穂積名堂 Web Novel

鬼奇譚 弐

2012/02/29 02:05:41
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鬼奇譚 弐

Hodumi
弐 ― 裏
 その広間は、延々と畳が続いていた。主が座る場所から来客者が入る襖までの距離が半端ではなく、やや上座寄りにある襖によって区切る事はできるが、それが明けられている今は入ってすぐならお互いがせいぜい小指の爪程度にしか認識できないだろう。
 ただ、この空間は四方を壁と襖で塞がれているため、本来は明かりが入らず、闇一色に支配される筈。だが採光や電飾が一切無い筈の広間は、明るさには不自由していなかった。何故なら、そこらに無色の光を放つ鬼火がいくつも漂っているからだ。
 広間の一段上がった場所、後ろに瑠璃玻璃の細工も鮮やかで賢覧な花吹雪模様の衝立が立てられた、貴き者が坐すべき御坐を思わせる場所で、夜山に現れた少女が肘掛に凭れていた。
「どうやら御前の宿命通の通り、魏石の復活が企まれていると見て、間違いないようです。これを招いたのは織口と言いますが、この手際。中々にやる事が如才ない。……如何致しますか」
 彼女の右翼側に正座する逸隼丸が問う。謐は彼の反対側でやはり正座しているが、全てを諦めているかのような様子で明後日の方を向き、目の焦点が合っていなかった。
「そうさな……しかし、まこと厄介な輩を選びおったものじゃ。……ふむ。やはり、どうにかするしかないじゃろう。前と同じく封印のみでは、繰り返されかねんからな」
 思案し、結果を出した少女と逸隼丸の赤い視線が交錯する。
「……すると、朱月の大皿を?」
「うむ。宵月の娘達が保管しておった筈じゃからな。……未だ保管し切れておれば良いが」
「しかし外道の徒が我等に対し素直に協力するでしょうか。現在では昔のつては使えませんし」
「協力する者を探せば良い。贅沢を言えば、もしやの為に魏石を屠れるだけの技術を持ち、他に妾達の存在を漏らさなければ尚良いな」
「……果たして、そうも都合の良い者がいるでしょうか」
 逸隼丸の言葉に溜息が混じった。そもそも外道の徒は基本的に人間以外の存在を良しとせず、場合によっては神仏すら邪険にするような連中だ。そこへきて、幾ら過去に国津神として存在したという顕然たる史実があろうが、ただでさえよろしく無い経歴の持ち主である彼等の要望を、果たして素直に(そうでなくても構わないが)聞く者がいるのだろうか。
「今探しておる。最初は何であれ我儘を言っておくものじゃろうが」
 少女はそう軽く応えたが、傍目にはただ座っているようにしか見えない。それを何故逸隼丸が何も言わないかというと、少女を良く観察すれば、彼女の双眸の動きはこの場の景色を映しているのでは無いと知れるからだ。
 やがて、微かに少女の目が細まった。
「……おおう。……居ったぞ」
 数度瞬き、今一自分でも信じられなさそうな面持ちで呟く。
「何と何と。それはまた、随分と早いですな。確か宵月の本拠は東北では?」
 少女同様、逸隼丸も驚いた。更に彼の対面である謐の目の焦点が合い、顔の向き同様少女にしっかりと視線がいっている。全員の反応からして、幾らなんでも早すぎると感じているのはあまりにも明白だ。
「織口から近い順且つ強い順に探してみたが、頭でいきなり正解じゃったらしい。事情は良く分からんがまぁ追々分かるとして、視た限りでは条件をほぼ満たしておる」
「それは素晴らしい。では、早速向かいましょう」
「うむ。光輪車の進路は既に示してある。そう時間はかかるまいよ」
 少女はそれぞれと目線を合わせ、これからを思うと面白くて面白くて堪らないといった風に嫣然と微笑んだ。


弐 ― 表
 美しい。
 眼に映る全てのものが。
 とても。
「……うーん。……ほら、見てごらん。この壮大な星空を。幾億星霜の時を越えた彼等の光を僕等が見上げるというのは、どれもこれもが人という存在の小ささを教えてくれるし、圧倒的存在の星々の前では身も心も引き締まって清々しい気分になる。見事なものだね」
 深く感心した男の声と共に、朱色の大きな盃が遥か上空を仰ぐように振られる。
「ふふ、そうね。そしてなんて素敵なの? 夜空に瞬くあれ等は、まるで一つ一つが磨き抜かれた輝石のよう」
 女性の声音による返事には、感嘆めいた吐息が混ざっていた。
「んん、そうだね。…………けれども、その輝石達全てよりも、僕からすれば君一人の方が遥かに眩しく、そして美しいんだけど?」
「え? そんな……でも私は、私なんか――、ん」
 詰まったようにして声が途中で消える。男が女性の声を人差し指でもって、一時的とはいえ物理的に封殺したのだ。
「いいかい、茉莉。僕が一度でも君に嘘を吐いた事があったっけね? ……そりゃあ、黙秘権を行使する事が無かったとは言わないけれど」
「……でも」
「茉莉」
「ごめんなさい……」
 優しく諭すように言われ、女は申し訳無さそうに俯く。その俯いた顔を上げさせようと男が声をかけようと息を吸った時、女はひょいと顔を上げて言う。
「……ね、涼平。ずっとこうしていられたら、どんなに幸せかしら?」
「それは大丈夫。後三日は休みを取ってあるから、普段よりずっと長く一緒にいられるよ。ここ二ヶ月間は随分真面目にお仕事をしていたからね。職場の皆さん一堂から、どうか休んでくださいと腰より低く頭を下げて言われたくらいさ」
「そんな……まるで夢のような状況だわ」
 男の言葉に、女は両手を頬に当てて大げさに感動する。
「安心して。これは幸福な事に現実だとも。それに君の為だったら、万難を排するくらいは造作も無い事だからね」
「涼平……」
 新月の夜空を彼方に臨み、一組の男女が織り成す誰も立ち入れない会話が一つの区切りを迎える。
 非常階段を上がりきった所にある、〝立ち入り禁止〟と書かれた板が括られた柵の向こう、手すりも何も無い三十七階建てマンションの屋上、ピクニックシートの上にその男女はいた。
 二人の内右膝を立てて座り、右手に大きな盃を持つのは、涼平と女性に甘ったるく呼ばれた暗色を纏う男。
 卸したてのように鋭角な襟を持った灰色のワイシャツに、下半身はズボンから靴下まで夜の海を思わせる濃紺だ。そしてそれ等が彼のオールバック気味に梳き慣らされた黒髪と、スマート気味な体躯によく似合っている。
 隣の女性に無限の優しさが篭った微笑を向ける彼の顔立ちは、素であれば精悍さを描いたような攻撃的な男らしさと示威を一応は持っていた。だが今浮かんでいる毒気の無い笑顔と呑気と言っていい位にのんびりした口調によって見事にそれが打ち消され、ただの人の良さそうな兄ちゃんにしか見えない。
 その涼平の左隣で彼にしな垂れかかっているのは、茉莉と甘く囁かれた女性の方。
 彼女は涼平以上に黒を全身くまなく纏い、夜に包まれたように首から上以外の素肌一切を晒していない。ブラウスとフレアスカートの更に下、首元で何回か折り返して襟を模す、薄手ながら肌を隠す全身タイツを着用する徹底振りだ。
 彼女の特徴的な紫黒色の頭髪は全体的に短く纏められているものの、鬢辺りの部分はかなり長く、座る体に沿って紫黒の流れを作っている。そして、楕円で物映りの良さそうな左眼は、夢見心地を思わせるようにやや伏せられていた。
 その反対側の右眼はといえば、永遠に閉ざされている。
 何故なら、閉じられた右瞼には鋸で荒々しく何度も引いたような惨い裂傷が走っているのだ。額中央やや右側から下方へと鋭角な斜線を描くそれが眼の光を奪い、頬を通って顎まで到達している。更に彼女の顔にはもう一筋同種の裂傷が刻まれていた。左頬を始点に左方へ走り、途中で消えて日記帳ものの延長線上にある耳朶が切除されているのだ。それぞれ二センチ程度もの太さを持つ古傷が、彼女の顔貌から本来在るべき美しさを奪ってしまっていた。
「綺麗……」
 呟き、茉莉は地上よりもよほど強く吹き付ける風に微かに身動ぎする。彼女の動きに応じてか、涼平が静かに彼女の肩に置いた手を自分側に引く。無抵抗にされるがままに、茉莉は涼平の左胸に頬を寄せた。
「……ああ……本当に素晴らしい夜空だ」
 高所故の強い風に身体を撫でられながらも、涼平は茉莉の言葉に同意する。見上げる夜空は市街地内にも関わらず、風と引き換えに充分な見晴らしを得ていた。月が隠れる事で充分な煌きを発する星々は、充分嘆息するに値するだろう。
「後は月さえ出ていれば良いのに……」
 茉莉は彼の言葉を更に繋ぐように呟く。
「星見だから、そこのあたりは我慢だね」
 言うと、涼平は盃に口を付け、中に残っていた液体を飲み干した。
 少々下品だが唇に付いた酒を舐め、茉莉の肩を寝る子をあやすように優しく叩いていた左手の動きを止めた彼は、彼女を更に抱き寄せる。自然とそれに従った茉莉は背の右半分を涼平に預け、彼の頬に自分の額を寄せた。
「涼平」
 そう言った茉莉の左手には、中身が半分ほど入っている一升瓶がある。
「ああ」
 返事をし、涼平は右手の盃を茉莉の前辺りに動かす。瓶の首を持つ茉莉は、片手だけだというのに何ら不安定さの無い動きで盃に酒を注ぎ始めた。
 実に旨そうな音を立てて注がれていく酒が盃の中で細波を生み、その様を片方だけの目で愉しみながら茉莉は盃の七分目まで注ぎ込む。
「とと……」
 口振りだけは慌てた風に涼平は言うと、彼は何の躊躇も合図も無く、中身満載の盃を茉莉の唇にそっと当てた。
 茉莉の方も茉莉の方で、何ら違和感無く自然に盃の中身を飲み始める。
 どことなく艶っぽい小さな嚥下の音が定期的に響き、涼平の手は阿吽の呼吸で盃を傾け続け、結果一息で茉莉は盃の中身を干す事となった。
「はふっ……」
 絶妙のタイミングで盃を離すと、一息で干した事で恍惚とすらとれる表情と化した茉莉の口から、溜息にも似た声が洩れる。
「茉莉」
「ええ」
 一言ずつが交わされて、再び盃に酒が注がれた。
 今度は自分の唇に盃を当てると、涼平は茉莉同様一気に飲みにかかる。
 威勢のいい音を立てて涼平の喉が鳴り続け、止むと一拍置いてから盃を離した。
「っはぁー……」
 干し、双眸を閉じ、前傾となった首を左から右に軽く振るようにして大仰に息を吐く。二人とも旨いとは一言も口にしていない。だが二人の飲酒後の動作は、口にする必要も無い程度に旨そうだった。
 その有様に、茉莉が静かに微笑む。彼女の笑いを聞きつけた涼平は双眸を開いて彼女を見、視線の合った二人は心から愉しそうに微笑みあう。そのまま静かに笑い合い、どちらからとも無く微笑みの声だけを止めると、再び盃に酒が注がれる。
 この繰り返しが一段落すると、今度は最初のような不可侵の会話が開始される訳だ。
 他人が一切近寄れないような雰囲気を発しているこの二人は、何を隠そう夫婦である。そして〝近場の一等地で星見酒〟を合言葉として、つい六時間は前に立ち入り禁止の柵を乗り越えたのだ。
 マンションの他の居住者達は彼等のような不良ではないので、公序良俗を破るような真似はしない。
