私にとって、この薄暗い部屋と彼女の声だけが、世界の全てだった。
緑色に歪んだ世界は今思えばとても窮屈で、味気ないもの。
声はしっかりと響いてくるのに、彼女の姿はいつも歪んでいて。
もし私が『夢』を見る事がなければ、きっとそういうものなのだと思い込んでいただろう。
そう、私は夢を見ていた。
長く、永く、果てのない夢を。
「おはよう、気分はどうかしら?」
彼女の声に、私は薄ぼんやりと目を開ける。
挨拶を返そうとしたが、声は出ず。
私はゆっくりと首を縦に振ると、彼女は「そう」と嬉しそうに笑っていた。
私の一日は特に何事も無く、ゆるりと流れていく。
この世界しか知らない私にとって、それが速いのか遅いのかは解らない。
だが、私はこのたゆたうだけの時間が嫌いではなかった。
「また、夢を見ていたの?」
私はこくりと頷く。
夢の中の世界は好きだ。
この歪んだ緑色の世界とは違い、夢の中は様々な色があり、形があり、何よりも自由があった。
たゆたうだけの時間は嫌いではないが、思い切り両手を広げて駆け回れるあの世界と比べると、どうしても退屈になってしまう。
「どんな夢なのかしら、教えてくれる?」
そう言われても、私は声を出す事ができず、またこの歪んだ世界では身じろぎする事さえも叶わなかった。
それでも、彼女は私の目、微妙な指先の動きから何かを感じたのか、また嬉しそうに笑っていた。
不思議な事に、本当に彼女は私の言わんととしている事が解っているかのようでもあった。
夢の中で私が疑問に思った事に答え、私に学ばせると共に、更に新たな世界の話をする。
それは空の話。
どこまでも青い空の下、彼方に見える地平線から湧き出た入道雲の話。
それは雨の話。
青空を覆いつくす灰色の雲、奪い、そして与えるものの話。
それは風の話。
髪を揺らし、頬をくすぐると共に様々な季節を運ぶ話。
それは土の話。
踏みしめた大地の力強さ、どこか懐かしい自然の話。
私はゆらり、ゆらりと歪んだ緑色の世界の中で、彼女の声を聞きながらたゆたっている。
彼女は言葉を紡ぎ、時に賛美歌のように、時に別れ歌のように、私に世界の理を歌う。
私の世界は、それが全てだった。
そして私はまた眠りに落ちる。
彼女が歌った世界を、夢見るために。
目覚めた時、私は丘の上にいた。
いや、目覚めたというのは正確な言葉ではない。
何故なら、ここは夢の中の世界だからだ。
そこは歪んだ緑の世界とは違い、上を見れば青い空がどこまでも広がっている。
彼方の地平線から湧き出る入道雲は高く、高く。もしあの場所まで行ったのならば、触れるのだろうか。
目を閉じ、大きく息を吸い込んでみれば、土と草の匂いが鼻腔に広がって。それは初めてのはずなのに何故だか懐かしさがこみ上げてくる。
その時、ふと土と草の匂いの中に知らない匂いを感じて、私は目を開いた。
二本の足はしかと大地を踏みしめているのに、自然と髪が揺れていた。
頬をくすぐる感触。これが風なのだろう。
そして風はどこからか、その匂いを連れてきていた。
一歩、私は踏み出す。
もう一歩、私は踏み出す。
三歩、四歩。
いつしかそれは駆け足になって、私は私だけの世界を走り出していた。
どれほど走っただろうか。
どこまで走っただろうか。
いくつもの丘を越え、平野を走り、そしてまた丘の上に辿り着いた時、私の目の前には、新たな世界が広がっていた。
それは、水。
どこまでも、どこまでも、大地を水が覆っていた。
空と同じ青い水がずっと、ずっと遠く。
水の青と空の青、その間から湧き出た入道雲がなんとか二つの境を作り出している。
これが何か、私は知らない。
これが何か、彼女は知っているのだろうか。
また次にあの歪んだ世界で目覚めた時には、この事を聞いてみよう。
そう思った時、不意に私の肩を水が濡らした。
あの水が飛んできたのだろうか。
私は空を仰ぎ見る。
一面の青空はどこかに消えて、変わりに灰色の雲が空を覆いつくしていた。
ああ、これは――
一滴、二滴。『雨』はすぐに勢いを増し、瞬く間に私は濡れ鼠になってしまった。
すると、大地を覆っていた水はその嵩を増し、私の身体をも飛ばしてしまいそうな風に煽られて激しく波打ち始めたのだ。
やがてそれは丘の麓にまでおよび、大地に打ち付けられて砕けた波飛沫が容赦なく私を襲った。
私は何故だか急に怖くなり、襲い来る水に背を向けて逃げ出した。
どれほど走っただろうか。
どこまで走っただろうか。
水はいよいよ丘を乗り越え、小さな私は成す術も無く荒波に飲まれ、流されていった。
