紅魔館の前に構える巨大な門。その荘厳さたるや、そこらの城に引けを取らぬどころか圧倒しそうなほどに。
そしてその門を守る者として、紅魔館には門番隊があった。
一度侵入者があれば長く紅い髪を揺らして悠然と立ち向かう隊長、紅美鈴。
「……あづ……い……」
その姿は部下達の羨望の的だったのだが、当の本人はそんなことはつゆ知らず、今日も門の上にある見張り台でだれていた。
門番だからといっていつも門前に立っている訳ではない。もちろん門前に立つ事もあるのだが、それは主に敵と見なされた者が来た時くらいなもの。
そもそも大半の妖怪が空を飛び、一部の人間までもが空を飛ぶこの幻想郷において、そのような場面に出くわすのは非常に珍しい。
周りを湖に囲まれた紅魔館に地上からやって来る者はまずいない。
そうなると空からの侵入となるため、空中戦になるのがほとんど。
よって、門前に立つといった場面は自然と減ってくる。
もちろん察知して迎え撃つのは敵だけであり、客人にはそのような事はしない。
近付く影があれば、まだ館から視認できないような距離に居る状態でそのどちらであるかを見極め、対応を考えるのもまた美鈴の仕事である。
今までに何十、何百という者が紅魔館を訪れたが、美鈴はその全てを完璧に見極めていた。
それ以外にも館の周りの見回りや、隊員達のスケジュール管理、何故か庭の手入れから果ては館の修繕作業まで、美鈴の仕事は多岐にわたる。
その中には好きでやっているだけというものや、彼女を含む館内のメイド達を全て纏めるメイド長、十六夜咲夜から言い渡されてやっているものもあった。
館内で働くメイド達は皆忙しいという事もあって、美鈴のところに仕事が回ってくることは少なくない。
もちろん美鈴も暇という訳ではなが、それでも普段の仕事に加えて言い渡された仕事まで全てこなせているのだから、大したものなのだろう。
しかし、それだけ信頼を寄せられているのだと言えば聞こえはいいが、ようはただの雑用係にしか見られていないのだった。
「あと少しで交代のはず。心頭滅却すれば……やっぱり暑い……」
そんな中にあって、今日は久々に暇な日だった。
館に近付く影もなし、咲夜から何かを言われる事も無く、唯一の敵といえばこのうだるような暑さのみ。
事前に決めていたシフト通りに時間が過ぎていくのもいつ以来だろうか。頭の中でもう一度今日のシフトを確認し、交代に訪れるはずの部下の顔を思い出した。
同性の自分から見ても、可愛くて優しくてよく気が利くと、正に完璧とも言える彼女。
門番隊の中でなら、その実力も今や美鈴を除けばトップクラスだろう。
しかし容姿、性格、実力、その全てにおいて美鈴のほうが上回っているというのが門番隊全員の意見だったが、やはり当の本人である彼女だけがその事を知らないでいた。
だからこそ、部下達は美鈴の事を慕うのだろう。
「隊長、お疲れ様です。ここは代わりますから休憩しててくださいよ」
そうしてだれる事暫く。
暑さの所為か暇さの所為か、目の前に広がる湖を眺めながら取り留めのない思考に身を委ねていた美鈴がかけられた声にはっと気付いて振り向こうとしたが、そこでふと小さな違和感を感じてその首を傾げた。
「あれ? 私はまだ休憩じゃ……」
そして傾げたまま振り返るとそこには、
「いいじゃない。折角こうして言ってくれているのだから」
交代の為に訪れた少女の他に、何故か咲夜までいた。
「でも、この後はまだ見回りが……」
「大丈夫よ。今日は誰も来ないから」
そしてレミリアまでいた。
「――なんで?」
∽
門の上から下り、館へ向かう道から一本横に入った小道を三人が歩いていた。
