始
「むぅ」
ふと、分かった。
それと同時に少女はふと顔を上げる。少女はあまりにも美しく、どこがと言わずとも全てが美しい少女だった。
そんな少女の血の色をした瞳が見上げたのは、吹き抜けの向こう、墨で塗ったような澱んだ空。太陽の光も月の光も、星明りも届かない奈落の空だ。
「どうしたものかな……」
唐突な事だが、それはいつもの事である。分かろうと思って分かった事は、些細に過ぎない。分かろうと思わず分かった事こそ、重要で重大だろう。
「ふむ」
だから彼女は動く事にした。
視線を空から下ろし、薄暗い中で立ち上がる。
みし、と畳が軋む音がした。
そしてその音は、少女が歩く事で連続する。
「最良となるか否かは、行動次第かの」
ここ奈落ならばともかく、あちらでは厭われる身である事を理解しながら。
杞憂や徒労に終わるのが全てにとって最良だと思いながら。
「いや……真に最良なのは、動かぬ事かも知れんか」
立ち止まって、俯く。
「されど、行かぬ訳にはゆくまいな。迷惑な同胞が要らぬ事をするとなれば、手遅れになってはどうしようもない」
が、すぐに顔を上げ、改めて彼女は行く事にした。
鬼の支配する奈落から霊長の支配する場所へと。
懐かしい場所へと。
壱 ― 裏
四月初頭。十二月より一大勢力を築いてきていた冬の寒さもそれなりに収まり、春の暖かさが日々感じられてきたある日の夜。
暗い空に眩く瞬く星々とは反対に、月はその姿を現さずに闇を描いている。月の出ている夜と比べてうそ寒さすら覚える新月の夜空を前に、何者もただ黙して過ごすかに思えた。
人間も、鳥獣も。
例えそれ以外の者であっても。
しかし、空の遥か下に広がる山並みに、星々に隠れるようにしてある異変が起こっていた。
闇と山は昔から潜在的に人を畏怖させてきたものだが、今夜に限ってその畏怖は、得体の知れ無い錯覚から来るものでは断じてなかった。
何せ生命の息吹が欠片も無いのだ。闇の中とはいえ、山である。周囲には自然が満ち満ちている環境なのだ。そこから考えれば、夜行性の者達の自己主張及び、虫の声すら聞こえないというのはあまりに不自然。常であれば、例えば梟の鳴き声の一つや二つ、木の幹を這いずる爬虫類や虫々、風による枝葉のざわめき等の喧騒がある筈なのに。
完全な無音により耳が痛くなるような山の中は、不気味とするよりもむしろ、山全体が眠っている――いや、いっそ死んでいると表現した方が的確かに思えた。
それは何故か。
日中は常と変わらず、そこかしこで野生が騒ぎ立てていたというのに。新月の今はまるで山全体が何かを畏れているような有様で、風が吹いても草木一つ身動ぎしない。
一体、何を畏れているのか。
山の全てを静まり返させる程の何かとは、なんなのだろうか?
と、山中において彼方より微かに音が響いた。
「――――まだ」
静寂の中での彼方よりの音、それは耳を澄ませば更に聞く事ができるだろう。不規則だが確実に何かが向かって来るらしき、びゅうびょうと響く風切り音を。そして、
「――が脚我が身体。急ぐのだ」
音、再び。先程からすれば格段に近い距離から発せられたそれは、老人を思わせる小さな嗄れ声。その嗄れた声が、同時に絶え間無く響く風切り音を伴って、薄闇を支配する静寂を駆け抜けている。
直後、薄闇に包まれた木々草々の中に、自然の物とは全く違う一つの影が、物の怪の如く躍り込んだ。
影は闇に目立つ白色を主とした修験者の装いで身を包み、やはり目立つ長い白髪と白髭を振り乱して疾走している。妖や魑魅魍魎の類に見えなくも無いその影は、一本歯の高下駄を履いた老人であった。
驚いた事にこの老人。木であろうと大地であろうとそれこそ天地左右の区別無く、己を進めるための最短となる個所を足蹴にして駆けている。しかも足蹴にされた木々は少しも揺れず、枯れ積もった枝葉に埋められた大地ですら何の音も発しはしない。
突き出るような高鼻に赤ら顔の老人は、人を超えた身のこなしで山中を風と一体となって突き進んでいた。ひたすらに、ただただひたすらに。
「ぬぬ、遅れては他の者等に示しがつかぬ。遅れては儂の命が真に危うい」
高慢な表情を作り続けてきた事で刻まれた皺を無視し、右手に十一枚の葉で作られた羽団扇を持った老人は、恐怖に怯えた表情を浮かべていた。
「走れ駆けよ我が身体! 疾く、疾く、更に疾く!」
呪文のように言葉を発し続け、吹き抜ける突風のように自然と一体になった動きをしてのけるこの老人すらもまた、山同様何かを畏れている。
一体、何が畏れさせているのか。
自らの叱咤に自らで応える老人は、山中を進む速度を残像すら霞み見える程速めていた。
「……木霊達すら黙したか。いかん、これはいよいよ時間が無いと見ねばならぬ」
言葉通り、進めば進む程彼の周囲の景色は徐々に深く静かに死んでいっている。今ここで誰かが咳の一つでもすれば、その音は間違い無く辺り一帯中にくまなく響き渡るだろう。
やがて老人の爛々とした黒き双眸が、山中において見事に不似合いな玉虫色の光を捉えた。さして明るいとも思えない光だが、不特定な発色を持続するという特異性がその存在を存分に目立たせている。
「ああ良し、良しや良し。……ふう。……どうにか間におうたわ」
森林奥地にぽっかり空いた木々の隙間、伸びた枝葉を蓋に草も苔も無く土が剥き出しとなっている、自然の中の不自然な丸い広場。光を目にした数瞬後に老人はそこへと辿り着くと、汗の浮いた顔を懐紙で拭き去り、深呼吸のただ一度で荒くなっていた呼吸を平静に戻す。それから老人は静かに視線を前方へ――直径二丈半程の空間の中心部分に浮かぶ、光の玉へと向けた。
畏怖の念がありありと感じられる老人の挙動に対し、光の元である人の頭ほどの玉は、自転しているかのように静かに発色を変化させるだけ。
老人は踵が広場の縁である木の根元に触れるまで後退ると、地べたにへばり付く程の低い土下座をした。
緩やかに二呼吸後。
これといった動きの見られなかった玉の直径が突然広がり始め、やがて、土下座する老人が真っ直ぐ立つよりも更に大きくなった。見はしないでも玉の様子を感じたらしく、さらに姿勢を低くする老人の前――光の中から巨大な人影が現れる。
傍目には十分過ぎる程のそこをさも窮屈そうに潜ってきた男は、常識外れの巨躯に市井の者達が着るような薄茶で無個性な三つ揃えをしっかり着込んでいた。眼光の鋭さだけが際立つ凡人面から、どこか腹に一物ありそうな雰囲気を纏っている。
しかしそれら以上に、彼が出てきた事で周囲の自然が一瞬だけ悲鳴でも上げたような雰囲気になった事が、彼を老人とは全く違う、更には老人以上の何者かで在る事をありありと示していた。
地面を革靴で以ってずしりと踏み締め、光を背に軽い嘲笑を浮かべて老人を見た男は、声をかけるでもなく光の左脇へと身を退けた。
すると光からもう一人が現れる。
今度は女性であるが、根本的に最初の男とは一線を画していた。
出現時は男と同じく、自然そのものに一瞬だけ凍りつくような雰囲気をもたらしたこの女性。身長こそ男と同様に規格外と言える程の高さであるものの、袴を穿き、襲袿の上に唐衣を羽織っている。各部の裾こそ引き摺らずに済む程度に詰めてあるが、その有様は平成の世においてまず見られない見事な和装であった。
楚々と朱紐の下駄を地に降ろし、美しく冷厳な面立ちを平伏す老人へ向ける。
視線を感じて増々畏まる老人を無視すると、女性は綺麗に分け整えられた豊かな黒髪を揺らし、最初から最後まで少しも音を立てずに男の反対側に立った。
そして、二人は揃ってその場に膝を突く。三つ揃えの男は両手をそれぞれ腿に当て、やや腰を上げて頭を下げた。対し和装の女性は老人ほどで無いにしろ、地に手を付いて静々と頭を下げる。両者共に、光に向けて崇拝の念を明らかにしたのだ。
今までの二人だけで十分に山の自然を震撼させ、また老人の口をからからに乾燥させたのだが、その二人など全く問題にならない程の者が次に出てくる事を老人は知っていた。
実時間では約一分。しかし老人にとっては、鼻先を削られるような拷問に等しい膨大な時間が過ぎ去った後、押し潰されそうなほどの威圧感と共に三人目が光より現れる。
先の二人に比べればずっと小柄に映るその身体が出て来た時、僅か一瞬だが、老人は間違いなく周囲の自然がこの場より逃げ出そうと足掻いたのを感じた。
否。足の裏の感触が薄れた所からすれば、実際に動いたのだろう。
もしや森林の最中にあるこの不自然な空間は、今までの僅かな逃げが蓄積して生み出されたものなのだろうか?
