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花鳥風月〜rainy days〜

2008/07/30 01:01:41
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花鳥風月〜rainy days〜

床間たろひ
 紅い館に雨が降る。

 厚い雲に覆われた空、月も星もない無粋な夜。
 そんな深い闇の中、冬を間近に控え、凍えるような雨が館を包みこんでいた。
 灯りのないテラスで、天蓋から降り注ぐ雨を見上げながら、彼女は白く、長く、重い溜息を吐く。
 桜貝の唇から漏れる吐息。薄く閉じられた瞳。夜露に憂う銀青の髪。端整に象られた、化外の美。
 だがその顔に浮かぶのは、疲れきったような無情の相。幼さすら残るその顔立ちにそれは相応しくなく――それでいて何百年もそうであったかのような、とても自然な佇まい。
 それは『永遠に紅い幼き月』の異名を持つ彼女のみ許された矛盾。子供のような姿態にも拘らず、纏う空気は一国を統べる王のそれ。
 ヴィクトリアンチェアに腰掛け、樫のテーブルに両肘を付き、降り注ぐ忌々しい雨を、彼女は孤独に眺めていた。
 無灯のテラスは先が見通せぬ程昏く沈むが、未来すら見通す夜の王に模造の光など不要。例え全てが闇に沈もうとも、紅玉の瞳が夜を照らすならば、それ以外の灯りなど無粋の極み。もしも新たに火を灯そうとする者あれば、風雅も解せぬ愚か者と首を刎ねられよう。

 しかし――その輝きも今は僅かに翳っていた。 

 雨の日には、館から出られない。
 それが吸血鬼に掛けられた呪い。
 だが日差しを日傘で避けられるのであれば、雨をも傘で凌げよう。なのに……その気になれない。
 日差しは肉体を奪い、流水は精神を蝕む。
 動けないのではない、動きたくないのだ。
 憂えた溜息を、もう一つ。
 歪んだ微笑も、もう一つ。
 運命を読み、運命を操り、運命を弄ぶ。その自分が、夜の王たる自分が、たかが天候如きに束縛されるという滑稽さに、自嘲の笑みすら零れた。
 その右腕を振えば、雨雲など一撃で消し飛ばすこともできるだろう。
 その能力を使えば、旱魃へと運命を捻じ曲げることもできるだろう。
 指先から零れる紅い霧で、知覚可能な――吸血鬼のそれであれば余りにも広大な――範囲を己が統治下に置き、雨の侵入を拒む事だって出来るだろう。
 手段など、我が身一つでいくらでも。
 ましてや、彼女は館に巣食う悪魔共の盟主なのだ。

 従者なら嫌雨の全てを刻み落とすだろう。
 親友なら天候如き意のままに操るだろう。
 門番ならその拳で雨雲を叩き割るだろう。
 愛妹ならこの昏い空を撃ち堕とすだろう。

 どうとでもなる。どうにでもなる。どうとでもできる。どうにでもできる。
 選択肢は無限に、両手から零れ落ちる程に存在し、そしてその全てが望んだ瞬間に実現可能な確定未来。
 それこそ指を動かすだけで。あるいはそう望んだだけで。

 そっと、右手を伸ばす。
 顔を上げて陰気な空を視界に収め、嘲るように瞳を細める。
 指先を丸め、まるで何かを摘むように、まるで何かを詰むように。
 口元を吊り上げ、悪魔の微笑を浮かべ、その指を、丸めた指を、

 パチン、と――
 
 高く澄んだ音が夜闇に響く。
 陰鬱な雨雲が怯え、季節外れの雷光が奔り、降りしきる雨は凍りついたように――否、何も変わらなかった。

「お呼びですか。お嬢様」

 レミリアの背後に現れる銀の従者。
 空気も乱さず、音すら立てず、まるで初めからそこに居たかのように。

「お茶を淹れてくれない? そうね……今日はイングリッシュで」
「今は夜ですよ?」
「そんな気分なのよ」
「畏まりました。少々お待ちを」

 従者は深く頭を下げ、またも掻き消える。
 影すら残さず、まるで初めから誰もいなかったかのように。

 ――イングリッシュブレックファースト。

 その名の通り朝食用にブレンドされた、濃く渋みのある風味。
 セイロンをベースに咲夜が独自にブレンドしたもので、苦味が強くレミリアは余り好まない。基本的にストレート、それも薔薇の香りがするディンブラを好むレミリアからすれば、それは本来在り得ない選択。選ばれる事のない運命。

 だからこそ――それを選んだ。

「お待たせしました」
 再び現れた従者は、銀の盆に載せたティーセットを片手で捧げていた。
 黒地に金の中国人が描かれたティーカップ。洋風の造りでありながら、アジアンテイストを加えたオリエンタルの具現。それは和洋を併せ呑み、融合し、調和を保つ幻想郷に相応しい逸品であり、指で弾くと涼やかな風の音がする、レミリアのお気に入りのカップ。
 従者は手際よく茶器をテーブルに並べ、雪のように白いティーポットから紅い雫を注いでいく。
 本来なら茶葉の旨みを引き出すには時間――十分に蒸らし、旨みを抽出する大切な時間――が掛かるのだが、この従者に掛かれば、その時間を必要としない。
 飲みたいと思った時に、すぐに飲める。
 それだけでも、この従者はレミリアにとって絶対必要な一欠片。何者にも代え難い唯の一。
「さ、暖かいうちに」
「ありがと」
 レミリアは色彩を愛で、芳香を味わい、そしてカップに桜色の唇を付ける。
 こくり、と一口だけ飲んで、
「……やっぱり、この味は好きじゃないわね」
 まるで悪戯を見つかった子供のように、少しだけ舌を伸ばし、
 そう――微笑んだ。
「前にもそう言ってらっしゃいましたのに」
「気分よ。そんな気分なの」
「なら仕方がありませんね」
 大人びた顔で静かに微笑む従者へ、レミリアは顔を向けた。
 銀の髪が夜に輝き、白磁の肌は夜に溶け込み、蒼い瞳のその奥に刃を巧みに隠しながら、穏やかな笑みを浮かべている。『完璧』と呼ぶに相応しい肢体に『瀟洒』という彩りすら手にした美の具現。その美しさにレミリアは僅かに嫉妬し、同時に愉悦も――「この私が妬ましいなんて、ね」――感じていた。
「ねぇ、咲夜。何でも思い通りになるってどんな気分だと思う?」
「楽ですね」
 即答する従者に、レミリアは嬉しそうにくすくすと笑った。
 従者もそんな主の姿はいつもの事なのか、静かに微笑んで見守っている。
「そうね、本当にそう。でもね……少しくらい思い通りにならない方が」
「面白いですね」
 例えば、苦手な紅茶を楽しんでみたり。
 例えば、憂鬱な雨に眉を顰めてみたり。
 例えば、嫉妬という感情に心を乱せてみたり。
 例えば、運命という流れに身を任せてみたり。
「咲夜。貴女もこのお茶を片付けるのを手伝いなさい」
「命令ですか?」
「いいえ、お願いよ」
 それでは仕方がないですね、そう言って主の正面に座る従者。何時の間にかテーブルには、もう一組のティーカップ。レミリアの黒地のカップと対になる、金地に黒の有翼獅子が描かれた瀟洒なカップ。
 湖に降る雨を眺めながら、穏やかに奏でられる雨音に耳を傾けながら、静かに夜が過ぎていく。

