穂積名堂 Web Novel

偉大なる剣士

2012/02/29 01:56:40
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偉大なる剣士

 冬は暇である。

 巫女であればこれからまた忙しくなりそうだが、庭師である彼女にとってはそれも関係のない事。
 だからといって一日中暇を持て余している訳ではないが、それでも他の季節に比べればいくらか時間に余裕は出来てくる。
 そして庭師の彼女、魂魄妖夢にとって今が正にそんな時。
 手ごろな石に腰掛けて、揃えた膝の上に両手で頬杖ついて。
 なにをするでもなく、ただ目の前にどこまでも続いている庭の木々を眺めていた。
 そのどれもが既に葉を散らせ、裸の枝を晒している。
 この広大すぎる庭において、落ち葉の掃除という項目が無くなれば、ただそれだけで暇になるというもの。

 本来ならばこのような時間にも剣の修行を積むべきなのだろうが、ここ最近はどうにも身が入らないでいた。
 これもまた自身の心の弱さからくるものなのだろうか。
 きっとこんな姿を見られたら、即座にゲンコツが飛んでくるに違いない。
 そんな事を思ってはぁーっと吐いた息も白く。

 魂魄妖忌。妖夢の祖父にして剣の師匠。

 身が入らない理由は彼にあった。
 妖忌はある時、白楼剣と楼観剣を妖夢に託して、それっきり姿を消してしまった。
 以来、妖夢は屋敷の事から庭の事から、果ては主であり現西行寺家の当主、幽々子の身の回りの事まで、全てを一人でこなすようになった。
 最初は色々と失敗していた事もあったが、それも師匠の残した試練と思って頑張ってきたつもりだった。
 そのおかげか、今ではこうして少し余裕ができるくらいには手際もよくなっている。
 だからこそ考えてしまう。

 今、お師匠様はどこにいるのだろう、と。

 それは今にして思った事ではない。
 そして季節は冬。
 ある程度時間に余裕ができるこの季節になって、妖夢は少し調べてみる事にした。

 空いた時間を利用して屋敷の中の書庫に通いつめた。
 まさか妖忌が出て行った理由が書いてある物があるとは流石に思っていなかったが、それでも何かヒントになる物があればと思い、膨大な数の本とにらめっこを繰り返してきた。
 幸い、常に文武両道を心掛けていた妖忌のおかげで、妖夢は文字の読み書きには苦労しなかった。

 そうして書庫の本を読み漁る内に、妖夢は興味深い物を見つけた。
 西行寺家の歴史を書いた文献である。
 見てみれば、目の前にある一つの棚にある物全てが同じような文献だった。

 上の方の比較的新しく見える物を取り出して開いてみると、その代の西行寺家の当主に纏わる事柄が事細かに書かれていた。
 その中には妖忌の名前もいくつか見えた。
 妖夢はここから何か解るかもしれないと、その日からひたすら文献に目を通していった。
 一番古いであろう物から、一番新しい物まで。

 途中いくらか抜け落ちている部分もあったが、実に二週間をかけて全てを読み終えて、その結果いくつか解った事があった。


 一つ、西行寺家は思っていたよりももっと歴史が深く、またその最初の頃から魂魄の一族は西行寺家に仕えていた。

 一つ、魂魄の一族は長寿であるが故に代替わりはそれほどなかった。しかし、妖忌の前にまだ二人の魂魄一族がいた。それほどに西行寺家の歴史が古いのだろう。

 一つ、初代と二代目、そのどちらも最期のその時まで西行寺家に尽くし、その身を捧げたという。

 一つ、何故か生前の幽々子に関する記述だけはどれだけ探しても見つからなかった。


 こんなところだろうか。
 最後の一つは直接本人に聞いてみたが、

「特に何も目立った事はしていなかったのでしょう」

 いつものように、実に幸せそうに饅頭を頬張りながらそんな事を言っていた。
 その時代に何があったかなんて事は解らないが、今の幽々子は亡霊であって、尚且つ西行寺の家までもが冥界にあるという事と、一番新しい文献でもかなり古い時代の事が書かれていたという事から大体の事は推測できた。
 しかし、そんな事は関係ない。

「目の前に幽々子さまがいる。それが全てです」

 それにしても、と妖夢は思った。
 あれだけ格式に拘っていたはずの妖忌が、途中でその役目を投げ出したりはするだろうか?
 どのような理由があったにしろ、先代の二人がそうしているのだから、きっと妖忌もそれに倣おうとしただろう。

 そこで妖夢の脳裏にふと、何かがよぎった。

 考えたくはない事である。
 しかし、悪い考えというものは一度出てきてしまうと中々振り払う事ができないもので。

 ──いや、そんなはずがない。

 妖夢は己を恥じた。そして自身を戒めるように、居住まいを正す。

 仮にも自分の師であり祖父でもある人物だ。
 あの人がそんな事をするとうな人ではないという事は、自分が誰よりもわかっているつもりだった。
 それにも関わらず、あのような事を考えてしまうとは……。

 自分の中に溜まった嫌な物を全部吐き出すように、大きな溜息。
 そうして地面を見ていると、いつの間にか屋敷の影が自分の足元に届こうかいう程に伸びてきていた。

 どうやら考え事をしている間に思った以上に時間が経ってしまっていたらしい。
 そろそろ夕食の準備を始めなければ、遅れてしまってはまたなんと言われる事か。
 そうして晩の献立を考えながら小走りで屋敷に向かっていると、丁度その先に縁側を歩く幽々子の姿が見えた。

「妖夢ー、妖夢ー、どーこー?」

 主が自分を呼ぶその声に、小走りを急ぎ足に変えて駆け寄っていく。
 幽々子の元、縁側の手前まで来たところで片膝を付いて、

「お待たせしました。何用でしょうか?」
「あぁもう、遅いわよ。次からは呼んだら一回目で出てきなさいね」
「……面目ないです。夕食ならば今から支度を始めますので、もう暫くお待ちを」
「夕食? あぁ……もうそんな時間なのね。でもそれは後でいいわ。ちょっとついてきなさい」

 本当に忘れていたのだろうか、幽々子は妖夢に言われて初めて気がついたように茜色に染まった空を見上げた。
 いつもならばここで「ならすぐご飯にしましょう」とでも言うのが常であったのだが、その時の幽々子は庭に下りるとただ一言「行くわよ」とだけ言って、妖夢に背を向けて一人夕闇の中を進んでいった。
 普段とは違いすぎる幽々子の反応に、妖夢は唖然としたまま固まってしまっていたが、それでも幽々子が振り返って「どうしたの?」と訊ねると、二度三度、ぶんぶんと首を振ってすぐに駆け出した。

