穂積名堂 Web Novel

幻世「ザ・ワールド」

2012/02/29 00:46:36
最終更新
サイズ
25.65KB
ページ数
1
閲覧数
3502
評価数
0
POINT
0
Rate
5.00

分類タグ

幻世「ザ・ワールド」

河瀬 圭
    1:




 オレンジの光は周りの大気から集まるような軌道を描いて収縮し、手の平の中心に集まっていく。
 もう少し、もう少しこの光を集めなければならない。これでは物質が燃焼するのには足りない。
「くっ……」
 無理な圧力を加えられて苦しそうに悶える光。
「魔力が乱れている。気をつけなさい」
 傍らから叱責の声が飛ぶ。
「無駄な化学式や原理はこの際どうでもいいわ。強くイメージしなさい。貴女にとって銀のナイフがそうであるように」
「!」
 銀のナイフ、という単語が出た瞬間に光は薄れ、消えていってしまう。
 光が完全に消えた手には、手に馴染んだいつものナイフ。彼女の得意技でもある。短いながらも銀の刀身を持ち、特にこれといった装飾も無い武骨なナイフはすぐにその存在を希薄にし、虚空へと消えてしまった。
「また失敗ね。……本当に不思議だわ。上級である瞬間生成は出来る癖に、それ以外はからっきし。面白い研究材料にはなるけど、あまり虐めたらレミィがうるさいから今日はここまでよ」
 白い手を重ね、ボソボソとやたら早口で喋るのは紫の衣装に身を包んだ七曜の魔女、パチュリー・ノーレッジである。
「………………」
 自らの手を握ったり開いたりしている銀髪の少女を興味深げに見据える視線の奥は、たった今起こった現象に対する分析を始めていた。
 一方、銀髪の少女はまだ幼ささえ窺える容貌だが、その蒼い瞳に感情は窺い知れない。
「ジャ……咲夜。そろそろレミィが起きるわ、行っておあげなさい」
 咲夜と呼ばれた少女は顔を上げ、
「…………また来ます」
 そう言ってぺこりと頭を下げると大きな扉を開いて出て行ってしまった。
 紅魔館の地下室。膨大な書物の山の一つに腰をおろしたパチュリーはボソリと呟く。
「…………不器用」
 適当に本を掴み上げると、ページをめくる。やらなければならない事は多くはない。ただその達成が難しいだけだ。
 一つはこの図書館にある全ての本を読破する事。
 一つは不器用な親友の手助け。
 一つは――あの不器用な少女の願いを叶える事。
 たった三つのいずれ劣らぬ難題を前に、パチュリーは溜息を吐いた。




 マッチを擦る。
 力を入れすぎたせいか、火は灯る事無く中程から折れてしまう。
 溜息を吐き、もう一本取り出し、今度は慎重に擦る。
 今度は力が足りず、箱の側面に傷を付けただけで終わってしまった。
「…………」
 擦りつける面を変えて、再度擦ると、また折れてしまう。
 ふぅ、と溜息を零したのは、先程まで図書館にいた銀髪の少女、咲夜である。
 身体に不釣合いな大きなメイド服を、リボンや紐で何とか身体に捲きつけただけの恰好は、まるで女中の見習いか真似事をしている子供にしか見えない。
 もう三本ほどマッチを無駄に折ると、傍らから火打石を取り出し、カチカチと打ち合わせる。
 だがマッチに比べて効率の悪い火打石では時間がかかり、やっと竈に火が灯ったのはそれから20分も経った後だった。
 丁寧に洗われたヤカンに水を汲み、火にかける。
 ヤカンの沸騰を待つ間に紅茶の葉が入った缶を取り出し、ティーカップを二つか三つか迷いながら、多い分には問題無いだろうと結論付けて三つ用意するとワゴンに乗せていく。
 カップと揃いのポットを取り出し、同じくワゴンに乗せ、クリーマーのクリームを確認すると、同じくワゴンへ。
 シュガーポットも中身の砂糖が固まっていないか確認しで載せていく。準備が終わってもまだお湯は沸いていない。
 咲夜はじっと竈の火を見つめているこの時間が何となく好きだった。
 火を見ながら考える。
 紅魔館で働くようになってどのくらい経っただろうか。
 目まぐるしく過ぎて行く毎日を思い返してみると、まだたったの三ヶ月しか経っていない事に気がついた。
 我ながら数奇な運命を辿っていると思う。
 スカートのポケットの中に仕舞われた懐中時計に手をやり、握り締める。
 これからどうなるかなんて解らない。解らないけれど、この館に居る限りは衣食住に困らなくて済む今の環境には替え難い。
 まだ、十六夜咲夜という名前に違和感はあるけれど。
 元々名前に執着があったわけでもないし、別にどうでもいい。
 パチ、と薪の爆ぜる音に現実へと引き戻される。
「…………はぁ」
 咲夜は周囲に誰も居ない事を確認しながら溜息を吐く。
 図書館での出来事を思い出す。確かに火を着ける魔法を教えてくれと言ったのは咲夜だったのだが、魔法がこれほど難しいとは思わなかった。
「ナイフなら出るんだけどなぁ……」
 まさかマッチが苦手だから魔法を覚えたい、なんて正直に言えるはずもなく、ただ便利そうだから、とパチュリーに言ったらいきなり座って勉強させられた。それも徹底的に。
 字の読み書きから叩き込まれ、ようやく魔法の実技に移ったのが先月。一向に火は着く気配は無い。
「魔法……向いてないのかしら」
 気がつけばヤカンからシュンシュンと白い蒸気が噴出している。ポケットの懐中時計を見ると時間も頃合だ。
 今日もあのお嬢様に紅茶を淹れなくては。
 ヤカンを竈から退け、土をかけて火を消すと、咲夜は姿を消した。




