「もけ……なんだって?」
「モケーレムベンベです」
耳に慣れないその単語に、私は思わず首を傾げた。
寺子屋での授業も終わり、午後の一時を堪能せよという神の啓示の元にゆるりと茶を啜っていたところ、私の元を訪ねてきた青年が持ち寄ってきた話というのが、それだったのだ。
「もけーれむ……言い辛いな、そもそも私はそんなナチュラルに横文字が出てくるようなタイプではないのだが」
「出てるじゃないですか、横文字」
「む……」
こほん、と咳払いを一つ。
以前までならば、周りにいるのが古くさい連中ばかりなおかげか、本当にそのような事はなかったのだが。
これもまた時の流れか、と思いながらほどよく冷えた麦茶を一口。
まぁ、自分とて普通の人間と同程度しか生きていないのだから、時を語るのも分不相応なのかもしれないが、如何せん半分はあちら側の身故、そうともいかない部分もあるのだからままならない。
こういう時に限って言えば、自分の能力が歴史ではなく記憶だったならばと思わなくもない。けれど、それはそれで普段が随分と煩わしそうなのも確か。
なんにせよ、現状がこうであるからには、「もし」よりかは「今」を考えた方がよほど賢明だろう。
「それで、そのモケーレムベンベがどうしたのだ……というか、そもそもそれは何だ。新手の香辛料か何かか?」
「いえね、私も詳しくは解らないのですが、なんでも怪の類らしく……上白沢の方なら何か知っているかと」
「怪……モノノケ……というか、妖怪でいいじゃないか。ついでに私の事も慧音で構わないと言っているだろう」
「いやぁ、なんだか自分で気に入ってしまったもので。ダメですかね?」
「別に好きにしてくれて構わないが、呼び慣れていない所為かな、なんとなくこそばゆい感じがするのだが」
この青年、普段は青少年という言葉を絵に描いたような人物ではあるのだが、変な所で妙な拘りを見せる節がある。
別段それをとやかく言うつもりも筋もないのだけれど、やはり呼び名くらいはどうにかならないものだろうか。
嗚呼こそばゆい。
「しかし、モケーレムベンベか……残念ながら、聞いた事がないな」
「そうですか……」
藁にも縋る、というのは些か誇張が過ぎるかもしれないが、青年も少なからず期待をしていたのだろう。
がっくりと肩を落とすその様子を見てしまっては、こちらとしても申し訳が立たない。
しかし今が満月の元でないという事を別にしても、その名前にはやはり聞き覚えがない。
妖怪の名なら尚更記憶に留めているはずなのだが、それがないという事は新手の妖怪か、それとも全く別の何かなのか。
聞くと、最近は里の中でもちょっとした話題になっているらしく、多くの目撃情報もあるとのこと。
曰く、その性格は獰猛で、人間を見つけるやいなや、いきなり襲いかかって喰らうという。
曰く、その動きは天狗に勝とも劣らぬ俊敏さで、ただの人間では動きを追う事も出来ないという。
曰く、その力は鬼のそれに匹敵するほどで、大木の一本程度ならば難なくへし折るという。
「……また随分と危なっかしい奴が紛れ込んできたものだな」
「皆は、いつ里にまで手が伸びてくるかと戦々恐々の毎日です。そんな妖怪ですし、今の幻想郷のルールも解っているかどうか……」
「現状で被害などは?」
「いえ、今のところはまだこれといって何も……」
「ふむ……ならば尚更、事が起きる前にどうにかしないといけないという訳か」
自分の目的は里の守護であって、妖怪退治は管轄外ではあるのだけれど、攻め込まれてからでは分が悪いのは火を見るよりも明らか。
事前に情報を手に入れられたのならば、こちらから打って出るのも一つの手である事は間違いないだろう。
「よし解った。その件については私がなんとかしよう。里の皆にもそう言っておいてくれ」
「あ……はいっ、ありがとうございます!」
私が言うやいなや、青年は一目散に外へと駆け出していった。
よほど安心したのだろうか、つい先程まで肩を落としていたとは思えない晴れやかな笑顔。そんなものを見せられてはこの任務、完遂する他ないだろう。残念ながら午後の一時は早々に打ち切られる事となったのだが、まぁ元より暇を持て余すのはあまり性に合わない。一仕事出来たと思えば、そう悪くもないだろう。
「さて、と。妖怪の事ならばまずは彼女の処かね」
独り言のように発した言葉は、そんな仕事への意欲であり、第一歩。
うん、たまには体を動かすのも悪くはない。
「しかし、モケーレムベンベか。もう少しマシなネーミングは出来なかったのか?」
∽
「――と言う訳なのですが、何かご存じでしょうか?」
先程とは打って変わって、若干熱くも感じられる茶を啜りながらそんな一言。
