魔法の森は風に揺れ、枝葉は踊り、ざわざわと騒ぎ立てる。
不思議な事など何も無い、全く当然の事なのだが、何故かそれを妖夢は自分がこの森に歓迎されていないのでは、等と感じていた。人間としても幽霊としても半分で、存在としては酷く曖昧だからなのかもしれない。
でもそれを言ったらどこへ行っても歓迎されそうもない訳で。
ざわめく森の中、妖夢は帰ってしまおうかなぁ等と思いつつ、それでも足は確実に森の奥、目的地へと動いていた。
用件は単純である。
動機も単純である。
だが答えは分からなかった。
故にこうして出向いている訳だ。
迷路のような森を進み、時折あまり目にしない諸々を見かけては一々歩みを止め。目的半分散策半分な様子で妖夢は進む。
ざわざわ。
ざわざわ。
ざわざわ。
妖夢は歩みを止めた。
半人の自分にまとわりつくように半霊の自分が揺らめいている。
ざわざわ。
ざわざわ。
ざわざわ。
どこからも聞こえてくるような森と風の騒がしいやりとり。
森と言う所は、木々が行く手を阻み、木々が日光を遮り、木々が空間を覆う場所。
ともすれば方向感覚が怪しくなり、ややもすれば迷子になる。まっくらな森は帰らずの森とはよく言ったものだ。
「…………う」
頭上を見上げ、揺れる枝葉に何となく呻いた。
元々感受性の強い妖夢である。そして怖い物が苦手な妖夢である。
さて、目的があって赴いたはいいものの、そろそろ感受性が余計な働きをし始めていた。
木々の間で揺らめく何かを見たり、木陰に居もしない何かを見たり。
怖がりでなければ何の問題もなく気のせいで処理できる事だが、感受性がそれを増長させ妖夢に伝えてくる。
じわりと汗を浮かべた妖夢は、一瞬より少し早いくらいの思考で今自分の居場所が森の外より目的地の方が近いものと判断。
「獄炎剣!」
即座の行動。
楼観剣と白楼剣の二刀を引き抜くなり、ちょっと涙の浮いた真剣な面持ちで目的地を見据え―――
「業風閃影陣ッ!」
白髪緑衣の少女は物凄い速さで木々の間をすっ飛んで行った。
実に快適な環境。
アリスが魔法の森に居を構える理由がそれである。
自らが整備しそれと分かっているからこんな辺鄙に棲む以上、そうでなければ困ると言うものだ。
魔法使いというものは自分のやりたい事をやる為なら手段なんて選ばない。故にアリスは誰も来ない魔法の森に都会派な建物を建ててそこに棲んでいる。
当然、常人からすれば何故そこまでと言いたくなる事だが、アリスから言わせれば全く必要な事なのだ。
根本的な感覚の違いだろう。
快適な環境下で今日も今日とて人形造り、動作試験、改良、整備。どこかの口さがない鯨幕がそれをさもしいと言ったそうだが、そもそもジャンルの違う者がどう言おうがどうでも良い事である。
五指の先で緻密に糸を手繰り、浮かぶ人形に思うままの動きをさせていく。
アリスの視線の先、赤いワンピースを着せられた人形は彼女の意思を反映する動きを見せ、くるくると踊ったり、あどけなく微笑んだり、凛と澄ましてみたりした。
最後に人形に一礼させ、やや満足した様子でアリスは息を吐く。
「……少し、左足首の動きが鈍かったかしら」
人形を両手でそっと捕まえると、動かしていた間気になった部分に触れようと―――
どんがらがっしゃーん。がらがら、がたん。ずどどどど。
何か玄関の方から連鎖的な物凄い音がした。
「…………」
アリスの片眉がぴくりと動く。
こういうのが初めてという訳では無い。かといってしょっちゅうある訳でも無いが、それでも驚きよりはまたかの方に心の慣れは傾いてしまっていた。
