穂積名堂 Web Novel

たいけんばん

2012/02/29 02:14:10
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たいけんばん

Hodumi
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 幻想郷の夜は深く、暗い。一度夜の帳が降りてしまえば、幻妖なる月光と燦爛たる星光以外に自然の光は存在しないのだ。
 しかし何にでも例外はある。吸血鬼が棲まう紅魔館もその一つ。空の光を圧するには程遠いが、夜にあってもその紅を浮かび上がらせるだけの灯火が煌々と輝いている。
 そんな紅魔館をぐるりと一望できる、紅魔館の一番高い所に設えられた紅い領域。紅色の尖塔の最上階、壁面が全てガラスとなっている紅い場所で、紅魔館の主レミリア・スカーレットは血のように紅い紅茶を啜っている。
 そんな彼女の傍らには、紅の中で際立つ紺と白の装いを纏うメイド長がいた。彼女、十六夜咲夜はそれが当然の如く直立しており、いつでも主のお代わりに応えられるようティーポットを手に持っている。
「ふふっ」
 三口ばかり紅茶を愉しんだ後、カップをテーブル上のソーサーに置いたレミリアは小気味良い笑みを零す。
「…………?」
 それからふと悩むような表情になった所からすると、何故自分が笑ったのか理由が分からないようだ。
 無意識による衝動的な笑みを浮かべるだけの何かが現状で何かあったろうか?
 そう思い、レミリアは考え、幾つかの答えが浮かびはしたが、どうも説得力に欠ける。
 ならば。
「咲夜」
「はい」
 呼びかけに対する遅滞の無い応答。予想していたのだろうか? していたのだろう。十六夜咲夜が十六夜咲夜であるが故に。
「ここの所何かあったかしら」
「いえ、これといって」
「そう」
 短い問は短い答えで終結し、分からない事が分かった。それからレミリアはどこか腑に落ちない表情で視線を外に向ける。
 見えるのは夜の闇と、館の紅と、月の光と、山の灯りと―――
 そういえば、と適当に巡らせていた視線を月に向ける。今夜空に浮かんでいるのは丸い、けれど真円ではない十六夜の月。そしてその月を見つめるレミリアは何故か高揚していた。
 満月である昨日の夜であればそれは至極当前の事なのだが、さて、ではその翌日に何故こんな心持になるのだろう。
 分からないが、だが分かる気がしないでもない。分からないのは確かなのだけれど。
 明白な矛盾に眉を顰めつつ、取り敢えずレミリアはこう言った。
「咲夜、ティーカップをもう一人分用意して」
「はい」
 主の奇矯な指示は今に始まった事ではないので、咲夜は返事と同時に主の要望を叶えている。
「…………」
 そして、たった今用意されたティーカップに向けられるレミリア・スカーレットの視線は、何故か怪訝に揺れていた。
 やっぱり、どうしてこうしたかが今の彼女には分からなかったのだ。

