伍 ― 裏
屋敷の周囲に涼平が居ない事から、茉莉は織口邸へ細心の注意を払って侵入していた。
だが屋内に入ってすぐ、強烈な吐き気に見舞われている。
原因は、前方に転がる遺体と、どこか生暖かく感じられる空気。そしてその空気に載って漂う凄惨な血の香りによるものだ。壁や床に血糊が付着し、また生乾きの物も幾つかあり、凶事が起こってからまだそう時間は経っていないようだ。……いや、最中なのかもしれない。
ぼんやりと惨憺たる現実を照らす常夜灯の下、血痕の無い壁を選んで寄りかかった茉莉は、口に手を当てて酷くなる一方の吐き気に加え、幻痛による全身の痛みを堪える。
「……本気で辛そうですけど。無理しなくてもいいんじゃないですかね?」
足元で座る久々野が心配げに言う。これに蒼褪めた顔の茉莉は大丈夫と首を振って応え、二十年前の事件を原因とする精神的な打撃が原因である吐き気と幻痛を払う為、必死に思い出の呪縛を断とうと心に気合を入れる。
――二十年前の事件の折、茉莉は視界に映る遺体よりも酷い有様だったのだ。
当時賀茂氏が創造技術の発動実験に失敗し、実験に立ち会った多くの人間を巻き添えに歴史を閉じた時、失敗の余波を受けた各地の妖怪化生の一部が一挙に強暴、強大化したのである。
これに対し外道の徒の頭目は、発足時以来一度も使われなかった対緊急用最終措置を発動。この措置は民間への被害を抑える為、致命的なほど人に害を成す存在である対象を氏族の家屋内に強制転移の後封印し、氏族の者が個々に斃していくという背水の措置なのだ。
ここで不幸だったのは、封印される対象の選択基準が存在しなかった事で、そう強くない力の氏族の元に強力な妖怪が封印されてしまう等の不都合が生じた事である。
この為当時は二百を数えた氏族は一気にその数を減らす事になり、宵月もあわやというところで滅亡の憂き目を見るところだったのだ。
措置によって宵月邸内に封印された対象は、普段の数十倍の力と五倍はある体格を得、しかも治療役が役目を放棄し嘲笑するという最悪の状態になった鎌鼬が三十組。宵月にとって一番の不運は、時刻が昼だった事にあった。夜であれば間違い無く優勢の下撃破し、他の氏族の援護へ向かう事もできたろう。
だが一人として無傷で生き延びた者はおらず、時の氏族長を含む殆どの大人達は、幼子達を護って戦うもその幼子の半分以上と共に死亡という、全滅を除けば二十年前で最も死傷者を出した氏族となったのだ。これでもし渡辺や治療術法に長けた神樂の助勢が数分でも遅れれば、滅亡した氏族に姓を連ねるのは間逃れなかったろう。
茉莉自身、目の前で血煙を霧のように全身から吹き上げた後ばらばらになった母や、妹と共に自分を抱きかかえて逃げようとして頭から真っ二つになった父の事を今でも夢に見るし、妹を庇って哄笑の中一度死んだ全身の痛みは今でも忘れていない。
そしてその痛みが、今血塗れの遺体を前にした茉莉に吐き気を伴う幻痛を与えているのだ。
「――私は、もう、大丈夫。母様の勇気と父様の優しさ、そして涼平が私に強さをくれたんだから。過ぎ去った日に縛られるような事は無い。だから、私は、もう、大丈夫、大丈夫……」
繰り返し呟いて、茉莉は瞼を伏せて穏やかに呼吸をした後、ゆっくりと瞼を開き、壁から身体を離す。壁に寄りかかってから丸一分、どうにか彼女は吐き気と幻痛を克服した。
「……心配かけたかしら?」
額の脂汗を袖口で拭い、屈んだ茉莉は行儀良く座る久々野の頭を撫でる。今ばかりは彼も露骨な拒否は示さない。
「それはもう、大体半年分くらいは心配しましたよ。ですので暫くは心配させないで下さるとつくづく有り難いですな」
「その点は今後前向きに検討するわ。さ、涼平を探さないと」
「できれば涼平が事を終わらせてくれてると、私としてはさっさと帰れて鰯も食べれて幸福この上なく言ってしまえばもう最高なんですが」
颯爽と立った茉莉の足元で、よっこらせと腰を上げた久々野は後ろ向きな意見を述べた。
「本当。そうだといいわね」
涼平に関する事だったしそう望みたくもあったので、茉莉は素直に同意する。
一人と一匹は警戒を怠らないまま織口邸を進み、途中から遺体に一々足を止める事もしなくなった時、久々野が突然立ち止まった。
「――あ」
「なに?」
鼻をひくつかせながらの声に、茉莉は立ち止まって辺りを窺う。
「一番新しい血の臭いが近くにあります。血の臭いが混ざり合ってるでしょう凶事の元凶は近くにいませんけど……行ってみます?」
「行ってみましょう。何か得るものがあるかもしれないわ」
長生きによって猟犬以上の嗅覚を得ている久々野の言葉を信用し、茉莉は彼の先導で織口の長の私室前へとやってきた。途中から見かける遺体に何かしら検分した痕跡があるが、茉莉も久々野もその事に気付いていない。
「……ってここ、織口翁の私室じゃない。なんで首魁に死の疑いがあるのよ」
「そんな風に言われましても。ここから臭うのは間違いありませんし」
壁越しに室内の気配を窺ってみても、何も感じられなかった。謐のような者ならともかく、人の身で完全な気配絶ちは不可能なのだから、まず間違い無く待ち伏せの類は無い。
「中には生きてる人はいないようだけど……」
今回もまた、ただ少し短い躊躇の後茉莉は戸を開いた。
「――っ!」
瞬時、戸に掛かっていた手を口許に引いて茉莉は声にならない悲鳴を洩らす。
久々野もまた、まさかの事態に息を呑んでいた。
「お、伯母、様? そんな、そんな……嘘……」
呆然と呟き、茉莉は夢遊病者に似た心ここに無い足取りで、八彦の部屋へと足を踏み入れる。部屋には、心臓部分に穴を開けた春花の遺体が仰向けに倒れていた。
まだ表面が乾いただけで粘り気を感じさせる血の海に、茉莉はねちゃりと音を立てて膝を突き、無駄だと知りながら首筋に指を当てて脈を調べてしまう。当然ある筈も無く、茉莉は実母の死以来、母と慕った伯母の死を受け入れざるを得なくなってしまった。
「……伯母様」
こんな状況でなければ、春花の遺体を掻き抱いて咽び泣いただろう。だが今はそんな時では決してない。茉莉の隻眼の顔貌に浮かぶ表情は、悲しみに暮れ滂沱の涙を流すのではなく、永久凍土を思わせる感情の凍りついたもの。流すべき涙、悲しむべき感情を無理やり先送りにした結果である。
「……ん」
ふと、茉莉は足元にあった日記帳に視線が止まる。
「あ……まさか」
血の海に刻まれた跡から、春花が最初うつ伏せに倒れたのが分かるし、となるとこの開かれた日記帳は春花が死の直前まで読んでいた物かもしれないという推測も成り立つ。
茉莉は畳から引き剥がすようにして日記帳を手に取った。開かれていたページは血痕が酷く読めそうも無かったが、端のページからどうやら八彦の日記らしい事が分かる。書架の方へ目をやれば、似たような物が幾つもあった。
何故彼女が最期の時に八彦の日記に目を通していたのかは、外道の徒の中でも諜報業務を担っている宵月の性質上、幾らでも考え付く。有力なのは、警察業務を担う四天王等が魏石の遺骸の集積所として織口邸に目星を付け、裏付けのため春花が先行潜入したという仮説だろう。
事実は茉莉が考えるほど進んだものでは無いが、ともかく彼女は日記帳を元通りにし、静かに腰を上げた後春花に黙祷を捧げた。左瞼を閉じ俯いた茉莉が纏う厳粛さに、久々野もまた、何度目か忘れたが、交流のあった人間の死を悼んだ。
「…………行くわよ、久々野。私達は今ここにはいない事になっているんだから」
「分かりました」
瞼を開いた茉莉は凛とした声で言うと、部屋を去りながら服に付いた血を拭い去り、手に纏められたそれ等に術を施して擦り落とす。
すると落とされた血は砂のように舞い、茉莉が痕跡を付けた場所に落下し形を整える事で、茉莉がこの部屋にいた証拠全てを消し去った。最後に戸を閉めて、現場の補修は完了。警察と諜報の立場にある渡辺と宵月に追われる以上、どんな形であれ明確な痕跡を残す訳にはいかないのだ。
結局一歩も立ち入らなかった久々野と一緒に、茉莉は無言のまま織口邸の廊下を進む。伯母のやろうとした事はいずれ誰かががやってくれるだろうし、こうなると分からないのが涼平の動向だが、今の茉莉の冷え切った頭なら自分が先走ったのではないかという思案が浮かばなくも無い。
その思案に思考が引き摺られ、ひょっとしたら涼平は小松絡みで姿を消したのかもと思い至った瞬間、茉莉は何故自分が絶対にこっちだと思い込んだのかが理解できなかった。虫の報せかもしれないが、春花の事があったばかりなのに顔から火が出そうになる。
「しかし、このまま行っても見つかるとは正直思えませんがね」
「…………」
「……茉莉?」
「へっ? あ、ええ。かもしれないわ」
久々野の言葉に今更気付いた茉莉は飛び上がりそうな程驚き、彼女の様子を別解釈した久々野は心配そうな視線を向けただけで何も言わなかった。
「確かに、私の思い違いかもしれない。私を慮ったのに間違いは無いと思うけど、涼平が向かったのはここではなくて小松前の方なのかも」
「ああ、言われてみればその通りで。大体向こうがこちらに気付かない筈がありませんし」
だとしたら、それはそれでこんな所でのんびりしている場合ではない。未だに姿も形も無い八彦の存在が気がかりだが、本来関わり合いになる筈が無かった茉莉の立場からして、伯母の仇を自分の手で討とうという考えそのものが傲慢だ。
春花には申し訳ないが、茉莉の最優先事項はほぼ全ての場面場合において涼平である。機会があるなら話は別になるが、涼平の身に少なからぬ危険が覆い被さろうとしている以上、妻として、背を預けられた者として、普段以上に彼の傍にいなければならない。
「……なのに。……私は、こんな所でなにをしているの……?」
「は?」
「何でもない。久々野、中庭へ行ってすぐにここから出ましょう。涼平が心配だわ」
溜息を挟んだ茉莉の言葉に、久々野はそうですかと頷くに留まった。
薄暗い廊下から中庭の星明りの下へ出たその時、
「ほぉう。春花はともかくとして、意外な輩が現れたな。どこで嗅ぎ付けてやって来た?」
いかにもこちらを馬鹿にした声が右手上方から投げかけられた。
「っ!」
察知できなかった事に驚きながら振り返ると、瓦屋根の上で片膝立てて座る八彦が、穂先から蕪巻までを血の赤に染め、柄にも幾筋の血流を作る素槍を脇に挟み持ちこちらに向けていた。
茉莉の視線が鋭くなる。
「長代理といい元長といい、ほとほと宵月は邪魔でしかないな。お前達のような異分子が割り込むから、上手く事が運ばんのか」
「織口翁……その口振りでは自分が春花伯母様を屠ったと認めるのですか」
茉莉の問い掛けに、八彦は増々こちらを馬鹿にした表情になった。
「春花か。儂の部屋で無防備な背を晒しておったからつい突き殺してしまったが……氏族を捨てたお前が此方の事にどうこう言う筋合いは無いだろう? 宵月の元長にして、技法と術法の双方に驚くほど長けた稀代の万能師よ」
「……でしたら、ご自分が私に勝てないという現実もご存知ですね?」
相手の平静な心理をどんな方向であれ崩そうという織口の口先を、茉莉は熟知していた。
また、長に就いていた当時から自分の方が完全に実力が上だったために、茉莉の心は涼平並に揺らがない。だからといって露骨な挑発を無視できるほど平静ではないのだが。
「それはどうかな? お前は織口の者と死合った経験は無い筈だ」
「能書きは結構です。……それだけ言うのであれば、私をここから素直に出す気は無いと考えて宜しいですね?」
静かに言い、茉莉は右腰に佩き帯びた二刀の柄に手を乗せた。それだけで彼女の纏う雰囲気に強烈な威圧が伴い始め、鋭かった目付きも豹変し、敵を睨むものになる。
「無論も無論。お前は見る必要の無い物を多数見たからな。生かして返す訳にはいかん。それに、渡辺の天才を呼ばれても迷惑だ」
「見てはいけない物? ……例えば、安曇野の大王の遺骸、とかですか?」
言い、機会が来た事を幸運に思いながら、茉莉は脇差と太刀をそっと抜刀した。音も無く姿を現した黒鞘に黒柄の二振りの刀身は、やはり黒い。それもただの黒や漆黒ではなく、光すら映さない全くの闇色だ。陰系の最優鋼、〝黒朔〟が用いられている証である。
「……ほう」
八彦の表情から相手を馬鹿にする色が消えた。眼差しには殺気すら篭り、七十の老体とは思えない身軽さで屋根から飛び降りる。
彼我の距離は十メートル程。
「春花ですら知らん事をお前が知っておるか。増々死んで貰わねば。いや、少し聞きたい事ができたか。……ふ、結果は同じ事だがな」
素槍を両手で持ち直し、八彦は真横にした槍をやや落とした腰の高さで保つ、隙の無い霞中段の構えを取る。
「朏と玉鉤を抜いた私に死を語るなんて。……まぁでも、舐められても仕方ないかしら?」
皮肉を込めて応じた茉莉は、八彦の構えに対し脇差である朏を逆手で持つ右腕と、太刀の玉鉤を順手で持つ左腕のそれぞれをだらりと垂らしたまま何の構えも取らない。だがこれが彼女の構えであり、無行の位と呼ばれる、相手の攻撃を見た後斬り上げる後の先か、相手の攻撃を紙一重で躱した直後の反撃で勝負をつける熟達者の立ち姿だ。
「あ、私は下がってますからそのつもりでお願いしますよ? どうぞ頑張ってください」
中庭の空気が張り詰めていくのを感じ、今まで茉莉の足元にいた久々野が耳を伏せて後退っていく。そのまま久々野は縁の下に収まるが、その間も八彦にも茉莉にも動きが無い。互いに攻めよりも守りを重視した構えであるため、どちらかが痺れを切らすまで永遠に身動きが取れないのだ。
それでも八彦の表情の皺が深まりつつあるのに対し、茉莉は特に気負った様子も無く構えたままである。
これでは誰の目にも明白な結果が待っているように見えたが、口許を不敵に歪めて先手を取ったのは茉莉のほうだ。
「盛れ!」
叫び、自分の周囲に発生させた八つの炎弾を順次八彦に向けて発射したのである。
盛れの言葉だけで茉莉は詠唱を一切しなかったが、本来術法とは念じる事を主として発動させる物なのだ。詠唱はより威力効果を確実な物にさせたい時にのみ使う、自己暗示、発奮材料でしかない。なので理論上は何も言う必要は無いのである。
「ぬっ」
俊敏に身を躍らせて炎弾を躱す八彦に対し、外れて地面に着弾した火炎弾が次々と火柱を上げる中、茉莉は地を這うような低姿勢で疾走。轟雷の意である〝雷道〟によって強化された電光石火の動きは、若かりし頃の力を取り戻した筈の八彦の動体視力からすら容易に離脱し、金線混じりの黒影は炎弾を躱しきった八彦へと超速で直進する。
「っは!」
身の危険を存分に察知した八彦は、素槍の石突で地面を小突いた。すると彼の前方の地下から、何かが彼を護るように勢い良く隆起する。
地面を割って現れたそれは、一瞥しただけでは概数も出せそうに無い量の木の根だ。太さも長さもまちまちな根は、刹那の間に絡み繋がり成長し、高さ五メートル、厚さ一メートルを越える、中庭を分断する幅を持った剛堅な壁となっていた。
これに対し、茉莉は突進速度と根の壁の発生速度からして、激突を回避するのは容易ではない。八彦は茉莉が間違い無く跳び越えてくるだろうと壁が完成する前に考え至っており、迎え撃とうと構えようとして――寒気を覚えた彼は自ら壁の上へと跳んだ。
八彦のこの行動は先手必勝の類では決してなく、あろうことか迷いも無く直進してきた茉莉を避けるための行動だ。
そして八彦の身が宙を舞い切った時、大地の意によって生み出された根の壁の一部――八彦が立っていた位置と茉莉を結ぶ最短の地点――に無数の亀裂が生まれ、同時に破裂したのと変わらない勢いで根の破片を弾き出した。しかもその破片達は、一つの例外も無く泥のようになって地に散っている。
これは毒腐の意が根の壁を腐らせた事によるものであり、茉莉は電光石火の速度の中、迷わず真正面部分のみを腐らせ、斬り裂いた後体当たりで打ち崩す事を選択したのだろう。
塵を破って現れた茉莉は全身に毒腐の意を示す淡く不吉な紫の光を纏っており、烈火とはまた違った様相を確認するまでも無く、八彦は自身の予測が的中した事に嫌気が差した。
「……く、相変わらず的確な手を即断してくる。しかも術の練度が上がっているとはな」
根の壁に下り立った八彦は、今の茉莉の行動から、僅かとはいえ彼女が自分の知る人物と同じであるとは断じてないと判断する。男と一緒になるために出奔したような者だが、以来互いの家の者に追われる生活をしているのだ。技量を上げる機会には事欠かないだろう。
そしてこの事実は、八彦が最盛期の力を取り戻している今でさえ微塵も油断ができない事を示していた。
「……逃した? この対応速度……前と同じ老体とは思えない……」
対し茉莉の方もまた、八彦への認識を改めていた。彼女の知っていた段階の八彦ならば、根の壁を押し通った時点でまだその場にいる筈なのであり、また年齢も合わせて考えればこれで決着が付くと思っていたのだ。ところが現実を見てみれば八彦は既に根の壁の上へと逃れており、どう考えても三年前より身のこなしや――通過中に分かった事だが――施術の速度と精度の点等、全ての面で比べ物にならないほどになっている。
刹那の間を以って互いが互いの認識を新たにし、高低差の中で背を向け合っていた二人は、即座に振り向いた。
目線が交錯する中、交わすべき言葉は存在せず、無言のまま互いに得物を握り締める。
すぐさま戦闘が再開されるかに見えたが、構えも同じに二人は再び膠着状態に入った。
互いの強さを認めてしまったが為に、空白が発生しているのだ。
八彦は、幼少の頃より知っている茉莉の驚異的な強さが更に磨かれている事に。
茉莉は、古希を迎えた高齢にも関わらず八彦の技量が矍鑠どころではない事に。
これによってそれぞれ積極的な次の一手が打てずにいた。
自然と息を呑むのも躊躇われる緊張が生まれ、風に含まれる血の臭いや、炎弾が庭木等を焦がす臭いが濃くなっていく中、凍りついたように老いも若きもただ動かない。
それぞれの隙を窺う目付けも鋭く、全てに対応、またいつでも行動に移れるよう心を構えている。示し合わせたように両者は超集中に入り、体感時間が凄まじく長くなっていく。
無行のまま一時間はこうしているような錯覚に陥りながら、しかし大体数秒だろうと考え茉莉は相手を見縊っていた自分を反芻する。油断しなければ決して負けないと確信していたからこそ、先程はああも大胆に動けたのだ。
……けれど、その点はまだ変わらない筈。よし。
高低差がある中、見切りをつけた茉莉が先手を取るべく行動しようとしたその時――
『おねえちゃん……?』
「!?」
忘れよう筈の無い、しかし思い返すには凄惨過ぎるあの時を思い起こさせる声が、茉莉の心を撫でた。
それは決して聞こえた訳ではなく、織口の技術によるものだと明白である。だがそれでも茉莉は刀を取り落としそうになり、その事実を隠そうと茉莉は歯を食い縛って遅れを取り戻そうと膝を撓めた。
そこへ。
『うでが……え? ……あれ? あれれ?』
一度目と違い、今度は鮮明な映像を伴った声が茉莉の心に満ちる。妙に紅く染まって不明瞭な右眼の視界の中で、膝立ちになっている少女が放心した表情でこちらを見ていた。
少女は自分の身に何が起こったのか理解できていないらしく、喰い千切られたせいで二の腕から先が無い両腕を掲げ、目前にそれを咀嚼する化物がいるにも関わらず、迸る血流にすら構わずこちらを見つめている。
「か、っく……んぅ」
力が抜けたような声を出し、茉莉は撓めた膝の力を弾けさせずにそのまま地に膝を着いてしまう。集中力を掻き乱すのに充分な効果をもった音響と映像が、再び彼女の身に幻痛を呼び起こしたのだ。
……今はあの時じゃない! この血の視界も、映る妹も、滴る音も、全てまやかし、まやかしなんだから!