「大丈夫?」
「なんでもありません。それよりどちらへ行かれるのですか?」

 追いついた妖夢が幽々子の一歩後を歩きながら問う。
 屋敷の裏側を回り込むように歩いていることから、幻想郷に出るという訳ではなさそうである。
 しかし、何度訊ねてみても返ってくるのは「行けば解るわよ」という言葉だけだった。

 やがて、元いた場所から屋敷を挟んでちょうど反対側にまで来たところで、幽々子がその足を止めた。
 正確に言えば、幽々子は移動時は常にふわふわと浮いているので、足を動かすという事はあまりないのだが。

「妖夢はこの辺りにはよく来るの?」

 目の前に広がるのは木々が鬱蒼と立ち並ぶ深い森。
 立ち止まってまず最初に言われたのはそんな事だった。
 まったくもって、今日の幽々子さまはよく解らない。
 理不尽な要求には慣れているとはいえ、想定外の事が続いた妖夢の頭は軽く混乱していた。
 いきなりついてこいと言われて西行寺家の広大な庭の端まで来たかと思えば、まるで見知らぬ土地に足を踏み入れたように忙しなくきょろきょろと辺りを見回している。
 自分でつれてきておいて迷ったのだろうかとも思えたが、言葉の真意を探ってみれば、なるほど幽々子がそう訊ねるのも無理はない。
 いかに妖夢が庭師として日々木々の手入れや庭掃除をしているとはいえ、一人で全てを把握するには西行寺家の庭はあまりにも広すぎた。
 普段は屋敷の周りを中心に、時間があればそれよりももう少し外側まで手を届かせているが、流石にこのような庭の端とも言えるような場所にもなれば、草木は好き放題にその枝葉を伸ばしているのが現状。
 なるほど幽々子さまはここがどこかを訊ねたのではなく、この一体の様子を見て自分の手がここまで届いていないという事を言われていたのか、よ妖夢は納得した。
 さもなれば、従者としての次の行動は既に決まっている。

「申し訳ございません。流石に二百由旬を誇るこの庭。隅々まで手入れを行き届かせるのは――」
「あぁ、そういう意味じゃないのよ」

 ぱちん、と手に持っていた扇を閉じてくすりと笑う。
 はぁ、と気のない返事をする妖夢だったが、主の望んでいた答えが自分の思っていたものと違った事がショックだったのか、ほんの僅かに肩を落とした。
 それに気付くことができるのは、世界広しといえどただの一人。
 しかしそのたった一人は今正に目の前にいた。

「まぁいいわ。それじゃぁ――はい」

 そう言って差し出された左手と幽々子の顔を交互に見比べて、それを二度三度。
 しかしその手が何を意味しているのかが解らず、妖夢はただ当惑するのみだった。
 自分の手と顔を見比べる度に困惑の色に染まっていくその様子が可笑しかったのか、それともそんな妖夢の反応を楽しんでいるのか、幽々子はただくすくすと笑うばかり。
 このままそれを眺めていてもよかったが、残念ながら時間は有限。
 この辺りで切り上げてあげましょうか、と閉じていた扇を再びぱさりと広げた。

「ここから先は少し危ないのよ。だからほら、手を繋いでいきましょう」

 なるほどこちらも右手を差し出せばよかったのか。
 漸く差し出された手の意味を理解した妖夢だったが、

「なんでそうなるんですか!」

 顔を真っ赤にして反論した。

「えー、だって妖夢ってすぐ転ぶじゃない。危なっかしくて見ていられないわ」
「転びません!」
「じゃあ迷子になるから?」
「迷いません! というかなんで疑問系なんですか!」

 しかし、妖夢がどれだけ叫んだところで、幽々子はくすくすと笑い続けるばかり。

「あらあら、妖夢は本当にここまで来たことがないのね」
「え……?」

 幽々子がそれまで細めていた目を開けると、再びぱちんと閉じた扇を前にかざし、目の前の何もない空間をそっと撫でるように縦に払った。
 すると扇が通った場所がぐにゃりと歪み、ほんの一瞬だがその向こうの草木が陽炎のように波打った。

「見ての通り、ここから先は何重にも結界が張られているの。通り抜けられる道はたった一つだけ。少しでもそこから外れてしまうと彷徨った挙句、またここに戻されてしまうわ」

 そういえば、と妖夢はいつかの記憶を思い出す。
 その昔妖忌から庭師の職を継いだとき、庭の全てを把握しておこうと一度だけだがここまで来たことがあった。
 思い返せばあの時も何故か庭の中で迷ってしまって、ようやく抜け出せたと思った時には日が暮れていた、という事があった。
 なるほど知らぬ間にこの結界とやらに足を踏み入れてしまっていたのだろうか。

「でも、どうしてこのような場所にこれほどの結界を敷かれているのですか? それほど入られてはまずい場所とも思えないのですが……」

 何気ない問いかけだったが、それを聞いた幽々子がほんの一瞬、瞬きをしていれば見逃してしまったであろう程の僅かな間、微かにその顔を陰らせたのを妖夢は見逃さなかった。
 幽々子はすぐにいつもの、どこかほんわかとした微笑みを浮かべていたが、その目は生い茂る木々の向こうを見つめたまま動かなかった。

「入られたら困るというより、出てこられては困る、と言った方が正しいわね」
「出る? ここには何者かが封印されているのですか?」

 聞くところによれば、あのメイドが働いている紅魔館でも巨大すぎる力を持った者を封じていた事があると言う。
 そのようなものがこの西行寺家にもいたのだろうかと思ったが、そんな考えも幽々子の次なる言葉によって止められた。

「まぁそんなところね。ほらほら妖夢、ほら妖夢。そんな訳だから一人迷子になって晩御飯にありつけないなんて事になりたくなければ、私と手を繋いだ方がいいわよ」
「……私が迷子になったら幽々子さまも晩御飯にはありつけませんよ」

 妖夢の返答に人差し指を顎に当ててたっぷりと四十秒。
 合点がいったとぽんと手を叩いた。

「それじゃぁますます妖夢を迷子にさせる訳には行かないわね」

 言うが早いか、幽々子は妖夢の横につくとがっちりと腕を組んだ。

「これなら流石に逸れたりしないわよね――あら? どうしたの妖夢。顔が赤いわよ?」
「い、いえ! なななななんでもありませんっ! でもそんなここまでっ、いや実はちょっと嬉し――いやいや妖夢」
「? よく解らない子ね。ほらしっかり歩きなさい。晩御飯は待ってくれないわよ」
「……幽々子さまは私よりも晩御飯なんですね」
「何か言った?」
「なんでもありませんっ!」

