………………。
音のない静寂。
星のない夜空。
黒のない虚空。
白のない白雪。
いや、嘘だ。
傘に水を含んだ雪が当たる音はするし、呼吸の音も聞こえる。じっとしているから自分の心音だって聞こうと思えば聞こえる。
確かに夜空に星はないが、その代わりのように白い雪がこれでもかと降っている。
雲の上には今日も月が出ているはずで、黒いはずの虚空に蒼が混じる。
白いはずの雪はそんな薄い月光に照らされて、青みがかっている。
いつだって、世界は矛盾だらけである。
例えば、人間と吸血鬼が同じ屋根の下で暮らしている事だって、大きな矛盾だ。
例えば、いつもこの時期になって思い出す、愚にもつかない、IFの世界。
だけどどう頑張っても起こりえなかっただろうその世界は、希望と絶望のどちらかであるかなんて自分には知りもしない事だ。
もしかしたら、あの吸血鬼は知っているかも知れない。でも教えてくれた事はない。
だから、こうして思うだけにする。
違う世界の自分を想像する、という事は現在の否定だろうか? それは現在の自分を変えたいという欲望の表れだろうか。
今生きている事に不満を持っているのではないだろうか。
疑問が次々と生まれて、雪に吸い込まれて消えていく。
夜空には大きな時計台のシルエット、そして雪。
疑問の方向性を変える。
確実に言える事は今の自分が置かれた決して不幸ではないという事だ。
住む所も食べる物も着る物もある。あいにくと私一人しかいないがいつも周囲はうるさいぐらいに賑やかで、概ね楽しい毎日である。
温もりをくれる人の手は冷たいけれど。
すぐに子供みたいな我侭を言い出して困らせてくれるけれど。
周囲に人間はおらず、妖怪ばかりが暮らしているけれど。
あれ、私って案外不幸なんじゃないかな、などと思えてきて、苦笑が浮かぶ。
白い息は虚空に逃れ、雪の雨を遡るように昇って、すぐに消えてしまった。
冬の寒さは嫌いじゃない。むしろキンと冷たく、冴え渡るような気がして好きだ。
もっとも、足や身体が冷えるのはごめんこうむりたいのだが。
それでも、雪が降ればこうして外に出て空を眺める。
かつて一緒に雪を見る事は無かった相手を思う。彼と共に生きていたらどうなったのだろうか、彼はこの雪を見てなんと言ってくれたのだろうか。
それは、幸せな言葉だっただろうか――。
愚問すぎる。そんな言葉が彼から出てくるとは思えない。一夏を過ごしただけの相手をもう何年も冬が来る度に思い出す。
あまり幸せな記憶はない。過ごした期間だって長くない。それでも自分の人生に影響を及ぼしているのは確かで、今の自分への第一歩を踏み出したあの夏から秋への記憶は、忘れられる筈がないのだ。
だから、思い出す。
大切な宝物を、自分だけの時間にひっそりと眺めるような気持ちで記憶を慈しむ。
まるでセピア色の映画のように思い出しては楽しんでいる。
あの頃の自分は幼かったなぁ、とか。
あの時の自分は間違っていたなぁ、とか。
あの当時はそれが普通だと思っていたなぁ、とか。
あの頃の自分は彼に愛されていただろうか? とか。
まるで一つ一つの事象を大切に大切に、良い思い出のように大切に懐かしむ。
決して良い思い出ではないのだが。
白い雪が、不幸な記憶を埋めてしまえばいいと思う。降り積もって降り積もって、嫌な事を全てを包み込んで真っ白にして、そして見えなくなってしまえばいいとすら思う。
そんな詩的な考えが浮かんでやっぱり白い吐息が虚空に昇って、消えていった。
今、胸を張って愛していると言える人がいる。誰に向かって言うつもりもないが、いつも自分の中に「どうだ、私はこの人が好きなんだ、今幸せなんだ」と言い続ける自分が居る事を否定できない。
そしてその言葉は恐らく彼に向けられているだろう。
結局、どこまで行っても母親に似た部分はあるのかもしれないと思う。愛を欲しがって、愛を捧げる相手を欲しがるだけのつまらない人間と自分は大差はない。
見下げた人間である母親だったが、血の繋がりがあるかのように愛を欲しがった自分に母親を見下す権利はあるのだろうか?
