穂積名堂 Web Novel

『八雲 ~childhood's end~』

2012/02/29 00:49:20
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『八雲 ~childhood's end~』

床間たろひ
 夏の残滓が色濃く残る初秋。
 ちょっと歩けばすぐに汗が吹き出るけれど、木々を抜ける風は涼しげで空に浮かぶ雲も心なしか柔らかい。
 群青だった夏の空は今はもう秋の色。夏の終わりを惜しむツクツクボウシが盛んに鳴いているが、もう暫くすれば赤い蜻蛉の群れが夕焼け空に舞うだろう。
 軽やかで爽やかな風。遠くに聞こえる雲雀の声。そんな穏やかで静かで緩やかな昼下がりに――

 マヨヒガに雷が落ちた。

「ちぇぇぇえええんっっっ! 何処行った!? 出てこいっ!」
 屋根の雀が飛び上がり、土中のモグラがしゃっくりをして、ツクツクボウシが逃げていく。
 炎のように燃える金の髪、怒りに揺らめく九尾の尻尾。八雲 藍が、烈火の如く怒っていた。
 形の良い眉は激しく吊りあがり、口から炎が噴き上げている。余りの怒りに天は震え、地は怯え、スキマ妖怪は寝床から這い出してきた。
「……何よ、五月蝿いわねぇ」
 薄いレースのネグリジェを纏い、瞼を擦りながら現れたのは八雲 紫。
 淡い紫色のネグリジェは豊かな胸部を透かし、細いウエストから足先までのラインは余りにも優美。
 そんなあられもない姿に、藍も一瞬言葉に詰まった。同じ女性でありながら――藍もまた輝くような美貌を持っているというのに――思わず見惚れてしまう艶かしさ。
 緩くウェーブの掛かった金の髪。夢見るように薄く閉じられた瞳。白い貌に鼻筋の通った鼻梁は万人がその美しさを認めるだろう。
 しかし……手で覆う事もせず、喉の奥まで見える大欠伸をされては、百年の恋も一気に冷めるというものだ。無防備な主の姿に藍も毒気を抜かれ、溜息と同時に怒りも口から零れてしまう。
「……いえ、実は橙がですね?」
「んー?」
 寝ているんだか、起きているんだか。立ったままゆらゆらと海草のように揺れている紫。
 常人ならその姿に呆れ放置するだろうが、藍とてこの主に仕えて数百年。こんな状態であろうともちゃんと話を聞いている事は知っていた。昔どうせ聞いていないだろうと、あらん限りの不平不満、罵詈雑言を重ねてみたところ、物理的にも精神的にも痛い目に会わされた経験がある。ちなみに藍にナマコを見せると、尻尾で全身を包みこんでがたがたと震え「すいませんすいませんすいません……」と繰り返して蹲ってしまうらしい。何があったか知る者は当人だけである。
「橙のやつ……あれだけ世話は自分でするって豪語してたのに。見て下さいよ、これを」
「あー?」
 藍が襖をがらりと開けると、板張りの廊下は猫まみれ。
 三毛、ブチ、黒、白……色とりどりの猫が足の踏み場もなく溢れ返り、丸くなって転がってる。今は大人しく寝ているものの柱や襖や障子は猫たちの爪とぎによりぼろぼろで、あろうことか室内で粗相をした馬鹿者までいる始末。襖が開けられた事によりにゃごにゃご言いながら居間へ入ってきて、卓袱台や畳の上で気持ち良さそうに寝っ転がった。廊下よりこっちの方が暖かくて気持ち良いらしく、数えるのも馬鹿馬鹿しくなるような猫の群れが居間を猫絨毯に変えていく。
「家の中には入れちゃ駄目って……あれほど言っておいたのにっ!」
 一度は落ち着いたかに見えたが、その惨状を見て再び怒りが込み上げてきたのか黄金の尻尾がぞわりと撓む。天狐とまで呼ばれた古の大妖怪。その鋭すぎる眼光と気勢を、半分眠ったままのスキマ妖怪は「ふーん」と鼻息で一蹴し、
「鬱陶しいわねぇ……そういう事は本人に言いなさい?」
 気だるげに髪を掻きあげ、ふわぁふと欠伸を噛み殺しながら、右手を空間に開いた亀裂へと突っ込んだ。
 眠そうな目でしばらく何やらごそごそと探っていたが、段々とその眉が吊りあがっていく。
「あれ? すばしっこいわねぇ……む? お? ちょっと……じっとしてなさいっ!」
 紫は肘どころか二の腕、いや肩まで、それでも足りないのか上半身をスキマに突っ込む。身体半分をスキマに突っ込んでじたばたと両足を動かす様は、可愛いと言えない事もないかもしんない。
「ぬ? むぅ……お、おおお? ていっ! ふぬっ! ……とーとーとー……そりゃ!」
 ふんがっと両足をふんばり、スキマから抜け出した紫の両手には一匹の黒猫が羽交い絞めにされていた。
 赤いおべべと二本の尻尾。緑の帽子にふかふかの黒い耳。茶色の短い髪はさらさらで、丸く大きな瞳は驚きに見開かれている。
 黒猫はじたばたともがきながら必死で抵抗するが、そこはそれ。紫の繰り出す八雲流捕縛術『陰陽蜘蛛絡み』の秘術により、両腕を拘束され耳元に甘い吐息を吹き掛けられては、凶兆の黒猫と呼ばれる橙であろうと逃れる事など出来はしない。
「やっ! ゆ、紫さま……そ、そこは駄目です!」
「あらあら、いけない子猫ちゃんね……ほら、くりくりくり~」
「ひゃう! だっ、耳はっ! ひあっ、うっううー……はぅ」
「んー? 大人しくなってきたじゃない? もっと声を聞かせて欲しいのになぁ……ほら、ここはどう?」
「ふぅっ! だ、駄目! 駄目駄目駄目っ!!」
「ふふっ……ほら、もっと良い声で啼きなさ――はぶっしゅ!」
「いい加減にして下さい」
 藍が袖から取り出した巨大な――『煩悩退散』の四文字が刻まれた――ハリセンで思いっきりシバかれ、紫は頭を抱えて蹲った。
 どうやったらそんなでかい物が袖口に収まるのか……多分考えたら負けな摩訶不思議の一つである。この世には不思議なものしかないのだよ?
 閑話休題。
 やれやれと肩を竦めてハリセンを袖に仕舞った藍が視線を下に向けると、そこには涙の滲んだ瞳で見上げる橙の顔。
 目と目が合った藍ははっと息を呑み、思わず喉がぐびりと鳴る。
 潤んだ瞳、上気した頬、荒い息。
 ほのかな膨らみは呼吸に合わせて上下し、両腕は力なく垂れ下がり、腰が砕けたようにしゃがみこんでいる。
 幼い顔つきなのに――いや、だからこそ――その見上げる瞳には抗い難き蠱惑の魔魅が宿っていた。
 そう、具体的には藍の理性が吹っ飛ぶくらいに。
 口元が緩み、ルパンダイブしそうになる衝動を必死で堪え、藍は大きく深呼吸すると、
「……橙、前に約束したよな?」
 顔を引き締め、橙の瞳を真っ直ぐに見つめてそう告げる。
 瞳に射竦められた橙はきょどきょどと視線を彷徨わせるが、観念したのか上目遣いで見上げる瞳には怯えの色が浮かんでいた。
「あ、えと……」
「飼うのは構わない。だが家の中には上げるな。そう言ったよな」
「……うに」
「それが何だ、この有様は。見ろ、何処もかしこも猫まみれじゃないか!」
 藍が両手を大きく広げる。
 居間も廊下も、至るところ猫だらけ。抜け毛は飛び散り、蚤が跳ね、獣の匂いが家中に漂っていた。
 藍の怒りも意に関せず、どいつもこいつもごろごろと幸せそうに転がっている。ついでにいつの間にか紫も猫にまぎれて転がっている。
「あぅ、で、でも……」
「言い訳無用! 自分で何とかしなさい」
「う……は、はい」
 しゃがみこんでいた橙は立ち上がると、背筋を伸ばし瞳を閉じて大きく深呼吸。
 一回。
 二回。
 三回深呼吸をしてから、きっと眼を開き、  
「ほらっ! あんたたちさっさと起きなさい!」
 幼い声に精一杯の威厳を乗せて、大声で叫んだ。
 しかし悲しいかな、声がどれだけ大きかろうと所詮は橙。
 猫たちは一斉に橙の方を向き直るがどいつもこいつも立ち上がることなく、ふんと鼻を鳴らして寝転がるだけ。紫は顔も上げず猫にまみれて転がるだけ。
「うー、ちょっと! 起きなさいってばっ!」
 完全に舐めきっているのか、もう猫たちは橙の声に耳すら傾けない。
 橙が涙混じりに張り上げる声も、何処吹く風と寝こけるだけ。
 足を踏み鳴らし、両手を振り回し、どれだけ大声を出そうとも――
「お願いっ! 言う事聞いてっ!」
 誰も……言う事を聞かない。
 近くに転がるトラ猫に手を伸ばすと、黄色と黒の縞尻尾が蝿でも払うかのように橙の手を打つ。
 その隣にいるブチ猫へ手を伸ばすと、触れる前に威嚇の声を上げて全身を針のように逆立てる。
 橙は半泣きになりながら声を荒げるが、一匹たりと従う者はなく。
 その次も――
 その次も――

「――もう良い、橙」
 物静かな藍の声に、橙はびくりと震えた。
 凛と背筋を伸ばして正座し、堅牢な砦のように隙はなく、静謐でありながら凄まじい内圧を秘めているような――そんな佇まい。
 橙は泣き腫らした瞳で藍を見るが、藍の瞳は固く閉じられその色は伺えなかった。
「……で、でも」
「良いと言っているんだ」
 その声音に橙の身体が強張る。
 しんと底冷えするような冷たい声音。
 寝ていた猫たちも何かを感じたのか、一斉に藍の方を向いたその時――
 金色の瞳がゆっくりと開かれ、
 凍土のような、
 吹雪のような、
 蒼炎のような、
 果てしなく冷たく、そして全てを焼き尽くす炎のような声で、

『 去 ね 』

 一言。
 その一言で紫電が奔った。
 空気がひび割れ、極寒の雪原に放り出されたような冷気が吹き荒れる。
 猫たちは雷に打たれたように飛び上がり、声を上げる間もあればこそ脱兎の如く逃げ出した。
 橙もまた両目を大きく開き、腰を抜かして固まっている。
 あれだけいた猫たちは一匹残らず逃げ出し、二度とこの地に近づかないだろう。
 狩る者と狩られる者。その明確な差異を魂に刻まれ、生涯怯えて暮らすに違いない。
「――橙」
「は、はいっ!」
「そんな様では八雲の名を継ぐ事なぞ出来んぞ?」
「……はい」
 藍は立ち上がって冷たく橙を見下ろす。
 紫は寝転がったままちらりと横目で眺め、肩を竦めて再び目を閉じる。
 橙は顔を伏せたまま、藍の顔を見る事すらできなかった――


 §


 日が落ちて、夜が降りてくる。
 気の早い秋の虫が恐る恐る鳴き声を奏で、半弦の白い月が東の空に現れた。
 盛りを過ぎ、さりとて紅葉にはまだ遠い森。雲一つない空から零れる月光は妨げられる事なく地上を濡らす。
 しかし、白々とした月光も森の奥までは届かない。
 生い茂る木々が迷宮のように闇を成し、濃密な黒が粘性すら伴って侵食している。
 そんな暗い森の中、一際大きな木の影に隠れるように橙は蹲っていた。 
「藍さま……」
 呟く声にも力がない。
 泣き腫らした瞼は重く、衣服はほつれ、肘から赤い血が垂れていた。
 木の影。
 暗い影。
 その影より深く沈みこもうと膝に顔を埋め、それでも足りぬと瞼も閉じる。
 深く深く堕ちていく。
 暗く暗く沈んでいく。
 立ち上がる事も、顔を上げる事も出来ない。自身の無力さなどとうに知っていたが、今までなら立ち上がる事くらい出来たのに。
 情けない、情けない、自分の弱さが情けない。
 あれだけ鍛えられたのに、何一つ成長していない自分が情けない。
 猫たちに対する怒りもあった。藍に対する怒りもあった。叱られた事に対する反発もあった。
 そこまで言う事ないじゃないか、私だって頑張ってるんだ。そういう思いも確かにある。
 だけどそれ以上に――期待に応える事が出来ない自分に腹が立った。

『そんな様では八雲の名を継ぐ事なぞ出来んぞ?』

 いつかは自分も……そう思って修行を続けてきた。
 藍の修行は辛く厳しい。怒られたし、殴られたし、晩飯も抜かれたし、蔵に閉じ込められた事もある。
 だけど……見捨てられた事だけはなかった。
 覚えの悪い自分に根気良く教えてくれたし、怪我をした時は心配そうに手当てしてくれた。
 だから期待に応えたかった。良くやったって褒められたかった。猫である自分は芸を仕込まれる事に慣れていないが、それでもずっと頑張ってきたのだ。    
 ――だというのに未だ猫一匹、言う事を聞かせられない。
 期待に応える事が出来ない。式なのに何一つ役に立たない。いつだって藍の邪魔をしてるだけ。
「藍さま……」
 枯れたと思った涙が、また溢れ出す。

 解っている。藍の厳しさは自分の事を真剣に考えてくれている証だと、その程度の事くらい解っている。
 解っている。藍の優しさは自分が弱くて弱くて弱っちいから、甘やかしてくれてるだけだと解っている。
 解っている。解っている。そんな事は言われるまでもなく初めから全部自分で嫌ってほどに解っている! 

