人間は死ぬと花になるという。
それも、生前の様々な要素によって様々な花となるらしい。
もっとも、六十年に一度の死人が飽和状態になる時でもないと、三途の渡し守によって花になる前に此岸から彼岸へと運ばれる為に、その多様性を満喫する事は難しいそうだ。
さて。
では人ならざる者が死ぬと、どうなるのか。
人と同じように様々な花と化す事になるとしたら、マンドラゴラ等植物系の者は死んでもあまり変わらないと言えるだろう。それを踏まえれば花以外の何かに成り果てるのかもしれない。
だが、他の何かと言えどもそれに類する者は大抵存在しているのだから、別個違う物に成ると考えるのが妥当か。
ともあれ、ただ考えるよりは簡単な方法がある。
確かめれば良いのだ。
ただし実際に殺して回ってまた要らぬ摩擦を生むのも鬱陶しいし、また自ら死んで見るという訳にもいかない。
ならば……一つ聞きに行けば良いだろう。行ける範囲に人の逝き場の手前があるのだから、そこで聞けば良い。地下図書館の彼女なら何か知っているかもしれないが、折角の機会なのだ。
―――という訳で、紅魔館の主は好奇心のままに夜空を駆ける。
「ふふん、偶には一人も良いものじゃない」
自身よりも大きな翼を羽ばたかせ、夜だというのに日傘を手に、レミリアは冷たい夜風に顔を綻ばせた。
普段なら何かしら理由を付けて断固付いてくるメイド長が居るのだが、先日風邪を引いて貰ったので今頃ベッドの中だろう。勿論、死なない程度に酷いアレ。
大体、夜の王が夜の外出に一々供を連れているというのもおかしな話だ。確かにノーブルたらんとするなら一人での夜遊びこそ慎むべきなのかもしれないが―――心配で付いてくるくらいなら付いてこない方が良いとレミリアは思う。
心配される辺りに、どこか敬意が薄い気がするのだ。日頃充分なだけに、こういう時妙に目立つ。
「まぁ良いわ。十年や二十年の付き合いじゃないのだから」
そんじょそこらの主従とは質が違う。
愚図で役立たず揃いのメイド達を束ね、館の管理をこなしてきた事を思えば、多少の茶々は主として許容して然るべきか。
ただし今回は別。息が詰まるとは言わないが、この夜気の中を存分に思う様疾駆し滑空し星光と月光を満身に浴びるというのは、やはり一人でこそ正しい満喫が得られるのだから。
「―――フフッ」
小さく笑うと、レミリアは向かうべき所への最優先は一端停止。
折角なのだから、この夜空を好きなだけ―――
今夜空を見る者があれば、凄まじい速度で縦横無尽に飛び回る紅い何かを見るだろう。彼方の夜闇に紅点が舞い踊る様を見るだろう。
それは見る者にまさしく夜の夢のような美しさを感じさせるに違いない。揺らめく紅は単一ながら、広大な夜空のステージで確かに舞踏を踏んでいるのだから。
だが心せよ。かの紅は吸血鬼。夜においては絶対的な力を振るう暴虐の悪魔なのだから。
妖怪の山の裏手、遥かな三途の川へと続く中有の道。
人の死に昼夜の区別が無いように、中有の道の沿道はいつでもいつまでも賑わっている。縁日のように沢山ある出店の中では、特に死霊金魚掬いが人気だろう。掬った金魚が既に死んでいるので後々の世話が必要ないからだ。もっとも、知らぬ内に成仏して居なくなってしまう事があるが。
そんな、死ぬ手前の人間や祭り気分を楽しみたい生きる者等で騒がしい筈の中有の道だが、今夜は少し違う。
当然賑わってはいるのだが、人いきれの中でぽっかりと空いたある一箇所を境に賑わいが薄らいでいるのだ。
その一箇所に、誰あろうレミリアは居た。存分に夜空を楽しんだ彼女は、今度は一人でこういう所を歩くという誘惑に抗えなかったのである。飛んで行った方が明らかに早いのに。
もっとも、何かするでもなく、ただ歩くだけ。何せ今の彼女に持ち合わせはなく、そうでなくとも出店にあるような代物は大概買い尽くし済みなのだ。
ならば何故中有の道を歩くかといえば、周りから向けられる畏怖と、自分の存在に気付いた者達が滑稽なほど慌てて道を譲る様を楽しむ為である。それに、時々胆の据わった輩が道を譲らなかったりするが、少し威圧してやれば犬のように尻尾を巻く。こうして己の力、吸血鬼の存在を知らしめる意味もあった。
レミリアは歩く。彼女としては極自然に、だが周囲からすれば傲然なほど華やかで危険な雰囲気を醸しながら。
面白いのは、人いきれの中に発生した彼女の為の空間が一定であるという事だ。人数や出店の場所等の関係からこれ以上大きくならない為一定なのか、集団心理で安全だと思われる感覚だから一定なのか。
もっとも、この事はレミリアにとってさして興味は無かった。自分を畏れさえすればそれで充分なのだから。
―――こうしてレミリアは生者も亡者も分け隔てなく畏れさせ、海を割るように人を割って、やがて聴覚に違和感が出る程静まり返った場所に出た。
此岸である。
その開けた場所で、随分小さくなった中有の道からの喧騒を背にレミリアは軽く辺りを見回す。
寂しい風景。
これがレミリアの第一印象だった。
確かに清流の川原といえばその通りなのだが、生きようという意思がどこからも感じられないため、まさに死んだような静けさが一帯にあるからだろう。
