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『永劫回帰 〜Voyage ×××〜』

2008/08/17 16:56:07
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『永劫回帰 〜Voyage ×××〜』

床間たろひ
 ※ご注意

 この作品は2006年の例大祭において『空蝉』という同人誌にて公開したものに加筆、修正したものです。
 文花帖、求聞史紀、儚月抄などの発表前であり、永夜抄の設定を元に書いております。
 そのため設定や世界観もオリジナルのものとなっています。ご了承ください。








「……初めまして?」
「えぇ、初めまして」

 ふむ、中々利発そうな餓鬼じゃない。これなら少しは楽できるかな? 
 それが姫に対して感じた第一印象。
 正直なところ、学部長から要請(という名の命令。学費を盾にしてくれちゃって、あの古狸)を受けた時は冗談じゃないって思っていた。
 家庭教師なんぞ私の柄じゃない。そんな時間があるなら今行っている研究に力を入れたかった。
 まぁ、いかに私が特待生とはいえ、自由に出来るお金が欲しかったのも事実である。王族からの依頼であり、給金は文句なし。労働条件が不安だったが、幸いにも私が担当するのは薬学のみで良いとの事。こんな餓鬼に薬学を仕込んだところで無意味だと思ったが、王族たるもの全てにおいて秀でるべしという黴の生えた『常識』のおかげで、私は高給を得る事が出来るという訳だ。

 それにしても――これが姫か。

 まだ幼い顔付きに華奢な身体。黒く艶やかな長髪は腰まで届き、黒い瞳は吸い込まれそうな深さを持っている。
 成る程、これはまさしく姫だ。成人すれば、さぞや美しくなるだろう。
 姫はじっと私の目を覗き込んでくる。探るように無遠慮に、心の奥を見透かすように。
 その視線は少々私を苛立たせた。
 子供はデリカシーに欠けていて嫌いだ。
 とはいえ相手はスポンサー。内心の不快感を押し殺して、上辺だけの笑顔を浮かべる。このくらいの擬態など朝飯前。餓鬼の一人や二人、どうにでもしてみせよう。

「初めまして。八意永琳と申します。以後、お見知りおきを」

 柔和な笑みを浮かべ、丁寧に頭を下げる。子供は意外に目聡いとか、嘘をすぐ見破るだの言われているが、それは見透かされる方が未熟なだけ。微細な動揺を見抜かれているだけのこと。例えば指先。例えば視線。例えば発汗。そんな小さな歪みを見抜かれているだけ。子供は相手の話を理解できず集中できないから、そんなつまらない部分に目が行ってしまうのだ。だから相手の動揺に気付く。そして気付いたという事を隠せないから、相手に悟られ、更なる動揺を引き出すのだ。性質の悪い悪循環である。
 私はそんな無様な真似はしない。
 眼球の動き、指先、爪先から頭頂に至る全てを己の制御下に置き、完璧な微笑を浮かべる。
 母性的で、理知的で、穏やかな笑みを。
 そこらの餓鬼ならこれ一発でオチる。その後は少々手を抜いてもバレやしない。なのに、

「初めまして。こちらこそ宜しくお願いします」

 ぺこりと頭を下げた後、その顔に浮かぶ花のような微笑。
 その顔立ちといい、鈴の鳴るような声といい、老若男女問わず、全てを魅了する華やかな笑み。この私ですら一瞬心を奪われたくらいだ。
 ――だが、解る。同じ事をしようとしていた私には解る。
 これは擬態だ。自分が他人の目にどう映っているかを完璧に把握した上で、相手の心を奪うための罠。
 私達は笑みを浮かべたまま、腹の底を探りあう。
 見詰め合ったのはほんの一瞬。私は姫の瞳の奥に黒いものを見たし、姫もきっと同じものを見ただろう。

「それでは、明日から宜しくお願いしますね」
「こちらこそ、宜しくお願い致します」

 そして姫は、にこやかな笑みを浮かべて去っていった。
 私はその背中を見送りながら、
 仮面の微笑を貼り付けたまま、

「……面白くなりそうじゃない」

 そっと呟いた。

 これが『蓬莱山 輝夜』との最初の出会い。
 千年を超える腐れ縁の――これが始まりだった。





 



                         『永劫回帰 〜Voyage ×××〜』














 第一章 『誓約』

「……膏薬においては相手の体質についても把握する必要があり、特に蛋白質系のアレルギーは時に重度の炎症を引き起こす事もあって、事前の問診が重要となります。その際、気をつけるべきことは相手の自己申告を鵜呑みにしないこと。決められた手順による検査を行い、例えば……」
「……」

 白い壁、白い天井、白い床。全てが真っ白に染められたここは、王宮内に設けられた執務室の一つ。
 これが私達の教室。
 元々空き部屋だったらしく、庭に面した大きな窓があるだけ。調度品の類は一切ないが、机とホワイトボードさえあれば授業を行うのに支障はない。広い室内に机が一つだけぽつんとある様は中々シュールだが、個人的にはこのシンプルさこそが好ましい。
 私はテキストを読み上げながら、要点を板書して授業を進めていった。他人に物を教えるのは初めてだったので、最初は少し緊張したが、授業を始めて今日で三日目。少しは余裕も出てきたと思う。
 授業はある意味滞りなく進んでいた。
 それはそうだ。
 何しろ相手はまるで私の話を聞いていない。
 質問するでもなく、居眠りするでもなく、ただ窓の外をぼんやりと眺めるだけ。
 一度、ちゃんと話を聞けと怒ってみたが「聞いているわよ?」とにこにこ笑って返された。それならと適当に問題を出してみれば、すらすらと淀みなく答えを返す。全くもってやりにくい。まるで壁に向かって語りかけているようで、虚しさすら覚える。
 だがまあ、これも仕事だ。
 仕事というのは、すべからく辛いもの。その辛さに対して給金が払われると思えば、我慢するしかあるまい。気乗りのしない仕事ではあったが、任された以上は私のプライドに懸けて完璧にこなしてみせる。
 人は私を天才だの何だのと、好き勝手呼んで持て囃すが、何のことはない。私はただ貧乏性なだけだ。時間も資源も全てが有限である以上、無駄なく効率良く使用しないと気が済まないのである。
 だから他人を見ているとイライラする。他人に任せるくらいなら自分でやった方が早い、そう思うから全て自分でやっているだけのこと。人を天才だの何だのと持ち上げる暇があるなら、自分のことくらい自分でやれと思う。そうすれば私も、もっと効率よく動けるというのに。
 今回の仕事は一年間の期間限定な契約であり、スケジュールに基づき、薬学の基礎を期間内に習得するカリキュラムを作成した。勿論相手の知能レベルややる気によって多少の変更は必要だが、常人並の知能を有していれば習得に問題はない筈だった。

 しかし――

 知能レベルで言えば、姫は何一つ問題ない。
 いや、むしろ私より知能は高いだろう。
 わざわざテストする必要はない。五分も会話をすれば相手のレベルなど解る。どんなに澄ました顔をしていても、どんなに無関心を装っても、投げ掛けられた言葉に対し、身体の何処かに反応が出る。何気ない会話の中に質問を折り混ぜ、反応を探るのが私流のテストだ。

 そしてその結果は――完全なる無反応。

 勿論、姫はにこにこ笑って優雅に受け答えし、時には驚いたような素振りも見せるが、それが本心でないのは身体の反応で解る。他人では気づくまい。同じように擬態を繰り返してきた私だからこそ気付く齟齬。どれだけ探ってみても姫の内面に細波一つ立ちはしない。無機物でも、もう少し反応があるのではないだろうかというくらいに。
 おそらく質問の裏にある真意を読み取って、模範的な回答を選択、対応しているのだろう。並みの知能で出来る事じゃない。
 だがそれにしても、余りに反応が無さ過ぎる。
 まるで機械と話しているような……
 当初予定していたカリキュラムを変更し、授業のレベルを上げたが、それにも易々と付いてくる。これなら当初考えていた範囲よりも拡大し、期間内に応用技術までの習得が可能だろう。私はただテキストを読み上げるだけで、この仕事を完遂する事が出来るというわけだ。

 なのに……面白くない。

 単に自分の持つ知識を伝達するだけで、そこから返ってくるものが何もない。
 延々と無意味なデータを入力しているだけのような空しさを感じる。
 私は薬学担当だが、他の教科を担当している者はどうやっているのだろうか。あまり人付き合いの良くない私は、他の担当者の名前すら知らない。
 というより向こうが勝手に避けていくのだ。『月の頭脳』だなんて勝手な称号を付けられたせいで、良くも悪くも他人から避けられてしまう。できれば授業内容や方針について、互いに議論したかったのだが――
 私は自身を天才だ、などと認めていない。
 どころか、この世で天才と呼ばれた者たちに、私は一切の価値を認めていなかった。
 歴史に名を残す偉業も、当時の状況を詳しく調べてみれば、その時期に必然的に発生した技術に他ならない。天才と呼ばれた者たちが存在しなくとも、例え時間は掛かろうとも、必ずその技術は生み出されていた筈だ。
 芸術における天才などもっと馬鹿馬鹿しい。万人に普遍に感動を与える事の出来ぬ半端なもの。多様な価値観ごときに屈服する程度の『美』で、偉そうにふんぞり返っているのが気に入らない。全ての人間に無条件で感動の涙を流させる、それが出来て初めて芸術としての価値を認めよう。それが出来ない曖昧なものしか生み出せない者が、天才だなどとおこがましいにも程がある。
 大体、天才と呼ばれている者たちの多くが、日常生活において欠陥者であり、他者とのコミュニケーションが取れないまま自身の内面に逃げ込んだ敗北者であり、そんな狂人の戯言をありがたがるとは……話が逸れた。
 兎も角、姫は優秀な生徒ではあったが、決して優秀な弟子ではなかった。
 こちらが与えた情報を過不足なく受け取る事はできても、そこから何も生み出そうとしない。これは教える側として非常に面白くなかった。知識を上手く伝えられないなら、どうすれば理解して貰えるか検討するし、興味がないなら興味を持たせるように誘導すれば良い。相手の趣味嗜好を知れば、それ程難しくはないのだ。
 だけど私が見る限り、姫は趣味嗜好の欠片も覗かせようとはしなかった。
 いつもぼーっと窓の外を見ているだけ。
 最初は王族という事もあり、外の世界に憧れているのかと思った。だが授業の合間に話した外の世界の話にも、興味を持った様子はない。私が話しかけた時だけこちらを向いて、にこにこ笑って聞き流している。

