※この作品は、Coolier様にある東方創想話の作品集26に投稿されていたものです。
―――さて、楽園の最高裁判長である四季 映姫は、今日も今日とて業が煮えておりました。勿論、部下の小野塚 小町があまりにもマイペースだからです。
「小町! 今日という今日こそは赦しませんよ!?」
業が煮えるというか、映姫は堪忍袋の緒が〝また〟切れていました。〝今日という今日こそは〟とか、〝赦しませんよ〟という言葉も、映姫は何度言ったか知れないし、小町も何度言われたか覚えていません。だって、あまりにも膨大だから。
映姫の端整な細面は怒りに紅潮し、美しい柳眉をきりりと逆立っていて、手に持った笏にはぎりぎりと力が込められ―――おやピシピシと亀裂が―――ています。いっそ凄艶とすらとれる怒り様で、しかし同時に彼女が閻魔様である事を鑑みると、この剣幕。如何な悪党でも泣いて赦しを乞うに違いないでしょう。
「きゃんっ。でも映姫様、聞いて下さいよー。私はちゃんと仕事をやっているのに何でかこいつら減らないんですよ? むしろ不思議じゃありませんか」
ですがこの小町。慣れとは恐ろしいもので、始めの内こそ平身低頭してガタガタと震えて居たのですが、今や正座しつつも口ごたえする余裕がありました。
勿論、素です。別に映姫の神経を逆撫でようとかそういう全く意味の無い冒険心からではなく、本当に、素で、当人は微塵もその意識はないでしょうが口ごたえをしていました。
そういった訳で、小町は丁寧に映姫の逆鱗を撫でくり回しています。
勿論、自覚なんてある筈がありません。裁判長の胃に穴が開こうが、どれだけ叱られようが、小町は永遠にマイペースなのです。多分ずっと。
「でもじゃありませんし聞きませんしそもそも何を言ってるの小町!」
映姫は怒鳴ります。小町が言って聞くような娘であればとっくに模範的な死神になっているのは間違い無いところですが、そこはそれ。映姫はいつかかならず小町も分かってくれると思っているのです。
実に健気じゃありませんか。
そも閻魔とは途方も無い根気と粘りで克己復礼を奨励するという、凄まじく頑固な意思がなければ勤まりません。だから今日もこうして無縁塚まで出張して直接お叱りの言葉を述べておられるのです。
だのに。
「何って……別段、おかしな事を言ってるつもりはありませんけどー」
小町は小町ですから。
「ッ!!!」
ピシ……ピキッ……バキッ!
おや、とうとう映姫の手の中の笏が御臨終なさいました。しかし映姫は慌てず騒がず手に残った欠片を振り払うと、襟元に手を突っ込んでそこから新しい笏を引っ張り出します。
ちなみに、この一連の動作にも関わらず淑やかな自己主張をする胸囲は一ミリも変動しません。何故って? それは仕様です。大宇宙の真理です。突っ込んだら地獄へ堕とされます。ええ、確実に。
深呼吸して気を落ち着けた映姫は、笏の欠片を拾い集めている小町に対し一喝する。
「ほら、辺りを御覧なさい!」
腕を振ってまで示した辺りは、
「はぁ。彼岸花が一杯ですね」
きょろきょろと周囲を見回した小町の言葉通りの有様でした。
そう。またです。というかまだです。
例によって、小町があまりにもマイペースだから。
「何故一杯か知らないとは言わせませんよ!?」
「えーと、ああ、そういえば外で一騒ぎあったからでしたっけ」
小町がすぐに気付かなければ、折角の新しい笏も即座にご臨終あそばしていた事でしょう。
「その通りです」
幾分か落ち着きを取り戻し、映姫はなるべく普段通りをこころがけて仰いました。
「で、それが何か?」
バキャーン!!
ああっ、笏が!