 涙が後から後から零れ落ち、頬を伝って胸元を濡らす。お腹の中で何かがぐるぐる回っていて、重たくて立ち上がれそうになかった。
 紫は何も言ってくれない。失敗しても、ただにこにこと笑うだけ。
 相手にされていない。期待されていない。今日だって、今までだって、何一つ言ってくれた事はない。どうでもいいから……何も言ってくれない。

「だから『八雲』の名をくれないんだ……」

 静かな嗚咽が森に響く。
 答えが欲しい。証が欲しい。自分はここにいてもいいんだと胸を張って言えるものが欲しい。
 それすらも甘えなのだと解っているのに、求める気持ちを抑えきれない。
 こてん、と。
 身体を倒して大の字になり、空を見上げる。
 雲一つない夜空は吸い込まれそうなほど高く、見上げていると空に落ちてしまいそう。 
 月の隣に泣いているように瞬く星。涙を拭ってやろうと指先を伸ばすが、星に手が届く筈もない。
 宙ぶらりんの手は何も掴めないまま、空っぽの心と一緒にぱたりと地に落ちるだけ。赤茶けた土は冷たく、自分の中の大切な何かが熱と一緒に奪われていく。
「どうすればいいのかなぁ……」
 嗚咽混じりのべしゃべしゃな声。涙と鼻水でくしゃくしゃな顔。
 涙に濡れた服は重く、立ち上がることも出来なくて。
 目を細めて月を見ながら、それでも心からの祈りを込めて問い掛けた。  
 答えを、証を、誇れるものを。
 たった一つ。
 それだけでいいから、それだけで頑張れるから。
 瞳に映るは半弦の月。
 周囲に広がる暗い森。
 優しく包む遥かな夜。

 だけど月も、森も、夜さえも、何も言ってくれなかった――  


 §


 かちゃかちゃと箸が鳴り、紫は山菜の和え物を口に運んだ。ほのかに甘い酢の味が食欲を喚起させ、笑顔を浮かべて箸を進める。
 卓袱台には色とりどりの惣菜。岩魚の塩焼きに大根の煮付け。キノコの吸い物と炊きたての白い飯。それらの膳が、きちんと三人分並んでいた。
 和え物を卓に置いた紫は、次の目標である岩魚を丁寧に箸でほぐし、醤油を垂らしてから上品に食す。湯気の立つ白米と岩魚を交互に口に運び、半面を食べ終わった岩魚をひっくり返し、一度吸い物で喉を潤してから、
「迎えに行かないの?」
 ぽつりと、問い掛けた。
 対面には箸も付けず、無言で目を閉じている藍の姿。
「甘やかすのはためになりませんから」
 背筋を伸ばし座禅を組むような姿勢。落ち着き払った威厳ある佇まいだが、金の尻尾はそわそわと落ち着きがない。
 そんな藍の姿を呆れたように一瞥し、
「ふ……ぅん」
 紫はどうでも良さげに相槌を打って、今度は大根の煮付けに手を伸ばした。
 茶色に染まった大根は良く味の染みている証。箸を入れると何の抵抗もなく割れ、鼻歌交じりに大根を割っていく。四つに割った大根。その一つを掬うように摘みあげると、はくりっと噛み締めた。柔らかな大根が口の中で溶け、甘辛い醤油の味が舌を包み、紫の顔もほにゃっと崩れる。
 次は岩魚。次は白米。次は吸い物……幸せな顔つきで次から次へと箸を伸ばし、目の前の膳が粗方片付いてから、やっと口を開いた。
「んで、貴女も付き合ってご飯抜きってわけ?」
「……腹の調子が悪いだけです」
 そう告げた直後、藍の腹がぐぅと鳴った。
 藍は汗を一筋流しながらも、固く瞳を閉じたまま。紫はそんな藍を見て、お茶を啜りながら「素直じゃないわねぇ」と笑う。
 そんな事ありませんと抗弁する藍を片手で制し、紫は湯呑みを置くと笑みを消して藍を見据えた。
「ねぇ、藍?」
「は」
「愛情で縛れるのは百年。憎悪で縛れるのは五百年。では千年縛るにはどうすれば良いと思う?」
「……」
「答えは『使役』よ。上から下への一方的な関係。役を与える事で傍に置く。そうでなければ……」
「……」
「擦り切れていく心を――守れないわ」
「ですが!」
「あら、逆らうの?」
「……いえ、そんな事は」
「ふむ。貴女は『式』というものを未だ理解できていないようね」
「……」
「式は道具よ。それ以上でもそれ以下でもない。上が揺らげば下も揺らぐけど、下が揺らごうと上が揺らいでは駄目」
「……それは……その通りですが」
「道具に左右される者が道具を使おうなんておこがましいわ。昔から言うでしょ? 弘法筆を選ばずって」
「橙は道具では……」
「道具よ。それを忘れては駄目」
「しかし……」
「貴女もよ? 八雲の式」
 藍は俯いたまま唇を噛み締め、紫は真っ直ぐに藍を見据えている。
 こんな会話は初めてではない。今までだって何度も、数えるのも馬鹿馬鹿しいくらいに。
 それでも紫は何度も同じ事を告げ、藍はいつも唇を噛み締めるだけ。
 論理と感情の境界をゆらゆらと――
「どちらにせよ、橙の事は任せるわ。私はもう寝るし」
「……はい、おやすみなさいませ」
「ねぇ、藍?」
「はい?」

「貴女、本当に解っている?」

 藍が目を丸くしている間に、紫は立ち上がって襖へと向かう。
 右手で襖を開き暗い廊下へ沈む間際に、半分だけ振り向いて妖艶な瞳で藍を見た。

 そこに浮かんだ表情はとても――

 静かに襖が閉じられ取り残された藍は、その言葉と表情の意味を噛み締める。
 紫の言葉。紫の表情。
 出会い。使役。式神。
 今までの言葉。今までの付き合い。
 戦いの夜。柔らかな朝。穏やかな午後。美しい夕焼け。
 幾つもの季節。幾つもの年月。幾つもの時代。幾つもの始まりと終わり。

「嗚呼、そういえば貴女は――」

 藍の顔に小さな笑みが浮かぶ。一度大きく頷いたその顔に、もう迷いはない。
 立ち上がって障子を開き縁側に立つと、静かな瞳で夜の森を眺めた。月明かりは眩い程だが、目の前に広がる森は暗く沈んでいる。その対比がどうしようもなく不気味で、木々の擦れる音は獣の唸り声のよう。遠くに聞こえる山鳴りが不吉な宣託のように響いている。
 だけど藍は一瞬たりと迷う事なく、月の光を全身で受け止めて夜の中へと飛び込んでいった――


 §


 走る、走る、金の獣が夜を走る。
 月明かりのまばらな森の中を風のように、黄金の尾を靡かせて。
 仄かに残る橙の匂いを辿り、ただひたすら真っ直ぐに。地面を這う木の根を、生い茂った藪を飛び越え、しなやかに淀みなく――走る、走る、走る!
 半弦の月は西の空へとさし掛かり、夜明けまであと数刻を残すのみ。しだいに強まる匂いを前に、少しずつその速度を緩めていき、
「――いた」
 音も立てずに慣性を殺し、少しだけ上がった呼吸を一息で鎮めると、思わず上げそうになった声も無理矢理に押し止めた。
 咄嗟に身を隠したのは染み付いた習性。幾多の戦いを超えてきた者が、その身に刻んだ哀しき性。だがその姿を認めた藍は……その性に心から感謝した。
「……橙」
 視線の先には太い木の影で蹲る黒猫の姿。両膝に顔を埋め、眠っているように動かない。
 だが藍には解っていた。橙は眠ってなどいないと。
 その肩が震えていたから、その喉から嗚咽が漏れていたから、その身体が余りにも小さく見えたから。
 声を掛けようとして喉が引き攣り、足を踏み出そうとして膝が言う事を聞かない。
 伝えたい言葉がある。伝えたい想いがある。でもどう伝えればいいのか解らず立ち尽くすだけ。天狐とまで呼ばれた古の大妖が、泣いている子猫に掛ける言葉が見つからず戸惑っている。
 一つ深呼吸。
 もう一つ深呼吸。
 最後にもう一度深呼吸して踏み出そうとし、それでも踏ん切りがつかずもう一度だけ深呼吸をしようとした時、
「――藍さま?」
 顔も上げずに橙がぽつりと呟き、気勢を削がれた藍は無様な程に動揺した。黄金の尻尾がどよめき、どんな顔をすればいいか判らず頬が引き攣る。
 とりあえず笑みを浮かべてみたが、これが正解なのか判らないままゆっくり近づいた。
「……心配したぞ? さぁ、帰ろう」
 できるだけ感情を押し殺して、優しく声を掛ける。
 だけど橙は顔も上げず、蹲って黙ったまま。
 藍は橙の頭に触れようと右手を伸ばすが、その手はどれほど力を込めようとそれ以上進まない。
 手が届かない。
 こんなに近いのに、こんなすぐ傍にあるのに。

 なんて――遠い。

「……帰ろう? 橙」
 そんな言葉しか出てこない自分を不甲斐なく思いながらも、藍に出来る事なんてそれくらいしかなかった。
 返答は沈黙。置き場のない藍の右手が所在なく彷徨う。
 伸ばす事も引っ込める事も出来ない右手。どうしようもなく超えられない境界。
 だから藍は待つしかない。投げた言葉が届いたのか、確認する術もないまま時間だけが過ぎていく。
 藍は佇んだまま。
 橙は黙ったまま。
 沈黙の檻に閉じ込められた二人は、月時計の支配する世界で彫像のように。
 月は慰めの言葉一つ吐くでもなく、ただ沈黙して嘲笑っているかのように。
「……ごめんなさい」
 やっと漏れた橙の声。
 その掠れるような呟きは、きっと藍だからこそ聞こえた声。
 静かに、だけど確かに、全てを拒絶する抜け殻の声。
 その声を聞いた藍は何かを堪えるように固く目を閉じ、伸ばしたままの右手をぎゅっと握り締める。
 橙に悟られぬよう小さく吐息を吐くと、無言のまま腰を下ろして空を見上げた。
 木々の隙間に見える白い月。半円なれど艶やかなる輝き。それを瞳に映し、伝えるべき言葉を選びながら、
「……なぁ、橙」
 優しく声を掛けた。
「八雲の名……そんなに欲しいか?」
 答えはない。
 だが膝を抱えた震える両手が、その想いを何よりも伝えていた。
「今のお前には……八雲の名は重すぎる」
 俯いた橙の耳がぴくりと動く。
 抱えた膝に血が滲むほど、両手に力が篭る。
「それでも……いずれ八雲の名を継ぐのはお前だと思っているよ」
 藍の声が静かに闇に溶けていく。
 眩い月明かりを浴びる藍、暗い森の影に沈む橙。白と黒。明確な境界。虚ろな白黒映画(キネマ)。
 片方は星を数えるように空を見上げ、もう片方は落ちた涙を数えるように俯いたまま。
 堪えきれなくなったのか、橙が肩を激しく震わせ、搾り出すような声で叫んだ。
「私はっ! 私は……でも……それでも……」
 叫んだのは一瞬。燃え上がった炎はすぐに弱まり、もう消えかけてしまいそう。
 そんな橙の様子を悟りながらも、藍は静かに言葉を選びながら紡いでいく。
 一言、一言。探りながら、間違えないように、橙の心に届くように。
「……式はね、道具なんだよ。使役者の命ずるままに動かなくてはならない」
「……」
「だからね、悪いのは私の方なんだ。橙は道具ではないけれど……上手くいかないのならそれは使う者のせいなんだよ」
「……」
「橙は悪くない。悪いのは私の方で――」
「――煩い」
「え?」
 橙の押し殺した声に、藍は言葉を切って振り向いた。
 そこには先程と同じく、蹲ったままの橙の姿。
 両膝に顔を埋め、肩を震わせながら。だけど……それは先程までの悲しみの震えではなく、冷たい炎のような怒りの震え。
 藍が戸惑っていると、橙はその顔を上げて藍を睨んだ。
 泣き腫らした瞼、涙と鼻水でくしゃくしゃの顔、血が出るほどに噛み締めた唇。
 だけどその瞳に、消える事のない煉獄の炎を燈していて。

 ――その瞳に藍は呑まれた。

 悠久の時を過ごし、三国を傾かせ、数千の兵を前にしても臆する事のなかった大妖が、目の前の瞳に射竦められた。
 怯えた訳ではない。恐怖を感じた訳でもない。
 なぜならその瞳が灼いているのは相手ではなく、自分自身なのだから。
 橙をそこまで追い込んでしまった事に、その辛さを気付けなかった自分の愚かさに、藍は声を失い目を逸らす事も出来なくなった。
 橙は何も言わない。藍も何も言えない。
 互いの瞳に瞳を映し、時間だけが過ぎ去って――

 半弦の月が西に傾き、森の木々に阻まれて姿を隠す。
 闇は一段と深くなって、もう互いの輪郭すら判らない。
 ただその瞳が、様々な色が混じりすぎて灰色になるしかなかった瞳が、藍を捕らえているだけ。
 無言のまま、橙が立ち上がる。
 座ったままの藍を見下ろし、夜の森のもっと暗い場所へと溶け込むように、後ろ足で少しずつ。
「……朝までには戻ります。少し頭を冷やしてきますので」
 感情の篭らぬ凍った声。
 そしてそのまま藍に背中を向けた。
「……橙」
「それでは」
「橙!」
 風のように走り去る。瞬きすら終わらぬうちに遥かに遠くに。
 藍も立ち上がり、駆け出そうとして寸でのところで留まった。咄嗟に伸びた右手が宙を掻き、なおも駆け出そうとする身体を歯を食いしばって押し止める。
 目を細めて森の奥を睨むが、もう影すら追えない。木々の輪郭すら曖昧な深い闇が広がるだけ。
 追ってはいけない。追っては――いけない。
 藍はがしがしと右手で頭を掻き、木の幹に持たれかかり、深い溜息を一度だけ吐いて、

「貴女のようにはいきませんね……紫さま……」

 そう、力なく呟いた――


 §


 翌朝、夜明けと共に橙が戻ってきた。
「ただいま戻りました」と一言だけ告げて、後は貝のように沈黙している。
 あちこち傷だらけで、服はぼろぼろ。
 藍もまた「おかえり」と告げた後は、何も言葉が続かない。
 橙の瞳があの時のままだったから。何も答えが見つからなかったのだと解ったから。
 何も言わない橙を居間に座らせると、藍は箪笥から包帯や傷薬を取り出して橙の正面に座る。
 交わらない視線。交わせない言葉。交差する想い。
 藍は無言のまま橙の身体に傷薬を塗り、丁寧に包帯を巻いていく。橙もまた何も言わず、人形のようにその身を任せるだけ。
 拳はずるずるに擦りむけていたし、服のあちこちが破れて血が滲み、何処でぶつけたのかおでこも赤くなっている。
 普段の藍ならその仔細を問い質していただろうが、今は黙々と包帯を巻くしか出来ない。
 身体の傷には触れられても、心の傷には触れられない。
 自分の傷には耐えられても、人の傷には耐えられない。

