「おい霊夢、聞いてくれよ」
春というにはいささか暑く、夏というにはまだ早い。
空を覆うように広がる薄い雲は日差しを遮る程でもなく、蒼の下で花を散らせた草木の緑が一層映える頃。
そろそろ夏服を出すべきか。そんな事を考えてはみたものの、結局春服のまま外へと飛び出し、やっぱり上着くらいは半袖にすべきだったかと少しの後悔。
幾分かの冷たさと、幾分かの暖かさを孕んだ風に自前の金髪を靡かせて、魔理沙は博麗神社の庭先へと降り立った。
「霊夢? 霊夢ー、れーいーむー」
だがしかし、いつもならば縁側でお茶を啜りながら「あんたも暇ねぇ」などと出迎えてくれる彼女の姿はそこにはない。
呼べども呼べども境内の中はしんと静まり返ったまま、魔理沙の声だけが虚しく響く。
「霊夢なら朝から出かけていったよー……」
と、不意に母屋の中からなんとも間の抜けた声が返ってきた。
縁側へと寄ってみると、部屋の中には家を空けた主の変わりに小鬼が一匹、卓袱台の上に上体を突っ伏していた。
「なんだ萃香、またこんな日も高い頃から一人で酒盛りか?」
「ち、が……」
「それにしても霊夢のやつは何処に行ったんだ? せめて私に茶菓子の一つでも用意してからでもいいだろうに」
一人ぼやきながら、魔理沙が縁側へと腰掛ける。
そもそも呼んでもいなければ知らされてもいない、突然の来訪者のために茶菓子を用意しておけというのも中々に酷な事ではあるのだが、そんな事はまるで気にしていないかのように、魔理沙はどうしたものかと足をぶらぶらと揺らしていた。
「まりさ~」
「なんだ、さっきからふやけた声ばっかり出して。遂に瓢箪の中身が空になったか?」
「いや、お酒はあるんだけど、それより……」
「それより?」
ぐぅぅぅぅぅ~~~~ぎゅるるるるる
鳴った。
鳴ったのだ。
それはあまりにも想定外の音で。
それはあまりにも唐突な事で。
一瞬、それが何の音だったのかが魔理沙には解らなかった。
まるで地獄の底から沸き立つ亡者の呻き声にも似たそれは、たっぷりと十秒は鳴り響いた。
やがて静寂を取り戻した場所に残っていたのは、呆然とした顔のまま固まっている魔理沙と、さめざめと涙を流す萃香の姿だけだった。
「お腹……すいた……」
∽
「なるほど。つまり昼飯をたかりに神社に来たはいいものの、用事があるからと出て行った霊夢には見捨てられ、あまりの空腹に動く事も出来ず、今に至る、と」
途切れ途切れに聞こえた言葉を繋げてそう纏めると、萃香は卓袱台に突っ伏したままこくこくと頷いてみせた。
そんな彼女にしてみれば、魔理沙の登場は正に奇跡であり、空から舞い降りてくるその姿は天使にさえ見えただろう。
「だがな、萃香。お前は一つとんでもない勘違いをしているぜ」
「ほぇ?」
靴を脱いで中へと上がった魔理沙がその薄い胸を反らしてふふん、と得意げに笑ってみせたが、それも一瞬の事。すぐにその笑みは崩れ、なよなよと卓袱台の上に突っ伏してしまったのだ。
「まさか……」
萃香が懐疑的な声を上げるものの、魔理沙はそれには応えず。代わりに返事をしたのは、先ほどの萃香のそれに負けるとも劣らない、腹の音だった。
「いやぁ、ちょっと三週間くらい家に籠っていたら、何時の間にか食料が無くなっててなぁ……」
もう一歩も動けないぜ、と言う魔理沙もまたさめざめと涙を流していた。
「そんなぁ……」
「あぁ、やっぱり香霖の所へ行くべきだったか。霧雨魔理沙、一生の不覚だぜ」
木々の枝葉が揺れる音も悠然と、生きとし生きるものが惜しみなくその生を謳歌する晩春の午後。
いつの間にか空を覆っていた薄い雲もすっかりと晴れ、丁度頭上にあったはずの太陽も、今は少しばかり西へと傾いていた。
庭先には益々強くなった日差しにその身を輝かせる蝶が舞い、吹き抜ける風が卓袱台の上に散りばめられた二人の長い髪をさらりと撫でていく。
ぐぅぅぅぅぅぅ(お腹すいたぁ)
ぎゅるる(言うな、余計に腹が空くぜ)
ぐぐぅ、ぎゅるん(いい加減、お腹と背中がくっつきそうだよ)
ごろごろごろごろ(そういえば、お腹と背中の境界ってどこなんだろうな?)