たまにちらほらと見かけるのは完全に死ぬ寸前の亡霊ばかりで、生気と忌避に満ち溢れた吸血鬼を見ても中有の者達のように騒いだりはしない。騒ぐような元気がある者は、中有の道に留まりやがて引き返していくだろうからだ。申し訳程度にゆっくり遠のいてはいくが。
「ここに死神とやらが居る筈なんだけど―――」
きょろきょろと忙しく視線を巡らせながら、レミリアは此岸を歩く。
風も吹かず、何も物を言わず、河原の石を踏み行く彼女の足音だけが響き渡る。
時々複数の石が崩れ落ちる音がして、その方向を見れば子供の亡霊が積んだ石を鬼が面倒そうに蹴り崩した所だった。既知である宴会好きで酒好きで無駄に元気で幼稚な鬼と違い、なんともくたびれて老いさらばえた地獄の鬼である。
成る程、こんな所で仕事をしていれば、いくら鬼でも陰気臭くもなろう。それに子供の傍から離れようとしない辺り、ひょっとしてマンツーマンなんだろうか。だとすれば、どちらにとっても面倒この上ない。
そうして中有の道の喧騒が聞こえなくなった頃、
「……川縁を行った方が良いかな、これは」
三途に近い者程、より死んでいる事になるのだし。
足の向きを変える前に一度ぐるりと周囲を見回して、亡霊や地獄の鬼だけで死神が見当たらない事を確認し、レミリアは爪先を川へ向けた。
一歩川へ足を進める毎に、物理的に死へと近づいていく。此岸から川を渡り彼岸に辿り着く事が完全な死と同義である以上、歩くという行為に言い表せない奇妙な感覚が付きまとうのは仕方の無い事か。
生きているという確信がある為に、死へと向かうこの行為には自ずと嫌悪感が生まれるのだろう。
逆に考えれば、自分は死ねるという事だ。
「ははっ」
レミリアは死後の花への興味が一層湧いた。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
古木と古木とが軋み合う重い音を立てて、船は水面を進んでいく。
櫂は船頭の手に導かれ確かに水を掻いているのに、水音は一切無い。
本来ならそれは不審に思う所だが、ここは何せ三途の川。水音がする方がおかしい。
川中へ少し出た所で、小町は一度彼岸を振り返る。
さっき彼女が送り届けたのは、見所のある悪党だった。人は殺すわ物は盗むわ約束は守らないわという有様だったが、面白い事に嘘を吐いた事は一度も無いという。
まぁ嘘を吐かないというのは嘘吐きの常套だし、あの鏡にかかっては全てお見通しだから今頃どうなっているやらだが。
「ま、いっか」
過ぎた事だし、そもそももう管轄外だ。
彼岸から此岸へと視線を戻し、櫂を握り直した小町は船を進めながら歌う。
「通ーりゃんせー通りゃんせ~
こーこはどーこの川道じゃー?
閻魔ー様への川道じゃー
ちーっと乗ーせて下しゃんせー
物見遊山は乗しゃあせぬー
既に私は死んだのでー
裁きを受ーけに参りますー
行きは長々、帰りはすぐそこ
現世を抱いて
とーおーりゃんせー通りゃんせ~」
一通り歌えばそこはもう此岸である。
距離を弄れる以上、行きの渡し賃に応じた距離を一々戻る必要は何処にも無いのだ。
此岸の桟橋に船を横付けし、櫂から桟橋に置いておいた鎌に持ち替えて小町は此岸に入る。此岸に居るような亡霊は今更何も執着していないので、物が盗られる心配は無い。
桟橋を行く途中、その一歩一歩にいちいち木の軋む音が返されたが、それは船同様老朽化のせいだからと小町は誰も何も言わないのに自分の中で釈明した。
「……お?」
軋む桟橋から川原に付いた小町は、次に運ぶ亡霊を探すよりもまず、意外気な声を出す。
彼女の視線の先には、岩に腰を下ろす紅い悪魔の姿があったからだ。誰あろう、結構前に幻想郷で一騒ぎやらかした連中の首魁である。
「やっと来たか」
小町の登場に気付いたレミリアは、ぼんやりしていた焦点を大柄な彼女に合わせると、やれやれと溜息混じりに立ち上がった。確認もなく彼女が小町を死神と断じたのは、こんな所で大鎌を持っているのは死神以外に居ないからである。
「何だ何だこんな所に。此岸は吸血鬼の来る所じゃないし、そもそも用も無いだろう」
ずい、と近づいてレミリアを見下ろす小町。
「……生憎、用があって来たわ」
見下ろされる事に不機嫌になりつつ、小町を見上げるレミリア。
「ん? すると観光? だったら予め予約入れてもらわないと困るんだけど」
「予約?」
思わずレミリアは怪訝な顔をした。
「そう、予約すれば今なら十王様にちなんだ十大特典がつくし、案内専属の死神が一人付くし。でも予約なしだと扱いはぞんざいだよ? なんせ貧乏暇無しだからね」
「見る所なんてあるの?」
「例えば地獄巡り」
「……地獄?」
地獄への観光などというものが成立するのだろうか。
「勿論片道切符のみとなっております」
しかも帰ってこれないときた。
「本当にやっているの?」
レミリアの疑問ももっともだろう。だが小町は素であり、特にからかおうとかいう意思は感じられなかった。世の中物好きが居るということだろうか。
「まぁ、運賃さえ払ってくれれば案内するよ。生きてる内は誰も払えないだろうけど」
「あぁそうそう、それよ。用は」
「どれ」
くきっ、と小町が首を傾げた。
「生きてる内、って所。私は今生きているだろう?」
「そりゃまぁ、死んでないんなら生きてるんだろうさ」
