くそぅ、なんて時代だ。
額に滲み出る汗を拭いながら、私はそんな事を思っていた。
見上げた空はどこまでも青く、蒼く。綿菓子みたいな雲の間を、トンビが気ままに飛んでいる。
調和もなにもない、皆が負けじと自己主張を繰り返す蝉の声を聞きながら、一旦休憩しようとぱんぱんに膨れ上がったリュックサックを肩から下ろした。
∽
「ほらこれ、あんたこういうの好きでしょ?」
高校三年、最後の夏休み、その前日。
なぜ終業式のためだけに登校しなければならないのか。そんなものは最後の授業が終わった後に済ませてしまえばいいのではないのか。
そんな事を考えながら教室のドアを開け、明日から始まる長い夏休みを想って騒ぐ級友達を尻目に自分の席へと座った私を待っていたのは、友人のそんな一言だった。
「なに? これ」
受け取りながら聞いてみるが、彼女は答えない。代わりにその目が「まぁ見れば解るって」などと語っている。
彼女の事だ、またくだらない考察系サイトの論文でも持ってきたのだろう。
前回は焼き飯とチャーハンの違いについて延々と書かれた物だったし、その前は玉子焼きには何をかけるのが一番理想的か、なんて物だった。ネコ耳と狐耳の百年戦争、なんてタイトルがついていた時には、思わずそのままゴミ箱にダンクシュートを決めてしまったものだ。
恥ずかしい話ではあるが、私は未だにパソコンなんて物は持っていない。
今となっては一家に一台はあるであろうものだが、私の場合は単純にパソコンを買うだけの金銭的余裕が無いのだ。
だからか、彼女は時折面白そうな、というよりくだらないサイトを見つけては、それを律儀にプリントアウトして私に渡してくる。
極稀に、本当に感心するような事が書かれた物を持ってくる事もあるのだが、大抵はどこの暇人かと思ってしまうようなものばかり。
今回もまたそんな物なのだろうと思って、私は得に期待もせずに紙面へと視線を落とす。
見てみれば、それは某県の山奥にあるという、廃村の情報を載せたWebサイトをプリントアウトしたものだった。
その瞬間、私は何も言わずに席を立ち、両手を広げて彼女の懐へと飛び込んだ。が、かわされた。
くそぅ、可愛いやつめ。
「昨日たまたま見つけてねぇ。友人想いの私としては、これは見せてやらねば、と思った訳だよ、君」
ふふん、と偉そうに胸を張る彼女に私はまたしても無言の抱擁を試みたが、やっぱりかわされた。
くそぅ、可愛いやつめ。
∽
そうして高校最後の夏休み、自他共に認める廃村マニアな私は受験勉強などそっちのけでバイトに励み、今こうして某県の山中にいるという訳だ。
聞いた事もないような路線の電車を乗り継ぎ、まだこんな物が残っていたのかというようなバスに揺られる事丸一日。友人から貰った資料に書かれている廃村から一番近いという村で、私は一軒の民家に泊まらせてもらった。
民家には気のいい老人夫婦が住んでいたのだが、聞けば最近は年に一人か二人は私と同じような人が来るのだという。
パソコンが普及し、インターネットが一般的なものになってからは、今回私が友人から貰ったような情報も簡単に手に入れることが出来るようになったからなのか。
そうなのであれば、私個人としては嬉しくもある反面、少し物悲しくもある。
暴かれすぎた秘境は秘境ではない。そんな気がしてしまうのだ。
どんなに凄い手品でも、あらかじめネタが解っていては面白さも半減してしまう。
だからこそ、私は資料を渡された時も、廃村の場所が記載されている所だけを見て、他は全部見ずに友人へと返した。
私はその廃村がなんて名前の村だったのかも知らないし、どうして廃村となってしまったのかも知らない。
そういった事は、実際にその場所に行って、そしてその場所を知る人に聞いたりするから面白いのだ。
けれど、その情報が無ければここに来れなかったと思うと、どうにも複雑な心境になってしまう。
そんな私の話を、老夫婦は笑って聞いてくれていたし、同時に私の楽しみでもあるこの土地の話、そして明日向かう事になる廃村の事についても話してくれた。
曰く、件の集落が廃村になったのはもう百年以上前の事で、老夫婦にも廃村となる前に事はよく解らないという。
老夫婦が子供の頃には、親からあの場所に近づいてはいけないときつく言われていたらしく、集落にまだ人がいた頃の事を知っている人間がいなくなってしまった今となってはもう、その存在を覚えている人自体がほとんど居ないのだそうだ。
私と同じようにかの廃村を訪れた人が言うには、集落の家々は既にほとんどが全壊していて、まともに形を残している物は少なく、あったとしても草木に覆われてほとんど見分けがつかないような状態になっているとの事だった。
その話を聞いた時、私は少なからず落胆し、深く息を吐いた。
老夫婦の話から察するに、件の集落はもうほとんど野山の中に埋もれてしまっているかもしれないからだ。
私は廃村を見に来たのであって、山や遺跡を見に来た訳ではない。
だが、そんな私を見てお爺さんは何かを思い出したように、そういえば、と口を開いた。
「まだ子供の頃だったか。ちょうど今日みたいな夏の暑い日に、一度親の目を盗んで子供達と一緒に行った事があるんだ」
その言葉に、私は俯かせていた顔を上げて、お爺さんの方を見る。
と、お爺さんは私の反応を見て目を細めると、ほっほ、と宿を貸してほしいと頼んだ時と同じ、気のいい笑みを見せた。
「当時はまだ集落もほとんどそのまま残っていて、誰もいないその場所が秘密の隠れ里のように見えてなぁ……」
元々話す事が好きなのだろう。そのままお爺さんはゆっくりと、しわがれた声にその時の思い出を乗せて話してくれた。
不思議とその言葉はすんなりと私の耳に入り、まるでその場に自分も居たかのような錯覚を起こす。
腰まで伸びた草を掻き分けて、道なき道を走っていって。山の谷間にひっそりと佇む、集落を見つけてはしゃぎ声を上げる子供達。
頬を伝う汗を拭う事も忘れて我先にと坂道を駆け下りていけば、突然の来訪者に驚いたのか、野兎が一羽、丸い尻尾を見せて跳ねていく。
舗装もされていない集落の道は、すっかり草に覆われて、住む者の居なくなった家の軒下では、涼を求めた猫が蹲っている。
「いい加減日も暮れそうだからと、皆で帰ろうとした時だったか……」
