肆― 裏
長い廊下を常夜灯が薄く照らす中、春花は一歩一歩を確かめるようにして、常に全方位への警戒を怠らないよう進んでいた。何十回と訪れた事のある織口邸内部は、姿形こそ春花の良く知る存在だったが、内容はもはや完全に別と考えた方がいい有様である。
ふと、足が止まった。歩く先に何かが在るのを見つけたのだ。
「……またか。このままでは八彦を除いた全員が犠牲になってしまっているようね」
すぐにその正体に気付き呟いて、春花はその何かに近付く。何かとは柱を背もたれに足を投げ出し、血塗れで項垂れる和装の男性だった。傍らに屈んだ春花は手早くその男性を調べ、今までと変わらない死亡原因に沈痛気な面持ちで掌を合わせる。
「心臓への槍による貫き傷。……織口は術法を得意とする文系氏族の割に、八彦は槍の名手だったわね。うちのような万能系でもないのに、いざとなると厄介だ事」
立ち上がり、周囲に動く者がいないのを認識しながら春花は再び歩き始めた。
現在の織口邸は、地獄が通り過ぎたような状態である。
何しろ春花は茶室を出てからというもの、生きている人間に出会ったことが無いのだ。
目的の八彦本人はどこへ霧隠れしたものか見つからないが、他の者は既知だろうとそうでなかろうと、老若男女を問わず全員が遺体を晒していた。しかもその死因が全員同じなのだ。全て胸骨を心臓ごと素槍で貫き通された事が致命傷で、あまつさえ誰もが抵抗した形跡も無くただ無防備に貫き殺されている。
そして多数の遺体から流れ出た血液によって、織口邸内は吐き気を覚える程の血臭が充満していた。血の臭いは織口邸に入った瞬間強く認識した事から、巧に屋敷外へ臭いがもれなくなるような工夫がしてあるらしい。文系氏族に限らず、屋敷内での事を外部に漏らさない様々な工夫は全ての外道の屋敷にみられる事だ。
……しかし、これは二十年前の情景を再現しようとしているの? だとしたら何の為に?
俯き、つい親指を噛みそうになるのを堪えながら春花は進む。ちょうど二十年前の大惨事の際も、遺体がそこらに散乱するという異常事態が殆どの氏族の家で見られた。
今なお原因は調査中ではっきりしない点が多いが、賀茂氏の行った創造技術の実験が失敗したというのが今の所の大方の意見である。何しろ大惨事の始まった場所は賀茂邸なのだし、最大の勢力を誇っていた文系氏族としての威信をかけて、更に上位の技術を目指していたのはどこの氏族も知る所なのだ。ただその賀茂氏だが、二十年前に他の多くの氏族と運命を同じくしているため、結局正確なところは恐らく永遠に分かる事は無いだろう。
「――ん? ここは……」
屋敷内を歩き回る春花は、考えている内に八彦の部屋の前に辿り着いていた。
念のため改めて気配を探り、部屋内や周囲に本当に動く者がいないか確認する。十センチに満たない物は除外しているとはいえ、何一つ動く者の無い屋敷にはそろそろ不気味さすら感じ始めていた。
しかし何はともあれ部屋の中は空なのだ。得物を手にする前に踏み込むのは少し躊躇われたが、春花は手がかり取得を優先させた。
若干の期待と、大きな警戒と共に戸を開く。
流石に電気を点ける訳にはいかないが、宵月として当然のように夜目が利く春花からすれば、廊下側からのほのかな常夜灯で充分な視界を得られるので問題は無い。
室内は神経質な八彦らしい、家捜しをするには随分手間の省ける整理整頓された和室である。
「さて……」
軽く見回し、春花は書架からこれ見よがしに〝日記〟と書かれた分厚い本に目をつけた。
八彦が凶行に至った理由が、何か分かるかも知れ無い。不慮による狂気だけとは思えないのだ。常套手段からいけば、先に得物を見つけるべきなのだろう。だが春花は、夜であるという事と八彦の接近に気付かない筈が無いと言う理由から、調査を優先した。
「どれ」
手近なものを一冊手にとって開いてみれば、この時勢に毛筆で記述されたらしい達筆な文体が、やや厚めの紙上に躍っている。
「まず……十年前、十年前は……」
ページを捲っていき、この分厚い日記帳は三年前の物だと判別をつけた後、戻した春花は左に七つずれた日記帳を手にした。
日記帳の褪せた色が十年の月日を感じさせ、開けば紙の古くなった臭いも鼻につく。
まず最初の一月分にざっと目を通したが、それらしい単語も暗号もなにも見られない。今が四月だから、ひょっとすれば四月の方から見た方がいいのかも知れないと思い、春花は二ヶ月分時間を進めた。すると明らかに怪しい内容が目に飛び込んでくる。
〝――四月三日。
今日手に入れた物は、偶然とは言え私の余生に並々ならぬ刺激を与える事となった。このまま年老いて隠棲するだけの道に、もう一つ復讐という大儀が与えられたのである。十年前の惨事の責任をあ奴らに取らせるのだ。本来なら他の氏族とも音頭を取りたい所ではあるが、まず確証を得ておく必要があるだろう。〟
「手に入れた、物。……物、ね。安曇野の王に至る何か何を手に入れたとしても……強引ね。復讐を大儀とする辺り、やはり随分前から気が触れてしまっていたのかしら」
ついつい感想を口にしながら、春花はページを捲っていく。今回の件の原因は、どうやら記してある通りの物らしいが、今のところではその名も形状も何もかも分からない。もどかしい思いを覚えながら、ページを捲っていく。
そんな中、不意の背後からの衝撃と共に、春花が目で追っていた日記の記述は真っ直ぐな素槍の腹に隠されている。
「な……」
初めの刹那に驚き、双眸を見開き、次の刹那で日記に集中し過ぎていた事を思い知った。
遅れて一瞬後、春花は文面を遮っている、鮮血でしとどに濡れた刃がどこから生えているかを認識する。
「……あ……ぅっ」
自分の胸の谷間のちょうど真ん中。これまで見てきた織口邸内の遺体と同じ部分に、春花は素槍を突き通されていたのだ。
槍穂の先から数滴血が紙面に滴り落ちて、それから春花は喉の奥から逆流してきた血液をそこに吐き散らす。傷部分の灼熱感とは対照的となる身体の末端から昇ってくる寒気に、日記帳を持つ力すら入らなくなって血に汚れたそれを畳上に落とした。
「人の日記を血で汚すとはな。しかし無防備な背だ、突いてくれと催促されている風に見えたからつい突いてしまった」
突然の声。春花の背後には、何時の間にか両手で素槍を持った八彦がいた。その両腕と素襖は、春花が見てきた犠牲者を裏付けるように乾いた血で汚れている。
「ともかく、泥棒の真似事は悪い事だとご両親に教わらなかったかね」
小馬鹿にした口調で、八彦は無造作に素槍を引き抜く。当然、夥しい量の血が貫かれた痕より溢れて、春花の身体は糸の切れた操り人形のように倒れ込む。
畳に倒れた自分の身体を他人事のように認識しながら、春花は血液と共に力が抜けていくのを実感していた。世界が急速に現実味を失っていき、最早畳を掻く事も不可能だ。
「思いの外愚かな女だったな。あのまま茶室でじっとしておればまだ長く生きられたものを。それとも、よほど利弥や冬花に逢いたかったのか」
夫と、そして彼と同様に二十年前に死んだ妹の名を朧気に聞きながら、春花は無念と悔恨の思いに囚われる。
しかしすぐにその思いも希薄となり、震動で八彦が歩いてくるのを感じたのを最後に、それから先は春花には分からなくなって、いた。
「……む、死んだか。呆気ないものだな」
畳に頬を密着させる形で横になっていた春花を、八彦は素槍の石突で仰向けにし、開かれた双眸がもはや何物も映せそうに無いほどになっているのを確認する。鼓動は確認するまでも無かった。そもそも脈を伝えるべき心臓は先程刺し貫いている。
「…………」
そして次の瞬間八彦は春花の事などどうでもいいような顔になり、日記を拾い戻す事もせずに自室を後にした。
「……さて、儂ができる範囲で事は成したが」
血塗れの廊下を歩きながら、八彦は周囲全てと自分の状況を一顧だにせずただ思考する。
十年前のあの日、八彦は偶然とは言え鬼神の遺骸の一部を手に入れたのだ。その後織口の技術を駆使して鬼神の遺骸を集め、ついには黄泉還りを阻害するであろう施設も破壊した。
と、一般的にはここまでで充分の筈であり、これ以上は必要ないのである。
ところが現実はこれ以上を要求してきた。なぜなら集まった遺骸を繋いだにも関わらず、鬼神は黄泉還る兆候すら見せなかったのだ。伝え聞くだけでも今の常識を超えた鬼神を打ち倒した勇者自らが滅ぼす事を断念し、復活を阻止するためにわざわざ斬り刻んでばらばらにした遺体である。それが何の兆候も示さなかったのだ。
「…………」
脇に挟んだ素槍の先から真新しい血が珠となって落ちる音を聞きながら、八彦はふと足を止めた。思考に集中する。
ともあれ時間が無い。それは間違い様の無い事態である。いくら各氏族に悟られないよう慎重に事を成し、迅速に鳥獣へ口止めをしたとはいえ、どこの誰がその全ての情報を入手し危険を察知するか知れたものではない。
それに、常念坊の庵を破壊した事が事実露呈へ拍車をかけてしまっているだろう。秘匿されていたならともかく、そうでない建物を破壊してしまえば否応無く人の目は差異に気付く。ただ復活を阻害しているのであろうという予測の元行った破壊活動だが、効果がなければその意味は全くの逆効果だ。
「……そしてここまでしても何も変わらない、とな」
目的のため、術法の触媒になりそうな物は蔵から全て引っ張り出して使用及び服用した。現状、能力的に五十年は若返っている八彦だが、それでも遺骸に変わりは無い。
望みを果たすにはまだ足りないのだろう。
だから血肉の贄と魂の贄を捧げんが為、屋敷内の者達悉くを殺したのだ。
相応の心構えと有効な使い道さえ心得ていれば、人一人殺すという事は莫大な力を得る事になる。もちろん外道も外道、禁忌も禁忌の行いだが、八彦を嘲笑うかのように屋敷は静穏を保ったままだ。
「となれば、やはり皿を砕く他無いというのか」
死が行き渡った己の屋敷の中、八彦は止めていた足を再び進め始めた。
先々月宵月邸へ赴いた際、軽く三乱に嵌めて知識を盗んだのだが、かの鬼神の御魂魄を封じている皿が存在しており、またそれは宵月の宝の一つでもあるという。
だが拝借し持ち帰ったそれは幾ら検分した所で所詮皿であり、秘めたる力も何も関知できない華美な飾皿でしかなかった。
「……しかし」