「で、死ぬと花になると」
「……あ?」
くきっ、と小町は先程までとは逆方向に首を傾げた。
「人間は死んだら花になる」
そして、レミリアの言葉を受けて小町の首が戻る。その際何の音もしなかった事にレミリアは少し不満を覚えた、
「あぁ、まぁ放っとけば花になるっちゃなるけど」
「なら―――私は、どんな花になると思う?」
僅かなドキドキを感じさせるレミリアの問い掛け。それでも夜の王としての威厳はそのままなのだから恐れ入る。
「さぁ」
「さぁ、って」
期待に反する等閑な応えに、思わずレミリアは拍子抜けする。
「だって知らないし。でも、十王様なら何か気の利いた事を言ってくれそうではある」
「じゃあその十王の所へ連れてって」
即答。
これに小町は数回瞬く間、口をぽかんと開けたまま閉じる事を忘れていた。
「連れてってって……途中で死ぬよ? というかお前さん、運賃払えるのかい」
「残念ながら持ち合わせは無いわね」
「なら無理だ」
「ふーん。それで、吸血鬼は死んだらどんな花になるのかしら」
「死神の話を聞いてなかったのか」
「さっきは私限定だろうに」
呆れる小町にレミリアはムッとする。
「いや、関係無く」
「知らないの?」
「そう言った」
「死神の癖に」
何故か偉そうに腕を組む小町に、レミリアはあからさまな侮蔑を向けた。
「さらっと言うなぁ。大体ここら辺は人間の亡霊しか居ないだろ?」
気分を害しながらも、小町は辺りを見るよう軽く周囲を差す。
「居ないわね」
だが既に充分見てきたレミリアは、小町の動作を全く無視して返事をした。
小町の表情がやや固くなる。
「つまりそういう事なんだよ」
「じゃあ吸血鬼の亡霊はどこへ逝くのか知らない?」
「知らない」
余りにも即答だった。
問いに対する即答とはつまり、考えるまでも無いという事か、考えたくも無いという事である。どちらにせよ、それが知らないではこの場合迂遠でしかない。
「横の繋がりが希薄なのね」
「いや、そうでなく」
溜息を零したレミリアに、小町は手を振って否定した。
「ん?」
「何か勘違いしてるようだけど、あたいが所属してる是非曲直庁に横なんてないよ」
「……は?」
「つまり、是非曲直庁以外に亡霊をどうこうする組織は無いって事さ」
「じゃあ他の亡霊はどうするの?」
「知らない」
「本当に死神なの?」
今度はあからさまな疑念が小町に向けられた。
これには小町もカチンと来る。
「失敬な奴だな。死神だからこそ知らないんだよ。大体、人間以外の輩が死んだ所で亡霊なんかになるもんか」
「亡霊にならないの?」
レミリアは驚いた。てっきり、人が死んだらどうこうなるのだから、他の種族も死んだらどうこうなると思っていたのだが。よもやそれが根本から覆されるとは思いもしなかった。先程の小町の答えは迂遠どころではなかったのだ。
対し、レミリアの態度を見て小町はようやく合点がいく。本当に知らないのであれば、こちらの態度は不適切そのものだったろう。もっとも、お互いの認識に差があるとは思いもしなかったが。
だって相手は悪魔だし、知ってるものだと思いたくなる。
ともあれ知らないなら知らないで、言って聞かせてさっさと帰ってもらえば良いだろう。
小町にとっていつの間にか話し込んでいる現状は、この前叱られたばかりなので中々体裁が悪い。
「そりゃそうさ。例えば妖精は死んでもいつの間にか同じ生息域に現れるし、妖怪は死んだらそこでお終いだし。輪廻だの地獄だの極楽だのと、死んでからも面倒なのは人間だけよ」
「へぇ」
素直に感心するレミリア。これには小町も可愛いと思った。
「ちなみに吸血鬼も死んだらそこでお終い」
「あら、呆気ないのね」
「ま、元々人間以外の者は大抵自然がご先祖だからね、自然に還るのさ。後はせいぜい、生前の強い気質が幽霊という形を取るくらいなもんだけど、それはもう気質の現れであって元々とは何の関わりもない存在だし」
「ふぅん。……じゃあ、花にはならない?」
「なりようがない」
「……ふぅん」
「納得したかい? ところであたいは仕事中だから、あまり立ち話もしてられないんだけど」
頷くレミリアに対する、小町の強引な話題切り替えによるさっさと帰れよ発言。
「そういえば獣人はどうなるの?」
しかしレミリアはそれを全く無視した。
「あ?」
「獣人。あぁそれと魔法使いも」
思わず小町の口からちょいと待てよとばかりに声が出てしまったが、レミリアはやはり無視している。
「あ~、扱いは人間と一緒さ。先天だろうと後天だろうと、大元は人間なんだから。ああ、完全に獣寄りになってたら此処へは来ないけど。魔法使いも種族化するまで行ったら此処へは来ないね」
「へぇ」
「……もういいか? いやもう本当、仕事サボると後が怖いんで」
理由を言い、小町は頼むからと言わんばかりにレミリアに帰宅を促す。
元々彼女が突然やって来たのだから、多少はこちらの意見を汲んで当然だろう。普通は。
「あぁ、閻魔が?」
だがレミリアは悪魔なのである。
悪魔とは悪い魔であって、そういうのに善意を期待するのは大間違いなのであって。
「そうそう。それに、お前さんだって自分の所の部下がサボってたら叱るだろ?」
「そうね。灸を据えたくなるわ」
