まだ開ききらない目を擦りながら身を起こす。
今日も朝が来てしまった。
人間の体のなんと不便な事か。
この目が覚める瞬間ほど、自分が人間であるという事を恨んだ事は無い。
いっそ妖怪であったのならば、季節の一つや二つ……いや、年の一つや二つだって寝ていられただろうか。
けれど、そんな“もし”の話は意味が無い。
私は呆れ返るほどに人間なのだから。
例えその身に降りかかる時の風が普通の人間とは違っていたとしても。
∽
寝巻きから普段着へと着替え終わったところで、私は何をするでもなく、ぼーっと立っていた。
どうにも朝は調子が出ない。昔──もう昔と言うようにまでなってしまったのか──はこんな風に眠気眼で突っ立っていると、よく怒鳴られたものだ。
しゃきっとしろ、早起きは三文の徳だ、朝飯はちゃんと食べろ、今日の予定はなんだ? 夕方から雨が降るぞ。
毎日毎日、よくも飽きもせずに通いつめたものだと感心する。
桜が満開だぞ、蝉の声が凄いな、栗を拾ってきた、好きだろ? この部屋は暖かくていいな。
毎日毎日、よくも話題が尽きないものだと感心する。
やはり朝は調子が出ない。
しかも今日は特に酷い。
おかげでいらない事ばかり考えてしまう。
考えたところで答えなんて無いし、どうにもならない事なんて、それこそとうの昔に解りきっているというのに。
それでもなんとか、もそもそと朝食の支度をして、食べる。
なるほど、今もまだ彼女はここに通いつめているらしい。ほんと、感心するよ。
そんな事を考えながら、最後の一口を飲み込んだ。
ごちそうさま。今日の予定は……そうだな、概ねいつも通りだよ。こんな日は出かけたくないんだけどね。薪がそろそろ無くなってきたんだ。
誰もいない、小さなちゃぶ台の向かい側にそう言って、まとめた食器を持って立ち上がった。
──なにやってんだか。
∽
戸が開かない。
以前から立て付けが悪かったが、昨日はまだかろうじて開けれたはずだった。
仕方がないので蹴り破る。
なに、ついでに戸の一枚くらい拾ってくるさ。
竹林を抜け、里へと向かう道に出る。
飛ばないのか? だって、歩いた方が“人間”らしいだろ?
やがて見えてきた人里。正確には、里の跡、だろうか。
どこかの吸血鬼やスキマ妖怪のような高い知性を持った妖怪ならともかく、本能が理性を上回っているような連中からは、彼女は疎ましく思われていたらしい。
まぁ無理も無い。折角のご馳走を目の前にしながら、彼女の所為でずっと手が出せなかったのだから。
だから彼女がいなくなった後、すぐに里がこんな状態になったのも……まぁ無理も無い。
今では草木が生い茂って、ぱっと見た限りではここに里があったなどとは誰も思わないだろう。
私はいつも通り、まだかろうじて形を保っているいくつかの家を巡り、壁板や床板など、薪に使えそうな物を拾っていく。
家を建てるのに使った木というのは中々に燃えやすいのだ。
火はいくらでも起こせるが、それを保つためには薪は必要になってくる。
別に寒くても熱くても死ぬ訳ではないが、過ごしやすい環境というものはある。
“人間”だからね。
里の中心辺りに、あちこちから拾ってきた木片を次々と置いていく。
これだけあれば暫くは大丈夫だろうか。
おっと、忘れいてた。戸を探さないといけないんだった。
確か向こうの家にはまだ戸が残っていたはず。
目当ての家はすぐに見えてきた。
この家は、まだ家としての佇まいをしっかりと残している最後の一軒だ。
家主が誰だったかも知らないし、別に感慨などはないが、なんとなくもったいない気がして今まで手をつけていなかったが、もうこの家にしか戸は残っていないのだから仕方がない。
もう蹴り破ったりしないようにしないとな。
閉められたままの引き戸を持ち上げて、はずす。
家のより少し大きいかな? まぁ大きければ削ればいいのだから問題はないだろう。
