参 ― 裏
四方を壁に囲まれ、畳張りの和やかな茶室の中。あれから酷くゆっくりと時は流れたが、春花の座る姿勢に大きな変化は無かった。彼女は周囲への警戒が可能な範囲で双眸を伏せており、つまり意識以外はほぼ眠っていると考えていい状態だ。
八彦は出て行ってからまだ一度も戻ってきてはおらず、一応の感覚による索敵では茶室の周囲には誰もいなかった。となればこの一帯には春花一人しかいない事になるのだが、逆にあからさますぎて彼女は脱出する気すら起こしていない。
なにしろ今自分の置かれている環境が、それだけならばかなり喜ぶべき場所だと感じているからだ。時折離れたどこかにある鹿威しが響の良い澄んだ音を立てる以外、自然の静けさに満たされるこの茶室内は、状況が状況でなければ彼女は進んで長居しただろう。
手本のような正座を揺るがせず、言ってしまえば無為な時間を過ごす中、不意の胸騒ぎに薄く双眸を開く。ここに来て初めてではない胸騒ぎに、春花は何か疑問を覚えながらも自制するように瞼を伏せる。
八彦の言った通り、この茶室にいる限り彼女は何もできないのだ。そして、あの周到な八彦がわざわざ逃亡の機会を寄越すとは思えない。理由でもあれば話は別だが、春花にはその理由が思い付かなかった。今はただ、じっと静かに機会を待つ他無いのだ。
……それにしても。
思う。不確定要素ばかりでおよそ実行性の無い八彦の計画だが、何故こうも間の悪い時に実行されてしまったのか。外道の徒の中でも特に優れた九つの一族の長全てが揃っている普段であれば、如何に織口、如何に八彦といえども叛乱が成就するとは考えないだろうに。
本当に間が悪い。現在、九つの内五つの長が慣例に則り外国組織への挨拶回りに出ているのだ。留守を任された四氏族の内、首魁である織口氏と大童であろう宵月を除いた残る二つ、十哲と安倍は、本拠が遠く離れている事からそう強く当てにはできない。
いいや、八彦の事だ。この九つに限らず、言葉通りに関係してくる可能性のある氏族全てに何らかの手が打ってあると見て間違いないだろう。彼の言葉を信じれば、準備に十年以上の時間をかけてきたのだ。外道の徒の元締めにも気付かせなかったのだろうから、やはり多くは望めそうに無い。
こうなると、もし気付いているのなら三年前に失脚させた姪を当てにしてしまいそうになる。六年前からの三年間のみとはいえ、あの姪は類稀なる才覚とそれを充分に発揮できるだけの鍛錬を積んで、宵月の長を任されていたのだ。渡辺の末子との件さえなければ、一度退いた春花が代理とはいえ再び長の役に就かされる事もなかったろうに。
「……あの、浅慮に走った救い難い大馬鹿者め」
二十年前に大半の氏族を巻き込んで起こった大惨事によって、治療技術の権威である神樂をしても治療し切れなかった裂傷を全身に負った姪を思い出し、春花は軽く下唇を噛む。
罵りが小さく口をついて出てしまっていたが、良く考えもせず感情の赴くまま一族を捨て、私情――尚言えば男――に走った姪に対し、今更何の遠慮が必要だろう。
だが今や敵地となったここで感情を乱すのは不味い。
深く息を吸い、吐く。
……もう一度……もう一度……これで最後。
心の波がやや落ち着いた所に、再び胸騒ぎがした。
「それにしてもこれは、一体なんだというの?」
今度は完全に双眸を開け、胸を右手で押さえながら、まるで本能が何かに抗っているかのような感覚に春花は首を捻る。体のどこにも異常は無い筈だが……。
かこん、と鹿威しの音が響いた。
胸に手を当てたまま、春花は深く考えこむ。すると癖なのか、左手がすいと持ち上がって、そのまま彼女は親指の爪を噛み始めた。始めは甘噛みする程度だったのだが、心当たりが出てこないのと、代理とはいえ氏族長がこんな所で何時までも足止めされている訳にはという焦燥によって、さほど間をおかずに噛むから齧るに移行してしまっている。
無意識の行為である以上、遠慮の無い歯が爪を皮膚から浮かせてしまうのにそう時間は掛からなかった。一瞬の鋭い痛みが徐々に指全体に広がって、それが鈍痛と変わって手全体を支配し始める。
「っ、…………く、む……あい、痛たたたた」
最初の内は眉を顰めるだけで耐えていたのだが、ついそのままもう一齧りしてしまったのがいけなかった。爪と皮膚の間から血が滴り始め、痛みも倍加してしまう。
春花は胸騒ぎも忘れて親指を口に含む。
――と、何故か霞が晴れたかのような錯覚を受けた。
別段茶室内の見通しが悪い訳でもないし、意識がはっきりしていなかった訳でもない。ただ唐突に、何か晴れやかな気分が心を支配したのだ。
「…………まさか」
暫く呆然としてしまったが、こうなる原因の一つに春花は心当たりがあった。傷の痛みによって八彦の術法が解かれたとすれば、実に納得がいくからだ。
八彦の、というか織口の得意とする技術は相手を惑わす事にある。撹乱と混乱と惑乱による三乱を基本とする技術は、まず正常な認識を撹乱し、そこから混乱を導き出し、最後に相手が自分を信じられなくなった迷いを助長して惑乱を形成させるのだ。
この技術の恐ろしい所は、練達者が行使すると自覚症状が無い事である。第一段階である撹乱の時点で、使われたと知っていない限り余程気を付けていないと気付かないのだ。
そして春花の味わった晴れやかさは、三乱から解かれた時の感覚と酷似している。
「織口翁め」
口腔に広がる美味くも無い血の味と怒りから目元をひくつかせ、口から親指を引き抜いた春花はすぐに立ち上がった。
よくよく考えてみれば、感覚で知れる範囲に見張りの類がいない時点で、悠々と出て行く事になんら問題無い筈なのだ。それを変な警戒心を起こして勝手に座っていたのだから、八彦からすればさぞ面白かっただろう。そして、なにより考えるまでも無く、夜という時間帯において何故宵月が織口相手に臆さねばならないのか。
「まったく……これでは娘達に示しがつかないわね」
自嘲気味に嗤いながら頭を振り、再び正面を向いた時には笑みの一切が消えていた。あるのは冷徹で油断の無い、外道の徒として相応しい面構えである。
春花自身ここ六年は実務から遠ざかっていたものの、曲がりなりにも長を務めていた身。得物を取り戻す事さえできれば、八彦相手でも五分以上で事を運ぶ事ができる筈なのだ。
自慢の紫黒の髪を一旦解き、再び括り直す事で気合を入れた春花は、久方ぶりの実戦を思い出しながら確認するように歩を刻む。
「…………」
畳の上を物音一つ無く歩けた事に軽く満足しながら茶室を後にした。
まず探すのは己の得物。手入れの行き届いた庭園を進みながら、春花は式や術法の類で外へ事態を伝える事も考えたが、流石にそれは織口の結界によって阻まれるだろうと即座に考える。
これは三乱によるものではなく、常識的な考えによるものだ。有事の際なら、春花自身もそういう措置をとるからである。それに万が一結界が無かったとしても、あった場合のリスク――自分の居場所を報せる事になる――を考えれば控えるのが常套だ。それに、それを逆用できるほど彼女は織口邸の地理に詳しくない。
春花は一旦木陰で立ち止まり、空気の動きを全身で感じて周囲に人間か機械等の警備が無いかどうかを探査する。
結果は、何も見つからなかった。呆れる程の無防備に、三乱の事も考えて親指を噛んだ後もう一度調べてみたが、痛いだけで結果は変わらずである。赤外線や監視カメラ等に罠があって当然かと思っていたのだが(実際宵月の庭には山と色々な仕掛けがある)、これには首を傾げざるを得ない。しかし茶室から母屋への道程という事と、八彦の過信とを併せて考えれば無くも無いので、春花は深く気にせずに行動を再開する。
夜空の下、織口邸へ向かって年齢不相応の軽い身のこなしで疾走し始めた春花だが、親指の血を口に含んでいたせいで、母屋から漂う微かな血臭には全く気付いていなかった。
参 ― 表
「――そう、私は何度も申し上げたんですよ? それなのにあなた方は妹背振りを発散し続けていたんですよ全く、仲睦まじい事が悪いとは一切申し上げませんがしかしもう少し気を配るべき事があるでしょうに。例えば私とか私とか私とか」
久々野は茉莉に抱かれ、階段を下りる道程を揺られていた。長々と続いた涼平達の抱擁が終わった時、彼はフテ寝に入っていたのである。
気が済んだからさあ部屋に戻って色々準備をしようと抱擁を解いた二人はやさぐれた久々野を発見し、彼が寝ているのをいい事に茉莉は彼を抱き上げたのだった。その際に目を覚ました久々野は、抱き上げられている事態に抗議をしたが、ハンカチで彼の毛皮の汚れを拭い去っている茉莉に無視されていた。
「おまけに小松前と話していた間中、私の事など忘れていたじゃないですか。不肖ながらこの久々野、野良猫も家猫も長らく務めて来ましたが、人の役に立ちこそすれ迷惑をかけた事は一度たりとも御座いません。あなた方にだってそれは変わらないと思うんですがね」
顔を茉莉の肩に乗せて身体を腹側から彼女の身体に凭れる形で密着させられている久々野は、彼女の左腕に支えられる体勢のまま腹いせに移動中愚痴り通しなのである。
「悪かったって私も涼平も言ってるでしょう? ほら、いーこいーこ」
耳元での終わりの見えない文句に、右手で久々野を撫でながら茉莉が猫撫で声で宥める。彼女から数段上がった位置に、クーラーボックスを肩に下げて苦笑する涼平の姿があった。
「にゃ……はっ。いや、私は今年でもう四百と十九歳ですから、たかだか二十六の小娘にいーこ言われても困るんですけどもねいや本当に」
とは言いつつも一瞬頭を撫でられる幸福感に呑まれかけた久々野である。
当然飼い主としては家畜のそういった心の動きを完璧に読んでおり、久々野が喋る分どこをどうすればいいかは必要以上に良く分かっていた。加えて、普段久々野はあまり触らせてくれないが、今の状態では為すがままなのだ。
「はいはい、じゃあ喉こそぐりましょうね~」
よって、ごまかしの意味合いも含んだ茉莉の手は、日頃あまり触れないという鬱積も加味して何の躊躇も無く久々野の喉へ伸びていく。
「何をっ、てはっ、あふっ、そこはっ、くぅ、こちらが動けないのをいい事に好き勝手」
「こぉちょこちょこちょこちょ~」
「ぬひゃあっ? くっ、いやもう本当にっ、これ以上は」
「うんうん、じゃあこの辺はどうかなーえいえい」
「うひょおおおお!?」
「ごめんなさいねー、放置しちゃってー」
「……にゃー」
「でも忘れていた訳じゃないのよぉ?」
「にゃあーう」
「よーしよしよしよぉし」
「なぁお」
「許してくれる?」
「ごーろごーろごーろ」
「イイ子ねー」
「ふぐるにゃー」
「んー可愛い可愛い。こいつめこーしてくれる」
「んにゃーあぐる」
見ようによっては哀れな展開が茉莉と久々野との間に発生し、眉を八字に苦笑を深めた涼平は、止める機会を逸している事に気がついた。骨抜きに等しい有様になった久々野は暫く現実に復帰しないし、茉莉は茉莉で可愛くてふかふかで暖かいものが大好きなのだ。
例えば猫のような。
という訳で恐らく満面の笑みを浮かべているであろう茉莉を止める事は、彼女の性質上天変地異を覚悟しなければならない。内心で久々野に詫びつつ、結局自宅に着くまで涼平は茉莉を止める事ができなかった。
入居してまだ一月程度の涼平達が暮らす我が家は、高層マンションの二十七階にある。二人と一匹には充分過ぎる3LDKの間取りと南向きに加え、両隣の部屋が空いているという彼等にとっての好条件を誇っているのだ。
尚、この物件は前回の住家を渡辺の執念の追跡によって追われて以来、五日間の路上生活後に久々野が見つけてきたものである。
ただ広すぎる事や定期収入を得るのが難しい状態なども鑑み、はじめは涼平も茉莉も乗り気ではなかった。しかし前入居者がその部屋で自殺した等の関係であらぬ噂が立って部屋代が安くなっていたり、そう離れていない場所にある表優良裏武闘派という会社組織が、有能な先生を探していたりという情報を久々野が提示し、最終的に久々野側に回った茉莉の説得によって涼平も承服したのである。
決め手となったのは、「屋根とお風呂のある文化的生活」という題目による茉莉の演説だった。
いくら外道の技術で清潔は維持できるとはいえ、涼平の方も誰憚る事の無い湯船が恋しいといえば恋しかったのだ。
玄関前で立ち止まった涼平は、ポケットから独特な形状のディンブルキーを取り出す。それから、円筒形のそれを鍵穴に差込み開錠した。
「ただいま、と」
深夜の時間帯を考えて控え目に涼平は言って、正気を取り戻し自己嫌悪に陥っている久々野を抱いて満足顔の茉莉を先に玄関に入れる。
「……陵辱された。だから茉莉に抱かれるのは嫌いなんだ」
玄関が閉じられるなり久々野は茉莉の耳元で聞こえよがしに言って溜息をつく。早速抱きかかえる茉莉の腕から逃れようともがき始めていた。
「そんなに言わなくてもいいじゃない」
「無抵抗でその意志も無い相手を強制的に悦楽に導くのは陵辱といってなんら差し支えないでしょうが。あー、この感情を犬に噛まれたと思って忘れろとかいう人間様の言葉がほとほと理解できませんや」
「後者に関してはまぁ同意するけれど。でも声に出して嫌だとは言わなかったじゃない? 言ったら止めたわよ」
言葉だけならまだしも、この際茉莉の口元は小悪魔な笑みを浮かべている。
「……この悪魔め。万霊に呪われてしまえ。てか呪うぞ」
