※この作品は、Coolier様にあるプチ東方創想話ミニの作品集10に投稿されていたものです。
夜。
永遠亭の中庭でぼうっと星空を眺めていた鈴仙は、不意に背後から抱きつかれた。
「え?」
鈴仙の口から声が漏れる。
それは驚きの声であり、意外と思う声であり、事態が呑み込めない声。
彼女の両肩より伸び、胸辺りで交差してそれぞれ逆の二の腕に軽く触れる背後からの両腕。
てゐのものではない。
そも、てゐが鈴仙に抱きつくのならば腰にである。
輝夜のものではない。
大体、輝夜ならば両肩ではなく脇から伸び、ついでに揉んできても不思議じゃない。
つまり、ここまで考える必要は全く無いのだが、
「……師匠?」
鈴仙を背後から抱く腕は、永琳のものであった。
ただ、それと分かったところでそれ以外の事が何一つとして鈴仙には分からない。夜中に永琳に抱きつかれるような覚え自体全く無い以上、何か他の理由を想定してこそ彼女の弟子として恥ずかしくないのだが、やっぱり分からないものは分からなかった。
「あの……?」
先程の返事が無かったので、鈴仙は不安げに言う。
すると、抱きつかれた時と同様、不意に永琳の腕は鈴仙を開放した。
鈴仙は手早く半歩前へ進んで回れ右。
「一体―――」
どうしたんですか。
そう続く筈だった鈴仙の言葉は発せられず、ただ、彼女は目の前に立つ自らの師の顔を見て言葉を失っていた。
鈴仙の正面に立つ永琳。
彼女は、今、泣いていた。
呼吸に嗚咽が混じる訳でもなく、鼻を啜る事も無く、ただただ静かに、八意 永琳ははらはらと涙を流し泣いていた。
眉尻は下がり、目尻も下がり、ただひたすらにその顔は悲哀に満ちて、八意 永琳は声もなく俯きもせず泣いていた。
鈴仙からすればこれ程までの異常事態は無い。
普段泣きそうも無いだとか、全く予想だにしない事態だとかいう事ですっかり鈴仙は思考も挙動も止まってしまっていた。
そして、実時間で数秒、鈴仙的には十分は経った辺りで、永琳は軽く溜息を吐く。
その息をきっかけとして、鈴仙の思考と挙動が動き始める。
「あの、師匠……どうしたん、ですか?」
スカートのポケットに常備してあるハンカチを取り出そうとしつつ言うが、そんな鈴仙に永琳は短く首を左右に振った。
……ハンカチは要らないって事かな。
判断に困り、鈴仙はハンカチを取り出そうとしていた手をゆっくり動かし、ポケット内から外へ、そして気をつけの位置へともっていく。
「師匠?」
そして、問いかけた。
「……ねぇ、ウドンゲ」
四度目となる問い掛けに、永琳は今までの弟子の言葉など無かったかのように応える。
いや、これも恐らく問い掛けに対する応えでは無いのだろう。何故なら返事としては不適切な言葉だからだ。
そして、永琳は言った。
「助けて」
鈴仙の目が点になった。
「はぃ?」
思わず言ってしまった。
「姫が―――」
そう永琳が言いかけた。
「あら永琳、こんな所に居たのね」
その時、輝夜が現れた。
穏やかな微笑みを浮かべ、手には小さな鑢のような物を提げている。
鈴仙は訳が分からなくなっていた。因果関係が見えないにも程が在るだろう。
「あの、どうなさったんですか?」
鈴仙が言うと、永琳はあろう事がその影に隠れようとする。
耳を含めれば当然鈴仙の方が背が高いのだが、頭頂部までとすると大した差はない上に永琳の方が微妙に高い。その為、全く隠れていなかった。
「え、ちょ、師匠?」
「助けて鈴仙」
状況に取り残されたままの鈴仙に、永琳がか弱く言う。
「えぇっ?」
「駄目よ鈴仙」
混乱と共にうろたえる鈴仙に対し、輝夜が柔和に言う。