しかし、戸を外したその時、私の足元を何かが駆け抜けていった。
戸を抱えたまま、何事かと思って振り向くと、
「兎?」
この家の中にいたのだろうか。しかしどうやって入ったのか──考えるまでもなかった。
家としての佇まいを保っているといっても、窓は破られているし、壁だって穴だらけだ。
出口が増えたから思わず飛び出てしまった、そんなところだろう。
別に気にする事もない。
私は戸を抱えなおして、里の中心まで戻っていった。
その道中、何故かさっきの兎が私の前を跳ねていく。
兎にはどうしても嫌な思い出しかないのだが、なるべく意識しないようにした。
目の前にいるのは野兎で、たまたま行く方向が私と同じだけなのだ。
しかし、嫌な事ほど思い通りになってしまうもので。
里の中心、集めた木片を置いてあった場所が見えてくると、目の前の兎はそのスピードを気持ち上げて跳ねていった。
そして目の前に垂れる木の枝を潜って私がそれに続いていく。
「あらあら、朝から大変ね」
……あぁ、だから今日は外に出たくなかったんだ。
視界から意識的にあいつを排除する。
さっきの兎があいつの足元で座っている。そんなものも見えていない事にした。
そうだ、それでいい。もうお前とは関わりたくないんだよ。
私は一切あいつを見ることもなく、戸を置いてその上に集めた木片を乗せていく。
木片は何個かに分けて、持ってきた縄で縛る。
五つほどできたまとまりを戸に乗せて、それらが落ちないようにまた縛る。
少し欲張りすぎたのだろうか、結構な重さになってしまった。
帰りは……仕方がない、飛んでいくか。
「百年ぶりの再会だっていうのに、随分ね」
あぁもう、解るだろ? 解ってくれよ。私はもうお前とは関わりたくないんだ。
「九十七年と五ヶ月ぶりだ」
「あら、聞こえてたの」
思わず睨みつけてしまった。
いけない、駄目だ。ここには誰もいない。私以外誰もいない。
私は最後に残った一本の縄を自分の体に巻いて、その端を戸を縛っている縄に通す。
この重さなら飛んで運べない事もないだろう。
「いつまでそんな生活を続けるつもり?」
聞こえない。
「質問が悪かったわね。いつまでもそんな生活が出来ると思っているの?」
何も聞こえない。
縄が解けないかを確かめてから、ゆっくりと飛び上がる。
「楽にしてあげましょうか?」
ふいに体が軽くなった。
見ると、自分と荷台代わりの戸を結んでいた縄が途中で切れていた。
その下には、落ちた衝撃でバラバラになってしまった木片。
振り返ると、そこには開いた右手を私に向けたあいつ。
「お前がいなければ、たとえ地獄だったとしても私にとってはそこが桃源郷だよ」
「あら、相手をしてくれるのね。嬉しいわ」
「三百八十五年ぶりに殺してやるよ」
「あれは三百九十三年前よ」
そうだ。
およそ四百年前。
私はもう独りだった。
静かに暮らそうと思った。
それ以来、こいつに関わるのも辞めた。
暫くはしつこく刺客を送ってきたりもしたが、私が一切抵抗しない事が解ると次第にその数も減っていった。
そして九十七年前、あいつが私の家にやってきたのを最後に、私たちは直接的にも間接的にも会う事はなかった。
なのに、どうして今更。
今更と言えば、自分もそうだ。
自分の中にはまだこんな黒い気持ちが残っていたのか。
放っておけばいいのは解ってるんだ。
でもあいつの声を聞くと、顔を見ると、やっぱり我慢できないんだよ。
あぁ、また服がボロボロになりそうだな……。
傷はすぐ治っても、服は直らないんだよな。
帰ったらまた怒られそうだよ。
──私を怒るやつなんていないけど。
∽
くそ、輝夜のやつ。おかげで戸も集めた木片も全部燃えて灰になってしまったじゃないか。
おまけに、やっぱり服もボロボロになった。
布地の調達は難しい。また泥棒まがいの事をしなきゃいけないのか?