    2:




 紅魔館は吸血鬼の住まう館だ。
 主の名はレミリア・スカーレット。外見こそ幼い少女だが、その力は齢数千の大木を片手で持ち上げ、瞬きの間に山を越える。
 魔法にしてもその力は甚大で、一言で悪魔の軍団を喚びだし、自らの体を蝙蝠や霧に変えることすら可能であった。
 それでいて、普段の態度は見た目相応の子供であり、時折り言い出す我侭に周囲を振り回す事も多々ある。
 一言で言えば、気難しい。
 例えばいつもの時間に紅茶が飲めなかったり、何でもない所で躓いたりすればそれだけで彼女の機嫌は途端に悪くなり、我侭を言い出すのだ。
 やれ豪勢な食事がしたい、あれが欲しいこれが欲しいなど、子供の欲求は尽きる事を知らない。
 とはいえ、咲夜はこの館で従者として働く身である。そういったレミリアの我侭に付き合わされる立場なのだからしょうがない。
――今日は大人しくしててくれると助かるんだけどな。
 そんな事を思いながらテラスに通じるドアをノックする。
「咲夜です。お紅茶をお持ちしました」
「入りなさい」
 事務的に交わされる会話。未だに咲夜という名前を名乗るのに違和感を感じるが、そんな事は臆面にも出さない。
「失礼致します」
 ドアを開ける。
 夜空には満天の星が瞬き、半分だけ欠けた月が昇っているのを見て夜だったっけ、などと思う。
 紅魔館には窓が少なく、今が昼なのか夜なのかすら曖昧になる時があるのが困り物である。
 夜空に張り出すようなテラスにはテーブルセットが置いてあり、そこにはパチュリーともう一人、幼い少女がいる。
 どこか子供めいたピンクの上下に同じ色の帽子。ただそこらへんの子供と違うのは背中に生えた大きな蝙蝠の羽。そして口の端から覗く鋭い犬歯。彼女が人ではないと主張するそれは吸血鬼としての象徴。
「咲夜」
 レミリアはどこか嬉しそうに咲夜を呼ぶ。
「……なんでしょう」
 ややあってから咲夜が返事をする。
「やっぱりまだ咲夜という名前に慣れてないのかしら。そろそろ慣れなさい?」
「はぁ」
 さくや、という発音を楽しそうに口にする。
 レミリアは自らが名付けたこの名前をいたく気に入っているようだ。
「咲夜、喉が渇いたわ」
「今お淹れ致します」
 無表情で紅茶の用意を始める咲夜を見て、レミリアは頬を膨らませた。
「咲夜」
「はい、なんでしょう……できましたわ」
 暖かな湯気を放つティーカップをパチュリーとレミリアの前に置きながら咲夜は返事をする。
「もうちょっとこう……何とかならないの?」
 不機嫌そうに言うレミリアを見て、咲夜は己の行動を鑑みてみる。何処にもおかしな、主の機嫌を損ねるような事をした記憶はないのだが……
「貴女のその態度よ。なんというか、こう、もうちょっと柔らかくならないの?」
「…………魂まで売った憶えはないわ」
「あら、それは残念ね」
 ちっとも残念そうに聞こえない声音とそう見えない表情でレミリアは澄まして言う。そしてそのまま紅茶を口に含むと、それまで会話に興味を示さずに本を読んでいたパチュリーに話を振る。
「ねぇパチュリー。咲夜の魔法はどれぐらい進んだのかしら?」
「…………そうね、間違いなく言える事が一つあるわ。この子、結構不器用。上級である瞬間生成は簡単にこなすくせに、他はまるでからっきしだわ。まぁ精霊に頼らない魔法は私の専門外だから、私も実感として教えられる事は少ないのが響いてるかもしれないけど」
 この魔女は大抵の時においてボソボソと早口で喋る。魔法使いというのは喋りながら自分の考えをまとめ、その中に没頭していく性質なので、自然と他者に聞かせるような喋り方からかけ離れてしまうのだ。
 一方、はっきりと不器用だと言われた咲夜はというと、当然面白い気がするわけでもなく。
「…………道具に本来の役目以外をさせるのは難しいわ。ナイフは切ることしかできないのだもの」
 表情こそ仮面のように動かないものの、明らかに不満そうな声音でそう述べた。
「そんな事はないわ。貴女のその身体には明らかに人外と言うべき魔力が篭もっている。今はそれを時間の操作へと割り振っているだけで、元々魔力なんて言うものは方向性を持たない無作為なものよ。行使者はあくまでも方向性を持たせるだけだもの。ようは貴女次第で、私は貴女に方向性を指示するだけなんだけれどね。だから……」
「あーパチェ、解かったよ。解かったから。ようは咲夜次第って事でしょ」
 パチュリーの延々と続く喋りをさえぎってレミリアは結論付ける。
「まぁ、簡単に言えばそうなるわ」
 やや不満げながらもパチュリーは大人しく肯定し、紅茶に口をつけた。
「ねぇパチェ……それ、私にやらせてみせない?」
 パチュリーはカップから口を離さずに視線だけをつい、と移動させて、無言で続きをうながす。
「魔力の純粋な変換、という意味では精霊を通さない私のほうが慣れてるしね。どうかしら?」
 じっと目を覗き込まれ、パチュリーの探るような視線を正面から受け止め、耐える。
 パチュリーはしばらく無言でいたが、やがて溜息を吐き、
「なるほど。それも……いえ、それがいいかしらね。二重の意味で」
 と言った。
「さすがパチェ。解かってるじゃないか」
「何年貴女の友人やってると思ってるのよ」
「5年ぐらいかしら? 数えてないけど」
「20年はやってるわよ。数えてないけど」
「どっちもどっちだわ」
「ええ、どっちもどっちね」
 そう言って朗らかに笑い合う二人の人外を眺めながら咲夜は、
――また面倒な事にならなければいいけどなぁ。
 などと溜息を吐くのであった。