しゃあしゃあと言ってのけた茉莉に、目線を逸らした久々野はぼそりと呟いた。
「何か言った?」
「…………」
「…………」
「いーぃえーぇべぇっつにィー? なァんでもざいませんよォー」
「あぁらそおぉお?」
玄関内のソフトライトに照らされて仲の良い会話を繰り広げ始める二者を置いて、スリッパに履き替えた涼平は一足先に玄関から伸びる廊下の突き当たりにあるドアを開き、居間である一番広い部屋に入る。
壁のスイッチを押して電気を点ければ、暗い空間にい光が満ちた。視界に広がるのは、約九畳の広さと他三部屋へ続くドアを持つ、生活の中心の場である。
それでも生活感という点でやや希薄な印象を受けるのは、見つかれば即移住という面から、家具の類は備え付け以外は最低限しか置かれていないからだろう。
隣接する二畳半程度の台所にクーラーボックスを下ろし、屋上で決めた通り追儺用の柊の枝を取りに涼平は道具部屋へと足を向けた。
玄関へのドアを背に真っ直ぐ行き、「む」二歩でそれを停止する。
玄関へ続く先程閉じたドアが勢い良く開かれたからだ。
「どうし――」
続きを言う前に、開いた空間から姿を表した茉莉が、久々野を思い切り居間の空間へと投げつけていた。まだ床に叩き付けないだけ理性が感じられたが、それでも突然の行為に涼平は少々硬直する。玄関での言い合いは挨拶に等しい程度と認識して今まで間違っていなかったのだが。
弾丸軌道を描いて縦長の居間を端から端まで飛ばされる所だった久々野は、途中で妖力を用いたのか、不自然な軌道修正を行ってソファの上に着地する。
「茉莉も久々野さんも、一体何が?」
一先ず久々野は無事として、投擲後の姿勢のまま肩で息をする茉莉に涼平が声をかける。
返って来たのは何があったのか半泣きとなっている茉莉の顔だ。
「な――」
予想しなかった表情に息を呑んだ時、刹那で間合いを詰めた茉莉によって涼平は胸を押され足を掛けられ気が付いたら尻餅をついていた。そして立ち上がる前に茉莉が倒れ込んで来て彼の胸に顔を埋め、状況を理解すると同時に彼女が啜り泣き始めたのを知る。
身長差が約十センチである以上、こうでもしなければ咄嗟に胸に顔を埋められないのだが、それ以前に現状における茉莉の状態が涼平には信じられなかった。
「久々野さん」
宥めるように茉莉の背を撫でつつ、ソファの上で毛繕いをしていた久々野に問い掛ける。事態にしっかりした対応をするのは、事情を知ってからでも遅くは無い筈だ。
「……いや、まぁ、ちょっと私が言い過ぎたというか口が滑ったんですけどね。けど当然の報いですよ?」
「何を言ったんです、何を」
茉莉が啜り泣くなんていう事は滅多に無い。久々野は最初言い辛そうに耳を伏せていたが、黙秘を通せる筈も無いのは分かっているので、すぐに折れた。
「……背丈やそれに対する発育の悪さとか、肌の事とか」
この久々野の言葉、特に後者に茉莉はびくりと縮こまり、彼女を撫でる涼平の手を止めさせる。
「それが、どれだけ茉莉を傷付けるか分かっているのか」
凪が薄くなったらしく、涼平の口調がはっきりと厳しくなった。
実際、発育はともかくとして茉莉の肌には裂傷がある。顔にあるような傷が、服にすっぽりと覆われた全身に、大小様々それこそ無数に及んでいるのだ。発育に関してはこれが原因と考えられるのだが、宵月は女系氏族なのである。そして女系である以上婿を外から迎えなければならないのであり、四百年近くそれを維持し続ける事ができたのは、宵月の娘は例外なく男性を惹き付けて止まない魅力的な外見を有していたからなのだ。
確かに顔の二本を除外して見る事さえできれば、茉莉とてそこ等の美女と充分張り合えるだけの魅力を見出す事ができる。
だが誰がなんと言おうと、他ならぬ茉莉が一番傷の事を気にしていた。
宵月中で一番高い背丈である事も含め、女性味の足りない自分の体は茉莉にとって大きなコンプレックスなのだ。そこを報復として口さがなく久々野に指摘されれば、激情に任せて投げつけもするし、直後にその行動に情けなくなって泣きたくもなる。
「……そうは言いますが、私だって受けた精神的被害は泣けるもんなら泣きたい位ですよ? これで精神的に未熟な時分なら心が張り裂けて舌を噛んでても不思議じゃない」
突き刺さるような涼平の視線と心臓が止まりそうな緊張感に、久々野もまた縮こまりながら抗弁した。確かに、久々野の心情も汲めば先に手を出したのは茉莉であるし、猫である久々野に人の常識を全面的に押し付けるわけにもいかない。
数秒間の脳内審議の後、ぎりぎりで涼平はどちらの肩も持たない事にした。
「だからといって、思い切り刺激しなくてもいいでしょうに」
深呼吸をした後凪を取り戻した涼平は、全く、と茉莉へ視線を戻す。
「ほら、茉莉もそんなに泣かないで。世の誰がなんと言おうと、僕は気にしていないから」
言ってそっと抱き締めると、きゅっと抱き返された。この無言の仕草に、涼平は年上の人間に対するものではない類の、保護欲を掻き立てられる強烈な愛おしさを感じてしまう。
瞬間的に、涼平は先程自分が出した裁定を撤回した。
夫が妻の肩を持たずしてどうするのだ。
そう思って涼平は久々野の方へ顔を向けるが、直後に聞こえた声によって動きを止める。
「……本当に?」
胸に顔を埋めたままの、震え、心細さが明確に伝わってくる声。これもまた、涼平の心にある彼女への愛しさを奮い立たせるのに充分な威力を持っていた。
誰が悪い何が悪い、という事がどうでも良くなるほどに。
「本当だとも。胸なんて無くていいし、滑らかな肌なんて無くていい。僕が君を好きになり愛するようになったのは、そんな事が原因じゃないからね。だからもう、泣かなくていいんだ」
無限の優しさで作られた涼平の言葉は、茉莉の心に慈雨のように染み渡り、彼女の心にある彼への愛おしさを爆発的に過熱させる。滲む涙が、悔しさや後悔や情けなさの入り混じった冷たいものから、嬉しさや喜びからの暖かいものへと変わっていく。
「……もっと」
囁きよりも小さな声。
「ん?」
「……もっと言って」
「ああいいとも、君が望む限り僕は君への恋歌を歌おう。君が再び辛い事を言われる事があっても、気にせず跳ね除けるだけの強さの糧を君にあげよう。僕が君を何より愛しているという言葉の代わりに、君を縛る荊を枯死させるために。……そして君が、もう泣かないためにね」
傍から聞いている久々野からすれば、歯が浮き過ぎてどこかむず痒くなるような台詞を涼平は平然と澱みなく言い切る。そしてて二人はまた固く抱擁を交わした。
「…………」
それを見た久々野はそんな事をしている場合じゃないでしょうがと言ってやりたくもなったが、一分の隙も無くまた発生した二人だけの世界が居間を侵蝕している以上、ああ所詮は無駄ですかと溜息を吐くに留まらざるを得ない。
ただ、屋上での件もあったばかりだから今回は多少早く終わるだろうという若干の希望を含んだそれは、ものの見事に裏切られる事になる。
結局、二人の抱擁が解かれたのは屋上の時以上の時間が掛かっていた。こちらに帰ってきてから今に至るまでで、下手をしなくても一時間は経っている。
「それじゃあ、鰯のお頭と大豆の用意、頼むね。僕は柊の枝を取ってくる。低い方のタンスの上三左二だったね?」
先に立ち上がり、涼平は茉莉へ手を差し出す。その手を取って茉莉は立ち上がり、涙の後は残っているものの何時に無く晴れやかな顔で「ええ。お願い」と応えた。
あーもー一生やってろ脳内桃色春爛漫系バカ夫婦が。久々野はそう内心で毒づいた後、でも泥沼化しなくて良かったかと思いながらソファ上に寝そべった。
「久々野ー、鰯の胴あげるからおいでー」
「うわーい。できれば腸と小骨抜いてくれると私としてはもう小躍りしますが何かー」
しかし台所からかけられた上機嫌の茉莉の声で、久々野はとてつもなく程俊敏に起き上がり、尻尾もぴんと立てて台所へと駆け込んでいる。途中、道具部屋へと向かう涼平がこちらを見ながら露骨に笑っていたように見えたが、久々野はそんな瑣末な事はどうでも良いのだ。
明るい居間から暗い道具部屋に入り、ドアを閉めた後涼平は電気を点ける。
「やあやあ、遅かったな」
明るくなるのと同時に掛けられたのは、聞き覚えのある何か愉しそうな声。思わず頭痛を覚えた涼平は、眉間に指をやって暫く瞼を閉じた。
数秒後、良しと思って瞼を開ける。
「…………」
何も変わらない現実を認識させられた。四畳程度の道具部屋は、壁に涼平と茉莉の得物が掛けられ、その他雑多な物が適度な整理整頓をもって置かれている部屋だ。
その部屋の居間からドア越しに差し込む光からちょうど隠れる位置に、椅子に窮屈そうに座って足を組み、片手に可愛らしいピンク色のカバーがかぶさった小冊子を持つ逸隼丸がいる。
「……何故貴方がここにいるんですか」
涼平の問いに、逸隼丸は無言のまま片側が全開となっているベランダへのサッシを指差した。分かりやすい解答といえばそうだし、二十七階だという事や鍵が掛かっていた筈だという事も、彼からすれば問題ではないのだろう。
そういえば警備会社なり管理会社なりに連絡がいっていないかと不安になったが、電話が鳴っていない時点でこの心配は打ち消された。……電話線が無事だと信じたい。
他にも思うところはあるが、それ等よりも先ず確認しなければならない事がある。
「侵入者対策として簡易結界を施しておいた筈ですが」
本に栞を挟み、それを懐に収めながら逸隼丸は鼻で嗤った。
「あんなものは障害にもならんよ。膝丈の蔦を跨ぐようなものだし、本当に侵入を妨げたいのなら簡易などといってケチるような真似は、慎む事だな」
「留意します。……それで、何の用ですか」
さりげなく警戒を見せる涼平に、逸隼丸は足を組み替える。
「お前が渡辺で、この我は鬼だ。さて、それで他にどんな理由が必要かな?」
逸隼丸の口端が釣り上がったのを見て、無意識に涼平は背後のドアへ目線を動かしてしまう。そこへ逸隼丸の愉しげな含み笑いが聞こえてきた。
「安心したまえ、奥方には手を出さんよ。その気が有れば、お前達が抱き合っている隙に幾らでもどうにでもできたのだからな」
「……本当に、茉莉には危害を加えないのですね?」
「そうだな、お前次第だという言葉を付け加えておこうか」
「――どういうつもりだ?」
凪が揺らいだ事で口調が変わった涼平に、逸隼丸はにやにやしながら椅子から立ち上がる。そうして天井ぎりぎりの巨躯を壁に掛けてある刀の方へ向けた。
「これを本気で振るわねば、もしくはお前が手を抜いていると我が判断した時点で、標的は即座にお前から奥方へと移る、という事だ。明快だろう?」
「茉莉は宵月だ。渡辺とは関係無い、手を出すな」凪が薄らぐ。
「ああそうだなそうだとも、そんな事は百も承知だ。だから、我と闘え」
「……外道と貴方がたとの間に横たわる血の歴史を繰り返すおつもりか。侵し侵され、殺し殺され、まだ飽き足らないと?」
涼平の言葉を受けて、逸隼丸は肩越しに彼を見る。その鋭い眼光には獰悪な光が宿り、見る者に本能的な畏怖を抱かせずにはいられないほどだ。
「下らん逃げ口上はよせ。愉しみに水を差さんでくれるか」
逸隼丸の言葉、態度。どう見ても、何を言おうと無駄だという雰囲気がありありと滲んでいる。
「……分かりました。受けてたちましょう」
だから、涼平は諦めた。
「初めからそう答えていればよいのだ。そら、これか? お前の得物は」
務めて平静に返された涼平の答に気を良くした逸隼丸は、壁に手を伸ばし、三振りの刀の内最上段に飾られていた太刀を手に取ってそれを涼平に放る。
片手で受け取った涼平は、深呼吸一つで心に凪を呼び戻した。
「確かに。……しかしどこで闘うんです。ここでは茉莉の性格上、僕と貴方の一対一を黙認しませんが」
「場所か? その心配ならば無用だぞ?」
涼平の疑問をさも異な事をと首を傾げた逸隼丸は、軽く握った右の拳をひょいと上げる。
「〝大武道場〟」
そして言ってすぐ、下の何も無い空間へと叩き付けた。すると、拳がぶつかった部分を中心として空間に立体的な亀裂が部屋中に迸り、終始音の無いまま空間は割れたガラスがぼろぼろと落ちるようにして消え去る。
咄嗟に亀裂を避けて屈んでいた涼平が真っ直ぐ立ち直した時には、道具部屋の景色は一変。床一面に畳が敷き詰められ、四方の端が見えないほど広大な空間に変わり果てている。
「……ここは?」
「少しはうろたえるとかしたらどうだ、可愛げの無い」
外見上は冷静に疑問をぶつけてきた涼平につまらんなぁと言いながら、逸隼丸は柏手を一つ。小松前ほどの厳粛さは無いが、場の空気を張り詰めさせるには充分な音が、無限の空間に響き渡った。
すると、どこからともなく鋼の色も禍々しい全長が四メートルは軽くある金砕棒が、空から彼の足下に大きな音を立てて落着する。
思わず頭上へ視線をやってしまう涼平を他所に、逸隼丸はその凶暴な金砕棒を右手一つで軽々と持ち上げた。その金砕棒は、持ち手の部分を中心に双頭仕様となっており、それぞれ角張った鉄鋲が打ち付けられている。また、持ち手部分の短さから、恐るべき事に片手用の代物である事が知れた。
「ふふん。力を誇示するのに、打撃武器ほど相応しい物は無い。……そうは思わんか」