§

 晴れ渡る群青の空の下、境内の石畳を竹箒が舐める音が規則的に響く。その音を遠くに聞きながら、本殿の屋根の上で八坂神奈子は大杯を傾けていた。
 どこか古めかしさを感じる、染め抜かれた朱の装い。ただ酒を呑む動作一つとっても、不思議と神奈子からは―――僅かだが、威厳が感じられた。
「……う~ん」
 酒の旨さに口許が綻んではいるが、その口から漏れたのは懊悩の吐息。
「まーた悩んでるの?」
 神奈子からついと出された大杯を、手にした瓢箪からの酒で埋めながら伊吹萃香は表情も愉快げに言う。
 二本の角を持つ童女は、大杯に酒を注いだ後悠々と自らも酒を注ぐ。盃を介さず、直接口に。
 そんな萃香の様子を能天気と取るか意地悪と取るかで少し悩んだ後、埋まった大杯をまた一息で干した神奈子は半々で取る事にした。この好奇心旺盛な鬼と呑み友達になって以後、慣れに慣れた対応である。
「そりゃ悩むのは当たり前よ。当たり前じゃないの。決まっているわ。私は神で、神には信仰が必要で、その信仰がすっかり失せてしまっているんだから。……あなたで言えば酒を取り上げられたも同然の状態なんだけど」
「我等はそんな事じゃ悩まないからねぇ。失くしたものが必要なら、全力で取り返せば良いだけだしさ」
 大杯に酒を注ぎながら、渋面の神奈子に対し、いくらか酔いが回っているせいもあるが萃香は笑顔を絶やさない。多分、取り返せなかった場合の事等欠片も考えていないのだろう。
「鬼にとってはそれで済む話題でしょうよ。ええ、ええ。だけども私達の方はそうもいかない。……光陰矢の如しとは言うけれど、まさかここまで手遅れになるまで気付かなかったなんて」
 神奈子はなみなみと揺れる酒ではなく、少し遠く、境内の方へ目をやった。
 白と青の装束を着、竹箒で掃除中の東風谷早苗の姿がそこにある。
「あの子でさえ、私はともかく諏訪子の事を良く知らない有様だもの。まったく、口伝にせよ何にせよ、もう少しちゃんと伝承してくれていたものとばかり思っていたのに……」
「ま、つまるところ? 思いっきり油断して甘く見て悪い予想もせずに楽天楽観呑気悠々でいたらお先真っ暗って訳だもんねぇ」
 沈鬱げに溜め息を吐いた神奈子へ、萃香はけらけら笑いながら殊更容赦の無い言葉をがつんとやった。
 だが実際に鬼の言う通りなのだろう。神が己への信心について気付くきっかけは今までにいくらでもあった筈なのだから。それでも実効性のある策を取らずにこの事態を招いてしまった時点で、もはや自業自得とさえ言えた。
 神奈子の方もそれは分かっている。分かっているが、それでも言わずにはいられなかったのだし、だから萃香に対し言い返す事は出来ない。
「とにかく、信仰をどうにかしないとならないのよ」
 なので無視する事にした。
「ふぅん? ……具体的にどうするのさ」
「そうね……そう……そうだわ、あなた、ちょっと私を崇めてみない?」
 ずい、と神奈子に顔を寄せられて、萃香は目を丸くする。
「それは無い無い。分かってるでしょうに、我等まつろわぬ山の者は神に縋らなきゃならない程弱っちくないんだから」
「ま、それもそうよね。今更はいそうですかと鬼に信仰されるなんて不自然の極みだし」
 顔を戻した神奈子は大杯を呷り、
「そうそう」
 その隣で萃香は瓢箪から口へと酒を注ぎ込む。
 お互いに一息ついたところで、神奈子は空を仰ぐ。
「……やっぱり見切りを付けなきゃならないわね」
「見切り?」
「ええ」
「当てでもあるの?」
「あるわ」
 萃香の問に即答した神奈子は、些か自棄にも見える笑みを見せた。
「信仰さえ得られれば、その基が何であろうと構わないもの。……伝え聞くところによると、幻想郷ならいくらか先が明るそうだわ」
 その土地の名を聞いた途端、萃香は一瞬だけ硬直し、それからなんとも言えない表情になる。
「幻想郷……ねぇ……?」
 曖昧な言いように、神奈子は口元にちょっとした笑みを浮かべながら顔を寄せた。
「あら、知らないとは言わせないわよ? かの弥三郎のドラ娘であるあなたが鬼達の中でどれ程の地位にあるか。サシモ草の露を呑んで以後不老不死のあなたがどれ程の歴史を持つか。そして、以前あなたを含め鬼達は何処に居たか」
 言葉を募られて萃香は少々渋面を作り、もういいとばかりに片手を振る。
「……いやそこまで言ってくれなくてもいいって。確かに知ってる。ご存じさ。あんたの仰る通りの事なんだし、隠し立てするつもりなんて無かったってば」
「あらそう?」
「そうだよ」
 少し不満げに、でもさと一言置いて萃香は神奈子の目を直視した。
「どうやって行くつもり?」
「…………」
 即答は無い。代わりに、ほんの僅かだけ神らしからぬ視線の泳ぎがあった。
「我等が在りし頃は、確かにあそこは出入り自在だった。だけど今は結界が敷かれている上、或る妖怪のせいでその場所すら曖昧模糊として漠然以上には分からないよ」
 そこへの明確な手がかりは無く、場所は分かっている筈なのに何故か辿りつけない。今や幻想郷とはそういう場所となっていた。
 住人達の間に、そうせねばならないだけの危機感があったのか、そうせざるを得ない忌避感があったのか、そうしても構うものかというどうでもよさがあったのか。何にしても、住人以外が作為的に幻想郷に立ち入るのはほぼ不可能である。
 萃香にはっきり言われ、神奈子は眉尻を下げつつ姿勢を戻した。
「……そうか。或いは甘えようか、とも思ってたんだけど、そうもいかないか」
「最近あっちから出てきた住人を偶然見つけでもしない事には、場所なんて分かりようもないしねぇ。人間を餌にするのは悠長が過ぎるし」
「知ってるのと知らないのとでは大違い、か」
 神奈子はやれやれと息を吐く。それをそうと分かっている者と、それをそうと分かっていない者とでは、何に対しても歴然とした差があるものだ。
「まぁしかし、別の手なら簡単に行けなくもないだろうし」
「へ?」
「先も言った通りの事さ。見切りを付ければ良い」
 不意に表情を変異させた神奈子の言葉を聞いて、萃香の表情から笑みが消える。どうせいつもの酒の席、神の管巻きにちょいと付き合ってやろうかと思っていたのに。
 どうも話の流れに暗雲が立ち込めてきた。
「……この地を捨てて新天地を目指そうとかそういう意味じゃなかったの?」
「なかったの」
 一大事であろう筈なのに、あっさりと肯定する。既に何度となく考えてきた結果なのだろう。
「そっちの方法だと、一度全ての信仰を失い、人心から全く忘れ去られる必要があると思うんだけど……」
「神たる身としては、その時点で死んだわね」
「いくら現状が比良坂を下るが如しだからって、何もそんな自分から進んで駆け下りる事はないでしょうに」
 肩を軽く竦めた神奈子に、萃香は少し非難の視線を向けた。
「でもこのままでは結果は変わらないわ。人は己が生み出す物のみを信じ、己を生み出した神を必要としなくなった。それは親離れという扱いに近いかもしれないけれど、私としてはそれを許容し、忘れ去られるに任せて儚く消えるというのは大いに嫌だ」
 そう神奈子は断言する。わがままとも取れるが、それでこそとも言えた。
「そこまではっきり言うなら、こうなる前にする事が幾つもあったと思うけどなぁ?」
 だが即時に痛い所を突かれ、明後日の方向へ視線を逃がしながら頬を掻く神奈子である。
「……恐らく、これは神らしからぬ願望かもしれないけれど、何かしらの手を早いうちに打っておいても先延ばしにしかならなかったんじゃないかしら」
 神のそれは或いは願望以上に妄想だとかの域だったかもしれない。だがそれを笑い飛ばすには鬼にとっても些か不気味な説得力が伴っていた。
「あー……今が人間の選んだ進化の標通りなら、まぁ、そうかもしれないか」
 息を吐く萃香は視線を下に。
「きっとね」
 息を吐く神奈子は視線を上に。
 神奈子はぼんやりと溜息を吐いたが、萃香はほんの少しだけ、楽しげな笑みを零した。
「だけどその為の代価としてはどうなんだろうねぇ。確かにこっちで幻想になれば、あっちに行けはするだろうけど。でもあっちに現れた神奈子は……果たして今のあんたと同じかしら? 一度全ての信仰を失った神が再び出でた時、どうして同じと言えるだろうね?」
「それが天陽を創造する八坂神奈子であるならば、どのような形貌であろうとそれは八坂神奈子さ。信仰以外に神に必要なのは、名と力だからね」
 神とはそういう者だ。そして神を崇める者にとっても、それはあまり変わらない。
 それは名前、姿、力であり、名前、姿、御利益である。重要なのは三つ目の要素であり、どちらにとってもそれが欠けていては神たりえないのだから。
「……それで、どうやってそうなろうってのさ?」
「まず早苗に私達の世話を辞めさせる」
 そう言い放ったものの、今まで考えていただけの事を初めて口にしたのだろう。神奈子は若干の呵責が伺える表情を浮かべたが、すぐにそれを消し去った。
「あの子は現人神だなんだと言ってもやっぱり人間なんだから、人間の中で人間に囲まれて生きるのが相応よ。そしてやがてこの社は寂れ……より早く完全に忘れ去られるでしょうよ」
「神社の巫女が素直に言う事聞くかねぇ?」
「聞かなければ、私達が隠れれば良い」
 またも神奈子は一大事をあっさり言った。
 六秒程、萃香は唖然と瞬きのみに時間を費やしてしまう。
「えっと……え? 本気? 何から何まで」
「ええ、何から何までね」
「そっか。なら、私からどうこう言っても今更かな」
 残念そうにする萃香に、神奈子はやんわり微笑んだ。
「あなたは良い酒呑み友達だったわよ、萃香。呑み比べで私達と良い勝負が出来たのなんて、いくら鬼でもあなたくらいのものだから」
「嫌だなぁ。ここの所我等も腑抜けが増えちゃって、満足に酒も呑めないのが多いんだよ」
「ま、今日明日今すぐいなくなる訳でもなし、その時の直前までなら杯を交わす事も出来るでしょうよ」
 暫しの無言の後、鬼と神は瓢箪と大杯で乾杯した。
「じゃ、後はあんたに任せた」
「は?」
 唐突な萃香の言葉に、神奈子は思わず妙な声を出す。
 先程までの会話の最中で、彼女は上を見たが、萃香は下を見たのである。だから、神社の巫女がとっくにこちらの不穏に気付き、掃除をほっぽりだしてこっちに来ようとしていた事は承知していたのだ。
「神奈子様」
 その掃除サボりの巫女は、神奈子の背後に居た。
「って早苗ぇ!? あなた何時からそこに」
「そんな事はどうでも良い事です。それよりも本当にそう思って仰ってるんですか!?」
 最初からえらい剣幕である。普段が大人しい分、こうして激発した時の勢いは尋常ならざるものがあった。
「どれそれが分からないけれど……まぁ、概ねそんな所よ」
「私は嫌です。暇を出されるのも、神奈子様達がお隠れになるのも、私は絶対に嫌ですっ!」
 屋根の上で神に詰め寄る巫女は、その言葉の最中に目端に涙を浮かべている。一度に噴出した様々な感情の昂りが、怒り泣きという状況を生んでいた。