 それから数時間後、なんとか担当である掃除を終えた咲夜はレミリアの自室に呼ばれていた。
 コンコン、とノックを2回。
「咲夜です」
「入りなさい」
 入室をうながされ、軽い音を立てる割には大きなドアを開く。
「来ましたが……何をすればいいんでしょう?」
 開口一番にぶしつけな質問を飛ばす。咲夜なりの反抗心の現れ、とも言えるような言葉だった。
「まぁ落ち着きなさいな。とりあえずお茶でも飲みましょう?」
 豪奢なテーブルセットに腰掛けたレミリアは、そんな咲夜を落ち着けるかのようにティーカップを差し出す。
「魔法の修行に紅茶は必要じゃない気がする……」
 咲夜の口調がやや砕ける。しかしそれは慇懃無礼さを前面に押し出したように、敵意すら含んだ声であった。
「そう構えないの。貴女は私のメイドなんだからもう少し主人を敬いなさいよ」
「なにぶん育ちが悪い物で、申し訳ありません。それと、心まで売った憶えはないわ」
「まぁいいわ、座りなさい」
 レミリアに進められるまま対面に腰をおろす。
「……今日は何をするのかしら?」
 レミリアに誘われるままにティーカップを差し出す。湯気を立たせながら紅茶を注がれ、しかし手をつけない。
「どうしたの? 飲んでいいのよ、毒なんて入れてないし」
 レミリアの言葉に咲夜は盛大な溜息を吐いて答える。
「……吸血鬼に毒が効くとでも?」
「効かないわねぇ」
 咲夜の言葉を柳に風とばかりに受け流す。
「じゃあ解らないじゃない」
 咲夜は視線の光を強めてレミリアを、目の前の人間の敵、吸血鬼を睨む。
「どうせ眠らせて私の血でも吸いたいんでしょうけど、そうはいかないわよ」
 ザックリとレミリアに切り込んでみせる咲夜。一方のレミリアは咲夜をじっと見つめていた。
「…………何よ」
「………………………………猫舌」
「なっ!」
 ポツリと呟いたレミリアの言葉にうろたえる。
「ちっ、違うわよ! そんなわけないじゃない……」
「あら、違ったかしら? だって私が私のメイドにいちいち断りを入れて血を吸うのも変な話だし。前だってそうだったでしょ?」
 ニヤニヤと笑いながらレミリアが咲夜の首筋に視線を移動させる。今は治っているが、初めての吸血した場所を見つめてやると、咲夜ははっと首筋を隠すように手で覆う。
「と、とにかく! 魔法を教えてくれるんでしょ! さっさとしなさいよ!」
 吸血の際の情事を思い出したのか、咲夜は若干顔を赤らめさせながら話を進めようとする。
「そろそろ飲めるんじゃない?」
「魔法はどこに行ったのよ……」
 あくまでもマイペースなレミリアにほとほと疲れ果て、咲夜は紅茶に手を伸ばす。
「…………まだ熱いじゃない」
 一口だけ含んでボヤいた。
「え?」
 その言葉にレミリアは一瞬だけ目を丸くすると、お腹を抱えて笑い出した。
「アハハハハハハハハ!! いいわ! 貴女最っ高! 人間ってだから面白いわ!」
「……………………帰るわ」
 レミリアの態度にムスっとした表情で不機嫌そうに言い捨てると、咲夜は席を立った。
「まぁまぁ待ちなさい。これも貴女のためなの」