「この私の思い通りにならない――何て得がたい体験かしら、ね」

 自らを縛る雨を眺めながら、
 悪魔の心を沈ませるという本来絶無の現象に身を委ねながら――レミリアは静かに微笑んだ。




 
   §





 蒼い湖に雨が降る。

 降り続く雨は世界を白く染め、紅葉の始まったばかりの木々も、冬の訪れを沈黙したまま待っている。
 と、たたたんとリズムを刻み、湖へと吸い込まれていく透明な雨粒。
 と、たたたたん。
 て、ととととん。
 単調で短調な、流暢で悠長な、そんなリズム。
 鏡のようだった湖面を幾億もの波紋が揺らし、雨粒が紡ぎ出す王冠が現れては消え、現れては消える。

 その湖の中心で――チルノは踊っていた。

 降りしきる雨の中、傘も差さずに。
 波打つ湖面に触れそうで触れない距離を保ち、滑るように、唄うようにチルノは踊る。
 たった一人で、それでもなお。
 白く染まる湖の上を、あやすように、絡めるように。
 彼女の放たれる冷気が、降りしきる雨を触れる前に氷に変える。
 水色のスカートを軽やかに揺らし、伸ばした指先をリズムに合わせて振って、雨に染まらず、雨に沈まず、軽やかに、とても軽やかに踊っている。
 右手を振るう。
 雨粒が氷となって踊る。
 左手を振るう。
 雨粒が雹となって踊る。
 この冷たい雨の中、楽しそうに、とても楽しそうに。

「あはは」

 触れない、触れない、何も彼女に触れられない。
 それはちょっとだけ優越感。
 それはちょっとした開放感。

「あはははは」

 チルノは笑う。
 降りしきる雨の中、傘も差さずに。
 彼女の冷気は際限なく、湖を覆いつくす程に。
 彼女の踊りは停滞なく、激しく狂おしい程に。
 右手を振るう。
 凍結された雨粒が、まるで氷雨のよう。
 左手を振るう。
 舞い上がる旋風が、まるで吹雪のよう。

「あはははははは!」

 くるくると、くるくると。
 回りながら、跳ねながら。出鱈目に、リズムもなく、それでもなお軽やかに。
 滑るように、唄うように、あやすように、絡めるように――チルノは踊る。
 楽しそうに、とても楽しそうに。
 くるくる、くるくる、くるくると。

「もっと、もっと、もっと!」

 季節は秋。
 チルノの生み出す吹雪が、蒼い湖を白く染める。
 じきに冬。
 氷精の季節、そして『彼女』の季節。
 踊って踊って踊り尽くして、季節が本当に冬になったなら、眠っていた『彼女』が目を覚ます。
 会いたいから、遊びたいから、話したいことがいっぱいあるから……

 チルノは――踊る。 





   §





 白玉楼に雨が降る。

 西行寺幽々子は縁側に座り、ぼぅっとその雨模様を眺めていた。
 右手にあんころもち、左手に緑茶。考えうる最上の組み合わせを手に、しかしそれを口に運ぶ事なくぼぅっと眺め続けている。
 まだ紅葉には早く、しかし夏の盛りを過ぎて翳りを見せていた桜の葉は、恵みの雨を受けて俄かに活気づいていた。赤味の差した葉が、僅かに艶を取り戻す。
 春には見事に白く染まる桜並木。
 夏には力強い緑を、秋には包み込むような赤を、冬には侘しい墨を――四季折々の表情を見せ、決して飽きさせる事のない桜並木。
 そして今は夏と秋の狭間で、中途半端な位置づけで、されどそれは決して区切られるものではなく連環する流れの一部。桜並木も緑赤の合間を漂うだけ。雨に煙る視界が更に世界を曖昧とさせ、それでも、いやそれ故に――朧で綺麗。

 ほぅ、と幽々子が溜息一つ。

 その吐息は風に乗り、雨に溶けて消えていく。
 淡い桃色の髪は緩やかに、白いうなじは滑らかに、ふくよかな胸元は柔らかに。
 纏う衣も和服のような洋服のような曖昧さで、それは彼女の茫洋とした空気に相応しい装いで、だけどその顔に浮かぶ表情も曖昧で。
 笑っているようにも、
 泣いているようにも、
 怒っているようにも、
 諦めているようにも、見えた。

「雨、ね……」

 ぽつりと漏れた呟きも、やはり表情と同じく判然としない。
 瑪瑙のように揺蕩う色は、次の瞬間には別の色と模様を浮かび上がらせ、たとえ瞬間を切り取ろうとも誰にも本質を掴めはしない。
 だから幽々子の呟きも、泡のように消えていく。
 誰にも届かず、誰にも伝わらず、ただ時間だけが過ぎていく――
 
「どうされたんです? ぼぅっとして」

 横合いから声を掛けたのは庭師の少女。小さな身体を凛と伸ばし、半身である霊体を傍らに、洗濯物の山を両手一杯に抱えている。
 幽々子は庭を眺めたまま、少女の方へと視線を向けないまま、、
「んーそうね……ぼぅっとしてみたの」
「は?」
「理由なんてないわ。ただぼぅっとしてたのよ」
 そう言って、静かに微笑む。

 それはいつもの柔らかな笑顔で――

「はぁ、それでしたら……」
 失礼します、そう言って洗い場に向かおうとした妖夢がもう一度振り返ると、そこにはやっぱりぼぅっとした表情の幽々子がいて。
 だから妖夢は――
 そして妖夢は――
 洗濯物の山を床に置き、幽々子の隣へと折り目正しく正座し、

「宜しければ、お話して頂けませんか?」

 そう言って、生真面目に頭を下げた。

「話?」
「何でも構いません。昔話でもほら話でも。幽々子さまのお話が聞きたいのです」
「そう言われても……」
「お願いします」
 再び頭を下げる妖夢。
 丸めた背中は小さく、それでいて岩のような頑なさがあった。
 幽々子はその姿を眺め、嘆息したように息を零し、
「……判ったわ。何でもいいのね?」
「えぇ、お願いします」
 そして幽々子は語りだす。
 
