―――嗚呼。
私は愛される事が出来ますか?
私は、愛する事が出来ますか?
私は愛されたいのです。
私は、愛したいのです。
なのに―――
私は余りにも独りを怖れ、私は余りにも愛を望んできました。
しかし、この身故に叶う事は無く。
それを知りながら、だけど、嗚呼。
何故私は、独りを怖れたのだろう。
どうして私は、愛を望むのだろう。
独りを怖れなければ、もっと違う道を行けただろうに。
愛を望まなければ、艱難辛苦を味わう事も無かった筈。
……だというのに。
「分からない」
呟きは言葉として発せられただろうか。
石のように縮こまっている今、果たして言の葉は正しく声となっただろうか。
「分からないよ……」
ただ、とても悲しくて切なくて。
ただ、思考ばかりが流れていく。
―――人の形を得られるようになってから、最初に愛したのは賢く優しい人だった。
出逢いは偶然、だけど私は一目見て彼に惚れていた。
だから彼の気を引く為には手段を選ばなかったし、彼に愛されたい一心で、思い切り彼を愛し続けた。
やがて彼も私だけを愛してくれるようになった。
その日々はとても楽しく、甘美で、愛に満ち溢れていて。
目覚めから眠るまで、そして夢の中でさえも、私は幸せだった。
そんな日々がずっと続くと思っていたのに。
終わりはそんな日々のずっと近くにあった。
それは西からやって来た。
そして彼は、西から来た男に殺され、私は逃げる事しかできなかった。
何故なら私が彼を愛したから。
何故なら彼が私を愛したから。
だから彼は、賢く優しいあの人は、本来ならその死を惜しまれる筈だったのに。
彼の訃報は万雷の喝采によって迎えられてしまった。
私が愛したせいで、彼の定めを狂わせてしまったばかりに。
一体、何がいけなかったのだろか。
私は彼に愛されたかっただけなのに。
私は、彼を愛したかっただけなのに。
逃げる最中、悲しくて悲しくて、涙が止まらなかった。
―――南に逃げ、悲しみに暮れる私は不器用だけれど力強い彼と出逢った。
悲しみと孤独に冷えていた私の心は、不器用な彼によってゆっくりと温められていった。
そして気付けば、私は彼を愛していた。
だから。
だけど。
でも。
うん。
愛の侭に私は彼を愛し、愛の侭に私は可能な限りの手を打った。
元々彼は私に気があったのだろう。
私が愛するようになった途端、彼も私を愛してくれるようになった。
とても嬉しくて、嬉しくて、私は彼と常に一緒に居続けた。
しかし、やはり長くは続かなかった。
その日までは何もかも光に満ちていたのに。
まるで私が彼を愛する事が罪だとでもいうように。
正体を暴かれた私は、光と愛を失った。
何があろうと護ってくれると信じていた彼が、真っ先に私を打ったのだから。
訳が分からなかった。
私はただ愛されたかっただけなのに。
私は、ただ愛したかっただけなのに。
彼も私を愛してくれていたではないか。
今度はずっと続くと願い信じていたのに。
彼は私を何があっても離さないと言ってくれたのに。
だというのに、どうして彼は私に刃を振るう?
だというのに、何故彼はあんな目で私を見る?
私は騙してなんかいない。
そんなつもりはなかった。
愛されたかっただけなのに。
愛したかっただけなのに。
どうして?
私は―――
そうか。
裏切られたの、か。
そうだ、私は裏切られたのだ。
愛されたかったばかりに、愛したかったばかりに。
私は裏切られてしまったのだ。
命を喪う前に逃げ遂せた私は、悲しみと悔しさで気が狂いそうだった。
我が身の愚かさを呪い、悔恨の故に涙が止まらなかった。
―――足が北へ向いたのは偶然だろうか。
最初に愛した彼を思い出していたのだろうか。
だが、もう愛すまい。
裏切られるくらいなら、あんな思いをするくらいなら。
何者も愛するものか。
しかし放浪する中で、私は彼に出逢った。
愚かで傲慢な彼と。
従者を伝って彼は私が気に入ったと言う。
更には、望む物は何でも与えよう、とも。
私の答えは、今の私にとって思いもしない物だった。
従者を伝い私の言葉を聞いた彼は、意外そうな顔をし、目を瞬かせた後大きな声で笑った。
そしてその日の内に、彼は私を愛した。
いや、果たしてあれは愛と言えたかどうか。
だが不快ではなかった。
心の底からの愛でなければ、裏切られる事もあるまい。
上辺の愛であれば、裏切られてもあんな思いはすまい。
打算の付き合い。
計算づくの愛情。
何事も灰色の日々。
それでも、愚かで傲慢な彼は、見ていてそこそこ飽きなかった。
こんな日常でも良いのかも知れない。
そう思いだしていた矢先、終わりは唐突に訪れた。
或いは私と彼の仲を妬む、后や他の寵姫の策謀だったのかもしれない。
いや、自意識過剰か。
とにかく、私は彼を殺した咎を負わされ、浅からぬ傷を負わされる事となった。
情が移りそうになった途端にこの有様である。
呆れて呆れて―――しかし涙が溢れてきた。
拭っても拭いきれない涙を見て、酷く悲しくなった。
……ああそうか。
情が移りそうになったどころではなく、とうに移っていたのか。
だから、故に。
もはや愛すまい。
何者も愛するものか。
逃亡の最中にそう誓った。
そして、死なせてしまった彼への申し訳なさに涙が止まらなかった。
―――逃亡の果てに辿り着いたのは、小さな島国だった。
私は逃げる際に浪費した力を回復する為に子供の姿に身を窶し、人に拾われて養われていた。
緩やかな日々。
拾い子に対しても、何くれと無く世話を焼いてくれる養父母。
やがて私は、偶然詠んだ和歌の評判によって宮仕えするようになった。
世話をしてくれた養父母への孝行と思えば、宮中の鬱陶しい人間関係も耐える事ができた。
そんな或る日、私は彼の寵愛を受ける事になった。
孝行になると思えば、それに、今更忌避する理由も無く。
何度か寵愛を受ける中、彼は、穏やかで芯の強い彼は、私に愛を囁いた。
冗談でこのような事を言う人ではない事は既に分かっていた。
だから私は、彼の愛を断った。
けれど彼は諦めず、その理由を問うてくる。
私の答えは簡単だ。
私が愛した男は必ず破滅してしまうのだから。
しかし彼は、穏やかで芯の強い彼は、私の言葉を聞いた後、ただ一言。
私はそうはならない、と。
あまりにも自然で、つい身を委ねてしまいたくなるような断定。
だが以前の私ならいざ知らず、今の私は言葉で揺らぐ程愚かでは無い。
されど彼は、穏やかで芯の強い故に諦めなかった。
ならば、と私は、養父母が不幸に見舞われるかもしれない事を顧みず、全てを彼に話した。