 いまだに笑いが止まらない表情ながら咲夜を引き止める。身長こそ殆ど変わらないものの、かもし出す雰囲気は明らかにレミリアの方が年下のはず。だがこういう時は妙に年上らしくなる。その言葉になんとなく逆らえなくて、咲夜は渋々と腰をおろした。
「いいかしら、こういうのは精神的に落ち着いてないとできる物もできないの。だからまずは肩の力を抜いて、それからやるのよ。コツさえ掴んでしまえば呼吸するようにできるから」
 そう言ってレミリアは自らの手の中に紅い光を生み出すと、それをナイフの形に変えて見せた。
「私はイライラしてきたわ」
 仏頂面でむくれる咲夜にレミリアはまぁまぁと声を掛け、席を離れるとトコトコと咲夜の後ろに回りこむ。
「ナイフは作れるかしら?」
「簡単よ」
 そう答えた咲夜の右手には既に銀光を閃かせるナイフが握られていた。
「さすがね。じゃあまずは一旦消して頂戴。それから、今度はゆっくりとナイフを作るの。過程を一つずつ確認するように。ゆっくりね」
 その言葉に咲夜は目を閉じ、深呼吸をする。いつもは脳裏に描くだけで現れるナイフ。なぜ銀色なのか、柄が青いのは何故か。思い出せるようでいて、思い出せない。
 いや、思い出したくないのか。
「…………」
「ゆっくりね、ゆっくりと作るの」
 傍らからレミリアの少女らしい高い、だがどこか低さを感じる声が聞こえる。低く感じるのは彼女の声音が優しいからか。
 ナイフは気がついたら手にしていたのかもしれない。記憶に蓋をした今では思い出したくない。
「いい、記憶を呼び覚ますのは今はいいわ。貴女の中のナイフをイメージするだけでいいの。材質、形状、重さ、それらを強くイメージするだけでいいの」
 レミリアの言葉にイメージの方向を変えてやる。
 蒼い光――そう、蒼い光が起点。そこから生まれる。
「そう、その調子。今貴女の手の平では蒼い光が生まれたわ」
 ささやく声は冷たい。イメージだけが研ぎ澄まされて行くような印象を受ける。
 長さは――全体は手首から肘ぐらいの長さ。刃は手の平より少し長い。
 重さは――あくまでも威力を殺さない為にやや重みを感じるぐらい。そう、フォークより少し重いかな。
 形状は――手に馴染み、それでいて柄は太すぎず、投げやすいようにやや扁平な形。
 咲夜の手の平に生まれた蒼い光は徐々に大きくなり、ナイフの形を取り出す。
「止めなさい」
 ゾクリとする。背筋に氷柱を突き込まれたような冷たさを憶え、咲夜の身体が強張る。
 その一瞬でイメージは吹き飛んでしまった。
「あ…………」
 咲夜が目を開くと、手の平に生まれた光はその力を失い、虚空に溶けていってしまう。
「ン……まぁ始めはこんな所かしらね。まずは半透明のナイフが作れるように練習しましょう。そしてその上からイメージを乗せ変える。これが基本にして全て。魔法なんていうのは素養さえあれば案外簡単なのよ」
 咲夜の肩に手を置き、レミリアが諭す。
「はい」
 その言葉に優しさのような物を感じ、素直に頷いてから、しまったと内心で舌を打つ。
「そう、素直ね。いい子だわ」
 咲夜を見つめるレミリアの目は吸血鬼に相応しくない暖かさに彩られていて、それ以上何かを言うのは躊躇われた。
「さ、もう一度よ」
 その声に誘われるまま、咲夜は再び目を閉じた。




