※この作品は、Coolier様にある東方創想話の作品集17に投稿されていたものです。
静かな夜。
日中の暑さは何処かへ消え、夜気に冷やされた大気に目を覚ました蟲達が、どこか遠くで小さく鳴いている。
いや、蟲の声が聞こえる事を含め、さくさくと草を踏み締める自身の足音が遠くまで響くような錯覚すら覚える今夜は、静寂としたほうが良いだろう。時折吹いては草を撫でる風の音もまた、今夜は一際大きく聞こえる。
これは蟲が彼女を畏れ遠くへ居るからか。
それとも今夜何かがあるとの文字通り蟲の報せなのか。
……確かに何かあるかも知れ無い。求める物が物だ。
上白沢 慧音はそう思った。
美しい弧を描く上弦の月と、幾千幾万の星の光を頼りに、彼女はなだらかな平原を歩む。
日課である里の見周りを終えた彼女は、日中から決めていた通り魔法の森へと足を向けていた。ただし魔法の森に用がある訳では無い。その近所にあるという古道具屋にこそ用があった。
何故なら一つ気になる事があるからだ。
「…………」
規則正しい歩幅を地に刻んでいた足が止まり、少し首が傾げられる。
……いや、気になる等と言う生易しい例えは適切では無い。それでは如何にも瑣末な事の様な響きを帯びてしまう。
―――ではこうしようか。
私は大きな疑問を抱いているからだ、と。
これならば、事の大きさを表すに充分と言えよう。
小さな事に相応の満足を抱いて、慧音は再び歩き始めた。
やがて見えてきたのは、暗い中に威圧と畏怖を以って鬱葱と聳える魔法の森。
そして、その手前にある大きくもなければ小さくも無い建物。ともすれば夜の闇に呑み込まれてしまいそうな、小さな灯り。
「……あれか?」
口をついて出た疑問に答えるモノは何も無い。
しかし聞いた限りでは、あれこそが慧音の目的地の筈だ。
香霖堂。
何度か里の者からその名を聞きはしたものの、生活必需品その他は自給できていた為、慧音は店という存在の世話になった事は今までなかった。
なのに何故今になって、彼女はこうして出向いているのか。
それは日中、里にやって来た霧雨 魔理沙の持ち物に端を発していた。
―――活気に満ちた昼。
陽光は天から燦々と降り注ぐものの、湿気が多いせいかあまり爽快とはいえない。時折吹く風があるだけまだ救いがあるといえよう。無ければ不快指数が高いばかりの好ましく無い状況である。
「さて、初代、元無極躰主王大御神から、第五代、天一天柱主大神躰光神の五代に渡って、この世の礎が創られた事は今までに話したので、今日は第六代の話をしようかと思う」
その時、慧音は里の集会場で歴史の講義をしていた。受講しているのは老若男女を問わず四十人程。
講義と言っても、ただ身の空いた者が話を聞きに来るという簡単なものだ。熱心に書き留めている者も居れば、ただ聞いているだけの者も居る。居眠りは原則叩き出す事にしているので、一人も居ない。
講義の内容が倭建命等を主題とした英雄譚であればこの倍以上は来るが、流石に天神代の話しは本当に暇な者と本当に歴史に熱心な者以外は足が背くようだ。子供など数人しか居ない。
慧音は思った。とても残念だ、と。顔には出さなかったが。
「……では第六代、国万造主大神天照天皇についてだが―――」
慧音が教壇に乗り出すように両手を突き、語り出そうとした時。
「―――!!」
遠くで誰かが大声で叫んだ気がした。
ファーンッ……ッゴガァーーーーーーーーーーーーーッ!!!!!!
直後、地震でも起きたのかと思える程の不規則な揺れと共に、耳を劈く大騒音が響き渡る。
「んなっ!?」
「地震か!?」
「うわああ!?」
集会場の面々は、誰も彼も耳を塞いで畳に伏して突然の災害から身を守ろうと必死だ。
騒音にいち早く耳を慣らした慧音は、〝今日の講義は中止〟の旨を一筆したためて教壇の上に残し、一体何が起こっているのか確認しようと外へ向かって駆け出した。
自然災害とは到底思えないし、この唐突さはややもすれば妖怪の襲撃かもしれない。
講義を受けに来た者達に慧音は少し申し訳無く思ったが、事は急を要するのだ。
「……あれかっ」
外へ出た慧音が見たモノは、天を貫く光の柱。これはただ事では無い、と彼女は里の東門へと急いだ。
石造りの塀で囲われた里は、八方に門が設えられている。また、門の辺りはちょっとした広場になっていた。
騒ぎの元であろう東門付近に慧音が到着した時、彼女が見たのは、二人の例外を除いて全員腰を抜かしているという妙な状況だ。
慧音は立っている二人を見るなり渋い顔をし、先程見た光の柱の正体が何であるかは取り敢えず理解した。いつぞやに喰らった覚えがあるからだ。
「あ、あ……あ、あっ」
その二人の内の一人、トランクケース程の大きさの鞄を持つのは、アリス・マーガトロイド。彼女は、思考がオーバーロードしているにも関わらず、もう一人を指差して一向に言葉になら無い声を出していた。
「うーむ。ちとやり過ぎたか?」
そのもう一人。周囲の有様を見てやっと自分の行動が暴挙だと知ったのか、霧雨 魔理沙は余り反省の見られない様子で腕を組んでいる。
何の気無い一言に、アリスは一気に思考の最適化を完了させたようだ。
「魔理沙っ! これの何処が〝ちと〟よ!」
「おおっ? 何だよ、呼び込みをした方が良いかしらとか言ってたのはそっちじゃないか」
肩をいからせて詰め寄ってきたアリスに対し、魔理沙は微塵も悪びれずに応えた。これが余計にアリスの逆鱗に触れたらしい。
「お馬鹿はご存知無いでしょうが物事には限度ってモノがあるのよ。大体私はねぇ、あんたが里の子供に人形劇やったら人妖友好に一役買えるんじゃ無いかって言うから、こうして人形一式持って里まで来たのよ?」
「待て、誰がお馬鹿だ誰が」
お馬鹿呼ばわりされては魔理沙も黙ってはいられない。が、半歩詰め寄った魔理沙に対し、アリスの対応は淡白だ。
「別に良いでしょうそんな事。それよりも、これじゃあ侵略しに来たみたいじゃないのよ」
「なんか納得いかんが……でもほら、人が寄ってきたぜ? おお、慧音も来てる」
「え!?」
魔理沙に言われるまでもなく、アリスは自分と彼女とを随分遠巻きに眺める人間が増えている事は知っていた。が、死角に居た慧音の存在までは気付けなかったらしい。彼女は何故慧音が直ぐに話しかけてこないのか気になったが、直ぐに自答できた。
突然一騒ぎ起こしたかと思ったら、口論しているのである。雰囲気にそぐわないというか、それ以前にこれでは良い見世物だろう。
アリスは急に情けなくなったのか、見て分かるほどしょげ返った。
「ほらご覧なさい。あんたのせいでややこしくなりそうじゃないの……」
「そうか? 手っ取り早くて良いじゃないか」
「何でも早けりゃ良いってもんじゃ無いって事こそ早く学習してよ……」
あくまで言葉通りの態度を貫く魔理沙に、アリスは殊更がくりと肩を落とす。
「あーもう、なんでこんな……泣くわよ!?」
「……ひょっとして脅し文句のつもりなのか、それ」
腰を抜かした者達を他の者達に任せ、慧音は口論を続ける二人へと足を向けた。
「悪い?」
「良く無いぜ」
「捻てるわね」
「女の武器を簡単に脅しに使う程じゃない」
「む」
「……そろそろ良いか?」
放っておけば永遠に口論し続けそうな二人に、慧音はやっと話しかける。タイミングが掴めなかったが、多少強引にでもしなければどうにもならないと悟ったのだろう。
口論を中断された二人は、対極の態度で慧音へと向き直る。
「よりによってお前達か。こんな昼間に里を襲おうとする奴は」
「うにゃ。ちょっと芸を見せに来ただけだ。気にするな」
視線や態度から敵意と示威を滲ませる慧音に、魔理沙は飄々と応えた。
慧音の表情が渋くなる。
「芸だと? 随分笑えない冗談だな、この与太郎が」
「そうか?」
「いつから空へ向けて魔砲を撃つのが芸になった?」
「ああ、あれはアリスがやれって言うから」
「何?」
魔理沙の一言に、慧音の視線がぎらりとアリスへ向けられた。
突然お鉢を回された―――というか押し付けられたアリスとしては、中々堪ったものでは無い。しかも視線だけではなく、じゃりっ、と砂利と靴の擦れ合う音を立てて慧音が自分の方へ体を向けたのである。
「は!? ち、ちょっ、待った、待って!」
アリスは手振りと言葉で以って、こっちに歩いて来ようとする慧音を留まらせる。それからすぐに魔理沙の後襟を掴み寄せて自分と向き合わせた。
「魔理沙、何聞き捨てならない事口走ってるのよ!? 何しに来たのか忘れたの!?」
「だって人寄せした方が良いって」
「またそれを蒸し返すの!? ―――あ」
思わず声を荒げるアリスの視界の隅に、腕を組んで胡乱な視線を向ける慧音の姿がある。
目線が合った。どちらも逸らさないまま、先に慧音が口を開く。
