あれはいつの事だったろうか。
遠い子供の頃の記憶だったことは確かである。
その時は良く晴れた空が広がっており、うだるような暑さも気にする事がないくらい子供の頃だった。
僕はある約束をした。
十年後、ここで会おう。そんなくだらない、どうでもいい約束だったはず。
何故約束を思い出したかと言えば、決して広くは無いはずのこの部屋の学習机――もちろん、現役で僕が座っている――の奥底から、子供の書いた汚い字の日記が出てきたからだ。
なんでもない、ただの夏休みの日記帳。
捨てる前にぺらぺらとめくったその中に書いてあったのだ。
奇しくも日付は今日。
「って言ったって、もう夜だし……この土砂降りじゃあなぁ」
胡乱げにカーテンをめくり、夜空を眺める。
漆黒の夜空からは轟々と音がし、さらには時たま光る。
雷の音が余計に雨音を重くしているように感じて、僕は思う。
さて、誰と約束してたっけな。
翌日になってしまった。
受験勉強のまま、机に突っ伏して寝ていた僕をやってしまった感が襲う。
今日は夏期講習だったっけな。
時計を見ればすでに家を出る時間が近い。
慌てて筆記用具と勉強道具を掴んで家を飛び出した。
「あっつぅ……」
暑さに負けるのは口だけにして走りだす。空は晴天で、これでもかと言わんばかりの陽射がふりそそいでいた。
一日に上下合わせて六本しかないバスに乗るためだ。
電車も無ければ車もないし、人通りはもっとない。
見渡す限りの田園は、都会の人からみればそれは「ド」のつく田舎の光景であるが、今の僕には交通の不便さを呪いながら走り抜けるしかなかった。
チラリと視線を転じれば山しかやはり視界に入ってこない。
あの山だっけな、と昨日の日記の内容を思い出す。
しかし約束の日付は過ぎてしまったし、何より夏期講習だ。志望校は都会の大学。
こんなド田舎からはさっさと撤退するのが得というものだった。とにかく今は走るしかない。
暑さと疲労のせいか、すぐに汗が噴き出してくる。鞄にタオルいれてたっけな……喉が渇いた。むこうについたらとりあえず何か飲もう。
そんな事を考えながら畑のあぜ道を駆け抜ける。ちょっとしたショートカットの先では、バスがすでに到着していた。
「のりまーす!」
あらん限りの声を絞り、叫ぶ。
叫び声が届いたのか、バスはまだ止まっている。
二枚目の水田の脇を駆け抜けたが、間に合わないかもしれないという気持ちが湧き上がる。
残りは二百メートルといった所だろうか。
もう一度叫ぼうと大きく息を吸い込む。
「の……」
途中で遮られた。
簡単に言うと、コケた。
無情にもバスは排気音を響かせながらドアを閉め、走り去ってしまう。
これで夏期講習には絶望的となってしまった。次のバスは何せお昼頃である。間に合うわけがなかった。
起き上がり、身体についた草を払うと、停留所まで歩く。
待合室なんていうものすらないので、バス定の標識にもたれかかり、荒い息をつく。
「あー……」
これは面倒くさい事になったなぁ……と思うが、陽射が痛い。
少し離れた木陰に入ってもう一度休み直す。
視界の先には子供でも登れるような小高い山と、はるか向こうに高い稜線が見える。
これで今日は一日暇になってしまった。
僕は立ち上がると、山を見る。
一日遅れた約束はまだ生きているのだろうか。
確かめてみるのもいいと思った。
そうと決まればやる事は一つ。
自販機で飲み物を買うことだ。
その山はバス定からは反対側にある。一度家に向かうと勉強道具を部屋に投げ捨て、タオルと農作業用のスコップを手に、僕は再び家を出た。
誰しも作ったことがあるだろう、子供だけの秘密基地。大抵は家から何かを持ち込む事もなく、ただその気分だけを味わったり、秘密の宝物を埋めたり。
その場所は僕にとってのそんな場所だった。
山のふもとにたどり着く。
「うわぁ……」
思わず声に出してしまった。
何しろ、道がないのである。
子供の頃には確かにあったはずの道が無く、自然に埋もれてしまったのだろう。もっとも、子供の頃の道といっても、獣道に毛が生えたようなシロモノであったから、むべなるかな、と言った所だろう。
覚悟を決めると、僕はその山に入っていった。
子供の足でたどり着けるのだから、それほど遠くはないだろう、そんな予想を覆すように急斜面と下草が邪魔をする。
夏の山、それも森の中なので思ったより涼しい風に押されながら僕は進んでいった。
程なくして、視界が開ける。
高い木々は無く、ただひたすらに伸びた草と、その中心に生える背の高い木。
山の中にはたまにこのようなぽっかりと開けた場所がある。何故そのようになってるか僕にはわからないが、ここもそんな一つだった。
草を掻き分け、大樹のふもとに腰掛ける。休憩だ。
一息ついた僕は、あの頃の目印を探す事にした。
確か大きな根っこに挟まれた場所だったはずだ。
