台を挟んで微笑み合っている。
片や日傘を持ち、片や開いた書物を膝に乗せて。
「あらぁ、どぉして?」
紫は勘定台に上半身を凭れさせ、否応無く強調される豊満な胸部を見せ付け、霖之助の間近に顔を寄せて妖艶に言う。
「そりゃ、迷惑だから」
霖之助は目前で柔らかく形を変える桃源郷や、艶やかな笑顔には目もくれず、ただ紫の目を見たまま素っ気無く言い返した。
紫の目が細まり、甲斐性無しーと呟きながら勘定台から離れる。
「だって暇なんだもの。ふと起きてみたら藍居ないし橙も居ないし、どうしたかと思ったら居間に書置きがあるし」
「……へぇ。……なんて?」
迷惑だと言いながらも霖之助は問いかけた。
〝気になるでしょ光線〟が紫の瞳から物凄い勢いで放射されているからかもしれない。恐ろしい事に、この光線を浴びるといくら興味がなくても気になってしまうのだ。本当に恐ろしい。
「天気が良いからお弁当作ってハイキングですって。失礼しちゃうわ」
腰に手を当てふぅ、と溜息まで交えた紫の答えは、霖之助の予想に反し短いものである。
「健康的で結構じゃないか。紫も見習って合流してきたらどうだい」
笑顔で相槌を打ちながら、暗に出てけと言う霖之助であった。
その笑顔に、紫は口を窄める。
「合流してたら今私はここに居ないじゃないの」
「そうなるね」
「折角ここで暇を潰そうと思ってるのに」
「だから迷惑だって言ってるじゃないか」
「迷惑?」
言われ、紫は軽く周囲を見回す。
店内に居る知的生命体は、彼女と霖之助以外誰も居なかった。
二人っきりである。
一つ屋根の下、男と女が一人ずつ、とも言う。
「具体的にどの辺りが?」
両腕を軽く広げ、ふふんと鼻で笑いながら周囲を強調してみせる。
「存在そのものが」
が、霖之助の返答は文字通り音速で紫を打ち貫いた。
紫理論である〝他に客が居ないからいーじゃない〟は店側からすれば冗談では無いのだ。それに、迷惑とか災厄とかそういうのを撒き散らしがちな類の者は、えてして無自覚であるものである。紫の場合はわざとの時の方が多いかもしれないが。
「という訳だから、健康的になってきたらどうだい。今すぐに」
笑顔だが、眼鏡の奥の瞳は冷徹さすら窺える。
「んー、けれどね?」
紫はそんな霖之助を気にせず片手を上げ、親指を折った。
「霊夢の所はもっと邪険にされるわ」
「そうかい」
「幽々子の所はこの前入り浸ったし」
「そうかい」
「萃香は、お酒って気分でもないし」
「そうかい」
「他の場所へ行っても楽しくないし」
「そうかい」
「だからここに来たの」
「その理屈はおかしいだろうに」
五指の薬指までしか折られていないにも関わらず訪れた結論に、素気無く返し続けようと思っていた霖之助はつい突っ込んだ。存外交友関係が狭い事に驚いたが、考えてみれば紫の素性を多少でも知って尚仲良く出きる相手は限られるだろう。
「あら、おかしくなんてないわよ?」
「……じゃあここが楽しいとでも」
「退屈ではないわね」
腰に手を当てて言った紫に、溜息を零した霖之助は膝上の書物を閉じた。
「つまりはどうあっても出て行くつもりは無い、と。そういう事かい?」
諦観の篭った言葉。それは紫相手では最も必要な事なのかもしれない。
「うん♪」
「分かった。好きなだけ居ると良い」
紫の満面の笑顔を、霖之助は諦念をもって受入れた。やはり、紫相手に諦めは大事だろう。頑張って抗った所で、面白がられて事態は悪化する一方に違いない。
「やったわー」
割と労せずに目的が果たせた事に紫は万歳をして喜びを表現するが、
「ただし」
の冷ややかな一言で両腕が落ちた。
「……実は店の管理が思うようにいかなくてね」
主な原因は紅白なお嬢さんや黒白なお嬢さんである。