ぎゅるるるる(そんなの紫にでも聞いてよ)
ぐうううぅぅぅ(そうだな、今度会ったら聞いておいてくれ)
ぎゅるっ(なんで私が……)
「「……はぁ」」
外の陽気な空気とは正反対の陰鬱にまみれた溜息を吐いて、二人はまたぴくりとも動かなくなる。
そのままどれほどの時間が流れただろうか。
空は夕焼けとまではいかずとも、蒼の中に僅かに朱が差しはじめ、庭先で舞い踊っていた蝶達も、今は寝床へ帰ってしまったのか、その姿は無い。
と、いい加減その生死すらも怪しくなってきたであろう頃、不意に魔理沙ががばりとその身を起こした。
「いかん、いかんですよこれはー!」
「どうしたのさ、そんな人の人形壊した仮面男みたいな声出して」
「どうもこうもない。いいか萃香、これ以上ここでくたばっていたとしても、私達に訪れる未来は干物になって霊夢の晩御飯になるくらいだ。お前はそれでもいいのか?」
首だけをどうにか起こして自分を見上げる萃香をびしっと指差して、魔理沙は高らかに声を上げた。
無論、萃香だってこのまま干物になるつもりはない。つもりはないのだが、今この場所にある物といえば瓢箪の中で無限に湧き出る酒くらい。
だが空きっ腹に酒を入れるとどうなるか、それが解らない程に二人は酒に関して素人という訳でもなかった。
何か少しでも腹に入れられる物があったのならば、後は酒でどうとでも誤魔化す事も出来るだろうが、それもまた今は叶わぬ夢の話。家の中を探し回ったところで、出てきたのは安っぽいお茶の葉だけだった。
「だから、それがおかしいんだよ」
「それってどれさ」
「ああ見えて、あいつが食に困っている所なんて私は見た事がない」
「そういえば、宴会の時でもどっからともなく色々出してくるねぇ」
「そう。にも関わらず台所を漁ったところ出てくるのは茶葉ばっかりだ」
「確かに……」
魔理沙の出した疑問に、萃香もようやくその身を起こしてふむと頷いた。
言われてみれば、霊夢の私生活というのも色々と謎に包まれているではないか。
それほど頻繁に里に出入りしているという話もなく、また自給自足をしているとしても、境内には畑の一つも無い。
自然が溢れる幻想郷の中であれば、野菜の栽培などしなくともそこらの動物を狩ったり、食べられる野草を摘んでくるだけでも結構な物になるのだが、彼女がそういった事をしている場面を見た者は誰もいない。
「となれば、考えられる事はただ一つ」
「どこかに蓄えがある、と?」
果たして萃香の答えが魔理沙のそれと一致していたのか、金髪の黒白少女はにぃ、と口の端を上げてみせると縁側へと足を進めた。
「私が思うに、台所にある勝手口から出た裏にある、あの蔵が怪しいな」
「そりゃまぁ、あんな所にあるんだからそうなんだろうけど、あの蔵って入れるの?」
博麗神社、その母屋の裏手には確かに『ここは食料庫です』と言わんばかりに建てられている蔵がある。
ならば何故萃香がそのような事を言うのか。
たとえ普段から霊夢に『あの蔵には入るな』と言われているとはいえ、蔵はどこまでも普通の蔵であり、別に入り口が無いという訳でもない。
ただそれでも、文字通り『入れない』のだ。
何を考えたのか、蔵の周りにはご丁寧に物理的な結界が張られていて、鼠一匹中に入る事は許されない。
本人に聞いたところ、そのまんま『鼠避け』と返されたのだが、鼠の侵入を阻むために果たしてあれほど強固な結界を張ったりするのだろうか。
紫辺りにもなればまた話は別なのであろうが、博麗の巫女が本気で張った(と思われる)結界は、素人の魔理沙や萃香には到底どうにか出来る代物ではなかった。
「そういう場所にこそ、何かがあるってものだぜ。よく言うだろ? 危険を冒さなければ望みのものは得られないってな」
そう言って魔理沙は俯き加減なその顔に不適な笑みを浮かべたまま、脱いだままになっていた靴を履くと母屋の裏へと回っていった。
「で、何か策はあるの?」
蔵の前に立っても何も言わない魔理沙に不信感を覚えつつも、一応萃香が訊ねてみる。
が、魔理沙はぽんと萃香の肩に手を乗せると、これでもかと言わんばかりの笑みを浮かべ、そしてもう一方の手でぐっと親指を立ててみせたのだった。
「へ?」
「物理的な結界なんだから、物理的な衝撃を与えれば消えるはずなんだ。という事で後は任せたぜっ!」
「私に砕けって言うの!?」
「お前も鬼ならそれくらいやってみせてくれ」
「いや、そもそも言い出したのは魔理沙の方……」
「お前は干物になりたいのか?」
こうなってしまっては、鬼である萃香が勝てるはずもなく。一人蔵の前に立ち、がんばれー、などと他人事のように後ろから声援を送る魔理沙を恨めしそうに振り返るのに、そう時間はかからなかった。
「まぁ、でも」
改めて前へと向き直り、目の前に聳える蔵を見上げてぐっとその手に力を込める。
蔵自体はこじんまりとしたものなのだが、萃香が元から背が低いという事と、張られた結界の威圧感からなのか、それは何倍にも大きく見えて、結果見上げるような形になったのだ。
「いい機会だ。ここらで一つ、鬼の真髄、見せてあげるよ!」
胸の前でぱしんっ、と小気味のいい音を立てて拳を鳴らした瞬間、辺りの空気ががらりと変わった。
萃香を中心として力が渦を巻き、それに感化されたのか、山あちこちから鳥達がぎゃあぎゃあと鳴きながら飛び立っていく。
「おぉ!?」
力の渦はやがて風を呼び起こす。後ろに立っていた魔理沙は、お馴染みの三角帽子が飛ばされないように押さえながら、それでもその目は目の前で今正に渾身の一撃を放たんとする小柄な少女から離れない。
周りの木々が唸り声を上げ、舞い上がる力、闘気の渦は遥か高く、天まで届けと伸びていく。
半身の姿勢をとり、腰を落として溜めを作る。
やがて立ち上っていた闘気は構えられた右の拳に集まっていき……。
一瞬、風が止まり、全ての音が消え――
「だあぁぁぁぁりゃああぁぁぁぁぁ!」
雄叫びと共に右足を踏み出した萃香が溜めに溜めた右手を振りぬく!
