人の営みとして、食べる為には田畑が必須である。
故に人は田畑を耕し、広げ、育ててゆく。
生きる為だ。
「…………」
無言のまま、慧音はやや早い足取りで鴉天狗の住まう山を目指していた。
生きる為。そう、田畑で育てた作物を収穫する事で、人はやっと食物にありつける。危険が伴う上に獲物次第である狩猟と違い、すべき事をしておけば滅多な事では食うに困らない。不作や凶作の年もあるが、大抵は相応の作物に恵まれるものだ。
「…………」
見上げる。
慧音の瞳に鬱蒼と茂る木々と、圧倒感すら覚える山の高さが映った。
作物という恵み。人の人による人の為の結果である。それを横から奪い取るという行為は、例え野生であっても看過する訳にはいかない。
故に、慧音はそこに居る。
既に数多の鴉天狗達が慧音の存在を察知し、何事かと集まりつつある山の前に。
基本的に彼等は情報屋である為、慧音が何を思って現れたかくらいは各々知っているだろう。
「ほー、存外早かったな」
「そうか? 我輩の見立てでは遅いくらいだが」
「まぁ来るという点では誰もが考えたろう。問題はその先だな」
高速で移動する、木々を縫う会話。
「よもや喧嘩は売らんだろうが、さて、問題は誰が応対にでるかだ」
「こじらせるのも面白いと思うけどー?」
「だが自らがネタになるのは愉快じゃないな」
ざわざわと、ざわざわと。
声は増え、気配は増え。
「で、結局誰が応対するんだ? ぶっちゃけ、人里の田畑荒らした鴉の内、数割は身内だろ? 出切るだけ温和に済ませられれば良いと思うが」
「彼女と知り合いの者で問題ないだろう。知己の相手ならばいくらか気も和らぐだろうしな」
「と、すると―――」
ざわめきが止まる。
木々を縫う無数の視線が一方へ集中した。
「射命丸、特ダネだな?」
そこへ老いた声がかけられる。
「さて―――どうでしょうね」
返事の声は若い。
だが独占権を認められたこの状況で、情報屋として喜ばしくない訳も無く。
「ともあれ、行ってきます」
文の声はどこか弾んでいた。
言葉の後に翼を羽ばたかせ、木々枝々から果て無き青空の下へ一瞬で移動。彼女が目線を下ろせば、此方を見上げる慧音の姿が目に入った。
「射命丸! 話がある!」
両手を口に添えての大声。
慧音とて山から己を見つめる無数の視線に気付いていない訳ではないが、一人突出したという事がどういう事かは大体察していた。
「っはーい、分かってますよー」
明るく返事をし、文は慧音の前へと降り立つ。
「で? 話とは?」
そして白々しくもある一言を、気持ち前傾小首傾げ付きで言った。
「此方の田畑が鴉の被害に遭った件、無関係とは言わさないぞ」
静かな言葉。だからこそ容赦の無い言葉と言えるだろう。ここで嘘を答えようものなら、露見した時の報いは相当酷い事は想像するに容易い。
「成る程、その件でしたか。それでしたら、既に此方で手は打ってありますので」
文の言葉は事実である。
鴉が田畑を荒らしたのは、元を質せば鴉天狗直属の鴉が野生の鴉を先導した結果なのだ。
自然を相手に狩りをするよりは、人が育てた作物を横取りした方が楽は楽。だが、それは妖と人との和を乱す波紋である。よって鴉天狗達は早急に、鴉に対し二度とやらないよう教育を施したのだ。
「そうか。手は打ったか」
腕を組み、しかし慧音は踵を返す事無く文を―――その後ろの山に潜む鴉天狗達へ視線を向ける。
「ならば、何故此方になんの沙汰も無いのだ?」
「沙汰?」
意外そうに文は聞き返す。
「田畑を荒らす事は、盗みと同じだ。あまつさえ事は生命に関わる重大事。其方の内々で済ます訳にはいかないと思うが?」
「そう言われても。此方はもうこれ以上の手を打つ事は無いですし」
「此方が被った損失の補填をする気は無い、と言うのか?」
慧音の問いに、文は肩越しに山を振り返る。
応えは決まりきっていたし、文の予想を裏切るものでもなかった。
「そうなりますね」
だから、慧音に視線を戻した文は笑顔である。何せ一族の総意なのだ。
「家畜の不始末は畜主にある筈だが」
慧音の視線が鋭くなる。
「そう言われましても。鴉が食べた物を埋めるだけの何かを人に与えろって言うんですか?」
「原因は其方にあるだろう」
「そう言われても……今年は山の方が不作気味で」
「だからといって、此方の物を取っていい理由にはなるまい」
「ある所から取ったんです。対策を怠った其方にも非があったのでは?」
文の言葉に、慧音の柳眉が逆立った。
「責任を転嫁するつもりか!?」
「いえいえ」
宥めるように言い、文は言葉を続ける。
「ただ、此方が全部悪いという其方の言い分は承服しかねるという話なだけですから」
「そうは言うがな? 例年程度ならば抑えられる対策はしてあったのだ。全ての里、全ての田畑で」
「あら」
「だというのに、今年の被害は例年の比ではない。歴史上でも十指に入りかねないんだぞ?」
「あらら」
「それだけの被害を与えておいて、こちらの予想を遥かに上回っておきながら―――お前のその理屈はおかしい」
「あー……えぇっと」
文は再び肩越しに山を振り返る。汲むべき点がどうにも多すぎるので、自分一人で判断するには難しくなっていた。
見れば山の方でも鴉天狗達が議論を交わしている。
「鴉天狗達よ!」
そこへ慧音の大声が響き渡り、鴉天狗達は言葉をとめて一斉に彼女を振り返った。
「話は聞いているのだろう! 私は人里の総代として、貴君等に要請する!」
「……何をですか」
自分を無視された形になった文が、やや不機嫌に聞く。
「最低でも一か月分の食料をだ!」
ざわっ―――
風も無いのに木々が揺れる。鴉天狗達のざわめきがそうさせているのだ。
「……私を無視して話を進めないでくださいよ。面目丸潰れじゃないですか」
ざわめきを背に、文が小声で慧音に口を尖らせる。
「済まん。……この事ばかりに時間を割く訳にもいかなくてな」
「まーったく……」
溜息を零しつつ、だが文は慧音の大声が無ければ確かにより時間がかかっていそうだろう事は予想できた。それとこれとは話が別であるが。
―――やがて、多からぬ時間の後にざわめきが止んだ。
「……じゃあこの線で」
木々に向け、文が言う。
鴉天狗達の頷きによる衣擦れの音がざっ、と響いた。