 すると必然的に、光源の一つも無い屋上には彼ら以外に大した物が無い訳だ。あるのは彼等から離れた場所にある大きな空調設備に、茉莉の隣にある肩かけ用の紐が付いたクーラーボックス。
 それから、彼等の回りに転がる空の一升瓶である。その数は今さっき茉莉の手から離れた物を含めて、三本。
「ん、無くなったのか?」
 瓶が転がり、ぶつかり合う事で発生した音を耳にし、涼平がたった今気付いたような風情で言う。
「今新しいのを出すわ」
 応えながら茉莉はひらひらと蝶のように左手を中空に踊らせて、やがてクーラーボックスの蓋を捉える。中指と親指で蓋の押さえを外し、押さえを支えに人差し指だけで蓋を弾き開く。
 決して軽くは無い音を立てて開かれた中から、涼平にかかりきりでそちらの方を見ようとしない茉莉は、さかさかと蜘蛛のように手を動かして新規の一本を手に取る。
 最後の一本だった。
「涼平」
 呼びかけ、行儀悪く瓶の尻でクーラーボックスの蓋を締めると、茉莉は掌と三指で押さえた瓶から、人差し指と親指だけで軽々と栓を引き抜いた。
「ああ」
 盃が差し出される。そのまま、星見を始めた当初からずっと変わらない、どうしようもなく静穏な時間が緩やかに流れていった。
 ただ消費されている酒量に関しては、星空か、まるでお互いの存在と交わす言葉が肴、と言わんばかりの勢いである。
「――まだ、大丈夫よね?」
 これまでで幾杯目と知れない盃を酒で埋め、不意に、左眼に憂いを乗せて茉莉が呟く。
 言葉の意味を重々承知している涼平は彼女の腰を抱き寄せ、静かに応える。
「……ああ、それについては大丈夫さ。僕も、君も、お互いの実家からは見つかってやしない。大体にして」途中、彼の表情に笑顔が混じった。「気付かれていたら、今頃こんなに長閑にはしてられないじゃないか」
 この言葉と表情に安堵を得たらしく、瞳から憂いを消した茉莉は額を涼平に軽く擦りつける。
「それもそうか。ふふ、頼りになる人で助かるわ」
「こらこらこら」
 茉莉のまるで猫の如きな態度に、盃の中身を一層揺らしながらも涼平は危なげなく維持する。そのまま喉を撫でれば音がしそうな茉莉は、笑顔を見せると涼平の手に自分の手を合わせ、盃を自分の口に引き寄せた。
「ん……――っふ」
 そして口をつけ、溜息のような余韻を残し、やはり一息で干す。
「……全く、どちらが年上だかなぁ」
「私でしょう? 坊・や。んふふふふー」
 言葉と一緒に顎先を指でなぞられて、涼平は軽めの溜息をつく。
「……あのね。たかが三つ上で、あまつさえ童顔気味の妻に坊や呼ばわりされるのは結構愉快じゃないんだけど」
「あら。あなたが年少さんの時、私は小学一年生よ? それに、比較も無く私が童顔だって分かるのは、今では妹以外にあなたくらいだし」
「そういう問題でなく――っと、と」
 一升瓶が傾いでいくのを見て、涼平は少し慌てて注ぎ口の先に盃を移動させた。小さな波紋を生み出しながら残り少ない中身が空になるまで注ぎ込まれた盃を、涼平はそれが当然だといわんばかりに一息で干す。
 涼平も茉莉も、それが礼儀であるとでも言うようにして、注がれた酒は迷う事無く一気に干していた。もしくはそういうルールなのかもしれない。
「全く、危ない――」「御注進ー、御注進ですよー」「――と。あの声は……」
 茉莉の暴挙に対する感想を述べきる前に、突然子供に似たやや舌足らずの声が非常階段側から響き渡った。二人は顔を見合わせた後、茉莉のみ表情に緊張を宿らせる。
「久々野さんか、こんばんは。一体何があったんですか」
 後方、〝立ち入り禁止〟の柵へ涼平が声を投げた。
「はいこんばんは、良い星空で。で、早速ですがね。外道の徒絡みの一大事なんですよ」
 返事と共にするりと柵の下を潜って現れたのは、雄らしき大きな体格の三毛猫である。その猫は猫科動物独特のしなやかな動きで小走りに涼平達に近付き、前まで回り込んで来るとぎりぎり手の届かない位置で行儀良く座った。
「外道の? ……まさかここが見つかったとか?」
 三毛猫に対して何の疑問も抱かず、緊張感の窺える表情になった茉莉が問いかける。かなりの酒量に頬が上気して日記帳が、視線や言葉に酔いは一切窺えなかった。
 すると猫は猫らしからぬ事に顔を横に振り、そして平然と猫の喉とざらついた舌を巧に使った独特な口調で返事をする。
「まぁっさかそんな、私が苦労して見つけたんですよ? ここは。あなた方が何かヘマをやらかさない限り後一年は余裕で大丈夫です。と、そんな事よりですけども事と次第によってはそれ以上にまずいかもしれないんですよこの大事は」
 饒舌である事に加えて更に驚くべき事には(ある意味納得できる事だが)この猫、見れば尾が二つあった。涼平に久々野さんと呼ばれたこの猫は、つまり立派な猫又なのだ。
「私達に関わらない外道の徒絡みだなんて、一体どんな?」
「いやまぁ外道の徒絡みといえばそうなんですけどね。そう……例えますと、蛞蝓が逆立ちした挙句駆けずり回るのと同じくらい危険な大事です」
「……分かるんだか分からないんだか。というより、それって危険かしら? 強いて言えば愉快な気がするわ」
 幾分か緊張感の消えた茉莉が呆れた風に言う。
 口を尖らせる彼女をまぁまぁ、と宥めながら涼平はその肩を数度撫でる。茉莉に対し、彼はまだ何となく酔いが窺える様子だった。
「では久々野さん、お願いします」
 育ち故か、涼平は久々野に対しても敬語を使う。久々野の方はそれが少々むず痒くもあったが、猫目も憚らない二人の様子も含め、諸々言っても無意味だと分かっている為に、縦長の瞳孔を軽く細くしただけで頷いた。
「分かりました。これは鳥獣情報網からここ何年かで拾い集めた情報の集積なんですけど、耳塚、立足、筑八幡宮、御法田のわさび畑からそれぞれ封印されていた遺骸が何者かに盗まれて、つい最近では常念岳に残っていた常念坊の庵跡も破壊されていたのが見つかったそうです。おまけに未だ全て未解決。私の見解としては、まぁ、同一犯と考えるのが当然でしょうな」
 畏怖の念も露に言った久々野の言は、外面上は変化しなかった涼平の手から盃を落とさせ、茉莉の左眼を驚きによって丸くさせる。
「……それって、つまり、誰かがかの鬼神を黄泉還らせようとしていると言う事?」
 どうにか一呼吸で自分を支配する感情を追い払った茉莉が、盃を拾いながら言った。そのまま盃は涼平の手へと戻される。
「でしょうな。誰かが誰とは分かりませんが、野に出回っている情報だけでしたら、条件は充分満たしてますし。後は遺骸を繋げて経過の観察絵日記をつける位でしょう」
「しかし鬼の遺骸はそれだけで充分に危険な代物。ましてや死後疫病を撒き散らした安曇野の大王ならば尚更だし、もしかしたら集めただけで復元しかねない」
 茶化した久々野に、彼からの情報で酔いなど消し飛んだ涼平は少し非難を込める。
「確かに、相手が相手。千年以上経っても油断は禁物という事ですな。ま、霊泉に浸かりさえすれば治るという時点でまだましですか。でしたらマスタードやら地下鉄やらで有名な人間謹製毒の方がよっぽど性質が悪い」
 危険な暗喩を平然と口にする久々野の言葉を特に気にもせず、ただむう、と顎に手をやって俯いた涼平は目線だけを久々野に向けて問いかける。
「ところで、遺骸の守護を担っていた氏族は無事なんですか? それと、対策を?」
 久々野は首を横に振った。
「さて、そういった部分まではとんと。なにせそれぞれの場所の者が騒いでいたのを勝手に私が聞き纏めた結果なものですから。ただ、広まっていない所を見るとどういう訳だか箝口令が敷かれているみたいですね。もっとも、私のように瑣末な事にも耳聡い者からすれば、まさに手遅れですが」
 考え込んでいるのか唸るような声で返事をした涼平の隣、茉莉が同情的な声をあげる。
「箝口して、以後なんら情報が流れないという事はまだ解決していない訳ね。相当に守護の方々もてこずっている様だけど……一体何がどうなっているのかしら」
「さて。まぁ外道の皆様方は、二十年前から陥った未曾有の人手不足から脱してませんからな。せめて同氏の手で取り返す事ができれば良さそうなものですが」
「それができれば一番ね。そうでなくとも、早く取り戻して貰わない事にはおちおち幸せに暮らせやしないし」
「左様ですか」
「……あのさ」
 花が咲きかけていた久々野と茉莉の会話に、考える内に俯いていた顔を上げた涼平はどこか遠慮がちに割り込みをかけた。
「なに?」
 振り返った茉莉に、涼平は言う。
「何か手伝えないかな、僕ら」
 この声自体は大きくなかったのだが、聞こえた言葉の意味を思い至るまで、茉莉も久々野もただ唖然と彼を見上げていた。
 ん? と状況に今気付いたように涼平が呟いたのと同じくして、理解に至った一人と一匹の顔に見る見る内に焦りが生まれる。
 瞬間、話題が完全に切り替わった。
「ち、ちょーっと待って下さいいやちょっとじゃ足りない物凄く待って下さいよ本当に全くいいですか? 何を今までの努力尽力血反吐に我慢、東奔西走九死に一生を軽々とあぶくにして弾けさせるような事を仰ってるんですか」
「そうよ涼平、全く持って完璧に久々野の言う通りだわ。いくら人手が足りなくても、あなたや私の他に、各家には充分な実力を持った者がちゃんと居るわ。 何もわざわざ危険を賭してまで手伝う必要なんて無いじゃない」
「えぇえぇ実に茉莉の言う通りですとも。何を思って必要の無い火中の栗に手を伸ばそうとなさるんですか……悪いとは言いませんし寧ろ心意気としては大変結構で御座いますけど、ご自分が置かれている状況をもう一度よぉっく考えて下さい、良ぉーく」
「本当に。それと、追っ手のかかってる身分でそんな真似をしても何もならない上に、いえ、ひょっとしたら罠の可能性も捨てきれないのよ? そうね、むしろここまで手の込んだ真似もやりかねないわ」
 久々野と茉莉の交互のまくし立てに、当の涼平は困ったような顔で頭を掻く。
「……いや、ええと、うん。どれもそうだけど」
「そうだと言うなら、何故?」
 き、と目線鋭く見上げ、茉莉は涼平に詰め寄った。彼女の視線に少しだけばつが悪そうにした後、涼平はその視線から逃れる事無く言葉を返す。
「んん、んー……えぇーと。関わるまいとは思っても、僕の性分や姓がそうさせるんだろうね。家は四天王筆頭でもあるし、千年は前から僕の氏族は鬼に関わりをもっていたから」
「……そりゃあ、渡辺はそういう家系なのかもしれないけど」
 納得したように目元を弛めた茉莉に涼平は頷いた。
 彼、涼平の姓は渡辺である。この渡辺は、遠くは源 頼光を頭とし、卜部 季武、碓井 貞光、坂田 金時らと共に四天王を名乗り勇名を馳せた渡辺 綱を系譜に持つ氏族で、今では全外道の徒中で最高の武芸の腕を誇っているのだ。
 先の言葉からも分かるとおり、涼平は自身の先達の偉業や、綱以外にも多数の者達が鬼との関わりを持っていた事から、渡辺の姓に使命感に似たものを感じていたのだろう。
「でも涼平。貴方には兄姉が四人もいる。親戚だって、それに残る三氏族も健在じゃない」