凄まじい勢いで繰り出された右の拳は空を裂き、音を裂き、見えない壁を打ち破らんと結界へと迫り、そして――
ぐぅぅぅぅぅ~~~~ぎゅるるるるる
ぽこん
「もう、だめ……」
響いたのは結界を打ち破る音ではなく、腹の音。
萃香は力の抜けきった声で最後の一声を言い残すと、そのまま見えない結界にもたれかかるようにずるずると崩れていったのだった。
「お、おい萃香、しっかりしろ!」
慌てて駆け寄った魔理沙がその小さな体を抱き起こすが「お腹……」「ご飯……」などと呟くだけで、一向に復活の兆しを見せてはくれない。
「萃香? 萃香!? 萃香ーーーーーー!!」
魔理沙がその名を叫ぶほどに小さな体は徐々に生気を失っていき、それでも最後の力を振り絞って震える右手をあげようとしたその瞬間。
ぱりん、と。
硝子が割れるような音がしたかと思うと、目の前に立ち塞がっていた結界が音を立てて崩れていったのだ。
「おぉ!」
「あいたぁっ!?」
それを見た魔理沙が驚きの声を上げて立ち上がる。となれば、萃香の体は重力に従って地面へと落とされる訳で。
「なるほど、闘気に中てられた時点でもう割れていたんだな」
「うぅぅ、鬼の扱いはもう少し丁寧に……」
「いや悪気はなかったんだ。しかしこれでようやく食材が手に入るぜ。お礼に腕によりをかけて作ってやるから――な?」
「どしたの?」
意気揚々と蔵へと向かった魔理沙が、引戸に手をかけたまま固まっていた。
正確には、引戸を開けようと取っ手に手をかけたのだが、どうやら開かないらしい。
見た感じ鍵もかかっていないのだが、取っ手に両手をかけて、縁に足をかけて引っ張ってみてもびくともしなかった。
「……二重結界か。流石は霊夢だな」
「もう一回破れなんて言われても、もう力なんて出ないよぉ」
後ろでダレたままの萃香の泣きそうな声を聞いて、魔理沙はふむと顎に手を当て考えるポーズ。
「出来る事なら萃香に全部やらせておきたかったが、仕方がない、か」
「ちょっと待て」
だがそんな萃香のささやかな突っ込みなど魔理沙には届いていない。
懐からミニ八卦路を取り出して、両手で包み込むようにして持ったそれを結界に向けて突き出す。
狙うは一点。放つは一撃必殺、恋の魔砲。
「これも飯のためだ! 行くぜ、私の全力全開!」
発せられた声に呼応するかのように、構えられたミニ八卦路が光を放つ。
それはあまりにも強大で。
それはあまりにも眩しくて。
周りの空気がキィィィィィ、と音を立てて震えだし、心なしか呼吸も辛くなる。
「なんて出鱈目な魔力なのよ……」
後ろからその様子を見ていた萃香が漏らすように呟くと、それが聞こえたのか、頬に一筋汗を流す魔理沙は薄い笑みを浮かべてみせた。
「いっけぇぇぇぇぇぇぇ!」
そんな雄叫びも爆発音の中に掻き消えて。
放たれた光の軌跡は一直線に第二の結界へと向かっていき、難なくそれを吹き飛ばす。
それでもまだその勢いは留まるところを知らぬまま。
よもや蔵ごと吹き飛ばさんとする魔砲は十二分にその役目を果たし、そして後にはほんの少しの光の粒子と、肩で息をする魔理沙の姿。
だが、その時点で気付くべきだったのだ。
蔵の中へと吸い込まれていったはずの魔砲が、貫通もせずに消えたという事を――。
「おろ?」
蔵の中、薄闇に包まれたその中で何かが光ったような気がして、魔理沙が吹き飛ばした入り口へと近づいていく。
と、
「おわぁ!?」
蔵の外と中を分ける敷居を越えようとしたその瞬間、蔵の奥からいきなり何かが放たれたのだ。
それはとてつもない魔力を込められた、一筋の光の奔流。
先ほど魔理沙が結界を破るために放った、魔砲そのものだった。
「……けふっ」
入り口に立っていた魔理沙はそれをよける事も出来ず、光が過ぎ去った後には白黒から真っ黒になった少女が一人、これまた真っ黒な煙を吐いていた。
「何がどうなってるんだ?」
「魔理沙、あれ!」
「え? あ、おぉ!?」
なんとか気を取り直した魔理沙が萃香に言われて改めて蔵の中を見る。と、そこには酷く見覚えのある影が一つ。
「れ、霊夢!?」
そう、蔵の中に立っていたのは朝から出かけていたはずの霊夢だったのだ。
だが霊夢は何も言わない。それどころか袖からお札を取り出したかと思うと、いきなりそれらを二人目掛けて放ってくるではないか。
「ちょ、落ち着け、話せば解る!」
一見無造作に放たれたそれらは、けれど正確に二人を狙って飛来する。
だが蔵の入り口から飛び退るようにしてよけた魔理沙の呼びかけが届いたのか、そこで霊夢の攻撃はぴたりと止んだ。
「おぉ? なんだか今日は物分りがいいな」
「いや、違うよ……あれは霊夢じゃない」
「? どういう事だ? あんな攻撃、霊夢でもないと出来ないぜ」
「霊夢だけど、霊夢じゃない。式札で作ったコピー、かな?」
「式神って事か? あいつ、そんな事まで出来たのか」
「式札で作られた式神は、与えられた命令しかこなさない。さしずめ結界が破られた時のために用意された、第三の守護陣ってところかな」
「ははっ、そうなるとますますこの中が怪しくなってくるな」
果たして萃香の目論見が正しかったのか、霊夢は蔵から離れた二人に攻撃を加えるような事はなく、ただじっと蔵の中から見つめているだけだった。
一体この蔵の中には何が納められているのか。霊夢はどうしてこれほどまでに強固な守りを布いているのか。そんな事よりお腹が空いた。
二人の頭の中を様々な思惑が過ぎっては消え、また過ぎっては消えていく。
だがしかし、二人とも目の前に現れた敵に対して『ごめんなさい』と引き下がるような性格ではない。
そうなれば、次に取る行動はただの一つ。
すっかりと当初の目的を忘れた魔法使いと幻想の鬼は、互いに向き合うと一つ頷いて、再び蔵へと向かって邁進していく。