「……ああもう、ほら泣かないの。良い? 早苗。どこから聞いていたのか知らないけれど、この世の中の有様じゃ私や諏訪子のような神は必要とはされていないの。……あなただって、もはや私達と関わらず、奇跡など起こさず、他の人間に紛れて生きるべきだわ」
「だからって……そ、そうだ! こうしましょう、方々手を尽くして……御利益や縁起物とかをアピールすれば、人が来てくれるだろうし、形骸化してる氏子さん達だってもっとちゃんと神奈子様達を敬ってくれると―――」
「でもまー今時分に神様がどうとか本気で言い出したら、良い笑い者になるだろうねぇ?」
 早苗の言葉を遮るように、酒を呷りつつ萃香が茶々を入れる。
 似た例で言えば、学会で大真面目に魔法がどうとか言って学会から二度追放された教授が居るくらいだ。
「伊吹さんっ! あなたは……あなたは一体どうしたいんですかっ!?」
 やや甲高い声と共に、暴風めいた突風が早苗から萃香へと吹き荒ぶ。
「っととと。いやー、私の方は、ほら。神の御心にどうこう言ってもなぁ、って。……そりゃ残念は残念だけど、だからって引き止めればいいってものでもないし」
「引き止めなきゃ駄目なんですっ!」
 握り拳を作った両手でぐっと気合いを入れるようにしながら、早苗は鼻息も荒く言い放った。
「……まぁまぁ早苗、落ち着いて」
「誰のせいですか!」
 今度は神奈子へと言葉が飛ぶ。
 そして萃香の視線もまた神奈子へと向いていた。視線に乗った感情がやや楽しげなのが神奈子には少し気に入らない。
「それは私のせいだけど。でも早苗、世には流れというものがある。その流れが神を必要としないからこそ、この現状がある。そして必要とされないなら潔く消えるのが神ではあるけれど、私はそう素直じゃないから、見切りを付けて幻想郷に行こうとしているのよ」
 にっ、と神奈子は笑って見せた。
「……なら私も共に参ります。そうすれば解決じゃないですか」
 言葉と笑顔を受けてそれなりに平静になったかに見えた早苗だが、彼女は彼女なりに譲るつもりは毛頭無さそうである。
「早苗、早苗、早苗。良い? あなたは人間であり、人間であるからには、人の字の通り他の人間と関わり支え合って生きてきたでしょう。そんな人間同士の関わりは、幻想郷に望んで行くには強過ぎて枷になるわ。私のように隠れたところで、幻想郷に辿り着く事は……まず無理でしょうし」
「たまーに迷い込む奴が居るって話は風の便りに聞くけどねぇ。狙って行くのは今の住人の案内が無いと無理でしょ」
 神奈子に加勢するように萃香も言った。出来ない事は出来ないのだ。
「では探せば良いと思います。この地を離れ、何処とも知れぬ彼の地を目指し、流浪を続けていけばいずれは……!」
 しかし今や神の言葉も鬼の言葉も、人間を揺り動かす原動にはならざるのだろうか。頑固極まりない早苗の態度を前に、神奈子も萃香も在りし日を思えば衰退を実感せざるを得ない。
「早苗」
 とにかく梃でも動きそうに無い早苗に対し、神奈子の口はそれだけを言い……掌は早苗の頬を打っていた。
「子供じゃないんだから、聞き分けなさい―――お願いだから」
 けして強くはなく、だが弱くも無い決然たる一打ち。
「…………嫌です。私には人との全縁よりも神奈子様の方が大事なんです」
 だがそれでも、微かに朱に染まる頬に手を当てようともしない早苗は、峻烈に近い意思を瞳に宿らせ少しも引く気配を見せない。
 無論神奈子とて引く気は無く、突き刺さる早苗の視線を厳烈に跳ね返していた。
 見下ろす視線、見上げる視線。
 互いに言葉も無く、互いに引く事も無く。
 時の流れを鈍化させる重苦しい空気が、神と、その神に仕える巫女を包み込む。
「あー、ちょっとちょっと」
 だがそこに呑気な声が割り込んだ。
「何?」
「神奈子はなんで早苗を連れてかないの?」
「それはもう言ってるでしょう。この子は人間、いかに奇跡を起こせようともそれは変わらず、そして私達が幻想と成り果てようと、人間ゆえにこの子はそうならない。だからよ」
 神奈子の説明に、萃香は一度頷いた後愉快げに笑う。
「じゃあ、一緒に行けるならその限りでもない訳だ」
「……萃香? あなた何言ってるの」
「そうですよ。行けない筈ではなかったんですか?」
 神奈子と早苗が揃って不思議そうな顔をするものだから、萃香の笑みは深まり、ますます愉快げになる。
「誰も行けないとは言ってないよ。いや、行けないは行けないけど、入れない訳じゃない」
「…………行けなくても入れる? 場所が分からないのに?」
「まぁそりゃ、入ろうと思えば」
 早苗の不思議そうな言葉に、萃香は容易く頷いた。
 その途端、神奈子は盛大に溜息を吐く。
「まったく。そういう事はもっとちゃんと早く言いなさいよ。紛らわしい言い方して」
「うーん、そんなつもりは無かったんだけどなぁ。それにほら、あんまりにも神奈子が本気だからさ、どうも言うに忍びなくて」
「入れろうと思えば入れるんなら最初っからそう言いなさいって事」
「まったくですよ、もう……」
 神奈子に早苗が力なく加勢する。つい先程まで半ば無理であると理解していたからこそ、早苗は子供のように癇癪を起していたのだ。それがあっさり翻ったものだから、怒気やら意気やら色々な気が抜けていた。
「いやごめんごめん。私としてはさ? さっきも言った通り、神の意思にどうこう差し挟もうとは思ってなかったしさぁ」
「じゃあ何でよ?」
「そりゃ、あんたの所の巫女がとても一生懸命なものだから。後はあんた等の関係が崩れるのを看過するのも嫌だなーって思ったし」
 酒を呑み呑み神様に応える鬼に、人は感心したように息を吐く。
「鬼も情にほだされるんですねー」
「そりゃあ人よりは情に厚いつもりだからねぇ」
 しみじみ言ったらあっさり返され、しかも様々に思い当たる節があるのか、早苗はう、と一言唸って静かになった。鬼からすれば人は意志薄弱なものである。あれやこれやと揺らぎやすいのは仕方ないと言えば仕方ないのだが。
「それでどうやって行くつもり?」
「簡単さ。幻想郷はこの世から忘れ去られし幻想が萃まる所。ならば幻想をここに萃めれば、ここが幻想郷になる……もしくは、繋がるよ」
「強引だわね……」
 神奈子の呆れも尤もな萃香の理屈だった。でも、間違っているとは思えない理屈であるし、鬼がそうと言うなら根本から間違っていない限りはそうなのだろう。
 賭けてみるか、と、神奈子自身が予定していたリスクより余程容易そうな萃香の案に乗ろうと考えていると、ふと袖を引く感触に気づく。
「神奈子様」
「ん?」
 続いた声に目を向ければ、もじもじと無意味に両手指を絡ませながら、慎重な上目遣いでこちらを見つめる早苗の姿があった。
「一緒に行っても良いですか?」
 萃香の言葉通りに幻想郷へ入れるのなら、先程のような剣幕を見せた早苗を神奈子が置いて行く理由はもはやどこにもない。彼女は人間としての生活より神と在る事を選んだ巫女なのだ。考えれば誰でも分かるが、だからこそ早苗は神奈子の口から承諾を得たかったのである。
「…………全く、仕方ないわね」
「やったっ」
 溜息交じりの神様に対し、万歳で応える人だった。それは神様と人との歴史において幾度となく繰り返されてきたやり取りであり、この地では恐らくこれが最後だろう。つい、神奈子は少しだけ寂しげな目をしてしまった。
「それじゃあ、萃香。お願いできる?」
「事此処に及んで駄目とか言う訳ないじゃん?」
 笑い、そう言った萃香が右手を挙げた途端。
 目に見えない何かが、えもいわれぬ何かが、萃まってくる。
 雰囲気の変容に早苗は意気を呑み、神奈子は静かに状況の推移を見守る構えに出た。
 それは何とは言えない。
 それは何とも言い難い。
 色があるといえば、色がある。
 音があるといえば、音がある。
 何もかも在るといえば、在る。
 何もかも無いといえば、無い。
 大気が陽炎のように歪んでも見え、陽光が不自然に翳ったりもし、風が瞬間後には逆方向へ向かい、芳醇な銘酒の香りがしたかと思えば、鹿威しのような音が鳴り渡る。
 萃香が翳した右腕に萃まる何かは、五感全てでも分からないのに、確かにそこに萃まる事は分かるという何かであった。
「……え、え?」
 神社全体を包み込むような摩訶不思議な違和感に、早苗は思わず神奈子を縋る。
「あら、どうしたの」
「あ、あの。これって幻想を萃めてるんですよね?」
「そうよ」
「幻想って、もう少しこう、ええと……はっきりと見栄えがしたり、耳に心地よかったりするものだと思ってましたが。なんだかこれは、さっきからあれこれころころ変わって……」
 そう早苗が言うと、神奈子はくす、と小さく笑った。
「それはね、早苗。そういうのは人間が思い描く都合の良い幻想よ。現実の幻想は、本当の幻想は、そう都合ばかり良い訳じゃあないんだから」
「そ、そうなんですか……」
 幻想に限った話ではなく、あらゆる物事を自分の都合のいいように捻じ曲げてしまうのは、人間の悪癖と言える。しかしその悪癖を悪癖と思わずにいられるのは、人間が霊長を自称できる厚顔さを思えば仕方の無い事か。
 ただそう思いはしても、思うだけだ。神奈子はそこまでを口にしなかった。人間であるからと、早苗にだけ言い連ねるのは矮小に過ぎるというものだから。
 神と人のやりとりに何気なく聞き耳を立てていた鬼の口元は、にやにやと笑っていた。
「……と、そろそろかな?」
 そうこうする内に、様々な何かが寄り集い、溢れ、さながら破裂寸前の風船のように飽和していっている。
 神奈子の声に、萃香は頷いた。
「それで……どうするんですか?」
 疑問の声。
 早苗だけでなく、率直な所神奈子もそれは不思議に思っていた。
 幻想を萃めるまでは良い。だがいくら萃めた所で、劇的な変化があるようには思えないのだ。
「簡単だよ」
 萃香は返事以上にその雰囲気を醸し、左手を拳にすると無造作に宙へと振るう。
 その瞬間、大岩を勢い良く湖に投げ込んだかのような大音が辺りに響いた。
 どう考えても今の状況には不釣合いなその音に、神奈子は眉を顰め、早苗は驚く。
 だがそうした原因以上の現象が、神奈子と早苗を押し包んだ。
「これは……?」
 思わず神奈子が言った。いかに神なる身であろうと、分からないものは分からないし、予想できないものは予想できない。
 そも、つい先程まで辺りに充満しきっていた幻想が、萃香の一撃によってまるで堰を切ったように周囲へ溢れ出したのだなどと、予測出来る者が居るだろうか。
 そして神奈子がそうであるのだから、早苗などはもうもっと酷い。ただ彼女は大いに慌ても焦りもしたが、騒ぐ事無くひしと神奈子にしがみ付いていた。
 押し寄せる幻想に対し、この酷くあやふやで不明瞭な実体の無い奔流に対し、神と人は身を硬くせざるを得ない。
 ただ一人、諸々の事情が分かっている鬼だけは、幻想の至近で笑っていた。