    3:




 結論から言うと、レミリアが教える。というのは功を奏した。
 僅か一週間ほどで半透明のナイフは咲夜の意のままに現れるようになったのだ。
 このことに関してパチュリーはといえば「興味無いわ。成功は見えていたもの」とだけ言うと、再び読書に戻った。
 あとはレミリアの言った通りにイメージ――この場合は炎――を被せるだけなのだが、どうにもそれは上手くいかない。
 さらに一週間が経過したが、一向に炎は生まれる事は無く、咲夜は浮かない顔をしていた。
 そんなある日のこと。
「今日はいつもと気分を変えましょう」
 咲夜の淹れた紅茶を飲みながらレミリアはそう口を開いた。
「……というと?」
 レミリアの対面に腰を下ろした咲夜が問い掛ける。
 咲夜の掃除が終わり、魔法の授業が始まる前にすっかり恒例となったティータイムでの事だった。
「このまま続けてもできるとは思うんだけどね。それじゃ咲夜が不便でしょ?」
 茶目っ気たっぷりにレミリアが言う。
「…………何が?」
 あくまでも平静とした表情で咲夜が問い返す。まだ彼女がマッチが不得意だという話は誰にも知られていないはずである。
「あら、不便だから教わりたいって言ったのは貴女じゃなかったかしら?」
「あぁ、そうね」
 レミリアの言葉に曖昧に頷いておく。不便だから。という事にしておけばとりあえず問題はあるまい。
「まぁ、私としては火打石で火をつけようとしてる貴女も可愛くて好きなんだけどね」
「~~~~!!」
 今度こそ心臓が口から飛び出るかと思った。
 飲みかけていた紅茶を噴き出さずに済んだのは奇跡としか言いようが無い。
「げほっげほっ」
 それでも変な飲み方をしたらしく、むせてしまう事だけは回避できなかった。
「あら、知らないとでも思ったの?」
「誰にも見られてないと思っていたわ……」
 悔しげな表情でレミリアを睨む咲夜。
「安心なさいな。誰にも喋ったりなんかしてないから」
 咲夜はこのレミリアのニヤニヤとした笑いが未だに気に食わない。まるで私はなんでも知っていると言わんばかりの表情に見えるのだ。
「…………本当に?」
 おずおずと、しかしそれでいてねめつけるような視線で咲夜が問う。
「えぇ、本当に。見たのだって最近だしね」
 胸を張って言うレミリアをとりあえず信用する事にして、肝心の本題に入る。
「で? 気分を変えるってどういう事かしら?」
「えぇ、場所を変えるわ。ついて来なさい」
 そう言うとレミリアは椅子から降り、トコトコと外へ出て行く。
 咲夜はとりあえず今まで使っていたティーセットを手に持つと、レミリアの後を追って部屋を出た。
「あら、それぐらい他のメイドにやらせればいいのに」
 廊下で咲夜を待っていたレミリアは開口一番にそう言った。
「他のメイドにそこまでの気遣いが期待できればそうするんですけどね……」
 そう言うと咲夜の手の平からあっという間にティーセットを消して見せた。
「それではまいりましょう」
 時間を止めて片付けた咲夜を見て、レミリアは改めて感心したように言う。
「相変わらず便利ねぇ」
「掃除をするのと、雇い主を待たせない程度ですよ」
「だから便利なんじゃない」
「…………そうですか」
「うん」
 レミリアに見つからないように溜息を吐き、前を歩き出した彼女の後をついて行く。
 紅魔館の内部は窓が少ない事もあって、非常に迷いやすい。咲夜はここに住み着いて三ヶ月半ほどになるが、未だに足を踏み入れた事すらない箇所もあるぐらいなのだ。
 いくつか階段を下り、おそらく地下だろうと思える場所に降り立つ。
 さらにいくつか廊下の角を曲がり、一つの大きな樫の扉の前に辿りついた。
「ここまでの道順は覚えてるかしら?」
 茶化したようにレミリアが聞いてくる。
「初めて来る場所のようですね、道順は覚えていますが?」
 丁寧な口調で答える咲夜。
「まぁそれならいいんだけどね」