「姫。来週、月面宙転歌劇団(ムーンサルトイリュージョン)の公演があるそうですよ? 行ってみませんか?」
「いいえ、興味ないわ」
「姫。お好み焼って知ってます? 鉄板で焼いた小麦粉をコテで掬って食べるそうです。作って差し上げましょうか?」
「いいえ、いらないわ」
「姫。好きな人って……います?」
「いいえ、全く」
「姫。実はこの世界は狙われているのです。銀河系辺縁部に位置するM七四〇星系からの侵略活動は公にされていないもののすでに侵攻が始まっておりその擬態技術によってすでにこの星の首脳部はすり替わっているという噂があります試しに今度彼らの目をこっそり見て御覧なさいその白目の右端に小さく赤い星があればそれはフシティバリ星人の……」
「へぇ、そうなの」

 嫌になるくらいの空回りっぷり。何でこんなにムキになるのか、自分でも判らない。
 判らない? 
 いいえ、本当は気付いている。
 初めて会った時、その瞳に自分と同じものを見た。そしてその瞳の奥に隠れた闇は、恐らく自分よりも深く濃い。
 鏡を覗き込んだ時、そこに映る姿が自分より美しかったという気持ちに似ていた。
 嫉妬、とは少し違う。だからきっとこれは――同属嫌悪と劣等感なのだろう。
 私は授業を続けながら姫の顔を覗き見た。頬杖を突いて、つまらなさそうに窓の外を眺めている横顔。黒く艶やかな髪を無造作に投げ出し、眠たそうな瞳で外を見ている。何かあるのだろうかと、私もさりげなく窓の外に目を向けるが、そこにあるのは緑の芝生と、汚れ一つない真っ白な塀だけ。そこに何を見ているのかは解らない。ひょっとして王宮の外でも幻視しているのだろうか。

「姫。外の世界に行ってみたいですか?」
「いいえ?」

 いつものようににこにこと微笑みながら、はっきりと拒絶される。
 それが嘘なのか本当なのか、

 私には、見抜く事が出来なかった――



   §



 月都市。
 白いドームで覆われたそこには、五十万の人間が生活している。魔術と科学の融合により、永劫にその栄華を誇ると謳われた楽園都市。ネットワークが完備され、国民は家にいながら仕事に従事し、農業等の一次生産業は食糧庁の管理下で完全に自動化されている。
 魔術は一時期に比べかなり衰退しているが、生命創造、魂のデータ化、時空間制御等の秘術において、未だ科学の追随を許さない。
 一人の国王の下に、国民投票によって選ばれた十七人の議員が国政を司る立憲君主国家。様々な分野で部門が分けられ国民の生活を保障している。ドームの外に広がるのは無限の虚空。あらゆる生命の存在を許さぬ死の大地。外敵の存在しない平和な世界。

 それが――私たちの世界。

 月の歴史は古い。
 何しろ月都市が生まれてから、千年以上経過している。
 王都『蓬莱山』を中心に、五つの衛星都市――『龍』『燕』『御鉢』『火鼠』『玉枝』――で成り立つ千年王国。
 しかしその発祥というと……実ははっきりしていない。
 都市の外に広がる虚空に生物が耐えられない以上、何処かから月へと移り住んできたのは間違いないのだが、外宇宙からやって来ただの、神がそうお創りになられただのと諸説紛々。明確な資料は何一つ残っていない。
 蒼い星から此処に移り住んだという説もあったらしいが、猛烈な反論(理性によるものではなく感情的なものだった)により、唱えた学者は学会を追われたそうだ。私もその論文に目を通したが、何一つ具体的な資料がなく信憑性の薄い説だった。これでは感情論を抜きにしても、万人を納得させる事は出来まい。
 何でも今から数万年後の未来に蒼い星を見限った人類が、その持てる技術の粋を集めて月へと移り住んだとのこと。その際巨大な時空震に見舞われ、月都市は遥か過去に飛ばされたとか何とか。生命発生が月においてありえない以上、蒼い星から月へ移り住んだという説は一考の余地があるし、月都市内における生態系(人間も含む)を考えると、全くありえない話とは思わない。しかし具体例を示す資料が何一つないのでは、一読して破棄されるのも当然だ。時空震などこじつけの極み。そんなチープなネタでは小説家にもなれまい。
 蒼い星に関する調査は、展望台からの観測と無人探査機によって常に行われているが、現在のレベルでは、彼らが月まで来ることは不可能であろう。文明の進行速度から見て、あと千年は優に掛かると思う。
 月の人間は、蒼い星を穢れた地だと忌み嫌う。
 交流がある訳でもないのに、相手の文明レベルが低いからという理由で勝手に自分たちより下だと決め付けている。
 その歪んだ優越感が気に喰わない。
 文明というものは順を追って成長するものだ。私は蒼い星の文明が、月を凌ぐ可能性は高いと思っている。
 何と言ってもあちらは広く、人口も多く、資源に溢れているのだ。水も食料も豊富だし、今後はもっともっと発展していくだろう。
 対して月の文明は行き詰っている。
 この月都市が生まれてから千年、碌に進歩していない。過去の遺産を食い潰しているだけ。それが解っていながら、何もしようとしない私に、それを責める権利がないことも重々承知しているけれど。退廃と汚濁。私達に明日はあっても未来はない。まあいい、私は私に出来ることをやるだけだ。
 蒼い星の実地調査は、いずれやってみたいと思っていた。
 その研究資金を得るために、王族とコネを作っておくという打算もあったのだが。
 板書する手を止めないまま、ちらりと姫の方を見る。
 いつものように視点を動かさず、外の白い壁をぼーっと眺めているだけ。

 私は悟られないように、そっと溜息を吐いた――


  §


 月の時間は人間が決める。
 比喩ではなく本当に人間が決めている。具体的には環境調整局の職員が。
 完全にドームで覆われた月都市では、毎日決まった時間に昼と夜が訪れる。蒼い星は地軸の歪みにより日照時間に変化があるそうで、それによって四季が発生するという。映像で見た雪というものは大層綺麗だった。是非一度、直に見てみたいと思う。
 そして今は夜。ドーム全体を照らす一〇八七機の照明の八分の一が落とされ、月都市は宵闇の中に沈んでいる。国民には毎日八時間以上の睡眠が義務付けられているが、守っている人間など殆どいないだろう。無論、私もその一人だ。

 たーん

 道場に快音が響く。
 二本目の矢が中った事を確認すると、弓倒しをして顔を正面に戻した。軽く風が吹き、袴の裾が靡く。薄手の胴着一枚では、夜には少し肌寒い。
 練武場の外れにある弓道場。時間が時間という事もあり、今は私一人だけしかいない。私は横目で白い的を睨む。的の位置を確認すると、改めて『胴造り』からやり直した。
 足を両肩の巾まで広げ、背筋をすっと伸ばす。背骨を軸に肩、胴、腰、膝、踵の線が平行になるよう『五重十文字』を描き、身体の線を調整する。静かに息を吐いて、丹田に力を込める。
 心気合一。頭の中を真っ白に塗り潰し、弓を引いているという事すら忘れ去る。視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、五感の全てを起動させたまま、その全てを捨て去っていく。有と無の狭間をゆらゆらと揺れながら、次第にその揺れ巾が小さくなっていき、そして、

 ――成った。

 後は機械のように、身体に染み付いた動作をなぞるだけ。
 顔を左に九十度曲げ視界に的を収めるが、狙うという我欲はすでにない。無意識の内に平行に番えた矢は、やがて平行を保ったまま頭上に上げられ『大三』へ移行する。軽く引いた弓がきしりと音を立てる。
 三分ほど引かれた弓。その中に身体を押し込むように胸で割っていき、弦と弓を軋ませながら、大きく『引き分け』ていく。
 的付けを合わせる。弓音が闇に溶けていく。此処に至っては狙うという意識すら忘我。狙うのではない。待っているのだ。放つべき時、放つべき瞬間を。そのまま無限の停滞が過ぎ去るかの如く、あるいは瞬間を幾重にも重ねるが如く。

 そして――その瞬間に出『会』う。

 弾ける弦音。一瞬遅れて響く、乾いた音。
 確認するまでもない。
『会』に入った時点で、中るのは判っていた。
 そこに至れるかが肝要。中り外れなど瑣末。
 無駄に長く、持ち運びも不便で、的中率も低い和弓。昔の戦においても実戦には実戦用の短い弓を用いていた。ならばこのような和弓が、廃れず残ったのは何故か。
 それは忘我の境地に至るほどの集中力を磨くため。
 中るはずのない和弓で中る。そこに至るまでにはミリ単位での精緻な肉体操作が必要だ。考えて出来る事ではない。出来るまで身体に覚え込ませる必要があるのだ。それを成すのは愚かしいまでの反復作業。ただ無心に引き続けるのみ。
 最後の矢を番える。
 事ここに至っては、