賢く優しい彼との事。
不器用だけれど力強い彼との事。
愚かで傲慢な彼との事。
そして私は人では無い事。
故に私は愛されてはならず、愛してはならないという事。
長い長い身の上話を黙って聞いていた彼は、話終えた私に対し、再び一言。
私はそうはならない、と。
繰り返された言葉に感情的になる私に、彼は穏やかに言った。
私は民から崇められる身なれば、民の思い故に私は死なぬ、と。
全く疑いの無い、心からの言葉。
だけど、と私が拒絶の言葉を吐けば。
いいや、と彼は許容の言葉を述べる。
そうやって、結局、私の全ての拒絶は、全て彼に許容されていた。
彼ならば、この穏やかで芯の強い彼ならば―――
忘れるな、私が今までどんな悪行をしたと―――
嗚呼。
戸惑う私に、彼はそぅっと言った。
構うものか、と。
それは男の感情故なのかもしれなかった。
それは言葉を尽くしても煮え切らない私に対する苛立ち故なのかもしれなかった。
けれど。
私は考えの全てを否定して。
気付けば、彼の腕の中で泣いていた。
滂沱たる涙は、彼に包まれていつまでも止まらなかった。
しかし。
それ以来、健康そのものだった彼は病に伏せる事が多くなった。
酷い偶然もあったものだと苦笑する彼に、私は日々不安を募らせていった。
懸命に、彼の病を癒す為に手を尽くす日々。
やはり。
思い知らされた。
きっかけは彼の配下の者との問答。
やはり私が、私が私であるせいで。
だから。
彼の身を案じるならば、という配下の言葉。
もはや離さぬと言った彼の腕から、私は、私の意志で。
精一杯の感謝を伝え、彼に非が無い事を最後に伝え、決別した。
そして。
追い縋る彼の声、止め諫める配下の声。
後ろ髪を引かれる思いに苛まれながら、私は一度として振り返らなかった。
何故なら、涙が止まらなかったから。
彼にこれ以上辛い思いをさせてはならないのだから。
私に悪態を吐く他の女達が、せめてもの救いだった。
―――嗚呼。
私が愛される事が叶わないのなら。
私が、愛する事が叶わないのなら。
私は愛される事を望まない。
私は、愛する事を望まない。
だけど―――
私は余りにも独りを怖れます。
私は、余りにも愛を望みます。
この身故に叶う事は無かろうと、私は怖れ、望んでしまいます。
分かっているのに、嗚呼。
何故私は、どうして私は。
独りを怖れなければ、私が彼等と共に在ろうとは思わなかった。
愛を望まなければ、私が彼等に不幸を齎す事は無かったろうに。
……だというのに。
「私は、私は……」
呟きは言葉として発せられただろうか。
石のように縮こまっている今、果たして言の葉は正しく声となっただろうか。
ただ―――風の便りに、穏やかで芯の強い彼が今は健やかである事を知り、それが救いでもあり悲しみでもあった。
「……どうして」
私は愛されたかったのに。
私は、愛したかったのに。
それを望んではならないのなら、どうして私は生きられましょう。
ならば、ならば私は。
何事も見ず。
何事も聞かず。
何事も申さず。
何事もせず。
何事も思わず。
そうして誰からも顧みられる事も無く、ただ石のように。
そうすれば、もう泣かなくても良い。
そうしていれば、もう。
ずぅっと―――
突然の衝撃。
突然の鈍音。
どちらが先だったかは分からない。
同時だったのかもしれない。
ただ、それらによって石のように縮こまっていた私は、地に打ち倒されていた。
「―――な、ぁ」
頭が割れるような痛み。
現状が把握できない。
そうこうする内に何故か身体が勝手に浮かび上がって、見た事も無い派手な格好をした女と正面から顔を合わせていた。
「ようやく見つけたわ」
そう言って彼女は破顔一笑する。
酷く蠱惑的な笑み。
ただ訳が分からなかった。
「……?」
「私はねぇ、便利で有能な部下が欲しくって。それで、フリーで強い妖怪を探していたの」
こちらの都合を何ら構う事無く彼女は話し始め、その最中に私は彼女の力で宙に浮かされている事を認識した。
抵抗しても何の効果も出ない辺り、涼やかな彼女の表情からして力は私より上か。
となると、相当な力を持った―――少なくとも人間ではない存在という事になる。
「方々から色々話を聞けば、あなた。大層神格が高いそうね」
「…………」
「という訳で。本日たった今この瞬間から、私の式として働きなさい」
「は?」
「大丈夫よ。ちゃーんと腕によりをかけた構成は組んであるから」
「いや、その」
「ああそうね。私の名前は八雲 紫。あなたは?」
「……私は―――」
勢いに押されながらも名乗ろうとして、しかし口は閉じた。
今更私に名乗る名前など、私に名乗れる名前など、無い。
口ごもる私を見て、逆らえない雰囲気と圧倒的な態度を持った彼女は、何やら勝手に納得した様子で頷いた。
何故か嫌な予感を覚える。
「そう。じゃあ今からあなたは藍と名乗りなさい」
「え」
「それに、あなた程度の神格だったら私の姓を得る資格は充分ね」
「あの……」
「という訳で、あなたは今から八雲 藍と名乗りなさい」
「……えーっと」
「何? 文句でもあるの?」
「文句というか……訳が分からない」
「あら、何か分からなかったかしら」
見た感じで、彼女は明らかに本気で言っていた。
こちらは―――感覚こそ無いが一応久し振りの筈なのだ。
足早に話を進めるのではなく、此方の様子を見ながら話して貰えないものか。
後、いつ降ろしてくれるのだろう。
「……何故私が、あなたの式に」
「あなたを有能と見込んでの事よ」
また、笑顔。
本心からのであろうそれは、今の私には余りにも眩しくて。
「……お断りします」
「あら」
「私はここで、ずぅっとここで、ただじっとして居続けたいのです」
この答えを聞いた彼女は、意外そうな顔をした後、私から見ても美貌ととれるその顔貌を意地悪気に歪めた。
私を見つめるその眼差し、私に向けられたその口元、それらが意味するのは―――
「ふぅん? 折角仙狐にまでなって、行き着く所がそれで良いのかしら」
「あなたには私の事情は分かりません」
「識っているわ」
「……何ですって?」
「私は境界の妖怪。識ろうと思えば総てを識る事が出来るわ」
「ならば……識った上で」
識った上でそんな眼差しを向けるのか。
識った上で、そんな口元を見せるのか。
「識った上で、あなたは私を蔑するのか?」
「だと、したら?」
弧を描く口元。
歪む頬。
それはあからさまな挑発。
目に見えた誘いだが、ここで平静を保てるような矜持を私は持ち合わせていなかった。