「それも、そうだね」
「だったら何も……」
 懇願めいた言い方を、涼平は優しく頷いて止めさせる。
「ああ、わざわざこの平穏な日々を砕く真似なんて望まないさ。だから、まぁ、その。さっきのは口が滑った事にして、綺麗に聞き流し忘れてくれると僕としては助かる」
 この涼平の言葉に久々野はほ、と息を吐き、「もう、よくもぬけぬけと」と茉莉は半分笑いながらも軽く怒ってみせた。彼女の言葉に釣られて涼平も微笑み、久々野も面白げに尾を振る。
「ところで久々野さん。僕等はもう暫く酒宴を続けようかと思いますけど、どうします?」
「そんなの、ご相伴に預かるに決まってるでしょう。飼われ猫にして情報収集担当の私がまさか断るとでも正気で思っているんですか」
 涼平の提案に、今一分からない理由を述べながら久々野は嬉々として腰を上げた。
 直後、涼平の腰に鋭い痛みが走る。何事かと思えば、二人きりを阻害された事に腹を立てた茉莉が、表情その他に何の変化も無いまま涼平の腰を捻り上げていたのだ。
「んん、ごめん。すまないね。悪気は無かったんだ」
 どうにか止めて貰おうと謝辞を並べ始めた涼平の視界の隅に、流れ星らしき線が映る。すぐにどうもそうらしいと判断し、夜空を見上げ指差した。
「あ、ほら。流れ」

――瞬間、世界が眩く一変した。

「ぼ…し……あー……あれ?」
 片腕を上げたまま、涼平は前触れも何も無く一変した視界を前に、言う予定の台詞を半端に残して動作を停止させる。尚、その点では捻るのも忘れて呆然としている茉莉も、口をあんぐりと開けてしきりに辺りを見回している久々野も大して差は無かった。
「ええと。どこだろうね、ここ」
 ゆっくり腕を下ろし、涼平は久々野に習って周囲を見回しながら凡庸な疑問を述べる。
「自然界じゃぁありえませんよこんな所は」
 返事をしたのは久々野だ。首を動かすのを止めた彼は、人間なら大いに肩を竦めたであろう言い草で尾を振っている。
「確かに、そう……よね」
 どうにか我を取り戻した茉莉も、涼平から離れていつでも動けるような体勢を取りつつ、不安気に久々野の意見に賛成した。
 今涼平達がいるのは、玉砂利を敷き詰めた道の上。後ろに行けば生垣に当たって二つに分かれており、真っ直ぐ行けば和風建築の大きな門が見える。道の左右には赤く燃える篝火が等間隔で点々と配置され、それが道と周囲を赤く照らし上げていた。
 既に屋上でない時点で大問題だが、それ以上に異常なのは、右方では様々な木々が緑々と生い茂って生命の赴くままに伸びているのに対し、左方では緑が減った代わりに朱色や黄色といった様々な色が茂り、近付く生の収束へ向けて自重するように伸びている事だろう。
 早い話が、道一つ挟んだ如きで夏と秋の森が同居しているのだ。一応上空は星空が広がっているものの、久々野の言った通り自然界には在り得ない、まるで自然を小馬鹿にしたような空間である。
「んんっ……驚いた。本物だよこの玉砂利。てっきり別物か何かかと思っていたけど。これは……へぇ、凄いな」
 手を伸ばし白く滑らかな石を取った涼平は、それを握り締めた後何か納得しながら素直に驚いていた。やはり口ほどに驚いては見えないのだが。
「なら本当にここにいるって事ですか。……うわぁ、でしたらどうやって帰れと? 空模様に変わりが無いのが一応安心ですけれど、でも困ってしまいますよ。式でも打ちますか? それとも気の触れた自然を散策してみますか? そうすると雪の中向日葵が咲いているのを目撃するかもしれませんねこの調子だとああだとすれば正常な認識能力が悲鳴をきぃきぃあげてこれが実に喧しくてもう頭が割れそうっていうかそもそもこの三年碌な事がありませんでしたがとうとうこんな事態に直面するだなんて一体誰に損害賠償や損失補填を求めたら良いやら悪いやら」
 錯乱が窺える久々野は、かなり必死の様子で決壊したダムのように言葉の奔流を止め処なく垂れ流している。普段は人を食った態度で生きているこの猫がこんな有様になったものだから、それが涼平達には滑稽に映り、結果猫一匹を置いて人間二人はすっかり冷静になっていた。
「え、と。……さて。それじゃあどうしようか?」
「周囲には何もいないみたいだから……取り敢えず片付けましょうか?」
 辺りを充分に窺い、大丈夫だろうと判断した茉莉はちょちょいとシートや空瓶、自分の持つ瓶を指差す。
「そうだね。見た所全部こっちに来てるみたいだし」
 そう言って、涼平は立ち上がる。背と腕を真っ直ぐに軽く伸びをした涼平は、座っていた時は分からなかったが結構上背があった。百八十は固い背丈に肩幅も見合う分は有るが、座っていた時の印象通り肉厚という程肉付きがいい訳ではない。
「――するとここはやはり世界を巻き戻す禁忌のげっ」
 脇では壊れた音声出力機と化した久々野を正気にしようと茉莉が彼に拳骨を飛ばした気配を感じながら、涼平はシート脇の黒い革靴に足を入れる。
 外見上は革靴と判断できても、会社や学校に履いていくような普通の代物ではない。内側に特殊硬化鋼板の仕込まれた物で、どちらかといえば平和なアスファルト上よりも、地雷原を闊歩するのが相応しい超頑強な仕様である。
 涼平が歩き出すために一歩を上げようとした足の隣、もう一組の似たような靴があった。こちらもまた相応の丈夫さを持ち合わせているようで、比べるまでも無く小さいサイズと小洒落た女性向のデザインから、茉莉の靴であると容易に判断できる。
 踵より先に人差し指を靴に入れて靴べらの代わりとしている隣では、手の届く範囲にある酒瓶を集めた茉莉がゆらりと立ち上がっていた。何かの手本のように姿勢正しい彼女は、百七十一という背丈も手伝って、格好の良い凛とした雰囲気を感じさせる。
「んー……っふ、と。じゃあ、やりましょうか」
 後ろ手に組んだ腕を引っ張って伸びをした彼女は、そうした事で自身の起伏に乏しい体形を無意識に強調させた後、酒瓶達を抱えてクーラーボックスの蓋を開けようと屈み込む。
「うん、そうだね」
 涼平は茉莉の手の届かなかった位置にある瓶を一本拾い、手際良くボックスに瓶を詰める彼女の脇からそれを入れる。
 茉莉に殴られた事によって強引に正気を取り戻させられた久々野は、夫婦の行動の様を眺めた後、仕返しの意も含め呆れたように呟く。
「今夜もまた結構な量を呑んだようですね。……つまみも無しに」
「酒だけでも充分楽しめるわよ?」
「左様で」
 理解できない、と言う風に耳を伏せた久々野に不満気な視線を送った後、茉莉は瓶が全て納まったのを確認し、手早く靴を履くとシートを挟んで涼平の反対側に立った。
「そっち、抓んでくれる?」
「分かった」
 二人はそれぞれシートの端々を手にし、共同で折り畳む。何度か繰り返し、随分小さくなったそれを茉莉がクーラーボックスに放り込むと、その反動で蓋が閉じた。
「よしと」
 膝を伸ばしたまま体の柔らかさが窺える動きでボックスの紐を手にした茉莉は、それを右手で巻き取りながら涼平を振り返る。
「……まだ何も起こらない、か」
「そうね。一体何が目的なのかしら? 待ってくれている筈が無いと思うけど」
 涼平の疑問に同意した後、茉莉は根元少し前まで巻き取った紐を掴み直すと、腕のみの力でクーラーボックスを一気に肩に担いだ。如何に中身が空瓶のみとはいえ、女性の細腕には結構重い筈のクーラーボックスが、何故かとても軽そうに見える光景である。
 そんな茉莉の動作に気を止める事無く、涼平は腕を組んだ。
「んん、じゃあ少し……推測からの仮説を披露していいかな」
 この言葉に茉莉と久々野は顔を見合わせ、それから茉莉が頷いて先を促した。
「僕等はここへ連れて来させられた訳だけど、その割に脅す訳でも賺す訳でもない。でも今足元に敷き詰められている玉砂利は本物だし、夏の匂いも秋の匂いもそれぞれ本物だ」
 聴衆から頷きが返されるのを確認し、涼平は続ける。
「当然こんな所は自然には存在しない。となれば、何者かによって手を加えられていると考えるのが妥当だし、ひょっとしたら一から創ったのかもしれない」
「そんな馬鹿な」
 涼平の考えを、久々野が声をあげて否定した。見れば茉莉も同様の意見を視線に載せて、涼平の反論を待っている。
「確かに僕もそう思う。だけどそうじゃないとこの場の説明がつかない。例え、代々築いてきた僕等外道の技術がここまでの域に達していなくても――あ、そうだ茉莉。試しに……どれでもいいか。木を燃やしてみてくれないかい? 僕の予想通りなら多分無意味だけど」
「焼くの?」
「ああ。烈火の意からなる術法で思いっきりやっていいよ。得意だろう?」
 笑顔の頷きに、茉莉は躊躇無く左掌を夏の大木の一本へ向けた。と同時に厳粛な面持ちとなり、不可視の力の流れ――魔力が彼女の全身から左掌へと集結していく。
「〝我が手に宿れ、烈火の礎たる真紅の彩〟」
 八意の内から火を現す意が練られ、左掌に集まった魔力が目に鮮やかな真紅に染まる。
「〝彩より火よ熾れ、長じて炎と成り焔と化し〟」
 火術の詞が施されて凝縮された魔力が目に見える形、この場合は空気中で燃え盛る大きな火炎となって現れる。
「〝燃え行け、焼夷〟」
 そして茉莉が言い切ると共に、人一人なら軽く燃やし尽くせそうな炎の塊は、バネ仕掛けのように勢い良く掌から跳び出した。
 炎の塊は空気を焦がす匂いと共に大木へと一直線に突き進み、着木。即座にそこらの篝火など比較にもならない盛大な大火を発生させる。
 旺盛な食欲で酸素を喰らいながら大木を炭化させていくかに見えた大火だが、大木上に一通り炎を走らせただけで呆気なく消えてしまう。しかも大木は葉の一枚に至るまで何事も無かったように無傷だった。
「……あら? おかしいわね」
 不発の花火を不審がるように炎を打ち出した自分の掌と大木を交互に見ながら、茉莉は訝しげに呟く。幾ら涼平の予想通りの結果だとしても、ただ意識で念じるだけで良い所を、律儀に声に出して詠唱までした自分の術法が通用しない理由が、すぐに出てこないのだ。
「耐火性にとても優れた樹木だとかいうオチは聞きませんよ?」
「かもしれないね。でも多分そうじゃない筈。だから茉莉、今度は本気で焼いてみてくれないか。辺り一帯を焼き尽くすつもりで」
 久々野に応え、涼平は更に一段階上の言葉を茉莉に向ける。
「焼き尽くす?」
 火の海でも造るの? それって大丈夫? の言葉が聞こえてきそうな目で茉莉は涼平を見るが、先程と同じ調子で彼が頷くのを見て再び左掌を大木へ向けた。
「……本当にいいの? というよりも、本当にこうする事で貴方の仮説が成り立つの?」
 法は術とは桁違いの大威力なため踏ん切りが付かないのか、不安気に言う。
「成り立つとも。僕らの心配ならしなくていいよ? 知っての通り渡辺は宵月ほど多岐に渡って外道の技術に長けていないけど、術法の作用を抑える事に関しては突出しているから」
 これから起こるであろう事態を知りながら動じずに応え、涼平はひょいと久々野を抱きかかえた。それから奮起を促すようにおどけて片目を閉じる。