お爺さんの声に、私は遠い夏の日から一気に今へと連れ戻された。
今見たものは、一体なんだったのか。
確かに私はお爺さんの語るあの夏の日に、あの場所に立っていたのに。
思い返せば、それはまるで蜃気楼のような、夢うつつな幻。けれどそれがただの錯角には思えなくて、私は再びお爺さんの言葉に耳を傾けた。
「声が聞こえたんだ」
「声?」
「そう。確か……女の子の声だったかな、その時は男しかいなかったからな、不思議に思ったもんだ」
「それは他の子供達も?」
「いや、なんでかな、声が聞こえたのはワシだけだった」
おかげで少しばかり笑いものにされたよ、と続けて、お爺さんはまたほっほ、と笑い声を上げた。
結局そこで話はお開きとなり、私は早めに寝る事にした。
田舎独特の、騒がしくも静かな、そんな一見矛盾した虫達の声を聴きながら、私は布団の中から格子窓の向こうに見える、星空を眺めていた。
お爺さんが聞いたという声の正体がなんだったのかという事も気にはなったが、別に霊現象だのなんだのに興味があるという事もないし、もしそんな事があれば、友人へのいい土産話になるだろう。
そして朝、夏の朝日が顔を出した頃に私は老夫婦に一宿一飯の礼を言って、その村を後にした。
しかし、村を出てすぐに、私はやっぱり昨日の晩にお爺さんの話を聞いて見たものはたんなる錯覚に過ぎないという事を身に染みて感じていた。
腰まで伸びた草は邪魔以外の何者でもないし、照りつける夏の太陽は容赦なく体力を奪っていく。
こういった事をするのは初めてではないとはいえ、かといって慣れるものでもない。
こうなると、いざという時のために用意してきた様々な物が詰まったリュックサックが恨めしくもなってくるが、土地勘のある地元民ならともかく、余所者な自分としては準備は過ぎたくらいがちょうどいい。
ただでさえ、今回の目的地である廃村は朝に発った村からも離れに離れた山の中。遭難してしまえば命に関わってくる。
お爺さんが子供の頃に行った時には、まだ集落にまで続く道が少し残っていたらしいのだが、今となってはそれも草に埋もれて野山に還ってしまっていた。
歩いては地図を広げ、また歩いては地図を広げ、そんな事をしている内に、何時の間にやら村を出た時には顔を出したばかりだった太陽が、青い空の真ん中に浮かんでいた。
「くそぅ、なんて時代だ――」
私は気ままに空を飛んでいるトンビによく解らない悪態をつき、一旦休憩しようとリュックサックを肩から降ろした。
どれだけ便利な時代になったところで、結局最後は自分の体が物を言うのだ。
度々廃村を訊ねるために全国各地へ飛び回っているとはいえ、現代の便利な生活に首までどっぷりと浸かってしまった身としては中々にキツイ。
廃村巡りから帰る度に、今度こそ体力をつけようとは思っているのだが、思うだけで終わってしまう自分が毎度の事ながら恨めしい。
水筒から注いだ水を飲み、栄養食を頬張ったところで、再びぱんぱんに膨れ上がったリュックサックを背負い立つ。
お爺さんが言うには、小さな神社が見えたら集落まではもうすぐとの事だったが、未だにその影すらも見当たらない。
相変わらずけたたましく響く蝉の声を聞きながら、私は腕に巻いた時計を見る。
時刻は11時10分。なるほどどうして、じっとしていも汗が滲み出る訳だ。
神社に着いたら昼ご飯を食べよう。そう決めて、私は再び一歩を踏み出した。
そうしてどれほど歩いただろうか。
進めど進めど周りの景色が変わる事はなく。それが私の体力を更に消耗させていく。
相変わらず蝉は五月蝿いし、一歩進む度に飛び跳ねていく虫は邪魔だし、トンビはずぐるぐる回ってるし、って言うかさっきからずっと私の上を飛んでないか?
それでなくても足は痛いし、喉は渇くし、荷物は重いし、何より暑いし。
「あーもー!」
未だ辿り着けない目的地に想いを馳せる事もなく、私は叫ぶと一気に走り出した。
「大介のばかやろー!」
そうだ。こんなに暑いのも蝉が五月蝿いのも足が痛いのも、ついでに一学期の期末考査があんな結果だったのも、全部あのトンビの大介(命名:私)が悪いんだ。そうだ、そうに違いない。あいつさえいなければ――
「あうっ」 どべちっ
そんな事を思った瞬間、なんともまぁ情けない音を立てて私は地面に倒れこんでいた。
言っておくが、躓いた訳ではない。
この年になって足元不注意で躓いて転びましただなんて、そんな事は無いのだ。
ならばなんなのか。
こういう時は焦ってはいけない。焦っては事を仕損じる。欲しがりません勝つまでは。
そうだ、まずは深呼吸だ。
「うわっ……は、鼻に土が……っ」
慌てて起き上がり、鼻に入った土を思い切り吹き飛ばす。
……いいよね、誰も見てないし。
そうして心身共に平穏を取り戻したところで、改めて回れ右。私をこんな目に遭わせたものは一体なんだったのか、それを確かめるために私は足元を見下ろした。
大介が遠隔攻撃を放ち、それが見事にクリーンヒット。というのが私の予想だったのだが、まさかそんなファンタジーな予想が当たるはずもなく。
「あれ? これって……」
見ると、そこには土の中から石が顔を出していた。
すいません、結局躓いただけでした。
「いや、そうじゃなくて」
モグラが穴の中から出てきたように顔を出す石。でも私にはそれがただの石には見えなくて。考えるよりも先に膝をつき、手が汚れるのも構わずに『それ』を覆っていた土を削り取っていく。
やがて全貌を現した『それ』を見て、私は思わず両手を天に向けて突き上げた。
「見たか大介! 私はやったぞー!」
そんな私の声が届いたのか、蝉達の大合唱の合間から大介の鳴き声が聞こえてきた。
空は変わらず青く、そろそろ一番高い場所に届きそうな太陽が見下ろすその先で、久しぶりに日の目を見たそれは燦然と輝いている。
四角く切り出されたそれは明らかに人工の物で。という事は、つまり。
「……神社というより、庵?」
右手を向くと、そこには半場草木に覆われてはいたが、確かに社のような建物があった。
百年以上も放置されていた社はすっかりと朽ちてしまっている。周りに伸びた木の幹や枝を支えにようやく建っているといった按配で、とてもではないが何かのご利益があるようには見えなかった。
私は立ち上がると服についた汚れを軽く払って、ぐるりと周りを見回してみる。