「何か? じゃありませんこのへっぽこ死神! 一級免許取り消しますよ!?」
落ち着きが十秒保たなかった事は、予想すべきなのか意外とするべきなのか。
ともかく、二本目の笏を引っ張り出しつつ映姫は小町へ雷を落とします。さっきから落ちまくりですが、アレです。多分小町は避雷針なんでしょう。だから集中して雷が落ちるという。
ええ、もちろん違いますけどね。
「えー!? 四季様、それは勘弁願えませんか。私は別に、ノルマを達成して無い訳じゃないんですよ?」
「あなたがあなたに課したノルマなのだから、出来て当然でしょう! 私が課したノルマをきっちり達成してからそういう戯言は口になさい!」
「でもこの前四季様が私に課したノルマ、今までの軽く倍はあるんですけど」
「……それがどうかしましたか」
四季様からすれば、周囲を鑑みれば倍でも足りないくらいの気持ちでした。
しかし、いい加減しつこいですが、小町はマイペースです。ついでに、空気読めてません。
「突然今までの倍にされても困るんですよねー。せめて三日間につき一件くらいの塩梅で増やしてくれないと」
だからこんなのほほんととんでもない事をしゃあしゃあと言ってしまうのです。
バキャッ……ぼろぼろ……。
二本目に引き続き、三本目の寿命も涙無くしては語れないほど短いものでした。
ところで、仏の顔も三度までという言葉があります。
先程、途方も無い根気だの粘りだの克己複礼だのとか聞こえましたが、あれには実は〝怒らない限り〟という前提条件が付きます。
そして、先の仏の顔も三度という言葉と合わせて鑑みてみると―――
何事にも限度があるというのが良く分かるかと。
「それぐらいしないと追いつかないからそれだけのノルマを課しているんでしょう!?」
青筋を浮かべ、怒りを隠しきれなくなっている映姫の表情。ぎちりと握られた手は小刻みに震え、髪の毛がざわざわと揺らめいています。
避難勧告が出てもおかしくないくらい、大変危険です。
「いや、それはそうですけど」
流石に小町もそろそろ危ないな、と感じ始めているようですが、残念な事に笏はもう三本壊れています。
誰がどう考えても手遅れです。本当にご愁傷様でした。
じゃりっ、といやに耳に障る音を立てて映姫は一歩を踏み出します。
そして小町が見た映姫の表情は、先程までの迸る怒りが信じられないほど、とても静かで優しいものでした。
「……四季様?」
たどたどしい言葉と共に小町は立ち上がります。映姫に対し、例え小町といえども只ならぬ何かを感じて当然でしょう。
ただ、明らかに何もかも遅いのですが。
「小町」
優しい声。まだ彼女の歩みは止まらない。
「はひ」
舌が上手く回らず、背筋が伸びる。
「たまには痛い目でも見なければ分からないようですね?」
映姫は笏を小町の方へ軽く傾け、未だ歩みを止めていない事により、笏の先端部分が小町の左乳房に触れ、沈んでいきます。
「ぇえっ?」
下がれば良いのですが、映姫の強烈な存在感に気圧されて、小町はそんな簡単な事にすら気付けません。
もっとも、気付いたとしても金縛りよろしく固まってしまっている彼女の足が、彼女の思う通りに動くかどうかは、甚だ疑問を覚えるところでありますが。
「説教ではもう改善の余地はなさそうですし」
歩みは進み、笏によって押し上げられる形となっている小町の左乳房は、その弾力性と柔軟性を露にするように形を歪ませています。
ですが、にこにこと微笑む映姫はそんなもんは見ちゃいません。小町を見つめる静謐な眼差しは、恐らく、かのスキマ妖怪でも恐怖を覚える有様でしょう。
「な、え、四季様? その、ちょっと強引が過ぎやしませんか」
いい加減乳房からの痛みに気付いたのか、顔を少しばかり顰めつつ小町は言います。
ある意味、その言い様は凄い事です。
どう考えてもそれどころじゃない筈なのに。
それと、未だに謝らないところとかも。
そして映姫の足が止まり、彼女はそっと息を吸って、言葉と一緒に吐き出します。
「罪には罰を。悔い改めぬ者には罰を。信賞必罰、拠ってこれは濫罰にあらず」