魔理沙が魔弾を放って霊夢の攻撃を弾き落とし、その隙に萃香が懐に潜り込むという、とても今結成されたばかりのタッグとは思えないコンビネーション。
「なんだ、大した事ないな」
「所詮は意思を持たない式神だからね」
人の形に切り取られた小さな式札へと姿を変えたそれを見下ろして、二人が勝利の声を上げる。
そもそも一対複数の場合を想定されていなかったのか、それとも萃香の言葉通り意思を持たない式故か、改めて挑んでみれば式神霊夢の攻撃は激しくはあるものの、その全ては一定のパターンの上に成り立っていて、一度見切ってしまえばどうという事はなかった。
「それより魔理沙、早くご飯作ろう、ご飯」
「ん? あぁ、そういえばそうだったな」
思い出したところでまた鳴ってしまった腹を擦りながら、二人は蔵の中へと歩みを進めた。
普段から手が入れられているのか、蔵の中は締め切られていたにも関わらず埃っぽくもなく、ひんやりと涼しくて思わずこのまま寝そべってしまいたくなる。
「なんだ、やっぱり食材置き場だったんだな」
それほど広くは無い蔵の中を見回して、魔理沙がうんうんと頷いた。
入り口の近くに置かれた籠の中には旬の野菜が取り揃えられ、奥に行けば漬物を漬けているのであろう瓶や、吊られた干し肉などが見て取れた。
いつの間に霊夢がそのような事をしているのかは解らないが、ともあれこれで彼女の食糧事情の一旦を知る事が出来た訳だ。
「おい萃香、何か食べたい物はあるか? これだけあればなんだって作れるぜ」
あちこちの籠を開けながら魔理沙が訪ねるが、一緒に蔵に入ってきたはずの萃香からの返事はない。
「萃香?」
「魔理沙……」
見ると、萃香は蔵の入り口に立ったまま、魔理沙の方を指さしていた。
「なんだどうした、私の顔に何かついてるか?」
「いや……うしろ……」
「後ろ?」
言われて振り向いたその瞬間、魔理沙の頬を何かが掠めていった。
「な……」
魔理沙の頬を掠めたそれは、そのまま入り口に立つ萃香の斜め上の壁に突き刺さる。
刺さった勢いのままに震えていたのは、一本の針。
そこから導き出される答えを見たくはなくて、でも見なければいけなくて。
ギギギ、と軋むように首を向けたその先には、やっぱりと言えばいいのか、霊夢の姿があった。
それも、たくさん。
「……どういう事だ?」
「大量に作っておいたんじゃないかなぁ?」
「それはアリなのか?」
「まぁ、霊夢だし」
その一言でなるほど、と納得してしまう魔理沙ではあったが、残念ながら今の状態はどうにも納得出来ない中にある。
「まぁなんだ。私が悪かった。大人しく出ていこう」
そう言って、魔理沙は持っていた籠の蓋をそっと元に戻して踵を返す。
だが相手は意思など持たない式神連中。そんな魔理沙の言葉など関係ないと言わんばかりに一斉に獲物を取り出し、そして放ったのだ。
「勘弁してほしいぜ、全く」
今度ばかりは式神達も本気なのか、二人が蔵を飛び出てからもその攻撃が止む事はなかった。
一つ一つの攻撃は大したものではなくても、あらゆる角度から休む暇もなく撃たれ続けたのではたまったものではない。
よけてもよけても攻撃は続き、倒しても倒しても新たな霊夢が現れる。
それがどれほど続いただろうか。背中合わせに立つ二人は息も荒く、立っているのがやっとというような状態だった。
「どうしたものかね」
周りをぐるりと囲む霊夢達を見て、魔理沙が漏らすように呟いた。
「やらなきゃやられる。ただそれだけさ」
背後から聞こえてくる萃香の声は、この中にあってもどこか楽しそうで。
もう体はとっくに限界だというのに、それを聞いた魔理沙もまた笑みを浮かべた。
「私の背中、お前に預けるぜ!」
「そっちこそ、途中でくたばるんじゃないよ!」
∽
「あー、慣れない事すると疲れるわねぇ」
西の空が朱く染まり、東の空に一番星が輝く頃。幻想郷の空を霊夢がふわふわと飛んでいた。
慧音に招かれて、朝から彼女の開いている寺子屋で里の子供達を相手にしていたのだが、博麗の巫女のなんたるかを説いていたのも最初だけ。後はもう子供達の遊び相手として延々付き合わされ、つい先程ようやく開放されたのだ。
気まぐれで何かをするもんじゃない。そんな事を思ったりもしたが、何故だか心の中はどこかさっぱりとしていた。
もう少しすれば訪れるであろう梅雨の季節。その前に一足先にやってきた小さな夏のような空の下。
まだ夏には少し早いと吹く冷たい風が、火照った体には気持ちよかった。
靡く髪を押さえる事もなく目を細めれば、思い出されるのはいつもと同じ、けれどいつもと違う、そんな今日という一日の出来事。
そこで不意に小さく腹が鳴り、霊夢は昼飯を食べる事も忘れて走り回っていた事を思い出した。
「そういえば萃香も来てたわね。そろそろ魔理沙も来る頃だろうし、今日の晩御飯はちょっと豪勢にしてあげようかな」
ふふ、と小さな笑みを零して、博麗の巫女は空を飛ぶ。
ゆっくりと、ふわふわと、その先で何が起こっているかも知らないままに――
∽
「……なに、これ」
その情景を見て、なんとか搾り出せたのはそんな一声だった。
整然と並んでいた境内の石畳はまるで荒地のように捲られていて、屋根が吹き飛んだ拝殿にはとても風通しのよさそうな大穴が空き、母屋があったはずの場所にはただただ瓦礫が山となっていた。
そしてその中心には二人の少女の影。
「あんた達……」
「おぉ、やっと本物の霊夢だぜ」
「長い……戦いだったよ……」
それは紛れもなく、魔理沙と萃香の二人だった。
だが瓦礫の上にへたり込む二人とも破れた服は最早布切れと化し、ほとんど全裸に近い状態で。体中に擦り傷や痣を作ったその格好は、女の子としてはいかがなものかと言わざるを得ないようなそれだった。