夢中で走っていて気付かなかったが、いつの間にか森のようになっていた木々はなくなり、神社の周りは少しだけ開けた場所になっていた。
足元には斑ではあるが石畳が残っていて、さっき躓いたのはこれの一つだったという訳だ。
社の反対、私が飛び出してきた所から見て左を向けば、そこにはこの神社の入り口を示す大きな鳥居。
流石にこちらはしっかりと形を保ってはいたが、かつては朱に塗られていたのであろう柱も今はすっかりと色が褪せていた。
「専――なんだろ?」
鳥居に飾られた、恐らくこの神社の名前が書いてあったのであろう物も、今となってはおぼろげにしか読み取る事は出来ない。
しかし、神社でここまでの事になっているとすれば、集落は今どうなっているのだろうか。昨日危惧した通り、下手をすれば最早廃村を通り越して遺跡と化しているかもしれない。
だが、そんな私の心配は鳥居を潜ったところで一瞬で吹き飛んでしまった。
「わぁ……」
神社はどうやら高台にあったらしく、私が今立っている場所からは辺り一帯が一望出来た。
山の合間に小さな盆地が広がっていて、その中心に小さくではるが家のような物が見えて、私は慌てて荷物の中から双眼鏡を取り出した。
「よし、ビンゴッ!」
ぐっと拳を握り、私は逸る気持ちを抑えようともせずに颯爽と神社を後にした……と思ったのだが。
「おぉぅ!?」
そりゃまぁ、高台にあるんだから普通に考えれば鳥居まで階段なり坂道なりが続いているのだろう。
まず最初に、神社の社が逆さに見えた。
次に、青の中を悠々と滑る大介が見えた。
その次に、星が見えた。
∽
「う、ん……」
痛いぐらいの日差しに開きかけた瞼を閉じて、そのまま上体を起こす。
そのまま風に任せてゆらゆらと揺られていると、一緒に運ばれてきた草の匂いが鼻腔いっぱいに広がって。それにつられて少しずつ今の状況が頭の中に広がっていく。
目を開けて後ろを振り向いてみると、見上げた先に小さく鳥居が見えていた。
よっといせ、と声を上げて立ち上がる。右手、左手、右足、左足。首を回して上体を捻って。打ち身の痛みはあるものの、これといって大きな怪我も見当たらず。どうやらぱんぱんに膨れ上がったリュックサックがクッション代わりになったらしい。
我ながら運がいいのか悪いのか。
腕時計を見てみれば、時刻は13時20分。どうやら気を失っていたのは短い時間のようだった。
「そういえば、前に行った所では川に落ちたっけなぁ……」
相変わらず蝉は五月蝿いし、一歩進めばバッタやらカマキリやらが一斉に飛び退いていく。
大介はよほど暇なのか、まだ私の上をぐるぐると回っていた。
「ゆっくり行くかー」
よっと背中のリュックを背負いなおして、私は神社から見えた集落へと一歩を踏み出した。
結論から言うと、果たして集落は私の期待に応える見事な廃村っぷりだった。
残された家屋はどれも昔の日本を感じさせる作りで、一瞬時代さえをも飛び越えてしまったような感じを受けた。
到着するやいなや、私はそれまでの疲れも忘れてカメラを片手に集落の中を駆け回り、気付けば予備のメモリーまでもがデータで埋まってしまっていた。
「ちょっと、休憩しようかな」
その言葉を待ちわびていたように、私のお腹が蝉の大合唱にも負けるもんかと鳴り響き、そしてまたそれに負けるもんかと、遙かな空から大介の鳴き声が聞こえてきた。
「あれ、でも荷物ってどこに置いたっけな……」
恐らくは集落の入り口に置いたのだとは思うのだけども、その入り口がどこだか解らない。
集落は決して広いとは言えないが、狭いとも言い切れない、微妙な広さだった。
神社と比べると、本当に同じ時代から放置されていたのかと思ってしまうくらいに家々はその形を残し、さもすれば今も誰かがいるのではないか、なんて事も思ってしまう。
私は鳴り響くお腹をさすりながら、腕時計に視線を落とす。
時刻は14時05分。一日の中で最も暑い時間帯。
「参ったな……水も荷物の中か……」
思えば一度休憩した時に栄養食を食べてから、何も口にしていない。
まだまだ夏は終わる気はないらしく、日差しの強さも相まって、山の中とはいえ気温は十分に高かった。
蝉の声に頭が揺さぶられたのか、目に映る景色もどこかゆらゆらと揺れている。
「空腹、貧血、脱水……完璧じゃない」
灼熱の太陽が作り出す白と黒の世界。
自分の荒い息に危機感を覚えつつも、頭は中々働こうとはしてくれない。
右か、左か、果たして自分はどちらから歩いてきたのか。
「……あれ?」
不意に、私は足を止めた。
刺すような日差しは今も私の体力を容赦なく奪い、ただ自分の荒い呼吸だけが繰り返し、繰り返し。
空を見上げる。
燦然と輝く太陽に気圧されてか、辺りに雲は見えなくて。いつの間に居なくなったのか、大介の姿も見えなくなっていた。
「……あれぇ?」
居なくなっていたのは、大介だけではなかった。
周りを見回してみる。
あれほど五月蝿く鳴いていた蝉達の声が、たったの一つも聞こえてこなかった。
その時、視界の端に何かが見えたような気がして、私はそちらへと首を向けた。
「ねこ……?」
見るとそこには一匹の黒い猫が座っていて、じっと私の事を見つめていた。
こんな時期にそんな真っ黒で暑そうだな、なんてまるで関係の無い事が頭の中をよぎっていく。
先ほどから視界が揺れていた所為だろうか、猫の姿も揺らいで見えて、まるで尾が二本あるかのように見えてしまう。
と、猫はついを私に背を向けると、そのまま廃屋の影へと消えていってしまった。
「猫は、涼しい所を、知っている……」
どこで聞いた知識だったか、私はふらふらとした足取りで、猫の消えた廃屋へと向かっていった。
猫の曲がっていった角を曲がると、猫はまた一つ先の角を曲がる所だった。
そのまま右へ、左へ、右へ、左へ――
「ほへ?」
いくつ目かの角を曲がったところで、先を歩いていたはずの猫の姿が忽然と消えていた。
目の前には地主の家だったのだろうか、他の家よりも一際大きな、屋敷と言っても過言ではないような建物があった。
「……こんなにしっかりしてたっけな」
集落の中は一通り全部見て回ったし、もちろんこの場所にもさっきも来たはずなのに。
どうしてだろうか、何故だか今立っている場所はさっきとは違う場所のように思えた。
これも日差しにやられた所為なのか?