先頭を歩く美鈴の後ろに日傘を持った咲夜と、その横に並ぶレミリアが続いていく。
未だに状況が飲み込めていない美鈴は終始疑問符を飛ばしていたが、後ろを歩く二人はそれが当然だといわんばかりに澄ました顔のままだった。
『美鈴、今から休憩だというのなら丁度いいわ。貴女の部屋に案内なさい』
『いえ、ですので私はまだ……』
『貴女、まさかお嬢様の申し出を断るとでも?』
『そ、そんなことは! ……でもいいんですか? 本当に』
『大丈夫ですよ。隊長の分は皆でカバーしておきますから。どうぞごゆっくり』
『でも……』
『ほら、いつまでもお嬢様を待たせるものじゃないわよ。さっさと歩く』
『……はぁい』
そんなおかげで今の状況があるのだが、美鈴が疑問符を飛ばすのにはもう一つ理由があった。
見られている。
一人や二人からではない。あらゆる方角から数え切れないほどの視線。
それもそのはず、言わば紅魔館メイド――美鈴をメイドと呼ぶのは語弊がありそうだが――のトップである二人が揃って歩いているのだ。
しかも普段この時間は寝ているはずのレミリアの姿まである。
物好きなメイドでなくとも、ついそちらに目を向けてしまうのは仕方のない事だろう。
「着きましたよ?」
遂に最後まで首を傾げたままだった美鈴が、やはり首を傾げたまま自室の戸をがらがらと開けた。
何故がらがらなどという音がするのか。答えは簡単。この部屋――というか長屋が和風建築だからという事に他ならない。
長屋なのだから和風なのは当たり前なのだが、すると今度は何故こんな所に長屋があるのか、という疑問が浮かんでくる。
湖の中にぽつんと浮かぶ島、その中心に紅魔館は建っているのだが、この長屋は島の中でも端の方に位置し、木々によって遮られたその空間は一見すれば紅魔館の敷地内であるとは誰も思わないだろう。
真ん中を通る道を挟むように並ぶ二つの長屋。その右側の一番手前が美鈴の部屋だった。
この長屋は主に門番隊や外回り担当の者が使っている寄宿舎のようなものなのだが、なにも最初からこうだったのではない。
最初はこの二つの長屋も長屋などではなく洋式のしっかりとした建物だったのだが、いつかレミリアがここを訪れた際、何を見たのか「……似合わないわ」と漏らし、その一言によって今の長屋に作りかえられたのだった。
「なんにも無い所ですが……」
美鈴が靴を脱いで上がり、振り向いて二人を迎えた。
二人一度に通れるほどに戸口は広くないので、自然と一人ずつになる。
「ほんとう、何も無いわね」
先に入ってきたレミリアが、ぐるりと首を回して一言。
畳の敷かれた部屋の中はこざっぱりとしていて、しかし無機質という程でもなく。
右手には部屋を仕切るための襖が立ち並んでいる。
中央に置かれた和机には小さな花瓶に生けられたのは菖蒲だろうか。
「お嬢様、飾り付けできましたよ」
しかし、次に聞こえてくるはずの咲夜の声は美鈴の後ろから聞こえてきていた。
普通に考えれば時間を止めて先に部屋に上がったと考えられるが、流石の美鈴も予期せぬ事態が次から次へと起こって軽く混乱していた所為か、え? あれ? とうろたえてしまっていた。
「流石咲夜、早いわね」
そんな美鈴の横を日傘を差したままのレミリアがすっと通り過ぎていく。
その足取りは真っ直ぐと部屋の奥へ。
六畳間の部屋を通ればそこには障子戸の前に立つ咲夜の姿があった。
レミリアが立ち止まると、咲夜は音も立てずに障子を横に滑らせる。
その瞬間、縁側から入り込む強い日差しと共に舞い込んだ一陣の風が三人の髪を撫で上げた。
そして聞こえてきた、りん――という軽やかな音。
「あ……」