本音を言えば聞かなかった事にして人形の整備に戻りたいのだが、そうもいかない。何せアリスは人形にばかり興味と関心がある訳ではなく、マジックアイテムの蒐集家でもあるのだから。
溜息と人形を脇へ置いてその人形の糸を取る事を同時にこなし、音の方へと向かいがてら青のワンピースに白エプロンを付けた別の人形を自分の傍に浮かべた。
そして、溜息を吐く。
玄関ホールは酷い有様だった。
真正面から何かが突っ込んで来たのは明白で、打ち破られた玄関は残骸が蝶番に支えられてキィキィ揺れ、その直線状に扉だった物を撒いて壁に穴が開いていたのだから。
「今日はまた随分と激しいじゃない?」
額を抑えるも、状況には場違いな笑みが浮かぶ。報復を楽しみにしている類のそれだ。
壁の穴を覗き込むと、部屋の幾つかの本棚が倒れ中身が建材の一部と共に散乱しているのが良く分かる。
都会派としては回り込んで本来の入口からその部屋に入りたかったが、急ぐ必要がある以上そうも言ってはいられない。壁の穴から部屋に入り、髪や裾を払いながら辺りを見回す。
状況が酷いのはこの際無視する事にした。
「…………あら」
そんな中、明らかに不自然なものが崩れた本棚と本の山から生えているのが見える。
それは黒い靴に白のソックスを装着した人の足。厳密にはふくらはぎから爪先までだ。
黒い靴に白いソックス。それだけで考えれば確実にあの鯨幕なのだが、それはそれで不自然だった。或いは奇を衒った罠の可能性もあるが、そういうブレインが必要な事を鯨幕がやる訳が無い。
するとあれは何だろうか。
アリスが不可思議なオブジェに首を傾げていると、ささやかな疑問に対する明々白々な答えが本の隙間から湧いて出てきた。
ふよふよと頼り無く漂うそれは幽霊に相違無い。
で、そういうのとセットでこういう事をやらかしかねないのと言えば、自ずと答えは明らかだ。
ただ、その答えがどういった理由でこんな事を仕出かしたかが分からない。
幽霊と話しが出来る方法はそういえば結局聞けず仕舞いだったから、オブジェの周りを漂う半霊から事情を聞く訳にもいかないし。
となるとするべき事はまず一つ。
傾げた首を直すと、両手を肩を竦めるように持ち上げる。
すると彼女の周りにはどこからか続々と人形達が馳せ参じ、その指先が命じるままに人形達はオブジェの周りの整理整頓に取りかかった。
まず人形達は本を穴から玄関ホールへと取り除き、続いて本棚を定位置へ戻し、改めて除かれた本を棚へと戻していく。同時に床の掃除も行い、アリスがやや得意げに柏手を打って人形達を撤収させた頃には、壁の穴と床に倒れる半人以外は元通りになっていた。
「さて」
視線だけを床に向ける。
そこには白髪緑衣の少女が未だに目を回していた。霊の方は普通に漂っているにも関わらず、実体を伴う方のまぁ脆弱な事。
アリスは呆れながらも、ワンピースにエプロンの人形を操って少女の眉間に触れるか触れないかの所に配置する。
七秒後。
「うわあああああああああああああああああああ!?」
拭い難い違和感に妖夢は飛び起きていた。
そしてすぐさま自分の主の名を非難がましく呼ぼうとして、
「……あ?」
呆然と目を点にする。
ああいう陰険な起こし方をするのは妖夢にとっては一人しか心当たりが無かったのだが、今彼女を見ているのは七色の都会派魔法使い。何故か彼女の背にある壁には穴が開いており、辺りを見回せば成る程、魔女の部屋に相応しい感じで本棚が所狭しと並んでいた。
「おはよう」
状況が掴めていない様子で二刀を鞘へ収める妖夢に、笑顔でアリスは言った。
「……おはよう」