残り少ない薪を囲炉裏にくべて、その前に座る。
前は暖かいが、後ろは遮る物がなくなった戸から入る風が当たって冷たい。
それでもなんとか我慢して、震える両手を火にかざす。
昼の内は大分暖かくなってきたが、夜はまだ冷える。
それにしても、また酷くやられたな……。死んだのはそれこそ何年ぶりだろう。
体の傷はもうほとんど治ったけど、どうにも心の方が落ち着かない。
何かもやもやしたものがずっと消えない。胸が内側から痒くなる、そんな感じだ。
原因は何か、そんなの解ってる。
思い出す。
胸がもっと痒くなった。
思い出してしまう。
たまらず足をばたばたと振り回した。
憎い。憎い憎い。
あの何も考えていないような微笑が憎い。
あの全てを見透かしたような微笑が憎い。
私は思いっきり壁を殴りつけた。
拳が突き抜けた。
家が揺れた。
……そろそろこの家もちゃんと補強しないと危ないな。
そんな事を思った瞬間、目の前が真っ赤になって、真っ暗になった。
∽
目を開けると、私は炎の中に立っていた。
今まであったはずの家はなかった。
屋根は焼け落ち、柱は折れ、ただ炎だけが私の周りを囲んでいた。
「まぁこの程度では死なないわよねぇ」
聞きなれた声に首を上げると、そこには憎い憎いあいつと、その従者がいた。
弓を構えた姿を見るに、この仕業は従者の方か。
朝の件だけでは飽き足らないのか、一日に二度も姿を現すとは。今日は本当に厄日だな。
私は無言のまま、鳳凰を背負う。
その翼をひと扇ぎ。巻き起こる熱風に、揺らめき立っていた炎は全て消し飛んだ。
ゆっくりと地に下り立つ二人。
そのまま三人とも一歩も動かない。
「百五年ぶりの刺客は自ら……か?」
「私は何もしないわよ。ただ、最後くらいしっかりと見届けてあげないとね」
「はっ、自分の最後をか? それともそっちの最後をか?」
──あなたには、もう私しか残っていないんですもの。
笑っている。あいつがいつものように笑っている。
胸が痒い。足がうずうずする。あぁ、憎い、憎い!
「お前のその態度が気に入らないんだよ!」
叫んで一歩を踏み出す。
従者が弓を構えた。
構わない。二歩目を踏み出す。
従者が弓を引いた。
そんな物で私が殺せると思っているのか? 三歩目を踏み出した。
従者は弓を引いたまま動かない。
射抜いてみろよ、私は死なない。四歩目を踏み出した。
「永琳」
五歩目を踏み出したところで、あいつがその名を呼ぶのと同時に、従者が矢を放った。
軽い衝撃。その矢は正確に私の左胸を貫いた。
それがどうした。私は六歩目を踏み出す。
二人は微動だにしない。
これだけか? 私も随分となめられたものだ。七歩目を踏み出……せなかった。
「え……?」
視界が反転。全身に衝撃。何が起こった? 私はどうなった?
混乱する私の目に飛び込んできたのは、丸い、丸い、月だった。
月? 空? 倒れている? 私が? 何故?
遠く高く見える月に向かって手を伸ばす。本当にそれが月なのかと、確かめるように。
しかし、私は自分の目を疑った。月が月だったかなどこの際どうでもいい。
だが、これはどういう事だ?
私の手が、腕が、指先から徐々に皴枯れていく。
もう一方の腕も上げてみたが、そちらも同様に、とても自分の手とは見えない程に醜く皴枯れていた。
恐る恐る、皴だらけになった指で頬をなぞる。
私は驚愕した。
信じられない。
何が起こった?
私は何をされた?
気付くと、すぐ傍にあいつが立っていた。
「お前……何を……」
自分の喉から出たはずの声までもが、老婆のように枯れていた。
しかし、あいつは黙って私を見下ろしたまま、その口が開く事は無い。
その顔は笑っていなかった。──笑っていなかった。
それを見て、私は解ってしまった。
あぁ……私、死ぬんだな。
理解した瞬間、ふっと体が軽くなった気がした。
なんだ、皆死ぬのが怖いとか言ってたけど、全然そんな事はないじゃないか。
やっと終われるんだよ? このクソったれな世の中から、やっとさよならできるんだよ? もう、目の前のこいつと会わなくていいんだよ?
慧音……ずっと待たせて、ごめんな。
私、やっと死ねるよ。うん、死ねるんだ。だって“人間”だもの。そうさ、死ねないはずがなかったんだ。
体が思うように動かない。腕が重くて上がらない。
私はあいつを見た。
「輝夜……お前に解るか? この気持ちが」
満面の笑み。正に最後の力ってやつだ。
私は震える腕を上げて、あいつに言ってやった。
たまには答える側になってみろよ。ざまあみろ。
上げた腕が落ちた。
目は開いているはずなのに、何も見えない。
あぁ……眠いな。眠いよ。
最後に一発、あいつをぶん殴ってやりたかったな。
……そうか、そうだったな。
生きてるって、素晴らしい事だったんだな。
だって、あいつをぶん殴れるんだよ?