「あんたら! 何をしたらこんなになるのよ!」
だが霊夢からしてみれば、そんな事は関係ない。
いい気分で家に帰ってきてみれば、そこにあるはずの我が家が瓦礫と化していたのだから無理もないだろう。
「いやな、ちょっと百人の霊夢と対決を……」
「はぁ!? ――って、ちょっと待って。あんたらもしかして」
言うや否や、霊夢は二人の元から走り去ってしまった。
魔理沙の言葉に思い当たる節があったのだろう、その足取りは真っ直ぐに蔵があった方向へと向いていた。
走っていく霊夢の背中を見送っていた視線を空へと向けて、魔理沙があーっと気の抜けた声を出す。
いつの間にかすっかりと日は暮れて、空には一面に星が広がっている。
まだ梅雨も訪れていないというのに、透き通った空はこのまま夏まで続いているような気がして。
素肌を撫でる風がどこかこそばゆくて、でも何故だかそれが可笑しくて、二人は声を上げて笑い出す。
一頻り笑った後、不意に訪れた静寂。
まだ虫の声もない晩春の夜。
半分の月が浮かぶ空の下、無言のままに向き合った二人はへへっ、と小さく笑って、こつんと拳を突き合わせた。
「ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!」
「霊夢が何か叫んでるよ」
「ああ、叫んでるな。こりゃ怒られるだけじゃ済まないぜ」
「どうする?」
「どうする?」
そこでまた、二人は笑いあう。
もう本当に体は限界で。
もう本当に一歩だって動けない。
だけど。
けれど。
「逃げるが勝ちよ!」
「逃げるが勝ちだぜ!」
満天の星空へ向かって、二人の少女は飛び出した。
春というにはいささか暑く、夏というにはまだ早い。
空を覆うように広がる薄い雲は日差しを遮る程でもなく、蒼の下で花を散らせた草木の緑が一層映える頃。
そろそろ夏服を出すべきか。そんな事を考えてはみたものの、結局春服のまま外へと飛び出し、やっぱり上着くらいは半袖にすべきだったかと少しの後悔。
幾分かの冷たさと、幾分かの暖かさを孕んだ風に自前の金髪を靡かせて、魔理沙は博麗神社の庭先へと降り立った。
「霊夢? 霊夢ー、れーいーむー」
だがしかし、いつもならば縁側でお茶を啜りながら「あんたも暇ねぇ」などと出迎えてくれる彼女の姿はそこにはない。
呼べども呼べども境内の中はしんと静まり返ったまま、魔理沙の声だけが虚しく響く。
「霊夢なら朝から出かけていったよー……」
と、不意に母屋の中からなんとも間の抜けた声が返ってきた。
縁側へと寄ってみると、部屋の中には家を空けた主の変わりに小鬼が一匹、卓袱台の上に上体を突っ伏していた。
「なんだ萃香、またこんな日も高い頃から一人で酒盛りか?」
「ち、が……」
「それにしても霊夢のやつは何処に行ったんだ? せめて私に茶菓子の一つでも用意してからでもいいだろうに」
一人ぼやきながら、魔理沙が縁側へと腰掛ける。
そもそも呼んでもいなければ知らされてもいない、突然の来訪者のために茶菓子を用意しておけというのも中々に酷な事ではあるのだが、そんな事はまるで気にしていないかのように、魔理沙はどうしたものかと足をぶらぶらと揺らしていた。
「まりさ~」
「なんだ、さっきからふやけた声ばっかり出して。遂に瓢箪の中身が空になったか?」
「いや、お酒はあるんだけど、それより……」
「それより?」
ぐぅぅぅぅぅ~~~~ぎゅるるるるる
鳴った。
鳴ったのだ。
それはあまりにも想定外の音で。
それはあまりにも唐突な事で。
一瞬、それが何の音だったのかが魔理沙には解らなかった。
まるで地獄の底から沸き立つ亡者の呻き声にも似たそれは、たっぷりと十秒は鳴り響いた。
やがて静寂を取り戻した場所に残っていたのは、呆然とした顔のまま固まっている魔理沙と、さめざめと涙を流す萃香の姿だけだった。
「お腹……すいた……」
∽
「なるほど。つまり昼飯をたかりに神社に来たはいいものの、用事があるからと出て行った霊夢には見捨てられ、あまりの空腹に動く事も出来ず、今に至る、と」
途切れ途切れに聞こえた言葉を繋げてそう纏めると、萃香は卓袱台に突っ伏したままこくこくと頷いてみせた。
そんな彼女にしてみれば、魔理沙の登場は正に奇跡であり、空から舞い降りてくるその姿は天使にさえ見えただろう。
「だがな、萃香。お前は一つとんでもない勘違いをしているぜ」
「ほぇ?」
靴を脱いで中へと上がった魔理沙がその薄い胸を反らしてふふん、と得意げに笑ってみせたが、それも一瞬の事。すぐにその笑みは崩れ、なよなよと卓袱台の上に突っ伏してしまったのだ。
「まさか……」
萃香が懐疑的な声を上げるものの、魔理沙はそれには応えず。代わりに返事をしたのは、先ほどの萃香のそれに負けるとも劣らない、腹の音だった。
「いやぁ、ちょっと三週間くらい家に籠っていたら、何時の間にか食料が無くなっててなぁ……」
もう一歩も動けないぜ、と言う魔理沙もまたさめざめと涙を流していた。
「そんなぁ……」
「あぁ、やっぱり香霖の所へ行くべきだったか。霧雨魔理沙、一生の不覚だぜ」
木々の枝葉が揺れる音も悠然と、生きとし生きるものが惜しみなくその生を謳歌する晩春の午後。
いつの間にか空を覆っていた薄い雲もすっかりと晴れ、丁度頭上にあったはずの太陽も、今は少しばかり西へと傾いていた。
庭先には益々強くなった日差しにその身を輝かせる蝶が舞い、吹き抜ける風が卓袱台の上に散りばめられた二人の長い髪をさらりと撫でていく。
ぐぅぅぅぅぅぅ(お腹すいたぁ)
ぎゅるる(言うな、余計に腹が空くぜ)
ぐぐぅ、ぎゅるん(いい加減、お腹と背中がくっつきそうだよ)
ごろごろごろごろ(そういえば、お腹と背中の境界ってどこなんだろうな?)