§

―――幻想の奔流が止んだ時、まず神奈子が理解した。
 辺りは見た感じ何も変わっていない。だが、明らかに何もかもが違う。
 空気が、風が、匂いが、光が、幾千年ぶりかと思わせる程に、違うのだ。
「ここは―――」
「ん~、上手くいったみたいだねぇ」
 神奈子に萃香は微笑みかけた。
「……ここが幻想郷」
「そう、ここが幻想郷。懐かしく遠き手の届かぬ郷愁の世界。……空の高さからいって、山かな、ここ」
 萃香にとって、山といえば妖怪の山であり、幻想郷の山といえばそういう事である。だが、山とだけ言われてそれが何処の何であるかを知る事は、神奈子や早苗には無理と言うものだ。
「……まあ、ありがとう、萃香」
「礼なんていらないよ。私としても、長らく留守にしてたこっちがどうなったのか、気にならない訳でも無かったからさ」
 生真面目に頭を下げた神奈子と、慌ててそれに追随した早苗に対し、気恥かしいのだろう。萃香はやや慌て気味に頭を上げるよう手振りしながら言った。
「じゃあ、暫く別れる事になるか」
「会おうと思えばいつでも会えるよ。私は取り敢えずそこらをぐるっと一回りしたりするだけだしさ」
「ふむ。となると私等は……ま、信仰集めかね。人でも妖怪でも信仰さえあれば変わらないかし、ゼロベースから始めるのも悪くない」
「そういうものなんですか?」
 神奈子の言葉に早苗が首を傾げる。ただそれも仕方がないだろう。早苗にとっては神を崇めるのは人間のやる事であり、人間以外が神を実際に崇めるだなんて、現実にあり得るなんて想像もしてこなかったのだから。
「人間の信仰と妖怪の信仰に差なんて無いよ。そも信仰される側にとって信仰する側を差別するような事はまず無いからねぇ」
「そうだったんですか……」
 故に、神奈子と萃香にあっさりと観念を覆されて、複雑そうな表情になるのも仕方がない。
「さてと、それじゃあんたは行っといで」
「そこらの案内とかそういうのはいいの?」
「連れて来てもらった上にそこまで世話焼かすのも気が引けるからねぇ」
「気にしなくても良いのに。……まぁ、いいけどさ。あーでも山の主な住人くらいは教えておくよ。人間が住んでない事くらいは知っておくべきだし」
「ふむ。では拝聴しようか」
 神奈子は腕を組む。早苗はあっさり山に人が住んでいないと言われ、少し驚いていた。元々山そのものが畏れの対象である事等に馴染みが無いからではあるが。
「まず……まぁ、山は我等の物だったけど今はそうでもないだろうから、支配しているのは天狗だろうねぇ。後は河童。主な所はこの二種族か」
「天狗に河童、か……」
 冷静な神奈子の隣で何やら瞳を輝かせる早苗である。
「……どうかしたの」
「えっ? あっ、いえ、えーっと。……何て言うか、普通に天狗や河童とかって名前が出てくる辺り、ああ、違う所に来たんだなあと言うか……」
「……ゲームじゃ無いって事くらいは自覚しておいてよ?」
「あ、当たり前じゃないですか!? もー!」
 そして突っ込みに思いっきり反応するのだった。それは多少図星だと白状したようなもので、萃香と神奈子の苦笑に早苗は頬を熱くする。
「それはそれとして、まぁ後はー……ああ、そういえばあんたと比べたら可哀そうな程度の神がちらほら居たっけねぇ。厄神とか季節神とか。まぁ色々追々分かってくるでしょ」
「流石に色々といる訳ね」
「幻想郷だもの。あっちに居ないのは大体こっちに居るって訳さ」
「成る程。……目下の所は天狗と話を付ける事になるかね」
 言いつつ、神奈子は不敵な笑みを口元に宿らせる。
「お、やる気?」
「それはもう」
 神奈子の笑みを見て、萃香も楽しそうに言った。笑みの意味が分かっているのだろう。
「うーん、なんだかそれを見物するのも面白い気がしてきたなぁ」
 ゆえにこそ鬼は神のこれからの振る舞いに興味を持ったのだが。
「それならお断りするよ」
「えー?」
「だって鬼は元々ここの主だったのでしょう。それがチラついてたんじゃ今後の神の威信に関わるからね。……なに、久々に譲って貰うだけさ」
 そう言った神奈子の口元の孤は鮮やかに伸び、表情も併せて見る者を戦慄させる神々しさを感じさせる。幻想郷に来た時点で彼女の信者は早苗一人に過ぎず、時が経つにつれ信者を増やさねば力は比例関係で減衰する一方である状況など存在しないかのよう。
 萃香は顔も知らぬ現在の天魔に同情した。
 神奈子の笑みに気付いていない早苗の平和さがいっそ微笑ましい程だ。
「それじゃ……ま、そういう事ならこんなものでいいかな。じゃーねー」
 言うなり踵を返すや駆け出して、半身振り返りながら手を振る萃香に、神奈子と早苗はやんわり手を振り返す。
 それは客観的に、腕白な妹を送り出す母と姉の図のように見えなくもなかった。
「……さ、てと。まずは天狗の住処を探すとしましょうか? もしくは、急にこっちに来たんだから騒ぎになってるかもしれないし、待ちに徹してみても良い」
 萃香の姿が見えなくなった後、早苗の頭を撫でながら神奈子は言う。
「そうですね、神奈子様」
 くすぐったそうにしながら、早苗は笑顔で応えた。その笑顔は希望に満ちた新天地での始まりに対し、ふさわしいものだと言える。
「と言うか」
「はい?」
 早速神奈子は顔を明後日の林の方へ向け、先程萃香に見せた笑みをまた浮かべた。早苗はやはり神奈子の笑みに気付いておらず、神と同じ方を見るがその先に何かは特定できていない。
 ちなみに二者の視線の先には、異変を察知し、その職務のままに迅速に木々を縫って偵察に来ていた犬走椛がいるのだが、総毛立たせた彼女の命運については今は語るべきではないだろう。どうせ五分と経たない内に彼女は天魔の元へ神奈子を案内しているのだから。