満足げに金砕棒を見ながら、驚きを期待する目付きで逸隼丸は涼平を見る。三つ揃えに金砕棒という珍妙な取り合わせなのだが、逸隼丸という鬼はそれを相応しいものに見せるだけの風格と威厳があった。
「確かに、その点に関しては僕も同意見です」
しかし涼平は涼しく返し、逸隼丸の期待を無意識に裏切る。
「で、ここは? 見たところ僕と貴方だけここへ来たようですけど」
そればかりか逸隼丸の得物を気に止めた様子も無く再び同じ質問をして、逸隼丸に思い切り溜息を吐かせた。わざとならば大した者だ。それとも感動するだけの余裕が無いのか。
「御前が創られた光輪車と同様、ここは我が力によって創られた世界よ。余計な手出しも無く気の済むまで闘いたい時に創る場所でな、今までに幾度となく好敵手を引きずり込んだものだ」
「成る程、これも……創造の技術という訳ですか」
目に丸みが帯びた事を控え目な驚きと解釈した逸隼丸は、やっと満足がいった表情になる。
どうやら涼平は臨戦態勢に入ると普段以上に心の凪が強くなり、無感動に近い状態になるらしかった。先の逸隼丸の悪過ぎる冗談も立派な要因の一つなのかもしれない。
スリッパを脱ぎ、靴下を脱いだ涼平は素足で畳の上に足を下ろした。
「ならば、好きなだけできるという貴方の言葉も頷ける」
「分かったか。さて、それでは存分に愉しもうぞ、渡辺!」
宣言と同時に逸隼丸は、明らかにトンの重量を誇るであろう金砕棒を片手で持ったまま頭上で高速回転させ、物騒な音と共に颶風を巻き起こすと、充分に速度が載った所で薙ぐように涼平へと叩き下ろす。
ガドン! と戦車の主砲砲撃となんら遜色ない爆音が鳴り渡り、直接叩き付けられた畳やスリッパ等を消し飛ばし、更に打撃者自身の足場も含めた広範囲を一撃で陥没させた。
「……凄まじいにも程がある。桁が断然に違うなぁ。というかスリッパと靴下が」
しかし何時の間に移動したものか、破滅的な閃光の一撃を涼平は驚異的な反射と韋駄天の速度で大きく後退し躱している。逸隼丸の方はそうして当然と判断したようで、陥没から逃れた位置に立つ涼平を見上げる表情には、増々愉しげな感情が躍っていた。
「ふははははっ、履物なら後で弁償してやるから気にするな! しかし躱したな? 見事も見事よ。そしてそれでこそ、それでこそだ。初撃を無傷で躱したのはお前で十二人目、ならばこれはどうだ?」
言い終えるやいなや、逸隼丸の姿が霞み、圧倒的質量を涼平が背後に覚えた時には、金砕棒が彼の背へ思い切り振り下ろされている。まともに当たれば身体を二つに引きちぎり、受ける事ができても同様の結果が見えている即死の一撃。
だがそれすらも、涼平は歯を食い縛りながら最小限の動作で躱した。吹き降ろしの暴風の中、彼は振り向き様に太刀の柄に手を乗せる。
「夢譚・起動」
そして、片頭に続いて降って来る逸隼丸の二撃目を見ながら、短く速く呟いた。
その直後に太刀を神速で抜刀、自分へ向かって来た金砕棒を逆袈裟に斬り上げて両断する。流れるように返した袈裟懸けの太刀ゆきは正確無比に逸隼丸の右手を狙ったものだが、躊躇無く逸隼丸が跳び退った事で空を切るに留まる。
轟音が鳴り渡った。
逸隼丸の着地と断たれた金砕棒の落着が、同時だったという事の証明である。
「やるな。太刀ゆきが正確に見えなかったぞ」
金砕棒の鏡のような切断面をまじまじと見た後、逸隼丸は感嘆の面持ちで言った。
「貴方も。この太刀でなかったら、あの時点で決着は付いています」
応え、涼平はポケットから出した紐で鞘をズボンに結び佩く。そして右足を半歩引いて左半身の姿勢を取って厳かに太刀を上げると、左爪先の直線状に配された左拳が額から一握り分上に行った所で止めて諸手左上段の構えを取った。続いてそのまま両腕を下ろしていき、右拳が右肩辺りに達した辺りで止める。
完成した構えは、相手の出方を窺い、対応して動くという打ち込みの迅さに絶対の自信を持つ者が用いる八相の構えだ。
「おう、まるで涼やかなる風の如く隙も掴み所も無いな。しかも威圧が全く無い所からすると、平静に凪を保ったままか。……クク、まさしくお前の名のようじゃないか」
逸隼丸の言葉通り、構えを取った涼平は隙が無く、それでいて気迫が一切感じられないという不可思議な存在感を発していた。
通常ならばいざ闘うという段になってなんの意気も発しないという事は、始める前から勝負を投げているのと同じ事。だが涼平の逸隼丸の挙動を追う目付けは、逸隼丸に断じてそうではない事を物語っている。
「全く素晴らしい。源氏や平氏、足利、坂上、渡辺、碓井――これまで数限りない勇士と相対してきたが、お前程の若さでこれだけの手練は間違い無く初めてだ」
呟きながら逸隼丸は切り裂かれた金砕棒を数度頭上で回転させる。すると裂かれた部分に落下した部分が飛来して接合し、回転が止まった時には金砕棒は元通りになっていた。
「我が〝地震棒〟を完全に斬ったのはお前で三人目。ではお前は初めて我を倒す者になるか否か……くくく、ああ、血が沸く肉が奮える心が躍る、身体が猛者との闘いを前に歓喜に満たされる。だがな、だがだ。いざ再び始める前に聞いておきたい」
金砕棒を持たない左手で逸隼丸は涼平の太刀を指差す。
「その太刀、一体どのような代物だ? 造られてからそう経たぬ若輩の武器の割に、その切れ味。安綱とてああも易々とはいなかったぞ」
「旧き鬼に褒められたとあれば、鍛治の十哲に是非聞かせてやりたい言葉でしょう。しかし、手の内を明かせと言うのですか?」
微動だにせず涼平は返した。
「ふむ、それは一理ある。では先に我が地震棒の種を明かそう。何、こいつは実に単純でな、五十年ばかりの時を経て完成させた、重さ五百貫の鉄塊よ。存分に振るえば金剛を砕く事も容易い上、硬度も靭性も申し分無い」
誇らしげに言った後、逸隼丸はおよそ一・八トンもの重さを持つ地震棒を、まるで物干し竿を扱うように軽々と肩に担ぐ。そして次はそちらだと言わんばかりに、涼平の太刀に視線を向ける。
涼平は一つ頷き、構えはそのままで語り出した。
「……これは、日本に連綿と受け継がれてきた各刀剣を、科学的見地では必要な単位まで完全解析し、術法的見地では総じて七百年もの時をかけて魔的霊的原理を解明し、それら全てを超えるという目的で現代技術の粋を集めて完成した太刀。銘は、〝夢〟です」
直刃の刃文に鎬造りとあくまで標準的な造りの中、二尺三寸で先反りの刀身が淡く朱色に染まっている以外、夢は他の太刀とそう変わった部分は無い。だが涼平の持つ武器は、技術の粋を集めた古今無双の逸刀と考えて差し支えないのだ。
聞き終え、逸隼丸は面白げに顎を撫でた。
「成る程な、最強に相応しい贅沢品だ。……日比金で太刀を拵えるとはな」
「流石……色で分かりますか。確かにこれは日比金を仕上げた逸物です。……刀を振るう技術においては外道の徒随一である渡辺は、並の刀では技量を完全に活かしきれませんし、かといって布都や七支等の神太刀を扱えるほど進化していませんから。そこの所は、五十年もかけてその武器をお造りになった貴方も同じかと思いますが」
「くくっ、確かにそうだな。いよぅっしゃ、ならばこれより正真正銘、全力の時ぞ!」
四股を踏むように逸隼丸は大きく片足を上げ、畳に突き刺すような勢いで足を落として腰を落とす。次いで突き出した左手を荒縄を絞るような音を立てて握り締め、「おぁっ!」と掛け声一喝。
全身に込められた力に呼応するかのように膨張した上半身の筋肉が、スーツを内側から千地に引き裂いた。
これによってただでさえ強大だったシルエットがその重圧感を倍化させ、その全身から殺気を超えた鬼気を発散し、まるで彼を中心に暴風が吹き荒れているかのように涼平の髪と服を揺さぶる。
物理的現象を伴うまでに発達した意気は、それだけで相対者の生命力を削ぐかのようだ。
「自尊と私怨と意地と矜持に生きる者として、我が名は逸隼丸。若き好敵手の前に推参した事を、全身全霊で以って闘い贖うものなり」
筋骨隆々たる肉の鎧を露にした逸隼丸に対し、涼平は深く長い呼吸を二つ。
ここで応えない理由は無い。
「ただただ無心に最強を目指し、道半ばに人の真の生き様に気付いた者として。我が名は涼平、鬼斬りに名高き渡辺の姓を継ぐ者なり。旧き鬼の誓詞に応え、全身全霊で以ってお相手仕る」
宣言を終え、両者の筋肉が爆発に向けて力を溜め込み始めた。互いの目付けが、相手の初期動作を見逃すまいと鋭く光る。
ただ時が流れるだけで、さりさりと精神が磨耗していく前哨戦。
そんな中で、先に痺れを切らしたのは逸隼丸である。
「待つべくは鬼の性に非ず。そして語るべき時は終わった。即ち、今は行動の時よ!」
早い話、前哨に飽きたのだろう。言うや早いが即座に行動に出た。
まず重心を落とし、飛び掛るか地震棒を振り回すかと思わせて、彼は左拳を思い切り畳みに向けて打ち付ける。地震棒を使わずとも充分な縦揺れが涼平の立つ場所にまで一瞬で到達し、それは今まで大樹の根のようにどっしりとした安定感を持っていた涼平の足を、充分に揺るがす不意打ちだ。
「っせぇ!」
事の成功を確かめるよりも早く、逸隼丸は片頭だけで二メートルの長さを誇る地震棒を鋭く突き込む。相手の攻撃はこちらに届かず、棒を外に回って躱せば腕を振って薙ぎ払い、内に回って躱せば手首を捻ってやはり薙ぎ払うという、単純にして死にとてつもなく近い打突の一撃。
「シッ!」
しかし涼平は打突が届く前に足元の揺れを強烈な右の踏み込みで黙らせ、その踏みに併せて体を落とし左足を摺り出し、顔面を狙ってきた地震棒を夢の鎬で外へ往なしている。彼はそのまま一気に左足に体重を乗せて右足を深く摺り出し、驚いた顔の逸隼丸を夢の間合いに捉え、擦れ違う夢と地震棒が火花を散らすのにも構わず棒に沿って逸隼丸へと太刀ゆきを示す。
この期に及んで尚も凪を維持したままの涼平の心持ちと、死を恐れぬ太刀ゆきの迷いの無さに逸隼丸は感心しながら、即座に左拳を涼平の右膝を狙って打ち込んだ。
涼平が躱せば逸隼丸に太刀は届かず、躱さなくとも踏み出した足を砕かれては太刀を届かせる事は出来無いだろう。そして、躱せば右腕で涼平を抱き砕けば事が済む。
「っ!」
だがそこで涼平はまたも逸隼丸を驚かせた。膝を狙ってきた拳に対し、即座に斬戟を捨てて絶妙のタイミングで左拳に右足を乗せ、右腕が動く前に逸隼丸の左腕に乗ったのだ。涼平は休み無く左足を逸隼丸の左肘に乗せようとする動きと共に、逸隼丸の首を確実に落とせる太刀ゆきで斬り込ませる。
だが逸隼丸は口許に笑みを作ると、瞬時に口腔で圧縮した空気を涼平の斬戟より尚早い速度で涼平の顔面目掛けて吹きかけた。
「ぅくっ!?」
唾も含まれるそれは、涼平の視界を一時的に暗闇に落とすには充分な効果を発揮し、激痛を伴って涼平に隙を作る。
「おおぁあっ!」
それを逃さず逸隼丸は腰から上体を左に回転させ、左腕から涼平を落とすと共に右腕でラリアットを叩き込んだ。更にそのラリアットを一応防御しながらも吹き飛んだ涼平に対し、ラリアットから手首を捻って地震棒を叩き付ける。
「ぬ……! はぁっ」
小松前からの警告を完全に忘れたようにしか見えない一撃だが、それをさせて当然と思わせる動きを涼平はしてのけた。見えぬ目にも関わらず、夢を一閃し自分を押し潰そうと迫る地震棒を再び断ち斬り、直撃を回避したのである。そのまま受身も取れずに涼平は畳に落ちたが、その脇に斬り取られた地震棒が畳に穴を開けて落着するのと同時に跳ね起きていた。
両目を閉じたままの涼平は、やはり左半身の姿勢で今度はやや両膝を曲げて、最も一般的で万能性に富んだ中段の構えを取る。
目が見えなくとも戦意を――一度も実感した事は無いが――失っていない涼平の様子に、逸隼丸は獰猛な笑みを浮かべて地震棒を回転。再び元通りになった地震棒を構えると、
「っそぉおおりゃあ!」
凪を崩さない涼平へと突き込んで行く。
対し涼平は高速で突進してくる逸隼丸から一歩も退かず、自らの得物の力を引き出すための短い詞を口ずさむ。
「〝夢寐揺籃〟」
夢が濃朱の色を刀身より立ち昇らせる。そして、逸隼丸の間合いに涼平が納まる。
「せえぇあっ!」
「〝顛倒〟」
広大な武道場の中で、旧き鬼と若き剣聖の業がぶつかり合う音が大きく響き渡った。
――道具部屋で涼平が逸隼丸の言葉に凪を忘れた時、解凍した鰯を捌いていた茉莉は、危うく包丁で自分の手を捌きそうになっていた。
「おっとっとっと、危ないところだったわ」
「ん、どーしたんですか」
解凍物と知って多少落胆したものの、それでも美味そうに鰯を食べながら久々野は茉莉を見上げる。咀嚼する口から魚身がぽろぽろと零れた。
それを見て茉莉は軽く眉根を寄せる。
「食べてから顔上げなさい。……涼平が凪を薄れさせたみたいなのよ」
「はぁ?」
「涼平が、凪を、薄れさせた、みたい」
唖然とする久々野に、茉莉は算数で1+1を教える一学期最初の先生のように、手振りも交えてゆっくり大きめの声で繰り返す。
途端久々野はへっ、と呆れた目をして、首を左右に振った。
「幾らなんでもそんな筈ないでしょう。涼平が凪を失うのはあなたに関する事柄のみで、それ以外では今まで失われた試しが一度たりとも無いんですよ? まぁ言わなくてもあなたが一等良く分かってる事かと思いますけど」
「それはそうだけど」「それはごちそうさま」「ってうるさい。でも間違える訳無いじゃない。他にこんな感覚を覚えるような事ってまず無いのよ?」