激昂し、咆哮し、憤怒に身を任せる。
爆発した瞬間的な力が私を宙から地に降ろし、怒りのままに全ての力を込めた一撃を即座に見舞う。
直後響いたのは、炮烙で罪人を焼いた時の音に良く似ていた。
そして私は目を疑う。
「そんな……っ!?」
多少の力の差など覆せる筈の、初手からの全力。
間違いなく殺すつもりだったというのに。
それを、彼女はたかが四枚の結界で完全に防ぎ切って見せたのだ。
……だが真に私の目を疑わせたのは、結界が形作る八卦の向こう側。
私を見つめるその眼差し、私に向けられたその口元、それらが意味するのは―――
「幾らか、気は晴れたかしら?」
「それは……どういう」
困惑する私の前で、彼女は結界を解いた。
既に此方に何かをする余力が無いからには、前進の一歩を踏んだ彼女に対し身構えるのは当然だ。
しかしそんな私に対し彼女がした事は、一層の困惑を招くのに充分だった。
何せ彼女は、私を優しく抱き締めたのだから。
母が我が子を抱くような優しさに包まれて、何処か郷愁を思わせる彼女の匂いに鼻腔をくすぐられて、私はもう訳が分からなくなってしまう。
「な、何を……っ?」
「識っているから、こうするのよ」
耳元での囁き。
「……え?」
「識ったからこそ、こうしているの」
「それは……識った上で」
識った上でそんな眼差しを。
識った上で、そんな口元を。
「識った上で、私を憐れむと?」
「ええ、そうよ」
言って、彼女は私を抱く力を強めた。
「あなたは独りを怖れる故に愛を求めた。それは、寂しさを知る者としてとても当たり前の事」
「でも、私は―――」
「ただあなたは、その方法と相手を誤り続けていただけ」
「え?」
「人は人と、妖怪は妖怪と。あなたは人の形を得たせいで、その境の認識を失ってしまっていたのかしらね。故に、あなたは本来なら無用の因果を背負う事になってしまった」
「そんな、でも私は、私は純粋に―――あの、人達を……」
「純粋だからこそ、あなたの愛は人にとって毒だったのよ。遊びや実験であれば、加減も効いたでしょうに」
「……愛が、毒?」
彼女は何を言って―――いや、でも、という事は。
……なんて事。
「まさか、彼等は、私の……私さえ、しっかりしていれば……?」
「ええ。……そうね」
「……そん、な」
余りにもどうしようもない再認識に、全身から力が抜けた。
崩れ落ちようとする私を、彼女は更なる力を込めて抱き留める。
「しっかりなさい。良い? あなたは彼等の事をしっかりと覚えておくのよ。あなたが愛した相手達でしょう? そして、彼等の事で後悔するのはやめなさい。あなたが愛した相手を貶める行為は、してはならないわ。蔑されたら赫怒する程、あなたは彼等への愛に正直なのだから」
「でも、でも……っ」
「聞きなさい」
真摯な眼差しに射抜かれて、私は黙らされる。
言葉一つでそうしなければならないと思わせる程、力のある言葉だった。
「これからあなたは、私を愛しなさい」
「…………え?」
彼女が何を言ったのか、すぐに理解できなかった。
そんな私に、彼女は尚も言う。
「私を愛しなさい。あなたの真っ向からの想いを、私にぶつけなさい。そして私は、あなたを愛するわ。あなたの想いに応えるように、あなたを独りにさせないように」
「え……ぇえ!?」
理解は、それまでの悲哀を覆す程の驚きと混乱を導いた。
先程から彼女は私を取り乱させてばかりだし、そもそも論の繋がりが唐突過ぎて。
「あら、どうしたの」
抱き締められている為に、吐息のかかる距離で互いに顔を見合わる中、彼女が心底意外そうに言う。
それが私には理解できない。
「どうって、え、私は……それに、あなたはどう見ても」
私も彼女も、同じ女ではないか。
すると彼女は優しさと意地悪とで折半したような笑みを見せて、
「妖怪は、そんな瑣末な事は気にしないのよ―――」
「っ―――、ん」
ごく近かった距離を詰めた。
その接吻は、恐らくそう長いものではなかったろう。
けれど、なにぶん同性とのそれは初めての事で、彼女は私から見ても綺麗な人で。
終わった時、私は自分で分かるほど真っ赤になっていた。
「あ、あなたは何を考えて……っ!」
「あなたの事を考えているのだけれど」
しれっと。
それも冗談が欠片も伺えない本意の言葉を、彼女は吐いた。
混乱する。
いくらか落ち着きはしたけれど、冷静になれない。
「私の事を考えているというのなら、どうしてこんな、先程からっ!」
「……私があなたを式とすると決めたから、よ」
「それがどうして……」
「私の式にするという事は、あなたを私の物にするという事。……私は、私物には愛着と愛情を持つ性質だから。それに、わだかまられたままだと色々支障が出るでしょう?」
言葉の最中、僅かだけ彼女の目が泳いだのが分かった。
そして、半ば取って付けたような最後の一言。
何故か察する事が出来た。
「あの」
「何?」
「……照れてますか?」
「―――」
私がそう言った刹那、彼女は驚くほど真っ赤になる。
既に、先程よりも照れるべき言葉を吐いているというのに。
ともかく図星を突いたのだという確信と共に、心が落ち着いてきた。
「とっ、とにかく!」
「でも」
照れ隠しをする彼女をおかしく思いつつ、言う。
落ち着ければ、それだけ考えが回るものだから。
「何?」
「あなたは私に愛しなさいと言いました。しかし、人と妖の境を違えた事ばかりが、今までの原因だとは思えません」
「……どういう事かしら」
一瞬彼女は私の逃避を疑ったようだけど、それを口にする事は無かった。
信頼の証……なのだろうか。
「境を違えた愛が毒だと言うのなら、その毒が相手の体を蝕み、私の心を蝕んだのでしょう。しかし、私の経験には偶然がありました。遅かれ早かれの差に過ぎないのかもしれませんが、よもや私には何かしらの呪詛が染み付いているのやもしれません」
「神格を高める内に、自覚しない力が身につくのは確かに良くある事だけど……」
「はい。ですから、私が愛し、愛されるという事は、その相手を呪っているという事と同じかもしれないのです」
彼女が始めて思考する表情を見せる。
それはそうだろう。
当人が全く自覚しない力は、その隠蔽性の高さ故に当人以外にも感知するのは難しいから。
「……ですから」
私は今までぶら下げるままだった両腕を上げ、私を包む彼女を押す。
理由はどうあれ、彼女も私を愛してはいけない。
けれど、押された事で彼女は徐々に緩んでいた抱く力を改めて強くした。
「な、」
何故?