§

 山を駆け往く。
 何もかもが懐かしく、遠く忘れていた感覚全てが眼を覚ますような気分になり、萃香はやたらと楽しい気分になった。
 高揚とはまた違うそれに支配されつつ、木々を抜け、渓流を飛び越え、岩場を軽快に踏み越える。その都度、もはや外では味わえない上質な空気に、新鮮さすら覚えるせせらぎの音に、足裏にくる思い描く通りの感触に、彼女はえもいわれぬ楽しさを感じていたのだ。
 外の歪みきった〝他称〟手付かずの自然などより、この山の自然の方が余程自然らしいからだろう。そして、山に在る畏敬と畏怖の権化でもある鬼が、そこに在って楽しくならない訳が無い。
「あはっ♪」
 笑みを零し、滝の手前の巨石上で立ち止まる。
 それにしても、変わらない。何もかもがとは言わないまでも、あれもこれも変わっていない。
 風の香り、木の香り、水の香り、岩の香り、土の香り。全く正常に時を重ねれば、自然はこうなっていたのだと思わせるには充分だ。
 だが、外はそうはならなかった。何故なら外はもう何もかもが人間のものだから。
 滝の奔流を耳で楽しみながらも、萃香の表情が僅かだけ曇った。今ここで郷愁を感じるのであれば、神奈子の事を一切笑えないじゃないか。
「っぷ!」
 そんな風に思っていたら、不意に突風が萃香の小さな身体を突き押した。彼女でなければ突き飛ばされていたであろう強烈な突風である。
 風が吹く。それも暴威に満ちた荒々しい風が、木々を揺らし様々な音を立てる。
 その音は幾重にも重なり合い、ごうごうだのぼうぼうだのひゅうひゅうだのと、まるで風が笑っているかのような錯覚をさせられる程だ。
「へぇ、天狗笑いか」
 暴風に煽られて僅かだけ仰け反った上体を戻した時、萃香の視線の先には既知の相手が居た。
 もっとも、個別に誰かまでは分からない。分からないが、遥か下に滝壷を臨む空中にて浮遊するのが何ものかは、間違いなく。
「……ご挨拶だね、鴉天狗が」
 かつては、山の頂点に君臨し、全ての天狗を従えた鬼にとっては、この反応は至極当然のものだった。むしろ、即座に手を出さない辺り温厚とすら取れる。
「おーやおやまあ、これはこれは」
 おどけた声。すると一瞬前まで山よ吹き飛べとばかりに吹き荒れていた風がぴたりと止んだ。自然ではありえない、露骨なまでの不自然さである。
「山頂で何か大事があったようだと飛んできてみれば、その道中にまぁまぁなんとも珍しいお方がいらっしゃる」
 萃香に対し、鴉色の翼と短い髪とスカートを風に揺らす天狗が取った行動は、緩やかに羽団扇を振り翳す事だ。
「初めまして、私は射命丸文、ご覧あそばす通りの鴉天狗です」
「そうかい。私は伊吹の萃香。ご覧の通りの鬼だよ」
「……確か、この地に鬼はもう居ないとすっかり思い込んでいたんですがねぇ?」
 口調は爽やか顔はにこやか、だが文の態度は剣呑なものである。
 天狗からしたら、今の今まで鬼がおらず、山においては天狗の天下であったのに、何故今になって鬼がこんな所にさも当たり前のようにいるのかと。そう思えば、鬼の暴威の記憶も少々薄らいだ昨今である。幾らか挑戦的になっても仕方がないかもしれない。
「なに、ちょっと気になってね」
 両手を腰にやり、鴉天狗の挑発的な態度を愉しげに受け止めながら、萃香は傲然と口端を吊り上げる。これもこれで楽しくて仕方が無いのだ。
「ほう」
「この鬼の居ぬ間に、さて、この山は一体どうなってしまったのやら、と」
「ほほう」
 萃香の言葉にやや大仰に文は応え、それから、羽団扇を相対する相手へと向けた。
「だがしかして鬼は鬼、はて、それを証明するには一体どうなさるのかな」
「鬼は鬼さ」
 不敵な笑みを崩さないまま、萃香は無防備な姿勢を崩さない。
 鬼の笑みと似た種類の微笑を浮かべた後、文は肘を折って羽団扇を逆の肩に乗せた。
「成る程、しからば!」
 その言葉と、行動は同時。
 それも起動が、ではなく、到達が、である。
 言葉と同時に行動するのは特に珍しくも無いが、文は言った後、その言葉以上の速さで鬼へと突っ込んで行ったのだ。
 静から動などという生易しいものではない。風を操る力を持つ天狗として、名にし負う幻想郷最速の手管をまざまざと鬼に見せつけたのである。
 が。
「!」
 半ば瞬間移動めいた速度で彼女が突き抜けて行った先には萃香の身体は無く、何も無い大気を切り裂くに留まっていた。
「私の蹴りを避けた!?」
 在った筈の目標を貫通して行っている事に文は呆然とするが、その直後にあびゅ、という無様な声を口から洩らしている。
「まぁまぁ速い方じゃないか」
 楽しげな言葉はさも当然のようにそこからなされた。そこは天狗蹴りの目標であり、寸前に姿を消した彼女は瞬く間にそこに現れており、紐を引くような彼女の右手には鎖が握られている。ぴんと張ったその鎖の先は、雁字搦めになった文だ。
 音と同時に突っ込んでくる文を躱し様、腕の鎖を絡めたのだろう。突進の勢いをそのまま自分の身で引き受けるハメになった文は状況の把握が今一追い付いていない。
「だが! 速さはなんら私に危機を与える事はっ出来なぁーいっ!!」
「へぉああ!? あああああああうああああーああっあああーあぁーッ!?」
 そうこうする間に始まる大回転。なにせ滝壷へと身を躍らせた萃香が勢い良く右腕をブン回しているのだ。右腕の先には右手があり、更にその先には鎖が伸びて雁字搦めな文が居る。すると当然、長さによる遠心力によって物凄い事になっていた。
 落下の自覚も無いまま、先制の一発をくれてやろうとした筈が何故か雁字搦めでぐるんぐるんな状況になっている事に文が一定の理解を得たのは自分の無様な悲鳴が枯れた頃である。
 だがその直後には状況はまたも一変。
 散々にブン回し続けた萃香は近くなった滝壷へ文を叩き込むように振り抜き、それに連動して憎らしい程見事に解けた鎖は落下速度になんら遅滞を与えず、錐揉み状態になって鴉天狗はお尻から水中へ没した。
「もがぐぼご!?」
 数多の気泡に包まれて視界が利かない中、それでも妖怪の直感が危険をがなり立てた為、訳が分からないなりに文は必死に水を掻いて今ある場から離れようとする。如何に幻想郷最速とはいえ水の中では勝手が違う。
 ともかく光の方へ、水面へ、と文が急ぐ間に更に状況は変貌する。
 それは大音、それは衝撃、それは水底へと引き摺り込む強烈な激流。
 要は文を滝壷へブン投げ落した萃香がミッシングパープルパワーで勢い良くばっしゃーんという訳なのだが、そんな事は知る由も無い文は四度目の突然に目を回し、萃香の直撃こそ避けたものの上下の区別すら失いながら荒れ狂う奔流に弄ばれ続けた。
 死ぬような思いで文がようやく川岸に上半身を乗り出したのはそれから十四分後の事である。滝壷から少々流されてはいるが、六体満足なのがありがたいくらいだ。
「どう? お分かり?」
 すると若干待ちくたびれた様子の声。
「…………はいとても」
 声に顔を上げれば、腰に手をやる萃香の姿。もはや降参せざるをえまい。
 元々本当に相手が鬼なら種族格差がある以上最初から勝てる訳も無く、実際、初手を失敗した挙句この有様では尚更無理も無理と諦めるしかないだろう。
 当然、萃香の方も天狗の性質を知った上で出鼻を挫いて主導を得たのだ。ついでに鬼としてここでやや強めにやっておく事で、隠れて覗いているであろう他の天狗等への示しにもなる。
「うん。で?」
 萃香は片手でひょいと文を引き上げ、岩の上に転がしながら言った。彼女は鴉天狗に聞きたい事が色々あるのだ。
「え?」
「これ、まさか鴉天狗如きの独断じゃないだろう?」
 水浸しのままきょとんとした文に萃香は強い視線を向ける。
「……お見通しですか」
「今の天魔が誰か知らないけど、どうせそいつの差し金だろう。ま、でも安心して良いよ。私は、今の所特にあんたらが考えてそうな事をするつもりはない」
 むしろ天魔が心配すべき事は別にあるのだが、それを萃香が文に言ってもどうにもなるまい。
「今の所はですか?」
「気が変わらない保障とか、そういうのなんてある訳無いじゃん」
 そして思わず口を挟んだ文に、萃香は呆れた様子で応じた。
 その〝何を当たり前の事を〟と言わんばかりの態度と、それを不思議に思わせない傲然な雰囲気は、確かに鬼であると言える。
「……それはそうですけれど」
「じゃあそういう事さ。何もしないという内から、藪を突付く趣味があるならやっても構わないけど」
「しませんよ。少なくとも天狗は」
「だろうねぇ、あんたら天狗はさ」
 愛想笑いを浮かべる鴉天狗にやや呆れ調子で鬼は応えた。
「ところで……どうするんです、これから」
 よっこらしょと身を起こしながら文は問いかける。散々な目に遭って見た目はボロボロだが、これといった大怪我が無いのは鬼の目溢しか天狗の強さか。
「んー? ……ざっと見て回ろうって以外には特にこれと言って……ああ、じゃあさ、こう、何か活きのいい人間とか知ってる? 何でも良いから」
「そりゃあ……幾らかは」
「じゃ、案内して」
 応えに即答する萃香である。
「……ぇえー?」
「あんた等がまだ瓦版ごっこやってるんなら、良いネタ元になると思うんだけど?」
 もっと大事が山の頂で現在進行形なのだが、そこは鬼にちょっかいをかけたのが運の尽きというものだ。
「新聞です」
「どっちでもいいよ」
「ともあれ……そうですね。損はしなさそうです。という訳で案内しますからちょっと待ってて下さいよ、せめて着替えたいです」
 山頂の物事と、久方ぶりに表れた鬼の密着取材。どっちも重いが、状況も含めて密着取材の方を取った文である。それに山頂の方は今頃他の天狗等でごった返していても不思議は無いし、そうとなれば密着取材の記事の方が部数は稼げるだろう。
 実際はそれどころではないが。
「ん」
 打算に満ちた文と言う水先案内人を得た萃香は、快く彼女の要求を呑んだのだった。
「あ、そうだその前に……どうやって私の蹴りを避けたんですか?」
 つい聞いてしまう。会心とまでは言わないが、あれが全力全速であったのは違いないのだ。自慢の一蹴を容易くあしらわれたとあっては、新聞屋として素直な好奇心を抱かざるを得ない。
「あんたが遅いからだよ」
 回答はにべも無かった。
 よっと立ち上がり、少々ふらつきつつも相手を見下ろす形で文は返す。
「遅くないですよ私。これでも幻想郷で最も速い内の一人なんですから」
「何その苛々する表現。最も速いって言うならつまりあんたの事に他ならないんじゃないの? 普通はさ」
 萃香の言う事も尤もだが、状況次第等で変動する以上仕方が無いと言えた。
「……まぁでも、取り敢えず速いんですよ? 私」
「それはそうだねぇ」
「そうですよ」
「でもいくら速くても、私に気付かれた後だったら意味がないよ」
「そうなんですか?」
「うん。速さじゃ鬼を倒せない。身を以って分かっただろう?」
「それはそうですがー……」
 手際よくメモを取りつつ、これは答えは聞けないな、と落胆する文である。
 だが萃香にとっては、そんな様が面白かったりした。何せ彼女は文を避けてすらいないのだ。自らに邁進する疾風の塊である文に対し、ちょいと自分を散らしたに過ぎないのだから。後はそこを突き抜けて行く文に鎖をひっかけてやれば造作も無い事である。
 それから暫くして、超音速で乾燥やら着替えやら必需品やらと用意万端整えた文は萃香の元に馳せ参じた。
「では参りましょうか! 其方様におかれては久方振りの幻想郷でありますし、ここは一つ簡単な遊覧を兼ねると言うのは如何でしょう? 色々変わりましたよ?」
 スマイルも鮮やかな営業モードである。尚言えば鴉天狗と鬼の距離は近く、顔同士などは鼻も擦れ合わんばかりだ。
「遊覧は程々でいいよ。何も地図が大幅に書き変わったって訳じゃあ無いんだろう?」
 圧迫感すらある文の笑顔をうるさそうにしつつ、面倒くさそうに萃香は手を振る。
 この答えに文は「そうですか? 本当に? 勿体無い……」と言い募ってはいたが、萃香の手が平手から拳骨に変わった辺りで見事に黙る。以前の鬼と天狗の力関係が如実に表れており、また今の天狗の処世術がよく表れていた。
「それでは参りますので。こちらになりまーす」
 普段使う機会がてんで無さそうな手旗を振り振り、萃香を先導するように文は飛ぶ。
 天狗の露骨な豹変に早くもうんざりしつつ、鬼は彼女を追ったのだった。