それまで呆然としていた美鈴は、その音に我を取り戻すと二人の元へと歩いていった。
「これは……」
「風鈴。香霖堂に行った時に見かけたからついつい買ってきてしまったのだけれど、館の方だと似合わないでしょ? 如何ですか? お嬢様」
最後の一言はレミリアに向けられたもの。
レミリアは目を瞑ったまま風に乗って奏でられる音色に耳を傾けていたが、満足したのかうんと一度小さく頷いた。
「悪くないわね」
そうですか、と微笑む咲夜を前に、しかし美鈴はまたしても首を傾げていた。
「あれ? でも風鈴って確か魔除けの意味もあるんじゃ……」
「この程度で魔が退いてくれるのなら、さぞ風鈴屋も大儲けでしょうね」
「まったく。確かに騒がしい連中ならこんな音は嫌うでしょうけど、私は気に入ったわ。なるほど咲夜が昼間じゃないと意味がないと言った通りね」
風に揺られて鳴らされるその音はどこか涼しげで、うだるような午後の暑さを忘れさせるように。
暫らくの間、三人は立ったまま風鈴の奏でる音に聞き入っていた。
それは目を閉じればどこか別の世界へ連れて行ってくれそうで。
「懐かしい、わね」
そんな中でぽつりと漏れた、レミリアの小さな呟き。
何故だろうか、風鈴という物を今日初めて見て、その音を初めて聞いて。
似たような物も見たことはない。
なのに何故、この音はこんな感情を抱かせるのか。
「夏、ですから」
聞こえていたのだろうか、隣に立つ咲夜が返す。
しかし、レミリアにはその言葉だけで十分だった。
そう、風鈴の音は思い出させるのだ。
騒がしい蝉の声を、高く伸びる入道雲を、野原に揺らめく陽炎を、、一層輝きの増す沢の流れを。
幻想郷には四季がある。
花咲き乱れる春があり、草木彩る夏があり、紅に散りゆく秋があり、白銀に染まる冬がある。
その四季を、その夏を、一度でも体感した事があるならば、風鈴の音は最も夏を思い出させる。
騒がしい蝉の声を、高く伸びる入道雲を、野原に揺らめく陽炎を、、一層輝きの増す沢の流れを。
時は流れ、季節は巡る。
その中で、たった一度しかない季節を、たった一度しかない日々を、風鈴は風に乗せて歌っていく。
だからこそ、風鈴の音色はこんなにも懐かしい。
「立ちっぱなしもなんですから、ちょっとお茶にでもしませんか?」
二人が振り向くと、いつの間に用意したのだろうか、和机の上には羊羹の乗った小皿が三つ。
そして盆に置かれた同じく三つの湯飲みに美鈴がお茶を注いでいた。
「……紅茶はないの?」
「郷に入っては郷に従え、という中国のことわざがありまして。ここに来たからにはお嬢様といえど従ってもらいますよ」
「いいじゃないですか。美味しいですよ? 美鈴の作った羊羹は」
「……中国のことわざの割には出すのは和菓子なのね」
咲夜にも諭されて渋々腰を下ろしたレミリアだったが、言われた通り、羊羹もお茶もよく冷えていて美味しかった。
ついつい手が進んでしまったのか、あっさりと食べ終わってしまったレミリアが無言の要求を出すと、咲夜が自分の羊羹を半分に切り、片方を空いた皿へと移し変えた。
そんな二人のやり取りを見ていた美鈴が、思わずくすりと笑みを漏らす。
「でもやっぱり夏は嫌いよ。中々日が暮れないんだもの。また霧でも出そうかしら」
「そんな事をしたらまたどこかの巫女が飛んできますよ」
「いいじゃない。今度こそあの時の借りを返してやるわ」
「私はもうあんなのの相手なんて嫌ですよぉ……」
縁側に吊るされた風鈴は今も風に揺られて小さな歌を奏で続けている。
この夏も、この日々も、いずれ終わってしまうだろう。
でもまた次の夏、その次の夏、そのまた次の夏、きっと風鈴は歌うだろう。