そして、その一言から霖之助が何を言いたいか察するのは、紫でなくてもそう難しい事ではない。周りを見れば大体察せられる。
「ん、つまりこの私に整理整頓をせよ、と」
「さもなくば断固出てってもらうよう全力を尽くす所存だけど」
この言葉に紫の目が細まる。これには先程と違う意味が込められていた。
「私としては、その全力がどういう全力なのかに興味があるんだけど」
二重の意味での挑発が伺える言葉、視線、そして仕草。
「……君は」
顎を指先で撫でられるのを全く気にせず、視線の先にある紫の艶笑を何ら構わず、変わらぬ表情のまま霖之助は言った。
「ひょっとしなくても僕で遊びに来たのかい」
すると、紫の全てに一層の艶が浮かぶ。
「駄目かしら?」
「よく分かった。出口はあちらだよ」
だがあまりにも霖之助は素っ気無く。
そしてその拒絶はあまりにもしっかりとしたもので。
これ以上は流石にいけないか、と考え紫は霖之助から―――それでも名残惜しそうに指を離した。
「冗談よ、冗談。そんな冷たい顔しないで」
「これは地さ」
「たまには笑わないと老けるわよ?」
実際、香霖堂に姿を現して以降、紫は微笑み通しである。
対し霖之助は呆れと諦めこそ示したものの、殆ど表情は変わっていない。
魔理沙や霊夢と違い、紫はまだ空気を読むからだろうか。それとも、霖之助が紫に対し魔理沙や霊夢に対するように応じた所で聞きやしないと思っているからか。もしくは、無関心を貫くのが有効だと考えているからか。
「実年齢に比べたら僕は充分に若々しいよ」
「それを言ったら私だってそうなるわ」
やけに誇らしげな紫。
妖怪なんだから当たり前だろう、と霖之助は言いたくなったが、それを言っては紫を喜ばせるだけである。勿論、ちょっと違う意味で。
「だろうね」
よって霖之助の対応は素っ気無い。
「何その等閑な返事」
「さてね」
紫の睨みを、霖之助は膝上の書物を開く事で回避する。
「…………」
「…………」
若干の間。
紫は霖之助を睨み続け、霖之助はそんな紫を無視し続け。
当然、こういう場合先に行動に出るのは紫である。
ただでさえ精神的なダメージは苦手なのだ。このまま霖之助が何とも言わなければ、いくら紫でもちょっと泣きたくなる。かもしれない。
と、いう訳で。
「ほーら。若いでしょ若いでしょう」
紫はばんばんと勘定台を叩く。
二人を隔てる勘定台の高さは、霖之助にとって腰程度の高さ。紫にとってもそれは同じ筈。
「…………」
なのだが。
勘定台を叩くという子供染みた自己主張と、やけに砂糖味と音の高さが加味された紫の声に顔を上げた霖之助は、勘定台に両腕を乗せる紫の姿を見た。胸でなく、腕を。それも、見た限り腰を落としている風でもなく、明らかに子供になっている。
「……いや、幼い?」
ひょいと勘定台から離れ、すっかり若くし過ぎた己を見て紫はそう評価し直す。
ご丁寧に格好諸々のサイズも小さくなった今の姿に合わされていた。
霖之助の口元が軽く痙攣する。
「……そういう非常識極まりない真似をする辺り、いつまでも、どうなっても紫はそのままの紫なのだろうね」
「私は私だもの」
「だろうね。それで、別段格好はどうだって構わないけれど……そうだな、あの辺りを」
「ねぇ」
「…………」
「何か言う事は?」
言い、紫はスカートの裾を片方摘まみ、くるりと回ってみせる。
たかが一回りながら、あまりにも可憐で華やいだ風情があった。
だというのに。
「そんな事より、あの辺りを」
紫は大ダメージを受けた。桁的に阿僧祇程度の。
「……紫?」
霖之助はがくりと四つん這いになっている紫を、勘定台から乗り出して見下ろす。
「うぅぅ……」