§

「さぁさご案内致しますのはこちら雲上の桜花結界を越えまして」
「はいはい白玉楼白玉楼」
 ツアーコンダクターよろしく手旗を持ってノリノリな文に対し、萃香はなんとも呆れきった様子で溜息を吐いている。久し振りとはいえ、大して変わり映えの無い地元を明朗にご案内されるというのは何とも退屈で苦痛なものだった。
「白玉楼前の大階段にございます~」
「知ってるってば」
 めげない文に苛立ちを隠さなくなってきた萃香である。
「で?」
 鬼の角ばってきた視線が、この場の珍しい人間と言うものが何なのかを早く言えとばかりに鴉天狗に突き刺さった。
「魂魄家とその役割についてはご存知の事かと思いますが」
「うん」
「現魂魄家当主は多分あなたが知ってた頃とは違うんですよ」
「ほう」
 そこで初めて萃香の瞳に好奇心の色が宿る。萃香からすれば、てっきりあの翁が冷や水を飲み放題にしているものとばかり思っていたのだ。
「それじゃあちょっと顔でも見に行ってみようかなぁ?」
 言って律儀に階段に足をかけて上って行く萃香を、少し後ろから文が飛びながら追う。
 階段沿いに続く閑散とした桜並木。いつぞやの異変ではそれはそれは見応えのある長桜並木だったようだが、今の様子からその隆盛ぶりを窺う事は難しい。
 とはいえそんな事は露知らぬ萃香である。季節柄で無い以上冥界桜の開花具合などどうでもよく、やはり文が色々と丁寧に説明しようとしたが鬱陶しいので黙らせていた。
「……お」
 階段を上る内に、やがて現れる独特な気配。半人半霊のそれは一度知れば二度と間違えようの無い程奇抜なものだ。
 足を止め、視線を上へ向ければ真っすぐ此方へ突っ込んでくる銀と緑と半透明の影。
「来た来た。当代の魂魄はさて如何なる」
「はいはいあれなるは先代の孫である魂魄よう」
「毟るよ?」
「ぎゃああーっ!?」
 推理小説が面白くなってきた所で得意げに犯人をバラすような真似をした鴉天狗は、哀れ鬼に羽をちょっとだけ毟られてしまいました。これが文でなければ鷲掴みの上でぶちぶちと血を見る事になっていたかもしれません。
「え……結界通って何が来たかと思えば……何なの……?」
 職務に忠実な魂魄妖夢が現場で見たものは、若干凄惨なじゃれあいの図だった。何せ萃香は一度で辞める事は無く、また文も体よく追い払われてなるものかと離脱しなかった為、羽が更にもうちょっと毟られて宙に舞っている。
「あっ、あー! ほら! 来てますって! ほら! ほら! すぐそこ!」
 幻想風靡に匹敵しようかと言う高速フェイントを駆使して鬼の魔手を掻い潜っていた文は、最初から蚊帳の外である妖夢が呆れ切った眼差しで自分と萃香を見ている事に気付く。
 そんな文の必死なアピールに流石の萃香も手を止め、振り返れば「ああもうよく分かんないから斬っちゃってもいいかなあこれ等」という顔で背の楼観剣を、柄に片手鞘に片手と器用に両手を使って引き抜いている所だった。
「なんだ、孫も剣士なのかい。あの祖父を倣うのは並大抵じゃないだろうに」
「え?」
 見知った新聞屋の連れである顔も知らぬ頭に角を生やした相手の言う事に、妖夢は驚きつつも楼観剣をしっかりと抜き放つ。一振りで幽霊十匹を屠れる力を持った刀身が冷ややかに煌めいた。
「えーっとですね、こちらの方はいやなんでもないです」
 目を丸くして言葉を失った妖夢に文は解説をしようとしたが、萃香の握り拳がそれをさせなかった。このやり取りも妖夢にとっては珍しく、二つの驚きが相殺して彼女は平静を取り戻す。
「それでこちらの方は誰なんです? 私はこの先の白玉楼の剣術指南役、魂魄妖夢ですが」
 楼観剣を抜いたまま文と萃香のそれぞれに視線を向けつつ、名乗る。これに文は庭師ではないのか、と疑惑の視線を向けたのだが妖夢はそれをいつも通り無視した。
「私は伊吹萃香。……うーん、まぁ、エトランゼ? かな?」
 問いに応えようとして顎を撫でつつ若干首を捻った萃香である。特にこれと言った役職など持たないので気にしなければよかったのだが。
「……それでそのエトランゼが此処になんの御用で。見た所生きてるようだし」
 当然妖夢としては胡乱な者を見る視線を向けざるをえず、それを受けた萃香は少し苦笑した。
「あんたを攫いに来た」
「は?」
「成る程!」
 再度驚いた妖夢は本気だろうか、という目で初対面の萃香を見、次いで確認するように文へ視線を向ける。何かを納得した様子の文は既に記者根性丸出しで手帳に筆を走らせていた。
 どうも本気らしい。
 そう判断した妖夢の行動は迅速であった。
 静かに表情を引き締めると、階段を蹴って何段か後ろ、斜め後方へ飛び退る。そうして足が段に触れるなり即座に蹴り、今度は斜め下、萃香の方目掛けて一瞬で間合いを詰めて楼観剣で薙ぎ払おうとする。先手、小手調べと言うには余りに斬る気満々だが、出来なかった。
「えッ!?」
 実際には楼観剣は萃香の額に受け止められていたのだ。全く避けようとしなかった彼女と、その異様に硬い手応え。二つの予想外が妖夢の腕を痺れさせ、蹴り込みの勢いを相殺し切れず刀身を肩で押し込むような形になったが、それすら萃香は小揺るぎもせず受け止めていた。
 自らの勢いが殺されるや再度飛び退った妖夢だが、表情には困惑が躍っている。避けた相手、何かしらの手段で受け止めた相手は何人もいる、しかし避けずにそのまま受け止められたのは初めてであり、その相手が硬そうならまだいくらでも納得がいくのだが。
 警戒は緩めず楼観剣を構え直す際、黙って傍観に徹している文の表情がやたら輝いているのが妖夢には気に入らなかった。
「身の危険と判断するなりな果断さは立派だけど……後はまだまだ今一だねえ」
 他方、額に刻まれた一筋の薄痣を軽く指でなぞりながら萃香は呟く。彼女は孫が祖父とどの程度の差があるかを確認する意味で一閃を躱さなかったのだが、どうも若干予想を下回ったようだった。仮に斬られそうであったなら、皮一枚の段階で散って避けていただろう。
 そして目の前でそんな事を言われた妖夢としては黙ってはいられない。
「なんなんですか。急に来て、攫うとか言って、しかもそんな」
「あーごめんごめん。悪気は無いんだ。ただこう、妖忌をご存知な身としては、その孫がどんなものか知りたくなるのは普通でしょ?」
「さっきもですが、まるでお師匠様を知ってるような口ぶり。でもそれでどうして私を攫おうとか言い出すのやら」
「だってあんた半分は人間でしょ」
「ええまあ」
 指摘に妖夢は頷く。残りの半分はいつものように自分の回りをふわふわしていた。
「じゃあ攫うよ」
「なんでですか」
「なんでだろーねえ」
 にやにや笑ってはいるが、何故攫うかってそれは無論鬼だからである。だが、萃香としてはこの実直娘をからかって遊ぶのがなんだか楽しくなっていた。
 理不尽にからかわれている側としては溜息の一つも零したくなる。
「……どういう事ですかこれ」
「さてはて私からはとんと」
 事情を知っていそうな傍観者もまた肩を竦めにやにや笑っていた。あれはどう見ても知っている顔である。
 となると、かかる事態においてもはや妖夢に取るべき手段は多くない。
 お師匠様は言っていた。真実とは耳目に頼らず、斬って知るものだと。
「故に……斬れば、判る」
 呟きと共に楼観剣を構え直す。
 先程は全力の小手調べだったが、今度は全力の本気。
 思いっ切り痛めつけてやれば、人攫いは思い留まるに違いないし、おかしな手応えの相手の事も良く分かるだろう。
 そういった考えの下、妖夢は楼観剣を大上段に、両断の意を大いに表す。
「ほーう」
 そんな意気に萃香は愉快げに口元を歪め、手招きせんばかりな笑みを浮かべる。
 直後に楼観剣の刀身が噴出するように伸び、大量の妖力が注ぎ込まれた真っ青な刃は確かに妖夢の全力の本気であろう。それを目にしても態度を変えない萃香に彼女はむしろ納得し、だからこその一刀なのだ。
「ぃいやぁーッ!」
 そして、覇気一閃。仏の慈悲を例えた迷津慈航を妖夢なりに解釈したのだろう。これ程分かりやすく迷いの無い一撃はそうそうあるまい。