この夏を、この日々を、その音色に乗せて。
そしてその門を守る者として、紅魔館には門番隊があった。
一度侵入者があれば長く紅い髪を揺らして悠然と立ち向かう隊長、紅美鈴。
「……あづ……い……」
その姿は部下達の羨望の的だったのだが、当の本人はそんなことはつゆ知らず、今日も門の上にある見張り台でだれていた。
門番だからといっていつも門前に立っている訳ではない。もちろん門前に立つ事もあるのだが、それは主に敵と見なされた者が来た時くらいなもの。
そもそも大半の妖怪が空を飛び、一部の人間までもが空を飛ぶこの幻想郷において、そのような場面に出くわすのは非常に珍しい。
周りを湖に囲まれた紅魔館に地上からやって来る者はまずいない。
そうなると空からの侵入となるため、空中戦になるのがほとんど。
よって、門前に立つといった場面は自然と減ってくる。
もちろん察知して迎え撃つのは敵だけであり、客人にはそのような事はしない。
近付く影があれば、まだ館から視認できないような距離に居る状態でそのどちらであるかを見極め、対応を考えるのもまた美鈴の仕事である。
今までに何十、何百という者が紅魔館を訪れたが、美鈴はその全てを完璧に見極めていた。
それ以外にも館の周りの見回りや、隊員達のスケジュール管理、何故か庭の手入れから果ては館の修繕作業まで、美鈴の仕事は多岐にわたる。
その中には好きでやっているだけというものや、彼女を含む館内のメイド達を全て纏めるメイド長、十六夜咲夜から言い渡されてやっているものもあった。
館内で働くメイド達は皆忙しいという事もあって、美鈴のところに仕事が回ってくることは少なくない。
もちろん美鈴も暇という訳ではなが、それでも普段の仕事に加えて言い渡された仕事まで全てこなせているのだから、大したものなのだろう。
しかし、それだけ信頼を寄せられているのだと言えば聞こえはいいが、ようはただの雑用係にしか見られていないのだった。
「あと少しで交代のはず。心頭滅却すれば……やっぱり暑い……」
そんな中にあって、今日は久々に暇な日だった。
館に近付く影もなし、咲夜から何かを言われる事も無く、唯一の敵といえばこのうだるような暑さのみ。
事前に決めていたシフト通りに時間が過ぎていくのもいつ以来だろうか。頭の中でもう一度今日のシフトを確認し、交代に訪れるはずの部下の顔を思い出した。
同性の自分から見ても、可愛くて優しくてよく気が利くと、正に完璧とも言える彼女。
門番隊の中でなら、その実力も今や美鈴を除けばトップクラスだろう。
しかし容姿、性格、実力、その全てにおいて美鈴のほうが上回っているというのが門番隊全員の意見だったが、やはり当の本人である彼女だけがその事を知らないでいた。
だからこそ、部下達は美鈴の事を慕うのだろう。
「隊長、お疲れ様です。ここは代わりますから休憩しててくださいよ」
そうしてだれる事暫く。
暑さの所為か暇さの所為か、目の前に広がる湖を眺めながら取り留めのない思考に身を委ねていた美鈴がかけられた声にはっと気付いて振り向こうとしたが、そこでふと小さな違和感を感じてその首を傾げた。
「あれ? 私はまだ休憩じゃ……」
そして傾げたまま振り返るとそこには、
「いいじゃない。折角こうして言ってくれているのだから」
交代の為に訪れた少女の他に、何故か咲夜までいた。
「でも、この後はまだ見回りが……」
「大丈夫よ。今日は誰も来ないから」
そしてレミリアまでいた。
「――なんで?」
∽
門の上から下り、館へ向かう道から一本横に入った小道を三人が歩いていた。
先頭を歩く美鈴の後ろに日傘を持った咲夜と、その横に並ぶレミリアが続いていく。
