穂積名堂 Web Novel

彩雨草子

2012/02/29 02:10:55
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彩雨草子

 未曾有の事態だった。
 いつ滅びるかも解らない。いつ滅ぼされるかも解らない。
 限界はとうに越え、抗う力はもう欠片も残されてはいない。
 震える膝に力は入らず、今にも崩れ落ちてしまいそうだ。
 ――いっそのこと、倒れてしまいたい。
 そんな欲求、あるいは願望が胸の内に広がっていく。
 全てを投げ捨てて、この大地に身を委ねる事が出来れば、さぞかし楽になれるだろう。
 しかし、それではいけないのだ。
 倒れてしまえばそこで終わりなのだ。
 踏みとどまらなければいけない。
 踏みとどまって、伝えなければいけない。
 この想いを。
 踏みとどまって、届けなければいけない。
 この言葉を。
 満身創痍。けれどまだ倒れてはいない。
 倒れていなければ、伝えられる、届けられる。
 目を閉じ、深く、深く息を吸い込む。肺腑に空気が送り込まれる。全身、至る所から悲鳴が上がったが、無理矢理押し込める。大丈夫。出来るはずだと自分を信じて。
 そして開眼。ありったけの力を込めて、あの世の果てまで届けと声を張り上げた。

「もう嫌だ! 実家に帰らせていただきます!」
「貴方の実家ってここじゃない」

 一撃だった。というより一言だった。
 にべもない、幽々子様の無慈悲な声が私のヒビだらけになった心をいとも容易く打ち砕く。答えてほしいのはそっちではないのに、多分解って言っているのだろう。多分というより絶対か。自分でもどうしてそんな言葉を継いでしまったのかは解らないが、なんとなく言わなければいけないような気がしたのだから、仕方がない。
 とはいえ、最後の砦を崩されてしまっては最早立っている事も叶わず。重力に身を任せてひと思いに畳の上へと倒れ込むと、私の姿を覆い隠すように数多の童顔が覗き込んできた。

「妖夢がしんだー」
「妖夢がしんだぞー」

 まだ四分の一くらいは生きてるよ。
 そう返そうとしたけれど、先程声を張り上げたところで精も根も尽き果てたのか、喉は渇いた吐息を漏らすばかり。ぐるりと囲む子供達の間から見えた幽々子様と目が合ったが、心配してくれるのかと思いきや「情けないわねぇ」と一蹴してくださった。いやまぁ、最初から期待はしてなかったけど。
 日々の鍛錬を疎かにした事はないし、それが無意味だと思った事もない。体力にも技にも力にも、それなりに自信はあった。けれど、そんなものがてんで役に立たない場面があるという事を、この数日で思い知らされた。だって仕方がないじゃないか。知識も経験もないのだから。

「このままでは生きている方まで死んでしまう……」

 しかし、そんな嘆きを敵側が聞き入れてくれるはずもないという事は、私の知る世界と同じだった。
 子供達はまだ遊び足りないのか、やれ寝るな立て遊べと騒ぎ立てる。正直勘弁していただきたい。朝からずっと駆けずり回されて、体力など欠片も残っていないのだ。私がそんな状態だというのに、子供達ときたら誰一人として脱落者は出ていない。この差は一体なんなのか。その無尽蔵の体力は一体どこから湧き出ているのか、教えてほしいくらいだ。


     φ


 そもそもどうしてこんな事態が巻き起こったかというと、時は数日前まで遡る。
 白玉楼の庭に並ぶ、無駄とも言えるくらいの桜の木々が、青に染まるぜとばかりに落とした花弁の掃除を始めて幾日か。葉桜の時期が終わってもまだ終わらない庭掃除にようやく目処が付いた、そんな日の事だった。
 もう少しで終わりそうだと張り切って朝から庭中を飛び回り、そして日も暮れた頃に屋敷に戻ると、もうこんな状態だったのだ。
 一言で言うと、子供が増えていた。二言で言うと、超増えていた。
 幽々子様が珍しく出迎えてくれた。それはとても嬉しい事だ。しかしその腕には何故か赤子が抱かれていた。その時点でもう意味が解らない。しかも幽々子様の影からひょっこりと小さな子供が姿を現したのを皮切りに、一体どこにそれだけ隠れていたのかというような人数がずらずらと出てきたのだから、たまったものではない。

「な、そ、ど、だ――!?」
「なんですかその子供達は、というかどこから、いやそもそも誰の子供ですか?」

 開いた口が塞がらないという言葉を実感しながら、それでもどうにか言葉の切れ端を絞り出すと、どうやらちゃんと伝わったらしく、幽々子様が反芻してくれた。いや、この場合は補完してくれた、だろうか。
 腕に抱いた赤子の他にも、まだ立つことが出来ない子や、立ってはいるもののもう少し足取りがしっかりしていない子。一番大きい子でもまだ三つか四つといったところだろうか。そんな年端もいかない子供達が両手で足りるかどうかという程。攫ってきたとしか思えないようなこの状況に、けれど幽々子様は「くふふふふ」となんとも意地の悪そうな含み笑い。その猫口が可愛いなどと思ってしまった自分の妄想をざっぱりと切り捨てて、さぁ答えろと睨み据えると、幽々子様は抱いていた赤子を掲げるように持ち上げて、

「私と紫の子供よー!」
「攫ってきたんかい!!」
「あら、攫ってきただなんて人聞きが悪いわね。私と紫の愛の結晶に嫉妬でもしているのかしら。やーねー嫉妬。嫉妬嫉妬。妖夢はいつから橋姫になったのかしら。橋姫妖夢。あらお似合い」
「何に対して嫉妬するんですか。そもそも幽々子様も紫様も女性でしょうに。それで子供だと言われてもですね」
「貴方、紫をなんだと思っているのよ!」
「そっちこそなんだと思っているんですか!」