 だから藍は――何も言えなかった。

 解っていたから。その光景が目に浮かんだから。
 夜の森をがむしゃらに走り抜け、森の木々に両の拳を叩き付け、それでも足りぬと頭からぶつかっていったのだろう。
 理由なんかない。ただ止まれなかっただけ、止まりたくなかっただけ。
 心臓が破れ、肺が引き攣り、両足が動かなくなるまで、あるいは動かなくなろうとも――止まる訳にはいかない。
 止まってしまったら、もう二度と走れないから。蹲ってしまったら、もう二度と立ち上がれないから。

 その気持ちは――藍にも痛いほど解っていた。

 振り返れば自分もまた通った道。何度も経験した苦い痛み。心の底にしまいこんだ蒼い傷跡。 
 正直なところ、もう帰ってくるとは思わなかった。昔の自分なら一月は山に篭っていた筈、或いは二度と戻らなかったかもしれない。
 だけど――橙は帰ってきた。帰ってきてくれた。気まずいと知りながら、それでも戻ってきてくれた。
 それは橙の優しさ。そして昔の藍には持てなかった強さ。主に心配を掛けたくないという強い心。
 その心がとても嬉しかったが、そう告げれば今度こそ橙はいなくなってしまうだろう。だから何も言わない。だから何も言えない。
 こんな時に掛ける言葉など知らない。傷だらけの橙の手に何度も包帯を巻き直すだけ。
 あの頃の自分はどんな言葉を欲しかったのか考えてみたが、あの頃も、今も、きっと誰にも何も言われたくなかった筈だ。

 ――そしてそれは橙も同じ。

 恥じるべきは己が無力。歯痒いのは己が非力。
 他人の慰めを求めてしまった時が真の敗北。そこまで堕ちてはいけないと懸命に踏み止まっている。
 それが解るから……藍は言葉を掛ける事が出来なかった。 
 昨日の話も曖昧なままだが、こういう時にこちらから折れてはいけない。
 結局、何も言い出す事ができず、治療が終わってもお互いに俯いたまま佇むだけ。
 表情を消した橙。必要以上に口元を引き締めた藍。黒い尾は力なく垂れ下がり、金の尾はそわそわと落ち着かない。
 遠くに聞こえる雲雀の声も、夏を惜しむツクツクボウシの声も二人の耳には届かず、ただ重たい時間が過ぎ去っていくだけ……

 縁側に寝っころがったままお茶を啜っていた紫は、やれやれと肩を竦め「藍、お腹空いたわ!」と大声で怒鳴った。

 慌てて立ち上がる藍。ぺこりと頭を下げて出て行く橙。
 さて、救われたのはどっちだったのだろう――



 そして……気まずい日々が続く。
 あんなに騒がしかった日常が、もう遠い昔のよう。
 橙は黙々と修行を続け、藍も掛ける言葉を見つけられず、紫は何も言わず寝ているだけ。
 歯車はずれたまま、時間だけが無情に過ぎていく。
 そこに残る想いを振り返る事なく、半弦だった月が次第に丸みを帯びていき――

 その夜がきた。  


 §

 
 空に懸かる白い月。
 暦で言えば十五夜の、完全な姿を晒す夜。
 涼やかな風は秋の匂いを運び、虫たちは盛大な演奏会を催し、梟が遠くで鳴いている。
 そんな穏やかな夜に、紫は縁側に腰掛け夜空を見上げていた。
 波打つ金の髪、陶器のような白い肌、まるで夜を具現した蠱惑の美。
 ただその瞳は――月を睨むように。
「……気に入らないわねぇ」
 空には雲一つなく、白い月が煌々と照っている。
 巨大な月はまるで異界へ続く穴。美しさよりも畏れが浮かぶ幻惑の輝き。
 だけどおかしい。どこかおかしい。
 いつも通りの夜なのに、いつも通りの空なのに、ただ月だけが――
「藍」
「は、ここに」
 紫がその名を呼ぶと、誰も居なかった室内にひっそりと跪く影一つ。
 藍もまたその異変を感付いていたのか、その顔は厳しい。
「気付いている?」
「先日から」
「どうしようか?」
「御心のままに」
「でも……面倒臭いわねぇ」
「私だけでも構いませんが?」
「それもちょっと危ないし……そうね、あいつにやらせましょう」
 紫はポンと両手を合わせ、童女のように微笑んだ。
 その言葉に、藍は一瞬目を丸くする。
「あの巫女ですか? しかしそれは……」
「幻想郷の異変は巫女が解決する。そういうものなのよ」
「……」
「あら、不満?」
「……できれば人の手など借りたくありません。私だけなら兎も角、紫さまも出るというのに」
「そういうところが未熟だっていうのよ」
「……申し訳ありません」
「では行きましょうか……ところで橙は?」
「もう寝ているかと」
「そう……では朝までには戻らないとね」
「御意」
 紫は愛用の傘を片手に立ち上がり、藍もまた両腕を袖に仕舞い紫の背後に立った。
 見上げる先には白い月。満月なのに満月ではない、少しだけ欠けた月。

 それは永夜の始まり――

 二人が縁側からそのまま飛び立とうと、僅かに身を屈めた瞬間――藍の尻尾がざわめいた。
 刃のような瞳を周囲に投げ、庭先の植え込みに視点を定めた。
「誰だっ!」
 雷のような誰何の声。返答は沈黙。
 だが藍はその植え込みに向かって、油断なく視線を向けたまま僅かに腰を落とす。
 程なくして、がさりと植え込みが揺れた。
 藍は袖からクナイを取り出し、紫は傘を片手に笑みを浮かべたまま。
 がさがさと庭の植え込みを掻き分け、出てきたのは黒い人影。
 見慣れた黒い耳と二本の尻尾。
「――橙。お前か」
 いかに猫は隠形に長けているとはいえ、今の今まで存在に気付かぬとは。藍は自身の迂闊さを呪い、ぎりっと奥歯を噛み締めた。
 橙は無言。ただ幽鬼のように庭の影に潜み、じっとこちらを伺うだけ。
「……聞いていたんだろ? 私たちは出掛けるから……留守を頼む」
 藍は敢えて冷徹な仮面を被り、目を閉じたままそう告げた。
 瞳は開けない。心を隠しきる自信がない。
「……何で私じゃないんですか?」
 橙の瞳は灰色に沈んだまま。
 ただその吐き出されるように漏れ出た声が、何よりも藍の心を抉っていく。
「未熟なのは解っています。何の力もない事も……足を引っ張るだけって事も……でも……」
 橙は泣いていない。
 でもその肩が震えていた。その膝が震えていた。その身体が泣いていた。
「何で私じゃなくて巫女なんですか……私じゃそんなに駄目なんですかっ!」
 引き攣るような慟哭。それを正面から受け止めた藍は、自分を律するようきつく瞼を閉じる。
 怒鳴るべきか、諭すべきか。思考は一瞬。答えなどない。あるならばとうに伝えている。
 それでも堪えきれず藍が口を開こうとした時、目の前に翳された白い手が藍の口を塞いだ。
「橙」
「紫さま……」
 藍をその場に残したまま、紫はゆっくりと歩を進める。
 夜の深い方へ、橙の下へ。
 橙の前に立った紫は穏やかに微笑む。そして境界を操り、空に開いた亀裂へ右手を差し込んだ。
「橙――八雲として式の式たる貴女へ命じます。これを」
 ずるり、と右手を引き抜き、そのまま橙へと向ける。
 その手に乗っていたのは、金の箱。
 掌から少しはみ出るくらいの大きさで、板紙に金箔を貼っただけの合わせ蓋の箱。縦も巾も高さも等しい――小さな箱。
 その箱を橙の前に差し出したまま、厳かな声で告げる。
「これは宝よ。私の……いえ八雲にとっての宝。この世に二つとなく、これを守る為に八雲は存在すると言えるわ」
 橙の瞳がその箱へと注がれる。
 金箔は月光を跳ね返し、それ自体が光を放つかのように輝いていた。
「これを貴女に託します。絶対に開けてはならないし、他人に渡してもならない。私たちが戻るまで――いえ、戻らなければ貴女がずっと守らなくてはならない」
「……」
「貴女は私の道具ではないわ。貴女は藍の道具。だから貴女は断っても構わない」
「……」
「それでもこの任を――八雲としての命を受けるかしら?」
 紫はその箱を差し出したまま。
 橙の両手は垂れ下がったまま。
 永い沈黙。
 紫は急かそうとせず、藍は黙って見守り、そして橙は――
「……はい。謹んで拝命致します」
 深く頭を下げて両手を差し出し、紫がその上に置いた箱を大事に抱えた。
「いい子ね」
 そう言って紫は、橙の頭を優しく撫でる。
 橙は顔を伏せたまま、ただ黙ってその手に任せた。
 もう一度だけ微笑んでから、紫はふわりと浮かぶ。
 橙の頭から手が離れ、そしてそのまま風に乗るように、するりと飛び去ってしまった。
「ゆ、紫さま!?」
 惚けたように成り行きを見つめていた藍は、飛び去った紫と顔を伏せた橙を交互に見回した後、
「朝までには必ず戻るからっ! 大人しく待っているんだぞ!」
 そう告げて地面を蹴った。
 もう紫の姿は見えない。藍は全速でその後を追う。加速に耐え切れず飛び散った金毛が夜に舞い、マヨヒガに静寂が訪れた。
 空には白い月。
 庭には取り残された猫一匹。

「……嘘吐き」

 ぽつんと漏れた橙の呟き。
 あれほど堪えていた涙が零れて頬を伝わる。
 ぽたぽたと落ちる透明な雫が宝石のように輝き、両手に抱えた金の箱を少しだけ濡らした――


 §


 遠くに鳥の声が聞こえる。
 先程から空に輝く蒼い光は、季節外れの蛍だろうか。
 時折、轟音と閃光が夜空を彩り、やがてそれは少しずつ遠く離れていく。
 橙は縁側で横たわったまま、ぼんやりとその輝きを眺めていた。
 足元には金の箱。守れと言われた大切な箱。
「嘘吐き……」
 横向きに寝転がったまま、かつんと爪先で箱を蹴る。
 橙だって馬鹿じゃない。あそこで声を掛けなければ、二人とも黙って出掛けていた筈。それを取ってつけたようにこの箱を守れだなんて、子供だましもいいところだ。
 そうまでして自分を置いていった。適当な仕事を与えて誤魔化した。この程度の嘘で騙される馬鹿だと思われていた。
「……そんなに私は役に立たないって言うの?」
 邪魔だと言われた方が良かった。役立たずとはっきり言って欲しかった。
 そう言ってくれたなら、諦める事も出来たのに。
 そう言ってくれたなら、立ち上がる事も出来たのに。
 橙は足元に転がした箱に目を向ける。
 箱からは確かに何らかの力を感じるし、黄金の輝きはそれ自体が価値を主張していた。大切なものというのは本当だろうし、守らなければいけないものというのも解る。
 でも紫なら――異変を解決する片手間に、箱を守る事だって造作もない筈だ。
「何よ……こんな箱」
 寝たまま足で箱を突付く。紙で出来た箱の割には重たいし、中には何かが入っているみたいだ。つんつんと突付いてみたが、かさりとも音がしない。何かが箱一杯に詰まっているのか、それとも何かを封じているのか。
「……何が入ってるんだろう?」
 少しだけ好奇心が鎌首をもたげる。
 開けるなと紫は言っていたが、これが罠だとしたら何も入っていないというのが一番ありそうだ。我慢しきれず開けた時、何かが起こって箱を開けた事がバレるという仕掛けに違いない。箱を開けた瞬間、月の裏側に飛ばされるとか湖の冷水が溢れてくるとか。どっちにしろ碌な事にはなるまい。好奇心は猫を殺すのだ。
 ふん、と鼻息を荒くして、もう一度軽く箱を蹴飛ばす。
 何が起ころうと知ったこっちゃない。そんな投げ遣りな気分で、縁側に寝転がったまま空を見上げた。
 真っ黒の空には真円に僅かに足りない欠けた月。何処か歪で壊れた月。
 橙にだって、それがどれだけの異変なのか解っている。
 それを引き起こすには、どれだけ途方もない力が必要なのかという事も、自分では太刀打ちできないレベルだという事も。
「それでも……それでも、さ」
 空に向かって右手を翳す。
 丸く大きな月は、指を一杯に広げてもはみ出てしまう程。
 この手に余る――大きさ。
 巫女の手でも借りたいという事態で、猫の手なんかお呼びじゃないという事なんだろうけど……それでもこの手を使って欲しかった。
 使い捨ての道具でも良い。死ねと言われたら死んでみせよう。それが式というものなのに、それを望んでいるのに。
 藍は優しいから、そんな命令は下せない。
 だけど紫なら……笑いながら式の本分を果たせと言ってくれるだろう。
 そうしてくれたら良かったのに――
 そうしてくれたら救われたのに――
「それでも……まだ足りないって事なんだよね」
 こんなちっぽけな生命では賭けるにも値しない。
 つまりはそういう事なのだ。
「あはは」
 涙が零れる。
「あはははは」
 床板に黒い染みを残す。
「あははははははは」
 瞳はこんなに濡れているのに、声はこんなに枯れている。
 空には月。地には虫の音。
 そして狭間に猫一匹。泣いてるだけの猫一匹。
 縁側に転がる放ったらかしの金の箱は、白々とした月光を受けて、きらきらと、きらきらと、輝いていた――