確かに仮定に過ぎないけれど、その可能性は高いのに。
言って分からないような相手では無さそうだったのに。
「あなたはそれで良いの?」
告げられる囁き。
「あなたは本当に、それで良いの? 怖がりで、愛を欲するようなあなたが、本当にそれで良いの?」
それは徐々に強くなっていって。
「誰からも顧みられる事無く、こんな所で息を引き取るのがあなたが本当にしたい事なの?」
それは段々と私の心に染み渡る。
「何かと理由を作って、愛を避けるあなたの気持ちが分からないでもないわ。だけど、本当にそれがあなたの望みなの?」
「……どうして、そんな事を言うのですか」
「どうして?」
彼女は愛撫するように言った。
「あなたが泣いているからじゃない」
「―――え?」
言われ、頬に手をやる。
指先が濡れて、そうしてから初めて私は自分が泣いている事を知った。
分からない。
どうして私が、今、この時に泣くのだろうか。
「あなたは優しいわ。己よりも他を優先する事が出来るのだから。でも、それ故にあなたはあなた自身を顧みようとしない。……それはそれはとても悲しくて、辛い事だわ」
「……だから、私は泣いているのですか?」
「どれだけ自分の感情や想いを押し殺そうとも、限界を超えてしまえば溢れてしまうものよ」
「なら……私は、一体……?」
「愛したいのでしょう?」
それは親が子に言い聞かせるような。
彼女の一言を受け、私は雷に打たれたような思いをした。
「私は……愛し、たい?」
「そう。そして愛されたいのでしょう?」
更に言われて、私は言葉を失った。
折角、折角捨て切れていたというのに。
こんな風に言われたら。
こんな風に言われたら。
私は、私はまた、求めてしまいそうになる。
それは駄目だ。
いけない事だ。
忌避しなければ、もうあんな思いは沢山だから。
「やめ、て……下さい」
彼女の腕から逃れようと私は懸命に彼女を押す。
「やめないわ」
だが断固として、彼女は私を離さない。
「やめて下さい……っ」
「いいえ」
何故離さない。
何故彼女は私にあんな事を言う。
私の事を識る癖に。
私が己を律する余りに傷つくというのなら、傷つかせておけば良いではないか。
所詮私がどうなろうとも私の問題に過ぎないのに。
所詮彼女の言葉は彼女の我が侭からだと言うのに。
「どうして……」
……感情が、抑えられない。
「どうしてっ!? たかが憐憫や支配欲如きで何故あなたはっ!」
「あなたが不幸にならなければならない道理は無いからよ」
「それはあなたの道理でしょう!? 私は、私が赦せないからこそ―――」
「いい加減になさい」
「っ!」
突然氷室に押し込められたように、全身に怖気が走った。
彼女が発したのは静かな声音。
しかしその静謐さとは裏腹に、背筋が凍るような威圧を孕んでいる。
「あなたはそうやっていつまで自分を苛めるつもりなの? あなたはそうやって永遠に泣き続けるつもりなの?」
今彼女が私に向けている感情。
これは、怒り?
再びの困惑に見舞われる。
何故彼女は私に怒りを覚えるのか。
分からない。
それに―――彼女の言葉によって心に揺らぎが生まれ、それが困惑に拍車をかけていた。
私は愛されたい。
だが赦されない。
私は愛したい。
だがいけない。
一度捨てた筈の想い。
それがこうも、あれ程の思いをしたのに、どうして、何故。
困惑から懊悩に至る私に、彼女は囁く。
「私が何故あなたにこんな事を言うのか。何故こうもしつこく言い募るのか。分からないの?」
「……分からない」
「なら、教えてあげる」
素直に答えたら、彼女は自然な笑みを見せた。
そして形の良い唇が動き、言葉を紡ぐ。
「何故ならね? 私が、あなたを愛しているからよ。あなたに興味を持ち、あなたを識った事で、私はあなたの事が好きになったの」
頬を上気させながらのそれは、真っ向からの告白。
いや、考えてみれば彼女の言動は既に告白めいていたではないか。
私が愛を遠ざけようとしているから気付けなかっただけで、彼女は既に、私を。
「そんな、駄目です、あなたまで私のせいで」
「ふふ、見縊らないで貰えるかしら?」
拒絶する私に彼女は言う。
「あなたの全力を片手で楽々防いだこの私が、例え呪いが在ったとして、果たして死に得るかしら? それに、その呪いは人妖の境を違えたからこその、毒の発展であるかもしれないのに?」
「……仮定に、過ぎません」
「それを言えば、あなたもよ?」
はっきりと言われ、返す言葉に詰まった。
微笑む彼女。
「でっ、でも私は、あなたの事を何も」
「それをあなたが言うのかしら。あんなに愛に積極的だったあなたが」
「―――う」
「大丈夫よ。私は死なない。私はあなたを裏切らない。私はあなたを悲しませはしない。あなたが不安だと言うのなら、これから幾度でも言葉を尽くし、態度を尽くしましょう」
「だけど、だけど……」
返せない。
返す言葉が浮かばない。
否定しなければならないのに、否定しなければならないのに。
でも、私は、私は―――
「それに妖と妖との愛は、初めてではなくて? 境を違える事の無い愛は、未経験でしょう?」
そして彼女は、今まで私をしっかと抱いて離そうとしなかった彼女は、意外な事に自分から数歩離れた。
今度は何事かと疑問に思う。
「…………」
「ほら、素直になりなさいな」
そうしたら、余りにも優し過ぎる言葉の後、彼女はゆっくり両腕を広げた。
私は、私は……。
―――嗚呼。
私は愛される事が出来るのですか?
私は、愛する事が出来るのですか?
私は愛されても良いのですか?
私は、愛しても良いのですか?
ならば―――
私はもう独りになりたく無いのです。
私はもう愛を否定したく無いのです。
独りを怖れたから、私は此処に居るのでしょう。
愛を望むから、私は彼女に出逢ったのでしょう。
だから私は。
私はだから。
……そっと、足を。
「……ありがとう」
呟きは言葉として発せられただろうか。
あまりにも気恥ずかしくて、果たして言の葉は正しく声となったろうか。
柔らかで、温かくて、優しい彼女に身を委ねる。
「ありがとうございます……」
ただ、とてもとても嬉しくて。
ぎゅっと、彼女を抱き締めた。
「私はあなたを愛しても良いのですね?」
「ええ」
「私はあなたに愛されているのですね?」
「勿論」
「あなたは、私を裏切らないのですね?」
「当然」
彼女の名は八雲 紫。
私は、彼女に愛されています。
私は―――私は彼女を愛そうと思います。
そして私は決して忘れません。
繰り返した過ちを。
繰り返した悲嘆を。
繰り返した艱難を。
愛した彼等の事を。
だから、これからは。
私は、八雲 藍として。
彼女、八雲 紫と共に。
確かな愛に包まれて、私は改めて泣いていた。
その涙は温かく、今まで流した涙とは全くちがう涙だった。
私は愛される事が出来ますか?
私は、愛する事が出来ますか?