 しばし考えて、「……産む機械?」その発言は色々とアウト気味だからやめてください。というか紫様が産む方なのか。可能性的には逆なような気がするんだけれど、あまりその辺りは深く考えない方がいい気がする。

「まぁいいです。いやよくないですが」
「優柔不断が貴方の五十三万の欠点の内の一つよ」
「多っ!! そんなに欠点があるんですか私は!?」
「更に変身をあと二回も残しているわ」
「何に!?」
「……巨大ロボ?」
「考えていないならそんなネタ振らないでくださいよ……」

 それになんだ巨大ロボって。この間山の方の巫女がそんな事を騒いでいた気もするけど、よく解らない。外の世界の物なのだろうか。

「そんな事よりですね」
「巨大ロボをそんな事呼ばわりだなんて!」
「取って付けた話題に掘り下げる余地なんてありませんよ。というか一々話の腰を折らないでください」
「妖夢のくせに生意気だぞ!」
「いやいや幽々子様」
「人の台詞を盗むだなんていい度胸ね」
「このくらい誰でも使いますよ……で、本当にどうしたんですか、その子供達は」

 これがただの子供達であれば、私だってそこまでは気にしない。なんとなくそういう気分だった、という一言であっても納得できる。だって幽々子様だし。
 しかし、どう見てもこれは異常なのだ。
 十に近い数の子供達。
 その全員が――生きている。

「どういうおつもりですか、生きた子供を冥界に連れ込むなど、こんな事が閻魔様にバレたりしたら事ですよ?」
「だから私と紫の子供だって言ってるじゃない。今まで黙っていてごめんなさいね。これからは家族皆で仲良くやっていきましょう」
「幽々子様――」
「そんな怖い顔しないの」

 ほら泣いちゃった。と言う幽々子様の言葉通り、腕に抱いていた赤子がぐずりだしてしまった。
 どちらかと言えばすぐ近くで騒いでいた幽々子様の所為のような気もするけれど、言おうとしたところで意識は既にこちらには向けられておらず、「おーよしよし」なんて聞き慣れない声で赤子に向かって微笑んでいた。可愛いなぁ。……赤子の方ですよ?


     φ


 とまぁ、結局理由については「紫に頼まれたのよ」というだけで、それ以上の事は何も教えてはくれなかったのだけれど。
 逃げるように炊事場へと向かう途中、背後からはまた何か始めたのか、楽しそうな声が響いていた。
 思えば幽々子様もずっと付き合っているはずなのに、疲れた様子一つ見せない。亡霊だから体力切れなんて事にはならないのだろうけれど、それ以上になんというか、扱いが上手いというか、むしろ本人も子供だというか、すっかり同調してしまっている。千年も死んでいると、一週廻って幼児退行でもするのだろうか。
 ともあれ、そんな大人と子供の練り物、略して大共な幽々子様と子供達に振り回される日々が続いているのだが、正直そろそろ耐えられそうにない。いつまで続くのかと聞いたところで、紫様に聞けと言われるばかり。そして当の紫様は今のところ一切姿を現していない。今日終わるのか。明日終わるのか。それともまだまだ続くのか。考えただけで気が滅入ってしまう。

「すいません、水を貰えますか」

 炊事場に入り、手近な所にいた幽霊に声をかける。間もなく手渡されたコップの中身を一気に煽って、ようやく一息つく事が出来た。
 さて、と思ったところで足が止まる。
 正直戻りたくない。
 日の出前から起きているから、流石にたたき起こされるという事はなかったが、それでも起きてくるや否やずっと付き合わされているのだ。仕事だって片付かないし、この数日は剣の鍛錬もすっかりと遠ざかっている。まぁそんなのは所詮は建前で、勘弁していただきたいというのが本音ではあるのだけれども。うーん、どうするべきか。

「うん?」

 いつまで経っても戻らない私を不審に思ったのか、先程の幽霊が肩を叩いてきた。どうやって叩いたんだろうと少し気になったけど、細かいことは気にしても仕方がない。幽々子様の元で学んだ大事な事だ。
 見れば少し困った様子。どうしたのかと訊ねてみると、どうも食材が足りないようで、買い出しのお願い。つまりは不審に思ったというより、単に暇そうに見えたということか。
 しかし、どちらにせよ私にとって大きな助け船である事は間違いない。なにせ理由が出来たのだ。子供達の相手をしなくて済む、そして喧噪にまみれた今の冥界を抜け出す理由が。

「幽々子様! ちょっと顕界に行ってきます!」

 矢も盾もたまらず部屋に戻ると、開口一番その事を伝え出た。
 子供達に囲まれていた幽々子様がこちらを振り返り、きょとんとしたのも束の間、すぐに目を細めて、見慣れた嫌な微笑を向けてくれる。

「妖夢も随分と狡賢くなったわねぇ」

 あっさりと目論見がバレていた。

「いえ、私は常日頃から誠心誠意白玉楼、ひいては幽々子様のために全身全霊を賭してお仕えさせていただきますれば、此度の用事もまた幽々子様のためを思ってこそでして――」
「でも、冥界で食事が必要なのって実際のところ妖夢だけよね。私は亡霊だし」

 精一杯弁明を試みてみたところ、無慈悲な現実を叩きつけられた。
 一番食べているのは幽々子様じゃないですか、と返したいところだけれど、声に出してしまってはおそらく向こうの思う壺。ぐっと我慢、我慢だ妖夢。

「まぁでも」

 しかし、普段ならこちらの動向を窺ってくるであろうタイミングで、幽々子様が言葉を継ぐ。周りの子供達をぐるりと見渡し、「仕方ないわねぇ」なんて少し呆れたような顔をして、