「ええぇっ!?」
ますます混乱深まる鈴仙だが、背負った永琳の命と、対峙する形の輝夜の命。さてどちらを優先するべきか。考え、それから、ちょっとだけ迷う素振りを見せ、永琳と輝夜が見ている中、決断する。
「えい」
鈴仙は輝夜へと永琳の背を押していた。
「こ、この裏切り者ー!?」
わたわたと無様に慌てる永琳。
「あらあらイナバったら」
それをにこにこ見つめる輝夜。
「暴れないで下さいよ~」
師匠を押す力を緩めない鈴仙。
永遠亭において命令の優先権は輝夜にある。次いで永琳で、鈴仙とてゐが並んで三番手という形だ。そしてその順位を定め、徹底したのは他ならぬ永琳である。よもやこのような事態を生むとは思いもしなかったろうし、そもそも想定の範囲外だろう。
「捕まえた」
鈴仙にしっかと両肩を掴まれてぐいぐい押される永琳は、元軍属である彼女の膂力に抗し切る前に輝夜に捕まっていた。それも真正面からはっしと抱き締められて。
永琳は先の優先権の順位付けの件等からして、輝夜に対し絶対に等しい服従をしている。鈴仙等他の永遠亭の住民からすれば少なからず首を捻る所なのだが、そこはまぁ当人同士の問題だし色々と詮索は憚られていた。
ただ、確かなのは永琳は輝夜をまるで蝶よ花よと慈しみ過剰なまでに尊んでいるという事だ。
で、現在永琳は輝夜に抱き締められている。普段であれば解くのは容易い。輝夜とてそう力一杯抱き締めている訳でもないので、尚の事である。が、永琳は振り解く事もしなければ暴れもしない。何故なら出来ないからだ。彼女が八意 永琳である限り、蓬莱山 輝夜は絶対なのである。禁薬を製作したあの時から。
既に永琳の肩から手を放した鈴仙は、輝夜の微笑みと固まったように動かない師の後姿をぼんやりと見つめていた。瞳から彼女の心情を察するならば “嗚呼、これは分からない方が多分良いんだ。いつもの事だよね、うん。”辺りが実に妥当だろう。
すっかり静かになった永琳を、輝夜は抱き締めたままゆっくり移動し始める。
途中、一度だけ鈴仙を振り返った輝夜は、
「ありがとうね、イナバ」
と簡単な感謝を述べて、永琳を庭から縁側へと引き摺って行った。
「はぁ」
気の無い言葉を零し、考えるだけ多分無駄なので考えないようにし、それから鈴仙は何事も無かったかのように星空を見上げる。
そこには何も変わらない星々の煌きがあった。
その事に小さな安堵を覚え、ああそういえばあの鑢みたいなのは何だったんだろうとか何で師匠は泣いているんだろうとかうっかり考えそうになって、鈴仙は思い切り頭を振るう。
星明りの下、しおしおな耳がゆわんゆわんと揺れていた。
「あはっ、あはははは、や、やめてくははははは―――」
永遠亭の一室。
そこに響く笑い声。
声の主は八意 永琳。
彼女は現在輝夜に逆海老を極められて、ギブしながら笑いまくっていた。
「はいはい後もーちょっとだからねー」
そして永琳の関節を極めている蓬莱山 輝夜。
彼女は手に持った爪鑢で、永琳の足指の爪をずすずすと削り整えていた。
つまる所。
永琳が鈴仙に助けを求めたのは、この爪削りからどうにか逃げ果せたからであり、はらはらと泣いていたのは笑い過ぎて笑い過ぎて涙が零れまくった余韻に過ぎない。
鑢で爪を整えるというのは輝夜にとって暇潰しの一環に過ぎないが、どうも敏感な永琳にとっては堪ったものではないのである。
「あはははっは、はははははは、ふ、あっくぃ、ふぁ、はは、ひ、はぁ」
「もーちょっともーちょっと」
少なからぬ危険味の出てきた笑い声に一切構わず、輝夜は自分の気が済むまでずすずすと永琳の爪を整え続けた。