さっきの猫は屋敷の中に入ったのだろうか。そう思って歩みを進めると、じゃりと足元に敷き詰められた小石を踏み鳴らす音が聞こえた。
「もっと、雑草が生えてなかったかなぁ……」
顔を上げてみれば、いつの間にか聞こえなくなっていたはずの蝉の声が聞こえてきて。
けれど空を見上げてみても、大介の姿はどこにもなかった。
「これはこれは、珍しいお客さんが来ましたね」
「え……?」
何時の間に現れたのか、屋敷の前には私よりもまだ全然年下の女の子が先ほどの黒猫を抱いて立っているではないか。
十秒、二十秒、もっと経っただろうか。次第に頭の中で今の状況が整理されて、そこでようやく私は今聞こえてきたのが少女の声だったという事に気がついた。
それでも何が起こったのかを理解するにまで頭は回ってはくれなくて。まるでカカシのように立ち尽くす私を見て、少女がくすりと笑みを零す。
「大分暑さにやられているみたいですし、どうです? お茶でも」
そう言うと、少女は猫を抱いたまま踵を返し、家の中へと消えてしまった。
それでも私はまだ何が起こったのか解らないまま。ただこれ以上夏の陽光の下にいるのは危険だと頭が判断し、誘われるように家の中へと足を踏み入れた。
何がどうなっているのかサッパリ解らない。そもそもここは廃村ではなかったのか。
そんな事を思いながら、私は日頃の染み付いた習慣に倣って律儀に靴を脱ぎ、無意識の内にお邪魔しますと声を出してしまう。
屋敷の中はもちろんではあるがきちんと屋根があり、灼熱の太陽も流石にここまでは照らし出す事が出来ずにいた。
風の通り道が造られているのか、夏の昼間だと言うのに廊下は涼しく、すっかりとのぼせ上がってしまっていた私の頭を冷やしてくれた。
そのおかげで、私は少しではあるが冷静さを取り戻す事が出来た。
改めて前を歩く少女を見てみる。
背は低い、というか小さい。
下は赤い袴で、上は緑の襟に花模様の描かれた黄色の袖という、和装にしては随分と色彩豊かな服な気がする。
それでも、肩下まで伸びた黒い髪と、少し見ただけではあったが顔立ちも整っていて。市松人形のようだ、という言葉はきっと彼女のような娘の事を言うのだろう、とそんな事がぼんやりと頭の中を巡っていた。
「それでは、こちらでお待ちいただけますか」
言われて案内された先は、一見すると何の変哲もない和室だった。
私は逆らう事も出来なくて、ただ促されるがままに部屋に入り、和机に添えられた座布団に腰を下ろしてしまう。
暫くお待ちを、と言って少女が立ち去れば、部屋に残されたのは私と例の黒猫だけ。
「おーい、真琴ぉ。何がどうなってるんだー?」
私は隣の座布団で丸くなっている猫の真琴(命名:私)に訊ねてみるが、真琴は耳をぴくりと動かしただけで、何も答えてはくれなかった。
部屋の中をぐるりと見回してみても、これといって何もなく。入ってきた襖の反対側はそのまま縁側になっていて、開け放たれた先にはこれまた広い庭が広がっていた。
相変わらず蝉達の声は聞こえてきてはいるものの、何故だかあまり聞き覚えのないような鳴き声が聞こえた気がして、私は目を閉じて耳を澄ませてみる。
と、
「お待たせしました」
不意に声が聞こえてきて、私はあっさりと現実に引き戻されてしまった。
振り返ってみると、ちょうど先ほどの少女が部屋に入ってくるところで。襖の開け閉め一つにしてもえらく丁寧で、私はやっぱり市松人形だなぁ、などと思ってしまう。
「どうぞ」
「あ、こりゃどうも……」
差し出された麦茶はよく冷えていて。頭の片隅で怪しいとは思いつつも、ついつい湯飲みを傾けてしまい、気付いた時には既に湯飲みは空になっていた。
「あなたは……」
それを機と見たのか、少女が探るような眼差しを私に向けた。
「ここへは、何をしに?」
「私は……廃村があるって聞いて……」
廃村、と私の言葉を繰り返して、少女は何かを考えるように顎に手を当てて顔を俯かせた。
「あぁなるほど、ここは外からだとそんな風に見えているんですね」
「外?」
「いえ、こちらの話です。でも、という事は、大方そこの猫に連れられてきたというところですか」
自分の事だと気付いたのか、真琴がひょいと首を上げたものの、すぐにまた丸まってしまった。
ますます訳が解らない。この猫が一体なんだと言うのだろうか。
解る事と言えば、とりあえず猫の尻尾は一本だったという事くらいなものだ。
「その子は何故だかここと外を行き来できるみたいでして、恐らくその通り道が塞がる前にあなたが通ってしまったのでしょう」
「あの、もう少し解りやすく……」
「お茶は美味しかったですか?」
「はぇ?」
いきなり話を振られたような形になって、私は思わず湯飲みを手に取り、麦茶を一気に飲み干してしまった。
うん、美味しい。
「そうですか。それはよかった」
まるで作り物のような笑顔を見せて、少女はすっと音も立てずに立ち上がる。
「私個人としてはもう少し色々と聞きたいところではあるのですが」
そして私に背を向けて、これまた音もなく襖を横へと滑らせた。
「私も中々自由に出来る事が少ない身でして」
少女は変わらず笑っている。
だが、その瞳は私に去れと言っていた。
「今回は私の側の不手際でもありますし、どうぞあの方に見つかる前にお帰りください」
「あの方?」
聞き返してはみたものの、少女は薄く微笑んだまま。
「ここは幻想の里。本来であれば、あなた達が足を踏み入れるべきではない所なのですよ」
それでも私がどうしたものかと考えあぐねいていると、今まで座布団の上で丸まっていた真琴がしたっと立ち上がり、少女の開けた襖から廊下へと出て行ってしまった。
「私も玄関までお送りしましょう」
少女が襖を開けたからだろうか。縁側から吹き込んだ涼しい風に、吊るされていた風鈴がりんと鳴った。
それが自分の中で切欠になったのか、私はどこか釈然としないながらも立ち上がり、真琴と少女の後に続いて廊下を歩く。
玄関までの短い距離。少女は背を向けたまま、その歩みは淀みなく。何かを言おうとしたけど、何をどう言ったらいいのかが解らずに、ただ少女と真琴の背中を見ている事しか出来ずにいた。
「もし……」
靴を履いて、真琴と一緒に玄関を出たところで、不意に少女が声をかけてきた。
「いや、これは意味のない質問ですね。忘れてください」
「はぇ?」
だけど、私が振り向いた時には、そこにはもう少女の姿はどこにもなくて。
古びた木造建築がその骨組みを露にし、足元には膝まで届くような雑草が生い茂り。
耳に響く蝉の声は聞きなれた夏のそれで。その合間を縫うように、どこからかトンビの鳴き声が私の耳に届いた。
「あ、れ?」
見上げてみれば、そこには懐かしい大介の姿があった。
日差しが眩しくて翳した左手。その手首には一本の腕時計。
「14時05分……」
私は考える。