そう強く考え、左眼に映る現実の景色にのみ集中し、揺らいだ心を必死に宥めながら茉莉は地を蹴って右に転がる。
瞬間、火薬には無い獰悪な音をたてて、茉莉がいた場所の大地が小噴火のような爆発を見せた。突き出てきたのは、両手でやっと覆えそうな太さを持った根の槍。これの鋭利な先端を見上げる事もせず、追撃を感じた茉莉はただ一つ所に止まらぬよう無理やりに立ち、足元が爆発する前に駆け出す。
あらゆる動作が苦行となる程の痛みの中、足元を襲い進行方向を襲い回避方向を襲う根の槍を避け、必要なら断って心の侵蝕を防ぎながら、彼女はどうにか原因を絶とうと八彦を探し始める。
唯一の救いは、織口邸に入った際に同じ症状に見舞われて慣れていた事だ。あれがなければ今頃は串刺しにあっていただろうし、運良く避けたとしても、その後の追撃でやはり致命傷は避けられなかっただろう。
刹那でも心に隙を作ってしまった自分に未熟さを感じながら、茉莉は涼平を悲しませるような事が無いように、また元とはいえ宵月として伯母の敵を討つ為に、歯を食い縛って右の朏と左の玉鉤にしっかりと力を込めた。まともに集中できないせいで術に頼れない以上、技に頼る他は無い。
一方、動きが段違いに鈍くなった茉莉を見下ろす八彦は、一歩も動いていなかった。
いや、動いていないのではなく動けないのだ。何故なら彼の両足は足首まで根の壁に埋もれており、彼自身の体には大地の意を示す雄々しい茶色が浮かび、一度造った根の壁を基にして茉莉を無尽に攻めているのだ。そんな彼の表情は、彼女の心情をも理解しているのか、歪めた口端に感情表現を凝縮させていた。
二度目の睨み合いが始まった直後、彼は茉莉が動く事だけをただ待っていたのである。一度目の際にどう攻め込むかで観念しそうになった為でもあるが、その後の数瞬は焦っていた彼の頭を普段通りの温度に冷やしていた。そして彼は織口の知識と戦闘経験の集積から、茉莉も自分と同様の思考に陥っていると確信し、巧に迷いの瞬間を窺っていたのである。
そして待ちに待った数秒後、茉莉の動作の開始直前に迷いがあったと見切った八彦は、その寸前を絶妙に突いたのた。超集中のまま念じた事で発動した撹乱が茉莉の身体を絡め、心を縛り、視野と思考を狭くする。
宵月の惨劇を知る八彦は、その中で最も凄惨な被害者である茉莉にその最中の映像を呼び起こさせたのだ。
それは気が触れた鎌鼬達に執拗に、偏執的なまでに斬り刻まれ、挙句妹の両腕を喰われる様を見せられた瞬間である。現実はその約半瞬後に神樂の助けが入る事で悪夢の終わりを告げていたが、勿論八彦にそんなつもりは無い。少なくとも相手の息の根を止めるまでは、肉体的にも精神的にも弱らせなければ必勝はないのだから。
邪悪そのものを思わせる口端の歪みを直さず、八彦は更に罠付きの混乱の発動を考えた。長きに渡って人の心を知悉せんと務めてきた織口は、盲目的なまでの愛に傾倒した人間の強さを挫くにはどうすればいいか、への答えを幾通り知っている。
それは大別すれば三つ――利用するか、圧し折るか、打ち消すかだ。
後者二つの場合、愛情の度合いの見当を誤ると相手の逆上を誘ってしまう。また逆に利用するとなると、よほど傾いていない限りは難しい。つまり前者が成功する場合は後者二つは効果が薄く、後者二つが成功する場合は前者が成功する見込みが薄いのである。
……さて、茉莉嬢の場合はどうしたものかな。
こちらの殺意を撹乱中であるにも関わらず回避し続ける茉莉を目で追い、軽く顎を撫でた八彦は口許を改め顔全体で侮蔑を作った。
あの三年前を思えば、如何するか考える必要など最初から無かったからだ。
対し茉莉は根の壁の上から動こうとしない八彦へと徐々に接近しつつ、どうにか根の槍の突出傾向を掴みつつあった。本調子ならとっくにできていて反撃にも移っているであろうが、真昼以上に辛い今では上出来だ。それに右眼の視界では相変わらず妹がこちらを見ており、全身を苛む激痛は泣きたい程。この状態で全力を出すとしたら、二秒も持たないだろう。
だがその僅かな間だけで勝負に出でもしない限り勝ち目は無いと、茉莉は一呼吸間の熟考の後、理解していた。同じく、二秒あれば十分だという事も。
そして茉莉は教訓を活かし、一切の迷いも無く行動を開始した。
その直後だ。
『茉莉、こっちへ!』
「!」
出し抜けに響いた予想外の男の声が、確かな存在感と絶対的な安心感を以って、茉莉を招いていた。次の瞬間、彼女は迷う事無く本来駆けようとした進路を変更し、声の方目掛けて一歩を踏み込んでいる。
その一歩がどれだけ危険かなどは、他者に指摘されるまでもなく茉莉が一番良く知っていた。踏み出した先は、予想上そこにこそ根の槍が突出するとした場所だからだ。
しかし彼女は一歩を踏み込んでいる。
何故なら、理性や理屈や理知といった正しい認識を簡単に放棄する程に、招いた声の主に全幅の信頼を寄せているからだ。茉莉にとって、その声の主は夫だとか半身だとかいう以上の存在意義を持つ。
だから、あまりにも分かり易い罠に容易く引っ掛かった。無論、八彦が混乱の意気を込めていた事も事態に拍車をかけていたが、それでも茉莉は彼の予想以上に躊躇無く声に従ったのだ。
一歩を踏み込んだ直後、茉莉自身の予想通りに根の槍が足元から突き出される。だが、その根の槍の先が見えるか見えないかの時点で予想外が発生した。なにしろ突き出た槍は一本ではなかったのだ。
その数二十本。一本や二本であれば瞬時にどうにでもできたが、数が数だ。しかも今までが遊びだったのだと確信させる程、個々の突出速度は段違いである。その速度に思わず瞼を伏せそうになりつつも、自分を囲い込むように伸びてくる根の間隔を見た茉莉は、一歩を踏み終えるのと同時に背筋を伸ばした。そんな彼女の目前を掠めるように数本の根が伸びていき、また周囲ぐるりと十二本の根が狭い間隔で囲うように伸び、身動きが取れなくなる。
しかも両腕は根の間から外にはみ出ており、それぞれに蔦状になった根が四本ずつ巻き付いている状態だ。
「しまった、こんな……」
言いつつ根の隙間から窺える範囲で周囲を見る。
当然、この状況を作った声の主である涼平は、どこにもいない。つまり見事に八彦の罠にはまったのであり、危険だと理で分かっていながら、本能的に一歩を踏み違えた自分を茉莉は小さく嗤った。
半歩も動けない領域に封じられ、両腕も自由にならない状況なのに、それでも彼女は自嘲する余裕があるのか。……いや、笑い方からすれば開き直りと言った方がいいだろう。
何せ八彦は茉莉に聞きたい事があると言ったのだ。従って彼には可能な限り殺すつもりは無く、まず自分主導で尋問できる状態にしようとするだろうという予測が成り立つ。そこから彼女は、その通りになると考え、今のような状態になりながらも嗤ったのである。
直後、ぶり返してきた幻痛に膝を折りそうになりながら、茉莉は八彦の声を聞いた。
「気分はどうかね」
壁の上から問い掛け、しかし最初から返事を期待していない八彦は壁から足を引き抜き、飛び下りた。
「手を出してくれるなよ? 今更躊躇は無いのでな」
縁の下の気配に牽制した後、八彦は悠々と茉莉のほうへ歩き始める。今茉莉を囲んでいる根の檻と縛めには、それぞれ背後にある根の壁の分に等しいだけの意気が込められていた。なので例え彼女が毒腐を纏ったところで、そう容易く腐解するような事は無いだろう。例え腐解させようとしたとしても、こちらは根に対し烈火を念じる事で炎上させる事もできるのだ。
安全がほぼ確保されている状況から生まれる慢心を抑えながら、八彦は根の檻越しに茉莉の前で立ち止まった。わざわざここで惑乱を用いるよりは、通常の尋問の方がこちらの手間がかからずに済むし、疲れも少ない。
「さて、問うべき事を問う時だ。素直に答えてくれると互いに苦労が無いのだがな」
槍を肩に担ぎ、自分を睨む視線をものとものせずに八彦は言う。
「まず一つ。何故、今、ここにいる?」
「…………」
「ふむ」顎を撫でる。「では次だ。何故、大王の件について知っている?」
「…………」
「黙秘か。……世俗と違って、ここには弁護士を呼ぶ権利も黙秘をする権利も無い事くらいは分かるな?」
茶飲み話に酷似した調子で言うと、八彦は溜息混じりに槍の石突で地を小突いた。
「っ、く……ぅっ」
ぎぎち、と背筋の寒くなる音を立て、茉莉の両腕に絡む根がその縛めをきつくする。
この根による圧搾によって腕を圧迫され、握力を維持するのも困難な筈なのだが、茉莉は少し声を漏らしただけで他は一切表には出さなかった。
「強情だな。だが次に答えなければ千切るぞ。……他の者等は儂の企みを知っておるのか」
問いと同時に圧搾を再開する。すると茉莉の表情に徐々に激痛への抗いが窺えるようになり、やがて握力を失い玉鉤と朏の双方を落とすに至って、彼女は表情を俯かせた。
ようやく根を上げたか……それとも、と八彦が息を吐いた直後だ。
「っ!」俯いた茉莉の身体に烈火の色が浮かび、「なに!?」彼女を囲い両腕を縛めていた根のそれぞれが、凄まじい勢いで燃えだした。
火柱の高さはあっという間に塀を越え、燃焼材料以上の火力を誇る橙色の光は、内部で何かが爆発したように一瞬で周囲への拡散を見せる。
「これは……ふ、儂にはできんな。大した度胸だ。いくら全盛の力を取り戻しても、老いた頭が変わらなければ劇的な変化は見込めないものか」
火の勢いに軽く退いていた八彦は、目の前の火柱が目眩しだと分かっていた。彼は茉莉が根の壁を打ち破る時に毒腐を使ったので、そこからまた同じ手で来ると考えていたのだが、茉莉が取った行動は根の瓦解ではなく焼却である。下手をすれば自殺になりかねない危険な手だ。
数秒後、八彦の視界の中、火柱の内部で何かが揺らめいた。
来るのか、と彼は覚悟と共に槍を中段に構える。
だが「ぬぉっ!?」彼を覆って尚余る太さと見上げる高さを持った火柱がこちらめがけて倒れて来た時は、危うく思考が止まりかけた。どうにか一瞬で持ち直し、直ぐに横へ跳んで躱した後、地面にぶつかって散乱した炎を無視して茉莉の姿を探す。
しかしどこにも居ない。今周囲に燃える炎の有効性を考えれば、こちらの目を逸らすのに充分な効果を持っている筈だ。炎に乗じて斬り込んで来るものと思っていたが。
八彦は周囲へ豪末の油断も無く気を張り巡らせるが、一切身動きしないのかそれとも逃げたのか、何者の気配も感じ取れなかった。縁の下の猫又は火柱が倒れてきた際にでも逃げたのだろうが、問題は茉莉である。彼女は猫又と共に逃げた可能性と、まだ息を潜め隙を窺っている可能性とがあるのだ。
そのまま実に七分が経過し……動きがあった。視界の隅を微かに過ぎった何かに対し、緊張を要求される状況も手伝ってか、八彦はやや過剰に反応してしまったのだ。そして、その単なる囮の正反対から駆けて来た闇への反応が遅れる事になる。
消えかけの炎に照らされた事で闇が剥がれた彼女に気付き、振り向くも、時既に遅し。
「貰った!」
「っぐ……」
茉莉の持つ朏が、八彦の心臓へと突き立てられていた。それと同時に彼女の身体から撹乱の効果が消え、幻覚と幻痛が消えていくのを実感する。
「……?」
だが、八彦の身体へ突き立てた際の、人体には無い独特な固さを持った何かを割ったような不自然な手応えに茉莉は疑問を抱く。
「く、くくく……く」
「!?」
そして、最期の表情には不釣合いな八彦の嘲笑が今まで以上の不吉を茉莉に感じさせた。
茉莉は朏を引き抜く際に刀身を薙いで八彦の素襖を引き裂く。その時もやはり骨肉以外の固い物を裂く手応えがあり、素襖が裂けた先で茉莉が見た物は、謐が回収に向かった筈の朱月の大皿だった。
「っ、そんな!」
他ならぬ茉莉の手によって亀裂が刻み込まれた大皿は、目を見張る茉莉の目の前で砕けてしまう。
「は、ははっ、ははは、はフ、フヒャハッ、ハーッハハハハハハハハハハハハハハハッ!」
自分がしでかしてしまった事に萎えかける茉莉の前で、心臓を貫かれる事による死を迎えた筈の八彦が突如大笑いをし始めた。老体が発するには不可能としか思えない耳を聾する爆笑に、訝しがりながらも茉莉は間合いを広げようと下がる。
が、すぐに背が根の壁に当たって止められてしまった。
八彦への警戒が解けない以上一瞬でも目を離すのは危険と考え、茉莉は根を背にしたまま磐石の意気を全身に込める。その間も八彦は笑いを止めず、人の肺活限界量を遥かに上回ってなお笑い続け、小康状態になったのは五分は経過してからだ。
「ハハ、ハ、ククッ、あー腹が痛い腹が! しかしよくも、いやよくぞ、よくぞやってくれたよ霊長の娘! ハハハッ」
笑いの中でやっと言葉らしい言葉を八彦が吐いた時、彼が自分を霊長と言った事で茉莉の心に嫌な予感が湧き上がった。お膳立てが済んでいると考えれば、最後の一押しをしてしまったのは誰あろう自分なのだ。
「まさか、まさか……安曇野の大王が、黄泉還ったと?」
搾り出すような声で、茉莉は確認を試みる。
「ッハハハ、その通りだ、その通りその通りよ! 霊長の手によって封じられた我輩の復活は霊長の手によって成ったのだ! 実に清々しい! 全く壮快だ! 愉快痛快極まりない!」
大音声による答えと同時に、八彦の身体から幾筋もの雷撃が周囲に迸った。
「なっ!? これは!」
得物を交差させて念じた防衛法による甲種障壁で咄嗟に雷撃を防ぐが、人間レベルを遥かに逸脱した凄まじいエネルギー量に茉莉は苦鳴を漏らす。常に全力で障壁の維持に努めなければ、そしてもし雷撃が無節操に織口邸や中庭を破壊しのたうっていなければ、一瞬で障壁を破壊されてしまうだろう。そうなれば、とてつもなく痛い目に合う事になる。
「良いぞ! くくッ、これこそ娑婆に出たという実感が湧いてくる! この破壊! この自由! ヒハハハハッ、クク、うむ、なんとも素晴らしい! ……ああ、そういえば名乗っていなかったな。ふむ……では、我輩こそが! そう我輩こそが多貌の王の名を持つ国津神、魏石八面大王である! 畏敬と恐怖を以って絶望に苛まれながら八面大王様と呼べ!」
雷撃の最中に続けられた言葉は、轟音を越えて茉莉の耳に届く。それはある意味では茉莉の危惧をそのまま表していたが、別の意味では理解できないものだった。
先程まで八彦だった男が、皿を砕かれた瞬間同じ姿同じ声で八面大王と名乗る。いつから身体を共有していたのか、いや、ならば何故八彦の時に自ら皿を割らなかったのか。
だがそんな疑問が集中に極僅かな揺らぎを作り、「っ! しまっ――」それを狙ったかのように間髪入れずに横薙ぎの雷撃が茉莉の身体を直撃する。
「ぎゃんっ!」
背後の隆起した根ごと破壊した雷撃の威力に、数瞬気絶しても片膝を突いただけで死にはしなかったのは、茉莉本人の実力と根本的な耐久力による所が大きいだろう。
「くぁ、は、く……ぐ」
茉莉は迸る激痛に耐え、無傷の陣羽織から出ていた右半身の衣服ごと皮膚が焦げているのを術で治しながら、玉鉤を杖に立ち上がる。その最中にもまだ疑問が顔に出てしまっていたのか、八彦の面を皮肉げに歪めた八面大王がまたも呵々と声を上げて笑い出す。
「訳が分からんか、まさにそういう面構えだな、あー…宵月の娘! しかし我輩とて愚かな霊長に啓蒙してやろうという慈悲の心は持ち合わせている。故に言って聞かせてやろう」
雷撃を迸らせるのを止め、自分を睨む茉莉をびたりと指差した八面大王は、何故か茉莉を呼ぶ際に一瞬迷ってから呼び直していた。
「我輩があの忌々しい夫婦に敗れ去る寸前、我輩は肉体にちょいと細工をしておいたのよ。どうせあの莫迦姫では我輩を抹消させる事などできんに決まっておるから、肉体を解体して御魂魄を分離させるだろうと踏んでな。すると見事に的中した訳だが、我輩の細工とはな。後世この八彦のような狂人が我輩を復活させ愚かな事を企むと考えて、我輩の肉体が繋ぎ合わされた際、立ち会った者全員を呪殺し、その中で最も優れた力を持つ者に変化して成り代わるという事よ! どうだ、素晴らしかろう? しかも見事目論見は成ったのだ、さあ称えるが良い!」
誇らしげに胸を張り、刀傷から迸る血に構いもせずに八面大王は笑っている。
戦慄の事実に、茉莉は両手の刀を強く握って心を落ち着かせた。先程彼女を呼ぶ際に言い澱んだのは、恐らく八彦の記憶と八面大王自身の記憶が混線したからなのだろう。
「……だとしたら、あなたは何時から織口翁に成り代わっていたと言うんですか」
「二年前の八月十九日二十三時四分からだ。皿が砕けるまではこの老いぼれの記憶だけで生きていたせいで、何故宵月から盗んだ大皿を砕けなかったのか不思議でならず、血の生贄に走ったりもしたが、ハハハハハッ、砕けなくて実に当然だ。この皿は我のような存在では傷一つ付けられないようになっていたのだからな。お前には感謝の言葉も無いぞ?」
復活の歓喜に高揚した感情をまだ抑えることができない八面大王の前で、茉莉は彼が八彦として長期に渡って外道の徒全体を欺き続けた事実を前に、平静を保つのに必死だ。驚けば隙ができ、それを付け込まれたら刹那で決着が付いてしまう。
「しかし千年ぶりの目醒めだというのに、立会いが宵月の娘一人とは寂しい限り。しかもお前の手でこの身体はもう幾許も持たなくなっている。さて、どう責任を取らせようか」
そこで八面大王の眼差しが下卑たものになり、女性ならば一人の例外も無く性的嫌悪を催すだろうその視線で、茉莉の身体を爪先から頭頂に至るまでくまなく丁寧に視姦した。
思わず足を閉じ胸を腕で防御した茉莉だが、直後ある事に気付く。焦げた右側の袖や裾が風に攫われ、下の皮膚が剥き出しになっていたのだ。最も他者に見られたくはない、顔以上に裂傷が縦横に走る肌が露出している事に気付いた茉莉は、真っ青になった。
「っふ」
八面大王は茉莉の様を見て愉快気に嗤い、そのまま掲げた素槍の先端から殺意の稲妻を彼女に向けて撃ち放つ。
「!」
光速で殺到する光の?に、茉莉は自分から見せた隙を後悔する前に稲妻に呑まれ、幾重にも刺し貫くような激痛を伴った全身の硬直に叫びを上げる事もできず、がくりと膝をついて前のめりに倒れる。起き上がろうにも身体が動かず、又まともな集中もできない。どうやら雷撃のショックで一時的とはいえ脳も含んだ全身が麻痺してしまったようだ。
「カカカカカ! もどかしくも無様だな、宵月の娘!」
どうにかせねばと足掻く茉莉の元まで来た八面大王は、槍を突き立て屈むと彼女の頭を片手で掴み、主に髪を引っ張る形で顔を上げさせた。
「さて、では恩を返す意味で一つ余興を見せてやるとしようではないかな? ふふふん」
何が面白いのかと問うてやりたくなるような笑顔で八面大王は言うと、彼は己の身体を傷だらけの八彦の姿から、布の千切れる音を立てて紫紺の和装に身を包む春花の姿へと変化させる。
一秒とかからずに変化を遂げた八面大王の前で、視線だけは強く彼を見る茉莉の表情が、痺れのせいで引き攣ったような驚愕に染まった。
一旦茉莉の髪から無造作に手を離し立ち上がった八面大王は、身にまとわりついた八彦の千切れた着物を叩き落とす。彼の変化は服装まで自分の薄皮一枚で補うため、必然的に八彦の着物は邪魔となるのだ。
「お……おば、さ…ま……く」
地に顔を打ち付けた際、どうにか顔を横向きにした茉莉は、自分の見上げる先に居る相手を悪夢の権化を見るような目つきで見ている。死んだ春花を貶めるような八面大王の行いが赦せないのだ。
結われていない紫黒の長髪を優雅に靡かせ、八面大王は再び茉莉の頭を掴み上げる。
「ふふ、どう? 茉莉。驚いたかしら」
言葉と共に表情に浮かぶのは、狂笑ではなく、茉莉が良く知る春花の笑顔。記憶にある春花に比べて僅かに老けているものの、本物と比べても遜色ない口調と仕草に、茉莉は吐き気を覚えた。八彦の場合もそうだが、八面大王の能力とは変化というよりは複製と表現すべき域に達しているのだと痛感させられる。
怒りと驚愕に言葉も無い茉莉に、八面大王は困った子に対するような笑顔を向けた。
「あなたには昔から色々と手を焼いたものだけど、宵月に刃を向ける前にもう少し話を聞いてくれても良かったんじゃないかしらね?」
「? ……何、を、言って……」
「別に? ただの遺言の代弁よ。――まぁもっともこれ以上は喋ってやるつもりも義理も謂れも無いから、気になって気になって眠れぬ夜を過ごすがいい!」
言葉の途中で笑顔をがらりと変えた八面大王は、空いた方の手を茉莉の背に当てた。直後に手から雷撃を発生させ、それを浴びた茉莉は、無抵抗に等しい有様で意識を手放す。
稲妻の奔流に身を反らせ、糸が切れたように倒れ動かなくなった茉莉の傍らで、にやにやと満面で嗤いながら八面大王が立ち上がる。
「さて、さて、さてとだ。これから一体如何するかな? ……ふぅむ、くく、ふふふふふ」
一度目の雷撃を無傷で耐えた陣羽織すら焼け焦げ、血肉の焦げた臭いを立ち上らせる茉莉を見下ろした八面大王は、ちょっとした残酷な事を思い付いた邪悪な笑みを浮かべ佇んでいた。
伍 ― 表
視界が速度に歪まない映像を結ぶまでの間、実時間では一秒にも満たなかっただろう。だが光速の中で涼平の体感時間はそれを遥かに上回り、その間たっぷりと味わった焦燥が凪を侵蝕しようと勢力を拡大せんとしていた。
「よし着いた。織口邸前だ」
自分を追い越す突風に吹かれながら、逸隼丸は掴んでいた涼平の腕を離す。まともに足が地に付いていなかった涼平は片膝を突き、数度の深呼吸でまともな現実に復帰した事を深く実感する。
まさか光速に近付くほど時が遅くなるというのを実感する機会があるとは思いもしなかった。
「……のようですね。有難う御座います」
立ち上がり言った涼平に、逸隼丸は軽く頭を振る。
「礼は要らんよ。ところでお前」
「はい」
「外道の者なら多少は我等の知識もあるだろうに、御前については何も分からぬ風だったが」
「えぇまぁ。小松……という名の鬼に心当たりはありませんから」
「……成る程な」
考えた涼平の答えに、逸隼丸は納得した風を見せた。
「では、我はここでさらばだ。機会があればその時こそ飽くるまで闘ろう」
そして、できれば遠慮したい言葉を最後に、鬼は返答も待たず爆風と共に姿を消す。
「……せっかちだなぁ」
適当な方向へ見送りの視線を送った後、涼平は織口邸を囲う塀へ視線を戻す。織口らしい三メートルを越えるいかにも頑強そうな塀は、病的なまでの閉鎖性を感じさせた。
周囲を窺った後、「〝夢譚起動〟」躊躇無く公道で夢を抜いた涼平は、軽く跳んで塀の上に着地する。邸宅を囲う柵のような結界の存在が感じられたが、刀印を天地に切って二百五十六重の螺旋を自分の周囲に張り巡らせた涼平は、悠々と結界の中へ踏み込んだ。
外道の徒の邸宅の結界は、鍛錬や二十年前の緊急時にも外部へ事が洩れないように、視聴嗅の三感覚を外部へ伝えないようになっている。だから結界の内部へ入った涼平は、織口邸が天変地異に見舞われでもしたような、広大な邸内全域に渡る壊滅的な惨状を見て、また多量の血の臭いや何かが燃える臭いも感じられた事で瞳を震わせた。
「馬鹿な、こんな……」
呟きながら涼平は塀から飛び降り、散々落雷を受けでもしたような瓦礫の邸宅は一先ず置いて、まばらな火事によって半端に明るい周囲をぐるり巡ろうと疾風の如く駆け出す。
またも焦燥を感じ、凪を保たせながらも浮かび上がる嫌な予感を止める事ができない。それを増長させるような広大な外周を回りながら油断無く全てを視認する中、見覚えのある猫又が全身の体毛を逆立てた有様で現れた。
「あっ! あっ、今呼びに行こうとしていた所でしたんですよ。どこに霧隠れしてたんですか」
駆け寄ってくる久々野に一旦夢を収めた涼平は、警戒を怠らないまま屈む。
「一体この状況はどうしたんです久々野さん、それに織口氏や茉莉は?」
「いやアレです、ぎ、ぎー、魏石っ、魏石――いや、八面大王が黄泉還ったんですっ! それで、織口の一族は八彦の乱心で全滅したと考えられ、茉莉は八彦に化けていた八面大王と中庭で戦って、最初は勝ったんですけど本性を現した八面大王の不意打ちを受けて、その……」
言い澱んだ久々野に、想像以上の事態に涼平は奥歯を噛み締めて堪えた後先を促す。
「その? どうなったんです」
「その、見ていませんから分かりません。屋敷をこんなにさせた雷撃から逃れるのに私自身本当に必死でしたし、助勢にもならないから涼平を呼びに行こうと」
戦慄が涼平の心の中で躍る。一瞬でも浮かべてしまった最悪の予感を、涼平は強く頭を振って打ち消した。
「分かりました。……久々野さんはこの事を急ぎ鳥獣情報網に流してください。ここまでなっても四天王が乗り込んで来ない所を見ると、恐るべき事に気付かせなかったらしい」
「涼平は」
「聞くまでも無いでしょう」
久々野の問い返しに駆け出しながら応え、全力で中庭へと駆けていく。十年前に一度だけ来た事があるため、大体の方向は確認を取らなくても分かるのだ。その途中で大跳躍し、瓦礫と炎、濃密な死臭と焦げた匂いが漂う空間を涼平は跳び越えて、被害の中心と見て取れる惨憺たる有様の中庭を視認。直後に到達する。
「茉莉っ!」
名を叫び、軽く周囲を見回して、涼平は自分の視覚を疑った。粉々に散った土くれから少し離れた位置に、倒れている茉莉を発見したのだ。
彼女の有様は酷いもので、落雷の直撃を受けたような衣服は所々で焼け千切られたか弾けたかのように無惨な後を残して消え、羽織ですら美しい黒と金の色彩を失って焦げている。そればかりか茉莉自身の肌にも、火傷や焦げのような黒ずみが視認できてしまった。
夢を収めた涼平は湧き上がろうとする感情の滔々たる波を凪で止め、息を呑んでいた自分を叱咤して茉莉の下へ駆け寄る。
「茉莉、茉莉! 大丈夫か!」
近付いてみれば、目を覆いたくなるような怪我の状況が良く分かってしまう。最低限の呼吸は上下する胸から分かったが、弱く頼りない。出血は少ないが見た目以上の苦痛を思わせる赤い火傷に、鞘を解いて茉莉の上体を抱き起こした涼平は、自分の持てる治療術を強く念じ彼女に施し始めた。
茉莉自身の生の意による治癒術が無意識に彼女の身体を治療せんと活動しているが、微小でも後押しをして回復を早める。
まだそれらしき気配が近くにいるのは感じられるが、出てこない所からすると茉莉に倒されたのだろう。即刻襲ってこない八面大王に対し涼平はそう結論付け、周囲に気を配りながら茉莉の回復を心から願った。
途方も無く長く実際は短い時間が過ぎ、火傷の痕が多少緩和されたように見えた時、眠りから覚めるようにゆっくりと茉莉の左瞼が開かれる。焦点を結ばず、数回瞬いたあと視線の先の実像を捉えた彼女の瞳は、見て分かる程丸くなった。
「涼……平……、涼平なの?」
「ああ、そうだ。僕だ。涼平だ。……済まない、突然いなくなった上に無茶をさせてしまって」
心の底からの申し訳無さを思わせる謝罪の言葉に、苦痛で首も振れなかったが、茉莉は薄く涙を浮かべて反論する。
「ううん、私の方こそ、あなたが鬼達との事で大変だったのに……勘違いで余計な事に首を突っ込んで……本当に謝らなきゃいけないのは、私の方」
掴まえていなければ消えてしまいそうな声の弱さに、涼平は「いいんだ」と言って続きを止めさせ、「これからも共に歩む事ができれば」と繋げた。深い安堵を齎すこの言葉に、茉莉は目に溜めていた涙を零れさせてしまい、耐え切れずそのまま数筋の涙で頬を濡らす。
「ところで……八面大王はどうなったんだい? 久々野さんから復活したと聞いたけど」
茉莉は無言のまま、瞳で分からないと返した。
「そうか……ともかく、今は治す方に専念しないと」
そう腕の中の茉莉に微笑んだ時だ。聞きなれた声が予想外の所から聞こえてきたのは。
「だめよ涼平っ! そいつは偽者なんだから、早く離れて!」
「なっ、……え?」
真っ直ぐ前の瓦礫からの声に顔を上げれば、服装上は似たような有様だがかなり傷の癒えたもう一人の茉莉が、朏と玉鉤を手に烈火の意を盛らせ炎を展開しようとしている。
「そんな馬鹿な、こんな事が……」
思わず腕の中の茉莉を見下ろすが、彼女は「向こうこそ、偽者よ」と決死の面差しで呟く。本来ならこの冗談のような状況を打破するくらい、涼平には造作も無い筈なのだ。
何せ茉莉はこの世に一人しかおらず、どれだけ変化の技術に長けていようと本質的には別人なのだから、見破れない事は無いのである。
――少なくとも今の状況以外でなら。
「涼平早く!」
「涼平……!」
二人の茉莉の声に涼平は困惑した。何故なら、二人とも間違い無く茉莉なのだと彼の全ての感覚が訴えているのだ。八面大王の変化の技量は文献にある以上らしく、どうやら完全にその者への成り代わりをも可能としてしまえるらしい。
ただそうと予測した所で対応に窮している事に変わりは無く、さてどうする? と困惑と時間の板ばさみに陥った時、ズボンの感触から一つ思い出した。どちらの茉莉にも一定の警戒を向けながら、涼平は左手をポケットに入れると大豆を掴み出す。
そして、手の中の大豆を双方の茉莉に良く見えるよう指を開いた。
「っ!」
すると元気な方の茉莉が驚いた表情になり、術の展開すら中止して嫌悪も露に後退り始める。
こうなれば後は容易い。元気な方が偽者で、今腕の中にいる茉莉が間違い無く本物なのだ。
本物の茉莉に負担を与えないよう振り被って、「鬼よ、去ね!」と威勢良く大豆を投げる。
偽茉莉の目を狙った大豆は、刀で防ごうともせず背を向け逃げ出した彼女を追い越すと、煎る際に魔力の込められているそれは空中で進行方向を逆進させ、狙い通り偽茉莉の左眼へと突き注いだ。
「きゃあぁぁぁあっ!」
目を押さえた偽茉莉は、そのまま瓦礫上に倒れる。悲鳴も茉莉の声そのままだったため強い罪悪感を覚えながらも、涼平は偽茉莉が眼を抑えて倒れるまで目を離さなかった。
大豆を受けた鬼は視力を失い、また鬼の目は魔の目、つまり魔目であるから、それを大豆で撃てば魔を滅する魔滅へと繋がり、気絶か遁走かのどちらかになるのである。
「……ごめん、本気で分からなかった」
先程とは別の意味で申し訳なくなった涼平に、茉莉は軽く微笑む。
「仕方ないわ。八面大王の変化は、変化と言うよりは複製だもの。大豆が無かったら、見分けられなかったと思う。記憶まで、そっくりものにしてしまうから、尚更…ね」
「八面とは多貌を示す事は知ってたけど……。流石は、と言うべきところかな」
「本当に。余計なものまで見せてくれて――」
治癒が進み大分楽になってきたのか、茉莉が苦笑しながら言いかけた時、
「があぁぁああっ! 目が! 痛いわ! 目がッ! おのれッ! 霊長如きがッ!」
凄まじい叫び声を挙げながら偽茉莉が跳ね起きた。そのあまりの声に涼平も茉莉も唖然となる中、偽茉莉こと八面大王は口汚く罵りながら左眼に指を突っ込んで無理やり大豆を引きずり出そうとしている。既に大豆によって左眼は使い物にならなくなっているが、それでも血涙を流す眼孔に付け根まで指を突っ込むというのは、陰惨で目を逸らしたくなる光景だ。
しかも涼平はそれが愛する者の似姿であり、茉莉に至っては自分の姿である。まさに悪夢だろう。
「く……茉莉、ちょっとごめん。どうやら八面大王は元気なようだ」
「みたい……ね」
八面大王の行為で左眼球の奥に違和感を覚えながら、涼平は茉莉を再び地面に寝かす。
「瞼を閉じていた方がいい。自分でないにしても、斬られる様は見たくないと思うから」
これに茉莉は小さく頷き、素直に瞼を閉じる。彼女に少しだけ微笑みを零した後、涼平は夢と鞘を拾いながら立ち上がった。そして数歩進んで、彼女を護るように仁王立ちの姿勢をとる。
「ぐぐぐっ、あああああおぅッ!」