 飼い猫で雄とはいえ、久々野が涼平の腕の中に収まるのを見て茉莉は面白くないと思い、同時に自分の独占欲の強さに呆れながらも、涼平のウインクの前には全てがどうでもよくなっていた。
 ――こうなったらこの場がどうなろうと知った事ではない、という程度に。
 瞬時に先程とは桁違いの魔力が茉莉の全身を駆け巡り、施すべき詞を唱える前からその流れを真紅として茉莉の表面上に浮かび上がらせる。淡く輝く真紅は爪先から頭頂、右手の指先から左手の指先まで全身くまなくを毛細血管の如く微細な線で結び、流れが集結し凝縮されている左掌は、眩しいほどの赤光を放っていた。
 まるで炎神のような紅の神々しさを纏った茉莉は、一つ静かに呼吸をした後、同様に、だが一層の威力がある詞を紡ぎ始める。
「〝猛り盛り我が掌中に集え、煌々たる烈火が紅蓮、万物に灰燼を齎す燎原の劫火よ〟」
 詞に呼応するように全身の淡い輝きが煌きを増し、熱波が周囲に吹き荒れ始めた。
「〝舞い躍れ灼熱よ、巻き起これ猛火の海たる焦熱よ、獄火で以って全てを焦がせ〟」
 熱風に目を細めながら、涼平は妻が起こそうとしているのが丁寧にも最上位の烈火なのだという事を、詞と起こりつつある現象から察知する。
「……く、となるとこれは流石に」
「死にますってこのままでは」
「ですね」
 茉莉の詞が進むに連れて熱風では済まなくなってきた事態を前に、久々野の文句を聞きながら涼平は右手の人差し指と中指を並べて伸ばし、他の指は折り畳んで刀印を結ぶと、地から天を刀印で示す。すると足元から無色八筋の冷気が螺旋を描いて立ち昇り、涼平と久々野を熱から護る障壁となった。
 涼平と久々野がほぅと人心地をつけた時、茉莉の詞は最後の一句を迎えている。
「〝大地全てを焦土とし、我が意は全てを焼き尽くさん――舐めよ、八俣遠呂知〟」
 途端、どれほどの密度で凝縮されていたのか分からないほどの炎が茉莉の左掌より爆誕し、茉莉の視界全てを炎で埋めた後、八筋に太く枝分かれした炎はさながら火炎龍の様に見境無く犠牲者を求めて暴れ回る。この火炎龍によって篝火の幾つかは一瞬で吹き飛ばされ、夏の森も秋の森も一瞬に大火災の餌食となった。
「うわーわーひょー、一大スペクタクルが周囲全体で展開中ですよーってかいいんですかこんな地獄を招くような事をしてー?」
 轟音と共に周囲を火の海に変えている景色を眺め、冷気越しに全く平静な空間を維持する涼平は、抱える久々野の無邪気な言葉に頷いてみせる。
「大丈夫。僕の予想通りなら、これだけやっても焦げ目一つ残らないさ」
「そういうのが付くような物が残らないからとか言うんじゃないでしょうね?」
「そう思う?」
「可能性はあるでしょう」
「ま、可能性はあるだろうね」
「引っかかるなぁ――って、うわ、あれはまずいんじゃないですか」
「ん、大丈夫大丈夫」
 久々野の言葉に首を傾け、龍の首が一つ自分のいる所へ向かって来るのを見ても眉一つ動かさず、涼平は再び刀印を勢い良く地から天へ向けて螺旋の数を一挙六十四倍の五百十二に増やし、そのまま泰然として動かない。
 左手に久々野が身を竦ませる手応えがあったが、結局そのまま二者は龍に呑まれてしまう。だが長く続く炎の身が通り抜けた時、何も変わらない様子で涼平は久々野を抱えて立っていた。
「驚いた?」
 固くなっている久々野を揺さぶって、涼平は彼に火炎龍を完全に防ぎきった事を報せる。久々野は自分が無事なのが信じられないような目をして、深く息を吐いた。
「さも当然のように鱗粉まみれの毒蛾を山盛りで餌として出されたのと同じくらいは」
「それは凄い」
 久々野の涼平を見上げる眼差しに呆れが込められる。
「……これで私は一つの確信を再認識しましたよ」
「どんな?」
「私の飼い主は揃って人間離れが甚だし過ぎているという事です。いくら外道とはいえ、これ程できる人間は実に少ない。未だに龍は燃えているし、その龍からこの五百十二の螺旋は我々を護っている。どちらも例え外道であっても、おいそれとできるようなことじゃありませんよ」
 この言葉に、涼平は軽く周囲を見回した。確かに外道の技術とされ、特に常人に知らしめてはならない禁忌の技術として相応しい惨事がまだ続いている。
「ああ……成る程ね」
 だがこれこそが、人が進化の過程で捨てた技術、科学をして未だ到達する事のできない霊長の真の領域なのだと涼平は思う。
 現代を生きる人類の内、術法に関する技術は泡沫の夢、幻か果ては妄想として扱われている。遥か過去であれば、陰陽師が政府の官職として大宝律令に記されている事からも分かる通り、確固たる知名度と正確な認識が成されていたというのに、だ。
 それはやはり昔から術法関連の技術が、努力すれば必ず極められるようなものではない事に原因があるし、またその存在を少しでも疑っていると行使できない事もそうだろう。つまりは素養と、強固な意志の二つが合わさって初めて行使できるのだ。
 この選民性が、現代の万民に受け入れられる科学寄り進化の過程で忘れ去られる要因なのだし、術法を使う者達をしても外道の技術と呼ばれる所以だろう。
 一応、現在では過去のように様々な技術――密教の咒法、修験道の験力、陰陽道の陰陽術等々――を無頓着且つ無節操に用いる事はせず、改めて検証研究取捨封印し、四気や八意といった分類に再編纂した結果、難易度ばかりが先行していた修得の敷居がある程度下がって日記帳のだが。
「――そろそろか」
 火炎龍が勢いを失い大人しくなっていくのを見て、涼平は天を突いていた刀印を下ろす。茉莉が行使していた烈火の術法、〝八俣遠呂知〟も、彼が行使した護りの術法〝鎮護螺旋〟も、その分野ではそれぞれ最高位に位置する技術である。久々野の言葉通り、例え外道の徒であってもそう無造作に――特に前者は――行使できるものではない。
 炎が衰えるのに合わせて螺旋の数が減っていき、螺旋が全て消えた頃には膝に手を付いて肩で息をする茉莉を見る事ができた。起こった現象からすれば無事なのが奇跡に見えるクーラーボックスは、既に肩から落ちて玉砂利の上に転がっている。
「相変わらず流石だね。何の前準備も触媒も無く、ただ自己のみの力を詠唱によって高めただけで、八俣遠呂知を発動させるなんて」
 あれだけの猛火に晒されて焦げ目一つ無い玉砂利に久々野を下ろして、数回の拍手と共に、涼平は目も開けられない程消耗している茉莉に近付く。
 玉砂利に肉球を付けた久々野は、最初の時同様の少しひんやりした感触に思い切り首を傾げていた。地獄を思い起こすのに充分な劫火の後、すぐさま冷まされたというのだろうか。
「……もう、気軽に……言う、わね」
 言葉一つままならない風に茉莉は返事をする。傍に立った涼平の手が肩に乗っても、荒い呼吸に変わりは無く、倒れるまで走った後の精根果てた様子に良く似ていた。
「螺旋を五百十二も創ったのは久し振りだ。並の術法なら百二十八もあれば足りるのにね」
「ふふ、ふ、それでも、完全に減衰しきっちゃうんだから。あなたには、嫌になるな、もう」
「それ程でも。それに僕の予想通り、この地を焼く事はできなかったし」
「嘘っ!?」
 涼平の言葉に茉莉は上体を跳ね上げて瞼を開き、視界に映る映像に炎の跡が何も見られない事から、愕然とへたり込んでしまう。篝火の幾つかは明らかに破壊された筈なのに、どれも健在で何事も無かったかの様に炎の明かりで周囲を照らしていた。
「これではっきりした」
「……私にも、涼平の言いたい事が、何なのか分かったわ」
 確信に満ちた飼い主二人の言葉に、久々野は訳が分からないという目で涼平を見る。
「何がはっきりしたんです?」
 すると涼平は久々野の方を向き、静かに応えた。
「この場一帯は、自然界ではなく全て何らかの技術によるものです。それも、現在体系化された外道の徒の技術の全てより、更に上の段階によるもの。即ち創造の領域の現象です」
「創造ですと! それはそれはまたとんでもない超々高等技術じゃないですか。それもこんな立派な……」
「ええ。外道の徒でもその域に到達した者は古今にただ一人。もっともその方は今国内にいませんし、あの方の行動原理を考えても根本的に理由が無いから違うでしょうが。ただ、僕が握り潰した筈の玉砂利が手の中で再生したという事実や、茉莉の遠呂知を受けても尚瞬時に修復された景観が、この場が創造によるものである事を如実に物語っています」
 創造とは字のままの技術であり、無から新しい領域や世界そのものを生み出す技術である。
 仙術の具現化と同様創るのも維持するのも困難を極めるが、創造時の状態を維持するための強力な修復力を持ち、完全にものにしてしまえば神の領域に踏み込んだといっても過言ではない超技術なのだ。
「つまりここは、それだけの超高等技術を操る何者かの領域と言う事ね」
 ようやく呼吸が整い、汗にまみれていた身体を簡単な術によって清潔にした茉莉は、立ち上がってクーラーボックスを再び肩に担ぐ。その表情には久々野同様少なからぬ緊張があった。
「そう言う事になるか」
 だが涼平は涼しく答え、明らかに他二名と反応の差で浮いている。
「……ところで茉莉。一見大丈夫そうだけど本当に大丈夫?」
「え? ええと、正直まだかなり辛いけど、でも今はそれどころ――ん」
「うひゃあ」
 茉莉の言葉の途中、滑るように彼女との距離を詰めた涼平は、そのまま澱みの無い動きで彼女の腰に手を回し顎を上げさせると、何の躊躇も無く唇を塞いだのだ。唐突な口づけに久々野の叫びと大差ない表情をした茉莉だが、口づけが深まるにつれて目許が徐々に夢見心地となり、最終的に閉じられる。
 こうする事の真意を知りながらも、呆れかえった目をした久々野は済むまでの時間を適当な毛繕いで潰そうと考えた。
 きっかり六分後。名残を惜しむような茉莉の表情を見ながら、口づけを止めた涼平はやや幸福さが加味された笑顔で半歩下がる。足音を聞きつけて久々野は毛繕いを中断した。
「回復は済みましたかね」
「房中に比べると効率悪いしそれ程でもないけどね。でももう大丈夫だろう?」
 前半は久々野への応え、後半は茉莉の肩に手を置きながらの問いかけ。
「……はい」
 薄く頬を染めた茉莉は別人に見える淑やかさで応え、半歩の距離をそっと埋めて涼平に寄り添う。そのあまりの豹変振りに、久々野はうんざりした目で玉砂利に視線を落とした。
「さて、ではこれからどうしようか」
 そして涼平が言い、それぞれがそれぞれなりに方策を考え始めたその時だ。
 まるで何者かが来いと言っているかのように、大きな門へ続く方の篝火の色が蒼白く――狐火か鬼火のように――変化したのである。事態の急変を受けて表情に緊張を取り戻した茉莉は、お互いの行動に邪魔にならない距離を涼平との間に素早く開けている。
 当の涼平はやや残念そうに、さてどうしたものかと頭を掻いていた。
「んん、これは随分と露骨な。しかし、僕としては誘いに乗るのがいいと思うんだけど」
「俗に言う一択という奴ですな。……そもそも帰り方が分かりませんし」
「丸腰なのが不安だけど、仕方ないわね」