「あたいは灸を据えられたくない」
「成る程」
「だから、もういいか?」
納得した風なレミリアに、小町は内心胸を撫で下ろすが―――
「ここに来る途中、死霊金魚掬いっていうのがあった気がするんだけど」
再び、小町の意思は全く無視された。
流石悪魔、相手が死神だろうと歯牙にも掛けない。
「あぁもう」
これはもう相手の気が済むまで取り合うべきか、と小町は出来る限り仕方なく諦めた。
「あれは―――まぁ夢の無い話だけど、幽霊の加工品さ。他のその手のは全部幽霊の加工品だから、まぁ、変な色を塗られたヒヨコと同じ」
「あらそうなの。でもそれって詐欺じゃない?」
「金魚なら、幽霊の加工品の名前が死霊金魚だから問題無い。他のも同じ理屈で問題は無い」
小町は言い切った。実際、是非曲直庁の対応マニュアルにもそうせよと書いてある。
「無いの?」
「無いの」
「そう」
「うん」
後は、言い切ったまま押し切れば良いのだ。是非曲直庁の対応マニュアルにもそうせよと書いてある。
「……じゃあ、もういいわ。用は済んだのだし」
これにレミリアは根負けしたような吐息と共に瞼を伏せた。
「そりゃあ良かった」
小町はほっと胸を撫で下ろすが、
「あ、でも最後に」
「まーだあるのか」
見事なフェイントに思わず突っ込んだ。
「最後よ。で、その鎌。伊達よね?」
レミリアが指差す先にあるのは、小町が肩に担ぐ大きな鎌。しかし伊達と言われても仕方ないほど、その刃は歪んでいた。
「ん? ああ、伊達さ。こんなもんでまともに斬れる訳が無い」
「堤防の穴に腕を入れる子供の像と同じかしら」
「あー……そうだな」
どちらも他所の情報に合わせた結果であるから、レミリアの言に小町は納得する。事の真偽よりも相手を喜ばせる事を優先した結果なのだし。
「成る程ね」
「でだね?」
「ああ、分かってるわよ」
促しに頷いて、レミリアは礼も言わずに黙って頭を下げた。
この優雅なお辞儀はお礼代わりか、それとも別れの挨拶代わりか。
さてどちらだろう、と小町が判断するより早く、レミリアはさっさと頭を上げて踵を返していた。物凄い勢いで相手の事などお構い無しである。
「あいよ、じゃあね」
溜息と苦笑混じりに、小町は悪魔の背に軽く手を振った。
何のリアクションも返さない相手に軽く首を振り、それから彼女は仕事に戻る。
「さーて、次に運ぶのはーっと」
本来なら桟橋の周りに亡霊が漂っているのだが、軽く見回しても見当たらない。まさか亡霊が居ない訳も無し、とすると先程までレミリアが居たせいで触らぬ神に何とやらが発生したのだろう。
「やれやれ、困ったもんだ」
しかしサボりの口実としては充分だろうとして、小町はあまりよろしくない笑みを浮かべた。
川原の石を踏みつつ、ああそういえばとお互い名乗りもしなかった事を思い出す。でも問題は無かったろう。
こちらは相手が何者かは分かっているし、相手は死神に用があったのだし。
それに、名乗った所で応じやしないし聞きもしなかったろう。
「やーれやれ」
もう一度言い、小町は苦笑した。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
帰りの道すがら、死神に話を聞くまでに随分時間を食ってしまったのか、東の空から忌々しい太陽が昇ろうとしていた。
「ああ全く、厄介ね」
もっともこれを予想しての日傘である。動作に制限が掛かって鬱陶しいが、仕方ない所だろう。
ぽん、と小気味良い音を立ててピンクのフリルが施された真っ白な日傘が開く。
「でも―――」
日傘を肩に乗せ、くるくると回しながらレミリアは笑う。
「思いもしない答えっていうのは、面白いわ」
死んで面倒なのは人間だけ、という死神の言葉を思い出す。
人間の要素を持たない者は誰も彼も死んだらそこでお終いという。
まるで花火のようだ、と思う。
花火は夜空に咲いたらそれでお終いなのだから、そう考えてみるとどこか愉快でもあった。
だが―――それでは物と同じなのではないだろうか。
直せない程に壊れた物は、誰からも省みられず、もはや捨てられる他に道は無い。人ではない者の死はそれと同じ事だろう。
いざ自分がそういう目に遭うと考えれば、忌避するのは当然だ。幸いなのは、死んだらそれを自覚する要素が何も残らないという事。
人ではない者の死とは無。己という存在の完全な終焉である。
「…………」
その思考に至った途端、彼女の表情から笑みが消える。
自分がただの物である事を確信してしまったような後悔が生まれかけていた。
しかし、その前に川縁へ向かう際に感じた嫌悪を思い出す。
そして呟いた。
「つまり、私は死を怖れてはいる訳だ」
だが物は死を怖れない。
怖れるだけの知性を持たないし、意思も思考も持たないからだ。
そう、思考。
思考が出来るという事は、大事な事だ。葦ですら思考できれば人間と同等になれるのだから。
ならば。
「……故に、私は、生きている、と」
再び、ゆっくりと呟く。己に言い聞かせるように、己を確認するように。
そうした後、死後の花に興味を持つまで己の死の事など考えた事もなかったレミリアは、東の空に背を向けた。
なんとなく、太陽の光がいつもより嫌だったからだ。