 番えた時点で、その矢が中る事は決定していた――



   §


「ふぅ」

 的場の矢を回収し、矢にこびり付いた安土を拭う。
 的を片付け、的紙を張り直してから倉庫に仕舞う。
 道場に戻り、弓から弦を外して袋に仕舞うと、着替えるために更衣室へと向かった。道場内は外の明かりが差し込むことで割と見通せたが、流石に屋内は真っ暗である。明かりを点けるか一瞬迷ったものの、今更管理人に見つかるのも面倒だ。まぁ何処に何があるかは記憶している。念の為、足元だけは注意しよう。
 更衣室に入り、胸当てを外す。ずん、と肩に重さがかかる。
 また大きくなったみたいだが、正直邪魔で仕方がない。胸当てをしていても、弦が掠めそうで冷や冷やする。肩は凝るし、男の視線は煩わしいし、大きくて良い事なぞ何もない。
 袴を脱ぎ、胴着の紐を解いた時、
 ふぅ、と思わず吐息が漏れた。
 張り詰めていた自分が開放される気分。
 肩に乗っていた重い何かが落ちた気分。
 かなり厳しく仕込まれたせいか、今でも胴着を着ると自然に緊張してしまう。弓を持つと己が消え去り、機械の一部になったような錯覚に陥る。思考からの開放。虚無への従属。無我の境地。そして弓を置き、再び己を取り戻すのだ。
 生と死の疑似体験。己を殺し、再び生命を得る。それは短いながらも人生のサイクル。
 その感覚が好きで、私は弓道を続けているのかもしれない。

「……戯言ね」

 自分の思考を嘲笑う。我ながら、なんて陳腐。

「そうね……今度、姫にもやらせてみようかしら」

 どうやって勧めようか、頭の中で検討する。

「姫。今度、弓を引いてみませんか?」
「いいえ、結構よ」

 あぁ、私は未来視の能力は持っていない。
 だがこの幻視が当たる事だけは断言できる。そうとも矢を番える前から、すでに中る事は決定しているのだ。

「ふふっ」

 思わず笑いが込み上げた。
 姫の胴着姿はちょっと見てみたいな、と思いながら――



  §



 今日も今日とて、一方的な授業が続く。
 姫は相変わらず、退屈そうに窓の外を眺めるばかり。何を見ているのか、何を考えているのか。その横顔からは何も窺えない。
 今更とは思うが、私は今の状況に慣れつつある。それではいけないと理想が嘆き、構わないと打算が哂う。

 当の私は……宙ぶらりんなままだ。

 何とかしたいと思うが、今のところ打つ手がない。
 いつものように板書を続けながら、一方的に知識を押し付けるだけ。不毛だ。こんな風に知識だけ詰め込んで、一体何になるというのだろう。
 私とて薬学に携わる以上、人命を救いたいという人並みの感情は持っている。人並み以上ではないのが我ながら浅ましいと思うが(単に薬学だと授業料免除の推薦を貰えたからに過ぎない)それでも救えるならば救ってやりたい。

 ならば姫はどうだろう? 

 聞くまでもない。
 姫は言われるまま、授業を受けているだけ。
 王族というだけで、本人の希望も何もなく、薬学に限らず全ての学問を一方的に詰め込まれているだけ。そこから何も生み出す事なく、押し付けられた知識は、記憶の底に澱のように沈殿し堆積するだけ。無駄で無意味だ。こんなことに時間を使うのが勿体ないとすら思ってしまう。
 そもそも、あの無関心ぶりは何だろう。
 勿論、私の事が嫌いだから無視しているのかもしれないが、態度や言葉に嫌悪すら感じられないのだ。
 王宮で働く者に聞いてみたことがあるが、姫は誰に対してもあの様子だという。

 曰く、いつもにこにこと笑っている。
 曰く、素直で聞き分けが良い。
 曰く、怒った顔を見た事がない。

 概ね王宮内での姫の評判は良い。まぁそうだろう。姫の擬態は普通の人間には見破れまい。可愛らしい外見と相まって素直な良い子というのが一般的な認識だ。
 それに自分で言っておいて何だが、擬態というのも少し違う気がする。レベルの差こそあれ、誰だって自分の本性を隠して生きているものだから。そんなの当たり前。私だってそうだ。
 だけど、何かが引っ掛かる。
 そう、余りにも反応が無さ過ぎるのだ。姫と出会ってから半月ほど経過したというのに、未だにその内面が探れない。にこやかな仮面の下に隠した素顔が、全く見えない。まるで本当に何もないかのように。

 自我のない人間。
 そんなものある訳ないのに。人形じゃあるまいし。

「姫?」
「なに?」

 意外な事に返事があった。

 私はちょっとだけ安心した。



  §



「今日は実際に、丸薬の精製を行いたいと思います」
「はい」

 いつも教本を読み上げるだけの授業だと面白みに欠けるので、今日は実験を行う事にした。
 といっても、レシピ通りに薬剤を混ぜ合わせ、煮沸して乾燥させるだけの簡単なもの。知識というのは書物で覚えるより、実践で覚える方が早いという。確かにそういうものなのかもしれない。それに実験となれば姫も動かざるを得ないから、素顔を探る手掛かりにもなるだろう。

「……臭いわね」
「あぁ、直接嗅いではいけません。今回用意したものは安全ですが、中には嗅ぐだけで危険なものもありますので」

 私が試験管を並べている間、姫は壁際にぼーっと立っているだけだった。それでも、普段の授業のように余所見をすることもなく、試験管やアルコールランプなどの科学器具を興味深そうに眺めている。
 ふむ、これは良い傾向かもしれない。一歩前進というところか。

「それでは始めます。まずはこちらの薬品を……」

 私の指示に従って、薬品を試験管に注ぐ姫。心持ち緊張しているような、そうでもないような。
 いや、やっぱりいつも通りか? 相変わらず良く判らない。
 ――あ、そんなに注いではいけないってのに。
 ――あー、そんないきなり入れちゃだめー。
 内心やきもきしながらも口出しせず、できるだけ姫に任せる。余り甘やかし過ぎてはいけない。これが大人としての優しさ。甘やかしてばかりでは、碌な大人になれない。

「はい。それじゃその薬品を、ビーカーに入れて煮沸して下さい」

 姫は言われた通りに薬品をビーカーに注ぎ、アルコールランプに火を灯そうとする。マッチを使った事がないらしく戸惑っていたので、私が一本擦って見本を示した。
 姫もそれに従ってマッチを擦る。
 ぽきん。
 もう一度。
 ぽきん。
 もう一回。
 ぽきん、ぽきん、ぽきん……

 意外だ。
 姫がこんなに不器用だとは思わなかった。
 一箱全部へし折っても一回も火が点かない。姫はちょっと不機嫌そうに、少しだけ悔しそうな顔をしている。中々良い顔を見せてくれるものだ。好感度ちょっとアップ。……我ながら歪んでいると思う。難儀な性癖だ。改める気はないけれど。

 と考えていると、姫がこちらに目を向けた。
 少しだけ緩みかけていた頬を、再び引き締める。

「……まっち、なくなっちゃった」
「あら?」
「……もう、ないの?」
「申し訳ありません。もう、ないんですよ」
「……」

 あぁ、この顔。そそるなぁ。
 おっといけない、危うく仕事を忘れるところだった。

「じゃ、ライターがありますから、そちらで」

 くい。
 あれ?
 くいくい。
 あれあれあれ?

「……まっち……もうないの?」

 悔しそうな顔で私のスカートを引っ張る姫。口をへの字に曲げ、上目遣いで睨んでいる。

 きゅん、ときた。

 不味い。私はこういう表情にとても弱い。
 何というかこう、もっと苛めたくなるというか、その綺麗な顔をもっと歪ませてみたいというか。……だめだめ。弓道で培った強靭な精神力で、緩みそうになる口元をぐぐっと引き締める。

「ちょっと待ってて下さい。すぐにお持ちしますので」

 こくん、と姫は頭を下げる。
 おぉ、中々素直だ。いつもこうだと良いのだけれど。
 いや偶にだからこそ輝きを増すというか、ほら見てよあの口元。小さな口をつーんと尖がらせちゃって、可愛いったらありゃしない。やっぱ元が良いとあーゆー表情も絵になるってゆーかもっともっとそんな顔をさせてみたいつーかむしろ泣いて懇願する姿を見てみたいつーか八意流緊縛術奥義の限りを尽くしてあれやこれや……思考が暴走した。反省、反省。

 部屋を出て、準備室としてあてがわれた部屋に戻る。
 王宮内は意外と空いている部屋が多い。今代の王はかなりの合理主義らしく、機械設備が充実している代わりに宮殿内は割と質素だった。人手も極力省き、そのため現在では王宮の西館しか使われていない。それでも流石は王宮。準備室に戻るだけでも二、三分は掛かる。私は姫を待たせる事のないよう早足で準備室へと向かい、棚にしまっていたマッチの箱を取り出すと、とんぼ返りで教室に戻った。

「お待たせしました」

 ちょっとだけ息が上がったのを、無理矢理平時の状態に戻す。そうとも無様なところは見せられない。

「さあ、どうぞ」

 姫は再びマッチを手に取って軽く擦った。
 いけない、また力が入りすぎている。あれでは――
 案の定、ぽきりと軽い音を立ててマッチは二つに折れた。

「力の入れすぎです。軽く擦るだけで良いのですよ」
「……わかった」

 姫はマッチを手にして再び挑む。
 しゅっと音がしてマッチに橙色の火が点る。
 しかし今度は力を抜きすぎていたせいか、姫の手からすっぽ抜けて飛んでいってしまった。

「あ」
「あ」

 私達は同時に声を上げた。
 床に転がる火の点いたマッチ。私が拾い上げようとする前に、姫が屈み込んでそれを拾い上げた。

 マッチの――火の点いた方を摘んで。

「あ、消えちゃった」
「ひ、姫!」

 ぶすぶすと昇る黒い煙。肉の焦げる嫌な臭い。
 慌てて姫の腕を掴むと、炭になったマッチの先端が人差し指に貼り付いていた。焼け爛れた皮膚が溶けて、剥がすとべりっと嫌な音がする。
 なのに姫は平然と。
 不思議そうに、自分の指先を眺めて。

「姫……熱くないんですか?」
「? そうなの?」

 きょとんとした顔で見上げる姫。
 その顔はやせ我慢などではなく、本当に判らないという顔。
 今までの姫の行動を思い返す。もしかしたら――

「……治療します。ちょっと待っていてください」

 私は再び部屋の外に出る。救急箱も準備室に置いてあった筈だ。足早に準備室へ向かいながら、もう一度自分の考えを整理する。感情表現の希薄さ、反応の少なさ、そして先程の件……考えすぎかもしれない。そんなこと、普通はありえない。余りにも短絡な考察。大体、もし本当にそうなのだとしたら、あの年まで生きることすら困難。そんな訳ない。そんな筈がない……
 私は救急箱を引っつかみ姫の下へ急ぐ。脳裏に浮かんだ疑問と仮定、それをできるだけ考えないようにしながら。思考停止は忌むべきもの。だが、今の私はそれを是とした。
 教室に戻り、姫の手に消毒液を塗り、包帯を巻きながらも終始無言。言葉を投げれば、再び考えてしまいそうだったから。
 だけど、