「……前も言ったが、お前達は騒々し過ぎる。用があるなら手短に済ませて、森へ帰れ」
紡がれたのは、野良犬でも追い払うかのような言葉。
「……何ですって?」
余りに無下な謂れに、アリスは魔理沙を脇へやって慧音と対峙しようとする。
「待った待った」
が、火花が散る前に両者の間へ箒が差し込まれた。
「用を済ませる気はあるが、手短に済ませたらお前が恨まれる事になるぜ?」
「何だと?」
差し込んだ箒をぐるっと回して肩に担いだ魔理沙の言葉に、慧音は眉根を寄せて疑問を浮かべる。彼女のそんな表情を見た後、魔理沙はアリスに目線で合図した。慧音の視線が再び自分に戻った事もあり、不精不精アリスは頷く。
「人形劇をしに来たの。人妖友好がどうとかって魔理沙に唆されて」
慧音の視線が魔理沙へ向いた。
「唆したぜ」
魔理沙は笑顔で言う。
「……人形劇?」
「そう。こんな感じの」
露骨に訝しむ慧音の疑問に答えると共に、アリスはつい、と右手を上げた。すると、スカートの中から妖精のような羽を生やした小さな人形がするりと現れる。
続いてアリスが右手で空気を揉むような仕草をすれば、人形はまるで生きているかのような動きで宙を飛び、慧音の手前まで来るとぺこりとお辞儀をした。
「ほぉ……」
思わず慧音は感心し、顎に指をやりつつ興味深そうにアリスの手元と人形とを見比べる。あるべき筈の操り糸は目に見えず、しかし手と人形の動きは連動しているのだ。慧音でなくとも唸らせられるであろう。
遠巻きに三人を伺って居た里人達の中から、小さいながらも歓声とまばらな拍手が起こる。
「で、これで用が手短に済んだんだが。……森に帰るのはまだ先で良いよな?」
そういった周囲の状況を充分に利用する形で、魔理沙は意地悪く言った。
既にアリスは二体目の人形を登場させており、彼女達と里人との距離は徐々にだが縮まって行っている。
慧音にとって決定的となったのは、里人達の先鋒を務めるのが子供達という事だ。細かな動きを易々とやってのけるアリスの技巧に、何より人形の可愛らしさに魅せられている。
そして慧音は、そんな子供達の愉しそうな瞳に魅せられた。
「……仕方無い」
こんな状況になってしまっては、流石に断れない。というか、断った時の子供達の落胆を考えると、到底出来る筈が無かった。
「だが二人とも、手荷物の検査はさせて貰うぞ。いくら里の為とはいえ、妖の者を素通ししたら今後に関わる」
それでも締める所は締めるのが慧音である。
「おう」
「分かったわ」
彼女の承諾の言葉に表情を輝かせた魔理沙と、安堵の息を吐いたアリスは、揃って承諾した。
「上海」
最初に現れた人形に呼びかけつつ、アリスは右手をちょちょいと。
すると人形はこくりと頷き、慧音に手招きするとアリスの脇にある大きな鞄を開いた。
中に入っていたのは、大勢の人形達。
「見ての通り、私の荷物は劇で使う人形よ」
「また随分な量だが……」
鞄の前で屈みこんで中身を検分しながら、慧音は人形の数に首を捻る。大人と思しき人形に、子供らしき人形。合わせて十以上にもなるのだ。
「まさか一人で操るつもりか?」
気になった慧音がふと顔を上げて問うてみれば、
「そうだけど?」
アリスは何でも無さそうに応えた。
一瞬慧音の時間が止まるが、直ぐに自己解釈に基づき再び時間が動き出す。
「一度と言う訳では無いという事か……」
「いや、一度にそれら全部操る予定だけど」
また止まった。
「……そうか」
今度は数瞬かかったが、自分の与り知らぬ領域と言うのは往々にあるものだと慧音は強引に自分を納得させる。それに、後でアリスの伎倆の程をじっくり見られるのだ。その時に改めて納得しよう、と慧音は考えた。
「?」
時々妙にカクカクした動きになる慧音を不思議に思いつつ、アリスは彼女の検分が終わるのを待つ。
程なくして諸々の検査を終えた慧音は、立ち上がると咳払い一つ置いてからアリスに言おうとする。
「だが念のため言って置くが―――」
その先の予想は容易だ。敢えてアリスは慧音の言葉を遮った。
「分かってるわ。人に手は出さない。……安心して? 最近は私、菜食主義なのよ」
「済まない」
アリスの言葉に、つくづく余計な事だったかと慧音の口から自然と詫びの言葉が零れる。
「別に良いわよ。あなただって苦労したでしょう」
「まぁ、な。……さて」
苦笑いした後、慧音は魔理沙へと視線を巡らせた。その際、彼女の後ろではアリスの人形達が鞄を閉じている。
「私は見ての通りだぜ」
魔理沙は片手に箒、片手にミニ八卦炉を持って立っていた。
慧音の目に止まったのはミニ八卦炉である。当然ながら、彼女は魔理沙の力の増幅炉たるこれの存在など知らず、見た事も無かったのだ。
「何だこれは」
「ミニ八卦炉。安心しな、害は無い。そもそもあったら私が持ってる筈も無い」
思わず伸ばされた慧音の手から、半歩下がってミニ八卦炉を防衛した魔理沙である。
そんな魔理沙の態度に少しの苛立ちを覚えた慧音だが、ミニ八卦炉を見るにつれそんな瑣末な感情はどうでも良くなっていた。何故ならミニ八卦炉がちらほらと発する緋色のオーラや、それ自体の色から、慧音は受けた衝撃を押し隠すのに苦労していたのだから。
彼女自身本物を目にしたのは数える程しか無いが、色と、蒸気の様に浮かんでは消える緋色のオーラから、間違い無く緋々色金であろうと確信する。
問題は、材料そのものが絶えて久しい緋々色金をあしらったこの炉を、何故自称普通の魔法使いが事も無げに持ち歩いているのか。
慧音はアリスの方を盗み見るが、彼女は特にミニ八卦炉には感心を抱いて居ないようだ。見慣れているのか、それともいつの間にか数メートルの距離まで近寄って来ていた子供達を相手に、人形を操るのに忙しいのかは分からない。
「お前、こんなモノを何処で手に入れた?」
「ずっと前に香霖から作ってもらった奴だが」
手を引っ込めつつ聞いてきた慧音に魔理沙は答えるが、すぐに相手の表情が妙に真剣なのを疑問に思った。
「……どうかしたか?」
「香霖とは?」
「ああ、森近 霖之助の事だ。ほら、香霖堂の店主」
「香霖堂……そうか。時折耳にする古道具屋か……ふむ」
慧音は魔理沙の答えから、彼女に詰問するよりも香霖堂とやらに赴けばよいかと判断する。例え何か知っていようとも、魔理沙から目的の情報を引き出すのは楽じゃ無い。
ならば、香霖堂とやらの店主を尋ねた方が余程簡単だ。この幻想郷に緋々色金を作れる、若しくは緋々色金を持つ者が居るという事になるのだから。
「ああ。……ん? 行く気か? 魔法の森の近所だから此処からだとちょっと遠いぜ」
「そうか。ならば後で行くとしよう。今は、人形劇も気になるしな」
表情に柔らかさを取り戻した慧音に、魔理沙はもう良いだろうとミニ八卦炉を懐へ戻した。
「だろう? 因みに、操り役がアリスで、朗読役が私だ」
笑顔の魔理沙に、慧音はアリスへ同情げな目線をやる。
「ほう。不安だな?」
「全くよ」
「どういう意味だ。この私の美しい朗読の何が不安だ?」
溜息を吐くアリスに、魔理沙は自身満々に言う。
事実彼女は自分の朗読に自信を持っているのだろう。慧音は客観的にそう判断した。
「だって魔理沙はすぐ変なアドリブ入れたがるんだもの。ねぇ?」
アリスの問い掛けに、彼女の操る二体の人形はそろって頷く。
「変なのは元の話しの方だぜ」
「……やっぱあんた捻てるわ」
「そうか?」
「お願いだから脚本通りそのままで読んでよ。練習の度に一々違うんじゃ練習にならないし」
「あー、しかしなー。そのままというのはどうにも独創性に欠けるというか、こう、弄りたくなるんだが」
アリスはどうにか魔理沙に言って聞かせようとするが、魔理沙には何を言っても暖簾を押すが如しな状態である。
「元の形を好き勝手に改変して独創も何も無いでしょうに」
「そうは思わんが」
「何でよ~……」
尚も言い募ろうとするが、流石に諦めが強くなったようだ。肩を落としたアリスから反論の言葉が出てこない。
「……とりあえず、集会場が今空いている。いつまでもここで立ち話という訳にもいかないだろう? 案内しよう―――」
「……くく」
その時に噛み殺していた苦笑を、夜空の下で慧音はこぼしていた。今の苦笑はその後の件も含めての苦笑だ。
人形劇は白雪姫だったのだが、自分よりも綺麗な女性に白雪姫を挙げられた魔女が、
『この美しい私よりもあんな小娘が良いのか、このロリコン鏡っ!』
とかいって鏡を破壊しようとしたり、白雪姫は白雪姫で魔女に差し出された毒入りリンゴを、
『ですがわたくし、他人から分け与えられた物は分かち合えと教えられましたの』
等と言ってリンゴを受け取るなり果物ナイフで半分にし、魔女に半分返して一緒に食べるよう促したりと、本筋は変わらないが何処か別の劇を見ているような錯覚に陥らされたのである。