それも、生前の様々な要素によって様々な花となるらしい。
もっとも、六十年に一度の死人が飽和状態になる時でもないと、三途の渡し守によって花になる前に此岸から彼岸へと運ばれる為に、その多様性を満喫する事は難しいそうだ。
さて。
では人ならざる者が死ぬと、どうなるのか。
人と同じように様々な花と化す事になるとしたら、マンドラゴラ等植物系の者は死んでもあまり変わらないと言えるだろう。それを踏まえれば花以外の何かに成り果てるのかもしれない。
だが、他の何かと言えどもそれに類する者は大抵存在しているのだから、別個違う物に成ると考えるのが妥当か。
ともあれ、ただ考えるよりは簡単な方法がある。
確かめれば良いのだ。
ただし実際に殺して回ってまた要らぬ摩擦を生むのも鬱陶しいし、また自ら死んで見るという訳にもいかない。
ならば……一つ聞きに行けば良いだろう。行ける範囲に人の逝き場の手前があるのだから、そこで聞けば良い。地下図書館の彼女なら何か知っているかもしれないが、折角の機会なのだ。
―――という訳で、紅魔館の主は好奇心のままに夜空を駆ける。
「ふふん、偶には一人も良いものじゃない」
自身よりも大きな翼を羽ばたかせ、夜だというのに日傘を手に、レミリアは冷たい夜風に顔を綻ばせた。
普段なら何かしら理由を付けて断固付いてくるメイド長が居るのだが、先日風邪を引いて貰ったので今頃ベッドの中だろう。勿論、死なない程度に酷いアレ。
大体、夜の王が夜の外出に一々供を連れているというのもおかしな話だ。確かにノーブルたらんとするなら一人での夜遊びこそ慎むべきなのかもしれないが―――心配で付いてくるくらいなら付いてこない方が良いとレミリアは思う。
心配される辺りに、どこか敬意が薄い気がするのだ。日頃充分なだけに、こういう時妙に目立つ。
「まぁ良いわ。十年や二十年の付き合いじゃないのだから」
そんじょそこらの主従とは質が違う。
愚図で役立たず揃いのメイド達を束ね、館の管理をこなしてきた事を思えば、多少の茶々は主として許容して然るべきか。
ただし今回は別。息が詰まるとは言わないが、この夜気の中を存分に思う様疾駆し滑空し星光と月光を満身に浴びるというのは、やはり一人でこそ正しい満喫が得られるのだから。
「―――フフッ」
小さく笑うと、レミリアは向かうべき所への最優先は一端停止。
折角なのだから、この夜空を好きなだけ―――
今夜空を見る者があれば、凄まじい速度で縦横無尽に飛び回る紅い何かを見るだろう。彼方の夜闇に紅点が舞い踊る様を見るだろう。
それは見る者にまさしく夜の夢のような美しさを感じさせるに違いない。揺らめく紅は単一ながら、広大な夜空のステージで確かに舞踏を踏んでいるのだから。
だが心せよ。かの紅は吸血鬼。夜においては絶対的な力を振るう暴虐の悪魔なのだから。
妖怪の山の裏手、遥かな三途の川へと続く中有の道。
人の死に昼夜の区別が無いように、中有の道の沿道はいつでもいつまでも賑わっている。縁日のように沢山ある出店の中では、特に死霊金魚掬いが人気だろう。掬った金魚が既に死んでいるので後々の世話が必要ないからだ。もっとも、知らぬ内に成仏して居なくなってしまう事があるが。
そんな、死ぬ手前の人間や祭り気分を楽しみたい生きる者等で騒がしい筈の中有の道だが、今夜は少し違う。
当然賑わってはいるのだが、人いきれの中でぽっかりと空いたある一箇所を境に賑わいが薄らいでいるのだ。
その一箇所に、誰あろうレミリアは居た。存分に夜空を楽しんだ彼女は、今度は一人でこういう所を歩くという誘惑に抗えなかったのである。飛んで行った方が明らかに早いのに。
もっとも、何かするでもなく、ただ歩くだけ。何せ今の彼女に持ち合わせはなく、そうでなくとも出店にあるような代物は大概買い尽くし済みなのだ。
ならば何故中有の道を歩くかといえば、周りから向けられる畏怖と、自分の存在に気付いた者達が滑稽なほど慌てて道を譲る様を楽しむ為である。それに、時々胆の据わった輩が道を譲らなかったりするが、少し威圧してやれば犬のように尻尾を巻く。こうして己の力、吸血鬼の存在を知らしめる意味もあった。
レミリアは歩く。彼女としては極自然に、だが周囲からすれば傲然なほど華やかで危険な雰囲気を醸しながら。
面白いのは、人いきれの中に発生した彼女の為の空間が一定であるという事だ。人数や出店の場所等の関係からこれ以上大きくならない為一定なのか、集団心理で安全だと思われる感覚だから一定なのか。
もっとも、この事はレミリアにとってさして興味は無かった。自分を畏れさえすればそれで充分なのだから。
―――こうしてレミリアは生者も亡者も分け隔てなく畏れさせ、海を割るように人を割って、やがて聴覚に違和感が出る程静まり返った場所に出た。
此岸である。
その開けた場所で、随分小さくなった中有の道からの喧騒を背にレミリアは軽く辺りを見回す。
寂しい風景。
これがレミリアの第一印象だった。
確かに清流の川原といえばその通りなのだが、生きようという意思がどこからも感じられないため、まさに死んだような静けさが一帯にあるからだろう。
