穂積名堂 Web Novel -既刊公開用-

『悠々来々 〜Voyage ××××〜』

2008/08/17 16:53:38
最終更新
サイズ
71.23KB
ページ数
1
閲覧数
3685
評価数
0
POINT
0
Rate
5.00

分類タグ

『悠々来々 〜Voyage ××××〜』

 ※ご注意

 この作品は2006年の例大祭において『空蝉』という同人誌にて公開したものです。
 文花帖、求聞史紀、儚月抄などの発表前であり、永夜抄の設定を元に書いております。
 そのため設定や世界観もオリジナルのものとなっています。ご了承ください。





    1

 いつからか、私はこの場所にいた。
 ここに座って空を眺めていた。
 最初の記憶は既に歴史の彼方に消えてしまって、どれだけ手繰り寄せてもぼんやりと霧がかったかのように、それを見ることは叶わなかった。
 ただ一つだけ、いつも霧の向こうに一瞬だけ見える青々と葉を茂らせた大きな木。それが何を意味しているのか私には分からない。少なくとも、私が覚えている限りその大きな木があるべき場所には、ただその生命の営みを終えた真っ黒な切り株があるだけだった。ならばそれこそが掴む事すらできなくなった最初の記憶なのだろうか。
 でも、今となってはその手がかりの木も半ば炭と化し、それ以外には何もない。人里離れた小高い山の上、誰かが整地したかのように、山を緑に覆う木々もここまでは届かず、まるでそこだけ世界に忘れられてしまったかのように、ぽっかりと空いた場所。
 膝元あたりまで伸びた草が隙間なく生え揃い、吹き抜ける風にその身を波のように揺らしている。
 そんな山の上の小さな海の真ん中に浮かぶ黒い島。ずっと変わりない景色。文字通りそこは世界から取り残された場所。
 とりたてて何もない。
 遠くに小さく見える人里もその姿はいつまでもそのままで。
 だからだろうか、ここにいると、ここに座っていると、何故だか心が安らぐのは。
 世界に置いていかれた場所。
 世界に置いていかれた私。
 過ぎ行く時間の中で、変わり行く世界の中で、変わらない場所、変わらない私。
 変われない私――。
 でも、それでいい。
 変わる必要もないし、蓬莱の薬によって縛られたこの身は元より変わることも出来ない。
 明日を待ち望んでみても、また今日という日がやってくるだけ。
 どうにか明日を掴もうとしても、手が届く頃にはそれも今日になっている。
 ならばいっそ眠り続けてみたところで、夢は永遠に昨日を語り、明日どころか今日だって映してくれやしない。
 ならばせめて、回り続ける世界の外から今日という日を眺めていられれば、それでいいじゃないか。
 幸いにして、私には彼女がいてくれている。
 この止まった時間、ただ流れていくだけの退屈な日々の中で、彼女――慧音の存在だけが唯一の救いだった。
 自身も半分は妖怪でありながら、それでも人として人のために全力で生きるその姿に、私はどこか憧れていたのかもしれない。
 明るくて誰とでもすぐ打ち解けられる。誰かのために何かが出来る。
 人との関わりを止め、世界から外れた私にはないものを、慧音は全て持っていた。廻る世界の中心にいながら、そこから外れた私を呼ぶその声だけが、私を明るく照らしてくれていた。慧音がいればそれでいい。そんな事さえ思っていた。
 でも時は流れ、季節は巡り、世界は廻っていく。
 何も変わらない、繰り返す日常。日が昇って、月が沈んで。それだけ。それだけでいいんだ。たとえこの先どれだけ時が過ぎても、ずっとこのまま。未来永劫、永遠にこんな日々が続くんだと思っていた。
 けど、彼女は違ったんだ――。
「……ま、考えていたってしょうがないよね、こんな事」
 溜息一つ。見上げた空。
 いつの間にか闇はそこから姿を隠し、薄い蒼が広がっていた。東の山の裾は赤く縁取られ、じきに太陽が顔を出すのだろう。
 少し視線を下げてみれば遠くに見慣れた里の中、誰の家だろうか、白い煙が昇っているのが見て取れた。
「こんなに朝早くから起きてる人もいるのね」
 他人の事は言えないかな、なんて言いながら背中を丸めてごろんと後ろに転がってみる。そのまま頭の横に両手を着いて、そこから反動で一気に跳ね上がった。
 一瞬、体が宙に浮いて緑の海――草海とでもいうのだろうか――に着地。うん、我ながら惚れ惚れするような出来だわ。
 朝の空気を目一杯吸い込んで、組んだ両手を思いっきり上に伸ばしてひと伸び。振り向いてみると、太陽がようやく顔を出してきたところらしく、その眩しさに目を細めた。
 全身を照らす太陽に背を向けて、もう一度里の方を見る。
 一目で全てが収まってしまうほどに小さな里も日の光に照らし出され、律儀に朝を知らせる鶏の声が遠くに聞こえた。そしてそんな里のはずれにある高台の上の一軒家からも、いつの間にか白い煙が昇っていた。
「あらら、あちらさんも随分と早いねぇ」
 その家に住む者の顔を思い出して、くすりと笑みを零した。
 そういえば家に来ると言っていたのは今日だったか。
 いつの日だったか、私から慧音に言い出した事。
 蓬莱の薬を飲んでからというもの、世俗から逃げるようにして生きてきた中で私は様々な事を身に付けていった。
 というよりも、身に付けなければ生きていけなかった。
 生きる事ができなければそこには死が待っているだけ。
 そして死を忘れたこの体ならばそれすらもなんら問題はない事なのだが、なにもわざわざ自分から進んで死のうなどとは思わない。結果として私は一人で生きる術を自然と学び取っていっていた。食べられる草や木の実、茸等の見分け方。獣を狩るための罠や武器の作り方。それらを実践する内にその生態も自ずと見えてくる。活動時間。活動範囲。餌となるもの。餌の捕り方。逆にこちらが狩る際の行動。どうすれば気づかれずに近づけるか。どうすれば最も早く仕留める事ができるか。捕らえた後の解体の仕方から調理の仕方まで。
 更には季節ごとの天気の移り変わりや、野菜の栽培方法などもいつの間にか覚えてしまっていた。他にも今となっては実行する事はないと思いたいが、盗みだとか追い剥ぎだとか、山賊紛いな事をしていた時期もある。
 そんな生活の中で身に着けた業の一つに、ちょっとした生活道具の製作なんてものもあった。幸いにしてこの辺り一帯には竹が豊富に生えているので、材料には事欠かない。一言で竹細工といっても、これで結構色んな物が作れるのだから中々に侮れない。ここに来るまでの旅の中で知り合った人に教えてもらった合わせ編みなんて技法も、今ではすっかりお手の物になっている。使いやすさだけでなく、見た目も綺麗な私の竹細工は人々の間でもそこそこに評判は高かった。
 もっとも、どれだけ高評を得ても私は同じ土地には長くいられない。何度かこの人なら、この場所ならと留まってみた事もあったが、結局どこでも私の正体を知って尚同じように接してくれる人はいなかった。そんな事を繰り返すうちに私は人の世を捨てて時には獣のように、時には山賊のように暮らしていたのだが……それも今は関係ない事か。
 そういえばあの時私に合わせ編みを教えてくれたのは誰だったか。それまでに得た技術を活かして行商人の真似事をしていた時代、市の中でも閑古鳥の鳴いていた私の場に現れたその人は、並べられた商品を見るやいなや「見た目が悪い」などと言い放ち、その一言で逆上してしまった私を軽くいなしてくれたのは今でも忘れられない。その後、私の何が気に入ったのか色々な事を教えてくれたのだが、果たしてそれがどんな人だったのか。顔は? 声は? 名前は? 今となっては全てが思い出せない。思い出せるのはそう、とても綺麗な、長い銀の髪……。
 自分の髪も似たような色をしてはいるが、それとはまた違う、日の光を浴びて輝くその髪だけははっきりと覚えている。
 銀の髪というと一人その姿を思い出すが、間違いなく別人だろう。そもそもあの人があいつだというのならば、その場にあの女もいたはずなのだ。それにあいつ――永琳がたかが人間如きを助けるような真似をするだろうか?
 ……いけない、またしても話が逸れた。
 ともあれ、紆余曲折あって今この場所に辿り着いた私は慧音と出会い、ようやく腰を下ろす事が出来たのだ。
 私は人里には出て行けないし、里の人のために何かをしようとも思わない。けれど、その何かをする事によって慧音が喜んでくれるのなら、それもいいかもしれないと思った。
 私が里の人たちの役に立てるような物を作り、それを慧音に渡して持っていってもらう。竹細工だけじゃない。焼き物が作れるように釜戸だって作ったし、その気になれば鉄の加工だってできる。今里で使われている日常の中の道具の半分近くは、私が作った物らしい。いつの間にそんなに数を作ったのかは覚えていないが、それでも慧音には誰が作ったのかは秘密にしておいてもらっている。ようやく安定した生活が出来るようになったのだから、わざわざそれを壊すような真似はしたくないのだ。それに、元よりそれらの全ては慧音のために作った物ともいえる。ならば私が里の人たちから礼を言われる筋合いもないだろう。
 そして今日は頼まれて作り溜めておいたそんな物たちを慧音が引き取りに来る日。頼まれた分は全て完成しているので後は渡すだけなのだが、それとは別に渡したい物があった。
 昨日の夜に唐突にその事を思い出し、普段は日が昇りきった辺りで起きるところをまだ夜も明けない内からこうして材料を求めて出歩いていたのだった。
 その途中、ふと気が向いてこんな所まで来てしまったが、そろそろ戻らないと慧音が来るまでにソレを作り上げる事ができるか怪しくなってくる。
 改めて空を見る。
 太陽はそろそろ山の裾からその身を離そうとする頃合。
 朝早くから散策したおかげか、いい材料も手に入った。
 これならば慧音が来る頃にはきっと間に合うだろう。
 私は上体を二度三度と左右に捻ってほぐすと、もう一度大きく伸びをした。
 朝日に照らされた世界の中で、また今日が始まる。
「これでいい。何も変わらない、昨日と同じ今日で私は十分幸せだよ」
 漏れ出たその言葉は果たして誰に向けて言ったものなのか。私はにわかに活気付いてきた里に背を向けて、草海を後にした。



    2

 昼も過ぎた頃、一日の中でその頂点にまで昇った太陽から降り注ぐ初夏の陽光も、天をも覆いつくさんとする竹の葉に遮られて。けれど大地に届く光は決して少なくはなく、かといって眩しいほどに多くもない。吹き抜ける風と相まって夏晴れのこの日もその場だけは暑さを忘れさせていた。
 この竹林に巣食う妖怪の類も今は大人しく。風に揺られて擦れ合う竹の葉のかさかさという音と、どこで勘違いをしたのか、その中の一本に止まっているミンミンゼミの高らかな鳴き声がひとつ。
 辺りに人の気配は無く、また人が通るような道も無い。そんな竹林の奥深く、無造作に生え並ぶ竹に隠されるように建つ一件の家が私の家だった。これを家と呼ぶには少しおこがましいような気もするが、まぁ庵といった方が適当だろうか。外壁は薄汚れ、一見すればとても人が住んでいるとは思えないようなこの庵だが、最初はもっと酷かったものだ。