「おはよう、気分はどうかしら?」
彼女の声に、私はびくりと肩を震わせて目覚めた。
そんな私を見て、彼女は昨日とは違った、不安げな様子を見せる。
でも、彼女が何を聞いても、私はただ小さく震えているだけ。
「少し、急ぎすぎたかしらね」
そう言うと、彼女はまたいつものように歌いだした。
それは優しい歌だった。
小さな女の子の歌。
やがてそこに彼女が加わり、そして私が加わった。
私は優しい子守唄に誘われて、またすぐに眠りに落ちる。
そして、私は夢の中の世界で初めて彼女に出会った。
白の中に青を一滴落としたような、蒼銀の長い髪。
彼女は、小さな女の子を連れていた。
空に浮かぶ太陽のように、眩く輝く金の髪。
「おそろい」
小さな女の子が、私を指差して言った。
「そうね、おそろいね」
彼女また、私と女の子を見て笑っていた。
三人の世界。夢の中の世界。
私がいて、彼女がいて、女の子がいる。
ただそれだけで。
ただそれだけでも。
それは幸せの記憶。
それは泡沫の永遠。
願わくば――
「おはよう、気分はどうかしら?」
もう何度、その声を聞いただろうか。
「また、夢を見ていたの?」
もう何度、その言葉を聞いただろうか。
ゆるりと流れる時間はいつしか彼方の記憶を更なる彼方へと押しやっていた。
彼女の声に、私はゆっくりと目を開ける。
いつもと変わらない、薄暗い部屋の中。
だが、今日は少し違っていた。
歪んだ緑色の世界は、夢の中の世界と同じように色があり、形があり、そして確かに、彼女達がいた。
振り返ってみると、私のすぐ後ろには大きな円柱のハコがあり、中に溜められた緑色の水の向こうが、歪んで見えた。
「――」
それでも、まだ私は上手く声を出す事が出来なくて。
そんな私に彼女は優しく微笑むと、そのままくるりと背を向けた。
「さぁ、行きましょう。貴女に本物の世界を見せてあげる。といっても、まだ作りかけだけどね」
歩き出した彼女の後を、小さな女の子が追いかけていく。
そうして薄暗い部屋のドアは遂に開かれ、差し込んだ光に私は思わず目を細めた。
白く輝く光の中で、彼女が私に手を差し伸べる。
本物の世界。
夢の中ではない世界。
夢から覚めて、この小さな箱庭の世界から抜け出して、彼女に連れられた私はどこへ行くのだろうか。
あぁ、楽しみだ――
緑色に歪んだ世界は今思えばとても窮屈で、味気ないもの。
声はしっかりと響いてくるのに、彼女の姿はいつも歪んでいて。
もし私が『夢』を見る事がなければ、きっとそういうものなのだと思い込んでいただろう。
そう、私は夢を見ていた。
長く、永く、果てのない夢を。
「おはよう、気分はどうかしら?」
彼女の声に、私は薄ぼんやりと目を開ける。
挨拶を返そうとしたが、声は出ず。
私はゆっくりと首を縦に振ると、彼女は「そう」と嬉しそうに笑っていた。
私の一日は特に何事も無く、ゆるりと流れていく。
この世界しか知らない私にとって、それが速いのか遅いのかは解らない。
だが、私はこのたゆたうだけの時間が嫌いではなかった。
「また、夢を見ていたの?」
私はこくりと頷く。
夢の中の世界は好きだ。
この歪んだ緑色の世界とは違い、夢の中は様々な色があり、形があり、何よりも自由があった。
たゆたうだけの時間は嫌いではないが、思い切り両手を広げて駆け回れるあの世界と比べると、どうしても退屈になってしまう。
「どんな夢なのかしら、教えてくれる?」
そう言われても、私は声を出す事ができず、またこの歪んだ世界では身じろぎする事さえも叶わなかった。
それでも、彼女は私の目、微妙な指先の動きから何かを感じたのか、また嬉しそうに笑っていた。
不思議な事に、本当に彼女は私の言わんととしている事が解っているかのようでもあった。
夢の中で私が疑問に思った事に答え、私に学ばせると共に、更に新たな世界の話をする。
それは空の話。
どこまでも青い空の下、彼方に見える地平線から湧き出た入道雲の話。
それは雨の話。
青空を覆いつくす灰色の雲、奪い、そして与えるものの話。
それは風の話。
髪を揺らし、頬をくすぐると共に様々な季節を運ぶ話。
それは土の話。
踏みしめた大地の力強さ、どこか懐かしい自然の話。
私はゆらり、ゆらりと歪んだ緑色の世界の中で、彼女の声を聞きながらたゆたっている。
彼女は言葉を紡ぎ、時に賛美歌のように、時に別れ歌のように、私に世界の理を歌う。
私の世界は、それが全てだった。
そして私はまた眠りに落ちる。
彼女が歌った世界を、夢見るために。
目覚めた時、私は丘の上にいた。