出された物は手を付けなければ悪いと思い手を出したはいいが、如何せんこうも茶ばかり続くと腹の中が茶で埋まってしまいそうだ。
事実、ちょっと気持ち悪い。
「モケーレムベンベ……」
対し、自分の前に座を組み同じように茶を啜る稗田の少女は、何やら難しい顔をしたままどこか遠くを見ていた。
その表情はどちらかと言えば曇っているようにも見えて、それがあまりいい方向の話でないという事が窺える。
午後の運動という訳にはいかないか――そんな事を思っていると、不意に稗田の少女がこちらへと目線を合わせてきた。
その目はどこまでも真剣。これから言う事に嘘など欠片も無く、本気のものであるという証拠。
まだ年端もいかない少女であるにも関わらず、ただ見られただけで気圧されてしまいそうなそれは、確かに悠久の時を見てきた者の目だった。
「悪いことは言いません。アレに手を出すのはやめておいた方がいいでしょう」
「それほどなのですか……?」
問い返すと、稗田の少女はまたふっと目を逸らし、どこか遠くを見た。
その横顔もまた少女のものでありながら、同時に老成した賢者のようにも見える。
つくづく不思議な人だと思いながらも、私は稗田の少女が答えるのをじっと待っていた。
どれほどそうしていただろうか。固まってしまった空間を打ち破ったのは、ず、と茶を啜る稗田の少女の静かな一動作。
「アレは危険な者です。故に私は幻想郷縁起に記す事もしない」
「? 危険な妖怪をこそ皆に知らせるのが、幻想郷縁起の本懐なのでは?」
「慧音さん」
言って、再び稗田の少女が向き直る。
その目は相変わらずどこまでも真っ直ぐで、吸い込まれそうな程に澄んでいて、思わずこちらの方が目を逸らしたくなってしまう。
「世の中には、知らない方が幸せだという事もあるんですよ」
しかし稗田の少女はそんなこちらの事はお構いなしに、淡々と、何事もないかのようにそう告げてきた。
そしてそれきり目を合わせようとする事はなく、どこか遠くを眺めたまま、今度こそ茶を愉しむ事にのみ意識を向けてしまったようにも見えた。
こうなれば、こちらから何を言ったところで恐らくは聞いては貰えないだろう。
私は、残すのも悪いと思い湯飲みの中を空にしてから一言礼を言って、彼女の部屋を後にした。
その去り際に見た彼女の表情。どこか寂しそうな、哀しそうな、虚しささえ思わせる瞳だけが、少しだけ気になった。
モケーレムベンベ。
数多の妖怪を知り、書き連ねてきた彼女にそんな顔をさせる者とは、一体どれほどの者なのか。
これはますます運動不足の解消程度では済まなさそうだ。
屋敷を出て空を見上げれば、雲一つ無い見事なまでの快晴。
梅雨を追い越して先に夏が辿り着いてしまったかのような陽気の中、今の内だと言わんばかりに外を駆け回る子供の声がどこからか聞こえてくる。
鼻腔を満たす草の匂い、髪を流す柔らかな風。ただそれだけの、何もない、本当に何もない午後の一時。
「平和だなぁ……」
しかし、そんな平和が今にも切れてしまいそうなか細い糸の上にあるという事は重々承知している。
ならばこそ、行くしかないのだろう。
次なる目的地は、既に決まっている。
「あー、お腹がたぷたぷいう……」
∽
「それで私の処に来たの?」
ざあと風に揺れる竹の葉音の中で、彼女はぶっきらぼうにそう答えた。
こぢんまりとした庵の中、出された茶は本日三度目、いい加減脇腹が痛くなってきそうだ。
最初、さして面識のある相手でもない私が訪ねた事に彼女は少なからず驚いていたようだが、私が用件を伝えるとそれも一変。むぅと唸るように何かを考えていたかと思うと、ついとその視線を窓の外へと投げた。
「どうしても聞きたい?」
「その口振り、知ってはいるという事でよろしいので?」
訪ねるまでもなく、そうなのだろう。
彼女の横顔が全てを語っている。
寂しそうな、哀しそうな、それでいて虚しささえ感じさせる、そんな表情。
先程稗田の少女が見せたものと瓜二つの顔だった。
「悪いことは言わない。アレに手を出すのは止めておいた方が、あんたの身のためだ」
「……先程、全く同じ事を稗田の娘にも言われましたよ」
私が言うと、彼女――妹紅はほうと少し驚いたような顔を見せた。
しかし、それも一瞬の事。すぐに元の何かを諦めたかのような、或いは悟りの境地にでも達したような、そんな無表情の中に全ての表情を押し込めたかのような顔に戻ると、
「なら話は早い。アレの事は気にするな、触れるな、忘れてしまえ。それがあんたの為であり、強いては里の為にもなるはずだ」
「稗田の娘も貴方も、何故それほどまでに恐れをなすというのか。稗田の娘であらばまだしも、貴方は相当の実力者。そんな貴方が恐れるほどの者、見過ごす訳にはいきません」
「逆に考えてはみないのかい?」