 ――生きているうちに認められなかった画家の話を。
 ――力を振るえないままに戦場に散った剣士の話を。
 ――只の一度も咲く事なく枯れてしまった花の話を。

 幽々子の流暢な言の葉を、一言一句聞き漏らすまいと真剣な表情で妖夢は聞く。
 余計な合いの手を挟まず、ただ黙って主の言葉を受け止める。
 一体どれだけの間、そうしていたのだろうか。 
 雨は止む事なく降り続け、緑赤の葉を揺らせた桜並木を朧に霞ませている。
 それは綺麗で――
 とても綺麗で――

「……ねぇ、妖夢」
「はい、幽々子さま」
「桜と聞いて、どんな姿を思い浮かべる?」
「そうですね……満開に咲く桜の花でしょうか」
「そうよね。普通はそうよね。誰もがそう思い浮かべるわよね」
「……」
「では咲いてない桜は、桜ではないのかしら? 華のないものに価値はないのかしら?」
「咲いておらずとも、桜は桜かと」
「でも心に残らない」
「かもしれません……ですが」

 妖夢は真っ直ぐに幽々子の顔を見る。
 それは真っ直ぐ、挑むように、祈るように、願うように、請うように。

「幽々子さまなら――それに気付いてくださるでしょう?」

 咲いておらずとも、桜は桜。
 ただそこにあるだけで美しい。
 桜に限らず、人も、獣も、妖も。
 この世の森羅万象。その流れを、美しさを――

「……妖夢のくせに生意気ねぇ」
「鍛えられましたから」
「生意気だから褒美をあげるわ。はい、あんころもち」
「頂きます」

 幽々子が笑う。妖夢も笑う。
 しとしとと雨が降る。
 華のない桜並木を、しとしとと。

 静かに、優しく――雨が降る。





   §





 空の上には雨がない。

「……下は雨か」
「みたいねぇ」
「そうだねぇ」
「……ふむ、こんな日は良いフレーズが浮かびそうだ」
「私は駄目ー。やっぱノリノリじゃないとー」
「雲の上は晴れてるじゃん?」
「適度な湿度は弦をしっとりとした音に変えてくれる……うん、実に良い」
「ルナサ姉さんがノリノリだー」
「こりゃー隕石でも降るね。幻想郷最後の日ー」
「良いじゃないか。偶にはそんな日も」
「良いかもー」
「良いのかー?」
「むむ、音が降りてきた……お前たち、準備は良いか?」
「おっけー」
「いつでもー」

 そして始まる演奏会。
 ルナサの奏でるヴァイオリンが、物静かで流れる様なコードを。
 メルランの奏でるトランペットが、陽気で勇ましいフレーズを。
 リリカの奏でるキーボードが、軽快で跳ねるようなメロディを――それぞれに紡ぎ出す。
 三人共にてんでバラバラ、リズムも何もあったものじゃない。
 だけど一つとして不要な音はなく、外れたように聞こえる音も、気が付けばいつの間にか、なくてはならないアクセントになっていた。
 止まることなく、留まることなく、流れ続ける音の波。
 踊る、踊る、音符が踊る。
 弾む、跳ねる、リズムが爆ぜる。
 雨のように静かに、風のように軽やかに。
 歌うように、囁くように、休まず、止まらず、伸びやかに、踊るように。

 流れ続ける――不思議な音楽。

 そう、音を楽しんでいる。
 彼女たちの名に相応しく、彩光の流れを音にのせて。

 足元の雨雲は何処までも広がり、下界の様子はまるで解らない。だけど彼女たちには関係ない。
 晴れた日には晴れた日の、雨の日には雨の日の、それぞれに相応しいリズムとメロディがあり、そしてそれを彼女たちは楽しんでいる。ならばそれで良い。いや、良いも悪いも関係なく――ルナサも、メルランも、リリカも――それぞれの内から湧き出る旋律を、ただ形にしていくだけ。
 騒演はなおも激しく高らかに。
 徐々に、徐々に、クライマックスへと。
 高く、高く、より高く、天の頂まで届くほどに――
 
 ぷちん! みょんみょんみょん……

「あ」
「あ」
「あ」
 ヴァイオリンの弦が切れ、間抜けな音が響いた。
「姉さん! いいとこだったのにー!」
「あーもー、折角上がったテンションがー」
「う……ご、ごめんなさい」
「だーめー許さないー。罰として今日の晩御飯は姉さんの奢りね?」
「わぁい、お酒もアリだよね。姉さん?」
「え、いや、ちょっと待って。今月厳しくて……」
「だーめー」
「だーめー」
「そんな! お慈悲を、もう一度チャンスを!」
「さーて、今日は何食べようかなー♪」
「ちょーっとリッチに、満漢全席なんてどーかしらー?」
「ナイス、メルラン姉さん。はい、けってーい!」
「待てぇぇぇええええええええええ!!!」

 今日も雲の上は、実に賑やかであった。





   §





 深い竹林に雨が降る。 

 青々とした竹林に霧雨が降り、さらさらと静かな音がする。
 果てなく広がる竹林は他者を拒むように静まりかえり、雨の流れる音以外は、しん、と吸い込まれて消えていく。
 竹林の中は、時の流れのおかしな異界。枯れず、絶えず、かさかさと揺れる竹林は、春も、夏も、秋も、冬も、その在り方を変える事なく時の流れから取り残されている。
 今、目の前にある青竹は百年前にあったものとは異なるのに、それでも永きを生きる者にとっては同じものとしか思えないだろう。たとえそれが百年でも、二百年でも、千年でも――竹林の内部では常に動き、戯れ、変わり続けているというのに、竹林という総体で捉えれば例え千年過ぎようと何一つ変わっていない。

「……つまり私達も一緒って事さ」

 さらさらと流れる霧雨に身を浸らせ、藤原妹紅はぽつりと呟いた。
 裂けた腹から吹き出る血は地面を赤く染め、折れた右腕は力なく垂れ下がっている。

「……さぁ、どうかしらね?」

 かさかさと揺れる竹の音を聞きながら、蓬莱山輝夜もまたぽつりと呟く。
 両足が焼失した為、一際太い竹に身を委ね、濡れた地面に腰を降ろし、けれど笑みを絶やさずに。

「……どういう事だよ?」
「さぁ?」
 口から血を流しながら微笑む輝夜に、妹紅はその形の良い眉を顰めた。
「ったく。お前は相変わらずだな」
「変わらないわよ。私は」
「口の減らないやつ。あ、痛痛痛……」
「大丈夫?」
「お前がやったんだろうが」
「そんな昔の事は忘れたわ」
 減らず口を、と毒づきながら妹紅は立ち上がる。折れた右腕を結合し、はみ出た腸を指で腹腔に戻しながら。
 立ち上がろうとした妹紅は、血が足りないのかふらりとよろめき、そのまま太い青竹にがつんと頭をぶつけてしまった。
 思わず、ぐぅと呻き、頭を抱えてしゃがみこむ。
「あはは、格好悪いわねぇ」
「むぅ、うっさい。お前は立ち上がる事も出来ないじゃないか」
 それもそうね、と微笑んで輝夜は空を見上げた。
 竹林の隙間から見える空は雲しか見えず、柔らかな霧雨がさらさらと降りてくる。
 霧雨は輝夜の黒髪を濡らし、艶々とその色を輝かせた。雨垂れが輝夜の長い睫に露を作り、そっと頬を伝って流れる。
 それは綺麗で――
 とても綺麗で――