先ほどとは違う意味合いの吐息が、やはり白く消えていく。
傘を持つ手も赤くなってきただろうか。それでも身体や頭を刺すような冷たさが好きで、その場を離れる事はない。
自分の記憶や、迷いがこの雪の中に吸い込まれて消えてしまわないかな、と。
そしてこのまま自分も雪の中に消えていったら、どうなるのかな、と。
それもいいかも知れない。
愛される資格がある人間ではないし、愛していい相手ではない。
このまま、ふと空を昇って、どこまでも雪を追いかけて……。
できるわけがない、と思いながら一歩を踏み出す。
「知ってるか、咲夜」
「……何を?」
背後からの声に引き止められる。
あぁそうだ。この人は、この妖怪はいつもこういうタイミングで現れる。
「雪の中に消えてしまいたいと思った小娘の結果だよ」
「それは……興味がありますわね」
雪を踏む音すらしない、滑るように背の君が近づいてくるのが、とても嬉しい。
「結局、人間って生物はどこまでいっても未完成だからね、後ろ髪を引かれて帰って来ちゃうんだよ。自分からな」
「それはそれは。なんとも締まらないオチですね」
少女にしてはやや低い声、小さな体躯、傲慢な言葉。そのどれもが愛しい。
「まぁ、それ以前の問題もいくつかあってね――その小娘は忘れてかけてたのさ、自分の飼い主が誰であるかという事をな」
「あら、意外ですわね。私なんかは忘れた事などないのに」
「フン、どうだかねぇ」
お嬢様が傘を握ってない方の私の手を包む。
その手は冷たくて、まるで体温なんて感じられない。実に吸血鬼らしい手だ。
「手の冷たいヤツってのはな、心が暖かいんだよ」
「それは……忘れてました」
なるほど、確かにこれではどこに行っても後ろ髪を引かれてしまうわけだ。
この吸血鬼からは一生離れられない。
だから、私達はそのままずっと雪の振る夜空を見上げていた。
音のない静寂。
星のない夜空。
黒のない虚空。
白のない白雪。
いや、嘘だ。
傘に水を含んだ雪が当たる音はするし、呼吸の音も聞こえる。じっとしているから自分の心音だって聞こうと思えば聞こえる。
確かに夜空に星はないが、その代わりのように白い雪がこれでもかと降っている。
雲の上には今日も月が出ているはずで、黒いはずの虚空に蒼が混じる。
白いはずの雪はそんな薄い月光に照らされて、青みがかっている。
いつだって、世界は矛盾だらけである。
例えば、人間と吸血鬼が同じ屋根の下で暮らしている事だって、大きな矛盾だ。
例えば、いつもこの時期になって思い出す、愚にもつかない、IFの世界。
だけどどう頑張っても起こりえなかっただろうその世界は、希望と絶望のどちらかであるかなんて自分には知りもしない事だ。
もしかしたら、あの吸血鬼は知っているかも知れない。でも教えてくれた事はない。
だから、こうして思うだけにする。
違う世界の自分を想像する、という事は現在の否定だろうか? それは現在の自分を変えたいという欲望の表れだろうか。
今生きている事に不満を持っているのではないだろうか。
疑問が次々と生まれて、雪に吸い込まれて消えていく。
夜空には大きな時計台のシルエット、そして雪。
疑問の方向性を変える。
確実に言える事は今の自分が置かれた決して不幸ではないという事だ。
住む所も食べる物も着る物もある。あいにくと私一人しかいないがいつも周囲はうるさいぐらいに賑やかで、概ね楽しい毎日である。
温もりをくれる人の手は冷たいけれど。
すぐに子供みたいな我侭を言い出して困らせてくれるけれど。
周囲に人間はおらず、妖怪ばかりが暮らしているけれど。
あれ、私って案外不幸なんじゃないかな、などと思えてきて、苦笑が浮かぶ。
白い息は虚空に逃れ、雪の雨を遡るように昇って、すぐに消えてしまった。
冬の寒さは嫌いじゃない。むしろキンと冷たく、冴え渡るような気がして好きだ。
もっとも、足や身体が冷えるのはごめんこうむりたいのだが。