 間もなく一致の意見となり、軽く目配せを繰り返した後、涼平を先頭に門へ向かって歩き始める。それを追った久々野は早々に涼平を追い越し、茉莉はといえば、四歩目を行く途中で涼平の背にぶつかってしまった。
「……なんで立ち止まってるの」
 硬い肩に唇を埋めたまま、下がる事もせずもごもごと言った茉莉に、立ち止まっていた涼平は一歩進んで振り返る。
「ボックス持とうかな、と思って。それでちょっとの間躊躇してたら、すぐに茉莉がぶつかってきた」
「成る程。でも行きはあなたが担いできたんだし、今は私が持って然るべきじゃない? 第一これ重くないし」
 言葉通り、茉莉の態度は重い物を持っているとは全く思えない。重心が少しばかり右に寄っている以外は、背筋も伸びて普通に立っているのだ。
「……そーいう事でしたら」
 応え、今度は立ち止まる事なく涼平は歩き出した。
 静かな歩みの背を見つめ、茉莉は少し間を置いてから彼を追い始める。相変わらず背を見つめる彼女の表情には何故か小さな迷いがあったが、軽く首を振ってそれを追い払うと、茉莉は小声を発した。
「でも、ありがとうね」
 どうやら一度は突っぱねた内容に対してであるので、礼を言うか言うまいかで悩んでいたらしい。
 両者共に無言で十歩が過ぎ、そうしてやっと涼平の方から返事があった。
「どういたしまして」
 間があり、さほど気も無く振り返らずの応答である。が、この言葉によって二人の口許は柔らかに綻んだ。
「あーあーあーあー、仲の宜しい事で全く素晴らしい」
 先行し座って経緯を眺めていた久々野が冷やかす風に言い、照れ隠しか茉莉が空いた方の手で殴るような仕草をした。すると久々野はそれを大袈裟に飛び退いて躱す。これがおかしくておかしくて、涼平は肩を揺すって笑いを噛み殺した。
 こういったあまり緊張感の無い状態で進んだ結果、あっさりと門の前まで辿り着く。
 近付いて見上げれば相応の威容である門を前に、いきなり押していいものかそもそも開くのかと涼平が思考を巡らせると、軋む音一つ無く勝手に門が開いていった。
「これは随分と、豪勢な自動ドア……」
 とても自動化された設備には見えないが、自分以外の緊張をほぐそうと涼平は馬鹿な事を一つ言ってから足を踏み入れる。何の返事も無かった所からすると、あまり効果は無かったようだが。
「これは……また、豪華な」
 数歩踏み入って広がる景色に思わず立ち止まりそうになるのを我慢し、涼平は門の中の景色に目を細める。
「何とまあ」
「本当に、凄い所ね」
 門扉を抜けた全員が、門の外の自然を無視した景色の次に目に入った世界に、単調な感想しか言えなかった。
 何しろ何もかもが違いすぎる。まず足元だが、門の内側から黄金になっているのだ。輝くばかり――いや、実際に輝いている光沢や、硬くなりきれていない質感が涼平達にそれと確信させる。
 つまり玉砂利の道の次は黄金の道で、結構な距離を行き着く先に、歴史を感じさせる武家屋敷の玄関があった。
 そして周囲の庭の景観は更に常識外れなのだ。銀、瑠璃、玻璃、シャコ、珊瑚、琥珀の六宝で創られた木々が煌びやかに整然と立し、六宝の輝きで満たされた池があり、黄金の道からそれた地面ですら六宝で彩られている。
 涼平達の周囲は、道を含め極楽を飾る七宝に囲まれていた。そしてこの七宝の一つ一つが目に痛くない程度に輝いており、門の内側には篝火が一切設けられていない。
「これは……ああ、成る程。どうりで覚えがある訳だ。大阿弥陀経版だね、この七宝。……すると、あまり考えたくは無いんだけど……まさか、ねぇ?」
「違うでしょ? でも考えたくないわね。……うん。ちっとも」
「感覚があるからそうではないと信じたいんですが……これはどうも、嫌な予感を禁じ得ませんよ。……あくまで予感ですよ?」
 立ち止まった三者の脳裏を過ぎったのは、何かの原因によって自分達が突然死んでしまったのではないか、という事だ。確かに突然こんな所に来てしまうと、そう疑いたくもなる。
「……でも、もしそうなら随分悪趣味な所ね」
 強がりも含んだか、周囲に対して茉莉は軽く鼻で嗤う感想をしてのけた。
 だが彼女の言葉もある種もっとも。もし浄土だというなら、こう華美である必要性が感じられないからである。それどころか、ここは宝石の類に執着がある者なら目を剥いたまま気絶しかねないし、輝きに埋もれて恍惚に満たされたまま餓死しかねない。
 咎人を罠に誘う地獄に見える程、それだけ周囲は魔的なまでに美しかった。いや、もしかしたら創造した者の趣味で、極楽を馬鹿にしているのかもしれない。
「言われてみれば。確かにこれでは死後の情緒も何もあったものじゃない。極楽というかあの世というのはもっと、こう、えぇー……見た事は勿論ありませんけど穏やかな所でしょうに」
 鼻をひくつかせてそこかしこの匂いを嗅ぎながら、久々野が同意した。
「ともあれ、屋敷に行くしかないようだね」
 ひょいと手を上げ、涼平の屋敷の玄関を指差す言葉に従い、三者は見晴らしの良い周囲を警戒しながら、宝石の輝きに目も眩むような前庭を進んでいく。
 途中、後十歩程度で玄関に手が届くという所で玄関の方が勝手に開いた。
 戸の向こうから発せられる圧倒的な存在感が、涼平に自然と茉莉と久々野を自分の背に庇うように促させる。そして視線の先でぬぅ、と現れたのは、やけに眼光の鋭さが目立つ、二メートル半くらいは軽くあるんじゃないかという体格の大男だ。そんなサイズの物をどこで手に入れたのか、品のいい三つ揃えの背広を着込んでいて、これがまたやけに似合っていた。
 大男は涼平達を視界に納めるなり、見て分かる程ああしまったという顔をして、それからその表情を取り繕うように破顔一笑する。
「やあやあ、勝手に呼び出しておいて迎えもせずに失礼、諸君。まずは光輪車へようこそ! だが君等もこちらの了解無しにあれだけの真似をした訳だから、つまり相子だろうかな?」
 腕を大きく広げて(彼的には普通だろうが、涼平達からすれば無闇に広い)大男は妙に高揚した感じの大声で一気に言うと、十歩の距離を四歩で歩き、涼平達の前に聳え立った。
「まずは自己紹介をさせて貰う。我が名は逸隼丸。問答無用にその通りで呼べ」
 思わず半歩後退っていた涼平達を気にもせず、逸隼丸は言葉を続ける。高揚している印象を受ける口調が変わらないところからすると、どうやら地のようだ。
「次に、呼び立てた用件だがな、何、単純明朗たった一つ。鎮護譜は宵月の力を借りたいというだけだ」
 こちらの様子など一切お構いなく話を進めていく逸隼丸を眺めていた涼平達だが、鎮護譜や宵月の名が出ると流石に聞き流す訳にもいかない。常人が知る由もない事だし、彼の背丈からして充分それ以外であることも在り得るのだ。
 というか、創造の件も含めて状況判断に任せてしまえば、人間である事の方が絶対におかしいと言い切れた。
「あの、逸隼丸……さん?」
「何かな?」
 身長差的に子供に戻った気分を味わいながら涼平が声をかけると、逸隼丸は大人が子供の疑問を聞く時の様に首を傾げた。
「どこで鎮護譜の名を」
 すると逸隼丸は両手を左右に振る。
「ああ、いや、いや。我は何を聞かれても答える権限を持っておらんから、如何に我の知りうる答えへの疑問を投げようと無駄なのだ」
「……そうなんですか?」
「そうだとも。何なら試しに何か聞いてみるか? 答えはしないぞ。それにどうせ後で全てを知る機会がある。それまで取っておけ」
 何故か威張っている風に逸隼丸は腰に手を当てる。この考えられないくらい自信に満ち溢れた逸隼丸の態度に、涼平は何が聞きたかったのかを失念してしまっていた。何か無いかと肩越しに茉莉達を振り返るが、茉莉は力なく首を横に振り、久々野はそもそも逸隼丸の非常識なまでの存在感にあてられたのか呆然として動かない。
 視線を戻した涼平は、苦笑いをするしかなかった。
「……えー、と。……そこまで仰るんなら、止めときます」
「そうかそうかそれが良い、我等は嘘を吐かんからな。それに時間の無駄は全ての大敵である。ところで用が有るのはそこの宵月だけなのだが……お前もそこの猫又もついて来る気か」
「妻だけを先に行かせる訳にはいきませんし、苦楽を共にしてきた久々野さんだけを置いて行くのもあまりに薄情ですから」
 この涼平の応えを受けて、逸隼丸は双眸を丸くする。
「今妻と言ったか」
「言いましたが」
「……夫婦だったのか」
「ええ」
「そうか。成る程……ふむ。ならば仕方ない。では猫又共々四の五の言わずに着いて来い。気高く賢く美しい我が主に会わせよう」
 こちらの返事を聞く前に逸隼丸は踵を返し、地響きがしても不思議ではない巨躯を不思議と人並み程度の音で操って、あっという間に玄関まで戻って行っている。
 何とも強引で、実に自己中心的で、しかもそれ等をさも当然の如く立ち振る舞いに混ぜてくるものだから、涼平達が逸隼丸に対しそういった感想を抱くのに随分時間がかかっていた。
 無意識の内に彼の言葉に従って玄関に歩いている事に歩き出してから全員が気付き、それぞれが神妙な面持ち及び目付きで視線を交わし合う。
 もっとも、この行為は困惑や疑問を交換しただけに終わり、残念な事に、主とやらに会わなければ何も分かりそうに無いというのが結論だった。
 そして、付いて来ているのが当然だと言わんばかりに振り返りもしない逸隼丸を追い、玄関に足を踏み入れる。
 一瞬だけ涼平達の身に信じ難い程の威圧感が与えられたが、それへの反応をする前に霧消したため、結局丑三つ時の霊地に足を踏み入れるのと同程度の違和感しか覚えなかった。


「……うぅ、凄いなぁ」
 肩を落とした茉莉がぼそりと呟く。
 逸隼丸を追って外観以上に広く天井の高い屋敷内を長々と歩き続け、迷路といって差し支えのない道順を覚えるのも面倒になった頃の一言である。
 夜の上光が入らない程閉め切られた空間なのだが、かなり明るい鬼火が常夜灯のようにぽつぽつと漂っている部分があるので、視界には特に苦労しない。何せその灯りだけで、廊下の板材が光を映し滑りそうなほど輝いているのが分かるのだ。どんな者達がこの屋敷の清掃を任されているのかはともかく、家事万般に関し人並みに自信を持っていた茉莉は肩を落としていた。
「……気にしなくていいと思うよ?」
 優しい言葉と共に彼女の肩に涼平の手が乗せられる。この場合、どちらかといえばその言葉に反感を覚えなくも無かったが、茉莉は頷いて涼平の優しさに応えた。
 ちなみにクーラーボックスは涼平の肩に渡っている。二人による道中のちょっとしたやり取りの後、グーの涼平がチョキの茉莉から受け取っていたのだ。
「さてここだ」
 涼平にとっても茉莉にとっても、今まで目にしてきた中で最も細工や画法に手間をかけられた襖の前で、道中無言だった逸隼丸が軽く振り返るなり久し振りに口を開いた。そして襖を左右に開くと、襖の向こうから威圧感がまるで突風のように涼平達に吹き付ける。
「な、」
「……おや?」