ぎゅるるるる(そんなの紫にでも聞いてよ)
ぐうううぅぅぅ(そうだな、今度会ったら聞いておいてくれ)
ぎゅるっ(なんで私が……)
「「……はぁ」」
外の陽気な空気とは正反対の陰鬱にまみれた溜息を吐いて、二人はまたぴくりとも動かなくなる。
そのままどれほどの時間が流れただろうか。
空は夕焼けとまではいかずとも、蒼の中に僅かに朱が差しはじめ、庭先で舞い踊っていた蝶達も、今は寝床へ帰ってしまったのか、その姿は無い。
と、いい加減その生死すらも怪しくなってきたであろう頃、不意に魔理沙ががばりとその身を起こした。
「いかん、いかんですよこれはー!」
「どうしたのさ、そんな人の人形壊した仮面男みたいな声出して」
「どうもこうもない。いいか萃香、これ以上ここでくたばっていたとしても、私達に訪れる未来は干物になって霊夢の晩御飯になるくらいだ。お前はそれでもいいのか?」
首だけをどうにか起こして自分を見上げる萃香をびしっと指差して、魔理沙は高らかに声を上げた。
無論、萃香だってこのまま干物になるつもりはない。つもりはないのだが、今この場所にある物といえば瓢箪の中で無限に湧き出る酒くらい。
だが空きっ腹に酒を入れるとどうなるか、それが解らない程に二人は酒に関して素人という訳でもなかった。
何か少しでも腹に入れられる物があったのならば、後は酒でどうとでも誤魔化す事も出来るだろうが、それもまた今は叶わぬ夢の話。家の中を探し回ったところで、出てきたのは安っぽいお茶の葉だけだった。
「だから、それがおかしいんだよ」
「それってどれさ」
「ああ見えて、あいつが食に困っている所なんて私は見た事がない」
「そういえば、宴会の時でもどっからともなく色々出してくるねぇ」
「そう。にも関わらず台所を漁ったところ出てくるのは茶葉ばっかりだ」
「確かに……」
魔理沙の出した疑問に、萃香もようやくその身を起こしてふむと頷いた。
言われてみれば、霊夢の私生活というのも色々と謎に包まれているではないか。
それほど頻繁に里に出入りしているという話もなく、また自給自足をしているとしても、境内には畑の一つも無い。
自然が溢れる幻想郷の中であれば、野菜の栽培などしなくともそこらの動物を狩ったり、食べられる野草を摘んでくるだけでも結構な物になるのだが、彼女がそういった事をしている場面を見た者は誰もいない。
「となれば、考えられる事はただ一つ」
「どこかに蓄えがある、と?」
果たして萃香の答えが魔理沙のそれと一致していたのか、金髪の黒白少女はにぃ、と口の端を上げてみせると縁側へと足を進めた。
「私が思うに、台所にある勝手口から出た裏にある、あの蔵が怪しいな」
「そりゃまぁ、あんな所にあるんだからそうなんだろうけど、あの蔵って入れるの?」
博麗神社、その母屋の裏手には確かに『ここは食料庫です』と言わんばかりに建てられている蔵がある。
ならば何故萃香がそのような事を言うのか。
たとえ普段から霊夢に『あの蔵には入るな』と言われているとはいえ、蔵はどこまでも普通の蔵であり、別に入り口が無いという訳でもない。
ただそれでも、文字通り『入れない』のだ。
何を考えたのか、蔵の周りにはご丁寧に物理的な結界が張られていて、鼠一匹中に入る事は許されない。
本人に聞いたところ、そのまんま『鼠避け』と返されたのだが、鼠の侵入を阻むために果たしてあれほど強固な結界を張ったりするのだろうか。
紫辺りにもなればまた話は別なのであろうが、博麗の巫女が本気で張った(と思われる)結界は、素人の魔理沙や萃香には到底どうにか出来る代物ではなかった。
「そういう場所にこそ、何かがあるってものだぜ。よく言うだろ? 危険を冒さなければ望みのものは得られないってな」
そう言って魔理沙は俯き加減なその顔に不適な笑みを浮かべたまま、脱いだままになっていた靴を履くと母屋の裏へと回っていった。
「で、何か策はあるの?」
蔵の前に立っても何も言わない魔理沙に不信感を覚えつつも、一応萃香が訊ねてみる。
が、魔理沙はぽんと萃香の肩に手を乗せると、これでもかと言わんばかりの笑みを浮かべ、そしてもう一方の手でぐっと親指を立ててみせたのだった。
「へ?」
「物理的な結界なんだから、物理的な衝撃を与えれば消えるはずなんだ。という事で後は任せたぜっ!」
「私に砕けって言うの!?」
「お前も鬼ならそれくらいやってみせてくれ」
「いや、そもそも言い出したのは魔理沙の方……」
「お前は干物になりたいのか?」
こうなってしまっては、鬼である萃香が勝てるはずもなく。一人蔵の前に立ち、がんばれー、などと他人事のように後ろから声援を送る魔理沙を恨めしそうに振り返るのに、そう時間はかからなかった。
「まぁ、でも」
改めて前へと向き直り、目の前に聳える蔵を見上げてぐっとその手に力を込める。
蔵自体はこじんまりとしたものなのだが、萃香が元から背が低いという事と、張られた結界の威圧感からなのか、それは何倍にも大きく見えて、結果見上げるような形になったのだ。
「いい機会だ。ここらで一つ、鬼の真髄、見せてあげるよ!」
胸の前でぱしんっ、と小気味のいい音を立てて拳を鳴らした瞬間、辺りの空気ががらりと変わった。
萃香を中心として力が渦を巻き、それに感化されたのか、山あちこちから鳥達がぎゃあぎゃあと鳴きながら飛び立っていく。
「おぉ!?」
力の渦はやがて風を呼び起こす。後ろに立っていた魔理沙は、お馴染みの三角帽子が飛ばされないように押さえながら、それでもその目は目の前で今正に渾身の一撃を放たんとする小柄な少女から離れない。
周りの木々が唸り声を上げ、舞い上がる力、闘気の渦は遥か高く、天まで届けと伸びていく。
半身の姿勢をとり、腰を落として溜めを作る。
やがて立ち上っていた闘気は構えられた右の拳に集まっていき……。
一瞬、風が止まり、全ての音が消え――
「だあぁぁぁぁりゃああぁぁぁぁぁ!」
雄叫びと共に右足を踏み出した萃香が溜めに溜めた右手を振りぬく!