私は愛されたいのです。
私は、愛したいのです。
なのに―――
私は余りにも独りを怖れ、私は余りにも愛を望んできました。
しかし、この身故に叶う事は無く。
それを知りながら、だけど、嗚呼。
何故私は、独りを怖れたのだろう。
どうして私は、愛を望むのだろう。
独りを怖れなければ、もっと違う道を行けただろうに。
愛を望まなければ、艱難辛苦を味わう事も無かった筈。
……だというのに。
「分からない」
呟きは言葉として発せられただろうか。
石のように縮こまっている今、果たして言の葉は正しく声となっただろうか。
「分からないよ……」
ただ、とても悲しくて切なくて。
ただ、思考ばかりが流れていく。
―――人の形を得られるようになってから、最初に愛したのは賢く優しい人だった。
出逢いは偶然、だけど私は一目見て彼に惚れていた。
だから彼の気を引く為には手段を選ばなかったし、彼に愛されたい一心で、思い切り彼を愛し続けた。
やがて彼も私だけを愛してくれるようになった。
その日々はとても楽しく、甘美で、愛に満ち溢れていて。
目覚めから眠るまで、そして夢の中でさえも、私は幸せだった。
そんな日々がずっと続くと思っていたのに。
終わりはそんな日々のずっと近くにあった。
それは西からやって来た。
そして彼は、西から来た男に殺され、私は逃げる事しかできなかった。
何故なら私が彼を愛したから。
何故なら彼が私を愛したから。
だから彼は、賢く優しいあの人は、本来ならその死を惜しまれる筈だったのに。
彼の訃報は万雷の喝采によって迎えられてしまった。
私が愛したせいで、彼の定めを狂わせてしまったばかりに。
一体、何がいけなかったのだろか。
私は彼に愛されたかっただけなのに。
私は、彼を愛したかっただけなのに。
逃げる最中、悲しくて悲しくて、涙が止まらなかった。
―――南に逃げ、悲しみに暮れる私は不器用だけれど力強い彼と出逢った。
悲しみと孤独に冷えていた私の心は、不器用な彼によってゆっくりと温められていった。
そして気付けば、私は彼を愛していた。
だから。
だけど。
でも。
うん。
愛の侭に私は彼を愛し、愛の侭に私は可能な限りの手を打った。
元々彼は私に気があったのだろう。
私が愛するようになった途端、彼も私を愛してくれるようになった。
とても嬉しくて、嬉しくて、私は彼と常に一緒に居続けた。
しかし、やはり長くは続かなかった。
その日までは何もかも光に満ちていたのに。
まるで私が彼を愛する事が罪だとでもいうように。
正体を暴かれた私は、光と愛を失った。
何があろうと護ってくれると信じていた彼が、真っ先に私を打ったのだから。
訳が分からなかった。
私はただ愛されたかっただけなのに。
私は、ただ愛したかっただけなのに。
彼も私を愛してくれていたではないか。
今度はずっと続くと願い信じていたのに。
彼は私を何があっても離さないと言ってくれたのに。
だというのに、どうして彼は私に刃を振るう?
だというのに、何故彼はあんな目で私を見る?
私は騙してなんかいない。
そんなつもりはなかった。
愛されたかっただけなのに。
愛したかっただけなのに。
どうして?
私は―――
そうか。
裏切られたの、か。
そうだ、私は裏切られたのだ。
愛されたかったばかりに、愛したかったばかりに。
私は裏切られてしまったのだ。
命を喪う前に逃げ遂せた私は、悲しみと悔しさで気が狂いそうだった。
我が身の愚かさを呪い、悔恨の故に涙が止まらなかった。
―――足が北へ向いたのは偶然だろうか。
最初に愛した彼を思い出していたのだろうか。
だが、もう愛すまい。
裏切られるくらいなら、あんな思いをするくらいなら。
何者も愛するものか。
しかし放浪する中で、私は彼に出逢った。
愚かで傲慢な彼と。
従者を伝って彼は私が気に入ったと言う。
更には、望む物は何でも与えよう、とも。
私の答えは、今の私にとって思いもしない物だった。
従者を伝い私の言葉を聞いた彼は、意外そうな顔をし、目を瞬かせた後大きな声で笑った。
そしてその日の内に、彼は私を愛した。
いや、果たしてあれは愛と言えたかどうか。
だが不快ではなかった。
心の底からの愛でなければ、裏切られる事もあるまい。
上辺の愛であれば、裏切られてもあんな思いはすまい。
打算の付き合い。
計算づくの愛情。
何事も灰色の日々。
それでも、愚かで傲慢な彼は、見ていてそこそこ飽きなかった。
こんな日常でも良いのかも知れない。
そう思いだしていた矢先、終わりは唐突に訪れた。
或いは私と彼の仲を妬む、后や他の寵姫の策謀だったのかもしれない。
いや、自意識過剰か。
とにかく、私は彼を殺した咎を負わされ、浅からぬ傷を負わされる事となった。
情が移りそうになった途端にこの有様である。
呆れて呆れて―――しかし涙が溢れてきた。
拭っても拭いきれない涙を見て、酷く悲しくなった。
……ああそうか。
情が移りそうになったどころではなく、とうに移っていたのか。
だから、故に。
もはや愛すまい。
何者も愛するものか。
逃亡の最中にそう誓った。
そして、死なせてしまった彼への申し訳なさに涙が止まらなかった。
―――逃亡の果てに辿り着いたのは、小さな島国だった。
私は逃げる際に浪費した力を回復する為に子供の姿に身を窶し、人に拾われて養われていた。
緩やかな日々。
拾い子に対しても、何くれと無く世話を焼いてくれる養父母。
やがて私は、偶然詠んだ和歌の評判によって宮仕えするようになった。
世話をしてくれた養父母への孝行と思えば、宮中の鬱陶しい人間関係も耐える事ができた。
そんな或る日、私は彼の寵愛を受ける事になった。
孝行になると思えば、それに、今更忌避する理由も無く。
何度か寵愛を受ける中、彼は、穏やかで芯の強い彼は、私に愛を囁いた。
冗談でこのような事を言う人ではない事は既に分かっていた。
だから私は、彼の愛を断った。
けれど彼は諦めず、その理由を問うてくる。
私の答えは簡単だ。
私が愛した男は必ず破滅してしまうのだから。
しかし彼は、穏やかで芯の強い彼は、私の言葉を聞いた後、ただ一言。
私はそうはならない、と。
あまりにも自然で、つい身を委ねてしまいたくなるような断定。
だが以前の私ならいざ知らず、今の私は言葉で揺らぐ程愚かでは無い。
されど彼は、穏やかで芯の強い故に諦めなかった。
ならば、と私は、養父母が不幸に見舞われるかもしれない事を顧みず、全てを彼に話した。
賢く優しい彼との事。