少女は果たして何者だったのか。そしてあの場所はどこだったのか。
もし彼女の話が本当なのだとしたら、この世界には実はもう一つの世界があって、そこでは彼女達のような人々が今も生活をしているのだろうか。
「……まさかそんな、ファンタジーじゃあるまいし」
しかし、世の中にはトンビの遠隔攻撃はなくとも、不思議な別世界というものは割とあったりするのかもしれない。
「おぉ?」
たとえばそう、放り出された荷物の上に見覚えのない包みが一つ、ちょこんと乗っていたりとか。
∽
「で、これがそのお土産、と」
「そうそう」
二学期初日の教室は、一学期の終業式の日にも勝るとも劣らない喧騒の中にあった。
日に焼けた運動部の男子達がその黒さを競う横で、休みの間にばっさりと髪を切った女子を他の女子が数人で囲み、何やらきゃーきゃーと騒いでいる。
夏はまだまだ頑張るつもりらしく、ビルの合間からは綿菓子みたいな入道雲が高く伸びて、開いた窓からは相変わらずの蝉の合唱が響いてきていた。
私はといえば、教室に入るといの一番に彼女の元へ行って例の『お土産』を見せたのだが。
「って言っても、これただの麦茶じゃない」
そう言って、彼女は『幻想のお茶』を事も無げにあっさりと飲み干してしまった。
その後はもう暖簾に腕押しのような状態で、私がどれだけ熱く語っても、彼女は適当に返事をするばかり。
そんな私達の事など知った事ではないとでもいう風に、校舎の影で丸まっていた黒猫がにゃぁと鳴き、青い空にはトンビが一羽、気ままにくるくると回っていた。
「だーかーらぁっ!」
「はいはい、後でまたゆっくりと聞いてあげるから」
くそぅ、なんて時代だ――
額に滲み出る汗を拭いながら、私はそんな事を思っていた。
見上げた空はどこまでも青く、蒼く。綿菓子みたいな雲の間を、トンビが気ままに飛んでいる。
調和もなにもない、皆が負けじと自己主張を繰り返す蝉の声を聞きながら、一旦休憩しようとぱんぱんに膨れ上がったリュックサックを肩から下ろした。
∽
「ほらこれ、あんたこういうの好きでしょ?」
高校三年、最後の夏休み、その前日。
なぜ終業式のためだけに登校しなければならないのか。そんなものは最後の授業が終わった後に済ませてしまえばいいのではないのか。
そんな事を考えながら教室のドアを開け、明日から始まる長い夏休みを想って騒ぐ級友達を尻目に自分の席へと座った私を待っていたのは、友人のそんな一言だった。
「なに? これ」
受け取りながら聞いてみるが、彼女は答えない。代わりにその目が「まぁ見れば解るって」などと語っている。
彼女の事だ、またくだらない考察系サイトの論文でも持ってきたのだろう。
前回は焼き飯とチャーハンの違いについて延々と書かれた物だったし、その前は玉子焼きには何をかけるのが一番理想的か、なんて物だった。ネコ耳と狐耳の百年戦争、なんてタイトルがついていた時には、思わずそのままゴミ箱にダンクシュートを決めてしまったものだ。
恥ずかしい話ではあるが、私は未だにパソコンなんて物は持っていない。
今となっては一家に一台はあるであろうものだが、私の場合は単純にパソコンを買うだけの金銭的余裕が無いのだ。
だからか、彼女は時折面白そうな、というよりくだらないサイトを見つけては、それを律儀にプリントアウトして私に渡してくる。
極稀に、本当に感心するような事が書かれた物を持ってくる事もあるのだが、大抵はどこの暇人かと思ってしまうようなものばかり。
今回もまたそんな物なのだろうと思って、私は得に期待もせずに紙面へと視線を落とす。
見てみれば、それは某県の山奥にあるという、廃村の情報を載せたWebサイトをプリントアウトしたものだった。
その瞬間、私は何も言わずに席を立ち、両手を広げて彼女の懐へと飛び込んだ。が、かわされた。
くそぅ、可愛いやつめ。
「昨日たまたま見つけてねぇ。友人想いの私としては、これは見せてやらねば、と思った訳だよ、君」
ふふん、と偉そうに胸を張る彼女に私はまたしても無言の抱擁を試みたが、やっぱりかわされた。
くそぅ、可愛いやつめ。
∽
そうして高校最後の夏休み、自他共に認める廃村マニアな私は受験勉強などそっちのけでバイトに励み、今こうして某県の山中にいるという訳だ。
聞いた事もないような路線の電車を乗り継ぎ、まだこんな物が残っていたのかというようなバスに揺られる事丸一日。友人から貰った資料に書かれている廃村から一番近いという村で、私は一軒の民家に泊まらせてもらった。
民家には気のいい老人夫婦が住んでいたのだが、聞けば最近は年に一人か二人は私と同じような人が来るのだという。
パソコンが普及し、インターネットが一般的なものになってからは、今回私が友人から貰ったような情報も簡単に手に入れることが出来るようになったからなのか。
そうなのであれば、私個人としては嬉しくもある反面、少し物悲しくもある。
暴かれすぎた秘境は秘境ではない。そんな気がしてしまうのだ。
どんなに凄い手品でも、あらかじめネタが解っていては面白さも半減してしまう。
だからこそ、私は資料を渡された時も、廃村の場所が記載されている所だけを見て、他は全部見ずに友人へと返した。
私はその廃村がなんて名前の村だったのかも知らないし、どうして廃村となってしまったのかも知らない。
そういった事は、実際にその場所に行って、そしてその場所を知る人に聞いたりするから面白いのだ。
けれど、その情報が無ければここに来れなかったと思うと、どうにも複雑な心境になってしまう。
そんな私の話を、老夫婦は笑って聞いてくれていたし、同時に私の楽しみでもあるこの土地の話、そして明日向かう事になる廃村の事についても話してくれた。
曰く、件の集落が廃村になったのはもう百年以上前の事で、老夫婦にも廃村となる前に事はよく解らないという。
老夫婦が子供の頃には、親からあの場所に近づいてはいけないときつく言われていたらしく、集落にまだ人がいた頃の事を知っている人間がいなくなってしまった今となってはもう、その存在を覚えている人自体がほとんど居ないのだそうだ。
私と同じようにかの廃村を訪れた人が言うには、集落の家々は既にほとんどが全壊していて、まともに形を残している物は少なく、あったとしても草木に覆われてほとんど見分けがつかないような状態になっているとの事だった。
その話を聞いた時、私は少なからず落胆し、深く息を吐いた。
老夫婦の話から察するに、件の集落はもうほとんど野山の中に埋もれてしまっているかもしれないからだ。
私は廃村を見に来たのであって、山や遺跡を見に来た訳ではない。
だが、そんな私を見てお爺さんは何かを思い出したように、そういえば、と口を開いた。
「まだ子供の頃だったか。ちょうど今日みたいな夏の暑い日に、一度親の目を盗んで子供達と一緒に行った事があるんだ」