 そう言って扉に手を掛け、引くレミリア。よく見ればその扉には外側から閂が掛かるようになっており、それは外から掛けられてしまえば、中からは出られないようになっている構造だった。
「さぁ、咲夜も入りなさい」
 部屋の中は無人らしく明りも灯っていないし、地下にあるためか、若干寒い。
 咲夜は暗闇に少しばかり躊躇する。
「どうしたの?」
「……いえ、別に」
 不思議そうに見つめるレミリアに軽く返事をすると、咲夜は足を踏み出した。
 入ってしまえば廊下から灯る明りがある間はある程度見渡せた。しかしその部屋には何も無く、ただの空き部屋のようである。がらんとした室内はいっそうの寒さを感じさせた。心なしか吐く息すら白い気がする。
「ここでどうしようって言うんですか?」
 咲夜の問いに答えるのは扉を閉める音と、暗闇。
「人間っていうのは夜目が利かないわ。そしてある程度以上日光に当らないと弱ってしまう。そして貴女はその人間の中でも特に――」
 カチカチと音が聞こえる。
「暗闇を、恐れる」
 レミリアは力ある言葉とともに咲夜へと視線を飛ばす。
「な、なんで私が暗闇を怖がらないといけないのよ」
 漆黒の暗闇の中、どこからともなく聞こえるレミリアの声に反論する。
 カチカチ。
「嘘はいけないわ。自分に対して嘘をついても意味がないもの」
 耳元で声が聞こえた。驚いて振り返ると、顎を掴まれる。
「ほら、理性は嘘はつけても」
 先程から聞こえるカチカチ、という音は咲夜の口から聞こえていた。その震えるおとがいをそっと撫でられ、
「身体に染み付いた恐怖は嘘をつけない」
 足に力が入らない。足を触れられて初めて咲夜は自分の足が震えている事を知った。
 そのまま地面に座り込んでしまう。
「ようやく解かったかしら? 貴女はこの狭い暗闇が怖いのよ」
「ぁ…………」
 そこには……普段の強気な姿からは想像も出来ないような、自らの身体を抱きしめ、目を見開いた咲夜がそこにいた。
 咲夜はその生い立ちから閉所と暗所が重なる状況に対して過剰な恐怖心を抱いている。
 幼少時に暗く狭い部屋に押し込められ、一晩中膝を抱えて過ごした夜の数は数え切れない。暗闇の向こうから舌打ちの声だけが響き、荒々しくドアを閉められる音に身体を震わせ、独り暗闇の中で過ごすのが日常となっていた彼女にとって、それは耐え難い恐怖と苦痛を植え付けていた。
 それ以来、咲夜は同じような状況におかれると、精神が錯乱してしまう。幼い頃に植え付けられた恐怖心はそれほどまでに彼女を苦しめ、追いつめてしまうのだ。
「さぁ、ここから出たければ条件を満たしなさい。ちなみに扉や壁は壊せないわよ。元はアイツの為の部屋だったもの」
 アイツとは誰を指すのか。そんな事すら考えられない。
 自分の手さえ見えないような暗闇が咲夜を吸い込もうとする。
 どこまでも続くようで、何処にも続かずにすぐに止まってしまう闇が心すらも黒く塗り潰そうと蠢く。
 得体の知れないものが意識を乗っ取ろうと囁く。
 咲夜は自分が既に立っているのか、それとも座っているのかさえも解らない。
――ここは、駄目だ。駄目だ。なんとかしないと。なんとかしないと私は駄目だ。嫌だ。怖い。怖い怖い怖い!
 得体の知れない恐怖と、吐き気がするような嫌悪感が咲夜の身体と精神を支配していく。
 ガチリ、と咲夜の脳内のタガが外れる。右手には懐中時計。左手にはナイフが握られていた。
「ぅぁ……あ、あぁ、ああああああああああああああああ!!!!」
 時間停止。その予兆すら見せずに部屋の空間は銀のナイフで埋め尽くされる。
「ほぅ」
 レミリアは感嘆の息を吐き出すと、自らに向かってきたナイフを全て叩き落した。殺意の向けられていない攻撃など彼女の前には無いも同然である。
 空間を埋め尽くしたナイフが咲夜の意思を離れ、虚空に消えた瞬間にレミリアは咲夜の傍へと近づいていく。