不器用だけれど力強い彼との事。
愚かで傲慢な彼との事。
そして私は人では無い事。
故に私は愛されてはならず、愛してはならないという事。
長い長い身の上話を黙って聞いていた彼は、話終えた私に対し、再び一言。
私はそうはならない、と。
繰り返された言葉に感情的になる私に、彼は穏やかに言った。
私は民から崇められる身なれば、民の思い故に私は死なぬ、と。
全く疑いの無い、心からの言葉。
だけど、と私が拒絶の言葉を吐けば。
いいや、と彼は許容の言葉を述べる。
そうやって、結局、私の全ての拒絶は、全て彼に許容されていた。
彼ならば、この穏やかで芯の強い彼ならば―――
忘れるな、私が今までどんな悪行をしたと―――
嗚呼。
戸惑う私に、彼はそぅっと言った。
構うものか、と。
それは男の感情故なのかもしれなかった。
それは言葉を尽くしても煮え切らない私に対する苛立ち故なのかもしれなかった。
けれど。
私は考えの全てを否定して。
気付けば、彼の腕の中で泣いていた。
滂沱たる涙は、彼に包まれていつまでも止まらなかった。
しかし。
それ以来、健康そのものだった彼は病に伏せる事が多くなった。
酷い偶然もあったものだと苦笑する彼に、私は日々不安を募らせていった。
懸命に、彼の病を癒す為に手を尽くす日々。
やはり。
思い知らされた。
きっかけは彼の配下の者との問答。
やはり私が、私が私であるせいで。
だから。
彼の身を案じるならば、という配下の言葉。
もはや離さぬと言った彼の腕から、私は、私の意志で。
精一杯の感謝を伝え、彼に非が無い事を最後に伝え、決別した。
そして。
追い縋る彼の声、止め諫める配下の声。
後ろ髪を引かれる思いに苛まれながら、私は一度として振り返らなかった。
何故なら、涙が止まらなかったから。
彼にこれ以上辛い思いをさせてはならないのだから。
私に悪態を吐く他の女達が、せめてもの救いだった。
―――嗚呼。
私が愛される事が叶わないのなら。
私が、愛する事が叶わないのなら。
私は愛される事を望まない。
私は、愛する事を望まない。
だけど―――
私は余りにも独りを怖れます。
私は、余りにも愛を望みます。
この身故に叶う事は無かろうと、私は怖れ、望んでしまいます。
分かっているのに、嗚呼。
何故私は、どうして私は。
独りを怖れなければ、私が彼等と共に在ろうとは思わなかった。
愛を望まなければ、私が彼等に不幸を齎す事は無かったろうに。
……だというのに。
「私は、私は……」
呟きは言葉として発せられただろうか。
石のように縮こまっている今、果たして言の葉は正しく声となっただろうか。
ただ―――風の便りに、穏やかで芯の強い彼が今は健やかである事を知り、それが救いでもあり悲しみでもあった。
「……どうして」
私は愛されたかったのに。
私は、愛したかったのに。
それを望んではならないのなら、どうして私は生きられましょう。
ならば、ならば私は。
何事も見ず。
何事も聞かず。
何事も申さず。
何事もせず。
何事も思わず。
そうして誰からも顧みられる事も無く、ただ石のように。
そうすれば、もう泣かなくても良い。
そうしていれば、もう。
ずぅっと―――
突然の衝撃。
突然の鈍音。
どちらが先だったかは分からない。
同時だったのかもしれない。
ただ、それらによって石のように縮こまっていた私は、地に打ち倒されていた。
「―――な、ぁ」
頭が割れるような痛み。
現状が把握できない。
そうこうする内に何故か身体が勝手に浮かび上がって、見た事も無い派手な格好をした女と正面から顔を合わせていた。
「ようやく見つけたわ」
そう言って彼女は破顔一笑する。
酷く蠱惑的な笑み。
ただ訳が分からなかった。
「……?」
「私はねぇ、便利で有能な部下が欲しくって。それで、フリーで強い妖怪を探していたの」
こちらの都合を何ら構う事無く彼女は話し始め、その最中に私は彼女の力で宙に浮かされている事を認識した。
抵抗しても何の効果も出ない辺り、涼やかな彼女の表情からして力は私より上か。
となると、相当な力を持った―――少なくとも人間ではない存在という事になる。
「方々から色々話を聞けば、あなた。大層神格が高いそうね」
「…………」
「という訳で。本日たった今この瞬間から、私の式として働きなさい」
「は?」
「大丈夫よ。ちゃーんと腕によりをかけた構成は組んであるから」
「いや、その」
「ああそうね。私の名前は八雲 紫。あなたは?」
「……私は―――」
勢いに押されながらも名乗ろうとして、しかし口は閉じた。
今更私に名乗る名前など、私に名乗れる名前など、無い。
口ごもる私を見て、逆らえない雰囲気と圧倒的な態度を持った彼女は、何やら勝手に納得した様子で頷いた。
何故か嫌な予感を覚える。
「そう。じゃあ今からあなたは藍と名乗りなさい」
「え」
「それに、あなた程度の神格だったら私の姓を得る資格は充分ね」
「あの……」
「という訳で、あなたは今から八雲 藍と名乗りなさい」
「……えーっと」
「何? 文句でもあるの?」
「文句というか……訳が分からない」
「あら、何か分からなかったかしら」
見た感じで、彼女は明らかに本気で言っていた。
こちらは―――感覚こそ無いが一応久し振りの筈なのだ。
足早に話を進めるのではなく、此方の様子を見ながら話して貰えないものか。
後、いつ降ろしてくれるのだろう。
「……何故私が、あなたの式に」
「あなたを有能と見込んでの事よ」
また、笑顔。
本心からのであろうそれは、今の私には余りにも眩しくて。
「……お断りします」
「あら」
「私はここで、ずぅっとここで、ただじっとして居続けたいのです」
この答えを聞いた彼女は、意外そうな顔をした後、私から見ても美貌ととれるその顔貌を意地悪気に歪めた。
私を見つめるその眼差し、私に向けられたその口元、それらが意味するのは―――
「ふぅん? 折角仙狐にまでなって、行き着く所がそれで良いのかしら」
「あなたには私の事情は分かりません」
「識っているわ」
「……何ですって?」
「私は境界の妖怪。識ろうと思えば総てを識る事が出来るわ」
「ならば……識った上で」
識った上でそんな眼差しを向けるのか。
識った上で、そんな口元を見せるのか。
「識った上で、あなたは私を蔑するのか?」
「だと、したら?」
弧を描く口元。
歪む頬。
それはあからさまな挑発。
目に見えた誘いだが、ここで平静を保てるような矜持を私は持ち合わせていなかった。