「逆……?」
ほう、と漏らした息は先程とは間逆。言うことを聞かない子供を窘めるような、そんな溜息だった。
「私でさえこうなった……そう考えれば、少しは解るだろうさ」
「――」
言われて、思わず手に持つだけだった湯飲みを取り落としそうになった。
なるほど確かにその通りだとも思う。
稗田の少女は言っても身体的には普通の人間だ。
あの博麗の巫女や黒白の魔法使いのような、妖怪じみたとも言える力がある訳でもない、至って普通の人間の体。
その知識でもって跋扈する妖怪に立ち向かう事は出来ても、それは曲がりなりにも知性が備わった相手に限られる。
話を聞く限り、モケーレムベンベというのはそんなものは欠片も持ち合わせていない、正に獣のような存在。例えその習性を知り尽くしていたとしても、そんな相手であれば最後にものを言うのは結局は力なのだ。そうなれば彼女などは太刀打ち出来ないのだろう。
だがしかし、目の前の彼女は違う。
不死の体という事を抜いたとしても、相当の手練れである事は間違いない。
仮に相手が鬼の様な怪力の持ち主だったとしても、彼女の相手になる者などそうはいないだろう。
その彼女ですら、こうなのだ。
「……」
私は自分の考えが浅はかだった事を知った。
彼女、藤原妹紅が忘れてしまえと言う程の妖怪。果たして自分にそんな者の相手が務まるのだろうか。
そこまで秀でたものの無い私に、果たしてそんな怪物を抑えこむ事が出来るのだろうか。
だが、しかし。
「それでも、私はやらねばならないのです」
「どうしても?」
「それが私の――使命、ですから」
三度、彼女はほうと息を吐いた。
それは最初と同じ、僅かな驚きを含んだ、感嘆の現れ。
「そこまで言うのならば、私はもう何も言わない。けれど――」
∽
「覚悟しておけ、か」
日はとうに山の向こうにその身を隠し、快晴だった空はその一面に星々が輝いていた。
昼にどれだけ気温が上がろうとも、まだ季節は梅雨入りの前。幾分冷たさを孕んだ夜風が少々肌寒く感じられる。
幻想郷の端に位置する湖の畔を歩きながら、昼間に聞いた妹紅の話を思い出す。
モケーレムベンベに遭遇した者は、何もならないか、私のようになる。その完全な二択だ。他の選択肢は一切存在しない。
獰猛な肉食の妖怪だと思われているが、そんな事はない。
あんたも殺される事はないだろうが、多少の怪我は覚悟しておいた方がいい。
ちなみに私は上半身を吹っ飛ばされた。
なぁに大丈夫だ。向こうも相手を選んでいるんだろう。現に、稗田の娘は大丈夫なんだろう? つまりはそういう事さ。
理性? あってないようなものだね。少なくとも、遭遇した時点で既に話が通じる事はない。あったとしても、一方的な暴力を与えられるだけだ。
おっと、手出しをしようだなんて考えない方がいい。それこそ殺されても文句は言えないからね。
私はあんたに少なからず恩義を感じているんだ。そんなあんたに勝手に死んでもらっちゃ私の方が死にたくなる。
言っても無駄だろうが、もう一度言っておくよ。
たとえ奴に出会ったとしても、気にするな、触れるな、忘れてしまえ、それは変わらない。
ただ、それは出会ってしまった私だからこそ言える言葉でもある。
だからこそ、言っておこう。
――覚悟しておくんだね。
「さて、鬼が出るか蛇が出るか」
彼女に聞いた話によれば、かのモケーレムベンベが出るというのはこの辺りらしい。
周りには人はおろか、妖精の気配すら感じられない。
それもそのはずか。
「相変わらず、不気味な佇まいだな……」
遠くに見える、紅い屋敷。
そこに住まうは崇高なる吸血鬼の姉妹。
紅霧異変以降、これといって何かを企てる事もなくひっそりとしていはいるのだが、ただそこに在るというだけで、十分な脅威となっている事は間違いない。
今のところはこれといった被害が出ていない事と、存外友好的な一面もあるとの事から安心はしているが、どれだけ言われようとも相手は吸血鬼。まだまだ気の抜けない存在ではある。
「しかし……吸血鬼か」
吸血鬼と言えば、夜を代表する妖怪の一つ。
今の時間帯であればちょうど活動期であるだろうし、この辺りに出没するというモケーレムベンベの事も多少は知っているかもしれない。
妹紅からある程度話を聞いていたとはいえ、相手は未知の怪物。情報は多いにこした事はないだろう。
「あまり気乗りはしないのだがなぁ」
妹紅はああ言っていたが、それでも準備を怠った結果、自分が第一の犠牲者になるという事もあり得なくはないのだ。
そう思って、足取りを紅魔館へと定めて歩き出す。
その間にも、頭の中はこれから対峙するであろう、モケーレムベンベの事で一杯だった。
どのような姿をしているのか。