たまにちらほらと見かけるのは完全に死ぬ寸前の亡霊ばかりで、生気と忌避に満ち溢れた吸血鬼を見ても中有の者達のように騒いだりはしない。騒ぐような元気がある者は、中有の道に留まりやがて引き返していくだろうからだ。申し訳程度にゆっくり遠のいてはいくが。
「ここに死神とやらが居る筈なんだけど―――」
きょろきょろと忙しく視線を巡らせながら、レミリアは此岸を歩く。
風も吹かず、何も物を言わず、河原の石を踏み行く彼女の足音だけが響き渡る。
時々複数の石が崩れ落ちる音がして、その方向を見れば子供の亡霊が積んだ石を鬼が面倒そうに蹴り崩した所だった。既知である宴会好きで酒好きで無駄に元気で幼稚な鬼と違い、なんともくたびれて老いさらばえた地獄の鬼である。
成る程、こんな所で仕事をしていれば、いくら鬼でも陰気臭くもなろう。それに子供の傍から離れようとしない辺り、ひょっとしてマンツーマンなんだろうか。だとすれば、どちらにとっても面倒この上ない。
そうして中有の道の喧騒が聞こえなくなった頃、
「……川縁を行った方が良いかな、これは」
三途に近い者程、より死んでいる事になるのだし。
足の向きを変える前に一度ぐるりと周囲を見回して、亡霊や地獄の鬼だけで死神が見当たらない事を確認し、レミリアは爪先を川へ向けた。
一歩川へ足を進める毎に、物理的に死へと近づいていく。此岸から川を渡り彼岸に辿り着く事が完全な死と同義である以上、歩くという行為に言い表せない奇妙な感覚が付きまとうのは仕方の無い事か。
生きているという確信がある為に、死へと向かうこの行為には自ずと嫌悪感が生まれるのだろう。
逆に考えれば、自分は死ねるという事だ。
「ははっ」
レミリアは死後の花への興味が一層湧いた。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
古木と古木とが軋み合う重い音を立てて、船は水面を進んでいく。
櫂は船頭の手に導かれ確かに水を掻いているのに、水音は一切無い。
本来ならそれは不審に思う所だが、ここは何せ三途の川。水音がする方がおかしい。
川中へ少し出た所で、小町は一度彼岸を振り返る。
さっき彼女が送り届けたのは、見所のある悪党だった。人は殺すわ物は盗むわ約束は守らないわという有様だったが、面白い事に嘘を吐いた事は一度も無いという。
まぁ嘘を吐かないというのは嘘吐きの常套だし、あの鏡にかかっては全てお見通しだから今頃どうなっているやらだが。
「ま、いっか」
過ぎた事だし、そもそももう管轄外だ。
彼岸から此岸へと視線を戻し、櫂を握り直した小町は船を進めながら歌う。
「通ーりゃんせー通りゃんせ~
こーこはどーこの川道じゃー?
閻魔ー様への川道じゃー
ちーっと乗ーせて下しゃんせー
物見遊山は乗しゃあせぬー
既に私は死んだのでー
裁きを受ーけに参りますー
行きは長々、帰りはすぐそこ
現世を抱いて
とーおーりゃんせー通りゃんせ~」
一通り歌えばそこはもう此岸である。
距離を弄れる以上、行きの渡し賃に応じた距離を一々戻る必要は何処にも無いのだ。
此岸の桟橋に船を横付けし、櫂から桟橋に置いておいた鎌に持ち替えて小町は此岸に入る。此岸に居るような亡霊は今更何も執着していないので、物が盗られる心配は無い。
桟橋を行く途中、その一歩一歩にいちいち木の軋む音が返されたが、それは船同様老朽化のせいだからと小町は誰も何も言わないのに自分の中で釈明した。
「……お?」
軋む桟橋から川原に付いた小町は、次に運ぶ亡霊を探すよりもまず、意外気な声を出す。
彼女の視線の先には、岩に腰を下ろす紅い悪魔の姿があったからだ。誰あろう、結構前に幻想郷で一騒ぎやらかした連中の首魁である。
「やっと来たか」
小町の登場に気付いたレミリアは、ぼんやりしていた焦点を大柄な彼女に合わせると、やれやれと溜息混じりに立ち上がった。確認もなく彼女が小町を死神と断じたのは、こんな所で大鎌を持っているのは死神以外に居ないからである。
「何だ何だこんな所に。此岸は吸血鬼の来る所じゃないし、そもそも用も無いだろう」
ずい、と近づいてレミリアを見下ろす小町。
「……生憎、用があって来たわ」
見下ろされる事に不機嫌になりつつ、小町を見上げるレミリア。
「ん? すると観光? だったら予め予約入れてもらわないと困るんだけど」
「予約?」
思わずレミリアは怪訝な顔をした。
「そう、予約すれば今なら十王様にちなんだ十大特典がつくし、案内専属の死神が一人付くし。でも予約なしだと扱いはぞんざいだよ? なんせ貧乏暇無しだからね」
「見る所なんてあるの?」
「例えば地獄巡り」
「……地獄?」
地獄への観光などというものが成立するのだろうか。
「勿論片道切符のみとなっております」
しかも帰ってこれないときた。
「本当にやっているの?」
レミリアの疑問ももっともだろう。だが小町は素であり、特にからかおうとかいう意思は感じられなかった。世の中物好きが居るということだろうか。
「まぁ、運賃さえ払ってくれれば案内するよ。生きてる内は誰も払えないだろうけど」
「あぁそうそう、それよ。用は」
「どれ」
くきっ、と小町が首を傾げた。
「生きてる内、って所。私は今生きているだろう?」
「そりゃまぁ、死んでないんなら生きてるんだろうさ」
「で、死ぬと花になると」