夜。
永遠亭の中庭でぼうっと星空を眺めていた鈴仙は、不意に背後から抱きつかれた。
「え?」
鈴仙の口から声が漏れる。
それは驚きの声であり、意外と思う声であり、事態が呑み込めない声。
彼女の両肩より伸び、胸辺りで交差してそれぞれ逆の二の腕に軽く触れる背後からの両腕。
てゐのものではない。
そも、てゐが鈴仙に抱きつくのならば腰にである。
輝夜のものではない。
大体、輝夜ならば両肩ではなく脇から伸び、ついでに揉んできても不思議じゃない。
つまり、ここまで考える必要は全く無いのだが、
「……師匠?」
鈴仙を背後から抱く腕は、永琳のものであった。
ただ、それと分かったところでそれ以外の事が何一つとして鈴仙には分からない。夜中に永琳に抱きつかれるような覚え自体全く無い以上、何か他の理由を想定してこそ彼女の弟子として恥ずかしくないのだが、やっぱり分からないものは分からなかった。
「あの……?」
先程の返事が無かったので、鈴仙は不安げに言う。
すると、抱きつかれた時と同様、不意に永琳の腕は鈴仙を開放した。
鈴仙は手早く半歩前へ進んで回れ右。
「一体―――」
どうしたんですか。
そう続く筈だった鈴仙の言葉は発せられず、ただ、彼女は目の前に立つ自らの師の顔を見て言葉を失っていた。
鈴仙の正面に立つ永琳。
彼女は、今、泣いていた。
呼吸に嗚咽が混じる訳でもなく、鼻を啜る事も無く、ただただ静かに、八意 永琳ははらはらと涙を流し泣いていた。
眉尻は下がり、目尻も下がり、ただひたすらにその顔は悲哀に満ちて、八意 永琳は声もなく俯きもせず泣いていた。
鈴仙からすればこれ程までの異常事態は無い。
普段泣きそうも無いだとか、全く予想だにしない事態だとかいう事ですっかり鈴仙は思考も挙動も止まってしまっていた。
そして、実時間で数秒、鈴仙的には十分は経った辺りで、永琳は軽く溜息を吐く。
その息をきっかけとして、鈴仙の思考と挙動が動き始める。
「あの、師匠……どうしたん、ですか?」
スカートのポケットに常備してあるハンカチを取り出そうとしつつ言うが、そんな鈴仙に永琳は短く首を左右に振った。
……ハンカチは要らないって事かな。
判断に困り、鈴仙はハンカチを取り出そうとしていた手をゆっくり動かし、ポケット内から外へ、そして気をつけの位置へともっていく。
「師匠?」
そして、問いかけた。
「……ねぇ、ウドンゲ」
四度目となる問い掛けに、永琳は今までの弟子の言葉など無かったかのように応える。
いや、これも恐らく問い掛けに対する応えでは無いのだろう。何故なら返事としては不適切な言葉だからだ。
そして、永琳は言った。
「助けて」
鈴仙の目が点になった。
「はぃ?」
思わず言ってしまった。
「姫が―――」
そう永琳が言いかけた。
「あら永琳、こんな所に居たのね」
その時、輝夜が現れた。
穏やかな微笑みを浮かべ、手には小さな鑢のような物を提げている。
鈴仙は訳が分からなくなっていた。因果関係が見えないにも程が在るだろう。
「あの、どうなさったんですか?」
鈴仙が言うと、永琳はあろう事がその影に隠れようとする。
耳を含めれば当然鈴仙の方が背が高いのだが、頭頂部までとすると大した差はない上に永琳の方が微妙に高い。その為、全く隠れていなかった。
「え、ちょ、師匠?」
「助けて鈴仙」
状況に取り残されたままの鈴仙に、永琳がか弱く言う。
「えぇっ?」
「駄目よ鈴仙」
混乱と共にうろたえる鈴仙に対し、輝夜が柔和に言う。
「ええぇっ!?」