そも、朗読役の魔理沙が既に台本を見ていないと言う状況が、話が進むに連れて余裕の見られなくなっていくアリスの表情も合わせ、非常に緊迫感があったのだ。二人の様子に気付いていない子供達は劇に夢中だったが、気付いた大人達と慧音は劇の内容よりもそっちの方が気になっていた。
あれでよく破綻しなかったものだ、と慧音はアリスの伎倆にこそ感心する。彼女は劇後魔理沙に『独創性云々以前に、何故ああ無茶をするんだ?』と聞いたのだが、返ってきた答えは『アリスは弄りがいがあるからなー』だった。その時慧音は改めてアリスに同情したものである。
「あれで良く友情が保てるものだ……」
さくさくと草原を進みながら慧音は呟いた。
改めて周囲を認識すれば、魔法の森はより近くに、香霖堂の灯りは多少安心を覚えれる程度の光量になっている。
歩くに連れ闇の中はっきりとしてきた香霖堂は、なるほど、見るからに古道具屋だった。
慧音が魔理沙から聞いた話では、開店してそう経っていない筈なのだが、建物自体が妙に古めかしいのだ。それも、効果を狙って敢えて古く見せているのではなく、経年による歴史の中で蓄積された古さが感じられたのである。
間近に来て、それが一層強く印象付けられた。
店の出入り口の前で少し間を置いた後、慧音は戸口を横に滑らせる。
「御免。……っ」
その瞬間、彼女は静かに驚いた。
永き時間を経た物が醸す、独特だが濃密な時間の香り。一歩踏み込んだだけで隔世の感を覚えさせられる店内は、まるで外の時間から切り離されたような錯覚を受ける。
後ろ手に戸口を閉じつつ、慧音はこれなら確かに、と納得した。
店自体が古いのではなく、店の中に古さに店そのものが影響を受けていたのだ。年代を経た業物が床の間に鎮座しているだけで、応接間の雰囲気が引き締まる。そんな影響力の大強化版だと考えれば良いだろう。
そして―――これこそが慧音の本題だが、これだけの古物がひしめいているのなら、緋々色金若しくはその材料があっても違和感が無い。
……あるとして、手に入れられるかどうか、か。
対価として充分かどうかは分からないものの、慧音はこれまでに見つけて何となく取っておいた希少鉱物の類をあらかた腰巾着に詰めて持って来ていたのだ。
不安からどうも心もとない腰の膨らみに手を当てつつ、慧音は店の陳列棚に並べられている物を適当に見て回る。日用品の隣に平然と呪術的要素の高い短剣が置いてあったりして、色々思わされるが取り敢えず見ていて飽きない。
程なくして、店の奥から一人の男がやって来た。
「……おや、おやおや。いらっしゃい。さっきのは空耳じゃなかったのか」
小さな驚きすら孕んだ言葉を聞き、慧音は棚から声の方へ振り向く。
「あなたが店主か?」
慧音の言葉に疑問の色が少し多く出てしまったのは、現れた男の口振りと態度が、どうも客商売とは無縁な気がしたからだ。里で見かける行商のような活発さもなければ、露天商が持つ親しみ易さも無い。あるのは不可思議さと穏やかさだけだ。不気味と置き換えても良いかもしれない。
「ここが香霖堂で、僕が森近 霖之助であるのなら、その問いには是と答えるしか無いね」
現実に背でも向けているかのような霖之助の返答を得て、慧音は確信する。
こいつは商売をする気がないか、素でこうなのかのどっちかだ、と。
「……つまり店主なのだな」
「そうなるね。僕は誰あろう森近 霖之助なのだし」
言われ、霖之助は頷く。
「では単刀直入に聞きたい事がある」
このまま彼の間合いで付き合っていては無用な時間がかかる、と慧音は手短に澄ませる事にした。
「どうぞ」
「ここには緋々色金か、その材料があるのか?」
この問いに、霖之助の眼鏡の下の眼が細まる。心の中までも見透かそうな視線に、慧音は少しだけの警戒を込めて彼の目を見返した。
「…………どこからここにそれがあるか知ったのか。……ともあれ、それは客としての問いかな?」
「そうだ。私は緋々色金を欲している」
沈黙を答えとした後の問い返しに、慧音は率直に答える。
霖之助は少し慧音から視線を逸らし、虚空を眺めた後に最初の問いに改めて答えた。
「在るには在る。それも、あなたの望む緋々色金そのものが。……だが、客としてのあなたの要望には、決して応えられそうにはない」
始めの言葉にこそ表情を輝かせたものの、慧音は後の言葉を聞いて疑問の念を露にする。
「何故だ?」
「見れば分かります。だが、僕は客に見せるつもりは無い」
この答えに増々慧音は疑問を深めた。
「どういうことだ? ここは店なのだろう?」
心底訳が分からない、という様子の慧音に、霖之助はふむ、と顎に手をやる。
「店にある物全てが売り物では無い、という事です。……敢えて理由を付けるなら、二つ程。一つは、アレはもう僕の物だという事。つまり、誰にも渡すつもりは無い。そしてもう一つは、あなたがその気になれば奪われる可能性があるという事。一応人間である僕が、ワーハクタクであるあなたに敵う理由は無いからね」
「知っていたのか、私の事を」
目を丸くした慧音に、霖之助は静かに微笑んだ。
「幻想郷に住む人間なら、あなたの事を知らない者は居ないと思いますよ。里の剣にして、識者であり、道を示す光である女性、上白沢 慧音の事を」
「また随分大仰な謂れだな……」
霖之助の言葉を受け、呆れ半分その他半分な表情の慧音は腕を組む。
「不本意ですか? あなたの良く使うという力に准えてみたんですが」
「店主殿の創作だったのか、今のは」
「ええ。たった今の思い付きにしては、まぁまぁそれなりではありませんか?」
微笑を絶やさない霖之助。
慧音は彼の思考や意図が分からないものの、曖昧な表情を浮かべ曖昧な所作で曖昧な返事をした。そして切り出す。
「……それで緋々色金の件だが、私が客としてでなく純粋な好奇心や探究心で見たいと言えば、店主殿は見せてくれるのか?」
「そういう事でしたら」
あっさりと霖之助は頷き、
「分かった。入手は諦めよう」
あっさりと慧音は諦めた。
「しかし条件を設けます」
「む?」
「あなたは、何故緋々色金を求めるのです? その理由をお聞かせ願いたい」
この問い掛けによって、慧音の表情から霖之助に対するやや微妙な感情は失せ、代わりに真剣さが濃くなる。
「……店主殿は、私の力を知っていると仰ったな」
「ええ」
「知っての通り、私は三種の神器を真似た力を使っている。この幻想郷の外で人間を導き護ってきた神宝に幾許かでもあやかろうと、な。だが当然ながらどれも本物には遠く及ばない」
慧音の韜晦を、霖之助は彼女を探るような目付きで静かに聴いていた。
「店主殿はご存知だろうが、三神器の内、草那芸ノ太刀と八尺瓊勾玉は緋々色金で造られている。八咫鏡は青生々魂で造られているが、緋々色金も青生々魂も精製時の差のみで本質は変わらない。だから私は、三神器を模倣した私の力に対し緋々色金を媒介に使えれば、里に一層の安心と安寧を齎す事ができと考えていたのだ。多くを護る為の力は、常に強く在らねばならないから。……不安や後悔など、過去の話しと出来るほどに」
口を閉ざした慧音を見つめた後、霖之助は視線を逸らし、ふむ、と呟く。
「……成る程。人である我が身を思えば、あなたに僕の持つ緋々色金を売るのは間違いでは無い……か」
独り言のように言ってから、霖之助は慧音に視線を戻す。
「しかし、先も言った通り渡すつもりはありません。それでも、ご覧になりますか?」
「ああ。見るだけでも何か変わるかもしれない」
「分かりました。それでは、少々お待ちください」
頷く慧音にお辞儀をし、霖之助は彼女に背を向けた。
「かたじけない」
店の奥に消える霖之助に、慧音は改めてお辞儀をする。
それから、彼女は再び陳列棚へと目をやった。
各々の部屋を見れば部屋の主の性格が知れるというが、それは店にも言える事なのだろう、と半ば混沌すら感じられる品々の配置に慧音はついつい腕を組む。
「むぅ…………」
品々に見入っている内に、足音が遠くから近付いてくる音がした。
「……何か気に入ったものでもありましたか?」
振り返れば、紫の紐で括られた桐の箱を抱えた霖之助がやって来ている。
「あ、いや。……ここに置いてある物は売り物なのか?」
どこから手に入れたか、に関しては慧音は聞かない事にした。緋々色金の件も含め、恐らくこの掴み所の無い店主はのらりくらりと答え無いだろう。
「ええ。ちゃんと代価を支払っていただければ躊躇無く売りますよ。……まぁ、勝手に持って行く困った猫がたまに居ますがね」
遠い目をする霖之助を前に、ふと、慧音の脳裏に黒白なのが過ぎる。
「大変だな」