その言葉に、私は俯かせていた顔を上げて、お爺さんの方を見る。
と、お爺さんは私の反応を見て目を細めると、ほっほ、と宿を貸してほしいと頼んだ時と同じ、気のいい笑みを見せた。
「当時はまだ集落もほとんどそのまま残っていて、誰もいないその場所が秘密の隠れ里のように見えてなぁ……」
元々話す事が好きなのだろう。そのままお爺さんはゆっくりと、しわがれた声にその時の思い出を乗せて話してくれた。
不思議とその言葉はすんなりと私の耳に入り、まるでその場に自分も居たかのような錯覚を起こす。
腰まで伸びた草を掻き分けて、道なき道を走っていって。山の谷間にひっそりと佇む、集落を見つけてはしゃぎ声を上げる子供達。
頬を伝う汗を拭う事も忘れて我先にと坂道を駆け下りていけば、突然の来訪者に驚いたのか、野兎が一羽、丸い尻尾を見せて跳ねていく。
舗装もされていない集落の道は、すっかり草に覆われて、住む者の居なくなった家の軒下では、涼を求めた猫が蹲っている。
「いい加減日も暮れそうだからと、皆で帰ろうとした時だったか……」
お爺さんの声に、私は遠い夏の日から一気に今へと連れ戻された。
今見たものは、一体なんだったのか。
確かに私はお爺さんの語るあの夏の日に、あの場所に立っていたのに。
思い返せば、それはまるで蜃気楼のような、夢うつつな幻。けれどそれがただの錯角には思えなくて、私は再びお爺さんの言葉に耳を傾けた。
「声が聞こえたんだ」
「声?」
「そう。確か……女の子の声だったかな、その時は男しかいなかったからな、不思議に思ったもんだ」
「それは他の子供達も?」
「いや、なんでかな、声が聞こえたのはワシだけだった」
おかげで少しばかり笑いものにされたよ、と続けて、お爺さんはまたほっほ、と笑い声を上げた。
結局そこで話はお開きとなり、私は早めに寝る事にした。
田舎独特の、騒がしくも静かな、そんな一見矛盾した虫達の声を聴きながら、私は布団の中から格子窓の向こうに見える、星空を眺めていた。
お爺さんが聞いたという声の正体がなんだったのかという事も気にはなったが、別に霊現象だのなんだのに興味があるという事もないし、もしそんな事があれば、友人へのいい土産話になるだろう。
そして朝、夏の朝日が顔を出した頃に私は老夫婦に一宿一飯の礼を言って、その村を後にした。
しかし、村を出てすぐに、私はやっぱり昨日の晩にお爺さんの話を聞いて見たものはたんなる錯覚に過ぎないという事を身に染みて感じていた。
腰まで伸びた草は邪魔以外の何者でもないし、照りつける夏の太陽は容赦なく体力を奪っていく。
こういった事をするのは初めてではないとはいえ、かといって慣れるものでもない。
こうなると、いざという時のために用意してきた様々な物が詰まったリュックサックが恨めしくもなってくるが、土地勘のある地元民ならともかく、余所者な自分としては準備は過ぎたくらいがちょうどいい。
ただでさえ、今回の目的地である廃村は朝に発った村からも離れに離れた山の中。遭難してしまえば命に関わってくる。
お爺さんが子供の頃に行った時には、まだ集落にまで続く道が少し残っていたらしいのだが、今となってはそれも草に埋もれて野山に還ってしまっていた。
歩いては地図を広げ、また歩いては地図を広げ、そんな事をしている内に、何時の間にやら村を出た時には顔を出したばかりだった太陽が、青い空の真ん中に浮かんでいた。
「くそぅ、なんて時代だ――」
私は気ままに空を飛んでいるトンビによく解らない悪態をつき、一旦休憩しようとリュックサックを肩から降ろした。
どれだけ便利な時代になったところで、結局最後は自分の体が物を言うのだ。
度々廃村を訊ねるために全国各地へ飛び回っているとはいえ、現代の便利な生活に首までどっぷりと浸かってしまった身としては中々にキツイ。
廃村巡りから帰る度に、今度こそ体力をつけようとは思っているのだが、思うだけで終わってしまう自分が毎度の事ながら恨めしい。
水筒から注いだ水を飲み、栄養食を頬張ったところで、再びぱんぱんに膨れ上がったリュックサックを背負い立つ。
お爺さんが言うには、小さな神社が見えたら集落まではもうすぐとの事だったが、未だにその影すらも見当たらない。
相変わらずけたたましく響く蝉の声を聞きながら、私は腕に巻いた時計を見る。
時刻は11時10分。なるほどどうして、じっとしていも汗が滲み出る訳だ。
神社に着いたら昼ご飯を食べよう。そう決めて、私は再び一歩を踏み出した。
そうしてどれほど歩いただろうか。
進めど進めど周りの景色が変わる事はなく。それが私の体力を更に消耗させていく。
相変わらず蝉は五月蝿いし、一歩進む度に飛び跳ねていく虫は邪魔だし、トンビはずぐるぐる回ってるし、って言うかさっきからずっと私の上を飛んでないか?
それでなくても足は痛いし、喉は渇くし、荷物は重いし、何より暑いし。
「あーもー!」
未だ辿り着けない目的地に想いを馳せる事もなく、私は叫ぶと一気に走り出した。
「大介のばかやろー!」
そうだ。こんなに暑いのも蝉が五月蝿いのも足が痛いのも、ついでに一学期の期末考査があんな結果だったのも、全部あのトンビの大介(命名:私)が悪いんだ。そうだ、そうに違いない。あいつさえいなければ――
「あうっ」 どべちっ
そんな事を思った瞬間、なんともまぁ情けない音を立てて私は地面に倒れこんでいた。
言っておくが、躓いた訳ではない。
この年になって足元不注意で躓いて転びましただなんて、そんな事は無いのだ。
ならばなんなのか。
こういう時は焦ってはいけない。焦っては事を仕損じる。欲しがりません勝つまでは。
そうだ、まずは深呼吸だ。
「うわっ……は、鼻に土が……っ」
慌てて起き上がり、鼻に入った土を思い切り吹き飛ばす。
……いいよね、誰も見てないし。
そうして心身共に平穏を取り戻したところで、改めて回れ右。私をこんな目に遭わせたものは一体なんだったのか、それを確かめるために私は足元を見下ろした。
大介が遠隔攻撃を放ち、それが見事にクリーンヒット。というのが私の予想だったのだが、まさかそんなファンタジーな予想が当たるはずもなく。
「あれ? これって……」
見ると、そこには土の中から石が顔を出していた。
すいません、結局躓いただけでした。
「いや、そうじゃなくて」
モグラが穴の中から出てきたように顔を出す石。でも私にはそれがただの石には見えなくて。考えるよりも先に膝をつき、手が汚れるのも構わずに『それ』を覆っていた土を削り取っていく。
やがて全貌を現した『それ』を見て、私は思わず両手を天に向けて突き上げた。
「見たか大介! 私はやったぞー!」
そんな私の声が届いたのか、蝉達の大合唱の合間から大介の鳴き声が聞こえてきた。
空は変わらず青く、そろそろ一番高い場所に届きそうな太陽が見下ろすその先で、久しぶりに日の目を見たそれは燦然と輝いている。