心配げな茉莉の視線と、今一本気になっていない久々野の視線が交錯する。
「しかしそれが本当なら只事じゃないような気がするんですがね」
「……そうよ、何を悠長な事を言ってるの私は」
返しつつ、久々野の一言で茉莉の危機感が増したのは間違いない。包丁をまな板に置き、両手に嵌めた薄手袋を外し、簡素な黒色エプロンを剥ぐように脱いで久々野を跨ぎ台所から居間に出た。
スリッパからフローリングの床を叩く軽い音を立てて道具部屋へと急ぐが、後数歩でドアノブに手が届くと言う所で、茉莉の胸騒ぎによく似た感覚は現れた時同様唐突に消え去っている。
「……あら?」
ドアノブに向かって出した手を所在無く上下させた後、実に自然に霧散したので気のせいだったのかもしれないような気がした茉莉は、手を引っ込めてその指を頬に当てて首を傾げた。
「おかしいなぁ。確かに、こう……うーん」
眉尻を下げて渦巻く疑問に軽く腕を組みつつ、茉莉は静かに左瞼を伏せる。だがこれといった答えは生まれず、涼平が出てきたら聞こうという結論に落ち着いた。
台所に戻ると、少し不機嫌になっている久々野が二尾目の鰯の腹に喰い付いている。
「どーでした」
今度は下を向いたまま食べながら久々野は言う。
「途中で消えたわ。何だったのかしら」
「聞けばいいじゃないですか。何を今更遠慮なんてするんです」
「そうだけど、別に急ぐ必要も無いじゃない?」
茉莉は行きと同様に久々野を跨いで台所に入った。
「……また跨いだ」
「あら、ごめんなさい。でもあなた達って出世なんて関係無いんじゃないの?」
剥いだエプロンを掛け直しながら、茉莉はくくっと意地悪に嗤って見せる。
「それは酷い誤解だ。僕らにだって序列はあるんですよ?」
「序列っていっても年功じゃないの。このまま生きていれば勝手に上がっていくでしょう」
茉莉は包丁を手に鰯をまな板に載せ、ストンと鮮やかな手付きで鰯を二つに切り分けた。
「そうやって考えると、出世できない即ち早死にするという図式は思い付かないんですか」
「言われてみればそうね。でもあなたって今まで何回跨れたの?」
口をもごもごと咀嚼させながら、久々野は皿から顔を上げて記憶を探る。
「――いちいち数えてません」
「なら今更一回や二回増えた所で問題無いじゃない」
鰯の胴を久々野の皿の上に載せながら、ここぞとばかりに茉莉は久々野の頭を撫でた。
「そう言う問題じゃないんですよ。あ、それと今のはセクハラに当たると思うんですが」
「そうかしら」
「両方ともそうですとも」
「そうかしらね?」
「そうですってば」
非難の目を浴び、流石に茉莉も手を離し作業を再開しようと立ち上がる。
「……ところで鰯美味しい?」
手袋を嵌めながら、さりげなく茉莉は言った。
「冷凍にしては美味い方です。わざわざ天然物だし、できれば新鮮なのを食べたかったと思うんですがこれって我儘? 唯我独尊?」
ものの見事に久々野は話題を取っ替えられたことに気付いていない。普段であれば愚痴が続くべきところだった筈なのに。
「いいんじゃない? 自分に正直で」
くす、と笑いつつ、茉莉は包丁を落とす。
トン、とまた新たにお頭鰯と首なし鰯ができ上がった。
「ああそういえば、柊の枝探すのにどれだけ手間取ってんですかね」
「え? 手間取るっていうより、場所は教えてあるから選んでるんじゃない? 枝振りのいいのとか、葉にある鬼の目突きが鋭いのとか」
「成る程。でも何時の間にそんな悩むほど柊の枝を取ってきたんで?」
「悩むほども無いわよ。せいぜい五、六本くらいだから、どっちかといえば全部使うわね」
言って、茉莉は自分の言葉に愕然となる。ではなぜ涼平はまだ戻って来ていないのか。
「あれ? なんかおかしくありませんかね」
「うん……どういうこと?」
再び包丁、手袋、エプロンを外し茉莉は久々野を避けて台所を出、道具部屋へと向かう。涼平の凪が消えた事が深く心に重く圧し掛かり、喉が渇くのを感じながら茉莉は道具部屋へのドアを開け放った。
「涼平っ!?」
だが道具部屋は蛻の殻。電気の点いている部屋を見回した茉莉の目に映ったのは、刀が一振り減っている壁と、開けられているベランダへのアルミサッシ。
「……え?」
吹き付ける風に、茉莉は呆然と外の景色に目を奪われた。が、すぐに我を取り戻して部屋に踏み込み、無くなっているのが涼平の太刀であると確認し、残った長短二振りの自分の刀が無事であるのを個々に手にとって確認する。タンスを開けてみるが、柊の枝に手をつけた様子は無い。その他、室内にこれといった変化は無く、強いて言えば何故か椅子が少し歪んでいる事くらいだ。
「まさか……」
一瞬、茉莉は嫌な考えを閃かせてしまった。
それは涼平が自分を置いて独りで織口邸へ行ってしまったのではないかというもので、自分を心配するという名目でなら充分やりかねない行為だからだ。
……まさか、まさか、まさか――でも、ああ、まさか――!
茉莉は否定し切れなかった。そして他に有力な答案が無いために、ますますそれに対する思いが強くなっていってしまう。やがてそればかりが心を席巻し、
「そんな、涼平……」
それを信じてしまうのにそう時間は掛からなかった。
いつのまにか俯いていた顔を上げる。その表情にあるのは、決意だ。
茉莉は壁に掛けられた二振りの内先ず脇差を手に取ると、黒い鞘に巻き付けてあった朱紐を解きスカート右側のベルト通しに結び付ける。続いて壁に掛けられた最後の一振りである、やはり黒い鞘の太刀も同様に結び付けた。
そして左側の突き当たりにあるクロゼットを開けて、陣羽織に似た裾の長い黒色の羽織を引っ張り出した。袖が無く、裾は刀を差した時に邪魔にならないよう二筋の切れ目が腰まで入っている。肩口や襟が美しく金糸で織り込まれているそれを勇壮に纏い、前を藍紐で結び止めた。
「どうでしたか――って、なに闘る気満々になってるんですか!?」
茉莉まで戻ってこないのを不審に思った久々野が道具部屋を覗いた時には、茉莉は洋装の上に裾長の羽織を着、腰に刀を二本差ししという身支度を終えていた。
「……涼平がね、多分私を置いて織口邸へ行ってしまったのよ」
「は? 多分ってなんですかそんな不確定な」
疑問を口にしながら部屋に入ってきた久々野に対し、茉莉は振り向いて開かれっぱなしのアルミサッシを指差す。
「私が入った時、夢が無くなっててあそこが開いてたの。そして涼平がいない。久々野ならどう考える?」
「あー……成る程。確かに、凪が揺らいだ事も考えるとそう思えなくも無いですが。それにしたって一言も無く消えるってのはどうかと」
「……そんなの、そんなの私を慮った結果に決まってるじゃない!」
突然の大声による断定に久々野は思わず固まってしまう。
「あ……そですか?」
「ええ」
この曖昧な言葉に茉莉は力強く頷く。
「――くはっ」
続いて、一瞬の内に久々野は茉莉に首根っこを引っ掴まれて持ち上げられていた。視線で何をするかと訴える久々野に、茉莉は怖い位優しい笑みで言う。
「一緒に行きましょう?」
なんでと久々野は声を大に叫びたかったが、今の状態では基本的に何もかもがままならない。結局久々野はぶらぶらと茉莉の手に下げられたまま、玄関へ行って靴を取り、戻って道具部屋を横切ってベランダに出る彼女を止める事ができなかった。
ベランダに出て靴を履いた茉莉は、軽く跳んでベランダの手摺に乗ると、織口邸のある方角をきっ、と睨んだ。
「さてと。……涼平、あなたの気遣いは嬉しいけれど、こういう時はそれ以上につい怒りを覚えてしまうわ。今後の為にそこの所はよく言っておかないと」
呟き、少し虚空を眺め満足げに笑った後、茉莉は二十七階の高さから躊躇無く跳躍した。
そのまま放物線軌道を描いて見る見る内に静かな道路が近付いてくるが、茉莉はあろう事か頭を下にして落下していた。そして、その姿勢のまま彼女は高層建築に挟まれた道路にタイミング良く風が吹くのに合わせ、疾風の意の術法を唱える。
「〝来たれ集えや、疾風の礎たる大気の流れ。我が身に寄りて翼を与えよ、そして我は空を行く。飛燕〟」「おげっ」
人の言葉にありながら人に対して向けられていない言葉が、流れる風に織り込まれ説け込んだのと同時に、真下に五つの透明な空気の輪が連続して形成される。
二つ目以降角度が付いて、最終的にアスファルトと並行する形になっているそこに茉莉は入り込んだ。一つ目の輪を潜ると同時に茉莉の身体は爆発的な加速を得続け、そして五個全てを潜り終えた時点で彼女に与えられていた時速は、燕の如く二百㎞を超えていた。当然久々野は大変だ。
一般乗用車を軽く上回る速度で道路上空を飛ぶ茉莉は、自分に与えられた凄まじい速度に瞼を閉じる事も無く、呼吸も難しい風圧の中で口ずさむように新たな術法を唱えた。
「〝舞えよ舞え、彩無き流れよとくと舞え。穏やかながらも荒れ狂い、暴虐と恩恵を振り撒いて全てを運ぶ疾風よ。一度揺らぎ、真綿の如く我が身を包め。風流〟」「ごふぁ」
茉莉の発した言葉の一言一句全てが大気へと説け込んでいく――いや、自身の周囲の大気とそれを形作る森羅万象を説き伏せていく。これによって、大気による無色の防御障壁が彼女の周りに展開された。
障壁内では無風状態及び一気圧条件下の呼吸を約束し、環境の変化による体温の低下を防ぐ事が出来、また、障壁自体は大気そのものでもある為、彼女から発散されていた風は全て消えている。これで久々野も安心だ。
「さて」前方からの風圧が消えた事に軽く頷き、茉莉はもう一度法を紡ぎ始める。
「〝行けよ行け、黄金の身を迸らせてとくと行け。遮るもの無き轟雷よ、闇と唸りと共に馳せ参じる音高き明滅よ。雲海を泳ぎ空を駆け抜け、夜空に煌く一閃となれ。紫電〟」
言葉の直後、飛燕を軽く凌ぐ大加速を自身に与えた茉莉は、発動点に大気幾つか環状放射して音速超過にまで達した。周囲の景色が一気に流線化する中、一気に狭くなった視界をものともせずに彼女は軌道を上方へ向ける。
本来ならば滑走路に見立てられた道路周辺は衝撃波によってかなりの被害を受ける筈だったが、風流の効果によって周囲の空間は何事も無く全くの平穏を保っていた。
進路を鋭角な斜め上、夜空に向けた辺りで、茉莉は今更ながら久々野を胸に抱き寄せる。彼にも術法は適用されて日記帳が、いつまでも首根っこを掴んだままの状態は割と危険だと考えたのだ。本来なら飛燕の段階でその発想に至るべきではあるが。
「ああまったく殺す気ですかよねぇちょっと。……もう、無茶をする」
頭を上げて前を向き、うつ伏せ姿勢で飛ぶ茉莉に久々野は愚痴を言う。ただ高さといい速度といい、注意一瞬で即死な分、愚痴は言ってもしっかりと彼女に掴まらざるをえない。
「遠呂知使ったばかりでここまでやるとは。相変わらず桁が腐る程多いですな」
通常、外道の徒の高等術法者でも遠呂知の発動には、複数の触媒を用いた上で三十分はかける。それを自己に内在する魔力だけで短時間に成したのだから、常識的には丸一日気を失っても不思議ではないのだ。幾らその後涼平から回復促進の接吻を受けたとは言え、先程のように平然と術法を複数展開する時点で、久々野の言葉通り茉莉は桁外れの存在と言えるのである。
「追いつくためなら多少の無理は必要経費よ。涼平は渡辺だから、あんまり術法は得意じゃないもの。代りに身体能力が図抜けてるけど、これだけやれば間に合う筈」
「だからって八意は疾風の術法に、でもって轟雷の術法ですか。……う~ん、滅茶苦茶だ。並の奴だったらとっくに力が底をついて、不足分を補うために霊力を使いすぎて寿命が縮んでるに決まってる」
「ん、まーほら。努力根性気合じゃ覆せない事実は世の中では往々にして在るものよ。それに今が夜だからできるのであって、日中ならちょっと辛いもの。でもま、天賦の才の辺りはやっぱり諦めて貰うしかないわね」
「うっわーっ、何言ってんのアンタってば超エラそー信じらんねー」
「おっほっほっほぉ、事実よ事実。私ったら幾世代かに一人の逸材なんですものぉ」
言って茉莉は子悪魔的笑みを浮かべ、久々野は呆れて溜息を吐いた。
と、空気抵抗による速度低下を抑える為に進路を斜めに取り続けていたのだが、雲を越えた辺りで久々野は子供のようにはしゃぎだす。
「うわっうわぁ、ホラあそこ飛行機だ飛行機ですよ飛行機飛行機大きいなぁ。あーそうだ。あいつと競争しみてはどうでしょうか。私達なら勝てますよ奴にさぁほらほらほら」
「煩いわよバカ猫。大体競争なんてやってる余裕ないし、都市伝説増やしてどうするの」
「やーまーそりゃそうですけどネー」
「まぁったく、ふざけてる場合じゃないでしょうに」
「ま、そうですが」
「さて、じゃあ高度落とすわ。まさか落ちるような事はないとは思うけど――しっかり掴まってなさい? あ、でも爪立てないでよ?」
意地悪な笑みを浮かべた後、茉莉の軌道が直線から数秒で真下へと変化する。
「は? え? おうわあああああああぁぁぁー! 落ちるっ、でも全然落下加速してないような気がっ!? あっという間に飛行機があんなに小さいのに!? ぃ違和感が怖いー! にゃあー!」
久々野の叫びにある通り、風流が効いている以上茉莉の周囲の空間はどんな高速状態でも風圧も無ければあるべき空気摩擦も無い。
常識が狂っている状況に、慣れていない者はつい我を見失いがちだ。
長く尾を引く久々野の叫びと共に、茉莉は織口邸へと辿り着こうとしていた。