そんな荒唐無稽が、今この場においては強い説得力を伴っていた。
老人は意識して意識して呼吸を心を居住まいを乱さず、平伏し平伏しひたすらじっとして、三人目から声をかけられるのを待つ。再びの、拷問的時間。
「……出迎え、大儀である」
そしてようやく成されたのは、口調こそ古めかしいが、聞き積もってせいぜい十六か十七歳程度の少女の声。だがそれは、心地よく澄んだ雅な音色となって老人の鼓膜に触れた。
「は、勿体無きお言葉に御座います……」
掠れる声も直せずに、老人はどうにか返事と分かる大きさの声を搾り出す。
美しい声の主は、軽く頷いたような仕草を見せた。
「大天狗が頭領よ。先づは面を上げよ」
相手の有無を何ら言わせぬ、従うしかないだけの圧倒的言霊が篭った、それは支配者の声。
「ははっ」
言い表された老人、即ち老天狗は、自慢の鼻を土下座の際に土に埋めていたため、引き抜くそばから土を払って顔を上げる。彼は声の主の美しさに見上げる姿勢のまま身体を停止しさせ、思わず老眼は声の主に目を奪われた。
そこにいたのは、絹もかくやと思わせる黒く長く艶やかな髪を持つ、声音通りの年齢の少女である。厚手の衣とその上に羽織った千早はどちらも眩しい白で、穿いている鮮やかな血色の袴も手伝って、少女の外見はどこか巫女を連想させた。
格好の豪奢さでは先の女性と比べて明らかに劣るが、かといってその女性より劣っているかといえば全くそうではない。むしろ簡素で余分な装飾の無い装いであるからこそ、少女の持つ煌かんばかりの美しさと雅さを遺憾無く発揮させているように見えた。
そう、まさに美しいのだ。ただ単純に、これ以上無い程に、比べられるものなど無い程に、一分の隙も無く少女は完璧なのである。
だが、現実の少女の美は魔的を感じさせるものであり、美しさに気を取られさえしなければ、周囲の自然がこの場の誰を最も畏れているかが良く分かる。
「前は列を成す程居ったが……しかして今は、お前のみ、か」
一挙手一投足の全てに典雅優流さを醸し、少女は古風な言葉使いに些かの不慣れも無く、頬に手をやって嘆息した。それだけで充分息を呑むべき美しさを発散しているが、老天狗の態度は恍惚じみたものから一転し、極度に緊迫した面持ちになる。
「面目次第も御座いませぬ。本来ならば各族郎党総出でお迎えすべき所ではありましたが、現世において我等の力は衰える一方。更には二十年前よりその勢いが上がってきておりまして、今やこの老いぼれの他に、貴女様方の御前へ姿を晒せられるだけの者は居らぬのです」
再び、高い天狗鼻を土中に埋めながら老天狗は額を地に擦りつけた。
「ふむ。幾らこの世が霊長を中心に回っておるとはいえ、妾達の存在を信じぬ者ばかりが増えるのは困ったものじゃ。ここの所の百年では、山の自然すら妾達を忌避しよるし……全く、霊長による世間は窮屈でならんな。されど、妾が山を留守にする間程度は、管財の役目を果たせよう。違うまい?」
「それは勿論に御座います」
顔を上げずに応えながら、大天狗は少女の何気ない一言一言に押し潰されそうな威圧を感じている。本音としては、一刻も早くこの三者の前から逃げ出したかった。しかし体は自縛によって動こうとしない。
「うむ。では留守中、しかと任せる」
軽く首肯し、蛙のように潰れている老天狗から目を逸らした少女は、木々の狭間から除く狭い夜空を見上げる。たったそれだけで木々がざわざわと身を反らし、枝が折れ無いのが不思議なほどひん曲がって、緑の天蓋が開いたように広大な夜空が一気に姿を現した。
「ほ……やはり月の見えぬ夜も悪くは無いの。月夜も美しいが、たまの星夜もそれに劣らぬ。それに……嗚呼、娑婆の空は幾度見ても飽きぬなぁ」
頬に手を当てた少女は、陶然と闇色に点々と光を織り込んだ絨毯に見入っている。
「……さて」
心行くまで星空に堪能したのか、満足げな言葉。それと共に視線を空から自分の後ろへ転じた少女は、鮮血色の瞳に、礼儀に則った座礼のままの者等を映す。
「では行くとするか。立て、逸隼丸」
「は。承知仕りました」
少女の言葉に堅苦しくも澱みの無い返事を返し、ゆらりと巨躯を立ち上がらせたのは、三つ揃えの男の方。逸隼丸と名指しされたこの男は、無制限の敬意と従属の念を真っ直ぐに少女へと向けていた。
「謐」
「…………」
逸隼丸と違い、無言のまま衣擦れの音も無く立ち上がった女性は、真っ直ぐに背筋の伸びた美しい姿勢で静止した。名は体を表すを地でいくようなこの女性の方は、完璧で揺るぎ無い畏怖と服従心を少女へ向けている。
それらを当然として受け止めた少女は、見上げる程の両者とそれぞれ視線を合わせ、それから肩越しに老天狗を振り返った。
「……止めぬのじゃな、頭領。お前とて、今起こりつつある事程度は知っておろう」
少女の意外そうな呟きに、老天狗はびくりと体を震わせる。
「は。ですが……そのような大それた事、この私にできよう筈が在りません」
「ほぉ。妾は結果的に、微かとはいえ霊長の世をより確実にするために参ったのじゃぞ? これが成れば霊長の存在感が現世に増し、彼奴等の我等を否定する意思によって、我等を排除せんとする力は強まり、結果力の減衰上昇は言うに及ばず、既に我等の存在すら危ぶまれておると言うのに……異論も無く、止めもせぬと」
言葉も震わせる老天狗を、見た目に不釣合いな老獪さをもって鼻で嗤った少女は、むしろ窘める調子で老体を睨みつける。そのままたっぷりと老体の心臓を凍らせ、気が済んだ辺りで少女は視線を弛めた。
「言い返さぬのか。妾は遠回しに我等の存在を否定しようとしているのじゃぞ。それとも、霊長の意志によって唾棄すべき下等へと堕とされ果て、過去の誇りも矜持も失ったか」
容赦の無い痛烈な叱咤。呼吸を乱しかけていた老天狗は、深呼吸をしてからやっと応える。
「畏れながら。……しかし致し方の無い事でしょう。森羅万象が霊長を認めていると言う事なのですから。私如きが物申した所で、如何にも成りますまい」
すると少女は顔を戻し、処置なしと言わんばかりに溜息を吐いた。
「この莫迦め。妾が何故にこんな問答をしてやっていると思う? 声高に己が意を主張せよ、さすれば己が存在を強く自認できように……まさか妾が本心からお前達の抹消を望んでいるとでも思ったか」
「いいえ」
「ならば、……いや、詮無い事か」
背を向けたまま言いかけた途中で諦め、少女は沈痛な面持ちで俯く。
「お前達ばかりで無く、妾達も所詮同じよな。経緯はともかく、他所と同じく霊長に主導権を簒奪され、国津すら追われた以上……今更自己の存在を主張して何になるというのか」
心配そうに少女を見ていた逸隼丸や謐の表情にも、どこか苦々しげなものが映る。
一瞬で少女の感情がこの場に満遍なく伝播したかに思えた。
「……ふ、何を愚かな」
しかしそれは、他ならぬ少女の冷笑によって掻き消される。俯いた顔を上げた少女の顔には、か細さすら窺えた先程の声の主とは思えない程の覇気と活力が満ちていた。
「全く、妾も歳を取ったと言うべきか、それとも長としての考えが染み付いたと言うべきか、まさかこうも弱気になるとはな。妾は自らの考えでそうしておるのに、これではあれに笑われてしまうな。……頭領」再び肩越しに老体を振り返る。「お前もお前の一族も心身を強く持つよう心かけよ。さすれば、霊長に呑まれる事など無い筈じゃ。何せ、我等はこうして此処に在り、物を言えば考えもする。……生きておるのじゃから、な」
「はっ、肝に銘じます」
不敵な笑みを浮かべる彼女に、老天狗は短く鋭く応える。彼の返事に満足したのか、肩越しのまま頷いた彼女は佳容に微笑んだ。
「ではな」
「どうぞ、お気を付けて」