額に皺が刻まれ、すべきかせざるべきかの判断のつかない表情を浮かべる。何を今更な事ではあるが、この時八彦は本気で悩んでいた。
どうすれば皿を破壊する事ができるのだろうか、と。
一時的とはいえ全盛の力を取り戻した八彦をしても、何の変哲も無い皿は傷一つ付かなかったのである。それに二ヶ月という時間の間、それこそ岩に叩き付けようが石突で滅多打ちにしようが、塗料の欠片すら剥げなかったのだ。この異常なまでの強度以外、これといって不可思議な所が無かった為に八彦は皿を後回しにし、虐殺やらの他の手段を優先していたのだが、どうやら皿を砕く以外の全ては徒労である可能性が出てきている。
「春花なら何か知っていただろうか……しかし今更何も聞き出せまいな」
呟いた八彦の足は、中庭へと進んでいた。
肆― 表
大武道場を覆い尽くさんばかりの閃光が幾重にも走り、宙を舞う内に粉々に砕け散った地震棒の無数の欠片が畳に叩き付けられる際、驟雨に似た凄まじい轟音を響かせる。その内地震棒の握り部分は、腕ごと断たれた逸隼丸の手がしっかりと握り締めたままだ。
そして当の逸隼丸は、何が起こったか理解しているが、それが信じられないような表情で数十メートル上の天井を眺めている。鎧のような肉体は全方向どこを見ても完膚なきまでの斬り傷を負い、畳の上で大の字になったまま動けない。
「僕の勝ち、という事でいいですかね?」
鬼をして呆然とさせる技法を示し、目元を拭った涼平は、鞘に収まっている夢を握った拳を天へ向けて勝鬨を呟いた。勝利宣言にわざわざ拳を突き上げるなど、戦時の渡辺としては酷く珍しい行為と思われるだろうが、全く無感情という訳ではないのだ。喜ぶ時は喜ぶ。
「うーむ、これでは異論は無いな。武器を飛ばされこの有様では」
どうにか残った右眼を動かして涼平を見た後、逸隼丸は生きているのが不思議な有様の体をぬっと起こす。動けた事以前に、喋る事が出来たというのも驚くべき凄惨な状態なのだが、そんな事など構わない様子で立ち上がる。実際痛覚が在るのかどうかすら疑わしくなる程、在るべき激痛を完全に隠していた。
「驚いたな。まさかすぐに立てるなんて」
表情も気配も微塵の揺らぎ無く言った涼平に、逸隼丸はやはり不満気な顔をする。
「我を、旧き鬼を見縊るんじゃないぞ? あの程度の刺突斬の嵐など、本領であれば受けきる事など造作も無いのだからな」
「それは凄い。顛倒の斬渦の中でもそう言えるとは、さすがは旧き鬼」
再び同じようにして言う。顛倒とは壮絶な量を示す桁の事だが、逸隼丸を見るに限りそれだけの数をしても尚、旧き鬼を倒しきれない事を意味していた。
「……ならば顔と眼でそれを口ほどに表して見せろ」
「あ、そう見えませんか?」
「見えぬから言っているのだとすぐに分からんのか、この渡辺め」
「失礼を」
軽く叱られたように涼平は頭に手をやって頭を下げる。
「しかし、よもやこうも見事に完敗を喫するとは」
「いえ、実際は紙一重でした。こちらはあなたの打撃が一つでもまともに入ればほぼ即死ですし。それに一・八トンもある得物をさも軽々と振り回すような相手とは、できれば二度と闘りたくありません」
遠い目をした逸隼丸に、緊張の糸を解すような息を吐きながら涼平は微笑みかけた。そして次の瞬間には、瞳を爛々と輝かせる逸隼丸を見て自分の言葉に激しく後悔している。
「ほぉう、そうかぁ。我は二度とやりたくないほどの強敵だったか」
涼平の言葉に嬉々とした表情を見せる逸隼丸は、「奮ッ!」の気合一閃で右肩以外の傷を完治させ、左手の指招きで地震棒の握りを持ったままの右腕を左掌に引き寄せた。
それを涼平の見る前で叩き付けるようにして右肩に接合、即座に癒着させた挙句に、右掌で地震棒の握りを躍らせる。すると粉々に散っていた金砕棒は冗談のように結集し、双頭の威容を即座に取り戻していた。
「ではもう一勝負、いたそうか」
気が付けば、身体も得物もすっかり元通りになって気力も充実した逸隼丸が涼平の前に立っている。大抵の生物なら即死となる傷を負わせた筈なのに、まさかここまで容易く、しかもほぼ一瞬で完全治療されるとは涼平にも予想の範疇にも無い事態だ。
旧き鬼の力を侮っていた訳では決してないが、どうやら逸隼丸の力は涼平の知識と経験を大きく凌駕していたらしい。むしろここまでを予測しろというのが無茶だろう。
「……えーと。決着は付いた筈では?」
言っても無駄だと思いつつ、涼平は間合いを取る為に後退りながら夢の鯉口を切る。
「愉しむ時は飽きる時まで愉しむのが我の流儀でな。という訳で付き合って貰うぞ」
「はぁ。延長されるなら一応妻に安否を伝えておきたいんですが」
茉莉の心配を軽減させるために短期決戦を目指し、早々に奥義を以って決着に臨んだ自分の算段が完全に裏目に出ている事を涼平は思い知っていた。
「ここに引きずり込まれた時点で、あらゆる決定権は我にあると一々言わねばいかんか」
「むむむ……そう来ますか」
「おう。では闘え。お前との闘いは緊張を思い出させてくれるから非常に有意義なのだ」
言い出したら聞かないという鬼の性質を見事に体現している逸隼丸を前に、涼平は苦笑の後、夢を再度八相に構える。こうなったら自分の技法全てで以って、この鬼を倒しきる他に無い。飽きるのを待っていたら誇張抜きに一ヶ月はここから出られないだろう。
「分かりました。では存分に」
「良し良し。では行くぞ!」
大武道場に爆音が響き、応ずる鋭い音が鳴り渡った。
「――なんと、まぁ。驚いた」
肘掛に凭れていた小松は、目を丸くして驚嘆のあまり静かに声を上げて背筋を伸ばす。
天眼の視界で大武道場のやりとりを具に見ていたのだが、終始逸隼丸が押されるという展開に気を揉み、最後の接触で見せた涼平のおよそ現実味に欠けた技は、長きを生きた小松をして瞠目させたのだ。
「あれが今の渡辺の最強か。はは、面白い。あれではいかに逸隼丸とて全力の出せる環境でなければ勝ち目は無いか。が、勿体無いな。全力の逸隼と現代の渡辺、強い男が一対一でくんずほぐれつ、ああ、見応えもさぞあるじゃろうに」
頬を薄く朱色にしながら老獪げに顎を撫でて小松は言い、ふと美しい柳眉を寄せて思考に移る。無論、涼平が最後に見せた技に対してだ。
真正面から受けた逸隼丸が一瞬で血塗れになった所からすると、涼平の太刀はそうなるように斬ったのだろう。
だが小松の天眼は、最後の涼平の行動の中に刺突斬に見える何かは一切捉えていないのだ。何しろ涼平は突進してくる逸隼丸を前にして、太刀を鞘に収めたのである。すると、何故か逸隼丸が無数の傷を負わされた挙句吹き飛ばされていたのだ。更には、視た所斬渦は大武道場内の全てに行き渡っている。大武道場が創造による場所でなければ、今頃倒壊しているだろう。
「ふーむぅ。面妖な事じゃ」
難事件を前に愉しそうに思考を張り巡らせる名探偵のような面持ちで呟くと、小松は左掌を一度指だけ閉じ、開く。するとどこから現れたのか、金細工が艶やかな朱色の煙管が現れた。
それを咥え真剣な眼差しになりながら、小松は再び思考に入る。同時に、何もしないのに煙管の口から軽く火が出て、すぐに紫煙がくゆり始めた。
「あの技、太刀によるものか、あの男自身の力か……はたまた両者が合わさった事による産物か。……予想の通りだとすれば、中々面白い代物ではあるな、ふむ、夢か。後千年もすれば、あの太刀も神剣の一つに数えられよう」
太刀を収めて相手を斬る。矛盾に満ちた技だが、小松は客観的に見た視覚情報から、大体の見当が付き始めていた。
鬼でありながら刀の扱いにも長けた彼女からすれば、神代の神業でもなければ大方の技を初見で見切る事は造作も無い。ただ今回は涼平の技がかなり特殊なため、未だに確証が持てないでいた。
「相対する逸隼丸も、気付いておるのかの。おらねば何度でも鱠斬りにされる羽目になるが……ま、ああなったあれはただの馬鹿じゃからな。死にかけるか飽きるまでは渡辺の男にも苦労をかける事になるか」
小松の視界に、今度は前のめりに逸隼丸が畳に倒れ伏したのが見える。今度は先程とは違い、数ではなく一撃の質を重視した技だ。威力としてはいくらか落ちるが、それでも逸隼丸を倒せるだけの威力を持つ激烈な技だと言えた。渡辺の姓を持つ者である以上に、涼平の技量は並外れて優れているようだ。
音声を聞く事ができれば、跳ねるように立ち上がる逸隼丸の愉快気な笑い声を聞かされただろう。寸毫の油断無く太刀を構え直す涼平に焦点を合わせながら、小松は彼に同情的な気分を覚えた。
「――む、戻ったか」
三戦目が始まろうとした所で、小松の目が近くを見る。広間に謐が帰ってきたのだ。
「首尾は」
何時の間に来たものか、己の低位置で土下座姿勢から顔を上げた無言の返答は、首を左右に振る事で明確に返された。茉莉の言葉からして思いもしない事態に、小松の表情が険しくなる。
「ほお。宵月の娘は嘘を言ってはおらぬのじゃぞ? ……それで見つからぬと言うのなら、宵月の屋敷全てを、竈の灰から棧に積もった埃まで舐め尽くしてでも見つけてこぬか!」
上機嫌から一気に不機嫌へ落とされた事の不快も含めた叱責に、謐は落雷に怯えるようにしてその大きな身体を震わせた。苛立ちも露に腰を上げた小松はそのままずかずかと謐の前まで来ると、萎縮してあからさまに怯えている謐の顎を片手で掴むや、体ごと軽々と持ち上げる。
「それともこれは反抗か、挑戦か、異議申し立てか? はたまた謀反か、それとも下克か。ん?」
間近に顔を寄せ合う体勢のまま、血色の視線に謐は必死に目で違うと訴えた。
事実、茉莉の言った通り宵月の蔵へ赴いた謐は、言われた場所が蛻の殻だったために宵月邸全体を捜索したのだ。典雅な装いと高身長という悪条件を持ち前の力で覆し、それこそ天井裏から縁の下、庭の池に至るまでを探索したのである。本当に宵月邸に大皿があるのだとしたら、もはや彼女はどこに在るのか皆目見当もつかない状態だった。
謐の眼差しから探せる範囲は全て探したのだという意を汲んだ小松は、数秒間不満気な顔で彼女の顎を掴んでいたが、ぞんざいにその束縛を解き放った。
「……どうやら本当に無いようじゃな。とすると、さて……」
腕を組んで考えながら、小松は謐に背を向け百合を思わせる美しい歩みで上座に戻り、芍薬のような優美な立ち姿から正座し、牡丹の華やかさを感じさせる。対し謐は現れた時と同様に平伏していた。