 ぷいっと妖夢がそっぽを向いてしまった。

「ほんと、よく解らない子ね……大丈夫かしら」



    ∽



 がさがさ、ふわふわ、がさがさ、ふわふわ

 外から見ても鬱蒼としていた森の中は、実際に歩いてみると更に鬱蒼としていて、妖夢は腰の辺りまで伸びている草を踏み分けながらやっとの思いで歩いていた。
 最初は楼観剣で一気に全部刈ってやろうとしたのだが、そんな事をしては結界が中途半端に破れてますます道が解らなくなる、と言われてしまったのだ。
 そうしてどれほど歩いてきただろうか。
 右へ左へぐねぐねと蛇行しながら、時に今来た道をそのまま引き返してみたり、同じ所を何度も回ってみたり、もしこの状況を誰かが見たのなら、百人中百人が言うだろう。
 彼女達は迷っている、と。
 主を信じてここまで何も言わなかった妖夢も、流石に疑問の色が濃くなってきたのか時折横目で幽々子の顔を見てみるのだが、当の彼女はきょろきょろとあちこちを見回しながら「やっぱりあっちだったかしら……」などと呟いていた。

「……幽々子さま、もしかして――」
「いやねぇ妖夢。迷ってなんかいないわよ。迷ってなんか。迷うはずがないじゃない私は亡霊よ?」

 晩御飯は抜きだと妖夢は確信した。

「それにしても、一体なんなんですか? この結界は。あまりにも無造作に敷かれて、まるで」
「迷路のよう」

 妖夢の言葉を横取りした幽々子がくすくすと笑う。
 その場で一旦足を止め、改めて周りを見渡してみる。
 最早どこを通ってここまで来たのかも解らず、見えるのはただ鬱蒼と生い茂る木々と、僅かな隙間から入り込む日の光。

「一つ一つの結界の力というのはそんなに大きなものじゃないの。でも一つでも破ってしまえばこの森そのものが姿を変えて形を変えて、正しい道を変えてしまう。ほんとやっかいよねぇ」
「一体誰がこのようなものを……」
「紫よ?」

 その一言で妖夢は全てを納得してしまった。
 何故だろう。その名前を聞くともう全てがどうでもよくなってしまうかのような、そんな錯覚に陥ってしまう。これもまたその名前の持つ力だとでもいうのだろうか。

「前に私が入った時よりもまた少し変わってる場所があるみたいだし、霊が間違えて入り込んでしまったか、或いは……」

 まただ。
 ほんの一瞬だが、確かに見えたのは先ほどと同じどこか陰の差した横顔。

「この先には何が……」
「何度も言ってるじゃない。行けば解るわよ」

 妖夢はどこか釈然としないものを残しながらも、幽々子に引かれてまた歩き出す。
 右へ左へ蛇行しながら、一本の木の周りを何度も回ってみたり、何故か木に登って木から木へと飛び移ってみたり。
 木々の間から僅かに除いた空に薄闇が降りて来た頃、二人の目の前に見えてきた物は――。

「……井戸ですか」
「……井戸ね」

 幽々子もそれには見覚えが無かったのか、何故こんな物がこんな場所に、と困惑の色を見せたが、

「紫の仕業かしら」

 その一言で妖夢ともども納得してしまうあたりがどうにも遣る瀬無かった。
 しかし場所は合っているのに他に何も見当たらない事から、かつてここにあった物がその姿を井戸に変えてしまったのであろう事は恐らく事実。
 ならば取るべき行動はただの一つ。

「さあ行くわよ妖夢」
「え? 入るのですか? これ」
「当たり前じゃない。昔旅の勇者も言ったわ。『そこに井戸があるから入るんだ』って」
「どう見てもこの井戸には人なんて住んでなさそうですが」
「行けば解るわ。はい1、2、3」
「「ダー」」

 そうしてやる気の欠片も感じられない二人の掛け声は井戸の奥底へと吸い込まれていったのだった。




    ∽




 どれほどの高さを落ちてきたのだろうか、外が森、更に日も暮れたという事も相まって、見上げても井戸の出口がどこなのかは皆目見当もつかなかった。
 完全なる闇の中、多少目が慣れたところで周りの様子は一向に探る事が出来ず、どうしたものかと探っていると、蒼白い光源がすっと目の前に出てきた。

「あら、中はそのままなのね」
「幽々子さま……それは」
「え? ああこれ? いやねぇ妖夢。霊はぼんやり輝いてるものよ。ほら貴方だって」

 指差された先を見てみれば、そこには薄ぼんやりと白く輝く自分の半霊の姿。
 魂魄妖夢。思わぬところでまた一つ、己を知る事となった。

「ほら妖夢、行くわよ」
「あ、はいっ」

 先を歩く幽々子に続いて、壁に空いた横穴へと入っていく。
 横穴の中は人が一人通れる程度であったが、高さは二人の背よりも若干高く、歩くにあたってそれほど苦労する事はなかった。
 終始無言のまま二人が通路を抜けていくと、その先でまず目に飛び込んできたのは蒼い輝き。
 よくよく見渡してみれば、高くなった頭上、広くなった左右のむき出しになった岩の壁、その至る所がまるで輝く星々のように淡い輝きを放っていた。

「幽々子さま……ここは?」
「この辺りの岩は少し特殊でね、闇の中だとこうやってぼんやりと光るのよ。原理は知らないけれど、明かりいらずで助かるわね」

 確かにそこに闇はなく、月明かりに照らされたように足元までもがはっきりと見て取れた。
 そのまま立ち止まって頭上を見上げていた妖夢だったが、突如として感じ取った第三者の存在に腰と背中に携えた刀の柄を握ると即座に構えを取った。

「何奴ッ!」

 柄を握りこんだまま鞘からはまだ抜かず、目の前に現れた者へと視線を投げかける。
 しかし、そこに現れたのは――、

「え? ……幽々子……さま……?」

 和服の端々にフリルをあしらった、一見不釣合いにも見える蒼の衣装に身を纏い、同じ蒼の帽子には渦巻き模様の天冠。口元を隠すように開いた扇の上には細く微笑む透き通るような二つの瞳。
 西行寺幽々子。その身その名その仕草、今まで仕えてきた主を見間違う事などありえない話であった。
 その姿を見るや、妖夢は今の今まで自分の横に立っていたはずの主の姿を確かめようと首を向ける。
 すると、そこに見えたのは確かに主、西行寺幽々子であった。
 だが両の目を見開き、食いしばった歯はぎりりと音を立て、強く握りこんだ扇を今にも折りそうなほどに肩を震わすその姿は今までに見た事がないような、いや想像する事すらできなかったであろうものであった。
 もしこの二者を並べたのであれば、誰しもが今妖夢の横に立つ幽々子ではなく、妖夢の前に立つ幽々子が本物であると言うだろう。
 二人の幽々子、その前に妖夢の頭はまたしても軽い混乱に陥り、本来ならすべきはずの咄嗟の行動を全て忘れていた。
 その間にも、目の前に立つ幽々子は薄く微笑みながら妖夢へと近づき、横に立つ幽々子はますます険しくなる瞳でそれを睨み据える。
 そして、自身の混乱に終止符を打つべく妖夢が口を開こうとしたその瞬間。