「今はこの子達の分も必要だし、行ってきなさないな」

 思いの外、あっさりと了承されてしまった。
 幽々子様も子供には甘いという事なのだろうか。しかし、そうなるとそんなところにつけ込んだような気がして、少し申し訳なくなってくる。
 後ろ髪を引かれるような思いで部屋を後にするも、呼び止められるような事もなく、閉じた襖が見た目以上にこちらとあちらを隔てているような気がして、一つ溜息。
 どっちが子供なんだか。


     φ


「これで大体全部揃った、かな?」

 多種多様な食材で溢れる買い物用の大きな手提げ鞄の中を見て、屋敷を出る前に聞いた内容を思い返す。
 子供達の分もあるとはいえ、その量は若干多め。今日の分という事であればもう少し少なくて済むのだが、半分生きているとはいえ冥界の住人。そう易々と顕界には出てこられないのだ。
 過去にはそんな事はいざ知らずといった感じで度々顕界を訪れていたのだが、閻魔様にその事を言いつけられて以来、なるべく守るように心がけている。結果、食料の調達も何日かに一度出てきては、数日から一週間分程度を買い溜めているという訳だ。

「別に全部地上の物にする必要も……あー、今はダメなのか」

 肩にかかる鞄の重みに、ついそんな愚痴が零れてしまう。
 先程言われた通り、普段食事が必要なのは自分だけであり、幽々子様は趣味で食べているといっても差し支えない。そして二人だけであれば、正直なところこうして地上の食材を揃えるという事は別段必要ないのだ。冥界でも食料調達は十分に出来るのだから。
 元々地上の食材を使うようになったのは、幽々子様が地上の物の方が美味しいとか言い出したからなのだが、今はそういう訳にもいかない理由がある。
 黄泉竈食ひ、ないしは黄泉戸喫。
 別に今時そんな事を気にする必要もないのだけれど、全く影響が無いかと言えばそうでもなく、特に相手が子供のような、まだ自分の中で世の常識が固まっていないような者の場合はその程度も大きくなる、と幽々子様は言っていた。
 まぁでも、言葉の意味の上では黄泉の国で煮炊きされた物を食べると、という事なのだから、材料が地上の物であったところで、冥界で調理してしまえば関係ないような気もするのだけれど。その辺りは気休めというか念のためというか、そういう所なのだろう。

「雨……か。帰るまで降らないといいんだけど」

 里の中心にほど近い場所に置かれた龍神の石像。
 ただの石像ではなく、目の色を見れば天気の移り変わりが解るという優れものなのだが、今の色は双眸共に青。雨の色だった。
 龍神の予想は全てがその通りになるという訳でもないが、信用できる程度には当たっている。今はまだ曇っている程度だが、直に降ってくるのかもしれない。
 見れば、周りの人達もどこか少し憂鬱そうに、若干足を早めて石像の前を過ぎていく。
 自分も少し急ぐべきか。
 冥界を出る前から顕界が厚い雲に覆われていたのは見えていたので、雨具の用意はしてあるものの、降られる前に帰った方がいいのは間違いない。
 雨は昔からあまり好きではなかった。
 外に出れば服が濡れる。その中で立ち会いともなればどうしても動きは鈍り、土のぬかるみに足を取られる事もある。実際、昔はよく稽古中にすっ転んで泥だらけになった事もよくあった。今はもうそんな事はないのだけれど、雨の日に庭に出たりすると、今でも当時の事を思いだして、少し気恥ずかしくなる。
 別に立ち会いに限らずとも、足下が悪いのは余り気分のいい物ではないし、洗濯物だって雨では乾かない。やはり晴れているに越したことはないのだ。
 幽々子様はよく「むしろ雨の方が風情がある」なんて事も言うし、以前も雨月がどうのという事があったけれど、如何せん今は買い物帰り。食材を濡らしてしまっては何を言われるか解ったものではない。

「帰るか」

 用事も済んだのだし、雨の予報が出ているのであれば長居する事もない。
 そう思って踏み出した一歩は、けれどすぐに射止められてしまった。

「うん?」

 不意に感じた視線。振り向くと細い路地に少女の姿があった。今冥界にいる子供達と同じくらいか、まだ年端もいかない、自分よりも大分幼い女の子。
 少女は何かを言うでもなく、じっとこちらを見ていた。思わずこちらも見返してしまうが、はて、半人半霊の自分が珍しいのだろうか。
 こういう風に見られる事は、今までにも少なからずあった。その大抵は自分の半人半霊という種族の特徴、傍らにふよふよと浮いている霊体部分についての興味や関心といった事がほとんどだったが、それでもこんなにじっと見られる事は無かったように思う。
 どうしたのかという一言を言うタイミングを逃し、なんとなく続く見つめ合い。さてどうしたものかと思っていると、少女がほんの少しだけ視線をずらした。
 その先を追っていくと、こちらの足下近く、背負った楼観剣の鞘の先に行き当たった。
 刀が珍しいのだろうかとも思ったが、改めて少女を見てそうではないと気付く。
 菖蒲の髪飾り。
 なるほどそういう事かと納得する。鞘の先にはいつも季節の花を差しているのだけれど、今は丁度彼女の髪飾りと同じ菖蒲の花が揺れている。ドライフラワーというもので、枯れることのない、そして生きてもいない花。幽々子様は気に入らない様子だったが、こちらの方が冥界の住人である私らしいと、紫様がくれた物だった。

「おかーさん」
「へ?」

 お揃いですね、と声を掛ける前に、彼女がこちらを指さしてそんな事を言った。
 おかーさん。お母さん。つまりは母親。いやいや、私はまだ子供を産んだような覚えはないのだけれど、はてさてこれは一体どいう事か。
 とまぁ、一瞬混乱してしまったものの、恐らくは菖蒲の花の事を指して言っているのだろう。
 母親が菖蒲、つまりは花から生まれた子供か。いやいや。