 瞬く間に降ってくる巨刃に対し、萃香は真っ向から白羽取りの構え。それを見、やれるものならやってみろとばかりに妖夢は意気を高揚させる。
 妖夢に対する萃香を観ているのが文でなければそれを無謀と思うだろうし、文でもいくら鬼でもそれはちょっと無茶ではないかと思っていた。
 瞬間後、鋼を打ち合わせたような音が響き渡り、文の思考を笑うように妖夢の全力の本気は萃香の両掌に挟み止められている。
 少々見切り損なったのか、掌の中程ではなく親指の付け根辺りで青い刃を挟み止めている辺りが危うさを感じさせはするが、そこはそれ。どこでも良いから止める事さえできれば、鬼の力はそれで充分なのだ。
 白羽取りされた事、そして止められた刃がどんな力を込めても全く微動だにしない事。萃香と文が現れてから驚いてばかりなのだが、今度もまた妖夢は素直に驚いていた。
 だが流石に驚く事にも慣れてくる。止められたのであれば次の手を打てば良い。
「おっ」
 妖夢の背を蹴って現れたもう一人の妖夢に、迷津慈航斬の効果範囲から即座に逃れていた文は声を上げる。半霊を変質させる事で半人と半人となり、跳んだ妖夢の手には白楼剣。
 迷津慈航斬を繰り出した妖夢と同様、白楼剣にも妖力を集束させて緑の刃を作り、くるくると独楽のように回って遠心力を加えた上で青い刃の背に交差して乗せるように叩き付ける。
 合わせて一人前となった妖夢の二段攻撃。迷津慈航斬と冥想斬の重ね斬りだ。
 その凄まじさと勢いに思わず文は感心してしまう。
「く……ぅっ!」
 だが先に苦鳴を漏らしたのは妖夢の方。
 元より迷津慈航斬に多大な妖力を注ぎ込んでいる為、そこから更に半霊を半人化させて冥想斬を繰り出すとなると、その消耗量は凄まじいものになる。だからこそその消費に見合った爆発的な威力が得られるのだが、あくまで瞬間最大的なものに過ぎず、持続力の点ではお粗末なものとなってしまう。
 現に萃香は一人前の重ね斬りをも受け止めきっており、その様に文はメモだ写真だと邪魔しないよう配慮をしつつも忙しない。もし妖夢が今斬りかかっている相手が何者であるか、それを正しく知っていたらここまで性急な手には出なかっただろう。キングオブ化け物に真っ向からの力比べを挑んで勝てる訳が無いのだ。
 そうして白羽取りのままがっちりと両腕を固定させている萃香は、妖夢の物凄い思い切りの良さが気に入って笑みを浮かべ、攫う意志をより強固なものとし、その為の行動に出た。
 一人前となった妖夢からの圧力もなんのそのと右足を踏み出し、ずいと一段前へ。
「ぐ」
 抗い切れず肘が曲がり、それでも今居る段からは動くまいと段上の妖夢は奥歯を噛み締めたが、空中の妖夢の方は妖力が限界に来たのか半霊に戻り、緑の刃を失い落ちた白楼剣が階段に突き立った。
「ううっ」
 半霊もまた力無く階段へ落ちたのを見、妖夢は呻く。自分の半身が限界に来たのである。それは同時に、残る半身ももう幾許も持たない事を意味しており、当人もその事をよく分かっていた。
 楼観剣を握る両手から徐々に力が抜け始め、連動するように青い巨刃も短く薄くなっていく。
 それでも尚諦めを見せない妖夢に萃香はますます楽しげになり、更に一段、また一段。そうこうする内に萃香と妖夢の間は一段差まで詰まった。
 萃香はもう殆ど両手に力は籠っておらず、様子も涼しげ。だが妖夢の方はと言えば、呼吸は荒く、脂汗を浮かべ、どうにか楼観剣を持つので精一杯、力の入らない腕を無理矢理使おうとしている為震えが来ている。
 勝負ありましたね、と傍観している文は事の顛末をメモしながら頷いた。
「くそー……」
 文の判断を裏付けるように、悔しげな呻きと共に妖夢は崩れるように膝を折る。それでも楼観剣は手放さないが。
「と言う訳で私の勝ち。敗者は大人しく私に攫われるんだね」
「なんで攫われなきゃならないの……」
「私が攫うと言って、あんたは攫われたくないからさっきまでの事をして、駄目でした。じゃあ攫うのは自然な事だと思うけどなあ」
「いや、だから、そうじゃなくって」
「ん?」
 まだ呼吸の整わない妖夢の言葉に萃香は首を傾げた。
 この仕草に妖夢はどう説明したものか考えようとして、まとまらない思考に何秒間か時間を浪費する。
「根本的にどうして攫うのか、って所じゃないですかね」
 そこで文が助け船を出すと、妖夢は大きく頷いた。ようやく話が繋がり、ちょっと考える萃香である。
「根本って言うと……私がなんであんたを攫うかって、そりゃああんたは半分人間で、半分でも人間なら鬼が攫う対象として全く間違っていないからさ」
「……おに?」
「鬼」
 今更の事実に妖夢は目を丸くし、萃香は頷いた。
「おに……え? なんで鬼が幻想郷に?」
「色々あったのさ」
「色々って……」
 萃香の赤点ものの説明に妖夢は尚も言い募ろうとしたが、それは波打ちながら伸びる鎖の音に掻き消される。
「えっ」
 先端に分銅のような黄色く丸い球のついた鎖が、殆どあっという間にぐるぐるじゃらじゃらと妖夢を取り囲み、瞬く間にそのまま鎖で簀巻きにしてしまう。それこそ頭の天辺から爪先までがっちりと包んだ為、見た感じ少女大の鎖の塊から刀を握る手が二本生えているという謎の前衛芸術的物体である。
 左手の鎖で妖夢を包んだ萃香は、容易く楼観剣を奪うと既に突き立っていた白楼剣の隣に突き立てた。
「んじゃ、行こうか」
 物言いたげにか弱く動く妖夢の両手を気にする事無く、雁字搦めの彼女をぶら下げるようにして萃香は飛ぶ。
「あれっ? あっちは良いんですか?」
 文はそれに追従しつつ、妖力の使い過ぎで気絶状態にでもなっているのだろう、階段上で澱んだまま動きに乏しい半霊を指差す。
「だってあれ人間じゃないじゃん」
「……そりゃそうですが」
 だからって置いて行く事は無いんじゃないか、と考えたが鬼に何言ってもほぼ無駄であろうと判断したので、文は何も言わず萃香と並んで飛ぶ。
「そういえば何処行くんです。攫ったは良いですがまさかずっとそのまんまって訳にもいかないでしょう?」
「まー山に置いてくるさ。あそこには知り合いが居るし、多分今頃は色々事が終わってる筈」
「ふぅん……?」
 何やら妙に気になる諸々だったので、折角だからと目的地への道すがら自分が安全な範囲で取材を敢行する事にした。
「それでですね、さっきの妖夢さんとの一戦ですが、いくらなんでもあの刀の刃が全く通らないってのはどういう事なんですかね。楼観剣は良く分かんない切れ味してますがあれで中々どうして、妖怪でも存外斬れたりするものなんですが。やっぱりあれですかね、鬼だからってだけでおよそ何でも罷り通ってしまうんでしょうか」
「あー」
 即生返事な萃香である。
 まさか今頃、山では神奈子が天魔を力尽くで打ち負かし、文句を言わせない状況を作った上で平和条約を強引に締結。実質的な支配権を確立しているとは夢にも思うまい。
 そもそも文は山頂に神社が現れた事さえ知らずに居るのだ。
 事実を知った時の驚きようは、さぞ見ものだろう。
「それにあの妖夢さんのごっつい妖力斬りを白羽取りとか無茶も良い所ですよね? あれ刀そのものの延長じゃなくて妖力の塊なんですから触るだけでも相当痛い目に遭うって言うかそもそもどういう腕力というか力してるんですか。ミッシングパワー、禁じられた力みたいな?」
「うー」
「他にもその手首や髪の鎖の先の飾りとかって意味あるんでしょうかね。球と正六面体と四角錐とあるようですが。……腰の鎖に飾りは無いんですねえ」
「んー」
「……ちょっともーちゃんと答えて下さいよー。折角の機会なのにお粗末な記事書きたくないんですよ私だってー」
「そうかそうかそりゃ大変だー」
「もー頼みますってー。大体さっき知り合いが居るって言ってましたけどどんな知り合いなんですか? 天狗ですか? 河童ですか?」
 半人妖夢をぶら下げて山へ向かう萃香は、若干ウザ目の文の取材を受け流しながらその瞬間を楽しみに微笑んだ。無論、神奈子が天狗に遅れを取る等とは全く想定してすらいないのだ。