どのような動きをするのか。
もし戦闘になったとすれば、どのような攻撃を仕掛けてくるのか。
自分はそれに、対応出来るのか。
「考えても仕方がない……か?」
そう思う半面、どこかでまだ思考の海に身を委ねようとする自分がいる。
けれど、今はまだ考えるべき時ではない。
縄張り意識の強そうなあの吸血鬼のこと、恐らくは彼女らもモケーレムベンベについては何かを知っているだろう。更にはあの屋敷にいる知識人。もしかすると、実際に相対したという妹紅や稗田の少女よりも遥かに詳しい情報が得られる可能性だってあるのだ。
何も悲観する事はない。
空を見上げれば半分の月。
まだ満月までは遠いとはいえ、この身も半分は妖怪のもの。そこいらの相手には負けない自信はある。
「……と」
気付けば、いつの間にかすぐ目の前に紅い館へと繋がる門があった。
門戸は開け放たれているものの、そこには人影が一つ。
面識は無いが、あれがこの館を守護する妖怪、紅美鈴なのだろう。
中華風の衣装を身に纏い、一分の隙もなく立つその姿は、それだけで並々ならぬ相手である事を伺わせる。
しかし、彼女は実力者にして、同時に常識人でもあると伝え聞く。
争いに来た訳でもあるまいし、話せばきっと通してくれるだろう。
「もし、こんな夜分にすみません。実はこの館の主に折り入って聞きたい事が――」
そう考えて殊更丁寧に声をかけてみたのだが、
「……」
へんじがない、ただのしかばねのようだ。
「いやいや」
もとい、しゅうしんちゅうのようだ。
近づいて見てみれば、これまた絵に描いたような鼻提灯を膨らませて、見事に立ったまま寝ておられる。
寝ながらにして尚一切の隙を見せないその姿勢は、流石は武人かと言ったところだが、これだけ近づいてもまだ相手に気付かない辺り、それも些か怪しくなってくるというもの。
逆に考えれば、敵意を持つ者であれば、この寝ながらにして発するオーラを見ただけで退く者がほとんどであろうから、そういった意味では自動的に来客の選別が出来ているのだろうか。
ともあれ、一日中番をしていればそれこそ眠る暇など無いのだろう。ここは起こさずに素通りするのが優しさか。
そうして、争いに来たのではないのだからと自分に念を押して、改めて本館へと向かう事にした。
「しかし、近場で見ると尚更不気味な物だな」
やはり夜行性というだけの事はあるのか、少ない窓からは明かりが漏れている。
だというのに辺りは夜の中にあって尚静けさに包まれていて、まるで音という音がかき消されてしまったかの様。
不安になって自分の声を発してみると、声は何事もなくいつも通りに喉を通って口から発せられたが、それが逆に不安を煽る。
「やはり、夜中に来るべき場所ではないな」
いい加減煩くなった耳鳴りを抑えるべく、館の玄関に手を掛ける。
英国風にノックをすべきかとも思ったが、ひょっとするとその音さえも消されてしまうのではないだろうかと思えてきて、戸口を空けてから直に呼び出す事にした。
そう、思えばそれがいけなかったのだ。
この時しっかりとノックさえしていれば、私は奴に出会わずに済んだのかもしれない。
しかしそう思ったところで、起こってしまった事が変わる事などあるはずもなく、またその歴史を隠したところで、消し去る事は出来ないのだ。
そう、ノックさえしていれば。
来訪の旨を伝えてさえいれば――
「夜分に申し訳ない、上白沢慧音と言うがレミリア嬢は――」
「ぎゃおー!」
「…………」
「たーべちゃうぞー!」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「……何をしておられるのか」
「……モケーレムベンベごっこ」
館内に入った私を出迎えたのは、夜王を名乗る吸血鬼でも無ければ、その悪魔の妹でもない。優秀なメイドでもなければ知識人でもなかった。
ここで情報を得て、いざこれから対峙せんとしていた相手が、そこに居たのだ。
よもやの事態に私は何も言う事が出来ず、ただただ目の前の光景を理解しようとするのに精一杯で、そこで何が行われていたのかなど、微塵も考える事が出来なかった。
幼い吸血鬼が。
パっと見ただの幼女にしか見えない吸血鬼が。
その短い手足と大きすぎる翼を目一杯に伸ばして、こちらを威嚇していた。
それが私の理解した全てだ。
それと同時に、頭の中を一つの思いがもの凄い勢いで駆けめぐっていった。
――あぁ、こんなのに怯えてたんだなぁ、私たち。
私は今、きっと今日の昼間に見たあの二人と全く同じ顔をしているのだろうとどこか遠くで思いながら、とりあえず考える事を止めた。
「咲夜ー、なんか獣が倒れたよー」
「……どれだけの人にトラウマを与えれば気が済むんですか、このダメお嬢様」