「一応、せっつけば返してくれるだけまだマシです。持って行くだけ持って行って殆ど何も返さない困った鼬に比べたら、可愛いものですよ」
溜息交じりの霖之助を見つつ、慧音は紅白なのを幻視した。
「……中々気苦労が絶えないようだな。……それで、これが?」
適当な台の上に箱を載せる霖之助の側に寄りつつ、慧音は彼と箱とを交互に見ながら言う。
「ええ。緋々色金……正確には緋々色金で造られた剣ですが」
「! ……まさか」
紐を解きながらの霖之助の言葉に、慧音は心から驚いた。緋々色金があるだけでも吃驚すべき所なのに、あろう事かそれが草那芸ノ太刀だと言うのだから、童のように感情を無垢に晒すのも当然だろう。
「人は、これを草那芸ノ太刀と呼びますね」
箱の蓋を外しながら、霖之助は厳かに言った。
箱の中に納まっていたのは、緩衝材入りの紫絹に身を横たえる抜き身の太刀。全体的に緋色のそれには昨今出回っているような刀剣のような美しさや機能美は無く、棒状の原石から刃の部分と柄の部分削り出したような無骨さである。もし慧音が美術的価値から草那芸ノ太刀を求めていたとしたら、この時点で落胆の意を全身で示しても不思議では無い。
だが、彼女は草那芸ノ太刀から視線を逸らせずにいた。たった今晒された物がどれ程の代物か、歴史を識る彼女は知悉したのだ。
「これが……だが何故ここに?」
相変わらず太刀から目が離せない慧音に、霖之助は表情一つ変えずに答える。
「外には二本の草那芸があると聞きます。ですが、片や模造品、片や弥生の銅剣と、共に名を騙る紛い物。入手経路は言えませんが、壇ノ浦で水中に没した後、流れ流れて辿り着いたのでしょう」
「成る程……店主殿、一つ無理を聞いてはくれないだろうか」
頷き、黙考した後に慧音は霖之助を見ながら言った。
「無理によりますね」
「……手に取っても構わないだろうか」
「振り回したり、そのまま持って帰ったりしなければ構いませんよ」
条件が条件だが、霖之助の日頃の客を思えば仕方のない事である。
当然、慧音がそんな事をする筈が無い。
「恩に着る」
頭を下げた後、彼女は酷く緩慢な動作で草那芸ノ太刀の柄に手をかける。腫れ物に触れるというより、聖域を侵すような背徳感が手伝っての事だろう。
「うあ……」
触れるなり、慧音は草那芸ノ太刀から自身に流れ込む歴史の奔流に圧倒される。最初にこれを手にした建速須佐之男命から、最後にこれを振るった倭建命に至るまで、剣そのものが感じ取ってきた歴史が流れ込んできたのだ。
一般の者が例えるなら絶縁体か良くて半導体なのに対し、歴史を操る能力を持つ慧音は良導体も同然なのである。それも超が付く程の。そんな彼女が触れた以上、歴史という大電流の塊のような神器から、彼女へ歴史が伝わるのは極当然の事といえた。
「……大丈夫ですか?」
霖之助は、草那芸ノ太刀を持った直後、微かに痙攣したかと思うと瞬きもせず固まってしまった慧音の肩を揺する。
「っ」
すると慧音は夢から醒めたように突然びくりとし、その弾みで手から草那芸ノ太刀が落ちてしまう。
「―――っと!」
「あ、す、済まないっ」
咄嗟に霖之助が太刀を受け止めたから良かったものの、もしそのまま落ちでもしたらどうなってしまったか。緋々色金の強度からして、床に刺さる位で済んだかもしれないが、この場合そういった事は考慮されない。
狼狽に近い有様になった慧音に、霖之助は無用と知りつつ敢えて太刀を検分してから箱に戻した。
「いや、太刀は無事です。肩を揺すった私にも非は在りますし」
「申し訳無い。―――ただ、太刀に触れたら太刀の歴史が流れてきたのだ」
重ねて謝罪した後、慧音は自身が体験した事柄を口にする。霖之助の視線が雄弁に疑問を投げかけていたからだ。
「ほほぅ。それは、中々興味深い。それで、どの辺りまでご覧になりましたか?」
「相武の国の国造に謀られた所だった」
慧音の答えに霖之助は少し首を捻った後、知識から該当する部分を見つけ出す。
「……ああ、するともう少しで草那芸が草那芸と呼ばれる所以の所まできていましたか」
「うむ。何かあれば開けと言われた叔母の袋の中から火打石が出てきた時は、どうしようかと思った」
特に何の注釈も無く話しが通じた事に、慧音は知らず饒舌になっていた。
「普通、絶望に近いものを味わいますよね、あの行は。いくら反逆者の計略が全て見破られるとはいえ、はらはらしましたが」
霖之助も霖之助で普段こういう話しが出来る相手に乏しい為に、彼を知る面子が見たら驚くような勢いで舌が回っている。
「実体験ともなると、中々焦るぞ。炎は迫ってくるし後は無いしで、正に焦眉の急だ」
「しかしそれを覆すのが倭建命の凄い所」
「そうだな。人の身にありながら、あの場で炎を返す等とはよくぞ考え付いたものだ」
「炎に囲まれる中、太刀を振るって草を薙ぎ、自らの周りを予め燃やし、己に迫る炎を食い止める。まさしく英雄と呼ぶに相応しい機転でしょうね」
共通の話題が出来れば、それも普段そう話す相手の居ない事柄で、且つ自分が強く興味を持っている内容であれば、会話が弾むのは自明の理だ。
「全くだ。それにしてもやはり彼の方は人を信じすぎるきらいが―――」
「いえいえ、その愚直さが英雄としての―――」
「しかし行く場所行く場所で―――」
「確かにそうですが、それを補って余りある―――」
知らず知らず二人はすぐ側の神太刀を差し置いて、遥か過去の話題に没頭していく。
―――結構な時間が経った。
話題の尽きない二人の会話を断ったのは、不意の二音。店内にある古時計が奏でた、低く重い時を報せる音である。
「―――っと、済まない。ついつい話しに夢中になってしまった」
片手で口を軽く覆いつつ、慧音は上目遣いに霖之助を見上げた。
霖之助の方も、心からああしまったという顔で後頭部に手をやっている。
「いえいえ、此方こそ。日頃、この手の話しが合う相手が居ないもので。……草那芸の方はもう宜しいですか?」
「ああ。一度この目で見て、この手で触れた。届かぬ物にはこれ以上は望めぬよ」
「……ここに来る客が、皆あなたのような価値観を持っていてくれたらどれだけ商いがしやすいでしょうね」
「そんなに酷いのか?」
「少し前に愚痴を零したでしょう?」
「……ああ、そうだったな」
苦笑を零す霖之助に、慧音は同種の苦笑を返す。
「ともあれ、思わず長居してしまったが……実を言うと、緋々色金以外に私の目的は無いんだ」
加えて時間も遅い。慧音の一言は、お暇するという意味を表現するのに充分だった。
「そうでしたか。少し残念ですね」
言いつつも、霖之助の態度や表情は少し所か全然残念そうじゃない。
ひょっとしたら彼にとって香霖堂とは、彼自身の何かを隠す為の蓑なのかもしれなかった。
なんとなく、馬鹿げているとは思いながらも慧音はそう思う。
「出来れば、次の来店の機会までには何か欲しい物もしくは見繕って欲しい物を考えておいて欲しいものです」
「そうだな。過去に想いを馳せるのにこの店ほど適した場所は無い。次に来た時は、店内をもっとよく見させてもらおう」
軽く目礼し、慧音は霖之助に背を向ける。
「ええ、その際はなるべく日中にお願いしますよ。流石に、こう毎日こんな時間まで店を開けている訳では無いですから」
歩いて香霖堂を後にしようとしていた慧音は、霖之助の言葉を背に受けて立ち止まり、振り返った。
「……どういう事だ?」
「夕刻頃に魔理沙が来ましてね。頭の固い姑みたいな客が来るかも知れんから、店を開けとけと命令されたんですよ」
「随分な評価だな……」
「あの娘が他人を表現するときに悪い言葉を使うのは、その対象に悪意を持っていない証拠ですよ」
渋い顔をする慧音に、霖之助は取り成すように言う。因みにこれは彼の経験から来る持論ではあるが、もしかしたら香霖呼ばわりされ続ける事への言い訳なのかもしれない。
どちらにせよ、あの魔法使いが自分の本音を簡単に吐露する筈も無いので、真相は当分闇の中だ。
「むぅ。……何にせよ、あの娘の口利きが無ければ私は無駄足を踏んだかもしれないという事か」
「それは、まぁ。店と言うものにはえてして営業時間というものがありますから」
「成る程。確かに、幾ら何でも真夜中に来るのは無作法が過ぎていたようだ」
「いえいえ、僕からすればこうしてあなたという話の合う方と出会う事が出来たんです。こういう貴重な出会いの為だったら、喜んで夜更かししますよ」
頭を下げる慧音に、霖之助は両手を軽く振って彼女の罪悪感を軽減させようと努める。
「済ま……いや、無粋か。それでは、次は月読命の腕の中では無く、天照大御神の庇護下で会おう」
言い淀んだ後、慧音は改めて霖之助に背を向けた。
「では、またのご来店をお待ちしています」
その背に向けて、霖之助は深く頭を下げる。