詠うように呟いた後小首を傾げ、映姫は最後にそっと言いました。
「―――これこそは冥罰である」
冥罰という言葉を閻魔が使うという事は、言葉を変えれば、『今から全力で懲らしめますよ』となります。実に洒落になりませんね。
「うひゃ」
となれば当然、小町としてはいつまでも棒立ちしている訳にはいきません。
ですが。
「神罰!」
「う゛っ!?」
次の瞬間、小町は映姫が繰り出した痛烈な肘の打ち込みをもろに受けています。
前進と破壊を生む踏み込みと共に、笏を持たぬ方の折り畳まれた腕がコンパクトに打ち込まれ、動く間も無く小町の身体はややくの字状に陥りつつ地面から浮かされました。
地から足が浮いたという事は、最早小町に踏ん張る事は赦されません。従って、持ちうる力を存分に発揮する事は不可能となりました。
如何に飛べるとはいえ、鳩尾深く打ち込まれた肘の威力の前に、どれほどの意味を持つものでしょう。
「覿面!」
踏み込みと合わさった肘打ちに続き、映姫は腰を回し笏を握ったままの拳を小町へと容赦なく殴り込みます。その軌道は下から上へ昇り上がるもので、存分な速度と力が載った拳が狙ったのは、凶悪な事に、首でした。
これこそ正に無慈悲です。
これが正に容赦無しです。
ですが、キレた閻魔様直々の所業と言えば、恐らく誰もが納得するんじゃないでしょうか。どう考えても怒らせる方が悪いんですから。それに閻魔様は絶対正義でもありますし。
「に゛っ!?」
小町の長躯がふわりと宙に浮かされました。顎でも胸骨でもなく首を狙われた事で変な声が響きましたが、多分大丈夫でしょう。死神は殴られた程度じゃ死にません。きっと。
それにしても、事一対一において無防備に宙へ浮かされるなんていう事は、死を意味します。もしくは半殺し。
しかし映姫は浮かせた小町へ追撃の手を伸ばす事をせず、何故か笏を持った拳を、肘と共に耳の高さまで持ち上げ、少し腰を落とします。
数瞬して、浮かされた小町の軌道が落下へと転じました。
腹に続き首を手酷くやられた事で、いつもの無意識の叛意すら喪失しているようです。
小町が落ちる事で空気と擦れ合う音だけが、三途の川の音しかしない無縁塚に響きます。
そして、
「卒塔婆ァーッ」
映姫は叫ぶや、上がっている拳を、
「ゲイザァッ!」
勢い良く地面に打ち付けました。
すると現れたのは巨大な卒塔婆。
そしてその巨大な卒塔婆は、喚び出した映姫の言葉通り、とてつもない勢いで噴出していき、
「きゃぁーんっ!?」
空中の小町を見事に捉え、彼女を更なる高みへと打ち上げました。
首をやられて叫べる辺り、腐っても死神なのだと納得させるものがありましたが、小町は落下中に頭が下になっていたのです。つまり、頭頂から卒塔婆に抉られた事になります。
だのに「きゃぁーんっ!?」で済んでいます。
ああ、流石死神。無駄に丈夫です。
何にせよ、こうして小町はお星様になってしまいました。
あれだけ高々と打ち上げられては、当分落ちて来ないでしょう。
閻魔様の逆鱗に触れるという事は、やはり大変危険ですね。
良い子も悪い子も、特に悪い子は要注意です。
「―――っと、こんな感じかな」
無縁塚。
木陰に隠れていた射命丸 文は、満足気に筆を収めた。
彼女はネタを探し探して、無縁塚へ飛来していたのである。
そうしたら、先程までネタ帳に記していた通りの出来事が起こったのだ。
実に特ダネである。
閻魔様の仕置きを記事にしたとなれば、話題騒然部数激増、天狗仲魔での新聞大会でも上位を狙える事請け合いだ。
一部面白おかしく書いた部分もあるが、あの様子では恐らく変わりないだろう。
文はそう判断し、さてともうここには用は無い、と踵を返した。
ぱきり。
―――その時響いた軽い音は、文の関節から零れたもの。
長時間動かずにいた後、不意に動くとたまに関節が鳴ってしまうが、よりによって今この時。
三途の川の音以外無音であるこの無縁塚で。
関節が、ぱきり。
「……………………っ」
跳ね上がる鼓動。