いや、目覚めたというのは正確な言葉ではない。
何故なら、ここは夢の中の世界だからだ。
そこは歪んだ緑の世界とは違い、上を見れば青い空がどこまでも広がっている。
彼方の地平線から湧き出る入道雲は高く、高く。もしあの場所まで行ったのならば、触れるのだろうか。
目を閉じ、大きく息を吸い込んでみれば、土と草の匂いが鼻腔に広がって。それは初めてのはずなのに何故だか懐かしさがこみ上げてくる。
その時、ふと土と草の匂いの中に知らない匂いを感じて、私は目を開いた。
二本の足はしかと大地を踏みしめているのに、自然と髪が揺れていた。
頬をくすぐる感触。これが風なのだろう。
そして風はどこからか、その匂いを連れてきていた。
一歩、私は踏み出す。
もう一歩、私は踏み出す。
三歩、四歩。
いつしかそれは駆け足になって、私は私だけの世界を走り出していた。
どれほど走っただろうか。
どこまで走っただろうか。
いくつもの丘を越え、平野を走り、そしてまた丘の上に辿り着いた時、私の目の前には、新たな世界が広がっていた。
それは、水。
どこまでも、どこまでも、大地を水が覆っていた。
空と同じ青い水がずっと、ずっと遠く。
水の青と空の青、その間から湧き出た入道雲がなんとか二つの境を作り出している。
これが何か、私は知らない。
これが何か、彼女は知っているのだろうか。
また次にあの歪んだ世界で目覚めた時には、この事を聞いてみよう。
そう思った時、不意に私の肩を水が濡らした。
あの水が飛んできたのだろうか。
私は空を仰ぎ見る。
一面の青空はどこかに消えて、変わりに灰色の雲が空を覆いつくしていた。
ああ、これは――
一滴、二滴。『雨』はすぐに勢いを増し、瞬く間に私は濡れ鼠になってしまった。
すると、大地を覆っていた水はその嵩を増し、私の身体をも飛ばしてしまいそうな風に煽られて激しく波打ち始めたのだ。
やがてそれは丘の麓にまでおよび、大地に打ち付けられて砕けた波飛沫が容赦なく私を襲った。
私は何故だか急に怖くなり、襲い来る水に背を向けて逃げ出した。
どれほど走っただろうか。
どこまで走っただろうか。
水はいよいよ丘を乗り越え、小さな私は成す術も無く荒波に飲まれ、流されていった。
「おはよう、気分はどうかしら?」
彼女の声に、私はびくりと肩を震わせて目覚めた。
そんな私を見て、彼女は昨日とは違った、不安げな様子を見せる。
でも、彼女が何を聞いても、私はただ小さく震えているだけ。
「少し、急ぎすぎたかしらね」
そう言うと、彼女はまたいつものように歌いだした。
それは優しい歌だった。
小さな女の子の歌。
やがてそこに彼女が加わり、そして私が加わった。
私は優しい子守唄に誘われて、またすぐに眠りに落ちる。
そして、私は夢の中の世界で初めて彼女に出会った。
白の中に青を一滴落としたような、蒼銀の長い髪。
彼女は、小さな女の子を連れていた。
空に浮かぶ太陽のように、眩く輝く金の髪。
「おそろい」
小さな女の子が、私を指差して言った。
「そうね、おそろいね」
彼女また、私と女の子を見て笑っていた。
三人の世界。夢の中の世界。
私がいて、彼女がいて、女の子がいる。
ただそれだけで。
ただそれだけでも。
それは幸せの記憶。
それは泡沫の永遠。
願わくば――
「おはよう、気分はどうかしら?」
もう何度、その声を聞いただろうか。
「また、夢を見ていたの?」
もう何度、その言葉を聞いただろうか。
ゆるりと流れる時間はいつしか彼方の記憶を更なる彼方へと押しやっていた。
彼女の声に、私はゆっくりと目を開ける。
いつもと変わらない、薄暗い部屋の中。
だが、今日は少し違っていた。
歪んだ緑色の世界は、夢の中の世界と同じように色があり、形があり、そして確かに、彼女達がいた。
振り返ってみると、私のすぐ後ろには大きな円柱のハコがあり、中に溜められた緑色の水の向こうが、歪んで見えた。
「――」
それでも、まだ私は上手く声を出す事が出来なくて。
そんな私に彼女は優しく微笑むと、そのままくるりと背を向けた。
「さぁ、行きましょう。貴女に本物の世界を見せてあげる。といっても、まだ作りかけだけどね」
歩き出した彼女の後を、小さな女の子が追いかけていく。
そうして薄暗い部屋のドアは遂に開かれ、差し込んだ光に私は思わず目を細めた。
白く輝く光の中で、彼女が私に手を差し伸べる。
本物の世界。
夢の中ではない世界。
夢から覚めて、この小さな箱庭の世界から抜け出して、彼女に連れられた私はどこへ行くのだろうか。
あぁ、楽しみだ――