 ――一閃。

 妖夢の横に立った幽々子が開いた右手を横に払ったかと思うと、その先から数え切れぬほどの蝶が舞い上がり、目の前に立つ幽々子を瞬く間に飲み込んでいったかと思うと、光の粒となってもろとも霧散していった。
 再び静寂を取り戻した洞窟の中、聞こえるのは本来聞こえるはずのない幽々子の荒い息遣いのみ。
 妖夢は今横に立つ幽々子が本物であるという自信がますます揺らぎ、その揺らぎは疑問となって口に出た。

「幽々子さま、今のは一体……」
「妖夢……貴方には今の奴が誰に見えていたの?」
「え……?」

 誰に見えていた。
 つまりそれは今目の前に現れた幽々子は幽々子でない可能性もあったという事。
 何故そのような事が起こりえたのか、妖夢には解らなかった。

「その、私には幽々子さまが二人いるように……」
「そう、貴方はあれが私に見えていたのね」

 あれ、と言われて妖夢が再度消え去った蝶の跡を見ると、そこには禍々しい姿をした異形の者の消え行く様があった。
 肉が残るでもなく、灰となるでもなく、ただ消え去っていく異形の者。

「気をつけなさい妖夢。あれは一種の幻術。見る者の記憶の中にある人物の姿を借りて映し出される幻影よ」
「幻影……」

 解らない。
 ここに来てから妖夢には解らない事だらけだった。
 そもそもこの洞窟はなんなのか。
 なぜ幽々子さまはここに自分を連れてきたのか。
 そして今目の前に現れた者は一体なんだったのか。
 どれから聞けばいいのかも解らず、どれを聞いていいのかも解らない。
 しかし、そんな妖夢の心を悟ったかのように、幽々子はいつものように微笑んだ。

「言ったでしょう。行けば解るわ。……と言っても、私もまさかあんなのが残ってるだなんて思ってもいなかったし、これは少しばかり骨が折れそうね……」
「あれは一体なんだったのですか……?」
「それは追々説明していくわ。ひょっとすると、これも貴方の為の試練なのかもしれないわね」
「え?」

 聞き返そうと思ったが、既に幽々子は妖夢に背を向けて前を行っていた。
 慌てて追いかけるも、その顔を見た妖夢はこれ以上は聞いても答えてはくれないだろうと思い、これまでと同じく幽々子の一歩後ろに付いた。

「なにしてるの妖夢、ほら行った行った」
「え? 幽々子さまが案内してくれるのでは?」
「なに言ってるのよ。言ったでしょ。これは試練よ妖夢。だのに貴方は私に前を行けと言うの?」
「……確かに」

 言われて納得半分疑問半分。最初は渋った妖夢だったが、幽々子の前に立つのにそんなに時間はかからなかった。
 その後も複雑に入り組む洞窟を進んでいく中で、異形の者は様々な姿を持って二人の前へと現れた。
 最初は紅白の少女だった。
 そして黒白の魔法使い。
 七曜の魔女。
 時を操る人間。
 紅き魔の者。

 そのどれもが妖夢の記憶にある通りの姿形を成し、それは繰り出される技の一つに至るまでに完璧であった。
 しかし、試練と言われれば心構えも違ってくるもの。
 妖夢は目の前に現れる異形の者がいかなる姿を成しても、迷うことなく全て一太刀に切って落としていた。
 そして今また一匹、異形の者が奇怪な断末魔の叫びを上げて消え去っていく。

「ここにいるのは全部亡霊ね。もちろん私とは違うけど」
「亡霊?」
「そう、ある戦士に倒された……ね」

 幽々子の横顔を見る。
 その目はどこを見ているのか、何を映しているのか、妖夢には推し量ることすら出来なかった。

「死してなお憎悪の精神は消えず、世の理を捻じ曲げてもこの場に留まって……そんな怨念が具現化したようなものね」
「幽々子さま、奴らは一体なんなのですか? どうしてこのような場所に……」
「見ての通り、この洞窟は西行寺の地へと続いているわ。私にも奴らの目的がなんだったのかは今でも解らない。でもね、これだけははっきりしていたわ。奴らは私たちに仇なす者ども。“敵”であるという事だけは間違いなかった」

 やがてどれほど進んだだろうか、広間から続いていた道もいくらか狭まり、蒼白く輝く岩壁の光がすぐ手に触れれる程に近くなった頃。楼観剣と白楼剣、二本の刀を握ったまま探るように前方を睨む妖夢に幽々子が後ろからそっと声をかける。

「その戦士は……いえ、剣士はこの洞窟を一人で駆け抜けていったわ。次から次へと襲い掛かってくる“敵”と戦いながら……」
「一人の……剣士」
「さぁ、出口はもっと奥。先はまだ長いわよ」

 洞窟の中、光源となるのは壁を埋める蒼い星々のみ。
 手元足元を照らすにはそれで十分であったが、壁、天井、足元、完全な闇の中で輝くそれらは一種の錯覚を起こさせ、時折自分が地に足を付けているという事を忘れてしまいそうになる場面もしばしば見受けられた。
 目で見た限りではその場の広さ、高さ、足場の形を完全に把握する事はできない。
 幽々子の言うとおり、どこかに出口があるのだろう。洞窟の中を静かに流れる空気の微妙な差を感じ取り、それをもって地形を把握せざるを得ない状況にあった。
 そんな中でも“敵”は待ってはくれない。
 全ての“敵”が幻術を使える訳でもないのか、中にはそのままの姿で襲い掛かってくる者もいた。
 伸びた爪が空を裂き、同じく攻めの一手に出た妖夢の楼観剣と宙で噛み合って新たな光源となる火花を散らせた。
 八双から振り下ろされた楼観剣を受け止められたまま、妖夢は左手に持った楼観剣を逆手に持ち替え、受ける相手の腕を切りにかかる。
 “敵”ももう一方の手で防御を試みるが、今度は完全に妖夢が速度で勝った。
 振りぬかれた楼観剣の後には切り飛ばされた“敵”の腕。
 押さえるもののなくなった楼観剣を再度叩き付けたところで“敵”の体は既に上と下の二つに分け隔てられ、その身を虚空の中へと消していった。
 妖夢は楼観剣を持ち直し、後ろに待つ幽々子へと向いたが、その顔はどこか晴れず。