四角く切り出されたそれは明らかに人工の物で。という事は、つまり。
「……神社というより、庵?」
右手を向くと、そこには半場草木に覆われてはいたが、確かに社のような建物があった。
百年以上も放置されていた社はすっかりと朽ちてしまっている。周りに伸びた木の幹や枝を支えにようやく建っているといった按配で、とてもではないが何かのご利益があるようには見えなかった。
私は立ち上がると服についた汚れを軽く払って、ぐるりと周りを見回してみる。
夢中で走っていて気付かなかったが、いつの間にか森のようになっていた木々はなくなり、神社の周りは少しだけ開けた場所になっていた。
足元には斑ではあるが石畳が残っていて、さっき躓いたのはこれの一つだったという訳だ。
社の反対、私が飛び出してきた所から見て左を向けば、そこにはこの神社の入り口を示す大きな鳥居。
流石にこちらはしっかりと形を保ってはいたが、かつては朱に塗られていたのであろう柱も今はすっかりと色が褪せていた。
「専――なんだろ?」
鳥居に飾られた、恐らくこの神社の名前が書いてあったのであろう物も、今となってはおぼろげにしか読み取る事は出来ない。
しかし、神社でここまでの事になっているとすれば、集落は今どうなっているのだろうか。昨日危惧した通り、下手をすれば最早廃村を通り越して遺跡と化しているかもしれない。
だが、そんな私の心配は鳥居を潜ったところで一瞬で吹き飛んでしまった。
「わぁ……」
神社はどうやら高台にあったらしく、私が今立っている場所からは辺り一帯が一望出来た。
山の合間に小さな盆地が広がっていて、その中心に小さくではるが家のような物が見えて、私は慌てて荷物の中から双眼鏡を取り出した。
「よし、ビンゴッ!」
ぐっと拳を握り、私は逸る気持ちを抑えようともせずに颯爽と神社を後にした……と思ったのだが。
「おぉぅ!?」
そりゃまぁ、高台にあるんだから普通に考えれば鳥居まで階段なり坂道なりが続いているのだろう。
まず最初に、神社の社が逆さに見えた。
次に、青の中を悠々と滑る大介が見えた。
その次に、星が見えた。
∽
「う、ん……」
痛いぐらいの日差しに開きかけた瞼を閉じて、そのまま上体を起こす。
そのまま風に任せてゆらゆらと揺られていると、一緒に運ばれてきた草の匂いが鼻腔いっぱいに広がって。それにつられて少しずつ今の状況が頭の中に広がっていく。
目を開けて後ろを振り向いてみると、見上げた先に小さく鳥居が見えていた。
よっといせ、と声を上げて立ち上がる。右手、左手、右足、左足。首を回して上体を捻って。打ち身の痛みはあるものの、これといって大きな怪我も見当たらず。どうやらぱんぱんに膨れ上がったリュックサックがクッション代わりになったらしい。
我ながら運がいいのか悪いのか。
腕時計を見てみれば、時刻は13時20分。どうやら気を失っていたのは短い時間のようだった。
「そういえば、前に行った所では川に落ちたっけなぁ……」
相変わらず蝉は五月蝿いし、一歩進めばバッタやらカマキリやらが一斉に飛び退いていく。
大介はよほど暇なのか、まだ私の上をぐるぐると回っていた。
「ゆっくり行くかー」
よっと背中のリュックを背負いなおして、私は神社から見えた集落へと一歩を踏み出した。
結論から言うと、果たして集落は私の期待に応える見事な廃村っぷりだった。
残された家屋はどれも昔の日本を感じさせる作りで、一瞬時代さえをも飛び越えてしまったような感じを受けた。
到着するやいなや、私はそれまでの疲れも忘れてカメラを片手に集落の中を駆け回り、気付けば予備のメモリーまでもがデータで埋まってしまっていた。
「ちょっと、休憩しようかな」
その言葉を待ちわびていたように、私のお腹が蝉の大合唱にも負けるもんかと鳴り響き、そしてまたそれに負けるもんかと、遙かな空から大介の鳴き声が聞こえてきた。
「あれ、でも荷物ってどこに置いたっけな……」
恐らくは集落の入り口に置いたのだとは思うのだけども、その入り口がどこだか解らない。
集落は決して広いとは言えないが、狭いとも言い切れない、微妙な広さだった。
神社と比べると、本当に同じ時代から放置されていたのかと思ってしまうくらいに家々はその形を残し、さもすれば今も誰かがいるのではないか、なんて事も思ってしまう。
私は鳴り響くお腹をさすりながら、腕時計に視線を落とす。
時刻は14時05分。一日の中で最も暑い時間帯。
「参ったな……水も荷物の中か……」
思えば一度休憩した時に栄養食を食べてから、何も口にしていない。
まだまだ夏は終わる気はないらしく、日差しの強さも相まって、山の中とはいえ気温は十分に高かった。
蝉の声に頭が揺さぶられたのか、目に映る景色もどこかゆらゆらと揺れている。
「空腹、貧血、脱水……完璧じゃない」
灼熱の太陽が作り出す白と黒の世界。
自分の荒い息に危機感を覚えつつも、頭は中々働こうとはしてくれない。
右か、左か、果たして自分はどちらから歩いてきたのか。
「……あれ?」
不意に、私は足を止めた。
刺すような日差しは今も私の体力を容赦なく奪い、ただ自分の荒い呼吸だけが繰り返し、繰り返し。
空を見上げる。
燦然と輝く太陽に気圧されてか、辺りに雲は見えなくて。いつの間に居なくなったのか、大介の姿も見えなくなっていた。
「……あれぇ?」
居なくなっていたのは、大介だけではなかった。
周りを見回してみる。
あれほど五月蝿く鳴いていた蝉達の声が、たったの一つも聞こえてこなかった。
その時、視界の端に何かが見えたような気がして、私はそちらへと首を向けた。
「ねこ……?」
見るとそこには一匹の黒い猫が座っていて、じっと私の事を見つめていた。
こんな時期にそんな真っ黒で暑そうだな、なんてまるで関係の無い事が頭の中をよぎっていく。
先ほどから視界が揺れていた所為だろうか、猫の姿も揺らいで見えて、まるで尾が二本あるかのように見えてしまう。
と、猫はついを私に背を向けると、そのまま廃屋の影へと消えていってしまった。
「猫は、涼しい所を、知っている……」
どこで聞いた知識だったか、私はふらふらとした足取りで、猫の消えた廃屋へと向かっていった。
猫の曲がっていった角を曲がると、猫はまた一つ先の角を曲がる所だった。
そのまま右へ、左へ、右へ、左へ――
「ほへ?」
いくつ目かの角を曲がったところで、先を歩いていたはずの猫の姿が忽然と消えていた。
目の前には地主の家だったのだろうか、他の家よりも一際大きな、屋敷と言っても過言ではないような建物があった。
「……こんなにしっかりしてたっけな」
集落の中は一通り全部見て回ったし、もちろんこの場所にもさっきも来たはずなのに。
どうしてだろうか、何故だか今立っている場所はさっきとは違う場所のように思えた。
これも日差しにやられた所為なのか?