妖怪は人間よりも信念に左右されやすく、精神的なダメージが致命傷になるというのに。ひょっとしたら天然だとか朴念仁とかじゃなくわざとやってるんじゃなかろうか、と紫は思う。
だが、どうにか持ち直してしっかりと二本の足で立った時、半泣きな自分を見た霖之助の表情に焦りが浮いたのを見て、天然で朴念仁か、と再認識した。
「……まぁ、あの辺りを頼むよ」
それでも霖之助は紫の望む言葉を言おうとしない。
再認識によりいくらか持ち直した紫だが、これまた大ダメージを受けていた。桁的に極程度の。
だがそういつまでもしょげる訳にも行かず、霖之助の言う事を聞かなければ全力で追い出されるという事も手伝って、どうにか紫は霖之助の示す方向へ顔を向ける。
「…………ああ、あの見た感じ歪な」
紫にはそう見えた。
「……歪?」
霖之助にはただの整頓不足で品物が乱雑な状態な箇所にしか見えない。そういう所を放っておくから商売をやる気が無いと思われるのだ。本当に無いから仕方ないかもしれないが。
「歪じゃないの」
「……まぁ、君がどう思おうと勝手か。ともあれ、あの辺りをきっちりと整頓して欲しい。乱暴に扱いさえしなければ特に支障なく扱える品ばかりだからね」
「ふぅん」
曖昧に頷き、紫は歪なそこへと歩き出す。
その歩みが三歩と行かぬ間に、ふと彼女は霖之助を振り返る。
「それくらいなんで自分でやらないの」
見ると、霖之助は膝の書物に目を落としたところだった。
「僕が今何をしていると思う?」
「いたいけな少女を泣かせた挙句、顎で使おうとしてるわ」
「そうだね。じゃあ、やって貰おうか」
ぞんざいな霖之助の返事。
ただ、どういう訳かそれを聞いた紫の表情はとても愉しそうである。それも意地悪に。
「……あら? 怒った?」
「そういう事を聞く場合、大抵はそうだと思っている確認に過ぎないらしいね」
「怒ってるんだ?」
書物から視線を変えない霖之助に対し、紫は尚も言い募る。
「じゃあ、違うと言ったら信じるのかい?」
「難しいところね」
「で、僕が今何をしていると思う?」
「本を読んでる」
「そういう事さ。じゃあ、やって貰おうか」
「何か理不尽だわー」
ぶう垂れながら肩を竦め、紫は書物に釘付けのままだった霖之助に背を向けた。結局、彼の表情がどうなっているかは見れず終いである。
「君がどうしても居たいと言うからだろう。それに、たまにはちゃんと体を動かすのも大事だよ」
言ってる事は正しいのだが、紫の我が侭をこれ幸いにと良いようにこき使っているだけな気がしなくもない。というかそれだけで他は後付けだろう。
「まるで私がいっつもぐうたらみたいじゃないの」
「僕の知り得る限りではその通りだね」
主な情報源は素敵な紅白とか普通の黒白とかである。後、たまーに金色の妖獣とかも。
「誰から聞いたのか気になるわ」
「こういう情報の出本は聞かない方が良いらしいね」
「気になるわー」
「言わないよ」
「……残念ね」
紫は子供のように口を尖らせた。見た目相応ともいえる。
ともあれ、紫は問題の箇所の前に立った。
小さな体に対し、目前にあるのはごちゃごちゃの見本のようなごちゃごちゃ具合の棚。どれもこれも本来の棚の規則性に反逆するかのように自己主張が激しく、歪とも乱雑とも言える状態である。
「さ、てと」
呟くと、紫は半歩下がって両腕を軽く上げ、それぞれの下にスキマを展開。
次に個々のスキマに手を突っ込むと、棚のごちゃごちゃの前にスキマが二つ現われ、そこから小さな手がにゅうと伸びた。
するとその手がごちゃごちゃの一部を引っ掴み、妖怪特有の人外味たっぷりな怪力でその一部を軽々と引っ張り出し、スキマを経由して手元まで持ってくる。
後はそれを適当に後ろへぽいぽいほかって、再びスキマへと手を突っ込んだ。
尚、後ろへほかった先にもスキマが開いており、霖之助の血の気が引くような事態にはならなかった。