「流石ね。この調子ならそんなに時間もかからないかも」
「……幽々子さま、私には解せません。確かにこの洞窟の中ならば単独行動の方が動きやすいと思います。しかしここに来るまでにも様々な分かれ道がありました。出口へと続く道が一つとは限りませんし、もしどこか一方を進んでいる時に他の道から抜けられては意味がない。何故その剣士は一人だったのですか?」
「そうね……でもね、妖夢。その剣士も最初から一人だったという訳じゃなかったのよ?」
「どういう事ですか?」
「彼には二人の弟子がいたの。その二人もまた剣士と一緒に戦ったわ。でも……日に日に“敵”の数は増えていって、少しずつだけど、剣士たちは苦戦を強いられるようになったの」
「…………」
「そしてある時、二人の弟子は“敵”の幻術にかかってしまった……。妖夢も最初に見たわよね?」

 この洞窟に入って最初に出会った“敵”の姿を思い出し、妖夢が頷く。

「自分の記憶にある者に化けるという、あれですか?」
「そう。剣士も、そして二人の弟子も幻術などには屈しない強い心と力を持っていたわ。でもその時ばかりは二人の見たものが悪かったのね」
「……一体何が見えたのでしょう?」

 幽々子がほう、と息を吐いた。
 宙を見る目はますます遠く、それはまるで遠い昨日を見るように。

「二人にはね、とても大切な人がいたの。何よりも、自分の命よりも大切に想う人。その姿が見えた時、二人はそれが幻術だと解っていながら……何もできなかった」

 そして今度はふっと目を閉じて俯いた。

「そして二人は殺されたわ。自分たちが最も想いを寄せていた人の姿をした“敵”に……ね」
「……何故ですか? 幻術だとわかっていたのなら!」
「妖夢、貴方は最初の時に私が見えたと言ったわね。もしもう一度そうなった時、貴方は私が斬れるかしら?」
「必要と……あらば」
「もしその場に私がいなかったら?」
「…………」
「私は妖夢のそういうところも好きだけど、戦いの中でそれは致命的よね」
「……面目ないです」
「謝る事じゃないのよ。そう、二人の弟子もまた貴方と同じだったのよ。優しすぎたのね……」
「…………」
「そして、弟子を殺された剣士は一層剣を振るうようになったわ。彼の心は怒りと憎しみで一杯だった。だけどそれを表に出す事はなかった……。怒りにまかせてしまえば彼もまた殺されてしまう。剣士はその事をよく解っていたわ。そういう面でも、彼は一流の剣士だったのね」
「幽々子さま、その剣士とは……」
「さてもう少し、ね」

 もうこの話は終わりだというように、幽々子が唐突に会話を切った。
 妖夢もまだ何かを聞きたかったのか二度三度と口を開いたが、そこから言葉が出てくる事はなく。
 今まで気にもしていなかったのに、促されて踏み出した足音がいつまでも頭に響いていた。




    ∽




「お疲れ様。ここを抜ければもう出口よ」

 あれから更に洞窟の中を奥へ奥へと進み、その都度現れる“敵”を斬り捨て、辿り着いたのは最初と同じようなホールのように開けた場所だった。
 言われて妖夢が足を止めると、幽々子は横に並びかけていつものように微笑みかけた。
 それは幽々子からのほんの些細な労いだったのだが、しかし妖夢は幽々子を見返すことなく、真剣な面持ちで一歩前へと歩み出る。

「まだ終わらせてはくれないようですね……」
「あらあら」

 二人が見た先、幽々子の言う通りならば出口へと続いているのであろう広間の奥から伸びる道の前、塞ぐように揺らめくその影はまだ遠いためにはっきりとは見えず、しかし発せられる気は今までのどの敵よりも明確に、或いはそれを視覚する事ができるのではないかと思える程のものであった。

「あれは少しばかり厄介そうね。妖夢、今回ばかりは私も手を貸すわ」
「それには及びません」
「妖夢?」
「幽々子さまは最初に仰いました。これは試練なのだと。ならば最後まで私の力で通すが道義。ご安心ください。この魂魄妖夢、見事道を切り開いてご覧に入れましょう」

(コン……パク……)

 その言葉に反応したのか、目の前に佇む影は周りの空気を歪ませながらゆっくりと立ち上がる。
 妖夢も両手に持った二本の刀を改めて握りなおし、もう一歩、前へと出た。

「幽々子さまはどうか安全な場所へ――」




    ∽




 妖夢の声が聞こえたのはそこまでだった。
 気付けば周りに広がるはどこまでも続く漆黒の闇。

「ここは……結界? 弾かれた? 私だけが?」

 上も下も解らず、自分が今どこを向いているのかも解らないようなその空間で、幽々子は一人頭を抱えるほかなかった。

「迂闊だったわ。奴らは妖忌たちの前に倒れた者どもの怨念。ならばその恨みの矛先は私ではなく……」

 結界を破ろうと手を動かしてみるも、闇は視覚だけでなく他の感覚までも奪っていくのか、手に持ったはずの扇の触感がない。
 それどころかその手が今開いているのか閉じているのか、どんな形になっているのかも知る事が出来ず、ただその意識だけが取り残されたその中で幽々子は見る事も叶わぬ結界の外を見た。

「妖夢……」




    ∽




「幽々子さま?」

 途端、後ろに立つはずの主の気配が消えた事に気付いて後ろを向くと、やはりそこには影も形もなく、伸びる細道に風が吸い込まれていく音だけが響いていた。

「幽々子さま? 一体どこへ――」
「妖夢……か」
「!?」

 背後からかけられた声。
 妖夢はその声にびくりと肩を震わせた。

 ――ありえない

「久しいな……」

 ――これも“敵”だというのか?

「なるほど、その二本の刀、使えるようになったか」

 ――ここまでに出会った敵は姿こそ完璧に摸したところで、誰一人として喋った者はいなかった

「どれ、ひとつ見てやろうか」

 ――それなのに、これは、これは……

「のう、妖夢よ」

 聞き間違えるはずもない、懐かしい声。

「お師匠……さま……」

 そして見間違えるはずもない、懐かしいその姿。
 右手に持つは三尺をゆうに超える長刀。
 妖夢は己の師以外にその刀を扱える人物を知らない。

「お師匠様、なぜこのような所に!」
「構えろ妖夢、我らに言葉は必要ない。そうであろう?」
「お師匠様!」
「構えぬというのならば、この場で去ねい! 魂魄よ!」
「――!」

 がきんっ、と音を立てて妖夢はその両刀でもって妖忌の一撃を受け止めていた。
 ほんの一瞬前まで二人の距離は目測にして七丈以上。
 妖忌はその距離をたったの一歩で縮めてきたのだ。