八面大王の悲鳴のような叫び。鮮血とちょっとした赤い塊と共に大豆が眼孔より掻き出されていき、全て摘出されると同時に八面大王は左眼を再生させた。血涙を流し鬼と称して充分な気迫と鬼気によって作られた視線を、前方に立つ涼平へ存分に浴びせる。
「よもやあそこで大豆が出てくるとは思いもしなかったぞ! 渡辺の末子!」
勇ましく涼平を指を差し、だが八面大王は左眼にたぎっていた悪意を霧散させた。軽い失策をやらかしたように頬を掻くと、俯き溜息めいた吐息を一つ。
「……全く、大豆を持ってくるなんて何を考えてるの? 涼平」
恐る恐るといった風にちら、と視線を上げ、ぼそぼそと言った。
「いや、今更戻されても手遅れだと思うんですが。魏石八面大王」
普通ならここで肩透かしでも食った気分になるのだろうが、凪を纏い臨戦に入った涼平は平然としたままだ。
「…………やはり、か?」
姿勢はそのまま、再びぼそぼそ。
「大豆を思い切り喰らっておいてやはりも何もないでしょう」
静かだが痛烈な言葉と共に、涼平は「〝夢寐揺籃〟」と、夢の刀身を静謐ともいえる程そっと鞘に戻しに掛かる。
「むむ……ああ、えいくそ」やけくそ気味に頭を掻き、八面大王は顔を上げ夜空を仰ぐ。「やはり我輩が横たわる役をやっておくべきだったか。くっ、役者の配置を誤るとはとんだ笑い者だ」
「確かに。そうされていたら、今頃僕の命があるかどうかも分からなかった」
「渡辺の呆気に取られた顔を見たかったとはいえ、負う危険が巨大過ぎたか」
「……ともあれ、茉莉をああまでした事に対する代償は支払って頂きます」
噛み合っていない会話の中で、ゆっくりと確実に刀身が鞘に吸い込まれていく。にも関わらず八面大王は夜空を仰いだまま、ぼそぼそと文句を呟き続けるだけだ。
「しかししかし、呆気ない幕切れは我輩が最も忌むものであるし。やはり覚醒したばかりの所でこういった択一を求むるのは難しいものなのだろうかな」
超集中に入り鬼神へ充分な警戒を敷いている涼平だが、こちらに全く注意を払っていない相手の動向が不可解だった。茉莉の言う通りなら八面大王は茉莉の記憶をも持っている筈だから、今涼平が何をしようとしているかくらい分からない筈が無いのだが。
「ぬぬぬ、千年も眠れば嫌でも鈍るか。……ああ、情けない嘆かわしい。紅葉に見られたらどう罵られるか分かった物ではない、おお怖い怖い危ない所だった」
涼平の視線に晒されながら、八面大王は自分以外を無視しているような有様である。やがて夢の刀身が後僅かという所になり、涼平は刀身が収まりきるのに合わせて呟いた。
「〝極量〟」
途端、顛倒を遥かに上回る数の必殺が込められた技が、夜空を仰いだままの八面大王と彼の周囲にくまなく殺到する。不可視の刃は瞬く間も無く八面大王に触れ、斬り裂き、微塵にし、更に斬り裂いていく。無音のまま幾重に幾重に斬波を受け、八面大王は元が何であるか分からない程細かくなって崩れ落ちた。
荒砂が流れ落ちるのに酷似した音を聞き、仄かな罪悪感を覚えながら涼平は血の海に背を向ける。一歩進むと、茉莉が瞼を開けた。自分を見る彼女に微笑みかけようとした瞬間、彼女の表情が驚愕に染まり、同時に涼平自身も信じられない事実を背後に感じ振り返る。
硬い音が響き渡り、涼平が振り返り様に引き上げた鞘が玉鉤を受け止めた。だが流れるように繰り出された朏の振り下ろしが、涼平の右肩から左腰までに掛けて鋭く駆け抜ける。
「な……馬鹿、な」
言葉と同時に朏が這った道を示すようにぱっくりとシャツが裂け、身体の同線上部分に生まれた刀傷から血飛沫が溢れ散る。背に茉莉の小さな悲鳴を聞きながら、激痛と力が抜けていく薄寒さに涼平は顔を顰めさせた。
涼平の目の前には、血を浴び黒朔の二刀を持った八面大王が居るのだ。
「ッはははぁーッ、全くその通りだな! 真に救い様の無い程莫迦な奴よ!」
どうやら演技は完全に止めたらしく、口調が素に戻っている。
「まさか……あの状態からでも復活するとは」
息を呑む涼平の言葉に八面大王は愉快気になると、刀を引いて自身も数歩下がった。
「はん。お前、鬼への認識が甘過ぎるようだな? 幾らここ千年ろくな鬼が出ていないとはいえ、たかが粉微塵にしただけでこの八面大王を斃せると思っておったのか無礼者め、死刑にして遣わしてやろうか」
「……そう聞いていたんだけどなぁ。まったく、話が違う」
「あ? 誰から聞いたのか気になるが……しかし、あれが夢寐揺籃か。太刀を収める際に相手への斬戟を念じ、その念を太刀に込め、太刀が鞘に収まると同時に名前通りの役目を発揮する。つまり達を収めた瞬間、光と同速で対象を微塵にする斬波が想念に比例する数だけ発生するとはな……よくも霊長如きが、日比金を使ったとはいえ創り上げたものだ! まさに夢見る揺り籠――結果を即死とする事への比喩かね? ともあれ名に相応しい技には違いない。喰らってみるまでまるで信憑性が得られなかった程だ!」
返り血も構わない腕を組みながらの朗らかな笑顔に、流血も構わず右半身になって重心を落とした涼平は夢の鯉口を切る。
「ほほぉ、殺る気なのだな」
「勿論。ここで黙って帰るなんて事をすれば、あなたの特技から考えると危険すぎる」
「道理だな。黄泉還ったばかりで右も左も大して分からんが、玩具が我輩の頃に比べて格段に増えてるのは確かだ。外道の徒からしてみれば放っておけはせんだろうなぁ!」
「ええ、放っておけません。〝夢譚起動〟」
言い切ると同時に相手への視線を渡辺の睨みに変えた涼平は、鞘引きながら超速で夢を抜刀。淡朱の光と化した抜き付けの斬戟が、音速を超えた雲耀の速度で八面大王に迫る。
「!」
ガツッ、と、斬れた訳でも受けた訳でもない妙な音が響いた。
「くッはははははははははッ! 鈍い鈍い、こんなものでは欠伸がでるぞ?」
八面大王が傲然と嗤う。彼は涼平の抜刀からの横一文字を、朏と玉鉤の柄尻部分を使って挟み止めていたのだ。日比金と比べると黒朔は硬度も靭性も数段劣る為、確かに抜刀を止めるにはこれしかない。
これしかないのだが、実際にそれをしてしまうなどと誰が予想するだろうか。
「まさかとは思うがこんなで斬るつもりだったのか? 残念だが掠りもせんぞ、渡辺!」
「それはそれは。では」
驚愕も動揺も全く顔に出さず、涼平は追撃として迅速に左足を踏み込みながら鞘を八面大王の頭に向けて薙ぎ込む。両手を塞いでいるという利を活かし、薙ぎと同時に夢を相手へ向けて押し込むことで、回避を容易ならざる物にする。
これに八面大王は嘲弄を絶やさないまま自ら左に倒れ込んで夢を解放すると、朏の鎬をレール代わりに斬戟を逸らし上げ、鞘ともども難なく躱す。これに僅かに体が泳ぐ形となった涼平に、八面大王は体が地に付く前に玉鉤を地面に突き刺し、夢と鞘が通過した空間へ玉鉤を支点とした腕の力のみで躍り上がる。すぐさま玉鉤を手放した八面大王は、両手で朏を持ち涼平の首筋めがけて薙ぎ込んだ。
対し、涼平は首を落とそうとするその薙ぎを俊敏に退って回避し、直後に踏み込んで着地したばかりの八面大王へ雲耀の突きを繰り出そうとする。だが突きに入る為の一連の動作を超えた速度で、八面大王は朏を突き込んできた。何一つ動きに無駄が無く、また最短の方向性で振るわれている至上の一撃を、涼平は考えるよりも早い本能的且つ極めて強引な飛び退りでどうにか逃れる。
「むむ、今のでさえ躱しおるか。先の一撃で結構胸を深く抉った筈だがな」
涼平の動きに感心しながら、八面大王は間合いを取った相手を意識していないかのように玉鉤を引き抜く。
「まぁ……渡辺の姓は伊達で済ますには重いですから」
胸から血を流しながらも応え、涼平は相手の態度がそう見えるだけの罠だという事は理解していた。なので自分の傷を治癒させるのを優先させる。といっても元々の深さと先程のやり合いですっかり悪化している為、彼自身の施術では簡単に治るレベルではなくなっており、色々な意味で死にたくなければそうせざるを得ないというのが本音だが。
「ふはは、じゃあこれにはどう出る?」
涼平の意図を嘲笑うように聞こえるほど気軽な言葉で、八面大王は掲げた朏の切っ先から涼平めがけて雷撃を放射する。
この必殺の稲光を避ければ後ろの茉莉が無事では済まないという、まさに悪党の攻撃方法。
「むむっ!」
しかし今回は悪党が驚愕し動揺する番だった。何しろ雷撃は涼平に掠る事も触れる事も無く、どこかへ呑みこまれでもしたかのように彼の手前で霧散していっているのだ。
「鎮護螺旋……遠呂知まで防いだ以上、術法は避けていたが……まさか神通力をも防ぎきるとは。防御ばかりはご立派になっているようだな、霊長め」
茉莉の時と同様、耳朶を震わせる雷の轟音の中、八面大王の声は不思議と明瞭に涼平の耳に入る。
「人を舐めてもらっては困ります。……何なら、根比べでもしてみますか?」
爽やかな笑顔で応えはするが、雷撃を無効化している千二十四もの無色の螺旋は、他のあらゆる術法作用を減衰させ無効化してしまう。つまり、鎮護螺旋を用いている間、涼平は自身の傷を癒す事ができないのだ。それでも自身の背後に居る茉莉を想えば、螺旋を張らずに避けるなど論外中の論外である。
だがこのままの状態が続けば、五分もしない内に意識が朦朧とし、やがて出血多量で最悪の結果を招くのを待つばかり。四面から楚歌が聞こえてきても違和感が無い状況だ。
そして、そんな事は涼平の後ろで寝ている茉莉にとっても百も承知。
歴代随一とまで称された涼平の強さを充分に信頼ていたからこそ、今まで術による自己治療に専念していた。だが、相手は極量で刻まれて尚平然と復活するような鬼神である。更に今の状況を考えれば、最早悠長に寝ていて良い状態では断じて無い。
鼓膜を聾する雷音の中、茉莉は即座に自己治療を術による緩やかなものから強制的で容赦の無いものに変化させる。こうする事で治療期間は飛躍的に短くなるが、代わりに身体が順応するより速く治しきってしまうので基本的に身体に悪いし、予期せぬ幻痛等の後遺症が暫く残ってしまうのだ。
茉莉はゆっくりと上体を上げ、巻き戻しでも掛かっているかのように治り塞がり元通りになっていく怪我と服の数々を見下ろしながら、完治した皮膚にそれでも裂傷が刻まれたままなのに少し溜息を付く。
「涼平? 大丈夫?」
立ち上がりながら、見かけ上は涼しげに雷撃を喰い止めている夫に声をかける。
「んん、あんまり大丈夫じゃない。けど……ごめん。大口を叩いてしまったみたいだ」
自分の状況を感じさせない口調で苦笑した涼平に、くす、と微笑んだ茉莉は螺旋を踏み越え背中合わせで立った。
「私が起きてから謝ってばかりね。……あなたらしくないわ」
「……本当だ。中々情けない。……全く、渡辺に生まれながら有言実行すらままならないなんて……僕はまだまだ脆弱だ」
「相手が相手だもの。一人じゃ無理よ?」背を浮かし、次の為に重心を落とす。
「そうだな……じゃあ、攻めるとしよう」鞘を腰に結び付け、両手で夢を構える。
雷撃の向こう、八面大王がこちらの空気が変貌した事に気付いたが、構わず夫婦は瞼を閉じ――互いの呼吸と鼓動の調子が合わさった瞬間――揃って瞼を開くや、動いた。
涼平は雷撃を呑み込みながら真正面へ突進し、茉莉は半円軌道を描くように姿勢低く鋭く駆ける。さながら一つの意思の下で動いているかのように、二人の動きに乱れは無い。
「むっ」
刹那だけ、八面大王の視線がそれぞれの方向へ泳ぐ。そしてその隙を突いて、雷撃が茉莉を標的にする前に涼平が八面大王へと全身全霊で斬り込んだ。右腕一本の時とは根本的に何もかもが違う、対人では在り得ない鬼斬りの一閃。
こればかりは挟み止める訳にも行かず、雷撃を停止し八面大王は後方へ跳び退る。
が、跳び退った所で予測済みだと言わんばかりに茉莉の炎が撃ち込まれる。しかもそれは極小の焔玉が、十指の先から機関銃のように高速連続発射されるものだ。
「ちいぃッ、今ここで〝螢狩〟か! 極めて面倒な!」
八面大王は玉鉤を振り抜き、刀身と剣圧で先頭部分を弾くと、瓦礫を盾にするためほぼ全壊している織口邸へと駆け抜ける。その後を追う焔玉は、小さく儚げながらも威力は鉛弾と遜色なく、地面も瓦礫も快調に抉っていく。それでいて火の役目も果たす為、茉莉と八面大王を結ぶ線上において、燃え残っていた可燃物は容赦なく炎の餌食になっていた。
「えいこのっ、鬱陶しい!」
悪態を吐きながら、姿勢を低くした八面大王は起伏の激しい瓦礫の上を事も無く駆けていく。手の二刀を振って十の火線を逸らしながら、火線の元へ雷撃を迸らせる。大威力且つ光速である雷撃は、受けこそすれ躱す事はまず不可能。だが雷撃が迸った後も、十の火線は相変わらずこちらめがけて音速で連射されている。
不審に思って視線を上げれば、腕を広げて走る茉莉の前方で涼平が並走していた。今は傷の治療に専念しているが、先程の雷撃は彼が鎮護螺旋で消し去ったのだろう。二人は付かず離れずでこちらとの距離を維持しており、しかもこの距離は隙一つでいつでも詰められる最悪の距離だ。これでは茉莉の烈火の意が途切れるまで、下手な動きは一切できない。知っていたが、実際に相手になると否応無く相手の阿吽の連携の威力が染みる。
「でぇいっ、面倒だが力尽くで行かせて貰うぞッ!」
叫び、八面大王は防御を捨てて涼平達めがけて一直線に駆け出した。
「むむむ……ちと不味いな」
涼平達と八面大王の間で膠着状態が続く様を、御坐から視ていた小松は腕を組んだ。彼女の態度に右翼の逸隼丸が目線を向けてくる。その反対側、左翼に座する筈の謐は、光輪車に戻ったものの自室に引き篭もったまま出てくる気配は無い。
「……如何なさいました、御前」
「いやな、織口の老いぼれが家人を贄に捧げおったせいで、魏石の阿呆が僅かだが力を取り戻しておる」
「何と! では見立てが誤っていた事に……。すると渡辺夫妻が危険では」
目を剥いた逸隼丸に、小松は頷く。
「うむ、まず勝てはしまい。今の所は善戦しておるように見えるが、時と共に覆されよう。まぁこれでは始めからあ奴等に魏石を斃す事は不可能か。よもや御魂魄以外は二年以上前に復活しておったとは思いもせなんだし。……真、此方は奈落と違って予想がつかぬ」
口許に手をやった小松は、くくくくく、と場違いな笑みを零す。
その目、その口、手付きから小刻みに揺れる体全体の動きまでが全知的生命を虜にする魅力を持っていたが、逸隼丸の自制が効いている間に小松は素に戻る。
「こうなっては、霊長の事は霊長に片付けさせねば成らぬなぞと言っておる場合ではないか。魏石が野に放たれれば、万の被害が出るのは間違いあるまい」
言い、片膝立てた後に立ち上がった小松は柏手を一つ。
どこからともなく落ちてきたのは、実用性が皆無かと思われるほど長い矢羽を持った三本の矢と、見た目は何の変哲も無い梓弓。それらを受け止めた小松は、長い矢羽の先を畳に垂らし、懐かしそうにそれぞれを見つめていた。
「……御前ご自身が、赴かれるのですか」
矢を極力視界に入れないようにしながら逸隼丸が言う。すると御前は僅かに目を丸くし、逸隼丸の方へ顔を向ける。
「何故行かねばならんのじゃ? これをくれてやれば済む以上、妾が一々出張る必要などどこにも無いし、そも妾自らがあの変態を潰すのであれば、元からあの夫婦に出番は無いわ」
「ごもっともです、申し訳有りません」
「いくら妾が霊長を愛しておっても、過保護に繋がるとは限らぬ。まあ、良いじゃろ。しかし、お前が早合点とは珍しいな……ああ、さては」言葉の途中で、小松は突然悪戯心に満ち溢れた目付きになった。「ふふん、渡辺のが気に入ったか?」
「はっ? ……あっ、いや、その」
図星を刺され、逸隼丸は全く意味の無い手振りまで交えて何か言い返そうとするが、根本的に上ずっている為まるで効を奏していない。
「っははははは、分かり易いなお前は」
図体に似合わない逸隼丸の情けなさに、小松は思わず笑ってしまう。そのままばつが悪そうに口を閉ざした逸隼丸の前でひとしきり笑った後、何事も無かったように素の表情に返った小松は、「さて」と呟き手に持つ弓矢に視線を戻した。
「問題は何時寄越してやるか、か。あまり早くてはつまらんし、手遅れでは話にならん」
「確かに。ですが、それを以ってしても魏石に止めを刺すのは……」
「うむ。不可能じゃな」
逸隼丸の言葉に、小松は弓矢から視線を逸らさずあっさり応える。
これに逸隼丸は思わず口を開きそうになるが、その前に小松が続く言葉を口にした。
「であるから、これを授けた後、矢を受けてくたばった魏石を此方で引き取れば良かろう。後は光輪車の奥底の岩戸にでも放り込んで蓋をして……そうさな、忘れてしまえば良い」
小松は最後にくっくっ、と愉快気に笑みを零す。
「実に適切な処置と存じます」
「じゃろう?」
逸隼丸に応え、ではではと小松は涼平達の方へ視線を戻した。
「んん……そうこれるのか。鬼はほとほと出鱈目だな……茉莉、下がろう」
返事を待たず、涼平は八面大王へ正面を向けたまま後方へと蹴り下がり始める。返事もしないまま彼と同じくに下がり始めた茉莉は、十指は的確に向けたまま信じられないものを目にしていた。何しろ、八面大王が叫んだ後口許を歪めたかと思ったら、そのままこちらへ向かって真っ直ぐに駆けて来ているのだ。
当然一挙動に付き盛大に焔玉が激突し、八面大王は血煙と炎に包まれる。だが直後に八面大王は今自分が取っている姿に再変身。そして炎に巻かれた部分を脱皮するように後方へ捨て、何事も無かったかのように走ってくる。そこにまた焔玉が叩き込まれ――とにかく何があったのか、突如として八面大王は凄まじく強引な方法で間合いを詰めに来たのだ。
口許にとてつもなく楽しそうな笑みを浮かべる八面大王が、徐々に迫ってくる。茉莉は足を狙い始めたが、それでもバランスを崩す前に変身し無傷となるので、意味が無い。おそらく、間合いに入った後どこをどう斬った所で、変身されればやはり意味が無いのだろう。
「…………」
もはや時間の問題となった状況の中、ようやく傷が塞がった涼平は一瞬だけ後ろの茉莉へ視線を飛ばす。そして裂帛の気合と共に瓦礫を巻き上げる程の一歩を踏み出し、焔玉を従え猛然と八面大王へ駆けた。どうせ来るのなら、こちらから攻めた方がいいと判断したのだ。
そして一瞬の目線から彼の意図を汲んだ茉莉は、烈火の意を右腕のみに集中させ、螢狩の効果を左手から消去。そして左手を掲げ、毒腐の意を込めて見るからに毒々しく巨大な紫珠を創り出し始めた。
茉莉は涼平の斬戟を二刀で往なす八面大王を一睨みし、人一人なら充分呑み込める大きさとなって完成した巨珠を投げ付ける。
客観的に見れば、巨珠は涼平の背めがけて投げられたようにしか見えないが、目標方向に居る涼平は自身にそれが当たる直前で火線の反対側へ身を躍らせていた。
「おっ――」
涼平の動きに合わせて目線を動かしかけた八面大王は、目前に迫る巨大な紫珠に両目を見開く。すぐさま螢狩の只中に飛び込んで、玉鉤を振りながら毒腐の塊を回避。両方へ雷撃の報復をしながら、瓦礫やら木材やらが溶ける嫌な音と臭いに顔を顰めた。
原因は見るまでも無く分かる。巨大な紫珠、即ち〝腐爛〟と称されるそれが、己に触れた物体を喰い散らかしているのだ。自然消滅するまでは施法者でも止める事はできない。
だが腐爛であっても、先程までと同様変身して逃れれば済む問題である。だが茉莉の記憶があんなものを喰らうのは真っ平だと判断しており、その判断に引き摺られた事に、目覚めたての自意識よりも取り込んだ他者の記憶の方が材料として勝っているのか、と八面大王は新鮮な思考材料を得た。千年前の隆盛時には思いもしなかった事態だからだ。
「ぁあっ!」
そこへ涼平の気合が聞こえてくる。
「っ」
しまった考えている場合ではないではないかと八面大王は思い直したが、鋭く短い風鳴りの音がし、既に彼の視界は派手に回転していた。
「――?」
くるくると回る回る視界。手足の自由が利かないところからすると、どうやら涼平に首を刎ねられたらしい。それを裏付けるように、夢を振り切った涼平の姿や首の無い身体が何度か視界に入り――後頭部から綺麗に瓦礫に激突した。
必然的に夜空を見上げる事となった八面大王の視界に、寒々しい蒼色を身体に浮かべる茉莉の姿が目に入る。
何が起こるか、というか何をされるかを八面大王はすぐに思い至り、彼女を睨み上げた。
「よさんか、無礼者めが」
生首一つだろうと、鬼であれば喋る事に不都合など何も無い。
「イ・ヤ・よ。私の顔、私の声でそれ以上狼藉を働かないで」
茉莉は嫌悪を露にしながら、自分そのものな生首と首無しの身体にそれぞれ掌を向けると、冷凍の意を存分に込めて周囲の瓦礫もろとも氷付けにして封じ込めた。
鬼神程の相手を封じるのに使われた事はないが、それでもこの〝氷獄・八寒ノ肆〟の内部は壮絶な冷凍力で零下五十℃以下もの極低温を誇っている。そう易々と突破はされないだろう。
「……ねぇ涼平」
術の完成を確認した後、茉莉は溜息交じりの声を涼平にかける。
いくら必要な措置とはいえ、夫が自分の首を刎ねるのを客観的に見せられたり、その結果となる二つのモノを手ずから氷に閉じ込めたりするというのは、精神衛生上とても良くない。ぼんやりと自分を見つめてくる自分の生首なんて、今後何回かは夢に出そうだ。
「ん?」
「こんな事しても時間稼ぎにしかならないと思うんだけど?」
如何な氷獄とて、いつまでも凍結し続けていられる程のものではない。
「うん、そうだね」軽く返事をし、涼平は茉莉の隣まで歩いてくる。「けれど、この二つが八面大王であるという明確な証文を残しておけば、すぐにくるだろう四天王直属の監査の面々も分かってくれるだろうし」
そして、氷獄に封じ込む前に取り戻しておいた鞘入りの朏と玉鉤を茉莉に手渡す。
「……それもそうね」
二人とも、何故四天王の監査が入るのかに関し、認識の相違がある事に気付いていない。
「でも涼平、だったら何で最初から逃げの一手を打たなかったの?」
「んん? ああ、実は逸隼丸殿経由で小松前に八面大王の始末を依頼されててね。君の安否を確認するついでに引き受けたんだ。夢寐揺籃で大丈夫だろうと言われたせいも少しあるけど、流石に安請け合いし過ぎたみたいだ」
頭を掻いた涼平に、茉莉はまったく、と柔らかく微笑む。涼平もそれに応えるが、すぐに表情を引き締めた。
「でも極量でもって粉微塵にしても効果が無かった上に、あんな強引な方法まで見せられては……僕らでは八面大王を――いや、旧き鬼を絶対に斃せはしない。人類は、知略以外で彼等に比肩するにはまだまだ足りないようだ……」
やや気落ちする涼平に、茉莉は元気付ける意味も含めて笑顔を見せる。
「別にいいじゃない、涼平。そういうのはもう今の私達には関係無いもの。それに、ここ三年自衛以外は殆ど武器を握っていないし、技術も最低限の鍛錬だけで他は普通の人と変わらない生活をしてるんだもの。まだまだの言い訳にはちょうどいいんじゃないかしら?」
「言い訳かー……」言いながら涼平はやや悄然とする。「でも、事実だしなぁ」
「そうそう。夜も白んでくる頃だし、久々野を呼んで早く帰りましょう」
ね? と軽い念押しをする茉莉を前に、「そうだね」涼平はどこか諦めの感情を窺わせながら頷いた。
その時だ。
「おいおいおい……どこへ帰るというのだ?」
唐突に聞こえてきた言葉に、涼平の動きが止まる。
また、彼に背を向けかけていた茉莉の動きも止まっていた。
振り返った彼女が涼平を見るが、彼もまた眉根を寄せて辺りに視線を走らせている。となると先の言葉――つまり涼平の声でなされた疑問は、今ここにいる二人のどちらも発してはいないという事だ。
そして、茉莉は見た。ほぼ同時に涼平も同じモノを目にしている。
八面大王の首を刎ねた際に散った血液が集まり、形となっていくのを。
「このっ」咄嗟に茉莉が血を蒸発させるために烈火の意を迸らせかけるが、「ぁ、れ?」
実際に彼女が起こした行動は、がくりと膝を突く事だ。そのまま前のめりに倒れるのを涼平が支え防ぐが、蒼白となった茉莉は自分の力で上体を起こす事も出来なくなっていた。
「茉莉……まさか枯渇したのか?」
「……みたい」
涼平の問い掛けに辛いながらも申し訳無さそうに答え、辛さに顔を顰める。
この場合の枯渇とは、魔力を使い切ったという意味を指す。更にはこの状態で、もしくは力の現在量に見合わないような術法を用いようとした際、不足分を勝手に霊力が補おうとする。霊力とはつまり生命力であり、これが枯渇すれば当然死んでしまうし、減少するような事があれば確実に身体に悪影響を及ぼしてしまう。
普通は覚悟の上で霊力を魔力に転換するのだが、枯渇していたと気付かずにやってしまった茉莉は、不意打ち気味に脳を掴まれ心臓を握られるような感覚を味わったのだ。
「こんな、初歩的な過ちを――」
苦しくも悔しそうに言う茉莉の唇に、涼平は人差し指の腹を当てる。茉莉の言う通り、自身の魔力量を量り違えるのは素人のやる事なのだ。これは偏に、三年間真っ当な鍛錬をしていなかった事実と、遠呂知を始め次々と高度な術法を用いたのが原因だろう。加え、相手が非常識過ぎるという点も判断を誤らせるのに一役買ったに違いない。
再び涼平に庇われる形となった茉莉は、正座を崩した座り方で項垂れている。
そして、彼女を背に立った涼平の眼前では、結集し増幅した血液が人の形を取り終えていた。
「……茉莉の次は僕ですか」
涼平の言葉の通り、今の八面大王は彼の姿を取っている。
「すると、遊びは終わりだとでも?」
「応ともよ。だが、他に聞く事があろう。例えるに、そう――何故だとか何故だとか」
氷獄に閉じ込められた首なしの身体を眺めながら、八面大王は人差し指の爪で氷をかつかつと小突き始めた。にやにや笑っている様から察すると、氷の中身を捨て置いてどうやって新たに身体を得たかを聞かせてやりたいらしい。なので涼平は期待通りにした。
ただし、八面大王の誘いに乗ったのではなく、時間を稼ぐためである。
「御魂魄と、一欠片でも自分の肉体があれば、あなたは幾度でも復活し自由に変化するのでしょうか。むしろそうでなければ、わざわざ分断した上で八寒ノ肆に封じた身体に何某かの動きがある筈ですし、無い所からするとあれはもう抜け殻に過ぎ……どうしました?」
氷に手をついて項垂れた八面大王に、妙に饒舌な涼平は言葉を中断させた。
「……いや……お前。まさか知っておったんじゃあるまいな」
「まさか。ですがあなたが今この場面にきて茉莉とは別の姿に変化した事から、もう少し推測が可能です。そうですね……変化するのなら、可能な限り最も優れた姿を取る筈。なのにあなたはあなた自身ではなく僕の姿を取った。この事から――大胆に述べれば、あなたはまだ本来の力を全て取り戻すまでには至っておらず、今現在変化可能な中で最も優れた姿を取らざるを得なかった。そして変化する為に必要な条件。これも大胆不敵な物言いになりますが、相手の身体の一部分に触れる事が条件なのでしょう?」
一旦区切り、涼平は刹那だけ茉莉の様子を伺う。彼女はまだ肩を落としたままだった。
霊力は緩やかな自然回復に任せる他無い為、どれだけの量をつい使ってしまったかで再び立てるようになるまでの時間が変わってくる。寿命が削られるような量でなければ良いのだが。
何にしろその時間が分からない以上、推論でも何でもとにかくできるだけの長口上で時間を稼ぎ、彼女の安静を保たなければなかった。八面大王がこちらの意図に気付いたならば、即座に夢寐揺籃を放ち、危険を承知で茉莉を抱えて遁走する他ない。
凪を維持し、内心の動揺などおくびにも出さず涼平は言葉を続ける。
「そしてその一部分とは、恐らく血液辺りでは? いくら何でも視覚情報だけで記憶まで得るような真似は不可能と思いますし、血液ならば暴論ですが御魂魄の欠片と言えます。多少の記憶を得ることも不可能ではないでしょう。ただそうなると長くて――」
「一年だ。一年のあらゆる記憶を得、我輩はその者の力を得る。もっとも、御魂魄に馴染んでおらぬ真新しい記憶なぞ知った事ではないがな」
うんざりした様子で、氷に凭れる八面大王は涼平の長口上に口を挟んだ。
ただ、いくら鬼でも彼は思った事や答えを素直に、しかも余計に口に出し過ぎだろう。逸隼丸もその傾向があったが、そんなだから人間如きに退治されてしまうと分かっていないらしい。ひょっとしたらわざとなのかもしれないが、その可能性は薄いだろう。
「……そうですか。では――」
勢いを削がれた形となり、再び涼平は喋り出そうとしたが、
「もう良い黙れ沢山だ」
怒気を孕んだ八面大王の言葉がそれを止めさせた。
涼平としては、今日の出来事を八面大王が知っているかどうかを探りたかったのだが。ただ顔見知りであろう小松の事をおくびにも出さない辺り、どうやらここ数日の出来事は知らないものと判断できそうだった。
「お前の記憶も持つ以上、お前が何を考え突然そうも饒舌になったかは察したわ。ようやくな。珍しく滔々と喋り出すから一体何事かと思っておったが……そう易々と事が運ぶと思うたか! 全くもって小賢しいぞ渡辺がぁッ!」
大音声と共に八面大王から逸隼丸を上回る大裂帛の鬼気が発散され、大気の壁と化した烈風が爆音を伴って盛大に吹き散らかされる。彼の間近にあった氷獄はひびの入る間も無く中身ごと粉々に消し飛ばされ、螢狩や雷撃による火事も瓦礫もろとも吹き飛ばされた。
涼平もまた咄嗟に茉莉を抱きかかえた所で烈風に飛ばされてしまう。飛来する瓦礫等から夢を縦横に振って身を護り、かなりの浮遊感の後、瓦礫の海へ膝と足首を柔らかく使ってほぼ無衝撃で着地した。
「く、今のが八面大王の本気と言う訳か……? 無差別極まりないな……っ」
飛ばされる直前に涼平は自分から飛んでいたお陰で大した事にはならなかったが、それでも着地後顔を上げた先の視界には息を呑まされる。近く瓦礫の上に立っていた筈の八面大王が、今は遠く地面の上に立っているのだ。しかも爆心地に立っているかのように、彼の周囲はすり鉢状に陥没している。
「……なんて事」
「全くだ。意気の発散だけでここまでの事を起こすとは」
それらを見て、涼平も茉莉もそれぞれほぼ無傷である事を確認し確認しあった後、幸運だったと揃って息を吐いた。――そこへ無粋な大声が割り込む。
「さぁてさてさてさてさてぇ! 一体どこへ飛んだかな霊長共! あー……んー、そこか? そこだな、そこに相違あるまい、よぉし、死ね」
大声と共に、八面大王は正確に涼平達の方へ雷撃を集束発射する。先程までのような放射とは違い、指向性と纏まりをもった雷撃は激しい音と目も眩むような光を発して邁進してきた。
しかもその軌道は何のつもりか瓦礫を鋭角に避けたもので、丁寧にも純粋に最速で涼平達のみを狙ったもののようだ。
「なにっ……」
ただ無造作に放たれた雷撃は今までとは比にならない程速く、涼平が反応する前に視界を光で埋め尽くした。螺旋も間に合わないと悟った涼平は、亀にも劣る早さで身を乗り出し、僅かでもいいから茉莉を護ろうとする。茉莉は何もできない自分に歯噛みし、左瞼をきつく閉じた。
雷撃が直撃すれば、凄まじい灼熱感と激痛が全身を苛み、いや、そういった感覚が全身に至る前に気絶してしまうだろう。
雷撃の威力を目算すれば、そのまま間違い無く死ぬ事になる――
「おっと、これはいかんな」
小松は手早く拍手を打った。
「……な、これは……一体?」
――筈だった。だが雷撃は涼平達に届く前に霧散しており、今涼平の視界を占めているのは瓦礫に横たわる梓弓と、それの弦と弓身の間に突き立つ三本の矢。矢の方は何故だか矢羽が節だっており、しかも不自然に長い。儀礼用か何かだろうが、一体何故今ここに?