未だに状況が飲み込めていない美鈴は終始疑問符を飛ばしていたが、後ろを歩く二人はそれが当然だといわんばかりに澄ました顔のままだった。
『美鈴、今から休憩だというのなら丁度いいわ。貴女の部屋に案内なさい』
『いえ、ですので私はまだ……』
『貴女、まさかお嬢様の申し出を断るとでも?』
『そ、そんなことは! ……でもいいんですか? 本当に』
『大丈夫ですよ。隊長の分は皆でカバーしておきますから。どうぞごゆっくり』
『でも……』
『ほら、いつまでもお嬢様を待たせるものじゃないわよ。さっさと歩く』
『……はぁい』
そんなおかげで今の状況があるのだが、美鈴が疑問符を飛ばすのにはもう一つ理由があった。
見られている。
一人や二人からではない。あらゆる方角から数え切れないほどの視線。
それもそのはず、言わば紅魔館メイド――美鈴をメイドと呼ぶのは語弊がありそうだが――のトップである二人が揃って歩いているのだ。
しかも普段この時間は寝ているはずのレミリアの姿まである。
物好きなメイドでなくとも、ついそちらに目を向けてしまうのは仕方のない事だろう。
「着きましたよ?」
遂に最後まで首を傾げたままだった美鈴が、やはり首を傾げたまま自室の戸をがらがらと開けた。
何故がらがらなどという音がするのか。答えは簡単。この部屋――というか長屋が和風建築だからという事に他ならない。
長屋なのだから和風なのは当たり前なのだが、すると今度は何故こんな所に長屋があるのか、という疑問が浮かんでくる。
湖の中にぽつんと浮かぶ島、その中心に紅魔館は建っているのだが、この長屋は島の中でも端の方に位置し、木々によって遮られたその空間は一見すれば紅魔館の敷地内であるとは誰も思わないだろう。
真ん中を通る道を挟むように並ぶ二つの長屋。その右側の一番手前が美鈴の部屋だった。
この長屋は主に門番隊や外回り担当の者が使っている寄宿舎のようなものなのだが、なにも最初からこうだったのではない。
最初はこの二つの長屋も長屋などではなく洋式のしっかりとした建物だったのだが、いつかレミリアがここを訪れた際、何を見たのか「……似合わないわ」と漏らし、その一言によって今の長屋に作りかえられたのだった。
「なんにも無い所ですが……」
美鈴が靴を脱いで上がり、振り向いて二人を迎えた。
二人一度に通れるほどに戸口は広くないので、自然と一人ずつになる。
「ほんとう、何も無いわね」
先に入ってきたレミリアが、ぐるりと首を回して一言。
畳の敷かれた部屋の中はこざっぱりとしていて、しかし無機質という程でもなく。
右手には部屋を仕切るための襖が立ち並んでいる。
中央に置かれた和机には小さな花瓶に生けられたのは菖蒲だろうか。
「お嬢様、飾り付けできましたよ」
しかし、次に聞こえてくるはずの咲夜の声は美鈴の後ろから聞こえてきていた。
普通に考えれば時間を止めて先に部屋に上がったと考えられるが、流石の美鈴も予期せぬ事態が次から次へと起こって軽く混乱していた所為か、え? あれ? とうろたえてしまっていた。
「流石咲夜、早いわね」
そんな美鈴の横を日傘を差したままのレミリアがすっと通り過ぎていく。
その足取りは真っ直ぐと部屋の奥へ。
六畳間の部屋を通ればそこには障子戸の前に立つ咲夜の姿があった。
レミリアが立ち止まると、咲夜は音も立てずに障子を横に滑らせる。
その瞬間、縁側から入り込む強い日差しと共に舞い込んだ一陣の風が三人の髪を撫で上げた。
そして聞こえてきた、りん――という軽やかな音。
「あ……」
それまで呆然としていた美鈴は、その音に我を取り戻すと二人の元へと歩いていった。