さっきの猫は屋敷の中に入ったのだろうか。そう思って歩みを進めると、じゃりと足元に敷き詰められた小石を踏み鳴らす音が聞こえた。
「もっと、雑草が生えてなかったかなぁ……」
顔を上げてみれば、いつの間にか聞こえなくなっていたはずの蝉の声が聞こえてきて。
けれど空を見上げてみても、大介の姿はどこにもなかった。
「これはこれは、珍しいお客さんが来ましたね」
「え……?」
何時の間に現れたのか、屋敷の前には私よりもまだ全然年下の女の子が先ほどの黒猫を抱いて立っているではないか。
十秒、二十秒、もっと経っただろうか。次第に頭の中で今の状況が整理されて、そこでようやく私は今聞こえてきたのが少女の声だったという事に気がついた。
それでも何が起こったのかを理解するにまで頭は回ってはくれなくて。まるでカカシのように立ち尽くす私を見て、少女がくすりと笑みを零す。
「大分暑さにやられているみたいですし、どうです? お茶でも」
そう言うと、少女は猫を抱いたまま踵を返し、家の中へと消えてしまった。
それでも私はまだ何が起こったのか解らないまま。ただこれ以上夏の陽光の下にいるのは危険だと頭が判断し、誘われるように家の中へと足を踏み入れた。
何がどうなっているのかサッパリ解らない。そもそもここは廃村ではなかったのか。
そんな事を思いながら、私は日頃の染み付いた習慣に倣って律儀に靴を脱ぎ、無意識の内にお邪魔しますと声を出してしまう。
屋敷の中はもちろんではあるがきちんと屋根があり、灼熱の太陽も流石にここまでは照らし出す事が出来ずにいた。
風の通り道が造られているのか、夏の昼間だと言うのに廊下は涼しく、すっかりとのぼせ上がってしまっていた私の頭を冷やしてくれた。
そのおかげで、私は少しではあるが冷静さを取り戻す事が出来た。
改めて前を歩く少女を見てみる。
背は低い、というか小さい。
下は赤い袴で、上は緑の襟に花模様の描かれた黄色の袖という、和装にしては随分と色彩豊かな服な気がする。
それでも、肩下まで伸びた黒い髪と、少し見ただけではあったが顔立ちも整っていて。市松人形のようだ、という言葉はきっと彼女のような娘の事を言うのだろう、とそんな事がぼんやりと頭の中を巡っていた。
「それでは、こちらでお待ちいただけますか」
言われて案内された先は、一見すると何の変哲もない和室だった。
私は逆らう事も出来なくて、ただ促されるがままに部屋に入り、和机に添えられた座布団に腰を下ろしてしまう。
暫くお待ちを、と言って少女が立ち去れば、部屋に残されたのは私と例の黒猫だけ。
「おーい、真琴ぉ。何がどうなってるんだー?」
私は隣の座布団で丸くなっている猫の真琴(命名:私)に訊ねてみるが、真琴は耳をぴくりと動かしただけで、何も答えてはくれなかった。
部屋の中をぐるりと見回してみても、これといって何もなく。入ってきた襖の反対側はそのまま縁側になっていて、開け放たれた先にはこれまた広い庭が広がっていた。
相変わらず蝉達の声は聞こえてきてはいるものの、何故だかあまり聞き覚えのないような鳴き声が聞こえた気がして、私は目を閉じて耳を澄ませてみる。
と、
「お待たせしました」
不意に声が聞こえてきて、私はあっさりと現実に引き戻されてしまった。
振り返ってみると、ちょうど先ほどの少女が部屋に入ってくるところで。襖の開け閉め一つにしてもえらく丁寧で、私はやっぱり市松人形だなぁ、などと思ってしまう。
「どうぞ」
「あ、こりゃどうも……」
差し出された麦茶はよく冷えていて。頭の片隅で怪しいとは思いつつも、ついつい湯飲みを傾けてしまい、気付いた時には既に湯飲みは空になっていた。
「あなたは……」
それを機と見たのか、少女が探るような眼差しを私に向けた。
「ここへは、何をしに?」
「私は……廃村があるって聞いて……」
廃村、と私の言葉を繰り返して、少女は何かを考えるように顎に手を当てて顔を俯かせた。
「あぁなるほど、ここは外からだとそんな風に見えているんですね」
「外?」
「いえ、こちらの話です。でも、という事は、大方そこの猫に連れられてきたというところですか」
自分の事だと気付いたのか、真琴がひょいと首を上げたものの、すぐにまた丸まってしまった。
ますます訳が解らない。この猫が一体なんだと言うのだろうか。
解る事と言えば、とりあえず猫の尻尾は一本だったという事くらいなものだ。
「その子は何故だかここと外を行き来できるみたいでして、恐らくその通り道が塞がる前にあなたが通ってしまったのでしょう」
「あの、もう少し解りやすく……」
「お茶は美味しかったですか?」
「はぇ?」
いきなり話を振られたような形になって、私は思わず湯飲みを手に取り、麦茶を一気に飲み干してしまった。
うん、美味しい。
「そうですか。それはよかった」
まるで作り物のような笑顔を見せて、少女はすっと音も立てずに立ち上がる。
「私個人としてはもう少し色々と聞きたいところではあるのですが」
そして私に背を向けて、これまた音もなく襖を横へと滑らせた。
「私も中々自由に出来る事が少ない身でして」
少女は変わらず笑っている。
だが、その瞳は私に去れと言っていた。
「今回は私の側の不手際でもありますし、どうぞあの方に見つかる前にお帰りください」
「あの方?」
聞き返してはみたものの、少女は薄く微笑んだまま。
「ここは幻想の里。本来であれば、あなた達が足を踏み入れるべきではない所なのですよ」
それでも私がどうしたものかと考えあぐねいていると、今まで座布団の上で丸まっていた真琴がしたっと立ち上がり、少女の開けた襖から廊下へと出て行ってしまった。
「私も玄関までお送りしましょう」
少女が襖を開けたからだろうか。縁側から吹き込んだ涼しい風に、吊るされていた風鈴がりんと鳴った。
それが自分の中で切欠になったのか、私はどこか釈然としないながらも立ち上がり、真琴と少女の後に続いて廊下を歩く。
玄関までの短い距離。少女は背を向けたまま、その歩みは淀みなく。何かを言おうとしたけど、何をどう言ったらいいのかが解らずに、ただ少女と真琴の背中を見ている事しか出来ずにいた。
「もし……」
靴を履いて、真琴と一緒に玄関を出たところで、不意に少女が声をかけてきた。
「いや、これは意味のない質問ですね。忘れてください」
「はぇ?」
だけど、私が振り向いた時には、そこにはもう少女の姿はどこにもなくて。
古びた木造建築がその骨組みを露にし、足元には膝まで届くような雑草が生い茂り。
耳に響く蝉の声は聞きなれた夏のそれで。その合間を縫うように、どこからかトンビの鳴き声が私の耳に届いた。
「あ、れ?」
見上げてみれば、そこには懐かしい大介の姿があった。
日差しが眩しくて翳した左手。その手首には一本の腕時計。
「14時05分……」
私は考える。
少女は果たして何者だったのか。そしてあの場所はどこだったのか。
もし彼女の話が本当なのだとしたら、この世界には実はもう一つの世界があって、そこでは彼女達のような人々が今も生活をしているのだろうか。
「……まさかそんな、ファンタジーじゃあるまいし」
しかし、世の中にはトンビの遠隔攻撃はなくとも、不思議な別世界というものは割とあったりするのかもしれない。
「おぉ?」
たとえばそう、放り出された荷物の上に見覚えのない包みが一つ、ちょこんと乗っていたりとか。
∽
「で、これがそのお土産、と」
「そうそう」
二学期初日の教室は、一学期の終業式の日にも勝るとも劣らない喧騒の中にあった。
日に焼けた運動部の男子達がその黒さを競う横で、休みの間にばっさりと髪を切った女子を他の女子が数人で囲み、何やらきゃーきゃーと騒いでいる。
夏はまだまだ頑張るつもりらしく、ビルの合間からは綿菓子みたいな入道雲が高く伸びて、開いた窓からは相変わらずの蝉の合唱が響いてきていた。
私はといえば、教室に入るといの一番に彼女の元へ行って例の『お土産』を見せたのだが。
「って言っても、これただの麦茶じゃない」
そう言って、彼女は『幻想のお茶』を事も無げにあっさりと飲み干してしまった。
その後はもう暖簾に腕押しのような状態で、私がどれだけ熱く語っても、彼女は適当に返事をするばかり。
そんな私達の事など知った事ではないとでもいう風に、校舎の影で丸まっていた黒猫がにゃぁと鳴き、青い空にはトンビが一羽、気ままにくるくると回っていた。
「だーかーらぁっ!」
「はいはい、後でまたゆっくりと聞いてあげるから」
くそぅ、なんて時代だ――