 一切の光が入らない暗闇の中で咲夜の双眸だけが緋を噴いていた。
 咲夜の喉をレミリアの右手が掴む。
「落ち着きなさい。この暗闇でも貴女は独りでは無いわ。まずは私を認識しなさい」
 咲夜の目を覗き込み、互いの息が掛かるような距離でレミリアが咲夜に言葉を刻み付けていく。
「貴女は人にして人にあらず。悪魔にして悪魔にもあらず。夜を歩く者、不死者の王、夜の王たる私の傍に咲く者。満月を往き過ぎ、十六夜となりて夜に咲く者。それは狂気を乗り越えてなお人間として夜を歩く者にほかならないわ」
 咲夜の双眸から噴いた緋がその勢いを失っていく。かわりにその目尻には透明な液体が浮かび上がる。
「貴女の密室は貴女が克服しなさい。そのための魔法であり、そのための炎だわ。強くイメージしなさい。世界を照らすための炎は決して強くなくても構わない。ただ自らの、貴女の往く道を照らすものであれば構わない」
 紅い目に活力が戻る。もう少しだ、とレミリアは言葉を紡いでいく。
「ここから先は貴女次第。ここで壊れるも、自らの道を自らで照らすのも。もし貴女が生きるのならば、自分の理想ぐらい自分で描きなさい。そのための技術は教えたわ」
 のろのろと咲夜の両手が持ち上がる。
「作りかけのナイフを出しなさい」
 そのレミリアの言葉に、咲夜の手の平から半透明の蒼い柄をしたナイフが現れる。
「そう。そしたらイメージをするの。この暗闇――」
「い、ゃぁあああああああああああああ!」
 咲夜の双眸が再び緋を噴き、ナイフは確かな物となってレミリアの傍らを飛び抜ける。
 早い。
「っ!」
 人間を遥かに上回る身体能力を持つ吸血鬼でさえ反応できないスピードで壁にぶつかったナイフは、しかし壁に傷一つ残す事できずに跳ね返り、落下する直前にはその力を失って消えた。
「落ち着きなさい!」
 レミリアは咲夜の両手を握り込むとその動きを止める。
 それでもなお暴れようとする咲夜の力は子供の力とはとても思えないが、吸血鬼の力の前には赤子のようなもの。
 レミリアはそのまま幼い咲夜の身体を抱きしめ、背中に手を回す。
「落ち着いて……ね?」
 繰り返すレミリアの言葉に錯乱していた咲夜は次第に落ち着きを取り戻していく。
 暗くて、何も見えなくて、どこにも行けなくて。
 そんな世界でもレミリアの声が聞こえて、暖かくないはずなのに暖かくて。
 この世界のどこに行っても居場所の無かったのに、それがここにあって。
――誰かが、そばに居てくれる。 
 言いようのない安堵感に包まれて、咲夜の両目から涙が溢れ出した。
「落ち着いて。ゆっくりと呼吸して。まずはそこから始めましょう」
 レミリアの言葉は、まるで幼い我が子をあやすように優しさと暖かさに満ちていた。もしこの場に長い付き合いの友人がいたら目を見張るだろう。それだけ彼女は普段にない優しさを持って咲夜に語りかける。
「いい? 生きるの。生きることを考えて。今生きるのに必要なのは? そう、明り。炎。強くなくていいの。目の前あるちっぽけな物で構わないわ。それさえあれば貴女は――」
 咲夜の両手に半透明のナイフが浮かび上がる。それは飴細工のように形を変え――
「その光があれば、貴女は、私は、夜ですら歩いて行ける」
 溶けたナイフにオレンジの明りが灯る。
「ぁ…………」
 咲夜の頬を伝った光が、床に落ちて弾けた。
「そう、貴女の世界を照らす炎。貴女はナイフでありながら時計であり、今炎を持って自ら夜を歩けるようになった。時計は夜の月を刻み、貴女だけの物になったのよ」
 咲夜の紅い瞳には完全に光が戻り、自らの手の中に生まれた光を見つめ、壊れた堰のように涙を零れさせていた。
「おめでとう。十六夜咲夜」
 レミリアの祝福する声が聞こえる。
 レミリアの姿が見える。
 この暗闇の中で孤独に歩き、独りで生きる夜の王と共に歩ける。
「ありがとう……ございます」
 咲夜は心からの言葉と共に目の前の光を抱きしめた。