 §


「魔理沙を追っているうちに、目的地に着いたみたいね」
「ほんと、あなたって幸運ねぇ。うちの藍にも分けてあげたいくらいだわ」
 何処までも続く竹林。
 夜の竹林は何処か不気味で、それでいて神秘的。青々とした太い竹に囲まれて紅白の蝶と紫の貴人が並んでいる。
 所々焼け焦げ、巨大な力で抉り取られたような傷跡も残っているが、それでもなお平然と月に向かって伸びている青竹の群れ。力強い竹の下には、さらに力強い根が張り巡らされている。表面しか見れないのは愚かな人間と妖怪だけだ。
「くそ。一体、何だと言うんだ?」
 そしてもう一人。
 黒白の魔法使いが、あちこちぼろぼろでしゃがみ込んでいた。
 口からけほりと煙を吐き、服も煤けて破れ、隣に転がした箒もぼろぼろ。正に満身創痍である。
「お陰で犯人がわかったのよ。あなたは無駄じゃなかったの」
「いや、犯人は判らないけど――取り合えず、あの屋敷の中にいる」
 そんな魔法使いに向かって紫はにこにこと笑いかけ、霊夢は呆れたように肩を竦めた。
 魔法使いは何の事か解らないという顔を浮かべたまま、地面に転がっていた三角帽を被り直す。
「まぁ、負けたんだから仕様が無い。帰って寝る。起きたら朝になっている事を祈るぜ」
「永遠にお休みなさい」
「まぁ、風邪ひかないようにね」
 けっ、と毒づきぼろぼろの箒に跨って、魔理沙はふわりと浮かんだ。
 霊夢と紫、そして藍を相手に割と本気な弾幕ごっこだ。手持ちのスペルカードは使いきり、魔力の方もすっからかん。何か面白そうな事が起こっているのは解るが、流石にこの有様では何も出来そうにない。
「じゃあな。お土産を宜しく」
「たけのこでいいかしら?」
「光るヤツならな!」
 そう言って魔理沙は飛び去った。とりあえず一通り暴れたから満足したのだろう。
 霊夢はもう見えなくなってしまった魔理沙に、軽く手を振ってから背後を振り向いた。
「さて、と」
 見据える先には、平屋造りの豪勢な日本家屋。
 永い時を過ごした風格が滲み出し、それでいてそれが嫌味になっていない。
 永遠に存在するんじゃないだろうか、そう思わせるほど艶やかで趣のある造り。どれ程の敷地面積を誇るのか、果てが見通せぬ広大な屋敷。
 霊夢はその建物を、遠い目で眺めた。
「此処に原因がいるって訳ね。ひょっとして……あんた此処の事知ってたの?」
「私は何でも知っている……それは買い被りですわ」
「嘘吐きっぽい顔ね。まぁ、いいわ」
 霊夢が改めて顔を引き締める。紫は相変わらず涼しげに微笑むだけ。
 屋敷に向かって歩を進めようとしたその時、一陣の風が巻き起こって土煙と竹の葉を舞い上げた。
 霊夢が渦巻く旋風に目を細め、紫は変わらずにこにこと笑いながら。
「紫さま」
 土煙が静まり、その二人の前に跪くのは金色の獣。
 美しい毛並みが、月の光を受けて魔的な妖しさを放っていた。
「どうやら正面から入るしかなさそうです。庭を回ってみましたが結界が張ってあるようで……」
「どっちにしろこそこそする気はないわ。悪いのはあっちなんだから」
「そうそう。私たちはお客様なんだし」
「はぁ、それはどうかと……」
 藍の呟きを無視して、ふわりと浮かぶ霊夢と紫。そしてそのまま躊躇いも逡巡もなくその建物へと向かっていく。
 置いていかれた藍は、あの二人に何を言っても無駄だと溜息を吐いた。
 それに藍とて想いは同じ。橙が待っている事を思えば、回り道を選ぶ理由など一欠片だって存在しない。
 再び顔を引き締め、竹林の奥、辿ってきた道を振り返る。
 見据える先には住み慣れた我が家。そしてそこで待つ大切なもの。

「――すぐに戻るからな」

 そして藍も地面を蹴った。
 目の前の屋敷へ、黄金の煌きを竹林に残して――


 §


「う……寝ちゃってたのか……」
 泣きつかれて眠ってしまったのか、枕にしていた左腕がじんじんと痺れている。
 周囲はまだ暗く、月明かりだけが煌々と。
 頭の奥が霞がかったようで、どうして縁側で寝ていたのか咄嗟に思い出せない。
 胡乱な頭で横たわったまま周囲を見渡すと、足元に金色の箱が転がっていた。
「あぁ、そうか」
 置いていかれたんだっけ。
 顔を起こそうとすると、涙で床板に貼り付いた頬が引っ張られて痛かった。
 痺れた左腕は自分のものじゃないみたいで、板張りの廊下で寝ていた身体がぎしぎしと軋んでいる。
 身体を起こし思わず藍の姿を探してしまったが、出かけている事を思い出して気分が沈んだ。ついでに先程までの自己嫌悪も思い出し、どうしようもなく重たい気持ちになる。
 絡みつく思いを振りほどくように顔を上げると、そこには白々と輝く丸い月。
 月は天頂を超え、西の空に掛かっているが未だ夜は終わらず、しかし体内時計はすでに夜明けを過ぎている事を主張していた。
「夜が明けない……?」
 時間と位置の把握は、修行で徹底的に叩き込まれている。おそらく何らかの力が夜を引き伸ばしているのだろう。
 目を凝らして月を睨む。一見満月に見えるが僅かに欠けた月。薄っぺらな仮初の月。
「まだ、戻ってないんだ……」
 夜が明けない事と何か関係があるのかは解らない。
 それでも『それを解決する為に』あの二人が出たのだ。きっとこの異変もすぐに解決するのだろう。
 どのような強大な敵であろうとあの二人の敵ではない。ましてやあの巫女まで駆り出されているのだ。これで解決できない異変などあるまい。
 紫は言った。
 朝までには戻ると――それは朝までには解決するという事。
 藍は言った。
 大人しく待っていろと――それは足手纏いを付けたまま、解決できる事件ではないという事。
 それでもあの三人なら必ず異変を解決する。それだけは確信していた。

 橙と何の関わりもないところで――

「はぁ……」
 掠れた吐息が漏れる。立ち上がることも出来ず、壊れた人形のように横たわる事しか出来ない。
 泣く事も、立ち上がる事も、生きる事すらどうでもよいという虚無感が、じくじくと心を犯していく。
「無理矢理付いていけば良かったのかな……」
 そんな事をしたら藍に怒られるだろう。
 紫は……きっと変わらない。いつも通りにこにこ笑うだけだろう。
 藍が心配するのは私が弱いから。紫が相手にしてくれないのも私が弱いから。
 強くなりたい。もっと強くなりたい。もっともっと強くなりたい。
 藍の隣に立ちたい。紫の誇れる式でありたい。八雲として、本当の家族として。 
 その為にはどれくらい修行をすればいいのだろう。十年? 百年? 千年?
「永すぎるよ……」
 せめて何か縋れるものが欲しい。誇れるものが欲しい。
 この道で大丈夫なのだと教えてくれる道標が、欲しくて欲しくて堪らない。
「藍さま……」
 藍を信じている。
 優しくて、強くて、綺麗で――大切な主。
 だけどあの日、藍は道具を上手く扱えないのは使う者が悪いのだと言った。
 悪いのは自分で、お前は悪くないんだって。
「嘘だよ、そんなの……」
 そんなもの、その場しのぎの嘘。
 悪いのは、役立たずで道具にもなれない私の方なのに。 
 大好きな藍にそんな嘘を吐かせてしまった、その事が何よりも心を締め上げる。
 がむしゃらに走り、大木に拳を打ち付け、それでも足りないと頭をぶつけても――自分を許す事が出来なかった。

 今からでも追いかけようか?

 怒られるのは仕方がない。きっと殴られるし、ご飯も抜かれて、蔵に三日くらい閉じ込められるだろう。
 それでもこんな気持ちのまま、ただ待っているだけなんて耐え切れない。
 そう決めると後は早かった。もともとずっとそう考えていたし、身体もずっとそうしたがっていたのだ。
 立ち上がって居間に戻り、箪笥の上から三番目の引き出しを開けた。
 そこに入っていたのは一枚の符。
 これを使えば藍がいなくても式として力を発揮できる。もしもの時のために、藍がその力を溜め込んでくれた大切な符。
 込められた力は――『加速』
 ただでさえ素早い橙がこの符を使ったならば、追える者などこの世にいない。自身でも制御できない速度で、その身体は一条の光と化すだろう。
「これなら……多分追いつける」
 符を手にしたまま縁側に戻り、一度深呼吸。
 良し、と掛け声を上げ、床を蹴ろうとした時、

 月明かりを反射して金の箱が、きらりと光った。

 箱を睨む。
 あれは嘘、あれは嘘、あんなのは嘘。どうせ箱の中は空っぽだ。
 夜空を見上げ、視界から箱を取り除く。どうせ怒られるのは覚悟の上だし、マヨヒガに辿り着ける者などいるそうそういる訳がない。一晩くらい留守にしたって問題ない筈だ。
「う……」
 さあ行こう。さあ飛ぼう。
 もたもたしてると事件が解決してしまう。そうなったらただの馬鹿だ。少しでも役に立ちたいから言い付けを破ろうとしているのに。
「うう……」
 どうした。何を躊躇っている。
 箱か、箱が気になるのか? ならば開けてしまえば良い。
 中に何も入っていない事を確かめろ。そうすれば心おきなく二人を追えよう。
「ううううううっっっ!」
 早くしろ。もたもたするな。夜が明けてしまうぞ? 
 何も出来ない役立たずで終わりたいのか? 何かしたいと思っていたんじゃないのか? あの二人を見返したいんじゃなかったのか?
 確かに今の自分では大した役に立つまい。それでも盾くらいにはなれるだろう。囮くらいにはなれるだろう。
 それにこの符を使えば速度だけなら藍をも上回る。藍よりも速い――それで役に立たない訳ないじゃないか。
 それとも怖気づいたのか? 今更怖くなったとでもいうのか? 生命など要らぬという決心など自分を偽る嘘に過ぎなかったのか? 
 道具になりたいと、ただの一枚の刃になりたいという願いは、単に藍の気を引くための戯言に過ぎなかったのか? 
 違うだろう? 本当にそう願ったのだろう? 自分で自分に誓ったのだろう!
「わ、私は……」
 なのに足が動かない。
 なのに腕が動かない。
 目を逸らしていた足元へ視線を向ける。
 そこにあるのはただの箱。それはただの心を縛る鎖。
 そして――初めて託された『八雲』としての命。

 たとえ嘘だとしても――
 たとえ嘘なのだとしても――

 何が正しいのか解らない。どうすれば良いのか解らない。
 答えが欲しい。答えが欲しい。揺らぐ事のない確かな答えを。
 月も森も夜も答えてなどくれない。答えをくれる人はあの夜の向こうにいるのだ。
 しゃがみ込んで、箱を持ち上げる。
 左手に乗ってしまうくらい小さな箱。片手で持てる程に軽く、そしてこの生命よりも重い箱。
「――――っっっ!!」
 右手に持った式符を握り締め、橙は啼いた。
 駆け出そうとする肉体と命に縛られた理性に引き裂かれ、魂が悲鳴を上げる。
 自分で自分の道を決める事の何と難しい事か。
 ずっと温もりに守られてきた脆弱な心は、暗い夜に取り残されて惨めに波間を漂い、どちらを選ぶ事も出来ないまま無残に引き裂かれていく。
 そんな橙を嘲るように、
 そんな様を哂うように、

 偽りの月が見下ろしていた――


 §


「がはっ!?」
 藍の口から血が零れる。
 咄嗟に両手の刀を十字に重ねて防いだが、エメラルドの輝きは二刀を苦もなく砕き、藍の腹部を痛烈に撃ち抜いた。
 腹を抉る衝撃に胃液の混じった血をぶち撒け、身体がくの字に折れ、それでもなお眼光に翳りなく。口に溜まった血をべっと吐き出し、新たに袖から取り出した二刀を構え、絶え間なく撃ち込まれる弾幕を無尽の刃で刻み落とす。
 ――此処から先は抜かさない。ただそれだけを胸に秘め、押し寄せる波濤を前に一歩たりと引く事なく。
 周囲はすでに異界。
 天も地もなく、無限に広がる虚無。星の世界に数多の過ぎ去りし過去が投影されている。
 初めは暗い夜に数多の星。遠くに見える星雲は、地上では決して見る事の出来ない色と形。
 次なるは明治の街並み。新と旧が入り混じり、郷愁と羨望が同時に湧き起こる不思議な時代。
 次なるは異様なまでに巨大な高層建築物。東洋と西欧と中華が混在し、十字の梁と柱は神を祭る神殿のよう。
 どの世界にも真実の月が空にあり、それはまるで地上の人々を嘲笑うかのように輝いて。
 そして今は――月面。真実の月の表面に立っている。
 クレーターだらけの枯れた大地は生命の存在を欠片も許さず、全細胞に『去 ね』と命じていた。
 長い廊下を進んできた筈なのに。
 狂視の兎を倒し、そのまま進んできた筈なのに。
 襖一枚隔てた此処は、現世から隔離された空蝉の世界。数多の弾幕を潜り抜け、すでに元の世界がどうであったかなど忘却してしまう程に。

 そんな異界で――藍は自身の血で赤く染まった二刀を構え、なおも其処に立っていた。

 格子模様を描くエメラルドとサファイヤの光弾が、反撃すら侭ならぬ圧倒的な物量を持って襲い掛かる。肋骨、胸骨に罅。左上腕部にも罅。右足靭帯損傷。内蔵にも損傷あり。その他打撲、裂傷無数。噴き出る血は止まらず、左目を塞いだ血を肩で拭いながら藍は叫んだ。
「まだかっ! もう持たんぞ!」
「あとちょっとよ! もう少し持たせて!」
 藍の叫びに霊夢が応える。
 瞳を閉じて符を片手に印を切り、高速詠唱による多重積層韻で術を組み上げようとするが、いかに藍とて全弾を叩き落せる訳ではない。撃ち洩らした弾塊が霊夢に迫り、その度に術が中断される。今もまた折角編み上げた術式はサファイアの輝きに掻き消された。
「ちょっと紫! あんたの方で何とかなんないの!」
「無茶言わないで。こっちは藍の強化で手一杯よ」
 紫もまた遊んでいる訳ではなかった。
 自身の回避も然る事ながら霊夢への攻撃も傘で叩き落しつつ、藍への呪力供給に追われている。
「糞!」
 思わず漏れた不満の声を隠す余裕もなく、藍はこの弾幕の先にいる『敵』を睨んだ。