気軽な出立の言葉に対する嗄れた返事。だがその全てが言い切られるより先に、少女とその従者達は忽然と消失していた。同時に、今までこの場を照らしていた玉虫色の光も消え、老天狗の影がその存在感を失う。
暫くの間身動ぎ一つしなかった彼だが、やがて鼻を引き抜いて立ち上がった。その顔は汗にまみれており、表情からは未だに畏れが後を引いているのが分かる。呼吸もまた、荒い訳ではないが不自然に不規則になっていた。
「……この時勢にあるにも関わらずあの圧倒感。やはり、彼の方々は別格であるという証か」
感嘆した風に言い、ゆっくりと深呼吸をする。けれど今回は一度では安定せず、二度三度と行って、やっと普段の呼吸を取り戻す事ができた。
「心して、恙無く努めを果たすとしよう。畏れ多くも旧き御方直々の命であるからな」
夜闇に包まれた森を振り返ると、老天狗は静かにその中へと分け入っていく。その頭上を、流れ星が長い尾を引いて煌いた。
壱 ― 表
零時を半分ほど過ぎる現時刻。
塀に囲まれた邸宅の母屋から離れた小さな茶室にて、星空を見上げる双眸がある。
「今夜は……星がうるさいな」
星々が賑々しい夜空に、織口 八彦は双眸を微かに細めて静かに評した。
「……朔月夜は、これくらい普通ですよ」
数瞬だけ視線をやった後、白髪白眉である八彦の対面に座る白髪混じりの宵月 春花は、茶を点てる動きもそのままに言葉を返す。
納得を思わせる八彦の微かな唸りを最後に、四畳半の茶室からは、茶筌が茶を撫でる音以外全ての音が消え去った。
白い薄手の小袖に灰色の素襖を纏う八彦は、胡座をかいた楽な姿勢で、片側が開かれた障子から好々爺然として夜空を眺めている。その彼の前では、長い年季を感じさせる綺麗な正座姿勢をやや前傾にした春花が、黙々と目前の茶に取り組んでいた。
彼女の装いは、向かいでのんびりと星空を見上げる八彦の和装と同じく、茶室に相応しい和装である。宵月姓の女性独特の紫黒の長髪を背中の始めと中程の二箇所で括り、黒い小袖に紫紺の羽織、そして同じく紫紺の袴を穿く様は、白壁の茶室において浮かび上がるような存在感を持っていた。
和敬静寂を尊び、俗世から完全に隔絶された侘寂の中、ただ穏やかに時間が流れていく。
不意に春花の手の動きが緩やかになったかと思うと、その手の茶筌を少しも泡立てる事無く、完成された茶から静かに引いた。
「お、仕上がったかな?」
音の変化からその事に気付き、八彦が居住まいを正しながら期待の篭った声を挙げる。
彼は大の茶好きなのだが、おかしな事に味にはあまり頓着しない人間だった。なので、どんなに高級な玉露だろうと三煎とは言わずに四煎でも五煎でも節操無く飲み漁るのだ。
そんな八彦だが、しっかりと順序を追って点てられた茶を前にしてはちゃんと礼節を守って対応する。
まだ椀の中で渦を巻いている茶から八彦へと視線を上げた春花は、律儀にも膝上に拳まで置いた八彦の有様を見、化粧によって巧に際立てられた美しい面立ちに艶然とした微笑みを浮かべた。
「そんな……織口翁、どうぞ楽にして下さいな。茶とは本来自然体で頂く物。それに、畏まらねばならない理由などは極々些細な事ですから」
彼女の言葉に、八彦は口許を緩ませて試すような視線を送る。
「……ほほう。それはつまり、美味ければ他はどうでも良い、と?」
「えぇ、それはもう。ただし行儀が悪いのはいけませんが」
「ふむぅ……では、言葉に甘えよう」
即答に同じくで応えた八彦は、軽く上体を左にずらして右足を尻の下から抜いて半胡座にし、今度は逆向きに同じ事をして、一つ呼吸する間にすっかり胡座をかいていた。
「どうぞ」
「お手前頂戴致します。……ん? おお」
畳一畳を挟み、両者の中間に差し出された椀の上空を、どちらからともなく零れた静かな微笑が交差する。
頭を掻いてやれやれと言わんばかりの表情となった八彦は、気軽な手付きで掬うように椀を手にすると、両手に軽く収まったそれを一気に口に付けた。
ず、の一音が茶室中に反響し、一口分を飲み下す音と共に八彦は椀を口から遠ざける。
「美味い」
「当然です」
心底からの言葉に、春花は口許の微笑を深めて応じた。
「やはり、美人さんに点ててもらった茶は格別だな」
「まぁ。細君ありし身でそんな事を仰られて……良いのですか?」
一瞬の間を置いた後、両者共にやや困ったような顔をして、苦笑。
「ああ確かに。尚言えば……そう、お互いあと四十も若ければ、重度の問題発言だったろうになぁ。当時の儂は妻子ある身。君は若さに溢れた美貌の才媛だ」
過去に思いを馳せる様にどことなく虚ろな瞳で中空を眺めた後、八彦は椀に口をつけた。
「ふふ……織口翁も私も、当時と違って今や孫まである身ですからね」
ぞずずと一気に飲み干しに掛かる八彦を前に、春花は笑み口を覆い隠していた袖口を下ろす。
その動作に合わせて、彼女の表情から先程までの穏やかさが消え失せた。代わりに面に出たのは、他者を圧する強硬さを持った、凛然と真剣な表情である。
「ですが、珍しくもわざわざ織口邸へこの私を呼び付けたのは、こうも他愛のない茶飲み話をする為ではないでしょう?」
声にも態度の変化が現れていた。微笑していた時の和やかさはどこへやら、今あるのは詰問調寸前の厳しさだけである。同様の鋭さが付加された視線に、八彦は茶を啜る音を一瞬止めたが、またすぐに何事も無かったように茶を啜り出す。
春花の方もいたずらに二言目を発しようとせず、ただ黙って八彦の返答をじっと待つ。
やがて、すっかり干された椀が八彦の手前に置かれた。
「うむ。実はそうなのだ」
遅れて返された言葉は、放たれた側からの言葉からすれば呆れる程気軽な調子である。
「歳を重ねると、巧に本題を引き伸ばす癖が付くようになっていかんな。や、申し訳ない。しかしそれもだな」
「織口翁」
眉一つ動かさず、春花は無意識の内に話を長くしようとする八彦へ言葉を飛ばす。
八彦の方は少しの間押し黙ったが、やがて観念したように表情を引き締め、呼吸を一つ。
「ふむ、では本題に入ろうか。無道の者より常道の世を守護し、音に聞こえた常夜の長。外道の徒の内、鎮護譜に属す宵月の長代理、宵月 春花」
わざわざ鎮護譜まで含まれたくだりを持ち出した八彦の口上に、春花は微かに片眉を上げた。これは八彦が続けて告げる言葉の内容が、一般常識からかけ離れているという事である。
彼の言った鎮護譜というのは、簡単には彼の言った通り無道の者――要するに人外妖怪魑魅魍魎の魔の手から人々を太古より守護し続け、並み外れた異能を持つに至ったが故に外道を自称する者達の集まりである。性質上人対人の争いには一切荷担干渉せず、ただひたすらに人に害成す存在を殺戮・封印・隷属・放逐してきたのだ。
もっとも、今では昔ほど無道の者達が活発ではないため、誰もが本業ではなく一般的な職業による副業で生活の糧を得ている有様だ。それでも、知識と技術は連綿と受け継がれ、吸収・研鑚・昇華が日夜休まず繰り返されている。
八彦が鎮護譜と口にしたその時点で、春花には彼の言いたい事が一つ予想できた。むしろ本業がらみの事となると、それ位しか思い浮かばないのであるが。
「先々月にこちらから伝えた一件。返答をお聞かせ願いたい」
一つきりの予想がずばりそのままの展開に、だからこそ春花は視線に訝しさを混ぜる。
本気、そして正気だったのか、と。
「……その件でしたら、否、と先々月のその場ではっきりと申し上げた筈です」
取り付く島も無い返答だが、諦める事無く八彦は更に口を開いた。
「さして考える事も無しに成された返事に、果たしてどれ程の意味があるのか。この二ヶ月、考える時間は少なからずあった筈では?」