四方を壁に囲まれ、畳張りの和やかな茶室の中。あれから酷くゆっくりと時は流れたが、春花の座る姿勢に大きな変化は無かった。彼女は周囲への警戒が可能な範囲で双眸を伏せており、つまり意識以外はほぼ眠っていると考えていい状態だ。
八彦は出て行ってからまだ一度も戻ってきてはおらず、一応の感覚による索敵では茶室の周囲には誰もいなかった。となればこの一帯には春花一人しかいない事になるのだが、逆にあからさますぎて彼女は脱出する気すら起こしていない。
なにしろ今自分の置かれている環境が、それだけならばかなり喜ぶべき場所だと感じているからだ。時折離れたどこかにある鹿威しが響の良い澄んだ音を立てる以外、自然の静けさに満たされるこの茶室内は、状況が状況でなければ彼女は進んで長居しただろう。
手本のような正座を揺るがせず、言ってしまえば無為な時間を過ごす中、不意の胸騒ぎに薄く双眸を開く。ここに来て初めてではない胸騒ぎに、春花は何か疑問を覚えながらも自制するように瞼を伏せる。
八彦の言った通り、この茶室にいる限り彼女は何もできないのだ。そして、あの周到な八彦がわざわざ逃亡の機会を寄越すとは思えない。理由でもあれば話は別だが、春花にはその理由が思い付かなかった。今はただ、じっと静かに機会を待つ他無いのだ。
……それにしても。
思う。不確定要素ばかりでおよそ実行性の無い八彦の計画だが、何故こうも間の悪い時に実行されてしまったのか。外道の徒の中でも特に優れた九つの一族の長全てが揃っている普段であれば、如何に織口、如何に八彦といえども叛乱が成就するとは考えないだろうに。
本当に間が悪い。現在、九つの内五つの長が慣例に則り外国組織への挨拶回りに出ているのだ。留守を任された四氏族の内、首魁である織口氏と大童であろう宵月を除いた残る二つ、十哲と安倍は、本拠が遠く離れている事からそう強く当てにはできない。
いいや、八彦の事だ。この九つに限らず、言葉通りに関係してくる可能性のある氏族全てに何らかの手が打ってあると見て間違いないだろう。彼の言葉を信じれば、準備に十年以上の時間をかけてきたのだ。外道の徒の元締めにも気付かせなかったのだろうから、やはり多くは望めそうに無い。
こうなると、もし気付いているのなら三年前に失脚させた姪を当てにしてしまいそうになる。六年前からの三年間のみとはいえ、あの姪は類稀なる才覚とそれを充分に発揮できるだけの鍛錬を積んで、宵月の長を任されていたのだ。渡辺の末子との件さえなければ、一度退いた春花が代理とはいえ再び長の役に就かされる事もなかったろうに。
「……あの、浅慮に走った救い難い大馬鹿者め」
二十年前に大半の氏族を巻き込んで起こった大惨事によって、治療技術の権威である神樂をしても治療し切れなかった裂傷を全身に負った姪を思い出し、春花は軽く下唇を噛む。
罵りが小さく口をついて出てしまっていたが、良く考えもせず感情の赴くまま一族を捨て、私情――尚言えば男――に走った姪に対し、今更何の遠慮が必要だろう。
だが今や敵地となったここで感情を乱すのは不味い。
深く息を吸い、吐く。
……もう一度……もう一度……これで最後。
心の波がやや落ち着いた所に、再び胸騒ぎがした。
「それにしてもこれは、一体なんだというの?」
今度は完全に双眸を開け、胸を右手で押さえながら、まるで本能が何かに抗っているかのような感覚に春花は首を捻る。体のどこにも異常は無い筈だが……。
かこん、と鹿威しの音が響いた。
胸に手を当てたまま、春花は深く考えこむ。すると癖なのか、左手がすいと持ち上がって、そのまま彼女は親指の爪を噛み始めた。始めは甘噛みする程度だったのだが、心当たりが出てこないのと、代理とはいえ氏族長がこんな所で何時までも足止めされている訳にはという焦燥によって、さほど間をおかずに噛むから齧るに移行してしまっている。
無意識の行為である以上、遠慮の無い歯が爪を皮膚から浮かせてしまうのにそう時間は掛からなかった。一瞬の鋭い痛みが徐々に指全体に広がって、それが鈍痛と変わって手全体を支配し始める。
「っ、…………く、む……あい、痛たたたた」
最初の内は眉を顰めるだけで耐えていたのだが、ついそのままもう一齧りしてしまったのがいけなかった。爪と皮膚の間から血が滴り始め、痛みも倍加してしまう。
春花は胸騒ぎも忘れて親指を口に含む。
――と、何故か霞が晴れたかのような錯覚を受けた。
別段茶室内の見通しが悪い訳でもないし、意識がはっきりしていなかった訳でもない。ただ唐突に、何か晴れやかな気分が心を支配したのだ。
「…………まさか」
暫く呆然としてしまったが、こうなる原因の一つに春花は心当たりがあった。傷の痛みによって八彦の術法が解かれたとすれば、実に納得がいくからだ。
八彦の、というか織口の得意とする技術は相手を惑わす事にある。撹乱と混乱と惑乱による三乱を基本とする技術は、まず正常な認識を撹乱し、そこから混乱を導き出し、最後に相手が自分を信じられなくなった迷いを助長して惑乱を形成させるのだ。
この技術の恐ろしい所は、練達者が行使すると自覚症状が無い事である。第一段階である撹乱の時点で、使われたと知っていない限り余程気を付けていないと気付かないのだ。
そして春花の味わった晴れやかさは、三乱から解かれた時の感覚と酷似している。
「織口翁め」
口腔に広がる美味くも無い血の味と怒りから目元をひくつかせ、口から親指を引き抜いた春花はすぐに立ち上がった。
よくよく考えてみれば、感覚で知れる範囲に見張りの類がいない時点で、悠々と出て行く事になんら問題無い筈なのだ。それを変な警戒心を起こして勝手に座っていたのだから、八彦からすればさぞ面白かっただろう。そして、なにより考えるまでも無く、夜という時間帯において何故宵月が織口相手に臆さねばならないのか。
「まったく……これでは娘達に示しがつかないわね」
自嘲気味に嗤いながら頭を振り、再び正面を向いた時には笑みの一切が消えていた。あるのは冷徹で油断の無い、外道の徒として相応しい面構えである。
春花自身ここ六年は実務から遠ざかっていたものの、曲がりなりにも長を務めていた身。得物を取り戻す事さえできれば、八彦相手でも五分以上で事を運ぶ事ができる筈なのだ。
自慢の紫黒の髪を一旦解き、再び括り直す事で気合を入れた春花は、久方ぶりの実戦を思い出しながら確認するように歩を刻む。
「…………」
畳の上を物音一つ無く歩けた事に軽く満足しながら茶室を後にした。
まず探すのは己の得物。手入れの行き届いた庭園を進みながら、春花は式や術法の類で外へ事態を伝える事も考えたが、流石にそれは織口の結界によって阻まれるだろうと即座に考える。
これは三乱によるものではなく、常識的な考えによるものだ。有事の際なら、春花自身もそういう措置をとるからである。それに万が一結界が無かったとしても、あった場合のリスク――自分の居場所を報せる事になる――を考えれば控えるのが常套だ。それに、それを逆用できるほど彼女は織口邸の地理に詳しくない。
春花は一旦木陰で立ち止まり、空気の動きを全身で感じて周囲に人間か機械等の警備が無いかどうかを探査する。
結果は、何も見つからなかった。呆れる程の無防備に、三乱の事も考えて親指を噛んだ後もう一度調べてみたが、痛いだけで結果は変わらずである。赤外線や監視カメラ等に罠があって当然かと思っていたのだが(実際宵月の庭には山と色々な仕掛けがある)、これには首を傾げざるを得ない。しかし茶室から母屋への道程という事と、八彦の過信とを併せて考えれば無くも無いので、春花は深く気にせずに行動を再開する。
夜空の下、織口邸へ向かって年齢不相応の軽い身のこなしで疾走し始めた春花だが、親指の血を口に含んでいたせいで、母屋から漂う微かな血臭には全く気付いていなかった。
参 ― 表
「――そう、私は何度も申し上げたんですよ? それなのにあなた方は妹背振りを発散し続けていたんですよ全く、仲睦まじい事が悪いとは一切申し上げませんがしかしもう少し気を配るべき事があるでしょうに。例えば私とか私とか私とか」
久々野は茉莉に抱かれ、階段を下りる道程を揺られていた。長々と続いた涼平達の抱擁が終わった時、彼はフテ寝に入っていたのである。
気が済んだからさあ部屋に戻って色々準備をしようと抱擁を解いた二人はやさぐれた久々野を発見し、彼が寝ているのをいい事に茉莉は彼を抱き上げたのだった。その際に目を覚ました久々野は、抱き上げられている事態に抗議をしたが、ハンカチで彼の毛皮の汚れを拭い去っている茉莉に無視されていた。
「おまけに小松前と話していた間中、私の事など忘れていたじゃないですか。不肖ながらこの久々野、野良猫も家猫も長らく務めて来ましたが、人の役に立ちこそすれ迷惑をかけた事は一度たりとも御座いません。あなた方にだってそれは変わらないと思うんですがね」
顔を茉莉の肩に乗せて身体を腹側から彼女の身体に凭れる形で密着させられている久々野は、彼女の左腕に支えられる体勢のまま腹いせに移動中愚痴り通しなのである。
「悪かったって私も涼平も言ってるでしょう? ほら、いーこいーこ」
耳元での終わりの見えない文句に、右手で久々野を撫でながら茉莉が猫撫で声で宥める。彼女から数段上がった位置に、クーラーボックスを肩に下げて苦笑する涼平の姿があった。
「にゃ……はっ。いや、私は今年でもう四百と十九歳ですから、たかだか二十六の小娘にいーこ言われても困るんですけどもねいや本当に」
とは言いつつも一瞬頭を撫でられる幸福感に呑まれかけた久々野である。
当然飼い主としては家畜のそういった心の動きを完璧に読んでおり、久々野が喋る分どこをどうすればいいかは必要以上に良く分かっていた。加えて、普段久々野はあまり触らせてくれないが、今の状態では為すがままなのだ。
「はいはい、じゃあ喉こそぐりましょうね~」
よって、ごまかしの意味合いも含んだ茉莉の手は、日頃あまり触れないという鬱積も加味して何の躊躇も無く久々野の喉へ伸びていく。
「何をっ、てはっ、あふっ、そこはっ、くぅ、こちらが動けないのをいい事に好き勝手」
「こぉちょこちょこちょこちょ~」
「ぬひゃあっ? くっ、いやもう本当にっ、これ以上は」
「うんうん、じゃあこの辺はどうかなーえいえい」
「うひょおおおお!?」
「ごめんなさいねー、放置しちゃってー」
「……にゃー」
「でも忘れていた訳じゃないのよぉ?」
「にゃあーう」
「よーしよしよしよぉし」
「なぁお」
「許してくれる?」
「ごーろごーろごーろ」
「イイ子ねー」
「ふぐるにゃー」
「んー可愛い可愛い。こいつめこーしてくれる」
「んにゃーあぐる」
見ようによっては哀れな展開が茉莉と久々野との間に発生し、眉を八字に苦笑を深めた涼平は、止める機会を逸している事に気がついた。骨抜きに等しい有様になった久々野は暫く現実に復帰しないし、茉莉は茉莉で可愛くてふかふかで暖かいものが大好きなのだ。
例えば猫のような。
という訳で恐らく満面の笑みを浮かべているであろう茉莉を止める事は、彼女の性質上天変地異を覚悟しなければならない。内心で久々野に詫びつつ、結局自宅に着くまで涼平は茉莉を止める事ができなかった。
入居してまだ一月程度の涼平達が暮らす我が家は、高層マンションの二十七階にある。二人と一匹には充分過ぎる3LDKの間取りと南向きに加え、両隣の部屋が空いているという彼等にとっての好条件を誇っているのだ。
尚、この物件は前回の住家を渡辺の執念の追跡によって追われて以来、五日間の路上生活後に久々野が見つけてきたものである。
ただ広すぎる事や定期収入を得るのが難しい状態なども鑑み、はじめは涼平も茉莉も乗り気ではなかった。しかし前入居者がその部屋で自殺した等の関係であらぬ噂が立って部屋代が安くなっていたり、そう離れていない場所にある表優良裏武闘派という会社組織が、有能な先生を探していたりという情報を久々野が提示し、最終的に久々野側に回った茉莉の説得によって涼平も承服したのである。
決め手となったのは、「屋根とお風呂のある文化的生活」という題目による茉莉の演説だった。
いくら外道の技術で清潔は維持できるとはいえ、涼平の方も誰憚る事の無い湯船が恋しいといえば恋しかったのだ。
玄関前で立ち止まった涼平は、ポケットから独特な形状のディンブルキーを取り出す。それから、円筒形のそれを鍵穴に差込み開錠した。
「ただいま、と」
深夜の時間帯を考えて控え目に涼平は言って、正気を取り戻し自己嫌悪に陥っている久々野を抱いて満足顔の茉莉を先に玄関に入れる。
「……陵辱された。だから茉莉に抱かれるのは嫌いなんだ」
玄関が閉じられるなり久々野は茉莉の耳元で聞こえよがしに言って溜息をつく。早速抱きかかえる茉莉の腕から逃れようともがき始めていた。
「そんなに言わなくてもいいじゃない」
「無抵抗でその意志も無い相手を強制的に悦楽に導くのは陵辱といってなんら差し支えないでしょうが。あー、この感情を犬に噛まれたと思って忘れろとかいう人間様の言葉がほとほと理解できませんや」
「後者に関してはまぁ同意するけれど。でも声に出して嫌だとは言わなかったじゃない? 言ったら止めたわよ」
言葉だけならまだしも、この際茉莉の口元は小悪魔な笑みを浮かべている。
「……この悪魔め。万霊に呪われてしまえ。てか呪うぞ」