「……っと、降ってきた?」

 鼻頭を打った冷たい感触に空を仰げば、龍神の天気予報は今日もよく当たったようで、ぱらぱらと、次第に増えていく雨粒がそこに見て取れた。
 降り出す前に帰ろうと思っていたのだが、中々そう上手くはいかないようだ。

「あー……貴方も早く……あれ?」

 もう一度少女の方を見てみるが、細い路地は最初から何もなかったように、いよいよ本降りになってきた雨の音だけが響いていた。

「どこに行ったんだろう?」

 どこか釈然としないものを感じたものの、鞄の中身を思い出して慌てて持ってきていた合羽を取り出して、悩んだ末に鞄を包み込んだ。どうして一枚しか持ってきていなかったんだ。
 五月の雨は、まだまだ冷たい。おまけに雨雲の中を突っ切らなければいけないのだから、尚のこと。
 それでも、風邪をひきそうだという事よりも、先程の少女の事が気になっていた。
 なんとなく気付いていたが、言いそびれたのか聞きそびれたのか。どちらにしても、場合によってはいきなりそんな事を言うのはよくない事でもあるから、黙っておいて正解だったのか。

「亡霊、ねぇ」

 子供の姿をしていたという事は、死んだ事に気付いていないという方か。
 それにしても、冥界で生きた子供に囲まれて、顕界で死んだ子供に出会うとは。
 どうしたものだろうと考えて、頭上を覆う雨雲にとりあえず溜息を吐いてみた。


     φ


「亡霊の女の子? いや、初耳だな」
「そうですか……」

 翌日、改めて里を訪れてはみたものの、どこを探しても昨日の少女は見つけられなかった。
 困った時は人に聞く、という事で行き交う人々に話を聞いてみたのだが、期待する答えが返ってくる事はなく。一縷の望みをかけて訊ねてみた慧音の元。しかしここでもまた期待した答えは聞けず、振り出しに戻ってしまう。
 丁度これから寺子屋に向かうところだったようで、道すがら改めて聞いてみるも、やはり心当たりはないのか、申し訳なさそうに謝られてしまった。

「子供という事なら寺子屋の子供達の方が知っているかもしれないからな。聞いておくよ」

 そう言って、こちらだからと分かれ道で慧音が手を振る。
 傘に隠れたその背中を見送って、さてどうするかと考えたところで妙案が浮かぶこともなく。また聞き込みをしてみようかとも思ったが、昨日から降り続いている雨の所為か、いつもは賑わう通りも閑散としていて、聞くべき相手がいないという状況。

「人魂灯、借りてこればよかったかなぁ」

 灯りを灯せば幽霊達を集める事が出来る、冥界の道具。それにもまた雨と同じようにあまりいい思い出はないのだが、こういう時にこそ使うべきなのではないだろうか。
 しかしそこまで考えて、はて、と気付く点があった。
 幽霊達を集める人魂灯。さてそれは果たして亡霊も集めてくれるのだろうか。
 幽霊と亡霊は似ているようで厳密には別のものだ。けれど、厳密には別のものだがやっぱり似ているところもある。
 ならば大丈夫かとも思うけれど、そうはいったところで幽々子様が貸してくれるとは限らない。散々怒られたからなぁ。
 どちらにしても、無い物をねだっても仕方がない。冥界に戻って話してみるという手もあるが、なんとなく、幽々子様の手を煩わせるのも憚られた。昨日の事がまだ尾を引いているのだろうか。自分ではよく解らないのだけれど。

「となると、うーん……」

 相手は亡霊。ならば自分が適任ではあると思う。けれど地上の、幻想郷の事であれば何も自分がやらずとも、他に任せられる者もいるだろう。なのに何故自分でどうにかしようと思っているのか。いやまぁ、他に任せられる相手――主に巫女とか死神とかが揃いも揃って頼りなさそうだからという事もあるのだろうけれど、それでも自分で自分の行動を少し意外に思う。

「まぁ、見たからには放ってもおけないか」

 燻る気持ちを、とりあえずそんな言葉で慰めておいた。
 子供。亡霊。輪廻の輪から外れ一人ぼっち。
 紫様が何を思って子供達を冥界に連れてきて、そして幽々子様が何を思ってその子供達を受け入れているのかは解らないが、それでもこの数日、子供達が不安な顔を見せた事は一度もない。知らない場所にいきなり連れてこられたであろうに、誰もが楽しそうにしている。
 そんな光景を見ていたからだろうか。


     φ


 雨はここにきて一段と強さを増し、傘を叩く雨音が耳に五月蠅い。とうに日は暮れ辺りはすっかりと闇に覆われ、けれどあの少女は見つからないまま、時間だけが過ぎていっていた。
 ひょっとするともう成仏してしまったのかもしれない。未練も無くなり、川を渡っていったのかもしれない。そんな想いが、疲れた足を更に重くする。
 龍神の石像の前。その双眸は変わらず青く煌めき、まだまだ雨が止まない事を知らせていた。
 少し歩けば、あの少女を見かけた路地がある。そこは今も猫一匹おらず、夜の闇が広がるばかり。

「これ以上は無理、かな」

 流石に灯りの用意まではしてきていない。雨のおかげもあって、辺りはいつも以上に暗く冥く、自分の足下さえもよく見えず、このような状態では子供一人捜すというのも無理な話というもの。
 できれば早め、今日中には見つけてあげたかったが、一日中探して見つからないという以上、何か手立てを考えなければいけない。やはり幽々子様に話をしてみた方がいいだろうか。
 そう思って、白玉楼に返ろうかと路地に背を向けた、その時だった。