涼平の声でそっと瞼を開いた茉莉は、視界に入った物品に目を丸くした。
「! これ、この矢って……もしかして、でも、なんで?」
「茉莉。……知っているのか」
微弱な茉莉の声に応えながら、涼平は追撃の対応と目の前の物品の存在を気取られない為、即座に千二十四の螺旋を張り巡らせる。
「ええ。……というか、涼平、分からないの?」
「……ごめん」
知っていて当然、と言わんばかりの茉莉の言葉に、涼平は小さく肩を落とす。思えば刀ばかり振っていた分、知識的な面で多少疎いのは確かなのだ。
「もう。……それは、恐らく八面大王の唯一にして絶対の弱点、十三節ある山鳥の尾で作られた弥助の矢よ。弓の方は……特に何でもなさそうだけど」
丁寧に茉莉が言い終えた直後、追加の雷撃が閃光と大音を伴って飛んで来る。ただ、今度は距離があったのと、二発目という事もあり鎮護螺旋を張る余裕があった。
これで涼平は相手がまだ弓矢の存在を知らないものと断定する。分かっていれば、こんな螺旋で防がれる雷撃以外の手段を用いる筈だからだ。
「そうか……しかしそんな物がこのタイミングで現れたという事、それに同時に雷撃を散華させた事も考慮すると、小松前の計らいの可能性が一番高くなる」
雷撃による激しい明滅と轟音の中、うるさそうに茉莉は涼平の耳元へ口を寄せた。
「そうね、あなたに八面大王を斃すよう依頼したんですもの。斃せると高をくくっていたけれど当てが外れて、お詫びのつもりなのかしら。……最初からくれればいいのに」
「んん、まぁ何にせよこれで解決の糸口が掴めた訳だ。……動けるかい?」
茉莉の当然とも言える愚痴に苦笑しつつ、涼平はやや遠慮がちに問う。
「そろそろ……大丈夫、かな?」
応え、茉莉はゆっくりと涼平の腕から離れ、彼の後ろに立った。問題ないのを確認するように、数度足踏みする。
「うん、大丈夫」
「良かった。じゃあ僕が隙を作るから、上手く射ってくれ」
「私が?」
言ってから、茉莉はしまったと思った。確かに武芸の腕で言えば茉莉より涼平の方が明らかに上。だが今の彼女に囮ができるかといえば、できる訳がない。
「いえ、分かったわ」だからすぐに言い直した。「……でもお願い。無茶は、止めてね?」
「ああ、分かってるよ」
頷いて、涼平は螺旋を維持したまま瓦礫から飛び出し、八面大王の方へ駆けて行く。
砂塵を巻き上げ、足音も高く、わざとその身を曝け出すように。
「おっ」
これに三度目の雷撃を放とうとしていた八面大王は感心したような顔つきになり、遮蔽物の何も無い空間に涼平が出た所で口許に嘲笑を浮かべた。
「おぅおぅ随分早いな、んん? 供養は済んだのか? 略式だと後で出るぞ?」
蔑みでしかない言葉の意味を理解できず、また何故そんな事を言うのかという意図も読めず、夢を携えたまま駆ける涼平は取り敢えず無反応を押し通す。この対応に八面大王は増々嘲笑を強くし、間合いに入るなり袈裟懸けに斬り込んで来た涼平の斬戟を軽く躱した。
「ふぁははははッ! 流石に太刀ゆきも曇るか!」
二戟目三戟目も軽々と躱す八面大王の動きは、まるで最初から涼平の動きが分かっているとしか思えない。微かに焦りを覚えた涼平の耳に、嘲弄に続いて先程の意味と意図の答えが届く。
「全く温いな! だが自らの妻を盾に始めの雷撃を防ぎ、そして二撃目は悠々と螺旋を張って逃れたのだ! であればそれくらいは納得できようなぁ! それにしても、っはーッ全くもって渡辺には恐れ入るわ! 我等を屠る為ならばあらゆる手段を厭わぬ、それが例え道を踏み外す原因となった愛妻であろうともだ! 我等とて到底真似のできるものでは無いわっ!」
こちらの攻撃全てを躱しながらの言葉に、成る程と涼平は納得する。八面大王は意気発散の後の雷撃を凌いだ事に対し、そういう解釈をしていたようだ。
確かにそうなった可能性はある。涼平はその事を否定しない。
だが現実は異なるのだ。しかしそれを八面大王のように事細かに口に出す必要はない。
ならば。
見事としか言い用の無い紙一重の回避を見せ続ける八面大王の思うとおりにしてやれば良いだろう。幸い、どういう設定かは八面大王の口から馬鹿丁寧に聞かされているのだ。
だから涼平は、即座にその通りだったものとし己の心に言い聞かせる。ただし、盾にしたのではなく止める間も無く盾になってしまったという修正を加えて、だ。
「…………くッ」
すると、思い込んだだけでいとも容易く心の凪が吹き飛んだ。
「貴様、それが……っ、それが! 齎した者の言う言葉かっ! 赦せんッ!」
自分でも驚くような怒号を発し、勢いばかりで目も当てられない刺突斬を連続して放つ。
「はーぁはははははッ! 凪を失うか、凪を失ったか! っははははは余程頭に来ておるようだなぁ! 大人しく背を向けておれば生き長らえたものを、弔いのつもりかこの痴れ者めが!」
八面大王はげらげら嗤いながら、凪時とは比べ物にならない程単調且つ雑になっている涼平の刺突斬をひょいひょい躱していく。何しろ涼平の記憶を得た時点である程度太刀ゆきの予想がついている為、いとも容易く躱す事ができるのだ。
「くぅっ、おのれぇっ!」
制御できない激情にあえて身を任せ、涼平は絶対に当たらないと確信しながらも力ばかりが先行した技術性の欠片も無い斬戟を幾度も繰り返す。
「甘い甘い、そんなでは児戯にも劣るぞ!」
腰に手を当て余裕綽々で涼平の攻撃を躱し、下右右左と来た所で八面大王は半歩退くと見せかけて高速で前進。五連戟の最後である上段振り下ろしを、迎え撃つように伸ばした右手で、柄を受け止める形押し止めていた。
「なにっ!」
鞘を握る自分の右手と左手の間に、八面大王の右手が存在する。この状況に、涼平は信じられない、といった表情となった。
「もう良かろう? 我輩とてお前に続いて外道の徒の尖兵共と殺り合おう等とは思わぬさ!」
言って、八面大王は攻撃を受け止める右の拳を捻りながら内側へ引き、涼平の上体が少し泳いだ所に鳩尾へ左掌底を容赦なく打ち込む。凄まじい威力の一撃に涼平の身体は宙を舞い、掌底を打ち込んだ姿勢から間を置かず駆け出した八面大王の手には、奪い取った夢がある。
「っが!」
激痛と縦回転に見舞われながらも、どうにか姿勢を制御して足から着地しようとした涼平だが、それに追いついた八面大王は彼の片足を引っ掴んで容赦なく引き上げた。咄嗟に涼平は両手で後頭部を守るが、瓦礫に背中から叩き付けられる形になって受身もままならない為、新たな痛みと共に数瞬息が詰まる。そして ――
「クク、我輩の勝利は必至たるものになった訳だ」
涼平が呼吸を取り戻す前に右足で彼の胸を踏み付け、さらに喉仏に夢の切っ先を付きつけて、八面大王は爽快感溢れる満面の嘲笑を浮かべていた。
対し涼平は苦鳴を上げながらも、八面大王が自分に全神経を傾けているのを感じて内心ほくそ笑む。涼平にとって絶体絶命の状況だが、それは八面大王にもいえる事なのだ。茉莉が矢を射るまで時間を稼ぐ事ができれば、それで良いのだから。
「く、な、何故だ。何故、同じ姿でああも貴様の方が力強い?」
だから、涼平は睨み上げながら言葉を吐く。時間稼ぎと、自分の好奇心の下で。
何しろ八面大王は蛇口を捻るようにして、軽々と涼平の両手に支えられた夢の柄を回転させたのだ。おかげで直後の掌底への対応が遅れている。
「下らん問い掛けだな。が、折角だ。黄泉路の供の代わりとしてこの魏石八面大王様が哀れな霊長に啓蒙してやろうではないか! 確かにお前の言葉通り我輩はお前と同じ姿だ。だがな、持てる力はお前のものだけではないのだよ。……賢明なお前の事だ、もう分かったろうかな?」
「……くっ」
つまり涼平が持つ力の他に、茉莉や八彦の力も合わさっているという事なのだろう。加え涼平は知らないが、八面大王は春花にも変化している為、実に単純に、勝てる筈が無いのだ。
「では葬送ってやろう。普段なら陵遅が如く僅かずつ切り削る所だが、一思いだ。感謝しろよ?」
そう言って、八面大王は夢を緩々と振り被った。涼平の身体は踏み締められたまま動けず、このまま夢が振り下ろされれば簡単に首が刎ねられてしまうだろう。
「ぬ? ……ぐぅっ」
好敵を今まさに葬らんとした八面大王だったが、征服感に満ちていた彼の心に突然氷が捻じ込まれたような感覚に襲われる。
しかもその感覚は初めてではなく、二度目のもの。全盛を誇った千年前の最期の日に味わった、不可避の終焉に対する純粋な恐怖だ。
――そして、実際に瓦礫の影から茉莉が八面大王を狙っていた。彼は彼女が死んだものと思い込んでいる為、自身の破滅の予感はすれども何故かは全く分からない。
「……これは、何だ? 今の世で何故これを味わうのだ? 莫迦な、しかもこれに直接繋がる原因が誰の記憶からも見出せん! まさか他に何者かが来ているのか!」
明らかに様子が変わった八面大王を見上げ、涼平は意識して茉莉の姿を探さず狼狽する鬼神から目を離さないようにする。まさに千載一遇の時。番えた矢を射るのに、今以上の絶好など在り得ない。思い込みと絶対優位の体勢が八面大王の隙を呼んでいるのだ。
「……どうした? 殺さないのか」
「黙れ霊長! お前が、いや、違う、お前等如きに我輩がこんな……すると、まさか! あ奴、あの莫迦姫か! ええい、鬼に在りながら未だ霊長の肩を持つとは穢らわしいっ! 鬼であるならばせめて我輩の邪魔を慎もうとは思わんのか! 大体介入はせぬと言って……んっ」
弦を引き絞った際に出る音がし、そのほぼ同時に響いた、風を切る音。
それに反応した八面大王はその方向を振り向き――
「な!」
長い二筋の矢羽が美しい螺旋を描いて飛来する弥助の矢と、それを射ち放った茉莉の姿に、八面大王は眼球が飛び出さんばかりに目を見開いた。
「莫迦な、何故それが今此処に在るのだっ!?」
叫びながら、打ち払うべく夢を振るおうとする。
「させんっ」
だが八面大王の右足を涼平が両手で掴み上げ、体勢を大きく崩した。
「ぬぉっ」
これによって八面大王は揺らぎ、放たれた直後から矢柄を軸に高速回転を始めた弥助の矢が、せめて身を護ろうと掲げられた八面大王の右手首に命中する。
「ぎあぉああああっ!」
この世の物とは思えない、怒号めいた悲鳴が響き渡った。
「おごぅぐっ、がああぉああっ!」
命中して尚回転を止めない矢は、不思議な事に血の一適も噴出させず手首を抉り、一瞬で貫通し更に突き進む。そのまま矢は左肩に命中し再び貫通。右足を浮かされていた鬼神は矢の勢いのままその場で左足を軸に回転し倒れ込んだ。
力の抜けた様子の八面大王から夢を奪還し、入れ替わりに立ち上がった涼平は数歩後退る。もちろん、気絶したのか倒れたまま動かない八面大王へ油断無く構えていた。
いつ変身し反撃に移ってくるか分からない以上、どんな動きも見逃すわけにはいかない。だがそんな彼の傍らに弓矢を携えた茉莉が駆けて来る。
「茉莉? 何故出てきたんだ」
彼女の姿を見た途端に凪を取り戻した涼平に対し返事もせず、茉莉はうつ伏せに倒れる八面大王に対し決然と弓に矢を番え引き絞った。
そして外し様の無い距離から、心臓へと放つ。
瞬く間に矢は八面大王の身体を貫通し、右手首同様矢羽までを背に埋める。続いて最後の矢も番えて、涼平が何か言う前に今度は微塵の容赦もなく頭部を射抜いた。やはり嘘のように血が出ない。
「これでよし、と。史実通りなら当分大王は動けない筈」
やった事の凄惨さからすれば嘘のような、まるで出かける前にガスの元栓でも締めたような言葉と笑顔で茉莉は息を吐いた。そんな彼女を涼平は複雑な面持ちで見、その後瓦礫に縫い止められた八面大王を見る。
「君は……いや僕もか。ともあれ……これで終わったのかな」
あまりにも呆気ない先頭終了に、涼平はやや腑に落ちない顔になった。あれ程出鱈目に強烈な存在が、弱点を突いただけであっという間に倒されたのだから信じられない気持ちにもなるだろう。
「多分その筈よ。この矢は大王の力を打ち消す事ができるから……まぁ後は監査の方々が後始末をしてくれるでしょ」
だが茉莉は涼平ほど納得できていない訳ではなかった。
何せ鬼退治とはそういうものである。残虐暴虐悪辣非道の限りを尽くし、万人の力を結集したところで敵いそうもない鬼が、人間からすれば他愛も無い引っ掛けにあっさり掛かって寝首を掻かれるなど良くある話なのだ。
「そうか……」
深く息を吐き、涼平は夢を鞘に収めた。
「そーよ。さ、久々野探して帰りましょう?」
言って、茉莉は涼平へと一歩を踏む。
瞬間、世界が眩く一変した。
「…………」
例え二度目とはいえ、前触れも何もないのに瓦礫の山から突如夏と秋に囲まれた道に出ては、言葉を失いたくもなるだろう。
「うわ、またここに来るなんて」
声に、涼平と茉莉は足下を見る。涼平の足下で、久々野は彼等を見返していた。
「あ、久々野さん」
「どーも。そういえば、魏石は倒せたんですか?」
「一応は倒せました。ただ、その直後にここに呼ばれたんですよ」
「倒した直後……と、そういえば魏石の骸は?」
「そういえば――」涼平は軽く周囲を見回す「――見当たらないな」
「それはまた……まさか置き去りという事もないでしょうし」
「とすると……随分調子が良いというか……」
久々野の言葉に、茉莉はつい零す。獲物を横から掻っ攫われた様な気分になって、何となく面白く無いのだろう。
「しかし、霊長の手に余る代物を押し付ける訳にもいくまいよ?」
そんな茉莉の愚痴に、後方から応えがあった。
声に驚いた二人と一匹が振り向くと、
「小松前……」
小松がこちらへ静々と歩いて来ていた。どうやら、わざわざ出迎えに来たらしい。彼女一人である理由は涼平達には分からなかったが、謐は相変わらずで、逸隼丸は涼平を見ると勝負をしかけそうなので待つよう小松に命じられていたからだ。
「ともかく大儀であったな、二人とも」
涼平達の所まで来た小松は、微笑を浮かべながら言う。
「いえ、当然の事をしたまでですから」
「ほほう、殊勝じゃな」
「色々とかなり大変でしたけどね」
「うむ、その点は実に済まぬ事をした。魏石の黄泉還りまでは宿命通で予見しておったが、完全なものとまでは分からなんだ。やはり、未来を見通す力は少々効きが悪くてな」
小松の言う宿命通とはやはり六神道の一つで、対象の過去から未来からすっかり見通してしまう神通力である。ただ、彼女の言葉通り未来よりもむしろ過去を知る方が効果が凄まじく、前世の域まで知悉してしまえるのだ。
「宿命通……成る程、だから貴女方は先んじてこちらに現れた訳ですか」
涼平の言葉に、小松は「ん?」と軽い疑問を浮かべた。
「おや、知らなんだか?」
これに、涼平達も疑問を浮かべる。
「……初めて聞きましたが。ねぇ」
目線と共に同意を求められ、茉莉も久々野も頷いた。
それを見て、小松はふむ、と納得する。
「妙に話の通りが良かった故、どうやら申したと思い込んでおったようじゃな」
「魏石の件は、事前に久々野さんから聞いていましたから」
「ああ、そういえばそうであったな」
改めて、小松は納得した。
「それで小松前」
茉莉の視線を受け、涼平は口を開く。
「ん?」
「魏石はどのような扱いになるんでしょうか」
「扱いか。……知っての通り、魏石は身体を千々にしようと御魂魄ある限りどうせ復活してしまう。そして、御魂魄と分けて封印しようと、今日の様な事が起これば全く意味が無い。故に、弥助の矢もそのままに、光輪車の奥底に幽閉しておこうと思う。光も届かぬ岩戸の中であるし、妾が健在である限り外に出る事は叶わぬじゃろうて」
「成る程。貴女の監視下にあった方が、恥ずかしい話ですがより確実でしょうね」
苦笑しつつ、涼平は小松の言葉に頷く。
千年前の方法とて、八彦が妙な気を起こさない限り安泰だったのだ。しかし妙な気を起こしてしまった以上は、鬼からすれば霊長に任せておくのも安心できないに違い無い。ならば、牙を抜いた状態で手の届く位置に置いた方がよほど枕を高くできるのだろう。
「さて、では褒美の件じゃがな」
「褒美?」
茉莉の疑問に、小松は彼女の方を見る。
「なんだ、聞いておらなんだか? 何、死ぬような目に遭わせた手前、只働きをさせようとは思わぬさ。相応の見返りは用意してあるぞ?」
小松の言葉を聞いて、ああ、と涼平は手を打った。逸隼丸が言っていた事を今思い出したらしい。
「相応の見返りですか……」
「うむ。まずは、これじゃ」
言葉と同時に響く、柏手の音。
「お」
「あ」
音が響くと同時に涼平と茉莉は静かな驚きを口にする。二人とも、八面大王との戦いで破れたりズタズタにされた衣服がすっかり元通りになったのだ。
「ありがとう御座います」
涼平が言い、茉莉は頭を下げる。戦いの忙しなさで自分達の衣類を顧みる余裕が無かった為、そういえば色々酷い事になっていた事を忘れていたのだ。
「なに、この程度。男であるお前はともかく、細君の方はそうもいかんじゃろう? でな、これとは別の本命は既に見繕って送ってあるのじゃ」
「え?」
「ふふふ。楽しみにするが良いぞ」
小さく驚いた涼平に、小松は楽しげに言う。その際の含み笑いが余りに艶やかなものだから、茉莉はついついぼぉっと見入ってしまった。涼平は平気の平だが。
「さてと、望むのであれば怪我の方も治してやるが」
「いえ、出来れば自力と自然の力で治した方が、体に良いですから」
「それもそうか」
涼平の返答に頷き、そして小松はふむ、と考える。
「……とすると、別れかの?」
「んん……ええ、そうなりますね」
小松の言葉に少し考え、それから涼平は応えた。
「ふむ……ひょっとすれば、また会う事があるやもしれんが」
「出来れば、何事も無い長閑な時をすごしたいものですが」
「……そうさな、そうであれば互いに幸いよ。では渡辺涼平、茉莉、そして久々野。いずれまた……いや、さらばじゃ」
小松の別れの言葉に返事をしようと涼平と茉莉が口を開きかけた時、またも小松は僅かに先んじて大きく柏手を打っていた。
「ふむ。そして屋上か……」
慣れた普段の空気の匂いを嗅ぎ、白んできた東の空を見、涼平は呟く。
「……それにしてもせっかちだなぁ。また別れの言葉を言えなかった」
「良いじゃ無い、帰って来れたんだもの」
涼平はともかく、茉莉にとっては無事に帰れた事の方が重大だった。
「そうだね。……じゃあ今度こそ帰ろうか。全く、とんだ休日になってしまったな。鬼に関わると碌な事にならないっていうのは、本当だ」
茉莉の涼平だけを見て言った言葉に、涼平は茉莉だけを見て返す。
「…………」
そして、二人の間に久々野の居場所は当然のように存在しない。
「本当、嫌という程嫌な目に合ったわ」
溜息を吐き、それから茉莉は気を取り直すように言う。
「帰ったらご飯にする? 昨日の肉じゃががとても美味しくなってる筈よ」
「……ああ、それはとても素敵だ」
途端に庶民臭くなった会話に笑顔で頷き合うと、極自然に手を繋いでフェンスの方へと足を踏み出す。それに諦めた目つきで黙って付いていく久々野である。
「ねぇ、ところで小松前の褒美ってなんなのかしら?」
「…………さぁ」
階段を降りる最中、ふと言った茉莉の疑問に、涼平は何故かうそ寒い何かを感じた。
――そして、そのうそ寒い何かが予感であった事を、涼平は部屋の前まで来た所で思い知る。
「うっ……」
「…………」
「……わぁ」
涼平も、茉莉も、久々野も通路で絶句したまま動けない。
何故なら、玄関の前に煌びやかな貴金属が満載された大きな瓶が置かれているのである。
確かに価値としては凄まじいものがあるのだろう。問題なのは瓶が一つや二つでは無く、幾つも幾つも積み重ねられているという、もう、見るからにあまりにも多過ぎな状況だ。
むしろこれは玄関を隠すのが真の目的ではないか、と邪推したくなる量である。
「…………ねぇ涼平」
見上げながら茉莉は言う。階段を下りた所で瓶に気付いた時は、いっそ何かの冗談かと思っていたのだが、いざこうして間近で見てしまうと力が抜けそうになる。
「…………うん?」
その隣、涼平もまた見上げていた。その眼差しにはどこか諦念が宿っている。
「…………帰れないわ」
「…………うん」
「……あー、どうしたもんですかねこりゃ」
徐々に周囲が明るくなりつつある中、二人と一匹は、ただただ立ち尽くしていた。というか、何もしたくない気分になっていた。
恐らく、小松は涼平達を喜ばせ驚かす為に、独断でこの膨大な褒美を選び抜いたのだろう。根本的に規模が大問題であるとか、この一財産を部屋に搬入する手間がどれだけのものか、全く気付く事も無く、ただただ良かれとだけ思って。
涼平も茉莉も久々野も、その様が割と簡単に想像できた。
僅かな付き合いとはいえ、旧い鬼というのがどういう物か、察するのは容易だからだ。
「……とにかく、どうにかしよう」
「そうね……」
心身共に疲れ切った足取りで、二人は瓶の方へ足を向ける。無言のまま、同じくな足取りで久々野も続く。
これで瓶が軽ければよかったのだが。
「う」
生憎、中身満載の瓶は見た目以上の重さで彼等を苦しめたのだった。
結
合わさった手を離し、小松は一つ息を吐く。
ともあれ、終わりは終わりである。魏石八面大王は色々と思わぬ事こそあれ、結果としては因果応報が如く外道の一門が滅ぶだけで事が済んだのだ。もっとも、長以外の者にとっては迷惑千万であったろうが。
「……さて、では妾どうしたものかな」
目的は済んだ。