「どうやら忌々しき事態と考えておく必要が出てきたか。ふむ」
煙管を咥え、揺れる紫煙を眺めていた小松は数秒の黙考後、煙管を離し紫煙を吐く。
「謐。逸隼丸が現在渡辺の所へ行っておるから、皿が無い事を伝えよ。ついでに伝えそびれた用件も言い付けて織口邸へ差し向けるのじゃ。まだ大皿には細工がしてあるとはいえ、魏石が絶対に黄泉還らぬとは言い切れなくなったからの」
命令に謐は顔を上げ、一も二も無く頷き立ち上がる。
「よし。妾は念のため織口邸へ光輪車を進めておく」
言葉の切れ目に目線で行けと伝えられ、謐は迅速に回れ右。ふわりと黒髪を揺らした後、逃げるように真っ直ぐ広間を後にする。
「……ふむむ。さてどうなろうかな?」
煙管を咥えたまま呟き、小松は肘掛に凭れ直した。
――これで五戦目。
心臓と脳天を貫く即死としか思えない致命傷からあっさりと全快した逸隼丸を前に、凪の中涼平は純粋に逸隼丸を斃せる気がしなくなっていた。先程などは、刎ねた首を拾って接合するというまさに人外な真似をやってくれてもいるのだ。今更、内臓を飛び散らかしたくらいでは死ぬ訳もないのだろう。
一戦目の際は多少加減していたのは確かである。だが二戦目以降は躊躇いも何も無く斃そうとしていたのだ。倒しても切りが無さそうなのは何となく予想できたし、相手は遊び半分にしか見えないが、こちらは一度でも直撃を喰らえば死んでしまうのは火を見るより明らか。ならば斃してこの大武道場を強制的に解除するのが一番的確だと判断したのだ。
その後小松前がどういう対応を見せるかが気がかりではあるが、死んで茉莉を絶望の淵に立たせるのは何よりも忌避しなければならない。
……しかし――
「ふふん、先のは中々肝を冷やさせてもらった。あれだけの事をしても殺気が片鱗も感じられない辺り、お前の凪は極上だな」
心底愉しそうな逸隼丸はまだまだ闘る気充分で、対し短時間に超集中と奥義を繰り返し、幾つか地震棒をその身に掠らせた涼平は心身ともに疲れが出始めていた。
このままではジリ貧なのは明白だが、涼平が内心恐れているのは疲れを察した逸隼丸がこちらにも余計な世話をしないかどうかだ。躱し損ねて文字通り骨身に染みる一撃を受け戦闘不能になったとしても、旧い鬼がまだまだと言ってこちらの傷を癒したりしてきた場合には、もはやこの大武道場は地獄と化すだろう。
「が、まだまだまだまだよ! そろそろ我の目もお前の迅さに慣れてきたのでな!」
「しつこい男というのは、同性からも敬遠されるんですけど?」
豪速に対する往なし一つで手が痺れ、鋼の肉体に刃を立てればこちらの筋肉が悲鳴を上げる。日本最優の金属である日比金を原材料としている夢ですら、硬氣を込めて扱っても粉砕してしまうのではという不安に駆られてしまう。
「そんな事は知った事か!」
「つくづく鬼はっ」
目の前が逸隼丸の拳で埋まったような錯覚に、涼平は大きく右横へと飛び躱す。
「と、我儘だ」
「ならば心身に刻み付けておけ!」
言葉と共に純粋且つ激烈な剛力が間断無く振るわれる。言葉通り逸隼丸は涼平の韋駄天の速度に慣れてきて日記帳ようだが、同様に涼平も逸隼丸の金砕棒の軌道をあらかた見切っていた。
それでも分が悪い事に変わりは無く、隙を見出して相手へ死を運んでも意味があるようには思えないのだ。よしんば平気な真似が演技だとしても、大武道場を苦も無く維持したままでは何度斃せばいいか概算を打ち出す気すら起きない。
涼平は、せめて自分の得意な術法が物理的な攻撃にも効果があればなー、と考えていた。
「隙在りぃっ!」
「そういう時はっ、たっ」
思考に気を取られかけていたのを大音声で指摘され、殴殺寸前のところで涼平は地震棒を回避する。
「普通黙って殴るでしょうに」
鼻先を考えたくない質量が死を予感させる音を立てて駆け抜けていき、風圧だけで殴られたような錯覚を受けた。痛みと共に鼻血が吹き出る。
「次からはそうするとしようかっ! ふっ、どぉっりゃっ!」
風車の如く大回転を始める地震棒を前に、一度拭っただけで鼻血を止めた涼平は、迷い無く回転の中心を狙って夢を突き込む。それを見越したのか、逸隼丸は刺突を見るなり地震棒を力ずくで強制停止。続いて左拳による痛烈な突き上げが、右足を踏み込んだ涼平の腹部を狙って突き進む。
対し涼平は右足一本で無理やり跳躍。腰を曲げ両腕と片膝で夢を支えて盾とし、逸隼丸の剛拳を受け止めた。夢を通じた衝撃で聞こえそうなくらいに涼平の骨は軋み、間違い無くひびの五筋や六筋は入っただろう。
「捉えたっ! 空中では我が連撃を受け切れまい!」
「それには一理ある――が、そう思う通りにさせるものかっ」
必至の意を込めて地震棒を握り込む逸隼丸と、決死の覚悟で迎え討たんと夢を両手で持つ涼平。言葉が交錯し瞬時に鋼の撃ち合いが始まった。
絶妙の加減で以って逸隼丸は涼平を打ち上げるような真似はせず、巧に涼平を空中で停滞させるようにしながら四方八方から地震棒を叩き込む。
一方の涼平は嬲り殺しを予期しながらも、空中では大した動きもできないため防ぐ以外に方法が無い。
秒間に十以上は撃ち合いを繰り返し、自分自身には傷部分及び患部の代謝加速による治療術をかけっ放しであるにも関わらず、半分後には涼平の腕に限界が来ようとしていた。今までのやりとりの蓄積に、剛拳を受け止めた事が疲労を早めたようだ。逸隼丸が小松と交わした約定を知らない為、涼平の背筋に氷でも押し付けたかのような悪寒が走る。
「く、おっ……!」
涼平は自分の予感を打ち消すために全身の意気を高めた。これ以上逸隼丸に付き合っていては死を招くだけだ。ならばと覚悟を決めて地震棒を斬り裂くべく夢を振り被る。
意図を察した逸隼丸は、獰猛な笑みを浮かべて地震棒に込める力を一切の加減無しにした。速度と重圧の変化で涼平の覚悟を迎え撃とうとしたのだ。
――だが、涼平の振り被った夢は振り下ろされる事は無く、逸隼丸の地震棒も突き込まれることはなかった。
両者の視線のちょうど中心で起こった、空間の亀裂がお互いの行動を止めさせたのだ。
「これは、一体?」
動きを止めた逸隼丸の地震棒を蹴って亀裂を避け、畳に降り立った涼平は無音で幾重にも球状に亀裂を伸ばしていく様を眺めながら問う。
困惑げに首を傾げる逸隼丸は、空間ごと自分にも亀裂が入るのを構いもせずに応えた。
「我は知らん。どうやら外から無理やりにこの大武道場を壊そうと企む輩がいるらしいな」
「……もしかして茉莉なのか」
「それは無い。具現化一つままならぬ霊長では、根本的にここを発見する事も不可能だ」
「では何者が?」
「可能性としては、御前か謐かのどちらかが有力だな。ここで謎の第三者の介入は遠慮被りたいところだ」
冗談めかした逸隼丸の言葉を最後に、道具部屋から大武道場へ誘われた時と同様、何の規則性も無く空間が剥がれ落ちていった。
剥がれ落ちる傍から大武道場の景色ではなく道具部屋の景色が映され、全て剥がれ落ちて消えた時には、涼平と逸隼丸は道具部屋の両端に立っている。そして両者は同時に大武道場を壊した者を目にした。
「謐。お前だったか」
諦めが窺える口調で言い、逸隼丸は手の中の地震棒を蒸発させるようにして消し去る。そして上半身剥き出しの自分から双眸を顔ごと両手で隠している謐に溜息を吐くと、膨張している筋肉を収縮させ、四股を踏んだ時をそのまま逆にした風に背広を身に纏った。
「もう見ても良いぞ」
この言葉に謐はわざわざ涼平の方へ視線をやり、その意図に気付いた彼が頷いてからやっと逸隼丸の方を直視する。紅潮した頬はまだ平静の色には戻っていない。
「それでどういうつもりだ? 謐。事と次第によっては、幾ら過去の身分が在るとはいえ穏便に済ます訳にはいかないぞ?」
黙ったまま、謐はじっと逸隼丸の目を見て動かない。彼女の様子にもう一度溜息をついた逸隼丸は、少し腰を屈めて謐の方へ額を突き出した。
夢を収めながら何事かと軽く警戒する涼平の視線の先で、謐は逸隼丸の額に熱を測るように手を当てる。涼平はこれが六神道の一つ、他心通によるテレパシーに似たやりとりとは知らず、そのまま動かない二人に部屋の尺度がおかしくなったような感覚を覚えながら、ふとある違和感に気がついた。
「……ん? 何故〝朏〟と〝玉鉤〟が無くなっているんだ」
何も掛かっていない壁から視線を動かし、更に涼平は決定的なものを見てしまう。クロゼットが開いていて、月の羽織が無くなっているのだ。
「茉莉……?」
念のためクロゼットの中をしっかりと確認し、やはり羽織が消えているのを実感した後、涼平は一先ず鬼達の事は後回しに道具部屋を後にした。
「茉莉、久々野さん……いないのか?」
居間の電気は点いたままだが、見回す涼平の視界には妻も猫もいない。嫌な予感が凪を覆おうとするのを何とか抑えながら、全部屋を見て回ろうと重たい足を踏み出す。
台所では鰯のお頭取りの作業が途中で放棄され、魚臭い中エプロンや手袋が乱暴に放り出されていた。寝室は何かが乗った形跡も無く、茉莉による丁寧なベッドメイクが施されたままだ。唯一何も置かれていない鍛錬部屋は埃一つ見当たらなくて、トイレも浴室もそれが当たり前のように誰もいない。最後に玄関を確認し、茉莉の靴が消えている事からコンビニへ行ったのかとも考えたが、鍵が掛かっているのを見て即座にその考えを捨てる。
この部屋の鍵は複製が困難なディンブルキーで、本来は入居者人数分与えられる物なのだが、二人一緒の行動が常になっているのと、日中に絶対無くすからという茉莉の言葉によって涼平のポケットにある一つしか存在しないのだ。
「……どこへ行った? 戦支度まで整えて、茉莉と久々野さんはどこへ行ったんだ?」
「どうした血相変えて。まるで身内に不幸があったような顔だな?」
玄関で呆然と突っ立っていた涼平に、背後から逸隼丸の声が掛かる。傍らに立つ謐が彼との身長差に違和感が無い所からすると、彼女の身長も二メートル台なのは間違いない。
「それに近い状況かもしれない」
「なに?」
「逸隼丸。確かあなたは茉莉には手を出さないと言ったな」
「ああ言ったとも。実際出しておらんし、そういえば奥方はどこへ行った? 厠か?」
振り返らず、口調がやや変わっている涼平を訝しがる事も無く、逸隼丸は遠くを窺うように周囲を見回す。
「まぁ良い。それよりも一つ頼まれてくれんか? 受ければ褒美を存分に弾むそうだが」