「慧音さん、答えでましたよ」
「ほう」
自分を振り返った文に、慧音は若干の期待が篭った声で応える。鴉天狗も天狗故に高慢ではあるが、筋を通せば納得しない相手ではないのだ。
しかし、やおら文は空高く舞い上がるなり腰の団扇を抜き放つ。
「なっ!?」
見上げた慧音の目が丸くなるが、彼女の視界の中で文は団扇を一扇ぎ二扇ぎ。地上へばら撒かれた無数の弾幕を躱す為に、慧音もまた空へと舞った。
「どういうつもりだ! これが鴉天狗の総意なのか!?」
「そうですとも。要求は呑みますが、それは貴女が私に弾幕勝負で勝ったなら、の話です」
「そんな理があるか!」
「まぁそう怒らず。大丈夫です、私が勝っても要求の半分は差し上げます。その代わり、貴女が勝てば、倍の食料を保証しますよ?」
「……本当か?」
思いもしない文の言葉に、慧音の勢いが和らぐ。
「私と、あそこら辺に居る全員の総意です」
ただ、要するに相手の言い分を素直に認めるのが癪なだけであったりするが。
ともあれ文の言葉に偽りは無い。
「分かった。そういう事なら容赦はするまい、全力でいくぞ」
慧音は構え、
「是非そうなさって下さい。私も手加減をするつもりなんて毛頭ありませんから」
文が笑う。
ならば、と慧音はスペルカードを構え、宣言する。
「光符、『アマテラス』」
直後彼女を中心に全方位へ光軸が放射され、形成される光の球は迫る壁の如く文へと殺到した。
§
「ははっ!」
文は口元から零れる笑いを隠す事もなく、黒いスカートを翻して空を翔る。
天狗は面白い物に目がない。
血生臭い遣り取りなどに特段興味がある訳ではないが、それでも血が踊る感覚は嫌いではない。
黒髪を靡かせ、光の束を駆け抜け、その腕が僅かに抉られ空に赤い線が引かれようとも、速度を落とす事なく空を舞う。
幾条も迸る光の筋は鉄柵の檻と化し、その上で吹雪のような光弾が迫る。
それはまるであの日輪の輝きのように、天網恢恢疎にして漏らさぬ眩き弾幕。それをわざと掠めさせるように際の際まで引き付けて。
――未熟。それはその戦いを見下ろす誰が発した言葉だったか。
――喜楽。それはその戦いを見上げる誰の発した言葉だったか。
腕と足に傷を負いながらも放たれる弾幕を笑いながら紙一重で避わし、文は天の頂で大きく両手両足を広げて慧音を見下ろす。
それは空に広がる一枚の葉。五体を広げて風を捕え、そして彼方へ飛び去っていく自由な葉。
だけど文は飛び去らず、代わりに己以外の全てを吹き飛ばそうと
『風神一扇』
手にした扇で大きく薙いだ。
巻き起こる風は一間進む間にその速度を増し、気弾を乗せた風は音速に至る。
アマテラスの光は瞬間的に発生した気圧差によって生れた偏光レンズで捻じ曲げられ――いや、無粋な物言いは止そう。単純に――風で光が吹き飛ばされた。
吹き荒れる風が慧音に叩き付けられ、周囲の木々を薙ぎ倒し、傍観していた鴉天狗たちも慌てて空へと退避する。
一斉に飛び立った彼らの姿で、空が黒く染まる程に――
§
数多の光を曲げる大風威。
「く―――」
煽られて体勢を崩すものの、それでも降り注ぐ中型弾の密集直線弾幕をどうにか躱す。
「甘い甘い大甘ですよ! 躱す程度ではこの私の弾は回避不能です!」
文の言葉の通り、慧音の動きよりも文の動きの方が数段早い。常であれば取るに足らない直線弾幕だが、術者のスピードによって充分な脅威と化していた。
「ならばっ!」
迫る弾幕に対し、慧音は叩きつけるようにスペルカードを向ける。
「国符、『三種の神器 鏡』」
宣言と同時に現れたのは、名の通りの鏡。
そしてその鏡は文からの弾幕を呑み込み、代わりに数多の碧色の中型弾を撒き散らし始める。同時に、無数のクナイ弾と小型弾による混合弾幕が形成され、瞬く間に文の視界を埋め尽くしていく。
「さぁ、どう出る!」
弾幕の中心で、慧音は文へと呼びかけた。
いくらかの罪悪感と共に、彼女もまた心の高揚を感じているのだ。
§
「ひゃわっ!」
突如視界を埋めた弾幕に、思わず文の口から声が漏れた。
鏡による弾幕返し。それは光を鏡が跳ね返すといった簡単な話ではない。
風を、気を、その全てを慧音は一瞬で読み取り、その『存在』を跳ね返したのだ。
故に神器。鏡にその存在情報を伝え、そのものだけを跳ね返す。どころか自身の力を乗せて、自身の力と化して。
迫る碧色の弾幕を手にした扇で叩き落し、その足で空を蹴って直角に曲がり、身を捩らせて弾幕を避けながらも文は少し辟易としていた。
「生真面目ですねぇ、全く」
こちらの反撃を受け止めるためのスペルカード。
確かに宣言からの攻撃が幻想郷におけるルール。
文もまたその理に身を置くものではあるが、しかしこうまで律儀に守る必要などないだろうに。
「にひ♪」
文の顔に不気味な笑みが浮かぶ。
それはまるで悪戯を思いついた子供のような、何かを企む詐欺師のような。
「いけませんいけません。それではとてもイけませんよ。もっともーっと面白おかしく生きなきゃね」
そう一人ごちで、深く息を吸い込むと――迫る弾幕に向けて全速で突っ込んだ。
「なっ!?」
慧音の口から驚きの声が漏れる。
弾幕とはいえ致死に至る攻撃ではない。質量も速度もそれなりに制限してあるが、そんなある意味遊びの弾幕とは言え、あんな速度で自ら吶喊しては――生命の保証はできない。
バードストライク。速度はそれだけで十分に凶器なのだ。
「くっ!」
慧音は展開した鏡を自らの拳で叩き割った。ガラスの砕ける音と共に世界が罅割れた音が響き、空を埋め尽くしていた弾幕が掻き消える。
拳の痛みに僅かに顔を顰め、そして再び顔を上げた慧音は文を睨もうとして、
「――いない?」
「ここですよ」
それは背後から聞こえた声。そして慧音が振り向くより速く
「うーん、ずっしりと詰まってますねぇ。豊作豊作♪」
「ひゃぁぁぁああああ!!」
わしり、と。
慧音の背後に回った文が、遠慮も何もない手付きで慧音の胸を揉みしだいていた。
§
「このっ、馬鹿者離せっ! 指を小器用に蠢かすんじゃないっ!」
全くの不意打ち、思いもしない事態。
動転した慧音は腕を振り回すが、背後の文には届かない。
「いーじゃないですかこんなご立派なんですからちょっとくらい」
「大体お前の好きにさせる為の物じゃないっ! は、離せっ!」