「モケーレムベンベです」
耳に慣れないその単語に、私は思わず首を傾げた。
寺子屋での授業も終わり、午後の一時を堪能せよという神の啓示の元にゆるりと茶を啜っていたところ、私の元を訪ねてきた青年が持ち寄ってきた話というのが、それだったのだ。
「もけーれむ……言い辛いな、そもそも私はそんなナチュラルに横文字が出てくるようなタイプではないのだが」
「出てるじゃないですか、横文字」
「む……」
こほん、と咳払いを一つ。
以前までならば、周りにいるのが古くさい連中ばかりなおかげか、本当にそのような事はなかったのだが。
これもまた時の流れか、と思いながらほどよく冷えた麦茶を一口。
まぁ、自分とて普通の人間と同程度しか生きていないのだから、時を語るのも分不相応なのかもしれないが、如何せん半分はあちら側の身故、そうともいかない部分もあるのだからままならない。
こういう時に限って言えば、自分の能力が歴史ではなく記憶だったならばと思わなくもない。けれど、それはそれで普段が随分と煩わしそうなのも確か。
なんにせよ、現状がこうであるからには、「もし」よりかは「今」を考えた方がよほど賢明だろう。
「それで、そのモケーレムベンベがどうしたのだ……というか、そもそもそれは何だ。新手の香辛料か何かか?」
「いえね、私も詳しくは解らないのですが、なんでも怪の類らしく……上白沢の方なら何か知っているかと」
「怪……モノノケ……というか、妖怪でいいじゃないか。ついでに私の事も慧音で構わないと言っているだろう」
「いやぁ、なんだか自分で気に入ってしまったもので。ダメですかね?」
「別に好きにしてくれて構わないが、呼び慣れていない所為かな、なんとなくこそばゆい感じがするのだが」
この青年、普段は青少年という言葉を絵に描いたような人物ではあるのだが、変な所で妙な拘りを見せる節がある。
別段それをとやかく言うつもりも筋もないのだけれど、やはり呼び名くらいはどうにかならないものだろうか。
嗚呼こそばゆい。
「しかし、モケーレムベンベか……残念ながら、聞いた事がないな」
「そうですか……」
藁にも縋る、というのは些か誇張が過ぎるかもしれないが、青年も少なからず期待をしていたのだろう。
がっくりと肩を落とすその様子を見てしまっては、こちらとしても申し訳が立たない。
しかし今が満月の元でないという事を別にしても、その名前にはやはり聞き覚えがない。
妖怪の名なら尚更記憶に留めているはずなのだが、それがないという事は新手の妖怪か、それとも全く別の何かなのか。
聞くと、最近は里の中でもちょっとした話題になっているらしく、多くの目撃情報もあるとのこと。
曰く、その性格は獰猛で、人間を見つけるやいなや、いきなり襲いかかって喰らうという。
曰く、その動きは天狗に勝とも劣らぬ俊敏さで、ただの人間では動きを追う事も出来ないという。
曰く、その力は鬼のそれに匹敵するほどで、大木の一本程度ならば難なくへし折るという。
「……また随分と危なっかしい奴が紛れ込んできたものだな」
「皆は、いつ里にまで手が伸びてくるかと戦々恐々の毎日です。そんな妖怪ですし、今の幻想郷のルールも解っているかどうか……」
「現状で被害などは?」
「いえ、今のところはまだこれといって何も……」
「ふむ……ならば尚更、事が起きる前にどうにかしないといけないという訳か」
自分の目的は里の守護であって、妖怪退治は管轄外ではあるのだけれど、攻め込まれてからでは分が悪いのは火を見るよりも明らか。
事前に情報を手に入れられたのならば、こちらから打って出るのも一つの手である事は間違いないだろう。
「よし解った。その件については私がなんとかしよう。里の皆にもそう言っておいてくれ」
「あ……はいっ、ありがとうございます!」
私が言うやいなや、青年は一目散に外へと駆け出していった。
よほど安心したのだろうか、つい先程まで肩を落としていたとは思えない晴れやかな笑顔。そんなものを見せられてはこの任務、完遂する他ないだろう。残念ながら午後の一時は早々に打ち切られる事となったのだが、まぁ元より暇を持て余すのはあまり性に合わない。一仕事出来たと思えば、そう悪くもないだろう。
「さて、と。妖怪の事ならばまずは彼女の処かね」
独り言のように発した言葉は、そんな仕事への意欲であり、第一歩。
うん、たまには体を動かすのも悪くはない。
「しかし、モケーレムベンベか。もう少しマシなネーミングは出来なかったのか?」
∽
「――と言う訳なのですが、何かご存じでしょうか?」
先程とは打って変わって、若干熱くも感じられる茶を啜りながらそんな一言。