『慧音……これ本当に住めるの?』
『まぁ修繕すれば住めない事もないとは思うが』
『ここまでくると修繕というより完全に建て替えよね』

 当時の事を思い出して、また少し笑う。
 思えば私と慧音も出会った頃から何も変わってない。
 お互い付かず離れず、いつまでも微妙な距離のまま。
 けれど、その距離を保ってこれたからこそ、まだ私はここにいる事ができている。それこそ普通の人間ではなしえない程の長い時間を共にしてきた私たちだが、互いの事で知らない事はまだまだあるだろう。私が意図的に避けてきた面もあるが、その一線を越えてしまえば、また私はここを追い出される事になるだろう。いや、それもおこがましい事か。追い出されるならまだ私も黙ってそれを受け入れる事もできる。それに慧音は私を追い出したりはしないだろう。あるとすれば、私が自分からここを出て行くという事だろうか。それもまた慧音は止めてくれるだろうけど、きっと私はそれに耐えられなくなる。
 そう、多くは望まない。
 慧音が蓬莱の人である私を受け入れてくれている、ただその事実があるだけでここは私にとって正に蓬莱の地。
 長い旅路の果てにようやく辿り着いた、最後の楽園。
 そこでふと、自分の手が止まってしまっている事にようやく気付いた。
「……考え事しながらじゃあ、いい物は作れないよねぇ」
 私は改めて左手に持った小刀を握りなおし、右手に持った竹の上を押し出すように滑らせていく。
 滑らせる度にシャッという軽快な音と共に削られて丸まった木屑が床へと落ちる。
 二度、三度。
 シャッ、シャッ。
 それはどこか調子付いてきて、紡がれる音は旋律を奏でてやがて歌となる。
 私はこの歌が好きだ。
 ひとつ紡がれる度に竹はその姿を変えていく。初めはただの竹でしかなかったそれが、新しい何かへと変わっていく。
 その経過を見るのが、私は好きだった。
 そして今、竹だった物は小さな細長い一枚の板となって私の右手に握られている。中心に桐で開けられたふたつの穴、そこから左右に伸びる緩やかな傾斜。片方は右から左へ。もう片方は左から右へ。ふたつの傾斜はまるで鏡で映したかのようにぴたりと一致するのではないかというほどの精密さ。これならば文句はないだろう。
 板の端を親指と人差し指で摘んで、格子の窓から入る太陽の光に照らしてみる。
「んー……上出来上出来」
 持てる技術の全てを賭して作った一世一代の芸術品とも言える一品は今この時をもって完成したのだ。
「でーきたー!」
 ひとつの事を成し遂げた達成感やら開放感やら嬉しさやらで、思わず叫びながら両手を振り上げてガッツポーズをとってしまった。
 そのまま木屑だらけになった床の上にばたんと背中から倒れこみ、暫し余韻に身を浸す。そういえばこれの作り方を教えてくれたのもあの人だったか。商品としてではなく、技術以外で唯一私に残してくれた形ある物。あれに比べれば、私のこれなどもまだまだ足元にも及ばない。あの人は今頃どうしているだろうか……なにを馬鹿馬鹿しいことを。あの人と出会ったのはいつの話だ? もう死んでいるに決まっているじゃないか。そもそも――
「今日はまた随分と過激な出迎えだな?」
 突然かけられた声にどこかに飛んでいた意識が引き戻される。長く一人でいるとどうにも独り言や思考への没頭が多くなってきて困る。とりあえず私は軽く現状を確かめると、寝転んだ状態のまま首だけを左に向けて声の主へと顔を向けた。
 すると、丁度中に入ろうとしていたところだったのだろう、そこには半分ほど開けた戸口に手をかけた少女が一人。やれやれという風な顔から少し視線をずらしてみれば、すぐ横の戸板にはしっかりと突き刺さった小刀が一本。
「妹紅、いい加減そのなんでも放り投げる癖はなんとかならないのか?」
 はぁと溜息を吐きながら戸板に刺さった小刀の柄を握ると、そのまま、ぽん、という小気味のいい音と共にそれは引き抜かれた。
「あぁ慧音、来てたんだ」
「来てたんだ、じゃない。危うく三本目の角が生えるところだったぞ」
 ふむ、そう言われて少し考えてみる。


 闇に紛れて蔓延る悪の前に立ちはだかるひとつの影。
「そこまでだ!」
 満月を背にしてかっこよく登場したのは白澤となった慧音の姿。その頭にはそれを象徴する立派な角が二本、おまけに額からもう一本。更におまけで今ならリボン付だ。
「弟子をその手にかけただけでなく、罪の無い兎たちまで無理矢理実験台にしていった八意永琳! その所業、許せん!」
 決めポーズと決め台詞をビシっと決める。
「師匠! ここは私に任せてください!」
 だが、互いに睨み合うその最中に飛び込む新たな影。
 見ればそれは永琳が作り出したアンドロイド、コードネームUI○―一○○○。通称レイセン。
 かつて王立大学の生徒だった永琳が極秘に行っていたとある実験の途中、実験体が暴走。それを止めようとした弟子の鈴仙(二人とも同じ大学の生徒であったが、助手役を務めていた鈴仙は永琳の事を師匠と呼び、永琳もそれを受け入れていた)が暴走した実験体に殺されるという事件があった。
 永琳は絶望し、それ以降研究の一切を止め、そして大学を去った。
 だが、彼女は諦め切れなかった。鈴仙を失った悲しみはその方向を変え、そして創り出されたのがレイセンだった。
 それをきっかけに、永琳は闇に葬り去ったはずの研究を再開。だが禁忌とされた蓬莱の薬を完成させるには多くの実験体が必要になる。そこで目を付けられたのが兎たちだったのだ。永琳が大学に在学中の頃からの仲であった慧音は、そんな彼女の行動にいち早く気付き、それを止めるべく単身研究所に乗り込んでいったのだ。
「退きなさいレイセン。これは私自身の問題。私が自分で片をつけなければいけないのよ」
「永琳! お前の罪は人にも法にも裁けはしない。だから私が裁く!」
「本気……なのね」
「いくぞ! 裁くのは私の弾幕だッ――!」
 そして今、慧音と永琳、お互いの正義をかけた最後の戦いの火蓋が切って落とされたのだ。