「おやめ下さい! 何故私たちが今ここで闘わねばならないのですか!」

 叫びつつ、妖夢が押さえ込まれた剣を弾く。しかし妖忌はその反動すらをも利用し、更に速度を増した剣を垂直に振り下ろした。
 横に飛びながらも一撃を与えようとするが、振り下ろした際の慣性など感じさせぬ勢いで軌道を変えた妖忌の剣が既に背後に迫っていた。
 振り向いている暇はない。妖夢は右手の楼観剣を肩から背中へと回し、迫る剣を受け止める。予想を遥かに上回る衝撃に片膝を付いた。妖夢は背を向けたまま左手の白楼剣を持ち直し、突き刺すように背後に立つ妖忌へとその切っ先を向ける。
 白楼剣はそのまま空を切り、同時に妖夢の背に伸し掛かっていた剣の重圧も解かれていた。
 背後、地に足を付ける音が聞こえる。距離五丈といったところか。
 それ以上迫る気配も無い。妖夢はゆらりと立ち上がると、両の目を見開いて妖忌へと向き直った。

「お答えくださいお師匠様! どうして今まで――!」
「妖夢」

 その声はどこまでも静かに、妖夢の叫びの中にあってもはっきりと聞こえてきた。
 妖夢は言いかけた言葉を飲み込み、睨むように妖忌を見据える。

「二人の剣士が出おうたのならば、すべきはただの一つ。そこに言葉などというものは必要ない」
「お師匠様……」
「お前も剣士たる自覚があるのならば、己が手に持つ剣に言葉を込めよ」
「こんな形でしか……話し合えないというのですか……」
「否、話し合いなど元より存在しえぬ。さぁ、その楼観剣と白楼剣、構えよ妖夢。そして死合え。その中で初めて我等の言葉は意味を持つ」
「……一つだけ、お聞かせ下さい」
「…………」
「幽々子さまは無事なのですか」
「さあな……と言えばどうする?」
「……そうですか」

 俯かせた顔を上げる。無言のままに腰をとして引いた左手を上段に、前に構える右手を中段に構えた。
 そして腰を落としたまま、妖夢は休みなく少しずつ前に進んでいく。
 近づくにつれて落とした腰は更に低く沈み、地を摺る足は尚重く。

「そうだ……それでいい」

 対する妖忌も足を開いて、長刀を上段に構えると腰を落としてわずかに体をひねった。
 顔の横に揃えた両手から伸びる長刀は地と水平に、妖忌独特の構えだった。
 両者の間が四間に近づいた。そこで妖夢の足は止まる。
 常人であればその立ち位置は明らかに間合いの外。しかし二人にとってはむしろ近すぎる距離。
 互いに、一呼吸。
 洞窟の中を拭きぬける風が妖夢の前髪をそよと揺らし、流された髪がそっと下りたと見えた瞬間、銀蛇のような光が闇の中を駆け抜けた。二人の手より放たれたそれは宙で絡み合い、遅れて二つの影が駆け抜ける。
 二人はその一跳躍で左右の壁にまで到達すると、そこを地として蹴り上げ、また互いの手より放たれる白き輝きは甲高い音を立てて宙を舞う。
 最早そこに空は存在しない。
 上、下、左、右、全ての壁を地として二つの影は闇の中に尚色濃く。
 ただその中心には常に輝く白銀の蛇が舞い踊る。
 音をも越える速さで振り下ろされた長刀に楼観剣を振り上げる。
 しかし重力を伴った妖忌の一撃は更に重く、妖夢の体は一瞬前に蹴った岩壁へと弾かれた。
 しかし、そこに達するまでに体勢を立て直し、両の足で壁に着地する。
 押し込まれた体を再び上へと向ければ、そこには迫り来る妖忌の姿。
 構える剣は高く八双に上がり、存分に力を込められた太刀が妖夢に向かって振り下ろされる。
 妖夢は壁に足を付けたまま最初の時と同じく両の剣でそれを受け止める。その衝撃に壁は崩され、二人はもつれ合う様に再び“下”の地へと足を付けた。
 三つの刃は離れず、鍔迫り合いを続けたまま横へと走る。
 広間の中ほどにまで到達したところで申し合わせたように互いを弾き合い、またその影は壁を地として闇の中を駆け抜けていく。
 再び奏でられる旋光の輪舞。
 だが、高らかに鳴り響く銀蛇の詩は先ほどまでのそれとは僅かに違っていた。
 人が聞けばその差は無いにも等しいもの。しかし極限を越えた中で互いの刃を交え続ける二人にとっては何よりも大きな違い。
 絡み合う光、飛び交う影、その中にほんの僅かに混ざった不協和音。
 次の瞬間、白銀の光に一滴の赤が零れた。
 それでも両者が止まる事はない。一度交わる毎に、銀蛇の詩が奏でられる毎に、白の中の赤は増えていく。
 そして、宴は一つの衝撃音によって終わりを迎えた。

「か……ッ!」

 壁に叩きつけられた妖夢。今度は着地する事も受身を取る事も叶わず、その身が壁から剥がれるように地に落ちた。
 地に伏す妖夢の体はいたる所から血が流れ落ち、その白い肌を赤く染め上げている。
 切り刻まれた服は両の肩から破れさり、赤く汚れたさらしの巻かれた上半身が露わになっていた。
 起き上がろうとするも体は思うように動かず、片膝を付いたその上に、妖忌の剣が闇もろとも切り裂く勢いで振り下ろされた。
 跪いた姿勢のまま妖夢も同時に薙ぎ上げるように白楼剣を振るったが、無理な体勢からの一撃。妖忌の一撃を防ぎきれるはずもなく、白楼剣は音を立てて天井へと突き刺さった。
 それでも妖夢はひるまず、残った楼観剣をも振り上げた。妖忌は身をひねってそれをかわし、大きく後ろへと跳ねた。
 互いの一手目が放たれてからどれほどの斬り合いが続いただろうか、両者の間には再び蒼白く輝く薄闇が降りた。

「妖夢……強さとはなんだ」
「…………?」

 立ち上がって構えをとった妖夢に対し、妖忌は唐突にその構えを解いた。

「何故お前の剣が儂に届かぬのか、解るか?」
「…………」
「解らぬか……。やはりお前にその楼観剣と白楼剣を託すのは早計だったか」
「なに……?」
「最早これまで。これ以上語る事も術もなし。」

 言うと、妖忌は長刀を八双に構えた。
 大上段に構えられた剣はそこに込められた剣気によりその刀身を何倍にも膨れ上がらせ、それがまた刀身となり更に巨大な剣を模る。

「己が未熟さを思い知り、消え去れい! 迷津――慈航斬!」

 それは奥義。
 かつて妖忌に教えられた、最後の技。
 ならばこれを持ってして応えるのが弟子としての道義。
 妖夢は同じく残った楼観剣を両手で握ると、妖忌と同じく大上段にそれを構えた。

「――いっけええええぇぇぇぇぇぇっ!!」

 刹那、ぶつかり合う剣気と剣気。
 二つの力は両者の中心で鬩ぎ合う。
 闇は全て消され、二人の顔が、姿が、光の中に映し出される。
 歯を食いしばり、止められた剣に更なる力を込めるもそれは徐々に押され、妖夢の足元が沈み込んだ。

「やはり……敵わないのか……」
(妖夢、諦めるのか?)
「え――?」
(お前らしくもないな)
「誰――?」

 聞き返すと同時に、場違いなほどに優しく肩を抱かれる感触。
 妖忌の剣より放たれた巨大な力の波を受ける今、振り返る事はできない。
 肩に置かれた手の感触が、背に感じるどこか懐かしい温もりが、確かに誰かがそこにいるのだと伝えていた。
 その瞬間、全てが白く染まっていった。

(そうよ妖夢。貴方がここで倒れたら、誰が幽々子様を助けるの?)