 哂っている。

 隙間一つない弾幕の輝きに遮られ、敵の顔など見える筈もない。
 だが藍は確信していた。最初に見た時から気に入らないと感じていたあの余裕溢れる笑みを、今もまた浮かべていると。
「がぁぁぁあああっっっ!!」
 咆哮と共に二刀を携えた両腕が、激情のまま奔る。九尾の尻尾が独立した意志を持つかの如く唸りを上げ、その眩い弾幕の壁を力技で断ち割っていく。
 飯綱権現をその身に憑ろした様は正に雷神。黄金の輝きを振り撒いて虚空を駆ける。手にした二刀は頑丈さだけが売りの青竜刀。その滑らかな曲線を持って、切り伏せた後も斬撃の速度を殺す事なく次なる獲物を迎え撃つ。百の斬撃は千の欠片を生み出し、刀が砕ける度に新たなる刀を取り出して、一瞬たりと止まる事なく、吹き荒れる嵐のように。
 なのに襲い来る弾幕が止まらない。終わらない。果てが――ない。
 この弾幕に意志はない。定められたパターンを進むだけのただの壁。意志を持った攻撃であれば、その身に引き寄せ一気に駆け抜ける事もできようが、こうも規則的にこられては受けに回るしかなかった。
 しかもこの圧倒的な物量はどうだ。
 先程からこの繰り返し。尽きる事なく無限に湧いてくる宝石の海。
 霊夢も紫も、虚を突き相手の隙を逃さず攻める事を得意としていたが、このような物量戦、消耗戦ともなれば奇手も使う暇もない。
「ああもう! 鬱陶しいわね!」
 霊夢がやけくそ気味に、手持ちの符を一斉に投げ付ける。本来なら自動的に敵を追尾し打ち倒す無敵の符なのだが――
「くっ、またなのっ!」
 眩い煌きと共に蒼と翠の欠片が宙に舞う。全ての符が術者に届く前に弾幕に阻まれて相殺される。
 歯噛みしながらなおも符を放とうとするが、その手を紫が押し止めた。
 霊夢の顔に怒りが浮かび、文句の一つも言ってやろうと振り向いて――その顔が強張る。
 紫の顔に、いつも浮かべていた余裕がない。そんな顔を見るのは初めてだった。
 何を考えているか解らない、いつだって、どんな時だって余裕たっぷりの仕草で、相手を小馬鹿にするような笑みを浮かべて……それが、それこそが紫だった筈なのに。
 霊夢は口を噤み、再び術を編むべく詠唱を始めた。他人に気を回す余裕などないのだから。
 実際――紫も戸惑っていた。それこそ表情をコントロールする余裕もないほどに。
 この部屋におびき出されてからというもの、境界を操る力が上手く使えない。それは紫を紫たらしめる力が失われた事を意味していた。
 ここは異界。物理法則もまた現世とは異なっている。この捻じ曲げられた空間で迂闊に力を使えば、何処に繋がるか知れたものではない。そんな危険な賭けは出来ない。
 能力が使えないとなれば、後は単純な力と力の勝負。
 そんなシンプルな戦いなど紫の流儀ではないし、ましてやこれほどの魔力を惜しげもなく注ぎ込む底なしの化け物相手となれば、弾幕ごっこといえど遊びで行うには剣呑過ぎる。
 左右同時に迫る弾幕を傘を開いて弾き返しながら、紫は思考速度を上げた。弾幕速度、角度、タイミング、そこから活路を見出すための演算を、迫る弾幕を払いのけながら同時に行う。
 二万五千通りに及ぶシミュレーション――それを一瞬で済ませ、弾き出された結論に唇を噛んだ。
 紫の顔に迷いが浮かぶ。
 だが瞳を閉じ、迷いを断ち切って、
「……藍、結界を張るわ。こちらはこちらで何とかするから、貴女は貴女で何とかしなさい」
 非情とも思える言葉を、自らの式に投げ付けた。
 この押し寄せる弾幕を単独で凌げ――それは死刑宣告に等しい。
 しかし藍は、己が主の言葉に是非すら問わず、血染めの顔でにたりと哂った。
「……八雲が式、藍が織り成す幻影演舞。我が主よ、とくと照覧あれ」
 白面金剛とまで呼ばれた古の大妖――その本性を剥き出しにして。
 そして霊夢もまた、その言葉に反応した。理屈ではなく勘で紫の真意を悟り、懐へと手を伸ばした。
 懐から取り出した数千にも及ぶ符の束。狙いもつけず無造作に放られた無数の符は巨大な壁となり、押し寄せる波を一瞬だけ押し返す。
 そして霊夢は即座に紫の背後に回って、次なる呪を唱え始めた。
 霊夢が作り上げた一瞬の間。一秒にも満たぬ僅かな間であったが、その隙に藍は手にした青竜刀を投げ捨て袖口から一本の長刀を――ずるり、と――引きずり出す。
 野太刀――『無銘』
 刃渡り四尺二寸の斬馬刀に匹敵する長刀。
 それ程長大な武具を袖より引き出し、右足を前へ、柄を握った左手を後ろに回し腰溜めに構える。
 構えは居合。
 そんな長刀で居合など出来る筈もなく、それでも藍は迫り来る弾幕を前に三日月のように哂う。
 符の壁が破れ、弾幕の進軍が再開された。圧縮されたが故に密度を増し、それでも隊列を乱さず迫りくる無慈悲な死神を前に、藍は構えを崩す事なく。
 身を置きたるは、交差する弾幕より三歩前。格子の隙間にその身を置き、左右から削られようと微動だにせず、ただ機が満ちるのをひたすら待つ。
 吸息の息吹にて丹田に気を満たし、その瞳をすっと閉じて、時を……その時を……
 そして紫の朗々たる宣言が虚空に響いた。

 ――境符『四重結界』

 紫の鏡。正方形の四枚の鏡が回転し、艶やかな五芒星を生み出す。
 左右から押し迫る弾幕とはいえ、重なるのは自身を中心にしたただ一点。そこに合わせた強固な結界術。
 翠の光『エメラルド』が砕け散り、蒼の光『サファイア』が罅割れ、時空を揺さぶる振動と宝石の砕ける乾いた音が木霊する中、

 ――霊符『夢想封印 集』

 霊夢の術が完成する。
 それは自身が四方に散らした無数の符を一点に集結させる術。それにアレンジを加え、符ではなく周囲の弾幕を全て引き寄せた。
 規律正しく編まれた弾幕の壁が歪み、霊夢に――紫の張った結界へと萃められ、全方位から押し寄せる宝石の波が悉く結界に弾かれ砕けていく。
 紫の結界がぎしぎしと撓む。物理攻撃であれば完璧を誇る結界が、単純で圧倒的な物量に悲鳴を上げている。
 持って数秒。その後は結界が決壊し無残な結果が残るだけ。
 だが、数秒あれば十分。
 それだけの時間があれば……敵を千回刻んで釣りがくる!

 ――ざざざざざざざざんっ!

 奔ったのは一閃。
 それは視認できるのが一閃だけという事。連続する八の剣閃は一筋の帯の化して虚空を薙ぐ。
 鍔鳴りは硬質。刃鳴りは爆音。迸る閃光は空間そのものを断ち切るように。
 抜けぬ筈の長刀による居合。可能にしたのは『鞘ごと断ち切る』という力業。
 四尺二寸の刀身が雷のように疾り、音速を超えた刃先が衝撃だけで宝石を砕き、ただならぬ白光が世界を引き裂いた。
 異界が砕け、弾幕も消える。
 剣速に耐え切れなかった刀身は四散し、月面を模した幻覚も霧散し、後には無限の虚無が広がるだけ。

 残るは三人の人妖。そして無傷の――『敵』    

「驚いたわ。あれを抜けるなんて、ね」
 悠然と浮かび、こちらを見下ろす敵の姿。
 動脈と静脈を示す赤と青の衣は、医学に通じる者の証。
 星座をあしらった刺繍は『宇宙は我の内に在り』という不遜な意思。
 白く長い長髪を後ろで束ね、深遠なる瞳は無限の叡智を秘め、口元に浮かぶ笑みは純粋なる賞賛を侵入者たちに贈っている。
 あれ程苛烈で無尽蔵の弾幕を放った直後だというのに、その顔には疲労の影すらなく、いと高き神の座から下界を見下ろしていた。
「偉そうね。やっちゃいなさい、藍」
「そうね、遠慮はいらないわ。やっておしまい、藍」
「いや、やれるもんならやりたいですが……」
 まだ出血が治まらず、だくだくと頭から血を噴き出している藍に、霊夢と紫はにべなく言い放つ。   
 勿論そう言いながらも、後ろ手でさり気なく印を結んでいるのは二人とも流石というべきか。
 しかし敵もまた、それを見透かしているかのように楽しげな微笑みを浮かべていた。
「さて、貴女たちが何者なのかは知らないけれど……夜も更けてきたわ。睡眠不足はお肌の大敵なのよ?」
「月さえ返してくれれば、すぐにでも布団に入って眠るんですけどねぇ」
「返すわよ? 貴女たちが永遠の眠りに就いた後にね!」
 そして敵――八意 永琳――は両手を広げ、無粋な訪問者たちに無慈悲に死を宣告する。

 ――天呪『アポロ13』

 不吉な数字を冠した、人間の傲慢の象徴。
 それを戒める大宇宙の裁きが、虚空に青と赤の艶やかな華を咲かせた――


 §


 時間だけが過ぎていく。
 夜は未だ明けず、偽物の月だけが白々と。
 橙は未だ定まらぬ心を持て余し、ただ立ち尽くすだけ。
 涙はもう枯れた。声ももう枯れた。左手の箱は鈍く輝き、右手の符は握り締めてくしゃくしゃで。
 ひょっとしたら、待っていたのかもしれない。
 こうして悩んでいる間に異変が解決し、二人が帰ってくる事を。選択をしないで済ます事を――無意識に望んでいたのかもしれない。
 そんな事は良くある事。選択をすれば責任が生じる。責任は重く苦しい。
 だから選ぶ振りをしながら時間切れを待ち、あの時こうしていればと自分を慰める言い訳にする。
 それは卑怯者の生き様。真に重い選択を経験した事のない貧弱な精神。甘ったれた――矮小な魂。
 橙の中にそこまでの意識はない。そこまで腐りきってはいない。
 だけどいずれは堕ちるだろう。自分の生き様を他人に委ねる……卑屈な存在へと成り果てるだろう。
 そしてそれはもうあと僅か。夜が明けるまでの僅か数刻――

「――――!」

 突然、橙の身体が跳ねた。
 心臓に針を刺したような痛みに、思わず顔を上げ月を見上げる。
「藍さま!」
 それは魂で結びついているが故に感じた痛み。
 式として精神を共有する事によって結ばれた魂の道。それが伝えた。それが伝えてくれた。藍の痛みを、藍の苦しみを、藍の悲鳴を!
 左手には金の箱、右手にはぼろぼろの符。もう迷わなかった。一瞬たりと迷わなかった。
 縁側から居間へと戻り、箪笥から風呂敷を取り出すと箱を包んで首から提げる。
 間を置かず縁側へ戻ると、そこには嘲るような偽りの月。
 月を睨む。
 もう畏れない。そんな暇はない。悩んでいる暇も、無力を嘆いている暇もない。
 右手の符を胸に貼って式を憑ろし、縁側を蹴って空に舞う。  
 
 ――翔符『飛翔韋駄天』
 
 宙に浮かぶ橙の身体から超振動による波紋と高周波の波動、巨大な内燃機関がその爆縮を繰り返す激音が鳴り響き――そして星が生まれた。
 空に描かれた五芒星。自身で制御しきれぬほどの大加速によって生まれた軌跡が巨大な星を描き、そして生まれたばかりの蒼い星は夜を切り裂いて翔け抜ける。
 疾く、疾く、大切な人の待つ戦場へ――


 §


 暗い宇宙に取り残されたただ一つの存在――月。
 何もない、クレーターだらけの死んだ星。生命の存在を一切許さぬ、すでに終わってしまった世界。
 だがその世界で、定められた死に抗うように生命の華が咲いていた。
 赤く、青く、光が、生命が、星の瞬きのように――
 霊夢の符が、使い魔に阻まれて燃え尽きる。
 紫の弾幕が、永琳の放つ矢に掻き消される。
 そして藍は――血塗れで倒れていた。

 ――秘術『天文密葬法』

 月の頭脳とまで呼ばれた天才薬師の放つ秘術。
 全天を覆い尽くす使い魔たちが、発狂したかのように三色の弾幕を放つ。
 豪雨のように降り注ぐ弾幕は紫の張った四重結界の前に弾かれるが、次の瞬間には黒い暗黒球が結界を硝子のように粉砕した。
 圧壊――そう評するのが的確な熾烈な弾幕。天の下した裁きに、穢れし咎人は密かに葬られるのみ。
「……どうする? このままじゃジリ貧よ」
「あの使い魔を何とかしなきゃいけないんだけど……頼みの綱はこの様だしねぇ」
 紫は再び結界を張りながら、足元に転がる藍を見下ろした。その瞳は、口調と裏腹に痛ましい。
「無理はするなっていつも言ってるのに……この馬鹿式」
 毒づく紫の声にも張りがなかった。
 夜を止めるという大秘術に霊力の大半を奪われ、しかもこの現世から隔離された異空間では境界を弄ぶ事も出来ない。
 霊夢の符はその卓越した追尾性能故に、放たれた直後に使い魔へと誘われてしまって術者に届かない。
 そして頼みの綱である藍は――この様だった。
「夢想封印なら、あの邪魔なの吹き飛ばせるかしら?」
「無理ね。層が厚すぎるし……何よりあの陰険そうなのが黙って見てるとも思えないわ」
 そう、この苛烈な攻撃は恐るべき事に使い魔の攻撃でしかないのだ。
 本体である永琳はその右手に持った弓を冷徹に構え、使い魔を抜けてきたものを冷静に撃ち落すだけ。
 永琳の放つ矢は、黒い稲妻を纏った巨大な暗黒球と化して襲いくる。先ほど藍を討ったのもこの暗黒の矢。刀を振るい、使い魔たちを斬り払おうとしたところで狙撃された。
 その矢にどれ程の魔力が込められていたのか……咄嗟に矢を斬り落としたというのに、暗黒球が弾ける余波に吹き飛ばされ立ち上がることも出来ない。
 絶対的な包囲網と遠距離からの狙撃。これは最早戦いではない。一方的な殲滅である。
「弾切れを待つしかないけど……いける?」
「そういうのは好みじゃないけれど……正直無理みたい、ね」
 答える紫の顔にも疲労の色が濃い。
 今こうしている間にも藍の血は流れ、それを癒す為に紫の霊力が注ぎ込まれていた。通常なら地脈から力を吸い上げて無限の回復力と霊力を誇るというのに、この隔離された世界ではそれすらも侭ならない。その身に蓄えた霊力だけでは、持って数分。いや、その前に圧倒的な質量に押し潰され、無様な屍を晒すだろう。
「あんたが囮になっている間に、私がやっつける。どう?」
「この期に及んでそんな事言えるその精神……本当に羨ましいわ。真似したくないけど」
「それじゃ仕方ないわね。私が囮になるからあんたがやっつけなさい」
「え、ちょっと霊夢!」
 紫の制止にも耳を貸さずに結界から飛び出して、紅白の蝶が虚空を舞った。
 速度を落とさぬまま飛来する弾幕を、風に舞う羽毛のように避わしていく。
 人間の目は前しか見えない。だというのに背後から迫る赤弾を、噴き上げる青弾を、渦を巻く紫弾を紙一重で避わし続けている。
 それも――ただの勘だけで。
 何物も触れられない無重力の巫女。その二つ名に偽りなく、踊るように舞うように。
 避わしながら符を放つ。呪を唱えて結界に封じる。本体まで届かないのなら、立ち塞がる使い魔を全て叩き落すだけ、と。
 両手に符を携えて虚空を翔ける巫女は、神前で神楽を舞うように流麗で。
 束ねた黒髪を靡かせ、白き袖が羽のように広がり、赤いスカートの残像が鮮やかな軌跡を残して。
 霊夢は目を閉じていた。どうせ勘頼りならば視力など邪魔になると言わんばかりに。