もがけばもがく程、文の指は慧音の乳を歪めていく。
「おやおやその言い分だと誰か好きにさせる相手が居るのでしょうかー?」
大変愉快そうに、時折飛んでくる肘鉄すら笑顔で受け止めて、文は容赦の無い指捌きを見せる。
「そうは言ってないしお前には関係無いだろう、早く」
瞬間、ある場所を文の指が刺激した。
慧音の動きが止まり、硬直したように気持ち反った。
「―――っ、く、離せっ!」
「おや、今ちょっと反応しましたか? しましたね!?」
「うるさい馬鹿! 早く、このっ、お前は!」
「あらあら頬が赤いですよー?」
文の言葉に歯を食い縛った慧音は、空中では分が悪いと強制降下を始める。
それにさして抵抗せず、同速で降下しつつ文は鼻歌すら始めそうな顔で慧音の乳を堪能し続けた。
「公衆の面前でこんな事をされれば当たり前だろう!?」
「それもそうですねー」
必死で焦りまくりの慧音。
口元が果てしなく邪な文。
「離せと言っているっ!」
「嫌だと言ったら?」
「この大馬鹿者! 自分がされたら嫌な事は他人にするなと教わらなかったか!?」
「時と場合によりけりですねー」
慧音の足が地に着いた。
「ああもう、こうなったら―――」
「ん?」
好機とばかりに、彼女の手にスペルカードが生まれる。
この期に及んでまだ、彼女は弾幕ごっこを続行するつもりらしかった。
「この至近距離でスペルカードを浴びればただでは済まないぞ!?」
律儀な警告。
「そうですねー」
だが文の指は止まらない。むしろコツを掴んだかのように動きに淀みが無かった。
「んっ、く、ならば―――葵符『水戸の光國』」
宣言と同時、もう声を漏らすまいと歯を食い縛る慧音の左右に光珠が一つずつ発生する。
「おや」
直後、その光珠から赤い光線が放射され始め、次いで慧音自身も掌から弾幕を生んだ。
狙うべきは一つである。
§
光球から伸びる赤い線。両手から湧き起こる眩い輝き。だがそれも――
「馬鹿ですねぇ」
天に突き上げるように伸びた文の右足。神速で吹き抜けたそれが、慧音の手にしたスペルカードを蹴り上げて霧消させる。
近接戦闘ならば近接戦闘なりの身の置き方を慧音だって知っていただろう。里を護り続けて数百年、その程度の身のこなしは当然のように身に付けている。
なのに――忘れた。頭に血が昇ったのか、その全てを忘れて意地になったように。
全ては天狗の掌の上。
呆然と目を開く慧音の眼前へ、蹴り足を振り下ろすと同時にその右足を起点とし蛇のように身を屈めて這いよる。
鎌首をもたげるように身を起こすと、そこは互いの吐息が掛かる距離。
にまりと笑う文と驚きに目を見開く慧音の視線が一瞬交わり、そして文は慧音の桜色の唇にちゅっと小鳥の啄ばむような口づけをして
「がはっ!?」
慧音の腹に両手を重ねた掌底を当て、息吹により丹田に溜めた気の全てを、左足で大地を踏み割るほどに蹴って
――衝撃を叩き込んだ。
§
思わぬ攻撃。だが咄嗟の反応で慧音は身を浮かせ、吹っ飛ばされる事で受ける衝撃を和らげる。
「ぐ、弾幕勝負の筈だろう!」
着地し、腹の痛みに手を添えながらの抗議。
「えぇ。掌から弾を出してましたよ? 気付きませんでした?」
だが文は飄々としたものだ。
「……先程といい今といい、なんのつもりだ? 鴉天狗の総意の下での行いにしては度が過ぎる」
「それを決めるのは我々であって、あなたじゃあ無いですねー。大丈夫です。先ほどのあなたの媚態は記事にはしませんから」
含み笑い付きの文の言葉を受け、慧音の顔がポンと赤くなる。
「おのれっ!」
赤いまま慧音は新たなスペルカードを構えるが、
「させませんって」
瞬時どころか刹那に間合いを詰めた文の貫手がそれを弾いた。
至近で慧音の渋面と文の笑顔が向かい合う。
だが次の瞬間、
「ならば」
文の貫手が戻りきる前に慧音はその手を引っ掴み、有無を言わさぬ上体捻りと共に掴んだ手を引く。
「え」
泳ぐ体を文が止めようとする前に、慧音の動きは止まらず文を背に担ぐ形になっていた。
直後、大音を立てて文は強かに地面に打ちつけられる。
「っか―――」
受身も間に合わない強打によって肺の空気が全て吐き出され、文は呼吸困難に陥った。
同時に、掴まれた腕に走る痛み。
「お前がそうくるのなら、私にだって考えがある」
腕の痛みは慧音がそこへ一発だけ弾を撃ったからである。
「これでも、お前は弾幕ごっこと言うのだろう?」
そして、慧音の目は据わっていた。
§
「っはー……痛痛痛」
とりあえず身を起こしたものの呼吸すら侭ならない。
腕に当てられた弾はそれこそ子供が撫でたようなものだが、背中がぎしぎしと痛み、内臓が裏返りそうだ。
見上げる先には表情を消した慧音の顔。
本気を出させようと色々と振ってみたが、遣り過ぎた感は否めない。
「だけどまぁ……」
天狗の辞書に後悔などという文字がある筈もなく、反省という文字もまたないのだから。
「面白くなってきたじゃないですか」
そう言って、にたりと笑った。
大地を蹴って疾風のように再び空に舞う。慧音は山のように静かに佇んで風を見上げる。
天と地と。その両極に身を置いた二人。そしてそれは二人の生き様の違い。
天狗は空で風と共に。白沢は地で人と共に。
だから――
「風よ風よ、集いて来たれ」
文の呼び声に応え、周りに風が集まる。
徐々に、徐々に、だが加速しながら集う大気の群れ。渦を巻き、轟音を立て、吹き荒れる嵐のように。
天の災い。蒙古の来襲すら跳ね返したその圧倒的な力の一端を。
右手に持った扇で風向きを統制し、左手の愛撫するような指先で風を煽り、そして両目に隠しきれない好奇の色を乗せて。
「人と共に在る神獣よ。貴女は天の裁きにどう答えます? 抗うか、受け入れるか、二つに一つなのだとしたら」
その身は風神。風神少女。周りに集う鴉天狗たちも踏み止まるのが精一杯の荒ぶる暴風圏。
其の只中に立つ慧音は、災禍から目を逸らすことなく敢然と顔を上げ、真っ直ぐと、歪みなく、誇りを持って。
「知れた事。私は――いや私達は――」
そして嵐が降りてくる。
風による加速で残像の視認すら不可能な神速の弾幕が、叩き付ける雨のように、荒魂の咆哮のように、
地に立つ慧音に降り注いだ。
§