ならば、後は棲家へと真っ直ぐ帰るだけである。
今や自然をすら萎縮させてしまうような身、滞在されてはこちらの全てに迷惑だろう。
されど。
小松は東へと目を向ける。
白み、光輝き始めた東へ――奈落では決してお目にかかれない輝きへ。
「おぅ、夜明けか」
流れる時間に合わせ、刻々と輝きを増していく空を見つめる内、ふと小松の口元に笑みが浮かんだ。悪戯っぽい少女のような笑み。
「……折角来たのじゃ。この娑婆の輝き、暫く堪能するくらいは良かろうて」
光輪車の中に居れば他に迷惑を掛けもすまい、と小松はうんうん頷いた。
謐はともかく逸隼丸は一応止めるだろうが、所詮は一応の域を出ない。彼とて謐と同様、小松には逆らえないし、そもそも逆らおうとすらしないのだから。
空から視線を下ろし、屋敷の方へと足を向けた彼女がこれから何を仕出かすのか、誰にも分からない。ひょっとしたら今日の内に帰るかもしれないし、迷惑を顧みず野に降りる事があるかも知れないのである。
この気紛れな鬼姫の意志を止め得る者は、この世に存在しないのだ。
「さて、今頃驚き感動しておる頃かの」
小松は言う。
現実は、今頃涼平も茉莉も久々野でさえも、玄関を塞ぐ瓶を退かすのに苦労している訳だが。
しかしそれを知った所で、小松は侘びを入れる事は無いだろうし、褒美を減らすような事もないだろう。前者はその理由が彼女には分からないからで、後者については本心を言えばあれでも少ないと思っていたりするからだ。
仮に涼平や茉莉が小松に直接言ったとしても、小松は「良いでは無いか」で済ますだろう。
だって鬼だから。
屋敷の周囲に涼平が居ない事から、茉莉は織口邸へ細心の注意を払って侵入していた。
だが屋内に入ってすぐ、強烈な吐き気に見舞われている。
原因は、前方に転がる遺体と、どこか生暖かく感じられる空気。そしてその空気に載って漂う凄惨な血の香りによるものだ。壁や床に血糊が付着し、また生乾きの物も幾つかあり、凶事が起こってからまだそう時間は経っていないようだ。……いや、最中なのかもしれない。
ぼんやりと惨憺たる現実を照らす常夜灯の下、血痕の無い壁を選んで寄りかかった茉莉は、口に手を当てて酷くなる一方の吐き気に加え、幻痛による全身の痛みを堪える。
「……本気で辛そうですけど。無理しなくてもいいんじゃないですかね?」
足元で座る久々野が心配げに言う。これに蒼褪めた顔の茉莉は大丈夫と首を振って応え、二十年前の事件を原因とする精神的な打撃が原因である吐き気と幻痛を払う為、必死に思い出の呪縛を断とうと心に気合を入れる。
――二十年前の事件の折、茉莉は視界に映る遺体よりも酷い有様だったのだ。
当時賀茂氏が創造技術の発動実験に失敗し、実験に立ち会った多くの人間を巻き添えに歴史を閉じた時、失敗の余波を受けた各地の妖怪化生の一部が一挙に強暴、強大化したのである。
これに対し外道の徒の頭目は、発足時以来一度も使われなかった対緊急用最終措置を発動。この措置は民間への被害を抑える為、致命的なほど人に害を成す存在である対象を氏族の家屋内に強制転移の後封印し、氏族の者が個々に斃していくという背水の措置なのだ。
ここで不幸だったのは、封印される対象の選択基準が存在しなかった事で、そう強くない力の氏族の元に強力な妖怪が封印されてしまう等の不都合が生じた事である。
この為当時は二百を数えた氏族は一気にその数を減らす事になり、宵月もあわやというところで滅亡の憂き目を見るところだったのだ。
措置によって宵月邸内に封印された対象は、普段の数十倍の力と五倍はある体格を得、しかも治療役が役目を放棄し嘲笑するという最悪の状態になった鎌鼬が三十組。宵月にとって一番の不運は、時刻が昼だった事にあった。夜であれば間違い無く優勢の下撃破し、他の氏族の援護へ向かう事もできたろう。
だが一人として無傷で生き延びた者はおらず、時の氏族長を含む殆どの大人達は、幼子達を護って戦うもその幼子の半分以上と共に死亡という、全滅を除けば二十年前で最も死傷者を出した氏族となったのだ。これでもし渡辺や治療術法に長けた神樂の助勢が数分でも遅れれば、滅亡した氏族に姓を連ねるのは間逃れなかったろう。
茉莉自身、目の前で血煙を霧のように全身から吹き上げた後ばらばらになった母や、妹と共に自分を抱きかかえて逃げようとして頭から真っ二つになった父の事を今でも夢に見るし、妹を庇って哄笑の中一度死んだ全身の痛みは今でも忘れていない。
そしてその痛みが、今血塗れの遺体を前にした茉莉に吐き気を伴う幻痛を与えているのだ。
「――私は、もう、大丈夫。母様の勇気と父様の優しさ、そして涼平が私に強さをくれたんだから。過ぎ去った日に縛られるような事は無い。だから、私は、もう、大丈夫、大丈夫……」
繰り返し呟いて、茉莉は瞼を伏せて穏やかに呼吸をした後、ゆっくりと瞼を開き、壁から身体を離す。壁に寄りかかってから丸一分、どうにか彼女は吐き気と幻痛を克服した。
「……心配かけたかしら?」
額の脂汗を袖口で拭い、屈んだ茉莉は行儀良く座る久々野の頭を撫でる。今ばかりは彼も露骨な拒否は示さない。
「それはもう、大体半年分くらいは心配しましたよ。ですので暫くは心配させないで下さるとつくづく有り難いですな」
「その点は今後前向きに検討するわ。さ、涼平を探さないと」
「できれば涼平が事を終わらせてくれてると、私としてはさっさと帰れて鰯も食べれて幸福この上なく言ってしまえばもう最高なんですが」
颯爽と立った茉莉の足元で、よっこらせと腰を上げた久々野は後ろ向きな意見を述べた。
「本当。そうだといいわね」
涼平に関する事だったしそう望みたくもあったので、茉莉は素直に同意する。
一人と一匹は警戒を怠らないまま織口邸を進み、途中から遺体に一々足を止める事もしなくなった時、久々野が突然立ち止まった。
「――あ」
「なに?」
鼻をひくつかせながらの声に、茉莉は立ち止まって辺りを窺う。
「一番新しい血の臭いが近くにあります。血の臭いが混ざり合ってるでしょう凶事の元凶は近くにいませんけど……行ってみます?」
「行ってみましょう。何か得るものがあるかもしれないわ」
長生きによって猟犬以上の嗅覚を得ている久々野の言葉を信用し、茉莉は彼の先導で織口の長の私室前へとやってきた。途中から見かける遺体に何かしら検分した痕跡があるが、茉莉も久々野もその事に気付いていない。
「……ってここ、織口翁の私室じゃない。なんで首魁に死の疑いがあるのよ」
「そんな風に言われましても。ここから臭うのは間違いありませんし」
壁越しに室内の気配を窺ってみても、何も感じられなかった。謐のような者ならともかく、人の身で完全な気配絶ちは不可能なのだから、まず間違い無く待ち伏せの類は無い。
「中には生きてる人はいないようだけど……」
今回もまた、ただ少し短い躊躇の後茉莉は戸を開いた。
「――っ!」
瞬時、戸に掛かっていた手を口許に引いて茉莉は声にならない悲鳴を洩らす。
久々野もまた、まさかの事態に息を呑んでいた。
「お、伯母、様? そんな、そんな……嘘……」
呆然と呟き、茉莉は夢遊病者に似た心ここに無い足取りで、八彦の部屋へと足を踏み入れる。部屋には、心臓部分に穴を開けた春花の遺体が仰向けに倒れていた。
まだ表面が乾いただけで粘り気を感じさせる血の海に、茉莉はねちゃりと音を立てて膝を突き、無駄だと知りながら首筋に指を当てて脈を調べてしまう。当然ある筈も無く、茉莉は実母の死以来、母と慕った伯母の死を受け入れざるを得なくなってしまった。
「……伯母様」
こんな状況でなければ、春花の遺体を掻き抱いて咽び泣いただろう。だが今はそんな時では決してない。茉莉の隻眼の顔貌に浮かぶ表情は、悲しみに暮れ滂沱の涙を流すのではなく、永久凍土を思わせる感情の凍りついたもの。流すべき涙、悲しむべき感情を無理やり先送りにした結果である。
「……ん」
ふと、茉莉は足元にあった日記帳に視線が止まる。
「あ……まさか」
血の海に刻まれた跡から、春花が最初うつ伏せに倒れたのが分かるし、となるとこの開かれた日記帳は春花が死の直前まで読んでいた物かもしれないという推測も成り立つ。
茉莉は畳から引き剥がすようにして日記帳を手に取った。開かれていたページは血痕が酷く読めそうも無かったが、端のページからどうやら八彦の日記らしい事が分かる。書架の方へ目をやれば、似たような物が幾つもあった。
何故彼女が最期の時に八彦の日記に目を通していたのかは、外道の徒の中でも諜報業務を担っている宵月の性質上、幾らでも考え付く。有力なのは、警察業務を担う四天王等が魏石の遺骸の集積所として織口邸に目星を付け、裏付けのため春花が先行潜入したという仮説だろう。
事実は茉莉が考えるほど進んだものでは無いが、ともかく彼女は日記帳を元通りにし、静かに腰を上げた後春花に黙祷を捧げた。左瞼を閉じ俯いた茉莉が纏う厳粛さに、久々野もまた、何度目か忘れたが、交流のあった人間の死を悼んだ。
「…………行くわよ、久々野。私達は今ここにはいない事になっているんだから」
「分かりました」
瞼を開いた茉莉は凛とした声で言うと、部屋を去りながら服に付いた血を拭い去り、手に纏められたそれ等に術を施して擦り落とす。
すると落とされた血は砂のように舞い、茉莉が痕跡を付けた場所に落下し形を整える事で、茉莉がこの部屋にいた証拠全てを消し去った。最後に戸を閉めて、現場の補修は完了。警察と諜報の立場にある渡辺と宵月に追われる以上、どんな形であれ明確な痕跡を残す訳にはいかないのだ。
結局一歩も立ち入らなかった久々野と一緒に、茉莉は無言のまま織口邸の廊下を進む。伯母のやろうとした事はいずれ誰かががやってくれるだろうし、こうなると分からないのが涼平の動向だが、今の茉莉の冷え切った頭なら自分が先走ったのではないかという思案が浮かばなくも無い。
その思案に思考が引き摺られ、ひょっとしたら涼平は小松絡みで姿を消したのかもと思い至った瞬間、茉莉は何故自分が絶対にこっちだと思い込んだのかが理解できなかった。虫の報せかもしれないが、春花の事があったばかりなのに顔から火が出そうになる。
「しかし、このまま行っても見つかるとは正直思えませんがね」
「…………」
「……茉莉?」
「へっ? あ、ええ。かもしれないわ」
久々野の言葉に今更気付いた茉莉は飛び上がりそうな程驚き、彼女の様子を別解釈した久々野は心配そうな視線を向けただけで何も言わなかった。
「確かに、私の思い違いかもしれない。私を慮ったのに間違いは無いと思うけど、涼平が向かったのはここではなくて小松前の方なのかも」
「ああ、言われてみればその通りで。大体向こうがこちらに気付かない筈がありませんし」
だとしたら、それはそれでこんな所でのんびりしている場合ではない。未だに姿も形も無い八彦の存在が気がかりだが、本来関わり合いになる筈が無かった茉莉の立場からして、伯母の仇を自分の手で討とうという考えそのものが傲慢だ。
春花には申し訳ないが、茉莉の最優先事項はほぼ全ての場面場合において涼平である。機会があるなら話は別になるが、涼平の身に少なからぬ危険が覆い被さろうとしている以上、妻として、背を預けられた者として、普段以上に彼の傍にいなければならない。
「……なのに。……私は、こんな所でなにをしているの……?」
「は?」
「何でもない。久々野、中庭へ行ってすぐにここから出ましょう。涼平が心配だわ」
溜息を挟んだ茉莉の言葉に、久々野はそうですかと頷くに留まった。
薄暗い廊下から中庭の星明りの下へ出たその時、
「ほぉう。春花はともかくとして、意外な輩が現れたな。どこで嗅ぎ付けてやって来た?」
いかにもこちらを馬鹿にした声が右手上方から投げかけられた。
「っ!」
察知できなかった事に驚きながら振り返ると、瓦屋根の上で片膝立てて座る八彦が、穂先から蕪巻までを血の赤に染め、柄にも幾筋の血流を作る素槍を脇に挟み持ちこちらに向けていた。
茉莉の視線が鋭くなる。
「長代理といい元長といい、ほとほと宵月は邪魔でしかないな。お前達のような異分子が割り込むから、上手く事が運ばんのか」
「織口翁……その口振りでは自分が春花伯母様を屠ったと認めるのですか」
茉莉の問い掛けに、八彦は増々こちらを馬鹿にした表情になった。
「春花か。儂の部屋で無防備な背を晒しておったからつい突き殺してしまったが……氏族を捨てたお前が此方の事にどうこう言う筋合いは無いだろう? 宵月の元長にして、技法と術法の双方に驚くほど長けた稀代の万能師よ」
「……でしたら、ご自分が私に勝てないという現実もご存知ですね?」
相手の平静な心理をどんな方向であれ崩そうという織口の口先を、茉莉は熟知していた。
また、長に就いていた当時から自分の方が完全に実力が上だったために、茉莉の心は涼平並に揺らがない。だからといって露骨な挑発を無視できるほど平静ではないのだが。
「それはどうかな? お前は織口の者と死合った経験は無い筈だ」
「能書きは結構です。……それだけ言うのであれば、私をここから素直に出す気は無いと考えて宜しいですね?」
静かに言い、茉莉は右腰に佩き帯びた二刀の柄に手を乗せた。それだけで彼女の纏う雰囲気に強烈な威圧が伴い始め、鋭かった目付きも豹変し、敵を睨むものになる。
「無論も無論。お前は見る必要の無い物を多数見たからな。生かして返す訳にはいかん。それに、渡辺の天才を呼ばれても迷惑だ」
「見てはいけない物? ……例えば、安曇野の大王の遺骸、とかですか?」
言い、機会が来た事を幸運に思いながら、茉莉は脇差と太刀をそっと抜刀した。音も無く姿を現した黒鞘に黒柄の二振りの刀身は、やはり黒い。それもただの黒や漆黒ではなく、光すら映さない全くの闇色だ。陰系の最優鋼、〝黒朔〟が用いられている証である。
「……ほう」
八彦の表情から相手を馬鹿にする色が消えた。眼差しには殺気すら篭り、七十の老体とは思えない身軽さで屋根から飛び降りる。
彼我の距離は十メートル程。
「春花ですら知らん事をお前が知っておるか。増々死んで貰わねば。いや、少し聞きたい事ができたか。……ふ、結果は同じ事だがな」
素槍を両手で持ち直し、八彦は真横にした槍をやや落とした腰の高さで保つ、隙の無い霞中段の構えを取る。
「朏と玉鉤を抜いた私に死を語るなんて。……まぁでも、舐められても仕方ないかしら?」
皮肉を込めて応じた茉莉は、八彦の構えに対し脇差である朏を逆手で持つ右腕と、太刀の玉鉤を順手で持つ左腕のそれぞれをだらりと垂らしたまま何の構えも取らない。だがこれが彼女の構えであり、無行の位と呼ばれる、相手の攻撃を見た後斬り上げる後の先か、相手の攻撃を紙一重で躱した直後の反撃で勝負をつける熟達者の立ち姿だ。
「あ、私は下がってますからそのつもりでお願いしますよ? どうぞ頑張ってください」
中庭の空気が張り詰めていくのを感じ、今まで茉莉の足元にいた久々野が耳を伏せて後退っていく。そのまま久々野は縁の下に収まるが、その間も八彦にも茉莉にも動きが無い。互いに攻めよりも守りを重視した構えであるため、どちらかが痺れを切らすまで永遠に身動きが取れないのだ。
それでも八彦の表情の皺が深まりつつあるのに対し、茉莉は特に気負った様子も無く構えたままである。
これでは誰の目にも明白な結果が待っているように見えたが、口許を不敵に歪めて先手を取ったのは茉莉のほうだ。
「盛れ!」
叫び、自分の周囲に発生させた八つの炎弾を順次八彦に向けて発射したのである。
盛れの言葉だけで茉莉は詠唱を一切しなかったが、本来術法とは念じる事を主として発動させる物なのだ。詠唱はより威力効果を確実な物にさせたい時にのみ使う、自己暗示、発奮材料でしかない。なので理論上は何も言う必要は無いのである。
「ぬっ」
俊敏に身を躍らせて炎弾を躱す八彦に対し、外れて地面に着弾した火炎弾が次々と火柱を上げる中、茉莉は地を這うような低姿勢で疾走。轟雷の意である〝雷道〟によって強化された電光石火の動きは、若かりし頃の力を取り戻した筈の八彦の動体視力からすら容易に離脱し、金線混じりの黒影は炎弾を躱しきった八彦へと超速で直進する。
「っは!」
身の危険を存分に察知した八彦は、素槍の石突で地面を小突いた。すると彼の前方の地下から、何かが彼を護るように勢い良く隆起する。
地面を割って現れたそれは、一瞥しただけでは概数も出せそうに無い量の木の根だ。太さも長さもまちまちな根は、刹那の間に絡み繋がり成長し、高さ五メートル、厚さ一メートルを越える、中庭を分断する幅を持った剛堅な壁となっていた。
これに対し、茉莉は突進速度と根の壁の発生速度からして、激突を回避するのは容易ではない。八彦は茉莉が間違い無く跳び越えてくるだろうと壁が完成する前に考え至っており、迎え撃とうと構えようとして――寒気を覚えた彼は自ら壁の上へと跳んだ。
八彦のこの行動は先手必勝の類では決してなく、あろうことか迷いも無く直進してきた茉莉を避けるための行動だ。
そして八彦の身が宙を舞い切った時、大地の意によって生み出された根の壁の一部――八彦が立っていた位置と茉莉を結ぶ最短の地点――に無数の亀裂が生まれ、同時に破裂したのと変わらない勢いで根の破片を弾き出した。しかもその破片達は、一つの例外も無く泥のようになって地に散っている。
これは毒腐の意が根の壁を腐らせた事によるものであり、茉莉は電光石火の速度の中、迷わず真正面部分のみを腐らせ、斬り裂いた後体当たりで打ち崩す事を選択したのだろう。
塵を破って現れた茉莉は全身に毒腐の意を示す淡く不吉な紫の光を纏っており、烈火とはまた違った様相を確認するまでも無く、八彦は自身の予測が的中した事に嫌気が差した。
「……く、相変わらず的確な手を即断してくる。しかも術の練度が上がっているとはな」
根の壁に下り立った八彦は、今の茉莉の行動から、僅かとはいえ彼女が自分の知る人物と同じであるとは断じてないと判断する。男と一緒になるために出奔したような者だが、以来互いの家の者に追われる生活をしているのだ。技量を上げる機会には事欠かないだろう。
そしてこの事実は、八彦が最盛期の力を取り戻している今でさえ微塵も油断ができない事を示していた。
「……逃した? この対応速度……前と同じ老体とは思えない……」
対し茉莉の方もまた、八彦への認識を改めていた。彼女の知っていた段階の八彦ならば、根の壁を押し通った時点でまだその場にいる筈なのであり、また年齢も合わせて考えればこれで決着が付くと思っていたのだ。ところが現実を見てみれば八彦は既に根の壁の上へと逃れており、どう考えても三年前より身のこなしや――通過中に分かった事だが――施術の速度と精度の点等、全ての面で比べ物にならないほどになっている。
刹那の間を以って互いが互いの認識を新たにし、高低差の中で背を向け合っていた二人は、即座に振り向いた。
目線が交錯する中、交わすべき言葉は存在せず、無言のまま互いに得物を握り締める。
すぐさま戦闘が再開されるかに見えたが、構えも同じに二人は再び膠着状態に入った。
互いの強さを認めてしまったが為に、空白が発生しているのだ。
八彦は、幼少の頃より知っている茉莉の驚異的な強さが更に磨かれている事に。
茉莉は、古希を迎えた高齢にも関わらず八彦の技量が矍鑠どころではない事に。
これによってそれぞれ積極的な次の一手が打てずにいた。
自然と息を呑むのも躊躇われる緊張が生まれ、風に含まれる血の臭いや、炎弾が庭木等を焦がす臭いが濃くなっていく中、凍りついたように老いも若きもただ動かない。
それぞれの隙を窺う目付けも鋭く、全てに対応、またいつでも行動に移れるよう心を構えている。示し合わせたように両者は超集中に入り、体感時間が凄まじく長くなっていく。
無行のまま一時間はこうしているような錯覚に陥りながら、しかし大体数秒だろうと考え茉莉は相手を見縊っていた自分を反芻する。油断しなければ決して負けないと確信していたからこそ、先程はああも大胆に動けたのだ。
……けれど、その点はまだ変わらない筈。よし。
高低差がある中、見切りをつけた茉莉が先手を取るべく行動しようとしたその時――
『おねえちゃん……?』
「!?」
忘れよう筈の無い、しかし思い返すには凄惨過ぎるあの時を思い起こさせる声が、茉莉の心を撫でた。
それは決して聞こえた訳ではなく、織口の技術によるものだと明白である。だがそれでも茉莉は刀を取り落としそうになり、その事実を隠そうと茉莉は歯を食い縛って遅れを取り戻そうと膝を撓めた。
そこへ。
『うでが……え? ……あれ? あれれ?』
一度目と違い、今度は鮮明な映像を伴った声が茉莉の心に満ちる。妙に紅く染まって不明瞭な右眼の視界の中で、膝立ちになっている少女が放心した表情でこちらを見ていた。
少女は自分の身に何が起こったのか理解できていないらしく、喰い千切られたせいで二の腕から先が無い両腕を掲げ、目前にそれを咀嚼する化物がいるにも関わらず、迸る血流にすら構わずこちらを見つめている。
「か、っく……んぅ」
力が抜けたような声を出し、茉莉は撓めた膝の力を弾けさせずにそのまま地に膝を着いてしまう。集中力を掻き乱すのに充分な効果をもった音響と映像が、再び彼女の身に幻痛を呼び起こしたのだ。
……今はあの時じゃない! この血の視界も、映る妹も、滴る音も、全てまやかし、まやかしなんだから!