「慧音……それはどうかと思うよ?」
「何を想像していたのか知らないが、見ろ、しょっちゅうお前が何かしらを投げ回すから、壁がどこもかしこもぼろぼろじゃないか」
 なるほど、見渡してみれば確かにぼろぼろと言われても仕方のないような壁だ。穴が空いたりへこんだり、一部土壁が剥がれ落ちている部分もある。そういえば、最近矢鱈と虫が入ってくると思っていたらこれの所為だったのか。
「このままだと今年中にはここも元のぼろ家に逆戻りだな」
 むぅ、それは困る。
 あの触れただけで崩れ落ちてしまいそうな庵を建て直すのにかかった労力と苦労は忘れられない。いくら私が大工の真似事までできるといっても、一人でひとつの家を建てるのはそうそう容易いことではない。仕方がない、また暫くしたら寒くなってくるだろうし、それまでには直しておこうか。
「よ――っと」
 寝転んだまま脚を高く上げて、それを振り下ろす勢いで起き上がる。そこで一区切りと思ったのか、慧音もようやく戸を閉めて中へと入ってきた。
 入ってすぐの土間には竈やら水場やらがあり、そこを三歩も進めば膝ほどにまで上げられた木張りの一間。その中央には囲炉裏があり、上を通る梁から吊るされた自在鉤の先に空の鍋がかけられている。
 まぁそれだけと言ってしまえばそれだけなのだが、一人で寝起きする分には何も問題はない。
 居間の手前まで来た慧音から、先ほど抜かれた小刀を受け取る。確かにこんな物が額から生えているのも嫌だろう。
「ごめんごめん。慧音がいるなんて思わなかったからさ」
「まったく。お前が刃物を握っているとおちおち釜戸の前にも立っていられないな」
「わかった。次からはちゃんと見てから投げる」
「そもそも投げるなと言っているんだ」
 そんな軽いやりとりもいつもと変わらず。私もまたいつものようにはははと笑っていた。それを見た慧音の顔が一瞬だけひどく哀しそうに見えたが、それは瞬きをしたほんの僅かな間の事だったので、私は気付くはずもなかった。いや、あえて気付かない振りをしていたのだろうか。
「とりあえず上がってよ。今お茶の用意するから」
「ああいや、それくらいなら私がやるぞ?」
「いいからいいから、慧音は座っててよ」
 別に負い目を感じていた訳でもないが、慣れ親しんだ相手とはいえそんな事まで任せる訳にはいかない。
 しかしそんな事は表に出す必要もない。出してしまえばまた慧音に余計な心配をかけさせるだけだし、そこから小言に発展するのだけは勘弁願いたい。
 慧音を半ば無理矢理に居間へと上げて、自分は台所へと向かう。台所と言ってもそんなに立派なものではなく、玄関口から入った土間の隅に竈があり、そこに隣接するように流し台と水瓶があるだけ。調理台などといったものもなく、野菜などを捌く時は流し台の上に板を渡し、それをまな板代わりに使っていた。
 竈の上に備え付けられた戸棚から片手で湯のみを二個手に取り、もう片方の手で竈の横にある七輪の上に置かれた薬缶を取る。昨日沸かしたものだが、まぁ大丈夫だろう。
「ほい」
「ん、すまない」
 湯飲みのひとつを慧音に手渡し、そこに薬缶の茶を注いでいく。すれすれまで注ぐと、慧音は慌てて湯飲みに口をつけてずずずと啜った。
「なにをするんだ」
「わざとじゃないよ?」
 もう一度はははと笑いながら、私は囲炉裏を挟んで慧音の反対側へと腰を下ろして胡坐を組んだ。
 自分の湯飲みへと茶を注いでいる間も、慧音はきっちりと正座をして両手で包み込むように持った湯飲みを傾けている。しかし、最初は澄ましていたその顔も次第に眉の両端が下がり、眉間にいくらか皴を寄せるとなんとも渋い顔をして私の方を見てきた。
「妹紅……」
 名前を呼ばれたがそれには答えず、私も湯飲みを傾けてみる。茶を一口飲んでみたところで、自分もまた渋い顔をしているのがよく分かった。
「ずっと茶葉を入れておいたら駄目だろう」
「あー……移し変えるの忘れてたよ」
 自力で掘り下げた井戸から組み上げた水はとても綺麗で、それを使って沸かした茶はたとえ一日経っていようともなんら問題は無かった。けれど、一晩中入れられていた茶葉の所為ですっかり出すぎてしまったその茶は、本来の旨みを僅かに残しながらも、そのほとんどは苦味によって占められていた。でもまぁ、飲めない訳じゃない。結局私と慧音は無言のままその渋いお茶を傾けていた。
「しかし珍しいな。お前が直前まで作業をしているなんて」
 湯飲みの中身を全て飲み終えたのか、慧音がふぅと息を吐きながらそんな事を言った。
 私が足元に置いていた薬缶を軽く持ち上げてみせると、片手を上げて制されてしまった。どうやら渋い茶はあまり評判がよろしくなかったらしい。
「んー、頼まれた分はとっくに終わってるんだけどね。他にちょっと作りたい物があったから」
 残っていた茶を一気に口の中に流し込み、湯飲みをどんと床にたたきつけるように置いた。その姿勢のまま、暫し沈黙。
まいった、ちびちびと飲んでいたからそこまで気にしていなかったが、この茶は相当に渋い。渋すぎると言ってもいいかもしれない。いや、渋すぎる。断言しよう。でもここで退いてしまうと、それは負けを認めるようなもの。だから私は気にせず足元の薬缶を手に取り、湯飲みに二杯目を注いだ。
「ほら、前に言ってたでしょ。欲しがっている子がいるって」
 湯飲みを傾け、一気に半分ほど飲んだ。一度経験したにもかかわらず、その茶は心なしか先程よりも余計に渋くなっているような気がした。
「む……私が何か言っていたのか?」
 正座をしたまま顎に手を当てて考える慧音を眺めつつ、残るもう半分を流し込む。苦い。
 だけど慧音が自分の言った事を忘れるのも珍しい。確かに一見なんでも出来そうな慧音だけど、時折なんでそんな事がと言いたくなるようなところで抜けている部分もある。まぁそんなところも含めて慧音らしいんだけど。
 私は再び空になった湯飲みを今度はそっと置いて、ぐるりと回りを見る。先ほど小刀と一緒に放り投げてしまったであろうそれは、幸いな事に手の届く範囲ですぐに見つかった。私は木屑に埋もれたそれを拾い上げると、ふっふっふっ、と少しわざとらしく肩を震わせた。
「じゃーん。こんなん出ましたー」
 それを持った左手をびしっと掲げてみる――も、慧音からのリアクションは無し。その格好のまま固まる事幾許か。僅か数秒であったであろうその間に耐え切れなくなって叫びだす前に、私はそっと左手を下ろしておほんとひとつ咳払いをしてみた。あぁ、なんだか慧音の視線がとても冷たい気がするのは気のせいだろうか。気のせいだといいな。
 取り繕うようににへらっ、と笑ってみせてみる。
 慧音の視線が一段と厳しくなった。
 失敗。
「ま、まぁそのなに? 里の子供が何か遊び道具が欲しいとか、そんな話をしてたじゃない?」
 すっかり言い訳くさくなってしまった。ほんと自分でも何を言っているのだろうかと思えてきてしまう。
 それでもなんとか話題を逸らす事には成功したようで、慧音は再び顎に手を当てて考え込む姿勢に入った。その事に安堵しつつ、手持ち無沙汰になった私は慧音が思い出すまでのその間、手の中にあるそれをくるくると回してみる。
「ああそうか。そういえばそんな事を言っていたな」
 どうやら思い出したようで、慧音が両手を胸の前でぽんと叩いてみせた。自分から振っておいてなんだが、思い出すのに時間がかかるのも無理はない。なぜなら――
「それにしても、また随分と昔の事を掘り返してきたな?」
 そう。この話を聞かされたのはもう随分と昔。あの時子供だった者も今ではすっかりいい大人である。私自身でさえも、なぜ今更そんな昔の話を持ち出してきたのかは分からない。強いて言うなれば、何かしらの理由が欲しかっただけなのかもしれない。
 私は無言のまま、手の中でくるくると回していたそれに少し勢いを付けて上へと押し出してやる。するとそれは上の板の部分だけが軸となっていた棒から離れて天井へと向かって舞い上がっていった。
 やがて頭上に渡された梁の辺りで上昇を止めると、回転の勢いを緩めながらゆっくりと高度を下げていき、最初から一寸違わぬ場所で構えていた私の中へと再び帰ってきた。
「ほう……竹とんぼひとつでそんな事もできるのか」
 感心したように呟いた慧音に、はははと笑って答える。
「でも今時の子供たちはこんなのじゃ遊ばないかな?」
「いやいや、十分だよ。なんだかんだと言って子供の遊びは昔からそう変わるものでもないからな」
「そうなんだ? いやでも安心したよ。これで要らないとか言われたら、ショックでどこかの馬鹿みたいに引き篭もるところだった」
「それが誰の事なのかはあえて聞かないが……。でもいつもすまないな。私も何か手伝えればいいのだが」
「ほんと、慧音ってなんでも出来そうなのに、こういう事になったら途端に不器用になるんだもんねぇ」
「むぅ……」
 私が手の中でくるくると回す竹とんぼを見ながら、慧音は小さく唸って口を閉ざしてしまった。
 いつからだったか、私がこんな事を始めて以来、慧音も気を利かせてか何度も手伝おうと言ってくれたのだが、その悉くが失敗という言葉で片付けてしまっては申し訳ないほどの大失敗。しまいには思わず『慧音……ありがとう』などと言ってしまったのも今となっては随分と懐かしい。聡明な慧音はその言葉を真摯に受け止めてくれたようで、それ以来その事については触れないという事が二人の間での暗黙の了解となった事は言うまでもないだろう。
 閑話休題。
 私はもう一度羽根板を先が二股に分かれた棒の先に乗せて、くるくると回す。今度は先ほどのようにそれほど勢いはつけず、十分な回転を伴った羽根板を押し出さずに棒を挟んで回している手を一気に下に下げた。
 すると、宙に放たれた羽根板はその場から一尺ほど浮き上がったところで、回転したままその高さに留まった。
 先ほどよりもずっと長く、僅かに上下しながらその場に留まる様子は正に羽根が生えたかのように。それを見ていた慧音も思わずほう、と感嘆の息を漏らしていた。
「大したものだな」 
「長い間生きてるとね、いつの間にかよく分からない事も出来るようになってたりするのよ」
 私は自分の顔より少し上を羽ばたいている羽根にそっと立てた人差し指を近づけていく。これもまた、いつの間にか出来るようになっていた事。
 回転する羽根板の中心に触れるか触れないかの所で人差し指を止める。
「なぁ妹紅……」
「んー?」
 指をそっと上に上げていくと、押し上げられるように羽根板も上へと昇っていく。逆に指を下げていくと、羽根板もそれに合わせて下がっていく。そしてちょっと弾くように人差し指をこん、と当てると、羽根板はその回転を保ったまま再び宙へと羽ばたいていった。
 ただ回して飛ばすだけなら誰にでも出来るが、このくらいにまでなるとちょっとは自慢も出来るだろう。
 久しぶりにやってみたが、どうやら腕は鈍っていないようだ。少し安心。
 そしてもう一度羽根板を下へと引き連れて、弾く――
「里に……来る気はないか?」
「……」
 だが、今度は先ほどのように再度宙へと羽ばたくような事はなく、歪な衝撃を与えられた羽根板は回転を止めてそのままからんからと音を立てて床の上に堕ちた。
「慧音」
 私は俯いたまま床に落ちた羽根板へと手を伸ばす。
「――ごめんね」
 なにも今日初めてそんな事を言われた訳じゃない。
 それこそ今まで何かある度に、いや、何もなくても慧音は私を里へと誘った。何度も、何度も。
 その度に私は同じ数だけ同じやり取りを繰り返してきた。今日もまた、同じ事の繰り返し。
「……そうか」
 小さく呟いた慧音が立ち上がる音が聞こえた。それはこの一時の談笑の終わりを告げる合図。
 それでも私はまだ顔を俯けたまま。
「慧音」
「ん?」
「……それ、頼まれた物、全部入ってる」
 居間の片隅に置かれた、背負うには少し小ぶりな籠を指差す。中には新しく作った物、修繕を施した物、日用品から装飾品まで様々な物が入っている。別に私は里の人たちの為にこんな事をしているんじゃない。ただ、そうする事で慧音が喜んでくれるから。笑ってくれるから。
 なのに――
「確かに受け取った。いつもすまないな」
「……ん、大丈夫」
 なにが大丈夫なのか。結局土間へと降りた慧音が靴を履いて立ち上がり、戸口を開けたところで立ち止まって振り向いても、私はまだまだ俯いたまま。
 それでも二人、押し黙ったまま。
「……また来る」
 そんな呟きを最後に、戸はぴしゃりと閉められた。
 しんと静まり返った部屋の中。どこからかちちち、と雀の声が届いてきた。同時にぐぅ、と腹が鳴る。
「あー……もうちょっと時と場合を考えないかね、この腹は」
 ずっと作業に集中していた所為で気付いていなかったが、格子の窓から見えるのは強い午後の日差し。時計が無いので正確な時間は分からないが、昼を過ぎているのは間違いないだろう。
 小難しい事は考えていても仕方がない。
 腹が減ってはなんとやら。土間の隅に立てかけられていた箒を手に取り、木屑の散乱した居間を簡単に掃いていく。いつもなら雑巾がけまでやるところだけど、今日のところはとりあえず後回しでもいいかな。
 ある程度片付いたところで、昼食の準備に取り掛かる。不死の身体となったこの身なれば、何かを食べるという行為も必要ないように感じられるのだが、如何せん腹は減るし眠くもなる。怪我をすれば痛いし動き続ければ体力も底をつく。
 蓬莱人といったところで、死なずの身ではあるが、さりとて人と変わる事もない。なんとも中途半端なものだ。
 いっそ人としての全てを失ったのならば、諦めもついたのだろうか……。
 それこそ考えても仕方のない事。一人で起きて、一人で食事をして、一人で寝る。何年も続けているうちにすっかりそれらの事にも慣れてしまった。今更一人が寂しいとも思わないし、それが不幸な事だとも思わない。
 蓬莱の薬を飲んでから暫くは生きながらにして地獄を味わうような事が続いていた所為か、ちょっとした事ではどうとも思わなくなってしまった。何事もそれが続いていけばやがては慣れてしまい、薄れていってしまうもの。不幸が続けば不幸が薄れ、幸せが続けば幸せだって薄れてしまう。
 他人から見たら今の自分がそのどちらになるのかは分からないが、私としては別にそのどちらであろうと構わない。私は今の生活に十分満足しているし、所詮他人は他人なのだ。自分がここにいるんだから、それでいいと思っているし、これからもそれは変わらない。
「でも、昔は違ったのかなぁ」
 流し台の上に渡したまな板の上で野菜を刻みながらふと呟いた。ここでの生活が非常に安穏としている所為で忘れていたが、昔はそれこそ「生きる」事にもっと必死だったように思える。
 死なない身体となり、永遠に約束された生。
 願わなくとも手に入るそれを、何故そこまでして追い求めていたのか。そこまでして私は何をしたかったのか、その果てにどうしてここに辿り着いたのか。
「私は何をしていたんだっけなぁ……」
 自分の中の歴史を反芻してみると、辿り着くのはあの半ば炭と化した切り株が佇むあの場所。けれど、そこにあるのは切り株などではなく、悠々と葉を茂らせる一本の巨木。揺れ動く葉の間から覗く日の光は宝石のように輝いて。そしてその木の袂に――
「――つッ」
 指先に感じた痛みに手を止めてみると、人参に添えていた右手の人差し指に赤い筋が走っていた。
「今日はなんかこんなのばっかりね」
 我ながら情けないにもほどがある。
 今日の自分はどうにかしていた。そう結論付けて再び左手の包丁を握りなおす。
 考えたって仕方のない事なら、考えなくてもいい。いくら悩んでみたところで、どうせ答えなど出てはこないのだから。
 生きる意味などはそれを求める者がいて初めて意味を成すもの。
 私には何もない。とりたてて目標があるわけでもなく、叶えたい願いがあるわけでもなく、今やっている事だって、全てはただなんとなくで済まされてしまうだろう。
 私には明日なんて勝手にやってくる。ただ過ぎていくだけの毎日に不満があるわけでもない。
 ならそれでいいじゃないか。十分だろう?
でも昔は違った。何かが今とは違っていたんだ。
「私は何がしたいんだっけなぁ……」
 答えは返ってこない。
 でもひとつ。たったひとつだけ分かった事があった。
「味付け間違えたかな?」