 思わず茉莉が身構えたが、次の涼平の言葉が発せられた頃には、威圧感は何事も無かったかの様に消えていた。
「どうしたかね?」
 襖から手を離し、涼平達に体半分向けた逸隼丸が不思議そうに言ってくる。彼の口調に極僅かだが笑みがあった事を、涼平は聞き逃さなかった。……かといって、その点を今言及しても全く利点は感じられない。
「いえ、荷物が妻に当たってしまいまして」
「そうか。粗相の無いようにな」
 短く言い、逸隼丸はさっさと中に入っていく。彼の歩幅等が充分分かっている涼平達は慌てて彼の背を追い、畳が延々と続く広間に踏み入った。
 この広間は広間で、屋敷の周囲の景色や前庭の隔世的な景観に全く引けを取っていない。
 天井から不規則に吊るされた小皿の上で蒼白い炎が揺らめき、その光は拡散するに連れて蒼の色合いが強くなるものらしかった。おかげで、広間内の天井、壁、襖に描かれた様々な金銀細工が、まともな光の下で見るより一層美しく妖しく映えているのだ。
「……どこかの美術館に、こんな効果の所無かったっけ」
 顔の正面の位置にあった炎を軽く躱しながら、涼平は茉莉に小声で聞く。
「あったような気がするけど……行った覚えは無いわ」
 応えた後、茉莉の顔に少し負の感情が浮かんだ。それを敏感に察知し、涼平はすぐさま口を開く。
「そっか。じゃあテレビか何かで見ただけかもしれないね」
 あくまで彼女の変化には気付いていない風に。すると呆気無いくらいに茉莉は表情を戻し、僅かに微笑みすら浮かべて「そうね」と応えた。
 ある種どちらが日頃優位に立っているかが手に取るように分かるこのやり取りに、足元で久々野の溜息が響いたのは気のせいではないだろう。
 そうこうしている内に、また襖に行き当たった。はじめの物以上に、絢爛な細工が施されている。
「この先に、我が主が坐す。今までのように落ち着き無く過ごそうとは思わぬ事だ」
 今度は振り返りもしないまま、逸隼丸は重そうな襖を開く。
「あっ」
 途端、中からそんな声がして、たつんとんかつ、からっころっころっと軽い音を立てて何かが転がって来る。
 逸隼丸の背で襖の向こうは良く窺えなかったが、彼と襖の隙間からどうにか蛤大の、だがアサリに似た貝殻が転がって来るのが見えた。
「ん? あれは……」そう涼平が言いかけ、「貝?」茉莉が疑問の形で締める。
「連れて参りました」
 熟練の家令のように口調と態度を改めた逸隼丸は、足元まで来た貝殻を拾い上げた。続いて数歩進んで身体をずらし、二人と一匹を自分の主に見せる。
「ご苦労」
 簡潔な一言を受けた逸隼丸は、涼平達が踏み込んだのを確認して襖を閉じた。
 その後畳上散乱している貝殻に少し躊躇し、それらを踏まないよう複雑なルートを辿り、上座側の右翼へ移動して腰を下ろした。
 彼が移動したのに併せて、涼平達は各方面へと視線を飛ばす。
 先程と違って白色を発する鬼火によって灯りを得ているという以外、まるで時代劇を彷彿とさせる空間が広がっていた。畳四畳の間を置いた先は一段上がっており、その右翼に逸隼丸、左翼には平安絵巻から抜け出したかのような装いの女性。そして段上の真ん中では、一際綺麗で凄まじい程の存在感のある少女が、左手に貝殻の欠片を持って座っていた。
 同性でありながら茉莉が少女に陶然と目を奪われるが、隣の涼平は少女や平安貴族的な格好の女性からすぐに視線を周囲に散らばる貝殻に向けている。
 二つに断たれているそれ等貝殻の内側には、絵が描かれていたり、何かの句が書かれていたりしていたため、どうやら彼女達が貝合わせという遊びに興じていた事が知れた。
「まぁ、突っ立っておらずに座るがよい」
 少女に言われ、半歩進んだ涼平は脇にクーラーボックスを置きながら自分でも驚くほど素直に彼女の声に従っていた。隣の茉莉や久々野に至っては、力が抜けると言った方が正しいような有様で座っている。
「突然こんな所へ喚び出してしまって済まんな。我が名は小松、姓は坂上と申す。様か前の敬称を付けるのであらば呼ぶ事を許そう。それ以外は断じて許さん」
 小松の姓名に涼平は一瞬首を傾げかけたが、失礼かと思い止まった。
 ただ、この逸隼丸に輪をかけて偉そうで、かなり我儘であろうというのが簡単に予想できる調子の言葉遣いである小松だが、それでも逸隼丸同様さして反感を抱く事が無い。どこか不思議であるが、これが徳と言うものなのだろうか。
「と、散らかっておるな。客をもてなす有様には程遠いか」
 自分の周りの惨状に目をやった小松は、す、と厳粛さすら覚える動きで両手を掲げ、柏手を打った。
 乾き澄んだ音が鳴り響くや、畳上に散らばっていた貝殻が、小松の脇に置かれていた漆塗りの木箱に吸い込まれていく。彼女の持っていた物も、彼女の手から誤って落ち、結果逸隼丸が拾った物も彼の手から同じように吸い込まれていった。
 柏手一つで手品じみた現象を引き起こした小松は、軽く周囲を見回す。
「これで良いな」
 貝殻が視界から消えたのを確認し、小松は木箱に立てかけられていた蓋を木箱に乗せ、目線を木箱から涼平へと移動させた。
「……さて」
 一言の促しと共に鮮血色の瞳に直視され、隣の茉莉同様小松の起こした現象に感心していた涼平は軽く姿勢を正す。
「初めまして。渡辺 涼平です。隣は、妻の茉莉で、その隣は久々野です」
 視線に促されて自己紹介をした涼平だが、言った途端に自分達以外の三者の視線が集中するとは思いもしなかった。内心疑問に思いつつも頭を下げ、茉莉が止まったままなので肘で小突いて下げさせる。
「……あの、何か?」
 頭を上げた時にまだ見られていたので、一応の疑問。
「渡辺、と申したか」
 するとどう言う訳か、慎重そうに小松が聞いてくる。
「申しましたが」
「……すると、お前はあの綱の直系か?」
「はい。系譜の上ではそうなっていますが」
「そうか……」
 そう答えてから、小松がまるで知人を言うように千年前の祖先の名前を出した事にはたと気付く。これは一体どういう事かと、涼平は逸隼丸に対して以上の疑問を小松に抱いた。
 この疑問は彼の隣の茉莉も同様らしく、小松の魅縛から脱出した彼女から緊張と警戒が滲むのが感じられる。今相対しているのは、想定し得る範囲で最大限に厄介な相手なのかもしれないのだ。
「あの」
「なんじゃ」
「貴女は……いえ、貴女方は一体何者なんですか」
「ん? 妾達か? そうさな……お前達が進化の頂点たる霊長と呼ばれるのなら、妾達は森羅より出でしまつろわぬ暴君の雄なる者。即ち、鬼と呼ばれるじゃろうな」
 少しもったいぶったこの返答に本来は驚くなりすべきだろうが、既に創造の事実や逸隼丸の巨躯、それに桁外れの存在感を覚えた後では、逆に静かな納得が涼平達の心を吹き抜けただけだった。鬼ならば創造を可能とするだけの技術に加え、渡辺や宵月といった氏族の姓を知っていても不思議ではないし、常人離れした態度もこちらがそれを自然と受け入れてしまうのも、全て納得がいく。
 涼平も茉莉も、出自が出自なだけに人外に対する造詣は深いのだ。
「……成る程、鬼でしたか」
「うむ」
 誇らしげに頷いた小松に、涼平は考え込むように腕を組む。
「とすると……角が無い事から、御三方は仏教伝来以前から坐す、荒神に属す旧い鬼とお見受けしましたが……」
「うむ、如何にも。妾も、逸隼丸も、謐も、遥か過去よりこの国津に在った旧き者じゃ」
 ここで涼平達は、初めて小松の左翼側に座る女性の名が謐である事を知った。今まで一言も口を聞かず、衣擦れの音すらさせない彼女からして、実に的確な名前だろう。
「では問いますが、その旧い鬼が私の妻に一体何の用でしょうか」
「魏石、という名に心当たりは無いか?」
 問い返され、あまり馴染みの無い言葉に涼平は首を捻った。全く聞き覚えが無い訳ではないのだが、最後に聞いたのが何時かすら思い出せない有様だ。
 捻った首を戻せないでいると、隣の茉莉が心当たりに行き当たったらしく、軽く息を呑む気配を感じた。
「茉莉?」
 隣を見ると、何か納得した顔の茉莉と目が合う。
 彼女は涼平から視線を転じて小松へ向けると、問いかけに対する答えを述べた。
「……安曇野の大王、ですね?」
 涼平に比べ、畏敬の念がかなり深い口調である。逆に言えば、曲がりなりにも神族が相手だというのに、涼平が全く頓着していないだけなのだが。
「その通りじゃ。……すると宵月の娘、妾が何を言いたいかは分かったかと思うが」
「はい。私も夫も、彼の者の遺骸が回収された事や、常念坊の庵が破壊されたという事は、こちらの久々野より聞き及んでおります。後は我が宵月にある宝、朱月の大皿に封ぜられた彼の者の御魂魄が解き放たれてしまえば、彼の者は千年振りの覚醒めを得てしまうでしょう」
「うむうむ、話が早くて結構結構」
 茉莉の言葉を聞き、小松は肘掛に頬杖を突く。
「ならば宵月の娘よ。もはや言わずとも明白であろうが、妾の用件とは先づ魏石の阿呆を黄泉還らせようとする莫迦共より先んじ、朱月の大皿を確保して欲しいという事じゃ。妾達とて、今の世を再び千年前のようにしてしまう事は吝かではない」言いながら小松は自分の眼を指差す。「そこで天眼に通じるこの眼でしかと視させて貰ったが、お前の実力は宵月で最も優れておる。つまり長かその候補じゃろう? ほとぼりが冷めるまで借り出す位はできような」
 相手が首を縦に振ると確信している小松の言葉に、茉莉は薄く苦々しい表情を作った後か細く答えた。
「いえ、申し訳有りませんが……」
「む、何故じゃ? 蜜月の最中じゃと言うのなら相済まぬとは思うが、事はそんな瑣末な事情よりも大きいのじゃぞ?」
「ええと、その……あの……」
 目に見えて不思議そうにする小松に圧倒され、必要以上に恐縮して罪悪感に苛まれてすらいる茉莉は、言葉を失いながらそれでも返事をせねばと必死の面持ちになる。
 そんな茉莉の有様を見て察したのか、「おっと」と言って小松は咳払いをした。それだけで彼女から発散されていた――徳というよりも、強烈なカリスマというか神性というか、見る者の魂魄に直に訴えかけてくるような強制力が一気に沈静化する。
「済まぬな。霊長相手の対話は久し振りゆえ」
 目線を逸らし軽く頬を掻いた後、照れ隠しの笑いまで浮かべて小松は謝った。
 この仕草だけ見ていると、彼女がとても四桁の年齢は間違いない鬼だとは思えず、外見年齢相応の少女に見えてくる。
「僕は別段構いませんが、妻と話をする時は確かに控えて頂いた方がいいようですね」
 すっかり縮こまってしまった茉莉の代わりに、涼平が返事をした。
「お前は気にもしとらんようじゃな」
「相手に左右されず、常に自分の心に凪を抱くのが渡辺の奥義の一つですから」
 興味深そうに言った小松に、涼平はにこやかに微笑んで応えた。
「成る程、ならばお前から色々聞くとしよう。何故大皿を確保できぬ?」
「簡単ですよ。僕も茉莉も、三年前から外道からお尋ね者扱いなんです。ですからそれぞれの邸宅や関連施設に近付きでもすれば、たちまち御用となってしまいます」
 さらりと言った涼平に、小松は増々興味深そうな目をする。