「考える必要があると判断できる内容ならまだしも、その必要性すら無い件に、誰が時間を費やします? あんな、誰も恨み様のない過去を今更になって……」
手厳しく春花は返す。
八彦は溜息をつくと、僅かだが肩を落とした。
「残念だ。二十年前に伴侶を失った者同士、理解してもらえると思っていたが」
「……前々からその考えをもっていたのであればいざ知らず、あの件からそのような考えに至るのは、少々突飛が過ぎると思いませんか? 逆恨みも甚だしい」
表情と呼吸に伴う動き以外全く動きを見せない春花に対し、八彦は返答の前置として溜息を吐く。その吐いた息が茶室内の空気に溶け込んだ後、双眸を細めた。
ただそれだけだったが、瞬間後に茶室の空気は凍ったように張り詰め、八彦の表情は老獪そのものとなる。
本性剥き出しと考えて差し支えない表情を前に、春花は知らず己の緊張を強めていた。そんな傍目からでは分からない彼女の心の動きを捉えたのか、軽い侮蔑の笑みで口許を歪め、八彦は口を開く。
「前々だ突飛だは、所詮答えに至る過程でしかなかろう」
今までの穏やかな語調は全て演技だったのか。彼の言葉は表情に相応しい、相手を完全に小馬鹿にしたものとなっている。彼我の年齢差が二十近い事も手伝って、八彦の言い方には春花以上に遠慮が無い。
「……成る程」
即座に、八彦が本気である事を春花は確信した。
「答えに至った今、最早過程はどうでも良い、と?」
「それは無論の事だ」
「では、それが例え荒唐無稽であってもですか」
先と似たような言葉の応酬を、他の全てが違う形で繰り返す。両者の心が前の通りであれば、苦笑の一つも起こったろう。だが、両者は笑うどころか眉一つ動かす事は無い。
「荒唐無稽かどうか等、儂が実行に移そうと言った時点で、口にする必要も無い戯言だ。儂は、あれの強大な力を以って、二十年前のあの思いを奴等にも味あわせてやるのだ」
完璧絶対の自信。揺るぎなど皆目有り得ない態度を前に、内心の揺らぎを絶対表に出すまいと春花は言葉を返す。
「……本気なのですか?」
「愚問を繰り返すとは、な。歳の重ね方を誤ったか?」
またも馬鹿にされた口調に、微かに春花は下唇を噛んだ。だがそこで引き下がらず、彼女はもう一度だけ問いを口にした。
「本当に、我等外道の徒全てを敵に回して尚、己の歪んだ願望を果たそうというのですか。確かに、あの折に主導であった宗家では誰も人死にが出ていません。ですがその事を誰が咎められましょう、誰が責められましょう。それを必然とするだけの証など、何もないのですよ?」
「歪んではおらんが、そうだ。そのための準備なら、かれこれ十年前から行っていた。そして今ならば儂に対応可能な者は数少なく、もとより全てに対策は講じてある」
「……後はきっかけだけ……だと?」
表情に硬さが生まれつつある春花に、八彦は冷笑を浮かべる。
「後は、だと? はは、随分鈍くなったものだな、宵月春花。そんな受身に回った考え方しかできなくなったとは」
微かに息を呑む音が茶室に響いた。座る姿勢こそ変化は無いが、春花からは既に他者を圧する強硬さは感じられない。
「まさか……!」
とうとう、感情を抑えられず春花の双眸に驚きが映されてしまう。
「そうだ。遺骸は既に揃っているのだよ。耳塚、立足、筑八幡宮、御法田のわさび畑からな。加え、常念岳に残っていた常念坊の庵跡も破壊した」
「そんな、どれも監視及び保護の甲種対象の筈。いくらあなたでもそう簡単には」
「言ったろう、十年前から行っていると。全く、零落れたものだな……二十年前の教訓を活かせず、太平に溺れたか? 利弥も草葉の陰でさぞや嘆いているだろう」
呆れた様子で八彦の言葉。その最後の一言、今は亡き夫の名を出され春花の柳眉が逆立った。
「織口翁――」
「無駄だ」
だが、何かをする前に八彦が釘を打つ。直後に八彦の言葉――対策は講じてある――を思い出すと共に、周囲の状態からその意味を理解した春花は、浮いていた腰を静かに下ろした。
「成る程、この茶室には予め術法封じが施されていたと。我等を裏切っているのなら、当然の処置として……よく私に気付かせませんでしたね」
言い、春花は諦めたように息を吐く。
事前に何の確認もしなかった自分が阿呆のように思えてくるが、招待された身で、あまつさえ互いに交流深い相手の茶室である。甘いと今更に思わされるが、罠などという発想がまず有り得なかったのだ。加えて、茶室に赴いた時点で彼女は丸腰となっていた。如何に礼儀とはいえ、仮にも――今や真実だが――叛乱を企てた者の勢力内である。春花は平和慣れしていた己の脳天気さに嫌気が差した。
いや、そもそも何故織口翁の誘いを受けてしまったのか。
「……全く、用意周到だ事」
片頬に手を当ててこれ見よがしな溜息をつき、八彦によって干された椀を自分の方へ引き寄せた。
こと丸腰という点では八彦も同様なのだが、全てを封じられた上での肉弾戦となると、六年前に一線を退いた春花と違って未だ現役の八彦とは、五十代後半と七十ちょうどという年齢差を鑑みても、年季と技量の差で八彦の方が数段上なのだ。
「事が済むまでは、ここで静かにしていてもらおう」
八彦の方も自分の優位を疑っていないのだろう。抵抗の意思を失った春花を、当然のように見ている。
「そうせざるを得ないようですね」
和やかに言った春花は開き直ったように涼やかな微笑みを見せると、そのままの表情で穏やかに告げた。
「しかし、周到なのは貴方だけではありませんよ? 不穏な事を口にした相手の家へ赴いたのです。帰らなければ娘や親類達が黙っていませんし、他氏への通報も今頃は終わっている筈」
「ふ、儂の対策の程を甘く見てもらっては困る。……敢えて言うが、全て無駄だ」
相手の一縷の希望を摘むように、八彦は即答。
彼の言葉に眉を八字にさせつつ、春花は苦笑。
「それは困りましたわ。……分かりました、大人しくしていましょう」
あっさりとした言葉の最中、彼女は自然な動作で茶杓を手にした。
「では折角です。もう一杯いかがですか?」
思いも寄らない一言に、八彦は少々呆気に取られたような顔をする。だが、僅かの間の後、彼はゆっくりと口を開いた。
「……その手には乗らんよ。これで中々忙しいのでな」
春花の言動は完全な諦めのためか、それとも打開のためか。八彦にとって考えるべき所は多々あったが、何にせよ受ける手は無い。
「せいぜい、あなたにはここで人質としてじっとしていて貰おう」
微かな落胆を浮かべた春花を見下ろし、立ち上がった八彦は自信を見せ付けるようにわざと無防備に背を晒し、茶室から辞した。
「だと……良いですね」
残された春花は、躙り口の戸が閉まるまでを黙って見届けた後、手に持った茶杓をいやに落ち着いた動きで元に戻す。
「――織口翁。今のままでは、あなたの企みは天地が引っくり返ろうと成就しませんよ」
そして、静かに、勝ち誇った様子で呟いた。
「むぅ」
ふと、分かった。
それと同時に少女はふと顔を上げる。少女はあまりにも美しく、どこがと言わずとも全てが美しい少女だった。
そんな少女の血の色をした瞳が見上げたのは、吹き抜けの向こう、墨で塗ったような澱んだ空。太陽の光も月の光も、星明りも届かない奈落の空だ。
「どうしたものかな……」
唐突な事だが、それはいつもの事である。分かろうと思って分かった事は、些細に過ぎない。分かろうと思わず分かった事こそ、重要で重大だろう。
「ふむ」
だから彼女は動く事にした。
視線を空から下ろし、薄暗い中で立ち上がる。
みし、と畳が軋む音がした。
そしてその音は、少女が歩く事で連続する。
「最良となるか否かは、行動次第かの」
ここ奈落ならばともかく、あちらでは厭われる身である事を理解しながら。