凄まじい勢いで繰り出された右の拳は空を裂き、音を裂き、見えない壁を打ち破らんと結界へと迫り、そして――
ぐぅぅぅぅぅ~~~~ぎゅるるるるる
ぽこん
「もう、だめ……」
響いたのは結界を打ち破る音ではなく、腹の音。
萃香は力の抜けきった声で最後の一声を言い残すと、そのまま見えない結界にもたれかかるようにずるずると崩れていったのだった。
「お、おい萃香、しっかりしろ!」
慌てて駆け寄った魔理沙がその小さな体を抱き起こすが「お腹……」「ご飯……」などと呟くだけで、一向に復活の兆しを見せてはくれない。
「萃香? 萃香!? 萃香ーーーーーー!!」
魔理沙がその名を叫ぶほどに小さな体は徐々に生気を失っていき、それでも最後の力を振り絞って震える右手をあげようとしたその瞬間。
ぱりん、と。
硝子が割れるような音がしたかと思うと、目の前に立ち塞がっていた結界が音を立てて崩れていったのだ。
「おぉ!」
「あいたぁっ!?」
それを見た魔理沙が驚きの声を上げて立ち上がる。となれば、萃香の体は重力に従って地面へと落とされる訳で。
「なるほど、闘気に中てられた時点でもう割れていたんだな」
「うぅぅ、鬼の扱いはもう少し丁寧に……」
「いや悪気はなかったんだ。しかしこれでようやく食材が手に入るぜ。お礼に腕によりをかけて作ってやるから――な?」
「どしたの?」
意気揚々と蔵へと向かった魔理沙が、引戸に手をかけたまま固まっていた。
正確には、引戸を開けようと取っ手に手をかけたのだが、どうやら開かないらしい。
見た感じ鍵もかかっていないのだが、取っ手に両手をかけて、縁に足をかけて引っ張ってみてもびくともしなかった。
「……二重結界か。流石は霊夢だな」
「もう一回破れなんて言われても、もう力なんて出ないよぉ」
後ろでダレたままの萃香の泣きそうな声を聞いて、魔理沙はふむと顎に手を当て考えるポーズ。
「出来る事なら萃香に全部やらせておきたかったが、仕方がない、か」
「ちょっと待て」
だがそんな萃香のささやかな突っ込みなど魔理沙には届いていない。
懐からミニ八卦路を取り出して、両手で包み込むようにして持ったそれを結界に向けて突き出す。
狙うは一点。放つは一撃必殺、恋の魔砲。
「これも飯のためだ! 行くぜ、私の全力全開!」
発せられた声に呼応するかのように、構えられたミニ八卦路が光を放つ。
それはあまりにも強大で。
それはあまりにも眩しくて。
周りの空気がキィィィィィ、と音を立てて震えだし、心なしか呼吸も辛くなる。
「なんて出鱈目な魔力なのよ……」
後ろからその様子を見ていた萃香が漏らすように呟くと、それが聞こえたのか、頬に一筋汗を流す魔理沙は薄い笑みを浮かべてみせた。
「いっけぇぇぇぇぇぇぇ!」
そんな雄叫びも爆発音の中に掻き消えて。
放たれた光の軌跡は一直線に第二の結界へと向かっていき、難なくそれを吹き飛ばす。
それでもまだその勢いは留まるところを知らぬまま。
よもや蔵ごと吹き飛ばさんとする魔砲は十二分にその役目を果たし、そして後にはほんの少しの光の粒子と、肩で息をする魔理沙の姿。
だが、その時点で気付くべきだったのだ。
蔵の中へと吸い込まれていったはずの魔砲が、貫通もせずに消えたという事を――。
「おろ?」
蔵の中、薄闇に包まれたその中で何かが光ったような気がして、魔理沙が吹き飛ばした入り口へと近づいていく。
と、
「おわぁ!?」
蔵の外と中を分ける敷居を越えようとしたその瞬間、蔵の奥からいきなり何かが放たれたのだ。
それはとてつもない魔力を込められた、一筋の光の奔流。
先ほど魔理沙が結界を破るために放った、魔砲そのものだった。
「……けふっ」
入り口に立っていた魔理沙はそれをよける事も出来ず、光が過ぎ去った後には白黒から真っ黒になった少女が一人、これまた真っ黒な煙を吐いていた。
「何がどうなってるんだ?」
「魔理沙、あれ!」
「え? あ、おぉ!?」
なんとか気を取り直した魔理沙が萃香に言われて改めて蔵の中を見る。と、そこには酷く見覚えのある影が一つ。
「れ、霊夢!?」
そう、蔵の中に立っていたのは朝から出かけていたはずの霊夢だったのだ。
だが霊夢は何も言わない。それどころか袖からお札を取り出したかと思うと、いきなりそれらを二人目掛けて放ってくるではないか。
「ちょ、落ち着け、話せば解る!」
一見無造作に放たれたそれらは、けれど正確に二人を狙って飛来する。
だが蔵の入り口から飛び退るようにしてよけた魔理沙の呼びかけが届いたのか、そこで霊夢の攻撃はぴたりと止んだ。
「おぉ? なんだか今日は物分りがいいな」
「いや、違うよ……あれは霊夢じゃない」
「? どういう事だ? あんな攻撃、霊夢でもないと出来ないぜ」
「霊夢だけど、霊夢じゃない。式札で作ったコピー、かな?」
「式神って事か? あいつ、そんな事まで出来たのか」
「式札で作られた式神は、与えられた命令しかこなさない。さしずめ結界が破られた時のために用意された、第三の守護陣ってところかな」
「ははっ、そうなるとますますこの中が怪しくなってくるな」
果たして萃香の目論見が正しかったのか、霊夢は蔵から離れた二人に攻撃を加えるような事はなく、ただじっと蔵の中から見つめているだけだった。
一体この蔵の中には何が納められているのか。霊夢はどうしてこれほどまでに強固な守りを布いているのか。そんな事よりお腹が空いた。
二人の頭の中を様々な思惑が過ぎっては消え、また過ぎっては消えていく。
だがしかし、二人とも目の前に現れた敵に対して『ごめんなさい』と引き下がるような性格ではない。
そうなれば、次に取る行動はただの一つ。
すっかりと当初の目的を忘れた魔法使いと幻想の鬼は、互いに向き合うと一つ頷いて、再び蔵へと向かって邁進していく。
魔理沙が魔弾を放って霊夢の攻撃を弾き落とし、その隙に萃香が懐に潜り込むという、とても今結成されたばかりのタッグとは思えないコンビネーション。
「なんだ、大した事ないな」
「所詮は意思を持たない式神だからね」
人の形に切り取られた小さな式札へと姿を変えたそれを見下ろして、二人が勝利の声を上げる。
そもそも一対複数の場合を想定されていなかったのか、それとも萃香の言葉通り意思を持たない式故か、改めて挑んでみれば式神霊夢の攻撃は激しくはあるものの、その全ては一定のパターンの上に成り立っていて、一度見切ってしまえばどうという事はなかった。
「それより魔理沙、早くご飯作ろう、ご飯」
「ん? あぁ、そういえばそうだったな」
思い出したところでまた鳴ってしまった腹を擦りながら、二人は蔵の中へと歩みを進めた。