全身から吹き上がる冷や汗。
氷嚢にくるまれたかのような悪寒。
そこからくる体の震え。
そして噛み合わずガチガチとなる歯。
更には金槌で殴られたかのような頭痛。
鼻詰まり。
ごくり、と唾を飲む音が、文にとっていやに大きく感じられる。
そして文の全細胞が危険だ危険だと警鐘を鳴らしに鳴らしていた。
幻想郷最速を活かすのは今を置いて他に無い。
無い、が。
―――文は、視線を感じ、振り向いて……しまった。
「あ……」
そして……彼女が最期に見たものは―――
―――さて、楽園の最高裁判長である四季 映姫は、今日も今日とて業が煮えておりました。勿論、部下の小野塚 小町があまりにもマイペースだからです。
「小町! 今日という今日こそは赦しませんよ!?」
業が煮えるというか、映姫は堪忍袋の緒が〝また〟切れていました。〝今日という今日こそは〟とか、〝赦しませんよ〟という言葉も、映姫は何度言ったか知れないし、小町も何度言われたか覚えていません。だって、あまりにも膨大だから。
映姫の端整な細面は怒りに紅潮し、美しい柳眉をきりりと逆立っていて、手に持った笏にはぎりぎりと力が込められ―――おやピシピシと亀裂が―――ています。いっそ凄艶とすらとれる怒り様で、しかし同時に彼女が閻魔様である事を鑑みると、この剣幕。如何な悪党でも泣いて赦しを乞うに違いないでしょう。
「きゃんっ。でも映姫様、聞いて下さいよー。私はちゃんと仕事をやっているのに何でかこいつら減らないんですよ? むしろ不思議じゃありませんか」
ですがこの小町。慣れとは恐ろしいもので、始めの内こそ平身低頭してガタガタと震えて居たのですが、今や正座しつつも口ごたえする余裕がありました。
勿論、素です。別に映姫の神経を逆撫でようとかそういう全く意味の無い冒険心からではなく、本当に、素で、当人は微塵もその意識はないでしょうが口ごたえをしていました。
そういった訳で、小町は丁寧に映姫の逆鱗を撫でくり回しています。
勿論、自覚なんてある筈がありません。裁判長の胃に穴が開こうが、どれだけ叱られようが、小町は永遠にマイペースなのです。多分ずっと。
「でもじゃありませんし聞きませんしそもそも何を言ってるの小町!」
映姫は怒鳴ります。小町が言って聞くような娘であればとっくに模範的な死神になっているのは間違い無いところですが、そこはそれ。映姫はいつかかならず小町も分かってくれると思っているのです。
実に健気じゃありませんか。
そも閻魔とは途方も無い根気と粘りで克己復礼を奨励するという、凄まじく頑固な意思がなければ勤まりません。だから今日もこうして無縁塚まで出張して直接お叱りの言葉を述べておられるのです。
だのに。
「何って……別段、おかしな事を言ってるつもりはありませんけどー」
小町は小町ですから。
「ッ!!!」
ピシ……ピキッ……バキッ!
おや、とうとう映姫の手の中の笏が御臨終なさいました。しかし映姫は慌てず騒がず手に残った欠片を振り払うと、襟元に手を突っ込んでそこから新しい笏を引っ張り出します。
ちなみに、この一連の動作にも関わらず淑やかな自己主張をする胸囲は一ミリも変動しません。何故って? それは仕様です。大宇宙の真理です。突っ込んだら地獄へ堕とされます。ええ、確実に。
深呼吸して気を落ち着けた映姫は、笏の欠片を拾い集めている小町に対し一喝する。
「ほら、辺りを御覧なさい!」
腕を振ってまで示した辺りは、
「はぁ。彼岸花が一杯ですね」
きょろきょろと周囲を見回した小町の言葉通りの有様でした。
そう。またです。というかまだです。
例によって、小町があまりにもマイペースだから。
「何故一杯か知らないとは言わせませんよ!?」
「えーと、ああ、そういえば外で一騒ぎあったからでしたっけ」
小町がすぐに気付かなければ、折角の新しい笏も即座にご臨終あそばしていた事でしょう。
「その通りです」
幾分か落ち着きを取り戻し、映姫はなるべく普段通りをこころがけて仰いました。
「で、それが何か?」
バキャーン!!
ああっ、笏が!