「……!?」

 背後、今まで見ていた路地からあの少女の声が聞こえたような気がして、振り返る。
 果たしてそこに少女の姿は無く、それどころか先程まで見ていた闇に包まれた路地すらも消え失せていた。

「なん、だ……これ」

 正確には路地はあった。路地はあったのだが、それはつい今し方見ていたものとはまるで違うものだった。
 何が起きたのかと周りを見ると、飛び込んできた眩いばかりの光に目が眩み、思わずよろめいてしまう。
 目を擦り、体勢を立て直してもう一度辺りを見回してみると、どういう事だろうか、そこには今までに見たこともない景色が広がっていたのだ。強い雨が降っているのは変わらないが、それ以外がまるで違う。空の黒をかき消すかのように一帯は煌々と照らされ、闇というものが地上にはまるで見受けられず、生暖かい空気は喉に痛かった。そして傘を叩く雨音も気にならない程の騒音。音の発信源を辿れば、見たこともないような物が、聞いたこともない音を奏でている。
 何よりも、その人の多さに驚いた。
 雨が降っているにも関わらず、通りは多くの人で溢れていて、そしてその誰もが忙しなさそうに行き交っている。持っている物も、着ている服さえも、普段幻想郷で見慣れている物とは随分と違っていた。

「……外の、世界」

 時折紫様が話しているのを聞いて、それがどんなものかという事は知ってはいたが、いざ本物を目の前にすると、所詮聞いた話は聞いた話でしかないという事がよく解る。
 喧噪、空気、暖かさを感じさせない光。
 どれもが己を縛り付けるようで、耐え難かった。
 喘ぐように空を仰いでみれば、幻想郷では見たことのないような高い建造物が空を覆い隠すように建ち並び、それがまた圧迫感を増長させる。空に上がる事など出来ないのだと。己の居場所は地上にしかないのだと。
 はっきりと、呼吸が苦しかった。
 空気の所為なのか、それとも別のものの所為なのか。
 ――空に上がれば少しはマシだろうか。
 そう考えたものの、果たしてここで飛べるのかと、そんな不安が押し寄せてきた。今まで飛ぶという事に対して特に意識した事など無かったのに、途端に飛び方が解らなくなる。それどころか、足が竦んでしまい、動けなくなる。
 どうすればいいのか。そもそも幻想郷に帰る事は出来るのか。
 そんな事を考え始めた時に、あの少女の時と同じような視線を感じて、妖夢が首だけをそちらへ向けた。
 そこは無機質な建物と建物の間、光が溢れる地上に残された数少ない闇に包まれた、先程の細い路地。
 目を凝らしてみるが、何も見えず、何も感じず。ただその闇もまた、普段見慣れている幻想郷のそれとは異質な物に思えた。
 外の世界では闇の中にすら人々の畏れは存在せず、なるほど幻想郷の中にしか妖怪の居場所が無いと言われるのも頷ける。半分人間である自分でこの有様なのだから、純粋な妖怪がこのような場所に来てはひとたまりもないだろう。
 そう考えて一度目を閉じ、もう一度開いて路地を見る。
 灯りもない路地だというのに、それでもその場を覆う闇はどこまでも薄い。路地の向こう側はまた大きな通りがあるのか、光に溢れ、人々が行き交う姿が見える。その雑踏の中に少女ではない、女の姿が見えたような気がしたが、それも一瞬のこと。

「ひやぁっ!」

 唐突に後ろから肩を叩かれて、文字通り飛び上がってしまった。
 一体誰が、と思って振り返ると、こんな所にはなんとも場違いな、けれどもよく見知った顔。その瞬間、驚きよりも安堵の気持ちが勝ったのか、人目を憚る事もなく、服が濡れてしまうのも気にする事なく、その場にぺたんと座り込んでしまった。

「どうしたのよ、こんな所で」

 そんなこちらを見下ろして、呆れたように溜息一つ。
 姿を見た時は夢か幻かとも思ったが、その声、なによりも纏う雰囲気は間違いなく彼女の、紫様のものだった。

「気付いたらここにいて……でも助かりました。どうやって幻想郷に戻ればいいのか、さっぱり解らなかったので……」
「外の空気に当てられた……いえ、貴女の事だから、ぼけっと歩いていたら結界の綻びに運良く突っ込んでいったとか、そういうところかしらね」
「どちらかと言えば、運が悪いような気がするのですが」
「どちらでもいいのよそんな事は。いくら貴女が半分は人間とはいえ、そもそも顕界の住人ではないのだから、こんな所に居たらその内消えてしまうわよ」

 言われて、ようやく今の自分の状態に気が付いた。
 外の世界。外の常識。そこに自分のような者の居場所は無く、先程空の飛び方が解らなくなったというのも、この空気に当てられた所為なのだろう。改めて自分の手を見てみると、どこか希薄な感じがした。

「で」
「はい?」
「何をしていたのかしら。いくら綻びがあったとはいえ、そう易々と越えられる程のものはそうはないわ。ましてやこんな場所、それもそちらからこちらへ、なんていうのは珍しいものなのよ」
「そちらからこちら……紫様、やはりここは外の世界なのでしょうか」

 こちらの問いのそうだと頷かれて、改めて辺りへ視線を巡らせる。
 何もかもが幻想郷とは違っていて、ここで人間達が一体どんな生活をしているのかは全く想像出来ない。立ち並ぶ建物はどれも無機質で、ガラス張りの様相はそれが店だという事はなんとなく解るが、そこに並べられているのもまた用途が解らない物ばかり。
 人は多く、賑わっている。けれどその雰囲気も幻想郷で見る里の賑わいとは違うように思えた。