「……鴉の濡れ羽色ってやつか、ふん」
「あら、羨ましい?」
 濡れた黒髪を持ち上げ、ほれほれと見せびらかす様はまるで童女のよう。
 無邪気で無垢なる微笑みは立ち込める血臭に不似合いな、しかし不可欠の要素であるような――そんな相反する異界の美。
 妹紅は惹かれそうになる自分を、頭を激しく振るって振り落とし、目に力を込めて輝夜を睨む。
「お前はお姫さまなんだろ? なら城にでも引っ込んでろ。んで、もう出てくんな」
「時代遅れねぇ……考え方が古いわ。今時のお姫さまは自分で戦うのよ? って因幡が言ってたわ」
「どの因幡さ?」
「黒髪の」
「あぁ、あの詐欺兎」
「トレンディでしょ?」
「それも死語だがな」
 二人の掛け合いは続き、雨もまた降り続ける。
 竹林は変わらないまま其処にあり、変わらない二人もまた其処にあった。
 変わらないもの。変わっていくもの。でもそれは中にいる者にしか解らない。
 空を飛ぶ鳥は、下界に広がる竹林を『変わらない』とすら思わないだろう。
 だからきっとその程度。永遠なんてその程度。
 変わっても――
 変わらなくても――

「ようし、復活」
「ん……こっちも大丈夫かな?」

 裂けた腹にはすでに傷跡すらなく、炭化した両足は爪先まで生え変わる。
 妹紅は腰に手を当てて首をごりごり鳴らし、輝夜は立ち上がりながら雨に濡れる黒髪をさらりと掻きあげて。
 妹紅の身体から噴き上げる炎が雨を蒸気へと変え、輝夜の右手に色鮮やかな五色の宝枝が現れて――

「さて……そろそろ戦るか」
「そうね。お腹も空いてきたし」
「んじゃ……」
「それでは……」

「「始めましょう!」」

 炎が畝り、光が跳ねる。
 これもまた、常と変わらぬ日々の一欠片。千年姿を変える事ない竹林の一場面。
 噴き上げる炎が雨を焦がし、舞い踊る光が空を刻もうとも、竹林は変わらず受け止める。
 零れた血を、染み付いた血を、霧雨に洗い流し、さらさらと、かさかさと。

「不死『火の鳥 ―鳳翼天翔―』」
「神宝『蓬莱の玉の枝 ―夢色の郷―』」

 絡み合う二つの螺旋。
 だが、そんな些事など知らぬと――竹林にさらさらと雨が降る。




   §




 人里にも雨が降る。

 稲の収穫も終わった晩秋。時ならぬ雨で畑仕事を中断した人々は、冬に備え編み笠を作るのに忙しい。
 そして半人半獣である上白沢慧音もまた、村長の家の広い土間で多くの人々に混じり、編み笠を編んでいた。
「む?」
 七割方編みあがった笠を天井に透かしてみれば、凸凹と不揃いで隙間だらけ。ちらりと横目で見てみれば、今年で十になったばかりの子供の方が、よほど器用にてきぱきと編んでいる。
 気付かれないように溜息一つ。
 結構、練習したんだがな……知らず呟きが漏れたが、慧音はそれに気付かなかった。
 深い栗色の瞳は落胆に沈み、銀と青の混じる長い髪も心なしか艶がない。豊かな胸元は溜息に合わせて大きく上下し、正中線を崩さぬ背中も今だけは僅かに折れかけていた。
 慧音は改めて姿勢を正すと、不揃いな部分を解きほぐし、再び真剣な眼差しで編み直し始める。だけど一度癖の付いた管は中々思い通りに曲がらず、一層不揃いで不恰好な形にしかならない。その度に慧音は解きほぐし編み直していく――傍目に近寄りがたいほど険悪な顔で、一心不乱に黙々と。
 人の歴史を識る慧音は、市女笠、一文字笠、三度笠、饅頭笠に目塞き笠と、古今東西あらゆる笠の作り方を識っている。
 どのような用途に使うべきか、どのような材料を用いれば良いか、どのような手順で作れば編みやすいかすらも。

 しかし――結果はご覧の通り。

 識っている事と再現できる事は違うのだ。
 これが満月の夜ならば歴史を改竄し、すでに編み上がった笠を用意する事も出来ようが、生憎と今は昼。 降り続ける雨はお天道様も覆い隠し、このまま夜まで止むことはないだろう。
 もっとも例え今が満月だとしても、慧音がそのような事で己の力を使う筈もない。
 慧音が人と共にあるのは、ありとあらゆる災厄に囲まれようとも、肩を寄せ合い、力を合わせて、困難を乗り切ろうとする人の姿を美しいと思ったからだ。

 だから守る。人の手に負えぬ妖怪の襲撃から。
 だから見守る。安易に自分の力を頼ろうとせず、ただ共にいてくれる人々の生き様を。

 その慧音がこのような私事で、己の力を使う筈もない。
 村の一員として、村人に混じって、この不器用な二本の腕だけで。
 慧音は子供達にからかわれ、赤面しながらも必死に笠を編む。
 大人達もそんな慧音を見守り、笑い声を漏らさぬよう堪えながら笠を編む。
 