「今僕はそれどころではないんだが」
「痴話喧嘩か? ともかく聞け。謐から知ったが、大皿の件。どうやら宵月から持ち出されていたらしくてな。魏石の黄泉還りが絵空事では無くなってきているらしい」
「……それで? 何を頼むと」
必至に凪を保つため目前の虚空を鋭く見ていた涼平は、大皿と宵月の単語を聞いて逸隼丸の話に興味を持ち、肩越しに振り返った。
「御前が言いそびれた用件でも在るのだが、魏石を斃せ。黄泉還っておらねばそう難しくはないだろうし、黄泉還ったとしてもちと厄介な程度だ。何せあの夢寐揺籃とかいう技ならば、この千年を眠っていた奴を屠る事は難しくあるまい」
いとも簡単に言ってくれたとんでもないにも程がある内容に、涼平は相手の正気を疑いながら完全に振り返る。
「なぜ僕と茉莉がその役目を? 他の者を頼るわけにもいかないのか? それにあなた方が手を下した方がよほど早いと思うが」
「お前達夫婦が一番都合が良いからだ。我等を他に報せぬし、結託し我等の寝首を掻きに来る心配も無い。次に、霊長が計画し霊長が実行した事に、何故我等がそこまでしてやらねばならぬ? 大皿を確保せよと御前が仰ったのは、奴の復活が今の世に及ぼす被害を慮っての事だ。折角霊長の世の中として安定しているというのに、我等のような存在を増やして不安定にさせるものか。それに、間違っても奴自身を御自ら屠るために大皿の確保を目指した訳ではない」
「紙一重の差としか思えないな。だが――」言葉の途中、涼平は大きく深呼吸をする。「おかげで茉莉の行き先の見当がつきました。彼女は何らかのきっかけで大皿が宵月の蔵に無い事を知ったのでしょう。何故か僕がいない事に関しては考える所もあったと推測できますが、ともあれ……恐らく妻は織口邸に着いていると考えた方がいい」
露骨な口調の戻り方に、今更気付いた風に逸隼丸が片眉を上げた。
「取り敢えずあなた方の助勢は見込めず、人が起こした事は人で始末を付けろと。そう言う事ですね?」
「うむ、そうだとも」
「……分かりました、妻を迎えに行くついでです。力を尽くしましょう」
「そうかそうか、やってくれるか。……だがせめて我が負わせた傷は治して行けよ?」
「な、くっ!」
腕を伸ばし不意打ち気味に涼平の左肩を叩いた逸隼丸は、叩いた強さからすれば完璧に大袈裟な、涼平の稲妻でも浴びたように歯を食い縛り痛みを堪える様にやれやれと息を吐く。彼は謐の肩を叩いて首で合図し、意図を汲んだ謐は裾から檜でできた扇を取り出した。
気配も何も無く近付いてくる謐に涼平は思わず半歩後退りかけたが、それよりも謐が先程逸隼丸の叩いた肘を扇で打つ方が迅速だ。
小気味いい音が響き、当然起こるべき苦痛と鈍痛を覚悟した涼平だが、痛みどころか外傷が左腕から一切消えていた。不思議に思い少し動かしてみると、内部から違和感と共に軋む痛みを伝えてくる骨のひびも消え去っているようだ。
「……それは、檜扇ですか。成る程、でしたら逸隼丸殿につけられた治りの悪い傷が簡単に治ったのも納得がいきます。すると貴女は長野の鬼姫、更級ぐっ!?」
最後で変形させられた言葉は、口に打ち据えられた謐の扇によるものである。涼平の見る限り殆どが今生に興味の無さそうな瞳をしていた謐だが、今は、言うなという明確な意思を持って涼平の双眸を正面から見つめていた。
「大当たりだ。だが今の彼女の名は謐であり、それ以外で呼ぶ事は認められん」
壁に凭れ腕を組んだ逸隼丸が、固い扇に打たれた唇を擦る涼平ににやにやしながら言う。
「何かあったんですね。知りたいとは思いませんが」
「ならそうしておくと良い。霊長も、知られたくない過去の一つや二つあるだろう」
「ですが……そうなら、魏石とは謐殿の夫では――いや、分かりました。何でもありません」
逸隼丸との会話中、負傷部分を的確に扇で打っていた謐だったが、涼平の言葉に扇を大きく振り被ったのだ。見れば小松程濃くはないが、血の色の瞳が黙れという非常に明快な意思を強制させる程の強さで伝えてきている。
口を噤んだ涼平に満足がいったのか、腕を戻した謐は再び無言のまま扇を打ちはじめた。
「しかし逸隼丸殿。僕が魏石も容易く斃せると言いましたが、過去あれだけの力をもった者は、失礼ですが三大妖怪である酒呑童子、大嶽丸と、後は金毛白眉九尾の狐である玉藻前以外ではそうは聞き及びません。幾らあなたと丁々発止の鬩ぎ合いを繰り広げたとしても、小松前の言葉通りならあなたは全力から程遠い筈。それでも容易く斃せると?」
「当たり前だ。大体からして、知名度の無い者即ち弱者と結びつける思考はどうだろうな。我とて鬼神に名を連ねし古豪ぞ? ただ他の者らと違ってそう派手な事を好まんだけだ」
「それは……成る程、失礼しました。加えて魏石は寝起きの不完全な状態だと」
「そういう事だ。……お、どうやら完治したようだな」
謐が扇をしまっているのを見て、不敵に笑っていた逸隼丸は壁から背を離す。
「有難う御座います。さて、ではお二方」
鬼二人を交互に見た涼平は、笑顔で玄関を指差した。
「家主が出て行く以上、家に客を置いたままという訳にはいかないでしょう。僕はこれから消灯してきますから、先に外へ出ていて下さい」
「ああ成る程成る程、それもそうか。良し分かった」
応え、道を譲った涼平の脇を通った逸隼丸は、床からコンクリート地に足を下ろす。地に付いた時には、何時の間にか足を包んでいた革靴のやや乾いた音がした。
窮屈そうに玄関から外へ出て行く逸隼丸を脇目に、涼平は道具部屋へ電灯を消しに戻る。そこでやっと、アルミサッシが開いたままだという事に気付いた。
「……そうか。……まったく、茉莉は」
サッシを閉じながら涼平は、戻ってこない自分を心配した茉莉がこの部屋へ入った後の行動を手に取るように思い浮かべる。茉莉本人には自覚が無いが、彼女は思い込みがかなり激しく、分かり易いのだ。
「織口邸に着いたら、まず誤解を解く必要があるな」
苦笑いを浮かべ、施錠確認後消灯した涼平は移動がてら居間の灯りを落とす。台所では大豆と鰯の存在に気付き、大豆は軽く一握り位は回収し、残りは鰯共々今更追儺も無いかと再びあった場所へと丁重にお帰り頂いた。ガスを止め闇に落ちた台所を後にして、最後に無人の玄関の灯りを消し、外へ出てしっかりとディンブルキーで施錠する。
「ところで、何故織口邸だと断定する? 安曇野からは離れているが」
室内よりも通路は天井が低いため、不自然な中腰で逸隼丸が横から涼平に聞く。
「織口は基本的に他との関わりを積極的に持とうとしませんから」
「……人心を惑わす術に長けるからこその自衛手段という訳か?」
「だと思います。信用していないだけだという意見も無くは無いですが」
「いかにも霊長らしいな。そう宣う者こそが、織口だけでなく誰も信用しておらんと吹聴しているようなものだろうに」
「ごもっともです」
ドアノブを捻って確認した後、涼平はまず屋上へ向かおうとする。だが謐がその腿を扇で止めた。
「何です?」
一応言うが、返されるのは視線のみ。その視線が逸隼丸へ向いたのを見て、涼平も逸隼丸の方を見る。
「謐殿は何が言いたいんですか?」
涼平の当然の疑問への答えに逸隼丸は数瞬窮するが、睨みに近い謐の視線を受けて即座に理解した。
「我にお前を送って行けと言いたいのだろうな。ここから霊長の足では日が昇る」
「誰も歩きで行こうとは思っていませんが」
「安心しろ、我も思っておらん。だが事が事。速いに越した事はない。ふむ。では掴まれ」
ぬ、と逸隼丸の腕が涼平へと伸ばされる。それを取るか取らないかで涼平は迷ったが、逸隼丸の言葉ももっともなので、ここは素直に好意に甘える事にした。
「ではありがたく」
と涼平の手が逸隼丸の腕を掴んだ瞬間、表情に邪悪なものを過ぎらせた逸隼丸はやおら涼平の手を掴み返すなり、六神道の一つ神足通を発動。
この移動専用の神通力は、一瞬で逸隼丸の巨躯を通路から外へと飛び立たせ、刹那後には光速の領域にまで加速。細かい理屈を完全に無視した移動速度を涼平は正確に知覚できず、ただやけに明確に感じられるマイクロ単位の時間の中、尋常ではない激烈な速度で逸隼丸が疾走しているのだけは何となく理解できた。
通路に残された爆風に黒髪を躍らせて男二人を見送った謐は、少し考える風に首を傾けた後、小松の待つ光輪車へと足を向ける。
すぐに帰りたくはないのだろう。
その足取りは、随分とゆっくりしたものだった。
長い廊下を常夜灯が薄く照らす中、春花は一歩一歩を確かめるようにして、常に全方位への警戒を怠らないよう進んでいた。何十回と訪れた事のある織口邸内部は、姿形こそ春花の良く知る存在だったが、内容はもはや完全に別と考えた方がいい有様である。
ふと、足が止まった。歩く先に何かが在るのを見つけたのだ。
「……またか。このままでは八彦を除いた全員が犠牲になってしまっているようね」
すぐにその正体に気付き呟いて、春花はその何かに近付く。何かとは柱を背もたれに足を投げ出し、血塗れで項垂れる和装の男性だった。傍らに屈んだ春花は手早くその男性を調べ、今までと変わらない死亡原因に沈痛気な面持ちで掌を合わせる。
「心臓への槍による貫き傷。……織口は術法を得意とする文系氏族の割に、八彦は槍の名手だったわね。うちのような万能系でもないのに、いざとなると厄介だ事」
立ち上がり、周囲に動く者がいないのを認識しながら春花は再び歩き始めた。
現在の織口邸は、地獄が通り過ぎたような状態である。
何しろ春花は茶室を出てからというもの、生きている人間に出会ったことが無いのだ。
目的の八彦本人はどこへ霧隠れしたものか見つからないが、他の者は既知だろうとそうでなかろうと、老若男女を問わず全員が遺体を晒していた。しかもその死因が全員同じなのだ。全て胸骨を心臓ごと素槍で貫き通された事が致命傷で、あまつさえ誰もが抵抗した形跡も無くただ無防備に貫き殺されている。
そして多数の遺体から流れ出た血液によって、織口邸内は吐き気を覚える程の血臭が充満していた。血の臭いは織口邸に入った瞬間強く認識した事から、巧に屋敷外へ臭いがもれなくなるような工夫がしてあるらしい。文系氏族に限らず、屋敷内での事を外部に漏らさない様々な工夫は全ての外道の屋敷にみられる事だ。
……しかし、これは二十年前の情景を再現しようとしているの? だとしたら何の為に?