「何か? じゃありませんこのへっぽこ死神! 一級免許取り消しますよ!?」
落ち着きが十秒保たなかった事は、予想すべきなのか意外とするべきなのか。
ともかく、二本目の笏を引っ張り出しつつ映姫は小町へ雷を落とします。さっきから落ちまくりですが、アレです。多分小町は避雷針なんでしょう。だから集中して雷が落ちるという。
ええ、もちろん違いますけどね。
「えー!? 四季様、それは勘弁願えませんか。私は別に、ノルマを達成して無い訳じゃないんですよ?」
「あなたがあなたに課したノルマなのだから、出来て当然でしょう! 私が課したノルマをきっちり達成してからそういう戯言は口になさい!」
「でもこの前四季様が私に課したノルマ、今までの軽く倍はあるんですけど」
「……それがどうかしましたか」
四季様からすれば、周囲を鑑みれば倍でも足りないくらいの気持ちでした。
しかし、いい加減しつこいですが、小町はマイペースです。ついでに、空気読めてません。
「突然今までの倍にされても困るんですよねー。せめて三日間につき一件くらいの塩梅で増やしてくれないと」
だからこんなのほほんととんでもない事をしゃあしゃあと言ってしまうのです。
バキャッ……ぼろぼろ……。
二本目に引き続き、三本目の寿命も涙無くしては語れないほど短いものでした。
ところで、仏の顔も三度までという言葉があります。
先程、途方も無い根気だの粘りだの克己複礼だのとか聞こえましたが、あれには実は〝怒らない限り〟という前提条件が付きます。
そして、先の仏の顔も三度という言葉と合わせて鑑みてみると―――
何事にも限度があるというのが良く分かるかと。
「それぐらいしないと追いつかないからそれだけのノルマを課しているんでしょう!?」
青筋を浮かべ、怒りを隠しきれなくなっている映姫の表情。ぎちりと握られた手は小刻みに震え、髪の毛がざわざわと揺らめいています。
避難勧告が出てもおかしくないくらい、大変危険です。
「いや、それはそうですけど」
流石に小町もそろそろ危ないな、と感じ始めているようですが、残念な事に笏はもう三本壊れています。
誰がどう考えても手遅れです。本当にご愁傷様でした。
じゃりっ、といやに耳に障る音を立てて映姫は一歩を踏み出します。
そして小町が見た映姫の表情は、先程までの迸る怒りが信じられないほど、とても静かで優しいものでした。
「……四季様?」
たどたどしい言葉と共に小町は立ち上がります。映姫に対し、例え小町といえども只ならぬ何かを感じて当然でしょう。
ただ、明らかに何もかも遅いのですが。
「小町」
優しい声。まだ彼女の歩みは止まらない。
「はひ」
舌が上手く回らず、背筋が伸びる。
「たまには痛い目でも見なければ分からないようですね?」
映姫は笏を小町の方へ軽く傾け、未だ歩みを止めていない事により、笏の先端部分が小町の左乳房に触れ、沈んでいきます。
「ぇえっ?」
下がれば良いのですが、映姫の強烈な存在感に気圧されて、小町はそんな簡単な事にすら気付けません。
もっとも、気付いたとしても金縛りよろしく固まってしまっている彼女の足が、彼女の思う通りに動くかどうかは、甚だ疑問を覚えるところでありますが。
「説教ではもう改善の余地はなさそうですし」
歩みは進み、笏によって押し上げられる形となっている小町の左乳房は、その弾力性と柔軟性を露にするように形を歪ませています。
ですが、にこにこと微笑む映姫はそんなもんは見ちゃいません。小町を見つめる静謐な眼差しは、恐らく、かのスキマ妖怪でも恐怖を覚える有様でしょう。
「な、え、四季様? その、ちょっと強引が過ぎやしませんか」
いい加減乳房からの痛みに気付いたのか、顔を少しばかり顰めつつ小町は言います。
ある意味、その言い様は凄い事です。
どう考えてもそれどころじゃない筈なのに。
それと、未だに謝らないところとかも。
そして映姫の足が止まり、彼女はそっと息を吸って、言葉と一緒に吐き出します。
「罪には罰を。悔い改めぬ者には罰を。信賞必罰、拠ってこれは濫罰にあらず」
詠うように呟いた後小首を傾げ、映姫は最後にそっと言いました。
「―――これこそは冥罰である」
冥罰という言葉を閻魔が使うという事は、言葉を変えれば、『今から全力で懲らしめますよ』となります。実に洒落になりませんね。