「どうしたの? 永琳」

 その言葉が、私を抉る。
 今まで姫が私の名を呼んだ事はなかった。
 その声音に心配するような響きが混じっていたことが尚更痛い。私は、私は――

「……姫、貴女は」
「ん?」

 私を見下ろす、黒い瞳。
 本当に無感情な人形であれば良かったのに。
 本当に無機質な機械であれば良かったのに。
 そうだったら良かったのに。
 そうだったら救われたのに。

「……貴女は『痛い』という事をご存知ですか?」
「なに、それ?」

 あぁ、本当に――



  §


 無痛症。
 感覚自律神経の先天的異常。
 遺伝的に発生するこの症例は月の歴史においても、過去五件しか検出されていない。何故なら――多くの場合、発症していたとしても乳幼児の時点で死亡するのが常だからである。
 確かにこの症例は、痛覚がないという一点を除けば健常者と変わりない。だが人間というものは常に、生きる上で様々な危険に晒されているのだ。その危険を回避する為に必要なものが痛覚。痛みを回避する事が、死を回避するという事。
 例えば転んだ時、人は無意識に頭部を庇う。
 これは本能ではなく学習によるものだ。
 痛みを知っているが故に、とっさに重要な器官を守っているのである。痛みを知らなければ受身を取ることもなく頭から倒れ込むだろう。熱湯、高所、毒物、刃物、温度、病気、傷……それらの怖さを知らぬまま、いずれ決定的な致命傷を負う。乳幼児期に事故や病気で生命を落とす確率は、非常に高いものとなるだろう。
 姫が今まで生き残れたのは……言うまでもない。姫だからだ。
 常に傍に人がいる姫だからこそ、今まで生き延びる事が出来たのだ。それが幸か不幸かは別として。
 そしてもう一つ。
 痛覚がないという事は、触感もないという事。
 痛みとは脳が感じる電気信号に過ぎない。傷が痛むのではない、傷を負ったと判断した脳が痛みを訴えるのだ。肌で感じ取った刺激が強ければ痛みだと伝え、弱い刺激であればその感触を伝える。痛覚がないという事は、触れても何も感じないという事。
 触れても、触れられても、何も感じない。
 干した布団の柔らかさも、沈黙する鋼鉄の冷たさも。
 身を削るような痛みも、優しい母の温もりも。
 何も……何も感じられないのだ。

 あれから姫の主治医の下を訪れ、姫の症状について確認した。無痛症であれば、身体の異常に自分で気付くことが出来ない為、定期的な検診が必要だからだ。今のところ特筆すべき異常は見つかっていないが、もしも内臓系の疾患を発症したら、自覚症状もなく一日で絶命する事もありうる。
 無痛症に関する資料を読み漁ったが、具体的な治療法は見つかっていない。月の科学力を持ってしても、脳神経の分野はブラックボックスが多過ぎる。姫の場合は神経がないのではなく、脳が痛みを認知しないタイプのものらしい。末期がん患者に対する最後の手段として、脳外科手術で痛覚を取り除く事があるが、症状としてはそれに近いようだ。
 痛みがない。苦しみもない。それだけなら良い事のように思える。
 誰だって痛いのは嫌だ。出来るだけ痛みとは縁のない生活を送りたい。その為に人は生きていると言っても過言ではない。
 痛みから逃れる為に外敵を廃し、痛みから逃れる為に集団に属し、痛みから逃れる為に社会を生み出す。それが人の選んだ生き方だ。
 だが……考えてみて欲しい。
 痛みを回避する事が人生なのだとしたら、
 痛みを知らぬ者は生きていると言えるのだろうか。
 痛みがない。それは手にとっても何も感じられないという事。全てをモニター越しに眺めているようなもの。
 触れているのに触れられない。
 暖かさも冷たさも知らない。

 映像と音だけの虚ろな――空っぽの世界。

 マッチを点けられないのも道理。見ていることしか出来なかった姫に、力加減を学習する事などできまい。食事から何から生活における全てを、見て憶えるしかなかったのだ。今までに一体どれだけの失敗を繰り返し、どれだけの苦労を重ねてきたのだろう。私には解らない。解る気にもなれない――

「ふぅ」

 私は自室で資料を読み漁っていた。未だ学生の身分である私には、姫に対して出来る事など何もない。姫には主治医が付いており、私が何を考えるまでもなく、治療法があるならとっくに手を打っているだろう。
 そう、私に出来る事など何もないのだ。
『月の頭脳』などという大層な二つ名を持っていようと、所詮私は非力な小娘に過ぎない。
 何も出来ない、何も出来ない、何も出来る訳がない。

「……ふざけんじゃないわよ」

 何も出来ないなら出来るようにすれば良い。今までもそうしてきたし、これからもそうする。それだけの事だ。
 知識がないなら調べれば良い。
 知恵がないなら搾り出せ。
 力がないなら強くなれ。
 私は天才なんかじゃない。ならば天才に成れば良い。
 諦める? そんな選択肢、歩き出す前に考える事じゃない。先ずは動け。全てはそれからだ。
 あぁ、正直に言おう。私は別に姫に同情した訳じゃない。
 確かに姫の病気は哀れだと思う。だがこの月都市においてさえ、もっと不幸な存在など掃いて捨てる程いる。
 路地裏で寒さに震える少年。
 誰にも看取られず死んでいく老人。
 理不尽な暴力に苛まされる力なき者たち。
 彼らの事を知っても、私は何もしなかった。所詮は対岸の火事。どんなに心を痛めようと、結局私は暖かい部屋でぬくぬくと紅茶を飲んでいる。そんな自分が同情する事こそ、彼らに対する冒涜とすら思えた。だから今回も、ただの学術的な興味。己の限界を突破するための無意味な口実。だからこそ絶対に成してみせる。他人の為じゃない、自分の為なんだから。

 姫の笑顔を幻視した。
 仮面の笑顔ではない、本当に楽しそうに笑う顔。

 良いじゃない。ちょっとしたご褒美として、

 それくらい求めても――



  §



 その後も授業を続けながら、治療法について調べ続けた。
 医学書を読み漁り、学部に残された医療レポートに全て目を通し、姫の主治医に懇願して現在までに試みた治療方法を聞きだした。
 しかし……所詮は学生の身。一般公開されているレベルの資料では、大して役に立たない。
 それともう一つネックになるのが、姫が王族だという事。
 王族に関する個人情報は、最高レベルのセキュリティ下にある。八意家の名を使いかなりの情報を集めたが、できればもっと詳細な情報が欲しい。特に姫の症例が遺伝的なものであるなら、歴代の王族のカルテは是非とも手に入れておきたかった。
 姫に母親はいない。姫を産んですぐに亡くなったとの事。
 その後、王は新しい王后を娶ったが、姫との折り合いは余り良くないようだ。新しい王后との間には未だ世継ぎは出来ていないものの、新たに男子が産まれれば権力争いの火種と成りかねない。
 姫は今の立場に固執しないだろうが、下手をすれば謀殺の危険も出てくる。姫が無痛症である事は王宮内で公然の秘密であるし、事故に見せ掛ける事も容易いだろう。ふん、そうはさせるもんか。

「……ふっ」

 自分の想像力のたくましさに笑いが出た。
 会った事もない現王后に対し謀殺の危険を感じ、勝手に怒りを覚えている自分に対して。あらゆる状況を想定して動く必要があるが、無駄な思考に時間を割いている余裕はない。姫の家庭教師として任じられた期間は一年。その間に治療の方向性だけでも、主治医に示してやらねばならない。それ以降、私と姫は赤の他人となってしまうのだ。それまでに何とか……
 私は手当たり次第に資料を読み漁る。手段としては外科的手術しかあるまい。脳にメスを入れるのはタブーとされており、残された資料は極端に少ない。禁忌とされた魔術の方が、まだ資料が揃っているくらいだ。

「魔術、か」

 そちらからのアプローチも必要かもしれない。
 幸い八意家は、代々薬師という表の顔と魔術師としての裏の顔を持っている。私もある程度の魔術に関する知識は持っているが、月の生活において魔術など利用価値はないと思い、最低レベルでの習得しかしていなかった。
 それはそうだろう。現代において魔術でしか出来ない事など限られている。殆どが科学で代用可能であり、術者の力量や体調、星の位置によって結果が変動するような技術では汎用性がない。今の月において魔術に手を染める者は、学術団体(しかも考古学、古文学に該当する)くらいしかないのが現状だ。
 だがそれだからこそ、既成概念に囚われないアプローチが出来るかもしれない。うん、今度実家に帰ったら家に残る秘伝書をチェックするとしよう。

「やる事が満載ね」

 頭が痛くなるくらい問題が山積みだ。
 だが問題点を羅列しそれぞれの対策を練っていると、不思議なくらいどうにかなりそうな感じがする。

「つまり、私も今まで怠けていたって訳だ」

 他人の事を哂えないな、と思わず苦笑する。
 様々な書物やモニターに並ぶ文字に目を通しながら対策や問題点を片っ端から羅列し、データを打ち込んでいく。一つの問題に対し己の全力を注ぎ込む。これは私にとって初めての経験。今まで自己の限界だと思っていた地点はとっくに通過し、新たなる領域に踏み込んでいる。