 雨が降る。
 冬を間近に控えた人里に降るその雨は、

 ほんの少しだけ――暖かかった。



   §



 魔法の森に雨が降る。

 森の奥深くにある小さな家。
 そこで普通の魔法使いと普通じゃない人形遣いが、午後の紅茶を楽しんでいた。
「しかし今日も雨か……何というかこう、気が滅入ってしまうな」
「人の家に勝手に忍び込んで何言ってるのよ。落ち込んでるなら自分の家で、キノコの観察日記でもつけてなさい」
「酷いな。ノックはしたぜ?」
「返事がないって事は、入っちゃ駄目だって習わなかったの?」
「さてな。今まで読んだ本の中には書いてなかったな」
「貴女は今まで読んだ本の数を覚えているのかしら?」
「八〇一四冊――悪いな。読者家なんだ、私は」
 やれやれ、と肩を竦めて立ち上がる人形遣い。
 栗色の瞳に呆れたような色を浮かべ、唇からは溜息が一つ零れた。
 彼女の名はアリス・マーガトロイド。魔法の森に住む七色の魔法使いであり、常に自らの生み出した人形と行動を共にする事から、人形遣いとも呼ばれる少女。その白魚のような指先で空になったティーポットを手に取り、そのままキッチンへと足を向ける。
「ついでにお茶菓子も追加してくれ」
「ここからは有料よ?」
「冷たいな。私とお前の仲じゃないか」
「どんな仲よ?」
「強敵と書いて『いーからいっぺんなぐらせろ』と読む」
「……合格ね。クッキーを付けてあげるわ」
「他にもあるぞ。仲間と書いて『おれのはいごにたつんじゃねぇ』とか、親友と書いて『つきのないよにきをつけろ』とか」
「パイも付けてあげるから黙んなさい」
「宜しく」
 キッチンに向かうアリスにひらひらと手を振って、普通の魔法使い――霧雨魔理沙は窓の外へと目を向けた。
 降り続く雨は窓の外を白く染め、森の木々を朧に霞ませている。
 魔理沙はそんな景色を、笑みを消し、表情を消し、まるで人形のような瞳で眺めた。
 見慣れた景色の筈なのに、何故か初めて見るような感じ。
 濃く煙った森の緑は、まるで深い湖の底のよう。重く、暗く、押し潰すような重圧は、視覚を通じて心臓を掴む。
 強さを増した雨が聴覚すらも狂わせて、鳴り響く耳鳴りが意識を底へと引きずり込む。
 この家は小さな沈没船?
 だってほら、ぎしぎしと屋根が鳴っている。
 だってほら、周囲からは光が奪われている。
 水圧に耐えかね、圧壊した時が最後?
 それとも、酸素が無くなる時が最後? 
 予測しうる可能性は常にBADで、しかもそれを避けうる選択肢は既に通り過ぎている。後はもう一直線。望まぬ結末へ遮る物なく。
 緩やかな死か、派手に散るか。それは所詮好みの問題に過ぎない。死んで、弾けて、消えるまでの――自己満足に過ぎない。

「……らしくないな」

 そう呟いても、思考の澱から抜け出せない。
 たとえば、いきなり隕石が降ってきたら?
 たとえば、いきなり妖怪が襲ってきたら?
 風呂場で滑って頭をぶつけてしまったら? 
 弾幕ごっこで迂闊にも弾を避け損ねてしまったら? 
 空を飛んでる最中に箒から落っこちてしまったら?
 餅を喉に詰まらせる事もある。性質の悪い風邪を引いて、そのままぽっくり逝ってしまう事もある。何の理由もなく、ただ死んでしまう事だってある。何時だって、何処だって――死は隣にある。
 そう……ひょっとしたら、アリスが何かの気紛れで、魔理沙を殺そうとするかもしれない。
 さっきまで仲良くお茶を飲んでいても、アリスは妖怪。妖怪が人を襲うのは当たり前の事。
 今キッチンで淹れている紅茶にこっそりと眠り薬を仕込み、迂闊にもそれを飲んでしまった私の手足をベッドに縛りつけ、目を覚ましてからどれほど怒鳴っても泣き叫んでもくつくつと嗤ったまま聞く耳も持たず、ベッドを取り囲む人形達の手には銀色のナイフが輝き、そしてその首を、四肢を、腹を、胸を、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も――

「はい、お待たせ」

 色のない瞳で窓の外を眺めていた魔理沙の前に、熱い紅茶を波々と注いだティーカップが置かれた。
 紅茶の甘い香りが鼻腔を擽る。
 その色は血のように紅く――
「どうしたの? ぼぅっとして」
「……」
 魔理沙は答えず、湯気を放つ紅い液体を無機質な瞳で眺める。
 立ち昇る湯気はアリスの瞳だけを巧妙に隠し、その色は遠い霧の彼方で判別できない。
 白い雨の音を聞きながら、呪詛のような雨音を聞きながら、魔理沙は、ゆっくりと白い湯気の立ち昇るカップへ手を伸ばして――

 一息に飲み干した。

「馬鹿っ!」
 アリスが叫ぶ。
 淹れ立ての熱いお茶を一気に飲めばどうなるか。魔理沙は口を、舌を、喉を、胃を、焼かれるような痛みにのたうち、目を白黒させながら盛大にむせた。アリスはそんな魔理沙のもとに駆け寄り、おろおろと背中をさする。
 そうするうちにやっと落ち着いたのか、心配そうに顔を覗きこんでいるアリスに向かって、短い舌をべーっと伸ばした。
「舌……火傷ひた……」
「あったりまえじゃない! ちょっと待って水持ってくるから。ったく、何考えてんのよっ!」
 再びキッチンへ駆けていくアリス。二秒と掛からず、冷たい水の入ったガラスのコップを片手に戻ってきた。
 魔理沙は突き出されたコップを両手で受け取り、こくこく飲んで舌を冷ます。呆れた顔で溜息を吐くアリスに、魔理沙はにかりと微笑んでみせた。
「いきなり……何な訳?」
「いや、腐った脳みそに喝を入れようとだな」
「はぁ?」
「ま、こんな雨の日にゃ、メランコリックな気分になる時も、あったりなかったりするんだよ」
「メランコリックって……意味解ってんの?」
「そりゃ勿論」

 魔理沙はもう一度、白く煙る水底を眺めながら。
 金の瞳に、悪戯っぽい色を乗せて。

 ――乙女って事さ、と嘯いた。



 
  §




 向日葵畑に雨が降る。

 冬も近いというのに、真夏の象徴が狂ったように咲き誇る。どこまでも続く黄金の花弁が、恵みの雨を受けて輝きを増していく。
 まるで自らを誇るように、他者を圧倒するように。
 季節を無視した異界は誰にも穢す事を許さず、無限に、果てなく、視界の全てを埋め尽くす向日葵――その名の通り、太陽に向かう花の群れ。
 彼らは、四方八方に果てなく広がる彼らは、自らの太陽を凝視する。
 見上げるように、崇めるように、熱に浮かされたように。
 その視線の先は、白い傘を手にした花の化身。
 風見幽香は、お気に入りの白い傘で雨を遮り、柄を軸に指先で傘をくるくると回す。
 くるくると回る傘は、しゃらしゃらと雨を流し、無垢なる雨粒に小さな水宴を強制していた。

「あはは」

 幽香は笑う。楽しそうに、とても楽しそうに。
 幽香は回る。傘を回して、身体も舞わして。

「あははは」

 水飛沫が回り、幽香も舞わり、無数の無数の無数の無数の無数の無数の無数の無数の無数の無数の無数の無数の無数の無数の無数の無数の無数の無数の無数の無数の無数の無数の無数の無数の無数の無数の無数の無数の無数の無数の無数の無数の無数の無数の無数の無数の無数の無数の無数の無数の無数の無数の無数の無数の無数の無数の無数の無数の向日葵が見守る中、回って回って回って回る。
 それは一つの王国。多くの臣民を抱えた女王が、叩き付けるような雨の中で踊っている。
 季節外れの饗宴は、その贄となった残骸を黄色い花弁で覆い隠し、茶色の土に無数の骨が僅かに覗くのみ。
 数え切れない程の骨の上に、咲き乱れる向日葵の王国。贄と水を得た彼らは、次は光を寄こせと女王に詰め寄っている。