「そういえば、紫様はどうしてここに?」

 それ以上周りの様子を窺うのが怖くなって、気を逸らすように紫様の方へと向き直る。

「それをこちらが質問していたのでしょうに……まぁいいわ。貴女は送り返せば済むだけのことだし」

 言いながら、紫様が私を立ち上がらせる。今になって、濡れた服が肌に冷たかった。

「最近ね、はた迷惑な妖怪が出たのよ」
「妖怪、ですか?」
「今の外の世界で新しい妖怪が現れるなんて事はそうはないのだけれど、まぁ放っておくといつこちら側にまで影響を及ぼすか解らないから、こうして追いかけている訳です」
「追いかけるって……でも紫様なら、どんな相手でもすぐに見つけられるのでは?」
「だから言ったでしょう。はた迷惑な妖怪だと」

 曰く、雨女だと言う。
 雨の日に子供を神隠しに遭って失った女性が雨女となり、以来雨に日に現れては子供を攫っていくのだとか。他にも雨の日に訪れる神が堕落して妖怪化したものなどいくつかの説はあるものの、今回の場合は最初のそれらしい。

「ただ、雨の日に現れてというのがどうにも厄介なのよねぇ」
「? 雨の日に見張っていればいいだけなのでは?」
「簡単に言うとそうなのだけれど、この雨女、雨が降ったとあれば日本全国どこにでも行くものだから、追いかけるのも中々に大変なのよ。複数箇所で雨が降ったらどこに現れるかも解らないし、仮に現れてもすぐに別の雨が降っている場所に移動したりもするし」

 おかげで、この数日で日本全国津々浦々旅行してしまったわ、と肩を竦めて見せた。

「数日……ということは、やはりあの子供達は紫様の?」
「あぁ、攫ってきた子供は何故か同じ所にばかり連れてくるのよね。戻そうにもどこの誰かも知らないし、かといって放置しておく訳にもいかないし。幽々子に話したらなんだか思いの外食いついてきたから、そのまま預けちゃったわ」
「……」
「まぁ他の意味もちゃんとあるのだけれど――っと、どうしたのよ」
「いえ、子供とはいえ、人間相手にそういった事をされるのが少々意外でしたので」
「あら心外。これでも私は優しいのですよ」

 もっとも、と付け加えて、空いた手で扇をばさりと開いた。濡れたらどうするんだろうと思ったけれど、見てみると紫様の周りは一切雨が降っていない。傘は差しているものの、よく見ればその傘にさえも雨粒は当たっていなかった。便利だなぁと思わず感嘆の息が漏れる。

「先程も言ったとおり、こちら側に影響が出ては困るのよ。今更外の世界で妖怪の噂をされて、件の雨女が力を持ってしまったりしたら、ね」
「はぁ……」
「解っていなさそうな顔ねぇ。妖夢、貴女博麗大結界がどんな物か知っていて?」
「大結界、ですか? あー、いえ。外と幻想郷を隔てているという事以外は、そんなに……」

 こちらの答えがお気に召さなかったのか、またしても呆れた顔をされてしまった。
 とはいえ、結界については完全に専門外であるし、それに地上に降りるようになったのもこの数年の事。仕方ないと思うのだけれど、その事を言ったら益々呆れられてしまった。

「その言い方だと、大結界も冥界と顕界を隔てているものと同じ、物理的な結界だと思っていそうね……」
「物理的?」
「そのままの意味よ。冥界の入り口には大きな門があるでしょう? あれはあれそのものが結界であり、張られているのはあの門を開けさせないためのもの。対して大結界は、そういった物理的な物は何も用いない、極めて論理的な結界なのよ」
「すいません、さっぱり解りません」
「なら黙って聞いて勉強なさいな」

 変なスイッチを入れてしまったか。紫様はどうにも話したがりな面がある。幻想郷やそれに纏わる事になるとそれも顕著になって、今みたいに止めようにも止められなくなってしまうのだ。こちらの事を思って言ってくれているのだろうけれど、それならそれでもう少し優しいところから話してほしいものである。

「聞いてるの?」
「いやまぁ、聞いてはいますが……」
「……ふむ。まぁ結論を言うと、幻想郷の妖怪達の力というものは総じて外の世界に影響を受けているのよ。外の世界の幻想が幻想郷の現在。彼らが妖怪を忘れれば忘れるほど、幻想郷の妖怪達は力を付けるという訳ね」
「あー、なるほど。それで」
「そう、今更妖怪の存在を認められたりしたら厄介なのよ、色々と」

 起こる事象が少なければ、以降はそいう事もあったと噂されるようになる。妖怪が出ると想像させる事が出来る。
 しかし、度が過ぎれば噂では済まなくなってくる。想像ではなく現実になってしまう。
 そうなると、今は幻想となっている他の妖怪達も居るものとして、それが現実になってしまう。常識になってしまう。
 つまりはそういう事なのだろう。

「まぁそんな訳で、こうして追いかけている訳です」

 そう言って結論づけると、開いていた扇をぱちんと閉じて、そのまま手を上から下へ。するとその場の空間が割け、隙間が開いた。何度見てもよく解らず、見る度に不可解な想いに駆られてしまう。こればっかりは細かいことは気にしないという精神も適応させ辛い。
 とまぁ、隙間を開いたという事は帰れという事なのだろう。一時はどうなることかと思ったけれど、無事に帰れそうでなにより。

「……そういえば紫様。私の他にも幻想郷から外に迷い出た人は居ませんでしたか?」
「幻想郷から外に出るなんてそんなドジっ子なんて、貴女くらいなものよ」
「ドジ……いえ、ならいいのですが」
「歯切れが悪いわねぇ。言いかけた事は言っておきなさいな」
「あぁ、いえ。そういえば私は亡霊の子供を捜していたらこちらに出てきてしまったようでして、ひょっとすると彼女も外に出てしまったのかな、と」