それでも、雪が降ればこうして外に出て空を眺める。
かつて一緒に雪を見る事は無かった相手を思う。彼と共に生きていたらどうなったのだろうか、彼はこの雪を見てなんと言ってくれたのだろうか。
それは、幸せな言葉だっただろうか――。
愚問すぎる。そんな言葉が彼から出てくるとは思えない。一夏を過ごしただけの相手をもう何年も冬が来る度に思い出す。
あまり幸せな記憶はない。過ごした期間だって長くない。それでも自分の人生に影響を及ぼしているのは確かで、今の自分への第一歩を踏み出したあの夏から秋への記憶は、忘れられる筈がないのだ。
だから、思い出す。
大切な宝物を、自分だけの時間にひっそりと眺めるような気持ちで記憶を慈しむ。
まるでセピア色の映画のように思い出しては楽しんでいる。
あの頃の自分は幼かったなぁ、とか。
あの時の自分は間違っていたなぁ、とか。
あの当時はそれが普通だと思っていたなぁ、とか。
あの頃の自分は彼に愛されていただろうか? とか。
まるで一つ一つの事象を大切に大切に、良い思い出のように大切に懐かしむ。
決して良い思い出ではないのだが。
白い雪が、不幸な記憶を埋めてしまえばいいと思う。降り積もって降り積もって、嫌な事を全てを包み込んで真っ白にして、そして見えなくなってしまえばいいとすら思う。
そんな詩的な考えが浮かんでやっぱり白い吐息が虚空に昇って、消えていった。
今、胸を張って愛していると言える人がいる。誰に向かって言うつもりもないが、いつも自分の中に「どうだ、私はこの人が好きなんだ、今幸せなんだ」と言い続ける自分が居る事を否定できない。
そしてその言葉は恐らく彼に向けられているだろう。
結局、どこまで行っても母親に似た部分はあるのかもしれないと思う。愛を欲しがって、愛を捧げる相手を欲しがるだけのつまらない人間と自分は大差はない。
見下げた人間である母親だったが、血の繋がりがあるかのように愛を欲しがった自分に母親を見下す権利はあるのだろうか?
先ほどとは違う意味合いの吐息が、やはり白く消えていく。
傘を持つ手も赤くなってきただろうか。それでも身体や頭を刺すような冷たさが好きで、その場を離れる事はない。
自分の記憶や、迷いがこの雪の中に吸い込まれて消えてしまわないかな、と。
そしてこのまま自分も雪の中に消えていったら、どうなるのかな、と。
それもいいかも知れない。
愛される資格がある人間ではないし、愛していい相手ではない。
このまま、ふと空を昇って、どこまでも雪を追いかけて……。
できるわけがない、と思いながら一歩を踏み出す。
「知ってるか、咲夜」
「……何を?」
背後からの声に引き止められる。
あぁそうだ。この人は、この妖怪はいつもこういうタイミングで現れる。
「雪の中に消えてしまいたいと思った小娘の結果だよ」
「それは……興味がありますわね」
雪を踏む音すらしない、滑るように背の君が近づいてくるのが、とても嬉しい。
「結局、人間って生物はどこまでいっても未完成だからね、後ろ髪を引かれて帰って来ちゃうんだよ。自分からな」
「それはそれは。なんとも締まらないオチですね」
少女にしてはやや低い声、小さな体躯、傲慢な言葉。そのどれもが愛しい。
「まぁ、それ以前の問題もいくつかあってね――その小娘は忘れてかけてたのさ、自分の飼い主が誰であるかという事をな」
「あら、意外ですわね。私なんかは忘れた事などないのに」
「フン、どうだかねぇ」
お嬢様が傘を握ってない方の私の手を包む。
その手は冷たくて、まるで体温なんて感じられない。実に吸血鬼らしい手だ。
「手の冷たいヤツってのはな、心が暖かいんだよ」
「それは……忘れてました」
なるほど、確かにこれではどこに行っても後ろ髪を引かれてしまうわけだ。
この吸血鬼からは一生離れられない。
だから、私達はそのままずっと雪の振る夜空を見上げていた。