「これは……」
「風鈴。香霖堂に行った時に見かけたからついつい買ってきてしまったのだけれど、館の方だと似合わないでしょ? 如何ですか? お嬢様」
最後の一言はレミリアに向けられたもの。
レミリアは目を瞑ったまま風に乗って奏でられる音色に耳を傾けていたが、満足したのかうんと一度小さく頷いた。
「悪くないわね」
そうですか、と微笑む咲夜を前に、しかし美鈴はまたしても首を傾げていた。
「あれ? でも風鈴って確か魔除けの意味もあるんじゃ……」
「この程度で魔が退いてくれるのなら、さぞ風鈴屋も大儲けでしょうね」
「まったく。確かに騒がしい連中ならこんな音は嫌うでしょうけど、私は気に入ったわ。なるほど咲夜が昼間じゃないと意味がないと言った通りね」
風に揺られて鳴らされるその音はどこか涼しげで、うだるような午後の暑さを忘れさせるように。
暫らくの間、三人は立ったまま風鈴の奏でる音に聞き入っていた。
それは目を閉じればどこか別の世界へ連れて行ってくれそうで。
「懐かしい、わね」
そんな中でぽつりと漏れた、レミリアの小さな呟き。
何故だろうか、風鈴という物を今日初めて見て、その音を初めて聞いて。
似たような物も見たことはない。
なのに何故、この音はこんな感情を抱かせるのか。
「夏、ですから」
聞こえていたのだろうか、隣に立つ咲夜が返す。
しかし、レミリアにはその言葉だけで十分だった。
そう、風鈴の音は思い出させるのだ。
騒がしい蝉の声を、高く伸びる入道雲を、野原に揺らめく陽炎を、、一層輝きの増す沢の流れを。
幻想郷には四季がある。
花咲き乱れる春があり、草木彩る夏があり、紅に散りゆく秋があり、白銀に染まる冬がある。
その四季を、その夏を、一度でも体感した事があるならば、風鈴の音は最も夏を思い出させる。
騒がしい蝉の声を、高く伸びる入道雲を、野原に揺らめく陽炎を、、一層輝きの増す沢の流れを。
時は流れ、季節は巡る。
その中で、たった一度しかない季節を、たった一度しかない日々を、風鈴は風に乗せて歌っていく。
だからこそ、風鈴の音色はこんなにも懐かしい。
「立ちっぱなしもなんですから、ちょっとお茶にでもしませんか?」
二人が振り向くと、いつの間に用意したのだろうか、和机の上には羊羹の乗った小皿が三つ。
そして盆に置かれた同じく三つの湯飲みに美鈴がお茶を注いでいた。
「……紅茶はないの?」
「郷に入っては郷に従え、という中国のことわざがありまして。ここに来たからにはお嬢様といえど従ってもらいますよ」
「いいじゃないですか。美味しいですよ? 美鈴の作った羊羹は」
「……中国のことわざの割には出すのは和菓子なのね」
咲夜にも諭されて渋々腰を下ろしたレミリアだったが、言われた通り、羊羹もお茶もよく冷えていて美味しかった。
ついつい手が進んでしまったのか、あっさりと食べ終わってしまったレミリアが無言の要求を出すと、咲夜が自分の羊羹を半分に切り、片方を空いた皿へと移し変えた。
そんな二人のやり取りを見ていた美鈴が、思わずくすりと笑みを漏らす。
「でもやっぱり夏は嫌いよ。中々日が暮れないんだもの。また霧でも出そうかしら」
「そんな事をしたらまたどこかの巫女が飛んできますよ」
「いいじゃない。今度こそあの時の借りを返してやるわ」
「私はもうあんなのの相手なんて嫌ですよぉ……」
縁側に吊るされた風鈴は今も風に揺られて小さな歌を奏で続けている。
この夏も、この日々も、いずれ終わってしまうだろう。
でもまた次の夏、その次の夏、そのまた次の夏、きっと風鈴は歌うだろう。
この夏を、この日々を、その音色に乗せて。