穂積名堂 Web Novel

2012/02/29 01:59:37
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 些細な事だった。
 レイセンが足を止めたのは、少し疲れたという理由だけであり、他意は一切ない。
 襲い掛かってくる自分と似た姿をした『何か』を撃退しながらただひたすらに走り続けていたのだから、そうなるのも無理はないだろう。
 山を越え、谷を越え、草原を走り、森を抜け、走って、走って、走りぬいた。
 どこへ行けばいいのか、そんな事は解らず。
 何をすればいいのか、そんな事も解らず。
 レイセンは、ただ走るしかなかった。

 全てから、逃げるように。

 そうして行き着いたのは、小高い丘の上。
 頭上を飛び交う赤い物は蜻蛉というものだろうか。
 知識では知っていたが、実物を見るのはこれが初めてだった。
 他にも聞こえてくる色々な音。
 火照った体を冷やす風が運んでくる草の匂い。
 かぁ、とどこか呆けた声を上げるのは烏。これも知識でしか知らなかった。
 警戒は怠る事無く。否、怠らなかったからこそ、レイセンはその些細な移り変わりを見逃す事はなかった。

「……赤い?」

 そう、赤かったのだ。
 草も、木も、ふと見下ろした自分の体も。
 世界の全てが、赤に染まっていた。

 狂視を使いすぎたかと思って目を擦ってみるも、それらは変わる事なく赤に染まったまま。
 そしてレイセンは、それを見た。
 青かったはずの、空。
 最初この地に下りた時、その青い空に驚いた。
 だが、今自分の頭上に広がる空はどうだ。
 山裾に身を下ろした太陽からその赤が溶け出たように空は染まり、そして次第にそれは藍へと移り変わっていく。

「わぁ……」

 漏れたのは、感嘆の声。
 まるでそれに呼応するように、ざぁと草を鳴らした風が長い髪を舞い上げた。

 知識では、知っていた。
 知識でしか、知らなかった。
 数多の勲章を付けた上官も、
 共に激戦を潜り抜けてきた同胞も、
 自分を作り出した者でさえも、
 この気持ちまでは、教えてはくれなかった。

「綺麗でしょう?」
「!?」

 考えるよりも早く、レイセンはその場から飛び退いて声の主へと敵意の視線を向けた。
 いくら見惚れていたとはいっても、誰かが近づけば解らないはずがない。
 そのはずなのに、何故自分の真横に立たれるまで気づけなかったのか。
 いや、そんな思考は後で構わない。
 今はただ、目の前のソレを――

「何をそんなに怯えているの?」

 だが、レイセンは出来なかった。
 今まで『敵』と見なしたものに対して、一手を繰り出す事に躊躇いなど持った事がなかったはずなのに、だ。

 夕日を背負った彼女の姿が、あまりにも綺麗だったから――。
 風に揺られて散らばる長い黒髪が、あまりにも美しかったから――。
 その微笑みをもっと見ていたいと、思ってしまったから――。

 けれど、レイセンのそんな想いなど知らぬと彼女は背を向けた。

「あっ……」
「何をしているの? 行くわよ」

 いや、あるいは全てを知っていたのか。
 彼女が誰なのか、自分は知らない。
 彼女がどこに行くのか、自分は知らない。
 彼女が何故ついて来いというのか、自分には解らない。
 萎れた耳に止まった赤蜻蛉が、そんな心情を代弁するように首を傾げていたが、耳がぴくりと動くとすぐに飛び立ってしまった。

 レイセンを導くように、彼女の元へと飛んでいく赤蜻蛉。
 夕日の中に小さくなっていく、彼女の背中。

 何をすればいいのか、そんな事は解らず。
 どこに行けばいいのか、そんな事も解らず。
 髪を揺らす風は、その答えは運んできてはくれなくて。
 そもそも、答えなんてものは最初からどこにもなかったのかもしれない。

 でも、それでも。

 振り返れば、藍色の空に浮かぶ月。
 レイセンは小さく何かを呟くと、もう一度前を向いて、遠ざかる彼女を追うために歩き出した。



 ねぇ、私はもう、走らなくてもいいのかな――?
プチ創想話の13集に出したものだったかと。

突発も突発で書いた代物故にシチュだけの話に成り下がっていますが、
これってもう少し掘り下げて真面目に書けば結構いい話になるんじゃね?
とか自画自賛っぽい事を考えてみましたが、まぁこれはこれだからこれなんでしょう。

ほんと好きねぇ、こういう空気もの。
決して作品の扱いが空気な訳ではない。
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