    幕間

 長い廊下を歩いていく。
 一見すれば果ての見えない一本道が何処までも、それこそ永遠に続いているのではないかという錯覚まで起こしそうなほど。
 板張りの床は一歩歩くたびにきしきしと音を立て、過ぎた歳月を物語っている。
 そしてこれほどの長さを誇る廊下にも埃などはなく、細部に至るまで綺麗に磨き上げられていた。それもイナバ達の日々の努力の賜物だろう。
 私は歩く。永い廊下を。
 左右に襖が立ち並ぶその様は、ずっと同じ場所を歩き続けているようで、慣れぬ者であればたやすく迷わせてしまう無限回廊。でもよくよく見てみれば、同じ物などひとつもないという事がすぐに分かる。床の木目、消えずに残った襖の微かな汚れ、どんなに手入れを施しても永い時の中でそれらは少しずつ変わってく。そしてその変化に気付くことが出来れば、進むべき道は自ずと見えてくる。
 言うなれば、この廊下は人の生き方そのものとも言えよう。それは永遠の命を持った私としても同じ事。不変となった魂は器となる肉体が朽ちれば新しく器を作り出す。何度も何度でも、蓬莱の薬によって固定された魂の情報の通りに同じ器を作り続ける。けれど、器は同じでも中身は違う。蓬莱の薬を服用してからも成長する唯一のもの。それがある限り、私達は同じでありながら一瞬たりとも同じであることはない。そう、この廊下のように。
 私は歩いている。永い廊下を。
 そこでふと立ち止まって、後ろを振り返ってみた。前も後ろも同じような景色が続き、その先は闇に消えて見えない。もう一度前を向いて、後ろを向いてみた。
「姫、どうかされましたか?」
 一歩下がった横から私を呼ぶ声。
「別に、なんでもないわ」
 私は後ろを振り返った姿勢のまま答える。今更見なくとも手に取るように分かる。隣にいる彼女がどんな顔で、どんな仕草でその言葉を口にしたのか。
「ねえ、永琳」
 それは向こうも同じ事だと思う。今私がどんな顔で、どんな仕草で、何を思っているのかも全て見透かされているのだろう。でも、私はあえてそれを口に出す。言葉にして彼女に伝える。果たして彼女はなんと答えるだろうか? それを考えるだけでも面白い。
 永琳は黙ったまま動こうとしない。全てのシミュレートは終わっていて、後は私の言葉を待つだけなのか。それとも案外何も考えていなかったりするのだろうか。
「私、今後ろを向いてみたのよ」
「そのようですね」
「でも、誰もいなかったわ」
「既に皆食卓の方へ行っているかと」
「あいつもちゃんと向かったかしら?」
「……珍しいですね、姫が他人の心配をするなんて」
「失礼ね、私はそんな血も涙もないような女じゃないわよ」
「では、ご自身で呼ばれに行ってみては如何ですか?」
「……でも私にできるかしら? かつて貴女がそうしたように」
「さぁ、どうでしょう。姫も面白いところで不器用ですから」
 おっと、この答えは少し意外だったわね。さてどう切り返したものか。
「……マッチくらいもうちゃんと擦れるわよ?」
「まだ三本に二本は失敗しますけどね」
 時々だけど、永琳は実はもの凄くいい性格をしているのではないかと疑う時がある。でも私は見なくても十分に分かっている。彼女が今どんな顔で、どんな仕草で、何を思っているのかでさえも。
 だって、必死に堪えようとしている間から漏れた笑い声が聞こえてくるんだもの。
 ほんと、いい性格してるわ。
 私だっていつまでも昔のままじゃない。マッチくらいはもうちゃんと擦れる……はず。
 そうして擦ったマッチの炎もまたあの時と同じようで違っていて。だからだろうか、私は今でも時折マッチの火で自分の指を焦がすことがある。それがどういった結果をもたらすかなんて、それこそ痛いほどによく分かっているのに、それでも私はその行為を止めようとは思わない。
 なぜそのような事をするのか。最初の内は純粋に面白がっていたのだと……思う。指先が焼かれる。それまでは知ることも出来なかったその感覚が楽しくもあり、嬉しくもあった。あそこにいた頃は面白い事なんて何もなくて、決められたとおりに過ぎていくだけの日々は退屈そのものだった。
 ――この体になるまでは。

『……私を信じてもらえますか?』
『私は何も信じないわ』

 この身を自ら炎に焦がすという行為は、結局のところここまできてもまだ永琳のことを信用していないという事なのか。
「姫、どうされますか? 必要とあらば私が『彼女』を呼びにいきますが」
「まさか、こんな面白そうな事、永琳には任せておけないわ。忘れたの? 私はね、面白い事が大好きなのよ」
 いつか、私にきっかけを与えてくれた小さな炎。いつか、私を連れ出してくれた大きな炎。私はまだそこに何かを期待しているのだろうか。
 分からない。
 ならばせめて焼き尽くしてもらいましょう。マッチの火なんてちっぽけなものじゃなくて、この世の全てを焼き払うような灼熱の業火で。
「忘れないで……尽きぬ辛苦に苛まされようと、無限の時間に精神が磨耗しようと、この世界で自分以外誰一人いなくなろうとも、それでも貴女はそこに在るのよ。そして……私達は確かにここにいるわ」
「? 何か仰いましたか?」
「いいえ、なんでもないわ。さぁ、行きましょうか」



    3

 あれから数日、今日も私は一人、山の中を歩いている。
 この道を歩くのも何度目だろうか。一本の細い獣道。辺りに伸びる夏草もその場所だけは土を見せ、頭上を覆う木々はさながら自然のトンネルといったところだろうか。
 あれから慧音とは会っていない。普段であればあのようなやりとりがあった後でも二、三日に一度は必ず来てくれていたのだが、何故か今回に限って音沙汰がなかった。
 だからといってこちらから出向くわけにもいかず、結局私はいつも待っているだけ。
「なにを今更……」
 慧音だってそう毎日暇な訳じゃない。里の方でもこれからの季節は収穫の準備だってあるだろうし、これからまた台風だって来るかもしれない。それに備えるための指示を出したりするのもまた慧音の仕事のひとつ。
 分かってる。分かっているんだ、そんな事は。
「別に……寂しいわけじゃない」
 ふと呟いた言葉。それはすぐに自己嫌悪に変わって、大きな溜息を吐いた。
 深い緑の匂いにふと顔を上げてみれば、枝葉の隙間から覗く太陽は今日も変わりなく、されど目一杯地上へと向けられた輝きは緑に柔らかい。緩やかな勾配の先にはまだ終わりは見えず、同じような獣道が草と木々の中へと続いていっていた。
「はぁ」
 額の汗を袖で拭いながら一息。落ち込んだ気分を変えようと目を閉じて大きく息を吸い込んでみる。聞こえてくる虫の声も、鳥のさえずりも、あの頃から何も変わらず。
(本当に?)
「え?」
 聞こえてきた声。
 どこから?
 人里から離れたこの場所は里の者はおろか、慧音ですら知らないはず。今までだって出会った事はあるのは下級の妖怪程度で、それすらもここ数十年は見かけていない。ならば今の声は誰のもの?
「空耳か……?」
 きょろきょろと周りを見回すが、それらしい姿はどこにも見えない。そこで私は初めて気がついた。
「ここは――どこだ」
 見慣れたはずの道、見慣れたはずの草、見慣れたはずの木。
聞こえてくる虫の声も、鳥のさえずりも、全部同じで、でもそれは違っていて。私はもう一度さっきの声を聞いたような気がして、再び歩き始めた。
 土の見えていた獣道をも覆いつくす夏草は更に青く、並ぶ木々は所々がどこか若く、遮る物が減った夏の太陽はその光を地上にまで届かせて。
 私の中の何かが伝えてくる。
 私はこの景色を知っている。
 今と同じ、だけど違うこの場所を知っている。
 歩き慣れていたはずの道を、草に覆われ見えなくなった道を掻き分けながら進んでいく。
 知っている。
 私はこの景色を知っている。
(覚えているの?)
 聞こえてきた声。今度は空耳なんかじゃない。
 知っている。
 私はこの声も知っている。
 そして歩いているのももどかしくなって、私は走り出す。
 そう、この道はあの場所へと通じている。あの木を越えればそこには広がる草海。
 もう少し。
(それとも思い出した?)
 もう少し。
(どっちかな?)
 きっとあるはずなんだ。いつも霧の向こうに一瞬だけ見えていた青々と葉を茂らせた大きな木。失われたはずの最初の記憶。何も信じられなくなって途方に暮れたあの日。最後に見つけたひとつの手がかかり。私は走っていた。そして出会ったんだ。あの場所で――、
(出会った?)
 そう、私は確かにあの場所で出会った。曖昧な記憶の中、まだそこだけ霧が晴れない。立っている。二人、向かい合って。二人? 違う、もう一人。私の前に立っていたのは――。
 その瞬間、一気に視界が開けた。木々のトンネルは終わりを迎え、遮る物のなくなった夏の日差しが容赦なく私の目を眩ませる。
「――え?」
足を止めて思わず目を瞑った明るい闇の中、聞こえてきたのはあの声ではなく、よく聞き慣れた、けれどもこの場所では絶対に聞くはずのない音。山々の間を通り抜け、麓から吹き上げてくる風に揺れる、枝葉の重なり合う音。
 恐る恐る目を開けていく。
 日差しを嫌って俯かせた顔を上げていく。
 そして目の前、確かに「それ」はそこにあった。
 見上げるほどに大きな体躯、揺らす枝先に茂る葉はより一層深く、それはまぎれもなく一本の巨大な木。
 夏の日差しもその下だけは影を作り、時折隙間から漏れた日差しが幾本もの光の筋となって地面に降りていた。
 そこには見慣れたはずの真っ黒に焼け焦げた切り株はない。記憶の中にあるだけだったはずのかつての姿。見回せばその巨木だけではない、この山全体が当時のままに、まるで自分の方が流れる時間の中で迷子になって昔に戻ってしまったかのように。
 目の前に聳えるそれは見れば見るほどあの日のままで。
 自分の頬を撫でる風が、揺れる草の音が、踏みしめる大地の感触がこれが幻ではない事を語ってくれている。
「一体なにが……」
 そう思いつつも、足は自然と木の方へ向かっていく。ふらふらと何かに誘われるように、自分が今どうやって歩いているのかも分からない。ただ一歩歩く毎に記憶の中の霧が晴れていく。あの日の自分へと戻っていく。もう少し、もう少しで見えるんだ。あの日、この場所で私の前に立っていた――
「わぷっ!」
 その時急に視界が暗転した。感じたのはじんじんと響く額の痛みと口の中に広がる土の味。草に足をとられたか、石に躓いたのか、あと少しで完全に晴れそうだった記憶は再び霧の向こうへと隠れてしまい、もうそこには誰の姿も見えなかった。
 手を付いて体を起こし、そのまま立ち上がる。
 ひょっとしたら今まで見ていた全ては幻で、もう一度顔を上げたらそこには何もなかったかのようにいつもと同じ風景があるのではないか、なんて事を思ってみたが、目の前には先ほどまでと同じように雄大に佇む巨木が聳え立っていた。
 やはり幻などではない。木の袂までいってその幹に手を当ててみると、それは確かに悠久の時を生きてきた、生きる木の手触り。見上げてみると、枝葉の間から覗く日差しが宝石のように輝いていた。
 ここは確かにあの場所で、確かにあの時で、そう思うとこの場所も変わってしまったのだろうか。今のこの場所にはもうこのような立派な木はない。あるのはただ真っ黒に焼け焦げた切り株がひとつ。
 そういえば、どうしてこの木はあんな姿になってしまったのか。
 かつてこの木が今見える姿だったのは恐らく間違いない。
 ここで何かがあって、この木は炭と化してしまった。
 何があった?
 私はその時ここにいたのか?
 記憶の中に飛び込んでいく。霧の向こうへと手を伸ばす。
 やがて見えてきたのは一本の巨木。
 違う、そこじゃない、もっと先だ。
 ここで何かがあった。そしてこの樹はその命を終えた。
 更に奥深く、霧の向こうへ、向こうへ――。
 やがて見えてきたのは赤と青、巨大な弓、月の下、輝く五色、叫んでいるのは――私?
「ようこそ」
 すぐ背後で、声がした。
「――ッ?」
 誰もいないと思っていた場所で突然声をかけられて、私の思考は中断される。最大限の警戒をもって振り返ってみると、そこには一人の少女が立っていた。にこやかに笑いながら。
 笑いながら?
 笑っている……んだろう、口元は楽しげにその両端を軽く上げている。だけどそれだけだった。どういう訳か、少女の顔はそこより上が闇に覆われていて見ることが出来ない。ただ口元だけが、笑みを作り出していた。
「ようこそ」
 少女はもう一度言った。
「だれ……?」
 私の声が届いていないのか、少女はただ笑っているだけだった。ほっそりとした体格に、腰元を越えるほどに長い、黒い髪。服が一般的な里娘が着ているような質素で地味なものの所為だろうか、その日差しを受ける髪がより一層輝いて見えた。
 だけどその少女に見覚えはない。
 睨むように視線を送る私に対して、少女はあくまでも微笑んだまま。その闇に覆われた双眸が何を映し出しているのか、私は窺い知る事が出来ない。しかし目の前に立つ少女からは特に敵意も感じられず、ただ純粋に微笑むその姿に私の心も自然と落ち着いてきた。
「ようこそ」
 三度、少女は言った。
 どうやら私は招かれざる客ではないらしい。
 となると、この少女が私をここへ呼んだのだろうか。
「あんたが私をここに連れてきたの?」
 疑問をそのまま口に出してみる。今度は聞こえていたのか、少女は少し考えるような素振りを見せた。と言っても、それもまた仕草と口元だけで判断しただけなのだが。
「そうだとも言えるし、違うとも言えるわね」
「どういうこと?」
「私はね、この場所で待っていた。誰でもない『貴方』が来るのをずっと待っていた。あの日からこの場所で。でも、貴方がここに来るのはちょっとだけ早かったかもしれないね」
 言っている事がよく分からない。待っている? ここで? 私は今まで何度もこの場所に来た。でもその全てが間違いなく「この」場所で、だけどそれは一度たりとも「ここ」ではなかった。だけどこの場所は間違いなく霧の向こうに見えていたあの場所で、そして彼女の話を聞くには、私達は出会うべくしてここで出会った。
「そんな事より、ここっていい場所だと思わない?」
 それでも少女は先ほどから変わらない微笑を向けてくる。相変わらず見えているのは口元だけ。でも、少女は笑っている。その微笑はどこか懐かしくて、さもすれば見えないはずの彼女の目も見えるのではないかと思えるほどに。
 だから、
「ああ……そうね、とても素敵な場所」
 私も笑った。