相手の笑顔に悪寒を感じながら、困惑気味に妖夢は応えた。
それから少しの間、お互い声を出そうとはしなかった。
アリスは辛抱強く我慢し、妖夢は状況整理に全力を挙げていたからだ。
そして。
「ごめんなさい」
顛末を正しく把握した妖夢は平身低頭謝っていた。
「悪気があったようで嬉しいわ」
笑顔でアリスは応える。
「取り敢えず、和解は後にするとして……何しに来たのかしら?」
「そりゃ、そっちに用があって……」
「それはそうね。で?」
平身低頭したままの妖夢にアリスは冷然と言う。
「えーと。……斬れば分かるというか」
「何で、何を」
「白楼剣で、七色の魔法使いを」
「私の事よね、それ」
「ええ、まぁ」
唐突な事に取り敢えず確認を取れば、あっさり肯定されアリスは不思議に思った。
ストレートな所は妖夢らしいといえばらしいが、それにしても物騒だろう。それに、そもそも斬られるような事をした覚えも無ければ、それで分かるような疑問にも心当たりは無い。
「白楼剣は人間の迷いを断ち切れるんだけど」
首を傾げていたら妖夢がさらに喋り出す
「悩みが無い相手を斬ったらどうなるのかなー、と」
「…………」
「…………」
「……それだけ?」
「へ?」
静寂を挟んだ後の呆れたアリスの言葉に、妖夢が変な声を出す。
「それだけの為にわざわざ扉を破壊して壁に穴を開けてこの部屋まで突っ込んできた訳?」
「そ、それは……まぁその。あー、不幸な事故というか、魔法の森が悪いと言うか」
「……まぁ原因についてはどうでも良いわ。こうなってしまっているのだし」
「ごめんなさい」
「ともかく。斬りに来たからってはいそうですかと斬られる訳にもいかないし、大体そんな簡単な事で斬られては堪らない」
アリスの言葉、その後半部分を聞いて妖夢は目を瞬かせた。
「簡単?」
「簡単よ。無いものをどうやって斬ろうってのよ」
「それは……いや、でも有無を問わず断ってこそ剣士としての腕前というものが」
「斬れた時点でそれはあるものでしょうに。無い物なんて無いんだから干渉出来る訳が無いでしょう?」
「あー……うーん、そうかも」
言われ、妖夢はなんとなく納得してしまう。
元々自力では深く考えず、斬れば分かるの明解な思考停止によって妖夢は行動開始していたのである。故に、アリスが提示した答えに大した反論材料を持っていなかったのだ。
「さて。これで私はあなたの疑問を解決しつつ、それでいてあなたは私の家をそれなりに破壊してくれている訳だけど」
「ごめんなさい」
改めて平身低頭する妖夢にアリスは続けて言った。
「条件次第じゃ不問にしても良いわ」
「……え?」
耳を疑うような様子で妖夢は言う。なんだかんだで魔法使いに迷惑を被らせたのだから、何か手酷い報復が待っているものだと思っていたのだが。
「私が人形の研究をしているというのは知ってるわよね?」
「そりゃまあ」
「で、その研究には人形の自立も含まれているのよ」
そこでアリスは笑顔を見せる。それもさっきまでの悪質な諧謔を感じさせるものではなく、友好的な笑顔だった。
それはそれで妖夢は嫌な予感を禁じ得なかったが。
「人形の自立、要するに物の自立には魂が必要なのよ。生きていればあれやこれやと自分で考えて行動出来るもの」
「……確かに」
首肯した妖夢に、アリスはずいと顔を寄せる
「半人半霊の魂って珍しいと思わない? あなたの姓の通り魂と魄に分かれているだけなのかもしれないけれど、それはそれでやっぱり珍しいもの。所謂陰陽関係の魂魄が、それだけ近くに居るのに一緒にならずに分たれたままなんだし」