出された物は手を付けなければ悪いと思い手を出したはいいが、如何せんこうも茶ばかり続くと腹の中が茶で埋まってしまいそうだ。
事実、ちょっと気持ち悪い。
「モケーレムベンベ……」
対し、自分の前に座を組み同じように茶を啜る稗田の少女は、何やら難しい顔をしたままどこか遠くを見ていた。
その表情はどちらかと言えば曇っているようにも見えて、それがあまりいい方向の話でないという事が窺える。
午後の運動という訳にはいかないか――そんな事を思っていると、不意に稗田の少女がこちらへと目線を合わせてきた。
その目はどこまでも真剣。これから言う事に嘘など欠片も無く、本気のものであるという証拠。
まだ年端もいかない少女であるにも関わらず、ただ見られただけで気圧されてしまいそうなそれは、確かに悠久の時を見てきた者の目だった。
「悪いことは言いません。アレに手を出すのはやめておいた方がいいでしょう」
「それほどなのですか……?」
問い返すと、稗田の少女はまたふっと目を逸らし、どこか遠くを見た。
その横顔もまた少女のものでありながら、同時に老成した賢者のようにも見える。
つくづく不思議な人だと思いながらも、私は稗田の少女が答えるのをじっと待っていた。
どれほどそうしていただろうか。固まってしまった空間を打ち破ったのは、ず、と茶を啜る稗田の少女の静かな一動作。
「アレは危険な者です。故に私は幻想郷縁起に記す事もしない」
「? 危険な妖怪をこそ皆に知らせるのが、幻想郷縁起の本懐なのでは?」
「慧音さん」
言って、再び稗田の少女が向き直る。
その目は相変わらずどこまでも真っ直ぐで、吸い込まれそうな程に澄んでいて、思わずこちらの方が目を逸らしたくなってしまう。
「世の中には、知らない方が幸せだという事もあるんですよ」
しかし稗田の少女はそんなこちらの事はお構いなしに、淡々と、何事もないかのようにそう告げてきた。
そしてそれきり目を合わせようとする事はなく、どこか遠くを眺めたまま、今度こそ茶を愉しむ事にのみ意識を向けてしまったようにも見えた。
こうなれば、こちらから何を言ったところで恐らくは聞いては貰えないだろう。
私は、残すのも悪いと思い湯飲みの中を空にしてから一言礼を言って、彼女の部屋を後にした。
その去り際に見た彼女の表情。どこか寂しそうな、哀しそうな、虚しささえ思わせる瞳だけが、少しだけ気になった。
モケーレムベンベ。
数多の妖怪を知り、書き連ねてきた彼女にそんな顔をさせる者とは、一体どれほどの者なのか。
これはますます運動不足の解消程度では済まなさそうだ。
屋敷を出て空を見上げれば、雲一つ無い見事なまでの快晴。
梅雨を追い越して先に夏が辿り着いてしまったかのような陽気の中、今の内だと言わんばかりに外を駆け回る子供の声がどこからか聞こえてくる。
鼻腔を満たす草の匂い、髪を流す柔らかな風。ただそれだけの、何もない、本当に何もない午後の一時。
「平和だなぁ……」
しかし、そんな平和が今にも切れてしまいそうなか細い糸の上にあるという事は重々承知している。
ならばこそ、行くしかないのだろう。
次なる目的地は、既に決まっている。
「あー、お腹がたぷたぷいう……」
∽
「それで私の処に来たの?」
ざあと風に揺れる竹の葉音の中で、彼女はぶっきらぼうにそう答えた。
こぢんまりとした庵の中、出された茶は本日三度目、いい加減脇腹が痛くなってきそうだ。
最初、さして面識のある相手でもない私が訪ねた事に彼女は少なからず驚いていたようだが、私が用件を伝えるとそれも一変。むぅと唸るように何かを考えていたかと思うと、ついとその視線を窓の外へと投げた。
「どうしても聞きたい?」
「その口振り、知ってはいるという事でよろしいので?」
訪ねるまでもなく、そうなのだろう。
彼女の横顔が全てを語っている。
寂しそうな、哀しそうな、それでいて虚しささえ感じさせる、そんな表情。
先程稗田の少女が見せたものと瓜二つの顔だった。
「悪いことは言わない。アレに手を出すのは止めておいた方が、あんたの身のためだ」
「……先程、全く同じ事を稗田の娘にも言われましたよ」
私が言うと、彼女――妹紅はほうと少し驚いたような顔を見せた。
しかし、それも一瞬の事。すぐに元の何かを諦めたかのような、或いは悟りの境地にでも達したような、そんな無表情の中に全ての表情を押し込めたかのような顔に戻ると、
「なら話は早い。アレの事は気にするな、触れるな、忘れてしまえ。それがあんたの為であり、強いては里の為にもなるはずだ」
「稗田の娘も貴方も、何故それほどまでに恐れをなすというのか。稗田の娘であらばまだしも、貴方は相当の実力者。そんな貴方が恐れるほどの者、見過ごす訳にはいきません」
「逆に考えてはみないのかい?」