今度こそ、二人は別れた。再会の口約束を以って。
静かな夜。
日中の暑さは何処かへ消え、夜気に冷やされた大気に目を覚ました蟲達が、どこか遠くで小さく鳴いている。
いや、蟲の声が聞こえる事を含め、さくさくと草を踏み締める自身の足音が遠くまで響くような錯覚すら覚える今夜は、静寂としたほうが良いだろう。時折吹いては草を撫でる風の音もまた、今夜は一際大きく聞こえる。
これは蟲が彼女を畏れ遠くへ居るからか。
それとも今夜何かがあるとの文字通り蟲の報せなのか。
……確かに何かあるかも知れ無い。求める物が物だ。
上白沢 慧音はそう思った。
美しい弧を描く上弦の月と、幾千幾万の星の光を頼りに、彼女はなだらかな平原を歩む。
日課である里の見周りを終えた彼女は、日中から決めていた通り魔法の森へと足を向けていた。ただし魔法の森に用がある訳では無い。その近所にあるという古道具屋にこそ用があった。
何故なら一つ気になる事があるからだ。
「…………」
規則正しい歩幅を地に刻んでいた足が止まり、少し首が傾げられる。
……いや、気になる等と言う生易しい例えは適切では無い。それでは如何にも瑣末な事の様な響きを帯びてしまう。
―――ではこうしようか。
私は大きな疑問を抱いているからだ、と。
これならば、事の大きさを表すに充分と言えよう。
小さな事に相応の満足を抱いて、慧音は再び歩き始めた。
やがて見えてきたのは、暗い中に威圧と畏怖を以って鬱葱と聳える魔法の森。
そして、その手前にある大きくもなければ小さくも無い建物。ともすれば夜の闇に呑み込まれてしまいそうな、小さな灯り。
「……あれか?」
口をついて出た疑問に答えるモノは何も無い。
しかし聞いた限りでは、あれこそが慧音の目的地の筈だ。
香霖堂。
何度か里の者からその名を聞きはしたものの、生活必需品その他は自給できていた為、慧音は店という存在の世話になった事は今までなかった。
なのに何故今になって、彼女はこうして出向いているのか。
それは日中、里にやって来た霧雨 魔理沙の持ち物に端を発していた。
―――活気に満ちた昼。
陽光は天から燦々と降り注ぐものの、湿気が多いせいかあまり爽快とはいえない。時折吹く風があるだけまだ救いがあるといえよう。無ければ不快指数が高いばかりの好ましく無い状況である。
「さて、初代、元無極躰主王大御神から、第五代、天一天柱主大神躰光神の五代に渡って、この世の礎が創られた事は今までに話したので、今日は第六代の話をしようかと思う」
その時、慧音は里の集会場で歴史の講義をしていた。受講しているのは老若男女を問わず四十人程。
講義と言っても、ただ身の空いた者が話を聞きに来るという簡単なものだ。熱心に書き留めている者も居れば、ただ聞いているだけの者も居る。居眠りは原則叩き出す事にしているので、一人も居ない。
講義の内容が倭建命等を主題とした英雄譚であればこの倍以上は来るが、流石に天神代の話しは本当に暇な者と本当に歴史に熱心な者以外は足が背くようだ。子供など数人しか居ない。
慧音は思った。とても残念だ、と。顔には出さなかったが。
「……では第六代、国万造主大神天照天皇についてだが―――」
慧音が教壇に乗り出すように両手を突き、語り出そうとした時。
「―――!!」
遠くで誰かが大声で叫んだ気がした。
ファーンッ……ッゴガァーーーーーーーーーーーーーッ!!!!!!
直後、地震でも起きたのかと思える程の不規則な揺れと共に、耳を劈く大騒音が響き渡る。
「んなっ!?」
「地震か!?」
「うわああ!?」
集会場の面々は、誰も彼も耳を塞いで畳に伏して突然の災害から身を守ろうと必死だ。
騒音にいち早く耳を慣らした慧音は、〝今日の講義は中止〟の旨を一筆したためて教壇の上に残し、一体何が起こっているのか確認しようと外へ向かって駆け出した。
自然災害とは到底思えないし、この唐突さはややもすれば妖怪の襲撃かもしれない。
講義を受けに来た者達に慧音は少し申し訳無く思ったが、事は急を要するのだ。
「……あれかっ」
外へ出た慧音が見たモノは、天を貫く光の柱。これはただ事では無い、と彼女は里の東門へと急いだ。
石造りの塀で囲われた里は、八方に門が設えられている。また、門の辺りはちょっとした広場になっていた。
騒ぎの元であろう東門付近に慧音が到着した時、彼女が見たのは、二人の例外を除いて全員腰を抜かしているという妙な状況だ。
慧音は立っている二人を見るなり渋い顔をし、先程見た光の柱の正体が何であるかは取り敢えず理解した。いつぞやに喰らった覚えがあるからだ。
「あ、あ……あ、あっ」
その二人の内の一人、トランクケース程の大きさの鞄を持つのは、アリス・マーガトロイド。彼女は、思考がオーバーロードしているにも関わらず、もう一人を指差して一向に言葉になら無い声を出していた。
「うーむ。ちとやり過ぎたか?」
そのもう一人。周囲の有様を見てやっと自分の行動が暴挙だと知ったのか、霧雨 魔理沙は余り反省の見られない様子で腕を組んでいる。
何の気無い一言に、アリスは一気に思考の最適化を完了させたようだ。
「魔理沙っ! これの何処が〝ちと〟よ!」
「おおっ? 何だよ、呼び込みをした方が良いかしらとか言ってたのはそっちじゃないか」
肩をいからせて詰め寄ってきたアリスに対し、魔理沙は微塵も悪びれずに応えた。これが余計にアリスの逆鱗に触れたらしい。
「お馬鹿はご存知無いでしょうが物事には限度ってモノがあるのよ。大体私はねぇ、あんたが里の子供に人形劇やったら人妖友好に一役買えるんじゃ無いかって言うから、こうして人形一式持って里まで来たのよ?」
「待て、誰がお馬鹿だ誰が」
お馬鹿呼ばわりされては魔理沙も黙ってはいられない。が、半歩詰め寄った魔理沙に対し、アリスの対応は淡白だ。
「別に良いでしょうそんな事。それよりも、これじゃあ侵略しに来たみたいじゃないのよ」
「なんか納得いかんが……でもほら、人が寄ってきたぜ? おお、慧音も来てる」
「え!?」
魔理沙に言われるまでもなく、アリスは自分と彼女とを随分遠巻きに眺める人間が増えている事は知っていた。が、死角に居た慧音の存在までは気付けなかったらしい。彼女は何故慧音が直ぐに話しかけてこないのか気になったが、直ぐに自答できた。
突然一騒ぎ起こしたかと思ったら、口論しているのである。雰囲気にそぐわないというか、それ以前にこれでは良い見世物だろう。
アリスは急に情けなくなったのか、見て分かるほどしょげ返った。
「ほらご覧なさい。あんたのせいでややこしくなりそうじゃないの……」
「そうか? 手っ取り早くて良いじゃないか」
「何でも早けりゃ良いってもんじゃ無いって事こそ早く学習してよ……」
あくまで言葉通りの態度を貫く魔理沙に、アリスは殊更がくりと肩を落とす。
「あーもう、なんでこんな……泣くわよ!?」
「……ひょっとして脅し文句のつもりなのか、それ」
腰を抜かした者達を他の者達に任せ、慧音は口論を続ける二人へと足を向けた。
「悪い?」
「良く無いぜ」
「捻てるわね」
「女の武器を簡単に脅しに使う程じゃない」
「む」
「……そろそろ良いか?」
放っておけば永遠に口論し続けそうな二人に、慧音はやっと話しかける。タイミングが掴めなかったが、多少強引にでもしなければどうにもならないと悟ったのだろう。
口論を中断された二人は、対極の態度で慧音へと向き直る。
「よりによってお前達か。こんな昼間に里を襲おうとする奴は」
「うにゃ。ちょっと芸を見せに来ただけだ。気にするな」
視線や態度から敵意と示威を滲ませる慧音に、魔理沙は飄々と応えた。
慧音の表情が渋くなる。
「芸だと? 随分笑えない冗談だな、この与太郎が」
「そうか?」
「いつから空へ向けて魔砲を撃つのが芸になった?」
「ああ、あれはアリスがやれって言うから」
「何?」
魔理沙の一言に、慧音の視線がぎらりとアリスへ向けられた。
突然お鉢を回された―――というか押し付けられたアリスとしては、中々堪ったものでは無い。しかも視線だけではなく、じゃりっ、と砂利と靴の擦れ合う音を立てて慧音が自分の方へ体を向けたのである。
「は!? ち、ちょっ、待った、待って!」
アリスは手振りと言葉で以って、こっちに歩いて来ようとする慧音を留まらせる。それからすぐに魔理沙の後襟を掴み寄せて自分と向き合わせた。
「魔理沙、何聞き捨てならない事口走ってるのよ!? 何しに来たのか忘れたの!?」
「だって人寄せした方が良いって」
「またそれを蒸し返すの!? ―――あ」
思わず声を荒げるアリスの視界の隅に、腕を組んで胡乱な視線を向ける慧音の姿がある。
目線が合った。どちらも逸らさないまま、先に慧音が口を開く。