俯き、つい親指を噛みそうになるのを堪えながら春花は進む。ちょうど二十年前の大惨事の際も、遺体がそこらに散乱するという異常事態が殆どの氏族の家で見られた。
今なお原因は調査中ではっきりしない点が多いが、賀茂氏の行った創造技術の実験が失敗したというのが今の所の大方の意見である。何しろ大惨事の始まった場所は賀茂邸なのだし、最大の勢力を誇っていた文系氏族としての威信をかけて、更に上位の技術を目指していたのはどこの氏族も知る所なのだ。ただその賀茂氏だが、二十年前に他の多くの氏族と運命を同じくしているため、結局正確なところは恐らく永遠に分かる事は無いだろう。
「――ん? ここは……」
屋敷内を歩き回る春花は、考えている内に八彦の部屋の前に辿り着いていた。
念のため改めて気配を探り、部屋内や周囲に本当に動く者がいないか確認する。十センチに満たない物は除外しているとはいえ、何一つ動く者の無い屋敷にはそろそろ不気味さすら感じ始めていた。
しかし何はともあれ部屋の中は空なのだ。得物を手にする前に踏み込むのは少し躊躇われたが、春花は手がかり取得を優先させた。
若干の期待と、大きな警戒と共に戸を開く。
流石に電気を点ける訳にはいかないが、宵月として当然のように夜目が利く春花からすれば、廊下側からのほのかな常夜灯で充分な視界を得られるので問題は無い。
室内は神経質な八彦らしい、家捜しをするには随分手間の省ける整理整頓された和室である。
「さて……」
軽く見回し、春花は書架からこれ見よがしに〝日記〟と書かれた分厚い本に目をつけた。
八彦が凶行に至った理由が、何か分かるかも知れ無い。不慮による狂気だけとは思えないのだ。常套手段からいけば、先に得物を見つけるべきなのだろう。だが春花は、夜であるという事と八彦の接近に気付かない筈が無いと言う理由から、調査を優先した。
「どれ」
手近なものを一冊手にとって開いてみれば、この時勢に毛筆で記述されたらしい達筆な文体が、やや厚めの紙上に躍っている。
「まず……十年前、十年前は……」
ページを捲っていき、この分厚い日記帳は三年前の物だと判別をつけた後、戻した春花は左に七つずれた日記帳を手にした。
日記帳の褪せた色が十年の月日を感じさせ、開けば紙の古くなった臭いも鼻につく。
まず最初の一月分にざっと目を通したが、それらしい単語も暗号もなにも見られない。今が四月だから、ひょっとすれば四月の方から見た方がいいのかも知れないと思い、春花は二ヶ月分時間を進めた。すると明らかに怪しい内容が目に飛び込んでくる。
〝――四月三日。
今日手に入れた物は、偶然とは言え私の余生に並々ならぬ刺激を与える事となった。このまま年老いて隠棲するだけの道に、もう一つ復讐という大儀が与えられたのである。十年前の惨事の責任をあ奴らに取らせるのだ。本来なら他の氏族とも音頭を取りたい所ではあるが、まず確証を得ておく必要があるだろう。〟
「手に入れた、物。……物、ね。安曇野の王に至る何か何を手に入れたとしても……強引ね。復讐を大儀とする辺り、やはり随分前から気が触れてしまっていたのかしら」
ついつい感想を口にしながら、春花はページを捲っていく。今回の件の原因は、どうやら記してある通りの物らしいが、今のところではその名も形状も何もかも分からない。もどかしい思いを覚えながら、ページを捲っていく。
そんな中、不意の背後からの衝撃と共に、春花が目で追っていた日記の記述は真っ直ぐな素槍の腹に隠されている。
「な……」
初めの刹那に驚き、双眸を見開き、次の刹那で日記に集中し過ぎていた事を思い知った。
遅れて一瞬後、春花は文面を遮っている、鮮血でしとどに濡れた刃がどこから生えているかを認識する。
「……あ……ぅっ」
自分の胸の谷間のちょうど真ん中。これまで見てきた織口邸内の遺体と同じ部分に、春花は素槍を突き通されていたのだ。
槍穂の先から数滴血が紙面に滴り落ちて、それから春花は喉の奥から逆流してきた血液をそこに吐き散らす。傷部分の灼熱感とは対照的となる身体の末端から昇ってくる寒気に、日記帳を持つ力すら入らなくなって血に汚れたそれを畳上に落とした。
「人の日記を血で汚すとはな。しかし無防備な背だ、突いてくれと催促されている風に見えたからつい突いてしまった」
突然の声。春花の背後には、何時の間にか両手で素槍を持った八彦がいた。その両腕と素襖は、春花が見てきた犠牲者を裏付けるように乾いた血で汚れている。
「ともかく、泥棒の真似事は悪い事だとご両親に教わらなかったかね」
小馬鹿にした口調で、八彦は無造作に素槍を引き抜く。当然、夥しい量の血が貫かれた痕より溢れて、春花の身体は糸の切れた操り人形のように倒れ込む。
畳に倒れた自分の身体を他人事のように認識しながら、春花は血液と共に力が抜けていくのを実感していた。世界が急速に現実味を失っていき、最早畳を掻く事も不可能だ。
「思いの外愚かな女だったな。あのまま茶室でじっとしておればまだ長く生きられたものを。それとも、よほど利弥や冬花に逢いたかったのか」
夫と、そして彼と同様に二十年前に死んだ妹の名を朧気に聞きながら、春花は無念と悔恨の思いに囚われる。
しかしすぐにその思いも希薄となり、震動で八彦が歩いてくるのを感じたのを最後に、それから先は春花には分からなくなって、いた。
「……む、死んだか。呆気ないものだな」
畳に頬を密着させる形で横になっていた春花を、八彦は素槍の石突で仰向けにし、開かれた双眸がもはや何物も映せそうに無いほどになっているのを確認する。鼓動は確認するまでも無かった。そもそも脈を伝えるべき心臓は先程刺し貫いている。
「…………」
そして次の瞬間八彦は春花の事などどうでもいいような顔になり、日記を拾い戻す事もせずに自室を後にした。
「……さて、儂ができる範囲で事は成したが」
血塗れの廊下を歩きながら、八彦は周囲全てと自分の状況を一顧だにせずただ思考する。
十年前のあの日、八彦は偶然とは言え鬼神の遺骸の一部を手に入れたのだ。その後織口の技術を駆使して鬼神の遺骸を集め、ついには黄泉還りを阻害するであろう施設も破壊した。
と、一般的にはここまでで充分の筈であり、これ以上は必要ないのである。
ところが現実はこれ以上を要求してきた。なぜなら集まった遺骸を繋いだにも関わらず、鬼神は黄泉還る兆候すら見せなかったのだ。伝え聞くだけでも今の常識を超えた鬼神を打ち倒した勇者自らが滅ぼす事を断念し、復活を阻止するためにわざわざ斬り刻んでばらばらにした遺体である。それが何の兆候も示さなかったのだ。
「…………」
脇に挟んだ素槍の先から真新しい血が珠となって落ちる音を聞きながら、八彦はふと足を止めた。思考に集中する。
ともあれ時間が無い。それは間違い様の無い事態である。いくら各氏族に悟られないよう慎重に事を成し、迅速に鳥獣へ口止めをしたとはいえ、どこの誰がその全ての情報を入手し危険を察知するか知れたものではない。
それに、常念坊の庵を破壊した事が事実露呈へ拍車をかけてしまっているだろう。秘匿されていたならともかく、そうでない建物を破壊してしまえば否応無く人の目は差異に気付く。ただ復活を阻害しているのであろうという予測の元行った破壊活動だが、効果がなければその意味は全くの逆効果だ。
「……そしてここまでしても何も変わらない、とな」
目的のため、術法の触媒になりそうな物は蔵から全て引っ張り出して使用及び服用した。現状、能力的に五十年は若返っている八彦だが、それでも遺骸に変わりは無い。
望みを果たすにはまだ足りないのだろう。
だから血肉の贄と魂の贄を捧げんが為、屋敷内の者達悉くを殺したのだ。
相応の心構えと有効な使い道さえ心得ていれば、人一人殺すという事は莫大な力を得る事になる。もちろん外道も外道、禁忌も禁忌の行いだが、八彦を嘲笑うかのように屋敷は静穏を保ったままだ。
「となれば、やはり皿を砕く他無いというのか」
死が行き渡った己の屋敷の中、八彦は止めていた足を再び進め始めた。
先々月宵月邸へ赴いた際、軽く三乱に嵌めて知識を盗んだのだが、かの鬼神の御魂魄を封じている皿が存在しており、またそれは宵月の宝の一つでもあるという。
だが拝借し持ち帰ったそれは幾ら検分した所で所詮皿であり、秘めたる力も何も関知できない華美な飾皿でしかなかった。
「……しかし」
額に皺が刻まれ、すべきかせざるべきかの判断のつかない表情を浮かべる。何を今更な事ではあるが、この時八彦は本気で悩んでいた。
どうすれば皿を破壊する事ができるのだろうか、と。
一時的とはいえ全盛の力を取り戻した八彦をしても、何の変哲も無い皿は傷一つ付かなかったのである。それに二ヶ月という時間の間、それこそ岩に叩き付けようが石突で滅多打ちにしようが、塗料の欠片すら剥げなかったのだ。この異常なまでの強度以外、これといって不可思議な所が無かった為に八彦は皿を後回しにし、虐殺やらの他の手段を優先していたのだが、どうやら皿を砕く以外の全ては徒労である可能性が出てきている。
「春花なら何か知っていただろうか……しかし今更何も聞き出せまいな」
呟いた八彦の足は、中庭へと進んでいた。
肆― 表
大武道場を覆い尽くさんばかりの閃光が幾重にも走り、宙を舞う内に粉々に砕け散った地震棒の無数の欠片が畳に叩き付けられる際、驟雨に似た凄まじい轟音を響かせる。その内地震棒の握り部分は、腕ごと断たれた逸隼丸の手がしっかりと握り締めたままだ。