しゃあしゃあと言ってのけた茉莉に、目線を逸らした久々野はぼそりと呟いた。
「何か言った?」
「…………」
「…………」
「いーぃえーぇべぇっつにィー? なァんでもざいませんよォー」
「あぁらそおぉお?」
玄関内のソフトライトに照らされて仲の良い会話を繰り広げ始める二者を置いて、スリッパに履き替えた涼平は一足先に玄関から伸びる廊下の突き当たりにあるドアを開き、居間である一番広い部屋に入る。
壁のスイッチを押して電気を点ければ、暗い空間にい光が満ちた。視界に広がるのは、約九畳の広さと他三部屋へ続くドアを持つ、生活の中心の場である。
それでも生活感という点でやや希薄な印象を受けるのは、見つかれば即移住という面から、家具の類は備え付け以外は最低限しか置かれていないからだろう。
隣接する二畳半程度の台所にクーラーボックスを下ろし、屋上で決めた通り追儺用の柊の枝を取りに涼平は道具部屋へと足を向けた。
玄関へのドアを背に真っ直ぐ行き、「む」二歩でそれを停止する。
玄関へ続く先程閉じたドアが勢い良く開かれたからだ。
「どうし――」
続きを言う前に、開いた空間から姿を表した茉莉が、久々野を思い切り居間の空間へと投げつけていた。まだ床に叩き付けないだけ理性が感じられたが、それでも突然の行為に涼平は少々硬直する。玄関での言い合いは挨拶に等しい程度と認識して今まで間違っていなかったのだが。
弾丸軌道を描いて縦長の居間を端から端まで飛ばされる所だった久々野は、途中で妖力を用いたのか、不自然な軌道修正を行ってソファの上に着地する。
「茉莉も久々野さんも、一体何が?」
一先ず久々野は無事として、投擲後の姿勢のまま肩で息をする茉莉に涼平が声をかける。
返って来たのは何があったのか半泣きとなっている茉莉の顔だ。
「な――」
予想しなかった表情に息を呑んだ時、刹那で間合いを詰めた茉莉によって涼平は胸を押され足を掛けられ気が付いたら尻餅をついていた。そして立ち上がる前に茉莉が倒れ込んで来て彼の胸に顔を埋め、状況を理解すると同時に彼女が啜り泣き始めたのを知る。
身長差が約十センチである以上、こうでもしなければ咄嗟に胸に顔を埋められないのだが、それ以前に現状における茉莉の状態が涼平には信じられなかった。
「久々野さん」
宥めるように茉莉の背を撫でつつ、ソファの上で毛繕いをしていた久々野に問い掛ける。事態にしっかりした対応をするのは、事情を知ってからでも遅くは無い筈だ。
「……いや、まぁ、ちょっと私が言い過ぎたというか口が滑ったんですけどね。けど当然の報いですよ?」
「何を言ったんです、何を」
茉莉が啜り泣くなんていう事は滅多に無い。久々野は最初言い辛そうに耳を伏せていたが、黙秘を通せる筈も無いのは分かっているので、すぐに折れた。
「……背丈やそれに対する発育の悪さとか、肌の事とか」
この久々野の言葉、特に後者に茉莉はびくりと縮こまり、彼女を撫でる涼平の手を止めさせる。
「それが、どれだけ茉莉を傷付けるか分かっているのか」
凪が薄くなったらしく、涼平の口調がはっきりと厳しくなった。
実際、発育はともかくとして茉莉の肌には裂傷がある。顔にあるような傷が、服にすっぽりと覆われた全身に、大小様々それこそ無数に及んでいるのだ。発育に関してはこれが原因と考えられるのだが、宵月は女系氏族なのである。そして女系である以上婿を外から迎えなければならないのであり、四百年近くそれを維持し続ける事ができたのは、宵月の娘は例外なく男性を惹き付けて止まない魅力的な外見を有していたからなのだ。
確かに顔の二本を除外して見る事さえできれば、茉莉とてそこ等の美女と充分張り合えるだけの魅力を見出す事ができる。
だが誰がなんと言おうと、他ならぬ茉莉が一番傷の事を気にしていた。
宵月中で一番高い背丈である事も含め、女性味の足りない自分の体は茉莉にとって大きなコンプレックスなのだ。そこを報復として口さがなく久々野に指摘されれば、激情に任せて投げつけもするし、直後にその行動に情けなくなって泣きたくもなる。
「……そうは言いますが、私だって受けた精神的被害は泣けるもんなら泣きたい位ですよ? これで精神的に未熟な時分なら心が張り裂けて舌を噛んでても不思議じゃない」
突き刺さるような涼平の視線と心臓が止まりそうな緊張感に、久々野もまた縮こまりながら抗弁した。確かに、久々野の心情も汲めば先に手を出したのは茉莉であるし、猫である久々野に人の常識を全面的に押し付けるわけにもいかない。
数秒間の脳内審議の後、ぎりぎりで涼平はどちらの肩も持たない事にした。
「だからといって、思い切り刺激しなくてもいいでしょうに」
深呼吸をした後凪を取り戻した涼平は、全く、と茉莉へ視線を戻す。
「ほら、茉莉もそんなに泣かないで。世の誰がなんと言おうと、僕は気にしていないから」
言ってそっと抱き締めると、きゅっと抱き返された。この無言の仕草に、涼平は年上の人間に対するものではない類の、保護欲を掻き立てられる強烈な愛おしさを感じてしまう。
瞬間的に、涼平は先程自分が出した裁定を撤回した。
夫が妻の肩を持たずしてどうするのだ。
そう思って涼平は久々野の方へ顔を向けるが、直後に聞こえた声によって動きを止める。
「……本当に?」
胸に顔を埋めたままの、震え、心細さが明確に伝わってくる声。これもまた、涼平の心にある彼女への愛しさを奮い立たせるのに充分な威力を持っていた。
誰が悪い何が悪い、という事がどうでも良くなるほどに。
「本当だとも。胸なんて無くていいし、滑らかな肌なんて無くていい。僕が君を好きになり愛するようになったのは、そんな事が原因じゃないからね。だからもう、泣かなくていいんだ」
無限の優しさで作られた涼平の言葉は、茉莉の心に慈雨のように染み渡り、彼女の心にある彼への愛おしさを爆発的に過熱させる。滲む涙が、悔しさや後悔や情けなさの入り混じった冷たいものから、嬉しさや喜びからの暖かいものへと変わっていく。
「……もっと」
囁きよりも小さな声。
「ん?」
「……もっと言って」
「ああいいとも、君が望む限り僕は君への恋歌を歌おう。君が再び辛い事を言われる事があっても、気にせず跳ね除けるだけの強さの糧を君にあげよう。僕が君を何より愛しているという言葉の代わりに、君を縛る荊を枯死させるために。……そして君が、もう泣かないためにね」
傍から聞いている久々野からすれば、歯が浮き過ぎてどこかむず痒くなるような台詞を涼平は平然と澱みなく言い切る。そしてて二人はまた固く抱擁を交わした。
「…………」
それを見た久々野はそんな事をしている場合じゃないでしょうがと言ってやりたくもなったが、一分の隙も無くまた発生した二人だけの世界が居間を侵蝕している以上、ああ所詮は無駄ですかと溜息を吐くに留まらざるを得ない。
ただ、屋上での件もあったばかりだから今回は多少早く終わるだろうという若干の希望を含んだそれは、ものの見事に裏切られる事になる。
結局、二人の抱擁が解かれたのは屋上の時以上の時間が掛かっていた。こちらに帰ってきてから今に至るまでで、下手をしなくても一時間は経っている。
「それじゃあ、鰯のお頭と大豆の用意、頼むね。僕は柊の枝を取ってくる。低い方のタンスの上三左二だったね?」
先に立ち上がり、涼平は茉莉へ手を差し出す。その手を取って茉莉は立ち上がり、涙の後は残っているものの何時に無く晴れやかな顔で「ええ。お願い」と応えた。
あーもー一生やってろ脳内桃色春爛漫系バカ夫婦が。久々野はそう内心で毒づいた後、でも泥沼化しなくて良かったかと思いながらソファ上に寝そべった。
「久々野ー、鰯の胴あげるからおいでー」
「うわーい。できれば腸と小骨抜いてくれると私としてはもう小躍りしますが何かー」
しかし台所からかけられた上機嫌の茉莉の声で、久々野はとてつもなく程俊敏に起き上がり、尻尾もぴんと立てて台所へと駆け込んでいる。途中、道具部屋へと向かう涼平がこちらを見ながら露骨に笑っていたように見えたが、久々野はそんな瑣末な事はどうでも良いのだ。
明るい居間から暗い道具部屋に入り、ドアを閉めた後涼平は電気を点ける。
「やあやあ、遅かったな」
明るくなるのと同時に掛けられたのは、聞き覚えのある何か愉しそうな声。思わず頭痛を覚えた涼平は、眉間に指をやって暫く瞼を閉じた。
数秒後、良しと思って瞼を開ける。
「…………」
何も変わらない現実を認識させられた。四畳程度の道具部屋は、壁に涼平と茉莉の得物が掛けられ、その他雑多な物が適度な整理整頓をもって置かれている部屋だ。
その部屋の居間からドア越しに差し込む光からちょうど隠れる位置に、椅子に窮屈そうに座って足を組み、片手に可愛らしいピンク色のカバーがかぶさった小冊子を持つ逸隼丸がいる。
「……何故貴方がここにいるんですか」
涼平の問いに、逸隼丸は無言のまま片側が全開となっているベランダへのサッシを指差した。分かりやすい解答といえばそうだし、二十七階だという事や鍵が掛かっていた筈だという事も、彼からすれば問題ではないのだろう。
そういえば警備会社なり管理会社なりに連絡がいっていないかと不安になったが、電話が鳴っていない時点でこの心配は打ち消された。……電話線が無事だと信じたい。
他にも思うところはあるが、それ等よりも先ず確認しなければならない事がある。
「侵入者対策として簡易結界を施しておいた筈ですが」
本に栞を挟み、それを懐に収めながら逸隼丸は鼻で嗤った。
「あんなものは障害にもならんよ。膝丈の蔦を跨ぐようなものだし、本当に侵入を妨げたいのなら簡易などといってケチるような真似は、慎む事だな」
「留意します。……それで、何の用ですか」
さりげなく警戒を見せる涼平に、逸隼丸は足を組み替える。
「お前が渡辺で、この我は鬼だ。さて、それで他にどんな理由が必要かな?」
逸隼丸の口端が釣り上がったのを見て、無意識に涼平は背後のドアへ目線を動かしてしまう。そこへ逸隼丸の愉しげな含み笑いが聞こえてきた。
「安心したまえ、奥方には手を出さんよ。その気が有れば、お前達が抱き合っている隙に幾らでもどうにでもできたのだからな」
「……本当に、茉莉には危害を加えないのですね?」
「そうだな、お前次第だという言葉を付け加えておこうか」
「――どういうつもりだ?」
凪が揺らいだ事で口調が変わった涼平に、逸隼丸はにやにやしながら椅子から立ち上がる。そうして天井ぎりぎりの巨躯を壁に掛けてある刀の方へ向けた。
「これを本気で振るわねば、もしくはお前が手を抜いていると我が判断した時点で、標的は即座にお前から奥方へと移る、という事だ。明快だろう?」
「茉莉は宵月だ。渡辺とは関係無い、手を出すな」凪が薄らぐ。
「ああそうだなそうだとも、そんな事は百も承知だ。だから、我と闘え」
「……外道と貴方がたとの間に横たわる血の歴史を繰り返すおつもりか。侵し侵され、殺し殺され、まだ飽き足らないと?」
涼平の言葉を受けて、逸隼丸は肩越しに彼を見る。その鋭い眼光には獰悪な光が宿り、見る者に本能的な畏怖を抱かせずにはいられないほどだ。
「下らん逃げ口上はよせ。愉しみに水を差さんでくれるか」
逸隼丸の言葉、態度。どう見ても、何を言おうと無駄だという雰囲気がありありと滲んでいる。
「……分かりました。受けてたちましょう」
だから、涼平は諦めた。
「初めからそう答えていればよいのだ。そら、これか? お前の得物は」
務めて平静に返された涼平の答に気を良くした逸隼丸は、壁に手を伸ばし、三振りの刀の内最上段に飾られていた太刀を手に取ってそれを涼平に放る。
片手で受け取った涼平は、深呼吸一つで心に凪を呼び戻した。
「確かに。……しかしどこで闘うんです。ここでは茉莉の性格上、僕と貴方の一対一を黙認しませんが」
「場所か? その心配ならば無用だぞ?」
涼平の疑問をさも異な事をと首を傾げた逸隼丸は、軽く握った右の拳をひょいと上げる。
「〝大武道場〟」
そして言ってすぐ、下の何も無い空間へと叩き付けた。すると、拳がぶつかった部分を中心として空間に立体的な亀裂が部屋中に迸り、終始音の無いまま空間は割れたガラスがぼろぼろと落ちるようにして消え去る。
咄嗟に亀裂を避けて屈んでいた涼平が真っ直ぐ立ち直した時には、道具部屋の景色は一変。床一面に畳が敷き詰められ、四方の端が見えないほど広大な空間に変わり果てている。
「……ここは?」
「少しはうろたえるとかしたらどうだ、可愛げの無い」
外見上は冷静に疑問をぶつけてきた涼平につまらんなぁと言いながら、逸隼丸は柏手を一つ。小松前ほどの厳粛さは無いが、場の空気を張り詰めさせるには充分な音が、無限の空間に響き渡った。
すると、どこからともなく鋼の色も禍々しい全長が四メートルは軽くある金砕棒が、空から彼の足下に大きな音を立てて落着する。
思わず頭上へ視線をやってしまう涼平を他所に、逸隼丸はその凶暴な金砕棒を右手一つで軽々と持ち上げた。その金砕棒は、持ち手の部分を中心に双頭仕様となっており、それぞれ角張った鉄鋲が打ち付けられている。また、持ち手部分の短さから、恐るべき事に片手用の代物である事が知れた。
「ふふん。力を誇示するのに、打撃武器ほど相応しい物は無い。……そうは思わんか」