それは少し名残惜しいけど、懐かしい奴らに会いにいける事に比べたら、些細な事でしかない。
慧音、話したい事がいっぱいあるんだ。聞きたい事もいっぱいあるんだ。
話そう。今度こそ、最後の最後まで話を聞いてほしい。話を聞かせてほしい。
闇に染まった瞳の先に光が見えたような気がした。
これであいつはますます独りぼっち。
私にはもうお前しか残っていない?
そっくりそのまま返してやるよ。
ざまあみろ。
──ざまあみろ。
崩れていく。
妹紅の体が崩れていく。
細かい塵となり、風に運ばれて、妹紅の体が崩れていく。
後には何も残らなかった。
輝夜は黙ったまま動かない。
永琳もまた、黙ったまま動かない。
そして妹紅の最後の欠片が風に消えた時、そこに一羽の鳳凰がその翼を広げた。
翼を羽ばたかせ、鳳凰が天に向かって飛んでいく。
まるで妹紅の魂を運んでいくかのように、真っ直ぐに天に向かって羽ばたいていく。
輝夜はそれを見上げて、片手を天にかざした。
見上げていた顔を俯かせると同時に、かざした手から放たれる一筋の光。
「貴方の気持ちなんて、解る訳ないじゃない」
断末魔の叫びをあげて、鳳凰が地に堕ちる。
堕ちながら、鳳凰もまた塵となり、霧散していった。
やがてそれらは光の粒となり、降り注ぐ。
そして、光の粒が落ちた大地に、花が咲いた。
光の粒は無数に落ちる。
その分だけ、無数に花が咲き乱れる。
輝夜の周り、焼け野原となった大地にも、埋め尽くすように花が咲く。
輝夜はゆっくりと、自分の周りを埋め尽くす花にその身を投げた。
「解る訳……ないじゃない」
今日も朝が来てしまった。
人間の体のなんと不便な事か。
この目が覚める瞬間ほど、自分が人間であるという事を恨んだ事は無い。
いっそ妖怪であったのならば、季節の一つや二つ……いや、年の一つや二つだって寝ていられただろうか。
けれど、そんな“もし”の話は意味が無い。
私は呆れ返るほどに人間なのだから。
例えその身に降りかかる時の風が普通の人間とは違っていたとしても。
∽
寝巻きから普段着へと着替え終わったところで、私は何をするでもなく、ぼーっと立っていた。
どうにも朝は調子が出ない。昔──もう昔と言うようにまでなってしまったのか──はこんな風に眠気眼で突っ立っていると、よく怒鳴られたものだ。
しゃきっとしろ、早起きは三文の徳だ、朝飯はちゃんと食べろ、今日の予定はなんだ? 夕方から雨が降るぞ。
毎日毎日、よくも飽きもせずに通いつめたものだと感心する。
桜が満開だぞ、蝉の声が凄いな、栗を拾ってきた、好きだろ? この部屋は暖かくていいな。
毎日毎日、よくも話題が尽きないものだと感心する。
やはり朝は調子が出ない。
しかも今日は特に酷い。
おかげでいらない事ばかり考えてしまう。
考えたところで答えなんて無いし、どうにもならない事なんて、それこそとうの昔に解りきっているというのに。
それでもなんとか、もそもそと朝食の支度をして、食べる。
なるほど、今もまだ彼女はここに通いつめているらしい。ほんと、感心するよ。
そんな事を考えながら、最後の一口を飲み込んだ。
ごちそうさま。今日の予定は……そうだな、概ねいつも通りだよ。こんな日は出かけたくないんだけどね。薪がそろそろ無くなってきたんだ。
誰もいない、小さなちゃぶ台の向かい側にそう言って、まとめた食器を持って立ち上がった。
──なにやってんだか。
∽
戸が開かない。
以前から立て付けが悪かったが、昨日はまだかろうじて開けれたはずだった。
仕方がないので蹴り破る。
なに、ついでに戸の一枚くらい拾ってくるさ。
竹林を抜け、里へと向かう道に出る。
飛ばないのか? だって、歩いた方が“人間”らしいだろ?