    ∽


 遠くの山に日が沈みはじめる。
 ここから見える人里は確かに同じ場所にあって、でもそれもまた見慣れたはずのそれとは違っていて。
 黄昏に伸びる影は長く、明かりが灯り、竈の煙が昇る家が増えていく。
 昼間は五月蝿いほどに鳴いていた蝉も今はヒグラシのカナカナという声が響くだけ。それに合わせるように空を舞う少し気の早い赤蜻蛉を見上げながら、私達は巨木に背を預けて並んで座っていた。
「結局、あんたが私をここに呼んだんじゃないの?」
「そうね、確かに私は貴方を待っていたし、呼んでいた。でもさっきも言った通り、貴方はここに来るには少し早すぎたの。だから今回は貴方が自分の意思でここに来たって事になるのかな?」
「私が?」
「そう。本当なら貴方がここに来た時点で私の望みは叶えられるはずだった。だけど、いざここに来た貴方は何も覚えていなかった」
「覚えて……? なぁ、あんたはどうして私を待っていたんだ?」
 その問いに、少女は微笑んだまま首を横に振った。
「それは私からは言えない。貴方が自分でちゃんと思い出して、自分でちゃんと見つけないといけない事。今の私に言えるのはそれだけだよ」
 言い終わると、少女はゆっくりと立ち上がってめいっぱい両手を広げた。それと一緒に長い黒髪も大きく左右に広がって、真正面から受けた夕日に透けて輝くそれは少女の背中に生えた羽のようで。逆光で影となった少女の後姿が私にはまるでこれから大空に向かって羽ばたいていく鳥のように見えた。
「ねぇ、見て」
 夕日を受けて紅く彩られた少女は相変わらず口元だけしか見えない顔で微笑んで、私に振り返った。
「空も、山も、里も、みんな真っ赤に染まって凄く綺麗」
「ああ、『知ってる』よ」
 答えながら、私も立ち上がって少女の隣へと並ぶ。
 そこから見える景色はやっぱりいつもの「この」場所から見えるそれとは少しだけ違っていて。でも私は「ここ」から見える空を、山を、里を、夕日に彩られて真っ赤に染まったそれらを知っていた。
 知っていた?
 だとすると、やっぱり「ここ」はあの時の「この」場所で、私はその時ここにいた? 頭の隅で何かが引っかかる。私はあの時ここで何をしていた? 藤原妹紅はどうしてここにいた?
「ちょっとは思い出した?」
 少女が覗き込むように見上げてくる。私が見返すと、少女の顔を覆っていた闇は少しずつ晴れていって、口元はより一層はっきりと見えるようになった。そして小さく整った鼻がぼんやりと浮かんできて、やがてそれもその形をはっきりと目にする事ができた。
「あんたは……それに、ここは……」
「でも、まだちょっと早いかな? あっちも何か動いてるみたいだし、私にできるお節介はここまで。でも貴方がここで見た全ては間違いなく本物。そして貴方はそれを『知っている』と言った。それだけは忘れないで」
 そう言うと、少女はくるりと回って私から離れていった。そのままくるくると、踊るように草海の上を滑っていくと、真ん中に立つ巨木の袂でその足を止める。再び私の方へと向いた少女は最初と同じように微笑んで、それは真正面から夕日を受けてこの世界と同じように真っ赤に染まっていた。
 でもやっぱりその目だけはまだ闇に覆われて。
 一瞬、それがゆらりと儚げに揺れた。
「待て! まだ何も――」
 聞いてない。そう言おうとして少女に向かって左手を伸ばしたその時、二人の間をどこからか吹いてきた突風に散らされ、舞い上げられた大量の木の葉が遮り、目の前にあるはずのその姿はすぐに見えなくなった。叫ぶように少女を呼ぶが、その声も風の音と葉の擦れる音に掻き消されていく。
「待ってくれ! あんたは――」
「大丈夫」
「――え?」
 自分の声すらも吸い込まれていってしまいそうなその中で、唐突に聞こえてきた少女の声だけがやけにはっきりと聞こえてきた。改めて聞いたその声は、今日初めて聞いたはずなのに、何故だか懐かしさを連れてきて。
「大丈夫、またすぐに会えるよ。だって、私はここにいるし、貴方もここにいる。そして――」
 だけど、最後の言葉はまた風の中に消えて聞こえなかった。
 更に勢いを増していく風。
 薄れていく少女の姿。
 完全に見えなくなるその一瞬、少女の後ろに大きな紅い翼が見えた気がした。