 新たに聞こえてきた声、今までの戦いが嘘だったかのようにただ白く染まる世界の中で、妖夢は一人の女の姿を見た。
 髪に隠れてか、その顔の全貌を伺う事は出来ない。
 しかしその声、微笑む口元を見た事があるような気がして声をかけようとしたが、言葉を発する事もできず。

(ほら、大切な剣なのでしょう? 手放したりしてはダメよ)
「これ……は……」

 目の前に立った女性に手渡された物は、間違いなく先ほど妖忌に弾き飛ばされたはずの白楼剣。
 それを受け取ると、女の横に先ほどの声の主なのであろう、男がすっと現れた。

(さぁ行け妖夢。お前はこんな場所で立ち止まっていてはいけない)
(妖夢……頑張って)

 二人がそう言うと白はますますその色を強め、それは光を伴って妖夢の目を晦ませていった。

「待って! 貴方達は――!」

 己の体すらも白の中に消えていく中で、最後に妖夢は二人の口が微かに動いたのを見ていた。
 その口から発せられた言葉、それは――。

 そして一瞬の空白。
 眩しいほどの白から一気に蒼白く輝く闇の中に落とされた妖夢はまだ慣れない闇の中で辺りを見渡すが、そこに二人の姿はなく。

「消え去れい! 迷津――慈航斬!」

 振り向けば、そこには先ほどと同じく凄まじいまでの剣気を飛ばしてくる妖忌の姿があった。
 全く同じ状況。戻った時間の中でしかし妖夢の心は先ほどまでとは違い、どこまでも落ち着いていた。
 手には楼観剣と、そして白楼剣。

「…………」

 両手を見つめ、今一度二本の刀を握りなおすと妖夢は妖忌へと向き直った。

「……魂魄妖夢、参る!」

 妖夢が叫び、地を蹴った。
 迫り来る剣気を前に、二刀を構えたままその中へと自らの体を飛び込ませ、尚も止まる事なく突き進む。
 蒼く輝く巨大な力の奔流。その中で体のあちこちが切り刻まれ、その度に赤い筋が走る。勢いに押されて押し戻されそうになる。
 それでも妖夢は両手に握る刀を構えたまま、怯むことなく突き進んだ。
 そして――その先に見えた己が師の姿。

「なにっ!?」
「これで――ッ!」

 光が、走った。

「……終わりです」

 確かな手応え。
 勢いのままに切り流した妖夢が背を向けたままゆっくりと立ち上がる。
 振り返れば、地へと落とした長刀は虚空に消え、自らの体も地に倒していく“敵”の姿。

「また……しテも…ワれラノ……マ……えニ…タ……チハだカル…ノか……コン…パク……!」

 敗れて尚渦巻く怨念は禍々しいほどにその姿を歪ませ、あらゆる形へと変貌を遂げていく。
 その顔を、その体を、妖夢が今までに見てきた者の姿に次々と移し変え、それはやがて崩れていった。
 それ以上何をするでもなく、妖夢はただじっとその様子を見つめていた。

「あれは本当に幻術だったのか……?」

 幽々子は最初に言った。
 幻術は記憶の中にある者の姿を現すのだと。
 ならば、あれは自分の中の妖忌の姿だったのだろうか?
 自分の記憶、即ちそれは己自信とも言い換えることが出来る。

「……やはり、ここを駆け抜けた剣士というのは……」
「魂魄妖忌、そして楼観剣と白楼剣の使い手であった二人の弟子。その三人こそがこの洞窟を戦い抜いていった者たちよ」

 突如、後ろから肩をぽんと叩かれて振り向くと、そこには待ち望んだ人の姿があった。

「幽々子さま……ご無事でしたか」
「えぇ、妖夢のおかげね」

 肩に置いた手を頭に移してくしゃくしゃと髪を撫でた。
 微笑みかけるその顔が何よりも眩しくて、だから妖夢は顔を背けた。

「申し訳ありません。お供していながらその身を危険に晒すような事になってしまいました」
「いいのよ、今回の事は私が判断を間違えていた所為もあるのだから、妖夢に非はないわ」
「しかし……」
「さぁ、行きましょう妖夢。貴方に見せたいものはすぐそこよ」

 そう言って髪を撫でていた手でそのままぽんぽんと優しく頭を叩くと、幽々子は先に立って広間から奥へと伸びる道に進んでいった。
 妖夢もすぐにその後を追いかけようとして、二本の刀、楼観剣と白楼剣をそれぞれ鞘に収めると、ふと後ろを振り返った。
 そこにはこの広間に入ってきた細道がある以外何も無く、この洞窟に入ったときから蒼白く輝く岩々はだけが変わらずにあった。
 暫し何も無い空間を見つめた後、妖夢は前に向き直って幽々子の後を追っていった。

(妖夢……)

 そうして誰もいなくなった広間の中、消え行くように重なり合う二つの声が響いたような気がした。




    ∽




「幽々子さま、ここは……」
「……彼はここで“敵”と戦った。“敵”が一歩も西行寺の地に入り込めないように、この洞窟を抜けないようにね」

 広間から続いた細道を抜けた先、そこは意外な事に屋外であった。
 出てきた道を振り返れば、そこには聳える山があった。そしてちょうど洞窟の出口から傾斜を下りていけば、そのままそこが両側を岸壁に挟まれた谷となり、それがどこまでも続いているように見えた。

「見なさい妖夢。貴方の師、魂魄妖忌の姿を」

 促されて見上げてみると、そこは眼前に続く谷を一望するかのように突き出した大きな岩の上。
 そして確かに妖夢の捜し求めた人物はそこにいたのだ。

「あれが……お師匠……さま……?」
「妖忌はあそこで戦い続けた。西行寺の家を、土地を、守り続けた。敵の毒矢で体を石にされても……敵が全て逃げ出した後も……妖忌はここを守り続けたわ。そして、今もこうして守り続けている」
「今も……」

 そう、そこにいたのは――いや、そこにあったのは魂魄妖忌という剣士の像。
 無数の矢に貫かれた全身を石とされながらも、三尺をゆうに越える刀を構えて眼前を睨みつけるその姿は今にも動き出しそうなほどであった。