 だから幽香はくれてやった。
 己が統べる王国に、眩い威光をくれてやった。
 日が暮れようとも翳る事のない紅の威光を、惜しげもなくくれてやった。

 向日葵は叫ぶ――女王の偉業を。
 向日葵は誇る――女王の美貌を。
 向日葵は歌う――女王の栄光を。

 赤の混じった黄金を揺らし、高らかに女王を崇める歌を歌う。
 その歌声に、天は怯えて雨の勢いを増し、地は彼らに埋め尽くされ、人は供物と成り果てた。
 天地人を制した彼らは、最早この世に怖れる物はなく、ただひたすらに栄華を求め、この世の全てを黄金で埋め尽くし、千年王国の誕生に狂喜の歌を歌って――

「でも……飽きたわ」

 幽香の傘が、ぴたりと止まる。
 向日葵たちが、王国の臣民たちが、断末魔の叫びを上げて枯れていく。
 無数の無数の無数の無数の無数の無数の無数の無数の無数の無数の無数の無数の無数の無数の無数の無数の無数の無数の無数の無数の無数の無数の無数の無数の無数の無数の無数の無数の無数の無数の無数の無数の無数の無数の無数の無数の無数の無数の無数の無数の無数の無数の無数の無数の彼らが、のたうちながら枯れていく。
 大きな彼も、小さな彼も、何一つ差別する事なく枯れていく。

『何故だ? 我らは女王を崇めた、褒め称えた!』
『共に千年に渡る王国を築かんと、世界を黄金で埋め尽くさんと、我が女王を求めるべき光と定めたというのに……これは何だ。この仕打ちは何だ。我らが何をしたというのか!? 我らは貴女の息子であり娘である。何故、我らをその手に掛けるのか。何故我らは死なねばならぬのか!』

 彼らの無言の、空気を震わさぬ抗議は、それでも幽香にだけは届いた。
 それでも応えぬ女王へ、彼らが腐り落ちる寸前の顔を、最後の力を振り絞って向けた時。

 ――幽香は童女の如く笑っていた。
 
 それを見た瞬間、彼らは悟る。
 抗議も、怨嗟も、賞賛も、全ては一時に狂い咲く花。
 約束された衰退と堕落を糧に、散り逝くその時まで美しく咲き誇るが運命。

 花は、散るが故に華。
 嗚呼、それでこそ我らが女王也。

 黄金の輝きは失われ、赤い土へと還っていく。
 無限に広がる王国は、今やただの墓場。血肉は全て地に還り、後には食い残された白い骨が、赤い大地に墓標のように残るだけ。
 幽香は地面に降り立ち、その白い手を大地に差し込む。
 拾い上げた手には、一粒の向日葵の種。

「さて、次は何処で咲こうかしらね」

 赤い大地に雨が降る。

 黄金の輝きは――もう、ない。



  §






 博麗神社に雨が降る。

 冬を目前にした雨は冷たく、縁側に腰を下ろしてお茶を飲む博麗霊夢はぶるりと身体を震わせ、「冷えてきたわねぇ」と呟いた。
 今日は月曜日。
 試験も何にもない幻想郷において、曜日などあまり意味を持たないが、曲がりなりにも神職に就く霊夢にとって暦の把握は義務である。もっとも、大安だからといってこの神社で式を挙げる酔狂な者など、霊夢が生まれてから一度もお目に掛かった事はないのだが。
「結婚式って儲かるのかしら……でも面倒臭そうねぇ」
 そう言って、煎餅片手にお茶を一口。ずずっと音を立てて飲む様は、妙に年寄り臭い。
 過去にそう告げた普通の魔法使いは、座布団の山に押し潰された挙句、華麗なる巫女巫女フライングボディープレスの洗礼を受けた。以後そのような命知らずな発言をする者はなく、結果として今も改める事なくずずっとお茶を啜っている。
 そういえば今日は、普通の魔法使いの姿はない。おかしな吸血鬼が押しかける事もなく、性質も悪けりゃ性格も悪い鬼や悪霊やスキマも、朝から顔を出していない。いつも何かしら怪しいものが居る博麗神社においては、非常に稀な事。
 霊夢はこの平穏と煎餅を噛み締めながら、

「平和ねぇ……」

 そう呟いて、再びずずっとお茶を啜った。


 今日は火曜日。
 霊夢は今日も縁側でお茶を啜りながら、ぼぅっと境内を眺めていた。
 玉砂利が雨に濡れて艶々と輝き、赤い鳥居も瑞々しい朱を取り戻している。いつも掃き掃除くらいはしているが、柄杓で水を撒く程度では溜まった垢を落とせない。
 ここ暫く雨が降る事もなかったので埃を被って煤けていた境内も、雨によって潤いを取り戻す事が出来た。並木に落ち葉が溜まっているが、雨が上がってから纏めて掃けば、埃も舞わずに済むだろう。
「あ、そうだ」
 霊夢はお茶を縁側に置いたまま立ち上がり、納戸から干し柿を持ってくる。
 先日慧音から頂いたものだが、今年の柿は出来が良いと妙に誇らしげに言っていた。自分が作った訳ではあるまいに、とも思ったが、自らの護る村で作られた干し柿だ。家族を自慢しているようなもので見ていて少し面映い。だけど干し柿に罪はないので、有難く頂戴する事にした。
「うん、美味しい」
 太陽の恵みを凝縮した甘み。
 一口齧った瞬間に、じゅわっと蕩けるこのまろやかさ。控えめな甘さが霊夢の好みをクリーンヒット。
「合格、合格」と呟き、口元を緩ませながら立て続けに三つ程口に放り込むと、もう三つばかしを軽く火で炙って食べた。
 そのまま夕方まで雨を眺めていたが、そのうち晩飯の支度が面倒臭くなり、今日はもうこれでいいかと干し柿をおかずにご飯を食べる。
「醤油でもかけたら立派におかずよねぇ」
 魔理沙あたりに見られたら「阿呆か」と一刀両断されそうな食い方だが、好きなもんを好きなように食べて何が悪い。
 ほかほかご飯と、干し柿の甘さのハーモニー。紅白の目出度い組み合わせは、巫女が食べるに相応しい。結局その日だけで食した干し柿は二桁を超え、ご飯も三杯おかわりした。
「……食いすぎた」
 卓袱台を前に畳に寝っころがりながら、うっとりと目を瞑る。
 口元に幸せそうな笑みを浮かべ、いつしか穏やかな寝息が混ざりだす。
 静かな雨音が、耳に心地よかった。