以下同じ行為を棚の物が無くなるまで繰り返し、棚がさっぱり綺麗になったら今度は手元のスキマを後ろのスキマの先へ繋ぎ、そこに溜まっている物から適当に選んだら棚へと戻していく。
通常、人間ならばもっと手間と時間がかかりそうなものなのだが、紫は事も無く最初から最後まで無造作に棚の整理をこなしていた。
「―――終わったわよー」
そんな声を聞いた霖之助は、二頁も進んでいない書物を閉じて顔を上げる。
そして見た先には、霖之助の注文どおり「きっちり整頓」された棚があり、ふふんと誇らしげな紫が居た。そのサイズがまだ小さいというか幼いのは何かの拘りなのだろう。
「こんな感じで良いかしら?」
紫は外見に似合わない妖艶さを醸しながら言った。
「ああ。そんな感じで」
しかし、霖之助の対応はいつも通り。
これはこれで淡白すぎるのだが、逆に紫を信頼しているのだろう。そう考えれば、彼女だって悪い気はしない。そうでなければいくらなんでも無頓着すぎる。
それに―――紫はてっきり、と考えていたのだがどうもそうでは無いようだ。確かに、そうであるのならあの二人が懐いている理由がちょっと嫌になる。
「じゃあ、次は何かあるかしら?」
「次?」
「無いの?」
意外気な声に意外気な声が返された。
「ああ、そうか。それじゃあ今度はあっちを頼むよ」
霖之助が指差した先は、さっきの棚に勝るとも劣らぬ有様である。
紫のジト目が霖之助へと流れた。
「……ひょっとして、私はここに居る間中店の整理整頓をする破目になるのかしら」
そもそもあっちだのこっちだのと棚を指定される以前に、辺りを見回してみれば全体的にどこもそう変わりない。
ただ霖之助は特に酷い箇所を上から順に紫に言いつけようとしているのだろう。そしてあわよくば最後まで。
「なりかねないだろうね。何せちっとも追いつかないから」
「あなたがぐうたらなだけだと思うわ」
やや得意げに、紫は言われた事を言い返す。
他の誰かが聞いていようものなら、間違いなく「お前が言うな」の類の突っ込みを入れたに違いない。
「日々、決まった分だけはやっているさ。何の邪魔も入らなければ、こうはなっていない」
だが霖之助は言っても益体もない事だと諦めていた。
「邪魔?」
「そう、邪魔」
霖之助の言う邪魔というのは、よもや客の事なんじゃなかろうか、と紫は思った。
多分気のせいじゃないだろう。何せ香霖堂の経営者は森近 霖之助だ。
「まぁいいわ、折角あなたと居られるんだもの。これくらいはやってあげる」
外見にそぐわない嬌艶な仕草と声。彼女が霖之助に向けて放った投げキッスは、相手にその気がなくとも正常な異性ならば一発で虜にできるだろう。
「なんだいそりゃ」
だというのに霖之助は眉を歪め、露骨に―――わざととは考えられない程に不可思議そうな顔をする。
「うふふ」
色々と不満を感じたものの、それ等以上に霖之助の顔がおかしくてつい紫は軽く笑ってしまった。
「……気味が悪いな」
「失礼ね」
「そうかい? でも、やってくれるというのならよろしく頼むよ。おかげで色々と時間を有意義に使えそうだ」
「ところで」
「ん?」
「色々後回しにしてあなたとお話がしたいって言ったら?」
「出てってくれ」
霖之助は微笑みと共に即答した。
紫は桁的に那由他程度の大ダメージを受け、また半泣きになった。
ゆっくりと書物に没頭し、時折聞こえてくる紫の少し慌てたような声や軽い物音などは全て罠と判断して満遍なく無視。霖之助は非常に有意義な時間を過ごしていた。
「……ふむ」
満足し、書物を閉じる。
「終わったわよ」
すると待っていたかのように紫の声がかけられた。
顔を上げれば、勘定台を挟んだ所にやや頬を膨らませた紫が居る。