ますます混乱深まる鈴仙だが、背負った永琳の命と、対峙する形の輝夜の命。さてどちらを優先するべきか。考え、それから、ちょっとだけ迷う素振りを見せ、永琳と輝夜が見ている中、決断する。
「えい」
鈴仙は輝夜へと永琳の背を押していた。
「こ、この裏切り者ー!?」
わたわたと無様に慌てる永琳。
「あらあらイナバったら」
それをにこにこ見つめる輝夜。
「暴れないで下さいよ~」
師匠を押す力を緩めない鈴仙。
永遠亭において命令の優先権は輝夜にある。次いで永琳で、鈴仙とてゐが並んで三番手という形だ。そしてその順位を定め、徹底したのは他ならぬ永琳である。よもやこのような事態を生むとは思いもしなかったろうし、そもそも想定の範囲外だろう。
「捕まえた」
鈴仙にしっかと両肩を掴まれてぐいぐい押される永琳は、元軍属である彼女の膂力に抗し切る前に輝夜に捕まっていた。それも真正面からはっしと抱き締められて。
永琳は先の優先権の順位付けの件等からして、輝夜に対し絶対に等しい服従をしている。鈴仙等他の永遠亭の住民からすれば少なからず首を捻る所なのだが、そこはまぁ当人同士の問題だし色々と詮索は憚られていた。
ただ、確かなのは永琳は輝夜をまるで蝶よ花よと慈しみ過剰なまでに尊んでいるという事だ。
で、現在永琳は輝夜に抱き締められている。普段であれば解くのは容易い。輝夜とてそう力一杯抱き締めている訳でもないので、尚の事である。が、永琳は振り解く事もしなければ暴れもしない。何故なら出来ないからだ。彼女が八意 永琳である限り、蓬莱山 輝夜は絶対なのである。禁薬を製作したあの時から。
既に永琳の肩から手を放した鈴仙は、輝夜の微笑みと固まったように動かない師の後姿をぼんやりと見つめていた。瞳から彼女の心情を察するならば “嗚呼、これは分からない方が多分良いんだ。いつもの事だよね、うん。”辺りが実に妥当だろう。
すっかり静かになった永琳を、輝夜は抱き締めたままゆっくり移動し始める。
途中、一度だけ鈴仙を振り返った輝夜は、
「ありがとうね、イナバ」
と簡単な感謝を述べて、永琳を庭から縁側へと引き摺って行った。
「はぁ」
気の無い言葉を零し、考えるだけ多分無駄なので考えないようにし、それから鈴仙は何事も無かったかのように星空を見上げる。
そこには何も変わらない星々の煌きがあった。
その事に小さな安堵を覚え、ああそういえばあの鑢みたいなのは何だったんだろうとか何で師匠は泣いているんだろうとかうっかり考えそうになって、鈴仙は思い切り頭を振るう。
星明りの下、しおしおな耳がゆわんゆわんと揺れていた。
「あはっ、あはははは、や、やめてくははははは―――」
永遠亭の一室。
そこに響く笑い声。
声の主は八意 永琳。
彼女は現在輝夜に逆海老を極められて、ギブしながら笑いまくっていた。
「はいはい後もーちょっとだからねー」
そして永琳の関節を極めている蓬莱山 輝夜。
彼女は手に持った爪鑢で、永琳の足指の爪をずすずすと削り整えていた。
つまる所。
永琳が鈴仙に助けを求めたのは、この爪削りからどうにか逃げ果せたからであり、はらはらと泣いていたのは笑い過ぎて笑い過ぎて涙が零れまくった余韻に過ぎない。
鑢で爪を整えるというのは輝夜にとって暇潰しの一環に過ぎないが、どうも敏感な永琳にとっては堪ったものではないのである。
「あはははっは、はははははは、ふ、あっくぃ、ふぁ、はは、ひ、はぁ」
「もーちょっともーちょっと」
少なからぬ危険味の出てきた笑い声に一切構わず、輝夜は自分の気が済むまでずすずすと永琳の爪を整え続けた。