「お前……何をやらかした?」
「僕の場合は、婚約不履行に要人拉致に不法侵入に器物損壊を幾つかと、後は傷害……いや、殺人未遂か。ともかくそれ等が、ええと、んん、取り敢えず二桁程ですね。捕まったら酌量も精神鑑定の余地も無く、有事以外は幽閉扱い辺りが妥当かと。時代が時代なら自らの腹を掻っ捌かねばならないでしょうけど」
 指折り数えながら、涼平は自らの罪を全く悪びれた様子も無く告白した。
「中々に立派な犯罪歴じゃな」
「歴というか、全部一晩でやったんですけどね。ちなみに茉莉の場合は、婚約不履行に要人拉致と不法侵入が無いだけで、後は僕とそう変わりません」
 流石にこれには小松も呆れたのか、頬杖を解いて肘掛に凭れ直すと、実に何とも言えない顔をした。
「それも、一晩でか」
「ええ。同じ夜に」
 あっさりと即応。
「……夫婦揃って、まぁ、何をやっておるのじゃ」
「何をと言われても……要するに駆け落ちしたんですよ、三年前に。僕が家族の反対を強行に押し切った挙句、宵月に乗り込んで、当時の長を攫ったというだけの事ですから」
「……要人とは、今のお前の妻の事じゃったか。そのためにお前は婚約者を捨てたと」
「はい。そちらとは恋慕も何もありませんし、生まれる前から決まっていたという形だけでしたから」
 表情態度一つ変えない涼平に妙な感心を覚えつつ、今度は小松が腕を組む番だった。
「そうか。ううむ……では、最低限大皿がある具体的な場所は分かるか?」
「……私が長を務めていた時は、蔵の地下の最奥部に封じてありました。滅多に人が近付きませんし、あれだけの物ですから、三年ばかりで配置が変わるとも思えません」
 これは流石に茉莉が答えた。
「おお、そうかそうか!」
 ああ良かったと満面に描いた表情で小松は手を打ち合わせ、謐の方へと顔を動かす。当の謐の目はやはり焦点を結んでおらず、顔の向きも畳のどこかへ向けられて、傍目には完全に現実との関わりを断ってさえいるように見えた。
「謐、聞いておったな? ちょっと行って借りて参れ」
 だが小松の命令を聞いた途端焦点が結ばれるや、目を見張るような素早さと全くの無音で立ち上がる。
 見上げる角度から涼平は彼女が自分よりかなり背が高い事を初めて実感したが、それよりも気になる事があった。
「……小松前。随分気軽に命令されたようですけど、夜中に宵月に侵入したら絶対に見つかると思うんですが」
 この危惧ももっともである。外道の徒である以上は何かしら特異な取り柄を一種類以上持っているのであり、宵月の場合それが他と比べても特に顕著なのだ。
 宵月はその姓からも分かる通り、日没後に身体能力や精神力等全ての分野において本領を発揮する。では日中はといえば、夜間で発揮した全てが何かの間違いかと思える程衰えてしまうのだ。
 例えば茉莉なら、昼間は致命的なまでに何をやっても駄目という情けない一面があるが、一度夜になればそんな事実を霞ませる程様々な意味で強力になる。
 そんな者ばかりがいる所へ夜入り込めば、たちまち見咎められて大騒ぎになってしまうだろう。しかし小松はふ、と不敵な笑みを見せると軽く語り始めた。
「案ずる必要は無い。仏教が渡ってきた当時、訶利帝母らの影響で一頃妾達の間でも神隠しが無意味に流行った事があったが、謐ほど大胆に成し得た者はおらぬ。何しろこれの手にかかれば、幾重の従者に囲まれ、布団の中で母に抱き包められている幼子ですら、気付かれぬまま平然と奪ってしまうのじゃからの」
 その後その子をどうしたかを言わないまま語り終えた時には、小松の笑みは不敵さが悪戯っぽさに変わっている。
 どう推して知ったものか、涼平も茉莉も判断がつきかねた。
 そんな二人の態度に楽しそうにした後、小松は謐を見上げる。
「論より証拠じゃ。謐、お前がどれ程の者か少しばかり知らしめてやれ」
 かく、と作り物めいた動きで謐が頷く。そして彼女は、涼平達の見ている目の前で突然その存在感をあやふやにさせた。
「これは……」
 茉莉が突然の違和感に口に手をやりつつ驚く。そこに立っている筈なのに、とてもそうは見えないのだ。
「驚くには早い」
 小松が言うと、存在の確信が持てない程存在感が薄い状態になった謐は、忽然と姿を消した。
「ん? どこへ――っと、と」
 思わず頭を巡らしそうになった涼平は、しかし首筋に当たる硬く鋭い何かの感触に動きを止める。茉莉はあまりの驚きに声も無く、何時の間にか涼平の背後に立って首筋に鋭利な爪の先端を当てている謐を愕然と眺めていた。
「気配を巧く消せば、見られぬ限りは気取られる事は無い。そして存在感を消せば、見られていようと特に気に止められる事は無い。謐は、その両方を消す事に長けておるのじゃ。無論そればかりが能という訳でもないが」
 無意識のまま両手を上げて降参の姿勢を示した涼平は、小松の言葉にああ成る程、と自分の状況が分かっていないような風に納得していた。
 対照的に茉莉は気が気ではない。例え旧き鬼であっても、仏教による悪鬼的な影響を少なからず受けてしまっているのは確かなのだ。気紛れ一つで何をするか分からない。
「小松前、その、早く謐殿を止めさせて下さい」
「そうじゃな。謐、もう良いぞ」
 茉莉の懇願を素直に聞き、この一言で謐は爪を下げて数歩後退った。
「良し。では、行け」
 続いて出された命令に応え、謐は涼平の背後を取った時と同様にふわりと消え去る。
「……凄いなぁ。あんなに簡単に後ろを取られたのは生まれて初めてだ」
 上体を捻って謐の消えた後方を眺めた後、涼平は首を擦りながら小松の方へと首を巡らせた。ちょうど、彼方にある襖が勝手に開いて閉じた所である。
「……ところで、幾つか気になる点があるんですけど」
「ほう? 許す、言うてみよ。不躾にも勝手に喚び付けた手前、無下な対処はせぬ」
 首の向きを戻した涼平に、小松は敢えて言った。
「ありがとうございます。では先ず……あなたはご自分の眼が天眼に通じていると言いましたが、ならば僕らを喚び出すまでもなく直接大皿が在る場所を見ればいいでしょう? 何故そうしなかったのですか」
 天眼とは神通力である六神道の一つであり、いわゆる千里眼の上位能力である。実際小松が見たと言うように、対象を知らずとも探し出せるしそのものの簡単な概要を知る――視る事もできるのだ。だからこそ涼平の疑問は当然と言えよう。
 茉莉も同様の疑問を感じていたらしく、心持ち姿勢が前傾になっていた。これを受けた小松は少し考えるように瞼を閉じた後、間を置いてから鮮血色の瞳を見せ付けるように瞼を開く。
「あの大皿はな。魏石の復活を阻止する意味合いを込めて、鬼には正確な所在を捉えられぬようにできておる。それが千年の時が過ぎた今でも全く衰えず、妾の視界には映らぬのじゃ。それに、霊長に支配されておる現世においては、百ある力の内半分も使えれば良い方じゃからな」
「……そうだったんですか。ではもう一つ。吝かでは無いと貴女は言った訳ですが、絶対だと言い切れますか?」
 半ば挑発的ともとれるこの言葉に、茉莉は涼平を振り返り、逸隼丸の彼への視線に剣呑なものが混ざる。発言者を除いて目立った反応を返さなかったのは小松だけだ。寧ろ涼平の直接的な物言いに好感すら抱いているように見えた。
「ふ、当然幾度でも言い切れる。妾達が旧い鬼、即ち森羅万象の秘めたる脅威である隠じゃと知っておるのなら、妾達が嘘を吐けぬ者である事なぞ承知しておると思ったが」
「承知しております。そしてそれを聞いて心から安心しました。無礼な点ははどうかご容赦下さい。逃亡生活中の身ですから過敏になっていたようです」
 悪意を欠片も感じさせない微笑で涼平は手を突いて頭を下げる。
「良い良い。霊長は昔から確証を得ないと不安に思う生き物じゃからの」言いながら頭を上げるよう手振りで示し、「他に何かあるか?」そう小松は言った。
 頭を起こした涼平は軽く頷く。
「では。安曇野の大王を黄泉還らせようとしているのは誰ですか?」
「涼平?」
 一体何を言っているの、と咎める小声に、涼平は「聞くだけだよ」とあまり安心できない言葉を返す。当然茉莉はそれを承服しない。「聞いてどうするの」と臨戦体勢だ。
「……で、言って良いのか」
 微妙な雰囲気を醸し始めた涼平と茉莉の間の空気を慮って小松は言うが、涼平は気にせずに「どうぞ」と言った。茉莉の彼への視線が見るから睨むに変わる。
 表情を変えない涼平を眺めながら、小松はしばしこの夫婦の力関係がどうなっているのかを考えてしまった。……詮無い事とすぐに止めたが。
「魏石の遺体を集めおったのは、鎮護譜の一つ織口の最年長者によるものじゃな。やましい事をしておるという自覚があるのじゃろう、自身に術法を施してまで身を護っておるせいで、これ以上はろくに視えぬ」
「……織口……八彦翁がですか」
 予想だにしなかった名を出され、涼平は確かめるように言った。茉莉など受けた衝撃を隠せずに、「そんな……」と言ったまま塞がらない口を手で覆っている有様だ。
「うむ。よくは知らんがその八彦とやらがやったのであろうな。事が事だけに一朝一夕の狼藉とも思えぬから、長期の準備期間があったのじゃろうよ。何を血迷ったかは知らんが流石は外道の徒、中々の手管じゃの」
「褒めてる場合ですか」
 妙に感心しながらうんうんと頷く小松に、またも涼平ははっきりと言った。外見だけで判断してしまえば、受け持ちの放蕩娘を窘める新米教師のように映らなくも無い。
「ん? では貶せと?」
「いえ……そうでなくて」
「ふむ? ……まぁ良いわ、問いには答えた。次は?」
 本気で分かっていなさそうな反応を示した後、涼平の呆れ具合を完璧に無視して小松は話を進める。涼平達としては何故織口がとかそういう疑問が心を渦巻いているのだが、涼平は茉莉の手前、茉莉は涼平の手前、もう一歩踏み込んだ質問が口を突いて出る事は無かった。どこの誰が首魁なのかさえ分かれば充分、と二人とも自分を納得させる。
 次の質問を待つ小松に、涼平は改めて視線を合わせた。
「いえ、特には無いので」
「……ほう? では以上で良いのか?」
「はい。……それでは、こちらとそちら双方の用件が済んだと言う事で、僕達を元いた場所に帰してくれませんか」
 この言葉に、小松は意外そうな顔をする。
「あっさりしておるな。てっきり、様々に聞かれるかと思っておったのに」
「確かに色々と聞きたくは有りますけど、所詮僕も妻も久々野さんも追われる身。望むのは幸福と平穏です。率直に言えば、これ以上貴女方鬼と関わり合いになるのも望みません」
「……如何な凶事に巻き込まれるか知れたものではない、いい迷惑だ、と?」
 くす、と唇で艶やかな弧を描いた小松に、涼平は苦笑を併せて応えた。
「忌憚無く言ってしまえば」
「ははは、正直だな。あい分かった、お前達の言葉は尊重してやろう」
 そう言うと、場の空気が変わるような厳粛さをもって小松の両手が掲げられる。
「ではな。互いの縁が再び結ばれるその時まで――しばしの別れじゃ」