「……全部大きいな」
子供の頃の記憶である。当然薄れているのもあいまって、どこから手をつけたらいいのかわからなかった。
なんとか記憶と照らし合わせながら見当をつけると、スコップを振り下ろす。
子供の頃ここに埋めたのだ。
タイムカプセルと、その中に入れたあの時の約束を。
「もっとも、約束の日にはこれなかったし、向こうが来るとも思えないけどな」
うっかり掘り起こされると困る、そう思って子供ながらに深く埋めたはずだ。
三十分ほどは土と格闘していただろうか、やがてカツン、とスコップの先に固い感触を受ける。
石ではない。見ればかすかに傷ついた昔のアニメの色がある。
それから僕は慎重になりながらも夢中でそれを掘り出した。
やがて出てくる、少し大きめの缶をやっとの思いで手にする事ができた。
「これがここにあるっていう事は……やっぱ向こうも忘れてるって事だよなあ」
かすかな落胆を感じながら木陰にもたれ、缶を撫でる。
開けずにまた埋めてしまおうか、という考えが浮かぶ。
約束の日は過ぎ、缶はここにある。
周囲を見渡しても誰もいない。
自販機でかったお茶を一口煽り、これからどうしようかと考えた時だった。
強い風が吹く。木々がざわめき、草がなぎ倒される。
その風の涼しさと強さに目を閉じてしまう。
目を開けると、そこに彼女は立っていた。
麦わら帽子に白いワンピース。
長い黒髪を風に遊ばせ、沈黙を保ったままそこにいる。
「よ、元気か」
僕は何事も無かったように声をかけた。そして手の中の缶を開ける。
「そういえば、雷が怖かったんだっけな。それで今日か」
缶の中からオモチャの指輪を取り出す。
「結婚の約束なんかもしたっけな、子供の頃の話なんて本気にするわけもないに」
そっと彼女の手をとり、その指にはめる。
「約束……正直昨日まで忘れてたよ。それでも、思い出して、思い出せて良かった」
彼女はこくんとうなずき、柔らかな笑顔を浮かべると、空気に溶けて消えていってしまった。
そう、僕自身も忘れていた。
彼女は病気で死んだのだ、三年前に。
空に溶けた彼女を仰ぎ、少しだけ視界が歪む。
「彦星はさ、織姫に会えてよかったと思うよ。僕はもう君に会えないからね――」
僕はオモチャの指輪を拾い上げ、ポケットにしまう。
帰って勉強をしよう、そして大学に行くのだ。そして医者になって、彼女のような人間を一人でも減らすために――
END
遠い子供の頃の記憶だったことは確かである。
その時は良く晴れた空が広がっており、うだるような暑さも気にする事がないくらい子供の頃だった。
僕はある約束をした。
十年後、ここで会おう。そんなくだらない、どうでもいい約束だったはず。
何故約束を思い出したかと言えば、決して広くは無いはずのこの部屋の学習机――もちろん、現役で僕が座っている――の奥底から、子供の書いた汚い字の日記が出てきたからだ。
なんでもない、ただの夏休みの日記帳。
捨てる前にぺらぺらとめくったその中に書いてあったのだ。
奇しくも日付は今日。
「って言ったって、もう夜だし……この土砂降りじゃあなぁ」
胡乱げにカーテンをめくり、夜空を眺める。
漆黒の夜空からは轟々と音がし、さらには時たま光る。
雷の音が余計に雨音を重くしているように感じて、僕は思う。
さて、誰と約束してたっけな。
翌日になってしまった。
受験勉強のまま、机に突っ伏して寝ていた僕をやってしまった感が襲う。
今日は夏期講習だったっけな。
時計を見ればすでに家を出る時間が近い。
慌てて筆記用具と勉強道具を掴んで家を飛び出した。
「あっつぅ……」
暑さに負けるのは口だけにして走りだす。空は晴天で、これでもかと言わんばかりの陽射がふりそそいでいた。
一日に上下合わせて六本しかないバスに乗るためだ。
電車も無ければ車もないし、人通りはもっとない。
見渡す限りの田園は、都会の人からみればそれは「ド」のつく田舎の光景であるが、今の僕には交通の不便さを呪いながら走り抜けるしかなかった。
チラリと視線を転じれば山しかやはり視界に入ってこない。
あの山だっけな、と昨日の日記の内容を思い出す。
しかし約束の日付は過ぎてしまったし、何より夏期講習だ。志望校は都会の大学。
こんなド田舎からはさっさと撤退するのが得というものだった。とにかく今は走るしかない。
暑さと疲労のせいか、すぐに汗が噴き出してくる。鞄にタオルいれてたっけな……喉が渇いた。むこうについたらとりあえず何か飲もう。
そんな事を考えながら畑のあぜ道を駆け抜ける。ちょっとしたショートカットの先では、バスがすでに到着していた。
「のりまーす!」
あらん限りの声を絞り、叫ぶ。
叫び声が届いたのか、バスはまだ止まっている。
二枚目の水田の脇を駆け抜けたが、間に合わないかもしれないという気持ちが湧き上がる。