 これが幻想郷『最強』と呼ばれる巫女の真価。

 その身のこなしではなく、その膨大な霊力ではなく、己の直感に一片の迷いも挟まず全てを託す――その精神こそが最強たる所以。
 放たれた符は使い魔たちを討ち滅ぼし、僅かづつではあるが敵の障壁を削いでいく。
 しかし――
「……まずいわね。あのままじゃ」
 紫の不吉な呟きが漏れる。
 敵の動きが変わった。いや正確には暗黒球の――永琳が放つ矢の――狙いが変わった。
 相手の中心線を狙って正確に放たれていた矢が、微妙にその狙いを外している。僅かに右へ。僅かに左へ。霊夢は紙一重で避わすが故に、その動きが予測可能な範囲から抜け出せない。
 それは獲物を捕らえる蜘蛛の罠。相手の避ける方向を誘導し、決定的な罠へと追い込むための布石。
 紫も霊夢もその危険をすでに悟っていたが、解っていても逃れられない。三連射で放たれた矢が、霊夢を巣の中心部へと追い込んだ。やがて巣に囚われた哀れな蝶は、翼をもがれ召されるだろう。それはすでに五手先の確定未来。確実な王手(チェックメイト)への布石。間断なく、隙間なく、全天を埋め尽くす弾幕は、逃げ出す事すら許さない。
 罠とばれるのが三流、罠と悟らせないのは二流、罠と悟られても逃がさないのが一流。
 手にした弓は伊達ではない。八意永琳――此処は彼女の狩り場なのだ。
 紫は口元を悔しそうに歪める。空間を弄ぶ事さえ出来れば、この包囲網を抜けて敵の背後に回る事も可能だというのに。
「……駄目元でやるしかないか」
 紫は手にした傘をくるりと回してから、右手を持ち上げた。後はその指先で空間をなぞれば、別次元の門が開くだろう。
 全てを知り、全てを能く為し、遍く存在するものこそが神の定義。そしてそれに等しき境界の力。だからこそこの異界に紫を封じ、その力を禁じたのだ。
 あの女が支配するこの世界で下手に力を使えば、亜空間に放り出され永遠に虚無を彷徨う事にもなりかねない。
 それでも紫は口元に笑みを浮かべ、散歩にでも出るような気軽さで、
「なるようになるでしょう」

 空間に亀裂を開こうと――

「……お待ちください」
「――藍?」
 足元に転がっている藍が、血染めの身体を起こし紫の足を掴んでいた。
 口から血を零し全身を赤く染めながらも、眼光にまだ力を残して。
「……寝てなさい。霊夢が囮になっている間ならこの結界も持つでしょう」
「……結界を解いて下さい。私が出ます」
「寝てなさいって言った筈よ」
 紫の顔から笑みが消えた。瞳が細められ、氷のように冷たい視線が藍を射抜く。
 だけど藍は――その瞳を正面から受け止めて、柔らかく微笑んだ。
「そんな命令は聞けません。それこそ……今更でしょう?」
「……死んじゃうかもしれないわよ?」
「死にませんよ。知っているでしょう? 私はしぶといんです」
 紫は藍の瞳を、藍は紫の瞳を見た。
 互いの顔がその瞳に映っている。表情を消した紫の顔を、微笑んでいる藍の顔を。
 それは一瞬であり、永遠でもあった。数多の想いを瞳に浮かべ、言葉を交わさず想いを交わす。
 そして紫は……瞳を逸らした。
「勝手にしなさい。後は任せるわ」
「はい!」
 立ち上がった藍の袖口から、幾つもの刀が零れ地面に突き立つ。
『備前長船大般若長光』『肥後胴田貫正国』『池田鬼神丸国重』『和泉守 藤原兼定』『伝天国 小烏丸』『相州五郎入道正宗』
 名だたる名刀。無論これらは本物ではない。その輝きを目にした藍が自ら叩き上げたいわば贋作。しかし藍の血を混ぜて打たれたそれらの刃は、本物すらも凌ぐ輝きを放っていた。
 右手に三刀。左手に三刀。そして九尾を逆立て刃と化す十五刀流。対人ではなく対国用決戦奥義。
 指の間に握った柄がぎちりと鳴る。妖怪の強靭な握力故に可能な魔神の業。血染めの顔に歓喜を浮かべ、戦場の匂いに身を捩らせて。

 三国を滅ぼした大妖怪――白面金剛が其処にいた。

 結界が薄れる。
 鎖が解き放たれる。
 そして藍は、最後にもう一度だけ紫を見て微笑むと、
「行って参ります!」
 振り返らずに戦場へと駆け出した。
 その様は鬼神。迫る弾幕を斬り捨て、全身を刃とし、触れるもの全て灰燼に帰す。
 その様は紫電。地を、空を、弾幕すら蹴り飛ばして宙を渡る。九尾は稲妻、剣閃は雷光。羅刹となり修羅と化して、藍が奔る。
 腕を、腹を、足を、肩を。弾幕が抉り、噴き出る血が宇宙(そら)を赤く染めても、止まる事なく戦場を駆けていく。

「馬鹿……」

 月面に取り残された紫の呟きも、もう届かないまま――

 §

「痛痛痛……ねぇ、てゐ? もう少し優しくやってくんない?」
「情けない事言わないの。この役立たず」
 銀の長髪に萎れた耳の少女の腕に、黒髪でふかふかの耳を持った少女が包帯を巻いている。
 畳敷きの広い和室には怪我をした兎が累々と転がっており、治療班の札を下げた兎が忙しそうに飛び跳ねていた。
「だってぇ……あいつら反則だよ。普通なら私の瞳を見ただけで同士討ちはじめる筈なのに」
「まぁ、どう見たって普通じゃなかったけどね。よし、終わり」
「ん……ありがと。でもさぁ、何で私がこんなぼろぼろになってるってのに、アンタは無傷なのよ?」
「日頃の行い?」
「どうせ、途中で逃げたんでしょ? 全く……役立たずはどっちだっての」
「私はほら、マスコットキャラみたいなもんだし? 戦闘なんて野蛮な事には向かないから」
「そんなゴツい杵ぶら下げて、どの口がそういう事いうかな?」
「主に私?」
「うわ、勝手に言ってろ」
 銀髪の少女は目を閉じて大の字に寝転がった。
 黒髪の少女が他の兎たちの手当てを始めている。「一回百円ね」とか言っているが、何処まで本気だろうか? 
「それにしても……師匠大丈夫かなぁ」
「大丈夫でしょ? 負けるところなんか想像もできないわよ」
「そりゃ、ねぇ」
「いいからほら、鈴仙も手伝ってよ。あんたの目は麻酔代わりになるんだからさ」
「はいはい。――と?」 
 襖の向こう、廊下の方から何やらどたばたと音がする。
 二人が顔を見合わせると、がらりと襖が開き一匹の兎が顔を出して叫んだ。
「侵入者です! 迎撃お願いします!」
「侵入者? また?」
 鈴仙が立ち上がり、てゐが目を丸くする。
 叫んだ兎は息を荒げ、襖に手を付いて持たれかかっていた。
「数は?」
「ひ、一人です……ですが、その……」
「どうしたの?」
「は、速過ぎて捉えきれません!」
 きん、と――鈴仙の瞳が赤光を放つ。全身傷だらけだが、その身体に再び闘志が漲り、
「出るわ。案内して!」
 そう言って弾丸のように廊下へ飛び出す。
 兎もまた、鈴仙の後を追いかけて廊下へ消えた。鈴仙と兎、二人分の足音がすぐに遠くなっていく。
「やれやれ、忙しい事……」
 てゐは動かない。顔色一つ変えない。
 一度だけちらりと廊下に視線を向けただけで、そのまま兎たちの治療を再開する。
「あの……行かなくて良いんですか?」
 手当てを受けていた兎が、心配そうに尋ねた。
 侵入者の撃退は、永遠亭の管理を担うこの黒髪の少女――因幡てゐ――の最優先任務。
 事実、最初の襲撃に際し、配下の兎を指揮し自ら迎撃に向かっていた。
 だけどてゐは、心配そうな顔をしている兎のおでこを軽く突付くと、
「あんたらの手当ての方が先よ」
 そう言って優しく微笑んだ――


 §


 走る、走る、黒猫が走る。
 床を、壁を、天井を。
 重力を無視して、疾風と化して、襲い来る兎たちを全て置き去りに。
 その様は疾風迅雷。その表現に一切の誇張なく黒猫は走る。
 右手から迫る散弾――当たらない。
 後方からの追尾弾――追い付かない。
 正面から一斉砲火――発射するより速く、壁を蹴って天井を駆け抜ける。
 止められない、止められない、止まらない!
 怪我により殆どの兎が戦列から離れているとはいえ、放たれた弾幕は一発たりと掠る事なく。
 しかも自らは攻撃せず、その脚と柔らかな身のこなしで兎たちを翻弄していく。
「――藍さま」
 呟く声に焦りが混じる。
 胸のどきどきが止まらない。嫌な予感が拭えない。両手に抱えた風呂敷を握り締めたまま、奥歯をぎゅっと噛み締める。
 まだ生きている。まだ生きている。まだ生きている?
 式として繋がりは感じている。目を瞑っていても居場所だって解る。
 だけどその繋がりは、今にも切れそうなくらい弱々しくて――
「邪魔しないでっ!」
 居並ぶ兎の群れの合間を縫うように、速度を殺さぬまま風のように駆け抜けた。伸びてくる無数の手を、身を沈め、飛び越え、身体を捻ってかわしていく。
 頭の中はすでに真っ白。限界を超えた身体がぎちぎちと悲鳴を上げ、見開かれた目は風圧で押し潰されそう。それでも速度を緩めず、ただひたすら奥へ奥へ奥へ!
「っあ!」
 閃光が肩を掠め――それでも止まらない。
「っく!」
 張り巡らされた銀糸がその身を刻み――引き千切って進む。
「っづあ!」
 背中に散弾が直撃――苦鳴が漏れ、身体が泳ぐ。それでも右手で床を掻き、倒れる事なくそのまま。
 すでに満身創痍。倒れる間もなく襲い来る罵声と暴力。それでも橙は走り続ける――大切な人が待つ場所へ、ぼろぼろの身体を引き摺って。
「そこまでよっ!」
 廊下の奥に赤い輝き。狂視を放つ鈴仙の瞳。
 橙の足が止まる。だがそれは一瞬。一瞬後には、
「退けぇぇぇえええ!!」
 板張りの床を踏み割るほどに蹴って、砲弾のように一直線に駈けていた。
 目の前に展開された無数の弾幕。不可視の真月。蟻の這い出る隙間もない緻密な壁。
 だが橙は迷わず、目を見開いたまま、その壁に頭から突っ込んでいった――


 §


 奔る、奔る、銀閃が奔る。
 縦に、横に、無尽に。
 右手の三刀が使い魔を断ち、左手の三刀が弾幕を砕き、九尾の尻尾が吹き荒れる嵐のように。
 その様は一騎当千。その表現に一切の誇張なく天狐は奔る。
 右手が霞み――使い魔が霧散。
 左手が弾け――赤青の光弾が弾かれ。
 九尾が畝り――迫りくる弾幕が根こそぎ薙ぎ払われる。
 空を埋め尽くす使い魔の群れも、光り輝く眩しき弾幕も、一切合財容赦なく、有象無象区別なく、全て、全て薙ぎ払う。
 しかしその身はすでに死に体。もはや流れる血すら存在しない。
 顔面蒼白。呼吸も困難。片足どころか両足とも棺桶に突っ込みながら、それでもなお止まる事なく。
「前に出過ぎよ! 下がりなさい!」
 霊夢の叫びも最早届かない。藍はすでに本能だけ戦っている。
 頭の中はすでに真っ白。戦の権化のように、ただ心趣くままに。雄叫びを上げて狐火を召喚し、鋼の刃に紫電を乗せ、心臓が動く限り、ただひたすら先へ先へ先へ!

 そんな中――ぽつりと脳裏に浮かんだのは、赤いおべべの少女の事。
 伝えたい事があった。伝えられない事があった。
 言葉に出来ないもの。言葉にすると嘘になるもの。
「ごめんな……橙」
 後悔ばかりが浮かんで消える。もっと上手くやれたのに。もっと上手く伝える事もできたのに。
 どうしていつも後からしか浮かばないんだろう。どうしていつも想いをカタチにできないんだろう。
 こんなに思っているのに、笑顔が見たいだけなのに、どうしていつも上手くいかないんだろう。
 白濁した意識の中で朧のように浮かんで消える。その笑顔が――はっきり思い出せない事がとても悲しかった。

 次に浮かんだのは、紫のドレスを纏った美しい横顔。いつも余裕たっぷりで微笑んでいたあの人の事。
『貴女は道具なんだから言う事を聞いていればいいの』
『勝手な事するなって、いつも言っているでしょう?』
『貴女は式よ。それ以上でもそれ以下でもないわ』
 そう冷たく言う癖に、そう言って私を叱る癖に、いつだって貴女が私に命じる時は――『任せるわ』でしたね。
 藍の顔に笑みが浮かぶ。
 戦いの最中だというのに、いま少しでその生命が消えるというのに。

「やっぱり、貴女は嘘吐きですよ――」

 橙もいつか解る日が来るだろう。
 言われるままでなく、言われた事を自分で考え、最良の行動を選択し、その責を自ら負う。
 それが大人になるという事。一人前の式という事。
 それはどうやら見れそうにないけれど。
 それはとても残念だけれど。
 刀を振るい、刀を振るい、刀を振り続ける。
 血路を開き、大切な主を護るために、その身を捨てて刃と化す。
 たとえこの身が朽ちようとも、たとえこの身が果てようとも――この想い、ある限り!