満足げに金砕棒を見ながら、驚きを期待する目付きで逸隼丸は涼平を見る。三つ揃えに金砕棒という珍妙な取り合わせなのだが、逸隼丸という鬼はそれを相応しいものに見せるだけの風格と威厳があった。
「確かに、その点に関しては僕も同意見です」
しかし涼平は涼しく返し、逸隼丸の期待を無意識に裏切る。
「で、ここは? 見たところ僕と貴方だけここへ来たようですけど」
そればかりか逸隼丸の得物を気に止めた様子も無く再び同じ質問をして、逸隼丸に思い切り溜息を吐かせた。わざとならば大した者だ。それとも感動するだけの余裕が無いのか。
「御前が創られた光輪車と同様、ここは我が力によって創られた世界よ。余計な手出しも無く気の済むまで闘いたい時に創る場所でな、今までに幾度となく好敵手を引きずり込んだものだ」
「成る程、これも……創造の技術という訳ですか」
目に丸みが帯びた事を控え目な驚きと解釈した逸隼丸は、やっと満足がいった表情になる。
どうやら涼平は臨戦態勢に入ると普段以上に心の凪が強くなり、無感動に近い状態になるらしかった。先の逸隼丸の悪過ぎる冗談も立派な要因の一つなのかもしれない。
スリッパを脱ぎ、靴下を脱いだ涼平は素足で畳の上に足を下ろした。
「ならば、好きなだけできるという貴方の言葉も頷ける」
「分かったか。さて、それでは存分に愉しもうぞ、渡辺!」
宣言と同時に逸隼丸は、明らかにトンの重量を誇るであろう金砕棒を片手で持ったまま頭上で高速回転させ、物騒な音と共に颶風を巻き起こすと、充分に速度が載った所で薙ぐように涼平へと叩き下ろす。
ガドン! と戦車の主砲砲撃となんら遜色ない爆音が鳴り渡り、直接叩き付けられた畳やスリッパ等を消し飛ばし、更に打撃者自身の足場も含めた広範囲を一撃で陥没させた。
「……凄まじいにも程がある。桁が断然に違うなぁ。というかスリッパと靴下が」
しかし何時の間に移動したものか、破滅的な閃光の一撃を涼平は驚異的な反射と韋駄天の速度で大きく後退し躱している。逸隼丸の方はそうして当然と判断したようで、陥没から逃れた位置に立つ涼平を見上げる表情には、増々愉しげな感情が躍っていた。
「ふははははっ、履物なら後で弁償してやるから気にするな! しかし躱したな? 見事も見事よ。そしてそれでこそ、それでこそだ。初撃を無傷で躱したのはお前で十二人目、ならばこれはどうだ?」
言い終えるやいなや、逸隼丸の姿が霞み、圧倒的質量を涼平が背後に覚えた時には、金砕棒が彼の背へ思い切り振り下ろされている。まともに当たれば身体を二つに引きちぎり、受ける事ができても同様の結果が見えている即死の一撃。
だがそれすらも、涼平は歯を食い縛りながら最小限の動作で躱した。吹き降ろしの暴風の中、彼は振り向き様に太刀の柄に手を乗せる。
「夢譚・起動」
そして、片頭に続いて降って来る逸隼丸の二撃目を見ながら、短く速く呟いた。
その直後に太刀を神速で抜刀、自分へ向かって来た金砕棒を逆袈裟に斬り上げて両断する。流れるように返した袈裟懸けの太刀ゆきは正確無比に逸隼丸の右手を狙ったものだが、躊躇無く逸隼丸が跳び退った事で空を切るに留まる。
轟音が鳴り渡った。
逸隼丸の着地と断たれた金砕棒の落着が、同時だったという事の証明である。
「やるな。太刀ゆきが正確に見えなかったぞ」
金砕棒の鏡のような切断面をまじまじと見た後、逸隼丸は感嘆の面持ちで言った。
「貴方も。この太刀でなかったら、あの時点で決着は付いています」
応え、涼平はポケットから出した紐で鞘をズボンに結び佩く。そして右足を半歩引いて左半身の姿勢を取って厳かに太刀を上げると、左爪先の直線状に配された左拳が額から一握り分上に行った所で止めて諸手左上段の構えを取った。続いてそのまま両腕を下ろしていき、右拳が右肩辺りに達した辺りで止める。
完成した構えは、相手の出方を窺い、対応して動くという打ち込みの迅さに絶対の自信を持つ者が用いる八相の構えだ。
「おう、まるで涼やかなる風の如く隙も掴み所も無いな。しかも威圧が全く無い所からすると、平静に凪を保ったままか。……クク、まさしくお前の名のようじゃないか」
逸隼丸の言葉通り、構えを取った涼平は隙が無く、それでいて気迫が一切感じられないという不可思議な存在感を発していた。
通常ならばいざ闘うという段になってなんの意気も発しないという事は、始める前から勝負を投げているのと同じ事。だが涼平の逸隼丸の挙動を追う目付けは、逸隼丸に断じてそうではない事を物語っている。
「全く素晴らしい。源氏や平氏、足利、坂上、渡辺、碓井――これまで数限りない勇士と相対してきたが、お前程の若さでこれだけの手練は間違い無く初めてだ」
呟きながら逸隼丸は切り裂かれた金砕棒を数度頭上で回転させる。すると裂かれた部分に落下した部分が飛来して接合し、回転が止まった時には金砕棒は元通りになっていた。
「我が〝地震棒〟を完全に斬ったのはお前で三人目。ではお前は初めて我を倒す者になるか否か……くくく、ああ、血が沸く肉が奮える心が躍る、身体が猛者との闘いを前に歓喜に満たされる。だがな、だがだ。いざ再び始める前に聞いておきたい」
金砕棒を持たない左手で逸隼丸は涼平の太刀を指差す。
「その太刀、一体どのような代物だ? 造られてからそう経たぬ若輩の武器の割に、その切れ味。安綱とてああも易々とはいなかったぞ」
「旧き鬼に褒められたとあれば、鍛治の十哲に是非聞かせてやりたい言葉でしょう。しかし、手の内を明かせと言うのですか?」
微動だにせず涼平は返した。
「ふむ、それは一理ある。では先に我が地震棒の種を明かそう。何、こいつは実に単純でな、五十年ばかりの時を経て完成させた、重さ五百貫の鉄塊よ。存分に振るえば金剛を砕く事も容易い上、硬度も靭性も申し分無い」
誇らしげに言った後、逸隼丸はおよそ一・八トンもの重さを持つ地震棒を、まるで物干し竿を扱うように軽々と肩に担ぐ。そして次はそちらだと言わんばかりに、涼平の太刀に視線を向ける。
涼平は一つ頷き、構えはそのままで語り出した。
「……これは、日本に連綿と受け継がれてきた各刀剣を、科学的見地では必要な単位まで完全解析し、術法的見地では総じて七百年もの時をかけて魔的霊的原理を解明し、それら全てを超えるという目的で現代技術の粋を集めて完成した太刀。銘は、〝夢〟です」
直刃の刃文に鎬造りとあくまで標準的な造りの中、二尺三寸で先反りの刀身が淡く朱色に染まっている以外、夢は他の太刀とそう変わった部分は無い。だが涼平の持つ武器は、技術の粋を集めた古今無双の逸刀と考えて差し支えないのだ。
聞き終え、逸隼丸は面白げに顎を撫でた。
「成る程な、最強に相応しい贅沢品だ。……日比金で太刀を拵えるとはな」
「流石……色で分かりますか。確かにこれは日比金を仕上げた逸物です。……刀を振るう技術においては外道の徒随一である渡辺は、並の刀では技量を完全に活かしきれませんし、かといって布都や七支等の神太刀を扱えるほど進化していませんから。そこの所は、五十年もかけてその武器をお造りになった貴方も同じかと思いますが」
「くくっ、確かにそうだな。いよぅっしゃ、ならばこれより正真正銘、全力の時ぞ!」
四股を踏むように逸隼丸は大きく片足を上げ、畳に突き刺すような勢いで足を落として腰を落とす。次いで突き出した左手を荒縄を絞るような音を立てて握り締め、「おぁっ!」と掛け声一喝。
全身に込められた力に呼応するかのように膨張した上半身の筋肉が、スーツを内側から千地に引き裂いた。
これによってただでさえ強大だったシルエットがその重圧感を倍化させ、その全身から殺気を超えた鬼気を発散し、まるで彼を中心に暴風が吹き荒れているかのように涼平の髪と服を揺さぶる。
物理的現象を伴うまでに発達した意気は、それだけで相対者の生命力を削ぐかのようだ。
「自尊と私怨と意地と矜持に生きる者として、我が名は逸隼丸。若き好敵手の前に推参した事を、全身全霊で以って闘い贖うものなり」
筋骨隆々たる肉の鎧を露にした逸隼丸に対し、涼平は深く長い呼吸を二つ。
ここで応えない理由は無い。
「ただただ無心に最強を目指し、道半ばに人の真の生き様に気付いた者として。我が名は涼平、鬼斬りに名高き渡辺の姓を継ぐ者なり。旧き鬼の誓詞に応え、全身全霊で以ってお相手仕る」
宣言を終え、両者の筋肉が爆発に向けて力を溜め込み始めた。互いの目付けが、相手の初期動作を見逃すまいと鋭く光る。
ただ時が流れるだけで、さりさりと精神が磨耗していく前哨戦。
そんな中で、先に痺れを切らしたのは逸隼丸である。
「待つべくは鬼の性に非ず。そして語るべき時は終わった。即ち、今は行動の時よ!」
早い話、前哨に飽きたのだろう。言うや早いが即座に行動に出た。
まず重心を落とし、飛び掛るか地震棒を振り回すかと思わせて、彼は左拳を思い切り畳みに向けて打ち付ける。地震棒を使わずとも充分な縦揺れが涼平の立つ場所にまで一瞬で到達し、それは今まで大樹の根のようにどっしりとした安定感を持っていた涼平の足を、充分に揺るがす不意打ちだ。
「っせぇ!」
事の成功を確かめるよりも早く、逸隼丸は片頭だけで二メートルの長さを誇る地震棒を鋭く突き込む。相手の攻撃はこちらに届かず、棒を外に回って躱せば腕を振って薙ぎ払い、内に回って躱せば手首を捻ってやはり薙ぎ払うという、単純にして死にとてつもなく近い打突の一撃。
「シッ!」
しかし涼平は打突が届く前に足元の揺れを強烈な右の踏み込みで黙らせ、その踏みに併せて体を落とし左足を摺り出し、顔面を狙ってきた地震棒を夢の鎬で外へ往なしている。彼はそのまま一気に左足に体重を乗せて右足を深く摺り出し、驚いた顔の逸隼丸を夢の間合いに捉え、擦れ違う夢と地震棒が火花を散らすのにも構わず棒に沿って逸隼丸へと太刀ゆきを示す。
この期に及んで尚も凪を維持したままの涼平の心持ちと、死を恐れぬ太刀ゆきの迷いの無さに逸隼丸は感心しながら、即座に左拳を涼平の右膝を狙って打ち込んだ。
涼平が躱せば逸隼丸に太刀は届かず、躱さなくとも踏み出した足を砕かれては太刀を届かせる事は出来無いだろう。そして、躱せば右腕で涼平を抱き砕けば事が済む。
「っ!」
だがそこで涼平はまたも逸隼丸を驚かせた。膝を狙ってきた拳に対し、即座に斬戟を捨てて絶妙のタイミングで左拳に右足を乗せ、右腕が動く前に逸隼丸の左腕に乗ったのだ。涼平は休み無く左足を逸隼丸の左肘に乗せようとする動きと共に、逸隼丸の首を確実に落とせる太刀ゆきで斬り込ませる。
だが逸隼丸は口許に笑みを作ると、瞬時に口腔で圧縮した空気を涼平の斬戟より尚早い速度で涼平の顔面目掛けて吹きかけた。
「ぅくっ!?」
唾も含まれるそれは、涼平の視界を一時的に暗闇に落とすには充分な効果を発揮し、激痛を伴って涼平に隙を作る。
「おおぁあっ!」
それを逃さず逸隼丸は腰から上体を左に回転させ、左腕から涼平を落とすと共に右腕でラリアットを叩き込んだ。更にそのラリアットを一応防御しながらも吹き飛んだ涼平に対し、ラリアットから手首を捻って地震棒を叩き付ける。
「ぬ……! はぁっ」
小松前からの警告を完全に忘れたようにしか見えない一撃だが、それをさせて当然と思わせる動きを涼平はしてのけた。見えぬ目にも関わらず、夢を一閃し自分を押し潰そうと迫る地震棒を再び断ち斬り、直撃を回避したのである。そのまま受身も取れずに涼平は畳に落ちたが、その脇に斬り取られた地震棒が畳に穴を開けて落着するのと同時に跳ね起きていた。
両目を閉じたままの涼平は、やはり左半身の姿勢で今度はやや両膝を曲げて、最も一般的で万能性に富んだ中段の構えを取る。
目が見えなくとも戦意を――一度も実感した事は無いが――失っていない涼平の様子に、逸隼丸は獰猛な笑みを浮かべて地震棒を回転。再び元通りになった地震棒を構えると、
「っそぉおおりゃあ!」
凪を崩さない涼平へと突き込んで行く。
対し涼平は高速で突進してくる逸隼丸から一歩も退かず、自らの得物の力を引き出すための短い詞を口ずさむ。
「〝夢寐揺籃〟」
夢が濃朱の色を刀身より立ち昇らせる。そして、逸隼丸の間合いに涼平が納まる。
「せえぇあっ!」
「〝顛倒〟」
広大な武道場の中で、旧き鬼と若き剣聖の業がぶつかり合う音が大きく響き渡った。
――道具部屋で涼平が逸隼丸の言葉に凪を忘れた時、解凍した鰯を捌いていた茉莉は、危うく包丁で自分の手を捌きそうになっていた。
「おっとっとっと、危ないところだったわ」
「ん、どーしたんですか」
解凍物と知って多少落胆したものの、それでも美味そうに鰯を食べながら久々野は茉莉を見上げる。咀嚼する口から魚身がぽろぽろと零れた。
それを見て茉莉は軽く眉根を寄せる。
「食べてから顔上げなさい。……涼平が凪を薄れさせたみたいなのよ」
「はぁ?」
「涼平が、凪を、薄れさせた、みたい」
唖然とする久々野に、茉莉は算数で1+1を教える一学期最初の先生のように、手振りも交えてゆっくり大きめの声で繰り返す。
途端久々野はへっ、と呆れた目をして、首を左右に振った。
「幾らなんでもそんな筈ないでしょう。涼平が凪を失うのはあなたに関する事柄のみで、それ以外では今まで失われた試しが一度たりとも無いんですよ? まぁ言わなくてもあなたが一等良く分かってる事かと思いますけど」
「それはそうだけど」「それはごちそうさま」「ってうるさい。でも間違える訳無いじゃない。他にこんな感覚を覚えるような事ってまず無いのよ?」