「……前も言ったが、お前達は騒々し過ぎる。用があるなら手短に済ませて、森へ帰れ」
紡がれたのは、野良犬でも追い払うかのような言葉。
「……何ですって?」
余りに無下な謂れに、アリスは魔理沙を脇へやって慧音と対峙しようとする。
「待った待った」
が、火花が散る前に両者の間へ箒が差し込まれた。
「用を済ませる気はあるが、手短に済ませたらお前が恨まれる事になるぜ?」
「何だと?」
差し込んだ箒をぐるっと回して肩に担いだ魔理沙の言葉に、慧音は眉根を寄せて疑問を浮かべる。彼女のそんな表情を見た後、魔理沙はアリスに目線で合図した。慧音の視線が再び自分に戻った事もあり、不精不精アリスは頷く。
「人形劇をしに来たの。人妖友好がどうとかって魔理沙に唆されて」
慧音の視線が魔理沙へ向いた。
「唆したぜ」
魔理沙は笑顔で言う。
「……人形劇?」
「そう。こんな感じの」
露骨に訝しむ慧音の疑問に答えると共に、アリスはつい、と右手を上げた。すると、スカートの中から妖精のような羽を生やした小さな人形がするりと現れる。
続いてアリスが右手で空気を揉むような仕草をすれば、人形はまるで生きているかのような動きで宙を飛び、慧音の手前まで来るとぺこりとお辞儀をした。
「ほぉ……」
思わず慧音は感心し、顎に指をやりつつ興味深そうにアリスの手元と人形とを見比べる。あるべき筈の操り糸は目に見えず、しかし手と人形の動きは連動しているのだ。慧音でなくとも唸らせられるであろう。
遠巻きに三人を伺って居た里人達の中から、小さいながらも歓声とまばらな拍手が起こる。
「で、これで用が手短に済んだんだが。……森に帰るのはまだ先で良いよな?」
そういった周囲の状況を充分に利用する形で、魔理沙は意地悪く言った。
既にアリスは二体目の人形を登場させており、彼女達と里人との距離は徐々にだが縮まって行っている。
慧音にとって決定的となったのは、里人達の先鋒を務めるのが子供達という事だ。細かな動きを易々とやってのけるアリスの技巧に、何より人形の可愛らしさに魅せられている。
そして慧音は、そんな子供達の愉しそうな瞳に魅せられた。
「……仕方無い」
こんな状況になってしまっては、流石に断れない。というか、断った時の子供達の落胆を考えると、到底出来る筈が無かった。
「だが二人とも、手荷物の検査はさせて貰うぞ。いくら里の為とはいえ、妖の者を素通ししたら今後に関わる」
それでも締める所は締めるのが慧音である。
「おう」
「分かったわ」
彼女の承諾の言葉に表情を輝かせた魔理沙と、安堵の息を吐いたアリスは、揃って承諾した。
「上海」
最初に現れた人形に呼びかけつつ、アリスは右手をちょちょいと。
すると人形はこくりと頷き、慧音に手招きするとアリスの脇にある大きな鞄を開いた。
中に入っていたのは、大勢の人形達。
「見ての通り、私の荷物は劇で使う人形よ」
「また随分な量だが……」
鞄の前で屈みこんで中身を検分しながら、慧音は人形の数に首を捻る。大人と思しき人形に、子供らしき人形。合わせて十以上にもなるのだ。
「まさか一人で操るつもりか?」
気になった慧音がふと顔を上げて問うてみれば、
「そうだけど?」
アリスは何でも無さそうに応えた。
一瞬慧音の時間が止まるが、直ぐに自己解釈に基づき再び時間が動き出す。
「一度と言う訳では無いという事か……」
「いや、一度にそれら全部操る予定だけど」
また止まった。
「……そうか」
今度は数瞬かかったが、自分の与り知らぬ領域と言うのは往々にあるものだと慧音は強引に自分を納得させる。それに、後でアリスの伎倆の程をじっくり見られるのだ。その時に改めて納得しよう、と慧音は考えた。
「?」
時々妙にカクカクした動きになる慧音を不思議に思いつつ、アリスは彼女の検分が終わるのを待つ。
程なくして諸々の検査を終えた慧音は、立ち上がると咳払い一つ置いてからアリスに言おうとする。
「だが念のため言って置くが―――」
その先の予想は容易だ。敢えてアリスは慧音の言葉を遮った。
「分かってるわ。人に手は出さない。……安心して? 最近は私、菜食主義なのよ」
「済まない」
アリスの言葉に、つくづく余計な事だったかと慧音の口から自然と詫びの言葉が零れる。
「別に良いわよ。あなただって苦労したでしょう」
「まぁ、な。……さて」
苦笑いした後、慧音は魔理沙へと視線を巡らせた。その際、彼女の後ろではアリスの人形達が鞄を閉じている。
「私は見ての通りだぜ」
魔理沙は片手に箒、片手にミニ八卦炉を持って立っていた。
慧音の目に止まったのはミニ八卦炉である。当然ながら、彼女は魔理沙の力の増幅炉たるこれの存在など知らず、見た事も無かったのだ。
「何だこれは」
「ミニ八卦炉。安心しな、害は無い。そもそもあったら私が持ってる筈も無い」
思わず伸ばされた慧音の手から、半歩下がってミニ八卦炉を防衛した魔理沙である。
そんな魔理沙の態度に少しの苛立ちを覚えた慧音だが、ミニ八卦炉を見るにつれそんな瑣末な感情はどうでも良くなっていた。何故ならミニ八卦炉がちらほらと発する緋色のオーラや、それ自体の色から、慧音は受けた衝撃を押し隠すのに苦労していたのだから。
彼女自身本物を目にしたのは数える程しか無いが、色と、蒸気の様に浮かんでは消える緋色のオーラから、間違い無く緋々色金であろうと確信する。
問題は、材料そのものが絶えて久しい緋々色金をあしらったこの炉を、何故自称普通の魔法使いが事も無げに持ち歩いているのか。
慧音はアリスの方を盗み見るが、彼女は特にミニ八卦炉には感心を抱いて居ないようだ。見慣れているのか、それともいつの間にか数メートルの距離まで近寄って来ていた子供達を相手に、人形を操るのに忙しいのかは分からない。
「お前、こんなモノを何処で手に入れた?」
「ずっと前に香霖から作ってもらった奴だが」
手を引っ込めつつ聞いてきた慧音に魔理沙は答えるが、すぐに相手の表情が妙に真剣なのを疑問に思った。
「……どうかしたか?」
「香霖とは?」
「ああ、森近 霖之助の事だ。ほら、香霖堂の店主」
「香霖堂……そうか。時折耳にする古道具屋か……ふむ」
慧音は魔理沙の答えから、彼女に詰問するよりも香霖堂とやらに赴けばよいかと判断する。例え何か知っていようとも、魔理沙から目的の情報を引き出すのは楽じゃ無い。
ならば、香霖堂とやらの店主を尋ねた方が余程簡単だ。この幻想郷に緋々色金を作れる、若しくは緋々色金を持つ者が居るという事になるのだから。
「ああ。……ん? 行く気か? 魔法の森の近所だから此処からだとちょっと遠いぜ」
「そうか。ならば後で行くとしよう。今は、人形劇も気になるしな」
表情に柔らかさを取り戻した慧音に、魔理沙はもう良いだろうとミニ八卦炉を懐へ戻した。
「だろう? 因みに、操り役がアリスで、朗読役が私だ」
笑顔の魔理沙に、慧音はアリスへ同情げな目線をやる。
「ほう。不安だな?」
「全くよ」
「どういう意味だ。この私の美しい朗読の何が不安だ?」
溜息を吐くアリスに、魔理沙は自身満々に言う。
事実彼女は自分の朗読に自信を持っているのだろう。慧音は客観的にそう判断した。
「だって魔理沙はすぐ変なアドリブ入れたがるんだもの。ねぇ?」
アリスの問い掛けに、彼女の操る二体の人形はそろって頷く。
「変なのは元の話しの方だぜ」
「……やっぱあんた捻てるわ」
「そうか?」
「お願いだから脚本通りそのままで読んでよ。練習の度に一々違うんじゃ練習にならないし」
「あー、しかしなー。そのままというのはどうにも独創性に欠けるというか、こう、弄りたくなるんだが」
アリスはどうにか魔理沙に言って聞かせようとするが、魔理沙には何を言っても暖簾を押すが如しな状態である。
「元の形を好き勝手に改変して独創も何も無いでしょうに」
「そうは思わんが」
「何でよ~……」
尚も言い募ろうとするが、流石に諦めが強くなったようだ。肩を落としたアリスから反論の言葉が出てこない。
「……とりあえず、集会場が今空いている。いつまでもここで立ち話という訳にもいかないだろう? 案内しよう―――」
「……くく」
その時に噛み殺していた苦笑を、夜空の下で慧音はこぼしていた。今の苦笑はその後の件も含めての苦笑だ。
人形劇は白雪姫だったのだが、自分よりも綺麗な女性に白雪姫を挙げられた魔女が、
『この美しい私よりもあんな小娘が良いのか、このロリコン鏡っ!』
とかいって鏡を破壊しようとしたり、白雪姫は白雪姫で魔女に差し出された毒入りリンゴを、
『ですがわたくし、他人から分け与えられた物は分かち合えと教えられましたの』
等と言ってリンゴを受け取るなり果物ナイフで半分にし、魔女に半分返して一緒に食べるよう促したりと、本筋は変わらないが何処か別の劇を見ているような錯覚に陥らされたのである。