 自分自身に掛けていた『限界』という名の枷。

 それが砕ける音を聞いた気がした。



  §


 あれから半年……魔術の補佐による脳外科手術に関するレポートは完成した。
 脳の一部に電気信号を直接送り込み、停止していた機能を呼び覚ます。同時に魂に刻まれた存在情報を解析し、欠損部分を見極め、極細単位での範囲指定を行った回復魔法の多重掛けを行うことで、全身の遺伝情報を徐々に組み替えていく。
 魂についての考察は今のところ魔術の領域であるため、完全にデジタル化できるよう変換機の開発を行わなければいけない。魂を利用したジェネレーターはすでに開発され、都市運営や兵器等に利用されているので、後はもっと微細な単位まで検知できるセンサーと、その制御装置を生み出せるかどうかが鍵となるだろう。
 魂のデータ化――魔術の分野において、ここまで研究が進んでいるとは思わなかった。所詮、私は井の中の蛙だったらしい。
 父に頼んで魔術師としての継承を行い、家に残された魔道書を読み漁ったが、様々な実験結果についての詳細な資料が残されており非常に役に立った。どうやら八意家を中心とした魔術団体は非合法な実験を古くから行っており、表よりも裏の方が強力な発言力を持っているらしい。その家の次期当主として生まれた私は、運が良かったのか悪かったのか。
 私が正式に八意家を継ぐ事を宣言した時、父は一粒だけ涙を零した。娘に裏との関わりを、極力持たせたくなかったらしい。薬学の道で大成する事を望んでいたと、ぽつりと洩らした。その心遣いは素直に嬉しく思うが、今となってみれば私がこの道に進む事は必然だった気がする。
 蔵に残された膨大な資料は、正直反吐が出るくらい陰惨なものだった。
 生きたまま頭蓋を開き脳に直接電極を打ち込むとか、霊体エネルギーの限界値を計測する為に老若男女問わずその生命を搾り取るとか。
 だが、私はその結果を淡々と受け止めていく。
 過去は過去、今は今。そこで得られた結果のみを貪欲に吸収していく。そこに同情やら憐憫の情が湧く事はなく、自分がこれほど冷たい人間だったという事に戦慄すら覚える。そんな人間が良くもまぁ、姫を救おうなどと考えたものだ。
 他人を冷静な視点で眺めると同様に、自己の内面も覗いてみる。
 おそらく根底にあるのは姫に対するコンプレックス。
 私と同じく完璧な擬態を纏いながら、そこに隠された闇の深さに嫉妬したのだろう。未だ底を見せようとしない内面に。
 その闇が無痛症によって生み出されたものならば、そこから姫を引き上げる事で安心したいのだ。

 ――この世に自分より歪んだ人間はいない。

 そうであるなら私はこの世界に対し、希望を見出す事が出来る。
 そう、私が『最悪』であるなら自分を呪うだけでいい。世は全て事もなしと、安心できるのだ。

「なんて――女々しい」

 自己分析の結果に自嘲する。何て情けないナルシズム。
 そういうものこそ自分が一番忌み嫌うものだった筈なのに。

「結局、私は他人に嫉妬していただけだったのね」

 その結果を受け入れる。
 自省と悔恨の時間は終わりだ。
 後は目的を果たすための手段を構築するのみ。
 現状のプランは、全て脳内で組み上げた机上の論理に過ぎない。これから数多の臨床試験を繰り返し、他人を納得させるに足るデータを集めなければならない。

「さて、始めましょうか」

 私はマスクを着け、ゴム手袋を嵌める。
 手術台の上に寝かせられた名も知らぬ男の死体の前に立つと、机上のメスを手に取った――



  §



「姫はご自身の病気を、どのようにお考えですか?」
「そうね。生まれた時からこうだったから良く解らないわ」
「普通の身体になりたいと思いますか?」
「普通というのが良く解らないわ」
「暖かいとか、冷たいとか、固いとか、柔らかいとか。その手で感触を味わってみたいと思いませんか?」
「そうね。良く解らないけど面白いかもしれないわね」
「面白い事は好きですか?」
「面白い事は大好きよ」
「姫はどんな事を面白いと感じますか?」
「人の顔」
「はぁ」
「一瞬毎に移り変わる人の顔。その変化を見るのが面白いわ」
「それって面白いですか?」
「面白かったわね。昔は」
「今は面白くないんですか?」
「みんな同じで面白くないわ」
「私も、ですか?」
「……そうね。貴女は取り繕うのが上手だから、中々見極めるのが難しいけれど」
「けれど?」
「鏡に写った自分を見ているみたいで、嫌いだわ」
 姫はにこにこ笑ってそう言った。
 私もにこにこ笑いながらそれに答える。
「それは残念です。私は姫の事が大好きなんですが」
「あら、私も貴女の事大好きよ?」
「今、嫌いだと仰ったじゃないですか」
「私、誰かの事を嫌いと思ったのは初めてなの。初めての事は面白いわね。そして私は面白い事が大好きよ」
「矛盾してますね」
「世の中では良くある事だと聞いたけど?」
「良くある事ですね」
「良くある事よ」

 姫はにこにこ笑う。
 私もにこにこ笑う。

 お互いに仮面を付けたまま。
 だけど互いに仮面の下を見透かしながら。初めて私と姫は、本心で語り合っている。

 姫と出会って一年。今日が姫との最後の授業。
 私が提出した無痛症の治療に関するレポートは、倫理に反するとしてその場で破棄された。
 今考えれば無資格の学生が臨床試験を行ったなど、通報されてもおかしくない。良くも悪くも八意家の名前が私を救ったと言えるだろう。結局、私がやった事は無意味だったという訳だ。

「姫……もう一度聞きます。普通の身体になりたいと思いますか?」

 私は笑みを消して、真っ直ぐにその瞳を覗き込む。
 これが最後。姫の返答によって私は自分の進む道を決める。普通の学生に戻るか、それとも――

「……私は、普通って良く解らないのよ」

 姫も笑みを消し、真っ直ぐに私の瞳を見つめ返した。
 黒い大きな瞳。吸い込まれそうな深い輝き。さらさらの黒い前髪がはらりと目元に掛かるが、その程度ではこの輝きを消せはしない。

「でも」

 姫はそっと右手を挙げる。
 手を伸ばし、私の右乳房を包み込む。
 加減も何もない、不器用な手付きで。

「ずっと知りたかったのよね。これってどんな手触りなのか」

 姫の顔に、悪戯っぽい笑みが浮かぶ。
 私も演技ではない心からの笑みを浮かべる。

「それはもう。天にも昇るような心地良さですよ」
「それは楽しみね。期待しているわ。永琳」
「えぇ、必ず。誓いますよ。姫」
 
 私達は最後の最後に笑いあう。
 仮面を取り払った、心からの笑みを。

 今この瞬間に――私の運命は決定した。








 第二章『禁忌』

 それから三年が過ぎ、私は一人で研究を続けている。
 姫には会っていない。会う事も許されていない。
 王子誕生と国王崩御により全権を握った王后が、姫を幽閉しているとの噂。基本的に王位は男子が継ぐものの、周囲の権力争いに巻き込まれ、姫も継承候補者として担ぎ上げられているらしい。あの姫の事だ、王位継承など興味はないだろうに。既得権益の確保にしか関心を持たぬ俗物共に、姫の身柄が押さえられている事が本当に腹立だしい。
 私は様々な論文を提出し、その名声を高めていった。特に化学と科学と魔術の三者の融合は、様々な副産物を生み出し、月の文明を三段階は引き上げた。年齢の問題で未だ院生に過ぎないが、すでにこの分野で私の右に出る者はいない。

 人工生命体『月兎』。
 広域結界術『密室』。
 魔力増幅器『天弓』。

 それらの基礎理論を始め、次々と新技術を開発した。賞賛と羨望と嫉妬を一身に受けながら、私は研究を続けていく。
 あの時、私の治療法が受け入れられなかったのは、私自身の信用が足りなかったから。
 力なき言葉に価値はない。
 ならば力を手に入れてやろう。私を無視する事が出来ない程の力を。
 あの時の誓いは未だに私の中に残っている。
 今の私はそれを果たす為だけに生きている。
 他人には決して解るまい。だがあれから三年、私の力が増し、多くの人と接触する機会が増えても、誰一人その存在に価値を見出せず、姫以上に私の心を捕えた者はいなかった。色、形、重さ。全てが足りない、満たされない。
 だからこれは必然。
 自分にとって、価値あるものの為だけに生きる。
 それを妨げるなら、全身全霊を持って排除するのみ。エゴイズムだと哂うなら哂え。私は自分の道を突き進むだけだ。

「まるで恋しているみたいね」

 そう言えば、私は誰かを好きになった事がない。
 言い寄られて仕方なく付き合った程度だ。
 誰かを好きになるという感覚がどうしても解らず、恋愛とは性欲や自尊心を満たすだけのものと認識していたが――

「なら、これが私の初恋という訳だ」

 歪んだ私から生み出される歪んだ恋心。歪んだ想いが真っ直ぐに、全てを押し退け突き進んでいくという矛盾。
 だがそれこそが、歪んだ私に相応しい。

「聖者には聖者の、悪党には悪党の、捻くれ者には捻くれ者の愛し方があるって事。止められるものなら、止めてみなさいな」

 それは高らかな、世界に対する宣戦布告。
 誰も居ない研究室で、
 仄かに光るモニターの前で、
 高く積み上げられた資料の前で、
 培養液の中で脈打つ『月兎』の胎児の前で、
 髪を振り乱し、目に涙を浮かべ、私は大声で笑った。

 姫を手に入れてやる。
 その為に、全てを敵に回そうとも。



  §



「お久しぶりです、姫」
「お久しぶり。元気そうで何よりね、永琳」

 三年ぶりに見る姫は、変わり果てていた。
 頬はこけ、髪は艶を無くし、骨と皮だけの異様な姿。
 先日、王后が正式に王位継承した為にやっと面会が叶ったものの、三年余り地下室に幽閉されていた姫は衰弱しきっていた。
 恐らくあの華やかな笑みを浮かべる姫と、今目の前にいる姫が、同一人物だと解る者などいないだろう。
 地下室を見渡す。薄暗い黴だらけの壁と天井。埃塗れの床。外側から施錠された扉。
 ある程度予測はしていたが、これ程劣悪な環境だとは思わなかった。
 仮にも姫は王族。幽閉されていると知っていたが、まさかこんな扱いを受けているとは。