杞憂や徒労に終わるのが全てにとって最良だと思いながら。
「いや……真に最良なのは、動かぬ事かも知れんか」
立ち止まって、俯く。
「されど、行かぬ訳にはゆくまいな。迷惑な同胞が要らぬ事をするとなれば、手遅れになってはどうしようもない」
が、すぐに顔を上げ、改めて彼女は行く事にした。
鬼の支配する奈落から霊長の支配する場所へと。
懐かしい場所へと。
壱 ― 裏
四月初頭。十二月より一大勢力を築いてきていた冬の寒さもそれなりに収まり、春の暖かさが日々感じられてきたある日の夜。
暗い空に眩く瞬く星々とは反対に、月はその姿を現さずに闇を描いている。月の出ている夜と比べてうそ寒さすら覚える新月の夜空を前に、何者もただ黙して過ごすかに思えた。
人間も、鳥獣も。
例えそれ以外の者であっても。
しかし、空の遥か下に広がる山並みに、星々に隠れるようにしてある異変が起こっていた。
闇と山は昔から潜在的に人を畏怖させてきたものだが、今夜に限ってその畏怖は、得体の知れ無い錯覚から来るものでは断じてなかった。
何せ生命の息吹が欠片も無いのだ。闇の中とはいえ、山である。周囲には自然が満ち満ちている環境なのだ。そこから考えれば、夜行性の者達の自己主張及び、虫の声すら聞こえないというのはあまりに不自然。常であれば、例えば梟の鳴き声の一つや二つ、木の幹を這いずる爬虫類や虫々、風による枝葉のざわめき等の喧騒がある筈なのに。
完全な無音により耳が痛くなるような山の中は、不気味とするよりもむしろ、山全体が眠っている――いや、いっそ死んでいると表現した方が的確かに思えた。
それは何故か。
日中は常と変わらず、そこかしこで野生が騒ぎ立てていたというのに。新月の今はまるで山全体が何かを畏れているような有様で、風が吹いても草木一つ身動ぎしない。
一体、何を畏れているのか。
山の全てを静まり返させる程の何かとは、なんなのだろうか?
と、山中において彼方より微かに音が響いた。
「――――まだ」
静寂の中での彼方よりの音、それは耳を澄ませば更に聞く事ができるだろう。不規則だが確実に何かが向かって来るらしき、びゅうびょうと響く風切り音を。そして、
「――が脚我が身体。急ぐのだ」
音、再び。先程からすれば格段に近い距離から発せられたそれは、老人を思わせる小さな嗄れ声。その嗄れた声が、同時に絶え間無く響く風切り音を伴って、薄闇を支配する静寂を駆け抜けている。
直後、薄闇に包まれた木々草々の中に、自然の物とは全く違う一つの影が、物の怪の如く躍り込んだ。
影は闇に目立つ白色を主とした修験者の装いで身を包み、やはり目立つ長い白髪と白髭を振り乱して疾走している。妖や魑魅魍魎の類に見えなくも無いその影は、一本歯の高下駄を履いた老人であった。
驚いた事にこの老人。木であろうと大地であろうとそれこそ天地左右の区別無く、己を進めるための最短となる個所を足蹴にして駆けている。しかも足蹴にされた木々は少しも揺れず、枯れ積もった枝葉に埋められた大地ですら何の音も発しはしない。
突き出るような高鼻に赤ら顔の老人は、人を超えた身のこなしで山中を風と一体となって突き進んでいた。ひたすらに、ただただひたすらに。
「ぬぬ、遅れては他の者等に示しがつかぬ。遅れては儂の命が真に危うい」
高慢な表情を作り続けてきた事で刻まれた皺を無視し、右手に十一枚の葉で作られた羽団扇を持った老人は、恐怖に怯えた表情を浮かべていた。
「走れ駆けよ我が身体! 疾く、疾く、更に疾く!」
呪文のように言葉を発し続け、吹き抜ける突風のように自然と一体になった動きをしてのけるこの老人すらもまた、山同様何かを畏れている。
一体、何が畏れさせているのか。
自らの叱咤に自らで応える老人は、山中を進む速度を残像すら霞み見える程速めていた。
「……木霊達すら黙したか。いかん、これはいよいよ時間が無いと見ねばならぬ」
言葉通り、進めば進む程彼の周囲の景色は徐々に深く静かに死んでいっている。今ここで誰かが咳の一つでもすれば、その音は間違い無く辺り一帯中にくまなく響き渡るだろう。
やがて老人の爛々とした黒き双眸が、山中において見事に不似合いな玉虫色の光を捉えた。さして明るいとも思えない光だが、不特定な発色を持続するという特異性がその存在を存分に目立たせている。
「ああ良し、良しや良し。……ふう。……どうにか間におうたわ」
森林奥地にぽっかり空いた木々の隙間、伸びた枝葉を蓋に草も苔も無く土が剥き出しとなっている、自然の中の不自然な丸い広場。光を目にした数瞬後に老人はそこへと辿り着くと、汗の浮いた顔を懐紙で拭き去り、深呼吸のただ一度で荒くなっていた呼吸を平静に戻す。それから老人は静かに視線を前方へ――直径二丈半程の空間の中心部分に浮かぶ、光の玉へと向けた。
畏怖の念がありありと感じられる老人の挙動に対し、光の元である人の頭ほどの玉は、自転しているかのように静かに発色を変化させるだけ。
老人は踵が広場の縁である木の根元に触れるまで後退ると、地べたにへばり付く程の低い土下座をした。
緩やかに二呼吸後。
これといった動きの見られなかった玉の直径が突然広がり始め、やがて、土下座する老人が真っ直ぐ立つよりも更に大きくなった。見はしないでも玉の様子を感じたらしく、さらに姿勢を低くする老人の前――光の中から巨大な人影が現れる。
傍目には十分過ぎる程のそこをさも窮屈そうに潜ってきた男は、常識外れの巨躯に市井の者達が着るような薄茶で無個性な三つ揃えをしっかり着込んでいた。眼光の鋭さだけが際立つ凡人面から、どこか腹に一物ありそうな雰囲気を纏っている。
しかしそれら以上に、彼が出てきた事で周囲の自然が一瞬だけ悲鳴でも上げたような雰囲気になった事が、彼を老人とは全く違う、更には老人以上の何者かで在る事をありありと示していた。
地面を革靴で以ってずしりと踏み締め、光を背に軽い嘲笑を浮かべて老人を見た男は、声をかけるでもなく光の左脇へと身を退けた。
すると光からもう一人が現れる。
今度は女性であるが、根本的に最初の男とは一線を画していた。
出現時は男と同じく、自然そのものに一瞬だけ凍りつくような雰囲気をもたらしたこの女性。身長こそ男と同様に規格外と言える程の高さであるものの、袴を穿き、襲袿の上に唐衣を羽織っている。各部の裾こそ引き摺らずに済む程度に詰めてあるが、その有様は平成の世においてまず見られない見事な和装であった。
楚々と朱紐の下駄を地に降ろし、美しく冷厳な面立ちを平伏す老人へ向ける。
視線を感じて増々畏まる老人を無視すると、女性は綺麗に分け整えられた豊かな黒髪を揺らし、最初から最後まで少しも音を立てずに男の反対側に立った。
そして、二人は揃ってその場に膝を突く。三つ揃えの男は両手をそれぞれ腿に当て、やや腰を上げて頭を下げた。対し和装の女性は老人ほどで無いにしろ、地に手を付いて静々と頭を下げる。両者共に、光に向けて崇拝の念を明らかにしたのだ。
今までの二人だけで十分に山の自然を震撼させ、また老人の口をからからに乾燥させたのだが、その二人など全く問題にならない程の者が次に出てくる事を老人は知っていた。
実時間では約一分。しかし老人にとっては、鼻先を削られるような拷問に等しい膨大な時間が過ぎ去った後、押し潰されそうなほどの威圧感と共に三人目が光より現れる。
先の二人に比べればずっと小柄に映るその身体が出て来た時、僅か一瞬だが、老人は間違いなく周囲の自然がこの場より逃げ出そうと足掻いたのを感じた。
否。足の裏の感触が薄れた所からすれば、実際に動いたのだろう。
もしや森林の最中にあるこの不自然な空間は、今までの僅かな逃げが蓄積して生み出されたものなのだろうか?