そして当の逸隼丸は、何が起こったか理解しているが、それが信じられないような表情で数十メートル上の天井を眺めている。鎧のような肉体は全方向どこを見ても完膚なきまでの斬り傷を負い、畳の上で大の字になったまま動けない。
「僕の勝ち、という事でいいですかね?」
鬼をして呆然とさせる技法を示し、目元を拭った涼平は、鞘に収まっている夢を握った拳を天へ向けて勝鬨を呟いた。勝利宣言にわざわざ拳を突き上げるなど、戦時の渡辺としては酷く珍しい行為と思われるだろうが、全く無感情という訳ではないのだ。喜ぶ時は喜ぶ。
「うーむ、これでは異論は無いな。武器を飛ばされこの有様では」
どうにか残った右眼を動かして涼平を見た後、逸隼丸は生きているのが不思議な有様の体をぬっと起こす。動けた事以前に、喋る事が出来たというのも驚くべき凄惨な状態なのだが、そんな事など構わない様子で立ち上がる。実際痛覚が在るのかどうかすら疑わしくなる程、在るべき激痛を完全に隠していた。
「驚いたな。まさかすぐに立てるなんて」
表情も気配も微塵の揺らぎ無く言った涼平に、逸隼丸はやはり不満気な顔をする。
「我を、旧き鬼を見縊るんじゃないぞ? あの程度の刺突斬の嵐など、本領であれば受けきる事など造作も無いのだからな」
「それは凄い。顛倒の斬渦の中でもそう言えるとは、さすがは旧き鬼」
再び同じようにして言う。顛倒とは壮絶な量を示す桁の事だが、逸隼丸を見るに限りそれだけの数をしても尚、旧き鬼を倒しきれない事を意味していた。
「……ならば顔と眼でそれを口ほどに表して見せろ」
「あ、そう見えませんか?」
「見えぬから言っているのだとすぐに分からんのか、この渡辺め」
「失礼を」
軽く叱られたように涼平は頭に手をやって頭を下げる。
「しかし、よもやこうも見事に完敗を喫するとは」
「いえ、実際は紙一重でした。こちらはあなたの打撃が一つでもまともに入ればほぼ即死ですし。それに一・八トンもある得物をさも軽々と振り回すような相手とは、できれば二度と闘りたくありません」
遠い目をした逸隼丸に、緊張の糸を解すような息を吐きながら涼平は微笑みかけた。そして次の瞬間には、瞳を爛々と輝かせる逸隼丸を見て自分の言葉に激しく後悔している。
「ほぉう、そうかぁ。我は二度とやりたくないほどの強敵だったか」
涼平の言葉に嬉々とした表情を見せる逸隼丸は、「奮ッ!」の気合一閃で右肩以外の傷を完治させ、左手の指招きで地震棒の握りを持ったままの右腕を左掌に引き寄せた。
それを涼平の見る前で叩き付けるようにして右肩に接合、即座に癒着させた挙句に、右掌で地震棒の握りを躍らせる。すると粉々に散っていた金砕棒は冗談のように結集し、双頭の威容を即座に取り戻していた。
「ではもう一勝負、いたそうか」
気が付けば、身体も得物もすっかり元通りになって気力も充実した逸隼丸が涼平の前に立っている。大抵の生物なら即死となる傷を負わせた筈なのに、まさかここまで容易く、しかもほぼ一瞬で完全治療されるとは涼平にも予想の範疇にも無い事態だ。
旧き鬼の力を侮っていた訳では決してないが、どうやら逸隼丸の力は涼平の知識と経験を大きく凌駕していたらしい。むしろここまでを予測しろというのが無茶だろう。
「……えーと。決着は付いた筈では?」
言っても無駄だと思いつつ、涼平は間合いを取る為に後退りながら夢の鯉口を切る。
「愉しむ時は飽きる時まで愉しむのが我の流儀でな。という訳で付き合って貰うぞ」
「はぁ。延長されるなら一応妻に安否を伝えておきたいんですが」
茉莉の心配を軽減させるために短期決戦を目指し、早々に奥義を以って決着に臨んだ自分の算段が完全に裏目に出ている事を涼平は思い知っていた。
「ここに引きずり込まれた時点で、あらゆる決定権は我にあると一々言わねばいかんか」
「むむむ……そう来ますか」
「おう。では闘え。お前との闘いは緊張を思い出させてくれるから非常に有意義なのだ」
言い出したら聞かないという鬼の性質を見事に体現している逸隼丸を前に、涼平は苦笑の後、夢を再度八相に構える。こうなったら自分の技法全てで以って、この鬼を倒しきる他に無い。飽きるのを待っていたら誇張抜きに一ヶ月はここから出られないだろう。
「分かりました。では存分に」
「良し良し。では行くぞ!」
大武道場に爆音が響き、応ずる鋭い音が鳴り渡った。
「――なんと、まぁ。驚いた」
肘掛に凭れていた小松は、目を丸くして驚嘆のあまり静かに声を上げて背筋を伸ばす。
天眼の視界で大武道場のやりとりを具に見ていたのだが、終始逸隼丸が押されるという展開に気を揉み、最後の接触で見せた涼平のおよそ現実味に欠けた技は、長きを生きた小松をして瞠目させたのだ。
「あれが今の渡辺の最強か。はは、面白い。あれではいかに逸隼丸とて全力の出せる環境でなければ勝ち目は無いか。が、勿体無いな。全力の逸隼と現代の渡辺、強い男が一対一でくんずほぐれつ、ああ、見応えもさぞあるじゃろうに」
頬を薄く朱色にしながら老獪げに顎を撫でて小松は言い、ふと美しい柳眉を寄せて思考に移る。無論、涼平が最後に見せた技に対してだ。
真正面から受けた逸隼丸が一瞬で血塗れになった所からすると、涼平の太刀はそうなるように斬ったのだろう。
だが小松の天眼は、最後の涼平の行動の中に刺突斬に見える何かは一切捉えていないのだ。何しろ涼平は突進してくる逸隼丸を前にして、太刀を鞘に収めたのである。すると、何故か逸隼丸が無数の傷を負わされた挙句吹き飛ばされていたのだ。更には、視た所斬渦は大武道場内の全てに行き渡っている。大武道場が創造による場所でなければ、今頃倒壊しているだろう。
「ふーむぅ。面妖な事じゃ」
難事件を前に愉しそうに思考を張り巡らせる名探偵のような面持ちで呟くと、小松は左掌を一度指だけ閉じ、開く。するとどこから現れたのか、金細工が艶やかな朱色の煙管が現れた。
それを咥え真剣な眼差しになりながら、小松は再び思考に入る。同時に、何もしないのに煙管の口から軽く火が出て、すぐに紫煙がくゆり始めた。
「あの技、太刀によるものか、あの男自身の力か……はたまた両者が合わさった事による産物か。……予想の通りだとすれば、中々面白い代物ではあるな、ふむ、夢か。後千年もすれば、あの太刀も神剣の一つに数えられよう」
太刀を収めて相手を斬る。矛盾に満ちた技だが、小松は客観的に見た視覚情報から、大体の見当が付き始めていた。
鬼でありながら刀の扱いにも長けた彼女からすれば、神代の神業でもなければ大方の技を初見で見切る事は造作も無い。ただ今回は涼平の技がかなり特殊なため、未だに確証が持てないでいた。
「相対する逸隼丸も、気付いておるのかの。おらねば何度でも鱠斬りにされる羽目になるが……ま、ああなったあれはただの馬鹿じゃからな。死にかけるか飽きるまでは渡辺の男にも苦労をかける事になるか」
小松の視界に、今度は前のめりに逸隼丸が畳に倒れ伏したのが見える。今度は先程とは違い、数ではなく一撃の質を重視した技だ。威力としてはいくらか落ちるが、それでも逸隼丸を倒せるだけの威力を持つ激烈な技だと言えた。渡辺の姓を持つ者である以上に、涼平の技量は並外れて優れているようだ。
音声を聞く事ができれば、跳ねるように立ち上がる逸隼丸の愉快気な笑い声を聞かされただろう。寸毫の油断無く太刀を構え直す涼平に焦点を合わせながら、小松は彼に同情的な気分を覚えた。
「――む、戻ったか」
三戦目が始まろうとした所で、小松の目が近くを見る。広間に謐が帰ってきたのだ。
「首尾は」
何時の間に来たものか、己の低位置で土下座姿勢から顔を上げた無言の返答は、首を左右に振る事で明確に返された。茉莉の言葉からして思いもしない事態に、小松の表情が険しくなる。
「ほお。宵月の娘は嘘を言ってはおらぬのじゃぞ? ……それで見つからぬと言うのなら、宵月の屋敷全てを、竈の灰から棧に積もった埃まで舐め尽くしてでも見つけてこぬか!」
上機嫌から一気に不機嫌へ落とされた事の不快も含めた叱責に、謐は落雷に怯えるようにしてその大きな身体を震わせた。苛立ちも露に腰を上げた小松はそのままずかずかと謐の前まで来ると、萎縮してあからさまに怯えている謐の顎を片手で掴むや、体ごと軽々と持ち上げる。
「それともこれは反抗か、挑戦か、異議申し立てか? はたまた謀反か、それとも下克か。ん?」
間近に顔を寄せ合う体勢のまま、血色の視線に謐は必死に目で違うと訴えた。
事実、茉莉の言った通り宵月の蔵へ赴いた謐は、言われた場所が蛻の殻だったために宵月邸全体を捜索したのだ。典雅な装いと高身長という悪条件を持ち前の力で覆し、それこそ天井裏から縁の下、庭の池に至るまでを探索したのである。本当に宵月邸に大皿があるのだとしたら、もはや彼女はどこに在るのか皆目見当もつかない状態だった。
謐の眼差しから探せる範囲は全て探したのだという意を汲んだ小松は、数秒間不満気な顔で彼女の顎を掴んでいたが、ぞんざいにその束縛を解き放った。
「……どうやら本当に無いようじゃな。とすると、さて……」
腕を組んで考えながら、小松は謐に背を向け百合を思わせる美しい歩みで上座に戻り、芍薬のような優美な立ち姿から正座し、牡丹の華やかさを感じさせる。対し謐は現れた時と同様に平伏していた。