「え、えーっと。……つまりどうすれば?」
一気にまくしたてるアリスに、妖夢は気圧されつつ言った。
「取り敢えず、壁の穴と玄関の扉を直して、暫く私と一緒に暮らしてくれるかしら。その間色々と実験や研究を手伝ってもらう事になるけれど」
アリスの答えに妖夢は難しい顔になる。補修や一緒に暮らすまでは良い。特に補修の方はして然るべきなのだし。
だが実験や研究の方が頂けない。色々だなんて言うのだからそれこそ想像の及ばない事までされるに違いないだろう。
「……断ったら?」
背筋に怖気を感じつつ、そっと妖夢は聞く。
「あなたの粗相が西行寺に知れるでしょうね?」
酷く晴れやかな笑顔でアリスは答えた。
その瞬間、妖夢の回答は決定されたようなものである。
他所様の家を破壊したり迷惑をかけたりした事が幽々子に知れたら、さあどんな事になるのやら。ざっと思い付く範囲を想定しただけで、妖夢は心が窄まるような思いを味わった。
「…………穴と玄関、どっちから直せば?」
この妖夢の諦観に満ちた言葉を協力の肯定と取ったか、アリスはびしりと背後を指差す。
「まずは、扉からね」
壁の穴の向こうでは、打ち破られた扉の残骸が散らばったままだった。
―――そして時は流れ……。
色々と憔悴した様子で妖夢は魔法の森を後にし、白玉楼へと飛んでいた。
ただ、表情こそ疲れ切ってはいるが、特に痩せた様子もなければ、むしろ血色も良く健康そのものと言える。
アリスは研究対象としての妖夢を手厚く扱ったのだ。それこそ、扉と穴を何とかした後は妖夢が恐縮する勢いであれやこれやと世話をしたのだから。
三食昼寝付きとはよくぞ言ったものである。
ただし、やっぱりアリスの言葉通り色々と実験や研究に付き合わされた。何だかよく分からない兜を被って生活させられたり、変な色の湯船に浸からされたり、紫陽花色の錠剤を飲まされたり、妙な形の棒を咥えさせられたり、等々。
普段であったらどれもこれもご免こうむる事ばかりだったが、原因と言えば自分にあるのでどうしようも無い。
それで結局、アリスの気が済むまで彼女に甲斐甲斐しく世話をされていた訳である。
「……快適なんだか、そうでないんだか……」
マーガトロイド邸での生活を思い出し、一人ごちた後白玉楼へ続く大階段に降り立った。
幽々子への事情説明は、アリスの研究に付き合うので暫く帰りません、との旨を手紙にしたためてある。間違って無いのだし問題は無いだろう、と改めて自分を納得させながら階段を上っていく。
「あらお帰りなさい、妖夢」
慣れ親しんだ石段の最上段に妖夢が足を乗せた時、やはり慣れ親しんだ声が彼女を出迎えた。
白玉楼である。そしてそこに、仕えるべき西行寺の当主が居る。
やはり自分のあるべき所はここなのだ、帰るべき所はここなのだ、と、日常に帰って来た事を感受性豊かに大袈裟に受け止めた妖夢である。
「ただいま帰りました、幽々子様」
万感の想いを胸に、頭を下げた。
「ええ、それじゃ早速庭の方お願いね。あなたが居ない間ずっとほったらかしだったから」
一方の幽々子は、それこそ全くいつも通りの様子で妖夢に言い付ける。
それがまた妖夢にとって嬉しかった。
「はいっ、ただ今!」
頭を上げ、勢い良く二百由旬の庭へ駆けて行く。
嗚呼、太陽はきらきらと輝いて、白砂はさらさらと透き通って。早速庭木に対し二刀を振るいながら、いつになく晴れやかな心情で妖夢は庭師としての職務に精励する。
考えようによっては、マーガトロイド邸での日々は良い気分転換になったのかもしれない。
……ただ、そんな妖夢の様子をおかしく思ったのか、後で幽々子に本気で心配されてしまったが。