 今日は水曜日。
 まだ雨は降り続いている。
 何の気紛れか、霊夢は掃除を始めた。普段からまめに掃除はしているし、魔理沙のように家の中が要らない物で埋め尽くされるという事もないので割合いつも綺麗なのだが、畳に寝っころがって雨音を聞いている内に、ふと鴨居の埃が気になったのだ。雨で出歩くのも億劫だし、買出しは済んでいるからしばらくは出掛ける必要もない。要するに暇だったのである。
 袖をたすき掛けにし、スカートも捲って提灯に。うら若き乙女としては少々はしたない格好だが、どうせ誰が見ている訳でもない。長く伸びた黒髪を後ろで縛り、戦闘態勢に入る。
「よし、やるか」
 まずは軽く掃き掃除。畳みにあらかじめ乾かせておいたお茶がらを撒いて箒で掃く。箪笥や卓袱台を退かせて隅々まで丁寧に。畳の目に沿って、箒と後ろで括った黒髪を左右に揺らして。時折箪笥の陰に小銭が転がり込んでいる事もあり、それを見つけた時は少し幸せな気分になるのだが(霊夢はこれを天使の贈り物と呼んでいる。巫女の癖に)生憎と天使はお休みだったようだ。ちっと舌打ちし「しけてんなぁ」と呟くが、しけてるのは自分の家だという事実には、目も耳も塞いだままである。
 次は雑巾掛け。縁側の端で雑巾を構え、クラウチングスタート。提灯にしたスカートから覗く白い太腿と、ツンと突き出した尻が中々色っぽいが「よいしょぉぉおお!」という勇ましい掛け声は、色気とは程遠い。白玉楼の長い廊下に比べれば微々たるものだが、それでも終わった頃には少し息が上がっていた。
 霊夢はちょっとだけ妖夢を尊敬する。あんな馬鹿みたいに広い屋敷と庭の掃除なんて、考えただけで気が滅入る。それを毎日というのだから大したものだ。おまけに、あのお気楽ご気楽亡霊嬢の相手もしなくてはならないなんて。もし霊夢が妖夢の立場なら、初日でクーデターを起こすであろう。
 正義は我にあり。
 正義? 強いって事でしょ?
 雑巾掛けを終え、今度は箪笥や卓袱台、鴨居などを濡らした布巾で拭いていく。こういうちまちました作業は、正直なところあまり好きではなかった。こういうのは咲夜が抜群に上手いのだが、咲夜は人の家の掃除を頼まれない限り手伝わない。その癖、障子の枠についた埃を指で掬って、わざとらしく溜息を吐いたりするので「小姑か、アンタはっ」と弾幕勝負に雪崩れ込む事もしばしば。
 今思えば、あいつはわざと喧嘩を売っていたに違いない。きっと色々溜まっていたのだろう。あんな我侭お嬢様の下で何も溜まらないとしたら、釈迦か仏陀の生まれ変わりだ。どっちにしろ、神社には縁がないのだけれど。
 そういえば魔理沙はどうしているだろうか。
 こないだ来た時に「掃除くらいしろ、生臭巫女」とご高説賜ったのでとりあえずシバいておいたが、これだけ綺麗にすればぐうの音も出まい。大体、魔理沙に人の家を汚いなどとのたまう資格など欠片もないのだ。あいつの家は汚い。汚いと言うと語弊があるが、兎に角散らかっている。訳の解らないガラクタと、訳の解らない本の山と、訳の解らないマジックアイテム。霊夢から見れば塵の山だが、魔理沙に言わせると宝の山だそうで「夢と希望が満漢全席だぜ」と威張っていた。
 そういえば外の世界には「夢の島」なる塵の山があるらしい。そこに魔理沙を連れて行ったら、一体どんな顔をするだろう?
「……夢は人の数だけあるって言うしな」
 とか何とか。
 霊夢は想像して、げらげら笑った。

 今日も雨が降っている。
 今日も誰も来ない。
 干し柿をおかずに食事を済ませると、雨音を子守唄に眠りに就いた。



 今日は木曜日。
 雨は飽きる事なく降り続けている。
 昨日と変わらず降る雨に、昨日と変わらぬ景色。それはとても落ち着く、心休まる風景だけれど。
「暇ね……」
 卓袱台にうつ伏せて、ぼんやりと境内を眺める。
 昨日も誰も来なかった。
 今日も誰も顔を出さない。
 洗濯物が溜まっていたので、風呂場で無理矢理洗濯し、居間に紐を張って洗濯物をぶら下げている。
 改めて洗濯物を見上げれば、白と赤ばっかりでまるで面白味がない。
「と言っても、これ以外に持ってないしねぇ」
 目の前に垂れ下がったさらしを指で弄びながら、ぽつりと霊夢は呟いた。
 霊夢といえど女の子。それなりにお洒落をしてみたいと思う時もある。だが物心付いた時から神職に就く事を定められ、ずっと巫女装束を纏ってきた自分に、今更他の服が似合うとは思えない。今の格好は気に入ってるし、好きで着ているのだから何も問題はない筈なのに……。
 自分の知り合いも同じような服を着ている者ばかりだが、彼女達と自分では決定的に違う。
 彼女達は望んで同じ服を選択しているが、自分には選択の余地はなかった。生き様を選ぶ――余地はなかった。
 生まれてから死ぬまで、巫女で在り続ける。それは納得していたし、望んだ事でもあるのだが、時にふっと別の選択肢を考えてしまう。
 そう、こんな雨の日に。
「なりたいもの……ねぇ」
 例えばメイド?
 却下。人に使われるのは好きじゃない。
 例えば魔法使い?
 却下。薬やら道具やら、ちまちまして好きじゃない。
 例えば古道具屋?
 却下。私に商売が勤まるとは思えない。
 例えば……………………………………………………………………………………………あれ?
「もうネタ切れか……使えない脳みそねぇ」
 巫女以外の自分が、想像できない。
 それが幸か不幸か、よく解らない。
「何にも囚われない無重力の巫女か……笑っちゃうわ。生まれた時から死ぬまで、ずっと囚われているのに、ね」
 口の端に浮かぶ自嘲の笑み。
 それは深く、重く、そして遠く。
 それを見守るのは降り続ける雨だけ。
 霊夢は物静かな境内へと目を向け、僅かな期待と諦めの混じった顔を向け、小さな、囁くような、呟くような声で問い掛ける。