迫る嵐渦、数多の超高速弾。
それら全てを、慧音は避けなかった。
まるで微動だにせず、嵐を受け、高速弾を受け、体が千地に引き裂かれそうな衝撃を歯を食い縛って耐える。
「決まっている」
轟々と嵐の音が耳朶を労する中、力が抜けるような激痛の中で慧音は呟く。
「それが天の裁きだと言うのなら……私達は受け入れるさ」
誰に聞こえる訳もない言葉。
しかし、慧音の膝は屈さない。
嵐によって発生した真空刃に身を裂かれようと、慧音は倒れなかった。
「だがな」
スペルカードを手に出現させる。もはや意地でもあった。
「全てを受け入れた上で、全力で抗う」
直後、アマテラス以上の膨大な光が嵐渦を圧倒する。
「!」
生まれた光に、文は目を細めた。
そんな文をしっかりと見据え、慧音は言う。
「それが、生きるという事だ」
そして―――
『日出づる国の天子』
宣言が為された。
炸裂する光は嵐渦を突き破り、掻き消し、文へと迫る。
それは弾幕勝負の範疇ギリギリ、渾身の一撃だった。
§
光に呑まれる文の身体。その顔に笑みが浮かんでいた事に慧音は気付いていた。
あの瞬間――こちらの攻撃を避けるつもりがなかった事も。
まるで道化だ。滅びる事を前提に生み出された凶魂にでもなったつもりか――慧音は唇を噛み締めて、その姿を網膜に焼き付けることしか出来ない。
呑まれ、そして意識を失って墜ちる文。
そのぼろぼろの姿を救おうと踏み出した慧音の一歩は、目の前に現れた一人の老鴉天狗に止められた。
「そこまで。お主の勝ちじゃ」
老いたりとはいえその眼光は鋭く、ぼろぼろの僧衣に身を包みながらも他を圧倒する威厳。
その存在が鴉天狗たちの長であると――言われるまでもなく魂で理解した。
見れば気を失った文は、他の鴉天狗たちに抱えられており、慧音はほぅと安堵の溜息を零す。
吹き荒れる嵐にその身を苛まされ、自身もまたぼろぼろだというのに――文が生きている事に心から感謝した。
「今回の件……わしらに非があった事を詫びよう。約束の品は後日必ず里へと送り届ける」
「それは……そのありがたいのですが……しかし私にも非が……」
「盗人にも三分の理。物は言いようじゃ。それにこの結末に異を唱える者などおらんよ」
「ですが……」
慧音は僅かに目を伏せて俯く。
今回の件は里の畑を鴉が荒らした事が発端だが、鴉とて食わねば生きられぬ。その程度の理を解らぬ慧音ではない。
それに光に呑まれる瞬間の文の顔。あれが彼女なりの責任の取り方なのだろう。
そう知ってなお、勝利に浮かれる事など出来はしない。
「なぁに、良いものを魅せてもらったしな。その礼と思えば良い。――良い啖呵じゃったぞ?」
「あれは……その……良く考えず口から出たものでして……」
「それに」
「それに?」
「ええ乳じゃった」
「このエロ爺い」
真面目な慧音が思わず素で突っ込んでしまう。
やはり天狗は喰えないヤツラだ。
§
同族に笑顔でさんざん罵倒されながら山へと持っていかれる文を見送り、ふと気付けば容赦なく胸を凝視していた鴉天狗の翁に一撃くれて、慧音は山を後にした。
―――後日。
「毎度ー、文々。新聞と天狗宅急便でーっす」
重たそうな荷物を両手で持って、文がよろよろゆらゆらと里に飛来した。
「おぉ、来たな」
それを出迎えるのは慧音一人。人間は遠巻きに窺うだけで近づこうとはしない。
「という訳で今日の分の新聞と食料の方をお届けにあがりましたが」
「ああ、ありがとう」
風呂敷に包まれた箱の中を検めれば、木耳や茸の類に山菜から岩魚まで、豊富な山の幸が揃っていた。
「これは……随分豪華だな」
思わず、良いのか? と目で聞いてしまう。
「私との勝負で、ファンになった方が割と居るって事ですよ」
答え、文は肩を竦める。
「やっぱ乳ですかね」
「引っ叩くぞ」
「冗談ですよ?」
「お前の場合は信用ならん」
知らず半歩下がって胸をガードする慧音であった。
「まぁそれはどうでもいいとして」
言うなり、文は自前の新聞とは違う仕様の新聞を一部取り出す。彼女の瞳に邪で喜悦な光が宿っていたが、それは誰の目にも留まらなかった。
「仲間内限定でこんなのが発行されてましてね?」
慧音は差し出されたそれを受け取り、一瞥するなり真っ赤になる。
「なっ、こ、れは……っ」
見出しからして既に里の護り手のええ乳特集である。それもでかでかと。
しかも掲載されている写真が、いつどのようにして撮ったものか分からない程、文の手指によって形を変える慧音の乳を様々な角度且つ過剰なズームで収めたものばかりだった。あまつさえカラー。
「き、記事にしないと言ったじゃないか! いつ撮った!?」
新聞をくしゃくしゃに丸めながら、慧音は文に問い質す。
「まぁ、私は記事にしないとは言いましたがね」
「じゃあ誰が」
すると文はばつが悪そうに鼻を掻き、軽く目を逸らした。
当然、愉しそうなのを隠す為だ。
「えーと、その。……長が。随分楽しそうに配ってました」
「な―――」
慧音は呆気に撮られた表情で、陸に上がった魚のように口をぱくぱくと動かす。
「被写体がこうでなければ、私としても見習いたいくらいの撮影技術なんですけどねー」
「……そうだ、一つ聞きたい事がある」
呆れる文に対し、慧音は静かに聞いた。
「? 何をです?」
いやに冷静な慧音の声に不審を抱きつつ、文は慧音の問いを待つ。
「長は今どこに居る?」
「……聞いてどうします?」
「お前には関係の無い事だ」
慧音は笑顔だった。
いっそ優しさすら窺えるそれを見て―――何故か文は背筋が凍る思いを味あわされる。
そして、同時に答えなければどうなるかという身の危険も。
「いや、その―――落ち着いてください?」
「私は冷静だ。とても」
「慧音さ」
「長は今どこに居る?」
有無を言わすとか言わさないとかいうレベルじゃなかった。
「あ、案内させて頂きます」
そして、敬語になった文は長を売った。予定通りといえばそうなのだが、もしその予定が無かったとしても、文は長を売ったろう。今の慧音にはそうさせるだけの恐怖があった。
数時間後、逃げ回る長を笑顔のまま追い回し、振るう神器の剣で山林を破壊する慧音は鴉天狗達に文が感じたものと同種の恐怖を齎した―――
※文による追記:ネガは回収されたみたいです。