    ∽


 いつしか吹き荒れていた風は止み、見上げてみれば夜闇の中に一際輝く真円の月。あの巨木はやはり幻だったのか、草海の中にはいつも通り、真っ黒に焼け焦げた切り株がひとつ。それを照らす月明かりも決して強くはなく、優しく包み込むような光が今は心地良い。今までずっと日陰で生きてきた自分にとって、太陽の光は少しばかり眩しすぎる。そしてその下で生きている人達も……。
「忘れないで、か」
 少女の言葉を思い出して、ふと呟いた。
 空の上では相変わらず夜空を埋め尽くすほどの星と真円の月が地上を見下ろしていたが、その周りだけは星々も少し遠慮をしているかのように、深い闇が取り囲んでいた。
 果たして自分は何を忘れているのか。
 草海の上から夜の人里を眺めてみる。ぽつりぽつりと見える家の灯りがやけに鮮やかだった。
「ここからの眺めだけは、何も変わってないと思ってたんだけどな……」
 普段見ない夜の里というだけではない、少女と一緒に眺めたあの里とは何かが決定的に違っていた。
 変わらないと思っていた世界も、刻々と何かが変っていっている。
 別にそれに気付いてなかった訳じゃない。
 春夏秋冬、四季を彩る草花、空気の感じや、空の高さ。どれも変っていないようで、少しずつ変わっていっている。だけど、ならばこそ、私は世界の中には入れない。
 あの少女は私に何を言おうとしていたのか。
 赤に染まった世界で何を見せようとしていたのか。
 結局、私はまた一人――。
「あら? 珍しいわね。ここに誰かがいるなんて」
 またしても背中にかけられた突然の声。
 軽い既視感に囚われつつも振り返ってみると、そこに佇んでいたのは長い黒髪を揺らす少女。その姿が先ほど巨木の下で出会った彼女と重なって見えたが、それも一瞬の事。
 誰も知らないはずの場所で人に出会ったという事に驚きもしたが、それ以上に私の心は落胆していた。確かにこの場所は誰にも教えずに秘密にしていた部分もあったが、見つかればそれはそれで仕方ないと思っていた。
 思っていたのだが――。
「どうしてそれがお前なんだ……」
「いきなりとんだご挨拶ね。貴女も貴族の出ならもう少し礼節というものを重んじてみたらどうなの?」
 私の呟きが聞こえていたのか、そいつは一見すると歩きにくそうな絢爛な着物の裾を風に揺らしながら、さりとて自然に草海の中を歩いてきた。ただ歩いている、それだけの事にも係わらず、髪を揺らし、裾を揺らして歩を進めるその振る舞いは見る者を魅了するかのように。
 優雅という二文字はこういう奴のためにあるんだろうな、と思ってしまった。
「たとえ重んじたとしても、お前に払う敬意は微塵もないな」
 それが少し悔しくて言い返してやると、あいつは袖で口元を隠してくすくすと笑っていた。
 そうそう、そういう所も大嫌いなんだよ。
「一応聞いてやる。輝夜、どうしてお前がここにいるんだ」
 私は自然体のまま体を正面に向けた。構えなどというものはない。もとより「構え」というものは防御を前提として取られるもの。一切の防御を必要としないこの身体なれば、後退はなくただ前進するのみ。即ち防御を必要としないのならば、必然的に構えというものも存在しない。
 そういえば、こうしてこいつと対峙するのも随分と久しい気がする。昔はもっと頻繁に、見つければ挨拶代わりに身体を吹き飛ばしたりもしていたというのに。
 いつからか、こいつが直接的にも間接的にも私の前に現れる回数は減っていって、思えば今日出会ったのも数年ぶりだろうか。
「せっかちなのは変らず、といったところかしら。でもね、今日は別に貴女と遊びに来た訳ではないの。そもそも私には貴女を殺す理由が無いわ」
「……なに?」
「だって、貴女を殺したってなんの意味もないじゃない?」
 真っ直ぐに歩いてきて、すれ違いざまに漏らした一言。
「な……ふざけるな! 今更理由なんて――」
「それに――」
 私が振り向くと同時に、あいつもまた振り返る。
 その表情は正反対。
 それだけで射殺せそうなほどに睨み据えたところで、目の前に立つ顔は薄く笑ったまま微動だにしない。
 どれだけそうしていただろうか。睨み合いは一向に終わる気配を見せない。いや、最初から睨んでいるのは私の方だけだったか。
 そう思うと、途端に自分の中で昂っていた気持ちが沈んでいった。
 結局こいつのペースに乗せられてしまっているという事なのか。そうなると今度は別の意味で腹立たしくもなってくるが、向こうにやる気がない以上、こちらから一方的に手を出すような真似はしたくはない。
 昔はもっと何も考えないで、ただ純粋に憎いという感情だけでぶつかっていっていたような気もするんだけどなぁ。
「月が良く見えるのよ」
「は?」
「周りに何もないでしょう? だからよく見えるのよ、月が」
 私から視線を外し、空を見上げて呟くように言ったあいつの横顔にさっきまでの微笑みはない。一瞬なんの事かと思ったが、そこまで聞いてようやく最初の質問に答えているのだと分かった。どうやら私はペースに乗せられていたのではなく、完全に置いていかれていたらしい。相変わらずこいつの考える事はよく分からない。
「帰る気にでもなったのか?」
「……中々面白い事を言うようになったわね」
 少しだけくすりと笑ってみせたが、それもまたすぐに消えていった。私も詳しい事はよく知らないが、こいつと永琳は今も頭上に輝いているあの月から来たのだという。そういえば少し前に永遠亭に転がり込んできたという兎も月から来たとか、そんな事を慧音が言っていたような覚えがある。
「月から兎が……ねぇ」
 思えばあの兎には少し悪い事をしてしまった。事情を知らなかったとはいえ、よく見もしないでいきなり攻撃をしかけてしまったのは些か早計だったか。逃げていった先が永遠亭じゃなかったら、そのまま消し炭にしていたかもしれないし。
 そこらに蔓延っている妖怪どもならばいくら炭にしたところで問題はないだろうけど、人(兎か?)をいきなり消し炭にするのはやっぱり気が引ける。でも、人といえばあの時はたしか私達以外にもうひとつ人の気配があったような。知らない間に消えていたような気もするけど。
「ねぇ、あそこには何があると思う?」
 記憶の海に沈んでいっていた私を引き戻すあいつの呟き。でもやっぱり空を見上げたまま、その瞳は何も映していない。
 一緒になって夜闇の中に朧に浮かぶ月を眺めてみるが、そこにはただ黒い染みが見えるだけ。どれだけ遠くにあるのかも分からないようなあんな場所に、本当に人がいるなどと誰が思うだろうか。
 そして横に立っているこの女がそこの姫? なるほど、面白い冗談だ。
 思わず笑ってしまったが、それでもあいつはこちらを見る事もなく、ただ虚ろな瞳を空に向けていた。
「あそこにはね」
 そこにはなんの感情も浮かんでいない。
「何もないのよ」
 何も映さない二つの瞳はただただ虚空を見上げている。
「何も……」
 そう言って伏せたその顔は能面のように。
 出会ってから幾百幾千の月日が流れたが、そのどこでもこの女は笑っていた。私に殺されそうになった時も、私を殺した時も、こいつはずっと笑っていた。
 らしくない。
 そんな事を思ってしまったのも、その顔に笑み以外の表情を初めて見た所為なのだろうか。
 らしくないといえば、自分もそうだ。なんの因果があってこんな奴と並んで月見などしなければいけないのか。もう少しで何かが分かりそうな気もしていたが、すっかりと興も冷めてしまった。
 またどこからか風が吹く。足元の草が波打ち、されども二人の長い銀と黒の髪を舞い上げるには至らず。私は最後にもう一度夜闇に浮かぶ月を見上げて、そのままそっと背を向けた。
「太陽の輝きを受けていなければ、容易く夜の闇に飲まれてしまう。ならばと昼の空に現せども、その姿は太陽の輝きの前に薄れてしまって見えない、そんな虚ろな星」
「……」
 三歩、踏み出した足を止めて振り返ってみたが、そこに佇む姿は相変わらず空を見上げたまま。果たしてその言葉は誰に向かって言われているのか、私には推し測る事も出来ない。
「あそこから見たこの星は、それはそれは美しいものだったわ」
 それでも奴の言葉は流れるように紡がれていく。このまま立ち去っても何も言わないだろうけど、それでも何故か足を動かす気にはなれなかった。
「そしてその通り、この星はとても美しい場所だったわ。土を踏みしめる感触も、花の香りも、流れる沢の冷たさも、こうして髪を揺らす風も、空に浮かぶ雲さえも。全部全部、あの場所には無かったものばかり。怖いくらいに綺麗に区画された街、人の手によって決められる温度、湿度、天気、時間。蒼い空なんて、それこそこの星に来て初めて見たわ」
「……」
「昔誰かが言っていたわ。『月が綺麗だ』と。確かにここから見上げてみれば、あんな場所でも美しく輝いて見えるのかもしれない。でもそれは結局表面だけ。太陽の輝きを受けて初めて見せる事が出来る仮初の姿。どれだけ表面を着飾ったところで、その中身までは変えられない」
「……」
 一瞬の沈黙。二人の間を吹き抜ける風はその勢いを増し、今度こそ銀と黒の長い髪を夜闇の中へと舞い上げた。
「あそこにはね、本当に何も無いの。あるのは無機質な物ばかり。どれだけその技術が進歩したところで、結局あそこから一歩たりとも外には出られない。地位だの名声だの利権だの、馬鹿な人間達のやる事なんてどこまでいっても同じで。あんな狭い場所でそんなものを手に入れて、どうするつもりだったのかしらね」
「……でも、お前もそこのお姫様だったんだろう?」
 さも当然のように月に人が居るというようなその物言いに、私は皮肉を言うように笑ってやった。すると、私からの反応があった事に驚いたのか、空を見上げていたその顔がこちらを向くと、またしてもひとつ、くすりと笑みを零した。
「そう、結局私もあんな薄汚い連中と同じという事なのよ。太陽の輝きがなければ自分を主張する事も出来ず、それでいて尚夜の闇の中でしか輝けない存在。輝夜というこの名前こそが最大の皮肉だわ」
 そう言うあいつの顔は本当に楽しそうで、それがまた私の心を掻き乱す。だから、今度こそ私はその場に背を向けた。
「あら、帰るの?」
「これ以上お前の戯言に付き合う義理も無ければ道理も無い。でもまぁ、面白かったよ、お姫様。冗談にしては上出来だ」
 振り向かないまま、軽く上げた左手をひらひらと振る。あいつがどんな顔をしているのか――まぁ、笑っているんだろうな、きっと。ほら、あの癪に障るような笑い声が風に乗ってやってくる。
「気に入らなかった? じゃあこんな話ならどうかしら」
 引き止めようとするその声にも、私は足を止めない。喋りたくば一人で喋れ。これ以上私の心を煩わせるな。
 けれど、そう思って進めた足は五歩も行かずに再び止められる事となった。
「知ってる? 昔々、ここには大きな木があったのよ。今ではあんなちっぽけな切り株しか残っていないけれど、それは見事な大木だったわ。天まで届けと幾重にも伸ばされた枝葉が揺れる下に出来る木陰が好きだったのだけれど、それも今は昔。誰かさんが木をあんな姿にしてしまったから、全部無くなってしまったの」
「お前……何を知っている」
「私はね、ずっと待っているの。その誰かさんがもう一度ここに帰ってくるのを。でもね、彼女はどこかに行ってしまったまま、中々戻ってきてはくれないわ。あまりにも長い間待たされたものだからこうして出向いてみたのだけれど、やっぱりまだ帰ってこない」
(私はね、この場所で待っていた。誰でもない『貴方』が来るのをずっと待っていた。あの日からこの場所で。でも、貴方がここに来るのはちょっとだけ早かったかもしれないね)
 奴の言葉に、あの少女の言葉が重なる。
 流れる黒髪、微笑む口元。
 あの少女は輝夜だったのか? いや、そんなはずは――
「ねぇ『妹紅』 貴女はどこに行ってしまったのかしら?」
「――ッ!」
 その言葉に、私は髪を振り乱して振り返る。
 しかし、そこには誰の姿もなかった。
 緑が鮮やかな巨木の下で微笑む少女も。
 今の今までそこにいたはずのあいつも。
 そこには誰もいなかった。
 ただ月だけが、変わらずに地上を優しく照らしていた。
「なんだっていうんだ、あいつらは……」
 誰もいなくなった草海の端で、一人呟いた。
「私は……ここにいる」
(本当に?)
 そんな声が聞こえたのは、風の悪戯か、それとも月の見せた幻影か。俯いた顔を上げてみても、やはりそこには誰もいなかった。
 遠くに人里の灯りが見える。頼りなさげに揺らめくそれは、けれど何よりも暖かそうで。
「……」
 掌にぼっと紅い炎を灯してみる。
 熱いはずのそれは、何故だかとても冷たかった。



    4

『貴方はどこにいったのかしら?』
 あれ以来、寝ても覚めてもあの時の輝夜の言葉が頭の中を駆け巡る。それまでに漠然と感じていた何かが全てそこに集約されているような気がして、でもいざ考えてみたところで一向に答えは出てこない。
 その日も、なにをするでもなく家の中で寝そべったままただ天井を見上げていた。気付いてなかったが、そこに渡された梁も昔に比べれば随分と黒ずんだように思える。当たり前の事なのに、何故だかそれが酷く悲しいような気がして、ごろんと寝返りを打った。誰もいない家の中、見ればそのどこもがいつの間にか磨れて、汚れて、古びていっていた。
 そんな様子を見れば見るほど心の中はざわついて、だからといって目を閉じてみれば、瞼の裏にはっきりと映し出されるのはあいつとあの少女の姿。
 自分が何を忘れているのか、それは思い出さなければいけない事なのか。このままでいいじゃないかという自分と、早く思い出すんだという自分が頭の中で争って、結局それも決着が着かないまま。
 何度かあの場所にも足を運んでみたが、そこにはいつもと同じように草海の中に真っ黒な切り株がぽつんとひとつ浮かんでいるだけで、あの少女にも輝夜にも会う事はなかった。
 そして慧音にも――。
「はは……」
 千の年月を生きて、万の夜空をずっと一人で見上げてきた。今更何を思う事があるというのか。そうさ、あの頃に戻っただけだ。いや違う、そうじゃない。何も変わってない、何ひとつ変わってないんだ。最初から私は一人。結局誰も一緒にいられなかった。ただそれだけの事。
 所詮私は蓬莱人。変わる事も変える事も出来ない、ただそこに在るだけの存在。
 分かっていた事だろう?
 今までだって何度も同じような事を思って、それでもここまできたんじゃないか。
 なのに――
 どうして――

 私は泣いているんだ――

 分からない。
 何が?
 分からない。
 どうして?
 ……分からない。
 本当に?