 でもまぁ、違うなら違うでまた幻想郷の中を探すだけだ。今日はもう無理だろうから、明日また朝一で里に出て探せばいいだろう。
 しかし、私の言葉の何が引っかかったのか、紫様が何やら難しい顔をしてしまった。何か変なことを言っただろうか。

「亡霊、子供、彼女? 妖夢、その子菖蒲の髪飾りとかしていなかったかしら」
「え? あぁ、確かにしていましたね。それで私の楼観剣の鞘に差している紫様から頂いたドライフラワーの菖蒲を見て、お母さんがどうと」
「ふむ、そちらが先にかかったという事か。そして今日はこの場所、だから貴女が外に放り出されたりしたのね」
「……どういう事ですか?」

 何かが解ったかのような素振り。けれど紫様は一人で頷くばかりで、こちらには何も教えてくれない。こういう所は幽々子様とそっくりなんだなぁ。教えてくれたっていいのに。
 と、こちらの考えていた事が読まれてしまったのか、紫様が私の方を見て微笑んだ。

「保険はかけておくべきだという事よ」


     φ


「で、これはどういう訳かしら」

 連日降り続いていた雨も上がり、よく晴れ渡った空の下。隠しきれない程度には怒気を孕ませて、霊夢がこちらを睨んできた。
 無理もない、私達だけならまだしも、子供達まで含めたこんな大所帯で押しかけられては、正直たまったものではないだろう。私にはよく解る。もっとも、中核たる二人、幽々子様と紫様はそんな事は全く気にしていないのか、いつもの涼しい顔なのだけれども。

「子供の前なんだから、もう少し大人しくしなさいな。怯えられちゃうわよ」

 ねー、などと腕に抱いた赤子をあやす幽々子様は今日も上機嫌。気に入ったのだろうか、子供。

「というかなんなのよその子達は。まさか攫ったりしてきたんじゃないでしょうねぇ」
「失礼ね、鬼じゃあるまいし今更人攫いなんてしないわよ」

 紫様の言葉に、けれども霊夢は難しい顔のまま。信用しろと言っても難しいのだろう。紫様だし。
 そして幽々子様はといえば、またしても「私と紫の子供よー!」などとのたまいておられたが、その場にいた誰も聞いてはいなかったようだ。聞かないフリをしていたの方が正しいだろうか。少し拗ねている姿も可愛いです。しまったまた妄言が。

「何事も形から。今日はここで式でも挙げようかと思ってね」
「式? 何の?」
「式といえば結婚式に決まっているじゃない。神前結婚。神社でしょう?」
「はぁ? 誰と誰のよ」
「私と紫の――」
「幽々子は少し黙っていなさい」
「……はぁい」

 待ってましたとばかりにしゃしゃり出てきた幽々子様が、紫様の一言で早々に後退してしまった。なんとも珍しい光景。幽々子様を一言で黙らせる事が出来るのなんて、本当に紫様くらいなのではないだろうか。まぁ逆に、紫様が同じように調子に乗ってしまった時も、黙らせる事が出来るのは幽々子様くらいなのだろうけれど。
 二人の仲の良さが、時々少しだけ羨ましくなる。

「おかーさん?」

 不意にかけられた声。繋いだ手が、少しだけ強く握られる。

「もうすぐ会えますよ。きっと」

 繋いだ手の先には、菖蒲の髪飾りを付けたあの少女。今朝方、神社に寄る前に里で見つけ、連れてきたのだ。
 あの後も探せど探せど見つからず、けれど今朝になって紫様に「今日なら見つかるはずだからと」促されて行ってみれば、今までの苦労はなんだったのかと嘆きたくなるほどにあっさりと見つかった。

『まだ物心もつくかつかないかというところでも、自分の名前の意味はちゃんと解っていたようね』

 そう言ってこの子の頭を撫でていた紫様は、見たことないくらい優しい顔をしていた。あの日、買い出しに行ってくるといった私を見送っていた幽々子様と同じ顔で、少しだけ胸が痛んだ。結局、解っていないのは私だけだったという事か。別に、そんな事もしょっちゅうなので慣れたといえば慣れたのだけれど。
 結局、少女は付けられた名前に縛られていたのだという。亡霊ならば、そういう事もあるのだろうか。
 晴美。よく晴れた空のように綺麗な、清々しい子に育ってほしい。
 恐らくは生まれた頃よりそのように言われていたのだろう。そして少女は、晴れた日を自分の日だと思うようになった。単純だが、単純だからこそその想いは強く表れる。
 雨女と、晴れた日にだけ姿を現す少女。これまでずっとすれ違っていたのも無理はない。
 けれど、それも今日まで。紫様が言うには、あの日、私が外の世界にはじき出されたあの時、雨女は入れ替わるように幻想郷に入ったのだという。というよりも、雨女が幻想郷の里にいた私に少女の存在を感じて結界を越え、その綻びに私が入ってしまったというべきか。
 私の存在を強く想った。そして妖怪という現象に成っていたとはいえ、彼女の想いは外の世界の想いだった。幻想の想いと、外からの想い。重なり、交わり、入れ替わった。論理的とは言い難いが、なるほど大結界の所為とも言える事だった。
 つまるところ、この少女の母親であるところの今雨女は、今この幻想郷にいるのだという。
 ならば見つけて連れてこればいいのではないかと思ったのだけれど、先程も紫様が言っていた通り、妖怪は実力行使よりも信仰や信念、そういったものの方がスムーズに事が運ぶらしい。