    4:





 月の光が紅魔館のテラスを浮かび上がらせる。
「ン……咲夜、紅茶の淹れ方上手くなったね」
 テラスに置かれたテーブルセット。その椅子を片方に腰掛けたレミリアはやはり楽しそうに「さくや」と口にする。
「えぇ。誰かさんのおかげで紅茶の淹れ方だけは厳しく言われたからね」
 今、テラスには二人しか居ない事もあってか、咲夜の口調はやや砕けたものになっている。
「結局、その口調だけは直らないのね?」
 楽しそうな笑顔のままレミリアが言う。
「魂まで売り渡した記憶はございませんわ」
 澄ました顔でレミリアを拒絶する咲夜。
「普段からもっと敬って貰いたいわ」
 香りだけで咲夜の紅茶を評したレミリアはティーカップに口を付ける。
「味も申し分ないね。仕事もしっかりしてるし、そろそろ貴女にメイド長でもやってもらおうかしら」
「丁重にお断りするわ。責任なんていらないもの」
「それは残念」
 レミリアの申し出を切って捨てる咲夜はしかし口元に微笑みを浮かべていた。
「そうね、もっと貴女が敬えるようになったら考えておくわ」
 その咲夜の微笑みは以前にくらべ、幾分かの柔らかさが含まれているのをレミリアは見逃さない。
「したじゃない。貴女に魔法を教え、生きていく道を教えたわ」
「あれは――その、何と言うか……」
 途端に口篭もる咲夜を弄ぶ。
 もっと会話が上手くなるように。
 もっとレミリア自身に懐くように。
 もっと手の平の上に乗れるように――
「可愛かったわよ? 貴女が私の言葉に従い、少しずつ持ち直していく姿は」
 ニヤニヤと意地の悪い笑い方をしながら咲夜を見る。
 咲夜は一つ咳払いをすると、口を開いた。
「……魔法は教わりました。ですが、生きる道を教えられたんじゃなくて」
 そこで一旦言葉を切った咲夜はニヤリと笑って――そう、レミリアの意地の悪い笑顔にもにた笑顔を浮かべて――切り替えした。
「生きる道は自分で選ぶものだと教えられたわ。それが貴女であるかどうかすら私が決める事だと、ね」
 まだまだ幼い少女が出す答えとは思えない答えが面白くて、そして彼女の選択肢はまだまだ広がっているのだ、という事が可笑しくて。
 レミリアは笑った。
 釣られるように咲夜にも笑みが浮かぶ。 














 ひとしきり二人でくすくすと笑いあったあと、レミリアは誰にも聞こえない声でポツリと呟いた。
「それでも、貴女の運命が私から逃れられると思って?」
えー……明けましておめでとうございます。
音速遅いですが。

ようやくマトモな作品が書けたようなのでやっと置けるようになりました(爆
メンバーには多大な尽力をしてもらい、頭もあがりません。
正直自分ひとりではここまでの完成度にはならなかったかと。

とはいえ、今年も一つよろしくお願いします。
例大祭に向けてようやく動けるようになったので、また期間は空いちゃうかもしれんがw
河瀬 圭
コメント



0. コメントなし