「終わった?」
「ええ、終わったわ」
短いやりとり、そして紫から視線を外し視界のその他へと意識を向ければ、成る程、見違えるほどだ。だが見える範囲だけという手の込んだ悪戯の可能性も否定できない。何故なら紫だからだ。
「では、軽く見て回ろうか」
「信用無いわね」
「何、最後は確認するものだろう?」
席から腰を上げ、霖之助はやっと勘定台の内から外へと足を踏み出した。
そして、少し遅れて付いてくる紫と共に店内を一周。
「…………」
全体的に見違えていた。様々な商品が見やすく手に取りやすく丁寧に陳列されている。
腕を組んで感心した表情になっている彼の後ろで、紫は腰に手を当てて得意げになっている。単に普段藍が手際よく色々片付けてしまう分、久し振りだったのでつい夢中になったというだけの話ではあるが。
しかし霖之助は紫を振り返る事も無く勘定台へ戻った。
紫の頬が膨らんだ。
腰を下ろし、新たな書物を手に取った霖之助は考える。
さて、退屈凌ぎに居座られる代償としては、充分どころかお返しを考えた方が良い位の状況だ。……しかし今それを口に出そうものなら、紫はそこに付け込んでくるだろう。雨だからといって盗人に軒先を貸すような真似はあまりに危険だ。
「……それじゃあ、店番を頼むよ」
という訳で、紫への次の仕事を勘定台越しに言い渡す。
「店番を?」
店の奥からこちらに戻ってくる所だった紫は、どこか不満げだ。
「嫌だって言うつもりかい」
「そんな事はないわよ~」
慌てて両手を振る紫。
幻想郷一の大妖怪もこうなっては形無しだ。
「……でも店番って言ったって何をすれば良いのかしら」
尤もな疑問。
そもそも客が居ないし、商品の整理は先程すっかり終わらせてしまっている。
「お客が来たら邪魔をしないように」
「他には?」
「お客が来るまで、僕の邪魔をしないように」
「……他には」
「そうだね、特に何もしないでくれ」
微笑む霖之助。
「ねぇ」
むくれる紫。
「なんだい」
「それって私が居ても居なくても変わらない上に、私がとても退屈で退屈で退屈で退屈で退屈で退屈だと思うのだけれど」
「普段のここもそう変わらないよ。元々客もまばら、来る日より来ない日の方が多いのだしね」
「退屈じゃないの?」
「僕にはこれがある」
そう言って霖之助は膝の書物をぽんと叩く。
紫はますますむくれた。
「私にはなんにも無いわ」
「そうだね」
「退屈じゃないの」
「かもしれないね」
「かもやしれないじゃなくて間違いなく退屈じゃないの」
「だけど、特にこれといってする事はもうないよ」
「私は退屈だからここに来たのよ?」
「らしいね」
「でも結局退屈になってしまいそうだわ」
「そうなるかな」
どこまでもどこまでも暖簾に腕押しである。
「ねぇ」
業を煮やした紫は勘定台に乗り出し、霖之助と間近で顔を合わせた。
「ん」
少し首を動かせばキスくらいは容易い距離だというのに、互いの吐息がくすぐったい距離だというのに、霖之助の顔は涼しいものである。
「こんなに可愛い女の子が退屈だと言ってるのに、あなたは放っておくの?」
「魔理沙みたいな事を言うんだな」
「別段構いやしないわ。それで放っておくの?」
「そりゃあ……」
ふむ、と一息置いて霖之助は考える。
そして、こう言った。
「放っておくよ。今は書物の続きの方が大事だから」
紫は大ダメージを受けた。桁的には不可思議程度の。
「…………」
無言のまま、紫はゆっくりと勘定台から下りた。
その表情は何かを堪えているもの。
それでいて、何かを訴えるもの。
堪えているもの、訴えるものが何であるかは、どちらも些細な事。
しかし何か声をかけるでもなく、霖之助は黙ってこちらを見つめる紫を不思議そうな目で見返していた。実際、それ以上の思いは何も抱いていないのだろう。