故に人は田畑を耕し、広げ、育ててゆく。
生きる為だ。
「…………」
無言のまま、慧音はやや早い足取りで鴉天狗の住まう山を目指していた。
生きる為。そう、田畑で育てた作物を収穫する事で、人はやっと食物にありつける。危険が伴う上に獲物次第である狩猟と違い、すべき事をしておけば滅多な事では食うに困らない。不作や凶作の年もあるが、大抵は相応の作物に恵まれるものだ。
「…………」
見上げる。
慧音の瞳に鬱蒼と茂る木々と、圧倒感すら覚える山の高さが映った。
作物という恵み。人の人による人の為の結果である。それを横から奪い取るという行為は、例え野生であっても看過する訳にはいかない。
故に、慧音はそこに居る。
既に数多の鴉天狗達が慧音の存在を察知し、何事かと集まりつつある山の前に。
基本的に彼等は情報屋である為、慧音が何を思って現れたかくらいは各々知っているだろう。
「ほー、存外早かったな」
「そうか? 我輩の見立てでは遅いくらいだが」
「まぁ来るという点では誰もが考えたろう。問題はその先だな」
高速で移動する、木々を縫う会話。
「よもや喧嘩は売らんだろうが、さて、問題は誰が応対にでるかだ」
「こじらせるのも面白いと思うけどー?」
「だが自らがネタになるのは愉快じゃないな」
ざわざわと、ざわざわと。
声は増え、気配は増え。
「で、結局誰が応対するんだ? ぶっちゃけ、人里の田畑荒らした鴉の内、数割は身内だろ? 出切るだけ温和に済ませられれば良いと思うが」
「彼女と知り合いの者で問題ないだろう。知己の相手ならばいくらか気も和らぐだろうしな」
「と、すると―――」
ざわめきが止まる。
木々を縫う無数の視線が一方へ集中した。
「射命丸、特ダネだな?」
そこへ老いた声がかけられる。
「さて―――どうでしょうね」
返事の声は若い。
だが独占権を認められたこの状況で、情報屋として喜ばしくない訳も無く。
「ともあれ、行ってきます」
文の声はどこか弾んでいた。
言葉の後に翼を羽ばたかせ、木々枝々から果て無き青空の下へ一瞬で移動。彼女が目線を下ろせば、此方を見上げる慧音の姿が目に入った。
「射命丸! 話がある!」
両手を口に添えての大声。
慧音とて山から己を見つめる無数の視線に気付いていない訳ではないが、一人突出したという事がどういう事かは大体察していた。
「っはーい、分かってますよー」
明るく返事をし、文は慧音の前へと降り立つ。
「で? 話とは?」
そして白々しくもある一言を、気持ち前傾小首傾げ付きで言った。
「此方の田畑が鴉の被害に遭った件、無関係とは言わさないぞ」
静かな言葉。だからこそ容赦の無い言葉と言えるだろう。ここで嘘を答えようものなら、露見した時の報いは相当酷い事は想像するに容易い。
「成る程、その件でしたか。それでしたら、既に此方で手は打ってありますので」
文の言葉は事実である。
鴉が田畑を荒らしたのは、元を質せば鴉天狗直属の鴉が野生の鴉を先導した結果なのだ。
自然を相手に狩りをするよりは、人が育てた作物を横取りした方が楽は楽。だが、それは妖と人との和を乱す波紋である。よって鴉天狗達は早急に、鴉に対し二度とやらないよう教育を施したのだ。
「そうか。手は打ったか」
腕を組み、しかし慧音は踵を返す事無く文を―――その後ろの山に潜む鴉天狗達へ視線を向ける。
「ならば、何故此方になんの沙汰も無いのだ?」
「沙汰?」
意外そうに文は聞き返す。
「田畑を荒らす事は、盗みと同じだ。あまつさえ事は生命に関わる重大事。其方の内々で済ます訳にはいかないと思うが?」
「そう言われても。此方はもうこれ以上の手を打つ事は無いですし」
「此方が被った損失の補填をする気は無い、と言うのか?」
慧音の問いに、文は肩越しに山を振り返る。
応えは決まりきっていたし、文の予想を裏切るものでもなかった。
「そうなりますね」
だから、慧音に視線を戻した文は笑顔である。何せ一族の総意なのだ。
「家畜の不始末は畜主にある筈だが」
慧音の視線が鋭くなる。
「そう言われましても。鴉が食べた物を埋めるだけの何かを人に与えろって言うんですか?」
「原因は其方にあるだろう」
「そう言われても……今年は山の方が不作気味で」
「だからといって、此方の物を取っていい理由にはなるまい」
「ある所から取ったんです。対策を怠った其方にも非があったのでは?」
文の言葉に、慧音の柳眉が逆立った。
「責任を転嫁するつもりか!?」
「いえいえ」
宥めるように言い、文は言葉を続ける。
「ただ、此方が全部悪いという其方の言い分は承服しかねるという話なだけですから」
「そうは言うがな? 例年程度ならば抑えられる対策はしてあったのだ。全ての里、全ての田畑で」
「あら」
「だというのに、今年の被害は例年の比ではない。歴史上でも十指に入りかねないんだぞ?」
「あらら」
「それだけの被害を与えておいて、こちらの予想を遥かに上回っておきながら―――お前のその理屈はおかしい」
「あー……えぇっと」
文は再び肩越しに山を振り返る。汲むべき点がどうにも多すぎるので、自分一人で判断するには難しくなっていた。
見れば山の方でも鴉天狗達が議論を交わしている。
「鴉天狗達よ!」
そこへ慧音の大声が響き渡り、鴉天狗達は言葉をとめて一斉に彼女を振り返った。
「話は聞いているのだろう! 私は人里の総代として、貴君等に要請する!」
「……何をですか」
自分を無視された形になった文が、やや不機嫌に聞く。
「最低でも一か月分の食料をだ!」
ざわっ―――
風も無いのに木々が揺れる。鴉天狗達のざわめきがそうさせているのだ。
「……私を無視して話を進めないでくださいよ。面目丸潰れじゃないですか」
ざわめきを背に、文が小声で慧音に口を尖らせる。
「済まん。……この事ばかりに時間を割く訳にもいかなくてな」
「まーったく……」
溜息を零しつつ、だが文は慧音の大声が無ければ確かにより時間がかかっていそうだろう事は予想できた。それとこれとは話が別であるが。
―――やがて、多からぬ時間の後にざわめきが止んだ。
「……じゃあこの線で」
木々に向け、文が言う。
鴉天狗達の頷きによる衣擦れの音がざっ、と響いた。
「慧音さん、答えでましたよ」
「ほう」