「申し訳ありません……もっと早くお迎えに上がれば……」
「ふふっ、これはこれで楽しかったわよ。むしろ前の生活より煩わしくない分、気は楽だったわ」

 こけた頬で笑う姫。そこには虚勢ではなく、本当に心から楽しそうに微笑む顔があった。
 姫がそう言うならばそうなのだろう。思えば姫は決して本心を見せようとしなかったが、嘘を吐いた事は一度もなかった。

「姫、少しお身体を調べます。服を脱いでもらって宜しいですか」
「ええ、構わないわ」

 そう言って、身に纏ったボロボロの服を脱ぎ捨てる。
 空調の効かないこの冷たい地下室で、薄い生地の貫頭衣一枚しか纏っていなかった。下着すらも着けていない。
 脱ぎ捨てた後に現れる白い裸体。だが、そこにあるのは肋骨が浮き出て、手足に全く肉が付いていない骸骨のような身体。
 余りの痛ましさに思わず眉を顰めた。極端なまでの栄養失調。それにこれは――

「失礼。ちょっと触らせて頂きます」

 姫の薄い胸に右手を当てる。右手から軽く魔力を放ち、その反響で全身を隈なくスキャンする。
 ――酷い。
 外見から予測は付いていたが、内臓もぼろぼろだ。
 本来なら痛みで立つ事すら出来ないだろう。このような劣悪な環境で、満足な栄養も与えなければ当然だ。今すぐ治療をしたとしても、もう手の打ちようがない。

「姫、貴女は……」
「解ってるわ、永琳。私もうすぐ死ぬんでしょ?」

 にこにこと笑いながら答える姫。
 私は声を失う。呆然とその瞳を見つめる。

「最近、朝起きれなくなったのよ。起きようとしても、どうしても身体が動かない。いきなり目の前が真っ暗になって、気付いたら床に寝ている事もしばしば。いくら私でも解るわよ。もうすぐ死んじゃうんだなぁって」

 何も、言えない。
 姫の瞳を見つめる事しか出来ない。

「そろそろ潮時だと思っていたわ。最期に貴女に会えて嬉しかったわよ、永琳」

 にこにこと、にこにこと微笑む姫。
 とても、とても自然に浮かんだ微笑み。
 だから私は、
 それでも私は――

「……姫。貴女はまだ生きるということの本当の意味を知らない。まだ生きてすらいないのに、死を受け入れるなど千年早い。貴女がそれでも良いというならば、私は何も言いません。此処でお別れです。ですが……もし貴女が生きるという事を知りたいのなら、」
「永琳」

 私の言葉を遮って、姫が言葉を投げ掛ける。私は口を噤んで、再びその瞳を見つめた。
 瞬間のようで、永遠のような、無言の時が過ぎる。

「出来ない事を言うものではないわ」

 淡々と紡がれた姫の言葉。
 その言葉に、その諦めたような微笑に、私は激昂した。
 ――不可能だと?
 私を舐めるんじゃない。私は『月の頭脳』と呼ばれた女。年齢も性別も超越し、史上最高の頭脳を持つと謳われた月の至宝。不可能を可能に、夢想を現実に、時間も空間も魂も肉体も、世界の全てを頭蓋に納めたのだ。

 その私の望みを妨げるものがあるならば、
 私の眼前に立ち塞がるものがあるならば、

 神であろうと殺してみせよう。

「私を甘く見ないで下さい。今ここに貴女の意志を尊重する事を放棄しました。貴女に生きるという事を実感して頂く事が私の望み。貴女の意思に関わらず私がそう決めました。私を止めたければ殺しなさい――もう誰にも私を止めさせはしない」

 私は無言で姫を見つめる。
 姫も無言で私を見つめる。
 私達は見つめ合ったまま、須臾と永遠を振り子のように繰り返して――

「……私の負けね。宜しくお願いするわ、永琳」
「ええ、この命に懸けて。誓いますわ、姫」

 今思えば、勢いだけで言ってしまったようなもの。
 だけど私はこの誓いを決して後悔したりしない。
 
 あぁ、後悔なんかするものか――



  §



 私は手掛けていた研究の全てを放棄して、新しい研究に打ち込んだ。

 ――蓬莱の薬。

 過去の文献に幾度となく出てきた伝説の秘薬。その薬を飲んだものは永遠の命と不死の肉体を得るという。以前、無痛症について研究を行った時に我が家の蔵で見つけた秘伝書。一読して資料価値なしと放棄していたもの。そこに書いてある材料や調合法は出鱈目ばかりで、秘伝書通りに調合しても出来上がるのはただの毒に過ぎない。
 だが不老不死を、薬で得るというコンセプトに惹き付けられた。
 薬はあくまで全身に効果を行き渡らせるための摂取方法に過ぎない。
 必要なのは魂の固定。術式によって固定された魂から情報を引き出し、破損した肉体を再構成する。細胞そのもの、いやむしろ遺伝子情報に魂からの指令に従うよう術式を刻み込めば、肉体が滅びても魂からの呼び掛けに応え大気中に散らばる様々な素子を掻き集めて肉体を再生させる。
 昔の私なら一笑に付す荒唐無稽なアイデア。
 だが今の私なら成せる筈だ。魂を解析し、結界により固定。細胞そのものが持つ力を螺旋のように循環・増幅させて、肉体の再生に必要なエネルギーを生み出す。『月兎』『密室』『天弓』の開発段階で、個別の研究は終了している。後はそれらを融合させる事が出来れば――
 最初は姫をあの牢獄から連れ出し、何処かに隠れて治療を行うつもりだった。
 しかし今の姫では、それも不可能だろう。その前に体力が尽きる。
 王位継承権を奪われたとはいえ、未だ姫が王族なのは間違いない。反王后派が姫を担ぎ出そうとする動きもあることだし、月都市という密閉された空間で逃亡し続ける事は不可能だ。王后派と反王后派の両方に追われれば、どれだけ手を尽くそうと三日稼ぐのが関の山。
 そこで私は発想を変えた。
 何より優先させるのは姫の命。あの状態では持って半年だろう。こうなればいっそ無痛症である事が幸いだったかもしれない。常人なら、すでに痛みで発狂しているだろう。
 後は時間だけの問題。この研究が完成すれば、姫はその魂から肉体を再構築できる。病に蝕まれた肉体を放棄し、痛覚を持った健全な身体を手に入れる事が出来るだろう。問題は姫の生命が尽きるまでに、それを成せるかどうかだ。
 私は一人で研究室に篭り実験を重ねた。食事も睡眠も忘れ研究に没頭する。メモを取る間も惜しい。必要な式は全て脳に叩き込み、思考を八分割して並列処理を行う。現行のCPUでは処理が追いつかないので、こちらも脳内で代用する。試薬プログラムと、投薬した場合のシミュレーションシステムは、十年単位での試験結果を続々と弾き出す。駄目だ、二百年で魂が劣化する。粗悪なコピーを生み出すだけなら、只のクローンと変わりはない。初期段階ですでに歪みが生じているのだ。肉体は再生できても、記憶や精神が引き継がれない。もっと微細に魂を解析しないと、このままでは使い物にならない。結界式を液体に封じ込める術式はすでに組み上がっている。後は魂を固定する為のプログラムだけだというのにっ!
 複雑化するプログラムに対応する為に、脳の並列処理を増やし続け、現在では処理数二十三。試薬シミュレーターは度重なる酷使によりすでに沈黙している。新しく設備を導入する時間が惜しい。新たに脳内の分割処理を五つ追加して代用する。『月兎』の試験体を十体追加。擬似魂を挿入し投薬。失敗し発狂したモノや、再生機構が暴走し巨大な肉の塊となったモノは、時空間制御を用いて虚空に廃棄。今のところ唯一の成功例はゲージの中に封印しているが、精神的に正常とは言い難いためデータを採った後は廃棄となるだろう。
『月兎』は擬似生命体とは言え、余りにもヒトに近すぎる。
 これが発覚すれば倫理問題で学会を追われる事になるかもしれない。
 だがそれがどうした。
 すでにこの身は姫に捧げている。神も悪魔もお呼びじゃない。倫理や道徳などはまともな人間のものだ。今の私に必要なのは魂の数値化が可能なセンサーと、数億年の経時変化に耐えうる強靭な結界式。それ以外は無用、不要、無為。余計な思考は放棄。本能も生理も今は沈黙。己の全てを注ぎ込めっ!
 結界式に矛盾発見。至急パッチ処理。連環八卦陣にミス。リプログラミング開始。十七層構造結界式がキャパオーバー。重複する箇所を摘出し三分の一まで圧縮。再展開時にエラー発生。煩い第二脳! そのくらいそちらで処理しろ! 第十二脳から悲鳴。第二十一脳で補佐する、それまで持ちこたえろ! 黙れ、口答えするな! 時間がない、姫の命は明日にも尽きる。死んだ魂は流石の私も取り戻せない。急げ、急げ、急げ!

[試薬投下][経口摂取][泣き叫ぶ月兎][狂ったように痙攣][沈黙][術式の組み換えに三日][糞][無駄な][再度、投薬][崩壊していく肉体][馬鹿な][ゲノム解析][魂の数値化][センサー開発][失敗][再開発][現行の単位では][理論値まであと三万二千][これなら][試薬再投下][即時発狂][脳以外廃棄][月兎追加][個体差による反応の違い][再調整][投薬開始から二時間経過][今のところ問題なし][実験として試験体を][ハンマーで頭部][飛び散る肉片][流れる赤][十五分経過][再び集まる脳髄][痙攣する手足][そして――再生]

 ――出来た。

 ビーカーの中に輝く橙色の液体。
 これこそが伝説の『蓬莱の薬』
 ゲージの中の月兎は、投薬開始後八十二時間経過しても、外見に異常は見られない。計測によれば、投薬前に比べ魔力保有量が桁違いに上がっている。単体で触媒なしに時空間制御すら可能な程だ。肉体を再構築する際に生ずる余剰エネルギーの産物。『天弓』による魔力増幅の究極形態であり、細胞が再生する時に外部の魔力、引力、斥力質量光子波動電子霊子、ありとあらゆる『力』を貪欲に取り込む事による副産物。不老不死となった上に、膨大なエネルギーを得る事になる訳だ。誤算といえば誤算だが、体内に余剰エネルギーを残さぬよう適度に発散させれば問題ない。
 ともあれ奇跡は成った。
 本当に無限の寿命を得たかどうかは試算に過ぎないが、思いつく限り全てのデータを打ち込んだ上でのシミュレートである。間違ってはいない筈だ。
 だが、未だに人体実験は済んでいない。
 月兎がいかに人間に近く造られていようとも、遺伝情報は人間と僅かながら異なっている。
 八意家といえども、生きている人間の調達は侭ならない。
 どうする?
 どうすべきか?
 