不思議な事など何も無い、全く当然の事なのだが、何故かそれを妖夢は自分がこの森に歓迎されていないのでは、等と感じていた。人間としても幽霊としても半分で、存在としては酷く曖昧だからなのかもしれない。
でもそれを言ったらどこへ行っても歓迎されそうもない訳で。
ざわめく森の中、妖夢は帰ってしまおうかなぁ等と思いつつ、それでも足は確実に森の奥、目的地へと動いていた。
用件は単純である。
動機も単純である。
だが答えは分からなかった。
故にこうして出向いている訳だ。
迷路のような森を進み、時折あまり目にしない諸々を見かけては一々歩みを止め。目的半分散策半分な様子で妖夢は進む。
ざわざわ。
ざわざわ。
ざわざわ。
妖夢は歩みを止めた。
半人の自分にまとわりつくように半霊の自分が揺らめいている。
ざわざわ。
ざわざわ。
ざわざわ。
どこからも聞こえてくるような森と風の騒がしいやりとり。
森と言う所は、木々が行く手を阻み、木々が日光を遮り、木々が空間を覆う場所。
ともすれば方向感覚が怪しくなり、ややもすれば迷子になる。まっくらな森は帰らずの森とはよく言ったものだ。
「…………う」
頭上を見上げ、揺れる枝葉に何となく呻いた。
元々感受性の強い妖夢である。そして怖い物が苦手な妖夢である。
さて、目的があって赴いたはいいものの、そろそろ感受性が余計な働きをし始めていた。
木々の間で揺らめく何かを見たり、木陰に居もしない何かを見たり。
怖がりでなければ何の問題もなく気のせいで処理できる事だが、感受性がそれを増長させ妖夢に伝えてくる。
じわりと汗を浮かべた妖夢は、一瞬より少し早いくらいの思考で今自分の居場所が森の外より目的地の方が近いものと判断。
「獄炎剣!」
即座の行動。
楼観剣と白楼剣の二刀を引き抜くなり、ちょっと涙の浮いた真剣な面持ちで目的地を見据え―――
「業風閃影陣ッ!」
白髪緑衣の少女は物凄い速さで木々の間をすっ飛んで行った。
実に快適な環境。
アリスが魔法の森に居を構える理由がそれである。
自らが整備しそれと分かっているからこんな辺鄙に棲む以上、そうでなければ困ると言うものだ。
魔法使いというものは自分のやりたい事をやる為なら手段なんて選ばない。故にアリスは誰も来ない魔法の森に都会派な建物を建ててそこに棲んでいる。
当然、常人からすれば何故そこまでと言いたくなる事だが、アリスから言わせれば全く必要な事なのだ。
根本的な感覚の違いだろう。
快適な環境下で今日も今日とて人形造り、動作試験、改良、整備。どこかの口さがない鯨幕がそれをさもしいと言ったそうだが、そもそもジャンルの違う者がどう言おうがどうでも良い事である。
五指の先で緻密に糸を手繰り、浮かぶ人形に思うままの動きをさせていく。
アリスの視線の先、赤いワンピースを着せられた人形は彼女の意思を反映する動きを見せ、くるくると踊ったり、あどけなく微笑んだり、凛と澄ましてみたりした。
最後に人形に一礼させ、やや満足した様子でアリスは息を吐く。
「……少し、左足首の動きが鈍かったかしら」
人形を両手でそっと捕まえると、動かしていた間気になった部分に触れようと―――
どんがらがっしゃーん。がらがら、がたん。ずどどどど。
何か玄関の方から連鎖的な物凄い音がした。
「…………」
アリスの片眉がぴくりと動く。
こういうのが初めてという訳では無い。かといってしょっちゅうある訳でも無いが、それでも驚きよりはまたかの方に心の慣れは傾いてしまっていた。