激昂し、咆哮し、憤怒に身を任せる。
爆発した瞬間的な力が私を宙から地に降ろし、怒りのままに全ての力を込めた一撃を即座に見舞う。
直後響いたのは、炮烙で罪人を焼いた時の音に良く似ていた。
そして私は目を疑う。
「そんな……っ!?」
多少の力の差など覆せる筈の、初手からの全力。
間違いなく殺すつもりだったというのに。
それを、彼女はたかが四枚の結界で完全に防ぎ切って見せたのだ。
……だが真に私の目を疑わせたのは、結界が形作る八卦の向こう側。
私を見つめるその眼差し、私に向けられたその口元、それらが意味するのは―――
「幾らか、気は晴れたかしら?」
「それは……どういう」
困惑する私の前で、彼女は結界を解いた。
既に此方に何かをする余力が無いからには、前進の一歩を踏んだ彼女に対し身構えるのは当然だ。
しかしそんな私に対し彼女がした事は、一層の困惑を招くのに充分だった。
何せ彼女は、私を優しく抱き締めたのだから。
母が我が子を抱くような優しさに包まれて、何処か郷愁を思わせる彼女の匂いに鼻腔をくすぐられて、私はもう訳が分からなくなってしまう。
「な、何を……っ?」
「識っているから、こうするのよ」
耳元での囁き。
「……え?」
「識ったからこそ、こうしているの」
「それは……識った上で」
識った上でそんな眼差しを。
識った上で、そんな口元を。
「識った上で、私を憐れむと?」
「ええ、そうよ」
言って、彼女は私を抱く力を強めた。
「あなたは独りを怖れる故に愛を求めた。それは、寂しさを知る者としてとても当たり前の事」
「でも、私は―――」
「ただあなたは、その方法と相手を誤り続けていただけ」
「え?」
「人は人と、妖怪は妖怪と。あなたは人の形を得たせいで、その境の認識を失ってしまっていたのかしらね。故に、あなたは本来なら無用の因果を背負う事になってしまった」
「そんな、でも私は、私は純粋に―――あの、人達を……」
「純粋だからこそ、あなたの愛は人にとって毒だったのよ。遊びや実験であれば、加減も効いたでしょうに」
「……愛が、毒?」
彼女は何を言って―――いや、でも、という事は。
……なんて事。
「まさか、彼等は、私の……私さえ、しっかりしていれば……?」
「ええ。……そうね」
「……そん、な」
余りにもどうしようもない再認識に、全身から力が抜けた。
崩れ落ちようとする私を、彼女は更なる力を込めて抱き留める。
「しっかりなさい。良い? あなたは彼等の事をしっかりと覚えておくのよ。あなたが愛した相手達でしょう? そして、彼等の事で後悔するのはやめなさい。あなたが愛した相手を貶める行為は、してはならないわ。蔑されたら赫怒する程、あなたは彼等への愛に正直なのだから」
「でも、でも……っ」
「聞きなさい」
真摯な眼差しに射抜かれて、私は黙らされる。
言葉一つでそうしなければならないと思わせる程、力のある言葉だった。
「これからあなたは、私を愛しなさい」
「…………え?」
彼女が何を言ったのか、すぐに理解できなかった。
そんな私に、彼女は尚も言う。
「私を愛しなさい。あなたの真っ向からの想いを、私にぶつけなさい。そして私は、あなたを愛するわ。あなたの想いに応えるように、あなたを独りにさせないように」
「え……ぇえ!?」
理解は、それまでの悲哀を覆す程の驚きと混乱を導いた。
先程から彼女は私を取り乱させてばかりだし、そもそも論の繋がりが唐突過ぎて。
「あら、どうしたの」
抱き締められている為に、吐息のかかる距離で互いに顔を見合わる中、彼女が心底意外そうに言う。
それが私には理解できない。
「どうって、え、私は……それに、あなたはどう見ても」
私も彼女も、同じ女ではないか。
すると彼女は優しさと意地悪とで折半したような笑みを見せて、
「妖怪は、そんな瑣末な事は気にしないのよ―――」
「っ―――、ん」
ごく近かった距離を詰めた。
その接吻は、恐らくそう長いものではなかったろう。
けれど、なにぶん同性とのそれは初めての事で、彼女は私から見ても綺麗な人で。
終わった時、私は自分で分かるほど真っ赤になっていた。
「あ、あなたは何を考えて……っ!」
「あなたの事を考えているのだけれど」
しれっと。
それも冗談が欠片も伺えない本意の言葉を、彼女は吐いた。
混乱する。
いくらか落ち着きはしたけれど、冷静になれない。
「私の事を考えているというのなら、どうしてこんな、先程からっ!」
「……私があなたを式とすると決めたから、よ」
「それがどうして……」
「私の式にするという事は、あなたを私の物にするという事。……私は、私物には愛着と愛情を持つ性質だから。それに、わだかまられたままだと色々支障が出るでしょう?」
言葉の最中、僅かだけ彼女の目が泳いだのが分かった。
そして、半ば取って付けたような最後の一言。
何故か察する事が出来た。
「あの」
「何?」
「……照れてますか?」
「―――」
私がそう言った刹那、彼女は驚くほど真っ赤になる。
既に、先程よりも照れるべき言葉を吐いているというのに。
ともかく図星を突いたのだという確信と共に、心が落ち着いてきた。
「とっ、とにかく!」
「でも」
照れ隠しをする彼女をおかしく思いつつ、言う。
落ち着ければ、それだけ考えが回るものだから。
「何?」
「あなたは私に愛しなさいと言いました。しかし、人と妖の境を違えた事ばかりが、今までの原因だとは思えません」
「……どういう事かしら」
一瞬彼女は私の逃避を疑ったようだけど、それを口にする事は無かった。
信頼の証……なのだろうか。
「境を違えた愛が毒だと言うのなら、その毒が相手の体を蝕み、私の心を蝕んだのでしょう。しかし、私の経験には偶然がありました。遅かれ早かれの差に過ぎないのかもしれませんが、よもや私には何かしらの呪詛が染み付いているのやもしれません」
「神格を高める内に、自覚しない力が身につくのは確かに良くある事だけど……」
「はい。ですから、私が愛し、愛されるという事は、その相手を呪っているという事と同じかもしれないのです」
彼女が始めて思考する表情を見せる。
それはそうだろう。
当人が全く自覚しない力は、その隠蔽性の高さ故に当人以外にも感知するのは難しいから。
「……ですから」
私は今までぶら下げるままだった両腕を上げ、私を包む彼女を押す。
理由はどうあれ、彼女も私を愛してはいけない。
けれど、押された事で彼女は徐々に緩んでいた抱く力を改めて強くした。
「な、」
何故?