そも、朗読役の魔理沙が既に台本を見ていないと言う状況が、話が進むに連れて余裕の見られなくなっていくアリスの表情も合わせ、非常に緊迫感があったのだ。二人の様子に気付いていない子供達は劇に夢中だったが、気付いた大人達と慧音は劇の内容よりもそっちの方が気になっていた。
あれでよく破綻しなかったものだ、と慧音はアリスの伎倆にこそ感心する。彼女は劇後魔理沙に『独創性云々以前に、何故ああ無茶をするんだ?』と聞いたのだが、返ってきた答えは『アリスは弄りがいがあるからなー』だった。その時慧音は改めてアリスに同情したものである。
「あれで良く友情が保てるものだ……」
さくさくと草原を進みながら慧音は呟いた。
改めて周囲を認識すれば、魔法の森はより近くに、香霖堂の灯りは多少安心を覚えれる程度の光量になっている。
歩くに連れ闇の中はっきりとしてきた香霖堂は、なるほど、見るからに古道具屋だった。
慧音が魔理沙から聞いた話では、開店してそう経っていない筈なのだが、建物自体が妙に古めかしいのだ。それも、効果を狙って敢えて古く見せているのではなく、経年による歴史の中で蓄積された古さが感じられたのである。
間近に来て、それが一層強く印象付けられた。
店の出入り口の前で少し間を置いた後、慧音は戸口を横に滑らせる。
「御免。……っ」
その瞬間、彼女は静かに驚いた。
永き時間を経た物が醸す、独特だが濃密な時間の香り。一歩踏み込んだだけで隔世の感を覚えさせられる店内は、まるで外の時間から切り離されたような錯覚を受ける。
後ろ手に戸口を閉じつつ、慧音はこれなら確かに、と納得した。
店自体が古いのではなく、店の中に古さに店そのものが影響を受けていたのだ。年代を経た業物が床の間に鎮座しているだけで、応接間の雰囲気が引き締まる。そんな影響力の大強化版だと考えれば良いだろう。
そして―――これこそが慧音の本題だが、これだけの古物がひしめいているのなら、緋々色金若しくはその材料があっても違和感が無い。
……あるとして、手に入れられるかどうか、か。
対価として充分かどうかは分からないものの、慧音はこれまでに見つけて何となく取っておいた希少鉱物の類をあらかた腰巾着に詰めて持って来ていたのだ。
不安からどうも心もとない腰の膨らみに手を当てつつ、慧音は店の陳列棚に並べられている物を適当に見て回る。日用品の隣に平然と呪術的要素の高い短剣が置いてあったりして、色々思わされるが取り敢えず見ていて飽きない。
程なくして、店の奥から一人の男がやって来た。
「……おや、おやおや。いらっしゃい。さっきのは空耳じゃなかったのか」
小さな驚きすら孕んだ言葉を聞き、慧音は棚から声の方へ振り向く。
「あなたが店主か?」
慧音の言葉に疑問の色が少し多く出てしまったのは、現れた男の口振りと態度が、どうも客商売とは無縁な気がしたからだ。里で見かける行商のような活発さもなければ、露天商が持つ親しみ易さも無い。あるのは不可思議さと穏やかさだけだ。不気味と置き換えても良いかもしれない。
「ここが香霖堂で、僕が森近 霖之助であるのなら、その問いには是と答えるしか無いね」
現実に背でも向けているかのような霖之助の返答を得て、慧音は確信する。
こいつは商売をする気がないか、素でこうなのかのどっちかだ、と。
「……つまり店主なのだな」
「そうなるね。僕は誰あろう森近 霖之助なのだし」
言われ、霖之助は頷く。
「では単刀直入に聞きたい事がある」
このまま彼の間合いで付き合っていては無用な時間がかかる、と慧音は手短に澄ませる事にした。
「どうぞ」
「ここには緋々色金か、その材料があるのか?」
この問いに、霖之助の眼鏡の下の眼が細まる。心の中までも見透かそうな視線に、慧音は少しだけの警戒を込めて彼の目を見返した。
「…………どこからここにそれがあるか知ったのか。……ともあれ、それは客としての問いかな?」
「そうだ。私は緋々色金を欲している」
沈黙を答えとした後の問い返しに、慧音は率直に答える。
霖之助は少し慧音から視線を逸らし、虚空を眺めた後に最初の問いに改めて答えた。
「在るには在る。それも、あなたの望む緋々色金そのものが。……だが、客としてのあなたの要望には、決して応えられそうにはない」
始めの言葉にこそ表情を輝かせたものの、慧音は後の言葉を聞いて疑問の念を露にする。
「何故だ?」
「見れば分かります。だが、僕は客に見せるつもりは無い」
この答えに増々慧音は疑問を深めた。
「どういうことだ? ここは店なのだろう?」
心底訳が分からない、という様子の慧音に、霖之助はふむ、と顎に手をやる。
「店にある物全てが売り物では無い、という事です。……敢えて理由を付けるなら、二つ程。一つは、アレはもう僕の物だという事。つまり、誰にも渡すつもりは無い。そしてもう一つは、あなたがその気になれば奪われる可能性があるという事。一応人間である僕が、ワーハクタクであるあなたに敵う理由は無いからね」
「知っていたのか、私の事を」
目を丸くした慧音に、霖之助は静かに微笑んだ。
「幻想郷に住む人間なら、あなたの事を知らない者は居ないと思いますよ。里の剣にして、識者であり、道を示す光である女性、上白沢 慧音の事を」
「また随分大仰な謂れだな……」
霖之助の言葉を受け、呆れ半分その他半分な表情の慧音は腕を組む。
「不本意ですか? あなたの良く使うという力に准えてみたんですが」
「店主殿の創作だったのか、今のは」
「ええ。たった今の思い付きにしては、まぁまぁそれなりではありませんか?」
微笑を絶やさない霖之助。
慧音は彼の思考や意図が分からないものの、曖昧な表情を浮かべ曖昧な所作で曖昧な返事をした。そして切り出す。
「……それで緋々色金の件だが、私が客としてでなく純粋な好奇心や探究心で見たいと言えば、店主殿は見せてくれるのか?」
「そういう事でしたら」
あっさりと霖之助は頷き、
「分かった。入手は諦めよう」
あっさりと慧音は諦めた。
「しかし条件を設けます」
「む?」
「あなたは、何故緋々色金を求めるのです? その理由をお聞かせ願いたい」
この問い掛けによって、慧音の表情から霖之助に対するやや微妙な感情は失せ、代わりに真剣さが濃くなる。
「……店主殿は、私の力を知っていると仰ったな」
「ええ」
「知っての通り、私は三種の神器を真似た力を使っている。この幻想郷の外で人間を導き護ってきた神宝に幾許かでもあやかろうと、な。だが当然ながらどれも本物には遠く及ばない」
慧音の韜晦を、霖之助は彼女を探るような目付きで静かに聴いていた。
「店主殿はご存知だろうが、三神器の内、草那芸ノ太刀と八尺瓊勾玉は緋々色金で造られている。八咫鏡は青生々魂で造られているが、緋々色金も青生々魂も精製時の差のみで本質は変わらない。だから私は、三神器を模倣した私の力に対し緋々色金を媒介に使えれば、里に一層の安心と安寧を齎す事ができと考えていたのだ。多くを護る為の力は、常に強く在らねばならないから。……不安や後悔など、過去の話しと出来るほどに」
口を閉ざした慧音を見つめた後、霖之助は視線を逸らし、ふむ、と呟く。
「……成る程。人である我が身を思えば、あなたに僕の持つ緋々色金を売るのは間違いでは無い……か」
独り言のように言ってから、霖之助は慧音に視線を戻す。
「しかし、先も言った通り渡すつもりはありません。それでも、ご覧になりますか?」
「ああ。見るだけでも何か変わるかもしれない」
「分かりました。それでは、少々お待ちください」
頷く慧音にお辞儀をし、霖之助は彼女に背を向けた。
「かたじけない」
店の奥に消える霖之助に、慧音は改めてお辞儀をする。
それから、彼女は再び陳列棚へと目をやった。
各々の部屋を見れば部屋の主の性格が知れるというが、それは店にも言える事なのだろう、と半ば混沌すら感じられる品々の配置に慧音はついつい腕を組む。
「むぅ…………」
品々に見入っている内に、足音が遠くから近付いてくる音がした。
「……何か気に入ったものでもありましたか?」
振り返れば、紫の紐で括られた桐の箱を抱えた霖之助がやって来ている。
「あ、いや。……ここに置いてある物は売り物なのか?」
どこから手に入れたか、に関しては慧音は聞かない事にした。緋々色金の件も含め、恐らくこの掴み所の無い店主はのらりくらりと答え無いだろう。
「ええ。ちゃんと代価を支払っていただければ躊躇無く売りますよ。……まぁ、勝手に持って行く困った猫がたまに居ますがね」
遠い目をする霖之助を前に、ふと、慧音の脳裏に黒白なのが過ぎる。
「大変だな」
「一応、せっつけば返してくれるだけまだマシです。持って行くだけ持って行って殆ど何も返さない困った鼬に比べたら、可愛いものですよ」