本音を言えば聞かなかった事にして人形の整備に戻りたいのだが、そうもいかない。何せアリスは人形にばかり興味と関心がある訳ではなく、マジックアイテムの蒐集家でもあるのだから。
溜息と人形を脇へ置いてその人形の糸を取る事を同時にこなし、音の方へと向かいがてら青のワンピースに白エプロンを付けた別の人形を自分の傍に浮かべた。
そして、溜息を吐く。
玄関ホールは酷い有様だった。
真正面から何かが突っ込んで来たのは明白で、打ち破られた玄関は残骸が蝶番に支えられてキィキィ揺れ、その直線状に扉だった物を撒いて壁に穴が開いていたのだから。
「今日はまた随分と激しいじゃない?」
額を抑えるも、状況には場違いな笑みが浮かぶ。報復を楽しみにしている類のそれだ。
壁の穴を覗き込むと、部屋の幾つかの本棚が倒れ中身が建材の一部と共に散乱しているのが良く分かる。
都会派としては回り込んで本来の入口からその部屋に入りたかったが、急ぐ必要がある以上そうも言ってはいられない。壁の穴から部屋に入り、髪や裾を払いながら辺りを見回す。
状況が酷いのはこの際無視する事にした。
「…………あら」
そんな中、明らかに不自然なものが崩れた本棚と本の山から生えているのが見える。
それは黒い靴に白のソックスを装着した人の足。厳密にはふくらはぎから爪先までだ。
黒い靴に白いソックス。それだけで考えれば確実にあの鯨幕なのだが、それはそれで不自然だった。或いは奇を衒った罠の可能性もあるが、そういうブレインが必要な事を鯨幕がやる訳が無い。
するとあれは何だろうか。
アリスが不可思議なオブジェに首を傾げていると、ささやかな疑問に対する明々白々な答えが本の隙間から湧いて出てきた。
ふよふよと頼り無く漂うそれは幽霊に相違無い。
で、そういうのとセットでこういう事をやらかしかねないのと言えば、自ずと答えは明らかだ。
ただ、その答えがどういった理由でこんな事を仕出かしたかが分からない。
幽霊と話しが出来る方法はそういえば結局聞けず仕舞いだったから、オブジェの周りを漂う半霊から事情を聞く訳にもいかないし。
となるとするべき事はまず一つ。
傾げた首を直すと、両手を肩を竦めるように持ち上げる。
すると彼女の周りにはどこからか続々と人形達が馳せ参じ、その指先が命じるままに人形達はオブジェの周りの整理整頓に取りかかった。
まず人形達は本を穴から玄関ホールへと取り除き、続いて本棚を定位置へ戻し、改めて除かれた本を棚へと戻していく。同時に床の掃除も行い、アリスがやや得意げに柏手を打って人形達を撤収させた頃には、壁の穴と床に倒れる半人以外は元通りになっていた。
「さて」
視線だけを床に向ける。
そこには白髪緑衣の少女が未だに目を回していた。霊の方は普通に漂っているにも関わらず、実体を伴う方のまぁ脆弱な事。
アリスは呆れながらも、ワンピースにエプロンの人形を操って少女の眉間に触れるか触れないかの所に配置する。
七秒後。
「うわあああああああああああああああああああ!?」
拭い難い違和感に妖夢は飛び起きていた。
そしてすぐさま自分の主の名を非難がましく呼ぼうとして、
「……あ?」
呆然と目を点にする。
ああいう陰険な起こし方をするのは妖夢にとっては一人しか心当たりが無かったのだが、今彼女を見ているのは七色の都会派魔法使い。何故か彼女の背にある壁には穴が開いており、辺りを見回せば成る程、魔女の部屋に相応しい感じで本棚が所狭しと並んでいた。
「おはよう」
状況が掴めていない様子で二刀を鞘へ収める妖夢に、笑顔でアリスは言った。
「……おはよう」
相手の笑顔に悪寒を感じながら、困惑気味に妖夢は応えた。