やがて見えてきた人里。正確には、里の跡、だろうか。
どこかの吸血鬼やスキマ妖怪のような高い知性を持った妖怪ならともかく、本能が理性を上回っているような連中からは、彼女は疎ましく思われていたらしい。
まぁ無理も無い。折角のご馳走を目の前にしながら、彼女の所為でずっと手が出せなかったのだから。
だから彼女がいなくなった後、すぐに里がこんな状態になったのも……まぁ無理も無い。
今では草木が生い茂って、ぱっと見た限りではここに里があったなどとは誰も思わないだろう。
私はいつも通り、まだかろうじて形を保っているいくつかの家を巡り、壁板や床板など、薪に使えそうな物を拾っていく。
家を建てるのに使った木というのは中々に燃えやすいのだ。
火はいくらでも起こせるが、それを保つためには薪は必要になってくる。
別に寒くても熱くても死ぬ訳ではないが、過ごしやすい環境というものはある。
“人間”だからね。
里の中心辺りに、あちこちから拾ってきた木片を次々と置いていく。
これだけあれば暫くは大丈夫だろうか。
おっと、忘れいてた。戸を探さないといけないんだった。
確か向こうの家にはまだ戸が残っていたはず。
目当ての家はすぐに見えてきた。
この家は、まだ家としての佇まいをしっかりと残している最後の一軒だ。
家主が誰だったかも知らないし、別に感慨などはないが、なんとなくもったいない気がして今まで手をつけていなかったが、もうこの家にしか戸は残っていないのだから仕方がない。
もう蹴り破ったりしないようにしないとな。
閉められたままの引き戸を持ち上げて、はずす。
家のより少し大きいかな? まぁ大きければ削ればいいのだから問題はないだろう。
しかし、戸を外したその時、私の足元を何かが駆け抜けていった。
戸を抱えたまま、何事かと思って振り向くと、
「兎?」
この家の中にいたのだろうか。しかしどうやって入ったのか──考えるまでもなかった。
家としての佇まいを保っているといっても、窓は破られているし、壁だって穴だらけだ。
出口が増えたから思わず飛び出てしまった、そんなところだろう。
別に気にする事もない。
私は戸を抱えなおして、里の中心まで戻っていった。
その道中、何故かさっきの兎が私の前を跳ねていく。
兎にはどうしても嫌な思い出しかないのだが、なるべく意識しないようにした。
目の前にいるのは野兎で、たまたま行く方向が私と同じだけなのだ。
しかし、嫌な事ほど思い通りになってしまうもので。
里の中心、集めた木片を置いてあった場所が見えてくると、目の前の兎はそのスピードを気持ち上げて跳ねていった。
そして目の前に垂れる木の枝を潜って私がそれに続いていく。
「あらあら、朝から大変ね」
……あぁ、だから今日は外に出たくなかったんだ。
視界から意識的にあいつを排除する。
さっきの兎があいつの足元で座っている。そんなものも見えていない事にした。
そうだ、それでいい。もうお前とは関わりたくないんだよ。
私は一切あいつを見ることもなく、戸を置いてその上に集めた木片を乗せていく。
木片は何個かに分けて、持ってきた縄で縛る。
五つほどできたまとまりを戸に乗せて、それらが落ちないようにまた縛る。
少し欲張りすぎたのだろうか、結構な重さになってしまった。
帰りは……仕方がない、飛んでいくか。
「百年ぶりの再会だっていうのに、随分ね」
あぁもう、解るだろ? 解ってくれよ。私はもうお前とは関わりたくないんだ。
「九十七年と五ヶ月ぶりだ」
「あら、聞こえてたの」
思わず睨みつけてしまった。
いけない、駄目だ。ここには誰もいない。私以外誰もいない。
私は最後に残った一本の縄を自分の体に巻いて、その端を戸を縛っている縄に通す。
この重さなら飛んで運べない事もないだろう。
「いつまでそんな生活を続けるつもり?」
聞こえない。
「質問が悪かったわね。いつまでもそんな生活が出来ると思っているの?」
何も聞こえない。
縄が解けないかを確かめてから、ゆっくりと飛び上がる。
「楽にしてあげましょうか?」
ふいに体が軽くなった。
見ると、自分と荷台代わりの戸を結んでいた縄が途中で切れていた。