 嘆いたところで答えを返してくれる者など誰もいない。
 きつく瞼を閉じてみても、溢れる涙は容易く零れ出てしまう。小さな古びた庵の中で一人、声も出さずに私はずっと泣いていた。
 雀の声が聞こえてくる。
 どこかで蝉が鳴いている。
 竹の葉が風に揺られて歌っている。
 でもここには誰もいない。
 誰も……いない。


    ∽


 何故自分がこんな所にいるのか、それが分からなかった。
 西に傾いた日に誘われるように、空の色も蒼から朱へと変わっていく。盛りを過ぎた夏の暑さも青空と一緒にどこかへ過ぎてしまったのかのように、少しばかりの冷たさを孕む風はどこか秋の到来を告げているようにも感じられた。
 目の前にあるのは見知った、でもこんなに間近で見るのは随分と久しい一軒の家。里のはずれの高台の上、下の集落から通じる道とは全くの逆。深い竹藪の中、頭上を覆う竹の葉が風と同じようにかさかさと冷たい音を立てていた。その音が早く行けと自分を急かしているように聞こえて、私は再び前を見る。
 結局、私に出来る事なんていうものは何も残っていなかった。何がしたいのかも分からず、どうすればいいのかも分からず、あの少女、そして輝夜が言った言葉の意味も分からないまま。何もかも分からなくなって、全部闇の中に吸い込まれていって、最後に残ったのはあの場所、いつかに見た景色。
 慧音ならもしかしたら何か知っているかもしれない。
 そんなのは詭弁に過ぎない。きっと信じたかったんだ。たとえ私の全てが闇に飲まれてしまっても、慧音だけは自分の側にいてくれているという事を。ちゃんと隣に立っていてくれているという事を。
 それが分かっていながら、いや分かっているからこそ、私は動けなかった。あの戸を叩いた時、私は果たして私のままでいられるのか、もしかしたら最後に残った一欠片もがそのまま崩れ去ってしまうのではないか。一度悪い方向に考えてしまうと、後はもうどうやっても二本の足は前を向いてくれない。空は完全に夕暮れのそれへと変わり、朱に包まれた世界とは裏腹に空には濃い紫が広がっていっていた。
 どれほどそうしていただろうか。夕闇も完全にその色を朱から深い蒼へと変えていった頃、ふいに目の前の戸ががらりと開いた。
「いかんな、すっかり遅くなってしまった」
 出てきたのは紛れも無い待ち人。空を見上げて呟いたその顔は、でもどこか嬉しそうで。それがまた私の足を鈍らせる。
 踏み出すべきか、出さざるべきか。
 考えあぐねていると、開いた戸から彼女に続いて出てくる小さな影が三つ四つ。
「わぁ、空真っ暗―。」
「お腹すいたー」
「なぁ、少し遊んで帰らないか?」
「今から?」
 口々に何かを言っては慧音の周りを駆け回る子供達。遊びに来ていたのか、それとも何かを教わりに来ていたのか。
「こーら、夜は危ないからあまり出歩くなといつも言っているだろう? 皆家まで送ってやるから、ほら行くぞ」
 その一言で子供達は一斉に大人しくなったかと思うと、ならばと今度は慧音の手を引いて早く行こうと急かし始めた。
 手を引く子供達は一様に笑顔で、そして慧音もまた同じように。
 ――私が見た事ないくらい嬉しそうに、笑っていた。
 その瞬間、最後の一欠片が音を立てて崩れていったような気がして、私は背を向けて走り出した。

「ん? あれは……妹紅?」


    ∽

 どれだけ走っただろう。
 どこまで走っただろう。
 息はとうにあがって、どうやって足を動かしているのかも分からない。自分の周りだけまだ昼間の暑さが残っているみたいに、体中から汗が噴出してくる。
 知りたくなかった。
 知ってはいけなかった。
 二人の距離、ずっと付かず離れず、だからこそ。
 でもいつしかそれが当然だと思うようになって、それ以外全部見えないフリをして。
 慧音の隣だけが私の居場所だった。
 でも――
 慧音は初めから私の隣になんて立っていなかった――。

 突然視界が開けて、足を止めた。
 どこをどう走ってきたのかも分からない。
 どこに向かって走っていたのかも分からない。
 でもそこはいつもの見慣れたあの場所で。
「あら、こんばんは」
 真っ黒な切り株の前で、あいつがいつものように微笑んでいた。


 半分の月が輝く空の下、草海の端から見える遠く。小さな集落。ぽつぽつと淡く輝く家々の灯り。でもはずれの高台の上にある一軒の家には灯っていなかった。
 今までずっと見てきたそれらが急に全く別のものになってしまったような気がして、何故だか泣きたくなった。顔を俯かせるが、でも泣かない。すぐ後ろにあいつがいるからなんて理由じゃなくて、泣いたってどうしようもないから。
 走馬灯なんてものは一生縁のないものだと思っていたけど、その瞬間、これまでの事が溢れ出るように頭の中を駆け巡っていった。
 もう完全に忘れてしまったと思っていた本当に小さな子供の頃。
 手に入れてしまった永遠。そして再会。
 底の見えない闇の底で最後にひとつだけ残った真紅の炎。
「月の話を覚えてる?」
 唐突に、背中にかけられた声。
 私は返事もしなければ振り向きもしない。
「太陽の輝きを受けていなければ――」
「……前に聞いたよ」
「……返事がないから忘れてしまったのかと思ったわ」
 離れていく足音に振り返ってみると、あいつが切り株に腰掛けるところだった。
「太陽の輝きがなければ自分を主張する事も出来ず、それでいて尚夜の闇の中でしか輝けない存在、それが月。でもね、こうも考えられない? 太陽が輝いてさえいれば、月もまた未来永劫その身を輝かせていられる、と」
「……随分と他人頼りな上に身勝手な考え方だな」
「ええ、でもそれは必然なのよ。そこに太陽があり、そこに月がある。互いが存在しあう限り、月も、太陽も、永遠に輝いていられるのよ。だからね、私は嬉しかったの。何よりも嬉しかった。そう、私は見つけたのよ、太陽を。私を永遠に輝かせてくれる、そんな存在を」
「……それがあいつか?」
 八意永琳。輝夜に付き従う、この世に三人しかいない蓬莱人の一人であり、蓬莱の薬を作った張本人でもある。
 一体彼女がどういった目的で蓬莱の薬を作り、輝夜と共に永遠の存在となったのか、その経緯は詳しくは知らない。
 輝夜の戯れで作ったのか、それとも必要に駆られて作ったのか。どちらにしても、全ての行動基準を輝夜に置く彼女であれば、輝夜の言う太陽にもなれるだろう。
 だが、とうの輝夜は私の言葉など聞いていないのか、切り株に腰掛けて空を見上げたままぽつりぽつりと言葉を漏らしていくだけだった。
「でもね、太陽はすぐにその身を輝かせる事を止めてしまったわ。太陽は全てを輝かせる存在。ならばこそ、太陽はずっと一人だったのね。前を見ても、後ろを見ても、そこには誰も居ない。自分が輝いている事すら知らない太陽は、その輝きの中でいつも自分の周りを回っているたくさんの星々に気付けなかった」
「……」
「前に言ったわよね。私はここで待っている、と」
 そう言うと、輝夜は再び草海に足を下ろしてゆっくりと切り株の周りを回っていった。まるでそこにあるはずの無い幹があるかのように、手を添えながら。
「初めて会った時はただの小娘だと思っていたわ。でも、今思えば私達がここで出会ったのも、あいつが蓬莱の薬を飲んだのも、全ては決められていた事なのかもしれないわね――でもだとすると……あぁ、なんだ、そういう事だったのね」
 ついにボケたのか?
 一人、俯いてくすくすと笑いながら独り言を言い出した輝夜を見てそんな事を思っていると、ついには声を上げて笑い出した。
 夜の草海、私達以外には誰もいない。そんな中であいつは風に吹かれて乱れる髪を押さえようともせずに、ただただ声を上げて笑い続けていた。
 そして一頻り笑って気も済んだのか、目尻に浮かぶ涙を袖で拭いながら再び私の方へと向いた。
「ごめんなさいね、でもそう考えるともう可笑しくって」
「……一人で勝手に喋って、一人で勝手に笑って、世話ないな」
「まぁそう言わないで」
 そう言いながらも、時折先ほどの事を思い出してか噴出すように笑うその姿を見て、私はもうただ唖然とする他なかった。こいつと話すといつもこうだ。一方的に訳の分からない事ばかり言われて、一人で勝手に盛り上がったと思ったら一人で勝手に終わらせて。本当に話をする気があるのかも怪しい。
 いや、最初から会話をする気などはないのだろう。
 ただ一方的に話しかけて、それで相手がどんな反応をするのか、それを面白がっているだけだ。
 さもなれば、こいつの予想の上をいく事が出来たのならば、多少は大人しくなったりもするのだろうか。
「それで、お前の言う太陽ってのが私という訳か」
 だからひとつ、言われる前に言ってやった。
 なのに――
「あら、違うわよ?」
「……なに?」
「言ったでしょう、待っていると。今もまだそれは変わらないわ。私はここで待っている。藤原妹紅という人間が戻ってくるその時を」
「――ふざけるな! 私はここにいる! 藤原妹紅はこの私だ!」
「そう? ならどうして――」
 それでもあいつは涼しい顔のまま、軽く上げた右手をそっと前に出す。先ほどと同じように、そこにあるはずのない太い幹に触れるように。
「『彼女』はまだここにいるのかしら?」
 そしてその手がないはずの幹に触れた瞬間、唸り声を上げる風と共にどこからか舞い上げられた無数の木の葉に、私は思わず両腕で顔を覆った。
 少し前にも同じような事があった。
 どうして輝夜が――。
 一瞬、そんな事を思ったりもしたが、それはすぐに周りを飛び交う木の葉と共に消えていった。視界の全てを遮られ、あいつの姿も見えなくなって、でもそんな周りの状況とは裏腹に、不思議と心は落ち着いていた。
 今度こそ――
 やがて唸り声を上げていた風も収まり、視界を遮っていた無数の木の葉もどこかに消えて。聞こえてくるのはあの時と同じ、この場所では聞くはずのない巨木がその枝葉を風に揺らす音。
 恐る恐る顔を覆っていた腕を解いて見上げてみると、確かにそこにはあの木があった。そしてその下にはあいつの姿。
「どうして……」
「またすぐに会えるって、言ったでしょう?」
 一瞬輝夜が言ったようにも聞こえたが、その声の主は幹の影からゆっくりと、枝葉の隙間から降り注ぐ月光の下に姿を現した。あの時と同じように、長い黒髪をたなびかせながら。
「本当はこんな形じゃなくて、ちゃんと貴方自身が私を見つけてほしかったのだけれど」
 そう言ってくすりと笑うその顔ははっきりと、細めた目までもが見えていた。
「でもちゃんと思い出してくれたみたいだから、まぁいいかな?」
「あんたは――」
 私はその顔を知っている。
「どうして――」
 私はその声を知っている。
「なら……ここにいる私は――」
 誰だ?