それから少しの間、お互い声を出そうとはしなかった。
アリスは辛抱強く我慢し、妖夢は状況整理に全力を挙げていたからだ。
そして。
「ごめんなさい」
顛末を正しく把握した妖夢は平身低頭謝っていた。
「悪気があったようで嬉しいわ」
笑顔でアリスは応える。
「取り敢えず、和解は後にするとして……何しに来たのかしら?」
「そりゃ、そっちに用があって……」
「それはそうね。で?」
平身低頭したままの妖夢にアリスは冷然と言う。
「えーと。……斬れば分かるというか」
「何で、何を」
「白楼剣で、七色の魔法使いを」
「私の事よね、それ」
「ええ、まぁ」
唐突な事に取り敢えず確認を取れば、あっさり肯定されアリスは不思議に思った。
ストレートな所は妖夢らしいといえばらしいが、それにしても物騒だろう。それに、そもそも斬られるような事をした覚えも無ければ、それで分かるような疑問にも心当たりは無い。
「白楼剣は人間の迷いを断ち切れるんだけど」
首を傾げていたら妖夢がさらに喋り出す
「悩みが無い相手を斬ったらどうなるのかなー、と」
「…………」
「…………」
「……それだけ?」
「へ?」
静寂を挟んだ後の呆れたアリスの言葉に、妖夢が変な声を出す。
「それだけの為にわざわざ扉を破壊して壁に穴を開けてこの部屋まで突っ込んできた訳?」
「そ、それは……まぁその。あー、不幸な事故というか、魔法の森が悪いと言うか」
「……まぁ原因についてはどうでも良いわ。こうなってしまっているのだし」
「ごめんなさい」
「ともかく。斬りに来たからってはいそうですかと斬られる訳にもいかないし、大体そんな簡単な事で斬られては堪らない」
アリスの言葉、その後半部分を聞いて妖夢は目を瞬かせた。
「簡単?」
「簡単よ。無いものをどうやって斬ろうってのよ」
「それは……いや、でも有無を問わず断ってこそ剣士としての腕前というものが」
「斬れた時点でそれはあるものでしょうに。無い物なんて無いんだから干渉出来る訳が無いでしょう?」
「あー……うーん、そうかも」
言われ、妖夢はなんとなく納得してしまう。
元々自力では深く考えず、斬れば分かるの明解な思考停止によって妖夢は行動開始していたのである。故に、アリスが提示した答えに大した反論材料を持っていなかったのだ。
「さて。これで私はあなたの疑問を解決しつつ、それでいてあなたは私の家をそれなりに破壊してくれている訳だけど」
「ごめんなさい」
改めて平身低頭する妖夢にアリスは続けて言った。
「条件次第じゃ不問にしても良いわ」
「……え?」
耳を疑うような様子で妖夢は言う。なんだかんだで魔法使いに迷惑を被らせたのだから、何か手酷い報復が待っているものだと思っていたのだが。
「私が人形の研究をしているというのは知ってるわよね?」
「そりゃまあ」
「で、その研究には人形の自立も含まれているのよ」
そこでアリスは笑顔を見せる。それもさっきまでの悪質な諧謔を感じさせるものではなく、友好的な笑顔だった。
それはそれで妖夢は嫌な予感を禁じ得なかったが。
「人形の自立、要するに物の自立には魂が必要なのよ。生きていればあれやこれやと自分で考えて行動出来るもの」
「……確かに」
首肯した妖夢に、アリスはずいと顔を寄せる
「半人半霊の魂って珍しいと思わない? あなたの姓の通り魂と魄に分かれているだけなのかもしれないけれど、それはそれでやっぱり珍しいもの。所謂陰陽関係の魂魄が、それだけ近くに居るのに一緒にならずに分たれたままなんだし」
「え、えーっと。……つまりどうすれば?」