「うひゃ」
となれば当然、小町としてはいつまでも棒立ちしている訳にはいきません。
ですが。
「神罰!」
「う゛っ!?」
次の瞬間、小町は映姫が繰り出した痛烈な肘の打ち込みをもろに受けています。
前進と破壊を生む踏み込みと共に、笏を持たぬ方の折り畳まれた腕がコンパクトに打ち込まれ、動く間も無く小町の身体はややくの字状に陥りつつ地面から浮かされました。
地から足が浮いたという事は、最早小町に踏ん張る事は赦されません。従って、持ちうる力を存分に発揮する事は不可能となりました。
如何に飛べるとはいえ、鳩尾深く打ち込まれた肘の威力の前に、どれほどの意味を持つものでしょう。
「覿面!」
踏み込みと合わさった肘打ちに続き、映姫は腰を回し笏を握ったままの拳を小町へと容赦なく殴り込みます。その軌道は下から上へ昇り上がるもので、存分な速度と力が載った拳が狙ったのは、凶悪な事に、首でした。
これこそ正に無慈悲です。
これが正に容赦無しです。
ですが、キレた閻魔様直々の所業と言えば、恐らく誰もが納得するんじゃないでしょうか。どう考えても怒らせる方が悪いんですから。それに閻魔様は絶対正義でもありますし。
「に゛っ!?」
小町の長躯がふわりと宙に浮かされました。顎でも胸骨でもなく首を狙われた事で変な声が響きましたが、多分大丈夫でしょう。死神は殴られた程度じゃ死にません。きっと。
それにしても、事一対一において無防備に宙へ浮かされるなんていう事は、死を意味します。もしくは半殺し。
しかし映姫は浮かせた小町へ追撃の手を伸ばす事をせず、何故か笏を持った拳を、肘と共に耳の高さまで持ち上げ、少し腰を落とします。
数瞬して、浮かされた小町の軌道が落下へと転じました。
腹に続き首を手酷くやられた事で、いつもの無意識の叛意すら喪失しているようです。
小町が落ちる事で空気と擦れ合う音だけが、三途の川の音しかしない無縁塚に響きます。
そして、
「卒塔婆ァーッ」
映姫は叫ぶや、上がっている拳を、
「ゲイザァッ!」
勢い良く地面に打ち付けました。
すると現れたのは巨大な卒塔婆。
そしてその巨大な卒塔婆は、喚び出した映姫の言葉通り、とてつもない勢いで噴出していき、
「きゃぁーんっ!?」
空中の小町を見事に捉え、彼女を更なる高みへと打ち上げました。
首をやられて叫べる辺り、腐っても死神なのだと納得させるものがありましたが、小町は落下中に頭が下になっていたのです。つまり、頭頂から卒塔婆に抉られた事になります。
だのに「きゃぁーんっ!?」で済んでいます。
ああ、流石死神。無駄に丈夫です。
何にせよ、こうして小町はお星様になってしまいました。
あれだけ高々と打ち上げられては、当分落ちて来ないでしょう。
閻魔様の逆鱗に触れるという事は、やはり大変危険ですね。
良い子も悪い子も、特に悪い子は要注意です。
「―――っと、こんな感じかな」
無縁塚。
木陰に隠れていた射命丸 文は、満足気に筆を収めた。
彼女はネタを探し探して、無縁塚へ飛来していたのである。
そうしたら、先程までネタ帳に記していた通りの出来事が起こったのだ。
実に特ダネである。
閻魔様の仕置きを記事にしたとなれば、話題騒然部数激増、天狗仲魔での新聞大会でも上位を狙える事請け合いだ。
一部面白おかしく書いた部分もあるが、あの様子では恐らく変わりないだろう。
文はそう判断し、さてともうここには用は無い、と踵を返した。
ぱきり。
―――その時響いた軽い音は、文の関節から零れたもの。
長時間動かずにいた後、不意に動くとたまに関節が鳴ってしまうが、よりによって今この時。
三途の川の音以外無音であるこの無縁塚で。
関節が、ぱきり。
「……………………っ」
跳ね上がる鼓動。
全身から吹き上がる冷や汗。
氷嚢にくるまれたかのような悪寒。
そこからくる体の震え。
そして噛み合わずガチガチとなる歯。
更には金槌で殴られたかのような頭痛。
鼻詰まり。
ごくり、と唾を飲む音が、文にとっていやに大きく感じられる。
そして文の全細胞が危険だ危険だと警鐘を鳴らしに鳴らしていた。
幻想郷最速を活かすのは今を置いて他に無い。
無い、が。
―――文は、視線を感じ、振り向いて……しまった。
「あ……」
そして……彼女が最期に見たものは―――