「逆……?」
ほう、と漏らした息は先程とは間逆。言うことを聞かない子供を窘めるような、そんな溜息だった。
「私でさえこうなった……そう考えれば、少しは解るだろうさ」
「――」
言われて、思わず手に持つだけだった湯飲みを取り落としそうになった。
なるほど確かにその通りだとも思う。
稗田の少女は言っても身体的には普通の人間だ。
あの博麗の巫女や黒白の魔法使いのような、妖怪じみたとも言える力がある訳でもない、至って普通の人間の体。
その知識でもって跋扈する妖怪に立ち向かう事は出来ても、それは曲がりなりにも知性が備わった相手に限られる。
話を聞く限り、モケーレムベンベというのはそんなものは欠片も持ち合わせていない、正に獣のような存在。例えその習性を知り尽くしていたとしても、そんな相手であれば最後にものを言うのは結局は力なのだ。そうなれば彼女などは太刀打ち出来ないのだろう。
だがしかし、目の前の彼女は違う。
不死の体という事を抜いたとしても、相当の手練れである事は間違いない。
仮に相手が鬼の様な怪力の持ち主だったとしても、彼女の相手になる者などそうはいないだろう。
その彼女ですら、こうなのだ。
「……」
私は自分の考えが浅はかだった事を知った。
彼女、藤原妹紅が忘れてしまえと言う程の妖怪。果たして自分にそんな者の相手が務まるのだろうか。
そこまで秀でたものの無い私に、果たしてそんな怪物を抑えこむ事が出来るのだろうか。
だが、しかし。
「それでも、私はやらねばならないのです」
「どうしても?」
「それが私の――使命、ですから」
三度、彼女はほうと息を吐いた。
それは最初と同じ、僅かな驚きを含んだ、感嘆の現れ。
「そこまで言うのならば、私はもう何も言わない。けれど――」
∽
「覚悟しておけ、か」
日はとうに山の向こうにその身を隠し、快晴だった空はその一面に星々が輝いていた。
昼にどれだけ気温が上がろうとも、まだ季節は梅雨入りの前。幾分冷たさを孕んだ夜風が少々肌寒く感じられる。
幻想郷の端に位置する湖の畔を歩きながら、昼間に聞いた妹紅の話を思い出す。
モケーレムベンベに遭遇した者は、何もならないか、私のようになる。その完全な二択だ。他の選択肢は一切存在しない。
獰猛な肉食の妖怪だと思われているが、そんな事はない。
あんたも殺される事はないだろうが、多少の怪我は覚悟しておいた方がいい。
ちなみに私は上半身を吹っ飛ばされた。
なぁに大丈夫だ。向こうも相手を選んでいるんだろう。現に、稗田の娘は大丈夫なんだろう? つまりはそういう事さ。
理性? あってないようなものだね。少なくとも、遭遇した時点で既に話が通じる事はない。あったとしても、一方的な暴力を与えられるだけだ。
おっと、手出しをしようだなんて考えない方がいい。それこそ殺されても文句は言えないからね。
私はあんたに少なからず恩義を感じているんだ。そんなあんたに勝手に死んでもらっちゃ私の方が死にたくなる。
言っても無駄だろうが、もう一度言っておくよ。
たとえ奴に出会ったとしても、気にするな、触れるな、忘れてしまえ、それは変わらない。
ただ、それは出会ってしまった私だからこそ言える言葉でもある。
だからこそ、言っておこう。
――覚悟しておくんだね。
「さて、鬼が出るか蛇が出るか」
彼女に聞いた話によれば、かのモケーレムベンベが出るというのはこの辺りらしい。
周りには人はおろか、妖精の気配すら感じられない。
それもそのはずか。
「相変わらず、不気味な佇まいだな……」
遠くに見える、紅い屋敷。
そこに住まうは崇高なる吸血鬼の姉妹。
紅霧異変以降、これといって何かを企てる事もなくひっそりとしていはいるのだが、ただそこに在るというだけで、十分な脅威となっている事は間違いない。
今のところはこれといった被害が出ていない事と、存外友好的な一面もあるとの事から安心はしているが、どれだけ言われようとも相手は吸血鬼。まだまだ気の抜けない存在ではある。
「しかし……吸血鬼か」
吸血鬼と言えば、夜を代表する妖怪の一つ。
今の時間帯であればちょうど活動期であるだろうし、この辺りに出没するというモケーレムベンベの事も多少は知っているかもしれない。
妹紅からある程度話を聞いていたとはいえ、相手は未知の怪物。情報は多いにこした事はないだろう。
「あまり気乗りはしないのだがなぁ」
妹紅はああ言っていたが、それでも準備を怠った結果、自分が第一の犠牲者になるという事もあり得なくはないのだ。
そう思って、足取りを紅魔館へと定めて歩き出す。
その間にも、頭の中はこれから対峙するであろう、モケーレムベンベの事で一杯だった。
どのような姿をしているのか。
どのような動きをするのか。