「……あ?」
くきっ、と小町は先程までとは逆方向に首を傾げた。
「人間は死んだら花になる」
そして、レミリアの言葉を受けて小町の首が戻る。その際何の音もしなかった事にレミリアは少し不満を覚えた、
「あぁ、まぁ放っとけば花になるっちゃなるけど」
「なら―――私は、どんな花になると思う?」
僅かなドキドキを感じさせるレミリアの問い掛け。それでも夜の王としての威厳はそのままなのだから恐れ入る。
「さぁ」
「さぁ、って」
期待に反する等閑な応えに、思わずレミリアは拍子抜けする。
「だって知らないし。でも、十王様なら何か気の利いた事を言ってくれそうではある」
「じゃあその十王の所へ連れてって」
即答。
これに小町は数回瞬く間、口をぽかんと開けたまま閉じる事を忘れていた。
「連れてってって……途中で死ぬよ? というかお前さん、運賃払えるのかい」
「残念ながら持ち合わせは無いわね」
「なら無理だ」
「ふーん。それで、吸血鬼は死んだらどんな花になるのかしら」
「死神の話を聞いてなかったのか」
「さっきは私限定だろうに」
呆れる小町にレミリアはムッとする。
「いや、関係無く」
「知らないの?」
「そう言った」
「死神の癖に」
何故か偉そうに腕を組む小町に、レミリアはあからさまな侮蔑を向けた。
「さらっと言うなぁ。大体ここら辺は人間の亡霊しか居ないだろ?」
気分を害しながらも、小町は辺りを見るよう軽く周囲を差す。
「居ないわね」
だが既に充分見てきたレミリアは、小町の動作を全く無視して返事をした。
小町の表情がやや固くなる。
「つまりそういう事なんだよ」
「じゃあ吸血鬼の亡霊はどこへ逝くのか知らない?」
「知らない」
余りにも即答だった。
問いに対する即答とはつまり、考えるまでも無いという事か、考えたくも無いという事である。どちらにせよ、それが知らないではこの場合迂遠でしかない。
「横の繋がりが希薄なのね」
「いや、そうでなく」
溜息を零したレミリアに、小町は手を振って否定した。
「ん?」
「何か勘違いしてるようだけど、あたいが所属してる是非曲直庁に横なんてないよ」
「……は?」
「つまり、是非曲直庁以外に亡霊をどうこうする組織は無いって事さ」
「じゃあ他の亡霊はどうするの?」
「知らない」
「本当に死神なの?」
今度はあからさまな疑念が小町に向けられた。
これには小町もカチンと来る。
「失敬な奴だな。死神だからこそ知らないんだよ。大体、人間以外の輩が死んだ所で亡霊なんかになるもんか」
「亡霊にならないの?」
レミリアは驚いた。てっきり、人が死んだらどうこうなるのだから、他の種族も死んだらどうこうなると思っていたのだが。よもやそれが根本から覆されるとは思いもしなかった。先程の小町の答えは迂遠どころではなかったのだ。
対し、レミリアの態度を見て小町はようやく合点がいく。本当に知らないのであれば、こちらの態度は不適切そのものだったろう。もっとも、お互いの認識に差があるとは思いもしなかったが。
だって相手は悪魔だし、知ってるものだと思いたくなる。
ともあれ知らないなら知らないで、言って聞かせてさっさと帰ってもらえば良いだろう。
小町にとっていつの間にか話し込んでいる現状は、この前叱られたばかりなので中々体裁が悪い。
「そりゃそうさ。例えば妖精は死んでもいつの間にか同じ生息域に現れるし、妖怪は死んだらそこでお終いだし。輪廻だの地獄だの極楽だのと、死んでからも面倒なのは人間だけよ」
「へぇ」
素直に感心するレミリア。これには小町も可愛いと思った。
「ちなみに吸血鬼も死んだらそこでお終い」
「あら、呆気ないのね」
「ま、元々人間以外の者は大抵自然がご先祖だからね、自然に還るのさ。後はせいぜい、生前の強い気質が幽霊という形を取るくらいなもんだけど、それはもう気質の現れであって元々とは何の関わりもない存在だし」
「ふぅん。……じゃあ、花にはならない?」
「なりようがない」
「……ふぅん」
「納得したかい? ところであたいは仕事中だから、あまり立ち話もしてられないんだけど」
頷くレミリアに対する、小町の強引な話題切り替えによるさっさと帰れよ発言。
「そういえば獣人はどうなるの?」
しかしレミリアはそれを全く無視した。
「あ?」
「獣人。あぁそれと魔法使いも」
思わず小町の口からちょいと待てよとばかりに声が出てしまったが、レミリアはやはり無視している。
「あ~、扱いは人間と一緒さ。先天だろうと後天だろうと、大元は人間なんだから。ああ、完全に獣寄りになってたら此処へは来ないけど。魔法使いも種族化するまで行ったら此処へは来ないね」
「へぇ」
「……もういいか? いやもう本当、仕事サボると後が怖いんで」
理由を言い、小町は頼むからと言わんばかりにレミリアに帰宅を促す。
元々彼女が突然やって来たのだから、多少はこちらの意見を汲んで当然だろう。普通は。
「あぁ、閻魔が?」
だがレミリアは悪魔なのである。
悪魔とは悪い魔であって、そういうのに善意を期待するのは大間違いなのであって。
「そうそう。それに、お前さんだって自分の所の部下がサボってたら叱るだろ?」
「そうね。灸を据えたくなるわ」
「あたいは灸を据えられたくない」