そんな荒唐無稽が、今この場においては強い説得力を伴っていた。
老人は意識して意識して呼吸を心を居住まいを乱さず、平伏し平伏しひたすらじっとして、三人目から声をかけられるのを待つ。再びの、拷問的時間。
「……出迎え、大儀である」
そしてようやく成されたのは、口調こそ古めかしいが、聞き積もってせいぜい十六か十七歳程度の少女の声。だがそれは、心地よく澄んだ雅な音色となって老人の鼓膜に触れた。
「は、勿体無きお言葉に御座います……」
掠れる声も直せずに、老人はどうにか返事と分かる大きさの声を搾り出す。
美しい声の主は、軽く頷いたような仕草を見せた。
「大天狗が頭領よ。先づは面を上げよ」
相手の有無を何ら言わせぬ、従うしかないだけの圧倒的言霊が篭った、それは支配者の声。
「ははっ」
言い表された老人、即ち老天狗は、自慢の鼻を土下座の際に土に埋めていたため、引き抜くそばから土を払って顔を上げる。彼は声の主の美しさに見上げる姿勢のまま身体を停止しさせ、思わず老眼は声の主に目を奪われた。
そこにいたのは、絹もかくやと思わせる黒く長く艶やかな髪を持つ、声音通りの年齢の少女である。厚手の衣とその上に羽織った千早はどちらも眩しい白で、穿いている鮮やかな血色の袴も手伝って、少女の外見はどこか巫女を連想させた。
格好の豪奢さでは先の女性と比べて明らかに劣るが、かといってその女性より劣っているかといえば全くそうではない。むしろ簡素で余分な装飾の無い装いであるからこそ、少女の持つ煌かんばかりの美しさと雅さを遺憾無く発揮させているように見えた。
そう、まさに美しいのだ。ただ単純に、これ以上無い程に、比べられるものなど無い程に、一分の隙も無く少女は完璧なのである。
だが、現実の少女の美は魔的を感じさせるものであり、美しさに気を取られさえしなければ、周囲の自然がこの場の誰を最も畏れているかが良く分かる。
「前は列を成す程居ったが……しかして今は、お前のみ、か」
一挙手一投足の全てに典雅優流さを醸し、少女は古風な言葉使いに些かの不慣れも無く、頬に手をやって嘆息した。それだけで充分息を呑むべき美しさを発散しているが、老天狗の態度は恍惚じみたものから一転し、極度に緊迫した面持ちになる。
「面目次第も御座いませぬ。本来ならば各族郎党総出でお迎えすべき所ではありましたが、現世において我等の力は衰える一方。更には二十年前よりその勢いが上がってきておりまして、今やこの老いぼれの他に、貴女様方の御前へ姿を晒せられるだけの者は居らぬのです」
再び、高い天狗鼻を土中に埋めながら老天狗は額を地に擦りつけた。
「ふむ。幾らこの世が霊長を中心に回っておるとはいえ、妾達の存在を信じぬ者ばかりが増えるのは困ったものじゃ。ここの所の百年では、山の自然すら妾達を忌避しよるし……全く、霊長による世間は窮屈でならんな。されど、妾が山を留守にする間程度は、管財の役目を果たせよう。違うまい?」
「それは勿論に御座います」
顔を上げずに応えながら、大天狗は少女の何気ない一言一言に押し潰されそうな威圧を感じている。本音としては、一刻も早くこの三者の前から逃げ出したかった。しかし体は自縛によって動こうとしない。
「うむ。では留守中、しかと任せる」
軽く首肯し、蛙のように潰れている老天狗から目を逸らした少女は、木々の狭間から除く狭い夜空を見上げる。たったそれだけで木々がざわざわと身を反らし、枝が折れ無いのが不思議なほどひん曲がって、緑の天蓋が開いたように広大な夜空が一気に姿を現した。
「ほ……やはり月の見えぬ夜も悪くは無いの。月夜も美しいが、たまの星夜もそれに劣らぬ。それに……嗚呼、娑婆の空は幾度見ても飽きぬなぁ」
頬に手を当てた少女は、陶然と闇色に点々と光を織り込んだ絨毯に見入っている。
「……さて」
心行くまで星空に堪能したのか、満足げな言葉。それと共に視線を空から自分の後ろへ転じた少女は、鮮血色の瞳に、礼儀に則った座礼のままの者等を映す。
「では行くとするか。立て、逸隼丸」
「は。承知仕りました」
少女の言葉に堅苦しくも澱みの無い返事を返し、ゆらりと巨躯を立ち上がらせたのは、三つ揃えの男の方。逸隼丸と名指しされたこの男は、無制限の敬意と従属の念を真っ直ぐに少女へと向けていた。
「謐」
「…………」
逸隼丸と違い、無言のまま衣擦れの音も無く立ち上がった女性は、真っ直ぐに背筋の伸びた美しい姿勢で静止した。名は体を表すを地でいくようなこの女性の方は、完璧で揺るぎ無い畏怖と服従心を少女へ向けている。
それらを当然として受け止めた少女は、見上げる程の両者とそれぞれ視線を合わせ、それから肩越しに老天狗を振り返った。
「……止めぬのじゃな、頭領。お前とて、今起こりつつある事程度は知っておろう」
少女の意外そうな呟きに、老天狗はびくりと体を震わせる。
「は。ですが……そのような大それた事、この私にできよう筈が在りません」
「ほぉ。妾は結果的に、微かとはいえ霊長の世をより確実にするために参ったのじゃぞ? これが成れば霊長の存在感が現世に増し、彼奴等の我等を否定する意思によって、我等を排除せんとする力は強まり、結果力の減衰上昇は言うに及ばず、既に我等の存在すら危ぶまれておると言うのに……異論も無く、止めもせぬと」
言葉も震わせる老天狗を、見た目に不釣合いな老獪さをもって鼻で嗤った少女は、むしろ窘める調子で老体を睨みつける。そのままたっぷりと老体の心臓を凍らせ、気が済んだ辺りで少女は視線を弛めた。
「言い返さぬのか。妾は遠回しに我等の存在を否定しようとしているのじゃぞ。それとも、霊長の意志によって唾棄すべき下等へと堕とされ果て、過去の誇りも矜持も失ったか」
容赦の無い痛烈な叱咤。呼吸を乱しかけていた老天狗は、深呼吸をしてからやっと応える。
「畏れながら。……しかし致し方の無い事でしょう。森羅万象が霊長を認めていると言う事なのですから。私如きが物申した所で、如何にも成りますまい」
すると少女は顔を戻し、処置なしと言わんばかりに溜息を吐いた。
「この莫迦め。妾が何故にこんな問答をしてやっていると思う? 声高に己が意を主張せよ、さすれば己が存在を強く自認できように……まさか妾が本心からお前達の抹消を望んでいるとでも思ったか」
「いいえ」
「ならば、……いや、詮無い事か」
背を向けたまま言いかけた途中で諦め、少女は沈痛な面持ちで俯く。
「お前達ばかりで無く、妾達も所詮同じよな。経緯はともかく、他所と同じく霊長に主導権を簒奪され、国津すら追われた以上……今更自己の存在を主張して何になるというのか」
心配そうに少女を見ていた逸隼丸や謐の表情にも、どこか苦々しげなものが映る。
一瞬で少女の感情がこの場に満遍なく伝播したかに思えた。
「……ふ、何を愚かな」
しかしそれは、他ならぬ少女の冷笑によって掻き消される。俯いた顔を上げた少女の顔には、か細さすら窺えた先程の声の主とは思えない程の覇気と活力が満ちていた。
「全く、妾も歳を取ったと言うべきか、それとも長としての考えが染み付いたと言うべきか、まさかこうも弱気になるとはな。妾は自らの考えでそうしておるのに、これではあれに笑われてしまうな。……頭領」再び肩越しに老体を振り返る。「お前もお前の一族も心身を強く持つよう心かけよ。さすれば、霊長に呑まれる事など無い筈じゃ。何せ、我等はこうして此処に在り、物を言えば考えもする。……生きておるのじゃから、な」