 §


「あの……馬鹿式」
 紫は奥歯が砕けそうなくらい噛み締め、周囲を覆っていた結界を解くと無数の針を放った。
 使い魔を通過し、本体へ直進するように妖力を込めた針。虚像を残して奔り、目標に到達した時点で具現化する必殺の武器。
 しかし――届かない。
 周囲を埋め尽くす使い魔の壁で、敵の姿を見つける事すら出来ない。出鱈目に放ったところで掠りもせず消耗していくだけ。まして能力に頼った戦いをしてきた紫は、弾幕を避わすのが精一杯で攻撃すら侭ならなかった。
 霊夢は舞いながら使い魔を撃ち倒している。藍も血塗れの身体で血路を開こうとしている。
 なのに……自分だけ何の役にも立っていない。せめてもの助けとして自身の妖力を藍に送るだけ。己の無力さに臍を噛む記憶など、遠い昔に捨て去ったというのに!
「くっ!」
 避わしきれなかった弾幕がその身を削ぐ。
 吹き出す血は鮮やかな赤。思わず傷口に目をやり、自身の血が赤かった事を久々に思い出した。

 ――逃げるか?

 この戦いに大義はない。
 この閉じられた異界で境界を操る事は容易ではないが、それでも別の空間に移る事は可能だろう。そして其処が何処であれ、その場所から元の世界に戻ればいい。
 再びこの異界に戻ってくる事は不可能だが、別にそんなの知ったこっちゃない。あいつは朝になれば月を元に戻すと言っていたし、その言葉に嘘はないだろう。
 逃げられる筈だ――自分一人ならば。
 二人を連れて逃げては悟られる。今はまだ僅かに現世と繋がっているが、妙な動きをすればあいつは完全にこの異界を隔離するに違いない。そうなってしまえば、逃れる術はなかった。
 今ならあいつの意識は藍と霊夢に向いている。こっそりと空間を渡って逃げ出す事だって――
「……らしくないわよねぇ」
 口の端に自嘲の笑みが浮かぶ。
 卑怯な思考を哂ったのではない。そこまで解っていながら、未だ死地に留まる自分を哂ったのだ。
 もし此処で自分一人逃げたら、藍はどんな顔をするのだろう? 泣くのだろうか。怒るのだろうか。それとも……憎むのだろうか。
 試すまでもない。答えはとうに知っている。

 笑うのだ。絶対に、あの馬鹿は――無事で良かったって。
 
「そんなのつまらないわ」
 だから紫は此処にいる。
 飛び交う弾幕に身を削られ、赤い血を流しながら。
 自らの式が生命を賭けて踊る舞台を、最後まで見届けるために――


 §


 永琳は眼下に踊る光彩を見ていた。
 眩いまでの生命の輝き――紅白の蝶。金色の獣。紫の貴人。
 これ程の輝きは、今までに見た事がない。胸を打つ程の眩さ。月のように冷えていた心を、熱くさせる程の。
「嗚呼、そういえば……あいつもいたっけね?」
 脳裏に浮かぶのは紅蓮の炎。全てを紅に染める少女の背中。
 千年に及ぶ旅路の最中にめぐり合った例外中の例外。姫にとって唯一の『特別』
 だがこの輝きはどうだ。
 あの炎に匹敵する――否、それ以上の眩い輝き。この輝きならば或いは。
「……埒もないわね」
 脳裏に浮かぶ仮定を否決。表情を消し、感情を殺し、新たなる矢を番える。
 思い描くは姫の事。
 艶やかな黒髪に、陶器のように白い肌。そして深く吸い込まれそうな漆黒の瞳。美しき――我が主。
 姫のために生きると決めたあの日から、己に掛け続けたただ一つの呪い。
『この身は全て。姫のために』
 だけどもし、この秘術を抜けたなら。
 ひょっとしたら、もしかしたら――
「……在り得ないけどね」
 左手に弓を構え、足を肩巾まで広げて背筋を伸ばす。
 宙に浮かんだ状態で胴作りなど無意味だが、これは精神統一するための大切な儀式。身体に刻み込んだ『死射』を呼び起こす魔術起動式。
 背骨を軸に肩、胴、腰、膝、踵の線が平行になるよう『五重十文字』を描き、大樹を抱くように弓構えをし、静かに吸い込んだ息吹を丹田へ溜める。
 心気合一。色即是空。弓を引いているという事すら忘我、五感を起動させたまま『死者』と化す。
 有と無。虚と実。その狭間を揺れる心と体。次第にその揺れ巾は小さくなっていき――ついに天地一如と成った。
 後はもう機械のように、身体に染み付いた動作をなぞるだけ。顔を曲げ視界に的を収めるが、狙うという我欲はすでに忘我。平行に番えた矢を、頭上に抱え『大三』へ移行。三分ほど引かれた弓。その中に身体を押し込むように胸で割っていき、弦と弓を軋ませながら大きく『引き分け』ていく。
 ぎりぎりと軋む弓。きりきりと唄う弦。押手の点と勝手の点が平行に結ばれ、正中線と射軸が美しい十字架を描いた。
 魔力を帯びた矢が黄金に輝き、その鏃が黒い雷光を放つ。その矢に一体どれだけの魔力が篭っているのか――それを知った時には、細胞すらこの世に残るまい。
 鷹のように細めた瞳が的付けを合わせる。

 狙うは金色の獣。
 その血塗れの顔は余りにも痛ましく、むしろこれは慈悲。

 否、狙うという意識すら因果地平の彼方。狙うのではない、待っているのだ。放つべき時、放つべき瞬間を。
 そのまま無限の停滞が過ぎ去るかの如く、あるいは瞬間を幾重にも重ねるが如く、限界まで弓を引き絞ってその時を待つ。
 放たれた黄金の矢は光の速度を超え、速度に比例して増大した質量は巨大な暗黒孔を生み出すだろう。
 射抜いたものを飲み込み、そのまま足元に広がる真実の月ごと最微塵に粉砕するだろう。
 苦しみなど感じまい。一瞬で全ては終わる。
 もうその顔に感情はない。能面のように無表情。忘我の域に至った精神はすでに己を殺している。
 生者のまま死者となり、生命を捨てて死を放つ――それが弓道。
 弓を極めた永琳にはその程度の事、呼吸を行うより簡単にできる。感情を殺す事も、自身を殺す事も、他人を殺す事も、その全てに差異はない。
 だけどその顔に、一瞬だけ哀しそうな表情が浮かんだ。
 その輝きを惜しむ気持ちが、僅かに的付けをぶれさせる。
「本当に……埒もない……」
 僅かに首を振り、再び狙いを定めたその顔には一切の感情はない。敵は敵。我は我。同情や憐憫など、この世で最も唾棄すべき愚行。
 もう間もなく会に至り、死射が放たれる。それは時間にして極限まで零に近い未来。
 哀しき獣を、穢れた民を、その苦しみから永遠に救うために――

  
 §


「オオオォォォッッッ!!」
 銀の剣閃は稲妻。金の暴風は征嵐。金色の獣が鬼神と化して突き進む。
 もはやその身は天の災い。立ち塞がる使い魔が、土塊のように微塵に刻まれていく。
「――禮!」
 無数の符が虚空を翔ける。出し惜しみなく、全ての符を放ち、紅白の蝶が舞い踊る。
 この荒れ狂う弾幕の渦で、それでもなお何物にも触れられる事なく、博麗の巫女が此処に在る。
「――結!」
 四重の結界が顕現する。その高貴なる紫色の輝きは何人たりと侵される事なく、前を行く二人をあらゆる災いから守り抜く。
 自身に回す余裕がないのかその身は幾度も抉られ、それでもなお己が式が織り成す絢爛舞踏を見守っている。
 誰もが持てる力を全て注ぎ込んで、その生命の全てを賭けて。

 だけど、それでも――あと一手足りない。

 この絶対的な包囲網を突破せんと三人の力を一点に集めるが、展開された陣が余りにも厚すぎる。
 正面の陣を藍が切り崩し、左右からの弾幕を紫の結界が弾き返すが、全方位からの集中砲火に少しずつ体力を削られていく。そのまま圧殺されるのは時間の問題。敵もそれを解っているからこそ、包囲を狭めて弾幕密度を上げていった。
 もうあと少しで藍の生命も止まるだろう。そうなれば後は雪崩のように、残された二人も後を追うしかない。
 弾幕の隙間から永琳の姿が見えている。あと少し、あと少しだというのに。
 藍の目にはもう敵の姿しか映っていない。赤青の衣を纏い、こちらを見下ろす銀髪の女。
 僅かに見えるその表情は何処か憂いを含んでいて――でもそれも一瞬。何かを呟いてからこちらに向けたのは、一切の表情が消えた顔。
 その挙動は自動的な機械。その眼光は裁きを下す大神。
 黒い稲妻を纏った矢が黄金の光を放ち、極限まで高められたその光は圧縮された恒星。
 今までとは比較にならない圧倒的な魔の流れ。世界を一つ殺せる力。

 ――間に合わない。

 藍の瞳が見開かれ、霊夢の頬が引き攣り、紫が声を上げようとした時、






 ぴ し り と。






「藍さまぁぁぁああああっっっ!!」
 硝子の砕ける音を立てて空間がひび割れ、一匹の黒猫が飛び込んできた。
 傷だらけの身体。涙と鼻水でべしょべしょな顔。
 赤い服は自身の血で濃く染まり、それでも身体を丸めて彗星のように虚空を駆け抜ける。
 彗星――狂った箒星。古の人々はそれを凶兆と怖れた。
 その凶星が夜空を渡る時、世界が終わるのだと。
 そう、今からこの壊れた世界は終わる。

 ――凶兆を告げる黒猫が現れたのだから。

 もう自分でも制御できない大加速。狂視の壁を破り、結界を破り、音の壁すら破った橙は、己の限界すらとっくにぶち破っていた。
 使い魔や弾幕を出鱈目に薙ぎ払い、この世界を終わらせるべく奔り続ける。
 とどめを刺そうと、内向きに矛先を向けていた使い魔たちの包囲陣。予期せぬ外側からの攻撃の前に、紙のように千切れ飛ぶしかない。
 明確な形すら与えられなかった仮初の命が、空を翔ける彗星に弾き飛ばされて消えていく。敵を倒すために生み出された命が、敵の姿を視認する間もなく散っていく。
 橙もまた敵など見ていない。ただ大切な人を守りたいという想いを速さに変えて、我武者羅に走っているに過ぎなかった。
 伽藍を守る者、仏舎利を取り戻すべく走り続けた神――『韋駄天』の名の下に、ただひたすら走り続ける!
 疾風怒濤。鎧袖一触。『猫(びょう)』突猛進。
 縦横無尽に空を駆け、使い魔たちを薙ぎ払い、そしてついに制御できないまま月面に激突した。
 衝撃に月が震え、土煙が立ち込める。新たなるクレーターが生まれ、そして土煙が消えた後には――横たわる黒猫の影一つ。
 どうしようもないほどにぼろぼろで、首に掛けた風呂敷包みを両手に抱え、死んでしまったかのように瞳を閉じて。
「ちぇ、橙!?」
 藍が目を見開いて、呆然となる。
 なんで橙が此処にいる? なんで橙があんなにぼろぼろになっている?
 頭の中が真っ白のまま、咄嗟に橙の元へ駆け寄ろうとして――
「藍!」
 紫の叫びが意識を呼び戻した。
 顔を上げれば、暗い虚空に浮かぶ敵の姿。
 眼前の使い魔は薙ぎ払われ、もう彼我を遮るものはなく、そして永琳の矢が今正に放たれようとした時、

 藍の心が真紅に染まった。

「―――――――――――――ォォォォオオオッッッ!!」
 獣の咆哮を上げて藍が疾る。
 手にした六刀のうち四刀は砕け、残りも刃毀れが激しくもう斬る事など出来ない。それらを虚空に投げ捨て素手のまま空を蹴る。
 もう理性は捨てた。意識も捨てた。
 本能に、その身体を突き動かす衝動に身を任せ、その身に憑ろした荼吉尼天の力を解放し、全身を雷と変えて。
 それは天帝の放つ雷の矢。眩いばかりの黄金の光が、闇を引き裂き貫いていく!

 その輝きを見た永琳の顔に、表情が戻った。
 理性が警鐘を鳴らし、レッドシグナルが視界を埋め尽くし、深層意識(イド)の海に沈めた恐怖が背筋を走る。
 それでもなお――悠然と。
 時を溯るかのような勢いで迫る藍へ、揺らぐ事なく番えた矢を解き放った。
 黒雷を纏って放たれた矢は時空震を引き起こし、捻じ切られた空間が断末魔を上げ、光すら超えた虚無が突き進む。
 発射から着弾まで0.0000000000000000000000000000000000000001セカンド。
 回避不能の不可視の弾丸。絶対的な死の閃光。逃れる事の出来ない『死射』

 だが――藍は弾いた。

 世界を滅ぼす矢を畏れる事なく、視線を敵に向けたまま。
 顔面に迫る矢を紫電を纏った裏拳で叩き落し、そしてその勢いを殺さぬまま身体を捻り九尾を出鱈目に振り回した。
 狙いなどない。ただ全てを根こそぎ薙ぎ払う純粋な暴力。三千世界の果てまで照らすあの日輪のように、黄金の尾が昏い夜を吹き飛ばす!
「くぁっ!」
 肋骨の砕かれる衝撃に永琳の顔が歪んだ。射撃後の一瞬の硬直、そこを狙われては防御や回避など出来るはずもない。
 音速に近い速度で月面に叩き付けられ、全身を貫く激痛に声すら失う。それでも咄嗟に立ち上がり、再び弓を構えようとした時――全てが終わった事を悟った。
 頭上には二匹の蝶。
 紅白と紫の蝶が、その羽根を大きく広げている。
「……負けちゃったか」
 かたり、と。その左手から弓が落ちる。
 永琳の顔に浮かんだのは安堵の表情。永い夜が明けたかのような晴れやかな顔。
 頭上から放たれる光彩の乱舞。それを眩しそうに見上げ、ゆっくりと瞳を閉じて、