そう強く考え、左眼に映る現実の景色にのみ集中し、揺らいだ心を必死に宥めながら茉莉は地を蹴って右に転がる。
瞬間、火薬には無い獰悪な音をたてて、茉莉がいた場所の大地が小噴火のような爆発を見せた。突き出てきたのは、両手でやっと覆えそうな太さを持った根の槍。これの鋭利な先端を見上げる事もせず、追撃を感じた茉莉はただ一つ所に止まらぬよう無理やりに立ち、足元が爆発する前に駆け出す。
あらゆる動作が苦行となる程の痛みの中、足元を襲い進行方向を襲い回避方向を襲う根の槍を避け、必要なら断って心の侵蝕を防ぎながら、彼女はどうにか原因を絶とうと八彦を探し始める。
唯一の救いは、織口邸に入った際に同じ症状に見舞われて慣れていた事だ。あれがなければ今頃は串刺しにあっていただろうし、運良く避けたとしても、その後の追撃でやはり致命傷は避けられなかっただろう。
刹那でも心に隙を作ってしまった自分に未熟さを感じながら、茉莉は涼平を悲しませるような事が無いように、また元とはいえ宵月として伯母の敵を討つ為に、歯を食い縛って右の朏と左の玉鉤にしっかりと力を込めた。まともに集中できないせいで術に頼れない以上、技に頼る他は無い。
一方、動きが段違いに鈍くなった茉莉を見下ろす八彦は、一歩も動いていなかった。
いや、動いていないのではなく動けないのだ。何故なら彼の両足は足首まで根の壁に埋もれており、彼自身の体には大地の意を示す雄々しい茶色が浮かび、一度造った根の壁を基にして茉莉を無尽に攻めているのだ。そんな彼の表情は、彼女の心情をも理解しているのか、歪めた口端に感情表現を凝縮させていた。
二度目の睨み合いが始まった直後、彼は茉莉が動く事だけをただ待っていたのである。一度目の際にどう攻め込むかで観念しそうになった為でもあるが、その後の数瞬は焦っていた彼の頭を普段通りの温度に冷やしていた。そして彼は織口の知識と戦闘経験の集積から、茉莉も自分と同様の思考に陥っていると確信し、巧に迷いの瞬間を窺っていたのである。
そして待ちに待った数秒後、茉莉の動作の開始直前に迷いがあったと見切った八彦は、その寸前を絶妙に突いたのた。超集中のまま念じた事で発動した撹乱が茉莉の身体を絡め、心を縛り、視野と思考を狭くする。
宵月の惨劇を知る八彦は、その中で最も凄惨な被害者である茉莉にその最中の映像を呼び起こさせたのだ。
それは気が触れた鎌鼬達に執拗に、偏執的なまでに斬り刻まれ、挙句妹の両腕を喰われる様を見せられた瞬間である。現実はその約半瞬後に神樂の助けが入る事で悪夢の終わりを告げていたが、勿論八彦にそんなつもりは無い。少なくとも相手の息の根を止めるまでは、肉体的にも精神的にも弱らせなければ必勝はないのだから。
邪悪そのものを思わせる口端の歪みを直さず、八彦は更に罠付きの混乱の発動を考えた。長きに渡って人の心を知悉せんと務めてきた織口は、盲目的なまでの愛に傾倒した人間の強さを挫くにはどうすればいいか、への答えを幾通り知っている。
それは大別すれば三つ――利用するか、圧し折るか、打ち消すかだ。
後者二つの場合、愛情の度合いの見当を誤ると相手の逆上を誘ってしまう。また逆に利用するとなると、よほど傾いていない限りは難しい。つまり前者が成功する場合は後者二つは効果が薄く、後者二つが成功する場合は前者が成功する見込みが薄いのである。
……さて、茉莉嬢の場合はどうしたものかな。
こちらの殺意を撹乱中であるにも関わらず回避し続ける茉莉を目で追い、軽く顎を撫でた八彦は口許を改め顔全体で侮蔑を作った。
あの三年前を思えば、如何するか考える必要など最初から無かったからだ。
対し茉莉は根の壁の上から動こうとしない八彦へと徐々に接近しつつ、どうにか根の槍の突出傾向を掴みつつあった。本調子ならとっくにできていて反撃にも移っているであろうが、真昼以上に辛い今では上出来だ。それに右眼の視界では相変わらず妹がこちらを見ており、全身を苛む激痛は泣きたい程。この状態で全力を出すとしたら、二秒も持たないだろう。
だがその僅かな間だけで勝負に出でもしない限り勝ち目は無いと、茉莉は一呼吸間の熟考の後、理解していた。同じく、二秒あれば十分だという事も。
そして茉莉は教訓を活かし、一切の迷いも無く行動を開始した。
その直後だ。
『茉莉、こっちへ!』
「!」
出し抜けに響いた予想外の男の声が、確かな存在感と絶対的な安心感を以って、茉莉を招いていた。次の瞬間、彼女は迷う事無く本来駆けようとした進路を変更し、声の方目掛けて一歩を踏み込んでいる。
その一歩がどれだけ危険かなどは、他者に指摘されるまでもなく茉莉が一番良く知っていた。踏み出した先は、予想上そこにこそ根の槍が突出するとした場所だからだ。
しかし彼女は一歩を踏み込んでいる。
何故なら、理性や理屈や理知といった正しい認識を簡単に放棄する程に、招いた声の主に全幅の信頼を寄せているからだ。茉莉にとって、その声の主は夫だとか半身だとかいう以上の存在意義を持つ。
だから、あまりにも分かり易い罠に容易く引っ掛かった。無論、八彦が混乱の意気を込めていた事も事態に拍車をかけていたが、それでも茉莉は彼の予想以上に躊躇無く声に従ったのだ。
一歩を踏み込んだ直後、茉莉自身の予想通りに根の槍が足元から突き出される。だが、その根の槍の先が見えるか見えないかの時点で予想外が発生した。なにしろ突き出た槍は一本ではなかったのだ。
その数二十本。一本や二本であれば瞬時にどうにでもできたが、数が数だ。しかも今までが遊びだったのだと確信させる程、個々の突出速度は段違いである。その速度に思わず瞼を伏せそうになりつつも、自分を囲い込むように伸びてくる根の間隔を見た茉莉は、一歩を踏み終えるのと同時に背筋を伸ばした。そんな彼女の目前を掠めるように数本の根が伸びていき、また周囲ぐるりと十二本の根が狭い間隔で囲うように伸び、身動きが取れなくなる。
しかも両腕は根の間から外にはみ出ており、それぞれに蔦状になった根が四本ずつ巻き付いている状態だ。
「しまった、こんな……」
言いつつ根の隙間から窺える範囲で周囲を見る。
当然、この状況を作った声の主である涼平は、どこにもいない。つまり見事に八彦の罠にはまったのであり、危険だと理で分かっていながら、本能的に一歩を踏み違えた自分を茉莉は小さく嗤った。
半歩も動けない領域に封じられ、両腕も自由にならない状況なのに、それでも彼女は自嘲する余裕があるのか。……いや、笑い方からすれば開き直りと言った方がいいだろう。
何せ八彦は茉莉に聞きたい事があると言ったのだ。従って彼には可能な限り殺すつもりは無く、まず自分主導で尋問できる状態にしようとするだろうという予測が成り立つ。そこから彼女は、その通りになると考え、今のような状態になりながらも嗤ったのである。
直後、ぶり返してきた幻痛に膝を折りそうになりながら、茉莉は八彦の声を聞いた。
「気分はどうかね」
壁の上から問い掛け、しかし最初から返事を期待していない八彦は壁から足を引き抜き、飛び下りた。
「手を出してくれるなよ? 今更躊躇は無いのでな」
縁の下の気配に牽制した後、八彦は悠々と茉莉のほうへ歩き始める。今茉莉を囲んでいる根の檻と縛めには、それぞれ背後にある根の壁の分に等しいだけの意気が込められていた。なので例え彼女が毒腐を纏ったところで、そう容易く腐解するような事は無いだろう。例え腐解させようとしたとしても、こちらは根に対し烈火を念じる事で炎上させる事もできるのだ。
安全がほぼ確保されている状況から生まれる慢心を抑えながら、八彦は根の檻越しに茉莉の前で立ち止まった。わざわざここで惑乱を用いるよりは、通常の尋問の方がこちらの手間がかからずに済むし、疲れも少ない。
「さて、問うべき事を問う時だ。素直に答えてくれると互いに苦労が無いのだがな」
槍を肩に担ぎ、自分を睨む視線をものとものせずに八彦は言う。
「まず一つ。何故、今、ここにいる?」
「…………」
「ふむ」顎を撫でる。「では次だ。何故、大王の件について知っている?」
「…………」
「黙秘か。……世俗と違って、ここには弁護士を呼ぶ権利も黙秘をする権利も無い事くらいは分かるな?」
茶飲み話に酷似した調子で言うと、八彦は溜息混じりに槍の石突で地を小突いた。
「っ、く……ぅっ」
ぎぎち、と背筋の寒くなる音を立て、茉莉の両腕に絡む根がその縛めをきつくする。
この根による圧搾によって腕を圧迫され、握力を維持するのも困難な筈なのだが、茉莉は少し声を漏らしただけで他は一切表には出さなかった。
「強情だな。だが次に答えなければ千切るぞ。……他の者等は儂の企みを知っておるのか」
問いと同時に圧搾を再開する。すると茉莉の表情に徐々に激痛への抗いが窺えるようになり、やがて握力を失い玉鉤と朏の双方を落とすに至って、彼女は表情を俯かせた。
ようやく根を上げたか……それとも、と八彦が息を吐いた直後だ。
「っ!」俯いた茉莉の身体に烈火の色が浮かび、「なに!?」彼女を囲い両腕を縛めていた根のそれぞれが、凄まじい勢いで燃えだした。
火柱の高さはあっという間に塀を越え、燃焼材料以上の火力を誇る橙色の光は、内部で何かが爆発したように一瞬で周囲への拡散を見せる。
「これは……ふ、儂にはできんな。大した度胸だ。いくら全盛の力を取り戻しても、老いた頭が変わらなければ劇的な変化は見込めないものか」
火の勢いに軽く退いていた八彦は、目の前の火柱が目眩しだと分かっていた。彼は茉莉が根の壁を打ち破る時に毒腐を使ったので、そこからまた同じ手で来ると考えていたのだが、茉莉が取った行動は根の瓦解ではなく焼却である。下手をすれば自殺になりかねない危険な手だ。
数秒後、八彦の視界の中、火柱の内部で何かが揺らめいた。
来るのか、と彼は覚悟と共に槍を中段に構える。
だが「ぬぉっ!?」彼を覆って尚余る太さと見上げる高さを持った火柱がこちらめがけて倒れて来た時は、危うく思考が止まりかけた。どうにか一瞬で持ち直し、直ぐに横へ跳んで躱した後、地面にぶつかって散乱した炎を無視して茉莉の姿を探す。
しかしどこにも居ない。今周囲に燃える炎の有効性を考えれば、こちらの目を逸らすのに充分な効果を持っている筈だ。炎に乗じて斬り込んで来るものと思っていたが。
八彦は周囲へ豪末の油断も無く気を張り巡らせるが、一切身動きしないのかそれとも逃げたのか、何者の気配も感じ取れなかった。縁の下の猫又は火柱が倒れてきた際にでも逃げたのだろうが、問題は茉莉である。彼女は猫又と共に逃げた可能性と、まだ息を潜め隙を窺っている可能性とがあるのだ。
そのまま実に七分が経過し……動きがあった。視界の隅を微かに過ぎった何かに対し、緊張を要求される状況も手伝ってか、八彦はやや過剰に反応してしまったのだ。そして、その単なる囮の正反対から駆けて来た闇への反応が遅れる事になる。
消えかけの炎に照らされた事で闇が剥がれた彼女に気付き、振り向くも、時既に遅し。
「貰った!」
「っぐ……」
茉莉の持つ朏が、八彦の心臓へと突き立てられていた。それと同時に彼女の身体から撹乱の効果が消え、幻覚と幻痛が消えていくのを実感する。
「……?」
だが、八彦の身体へ突き立てた際の、人体には無い独特な固さを持った何かを割ったような不自然な手応えに茉莉は疑問を抱く。
「く、くくく……く」
「!?」
そして、最期の表情には不釣合いな八彦の嘲笑が今まで以上の不吉を茉莉に感じさせた。
茉莉は朏を引き抜く際に刀身を薙いで八彦の素襖を引き裂く。その時もやはり骨肉以外の固い物を裂く手応えがあり、素襖が裂けた先で茉莉が見た物は、謐が回収に向かった筈の朱月の大皿だった。
「っ、そんな!」
他ならぬ茉莉の手によって亀裂が刻み込まれた大皿は、目を見張る茉莉の目の前で砕けてしまう。
「は、ははっ、ははは、はフ、フヒャハッ、ハーッハハハハハハハハハハハハハハハッ!」
自分がしでかしてしまった事に萎えかける茉莉の前で、心臓を貫かれる事による死を迎えた筈の八彦が突如大笑いをし始めた。老体が発するには不可能としか思えない耳を聾する爆笑に、訝しがりながらも茉莉は間合いを広げようと下がる。
が、すぐに背が根の壁に当たって止められてしまった。
八彦への警戒が解けない以上一瞬でも目を離すのは危険と考え、茉莉は根を背にしたまま磐石の意気を全身に込める。その間も八彦は笑いを止めず、人の肺活限界量を遥かに上回ってなお笑い続け、小康状態になったのは五分は経過してからだ。
「ハハ、ハ、ククッ、あー腹が痛い腹が! しかしよくも、いやよくぞ、よくぞやってくれたよ霊長の娘! ハハハッ」
笑いの中でやっと言葉らしい言葉を八彦が吐いた時、彼が自分を霊長と言った事で茉莉の心に嫌な予感が湧き上がった。お膳立てが済んでいると考えれば、最後の一押しをしてしまったのは誰あろう自分なのだ。
「まさか、まさか……安曇野の大王が、黄泉還ったと?」
搾り出すような声で、茉莉は確認を試みる。
「ッハハハ、その通りだ、その通りその通りよ! 霊長の手によって封じられた我輩の復活は霊長の手によって成ったのだ! 実に清々しい! 全く壮快だ! 愉快痛快極まりない!」
大音声による答えと同時に、八彦の身体から幾筋もの雷撃が周囲に迸った。
「なっ!? これは!」
得物を交差させて念じた防衛法による甲種障壁で咄嗟に雷撃を防ぐが、人間レベルを遥かに逸脱した凄まじいエネルギー量に茉莉は苦鳴を漏らす。常に全力で障壁の維持に努めなければ、そしてもし雷撃が無節操に織口邸や中庭を破壊しのたうっていなければ、一瞬で障壁を破壊されてしまうだろう。そうなれば、とてつもなく痛い目に合う事になる。
「良いぞ! くくッ、これこそ娑婆に出たという実感が湧いてくる! この破壊! この自由! ヒハハハハッ、クク、うむ、なんとも素晴らしい! ……ああ、そういえば名乗っていなかったな。ふむ……では、我輩こそが! そう我輩こそが多貌の王の名を持つ国津神、魏石八面大王である! 畏敬と恐怖を以って絶望に苛まれながら八面大王様と呼べ!」
雷撃の最中に続けられた言葉は、轟音を越えて茉莉の耳に届く。それはある意味では茉莉の危惧をそのまま表していたが、別の意味では理解できないものだった。
先程まで八彦だった男が、皿を砕かれた瞬間同じ姿同じ声で八面大王と名乗る。いつから身体を共有していたのか、いや、ならば何故八彦の時に自ら皿を割らなかったのか。
だがそんな疑問が集中に極僅かな揺らぎを作り、「っ! しまっ――」それを狙ったかのように間髪入れずに横薙ぎの雷撃が茉莉の身体を直撃する。
「ぎゃんっ!」
背後の隆起した根ごと破壊した雷撃の威力に、数瞬気絶しても片膝を突いただけで死にはしなかったのは、茉莉本人の実力と根本的な耐久力による所が大きいだろう。
「くぁ、は、く……ぐ」
茉莉は迸る激痛に耐え、無傷の陣羽織から出ていた右半身の衣服ごと皮膚が焦げているのを術で治しながら、玉鉤を杖に立ち上がる。その最中にもまだ疑問が顔に出てしまっていたのか、八彦の面を皮肉げに歪めた八面大王がまたも呵々と声を上げて笑い出す。
「訳が分からんか、まさにそういう面構えだな、あー…宵月の娘! しかし我輩とて愚かな霊長に啓蒙してやろうという慈悲の心は持ち合わせている。故に言って聞かせてやろう」
雷撃を迸らせるのを止め、自分を睨む茉莉をびたりと指差した八面大王は、何故か茉莉を呼ぶ際に一瞬迷ってから呼び直していた。
「我輩があの忌々しい夫婦に敗れ去る寸前、我輩は肉体にちょいと細工をしておいたのよ。どうせあの莫迦姫では我輩を抹消させる事などできんに決まっておるから、肉体を解体して御魂魄を分離させるだろうと踏んでな。すると見事に的中した訳だが、我輩の細工とはな。後世この八彦のような狂人が我輩を復活させ愚かな事を企むと考えて、我輩の肉体が繋ぎ合わされた際、立ち会った者全員を呪殺し、その中で最も優れた力を持つ者に変化して成り代わるという事よ! どうだ、素晴らしかろう? しかも見事目論見は成ったのだ、さあ称えるが良い!」
誇らしげに胸を張り、刀傷から迸る血に構いもせずに八面大王は笑っている。
戦慄の事実に、茉莉は両手の刀を強く握って心を落ち着かせた。先程彼女を呼ぶ際に言い澱んだのは、恐らく八彦の記憶と八面大王自身の記憶が混線したからなのだろう。
「……だとしたら、あなたは何時から織口翁に成り代わっていたと言うんですか」
「二年前の八月十九日二十三時四分からだ。皿が砕けるまではこの老いぼれの記憶だけで生きていたせいで、何故宵月から盗んだ大皿を砕けなかったのか不思議でならず、血の生贄に走ったりもしたが、ハハハハハッ、砕けなくて実に当然だ。この皿は我のような存在では傷一つ付けられないようになっていたのだからな。お前には感謝の言葉も無いぞ?」
復活の歓喜に高揚した感情をまだ抑えることができない八面大王の前で、茉莉は彼が八彦として長期に渡って外道の徒全体を欺き続けた事実を前に、平静を保つのに必死だ。驚けば隙ができ、それを付け込まれたら刹那で決着が付いてしまう。
「しかし千年ぶりの目醒めだというのに、立会いが宵月の娘一人とは寂しい限り。しかもお前の手でこの身体はもう幾許も持たなくなっている。さて、どう責任を取らせようか」
そこで八面大王の眼差しが下卑たものになり、女性ならば一人の例外も無く性的嫌悪を催すだろうその視線で、茉莉の身体を爪先から頭頂に至るまでくまなく丁寧に視姦した。
思わず足を閉じ胸を腕で防御した茉莉だが、直後ある事に気付く。焦げた右側の袖や裾が風に攫われ、下の皮膚が剥き出しになっていたのだ。最も他者に見られたくはない、顔以上に裂傷が縦横に走る肌が露出している事に気付いた茉莉は、真っ青になった。
「っふ」
八面大王は茉莉の様を見て愉快気に嗤い、そのまま掲げた素槍の先端から殺意の稲妻を彼女に向けて撃ち放つ。
「!」
光速で殺到する光の?に、茉莉は自分から見せた隙を後悔する前に稲妻に呑まれ、幾重にも刺し貫くような激痛を伴った全身の硬直に叫びを上げる事もできず、がくりと膝をついて前のめりに倒れる。起き上がろうにも身体が動かず、又まともな集中もできない。どうやら雷撃のショックで一時的とはいえ脳も含んだ全身が麻痺してしまったようだ。
「カカカカカ! もどかしくも無様だな、宵月の娘!」
どうにかせねばと足掻く茉莉の元まで来た八面大王は、槍を突き立て屈むと彼女の頭を片手で掴み、主に髪を引っ張る形で顔を上げさせた。
「さて、では恩を返す意味で一つ余興を見せてやるとしようではないかな? ふふふん」
何が面白いのかと問うてやりたくなるような笑顔で八面大王は言うと、彼は己の身体を傷だらけの八彦の姿から、布の千切れる音を立てて紫紺の和装に身を包む春花の姿へと変化させる。
一秒とかからずに変化を遂げた八面大王の前で、視線だけは強く彼を見る茉莉の表情が、痺れのせいで引き攣ったような驚愕に染まった。
一旦茉莉の髪から無造作に手を離し立ち上がった八面大王は、身にまとわりついた八彦の千切れた着物を叩き落とす。彼の変化は服装まで自分の薄皮一枚で補うため、必然的に八彦の着物は邪魔となるのだ。
「お……おば、さ…ま……く」
地に顔を打ち付けた際、どうにか顔を横向きにした茉莉は、自分の見上げる先に居る相手を悪夢の権化を見るような目つきで見ている。死んだ春花を貶めるような八面大王の行いが赦せないのだ。
結われていない紫黒の長髪を優雅に靡かせ、八面大王は再び茉莉の頭を掴み上げる。
「ふふ、どう? 茉莉。驚いたかしら」
言葉と共に表情に浮かぶのは、狂笑ではなく、茉莉が良く知る春花の笑顔。記憶にある春花に比べて僅かに老けているものの、本物と比べても遜色ない口調と仕草に、茉莉は吐き気を覚えた。八彦の場合もそうだが、八面大王の能力とは変化というよりは複製と表現すべき域に達しているのだと痛感させられる。
怒りと驚愕に言葉も無い茉莉に、八面大王は困った子に対するような笑顔を向けた。
「あなたには昔から色々と手を焼いたものだけど、宵月に刃を向ける前にもう少し話を聞いてくれても良かったんじゃないかしらね?」
「? ……何、を、言って……」
「別に? ただの遺言の代弁よ。――まぁもっともこれ以上は喋ってやるつもりも義理も謂れも無いから、気になって気になって眠れぬ夜を過ごすがいい!」
言葉の途中で笑顔をがらりと変えた八面大王は、空いた方の手を茉莉の背に当てた。直後に手から雷撃を発生させ、それを浴びた茉莉は、無抵抗に等しい有様で意識を手放す。
稲妻の奔流に身を反らせ、糸が切れたように倒れ動かなくなった茉莉の傍らで、にやにやと満面で嗤いながら八面大王が立ち上がる。
「さて、さて、さてとだ。これから一体如何するかな? ……ふぅむ、くく、ふふふふふ」
一度目の雷撃を無傷で耐えた陣羽織すら焼け焦げ、血肉の焦げた臭いを立ち上らせる茉莉を見下ろした八面大王は、ちょっとした残酷な事を思い付いた邪悪な笑みを浮かべ佇んでいた。
伍 ― 表
視界が速度に歪まない映像を結ぶまでの間、実時間では一秒にも満たなかっただろう。だが光速の中で涼平の体感時間はそれを遥かに上回り、その間たっぷりと味わった焦燥が凪を侵蝕しようと勢力を拡大せんとしていた。
「よし着いた。織口邸前だ」
自分を追い越す突風に吹かれながら、逸隼丸は掴んでいた涼平の腕を離す。まともに足が地に付いていなかった涼平は片膝を突き、数度の深呼吸でまともな現実に復帰した事を深く実感する。
まさか光速に近付くほど時が遅くなるというのを実感する機会があるとは思いもしなかった。
「……のようですね。有難う御座います」
立ち上がり言った涼平に、逸隼丸は軽く頭を振る。
「礼は要らんよ。ところでお前」
「はい」
「外道の者なら多少は我等の知識もあるだろうに、御前については何も分からぬ風だったが」
「えぇまぁ。小松……という名の鬼に心当たりはありませんから」
「……成る程な」
考えた涼平の答えに、逸隼丸は納得した風を見せた。
「では、我はここでさらばだ。機会があればその時こそ飽くるまで闘ろう」
そして、できれば遠慮したい言葉を最後に、鬼は返答も待たず爆風と共に姿を消す。
「……せっかちだなぁ」
適当な方向へ見送りの視線を送った後、涼平は織口邸を囲う塀へ視線を戻す。織口らしい三メートルを越えるいかにも頑強そうな塀は、病的なまでの閉鎖性を感じさせた。
周囲を窺った後、「〝夢譚起動〟」躊躇無く公道で夢を抜いた涼平は、軽く跳んで塀の上に着地する。邸宅を囲う柵のような結界の存在が感じられたが、刀印を天地に切って二百五十六重の螺旋を自分の周囲に張り巡らせた涼平は、悠々と結界の中へ踏み込んだ。
外道の徒の邸宅の結界は、鍛錬や二十年前の緊急時にも外部へ事が洩れないように、視聴嗅の三感覚を外部へ伝えないようになっている。だから結界の内部へ入った涼平は、織口邸が天変地異に見舞われでもしたような、広大な邸内全域に渡る壊滅的な惨状を見て、また多量の血の臭いや何かが燃える臭いも感じられた事で瞳を震わせた。
「馬鹿な、こんな……」
呟きながら涼平は塀から飛び降り、散々落雷を受けでもしたような瓦礫の邸宅は一先ず置いて、まばらな火事によって半端に明るい周囲をぐるり巡ろうと疾風の如く駆け出す。
またも焦燥を感じ、凪を保たせながらも浮かび上がる嫌な予感を止める事ができない。それを増長させるような広大な外周を回りながら油断無く全てを視認する中、見覚えのある猫又が全身の体毛を逆立てた有様で現れた。
「あっ! あっ、今呼びに行こうとしていた所でしたんですよ。どこに霧隠れしてたんですか」
駆け寄ってくる久々野に一旦夢を収めた涼平は、警戒を怠らないまま屈む。
「一体この状況はどうしたんです久々野さん、それに織口氏や茉莉は?」
「いやアレです、ぎ、ぎー、魏石っ、魏石――いや、八面大王が黄泉還ったんですっ! それで、織口の一族は八彦の乱心で全滅したと考えられ、茉莉は八彦に化けていた八面大王と中庭で戦って、最初は勝ったんですけど本性を現した八面大王の不意打ちを受けて、その……」
言い澱んだ久々野に、想像以上の事態に涼平は奥歯を噛み締めて堪えた後先を促す。
「その? どうなったんです」
「その、見ていませんから分かりません。屋敷をこんなにさせた雷撃から逃れるのに私自身本当に必死でしたし、助勢にもならないから涼平を呼びに行こうと」
戦慄が涼平の心の中で躍る。一瞬でも浮かべてしまった最悪の予感を、涼平は強く頭を振って打ち消した。
「分かりました。……久々野さんはこの事を急ぎ鳥獣情報網に流してください。ここまでなっても四天王が乗り込んで来ない所を見ると、恐るべき事に気付かせなかったらしい」
「涼平は」
「聞くまでも無いでしょう」
久々野の問い返しに駆け出しながら応え、全力で中庭へと駆けていく。十年前に一度だけ来た事があるため、大体の方向は確認を取らなくても分かるのだ。その途中で大跳躍し、瓦礫と炎、濃密な死臭と焦げた匂いが漂う空間を涼平は跳び越えて、被害の中心と見て取れる惨憺たる有様の中庭を視認。直後に到達する。
「茉莉っ!」
名を叫び、軽く周囲を見回して、涼平は自分の視覚を疑った。粉々に散った土くれから少し離れた位置に、倒れている茉莉を発見したのだ。
彼女の有様は酷いもので、落雷の直撃を受けたような衣服は所々で焼け千切られたか弾けたかのように無惨な後を残して消え、羽織ですら美しい黒と金の色彩を失って焦げている。そればかりか茉莉自身の肌にも、火傷や焦げのような黒ずみが視認できてしまった。
夢を収めた涼平は湧き上がろうとする感情の滔々たる波を凪で止め、息を呑んでいた自分を叱咤して茉莉の下へ駆け寄る。
「茉莉、茉莉! 大丈夫か!」
近付いてみれば、目を覆いたくなるような怪我の状況が良く分かってしまう。最低限の呼吸は上下する胸から分かったが、弱く頼りない。出血は少ないが見た目以上の苦痛を思わせる赤い火傷に、鞘を解いて茉莉の上体を抱き起こした涼平は、自分の持てる治療術を強く念じ彼女に施し始めた。
茉莉自身の生の意による治癒術が無意識に彼女の身体を治療せんと活動しているが、微小でも後押しをして回復を早める。
まだそれらしき気配が近くにいるのは感じられるが、出てこない所からすると茉莉に倒されたのだろう。即刻襲ってこない八面大王に対し涼平はそう結論付け、周囲に気を配りながら茉莉の回復を心から願った。
途方も無く長く実際は短い時間が過ぎ、火傷の痕が多少緩和されたように見えた時、眠りから覚めるようにゆっくりと茉莉の左瞼が開かれる。焦点を結ばず、数回瞬いたあと視線の先の実像を捉えた彼女の瞳は、見て分かる程丸くなった。
「涼……平……、涼平なの?」
「ああ、そうだ。僕だ。涼平だ。……済まない、突然いなくなった上に無茶をさせてしまって」
心の底からの申し訳無さを思わせる謝罪の言葉に、苦痛で首も振れなかったが、茉莉は薄く涙を浮かべて反論する。
「ううん、私の方こそ、あなたが鬼達との事で大変だったのに……勘違いで余計な事に首を突っ込んで……本当に謝らなきゃいけないのは、私の方」
掴まえていなければ消えてしまいそうな声の弱さに、涼平は「いいんだ」と言って続きを止めさせ、「これからも共に歩む事ができれば」と繋げた。深い安堵を齎すこの言葉に、茉莉は目に溜めていた涙を零れさせてしまい、耐え切れずそのまま数筋の涙で頬を濡らす。
「ところで……八面大王はどうなったんだい? 久々野さんから復活したと聞いたけど」
茉莉は無言のまま、瞳で分からないと返した。
「そうか……ともかく、今は治す方に専念しないと」
そう腕の中の茉莉に微笑んだ時だ。聞きなれた声が予想外の所から聞こえてきたのは。
「だめよ涼平っ! そいつは偽者なんだから、早く離れて!」
「なっ、……え?」
真っ直ぐ前の瓦礫からの声に顔を上げれば、服装上は似たような有様だがかなり傷の癒えたもう一人の茉莉が、朏と玉鉤を手に烈火の意を盛らせ炎を展開しようとしている。
「そんな馬鹿な、こんな事が……」
思わず腕の中の茉莉を見下ろすが、彼女は「向こうこそ、偽者よ」と決死の面差しで呟く。本来ならこの冗談のような状況を打破するくらい、涼平には造作も無い筈なのだ。
何せ茉莉はこの世に一人しかおらず、どれだけ変化の技術に長けていようと本質的には別人なのだから、見破れない事は無いのである。
――少なくとも今の状況以外でなら。
「涼平早く!」
「涼平……!」
二人の茉莉の声に涼平は困惑した。何故なら、二人とも間違い無く茉莉なのだと彼の全ての感覚が訴えているのだ。八面大王の変化の技量は文献にある以上らしく、どうやら完全にその者への成り代わりをも可能としてしまえるらしい。
ただそうと予測した所で対応に窮している事に変わりは無く、さてどうする? と困惑と時間の板ばさみに陥った時、ズボンの感触から一つ思い出した。どちらの茉莉にも一定の警戒を向けながら、涼平は左手をポケットに入れると大豆を掴み出す。
そして、手の中の大豆を双方の茉莉に良く見えるよう指を開いた。
「っ!」
すると元気な方の茉莉が驚いた表情になり、術の展開すら中止して嫌悪も露に後退り始める。
こうなれば後は容易い。元気な方が偽者で、今腕の中にいる茉莉が間違い無く本物なのだ。
本物の茉莉に負担を与えないよう振り被って、「鬼よ、去ね!」と威勢良く大豆を投げる。
偽茉莉の目を狙った大豆は、刀で防ごうともせず背を向け逃げ出した彼女を追い越すと、煎る際に魔力の込められているそれは空中で進行方向を逆進させ、狙い通り偽茉莉の左眼へと突き注いだ。
「きゃあぁぁぁあっ!」
目を押さえた偽茉莉は、そのまま瓦礫上に倒れる。悲鳴も茉莉の声そのままだったため強い罪悪感を覚えながらも、涼平は偽茉莉が眼を抑えて倒れるまで目を離さなかった。
大豆を受けた鬼は視力を失い、また鬼の目は魔の目、つまり魔目であるから、それを大豆で撃てば魔を滅する魔滅へと繋がり、気絶か遁走かのどちらかになるのである。
「……ごめん、本気で分からなかった」
先程とは別の意味で申し訳なくなった涼平に、茉莉は軽く微笑む。
「仕方ないわ。八面大王の変化は、変化と言うよりは複製だもの。大豆が無かったら、見分けられなかったと思う。記憶まで、そっくりものにしてしまうから、尚更…ね」
「八面とは多貌を示す事は知ってたけど……。流石は、と言うべきところかな」
「本当に。余計なものまで見せてくれて――」
治癒が進み大分楽になってきたのか、茉莉が苦笑しながら言いかけた時、
「があぁぁああっ! 目が! 痛いわ! 目がッ! おのれッ! 霊長如きがッ!」
凄まじい叫び声を挙げながら偽茉莉が跳ね起きた。そのあまりの声に涼平も茉莉も唖然となる中、偽茉莉こと八面大王は口汚く罵りながら左眼に指を突っ込んで無理やり大豆を引きずり出そうとしている。既に大豆によって左眼は使い物にならなくなっているが、それでも血涙を流す眼孔に付け根まで指を突っ込むというのは、陰惨で目を逸らしたくなる光景だ。
しかも涼平はそれが愛する者の似姿であり、茉莉に至っては自分の姿である。まさに悪夢だろう。
「く……茉莉、ちょっとごめん。どうやら八面大王は元気なようだ」
「みたい……ね」
八面大王の行為で左眼球の奥に違和感を覚えながら、涼平は茉莉を再び地面に寝かす。
「瞼を閉じていた方がいい。自分でないにしても、斬られる様は見たくないと思うから」
これに茉莉は小さく頷き、素直に瞼を閉じる。彼女に少しだけ微笑みを零した後、涼平は夢と鞘を拾いながら立ち上がった。そして数歩進んで、彼女を護るように仁王立ちの姿勢をとる。
「ぐぐぐっ、あああああおぅッ!」