 決まっている。人間なら此処にいるじゃないか。

 出来上がったばかりの試薬を睨む。
 試算には絶対の自信がある。月兎から人間へのリプログラミングも完璧。ならば何を躊躇う必要があろうか。私はそこらに転がる紛い物ではない。『月の頭脳』と謳われた真の天才だ。己の成果に疑問を抱く余地はない。

 さぁ、己の真価を飲み干せっ!

 私は目を瞑って、一気に蓬莱の薬を飲み干した。
 ……苦い。
 元より味など考慮していなかったが、これは改良の 余  地  が――

 唐突に来た。
 全身が粉々になるような痛み。
 いや痛みという表現など生温い。
 全身に焼けた針を突き刺し、全ての肉をめくり上げるような、何千、何万という蟲が血管を這いずり回っているような感覚。受身も取れず倒れ込み、ビクビクと痙攣し、余りの激痛に視界が赤へと染まる。痛い熱い辛い痒い冷たい痛い苦しい哀しい悲しい痛い切ない息苦しい壊れる灼ける溶ける燃える凍える斬られる刻まれる引き裂かれる突き刺される捻られる抉られる……気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪いっ!
 馬鹿な、月兎の時はこれ程過剰な反応は示さなかった。もしや術式にミスがっ!
 肉体が崩壊、精神が溶解、魂が全壊。思考は分断され、脳髄は灼熱に爛れ、心臓は刳り抜かれている。吐瀉物を撒き散らし、汚泥の海でのたうちながら、真っ黒な視界の中で必死に手を伸ばす。死なない、死なない、死んでたまるかっ!
 歪んだ視界が歪な像を映し出す。生まれた時の事。亡くなった母。厳格で優しい父。子供の頃に遊んだ公園。展望台から眺める蒼い星。退屈なだけの学校。無心に引き続ける弓。学部長からの依頼。そして……姫。
 視界はすでに赤から黒。おそらく私は死んでいて、粉々の魂が世界にばら撒かれている。私だった欠片はもうビスケット一枚分しか残っていない。それすらもう消える。
 駄目だったのか? 
 届かなかったのか? 
 私では力及ばなかったのか? 
 まだだ、まだ死ねない。まだ死ぬ訳にはいかない。待っているんだ。姫が……姫が待っているんだっ!
 暗闇の中、掻き分けるように必死で手を伸ばす。その手には何も掴めない。

 それでも私は――

 突然、視界が光に包まれた。
 光の中に浮かぶのは見知らぬ建物。青々と繁る竹林の中に佇む木造の大きな館。永き時を耐えた風合いで、それでいてしっとりと落ち着きのある佇まい。
 私は惚けたようにその館を見上げている。
 柔らかな日差し。鼻腔を擽る土の匂い。そして髪を優しく撫でる風……ここは何処だろう。私は何故……
 館の中から喧騒が聞こえる。
 誘われるように門をくぐる。

 そこには――

「ちょっと、てゐ! アンタ何やってんのよ!」
「何を仰る兎さん! 弱肉強食が自然の掟。死して屍拾うものなし! 欲しけりゃ鈴仙もぶん盗りなっ!」
「自分ばっか食ってんじゃないっての! ほら姫にも取ってあげないと!」
「あら構わないわよ。こういうのも面白そうじゃない」

 そう言って、茹で上げた素麺のザルに群がるイナバ達を、箸を片手に立ち向かう姫。
 
 その顔は本当に楽しそうで。
 偽りではない、心からの笑顔で。
 
 長い絹のような銀髪に、へなへなの耳を揺らす少女。
 艶々した黒い癖毛に、ふかふかの耳を揺らせた少女。
 そして沢山の兎たち。

 素麺を上手く掴めず戸惑う姫に、微笑みながらお椀によそう銀髪の少女。意地汚くがばがばと素麺を取る振りをしながら、さりげなく隅っこで縮こまっている兎へと素麺を分けてやっている黒髪の少女。そして楽しそうに笑う兎たち。

 つ、と涙が零れた。

 これは知らない景色。知らない情景。知らない記憶。
 だけど何故だろう。懐かしくて思わず涙が零れた。
 いつか還りたい場所。還りたい時間。還りたい思い出。

 だから私は、届かないと知りつつ手を伸ばす。
 これは夢。叶わぬ願い。遥かなる幻想。
 だから私は、それでも私は、
 求めるように、縋るように、願うように、

 手を伸ばして、手を伸ばして、手を伸ばして――

「あれー師匠? どうしたんですか?」

 銀髪の少女がこちらを向いて微笑みかけた。

「ほら、早く食べないとなくなっちゃいますよー」

 そう言って彼女は右手を伸ばす。
 その後ろには黒髪の少女、沢山の兎、そして、姫。
 みんなこっちを向いて笑っている。

 だから私は、

 そして私は、

 差し出されたその手を――






 窓から差し込む光に、ふと目を覚ます。
 胡乱な頭で昨夜の事を思い出し、自分の手をじっと見つめた。
 あの時、確かに何かを掴んだ筈なのに、その中は空っぽだった。
 掌を開いて閉じる。
 もう一度、開いて閉じる。
 何度も何度も開いて閉じる。

 やっぱり手の中には何も残ってない。

 だけど、あの時感じた温もりだけは、

 今もこの手に残っていた――



  §



 黴臭い地下室に、姫は未だ幽閉されていた。
 八意家の名により面会だけは許可されたものの、面会中も扉の外には監視役が配置されているし、そもそも王宮からの脱出が不可能だろう。
 そしてそんな汚らしい地下室の中で、姫は起き上がる事すら出来ず、粗末なベッドに寝転んだまま、私の顔を見上げていた。

「申し訳ないわね。こんな格好で」
「いえ……余り無理をなさらぬよう」
「こないだまでは、立ち上がる事くらい出来たんだけどね。ちょっともう……無理みたい」

 前回の面談から約半年。
 姫は約束を守って生きていてくれた。
 骨と皮だけの痩せ細った身体。長く艶やかだった黒髪は根元からごっそりと抜け落ち、床ずれにより身体のあちこちが擦り切れ、腐った肉が腐臭を放っていた。

 目を背けたくなる程に終わっている。
 姫の肉体は終わっている。

 軽く目を閉じて、呼吸を整える。
 姫をここまで追い込んだやつらへの怒りと、今まで何も出来なかった自分への怒り。その二つが私を焼いている。
 脳裏に弓を描き、荒ぶる心を静める。
 落ち着け。今為すべきは復讐でも後悔でもない。

 姫を救う。この一点のみ。

「あの時の誓い。今此処に果たします」

 ベッドに横たわり、静かに微笑む姫。
 ここまで終わっているにも拘わらず、そこまで穏やかな笑みを浮かべる事が出来るその精神に、私は心から頭を下げた。

「姫。これを」
「それは何?」
「私の全てです。姫に生の喜びと苦痛を教える為の、魔法の薬ですよ」
「へえ、それは楽しみね」

 私が渡した小瓶を眩しそうに眺める姫。
 天井の照明に透かし、小瓶の中の緑色の液体をちゃぷちゃぷと揺らしている。

「それを飲めば不滅の肉体を得て、喪われた感覚を取り戻せるでしょう。不老不死となり、永遠を謳歌出来るでしょう。ですが、」
「……」
「永遠という意味を理解できますか? それは望んでも死を得られないという事。尽きぬ辛苦に苛まされようと、無限の時間に精神が磨耗しようと、この世界にたった一人取り残されようとも、それでも終わる事は許されない。それが理解できますか?」
「……」
「最初は、姫の肉体を再構成する薬を生み出すつもりでした。ですが姫の立場を考えれば、一つの命ではとても足りない。今、貴女が生かされているのは、放っておいても勝手に死ぬからです。ここで健康を取り戻しても、反逆の準備をする段階で十回は殺される。内乱を起こし、王権を簒奪するにしても、その前に姫は殺されてしまうでしょう」
「……」
「無限の生か、一瞬の死か……貴女は選ばなくてはならない。その覚悟がありますか?」
「……」
「今渡したのはただの毒です。苦しみもなく一瞬で逝く事が出来るでしょう。姫がそれを望むのなら、私もそれを受け入れます。そして……こちらが『蓬莱の薬』です」

 懐からもう一つの小瓶を取り出す。
 透明なガラス越しに輝く橙色の液体。液体の中に編まれた魔術式が、時折蒼い閃光を放っている。

「両方置いておきます。貴女の命尽きる時まで、ゆっくりとお考え下さい。それでは」

 私は一方的に告げ、一礼してから姫に背を向ける。
 私は矢を番え、そして放った。
 中り外れなど瑣末。私はすでに放ったのだ。

「永琳」
「はい」

 私は振り向かず、声だけで姫に答える。
 顔は見ない、見る必要はない。

「こっちはいらないわ」

 ころん、という音と共に足元に転がる小瓶。
 その小瓶の色は――

「考える時間なんていらない。今ここで選択するわ」

 私は振り向かない。振り向く必要はない。
 だって……番える前から、この矢が中る事は決定していたのだから。

「……私を信じてもらえますか?」
「私は何も信じないわ」
「では、止めておきますか?」
「まさか、こんな面白そうな事」
「ふふっ、とても『痛い』ですよ?」
「あらあら、それこそが私の望む事だわ」
 