これで一言でもフォローを口に出来れば、まだ良かったのかもしれないが。
「取り敢えず、あっちの椅子にでも座ったらどうだい」
霖之助の口から出た言葉は空気を全く読んでいなかった。
瞬間、
「霖之助の甲斐性なしの愚物の不能のちんどん屋ーっ!!!」
紫は爆発した。
「―――っ」
耳を劈き、香霖堂全体がびりびりと震動までした超大音声。
突然の事に耳を塞ぐのも間に合わなかった霖之助は、紫の声に鼓膜どころか脳まで大いに揺さぶられて意識が半分以上不明になっている。
そして、ぐらぐら揺れている霖之助にお子様用サイズの扇子を投げ付けると、
「うわああああああああああああああああああああああああああああああああぁんっ!!!」
体裁も何もあったものじゃない大泣き声をあげながら香霖堂から走り去っていった。
後に残されたのは、扇子を真正面から食らってひっくり返っている霖之助と、破壊された出入り口。倒れた霖之助がぴくりともせず、どころか耳から血が一筋垂れている辺りに非常な危険を感じさせた。
だが、香霖堂に客はあまり来ないのである。
さてこれは自業自得なのか、それとも妖怪の自分勝手の被害者なのか。
何にせよ霖之助は地味に絶体絶命となったのだった。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
陽は西に傾き、空が茜色に染まった頃。
草花を編んで作った冠を帽子の代わりに被り、藍と橙は上機嫌で住処に帰ってきた。
「ただいま戻りましたー」
「たー」
玄関を開け、靴を脱ぎ、屋敷に入っていく。
そろそろ彼女等の主も目が覚める頃か、既に覚めて書置きを見て何処かへ出かけているか。まぁまだ寝てたりだらだらしてたりどろどろしてたりしていそうでもある。
だが、そんな平時の繰り返しに基づく予測は現実の前では何の意味も無い。
何せ藍と橙は、果たして何があったものか部屋の隅っこに蹲って明らかにいじけている紫の姿を目にしたのだから。
「……紫様?」
藍はおっかなびっくり主の背に呼びかける。
壁に向かっている紫は何の反応も示さない。
「紫さまー、ちゃんと紫さまの分の冠も編んで来ましたよ?」
何を思ったのか橙の気楽な言葉。
満面の笑顔と共に、彼女の手には彼女等が被っているのと同じ可愛らしい冠があった。
それでも紫は何の反応も示さない。
藍は書置きこそ残したものの黙って出かけた事に対する新たな嫌がらせかと思い、橙は自分等の被る冠さえ見ていただければきっと機嫌が直ると思い。
しかし現実は。
「ねぇ藍」
奈落の底から響いてきそうな紫の声。
「はィっ」
思わず毛を逆立てた藍の返事は裏返り、その隣の橙に至っては腰砕けになっている。
「私って美人よね?」
「は?」
問われた内容に、藍は顔を顰めた。著しく何を今更だからだ。
「可愛いわよね?」
そうこうする内に紫が再び問うてくる。
「それはもう、紫様が見目麗しいのは疑うべくも無い所ではないですか」
なので藍は自信と自慢と僅かな羨望を込めて、はっきりと応えた。
「……そう。なら、いいわ」
「……はぁ、そうですか」
それでも沈みきったままの主を見、それから藍と橙は心配そうに顔を見合わせた。
果たしてハイキングを楽しんでいた間、何があったのだろう。
藍にも橙にも、それを窺い知る事はできなかった。
でもおやつの好みはこのとっぽいお兄さんだったりする罠w
それにしても、藍様可愛いよ藍様!
ゆかりんかわいいよゆかりん
由々しいほどに鈍感な霖之助は、、、傍から見ているとちょっと冷たい感じはするものの、
本人には全く罪悪感などは存在していないのがまた笑える。
すごくいいよ
桁違いにいいよ(不可思議くらい)