自分を振り返った文に、慧音は若干の期待が篭った声で応える。鴉天狗も天狗故に高慢ではあるが、筋を通せば納得しない相手ではないのだ。
しかし、やおら文は空高く舞い上がるなり腰の団扇を抜き放つ。
「なっ!?」
見上げた慧音の目が丸くなるが、彼女の視界の中で文は団扇を一扇ぎ二扇ぎ。地上へばら撒かれた無数の弾幕を躱す為に、慧音もまた空へと舞った。
「どういうつもりだ! これが鴉天狗の総意なのか!?」
「そうですとも。要求は呑みますが、それは貴女が私に弾幕勝負で勝ったなら、の話です」
「そんな理があるか!」
「まぁそう怒らず。大丈夫です、私が勝っても要求の半分は差し上げます。その代わり、貴女が勝てば、倍の食料を保証しますよ?」
「……本当か?」
思いもしない文の言葉に、慧音の勢いが和らぐ。
「私と、あそこら辺に居る全員の総意です」
ただ、要するに相手の言い分を素直に認めるのが癪なだけであったりするが。
ともあれ文の言葉に偽りは無い。
「分かった。そういう事なら容赦はするまい、全力でいくぞ」
慧音は構え、
「是非そうなさって下さい。私も手加減をするつもりなんて毛頭ありませんから」
文が笑う。
ならば、と慧音はスペルカードを構え、宣言する。
「光符、『アマテラス』」
直後彼女を中心に全方位へ光軸が放射され、形成される光の球は迫る壁の如く文へと殺到した。
§
「ははっ!」
文は口元から零れる笑いを隠す事もなく、黒いスカートを翻して空を翔る。
天狗は面白い物に目がない。
血生臭い遣り取りなどに特段興味がある訳ではないが、それでも血が踊る感覚は嫌いではない。
黒髪を靡かせ、光の束を駆け抜け、その腕が僅かに抉られ空に赤い線が引かれようとも、速度を落とす事なく空を舞う。
幾条も迸る光の筋は鉄柵の檻と化し、その上で吹雪のような光弾が迫る。
それはまるであの日輪の輝きのように、天網恢恢疎にして漏らさぬ眩き弾幕。それをわざと掠めさせるように際の際まで引き付けて。
――未熟。それはその戦いを見下ろす誰が発した言葉だったか。
――喜楽。それはその戦いを見上げる誰の発した言葉だったか。
腕と足に傷を負いながらも放たれる弾幕を笑いながら紙一重で避わし、文は天の頂で大きく両手両足を広げて慧音を見下ろす。
それは空に広がる一枚の葉。五体を広げて風を捕え、そして彼方へ飛び去っていく自由な葉。
だけど文は飛び去らず、代わりに己以外の全てを吹き飛ばそうと
『風神一扇』
手にした扇で大きく薙いだ。
巻き起こる風は一間進む間にその速度を増し、気弾を乗せた風は音速に至る。
アマテラスの光は瞬間的に発生した気圧差によって生れた偏光レンズで捻じ曲げられ――いや、無粋な物言いは止そう。単純に――風で光が吹き飛ばされた。
吹き荒れる風が慧音に叩き付けられ、周囲の木々を薙ぎ倒し、傍観していた鴉天狗たちも慌てて空へと退避する。
一斉に飛び立った彼らの姿で、空が黒く染まる程に――
§
数多の光を曲げる大風威。
「く―――」
煽られて体勢を崩すものの、それでも降り注ぐ中型弾の密集直線弾幕をどうにか躱す。
「甘い甘い大甘ですよ! 躱す程度ではこの私の弾は回避不能です!」
文の言葉の通り、慧音の動きよりも文の動きの方が数段早い。常であれば取るに足らない直線弾幕だが、術者のスピードによって充分な脅威と化していた。
「ならばっ!」
迫る弾幕に対し、慧音は叩きつけるようにスペルカードを向ける。
「国符、『三種の神器 鏡』」
宣言と同時に現れたのは、名の通りの鏡。
そしてその鏡は文からの弾幕を呑み込み、代わりに数多の碧色の中型弾を撒き散らし始める。同時に、無数のクナイ弾と小型弾による混合弾幕が形成され、瞬く間に文の視界を埋め尽くしていく。
「さぁ、どう出る!」
弾幕の中心で、慧音は文へと呼びかけた。
いくらかの罪悪感と共に、彼女もまた心の高揚を感じているのだ。
§
「ひゃわっ!」
突如視界を埋めた弾幕に、思わず文の口から声が漏れた。
鏡による弾幕返し。それは光を鏡が跳ね返すといった簡単な話ではない。
風を、気を、その全てを慧音は一瞬で読み取り、その『存在』を跳ね返したのだ。
故に神器。鏡にその存在情報を伝え、そのものだけを跳ね返す。どころか自身の力を乗せて、自身の力と化して。
迫る碧色の弾幕を手にした扇で叩き落し、その足で空を蹴って直角に曲がり、身を捩らせて弾幕を避けながらも文は少し辟易としていた。
「生真面目ですねぇ、全く」
こちらの反撃を受け止めるためのスペルカード。
確かに宣言からの攻撃が幻想郷におけるルール。
文もまたその理に身を置くものではあるが、しかしこうまで律儀に守る必要などないだろうに。
「にひ♪」
文の顔に不気味な笑みが浮かぶ。
それはまるで悪戯を思いついた子供のような、何かを企む詐欺師のような。
「いけませんいけません。それではとてもイけませんよ。もっともーっと面白おかしく生きなきゃね」
そう一人ごちで、深く息を吸い込むと――迫る弾幕に向けて全速で突っ込んだ。
「なっ!?」
慧音の口から驚きの声が漏れる。
弾幕とはいえ致死に至る攻撃ではない。質量も速度もそれなりに制限してあるが、そんなある意味遊びの弾幕とは言え、あんな速度で自ら吶喊しては――生命の保証はできない。
バードストライク。速度はそれだけで十分に凶器なのだ。
「くっ!」
慧音は展開した鏡を自らの拳で叩き割った。ガラスの砕ける音と共に世界が罅割れた音が響き、空を埋め尽くしていた弾幕が掻き消える。
拳の痛みに僅かに顔を顰め、そして再び顔を上げた慧音は文を睨もうとして、
「――いない?」
「ここですよ」
それは背後から聞こえた声。そして慧音が振り向くより速く
「うーん、ずっしりと詰まってますねぇ。豊作豊作♪」
「ひゃぁぁぁああああ!!」
わしり、と。
慧音の背後に回った文が、遠慮も何もない手付きで慧音の胸を揉みしだいていた。
§
「このっ、馬鹿者離せっ! 指を小器用に蠢かすんじゃないっ!」
全くの不意打ち、思いもしない事態。
動転した慧音は腕を振り回すが、背後の文には届かない。
「いーじゃないですかこんなご立派なんですからちょっとくらい」
「大体お前の好きにさせる為の物じゃないっ! は、離せっ!」