§

 そうして山に戻った萃香が見たのは自分の想定を超える有様だった。
 何せ守矢神社の鳥居前で、神奈子が天狗達に囲まれて取材を受けているのである。萃香の予想通り一暴れしてまだ間が無いのか、彼女の背には四本の御柱が勇ましく連なっており、久々のちやほやに高揚しているらしくビカビカとネオンの様に輝いていた。
「なんなんですかあれ」
 山頂の様子が知れてくるにつれ、萃香への取材では無く状況の変化の方に意識が傾いていた文は、同胞達の取材を受ける訳の分からない誰かに目を丸くしている。
 色々と無理も無いだろう。
「私と一緒にこっちに来た外の神様さ。惜しいねえ、私に付き合って無ければ今頃あんたもあそこの最前列に居られたかもしれないのに」
 神奈子の取材に一生懸命になっているのか、自分等に気付かない天狗達と文とを交互に見、萃香は笑った。流石に今の神奈子には劣るだろうが、充分な特ダネが頭上を通過しようとしていると言うのに。
「う~ん、まぁこっちを選んだのは私の意志ですし。それにあんなんじゃ記事を書いた所で皆知ってる事になるでしょうから誰も買いませんよ」
 敢えて、私の所のような弱小のは、とは言わなかった。これが大部数の大手新聞であれば、紙面も豊富なので一面以外にも読む部分がある為色々と贅沢も効くのだが。
 降り立った萃香と文は、雁字搦めなままの妖夢を引き摺って境内へと入って行く。片や勝手知ったる様子で、片や既存の神社との違いを物珍しげに見つめながら。
「あら。……早かったですね?」
 物音がしたので台所の方から出てきたのか、巫女服の上から若奥様のようなフリルエプロンをつけた早苗が現れた。
「ただいま。んで、こっちは早苗も知っての通りの天狗。鴉天狗だね。こっちは戦利品みたいなものだけど」
 早苗が若干物言いたげな視線を向けてきたので、簡潔に説明する。
「鴉天狗ですか。……本当に鴉っぽい黒い翼持ってるんですねー」
「そんなじろじろ見られるとちょっと恥ずかしいんですけど? とと、申し遅れました。私、こういうものでして」
 一歩前に出ると、営業スマイル全開で文々。新聞の名前入り名刺を早苗に差し出す文だった。
「これはどうもご丁寧に……あれ、えっと……ぶん……あや……? えーっと」
「ぶんぶんまるしんぶんの、しゃめいまるあやです」
「ああぶんぶんまるで、しゃめいまるあやさん」
 名刺を受け取り、書いてある事に困惑する早苗に対し慣れた様子で文は読み方を言い添える。最初っから振り仮名くらい書いておけば良いものを、と萃香は思ったが、変なこだわりがあるのは種族を問わず誰にでも何かしらあるものだ。
「私は東風谷早苗と言います。えーっと、名刺は無いですけど……まだ幻想郷については右も左も分からない新参ですけども……なんだか凄くエキセントリックでこれからが楽しみです! だからって訳でも無いですがよろしくお願いしますね!」
 ふらっといなくなった神奈子がふらっと天狗達を引き連れて帰って来たのには度肝を抜かれた早苗だが、既に見知った萃香がこうして当たり前のように天狗の知り合いを連れてくる事には興奮を覚えるようになっていた。
「ははぁ、こちらこそよろしく」
 その経緯を知らない文は、外の人間は変わってるなあ、ぐらいにしか思わなかったが。
「あ、早苗さんは巫女なんですね。見た感じ」
「はい、巫女……っていうか現人神です。えへん」
「ほほう神様でしたか。それはそれは……」
 試しに言ってみたらあっさり通用したので早苗は結構驚いた。同時に、自分が今どれだけ非常識な所に来たのかというのも察する事が出来た。無論、その理解では全然足りないのだが。
「ところで何そのカッコ?」
 エプロン姿の早苗に萃香は疑問を述べる。別にお昼時と言うような時間でも無いし、早苗に暇さえあればお菓子を作るとか言ったような趣味も無い。
「ああこれはですね。ほら、多分見たと思いますけど神奈子様があの通り天狗さん達に囲まれて記者会見開いてるじゃないですか。で、まあ念の為飲み物でも用意しようかなあって。口に合うかどうか分かんないけど……ほら、こっち電気通って無いじゃないですか? だから冷蔵庫の中の物ばーっと放出しちゃおうかと」
 早苗の出てきた台所のテーブルには、炭酸飲料とかおいしい水とかの詰まったペットボトルが何本かにアルミ缶等と、相応数のコップが並べてあったりする。
「つまり今から給仕で大忙しと」
「そうなりますね。……あ、なんでしたら手伝って貰えます?」
「いやぁ私はまだやる事の途中だから」
「私は独占取材の真っ最中ですので」
 ダメ元だったとは言え、あっさり断られるとそれはそれで残念になるものである。そもそも神奈子が何も言っていない早苗の自発的な行動なので、それを誰かに手伝って貰おうと言うのは甘えというものだが。
 そこでふと萃香は、自分が何故ここに戻って来たかを思い出した。
「そうだ、手伝いなら丁度良さそうなのがいたよ」
 そう言ってさっきまで引き摺ってきていた鎖の塊を解くと、当たり前だが鎖の塊から妖夢が転げ現れる。
「うわっ」
 人間が転がり出てきたので早苗は流石に驚き、一方の妖夢は直前までの疲労と結構な間無の鎖に包まれていた事とが重なったせいで凄まじい疲労困憊昏睡状態にあった。その様を見てこれはいけない、と萃香は妖夢の額に手を当て一帯の妖力を僅かずつ萃めて送り込む。
「ぶはぁ!」
 すると妖夢は勢い良く息を吹き返し、それからはたと周囲の状況に気が付くと困惑に近い疑問を表情に躍らせた。
「ぇえーっと……?」
 攫われている間に気を失って、気が付いてみれば案の定見知らぬ場所、そして見知らぬ誰か。これでは顔に出る程困惑してもなんら不思議は無い。
「あんたは私に負けて、攫われた。で、攫われた先では早苗の手伝いをする事。分かった?」
 訳が分かっていない妖夢に対して、早苗を指差しながら有無を言わさぬ萃香である。
「へっ?」
 首を傾げた妖夢なのだが、萃香は「じゃーね」と文を連れてさっさと何処かへ行ってしまう。
「えー……?」
 それを呆然と見送り、初対面の早苗を振り返れば、同じく妖夢を振り返った早苗の姿が。
「初めまして、私は東風谷早苗。あなたも妖怪か何かなの?」
 近寄り、手を差し伸べつつも、浮き浮きした眼差しは好奇心剥き出しである。
「あ、どうも。えっと、私は魂魄妖夢。仰る通り半人半霊の……あれ」
 礼を言いがてら立ち上がり、自己紹介の途中でふと気付く。
 半霊が居ない。
 今まで全く考えもしなかった事態に突如直面し、はわわと混乱し始めた妖夢なのだが、不思議そうにこちらを見る早苗の視線に若干我に帰る。
「あーえーえーっとえーっと、妖怪では……無いかも、今の私は。半人だけだし。いやそれだけでも充分妖怪は妖怪……?」
 どう考えても怪しげな取り繕いだったが、何も知らず、且つ想像力は豊富な早苗からすれば色々勝手に補完して納得するには充分だった。
「成る程、つまり何か状況起因的なものとかが足りない訳ですね。今は事情があって全力では無いっていう」
「ええまあ、そんな感じで」
「そっかー……」
 妖夢の曖昧な応えに、ファンタジーとリアルがマーブル模様を描いている現状についつい楽しくなってしまう早苗であった。
「……あ、伊吹さん達とは知り合いなんですか?」
「え? ……いや知り合いって言うか……射命丸の方はそうなんだけど。鬼の方は初対面で、いきなり攫われてここに連れて来られたんだけど……」
 これを聞いて、早苗はああそういえば鬼ってそういうのなんだっけ、と納得したように頷いている。今までの世界で略取誘拐や拉致などをやろうものなら、あっという間に人間の報復を盛大に受けてしまう為、世知辛い世知辛いと神奈子相手に酒を片手に愚痴っていたのだ。
「……まぁ、ともかく。どうします、手伝います? 私を」
「いえあの。帰った方が良いんだけど……ここがどこか分かります?」
 帰ろうにもまず自分の居場所が分からなければ話にならない。
 そう考え妖夢は問うたのだが。
「それがさっぱり。伊吹さんに連れられて幻想郷に来たんですけど、まだ一日も経ってませんから……うん、携帯も使えないし、右も左も分からなくって」
 何故か楽しげに首を横に振った早苗に軽い絶望を味わわされた。
 それなら勝手に抜け出して帰り途を探す手も考えられたが、そもそもここは鬼が攫って連れて来た場所なのだ。はいそうですかと帰れる保証なんて何処にも無いし、そもそも帰れると思う方が間違いだろう。また楼観剣も白楼剣も無く、半霊すら居ない半人前状態では自力でどうにか出来るなどと楽観視も出来ない。鬼に攫われたら物語の主人公が助けに来るのが相場だが、妖夢には助けに来てくれそうな主人公に心当たりが無かった。
 基本的に幻想郷は薄情で出来ている。
「……じゃあ、手伝います」
 数秒ほど打ちひしがれた後、妖夢は諦観と共に情況に流される事にした。
 西行寺幽々子の下にあっては良くお世話になる処世術である。
 体験版です。ヤツの。最初の56kb分くらいの。
 実際こんなもんです。
 エールを送ればそれは確実に力になるよ!

 ……なるよ!


 Hodumiは生きてます!
Hodumi
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