 何か引っかかるが取り敢えず返事をしようと涼平と茉莉が口を開きかけた時、僅かに先んじて小松は大きく柏手を打っていた。


 大きく澄んだ小気味良い音が鼓膜を揺すり――その音が途中で消えたかと思ったら、涼平達は元いた屋上へと送還されている。
 強弱の差はあるが呆然としている涼平と茉莉は、あまり清潔とはいえない屋上の床部分に正座しているという状態である。辺りは鬼火の灯りではなく夜闇の中で、畳の匂いではなく嗅ぎなれた地上の風が吹き、まるで何事も無かったかのようだ。
 二人とも事態の始まりと同様の突拍子も無い終わり方に、これはひょっとしたら夢か何かと同じ様な捉え方をするべきなんだろーか等と考えもした。
 数秒遅れて、クーラーボックスと二足の靴が揃えられた状態で現れる。
「……ええと。なんだったの? 結局」
 立ち上がって靴を履きつつ、スカートに付いた汚れを払い落としながら茉莉が呟く。
「さぁ。久々野さんが来て安曇野の大王に関する事を聞いて、すぐに小松前達鬼に拉致されて、やっぱり安曇野の大王に関する事を聞かれて。……何か嫌な予感があるなぁ」
 応えながら涼平も同じく靴を履く。何気ない彼の発言によって茉莉の顔に見る見る不安が広がり、それが胸の高さで組まれた手を何回か揉み合せる仕草にも表れていた。
「これ以上更に何かあるの?」
「多分ね。……ただ一つだけ言えるのは」そこで一旦切って、涼平は茉莉の顔を正面から見た。「鬼と関わって何事も無く済んだ人間は、今の所皆無だという事。勿論不幸ばかりではないけれど……でも、僕が渡辺だという事を名乗ってしまった。渡辺にいい感情を持っている鬼は、旧かろうが新しかろうがいる筈が無いからね」
 茉莉の顔がさっと蒼褪める。渡辺という一族が今日にいたるまでどれだけの鬼を斬り伏せてきたかを考えれば、納得がいくだろう。
「それじゃあ、あなたに何か……ちょっかいが?」
「ちょっかいで済めばかわいいさ。最悪、僕だけで彼等の渡辺に対する感情が収まらないかもしれない。君にまで……類が及んでしまう恐れもある」
 言って、微かに視線を上げた涼平の表情には、一瞬前までとは別人に思えるような真剣さが表れていた。小松と話していた時ですらにこにこと穏やかにしていた表情を一変させた彼は、元々の顔貌に相応しい壮絶さと息苦しいまでの張り詰めた雰囲気を発散させ始めている。
「涼平……」
 夫の表情の変化に茉莉は切なげに言いながらそっと足を進めて、お互いの間にある半歩の距離を埋める。それから、何故か短い逡巡を挟んでそっと抱きついた。
 静かな衝撃に、はっとなった涼平は瞬く間に普段の表情を取り戻す。
「……ごめん」
 優しい声を聞き、茉莉は涼平の肩に頬を押し付けたまま僅かに首を振った。
「何故謝るの? あなたが私を想って凪を破ってしまうのは、こちらこそ申し訳ないのに」
「いや、それもあるけどそうじゃない。そうじゃなくてね」
「渡辺を口にしてしまった事に責任を感じているのなら、止めなかった私にも非があるわ。あなたが婿養子だという事にしてしまえば、って。そうすればあなたも私も宵月だもの」
 自分の言葉を遮って言った茉莉に、涼平は目を丸くする。
「ああ成る程、その手があったか。……しまったな」
 失敗したと苦笑し頭を掻いた後、茉莉の腰に腕を回して一層お互いの身体を密着させた。
「ふふ、だけどあの状況でそこまで頭を回すのは難しいわ」
 茉莉もまた、少し背伸びして涼平の肩に顎を乗せ、抱き締める腕に強く想いを込める。
「でもどうするの? 向こうがその気になったら、国内のどこへ行っても無駄よ? 空海陸路は外道に押さえられてるからそもそも使えないし」
「そうだね。んん、よし。どれだけ効果があるかは分からないけれど、取り敢えず季節外れの追儺の準備をしよう。大豆を煎って、柊の枝と鰯のお頭を用意……今から手に入れられるかな」
「……あ、それなら全部あるわ」
「え? 本当かい?」
「ええ。大豆は前に魔除け目的でしっかりと煎ったのが取ってあるし、柊の枝も鰯も」
 驚いた様子を見せた涼平に、茉莉は深く頷く。大豆と鰯はともかくとして柊の枝まであるというのは、元とはいえやはり鎮護譜の一員である。どこかで見かけた際に無意識に手折って持ち帰ったのだろう。
「ああ……君は最高だ」
「そんな――あっ」
 言って、まるでこの世に二人しか存在していないような勢いで涼平は思い切り茉莉の細身を抱き締めた。数瞬後、茉莉もまた、幾年か振りに恋人に出会ったような顔をして抱擁を返している。
 こうなってしまうと、早く帰って対策を実行すべきだという正論は暫く後回しにされるのだった。
 ――そんな二人を眺める、縦長の瞳孔を持つ双眸が一つ。
「うーわー。猫を鮮やかに無視しておいてまたか」
 久々野である。
 行きと違って帰りの転移において、彼は軽い脳震盪を引き起こしていたのだ。それでなくとも小松前の意に当てられた硬直が抜け切っていなかったりして、おかげで今まで少々前後不覚な有様だったのである。
 だというのに、涼平も茉莉も彼を顧みるどころか完全に無視して今の状態ときた。全くもって面白くない上に、彼等の会話からしてこんな事をしている状態では全然無く、久々野は一分一秒でも早く部屋に戻りたかった。
「すいませんが」
 一応は憚るように声を出してみる。が、後ろ姿だけで充分うっとりとしているのが分かる茉莉は勿論、そうさせている涼平ですら聞こえた様子は無い。多分、眼に映るものも気にしていないんだろう。
「お取り込み中本当にすいませんがね」
 今度は大声に近いくらいの声を出してみた。しかし何も変わらなかった。
 流石に苛立ちが募ってくる。こうなれば普段言ってはいけない事くらい言ったところで許されてもいい筈だ。そう思って肺に空気を送り込んだが――やはりまだ死にたくないという直感めいた思考が閃いた事で、結局問題発言は差し控えられた。
「す・い・ま・せ・ん・がッ!」
 そんな訳で成された殆ど叫びに近い声。猫が出せる限界音量とそう変わらない大きさである。ただそれでも抱き合った二人からの反応が無い所からすると、完全に何を言ったところで二人の気が済むまでは無意味なのではないだろうかとすら思えてきた。いや、きっとそうに違いない。そうに決まっている。ああもう時間が勿体無いと考えながら、久々野は諦めた目付きで一瞬でも早く二人が現実に帰ってくるよう祈った。


 涼平達を柏手一つで送り返した後、小松は事の運び具合に浮き足立った笑みを浮かべていた。対照的に逸隼丸は何か考え込んでいる風ではある。
「宵月と渡辺の夫婦か。ふふん、まさに願ったり叶ったりな組み合わせじゃ」
 肘掛を前に持ってきて、それに凭れて前傾になりながら小松はくふふ、と喉を震わせた。
 実際、笑いたくもなる状況なのだ。万一を考えて宵月の中で最大最高即ち最強の技術を持った娘を探し、それがあっさり見つかったどころか、対鬼としては現存する中で最も優れている渡辺の男まで付いて来たのである。しかも会話途中に天眼が識らしめた視界によれば、渡辺の方も渡辺の最強ときた。
「くふ、これで後は大皿さえ確保すれば、魏石の阿呆に対しても難無く対処できよう。霊長が起こした事は霊長によって始末を付けねば意味がないものな」
 これも日頃の行い故じゃろうか、と小松は本気で考えながらうんうんと頷いた後、二人きりになって以来ずっと難しい顔をして考え込んでいる逸隼丸の方へ顔を向ける。
「時に逸隼丸。何をそう考える事がある?」
「……いえ、あの渡辺の事で少し」
「ほう」
 俯いた顔を上げた逸隼丸に、小松は興味深そうな顔をして先を促す。
「千年前の世で我等と対等とまではいかないものの、良い勝負を愉しませてくれた渡辺の末裔。あれから更に千年経った今では、果たしてどこまでできるかが気になりまして」
「ほほう」
 小松の笑みに悪戯的なものが混じり始める。
「御前。あの渡辺は一体どれほどの男なのですか?」
「聞きたいか」
「は」
 愚直さを感じさせる逸隼丸に、小松はふふんと笑う。
「あ奴は現渡辺の最強じゃ。まぁそうでもなければ、家族の反対を強行に押し切る事など不可能であろう」
 答えを聞いた逸隼丸の表情に、期待や高揚といった落ち着きの無い感情が浮かび始めた。
「最強なのですか」
 心なしか口調まで浮ついて聞こえてくる。
「そうじゃ。……するとお前、流れからいって手合わせを願いたいとかほざくつもりか」
「成りませんか?」
「むぅ、そう……じゃの。朱月の大皿に関して知っておるのは、言い触らしておらねば宵月と後はせいぜい奴等の頭領の所くらいの筈じゃからな。魏石の遺骸だけならば最悪宵月の娘だけでどうにでもできようか。しかしなー、あの男も妾達とは関わりたくない様子であったし……」
 肘掛に頬杖をついてわざと思考を口に出しながら、小松はやきもきし始めた逸隼丸の様子を見て愉しんでいた。もっとも、あまり長くしすぎると勘付かれるので、程ほどの所でやめておく必要があるのだが。
 それに結論など考える以前にとっくに出ているのだ。こんな面白そうな事、あの夫婦には悪いがよほど退っ引きならない状況でもなければ止める筈が無い。長く生きてきた分、それだけ娯楽に対する飢えも相当なものなのだし、楽しめるものは余さず楽しんでおかねば勿体無い。
「ふむ」
 頬杖を止めた小松は、さも考えが決まったように言って逸隼丸の居住まいを正させる。
 やや緊張した面持ちの逸隼丸を少し眺めた後、小松は託宣を告げるように言った。
「ま、良いじゃろ。好きにせよ。ただし、殺すのも後遺症が残るような真似をするのも無しとする。良いな?」
「充分です。ありがたく存じます」
 一度平伏した逸隼丸は、すぐさま立ち上がって襖の方へと足を向け、そのまま空気に溶けるように消え去る。
 小松は肘掛を定位置に戻すと、ゆるりとそれに凭れた。後は天眼で逸隼丸を追えば、彼と涼平の勝負を観戦する事ができる。
「謐がおれば、賭けもできように……ま、いずれ戻ってくるか」
 幾ら朱月の大皿が鬼に捉えられないといった所で、場所さえ分かれば探し当てるのにそう苦労はしない。
「……あ。しまったな。一つしか用件を伝えておらんかった」
 逸隼丸を視界で追いながら、小松はもう一つの用件を思い出した。大皿の件に加え、万一の時の為霊長によって復活しかけている魏石を斃させようと霊長を呼び出したのだ。それを大皿の件だけ伝え、後は相手の言うがままに帰してしまっては意味が無い。
「むぅ。……謐が帰ってきたら言い付けるとしょう」
 言って、再び小松は肘掛に凭れた。最低限勝負がつく前には、謐が大皿を携えて戻ってくるだろうと踏んだのである。
 それが楽観であると思い知るには、もう少し時間が必要となるのだが。
 一次創作というものは、創作者の趣味がモロに出ると思うんです。
 特に、編集とかそういうが一切関わってない状態の代物は。


 ……いやまぁ要するに好きなものを好きなように書いているというだけの話ですが。
Hodumi
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