心配げな茉莉の視線と、今一本気になっていない久々野の視線が交錯する。
「しかしそれが本当なら只事じゃないような気がするんですがね」
「……そうよ、何を悠長な事を言ってるの私は」
返しつつ、久々野の一言で茉莉の危機感が増したのは間違いない。包丁をまな板に置き、両手に嵌めた薄手袋を外し、簡素な黒色エプロンを剥ぐように脱いで久々野を跨ぎ台所から居間に出た。
スリッパからフローリングの床を叩く軽い音を立てて道具部屋へと急ぐが、後数歩でドアノブに手が届くと言う所で、茉莉の胸騒ぎによく似た感覚は現れた時同様唐突に消え去っている。
「……あら?」
ドアノブに向かって出した手を所在無く上下させた後、実に自然に霧散したので気のせいだったのかもしれないような気がした茉莉は、手を引っ込めてその指を頬に当てて首を傾げた。
「おかしいなぁ。確かに、こう……うーん」
眉尻を下げて渦巻く疑問に軽く腕を組みつつ、茉莉は静かに左瞼を伏せる。だがこれといった答えは生まれず、涼平が出てきたら聞こうという結論に落ち着いた。
台所に戻ると、少し不機嫌になっている久々野が二尾目の鰯の腹に喰い付いている。
「どーでした」
今度は下を向いたまま食べながら久々野は言う。
「途中で消えたわ。何だったのかしら」
「聞けばいいじゃないですか。何を今更遠慮なんてするんです」
「そうだけど、別に急ぐ必要も無いじゃない?」
茉莉は行きと同様に久々野を跨いで台所に入った。
「……また跨いだ」
「あら、ごめんなさい。でもあなた達って出世なんて関係無いんじゃないの?」
剥いだエプロンを掛け直しながら、茉莉はくくっと意地悪に嗤って見せる。
「それは酷い誤解だ。僕らにだって序列はあるんですよ?」
「序列っていっても年功じゃないの。このまま生きていれば勝手に上がっていくでしょう」
茉莉は包丁を手に鰯をまな板に載せ、ストンと鮮やかな手付きで鰯を二つに切り分けた。
「そうやって考えると、出世できない即ち早死にするという図式は思い付かないんですか」
「言われてみればそうね。でもあなたって今まで何回跨れたの?」
口をもごもごと咀嚼させながら、久々野は皿から顔を上げて記憶を探る。
「――いちいち数えてません」
「なら今更一回や二回増えた所で問題無いじゃない」
鰯の胴を久々野の皿の上に載せながら、ここぞとばかりに茉莉は久々野の頭を撫でた。
「そう言う問題じゃないんですよ。あ、それと今のはセクハラに当たると思うんですが」
「そうかしら」
「両方ともそうですとも」
「そうかしらね?」
「そうですってば」
非難の目を浴び、流石に茉莉も手を離し作業を再開しようと立ち上がる。
「……ところで鰯美味しい?」
手袋を嵌めながら、さりげなく茉莉は言った。
「冷凍にしては美味い方です。わざわざ天然物だし、できれば新鮮なのを食べたかったと思うんですがこれって我儘? 唯我独尊?」
ものの見事に久々野は話題を取っ替えられたことに気付いていない。普段であれば愚痴が続くべきところだった筈なのに。
「いいんじゃない? 自分に正直で」
くす、と笑いつつ、茉莉は包丁を落とす。
トン、とまた新たにお頭鰯と首なし鰯ができ上がった。
「ああそういえば、柊の枝探すのにどれだけ手間取ってんですかね」
「え? 手間取るっていうより、場所は教えてあるから選んでるんじゃない? 枝振りのいいのとか、葉にある鬼の目突きが鋭いのとか」
「成る程。でも何時の間にそんな悩むほど柊の枝を取ってきたんで?」
「悩むほども無いわよ。せいぜい五、六本くらいだから、どっちかといえば全部使うわね」
言って、茉莉は自分の言葉に愕然となる。ではなぜ涼平はまだ戻って来ていないのか。
「あれ? なんかおかしくありませんかね」
「うん……どういうこと?」
再び包丁、手袋、エプロンを外し茉莉は久々野を避けて台所を出、道具部屋へと向かう。涼平の凪が消えた事が深く心に重く圧し掛かり、喉が渇くのを感じながら茉莉は道具部屋へのドアを開け放った。
「涼平っ!?」
だが道具部屋は蛻の殻。電気の点いている部屋を見回した茉莉の目に映ったのは、刀が一振り減っている壁と、開けられているベランダへのアルミサッシ。
「……え?」
吹き付ける風に、茉莉は呆然と外の景色に目を奪われた。が、すぐに我を取り戻して部屋に踏み込み、無くなっているのが涼平の太刀であると確認し、残った長短二振りの自分の刀が無事であるのを個々に手にとって確認する。タンスを開けてみるが、柊の枝に手をつけた様子は無い。その他、室内にこれといった変化は無く、強いて言えば何故か椅子が少し歪んでいる事くらいだ。
「まさか……」
一瞬、茉莉は嫌な考えを閃かせてしまった。
それは涼平が自分を置いて独りで織口邸へ行ってしまったのではないかというもので、自分を心配するという名目でなら充分やりかねない行為だからだ。
……まさか、まさか、まさか――でも、ああ、まさか――!
茉莉は否定し切れなかった。そして他に有力な答案が無いために、ますますそれに対する思いが強くなっていってしまう。やがてそればかりが心を席巻し、
「そんな、涼平……」
それを信じてしまうのにそう時間は掛からなかった。
いつのまにか俯いていた顔を上げる。その表情にあるのは、決意だ。
茉莉は壁に掛けられた二振りの内先ず脇差を手に取ると、黒い鞘に巻き付けてあった朱紐を解きスカート右側のベルト通しに結び付ける。続いて壁に掛けられた最後の一振りである、やはり黒い鞘の太刀も同様に結び付けた。
そして左側の突き当たりにあるクロゼットを開けて、陣羽織に似た裾の長い黒色の羽織を引っ張り出した。袖が無く、裾は刀を差した時に邪魔にならないよう二筋の切れ目が腰まで入っている。肩口や襟が美しく金糸で織り込まれているそれを勇壮に纏い、前を藍紐で結び止めた。
「どうでしたか――って、なに闘る気満々になってるんですか!?」
茉莉まで戻ってこないのを不審に思った久々野が道具部屋を覗いた時には、茉莉は洋装の上に裾長の羽織を着、腰に刀を二本差ししという身支度を終えていた。
「……涼平がね、多分私を置いて織口邸へ行ってしまったのよ」
「は? 多分ってなんですかそんな不確定な」
疑問を口にしながら部屋に入ってきた久々野に対し、茉莉は振り向いて開かれっぱなしのアルミサッシを指差す。
「私が入った時、夢が無くなっててあそこが開いてたの。そして涼平がいない。久々野ならどう考える?」
「あー……成る程。確かに、凪が揺らいだ事も考えるとそう思えなくも無いですが。それにしたって一言も無く消えるってのはどうかと」
「……そんなの、そんなの私を慮った結果に決まってるじゃない!」
突然の大声による断定に久々野は思わず固まってしまう。
「あ……そですか?」
「ええ」
この曖昧な言葉に茉莉は力強く頷く。
「――くはっ」
続いて、一瞬の内に久々野は茉莉に首根っこを引っ掴まれて持ち上げられていた。視線で何をするかと訴える久々野に、茉莉は怖い位優しい笑みで言う。
「一緒に行きましょう?」
なんでと久々野は声を大に叫びたかったが、今の状態では基本的に何もかもがままならない。結局久々野はぶらぶらと茉莉の手に下げられたまま、玄関へ行って靴を取り、戻って道具部屋を横切ってベランダに出る彼女を止める事ができなかった。
ベランダに出て靴を履いた茉莉は、軽く跳んでベランダの手摺に乗ると、織口邸のある方角をきっ、と睨んだ。
「さてと。……涼平、あなたの気遣いは嬉しいけれど、こういう時はそれ以上につい怒りを覚えてしまうわ。今後の為にそこの所はよく言っておかないと」
呟き、少し虚空を眺め満足げに笑った後、茉莉は二十七階の高さから躊躇無く跳躍した。
そのまま放物線軌道を描いて見る見る内に静かな道路が近付いてくるが、茉莉はあろう事か頭を下にして落下していた。そして、その姿勢のまま彼女は高層建築に挟まれた道路にタイミング良く風が吹くのに合わせ、疾風の意の術法を唱える。
「〝来たれ集えや、疾風の礎たる大気の流れ。我が身に寄りて翼を与えよ、そして我は空を行く。飛燕〟」「おげっ」
人の言葉にありながら人に対して向けられていない言葉が、流れる風に織り込まれ説け込んだのと同時に、真下に五つの透明な空気の輪が連続して形成される。
二つ目以降角度が付いて、最終的にアスファルトと並行する形になっているそこに茉莉は入り込んだ。一つ目の輪を潜ると同時に茉莉の身体は爆発的な加速を得続け、そして五個全てを潜り終えた時点で彼女に与えられていた時速は、燕の如く二百㎞を超えていた。当然久々野は大変だ。
一般乗用車を軽く上回る速度で道路上空を飛ぶ茉莉は、自分に与えられた凄まじい速度に瞼を閉じる事も無く、呼吸も難しい風圧の中で口ずさむように新たな術法を唱えた。
「〝舞えよ舞え、彩無き流れよとくと舞え。穏やかながらも荒れ狂い、暴虐と恩恵を振り撒いて全てを運ぶ疾風よ。一度揺らぎ、真綿の如く我が身を包め。風流〟」「ごふぁ」
茉莉の発した言葉の一言一句全てが大気へと説け込んでいく――いや、自身の周囲の大気とそれを形作る森羅万象を説き伏せていく。これによって、大気による無色の防御障壁が彼女の周りに展開された。
障壁内では無風状態及び一気圧条件下の呼吸を約束し、環境の変化による体温の低下を防ぐ事が出来、また、障壁自体は大気そのものでもある為、彼女から発散されていた風は全て消えている。これで久々野も安心だ。
「さて」前方からの風圧が消えた事に軽く頷き、茉莉はもう一度法を紡ぎ始める。
「〝行けよ行け、黄金の身を迸らせてとくと行け。遮るもの無き轟雷よ、闇と唸りと共に馳せ参じる音高き明滅よ。雲海を泳ぎ空を駆け抜け、夜空に煌く一閃となれ。紫電〟」
言葉の直後、飛燕を軽く凌ぐ大加速を自身に与えた茉莉は、発動点に大気幾つか環状放射して音速超過にまで達した。周囲の景色が一気に流線化する中、一気に狭くなった視界をものともせずに彼女は軌道を上方へ向ける。
本来ならば滑走路に見立てられた道路周辺は衝撃波によってかなりの被害を受ける筈だったが、風流の効果によって周囲の空間は何事も無く全くの平穏を保っていた。
進路を鋭角な斜め上、夜空に向けた辺りで、茉莉は今更ながら久々野を胸に抱き寄せる。彼にも術法は適用されて日記帳が、いつまでも首根っこを掴んだままの状態は割と危険だと考えたのだ。本来なら飛燕の段階でその発想に至るべきではあるが。
「ああまったく殺す気ですかよねぇちょっと。……もう、無茶をする」
頭を上げて前を向き、うつ伏せ姿勢で飛ぶ茉莉に久々野は愚痴を言う。ただ高さといい速度といい、注意一瞬で即死な分、愚痴は言ってもしっかりと彼女に掴まらざるをえない。
「遠呂知使ったばかりでここまでやるとは。相変わらず桁が腐る程多いですな」
通常、外道の徒の高等術法者でも遠呂知の発動には、複数の触媒を用いた上で三十分はかける。それを自己に内在する魔力だけで短時間に成したのだから、常識的には丸一日気を失っても不思議ではないのだ。幾らその後涼平から回復促進の接吻を受けたとは言え、先程のように平然と術法を複数展開する時点で、久々野の言葉通り茉莉は桁外れの存在と言えるのである。
「追いつくためなら多少の無理は必要経費よ。涼平は渡辺だから、あんまり術法は得意じゃないもの。代りに身体能力が図抜けてるけど、これだけやれば間に合う筈」
「だからって八意は疾風の術法に、でもって轟雷の術法ですか。……う~ん、滅茶苦茶だ。並の奴だったらとっくに力が底をついて、不足分を補うために霊力を使いすぎて寿命が縮んでるに決まってる」
「ん、まーほら。努力根性気合じゃ覆せない事実は世の中では往々にして在るものよ。それに今が夜だからできるのであって、日中ならちょっと辛いもの。でもま、天賦の才の辺りはやっぱり諦めて貰うしかないわね」
「うっわーっ、何言ってんのアンタってば超エラそー信じらんねー」
「おっほっほっほぉ、事実よ事実。私ったら幾世代かに一人の逸材なんですものぉ」
言って茉莉は子悪魔的笑みを浮かべ、久々野は呆れて溜息を吐いた。
と、空気抵抗による速度低下を抑える為に進路を斜めに取り続けていたのだが、雲を越えた辺りで久々野は子供のようにはしゃぎだす。
「うわっうわぁ、ホラあそこ飛行機だ飛行機ですよ飛行機飛行機大きいなぁ。あーそうだ。あいつと競争しみてはどうでしょうか。私達なら勝てますよ奴にさぁほらほらほら」
「煩いわよバカ猫。大体競争なんてやってる余裕ないし、都市伝説増やしてどうするの」
「やーまーそりゃそうですけどネー」
「まぁったく、ふざけてる場合じゃないでしょうに」
「ま、そうですが」
「さて、じゃあ高度落とすわ。まさか落ちるような事はないとは思うけど――しっかり掴まってなさい? あ、でも爪立てないでよ?」
意地悪な笑みを浮かべた後、茉莉の軌道が直線から数秒で真下へと変化する。
「は? え? おうわあああああああぁぁぁー! 落ちるっ、でも全然落下加速してないような気がっ!? あっという間に飛行機があんなに小さいのに!? ぃ違和感が怖いー! にゃあー!」
久々野の叫びにある通り、風流が効いている以上茉莉の周囲の空間はどんな高速状態でも風圧も無ければあるべき空気摩擦も無い。
常識が狂っている状況に、慣れていない者はつい我を見失いがちだ。
長く尾を引く久々野の叫びと共に、茉莉は織口邸へと辿り着こうとしていた。