 月明かりの下に現れたその姿、私は見間違えるはずもない。もう何百年、うんざりするほどに見てきた「自分」の顔。
 「私」が私の前に立つ。全く同じ高さの瞳に映っているのもまた同じ顔。まるで合わせ鏡のように、四つの瞳は無限に互いの姿を映し続けていた。
「私は貴方よ。そして貴方は私。私達は本来ひとつだった。貴方の中に私がいて、私の中に貴方がいて。そう、あの日からずっと」
 あの日。
 「私」の瞳の中の私の姿が揺らぎ、そこには全く別の何かが映し出されていた。その瞬間、頭の中の霧が全て晴れていくかのように、その情景が脳裏に描かれていく。
 人の世界で生きる事を諦めて、妖怪のように山奥で暮らすようになってから幾百幾千の夜が過ぎた。そして運命の悪戯か、はたまた悪魔の気まぐれか、二度と見る事はなかったと思っていた輝夜との再会。
 でも、その瞬間に私の復讐は終わってしまった。
 輝夜も結局私と同じだった。
 その身体の所為で何処にもいられず、何も出来ない、ただのちっぽけな人間だった。
 でも、あいつは私とは違った。
 幾百幾千の月日をたった一人で生きて、皮肉にもそれまで自分を生かしてきた唯一の想い人は地に堕ちて哀れな人間になっていて。そして私は全てを失った。
 なのにあいつは。
 私と同じはずのあいつは、一人ではなかった。
 あいつは最初の時と変わらずに、ただ笑っていた。
 それが憎かった。
 それが悔しかった。
 今思えば八つ当たりもいいところなのだが、あの時はただそれだけが許せなくて、私は再び這い上がった。
 全てを失った死と絶望の闇の中。底も見えないその底で、ただひとつ失う事なく燃え続けていた命の輝きをその拳に握り締めて。

 ――再誕――

「思い出した?」
「……もう失くしたと思ってた」
「失くしてしまったものはそう簡単には見つからない。だけど皆必死になって探そうとする。でも、見つからない。何故だと思う?」
「……」
「それはね――」
 その声は、目の前に立つ「私」の後ろから聞こえてきた。私がそちらに目を向けると「私」もまた振り返る。
「本当は失くしてなどいないから。ただ忘れてしまっているだけなのよ。全部全部、その手の中に持っていたはずなのに、その事を忘れてしまう。必死になって周りを探してみたところで、既に自分がそれを持っている事に気付けない。だから見つからない」
 半分の月に照らし出された一本の道を目を伏せて歩くその姿。これを見たら輝夜が月の姫だというのも不思議と納得できるような気がした。
「太陽は自分が輝いている事に気づけなかった。自分が輝いている事を忘れていた。その身に火を灯さなくなってからは、自分の周りを回る星が見えなかった。ただそれだけの事なのよ」
 私と「私」の前で、あいつがくすりと微笑んだ。
 その後ろであの日、私が燃やしてしまったはずの木が月明かりを受けて輝いていた。
 私は記憶の海に手を伸ばす。そこにはもう霧はかかっていない。
 手を伸ばす。
 ひとつ、想い出見つけた。
 手を伸ばす。
 ふたつ、想い出見つけた。
 手を伸ばす。
 みっつ、よっつ、想い出が増えていく。
 あの春の日、桜の下で杯を掲げた。
 あの夏の日、輝く沢にその身を流した。
 あの秋の日、彩る紅に自分を重ねた。
 あの冬の日、悴む手足を自分で暖めた。
 いつの時も、隣には彼女が笑っていた。
 あの春の日、桜の下で杯を打ち鳴らした。
 あの夏の日、ふざけて水をかけあった。
 あの秋の日、一緒に紅の世界を歩き回った。
 あの冬の日、二人で鍋を囲んでいた。
 深く息を吸い込む。
 掌にひとつ、真っ紅な炎を灯してみた。
 気付いてみれば、簡単な事だった。
 彼女は私の隣には立っていなかった。
 ただ、一歩前に立って、ずっと待っていてくれたんだ。
 そう、何も無いなんて、そんな事はなかった。私はここにいた。世界はここにあった。世界が私を拒絶していたんじゃない。私が全てを忘れていただけなんだ……。
 何故気づく事ができなかったんだ。
 慧音はずっと教えてくれていたのに。
 こんな私に世界を見せようと、ずっと手を差し出してくれていたのに。
「はは……ほんと、なんで気付けなかったんだろ」
 いや、気付けなかったんじゃない。気付かない振りをしていただけなんだ。ずっと知っていたのに、ずっと分かっていたのに、それを認めてしまえば全てが変わってしまうような気がして。変わってしまえば、終わってしまう気がして――。
 炎を灯した掌が熱い。
 半分の月の下、巨木がその身を揺らしていた。
 あいつが笑ってた。「私」も笑ってた。
「今度こそ、さよならだね」
「さよならなのか?」
「あんまり会いにこられても、困るから」
「そう……だな」
「でも忘れないで。私はここにいるし、貴方もここにいる。そして――」
 「私」がちょい、と私の後ろを指差した。
 それに釣られて振り向けば――
「妹紅!」
「慧……音?」
(ほら、彼女だってすぐ側にいてくれている)
 私はもう一度「私」の方へと振り返る。
 だけどそこには誰もいなくて。
 今の今まであったはずの巨木の姿もなくなって、いつも通り真っ黒な切り株がひとつだけ。その横にあいつが背中を向けて立っていた。
「妹紅、その……なんだ、すまなかった」
「え?」
 三度振り返ると、すぐ目の前に慧音の姿。
「いや、さっき私の家にまで来てくれていたのだろう? なのに気付いてやれなくて……」
「あー……いいのいいの。もうちゃんと見つけたから」
「見つけた? 何か探していたのか?」
「んー、ちょっとした宝探し、かな」
「?」
 なんの事か分からないといった様子の慧音を他所に、私は月を見上げた。
 太陽が輝いている限り……か。
 ほんと、身勝手だよなぁ。
「輝夜」
 見上げたまま、あいつの名前を呼んでみる。もちろん返事はない。
「礼なんて言わないよ」
「お礼を言われるような事なんて、何もしてないわ」
 返事をされた上に、おまけにあの癪に触るような笑い声までついてきて、私は思わず振り向いてしまった。すると、あいつもまたこちらを向いて。見慣れていたはずのその微笑みも、あの頃から何も変わらず、でも違っていて。
「お前のそういうところが昔から大ッ嫌いなんだよ」
「あら残念。私は貴女の事が大好きよ」
「冗談。お前に好かれるなんて、それこそ天変地異が起こったって願い下げだ」
 輝夜は変わらず微笑んでいる。
 私はそれを精一杯睨みつけて、そして背を向けた。
「慧音、行こ」
「え? あ、いやまて、お前達こんな所で何をしていたんだ?」
「ちょっとした宝探し、よね」
「うるさい!」
 振り返る事もなく、立ち止まる事もなく、私は草海を後にする。後ろで慧音が何か言っているが、そんな事はおかまいなしだ。
 そうだ、私は気づく事が出来た。もうこんな所でじっとしてなんかいられない。
 今まで立ち止まっていた分、やる事は山のようにある。
 いいじゃない。歩いていこう、どこまでも。
 私には時間なんて、それこそ文字通り永遠にあるんだから。
 変わる事はなにも怖い事なんかじゃない。
 一人だったら少し心細いかもしれないけれど。
 私達は皆どこか不器用で。
 だから皆ここにいる。
 私はここにいる。


 私は今日も――生きている。


「慧音ー、置いていくよー!」


    ∽



「……なんだ。ちゃんと笑えるじゃない」 
 木々の向こうに消えていったあいつの背中を見送って、私はほう、と息をついた。さて、これで終わったはずなんだけど。
「永琳、盗み聞きとはまたいい趣味ね」
 あいつが去っていったのとは逆の方に向かって声をかけてみる。これで誰も居なかったらまるで道化そのものだけど、私が間違えるはずがない。
「……気付かれていましたか」
 ほらね。
「ねぇ永琳。どうやら私は嫌われたままみたい」
「そのようで。しかし姫は私ではありませんし、あの娘もまた姫ではありません。違うからこそ、ではありませんでしたか?」
「ん……そうね。でも私はちゃんとできたかしら。私の放った矢はしっかりと中ってくれたかしら」
「中り外れなど瑣末な事。番えた時点で既にその結果は見えています」
「貴女はそうでしょうけど……でも忘れてないかしら? 私はマッチを三本に二本も折るくらい不器用なのよ?」
「承知しています。されど……あの娘のあんな顔を見て、誰が外れたと言えましょうか」
「あいつは――妹紅はまた戻ってきてくれるかしら?」
「必ずや、また姫の前に現れますよ」
「そう……嬉しいわ」
「また痛い思いをする事になりますが?」
「ふふ、本当に永琳は物忘れが酷いわね。大丈夫?」
「はぁ……」
「この体に感じる痛みこそが、私と貴女の全てでしょう?」
「……そう、でしたね」
 私はそっと微笑みかける。永琳との最後の授業、私が初めて「私」となったあの日と同じように、心からの笑みを。
 そういえば、ひとつ思い出した事がある。
 これを言ったら果たして永琳はどんな顔をするだろうか?
 折角思い出したのだから、考えるより実践。答えはすぐに見れるわよね。
「そうだ永琳。私まだこの身体になってから試してない事がひとつだけ残っていたのよ」
「ほう、なんでしょうか?」
「それも忘れたの? 言ったじゃない。永琳が私の病気を治すって言ってくれた時に」
「あぁ――」
 永琳がほんの僅かに頬を染めた。
 これだけでもうこの話題を振った意味はあっただろう。
「ふふ、冗談よ。興味があるのはほんとだけど」
「なら、試してみますか?」
「そうね……私がまた生きる事に飽きてきたら、その時にでもお願いするわ」
「……いつになるのでしょうか」
「来ないわよ。永遠に」
 きっぱりと、そう答えた。
 だって、矢はもう中っているから――。



         《終》
そんな訳で、空蝉用に書いた一作でした。
床間さんのと違って、こちらは加筆修正とか何もしていません。
減筆なら少ししましたが。

変えた部分と言えば、タイトルが変わった程度です。
ほんと、ここに載せる時にタイトル変えるの好きだな自分。

加筆修正をしようと思ったと言うよりも、やったら絶対別物になると思ったんだそうな。
結局は、なんて事のない、今の書き方で書けば数ページで終わるような出来事を、さも大層に書いた物がこれだという事です。
書きたかった事としては、多分ここで公開している『縁』と同じ事。
コメント



1.無評価Kierra削除
It's great to find an expert who can explian things so well