もし戦闘になったとすれば、どのような攻撃を仕掛けてくるのか。
自分はそれに、対応出来るのか。
「考えても仕方がない……か?」
そう思う半面、どこかでまだ思考の海に身を委ねようとする自分がいる。
けれど、今はまだ考えるべき時ではない。
縄張り意識の強そうなあの吸血鬼のこと、恐らくは彼女らもモケーレムベンベについては何かを知っているだろう。更にはあの屋敷にいる知識人。もしかすると、実際に相対したという妹紅や稗田の少女よりも遥かに詳しい情報が得られる可能性だってあるのだ。
何も悲観する事はない。
空を見上げれば半分の月。
まだ満月までは遠いとはいえ、この身も半分は妖怪のもの。そこいらの相手には負けない自信はある。
「……と」
気付けば、いつの間にかすぐ目の前に紅い館へと繋がる門があった。
門戸は開け放たれているものの、そこには人影が一つ。
面識は無いが、あれがこの館を守護する妖怪、紅美鈴なのだろう。
中華風の衣装を身に纏い、一分の隙もなく立つその姿は、それだけで並々ならぬ相手である事を伺わせる。
しかし、彼女は実力者にして、同時に常識人でもあると伝え聞く。
争いに来た訳でもあるまいし、話せばきっと通してくれるだろう。
「もし、こんな夜分にすみません。実はこの館の主に折り入って聞きたい事が――」
そう考えて殊更丁寧に声をかけてみたのだが、
「……」
へんじがない、ただのしかばねのようだ。
「いやいや」
もとい、しゅうしんちゅうのようだ。
近づいて見てみれば、これまた絵に描いたような鼻提灯を膨らませて、見事に立ったまま寝ておられる。
寝ながらにして尚一切の隙を見せないその姿勢は、流石は武人かと言ったところだが、これだけ近づいてもまだ相手に気付かない辺り、それも些か怪しくなってくるというもの。
逆に考えれば、敵意を持つ者であれば、この寝ながらにして発するオーラを見ただけで退く者がほとんどであろうから、そういった意味では自動的に来客の選別が出来ているのだろうか。
ともあれ、一日中番をしていればそれこそ眠る暇など無いのだろう。ここは起こさずに素通りするのが優しさか。
そうして、争いに来たのではないのだからと自分に念を押して、改めて本館へと向かう事にした。
「しかし、近場で見ると尚更不気味な物だな」
やはり夜行性というだけの事はあるのか、少ない窓からは明かりが漏れている。
だというのに辺りは夜の中にあって尚静けさに包まれていて、まるで音という音がかき消されてしまったかの様。
不安になって自分の声を発してみると、声は何事もなくいつも通りに喉を通って口から発せられたが、それが逆に不安を煽る。
「やはり、夜中に来るべき場所ではないな」
いい加減煩くなった耳鳴りを抑えるべく、館の玄関に手を掛ける。
英国風にノックをすべきかとも思ったが、ひょっとするとその音さえも消されてしまうのではないだろうかと思えてきて、戸口を空けてから直に呼び出す事にした。
そう、思えばそれがいけなかったのだ。
この時しっかりとノックさえしていれば、私は奴に出会わずに済んだのかもしれない。
しかしそう思ったところで、起こってしまった事が変わる事などあるはずもなく、またその歴史を隠したところで、消し去る事は出来ないのだ。
そう、ノックさえしていれば。
来訪の旨を伝えてさえいれば――
「夜分に申し訳ない、上白沢慧音と言うがレミリア嬢は――」
「ぎゃおー!」
「…………」
「たーべちゃうぞー!」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「……何をしておられるのか」
「……モケーレムベンベごっこ」
館内に入った私を出迎えたのは、夜王を名乗る吸血鬼でも無ければ、その悪魔の妹でもない。優秀なメイドでもなければ知識人でもなかった。
ここで情報を得て、いざこれから対峙せんとしていた相手が、そこに居たのだ。
よもやの事態に私は何も言う事が出来ず、ただただ目の前の光景を理解しようとするのに精一杯で、そこで何が行われていたのかなど、微塵も考える事が出来なかった。
幼い吸血鬼が。
パっと見ただの幼女にしか見えない吸血鬼が。
その短い手足と大きすぎる翼を目一杯に伸ばして、こちらを威嚇していた。
それが私の理解した全てだ。
それと同時に、頭の中を一つの思いがもの凄い勢いで駆けめぐっていった。
――あぁ、こんなのに怯えてたんだなぁ、私たち。
私は今、きっと今日の昼間に見たあの二人と全く同じ顔をしているのだろうとどこか遠くで思いながら、とりあえず考える事を止めた。
「咲夜ー、なんか獣が倒れたよー」
「……どれだけの人にトラウマを与えれば気が済むんですか、このダメお嬢様」