その下には、落ちた衝撃でバラバラになってしまった木片。
振り返ると、そこには開いた右手を私に向けたあいつ。
「お前がいなければ、たとえ地獄だったとしても私にとってはそこが桃源郷だよ」
「あら、相手をしてくれるのね。嬉しいわ」
「三百八十五年ぶりに殺してやるよ」
「あれは三百九十三年前よ」
そうだ。
およそ四百年前。
私はもう独りだった。
静かに暮らそうと思った。
それ以来、こいつに関わるのも辞めた。
暫くはしつこく刺客を送ってきたりもしたが、私が一切抵抗しない事が解ると次第にその数も減っていった。
そして九十七年前、あいつが私の家にやってきたのを最後に、私たちは直接的にも間接的にも会う事はなかった。
なのに、どうして今更。
今更と言えば、自分もそうだ。
自分の中にはまだこんな黒い気持ちが残っていたのか。
放っておけばいいのは解ってるんだ。
でもあいつの声を聞くと、顔を見ると、やっぱり我慢できないんだよ。
あぁ、また服がボロボロになりそうだな……。
傷はすぐ治っても、服は直らないんだよな。
帰ったらまた怒られそうだよ。
──私を怒るやつなんていないけど。
∽
くそ、輝夜のやつ。おかげで戸も集めた木片も全部燃えて灰になってしまったじゃないか。
おまけに、やっぱり服もボロボロになった。
布地の調達は難しい。また泥棒まがいの事をしなきゃいけないのか?
残り少ない薪を囲炉裏にくべて、その前に座る。
前は暖かいが、後ろは遮る物がなくなった戸から入る風が当たって冷たい。
それでもなんとか我慢して、震える両手を火にかざす。
昼の内は大分暖かくなってきたが、夜はまだ冷える。
それにしても、また酷くやられたな……。死んだのはそれこそ何年ぶりだろう。
体の傷はもうほとんど治ったけど、どうにも心の方が落ち着かない。
何かもやもやしたものがずっと消えない。胸が内側から痒くなる、そんな感じだ。
原因は何か、そんなの解ってる。
思い出す。
胸がもっと痒くなった。
思い出してしまう。
たまらず足をばたばたと振り回した。
憎い。憎い憎い。
あの何も考えていないような微笑が憎い。
あの全てを見透かしたような微笑が憎い。
私は思いっきり壁を殴りつけた。
拳が突き抜けた。
家が揺れた。
……そろそろこの家もちゃんと補強しないと危ないな。
そんな事を思った瞬間、目の前が真っ赤になって、真っ暗になった。
∽
目を開けると、私は炎の中に立っていた。
今まであったはずの家はなかった。
屋根は焼け落ち、柱は折れ、ただ炎だけが私の周りを囲んでいた。
「まぁこの程度では死なないわよねぇ」
聞きなれた声に首を上げると、そこには憎い憎いあいつと、その従者がいた。
弓を構えた姿を見るに、この仕業は従者の方か。
朝の件だけでは飽き足らないのか、一日に二度も姿を現すとは。今日は本当に厄日だな。
私は無言のまま、鳳凰を背負う。
その翼をひと扇ぎ。巻き起こる熱風に、揺らめき立っていた炎は全て消し飛んだ。
ゆっくりと地に下り立つ二人。
そのまま三人とも一歩も動かない。
「百五年ぶりの刺客は自ら……か?」
「私は何もしないわよ。ただ、最後くらいしっかりと見届けてあげないとね」
「はっ、自分の最後をか? それともそっちの最後をか?」
──あなたには、もう私しか残っていないんですもの。
笑っている。あいつがいつものように笑っている。
胸が痒い。足がうずうずする。あぁ、憎い、憎い!
「お前のその態度が気に入らないんだよ!」
叫んで一歩を踏み出す。
従者が弓を構えた。
構わない。二歩目を踏み出す。
従者が弓を引いた。
そんな物で私が殺せると思っているのか? 三歩目を踏み出した。
従者は弓を引いたまま動かない。
射抜いてみろよ、私は死なない。四歩目を踏み出した。
「永琳」
五歩目を踏み出したところで、あいつがその名を呼ぶのと同時に、従者が矢を放った。
軽い衝撃。その矢は正確に私の左胸を貫いた。
それがどうした。私は六歩目を踏み出す。
二人は微動だにしない。
これだけか? 私も随分となめられたものだ。七歩目を踏み出……せなかった。
「え……?」
視界が反転。全身に衝撃。何が起こった? 私はどうなった?