「どうやら忌々しき事態と考えておく必要が出てきたか。ふむ」
煙管を咥え、揺れる紫煙を眺めていた小松は数秒の黙考後、煙管を離し紫煙を吐く。
「謐。逸隼丸が現在渡辺の所へ行っておるから、皿が無い事を伝えよ。ついでに伝えそびれた用件も言い付けて織口邸へ差し向けるのじゃ。まだ大皿には細工がしてあるとはいえ、魏石が絶対に黄泉還らぬとは言い切れなくなったからの」
命令に謐は顔を上げ、一も二も無く頷き立ち上がる。
「よし。妾は念のため織口邸へ光輪車を進めておく」
言葉の切れ目に目線で行けと伝えられ、謐は迅速に回れ右。ふわりと黒髪を揺らした後、逃げるように真っ直ぐ広間を後にする。
「……ふむむ。さてどうなろうかな?」
煙管を咥えたまま呟き、小松は肘掛に凭れ直した。
――これで五戦目。
心臓と脳天を貫く即死としか思えない致命傷からあっさりと全快した逸隼丸を前に、凪の中涼平は純粋に逸隼丸を斃せる気がしなくなっていた。先程などは、刎ねた首を拾って接合するというまさに人外な真似をやってくれてもいるのだ。今更、内臓を飛び散らかしたくらいでは死ぬ訳もないのだろう。
一戦目の際は多少加減していたのは確かである。だが二戦目以降は躊躇いも何も無く斃そうとしていたのだ。倒しても切りが無さそうなのは何となく予想できたし、相手は遊び半分にしか見えないが、こちらは一度でも直撃を喰らえば死んでしまうのは火を見るより明らか。ならば斃してこの大武道場を強制的に解除するのが一番的確だと判断したのだ。
その後小松前がどういう対応を見せるかが気がかりではあるが、死んで茉莉を絶望の淵に立たせるのは何よりも忌避しなければならない。
……しかし――
「ふふん、先のは中々肝を冷やさせてもらった。あれだけの事をしても殺気が片鱗も感じられない辺り、お前の凪は極上だな」
心底愉しそうな逸隼丸はまだまだ闘る気充分で、対し短時間に超集中と奥義を繰り返し、幾つか地震棒をその身に掠らせた涼平は心身ともに疲れが出始めていた。
このままではジリ貧なのは明白だが、涼平が内心恐れているのは疲れを察した逸隼丸がこちらにも余計な世話をしないかどうかだ。躱し損ねて文字通り骨身に染みる一撃を受け戦闘不能になったとしても、旧い鬼がまだまだと言ってこちらの傷を癒したりしてきた場合には、もはやこの大武道場は地獄と化すだろう。
「が、まだまだまだまだよ! そろそろ我の目もお前の迅さに慣れてきたのでな!」
「しつこい男というのは、同性からも敬遠されるんですけど?」
豪速に対する往なし一つで手が痺れ、鋼の肉体に刃を立てればこちらの筋肉が悲鳴を上げる。日本最優の金属である日比金を原材料としている夢ですら、硬氣を込めて扱っても粉砕してしまうのではという不安に駆られてしまう。
「そんな事は知った事か!」
「つくづく鬼はっ」
目の前が逸隼丸の拳で埋まったような錯覚に、涼平は大きく右横へと飛び躱す。
「と、我儘だ」
「ならば心身に刻み付けておけ!」
言葉と共に純粋且つ激烈な剛力が間断無く振るわれる。言葉通り逸隼丸は涼平の韋駄天の速度に慣れてきて日記帳ようだが、同様に涼平も逸隼丸の金砕棒の軌道をあらかた見切っていた。
それでも分が悪い事に変わりは無く、隙を見出して相手へ死を運んでも意味があるようには思えないのだ。よしんば平気な真似が演技だとしても、大武道場を苦も無く維持したままでは何度斃せばいいか概算を打ち出す気すら起きない。
涼平は、せめて自分の得意な術法が物理的な攻撃にも効果があればなー、と考えていた。
「隙在りぃっ!」
「そういう時はっ、たっ」
思考に気を取られかけていたのを大音声で指摘され、殴殺寸前のところで涼平は地震棒を回避する。
「普通黙って殴るでしょうに」
鼻先を考えたくない質量が死を予感させる音を立てて駆け抜けていき、風圧だけで殴られたような錯覚を受けた。痛みと共に鼻血が吹き出る。
「次からはそうするとしようかっ! ふっ、どぉっりゃっ!」
風車の如く大回転を始める地震棒を前に、一度拭っただけで鼻血を止めた涼平は、迷い無く回転の中心を狙って夢を突き込む。それを見越したのか、逸隼丸は刺突を見るなり地震棒を力ずくで強制停止。続いて左拳による痛烈な突き上げが、右足を踏み込んだ涼平の腹部を狙って突き進む。
対し涼平は右足一本で無理やり跳躍。腰を曲げ両腕と片膝で夢を支えて盾とし、逸隼丸の剛拳を受け止めた。夢を通じた衝撃で聞こえそうなくらいに涼平の骨は軋み、間違い無くひびの五筋や六筋は入っただろう。
「捉えたっ! 空中では我が連撃を受け切れまい!」
「それには一理ある――が、そう思う通りにさせるものかっ」
必至の意を込めて地震棒を握り込む逸隼丸と、決死の覚悟で迎え討たんと夢を両手で持つ涼平。言葉が交錯し瞬時に鋼の撃ち合いが始まった。
絶妙の加減で以って逸隼丸は涼平を打ち上げるような真似はせず、巧に涼平を空中で停滞させるようにしながら四方八方から地震棒を叩き込む。
一方の涼平は嬲り殺しを予期しながらも、空中では大した動きもできないため防ぐ以外に方法が無い。
秒間に十以上は撃ち合いを繰り返し、自分自身には傷部分及び患部の代謝加速による治療術をかけっ放しであるにも関わらず、半分後には涼平の腕に限界が来ようとしていた。今までのやりとりの蓄積に、剛拳を受け止めた事が疲労を早めたようだ。逸隼丸が小松と交わした約定を知らない為、涼平の背筋に氷でも押し付けたかのような悪寒が走る。
「く、おっ……!」
涼平は自分の予感を打ち消すために全身の意気を高めた。これ以上逸隼丸に付き合っていては死を招くだけだ。ならばと覚悟を決めて地震棒を斬り裂くべく夢を振り被る。
意図を察した逸隼丸は、獰猛な笑みを浮かべて地震棒に込める力を一切の加減無しにした。速度と重圧の変化で涼平の覚悟を迎え撃とうとしたのだ。
――だが、涼平の振り被った夢は振り下ろされる事は無く、逸隼丸の地震棒も突き込まれることはなかった。
両者の視線のちょうど中心で起こった、空間の亀裂がお互いの行動を止めさせたのだ。
「これは、一体?」
動きを止めた逸隼丸の地震棒を蹴って亀裂を避け、畳に降り立った涼平は無音で幾重にも球状に亀裂を伸ばしていく様を眺めながら問う。
困惑げに首を傾げる逸隼丸は、空間ごと自分にも亀裂が入るのを構いもせずに応えた。
「我は知らん。どうやら外から無理やりにこの大武道場を壊そうと企む輩がいるらしいな」
「……もしかして茉莉なのか」
「それは無い。具現化一つままならぬ霊長では、根本的にここを発見する事も不可能だ」
「では何者が?」
「可能性としては、御前か謐かのどちらかが有力だな。ここで謎の第三者の介入は遠慮被りたいところだ」
冗談めかした逸隼丸の言葉を最後に、道具部屋から大武道場へ誘われた時と同様、何の規則性も無く空間が剥がれ落ちていった。
剥がれ落ちる傍から大武道場の景色ではなく道具部屋の景色が映され、全て剥がれ落ちて消えた時には、涼平と逸隼丸は道具部屋の両端に立っている。そして両者は同時に大武道場を壊した者を目にした。
「謐。お前だったか」
諦めが窺える口調で言い、逸隼丸は手の中の地震棒を蒸発させるようにして消し去る。そして上半身剥き出しの自分から双眸を顔ごと両手で隠している謐に溜息を吐くと、膨張している筋肉を収縮させ、四股を踏んだ時をそのまま逆にした風に背広を身に纏った。
「もう見ても良いぞ」
この言葉に謐はわざわざ涼平の方へ視線をやり、その意図に気付いた彼が頷いてからやっと逸隼丸の方を直視する。紅潮した頬はまだ平静の色には戻っていない。
「それでどういうつもりだ? 謐。事と次第によっては、幾ら過去の身分が在るとはいえ穏便に済ます訳にはいかないぞ?」
黙ったまま、謐はじっと逸隼丸の目を見て動かない。彼女の様子にもう一度溜息をついた逸隼丸は、少し腰を屈めて謐の方へ額を突き出した。
夢を収めながら何事かと軽く警戒する涼平の視線の先で、謐は逸隼丸の額に熱を測るように手を当てる。涼平はこれが六神道の一つ、他心通によるテレパシーに似たやりとりとは知らず、そのまま動かない二人に部屋の尺度がおかしくなったような感覚を覚えながら、ふとある違和感に気がついた。
「……ん? 何故〝朏〟と〝玉鉤〟が無くなっているんだ」
何も掛かっていない壁から視線を動かし、更に涼平は決定的なものを見てしまう。クロゼットが開いていて、月の羽織が無くなっているのだ。
「茉莉……?」
念のためクロゼットの中をしっかりと確認し、やはり羽織が消えているのを実感した後、涼平は一先ず鬼達の事は後回しに道具部屋を後にした。
「茉莉、久々野さん……いないのか?」
居間の電気は点いたままだが、見回す涼平の視界には妻も猫もいない。嫌な予感が凪を覆おうとするのを何とか抑えながら、全部屋を見て回ろうと重たい足を踏み出す。
台所では鰯のお頭取りの作業が途中で放棄され、魚臭い中エプロンや手袋が乱暴に放り出されていた。寝室は何かが乗った形跡も無く、茉莉による丁寧なベッドメイクが施されたままだ。唯一何も置かれていない鍛錬部屋は埃一つ見当たらなくて、トイレも浴室もそれが当たり前のように誰もいない。最後に玄関を確認し、茉莉の靴が消えている事からコンビニへ行ったのかとも考えたが、鍵が掛かっているのを見て即座にその考えを捨てる。