八面大王の悲鳴のような叫び。鮮血とちょっとした赤い塊と共に大豆が眼孔より掻き出されていき、全て摘出されると同時に八面大王は左眼を再生させた。血涙を流し鬼と称して充分な気迫と鬼気によって作られた視線を、前方に立つ涼平へ存分に浴びせる。
「よもやあそこで大豆が出てくるとは思いもしなかったぞ! 渡辺の末子!」
勇ましく涼平を指を差し、だが八面大王は左眼にたぎっていた悪意を霧散させた。軽い失策をやらかしたように頬を掻くと、俯き溜息めいた吐息を一つ。
「……全く、大豆を持ってくるなんて何を考えてるの? 涼平」
恐る恐るといった風にちら、と視線を上げ、ぼそぼそと言った。
「いや、今更戻されても手遅れだと思うんですが。魏石八面大王」
普通ならここで肩透かしでも食った気分になるのだろうが、凪を纏い臨戦に入った涼平は平然としたままだ。
「…………やはり、か?」
姿勢はそのまま、再びぼそぼそ。
「大豆を思い切り喰らっておいてやはりも何もないでしょう」
静かだが痛烈な言葉と共に、涼平は「〝夢寐揺籃〟」と、夢の刀身を静謐ともいえる程そっと鞘に戻しに掛かる。
「むむ……ああ、えいくそ」やけくそ気味に頭を掻き、八面大王は顔を上げ夜空を仰ぐ。「やはり我輩が横たわる役をやっておくべきだったか。くっ、役者の配置を誤るとはとんだ笑い者だ」
「確かに。そうされていたら、今頃僕の命があるかどうかも分からなかった」
「渡辺の呆気に取られた顔を見たかったとはいえ、負う危険が巨大過ぎたか」
「……ともあれ、茉莉をああまでした事に対する代償は支払って頂きます」
噛み合っていない会話の中で、ゆっくりと確実に刀身が鞘に吸い込まれていく。にも関わらず八面大王は夜空を仰いだまま、ぼそぼそと文句を呟き続けるだけだ。
「しかししかし、呆気ない幕切れは我輩が最も忌むものであるし。やはり覚醒したばかりの所でこういった択一を求むるのは難しいものなのだろうかな」
超集中に入り鬼神へ充分な警戒を敷いている涼平だが、こちらに全く注意を払っていない相手の動向が不可解だった。茉莉の言う通りなら八面大王は茉莉の記憶をも持っている筈だから、今涼平が何をしようとしているかくらい分からない筈が無いのだが。
「ぬぬぬ、千年も眠れば嫌でも鈍るか。……ああ、情けない嘆かわしい。紅葉に見られたらどう罵られるか分かった物ではない、おお怖い怖い危ない所だった」
涼平の視線に晒されながら、八面大王は自分以外を無視しているような有様である。やがて夢の刀身が後僅かという所になり、涼平は刀身が収まりきるのに合わせて呟いた。
「〝極量〟」
途端、顛倒を遥かに上回る数の必殺が込められた技が、夜空を仰いだままの八面大王と彼の周囲にくまなく殺到する。不可視の刃は瞬く間も無く八面大王に触れ、斬り裂き、微塵にし、更に斬り裂いていく。無音のまま幾重に幾重に斬波を受け、八面大王は元が何であるか分からない程細かくなって崩れ落ちた。
荒砂が流れ落ちるのに酷似した音を聞き、仄かな罪悪感を覚えながら涼平は血の海に背を向ける。一歩進むと、茉莉が瞼を開けた。自分を見る彼女に微笑みかけようとした瞬間、彼女の表情が驚愕に染まり、同時に涼平自身も信じられない事実を背後に感じ振り返る。
硬い音が響き渡り、涼平が振り返り様に引き上げた鞘が玉鉤を受け止めた。だが流れるように繰り出された朏の振り下ろしが、涼平の右肩から左腰までに掛けて鋭く駆け抜ける。
「な……馬鹿、な」
言葉と同時に朏が這った道を示すようにぱっくりとシャツが裂け、身体の同線上部分に生まれた刀傷から血飛沫が溢れ散る。背に茉莉の小さな悲鳴を聞きながら、激痛と力が抜けていく薄寒さに涼平は顔を顰めさせた。
涼平の目の前には、血を浴び黒朔の二刀を持った八面大王が居るのだ。
「ッはははぁーッ、全くその通りだな! 真に救い様の無い程莫迦な奴よ!」
どうやら演技は完全に止めたらしく、口調が素に戻っている。
「まさか……あの状態からでも復活するとは」
息を呑む涼平の言葉に八面大王は愉快気になると、刀を引いて自身も数歩下がった。
「はん。お前、鬼への認識が甘過ぎるようだな? 幾らここ千年ろくな鬼が出ていないとはいえ、たかが粉微塵にしただけでこの八面大王を斃せると思っておったのか無礼者め、死刑にして遣わしてやろうか」
「……そう聞いていたんだけどなぁ。まったく、話が違う」
「あ? 誰から聞いたのか気になるが……しかし、あれが夢寐揺籃か。太刀を収める際に相手への斬戟を念じ、その念を太刀に込め、太刀が鞘に収まると同時に名前通りの役目を発揮する。つまり達を収めた瞬間、光と同速で対象を微塵にする斬波が想念に比例する数だけ発生するとはな……よくも霊長如きが、日比金を使ったとはいえ創り上げたものだ! まさに夢見る揺り籠――結果を即死とする事への比喩かね? ともあれ名に相応しい技には違いない。喰らってみるまでまるで信憑性が得られなかった程だ!」
返り血も構わない腕を組みながらの朗らかな笑顔に、流血も構わず右半身になって重心を落とした涼平は夢の鯉口を切る。
「ほほぉ、殺る気なのだな」
「勿論。ここで黙って帰るなんて事をすれば、あなたの特技から考えると危険すぎる」
「道理だな。黄泉還ったばかりで右も左も大して分からんが、玩具が我輩の頃に比べて格段に増えてるのは確かだ。外道の徒からしてみれば放っておけはせんだろうなぁ!」
「ええ、放っておけません。〝夢譚起動〟」
言い切ると同時に相手への視線を渡辺の睨みに変えた涼平は、鞘引きながら超速で夢を抜刀。淡朱の光と化した抜き付けの斬戟が、音速を超えた雲耀の速度で八面大王に迫る。
「!」
ガツッ、と、斬れた訳でも受けた訳でもない妙な音が響いた。
「くッはははははははははッ! 鈍い鈍い、こんなものでは欠伸がでるぞ?」
八面大王が傲然と嗤う。彼は涼平の抜刀からの横一文字を、朏と玉鉤の柄尻部分を使って挟み止めていたのだ。日比金と比べると黒朔は硬度も靭性も数段劣る為、確かに抜刀を止めるにはこれしかない。
これしかないのだが、実際にそれをしてしまうなどと誰が予想するだろうか。
「まさかとは思うがこんなで斬るつもりだったのか? 残念だが掠りもせんぞ、渡辺!」
「それはそれは。では」
驚愕も動揺も全く顔に出さず、涼平は追撃として迅速に左足を踏み込みながら鞘を八面大王の頭に向けて薙ぎ込む。両手を塞いでいるという利を活かし、薙ぎと同時に夢を相手へ向けて押し込むことで、回避を容易ならざる物にする。
これに八面大王は嘲弄を絶やさないまま自ら左に倒れ込んで夢を解放すると、朏の鎬をレール代わりに斬戟を逸らし上げ、鞘ともども難なく躱す。これに僅かに体が泳ぐ形となった涼平に、八面大王は体が地に付く前に玉鉤を地面に突き刺し、夢と鞘が通過した空間へ玉鉤を支点とした腕の力のみで躍り上がる。すぐさま玉鉤を手放した八面大王は、両手で朏を持ち涼平の首筋めがけて薙ぎ込んだ。
対し、涼平は首を落とそうとするその薙ぎを俊敏に退って回避し、直後に踏み込んで着地したばかりの八面大王へ雲耀の突きを繰り出そうとする。だが突きに入る為の一連の動作を超えた速度で、八面大王は朏を突き込んできた。何一つ動きに無駄が無く、また最短の方向性で振るわれている至上の一撃を、涼平は考えるよりも早い本能的且つ極めて強引な飛び退りでどうにか逃れる。
「むむ、今のでさえ躱しおるか。先の一撃で結構胸を深く抉った筈だがな」
涼平の動きに感心しながら、八面大王は間合いを取った相手を意識していないかのように玉鉤を引き抜く。
「まぁ……渡辺の姓は伊達で済ますには重いですから」
胸から血を流しながらも応え、涼平は相手の態度がそう見えるだけの罠だという事は理解していた。なので自分の傷を治癒させるのを優先させる。といっても元々の深さと先程のやり合いですっかり悪化している為、彼自身の施術では簡単に治るレベルではなくなっており、色々な意味で死にたくなければそうせざるを得ないというのが本音だが。
「ふはは、じゃあこれにはどう出る?」
涼平の意図を嘲笑うように聞こえるほど気軽な言葉で、八面大王は掲げた朏の切っ先から涼平めがけて雷撃を放射する。
この必殺の稲光を避ければ後ろの茉莉が無事では済まないという、まさに悪党の攻撃方法。
「むむっ!」
しかし今回は悪党が驚愕し動揺する番だった。何しろ雷撃は涼平に掠る事も触れる事も無く、どこかへ呑みこまれでもしたかのように彼の手前で霧散していっているのだ。
「鎮護螺旋……遠呂知まで防いだ以上、術法は避けていたが……まさか神通力をも防ぎきるとは。防御ばかりはご立派になっているようだな、霊長め」
茉莉の時と同様、耳朶を震わせる雷の轟音の中、八面大王の声は不思議と明瞭に涼平の耳に入る。
「人を舐めてもらっては困ります。……何なら、根比べでもしてみますか?」
爽やかな笑顔で応えはするが、雷撃を無効化している千二十四もの無色の螺旋は、他のあらゆる術法作用を減衰させ無効化してしまう。つまり、鎮護螺旋を用いている間、涼平は自身の傷を癒す事ができないのだ。それでも自身の背後に居る茉莉を想えば、螺旋を張らずに避けるなど論外中の論外である。
だがこのままの状態が続けば、五分もしない内に意識が朦朧とし、やがて出血多量で最悪の結果を招くのを待つばかり。四面から楚歌が聞こえてきても違和感が無い状況だ。
そして、そんな事は涼平の後ろで寝ている茉莉にとっても百も承知。
歴代随一とまで称された涼平の強さを充分に信頼ていたからこそ、今まで術による自己治療に専念していた。だが、相手は極量で刻まれて尚平然と復活するような鬼神である。更に今の状況を考えれば、最早悠長に寝ていて良い状態では断じて無い。
鼓膜を聾する雷音の中、茉莉は即座に自己治療を術による緩やかなものから強制的で容赦の無いものに変化させる。こうする事で治療期間は飛躍的に短くなるが、代わりに身体が順応するより速く治しきってしまうので基本的に身体に悪いし、予期せぬ幻痛等の後遺症が暫く残ってしまうのだ。
茉莉はゆっくりと上体を上げ、巻き戻しでも掛かっているかのように治り塞がり元通りになっていく怪我と服の数々を見下ろしながら、完治した皮膚にそれでも裂傷が刻まれたままなのに少し溜息を付く。
「涼平? 大丈夫?」
立ち上がりながら、見かけ上は涼しげに雷撃を喰い止めている夫に声をかける。
「んん、あんまり大丈夫じゃない。けど……ごめん。大口を叩いてしまったみたいだ」
自分の状況を感じさせない口調で苦笑した涼平に、くす、と微笑んだ茉莉は螺旋を踏み越え背中合わせで立った。
「私が起きてから謝ってばかりね。……あなたらしくないわ」
「……本当だ。中々情けない。……全く、渡辺に生まれながら有言実行すらままならないなんて……僕はまだまだ脆弱だ」
「相手が相手だもの。一人じゃ無理よ?」背を浮かし、次の為に重心を落とす。
「そうだな……じゃあ、攻めるとしよう」鞘を腰に結び付け、両手で夢を構える。
雷撃の向こう、八面大王がこちらの空気が変貌した事に気付いたが、構わず夫婦は瞼を閉じ――互いの呼吸と鼓動の調子が合わさった瞬間――揃って瞼を開くや、動いた。
涼平は雷撃を呑み込みながら真正面へ突進し、茉莉は半円軌道を描くように姿勢低く鋭く駆ける。さながら一つの意思の下で動いているかのように、二人の動きに乱れは無い。
「むっ」
刹那だけ、八面大王の視線がそれぞれの方向へ泳ぐ。そしてその隙を突いて、雷撃が茉莉を標的にする前に涼平が八面大王へと全身全霊で斬り込んだ。右腕一本の時とは根本的に何もかもが違う、対人では在り得ない鬼斬りの一閃。
こればかりは挟み止める訳にも行かず、雷撃を停止し八面大王は後方へ跳び退る。
が、跳び退った所で予測済みだと言わんばかりに茉莉の炎が撃ち込まれる。しかもそれは極小の焔玉が、十指の先から機関銃のように高速連続発射されるものだ。
「ちいぃッ、今ここで〝螢狩〟か! 極めて面倒な!」
八面大王は玉鉤を振り抜き、刀身と剣圧で先頭部分を弾くと、瓦礫を盾にするためほぼ全壊している織口邸へと駆け抜ける。その後を追う焔玉は、小さく儚げながらも威力は鉛弾と遜色なく、地面も瓦礫も快調に抉っていく。それでいて火の役目も果たす為、茉莉と八面大王を結ぶ線上において、燃え残っていた可燃物は容赦なく炎の餌食になっていた。
「えいこのっ、鬱陶しい!」
悪態を吐きながら、姿勢を低くした八面大王は起伏の激しい瓦礫の上を事も無く駆けていく。手の二刀を振って十の火線を逸らしながら、火線の元へ雷撃を迸らせる。大威力且つ光速である雷撃は、受けこそすれ躱す事はまず不可能。だが雷撃が迸った後も、十の火線は相変わらずこちらめがけて音速で連射されている。
不審に思って視線を上げれば、腕を広げて走る茉莉の前方で涼平が並走していた。今は傷の治療に専念しているが、先程の雷撃は彼が鎮護螺旋で消し去ったのだろう。二人は付かず離れずでこちらとの距離を維持しており、しかもこの距離は隙一つでいつでも詰められる最悪の距離だ。これでは茉莉の烈火の意が途切れるまで、下手な動きは一切できない。知っていたが、実際に相手になると否応無く相手の阿吽の連携の威力が染みる。
「でぇいっ、面倒だが力尽くで行かせて貰うぞッ!」
叫び、八面大王は防御を捨てて涼平達めがけて一直線に駆け出した。
「むむむ……ちと不味いな」
涼平達と八面大王の間で膠着状態が続く様を、御坐から視ていた小松は腕を組んだ。彼女の態度に右翼の逸隼丸が目線を向けてくる。その反対側、左翼に座する筈の謐は、光輪車に戻ったものの自室に引き篭もったまま出てくる気配は無い。
「……如何なさいました、御前」
「いやな、織口の老いぼれが家人を贄に捧げおったせいで、魏石の阿呆が僅かだが力を取り戻しておる」
「何と! では見立てが誤っていた事に……。すると渡辺夫妻が危険では」
目を剥いた逸隼丸に、小松は頷く。
「うむ、まず勝てはしまい。今の所は善戦しておるように見えるが、時と共に覆されよう。まぁこれでは始めからあ奴等に魏石を斃す事は不可能か。よもや御魂魄以外は二年以上前に復活しておったとは思いもせなんだし。……真、此方は奈落と違って予想がつかぬ」
口許に手をやった小松は、くくくくく、と場違いな笑みを零す。
その目、その口、手付きから小刻みに揺れる体全体の動きまでが全知的生命を虜にする魅力を持っていたが、逸隼丸の自制が効いている間に小松は素に戻る。
「こうなっては、霊長の事は霊長に片付けさせねば成らぬなぞと言っておる場合ではないか。魏石が野に放たれれば、万の被害が出るのは間違いあるまい」
言い、片膝立てた後に立ち上がった小松は柏手を一つ。
どこからともなく落ちてきたのは、実用性が皆無かと思われるほど長い矢羽を持った三本の矢と、見た目は何の変哲も無い梓弓。それらを受け止めた小松は、長い矢羽の先を畳に垂らし、懐かしそうにそれぞれを見つめていた。
「……御前ご自身が、赴かれるのですか」
矢を極力視界に入れないようにしながら逸隼丸が言う。すると御前は僅かに目を丸くし、逸隼丸の方へ顔を向ける。
「何故行かねばならんのじゃ? これをくれてやれば済む以上、妾が一々出張る必要などどこにも無いし、そも妾自らがあの変態を潰すのであれば、元からあの夫婦に出番は無いわ」
「ごもっともです、申し訳有りません」
「いくら妾が霊長を愛しておっても、過保護に繋がるとは限らぬ。まあ、良いじゃろ。しかし、お前が早合点とは珍しいな……ああ、さては」言葉の途中で、小松は突然悪戯心に満ち溢れた目付きになった。「ふふん、渡辺のが気に入ったか?」
「はっ? ……あっ、いや、その」
図星を刺され、逸隼丸は全く意味の無い手振りまで交えて何か言い返そうとするが、根本的に上ずっている為まるで効を奏していない。
「っははははは、分かり易いなお前は」
図体に似合わない逸隼丸の情けなさに、小松は思わず笑ってしまう。そのままばつが悪そうに口を閉ざした逸隼丸の前でひとしきり笑った後、何事も無かったように素の表情に返った小松は、「さて」と呟き手に持つ弓矢に視線を戻した。
「問題は何時寄越してやるか、か。あまり早くてはつまらんし、手遅れでは話にならん」
「確かに。ですが、それを以ってしても魏石に止めを刺すのは……」
「うむ。不可能じゃな」
逸隼丸の言葉に、小松は弓矢から視線を逸らさずあっさり応える。
これに逸隼丸は思わず口を開きそうになるが、その前に小松が続く言葉を口にした。
「であるから、これを授けた後、矢を受けてくたばった魏石を此方で引き取れば良かろう。後は光輪車の奥底の岩戸にでも放り込んで蓋をして……そうさな、忘れてしまえば良い」
小松は最後にくっくっ、と愉快気に笑みを零す。
「実に適切な処置と存じます」
「じゃろう?」
逸隼丸に応え、ではではと小松は涼平達の方へ視線を戻した。
「んん……そうこれるのか。鬼はほとほと出鱈目だな……茉莉、下がろう」
返事を待たず、涼平は八面大王へ正面を向けたまま後方へと蹴り下がり始める。返事もしないまま彼と同じくに下がり始めた茉莉は、十指は的確に向けたまま信じられないものを目にしていた。何しろ、八面大王が叫んだ後口許を歪めたかと思ったら、そのままこちらへ向かって真っ直ぐに駆けて来ているのだ。
当然一挙動に付き盛大に焔玉が激突し、八面大王は血煙と炎に包まれる。だが直後に八面大王は今自分が取っている姿に再変身。そして炎に巻かれた部分を脱皮するように後方へ捨て、何事も無かったかのように走ってくる。そこにまた焔玉が叩き込まれ――とにかく何があったのか、突如として八面大王は凄まじく強引な方法で間合いを詰めに来たのだ。
口許にとてつもなく楽しそうな笑みを浮かべる八面大王が、徐々に迫ってくる。茉莉は足を狙い始めたが、それでもバランスを崩す前に変身し無傷となるので、意味が無い。おそらく、間合いに入った後どこをどう斬った所で、変身されればやはり意味が無いのだろう。
「…………」
もはや時間の問題となった状況の中、ようやく傷が塞がった涼平は一瞬だけ後ろの茉莉へ視線を飛ばす。そして裂帛の気合と共に瓦礫を巻き上げる程の一歩を踏み出し、焔玉を従え猛然と八面大王へ駆けた。どうせ来るのなら、こちらから攻めた方がいいと判断したのだ。
そして一瞬の目線から彼の意図を汲んだ茉莉は、烈火の意を右腕のみに集中させ、螢狩の効果を左手から消去。そして左手を掲げ、毒腐の意を込めて見るからに毒々しく巨大な紫珠を創り出し始めた。
茉莉は涼平の斬戟を二刀で往なす八面大王を一睨みし、人一人なら充分呑み込める大きさとなって完成した巨珠を投げ付ける。
客観的に見れば、巨珠は涼平の背めがけて投げられたようにしか見えないが、目標方向に居る涼平は自身にそれが当たる直前で火線の反対側へ身を躍らせていた。
「おっ――」
涼平の動きに合わせて目線を動かしかけた八面大王は、目前に迫る巨大な紫珠に両目を見開く。すぐさま螢狩の只中に飛び込んで、玉鉤を振りながら毒腐の塊を回避。両方へ雷撃の報復をしながら、瓦礫やら木材やらが溶ける嫌な音と臭いに顔を顰めた。
原因は見るまでも無く分かる。巨大な紫珠、即ち〝腐爛〟と称されるそれが、己に触れた物体を喰い散らかしているのだ。自然消滅するまでは施法者でも止める事はできない。
だが腐爛であっても、先程までと同様変身して逃れれば済む問題である。だが茉莉の記憶があんなものを喰らうのは真っ平だと判断しており、その判断に引き摺られた事に、目覚めたての自意識よりも取り込んだ他者の記憶の方が材料として勝っているのか、と八面大王は新鮮な思考材料を得た。千年前の隆盛時には思いもしなかった事態だからだ。
「ぁあっ!」
そこへ涼平の気合が聞こえてくる。
「っ」
しまった考えている場合ではないではないかと八面大王は思い直したが、鋭く短い風鳴りの音がし、既に彼の視界は派手に回転していた。
「――?」
くるくると回る回る視界。手足の自由が利かないところからすると、どうやら涼平に首を刎ねられたらしい。それを裏付けるように、夢を振り切った涼平の姿や首の無い身体が何度か視界に入り――後頭部から綺麗に瓦礫に激突した。
必然的に夜空を見上げる事となった八面大王の視界に、寒々しい蒼色を身体に浮かべる茉莉の姿が目に入る。
何が起こるか、というか何をされるかを八面大王はすぐに思い至り、彼女を睨み上げた。
「よさんか、無礼者めが」
生首一つだろうと、鬼であれば喋る事に不都合など何も無い。
「イ・ヤ・よ。私の顔、私の声でそれ以上狼藉を働かないで」
茉莉は嫌悪を露にしながら、自分そのものな生首と首無しの身体にそれぞれ掌を向けると、冷凍の意を存分に込めて周囲の瓦礫もろとも氷付けにして封じ込めた。
鬼神程の相手を封じるのに使われた事はないが、それでもこの〝氷獄・八寒ノ肆〟の内部は壮絶な冷凍力で零下五十℃以下もの極低温を誇っている。そう易々と突破はされないだろう。
「……ねぇ涼平」
術の完成を確認した後、茉莉は溜息交じりの声を涼平にかける。
いくら必要な措置とはいえ、夫が自分の首を刎ねるのを客観的に見せられたり、その結果となる二つのモノを手ずから氷に閉じ込めたりするというのは、精神衛生上とても良くない。ぼんやりと自分を見つめてくる自分の生首なんて、今後何回かは夢に出そうだ。
「ん?」
「こんな事しても時間稼ぎにしかならないと思うんだけど?」
如何な氷獄とて、いつまでも凍結し続けていられる程のものではない。
「うん、そうだね」軽く返事をし、涼平は茉莉の隣まで歩いてくる。「けれど、この二つが八面大王であるという明確な証文を残しておけば、すぐにくるだろう四天王直属の監査の面々も分かってくれるだろうし」
そして、氷獄に封じ込む前に取り戻しておいた鞘入りの朏と玉鉤を茉莉に手渡す。
「……それもそうね」
二人とも、何故四天王の監査が入るのかに関し、認識の相違がある事に気付いていない。
「でも涼平、だったら何で最初から逃げの一手を打たなかったの?」
「んん? ああ、実は逸隼丸殿経由で小松前に八面大王の始末を依頼されててね。君の安否を確認するついでに引き受けたんだ。夢寐揺籃で大丈夫だろうと言われたせいも少しあるけど、流石に安請け合いし過ぎたみたいだ」
頭を掻いた涼平に、茉莉はまったく、と柔らかく微笑む。涼平もそれに応えるが、すぐに表情を引き締めた。
「でも極量でもって粉微塵にしても効果が無かった上に、あんな強引な方法まで見せられては……僕らでは八面大王を――いや、旧き鬼を絶対に斃せはしない。人類は、知略以外で彼等に比肩するにはまだまだ足りないようだ……」
やや気落ちする涼平に、茉莉は元気付ける意味も含めて笑顔を見せる。
「別にいいじゃない、涼平。そういうのはもう今の私達には関係無いもの。それに、ここ三年自衛以外は殆ど武器を握っていないし、技術も最低限の鍛錬だけで他は普通の人と変わらない生活をしてるんだもの。まだまだの言い訳にはちょうどいいんじゃないかしら?」
「言い訳かー……」言いながら涼平はやや悄然とする。「でも、事実だしなぁ」
「そうそう。夜も白んでくる頃だし、久々野を呼んで早く帰りましょう」
ね? と軽い念押しをする茉莉を前に、「そうだね」涼平はどこか諦めの感情を窺わせながら頷いた。
その時だ。
「おいおいおい……どこへ帰るというのだ?」
唐突に聞こえてきた言葉に、涼平の動きが止まる。
また、彼に背を向けかけていた茉莉の動きも止まっていた。
振り返った彼女が涼平を見るが、彼もまた眉根を寄せて辺りに視線を走らせている。となると先の言葉――つまり涼平の声でなされた疑問は、今ここにいる二人のどちらも発してはいないという事だ。
そして、茉莉は見た。ほぼ同時に涼平も同じモノを目にしている。
八面大王の首を刎ねた際に散った血液が集まり、形となっていくのを。
「このっ」咄嗟に茉莉が血を蒸発させるために烈火の意を迸らせかけるが、「ぁ、れ?」
実際に彼女が起こした行動は、がくりと膝を突く事だ。そのまま前のめりに倒れるのを涼平が支え防ぐが、蒼白となった茉莉は自分の力で上体を起こす事も出来なくなっていた。
「茉莉……まさか枯渇したのか?」
「……みたい」
涼平の問い掛けに辛いながらも申し訳無さそうに答え、辛さに顔を顰める。
この場合の枯渇とは、魔力を使い切ったという意味を指す。更にはこの状態で、もしくは力の現在量に見合わないような術法を用いようとした際、不足分を勝手に霊力が補おうとする。霊力とはつまり生命力であり、これが枯渇すれば当然死んでしまうし、減少するような事があれば確実に身体に悪影響を及ぼしてしまう。
普通は覚悟の上で霊力を魔力に転換するのだが、枯渇していたと気付かずにやってしまった茉莉は、不意打ち気味に脳を掴まれ心臓を握られるような感覚を味わったのだ。
「こんな、初歩的な過ちを――」
苦しくも悔しそうに言う茉莉の唇に、涼平は人差し指の腹を当てる。茉莉の言う通り、自身の魔力量を量り違えるのは素人のやる事なのだ。これは偏に、三年間真っ当な鍛錬をしていなかった事実と、遠呂知を始め次々と高度な術法を用いたのが原因だろう。加え、相手が非常識過ぎるという点も判断を誤らせるのに一役買ったに違いない。
再び涼平に庇われる形となった茉莉は、正座を崩した座り方で項垂れている。
そして、彼女を背に立った涼平の眼前では、結集し増幅した血液が人の形を取り終えていた。
「……茉莉の次は僕ですか」
涼平の言葉の通り、今の八面大王は彼の姿を取っている。
「すると、遊びは終わりだとでも?」
「応ともよ。だが、他に聞く事があろう。例えるに、そう――何故だとか何故だとか」
氷獄に閉じ込められた首なしの身体を眺めながら、八面大王は人差し指の爪で氷をかつかつと小突き始めた。にやにや笑っている様から察すると、氷の中身を捨て置いてどうやって新たに身体を得たかを聞かせてやりたいらしい。なので涼平は期待通りにした。
ただし、八面大王の誘いに乗ったのではなく、時間を稼ぐためである。
「御魂魄と、一欠片でも自分の肉体があれば、あなたは幾度でも復活し自由に変化するのでしょうか。むしろそうでなければ、わざわざ分断した上で八寒ノ肆に封じた身体に何某かの動きがある筈ですし、無い所からするとあれはもう抜け殻に過ぎ……どうしました?」
氷に手をついて項垂れた八面大王に、妙に饒舌な涼平は言葉を中断させた。
「……いや……お前。まさか知っておったんじゃあるまいな」
「まさか。ですがあなたが今この場面にきて茉莉とは別の姿に変化した事から、もう少し推測が可能です。そうですね……変化するのなら、可能な限り最も優れた姿を取る筈。なのにあなたはあなた自身ではなく僕の姿を取った。この事から――大胆に述べれば、あなたはまだ本来の力を全て取り戻すまでには至っておらず、今現在変化可能な中で最も優れた姿を取らざるを得なかった。そして変化する為に必要な条件。これも大胆不敵な物言いになりますが、相手の身体の一部分に触れる事が条件なのでしょう?」
一旦区切り、涼平は刹那だけ茉莉の様子を伺う。彼女はまだ肩を落としたままだった。
霊力は緩やかな自然回復に任せる他無い為、どれだけの量をつい使ってしまったかで再び立てるようになるまでの時間が変わってくる。寿命が削られるような量でなければ良いのだが。
何にしろその時間が分からない以上、推論でも何でもとにかくできるだけの長口上で時間を稼ぎ、彼女の安静を保たなければなかった。八面大王がこちらの意図に気付いたならば、即座に夢寐揺籃を放ち、危険を承知で茉莉を抱えて遁走する他ない。
凪を維持し、内心の動揺などおくびにも出さず涼平は言葉を続ける。
「そしてその一部分とは、恐らく血液辺りでは? いくら何でも視覚情報だけで記憶まで得るような真似は不可能と思いますし、血液ならば暴論ですが御魂魄の欠片と言えます。多少の記憶を得ることも不可能ではないでしょう。ただそうなると長くて――」
「一年だ。一年のあらゆる記憶を得、我輩はその者の力を得る。もっとも、御魂魄に馴染んでおらぬ真新しい記憶なぞ知った事ではないがな」
うんざりした様子で、氷に凭れる八面大王は涼平の長口上に口を挟んだ。
ただ、いくら鬼でも彼は思った事や答えを素直に、しかも余計に口に出し過ぎだろう。逸隼丸もその傾向があったが、そんなだから人間如きに退治されてしまうと分かっていないらしい。ひょっとしたらわざとなのかもしれないが、その可能性は薄いだろう。
「……そうですか。では――」
勢いを削がれた形となり、再び涼平は喋り出そうとしたが、
「もう良い黙れ沢山だ」
怒気を孕んだ八面大王の言葉がそれを止めさせた。
涼平としては、今日の出来事を八面大王が知っているかどうかを探りたかったのだが。ただ顔見知りであろう小松の事をおくびにも出さない辺り、どうやらここ数日の出来事は知らないものと判断できそうだった。
「お前の記憶も持つ以上、お前が何を考え突然そうも饒舌になったかは察したわ。ようやくな。珍しく滔々と喋り出すから一体何事かと思っておったが……そう易々と事が運ぶと思うたか! 全くもって小賢しいぞ渡辺がぁッ!」
大音声と共に八面大王から逸隼丸を上回る大裂帛の鬼気が発散され、大気の壁と化した烈風が爆音を伴って盛大に吹き散らかされる。彼の間近にあった氷獄はひびの入る間も無く中身ごと粉々に消し飛ばされ、螢狩や雷撃による火事も瓦礫もろとも吹き飛ばされた。
涼平もまた咄嗟に茉莉を抱きかかえた所で烈風に飛ばされてしまう。飛来する瓦礫等から夢を縦横に振って身を護り、かなりの浮遊感の後、瓦礫の海へ膝と足首を柔らかく使ってほぼ無衝撃で着地した。
「く、今のが八面大王の本気と言う訳か……? 無差別極まりないな……っ」
飛ばされる直前に涼平は自分から飛んでいたお陰で大した事にはならなかったが、それでも着地後顔を上げた先の視界には息を呑まされる。近く瓦礫の上に立っていた筈の八面大王が、今は遠く地面の上に立っているのだ。しかも爆心地に立っているかのように、彼の周囲はすり鉢状に陥没している。
「……なんて事」
「全くだ。意気の発散だけでここまでの事を起こすとは」
それらを見て、涼平も茉莉もそれぞれほぼ無傷である事を確認し確認しあった後、幸運だったと揃って息を吐いた。――そこへ無粋な大声が割り込む。
「さぁてさてさてさてさてぇ! 一体どこへ飛んだかな霊長共! あー……んー、そこか? そこだな、そこに相違あるまい、よぉし、死ね」
大声と共に、八面大王は正確に涼平達の方へ雷撃を集束発射する。先程までのような放射とは違い、指向性と纏まりをもった雷撃は激しい音と目も眩むような光を発して邁進してきた。
しかもその軌道は何のつもりか瓦礫を鋭角に避けたもので、丁寧にも純粋に最速で涼平達のみを狙ったもののようだ。
「なにっ……」
ただ無造作に放たれた雷撃は今までとは比にならない程速く、涼平が反応する前に視界を光で埋め尽くした。螺旋も間に合わないと悟った涼平は、亀にも劣る早さで身を乗り出し、僅かでもいいから茉莉を護ろうとする。茉莉は何もできない自分に歯噛みし、左瞼をきつく閉じた。
雷撃が直撃すれば、凄まじい灼熱感と激痛が全身を苛み、いや、そういった感覚が全身に至る前に気絶してしまうだろう。
雷撃の威力を目算すれば、そのまま間違い無く死ぬ事になる――
「おっと、これはいかんな」
小松は手早く拍手を打った。
「……な、これは……一体?」
――筈だった。だが雷撃は涼平達に届く前に霧散しており、今涼平の視界を占めているのは瓦礫に横たわる梓弓と、それの弦と弓身の間に突き立つ三本の矢。矢の方は何故だか矢羽が節だっており、しかも不自然に長い。儀礼用か何かだろうが、一体何故今ここに?