混乱する私の目に飛び込んできたのは、丸い、丸い、月だった。
月? 空? 倒れている? 私が? 何故?
遠く高く見える月に向かって手を伸ばす。本当にそれが月なのかと、確かめるように。
しかし、私は自分の目を疑った。月が月だったかなどこの際どうでもいい。
だが、これはどういう事だ?
私の手が、腕が、指先から徐々に皴枯れていく。
もう一方の腕も上げてみたが、そちらも同様に、とても自分の手とは見えない程に醜く皴枯れていた。
恐る恐る、皴だらけになった指で頬をなぞる。
私は驚愕した。
信じられない。
何が起こった?
私は何をされた?
気付くと、すぐ傍にあいつが立っていた。
「お前……何を……」
自分の喉から出たはずの声までもが、老婆のように枯れていた。
しかし、あいつは黙って私を見下ろしたまま、その口が開く事は無い。
その顔は笑っていなかった。──笑っていなかった。
それを見て、私は解ってしまった。
あぁ……私、死ぬんだな。
理解した瞬間、ふっと体が軽くなった気がした。
なんだ、皆死ぬのが怖いとか言ってたけど、全然そんな事はないじゃないか。
やっと終われるんだよ? このクソったれな世の中から、やっとさよならできるんだよ? もう、目の前のこいつと会わなくていいんだよ?
慧音……ずっと待たせて、ごめんな。
私、やっと死ねるよ。うん、死ねるんだ。だって“人間”だもの。そうさ、死ねないはずがなかったんだ。
体が思うように動かない。腕が重くて上がらない。
私はあいつを見た。
「輝夜……お前に解るか? この気持ちが」
満面の笑み。正に最後の力ってやつだ。
私は震える腕を上げて、あいつに言ってやった。
たまには答える側になってみろよ。ざまあみろ。
上げた腕が落ちた。
目は開いているはずなのに、何も見えない。
あぁ……眠いな。眠いよ。
最後に一発、あいつをぶん殴ってやりたかったな。
……そうか、そうだったな。
生きてるって、素晴らしい事だったんだな。
だって、あいつをぶん殴れるんだよ?
それは少し名残惜しいけど、懐かしい奴らに会いにいける事に比べたら、些細な事でしかない。
慧音、話したい事がいっぱいあるんだ。聞きたい事もいっぱいあるんだ。
話そう。今度こそ、最後の最後まで話を聞いてほしい。話を聞かせてほしい。
闇に染まった瞳の先に光が見えたような気がした。
これであいつはますます独りぼっち。
私にはもうお前しか残っていない?
そっくりそのまま返してやるよ。
ざまあみろ。
──ざまあみろ。
崩れていく。
妹紅の体が崩れていく。
細かい塵となり、風に運ばれて、妹紅の体が崩れていく。
後には何も残らなかった。
輝夜は黙ったまま動かない。
永琳もまた、黙ったまま動かない。
そして妹紅の最後の欠片が風に消えた時、そこに一羽の鳳凰がその翼を広げた。
翼を羽ばたかせ、鳳凰が天に向かって飛んでいく。
まるで妹紅の魂を運んでいくかのように、真っ直ぐに天に向かって羽ばたいていく。
輝夜はそれを見上げて、片手を天にかざした。
見上げていた顔を俯かせると同時に、かざした手から放たれる一筋の光。
「貴方の気持ちなんて、解る訳ないじゃない」
断末魔の叫びをあげて、鳳凰が地に堕ちる。
堕ちながら、鳳凰もまた塵となり、霧散していった。
やがてそれらは光の粒となり、降り注ぐ。
そして、光の粒が落ちた大地に、花が咲いた。
光の粒は無数に落ちる。
その分だけ、無数に花が咲き乱れる。
輝夜の周り、焼け野原となった大地にも、埋め尽くすように花が咲く。
輝夜はゆっくりと、自分の周りを埋め尽くす花にその身を投げた。
「解る訳……ないじゃない」