「私って――何なのかな?」

 勿論、雨は何も答えてくれなかった――



 今日は金曜日。
 今日もまた雨。
 今日もまた誰も来ない。
 縁側で一人お茶を啜るだけ。
 大好きな筈のお茶が、今日は妙に渋かった。



 今日は土曜日。
 また、雨。
 また、誰も来ない。
 畳でごろごろ寝ていたが、寝すぎて身体が痛い。
 でも、それ以外何もする事がない。する事がない……



 今日は日曜日。
 今日も朝から雨が降り続いている。
 霊夢は今日も一人、縁側でお茶を啜っていた。
 食事も面倒臭くて朝から何も食べていない。いや、全然お腹が空かないのだ。昨日も干し柿しか食べていないのに、何故かちっともお腹が空かない。
 胃の中に重たいものがどっかりと残っている。
 お腹が重たいから、立ち上がる事も出来ない。
 見飽きた風景はやっぱり今日も変わりなく、つまらないから、息が詰まりそうだったから、霊夢は境内の霊木に向かって、懐から取り出した符を無造作に投げ付けた。
 ひゅ、と雨を切って突き進む符は、狙い違わず霊木に貼り付き――すぐにぺろりと剥がれ落ちた。
 霊夢は一瞬目を丸くする。苛ついたように眦(まなじり)を上げ、新たな符を構え、呪と共に放とうとして、

「……何ムキになってんだか」

 二枚目の符を、懐へと仕舞い込んだ。
 霊木の根元には、剥がれ落ち、雨に濡れて、くしゃくしゃになった一枚の符。

 一度目は無視した。
 晴れてから掃除すれば良いと、顔を背けて空を見た。
 どんよりとした雨雲は見ているだけで癇に障り、仕方ないので目を閉じた。

 二度目も無視した。
 目を閉じてお茶を啜った。
 冷め切ったお茶は渋いだけで、美味しくもなんともなかった。

 三度目は――

「あぁ、もう!」
 霊夢は降りしきる雨の中、裸足で飛び出し霊木の根元へと向かった。
 激しい雨は髪を重くし、袖は肌に纏わり、スカートの裾は泥に塗れる。それにも構わず霊夢は走り、ぼろぼろの符を手に取ると細切れに破こうとし――手を止めたまま雨に打たれた。
 文字の滲んだ符。もう使えないただの紙切れ。
 それを手に持ったまま、激しい雨に打たれたまま、霊夢は一人立ち竦む。
「……何やってんだろ、私」
 捨て切れなかった符を手に、霊夢は歩き出す。
 べしゃべしゃした泥が足を沈ませ、激しい雨音が心を沈ませる。
 濡れた服が気持ち悪くて、お腹はやっぱり重くて、頭の中に色々なものが入り混じっていて気分が悪い。

 昨日は誰も来なかった。
 今日も誰も来なかった。
 明日も誰も来なかった?

 べしょべしょの身体を引き摺って、縁側に座りこむ。濡れた身体が酷く重い。
 重いから、耐え切れないから、霊夢は横向きに倒れこんだ。
 横向きの視界はほんの少し新しかったけれど、十数えれば見飽きた景色。何一つ変わらない詰まらない景色。
 横になったまま、濡れた身体を拭う事なく、虚ろな目で、詰まらない景色を、誰も居ない景色を眺め続けた。
 前髪から滴る雫が、瞳を経て頬を流れる。
 雫は尽きる事なく、誰にも受け止められる事なく、床板に黒い染みを残すだけ。

「……泣いてるのかな、私」

 一人で平気だった筈なのに。
 それを望んでいた筈なのに。
 いつからこんなに弱くなってしまったのだろう。
 誰も居ない。周りに誰も居ない。ただ、それだけの事がこんなにも――

「泣いてるわねぇ、間違いなく」

 頭の上からいきなり掛けられた声。
 弾かれたように飛び起きると、そこには宙に刻まれた亀裂から顔を出し、にまにまと笑う妖怪一匹。
「な、ななななな……!?」
「見てたわよー。こないだからずっと。うふふ」
「紫! あんたっ!」
「いやぁ、雨に愁う乙女の姿。絵になるねぇ。おかげで酒が進む進む」
 境内に顔を向けると、霊木の太い枝に横たわり瓢箪から直に酒を飲む小鬼の姿。
「萃香っ! あんたまでっ!」
「いやいや、中々色っぽかった。憶えておくといい。男なんざ涙を見せればイチコロだぞ? あの涙なら落ちない男はいまい」
 天井板から上半身をぬっと突き出し、顎に手を当ててうむうむと頷く悪霊。 
「魅魔! あんたもなのっ!」
「あぁ、でも泣く霊夢ってのも中々レアねぇ。可愛かったわぁ」
「うんうん、これぞ鬼の目にも涙。私が言うこっちゃないけどさ」
「しかし霊夢も随分と成長したもんだ。昔はころころと可愛かったもんだけど。あ、今もちっちゃくて可愛いけど」
 三者三様好き勝手に騒ぐ。女三人寄れば姦しいと言うが、こんなに性質の悪い姦(やつら)など空前絶後、三国無双であろう。
 霊夢は俯きながら顔を真っ赤にし、肩をぶるぶると震わせて、
「あ、あんたら……い、いつから見てたの?」と問い掛けた。
 それに対して三人は、一瞬顔を見合わせた後、悪魔のような微笑みで、

「「「最初から」」」

「死ねぇぇぇえええ! 貴様らっ!!」
 霊夢の怒りの夢想封印が炸裂し、境内に色とりどりの華が咲いた。
 気が付けば雨も上がり、一週間振りの太陽が照れ臭そうに覗いている。差し込む光が神社を照らし、東の空に鮮やかな虹が橋を架けた。


「お、何か賑やかだな?」
 箒に跨った普通の魔法使いがやってくる。
「あら、何か騒がしいわねぇ」
「いつもの事ですわ。お嬢様」
 日傘を差した吸血鬼の主従もやってくる。
「何やら美味しそうな気配が〜」
「幽々子さま、そっちは神社です。食べ物なんかありません!」
 ふらふらと冥界の主従もやってくる。
 まるで雨が止むのを待っていたかのように、人も妖怪も幽霊も妖精も、次から次へとやってくる。

 これが日常。
 喧しくて、姦しくて、落ち着きなくて、トラブル続きで……だけど掛け替えのない日常。
 当たり前のようで当たり前じゃない、これが博麗神社の日常。
 霊夢は無数の符を構え、逃げ惑う人妖たちを裸足で追いかけながら


 ――口元に笑みを浮かべた。




 §




 昨日までの雨が嘘のように晴れ上がり、冬が始まる前の、天からの贈り物のような暖かい日差し。
 晴れも雨も、春も冬も、廻る日常の一欠片。
 色鮮やかな弾幕が飛び交い、人を喰らう妖怪と酒を酌み交わし、時に激しく、時に緩やかに、日々を過ごす幻想郷の住人たち。
 外の世界で失われてしまった幻想。そんな泡沫の夢を今も育み、紡ぎ、繋いでいく。
 それは少しも特別な事ではなく、だけどとても大切な、


「妖怪? あぁ、毎日くるわ」


 日常の――一欠片。



           



                              《終》
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1.無評価Jimbo削除
The answer of an exrtep. Good to hear from you.