涼平の声でそっと瞼を開いた茉莉は、視界に入った物品に目を丸くした。
「! これ、この矢って……もしかして、でも、なんで?」
「茉莉。……知っているのか」
微弱な茉莉の声に応えながら、涼平は追撃の対応と目の前の物品の存在を気取られない為、即座に千二十四の螺旋を張り巡らせる。
「ええ。……というか、涼平、分からないの?」
「……ごめん」
知っていて当然、と言わんばかりの茉莉の言葉に、涼平は小さく肩を落とす。思えば刀ばかり振っていた分、知識的な面で多少疎いのは確かなのだ。
「もう。……それは、恐らく八面大王の唯一にして絶対の弱点、十三節ある山鳥の尾で作られた弥助の矢よ。弓の方は……特に何でもなさそうだけど」
丁寧に茉莉が言い終えた直後、追加の雷撃が閃光と大音を伴って飛んで来る。ただ、今度は距離があったのと、二発目という事もあり鎮護螺旋を張る余裕があった。
これで涼平は相手がまだ弓矢の存在を知らないものと断定する。分かっていれば、こんな螺旋で防がれる雷撃以外の手段を用いる筈だからだ。
「そうか……しかしそんな物がこのタイミングで現れたという事、それに同時に雷撃を散華させた事も考慮すると、小松前の計らいの可能性が一番高くなる」
雷撃による激しい明滅と轟音の中、うるさそうに茉莉は涼平の耳元へ口を寄せた。
「そうね、あなたに八面大王を斃すよう依頼したんですもの。斃せると高をくくっていたけれど当てが外れて、お詫びのつもりなのかしら。……最初からくれればいいのに」
「んん、まぁ何にせよこれで解決の糸口が掴めた訳だ。……動けるかい?」
茉莉の当然とも言える愚痴に苦笑しつつ、涼平はやや遠慮がちに問う。
「そろそろ……大丈夫、かな?」
応え、茉莉はゆっくりと涼平の腕から離れ、彼の後ろに立った。問題ないのを確認するように、数度足踏みする。
「うん、大丈夫」
「良かった。じゃあ僕が隙を作るから、上手く射ってくれ」
「私が?」
言ってから、茉莉はしまったと思った。確かに武芸の腕で言えば茉莉より涼平の方が明らかに上。だが今の彼女に囮ができるかといえば、できる訳がない。
「いえ、分かったわ」だからすぐに言い直した。「……でもお願い。無茶は、止めてね?」
「ああ、分かってるよ」
頷いて、涼平は螺旋を維持したまま瓦礫から飛び出し、八面大王の方へ駆けて行く。
砂塵を巻き上げ、足音も高く、わざとその身を曝け出すように。
「おっ」
これに三度目の雷撃を放とうとしていた八面大王は感心したような顔つきになり、遮蔽物の何も無い空間に涼平が出た所で口許に嘲笑を浮かべた。
「おぅおぅ随分早いな、んん? 供養は済んだのか? 略式だと後で出るぞ?」
蔑みでしかない言葉の意味を理解できず、また何故そんな事を言うのかという意図も読めず、夢を携えたまま駆ける涼平は取り敢えず無反応を押し通す。この対応に八面大王は増々嘲笑を強くし、間合いに入るなり袈裟懸けに斬り込んで来た涼平の斬戟を軽く躱した。
「ふぁははははッ! 流石に太刀ゆきも曇るか!」
二戟目三戟目も軽々と躱す八面大王の動きは、まるで最初から涼平の動きが分かっているとしか思えない。微かに焦りを覚えた涼平の耳に、嘲弄に続いて先程の意味と意図の答えが届く。
「全く温いな! だが自らの妻を盾に始めの雷撃を防ぎ、そして二撃目は悠々と螺旋を張って逃れたのだ! であればそれくらいは納得できようなぁ! それにしても、っはーッ全くもって渡辺には恐れ入るわ! 我等を屠る為ならばあらゆる手段を厭わぬ、それが例え道を踏み外す原因となった愛妻であろうともだ! 我等とて到底真似のできるものでは無いわっ!」
こちらの攻撃全てを躱しながらの言葉に、成る程と涼平は納得する。八面大王は意気発散の後の雷撃を凌いだ事に対し、そういう解釈をしていたようだ。
確かにそうなった可能性はある。涼平はその事を否定しない。
だが現実は異なるのだ。しかしそれを八面大王のように事細かに口に出す必要はない。
ならば。
見事としか言い用の無い紙一重の回避を見せ続ける八面大王の思うとおりにしてやれば良いだろう。幸い、どういう設定かは八面大王の口から馬鹿丁寧に聞かされているのだ。
だから涼平は、即座にその通りだったものとし己の心に言い聞かせる。ただし、盾にしたのではなく止める間も無く盾になってしまったという修正を加えて、だ。
「…………くッ」
すると、思い込んだだけでいとも容易く心の凪が吹き飛んだ。
「貴様、それが……っ、それが! 齎した者の言う言葉かっ! 赦せんッ!」
自分でも驚くような怒号を発し、勢いばかりで目も当てられない刺突斬を連続して放つ。
「はーぁはははははッ! 凪を失うか、凪を失ったか! っははははは余程頭に来ておるようだなぁ! 大人しく背を向けておれば生き長らえたものを、弔いのつもりかこの痴れ者めが!」
八面大王はげらげら嗤いながら、凪時とは比べ物にならない程単調且つ雑になっている涼平の刺突斬をひょいひょい躱していく。何しろ涼平の記憶を得た時点である程度太刀ゆきの予想がついている為、いとも容易く躱す事ができるのだ。
「くぅっ、おのれぇっ!」
制御できない激情にあえて身を任せ、涼平は絶対に当たらないと確信しながらも力ばかりが先行した技術性の欠片も無い斬戟を幾度も繰り返す。
「甘い甘い、そんなでは児戯にも劣るぞ!」
腰に手を当て余裕綽々で涼平の攻撃を躱し、下右右左と来た所で八面大王は半歩退くと見せかけて高速で前進。五連戟の最後である上段振り下ろしを、迎え撃つように伸ばした右手で、柄を受け止める形押し止めていた。
「なにっ!」
鞘を握る自分の右手と左手の間に、八面大王の右手が存在する。この状況に、涼平は信じられない、といった表情となった。
「もう良かろう? 我輩とてお前に続いて外道の徒の尖兵共と殺り合おう等とは思わぬさ!」
言って、八面大王は攻撃を受け止める右の拳を捻りながら内側へ引き、涼平の上体が少し泳いだ所に鳩尾へ左掌底を容赦なく打ち込む。凄まじい威力の一撃に涼平の身体は宙を舞い、掌底を打ち込んだ姿勢から間を置かず駆け出した八面大王の手には、奪い取った夢がある。
「っが!」
激痛と縦回転に見舞われながらも、どうにか姿勢を制御して足から着地しようとした涼平だが、それに追いついた八面大王は彼の片足を引っ掴んで容赦なく引き上げた。咄嗟に涼平は両手で後頭部を守るが、瓦礫に背中から叩き付けられる形になって受身もままならない為、新たな痛みと共に数瞬息が詰まる。そして ――
「クク、我輩の勝利は必至たるものになった訳だ」
涼平が呼吸を取り戻す前に右足で彼の胸を踏み付け、さらに喉仏に夢の切っ先を付きつけて、八面大王は爽快感溢れる満面の嘲笑を浮かべていた。
対し涼平は苦鳴を上げながらも、八面大王が自分に全神経を傾けているのを感じて内心ほくそ笑む。涼平にとって絶体絶命の状況だが、それは八面大王にもいえる事なのだ。茉莉が矢を射るまで時間を稼ぐ事ができれば、それで良いのだから。
「く、な、何故だ。何故、同じ姿でああも貴様の方が力強い?」
だから、涼平は睨み上げながら言葉を吐く。時間稼ぎと、自分の好奇心の下で。
何しろ八面大王は蛇口を捻るようにして、軽々と涼平の両手に支えられた夢の柄を回転させたのだ。おかげで直後の掌底への対応が遅れている。
「下らん問い掛けだな。が、折角だ。黄泉路の供の代わりとしてこの魏石八面大王様が哀れな霊長に啓蒙してやろうではないか! 確かにお前の言葉通り我輩はお前と同じ姿だ。だがな、持てる力はお前のものだけではないのだよ。……賢明なお前の事だ、もう分かったろうかな?」
「……くっ」
つまり涼平が持つ力の他に、茉莉や八彦の力も合わさっているという事なのだろう。加え涼平は知らないが、八面大王は春花にも変化している為、実に単純に、勝てる筈が無いのだ。
「では葬送ってやろう。普段なら陵遅が如く僅かずつ切り削る所だが、一思いだ。感謝しろよ?」
そう言って、八面大王は夢を緩々と振り被った。涼平の身体は踏み締められたまま動けず、このまま夢が振り下ろされれば簡単に首が刎ねられてしまうだろう。
「ぬ? ……ぐぅっ」
好敵を今まさに葬らんとした八面大王だったが、征服感に満ちていた彼の心に突然氷が捻じ込まれたような感覚に襲われる。
しかもその感覚は初めてではなく、二度目のもの。全盛を誇った千年前の最期の日に味わった、不可避の終焉に対する純粋な恐怖だ。
――そして、実際に瓦礫の影から茉莉が八面大王を狙っていた。彼は彼女が死んだものと思い込んでいる為、自身の破滅の予感はすれども何故かは全く分からない。
「……これは、何だ? 今の世で何故これを味わうのだ? 莫迦な、しかもこれに直接繋がる原因が誰の記憶からも見出せん! まさか他に何者かが来ているのか!」
明らかに様子が変わった八面大王を見上げ、涼平は意識して茉莉の姿を探さず狼狽する鬼神から目を離さないようにする。まさに千載一遇の時。番えた矢を射るのに、今以上の絶好など在り得ない。思い込みと絶対優位の体勢が八面大王の隙を呼んでいるのだ。
「……どうした? 殺さないのか」
「黙れ霊長! お前が、いや、違う、お前等如きに我輩がこんな……すると、まさか! あ奴、あの莫迦姫か! ええい、鬼に在りながら未だ霊長の肩を持つとは穢らわしいっ! 鬼であるならばせめて我輩の邪魔を慎もうとは思わんのか! 大体介入はせぬと言って……んっ」
弦を引き絞った際に出る音がし、そのほぼ同時に響いた、風を切る音。
それに反応した八面大王はその方向を振り向き――
「な!」
長い二筋の矢羽が美しい螺旋を描いて飛来する弥助の矢と、それを射ち放った茉莉の姿に、八面大王は眼球が飛び出さんばかりに目を見開いた。
「莫迦な、何故それが今此処に在るのだっ!?」
叫びながら、打ち払うべく夢を振るおうとする。
「させんっ」
だが八面大王の右足を涼平が両手で掴み上げ、体勢を大きく崩した。
「ぬぉっ」
これによって八面大王は揺らぎ、放たれた直後から矢柄を軸に高速回転を始めた弥助の矢が、せめて身を護ろうと掲げられた八面大王の右手首に命中する。
「ぎあぉああああっ!」
この世の物とは思えない、怒号めいた悲鳴が響き渡った。
「おごぅぐっ、がああぉああっ!」
命中して尚回転を止めない矢は、不思議な事に血の一適も噴出させず手首を抉り、一瞬で貫通し更に突き進む。そのまま矢は左肩に命中し再び貫通。右足を浮かされていた鬼神は矢の勢いのままその場で左足を軸に回転し倒れ込んだ。
力の抜けた様子の八面大王から夢を奪還し、入れ替わりに立ち上がった涼平は数歩後退る。もちろん、気絶したのか倒れたまま動かない八面大王へ油断無く構えていた。
いつ変身し反撃に移ってくるか分からない以上、どんな動きも見逃すわけにはいかない。だがそんな彼の傍らに弓矢を携えた茉莉が駆けて来る。
「茉莉? 何故出てきたんだ」
彼女の姿を見た途端に凪を取り戻した涼平に対し返事もせず、茉莉はうつ伏せに倒れる八面大王に対し決然と弓に矢を番え引き絞った。
そして外し様の無い距離から、心臓へと放つ。
瞬く間に矢は八面大王の身体を貫通し、右手首同様矢羽までを背に埋める。続いて最後の矢も番えて、涼平が何か言う前に今度は微塵の容赦もなく頭部を射抜いた。やはり嘘のように血が出ない。
「これでよし、と。史実通りなら当分大王は動けない筈」
やった事の凄惨さからすれば嘘のような、まるで出かける前にガスの元栓でも締めたような言葉と笑顔で茉莉は息を吐いた。そんな彼女を涼平は複雑な面持ちで見、その後瓦礫に縫い止められた八面大王を見る。
「君は……いや僕もか。ともあれ……これで終わったのかな」
あまりにも呆気ない先頭終了に、涼平はやや腑に落ちない顔になった。あれ程出鱈目に強烈な存在が、弱点を突いただけであっという間に倒されたのだから信じられない気持ちにもなるだろう。
「多分その筈よ。この矢は大王の力を打ち消す事ができるから……まぁ後は監査の方々が後始末をしてくれるでしょ」
だが茉莉は涼平ほど納得できていない訳ではなかった。
何せ鬼退治とはそういうものである。残虐暴虐悪辣非道の限りを尽くし、万人の力を結集したところで敵いそうもない鬼が、人間からすれば他愛も無い引っ掛けにあっさり掛かって寝首を掻かれるなど良くある話なのだ。
「そうか……」
深く息を吐き、涼平は夢を鞘に収めた。
「そーよ。さ、久々野探して帰りましょう?」
言って、茉莉は涼平へと一歩を踏む。
瞬間、世界が眩く一変した。
「…………」
例え二度目とはいえ、前触れも何もないのに瓦礫の山から突如夏と秋に囲まれた道に出ては、言葉を失いたくもなるだろう。
「うわ、またここに来るなんて」
声に、涼平と茉莉は足下を見る。涼平の足下で、久々野は彼等を見返していた。
「あ、久々野さん」
「どーも。そういえば、魏石は倒せたんですか?」
「一応は倒せました。ただ、その直後にここに呼ばれたんですよ」
「倒した直後……と、そういえば魏石の骸は?」
「そういえば――」涼平は軽く周囲を見回す「――見当たらないな」
「それはまた……まさか置き去りという事もないでしょうし」
「とすると……随分調子が良いというか……」
久々野の言葉に、茉莉はつい零す。獲物を横から掻っ攫われた様な気分になって、何となく面白く無いのだろう。
「しかし、霊長の手に余る代物を押し付ける訳にもいくまいよ?」
そんな茉莉の愚痴に、後方から応えがあった。
声に驚いた二人と一匹が振り向くと、
「小松前……」
小松がこちらへ静々と歩いて来ていた。どうやら、わざわざ出迎えに来たらしい。彼女一人である理由は涼平達には分からなかったが、謐は相変わらずで、逸隼丸は涼平を見ると勝負をしかけそうなので待つよう小松に命じられていたからだ。
「ともかく大儀であったな、二人とも」
涼平達の所まで来た小松は、微笑を浮かべながら言う。
「いえ、当然の事をしたまでですから」
「ほほう、殊勝じゃな」
「色々とかなり大変でしたけどね」
「うむ、その点は実に済まぬ事をした。魏石の黄泉還りまでは宿命通で予見しておったが、完全なものとまでは分からなんだ。やはり、未来を見通す力は少々効きが悪くてな」
小松の言う宿命通とはやはり六神道の一つで、対象の過去から未来からすっかり見通してしまう神通力である。ただ、彼女の言葉通り未来よりもむしろ過去を知る方が効果が凄まじく、前世の域まで知悉してしまえるのだ。
「宿命通……成る程、だから貴女方は先んじてこちらに現れた訳ですか」
涼平の言葉に、小松は「ん?」と軽い疑問を浮かべた。
「おや、知らなんだか?」
これに、涼平達も疑問を浮かべる。
「……初めて聞きましたが。ねぇ」
目線と共に同意を求められ、茉莉も久々野も頷いた。
それを見て、小松はふむ、と納得する。
「妙に話の通りが良かった故、どうやら申したと思い込んでおったようじゃな」
「魏石の件は、事前に久々野さんから聞いていましたから」
「ああ、そういえばそうであったな」
改めて、小松は納得した。
「それで小松前」
茉莉の視線を受け、涼平は口を開く。
「ん?」
「魏石はどのような扱いになるんでしょうか」
「扱いか。……知っての通り、魏石は身体を千々にしようと御魂魄ある限りどうせ復活してしまう。そして、御魂魄と分けて封印しようと、今日の様な事が起これば全く意味が無い。故に、弥助の矢もそのままに、光輪車の奥底に幽閉しておこうと思う。光も届かぬ岩戸の中であるし、妾が健在である限り外に出る事は叶わぬじゃろうて」
「成る程。貴女の監視下にあった方が、恥ずかしい話ですがより確実でしょうね」
苦笑しつつ、涼平は小松の言葉に頷く。
千年前の方法とて、八彦が妙な気を起こさない限り安泰だったのだ。しかし妙な気を起こしてしまった以上は、鬼からすれば霊長に任せておくのも安心できないに違い無い。ならば、牙を抜いた状態で手の届く位置に置いた方がよほど枕を高くできるのだろう。
「さて、では褒美の件じゃがな」
「褒美?」
茉莉の疑問に、小松は彼女の方を見る。
「なんだ、聞いておらなんだか? 何、死ぬような目に遭わせた手前、只働きをさせようとは思わぬさ。相応の見返りは用意してあるぞ?」
小松の言葉を聞いて、ああ、と涼平は手を打った。逸隼丸が言っていた事を今思い出したらしい。
「相応の見返りですか……」
「うむ。まずは、これじゃ」
言葉と同時に響く、柏手の音。
「お」
「あ」
音が響くと同時に涼平と茉莉は静かな驚きを口にする。二人とも、八面大王との戦いで破れたりズタズタにされた衣服がすっかり元通りになったのだ。
「ありがとう御座います」
涼平が言い、茉莉は頭を下げる。戦いの忙しなさで自分達の衣類を顧みる余裕が無かった為、そういえば色々酷い事になっていた事を忘れていたのだ。
「なに、この程度。男であるお前はともかく、細君の方はそうもいかんじゃろう? でな、これとは別の本命は既に見繕って送ってあるのじゃ」
「え?」
「ふふふ。楽しみにするが良いぞ」
小さく驚いた涼平に、小松は楽しげに言う。その際の含み笑いが余りに艶やかなものだから、茉莉はついついぼぉっと見入ってしまった。涼平は平気の平だが。
「さてと、望むのであれば怪我の方も治してやるが」
「いえ、出来れば自力と自然の力で治した方が、体に良いですから」
「それもそうか」
涼平の返答に頷き、そして小松はふむ、と考える。
「……とすると、別れかの?」
「んん……ええ、そうなりますね」
小松の言葉に少し考え、それから涼平は応えた。
「ふむ……ひょっとすれば、また会う事があるやもしれんが」
「出来れば、何事も無い長閑な時をすごしたいものですが」
「……そうさな、そうであれば互いに幸いよ。では渡辺涼平、茉莉、そして久々野。いずれまた……いや、さらばじゃ」
小松の別れの言葉に返事をしようと涼平と茉莉が口を開きかけた時、またも小松は僅かに先んじて大きく柏手を打っていた。
「ふむ。そして屋上か……」
慣れた普段の空気の匂いを嗅ぎ、白んできた東の空を見、涼平は呟く。
「……それにしてもせっかちだなぁ。また別れの言葉を言えなかった」
「良いじゃ無い、帰って来れたんだもの」
涼平はともかく、茉莉にとっては無事に帰れた事の方が重大だった。
「そうだね。……じゃあ今度こそ帰ろうか。全く、とんだ休日になってしまったな。鬼に関わると碌な事にならないっていうのは、本当だ」
茉莉の涼平だけを見て言った言葉に、涼平は茉莉だけを見て返す。
「…………」
そして、二人の間に久々野の居場所は当然のように存在しない。
「本当、嫌という程嫌な目に合ったわ」
溜息を吐き、それから茉莉は気を取り直すように言う。
「帰ったらご飯にする? 昨日の肉じゃががとても美味しくなってる筈よ」
「……ああ、それはとても素敵だ」
途端に庶民臭くなった会話に笑顔で頷き合うと、極自然に手を繋いでフェンスの方へと足を踏み出す。それに諦めた目つきで黙って付いていく久々野である。
「ねぇ、ところで小松前の褒美ってなんなのかしら?」
「…………さぁ」
階段を降りる最中、ふと言った茉莉の疑問に、涼平は何故かうそ寒い何かを感じた。
――そして、そのうそ寒い何かが予感であった事を、涼平は部屋の前まで来た所で思い知る。
「うっ……」
「…………」
「……わぁ」
涼平も、茉莉も、久々野も通路で絶句したまま動けない。
何故なら、玄関の前に煌びやかな貴金属が満載された大きな瓶が置かれているのである。
確かに価値としては凄まじいものがあるのだろう。問題なのは瓶が一つや二つでは無く、幾つも幾つも積み重ねられているという、もう、見るからにあまりにも多過ぎな状況だ。
むしろこれは玄関を隠すのが真の目的ではないか、と邪推したくなる量である。
「…………ねぇ涼平」
見上げながら茉莉は言う。階段を下りた所で瓶に気付いた時は、いっそ何かの冗談かと思っていたのだが、いざこうして間近で見てしまうと力が抜けそうになる。
「…………うん?」
その隣、涼平もまた見上げていた。その眼差しにはどこか諦念が宿っている。
「…………帰れないわ」
「…………うん」
「……あー、どうしたもんですかねこりゃ」
徐々に周囲が明るくなりつつある中、二人と一匹は、ただただ立ち尽くしていた。というか、何もしたくない気分になっていた。
恐らく、小松は涼平達を喜ばせ驚かす為に、独断でこの膨大な褒美を選び抜いたのだろう。根本的に規模が大問題であるとか、この一財産を部屋に搬入する手間がどれだけのものか、全く気付く事も無く、ただただ良かれとだけ思って。
涼平も茉莉も久々野も、その様が割と簡単に想像できた。
僅かな付き合いとはいえ、旧い鬼というのがどういう物か、察するのは容易だからだ。
「……とにかく、どうにかしよう」
「そうね……」
心身共に疲れ切った足取りで、二人は瓶の方へ足を向ける。無言のまま、同じくな足取りで久々野も続く。
これで瓶が軽ければよかったのだが。
「う」
生憎、中身満載の瓶は見た目以上の重さで彼等を苦しめたのだった。
結
合わさった手を離し、小松は一つ息を吐く。
ともあれ、終わりは終わりである。魏石八面大王は色々と思わぬ事こそあれ、結果としては因果応報が如く外道の一門が滅ぶだけで事が済んだのだ。もっとも、長以外の者にとっては迷惑千万であったろうが。
「……さて、では妾どうしたものかな」
目的は済んだ。
ならば、後は棲家へと真っ直ぐ帰るだけである。
今や自然をすら萎縮させてしまうような身、滞在されてはこちらの全てに迷惑だろう。
されど。
小松は東へと目を向ける。
白み、光輝き始めた東へ――奈落では決してお目にかかれない輝きへ。
「おぅ、夜明けか」
流れる時間に合わせ、刻々と輝きを増していく空を見つめる内、ふと小松の口元に笑みが浮かんだ。悪戯っぽい少女のような笑み。
「……折角来たのじゃ。この娑婆の輝き、暫く堪能するくらいは良かろうて」
光輪車の中に居れば他に迷惑を掛けもすまい、と小松はうんうん頷いた。
謐はともかく逸隼丸は一応止めるだろうが、所詮は一応の域を出ない。彼とて謐と同様、小松には逆らえないし、そもそも逆らおうとすらしないのだから。
空から視線を下ろし、屋敷の方へと足を向けた彼女がこれから何を仕出かすのか、誰にも分からない。ひょっとしたら今日の内に帰るかもしれないし、迷惑を顧みず野に降りる事があるかも知れないのである。
この気紛れな鬼姫の意志を止め得る者は、この世に存在しないのだ。
「さて、今頃驚き感動しておる頃かの」
小松は言う。
現実は、今頃涼平も茉莉も久々野でさえも、玄関を塞ぐ瓶を退かすのに苦労している訳だが。
しかしそれを知った所で、小松は侘びを入れる事は無いだろうし、褒美を減らすような事もないだろう。前者はその理由が彼女には分からないからで、後者については本心を言えばあれでも少ないと思っていたりするからだ。
仮に涼平や茉莉が小松に直接言ったとしても、小松は「良いでは無いか」で済ますだろう。
だって鬼だから。