「それじゃあまさか、二人の弟子というのは……」
「そう、楼観剣の使い手であった貴方の父、そして白楼剣の使い手であった貴方の母……」
「ならば、やはりさっきのが……どうして教えてくれなかったのですか!」
「……頼まれたのよ、妖忌に。この洞窟は封印してくれって。貴方の両親の事も一緒に……って」
「なぜ……」
「私一人で封印して、その事はお互い誰にも話してはいけない。こんな洞窟のことは忘れた方が良いから、なんて言ってね」

 結局は当時から友人だった紫に力を借りる事になったのだけど、と付け足して幽々子はふっと目を細めた。
 もう幾十、幾百、どれほどの月日が流れただろうか、その瞳に映るのは今はもう過ぎ去ってしまった昨日の日々。

「どうして……石にされたところで、紫さまならばこの程度の事……っ!」
「駄目なのよ」
「なぜっ!」
「当然私も紫には話したわ。石となった妖忌をどうにかできないかって。でもね、紫でも無理だったのよ。どんな境界を弄ったところで妖忌の状態は何一つ変わらなかった。まるで妖忌自信がそうある事を強く想っているようで」
「そんな……」
「現に、あれ以来“敵”がここまで来た事はない。妖忌がここを守っている限り、西行寺の地に危険は及ばない……」
「……今なら私も十分に戦えます! たとえまたその“敵”が攻めてきたとしても、私とお師匠様でなら!」
「だからよ」

 叫び、詰め寄ろうとした妖夢に向かって見せた幽々子の眼差しは、どこまでも真っ直ぐに妖夢の目を見ていた。
 それだけで力を持っていそうなほどの瞳に睨まれ、妖夢は思わず言葉を止めた。

「再び“敵”と戦うような事になれば、間違いなく貴方も前線に立つ事になるわ。妖忌と貴方の両親はそれだけはなんとしても避けたかったのよ」
「……やはり私はでは戦力にならないと」
「逆よ。言ったとおり妖忌の、そして貴方の両親もその人生の大半が戦いの中にあったわ。いつ来るかも解らない“敵”に備え、一度攻めてきたらその一団を完全に撃退するまで戦い続ける。時には四日間ずっと、ほとんど休む事なく剣を振るっていた事もあったわ。妖忌たちは貴方がそんな場所に身を置く事を嫌ったのよ。『妖夢だけは争い事とは無縁の生活を送って欲しい』三人はまだ立つ事も出来ない貴方を抱いていつもそんな事を言っていたわ」
「お父……さん……お母……さん…………おじいちゃん……」

 上弦の月に照らされた妖夢の頬を一筋、涙が伝っていく。
 やっと巡り合えた師の姿を見たからか、顔も知らぬ両親の行方を知ったからか。
 悲しみはない、悔しくもない。自分でも涙の理由は解らない。あらゆる感情は全て消え去り、ただ涙だけが妖夢の頬を濡らしていた。

 強さとはなんだ。
 弱さとはなんだ。
 お師匠様は何を想ってここまで戦ってきたのか。
 既に物言わぬその姿で私に何を語ろうとしたのか。
 父と母はこの剣にどんな想いを込めてここまで戦ってきたのか。
 最後の時、消える直前に確かに見えた二人の姿。
 確かに言った。聞こえてはいないが確かに聞いた。
 最後の声を――。

「さて、妖夢?」

 背を向け、黙ったまま妖忌を見上げる後姿に幽々子がそっと声をかけた。
 しかし妖夢は振り返らない。
 幽々子は待った。
 妖夢は今、その背に初めて何かを背負おうとしている。
 まだ何かを背負うには小さすぎるその背に、与えられたものでもない、課せられたものでもない、自分で背負っていくと決めたものを。
 それを見届けるのもまた自分の役目だと、幽々子は思っていた。
 だから、幽々子は待った。

 それから暫く、妖夢はゆっくりと振り返った。

「なんでしょうか?」

 振り向いたその顔は、どこか妖夢じゃないようで、でもやっぱりそれは間違いなく妖夢で。

「帰りもまたあの道を通っていかないといけないのよ」

 だから──とそこで言葉を切って、笑いかける。
 これだけで十分だろう。

「任せてください!」
「頼もしいわね」

 歩き出した妖夢の一歩後ろから幽々子が続いていく。


 ──妖夢、貴方のその背はまだ小さくて、小さすぎて。
 ──私まで背負おうとしたら、きっとその重さに潰れてしまう。
 ──でも、貴方ならいつの日か……。


「わっ。幽々子様、いきなり伸し掛からないでくださいよ」
「伸し掛かるなんて失礼ね。私はただちょっと、歩くのに疲れたから妖夢に負ぶってもらおうと思っただけなのに」
「それならそうとちゃんと言ってくだ──って、ずっとふわふわ浮いていたから一歩も歩いていないじゃないですか」
「いいじゃない。亡霊に体重なんてあってないようなものなんだし、重くはないでしょ?」
「そういう問題ではありません」
「ほらほら妖夢、ほら妖夢。早く帰らないといい加減お腹が空いたわ」
「あーもう! 途中で落ちたりしないでくださいよ!」


 ──そう、貴方ならきっといつの日か。
創想話作品集26辺りに投稿した作品でした。

今回こっちに掲載するにあたってHDDから当時のメモ帳を開いてみると、
なんか没ネタとかいうのが一緒に書かれていたので以下抜粋。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

「ところで幽々子様」
「なぁに?」
「幽々子様には最初の“敵”が誰に見えていたのですか?」
「……妖夢は誰だったと思う?」

 自分が質問したはずなのに質問で切り替えされてしまい、妖夢はむむ、と唸ってしまった。
 腕を組んで考え込みそうな勢いだったが、幽々子を背負っている為に生憎両手は塞がっている。
 それでも何度も首を傾げている内に漸く考えが纏まったのか、

「でも、珍しく随分と険しい顔をされていましたよね? そんなに憎い相手だったのですか?」

 ようやく出てきた言葉は答えではなく、また質問だった。
 まぁ今のこの子ではやっぱりこの辺りで限界か、と少し苦笑い。
 だから答えは言ってあげない。

「さぁ、どうかしらね」

 ──逆よ、妖夢。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

これを書いたら蛇足にしかならないと思って削ったような気が。
そんなで、これも一応解る人は解る、FF7よりナナキの話ですね。
なんか自分こんな話ばっかだなぁと思わない事もないですが、
まぁそんな作風なんよね、と言ってしまえば終わってしまうもので。
書き方然り、パロ然り。

これの妖夢vs妖忌は当時はそこそこ気に入っていた記憶があるそうな。
今読むと「あちゃー」ってな事になりそうだから読まない。
これと同じような妖夢vs妖忌モノでもう一本考えてはいるのですが、
さて、いつになったら書くんでしょうね。

追記(2012/02/29)
そうやって書いたのが永劫残夢な訳ですよ。(ぁ
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