「成る程」
「だから、もういいか?」
納得した風なレミリアに、小町は内心胸を撫で下ろすが―――
「ここに来る途中、死霊金魚掬いっていうのがあった気がするんだけど」
再び、小町の意思は全く無視された。
流石悪魔、相手が死神だろうと歯牙にも掛けない。
「あぁもう」
これはもう相手の気が済むまで取り合うべきか、と小町は出来る限り仕方なく諦めた。
「あれは―――まぁ夢の無い話だけど、幽霊の加工品さ。他のその手のは全部幽霊の加工品だから、まぁ、変な色を塗られたヒヨコと同じ」
「あらそうなの。でもそれって詐欺じゃない?」
「金魚なら、幽霊の加工品の名前が死霊金魚だから問題無い。他のも同じ理屈で問題は無い」
小町は言い切った。実際、是非曲直庁の対応マニュアルにもそうせよと書いてある。
「無いの?」
「無いの」
「そう」
「うん」
後は、言い切ったまま押し切れば良いのだ。是非曲直庁の対応マニュアルにもそうせよと書いてある。
「……じゃあ、もういいわ。用は済んだのだし」
これにレミリアは根負けしたような吐息と共に瞼を伏せた。
「そりゃあ良かった」
小町はほっと胸を撫で下ろすが、
「あ、でも最後に」
「まーだあるのか」
見事なフェイントに思わず突っ込んだ。
「最後よ。で、その鎌。伊達よね?」
レミリアが指差す先にあるのは、小町が肩に担ぐ大きな鎌。しかし伊達と言われても仕方ないほど、その刃は歪んでいた。
「ん? ああ、伊達さ。こんなもんでまともに斬れる訳が無い」
「堤防の穴に腕を入れる子供の像と同じかしら」
「あー……そうだな」
どちらも他所の情報に合わせた結果であるから、レミリアの言に小町は納得する。事の真偽よりも相手を喜ばせる事を優先した結果なのだし。
「成る程ね」
「でだね?」
「ああ、分かってるわよ」
促しに頷いて、レミリアは礼も言わずに黙って頭を下げた。
この優雅なお辞儀はお礼代わりか、それとも別れの挨拶代わりか。
さてどちらだろう、と小町が判断するより早く、レミリアはさっさと頭を上げて踵を返していた。物凄い勢いで相手の事などお構い無しである。
「あいよ、じゃあね」
溜息と苦笑混じりに、小町は悪魔の背に軽く手を振った。
何のリアクションも返さない相手に軽く首を振り、それから彼女は仕事に戻る。
「さーて、次に運ぶのはーっと」
本来なら桟橋の周りに亡霊が漂っているのだが、軽く見回しても見当たらない。まさか亡霊が居ない訳も無し、とすると先程までレミリアが居たせいで触らぬ神に何とやらが発生したのだろう。
「やれやれ、困ったもんだ」
しかしサボりの口実としては充分だろうとして、小町はあまりよろしくない笑みを浮かべた。
川原の石を踏みつつ、ああそういえばとお互い名乗りもしなかった事を思い出す。でも問題は無かったろう。
こちらは相手が何者かは分かっているし、相手は死神に用があったのだし。
それに、名乗った所で応じやしないし聞きもしなかったろう。
「やーれやれ」
もう一度言い、小町は苦笑した。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
帰りの道すがら、死神に話を聞くまでに随分時間を食ってしまったのか、東の空から忌々しい太陽が昇ろうとしていた。
「ああ全く、厄介ね」
もっともこれを予想しての日傘である。動作に制限が掛かって鬱陶しいが、仕方ない所だろう。
ぽん、と小気味良い音を立ててピンクのフリルが施された真っ白な日傘が開く。
「でも―――」
日傘を肩に乗せ、くるくると回しながらレミリアは笑う。
「思いもしない答えっていうのは、面白いわ」
死んで面倒なのは人間だけ、という死神の言葉を思い出す。
人間の要素を持たない者は誰も彼も死んだらそこでお終いという。
まるで花火のようだ、と思う。
花火は夜空に咲いたらそれでお終いなのだから、そう考えてみるとどこか愉快でもあった。
だが―――それでは物と同じなのではないだろうか。
直せない程に壊れた物は、誰からも省みられず、もはや捨てられる他に道は無い。人ではない者の死はそれと同じ事だろう。
いざ自分がそういう目に遭うと考えれば、忌避するのは当然だ。幸いなのは、死んだらそれを自覚する要素が何も残らないという事。
人ではない者の死とは無。己という存在の完全な終焉である。
「…………」
その思考に至った途端、彼女の表情から笑みが消える。
自分がただの物である事を確信してしまったような後悔が生まれかけていた。
しかし、その前に川縁へ向かう際に感じた嫌悪を思い出す。
そして呟いた。
「つまり、私は死を怖れてはいる訳だ」
だが物は死を怖れない。
怖れるだけの知性を持たないし、意思も思考も持たないからだ。
そう、思考。
思考が出来るという事は、大事な事だ。葦ですら思考できれば人間と同等になれるのだから。
ならば。
「……故に、私は、生きている、と」
再び、ゆっくりと呟く。己に言い聞かせるように、己を確認するように。
そうした後、死後の花に興味を持つまで己の死の事など考えた事もなかったレミリアは、東の空に背を向けた。
なんとなく、太陽の光がいつもより嫌だったからだ。
まあ、いいや。東方にしちゃ少し物寂しいきがしました