「はっ、肝に銘じます」
不敵な笑みを浮かべる彼女に、老天狗は短く鋭く応える。彼の返事に満足したのか、肩越しのまま頷いた彼女は佳容に微笑んだ。
「ではな」
「どうぞ、お気を付けて」
気軽な出立の言葉に対する嗄れた返事。だがその全てが言い切られるより先に、少女とその従者達は忽然と消失していた。同時に、今までこの場を照らしていた玉虫色の光も消え、老天狗の影がその存在感を失う。
暫くの間身動ぎ一つしなかった彼だが、やがて鼻を引き抜いて立ち上がった。その顔は汗にまみれており、表情からは未だに畏れが後を引いているのが分かる。呼吸もまた、荒い訳ではないが不自然に不規則になっていた。
「……この時勢にあるにも関わらずあの圧倒感。やはり、彼の方々は別格であるという証か」
感嘆した風に言い、ゆっくりと深呼吸をする。けれど今回は一度では安定せず、二度三度と行って、やっと普段の呼吸を取り戻す事ができた。
「心して、恙無く努めを果たすとしよう。畏れ多くも旧き御方直々の命であるからな」
夜闇に包まれた森を振り返ると、老天狗は静かにその中へと分け入っていく。その頭上を、流れ星が長い尾を引いて煌いた。
壱 ― 表
零時を半分ほど過ぎる現時刻。
塀に囲まれた邸宅の母屋から離れた小さな茶室にて、星空を見上げる双眸がある。
「今夜は……星がうるさいな」
星々が賑々しい夜空に、織口 八彦は双眸を微かに細めて静かに評した。
「……朔月夜は、これくらい普通ですよ」
数瞬だけ視線をやった後、白髪白眉である八彦の対面に座る白髪混じりの宵月 春花は、茶を点てる動きもそのままに言葉を返す。
納得を思わせる八彦の微かな唸りを最後に、四畳半の茶室からは、茶筌が茶を撫でる音以外全ての音が消え去った。
白い薄手の小袖に灰色の素襖を纏う八彦は、胡座をかいた楽な姿勢で、片側が開かれた障子から好々爺然として夜空を眺めている。その彼の前では、長い年季を感じさせる綺麗な正座姿勢をやや前傾にした春花が、黙々と目前の茶に取り組んでいた。
彼女の装いは、向かいでのんびりと星空を見上げる八彦の和装と同じく、茶室に相応しい和装である。宵月姓の女性独特の紫黒の長髪を背中の始めと中程の二箇所で括り、黒い小袖に紫紺の羽織、そして同じく紫紺の袴を穿く様は、白壁の茶室において浮かび上がるような存在感を持っていた。
和敬静寂を尊び、俗世から完全に隔絶された侘寂の中、ただ穏やかに時間が流れていく。
不意に春花の手の動きが緩やかになったかと思うと、その手の茶筌を少しも泡立てる事無く、完成された茶から静かに引いた。
「お、仕上がったかな?」
音の変化からその事に気付き、八彦が居住まいを正しながら期待の篭った声を挙げる。
彼は大の茶好きなのだが、おかしな事に味にはあまり頓着しない人間だった。なので、どんなに高級な玉露だろうと三煎とは言わずに四煎でも五煎でも節操無く飲み漁るのだ。
そんな八彦だが、しっかりと順序を追って点てられた茶を前にしてはちゃんと礼節を守って対応する。
まだ椀の中で渦を巻いている茶から八彦へと視線を上げた春花は、律儀にも膝上に拳まで置いた八彦の有様を見、化粧によって巧に際立てられた美しい面立ちに艶然とした微笑みを浮かべた。
「そんな……織口翁、どうぞ楽にして下さいな。茶とは本来自然体で頂く物。それに、畏まらねばならない理由などは極々些細な事ですから」
彼女の言葉に、八彦は口許を緩ませて試すような視線を送る。
「……ほほう。それはつまり、美味ければ他はどうでも良い、と?」
「えぇ、それはもう。ただし行儀が悪いのはいけませんが」
「ふむぅ……では、言葉に甘えよう」
即答に同じくで応えた八彦は、軽く上体を左にずらして右足を尻の下から抜いて半胡座にし、今度は逆向きに同じ事をして、一つ呼吸する間にすっかり胡座をかいていた。
「どうぞ」
「お手前頂戴致します。……ん? おお」
畳一畳を挟み、両者の中間に差し出された椀の上空を、どちらからともなく零れた静かな微笑が交差する。
頭を掻いてやれやれと言わんばかりの表情となった八彦は、気軽な手付きで掬うように椀を手にすると、両手に軽く収まったそれを一気に口に付けた。
ず、の一音が茶室中に反響し、一口分を飲み下す音と共に八彦は椀を口から遠ざける。
「美味い」
「当然です」
心底からの言葉に、春花は口許の微笑を深めて応じた。
「やはり、美人さんに点ててもらった茶は格別だな」
「まぁ。細君ありし身でそんな事を仰られて……良いのですか?」
一瞬の間を置いた後、両者共にやや困ったような顔をして、苦笑。
「ああ確かに。尚言えば……そう、お互いあと四十も若ければ、重度の問題発言だったろうになぁ。当時の儂は妻子ある身。君は若さに溢れた美貌の才媛だ」
過去に思いを馳せる様にどことなく虚ろな瞳で中空を眺めた後、八彦は椀に口をつけた。
「ふふ……織口翁も私も、当時と違って今や孫まである身ですからね」
ぞずずと一気に飲み干しに掛かる八彦を前に、春花は笑み口を覆い隠していた袖口を下ろす。
その動作に合わせて、彼女の表情から先程までの穏やかさが消え失せた。代わりに面に出たのは、他者を圧する強硬さを持った、凛然と真剣な表情である。
「ですが、珍しくもわざわざ織口邸へこの私を呼び付けたのは、こうも他愛のない茶飲み話をする為ではないでしょう?」
声にも態度の変化が現れていた。微笑していた時の和やかさはどこへやら、今あるのは詰問調寸前の厳しさだけである。同様の鋭さが付加された視線に、八彦は茶を啜る音を一瞬止めたが、またすぐに何事も無かったように茶を啜り出す。
春花の方もいたずらに二言目を発しようとせず、ただ黙って八彦の返答をじっと待つ。
やがて、すっかり干された椀が八彦の手前に置かれた。
「うむ。実はそうなのだ」
遅れて返された言葉は、放たれた側からの言葉からすれば呆れる程気軽な調子である。
「歳を重ねると、巧に本題を引き伸ばす癖が付くようになっていかんな。や、申し訳ない。しかしそれもだな」
「織口翁」
眉一つ動かさず、春花は無意識の内に話を長くしようとする八彦へ言葉を飛ばす。
八彦の方は少しの間押し黙ったが、やがて観念したように表情を引き締め、呼吸を一つ。
「ふむ、では本題に入ろうか。無道の者より常道の世を守護し、音に聞こえた常夜の長。外道の徒の内、鎮護譜に属す宵月の長代理、宵月 春花」
わざわざ鎮護譜まで含まれたくだりを持ち出した八彦の口上に、春花は微かに片眉を上げた。これは八彦が続けて告げる言葉の内容が、一般常識からかけ離れているという事である。
彼の言った鎮護譜というのは、簡単には彼の言った通り無道の者――要するに人外妖怪魑魅魍魎の魔の手から人々を太古より守護し続け、並み外れた異能を持つに至ったが故に外道を自称する者達の集まりである。性質上人対人の争いには一切荷担干渉せず、ただひたすらに人に害成す存在を殺戮・封印・隷属・放逐してきたのだ。
もっとも、今では昔ほど無道の者達が活発ではないため、誰もが本業ではなく一般的な職業による副業で生活の糧を得ている有様だ。それでも、知識と技術は連綿と受け継がれ、吸収・研鑚・昇華が日夜休まず繰り返されている。
八彦が鎮護譜と口にしたその時点で、春花には彼の言いたい事が一つ予想できた。むしろ本業がらみの事となると、それ位しか思い浮かばないのであるが。