もがけばもがく程、文の指は慧音の乳を歪めていく。
「おやおやその言い分だと誰か好きにさせる相手が居るのでしょうかー?」
大変愉快そうに、時折飛んでくる肘鉄すら笑顔で受け止めて、文は容赦の無い指捌きを見せる。
「そうは言ってないしお前には関係無いだろう、早く」
瞬間、ある場所を文の指が刺激した。
慧音の動きが止まり、硬直したように気持ち反った。
「―――っ、く、離せっ!」
「おや、今ちょっと反応しましたか? しましたね!?」
「うるさい馬鹿! 早く、このっ、お前は!」
「あらあら頬が赤いですよー?」
文の言葉に歯を食い縛った慧音は、空中では分が悪いと強制降下を始める。
それにさして抵抗せず、同速で降下しつつ文は鼻歌すら始めそうな顔で慧音の乳を堪能し続けた。
「公衆の面前でこんな事をされれば当たり前だろう!?」
「それもそうですねー」
必死で焦りまくりの慧音。
口元が果てしなく邪な文。
「離せと言っているっ!」
「嫌だと言ったら?」
「この大馬鹿者! 自分がされたら嫌な事は他人にするなと教わらなかったか!?」
「時と場合によりけりですねー」
慧音の足が地に着いた。
「ああもう、こうなったら―――」
「ん?」
好機とばかりに、彼女の手にスペルカードが生まれる。
この期に及んでまだ、彼女は弾幕ごっこを続行するつもりらしかった。
「この至近距離でスペルカードを浴びればただでは済まないぞ!?」
律儀な警告。
「そうですねー」
だが文の指は止まらない。むしろコツを掴んだかのように動きに淀みが無かった。
「んっ、く、ならば―――葵符『水戸の光國』」
宣言と同時、もう声を漏らすまいと歯を食い縛る慧音の左右に光珠が一つずつ発生する。
「おや」
直後、その光珠から赤い光線が放射され始め、次いで慧音自身も掌から弾幕を生んだ。
狙うべきは一つである。
§
光球から伸びる赤い線。両手から湧き起こる眩い輝き。だがそれも――
「馬鹿ですねぇ」
天に突き上げるように伸びた文の右足。神速で吹き抜けたそれが、慧音の手にしたスペルカードを蹴り上げて霧消させる。
近接戦闘ならば近接戦闘なりの身の置き方を慧音だって知っていただろう。里を護り続けて数百年、その程度の身のこなしは当然のように身に付けている。
なのに――忘れた。頭に血が昇ったのか、その全てを忘れて意地になったように。
全ては天狗の掌の上。
呆然と目を開く慧音の眼前へ、蹴り足を振り下ろすと同時にその右足を起点とし蛇のように身を屈めて這いよる。
鎌首をもたげるように身を起こすと、そこは互いの吐息が掛かる距離。
にまりと笑う文と驚きに目を見開く慧音の視線が一瞬交わり、そして文は慧音の桜色の唇にちゅっと小鳥の啄ばむような口づけをして
「がはっ!?」
慧音の腹に両手を重ねた掌底を当て、息吹により丹田に溜めた気の全てを、左足で大地を踏み割るほどに蹴って
――衝撃を叩き込んだ。
§
思わぬ攻撃。だが咄嗟の反応で慧音は身を浮かせ、吹っ飛ばされる事で受ける衝撃を和らげる。
「ぐ、弾幕勝負の筈だろう!」
着地し、腹の痛みに手を添えながらの抗議。
「えぇ。掌から弾を出してましたよ? 気付きませんでした?」
だが文は飄々としたものだ。
「……先程といい今といい、なんのつもりだ? 鴉天狗の総意の下での行いにしては度が過ぎる」
「それを決めるのは我々であって、あなたじゃあ無いですねー。大丈夫です。先ほどのあなたの媚態は記事にはしませんから」
含み笑い付きの文の言葉を受け、慧音の顔がポンと赤くなる。
「おのれっ!」
赤いまま慧音は新たなスペルカードを構えるが、
「させませんって」
瞬時どころか刹那に間合いを詰めた文の貫手がそれを弾いた。
至近で慧音の渋面と文の笑顔が向かい合う。
だが次の瞬間、
「ならば」
文の貫手が戻りきる前に慧音はその手を引っ掴み、有無を言わさぬ上体捻りと共に掴んだ手を引く。
「え」
泳ぐ体を文が止めようとする前に、慧音の動きは止まらず文を背に担ぐ形になっていた。
直後、大音を立てて文は強かに地面に打ちつけられる。
「っか―――」
受身も間に合わない強打によって肺の空気が全て吐き出され、文は呼吸困難に陥った。
同時に、掴まれた腕に走る痛み。
「お前がそうくるのなら、私にだって考えがある」
腕の痛みは慧音がそこへ一発だけ弾を撃ったからである。
「これでも、お前は弾幕ごっこと言うのだろう?」
そして、慧音の目は据わっていた。
§
「っはー……痛痛痛」
とりあえず身を起こしたものの呼吸すら侭ならない。
腕に当てられた弾はそれこそ子供が撫でたようなものだが、背中がぎしぎしと痛み、内臓が裏返りそうだ。
見上げる先には表情を消した慧音の顔。
本気を出させようと色々と振ってみたが、遣り過ぎた感は否めない。
「だけどまぁ……」
天狗の辞書に後悔などという文字がある筈もなく、反省という文字もまたないのだから。
「面白くなってきたじゃないですか」
そう言って、にたりと笑った。
大地を蹴って疾風のように再び空に舞う。慧音は山のように静かに佇んで風を見上げる。
天と地と。その両極に身を置いた二人。そしてそれは二人の生き様の違い。
天狗は空で風と共に。白沢は地で人と共に。
だから――
「風よ風よ、集いて来たれ」
文の呼び声に応え、周りに風が集まる。
徐々に、徐々に、だが加速しながら集う大気の群れ。渦を巻き、轟音を立て、吹き荒れる嵐のように。
天の災い。蒙古の来襲すら跳ね返したその圧倒的な力の一端を。
右手に持った扇で風向きを統制し、左手の愛撫するような指先で風を煽り、そして両目に隠しきれない好奇の色を乗せて。
「人と共に在る神獣よ。貴女は天の裁きにどう答えます? 抗うか、受け入れるか、二つに一つなのだとしたら」
その身は風神。風神少女。周りに集う鴉天狗たちも踏み止まるのが精一杯の荒ぶる暴風圏。
其の只中に立つ慧音は、災禍から目を逸らすことなく敢然と顔を上げ、真っ直ぐと、歪みなく、誇りを持って。
「知れた事。私は――いや私達は――」
そして嵐が降りてくる。
風による加速で残像の視認すら不可能な神速の弾幕が、叩き付ける雨のように、荒魂の咆哮のように、
地に立つ慧音に降り注いだ。
§
迫る嵐渦、数多の超高速弾。
それら全てを、慧音は避けなかった。