 両手を広げて受け止めた――

 
 §


「――橙! おい、橙! 死ぬなよ……死ぬんじゃないぞ!」
「う……あ、藍さま……」
 傷だらけの橙が腫れ上がった瞼をうっすらと開いた時、畳に転がっていた橙を藍が両手で抱えていた。
 此処はすでに現世。
 永琳が敗れた事により異界は消え、元の畳敷きの広い和室に戻っている。
 如何なる魔法か室内には煌々と明かりが灯り、多くの兎たちが仲間の治療のために忙しく飛び回っていた。
 橙はぼーっとしたまま、跳ね回る兎を目で追った。ぐるぐると目が回って、頭がくらくらする。
 どうして此処にいるのか、どうしてこんなに身体が痛いのか咄嗟に思い出せない。だから、ただ一つ確かなもの――自分を抱き上げる藍の顔を見つめた。
 その身体は自分以上に傷だらけだったけれど、見る間にその傷が塞がっていく。
 地脈から霊力を吸い上げているらしいが、今の橙にはそんな事は解らない。
 だから一言。その心配そうな、いつも通りの顔を眺めて、
「良かった……無事だったんですね」
 安心したように微笑んだ。
 藍は言葉を失くして、橙の身体をぎゅっと抱き締める。
 力強い腕と柔らかな胸の感触。ずっと求めていたその温もりに、夢見るように目を閉じた。
 藍の金の髪が鼻を撫でてくすぐったい。だけどそのお日さまの匂いが、傷の痛みを忘れさせてくれる。
 このままずっと揺蕩っていたい――
 そう願いながら自分も藍を抱き締めようとして、自分の両手が何かを抱えている事に気が付いた。
 それはずっと首から提げていた風呂敷包み。身体はこんなにぼろぼろなのに、その包みにはほつれ一つない。
 暗い夜を翔け、長い廊下を抜け、そして月面に叩き付けられた時も、両手で大事に抱えていた風呂敷包み。
 慌てて藍から離れると、おそるおそる風呂敷包みを開いた。

 其処には傷一つない金色の箱。
 曇りのない表面がきらきらと輝いている。

「――良かった」
 橙の瞳から一粒の涙が零れた。
 その箱は八雲として守れと命じられた大切なもの。
 八雲の宝とまで紫に言われた、とても大切なもの。
 それを守り通し、藍も守る事が出来た。
 待っていろという言いつけは守れなかったが、怒られる事も見捨てられる事も覚悟で自分で決めた事。

 だから――後悔はない。

「紫さま」
「何?」
 いつの間にか隣に立っていた紫が、静かに橙を見下ろしていた。
 紫は笑っていない。怒ってもいない。ただ深く静かな瞳で橙を見ている。
 顔を上げた橙の瞳を真っ直ぐに。
 式としてではなく、子供扱いするのでもなく、一人の対等な存在として。
 身を起こした橙は、正座して膝の前に箱を置いた。紫もまた何も言わず橙の正面に腰を下ろす。
「この箱……お返しします」
「……」
「言いつけを破りました。どのようなお叱りも受けます」
 橙もまた、紫の瞳を正面から受け止めた。
 それは覚悟を決めた瞳。罰せられると知りつつ、それでもなお為すべき事を遂げた瞳。
 だからもう怖れない。まっすぐに主の瞳を見つめ、そして深々と頭を下げる。
「生命で贖う?」
「それを望むなら」
「顔も見たくないと言ったら?」
「……従います」
 粛々と、伏せたまま紫の言葉を受け止める橙。
 それは子供である甘えを捨てた顔。己の意志で道を決め、その責を負うと決めた顔。
「紫さま!」
「貴女は黙っていなさい」
 思わず声を上げた藍は、紫の瞳に射竦められて口を噤んだ。
 それ程までに苛烈で、厳粛で、非情な眼差し。
「――橙」
「はい」
「その箱を開けなさい。貴女にはその資格があるわ」
「は、はい」
 顔を上げた橙は、手にした箱に視線を落としてごくりと唾を飲み込む。
 空っぽだと思っていたが、やっぱり何か入っていたのだろうか。それとも開ける事が罰となるのだろうか。
 思わず紫の顔色を伺ってしまったが、細めた瞳はとても深くて、その色が読み取れない。
 だけどもう決めたから。受け止めると決めたから。大きく深呼吸して――その箱を開けた。
「……あれ?」
 何も入っていない。
 いや、奥に何かが……。
 箱の奥を覗きこむ。影になって良く見えないが、ぼんやりと何かが見える。
 目を凝らすと、ぼやけた像が少しずつはっきりとしてきて……

 栗色の髪と、黒い耳と、くりくりした瞳の女の子が――

「か、鏡?」
 外側を金箔で覆った箱。その内側もまた金箔が覆っていて、皺一つないその表面が箱を覗き込んだ橙を映している。
 驚いたように目を見開いた橙の顔を、ぼんやりと、でも確かに映していた。
「それが――八雲の宝よ」
 箱を覗き込んだまま、橙はぴくりとも動かない。
 紫はすっと音もなく立ち上がり、
「後の事は貴女に任せるわ、藍」
 黙ってその様子を見届けていた藍の肩を、ぽんと叩いた。
 藍は静かに微笑み、立ち去る紫の背中に深く頭を下げて橙の方へと向き直る。
 さて、罰は何にしよう。
 朝の修行を倍にしようか、それとも夜学をもっと重点的に行うか。
「――ま、後でいいか」
 手にした箱に、顔を伏せて泣いている橙。
 夜の森で、自分の無力さを嘆いていた時と同じ丸めた背中と震える肩。
 だけどこれは哀しみや怒りではなく――嬉しくて流す涙。
 だから藍は黙って、その頭を優しく撫でた。
 あの夜どうしても届かなかった右手。どうしても触れる事が出来なかった指先。その手がやっと届いた事が嬉しくて、

 藍も一粒だけ涙を零した――


 §


「紫さま。橙は?」
「寝ちゃったわ。傷も大した事なさそうだし、大人しくしてれば大丈夫でしょう」
「そうですか……良かった」
 そこは更なる異界の入り口。
 襖一枚隔てた其処は、無限に広がる大宇宙。
 その前に立つ人影三つ――紅白の蝶。金色の獣。紫の貴人。恐れも迷いもなく、その虚空の前に立っている。
 紫が突然くすくすと笑いだし、藍はそんな紫をきょとんとした顔で見た。
「どうされました?」
「ふふっ、あの娘ってば布団に寝かせつけた後も箱を手放さないのよ。よっぽど気に入ったのねぇ」
「それはそうでしょう。私だってあの時は――」
 紫は空間を渡って道を開き、橙をマヨヒガに置いてきた。
 流石に限界だったのだろう。あの後すぐに電池が切れたように眠ってしまった。その寝顔を思い出して、藍の顔にも笑みが浮かぶ。
「ちょっとあんたら何やってるのよ。置いていくわよ!」
「はいはい」
「それじゃ、行きましょうか!」
 霊夢の癇癪に二人は苦笑し、もう一度広がる虚空に目を向けた。
 もう夜も明ける。永い夜もいよいよ終幕。
 その前にもう一花。この夜の最後に相応しい艶やかな華。
 伝説の姫が贈る五つの秘宝。解決不能な五つの難題。しかし長い年月と幻想の力は、それらの問題を解くのに十分だった。
 霊夢の札が奔り、藍の爪が煌き、紫の弾幕が夜に咲く。
 永遠の闇を照らす眩い輝き。自らを燃やす星のように光り輝く美しき珠。
 そして輝夜もまた楽しそうに、光を受けて光を返した。恒星の輝きを受けて夜を照らす、あの月のように。
 真実の月が輝く中で繰り広げられる弾幕合戦。月の姫と踊る幻樂舞踏会。千の言葉を光に乗せ、万の想いを珠に込めて。
 憎しみや怒りなどの不純物は不要。ただこの幻の夜を心ゆくまで、

 さあ――楽しみましょう!


 §


 夜の博麗神社。
 本当の満月が幻想郷に戻ってきた。
 今までの月とは比べ物にならない程、力強く輝いている月。
 濡れたように滴る月光は、陽光に浄化されて干乾びていた幻想郷の幻想分に潤いを取り戻すだろう。
 そんな幻想郷らしい満月の夜の元で行われる事といえば――いつも通りの宴会騒ぎ。
 空には本物の満月。大きく、そして美しいその輝きに、人も妖も自然と心が躍る。
 普通の魔法使いが勝手に酒を奪って巫女に殴られる様を、人形遣いが呆れた顔で眺めていた。
 何故か月の連中までいて、お姫さまが巫女の肉団子を奪いながらけらけら笑う。
 ついこないだ戦りあったばかりだというのに、どいつもこいつも浮かれてはしゃぎながら。
 美味しい酒と美味しい肴、そして飲む口実さえあれば、敵も味方も人も妖怪も関係ない。それが幻想郷というものだ。
 多くの人妖が飲み、食べ、踊り続ける。誰も彼もが楽しそうに、本当に楽しそうに。
 いつの間にか宴に混じっていた氷精と宵闇妖怪が調子外れな歌を歌い、対抗意識を燃やした夜雀が騒霊たちの伴奏に合わせて大声を張り上げた。
 幽霊嬢の催促に肩を竦めてメイド長が料理を運び、夜の王が語る運命論を半信半疑で聞いていた庭師が真剣味が足りないと頭を殴られている。
 そして八雲一家も、当然のように宴に参加していた。
 橙が杯に映った丸い月に目を回し、藍がそれを支え、紫がくすくすと笑みを零す。
 歌う。踊る。騒がない時も騒ぐ時も騒ぐ! 幻想郷に真面目な顔など似合わない。そう、これこそがあるべき姿。

「ねぇ、藍さま」
「ん、どうした?」
「これからも……宜しくお願いしますね!」

 宴はまだまだ続く。
 そう、夜が明けようとも、幻想のある限り――


 §


「橙は?」
「寝てしまいました。どうやらかなり飲んだようで」
「まだまだ子供ね」
「確かに」
 そう言って笑いあう紫と藍。
 二人は社の屋根に腰を下ろし、心地よい夜風に身を任せていた。
 足元ではまだまだ賑やかな喧騒が聞こえている。きっと朝までこの賑やかな宴は続くのだろう。
 二人は秘蔵の大吟醸を持ち出し、屋根の上で秘密の酒宴を開いていた。こんな良い酒をあいつらに飲ませるのは勿体無い。
 藍が紫の杯に酒を注ぎ、自らの杯にも注ぐと、一度だけ杯を打ち合って美酒を味わう。
 二人の顔に浮かぶのは満面の笑み。美味い酒に言葉は要らない。ただその笑みだけがあれば良い。
「でも……懐かしいですね、あの箱。昔は私もやられましたよ」
「貴女たちは本当に似ているわ。あの時の貴女もあんな感じだったわね?」
「よして下さいよ。あの頃の私は本当に弱くて……それこそ何の役にも立たなかった。橙の方が凄いですよ」
「謙遜? 貴女らしくもない」
「事実ですよ。あいつはもっと強くなる。私よりも……ひょっとしたら貴女よりも」
「楽しみねぇ」
「ええ、本当に」
 眠る橙を思い浮かべ、藍の顔に笑みが浮かぶ。
 そんな藍の横顔を眺めながら、紫もまた微笑みを浮かべた。
 藍の杯に紫が酒を注ぐ。恐縮しながらその杯を受けた藍は、ご返杯とばかりに紫の杯へと注ぐ。
 そんな事を幾度も繰り返し、夜が更けていく。真円を描く月は、西の空に白々と輝いて――
「さて……そろそろ戻りましょうか?」
「そうね。眠くなってきたし……貴女は先に戻っていなさい。あと一献だけ飲んでいくわ」
「おっと、付き合いましょうか?」
「野暮ねぇ。やっと会えた真実の月よ? 一杯くらい二人っきりで酌み交わしたいわ」
「そうですか。では先に」
 藍が屋根から飛び降りて、紫は屋根の上に一人取り残される。
 夜風が髪を優しく撫でた。それを気持ち良さそうに受け止めながら、スキマを開いて右手を突っ込む。
 そっと引き抜いた右手には、箱が一つ乗っていた。紫は慈しむように、その箱を見つめる。
 それは橙が守り抜いた金の箱。八雲が守る大切な宝物。月明かりを受け、燐光のように淡く輝いている。
 蓋を開けて中を覗きこむと、金の髪と瞳が箱の中でゆらゆらと揺れていた。
「よっと」
 箱の中に左手を入れ、隅を指先で軽く押すと底面がくるりと回る。そのまま箱を斜めに傾けると、小さな珠がころころと転がり出た。
 それは海のように深く、空のように澄んだ蒼い珠。
 箱を脇に置いて、右手に乗せた蒼い珠にふぅっと息を吹きかけると、珠はふわりと宙に浮く。
 紫は月を背にふわふわと浮かぶ青い珠を眺めながら、手にした杯に最後の酒を注いだ。
「真実の月に乾杯、そして……」
 とても美しい蒼い珠。巨大な月を背負い、それでもなお翳る事なく。
 くるりくるりとゆっくり回り、表面に浮いた大地と棚引く雲もまたゆったりと。

「この蒼い星に――乾杯」

 白い月と蒼い星に向かって、杯を傾ける。
 きらきらと輝く透明な雫、酔ったように赤くなる月、嬉しそうに踊る蒼い星。
 そして雲一つない夜空から、時ならぬ柔らかな雨が降る。

 その雨は少しだけ――大吟醸の味がした。



      


                                      《終》
第三回SSコンペ投稿分に、加筆修正したものです。
これを書き上げた当時は自分の出来る目一杯を詰め込んだつもりでしたが、読み返すと色々と粗ががが。

そんな訳でコンペで頂いた意見を参考にしながら、修正してます。
とはいえ「直ってねーよ、馬鹿野郎」と言われるかもしれませんが、そこは現時点での目一杯という事で見逃してくださいなw

折角だから裏話。
この話は当初、永夜でお留守番の橙を書く軽めの話で考えてました。「好奇心は猫を殺すか?」って感じの仮タイトルで、我儘で気紛れなお猫さまを書いてみようと思っていたのです。
そしたらHodumiさんがぽつりと「永夜抄で橙出てるよ? 紫にずっと引っ付いてるじゃん」とか言うのですよ。
慌てて結界組でプレイすると、確かに紫のお尻になにやら赤いものががが。
「馬鹿野郎、ありゃリボンじゃねーか」「ははは」
とかいうやりとりがあって、あー永夜に思いっきり橙絡ませてみたら面白いかも……ってのが切欠です。
おかげで橙がえらく良い子になってしまいました。
おっかしーな、もっともっと猫っぽかった筈なのににに。

まぁ、出鱈目なIF話だからこそ、それに説得力を持たせようとしてこんな長文になってしまいましたが、楽しんでくれれば幸いですw
床間たろひ
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