普段から手が入れられているのか、蔵の中は締め切られていたにも関わらず埃っぽくもなく、ひんやりと涼しくて思わずこのまま寝そべってしまいたくなる。
「なんだ、やっぱり食材置き場だったんだな」
それほど広くは無い蔵の中を見回して、魔理沙がうんうんと頷いた。
入り口の近くに置かれた籠の中には旬の野菜が取り揃えられ、奥に行けば漬物を漬けているのであろう瓶や、吊られた干し肉などが見て取れた。
いつの間に霊夢がそのような事をしているのかは解らないが、ともあれこれで彼女の食糧事情の一旦を知る事が出来た訳だ。
「おい萃香、何か食べたい物はあるか? これだけあればなんだって作れるぜ」
あちこちの籠を開けながら魔理沙が訪ねるが、一緒に蔵に入ってきたはずの萃香からの返事はない。
「萃香?」
「魔理沙……」
見ると、萃香は蔵の入り口に立ったまま、魔理沙の方を指さしていた。
「なんだどうした、私の顔に何かついてるか?」
「いや……うしろ……」
「後ろ?」
言われて振り向いたその瞬間、魔理沙の頬を何かが掠めていった。
「な……」
魔理沙の頬を掠めたそれは、そのまま入り口に立つ萃香の斜め上の壁に突き刺さる。
刺さった勢いのままに震えていたのは、一本の針。
そこから導き出される答えを見たくはなくて、でも見なければいけなくて。
ギギギ、と軋むように首を向けたその先には、やっぱりと言えばいいのか、霊夢の姿があった。
それも、たくさん。
「……どういう事だ?」
「大量に作っておいたんじゃないかなぁ?」
「それはアリなのか?」
「まぁ、霊夢だし」
その一言でなるほど、と納得してしまう魔理沙ではあったが、残念ながら今の状態はどうにも納得出来ない中にある。
「まぁなんだ。私が悪かった。大人しく出ていこう」
そう言って、魔理沙は持っていた籠の蓋をそっと元に戻して踵を返す。
だが相手は意思など持たない式神連中。そんな魔理沙の言葉など関係ないと言わんばかりに一斉に獲物を取り出し、そして放ったのだ。
「勘弁してほしいぜ、全く」
今度ばかりは式神達も本気なのか、二人が蔵を飛び出てからもその攻撃が止む事はなかった。
一つ一つの攻撃は大したものではなくても、あらゆる角度から休む暇もなく撃たれ続けたのではたまったものではない。
よけてもよけても攻撃は続き、倒しても倒しても新たな霊夢が現れる。
それがどれほど続いただろうか。背中合わせに立つ二人は息も荒く、立っているのがやっとというような状態だった。
「どうしたものかね」
周りをぐるりと囲む霊夢達を見て、魔理沙が漏らすように呟いた。
「やらなきゃやられる。ただそれだけさ」
背後から聞こえてくる萃香の声は、この中にあってもどこか楽しそうで。
もう体はとっくに限界だというのに、それを聞いた魔理沙もまた笑みを浮かべた。
「私の背中、お前に預けるぜ!」
「そっちこそ、途中でくたばるんじゃないよ!」
∽
「あー、慣れない事すると疲れるわねぇ」
西の空が朱く染まり、東の空に一番星が輝く頃。幻想郷の空を霊夢がふわふわと飛んでいた。
慧音に招かれて、朝から彼女の開いている寺子屋で里の子供達を相手にしていたのだが、博麗の巫女のなんたるかを説いていたのも最初だけ。後はもう子供達の遊び相手として延々付き合わされ、つい先程ようやく開放されたのだ。
気まぐれで何かをするもんじゃない。そんな事を思ったりもしたが、何故だか心の中はどこかさっぱりとしていた。
もう少しすれば訪れるであろう梅雨の季節。その前に一足先にやってきた小さな夏のような空の下。
まだ夏には少し早いと吹く冷たい風が、火照った体には気持ちよかった。
靡く髪を押さえる事もなく目を細めれば、思い出されるのはいつもと同じ、けれどいつもと違う、そんな今日という一日の出来事。
そこで不意に小さく腹が鳴り、霊夢は昼飯を食べる事も忘れて走り回っていた事を思い出した。
「そういえば萃香も来てたわね。そろそろ魔理沙も来る頃だろうし、今日の晩御飯はちょっと豪勢にしてあげようかな」
ふふ、と小さな笑みを零して、博麗の巫女は空を飛ぶ。
ゆっくりと、ふわふわと、その先で何が起こっているかも知らないままに――
∽
「……なに、これ」
その情景を見て、なんとか搾り出せたのはそんな一声だった。
整然と並んでいた境内の石畳はまるで荒地のように捲られていて、屋根が吹き飛んだ拝殿にはとても風通しのよさそうな大穴が空き、母屋があったはずの場所にはただただ瓦礫が山となっていた。
そしてその中心には二人の少女の影。
「あんた達……」
「おぉ、やっと本物の霊夢だぜ」
「長い……戦いだったよ……」
それは紛れもなく、魔理沙と萃香の二人だった。
だが瓦礫の上にへたり込む二人とも破れた服は最早布切れと化し、ほとんど全裸に近い状態で。体中に擦り傷や痣を作ったその格好は、女の子としてはいかがなものかと言わざるを得ないようなそれだった。
「あんたら! 何をしたらこんなになるのよ!」
だが霊夢からしてみれば、そんな事は関係ない。
いい気分で家に帰ってきてみれば、そこにあるはずの我が家が瓦礫と化していたのだから無理もないだろう。
「いやな、ちょっと百人の霊夢と対決を……」
「はぁ!? ――って、ちょっと待って。あんたらもしかして」
言うや否や、霊夢は二人の元から走り去ってしまった。
魔理沙の言葉に思い当たる節があったのだろう、その足取りは真っ直ぐに蔵があった方向へと向いていた。
走っていく霊夢の背中を見送っていた視線を空へと向けて、魔理沙があーっと気の抜けた声を出す。
いつの間にかすっかりと日は暮れて、空には一面に星が広がっている。
まだ梅雨も訪れていないというのに、透き通った空はこのまま夏まで続いているような気がして。
素肌を撫でる風がどこかこそばゆくて、でも何故だかそれが可笑しくて、二人は声を上げて笑い出す。
一頻り笑った後、不意に訪れた静寂。
まだ虫の声もない晩春の夜。
半分の月が浮かぶ空の下、無言のままに向き合った二人はへへっ、と小さく笑って、こつんと拳を突き合わせた。
「ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!」
「霊夢が何か叫んでるよ」
「ああ、叫んでるな。こりゃ怒られるだけじゃ済まないぜ」
「どうする?」
「どうする?」
そこでまた、二人は笑いあう。
もう本当に体は限界で。
もう本当に一歩だって動けない。
だけど。
けれど。
「逃げるが勝ちよ!」
「逃げるが勝ちだぜ!」
満天の星空へ向かって、二人の少女は飛び出した。