まるで微動だにせず、嵐を受け、高速弾を受け、体が千地に引き裂かれそうな衝撃を歯を食い縛って耐える。
「決まっている」
轟々と嵐の音が耳朶を労する中、力が抜けるような激痛の中で慧音は呟く。
「それが天の裁きだと言うのなら……私達は受け入れるさ」
誰に聞こえる訳もない言葉。
しかし、慧音の膝は屈さない。
嵐によって発生した真空刃に身を裂かれようと、慧音は倒れなかった。
「だがな」
スペルカードを手に出現させる。もはや意地でもあった。
「全てを受け入れた上で、全力で抗う」
直後、アマテラス以上の膨大な光が嵐渦を圧倒する。
「!」
生まれた光に、文は目を細めた。
そんな文をしっかりと見据え、慧音は言う。
「それが、生きるという事だ」
そして―――
『日出づる国の天子』
宣言が為された。
炸裂する光は嵐渦を突き破り、掻き消し、文へと迫る。
それは弾幕勝負の範疇ギリギリ、渾身の一撃だった。
§
光に呑まれる文の身体。その顔に笑みが浮かんでいた事に慧音は気付いていた。
あの瞬間――こちらの攻撃を避けるつもりがなかった事も。
まるで道化だ。滅びる事を前提に生み出された凶魂にでもなったつもりか――慧音は唇を噛み締めて、その姿を網膜に焼き付けることしか出来ない。
呑まれ、そして意識を失って墜ちる文。
そのぼろぼろの姿を救おうと踏み出した慧音の一歩は、目の前に現れた一人の老鴉天狗に止められた。
「そこまで。お主の勝ちじゃ」
老いたりとはいえその眼光は鋭く、ぼろぼろの僧衣に身を包みながらも他を圧倒する威厳。
その存在が鴉天狗たちの長であると――言われるまでもなく魂で理解した。
見れば気を失った文は、他の鴉天狗たちに抱えられており、慧音はほぅと安堵の溜息を零す。
吹き荒れる嵐にその身を苛まされ、自身もまたぼろぼろだというのに――文が生きている事に心から感謝した。
「今回の件……わしらに非があった事を詫びよう。約束の品は後日必ず里へと送り届ける」
「それは……そのありがたいのですが……しかし私にも非が……」
「盗人にも三分の理。物は言いようじゃ。それにこの結末に異を唱える者などおらんよ」
「ですが……」
慧音は僅かに目を伏せて俯く。
今回の件は里の畑を鴉が荒らした事が発端だが、鴉とて食わねば生きられぬ。その程度の理を解らぬ慧音ではない。
それに光に呑まれる瞬間の文の顔。あれが彼女なりの責任の取り方なのだろう。
そう知ってなお、勝利に浮かれる事など出来はしない。
「なぁに、良いものを魅せてもらったしな。その礼と思えば良い。――良い啖呵じゃったぞ?」
「あれは……その……良く考えず口から出たものでして……」
「それに」
「それに?」
「ええ乳じゃった」
「このエロ爺い」
真面目な慧音が思わず素で突っ込んでしまう。
やはり天狗は喰えないヤツラだ。
§
同族に笑顔でさんざん罵倒されながら山へと持っていかれる文を見送り、ふと気付けば容赦なく胸を凝視していた鴉天狗の翁に一撃くれて、慧音は山を後にした。
―――後日。
「毎度ー、文々。新聞と天狗宅急便でーっす」
重たそうな荷物を両手で持って、文がよろよろゆらゆらと里に飛来した。
「おぉ、来たな」
それを出迎えるのは慧音一人。人間は遠巻きに窺うだけで近づこうとはしない。
「という訳で今日の分の新聞と食料の方をお届けにあがりましたが」
「ああ、ありがとう」
風呂敷に包まれた箱の中を検めれば、木耳や茸の類に山菜から岩魚まで、豊富な山の幸が揃っていた。
「これは……随分豪華だな」
思わず、良いのか? と目で聞いてしまう。
「私との勝負で、ファンになった方が割と居るって事ですよ」
答え、文は肩を竦める。
「やっぱ乳ですかね」
「引っ叩くぞ」
「冗談ですよ?」
「お前の場合は信用ならん」
知らず半歩下がって胸をガードする慧音であった。
「まぁそれはどうでもいいとして」
言うなり、文は自前の新聞とは違う仕様の新聞を一部取り出す。彼女の瞳に邪で喜悦な光が宿っていたが、それは誰の目にも留まらなかった。
「仲間内限定でこんなのが発行されてましてね?」
慧音は差し出されたそれを受け取り、一瞥するなり真っ赤になる。
「なっ、こ、れは……っ」
見出しからして既に里の護り手のええ乳特集である。それもでかでかと。
しかも掲載されている写真が、いつどのようにして撮ったものか分からない程、文の手指によって形を変える慧音の乳を様々な角度且つ過剰なズームで収めたものばかりだった。あまつさえカラー。
「き、記事にしないと言ったじゃないか! いつ撮った!?」
新聞をくしゃくしゃに丸めながら、慧音は文に問い質す。
「まぁ、私は記事にしないとは言いましたがね」
「じゃあ誰が」
すると文はばつが悪そうに鼻を掻き、軽く目を逸らした。
当然、愉しそうなのを隠す為だ。
「えーと、その。……長が。随分楽しそうに配ってました」
「な―――」
慧音は呆気に撮られた表情で、陸に上がった魚のように口をぱくぱくと動かす。
「被写体がこうでなければ、私としても見習いたいくらいの撮影技術なんですけどねー」
「……そうだ、一つ聞きたい事がある」
呆れる文に対し、慧音は静かに聞いた。
「? 何をです?」
いやに冷静な慧音の声に不審を抱きつつ、文は慧音の問いを待つ。
「長は今どこに居る?」
「……聞いてどうします?」
「お前には関係の無い事だ」
慧音は笑顔だった。
いっそ優しさすら窺えるそれを見て―――何故か文は背筋が凍る思いを味あわされる。
そして、同時に答えなければどうなるかという身の危険も。
「いや、その―――落ち着いてください?」
「私は冷静だ。とても」
「慧音さ」
「長は今どこに居る?」
有無を言わすとか言わさないとかいうレベルじゃなかった。
「あ、案内させて頂きます」
そして、敬語になった文は長を売った。予定通りといえばそうなのだが、もしその予定が無かったとしても、文は長を売ったろう。今の慧音にはそうさせるだけの恐怖があった。
数時間後、逃げ回る長を笑顔のまま追い回し、振るう神器の剣で山林を破壊する慧音は鴉天狗達に文が感じたものと同種の恐怖を齎した―――
※文による追記:ネガは回収されたみたいです。
いえ、こういうの大好きです。男だから、と言い訳してみる