溜息交じりの霖之助を見つつ、慧音は紅白なのを幻視した。
「……中々気苦労が絶えないようだな。……それで、これが?」
適当な台の上に箱を載せる霖之助の側に寄りつつ、慧音は彼と箱とを交互に見ながら言う。
「ええ。緋々色金……正確には緋々色金で造られた剣ですが」
「! ……まさか」
紐を解きながらの霖之助の言葉に、慧音は心から驚いた。緋々色金があるだけでも吃驚すべき所なのに、あろう事かそれが草那芸ノ太刀だと言うのだから、童のように感情を無垢に晒すのも当然だろう。
「人は、これを草那芸ノ太刀と呼びますね」
箱の蓋を外しながら、霖之助は厳かに言った。
箱の中に納まっていたのは、緩衝材入りの紫絹に身を横たえる抜き身の太刀。全体的に緋色のそれには昨今出回っているような刀剣のような美しさや機能美は無く、棒状の原石から刃の部分と柄の部分削り出したような無骨さである。もし慧音が美術的価値から草那芸ノ太刀を求めていたとしたら、この時点で落胆の意を全身で示しても不思議では無い。
だが、彼女は草那芸ノ太刀から視線を逸らせずにいた。たった今晒された物がどれ程の代物か、歴史を識る彼女は知悉したのだ。
「これが……だが何故ここに?」
相変わらず太刀から目が離せない慧音に、霖之助は表情一つ変えずに答える。
「外には二本の草那芸があると聞きます。ですが、片や模造品、片や弥生の銅剣と、共に名を騙る紛い物。入手経路は言えませんが、壇ノ浦で水中に没した後、流れ流れて辿り着いたのでしょう」
「成る程……店主殿、一つ無理を聞いてはくれないだろうか」
頷き、黙考した後に慧音は霖之助を見ながら言った。
「無理によりますね」
「……手に取っても構わないだろうか」
「振り回したり、そのまま持って帰ったりしなければ構いませんよ」
条件が条件だが、霖之助の日頃の客を思えば仕方のない事である。
当然、慧音がそんな事をする筈が無い。
「恩に着る」
頭を下げた後、彼女は酷く緩慢な動作で草那芸ノ太刀の柄に手をかける。腫れ物に触れるというより、聖域を侵すような背徳感が手伝っての事だろう。
「うあ……」
触れるなり、慧音は草那芸ノ太刀から自身に流れ込む歴史の奔流に圧倒される。最初にこれを手にした建速須佐之男命から、最後にこれを振るった倭建命に至るまで、剣そのものが感じ取ってきた歴史が流れ込んできたのだ。
一般の者が例えるなら絶縁体か良くて半導体なのに対し、歴史を操る能力を持つ慧音は良導体も同然なのである。それも超が付く程の。そんな彼女が触れた以上、歴史という大電流の塊のような神器から、彼女へ歴史が伝わるのは極当然の事といえた。
「……大丈夫ですか?」
霖之助は、草那芸ノ太刀を持った直後、微かに痙攣したかと思うと瞬きもせず固まってしまった慧音の肩を揺する。
「っ」
すると慧音は夢から醒めたように突然びくりとし、その弾みで手から草那芸ノ太刀が落ちてしまう。
「―――っと!」
「あ、す、済まないっ」
咄嗟に霖之助が太刀を受け止めたから良かったものの、もしそのまま落ちでもしたらどうなってしまったか。緋々色金の強度からして、床に刺さる位で済んだかもしれないが、この場合そういった事は考慮されない。
狼狽に近い有様になった慧音に、霖之助は無用と知りつつ敢えて太刀を検分してから箱に戻した。
「いや、太刀は無事です。肩を揺すった私にも非は在りますし」
「申し訳無い。―――ただ、太刀に触れたら太刀の歴史が流れてきたのだ」
重ねて謝罪した後、慧音は自身が体験した事柄を口にする。霖之助の視線が雄弁に疑問を投げかけていたからだ。
「ほほぅ。それは、中々興味深い。それで、どの辺りまでご覧になりましたか?」
「相武の国の国造に謀られた所だった」
慧音の答えに霖之助は少し首を捻った後、知識から該当する部分を見つけ出す。
「……ああ、するともう少しで草那芸が草那芸と呼ばれる所以の所まできていましたか」
「うむ。何かあれば開けと言われた叔母の袋の中から火打石が出てきた時は、どうしようかと思った」
特に何の注釈も無く話しが通じた事に、慧音は知らず饒舌になっていた。
「普通、絶望に近いものを味わいますよね、あの行は。いくら反逆者の計略が全て見破られるとはいえ、はらはらしましたが」
霖之助も霖之助で普段こういう話しが出来る相手に乏しい為に、彼を知る面子が見たら驚くような勢いで舌が回っている。
「実体験ともなると、中々焦るぞ。炎は迫ってくるし後は無いしで、正に焦眉の急だ」
「しかしそれを覆すのが倭建命の凄い所」
「そうだな。人の身にありながら、あの場で炎を返す等とはよくぞ考え付いたものだ」
「炎に囲まれる中、太刀を振るって草を薙ぎ、自らの周りを予め燃やし、己に迫る炎を食い止める。まさしく英雄と呼ぶに相応しい機転でしょうね」
共通の話題が出来れば、それも普段そう話す相手の居ない事柄で、且つ自分が強く興味を持っている内容であれば、会話が弾むのは自明の理だ。
「全くだ。それにしてもやはり彼の方は人を信じすぎるきらいが―――」
「いえいえ、その愚直さが英雄としての―――」
「しかし行く場所行く場所で―――」
「確かにそうですが、それを補って余りある―――」
知らず知らず二人はすぐ側の神太刀を差し置いて、遥か過去の話題に没頭していく。
―――結構な時間が経った。
話題の尽きない二人の会話を断ったのは、不意の二音。店内にある古時計が奏でた、低く重い時を報せる音である。
「―――っと、済まない。ついつい話しに夢中になってしまった」
片手で口を軽く覆いつつ、慧音は上目遣いに霖之助を見上げた。
霖之助の方も、心からああしまったという顔で後頭部に手をやっている。
「いえいえ、此方こそ。日頃、この手の話しが合う相手が居ないもので。……草那芸の方はもう宜しいですか?」
「ああ。一度この目で見て、この手で触れた。届かぬ物にはこれ以上は望めぬよ」
「……ここに来る客が、皆あなたのような価値観を持っていてくれたらどれだけ商いがしやすいでしょうね」
「そんなに酷いのか?」
「少し前に愚痴を零したでしょう?」
「……ああ、そうだったな」
苦笑を零す霖之助に、慧音は同種の苦笑を返す。
「ともあれ、思わず長居してしまったが……実を言うと、緋々色金以外に私の目的は無いんだ」
加えて時間も遅い。慧音の一言は、お暇するという意味を表現するのに充分だった。
「そうでしたか。少し残念ですね」
言いつつも、霖之助の態度や表情は少し所か全然残念そうじゃない。
ひょっとしたら彼にとって香霖堂とは、彼自身の何かを隠す為の蓑なのかもしれなかった。
なんとなく、馬鹿げているとは思いながらも慧音はそう思う。
「出来れば、次の来店の機会までには何か欲しい物もしくは見繕って欲しい物を考えておいて欲しいものです」
「そうだな。過去に想いを馳せるのにこの店ほど適した場所は無い。次に来た時は、店内をもっとよく見させてもらおう」
軽く目礼し、慧音は霖之助に背を向ける。
「ええ、その際はなるべく日中にお願いしますよ。流石に、こう毎日こんな時間まで店を開けている訳では無いですから」
歩いて香霖堂を後にしようとしていた慧音は、霖之助の言葉を背に受けて立ち止まり、振り返った。
「……どういう事だ?」
「夕刻頃に魔理沙が来ましてね。頭の固い姑みたいな客が来るかも知れんから、店を開けとけと命令されたんですよ」
「随分な評価だな……」
「あの娘が他人を表現するときに悪い言葉を使うのは、その対象に悪意を持っていない証拠ですよ」
渋い顔をする慧音に、霖之助は取り成すように言う。因みにこれは彼の経験から来る持論ではあるが、もしかしたら香霖呼ばわりされ続ける事への言い訳なのかもしれない。
どちらにせよ、あの魔法使いが自分の本音を簡単に吐露する筈も無いので、真相は当分闇の中だ。
「むぅ。……何にせよ、あの娘の口利きが無ければ私は無駄足を踏んだかもしれないという事か」
「それは、まぁ。店と言うものにはえてして営業時間というものがありますから」
「成る程。確かに、幾ら何でも真夜中に来るのは無作法が過ぎていたようだ」
「いえいえ、僕からすればこうしてあなたという話の合う方と出会う事が出来たんです。こういう貴重な出会いの為だったら、喜んで夜更かししますよ」
頭を下げる慧音に、霖之助は両手を軽く振って彼女の罪悪感を軽減させようと努める。
「済ま……いや、無粋か。それでは、次は月読命の腕の中では無く、天照大御神の庇護下で会おう」
言い淀んだ後、慧音は改めて霖之助に背を向けた。
「では、またのご来店をお待ちしています」
その背に向けて、霖之助は深く頭を下げる。
今度こそ、二人は別れた。再会の口約束を以って。