残りは二百メートルといった所だろうか。
もう一度叫ぼうと大きく息を吸い込む。
「の……」
途中で遮られた。
簡単に言うと、コケた。
無情にもバスは排気音を響かせながらドアを閉め、走り去ってしまう。
これで夏期講習には絶望的となってしまった。次のバスは何せお昼頃である。間に合うわけがなかった。
起き上がり、身体についた草を払うと、停留所まで歩く。
待合室なんていうものすらないので、バス定の標識にもたれかかり、荒い息をつく。
「あー……」
これは面倒くさい事になったなぁ……と思うが、陽射が痛い。
少し離れた木陰に入ってもう一度休み直す。
視界の先には子供でも登れるような小高い山と、はるか向こうに高い稜線が見える。
これで今日は一日暇になってしまった。
僕は立ち上がると、山を見る。
一日遅れた約束はまだ生きているのだろうか。
確かめてみるのもいいと思った。
そうと決まればやる事は一つ。
自販機で飲み物を買うことだ。
その山はバス定からは反対側にある。一度家に向かうと勉強道具を部屋に投げ捨て、タオルと農作業用のスコップを手に、僕は再び家を出た。
誰しも作ったことがあるだろう、子供だけの秘密基地。大抵は家から何かを持ち込む事もなく、ただその気分だけを味わったり、秘密の宝物を埋めたり。
その場所は僕にとってのそんな場所だった。
山のふもとにたどり着く。
「うわぁ……」
思わず声に出してしまった。
何しろ、道がないのである。
子供の頃には確かにあったはずの道が無く、自然に埋もれてしまったのだろう。もっとも、子供の頃の道といっても、獣道に毛が生えたようなシロモノであったから、むべなるかな、と言った所だろう。
覚悟を決めると、僕はその山に入っていった。
子供の足でたどり着けるのだから、それほど遠くはないだろう、そんな予想を覆すように急斜面と下草が邪魔をする。
夏の山、それも森の中なので思ったより涼しい風に押されながら僕は進んでいった。
程なくして、視界が開ける。
高い木々は無く、ただひたすらに伸びた草と、その中心に生える背の高い木。
山の中にはたまにこのようなぽっかりと開けた場所がある。何故そのようになってるか僕にはわからないが、ここもそんな一つだった。
草を掻き分け、大樹のふもとに腰掛ける。休憩だ。
一息ついた僕は、あの頃の目印を探す事にした。
確か大きな根っこに挟まれた場所だったはずだ。
「……全部大きいな」
子供の頃の記憶である。当然薄れているのもあいまって、どこから手をつけたらいいのかわからなかった。
なんとか記憶と照らし合わせながら見当をつけると、スコップを振り下ろす。
子供の頃ここに埋めたのだ。
タイムカプセルと、その中に入れたあの時の約束を。
「もっとも、約束の日にはこれなかったし、向こうが来るとも思えないけどな」
うっかり掘り起こされると困る、そう思って子供ながらに深く埋めたはずだ。
三十分ほどは土と格闘していただろうか、やがてカツン、とスコップの先に固い感触を受ける。
石ではない。見ればかすかに傷ついた昔のアニメの色がある。
それから僕は慎重になりながらも夢中でそれを掘り出した。
やがて出てくる、少し大きめの缶をやっとの思いで手にする事ができた。
「これがここにあるっていう事は……やっぱ向こうも忘れてるって事だよなあ」
かすかな落胆を感じながら木陰にもたれ、缶を撫でる。
開けずにまた埋めてしまおうか、という考えが浮かぶ。
約束の日は過ぎ、缶はここにある。
周囲を見渡しても誰もいない。
自販機でかったお茶を一口煽り、これからどうしようかと考えた時だった。
強い風が吹く。木々がざわめき、草がなぎ倒される。
その風の涼しさと強さに目を閉じてしまう。
目を開けると、そこに彼女は立っていた。
麦わら帽子に白いワンピース。
長い黒髪を風に遊ばせ、沈黙を保ったままそこにいる。
「よ、元気か」
僕は何事も無かったように声をかけた。そして手の中の缶を開ける。
「そういえば、雷が怖かったんだっけな。それで今日か」
缶の中からオモチャの指輪を取り出す。
「結婚の約束なんかもしたっけな、子供の頃の話なんて本気にするわけもないに」
そっと彼女の手をとり、その指にはめる。
「約束……正直昨日まで忘れてたよ。それでも、思い出して、思い出せて良かった」
彼女はこくんとうなずき、柔らかな笑顔を浮かべると、空気に溶けて消えていってしまった。
そう、僕自身も忘れていた。
彼女は病気で死んだのだ、三年前に。
空に溶けた彼女を仰ぎ、少しだけ視界が歪む。
「彦星はさ、織姫に会えてよかったと思うよ。僕はもう君に会えないからね――」
僕はオモチャの指輪を拾い上げ、ポケットにしまう。
帰って勉強をしよう、そして大学に行くのだ。そして医者になって、彼女のような人間を一人でも減らすために――
END