「あぁ、それで結婚式。つまりは嫁入りな訳ね」

 話を聞いたのか、霊夢が納得いったという風に頷いていた。
 雨女と晴れの少女。幻想郷的なやり方で二人を合わせる方法。
 つまりは、嫁入りなのだ。

「紫様……どうしてもやらないといけませんか……?」
「あら、綺麗じゃない。見違えたわよ、藍」

 神社の裏手から出てきた藍はどこか恥ずかしそうに、いつもの凛とした態度も鳴りを潜めてそわそわと落ち着かない様子で視線を泳がせていた。
 いや、でもこれは本当に見違えた。
 幽々子様と紫様の二人に羽交い締めにされて無理矢理着替えさせられそうになっていたのだが、流石にそれは抵抗して、けれど有無を言わさない様子に渋々着替えに行ったのが先程の事。
 晴れと雨。晴れの雨。狐の嫁入り。
 拍子抜けしなかったかと言えば、嘘になる。でも、何も難しい事はない。簡単な事でいいのだ。
 逆を言えば、晴れと雨、そんな簡単な事でもいともたやすく引き裂かれてしまう。

「妖夢、折角だから婿役なんてどうかしら」
「へ!?」

 唐突に何を言われるかと思えば、紫様が意地の悪い笑みを向けていた。気付けば幽々子様も同じような顔。先程藍を無理矢理着替えさそうとしていた時と、全く同じ顔だった。

「花嫁だけでは、嫁入りとは言えないでしょう?」
「いや、丁重にお断りさせていただきたく――」
「幽々子!」
「あいさー!」

「あみゃあああああああああああああああああああああああああああああああ!」



 かくして幻想郷に雨が降る。
 すれ違い続けたとある親子の再開を知る者は、そう多くはない。
 けれど。
 まぁ。
 それでいいのだろう。
 何も騒ぎ立てる事などない。
 親と子供が一緒に居る。
 ただそれだけの、ごく当たり前の、それでいて何よりも大切な、そんな事なのだから。


     φ


 後日。

「つーかーれーたーのー」

 などと、威厳も畏れも感じさせないだらけきった声で、紫様が伸びていた。
 縁側で幽々子様に膝枕などされて、それはもうだらしのない顔だった。
 あの後、雨女たる母親に今までに攫った子供達の元の居場所を全て聞き出し、また日本全国津々浦々、巡り巡って親元へと帰していっていたのだが、子供を連れてあちこち飛ぶのは流石に疲れたのか、戻ってくるなりずっとこのような調子なのだ。
 もう三日目。幽々子様もあれだけ気に入っていた子供達を取り上げられて、最初こそふて腐れていたものの、全員を帰し終えてからこれまでのあれこれを取り戻せとばかりに甘えてくる紫様に、そんな不機嫌も吹き飛んだようだった。ほんと仲良いな、この二人は。普段は結構つんけんしているくせに、時々こうして見ているこっちが恥ずかしくなるくらいべったりくっついていたりする。永いこと生きていると、なにかそういうリサイクルでもあったりするのだろうか。

「でも大丈夫ですかね、彼女たち」
「何が?」

 少しだけいつもの調子に戻って、膝枕から起き上がった紫様が答えてくれた。

「あの親子、一緒になる事は出来ても、結局雨と晴れでまた会えなくなってしまうのでは?」
「あぁ、なんだそんなこと」

 聞いた質問が予想外につまらなかったとでもいう様子で、紫様がまた幽々子様の膝にぽすんと頭を落とす。

「冬の妖怪とかもそうだけれど、別に他の季節の間存在していない訳ではないのよ。ただ姿を見せないだけで」

 力が弱いからね、と幽々子様が付け足した。

「娘の方も、母親が正しい在り方を教えていけば大丈夫でしょう。どこかで静かに暮らす分には十分よ。雨女と……そうね、晴女? いいんじゃないかしら。二人で一つ、みたいな感じで」
「そんなものですかね……」
「そんなものなのよ」
「そんなものよねぇ」

 大したことなんて何もない。よくある事だとでも言いたげに薄く微笑んで、それきり紫様は黙ってしまった。
 声をかけようとすると、幽々子様に止められる。寝てしまったのだろうか。
 なんとも珍しい、というか紫様がここまで無防備に振る舞っているのを初めて見る気がする。
 それも幽々子様がいるからなのか。
 やっぱり、少しだけ羨ましかった。

「そういえばあの子、晴れの日にだけ姿を現すにしても、里でも全く見た人がいなかったのですが、どうしてなのでしょう?」
「あら、そんなこと?」

 少し声を抑えて幽々子様に尋ねると、先程の紫様と同じように、けれど柔らかい表情で。

「母親の方と同じ、あの日、あの時、あの場所で、貴方に惹かれたというところかしらね。そこで初めて幻想郷に入った。だから誰も見ていなかった。それだけのことよ」
「でも、それだとその時に私は外の世界に放り出されたのでは?」

 すると幽々子様は「んー」と少し考える素振り。けれどすぐにこちらを向いて、

「会いたいと想った心と、取り戻したいと想った心、その違いかしらね」

 春もそろそろ盛りを過ぎて、梅雨の前の静かな一時。
 暖かな午後の日差しによく似た、そんな風に幽々子様が微笑んだ。

 あの親子、そして幽々子様と紫様。
 いつか私もそんな風に想い、想われるような相手と出会えるのだろうかと、少しだけ考えて。
 今はまだ、そんな人達を守ってあげられる事が出来ればいいと、そう思った。
第8回くらいのコンペに出してた作品でした。
単に雨を降らすだけとかいう事はやりたくなかったので、
いかに雨という現象に必然性を持たせるかという一点のみで書いたようなもの。

天元突破の原稿で死にかけている中、何故かこんなのを書いていたという不思議。
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