一気にまくしたてるアリスに、妖夢は気圧されつつ言った。
「取り敢えず、壁の穴と玄関の扉を直して、暫く私と一緒に暮らしてくれるかしら。その間色々と実験や研究を手伝ってもらう事になるけれど」
アリスの答えに妖夢は難しい顔になる。補修や一緒に暮らすまでは良い。特に補修の方はして然るべきなのだし。
だが実験や研究の方が頂けない。色々だなんて言うのだからそれこそ想像の及ばない事までされるに違いないだろう。
「……断ったら?」
背筋に怖気を感じつつ、そっと妖夢は聞く。
「あなたの粗相が西行寺に知れるでしょうね?」
酷く晴れやかな笑顔でアリスは答えた。
その瞬間、妖夢の回答は決定されたようなものである。
他所様の家を破壊したり迷惑をかけたりした事が幽々子に知れたら、さあどんな事になるのやら。ざっと思い付く範囲を想定しただけで、妖夢は心が窄まるような思いを味わった。
「…………穴と玄関、どっちから直せば?」
この妖夢の諦観に満ちた言葉を協力の肯定と取ったか、アリスはびしりと背後を指差す。
「まずは、扉からね」
壁の穴の向こうでは、打ち破られた扉の残骸が散らばったままだった。
―――そして時は流れ……。
色々と憔悴した様子で妖夢は魔法の森を後にし、白玉楼へと飛んでいた。
ただ、表情こそ疲れ切ってはいるが、特に痩せた様子もなければ、むしろ血色も良く健康そのものと言える。
アリスは研究対象としての妖夢を手厚く扱ったのだ。それこそ、扉と穴を何とかした後は妖夢が恐縮する勢いであれやこれやと世話をしたのだから。
三食昼寝付きとはよくぞ言ったものである。
ただし、やっぱりアリスの言葉通り色々と実験や研究に付き合わされた。何だかよく分からない兜を被って生活させられたり、変な色の湯船に浸からされたり、紫陽花色の錠剤を飲まされたり、妙な形の棒を咥えさせられたり、等々。
普段であったらどれもこれもご免こうむる事ばかりだったが、原因と言えば自分にあるのでどうしようも無い。
それで結局、アリスの気が済むまで彼女に甲斐甲斐しく世話をされていた訳である。
「……快適なんだか、そうでないんだか……」
マーガトロイド邸での生活を思い出し、一人ごちた後白玉楼へ続く大階段に降り立った。
幽々子への事情説明は、アリスの研究に付き合うので暫く帰りません、との旨を手紙にしたためてある。間違って無いのだし問題は無いだろう、と改めて自分を納得させながら階段を上っていく。
「あらお帰りなさい、妖夢」
慣れ親しんだ石段の最上段に妖夢が足を乗せた時、やはり慣れ親しんだ声が彼女を出迎えた。
白玉楼である。そしてそこに、仕えるべき西行寺の当主が居る。
やはり自分のあるべき所はここなのだ、帰るべき所はここなのだ、と、日常に帰って来た事を感受性豊かに大袈裟に受け止めた妖夢である。
「ただいま帰りました、幽々子様」
万感の想いを胸に、頭を下げた。
「ええ、それじゃ早速庭の方お願いね。あなたが居ない間ずっとほったらかしだったから」
一方の幽々子は、それこそ全くいつも通りの様子で妖夢に言い付ける。
それがまた妖夢にとって嬉しかった。
「はいっ、ただ今!」
頭を上げ、勢い良く二百由旬の庭へ駆けて行く。
嗚呼、太陽はきらきらと輝いて、白砂はさらさらと透き通って。早速庭木に対し二刀を振るいながら、いつになく晴れやかな心情で妖夢は庭師としての職務に精励する。
考えようによっては、マーガトロイド邸での日々は良い気分転換になったのかもしれない。
……ただ、そんな妖夢の様子をおかしく思ったのか、後で幽々子に本気で心配されてしまったが。