確かに仮定に過ぎないけれど、その可能性は高いのに。
言って分からないような相手では無さそうだったのに。
「あなたはそれで良いの?」
告げられる囁き。
「あなたは本当に、それで良いの? 怖がりで、愛を欲するようなあなたが、本当にそれで良いの?」
それは徐々に強くなっていって。
「誰からも顧みられる事無く、こんな所で息を引き取るのがあなたが本当にしたい事なの?」
それは段々と私の心に染み渡る。
「何かと理由を作って、愛を避けるあなたの気持ちが分からないでもないわ。だけど、本当にそれがあなたの望みなの?」
「……どうして、そんな事を言うのですか」
「どうして?」
彼女は愛撫するように言った。
「あなたが泣いているからじゃない」
「―――え?」
言われ、頬に手をやる。
指先が濡れて、そうしてから初めて私は自分が泣いている事を知った。
分からない。
どうして私が、今、この時に泣くのだろうか。
「あなたは優しいわ。己よりも他を優先する事が出来るのだから。でも、それ故にあなたはあなた自身を顧みようとしない。……それはそれはとても悲しくて、辛い事だわ」
「……だから、私は泣いているのですか?」
「どれだけ自分の感情や想いを押し殺そうとも、限界を超えてしまえば溢れてしまうものよ」
「なら……私は、一体……?」
「愛したいのでしょう?」
それは親が子に言い聞かせるような。
彼女の一言を受け、私は雷に打たれたような思いをした。
「私は……愛し、たい?」
「そう。そして愛されたいのでしょう?」
更に言われて、私は言葉を失った。
折角、折角捨て切れていたというのに。
こんな風に言われたら。
こんな風に言われたら。
私は、私はまた、求めてしまいそうになる。
それは駄目だ。
いけない事だ。
忌避しなければ、もうあんな思いは沢山だから。
「やめ、て……下さい」
彼女の腕から逃れようと私は懸命に彼女を押す。
「やめないわ」
だが断固として、彼女は私を離さない。
「やめて下さい……っ」
「いいえ」
何故離さない。
何故彼女は私にあんな事を言う。
私の事を識る癖に。
私が己を律する余りに傷つくというのなら、傷つかせておけば良いではないか。
所詮私がどうなろうとも私の問題に過ぎないのに。
所詮彼女の言葉は彼女の我が侭からだと言うのに。
「どうして……」
……感情が、抑えられない。
「どうしてっ!? たかが憐憫や支配欲如きで何故あなたはっ!」
「あなたが不幸にならなければならない道理は無いからよ」
「それはあなたの道理でしょう!? 私は、私が赦せないからこそ―――」
「いい加減になさい」
「っ!」
突然氷室に押し込められたように、全身に怖気が走った。
彼女が発したのは静かな声音。
しかしその静謐さとは裏腹に、背筋が凍るような威圧を孕んでいる。
「あなたはそうやっていつまで自分を苛めるつもりなの? あなたはそうやって永遠に泣き続けるつもりなの?」
今彼女が私に向けている感情。
これは、怒り?
再びの困惑に見舞われる。
何故彼女は私に怒りを覚えるのか。
分からない。
それに―――彼女の言葉によって心に揺らぎが生まれ、それが困惑に拍車をかけていた。
私は愛されたい。
だが赦されない。
私は愛したい。
だがいけない。
一度捨てた筈の想い。
それがこうも、あれ程の思いをしたのに、どうして、何故。
困惑から懊悩に至る私に、彼女は囁く。
「私が何故あなたにこんな事を言うのか。何故こうもしつこく言い募るのか。分からないの?」
「……分からない」
「なら、教えてあげる」
素直に答えたら、彼女は自然な笑みを見せた。
そして形の良い唇が動き、言葉を紡ぐ。
「何故ならね? 私が、あなたを愛しているからよ。あなたに興味を持ち、あなたを識った事で、私はあなたの事が好きになったの」
頬を上気させながらのそれは、真っ向からの告白。
いや、考えてみれば彼女の言動は既に告白めいていたではないか。
私が愛を遠ざけようとしているから気付けなかっただけで、彼女は既に、私を。
「そんな、駄目です、あなたまで私のせいで」
「ふふ、見縊らないで貰えるかしら?」
拒絶する私に彼女は言う。
「あなたの全力を片手で楽々防いだこの私が、例え呪いが在ったとして、果たして死に得るかしら? それに、その呪いは人妖の境を違えたからこその、毒の発展であるかもしれないのに?」
「……仮定に、過ぎません」
「それを言えば、あなたもよ?」
はっきりと言われ、返す言葉に詰まった。
微笑む彼女。
「でっ、でも私は、あなたの事を何も」
「それをあなたが言うのかしら。あんなに愛に積極的だったあなたが」
「―――う」
「大丈夫よ。私は死なない。私はあなたを裏切らない。私はあなたを悲しませはしない。あなたが不安だと言うのなら、これから幾度でも言葉を尽くし、態度を尽くしましょう」
「だけど、だけど……」
返せない。
返す言葉が浮かばない。
否定しなければならないのに、否定しなければならないのに。
でも、私は、私は―――
「それに妖と妖との愛は、初めてではなくて? 境を違える事の無い愛は、未経験でしょう?」
そして彼女は、今まで私をしっかと抱いて離そうとしなかった彼女は、意外な事に自分から数歩離れた。
今度は何事かと疑問に思う。
「…………」
「ほら、素直になりなさいな」
そうしたら、余りにも優し過ぎる言葉の後、彼女はゆっくり両腕を広げた。
私は、私は……。
―――嗚呼。
私は愛される事が出来るのですか?
私は、愛する事が出来るのですか?
私は愛されても良いのですか?
私は、愛しても良いのですか?
ならば―――
私はもう独りになりたく無いのです。
私はもう愛を否定したく無いのです。
独りを怖れたから、私は此処に居るのでしょう。
愛を望むから、私は彼女に出逢ったのでしょう。
だから私は。
私はだから。
……そっと、足を。
「……ありがとう」
呟きは言葉として発せられただろうか。
あまりにも気恥ずかしくて、果たして言の葉は正しく声となったろうか。
柔らかで、温かくて、優しい彼女に身を委ねる。
「ありがとうございます……」
ただ、とてもとても嬉しくて。
ぎゅっと、彼女を抱き締めた。
「私はあなたを愛しても良いのですね?」
「ええ」
「私はあなたに愛されているのですね?」
「勿論」
「あなたは、私を裏切らないのですね?」
「当然」
彼女の名は八雲 紫。
私は、彼女に愛されています。
私は―――私は彼女を愛そうと思います。
そして私は決して忘れません。
繰り返した過ちを。
繰り返した悲嘆を。
繰り返した艱難を。
愛した彼等の事を。
だから、これからは。
私は、八雲 藍として。
彼女、八雲 紫と共に。
確かな愛に包まれて、私は改めて泣いていた。
その涙は温かく、今まで流した涙とは全くちがう涙だった。
何度悶えたかわかんないです最高ですGJっすああ! どうすれば今の気持ちが伝わるかな!?
それにしても……没になった話も気になるかな? 気になるかな!?
しかしこういう話も良いですね