「先々月にこちらから伝えた一件。返答をお聞かせ願いたい」
一つきりの予想がずばりそのままの展開に、だからこそ春花は視線に訝しさを混ぜる。
本気、そして正気だったのか、と。
「……その件でしたら、否、と先々月のその場ではっきりと申し上げた筈です」
取り付く島も無い返答だが、諦める事無く八彦は更に口を開いた。
「さして考える事も無しに成された返事に、果たしてどれ程の意味があるのか。この二ヶ月、考える時間は少なからずあった筈では?」
「考える必要があると判断できる内容ならまだしも、その必要性すら無い件に、誰が時間を費やします? あんな、誰も恨み様のない過去を今更になって……」
手厳しく春花は返す。
八彦は溜息をつくと、僅かだが肩を落とした。
「残念だ。二十年前に伴侶を失った者同士、理解してもらえると思っていたが」
「……前々からその考えをもっていたのであればいざ知らず、あの件からそのような考えに至るのは、少々突飛が過ぎると思いませんか? 逆恨みも甚だしい」
表情と呼吸に伴う動き以外全く動きを見せない春花に対し、八彦は返答の前置として溜息を吐く。その吐いた息が茶室内の空気に溶け込んだ後、双眸を細めた。
ただそれだけだったが、瞬間後に茶室の空気は凍ったように張り詰め、八彦の表情は老獪そのものとなる。
本性剥き出しと考えて差し支えない表情を前に、春花は知らず己の緊張を強めていた。そんな傍目からでは分からない彼女の心の動きを捉えたのか、軽い侮蔑の笑みで口許を歪め、八彦は口を開く。
「前々だ突飛だは、所詮答えに至る過程でしかなかろう」
今までの穏やかな語調は全て演技だったのか。彼の言葉は表情に相応しい、相手を完全に小馬鹿にしたものとなっている。彼我の年齢差が二十近い事も手伝って、八彦の言い方には春花以上に遠慮が無い。
「……成る程」
即座に、八彦が本気である事を春花は確信した。
「答えに至った今、最早過程はどうでも良い、と?」
「それは無論の事だ」
「では、それが例え荒唐無稽であってもですか」
先と似たような言葉の応酬を、他の全てが違う形で繰り返す。両者の心が前の通りであれば、苦笑の一つも起こったろう。だが、両者は笑うどころか眉一つ動かす事は無い。
「荒唐無稽かどうか等、儂が実行に移そうと言った時点で、口にする必要も無い戯言だ。儂は、あれの強大な力を以って、二十年前のあの思いを奴等にも味あわせてやるのだ」
完璧絶対の自信。揺るぎなど皆目有り得ない態度を前に、内心の揺らぎを絶対表に出すまいと春花は言葉を返す。
「……本気なのですか?」
「愚問を繰り返すとは、な。歳の重ね方を誤ったか?」
またも馬鹿にされた口調に、微かに春花は下唇を噛んだ。だがそこで引き下がらず、彼女はもう一度だけ問いを口にした。
「本当に、我等外道の徒全てを敵に回して尚、己の歪んだ願望を果たそうというのですか。確かに、あの折に主導であった宗家では誰も人死にが出ていません。ですがその事を誰が咎められましょう、誰が責められましょう。それを必然とするだけの証など、何もないのですよ?」
「歪んではおらんが、そうだ。そのための準備なら、かれこれ十年前から行っていた。そして今ならば儂に対応可能な者は数少なく、もとより全てに対策は講じてある」
「……後はきっかけだけ……だと?」
表情に硬さが生まれつつある春花に、八彦は冷笑を浮かべる。
「後は、だと? はは、随分鈍くなったものだな、宵月春花。そんな受身に回った考え方しかできなくなったとは」
微かに息を呑む音が茶室に響いた。座る姿勢こそ変化は無いが、春花からは既に他者を圧する強硬さは感じられない。
「まさか……!」
とうとう、感情を抑えられず春花の双眸に驚きが映されてしまう。
「そうだ。遺骸は既に揃っているのだよ。耳塚、立足、筑八幡宮、御法田のわさび畑からな。加え、常念岳に残っていた常念坊の庵跡も破壊した」
「そんな、どれも監視及び保護の甲種対象の筈。いくらあなたでもそう簡単には」
「言ったろう、十年前から行っていると。全く、零落れたものだな……二十年前の教訓を活かせず、太平に溺れたか? 利弥も草葉の陰でさぞや嘆いているだろう」
呆れた様子で八彦の言葉。その最後の一言、今は亡き夫の名を出され春花の柳眉が逆立った。
「織口翁――」
「無駄だ」
だが、何かをする前に八彦が釘を打つ。直後に八彦の言葉――対策は講じてある――を思い出すと共に、周囲の状態からその意味を理解した春花は、浮いていた腰を静かに下ろした。
「成る程、この茶室には予め術法封じが施されていたと。我等を裏切っているのなら、当然の処置として……よく私に気付かせませんでしたね」
言い、春花は諦めたように息を吐く。
事前に何の確認もしなかった自分が阿呆のように思えてくるが、招待された身で、あまつさえ互いに交流深い相手の茶室である。甘いと今更に思わされるが、罠などという発想がまず有り得なかったのだ。加えて、茶室に赴いた時点で彼女は丸腰となっていた。如何に礼儀とはいえ、仮にも――今や真実だが――叛乱を企てた者の勢力内である。春花は平和慣れしていた己の脳天気さに嫌気が差した。
いや、そもそも何故織口翁の誘いを受けてしまったのか。
「……全く、用意周到だ事」
片頬に手を当ててこれ見よがしな溜息をつき、八彦によって干された椀を自分の方へ引き寄せた。
こと丸腰という点では八彦も同様なのだが、全てを封じられた上での肉弾戦となると、六年前に一線を退いた春花と違って未だ現役の八彦とは、五十代後半と七十ちょうどという年齢差を鑑みても、年季と技量の差で八彦の方が数段上なのだ。
「事が済むまでは、ここで静かにしていてもらおう」
八彦の方も自分の優位を疑っていないのだろう。抵抗の意思を失った春花を、当然のように見ている。
「そうせざるを得ないようですね」
和やかに言った春花は開き直ったように涼やかな微笑みを見せると、そのままの表情で穏やかに告げた。
「しかし、周到なのは貴方だけではありませんよ? 不穏な事を口にした相手の家へ赴いたのです。帰らなければ娘や親類達が黙っていませんし、他氏への通報も今頃は終わっている筈」
「ふ、儂の対策の程を甘く見てもらっては困る。……敢えて言うが、全て無駄だ」
相手の一縷の希望を摘むように、八彦は即答。
彼の言葉に眉を八字にさせつつ、春花は苦笑。
「それは困りましたわ。……分かりました、大人しくしていましょう」
あっさりとした言葉の最中、彼女は自然な動作で茶杓を手にした。
「では折角です。もう一杯いかがですか?」
思いも寄らない一言に、八彦は少々呆気に取られたような顔をする。だが、僅かの間の後、彼はゆっくりと口を開いた。
「……その手には乗らんよ。これで中々忙しいのでな」
春花の言動は完全な諦めのためか、それとも打開のためか。八彦にとって考えるべき所は多々あったが、何にせよ受ける手は無い。
「せいぜい、あなたにはここで人質としてじっとしていて貰おう」
微かな落胆を浮かべた春花を見下ろし、立ち上がった八彦は自信を見せ付けるようにわざと無防備に背を晒し、茶室から辞した。
「だと……良いですね」
残された春花は、躙り口の戸が閉まるまでを黙って見届けた後、手に持った茶杓をいやに落ち着いた動きで元に戻す。
「――織口翁。今のままでは、あなたの企みは天地が引っくり返ろうと成就しませんよ」
そして、静かに、勝ち誇った様子で呟いた。