この部屋の鍵は複製が困難なディンブルキーで、本来は入居者人数分与えられる物なのだが、二人一緒の行動が常になっているのと、日中に絶対無くすからという茉莉の言葉によって涼平のポケットにある一つしか存在しないのだ。
「……どこへ行った? 戦支度まで整えて、茉莉と久々野さんはどこへ行ったんだ?」
「どうした血相変えて。まるで身内に不幸があったような顔だな?」
玄関で呆然と突っ立っていた涼平に、背後から逸隼丸の声が掛かる。傍らに立つ謐が彼との身長差に違和感が無い所からすると、彼女の身長も二メートル台なのは間違いない。
「それに近い状況かもしれない」
「なに?」
「逸隼丸。確かあなたは茉莉には手を出さないと言ったな」
「ああ言ったとも。実際出しておらんし、そういえば奥方はどこへ行った? 厠か?」
振り返らず、口調がやや変わっている涼平を訝しがる事も無く、逸隼丸は遠くを窺うように周囲を見回す。
「まぁ良い。それよりも一つ頼まれてくれんか? 受ければ褒美を存分に弾むそうだが」
「今僕はそれどころではないんだが」
「痴話喧嘩か? ともかく聞け。謐から知ったが、大皿の件。どうやら宵月から持ち出されていたらしくてな。魏石の黄泉還りが絵空事では無くなってきているらしい」
「……それで? 何を頼むと」
必至に凪を保つため目前の虚空を鋭く見ていた涼平は、大皿と宵月の単語を聞いて逸隼丸の話に興味を持ち、肩越しに振り返った。
「御前が言いそびれた用件でも在るのだが、魏石を斃せ。黄泉還っておらねばそう難しくはないだろうし、黄泉還ったとしてもちと厄介な程度だ。何せあの夢寐揺籃とかいう技ならば、この千年を眠っていた奴を屠る事は難しくあるまい」
いとも簡単に言ってくれたとんでもないにも程がある内容に、涼平は相手の正気を疑いながら完全に振り返る。
「なぜ僕と茉莉がその役目を? 他の者を頼るわけにもいかないのか? それにあなた方が手を下した方がよほど早いと思うが」
「お前達夫婦が一番都合が良いからだ。我等を他に報せぬし、結託し我等の寝首を掻きに来る心配も無い。次に、霊長が計画し霊長が実行した事に、何故我等がそこまでしてやらねばならぬ? 大皿を確保せよと御前が仰ったのは、奴の復活が今の世に及ぼす被害を慮っての事だ。折角霊長の世の中として安定しているというのに、我等のような存在を増やして不安定にさせるものか。それに、間違っても奴自身を御自ら屠るために大皿の確保を目指した訳ではない」
「紙一重の差としか思えないな。だが――」言葉の途中、涼平は大きく深呼吸をする。「おかげで茉莉の行き先の見当がつきました。彼女は何らかのきっかけで大皿が宵月の蔵に無い事を知ったのでしょう。何故か僕がいない事に関しては考える所もあったと推測できますが、ともあれ……恐らく妻は織口邸に着いていると考えた方がいい」
露骨な口調の戻り方に、今更気付いた風に逸隼丸が片眉を上げた。
「取り敢えずあなた方の助勢は見込めず、人が起こした事は人で始末を付けろと。そう言う事ですね?」
「うむ、そうだとも」
「……分かりました、妻を迎えに行くついでです。力を尽くしましょう」
「そうかそうか、やってくれるか。……だがせめて我が負わせた傷は治して行けよ?」
「な、くっ!」
腕を伸ばし不意打ち気味に涼平の左肩を叩いた逸隼丸は、叩いた強さからすれば完璧に大袈裟な、涼平の稲妻でも浴びたように歯を食い縛り痛みを堪える様にやれやれと息を吐く。彼は謐の肩を叩いて首で合図し、意図を汲んだ謐は裾から檜でできた扇を取り出した。
気配も何も無く近付いてくる謐に涼平は思わず半歩後退りかけたが、それよりも謐が先程逸隼丸の叩いた肘を扇で打つ方が迅速だ。
小気味いい音が響き、当然起こるべき苦痛と鈍痛を覚悟した涼平だが、痛みどころか外傷が左腕から一切消えていた。不思議に思い少し動かしてみると、内部から違和感と共に軋む痛みを伝えてくる骨のひびも消え去っているようだ。
「……それは、檜扇ですか。成る程、でしたら逸隼丸殿につけられた治りの悪い傷が簡単に治ったのも納得がいきます。すると貴女は長野の鬼姫、更級ぐっ!?」
最後で変形させられた言葉は、口に打ち据えられた謐の扇によるものである。涼平の見る限り殆どが今生に興味の無さそうな瞳をしていた謐だが、今は、言うなという明確な意思を持って涼平の双眸を正面から見つめていた。
「大当たりだ。だが今の彼女の名は謐であり、それ以外で呼ぶ事は認められん」
壁に凭れ腕を組んだ逸隼丸が、固い扇に打たれた唇を擦る涼平ににやにやしながら言う。
「何かあったんですね。知りたいとは思いませんが」
「ならそうしておくと良い。霊長も、知られたくない過去の一つや二つあるだろう」
「ですが……そうなら、魏石とは謐殿の夫では――いや、分かりました。何でもありません」
逸隼丸との会話中、負傷部分を的確に扇で打っていた謐だったが、涼平の言葉に扇を大きく振り被ったのだ。見れば小松程濃くはないが、血の色の瞳が黙れという非常に明快な意思を強制させる程の強さで伝えてきている。
口を噤んだ涼平に満足がいったのか、腕を戻した謐は再び無言のまま扇を打ちはじめた。
「しかし逸隼丸殿。僕が魏石も容易く斃せると言いましたが、過去あれだけの力をもった者は、失礼ですが三大妖怪である酒呑童子、大嶽丸と、後は金毛白眉九尾の狐である玉藻前以外ではそうは聞き及びません。幾らあなたと丁々発止の鬩ぎ合いを繰り広げたとしても、小松前の言葉通りならあなたは全力から程遠い筈。それでも容易く斃せると?」
「当たり前だ。大体からして、知名度の無い者即ち弱者と結びつける思考はどうだろうな。我とて鬼神に名を連ねし古豪ぞ? ただ他の者らと違ってそう派手な事を好まんだけだ」
「それは……成る程、失礼しました。加えて魏石は寝起きの不完全な状態だと」
「そういう事だ。……お、どうやら完治したようだな」
謐が扇をしまっているのを見て、不敵に笑っていた逸隼丸は壁から背を離す。
「有難う御座います。さて、ではお二方」
鬼二人を交互に見た涼平は、笑顔で玄関を指差した。
「家主が出て行く以上、家に客を置いたままという訳にはいかないでしょう。僕はこれから消灯してきますから、先に外へ出ていて下さい」
「ああ成る程成る程、それもそうか。良し分かった」
応え、道を譲った涼平の脇を通った逸隼丸は、床からコンクリート地に足を下ろす。地に付いた時には、何時の間にか足を包んでいた革靴のやや乾いた音がした。
窮屈そうに玄関から外へ出て行く逸隼丸を脇目に、涼平は道具部屋へ電灯を消しに戻る。そこでやっと、アルミサッシが開いたままだという事に気付いた。
「……そうか。……まったく、茉莉は」
サッシを閉じながら涼平は、戻ってこない自分を心配した茉莉がこの部屋へ入った後の行動を手に取るように思い浮かべる。茉莉本人には自覚が無いが、彼女は思い込みがかなり激しく、分かり易いのだ。
「織口邸に着いたら、まず誤解を解く必要があるな」
苦笑いを浮かべ、施錠確認後消灯した涼平は移動がてら居間の灯りを落とす。台所では大豆と鰯の存在に気付き、大豆は軽く一握り位は回収し、残りは鰯共々今更追儺も無いかと再びあった場所へと丁重にお帰り頂いた。ガスを止め闇に落ちた台所を後にして、最後に無人の玄関の灯りを消し、外へ出てしっかりとディンブルキーで施錠する。
「ところで、何故織口邸だと断定する? 安曇野からは離れているが」
室内よりも通路は天井が低いため、不自然な中腰で逸隼丸が横から涼平に聞く。
「織口は基本的に他との関わりを積極的に持とうとしませんから」
「……人心を惑わす術に長けるからこその自衛手段という訳か?」
「だと思います。信用していないだけだという意見も無くは無いですが」
「いかにも霊長らしいな。そう宣う者こそが、織口だけでなく誰も信用しておらんと吹聴しているようなものだろうに」
「ごもっともです」
ドアノブを捻って確認した後、涼平はまず屋上へ向かおうとする。だが謐がその腿を扇で止めた。
「何です?」
一応言うが、返されるのは視線のみ。その視線が逸隼丸へ向いたのを見て、涼平も逸隼丸の方を見る。
「謐殿は何が言いたいんですか?」
涼平の当然の疑問への答えに逸隼丸は数瞬窮するが、睨みに近い謐の視線を受けて即座に理解した。
「我にお前を送って行けと言いたいのだろうな。ここから霊長の足では日が昇る」
「誰も歩きで行こうとは思っていませんが」
「安心しろ、我も思っておらん。だが事が事。速いに越した事はない。ふむ。では掴まれ」
ぬ、と逸隼丸の腕が涼平へと伸ばされる。それを取るか取らないかで涼平は迷ったが、逸隼丸の言葉ももっともなので、ここは素直に好意に甘える事にした。
「ではありがたく」
と涼平の手が逸隼丸の腕を掴んだ瞬間、表情に邪悪なものを過ぎらせた逸隼丸はやおら涼平の手を掴み返すなり、六神道の一つ神足通を発動。
この移動専用の神通力は、一瞬で逸隼丸の巨躯を通路から外へと飛び立たせ、刹那後には光速の領域にまで加速。細かい理屈を完全に無視した移動速度を涼平は正確に知覚できず、ただやけに明確に感じられるマイクロ単位の時間の中、尋常ではない激烈な速度で逸隼丸が疾走しているのだけは何となく理解できた。
通路に残された爆風に黒髪を躍らせて男二人を見送った謐は、少し考える風に首を傾けた後、小松の待つ光輪車へと足を向ける。
すぐに帰りたくはないのだろう。
その足取りは、随分とゆっくりしたものだった。