 誰も祝福する者のない薄汚れた地下室で、二つの永遠が生まれた。
 終わりのない旅へと足を踏み出す最初の一歩。生と死、過去と未来、道徳と倫理、自由と束縛、その全てに背を向ける過酷な旅路。だけど私達は産声に代わって微笑みを浮かべる。顔を合わせぬまま、その瞳を確かめる必要もないままに。

 永遠を共に歩む事を――選択した。







 第三章『価値あるもの』


 そして私は捕らえられた。
 罪状も告げず、私を拘束する男達。警官の格好をしていたが、王后の私兵である事は初めから判っていた。
 あれから姫がどうなったのか知らない。だが私が捕らえられたところを見ると、息災なのは間違いあるまい。
 手錠を掛けられたままでの度重なる尋問。私は実験の最中に偶然『蓬莱の薬』を生み出し、自分と姫に投薬した事を告げた。もとよりこれは想定内の出来事。僅かに怯えた演技とともに訥々と証言する。

 さて……姫は上手くやっているだろうか。

 まぁ心配する事もないだろう。姫ならば蓬莱の薬を生み出した意図まで汲んで、上手くやってくれる筈だ。
 私の証言を確かめる為に、腕に針が刺された。赤い血が一滴流れるが、すぐに流れ出た血が戻り、後には針を刺した跡すら残らない。驚愕する医師団に苦笑を禁じえないが、今は下手に刺激する時ではない。私は笑いを必死で堪えた。
 そしてその後は予想通り。
 不死である事を証明する方法など一つしかない。どんどんエスカレートしていく実験に、私は十三回殺された。生きたまま腑分けされた時は、痛みよりも不快感が先に立った。全身をミンチにされた時は、精神の限界を超える前に舌を噛んで自決した。銃で脳天を打ち抜かれた時は快楽すら覚えた。
 服を脱ぎ捨てるように古びた肉体を捨て、新しい肉体を纏う。
 我ながら出鱈目な身体だと思う。人の、いや生物の理を外れた異物。
 同じ研究者として、私の身体を弄ぶやつらの気持ちも解らないでもない。不快なのは変わらないけれど。
 姫は今どうしているだろうか。
 初めて体感する痛みに酔っているだろうか。
 与えられた痛みに恍惚の笑みを浮かべ、その笑みの意味すら解らぬ者たちを怯えさせているのだろうか。
 私は絞首台で首に縄を掛けられながら、そんな姫の姿を思い浮かべて笑みを零した。
 足元の処刑人が気味悪そうに見上げている。
 そうそう、姫の前にいる男もあんな顔をしているに違いない。あはは、手を縛られているから、口元も隠せないじゃない。
 処刑人がスイッチを押し、足元の床が二つに割れる。
 一瞬の浮遊感の後に、頚骨の折れる音を聞く。
 視界が一瞬真っ暗になるが、これで三度目の絞首刑ともなれば嫌でも慣れるというものだ。すぐに蘇生するも、頚動脈が締められ脳への酸素供給が止まり、再び意識が暗闇に落ち掛ける。心臓停止まで約五分。それまではゆっくりと死の感触を味わう事にしよう。

 死に落ちる寸前まで、

 怯える処刑人に向け、私はにやにやと笑い続けた――



  §



 ――そろそろ頃合いか。

 その後も私は殺され続けた。
 心臓を抉られたり、液体窒素で凍結粉砕されたり、文字通り骨まで焼かれたり。だがどんな手段を用いようとも、必ず蘇生できた。
 当たり前だ。蓬莱の薬によって固定されているのは魂の方。肉体をどれだけ破壊しようと、欠けた肉体は魂を元に再構築される。五体を解体して個別に保存しようとも、魂のある場所に肉体が生み出されるのだ。
 サンプルと称して、あちこちの研究室に私の肉体が飾ってあるらしいが、そんなものはただの肉。切った爪に価値がないように、斬った肉にも価値はない。

 しかし……飽きた。

 蓬莱の薬による不死性も証明された事だし、当初の予定通り次の段階に移るとしよう。恐らく、姫も退屈しているだろうし。
 独房の扉を強く叩いて看守を呼び、泣き叫んで金切り声を上げる。

「死ぬのはもう嫌だ、痛いのはもう嫌だ、何でもするから出してくれ」と。

 叫びを聞きつけて看守たちがやってくる。
 ここからは演技力の勝負。私は出来るだけ怯えた声で、王族との面談と助命を懇願した。

 『蓬莱の薬』の製法を条件に。


  §


 願いは届き、面談が叶った。
 まぁ、それも筋書き通り。権力に憑り付かれた者たちの求める物など古来決まっている。処刑という名目の人体実験。だがあんな低脳に秘薬の製法なぞ解る筈もない。上の人間は焦りを覚えていた筈。この餌に食い付かぬ訳がない。
 豪華なドレスの女を中心に居並ぶ王族たち。
 そいつらの前で、私は手錠を掛けられたまま床に転がされた。
 蓬莱の薬によって得た力を用いれば、こいつらなど一薙ぎで鏖殺できる――その欲求は死の苦痛よりも耐え難かった。

 まだだ、まだ駄目だ。落ち着け、自制しろ、目先の快楽に捕らわれるな。
 今まで耐えてきたのは何の為だ。落ち着け、落ち着け、落ち着け!

 奥歯を噛み締めて衝動を押し殺すと、出来るだけ惨めったらしい声を上げて懇願した。
 連続する死の苦痛に耐え切れないと涙ながらに訴え、釈放を求める。代償は蓬莱の薬。あの時生み出された薬は偶然の産物だが、時間さえ貰えれば再び秘薬を作ってみせると、床に頭を擦り付けて懇願した。
 ひそひそと密談を交わす王族たち。
 だが奴らの腹など既に決まっている。体面の問題で、相談の振りをしているだけだ。
 私は床に頭を付けて時を待つ。物乞いのように、無様に、情けなく。
 与し易しと思わせなければならない。手を誤れば、姫と共に宇宙に放り出される事となる。
 いくら不死とはいえ何千年、何万年と虚空を漂うのは勘弁して欲しい。
 頭を下げたまま、時間だけが過ぎる。
 結局、王族たちは私の罪への特赦を認めた。私は再び頭を下げて礼の言葉を述べる。

 見えないように、舌を出しながら。

 そして議題は姫の件へと移った。
 元とはいえ王位継承者が不死である事をこいつらは望むまい。私はタイミングを見計らって、

「それについては、私に考えが」

 私の意見が――採用された。




  §


 
 本日は晴天なり。
 環境調整局は年間スケジュールに従って、今日という日を晴天と定めた。
 だから今日が姫の誕生日だという理由で、この日に決定した訳ではない。
 単に今から行われる式典が、雨だと都合が悪いから今日になったというだけだ。
 王宮の広場に設置された十字架。
 取り囲む群集たち。

 そして――磔となった姫。

 今から姫は火刑に処される。私は姫の顔を見たいと目を凝らすが、遠すぎてその表情までは判別できない。立会いこそ許されたもののまだ私は信用されていない。群衆に埋もれ、遠目から見る事しかできなかった。
 私達が永遠となってから、姫を見るのはこれが初めて。
 私達は別々に連行され、毎日のように殺され続けた。
 姫の身体は私が保証する。だが精神が持つかどうかは賭けだった。

 もし姫の精神が壊れてしまったならば――

 私は姫の姿をもっとはっきり見ようと、人並みを掻き分ける。テロ防止のため広場にはフェンスが設けられ、一般人はそこから入る事は許されていない。無理に侵入すれば警護団に射殺されるだろう。フェンスに張り付いて目を細めた。
 十字架に架けられた細い身体。長く艶やかな黒髪。透き通るような白い肌。
 吸い込まれそうな黒い瞳はそのままに、美しく成長した姫の姿。
 磔となってもその涼やかな笑みは消えていない。本当に心から楽しそうに笑っている。
 
 流石、讃えるべき我が主かな。

 壇上で誰かが何かを喚いている。姫を罵る口汚い演説。余りに下等すぎて怒る気にもなれない。
 私は戯言を聞き流しながら、姫の姿を網膜に焼き付けた。
 壇上の雑音が止み、松明を手にした覆面の男が現れる。死者に恨まれぬよう顔を隠した伝統的な処刑人スタイル。何を今更と口元が歪んだ。あれだけ何度も殺しておいて、今更恨みを怖れるなどと片腹痛い。
 覆面は捧げ持った松明を頭上に掲げながら、ゆっくりと十字架に近づき……姫の足元に火を放った。
 轟と唸りを上げ噴き上がる炎。十字架の根元に重ねられた薪が、酸素を貪り炎塊と化す。
 赤く渦巻く炎が姫の身体を飲み込み、尚も勢いを増していく。
 その様を、心ある者は哀れと目を背け、心なき者は好奇に目を輝かせる。

 そして私は――目を逸らさない。

 肉の焦げる臭いが鼻に付いても私は目を逸らさない。姫の身体が炎に包まれ、焼け崩れていく様を見守り続ける。
 轟々と燃え盛る炎。
 踊る炎は風を呼び、罪の全てを灰燼へ誘う。
 痛ましげに目を逸らす者。目を輝かせて見ていた者。

 その瞬間、どちらも一様に息を呑んだ。

 紅蓮の炎が激しさを増し、白い身体を焼き尽くす時、

 確かに姫は――笑っていた。




  §



 王都『蓬莱山』の外れにある統合作戦本部――此処には巨大な戦艦ドックがある。
 軍の上層部が予算獲得に東奔西走し、過剰なまでに装備を充実させた眠れる巨龍。戦艦五、巡洋艦二十四、兵役二千。これはすでに月を十回は滅ぼせる戦力でありながら、治安維持には基本的に警備局が当たるので、平時には無用の長物に過ぎなかった。この過剰なまでの軍備は、名目上蒼い星への侵攻に備えてとの事だが、衛星都市『龍』『燕』『御鉢』『火鼠』『玉枝』への牽制である事など子供でも知っている。
 月は決して一枚岩ではない。
 様々な利権や思惑が絡む蟲毒の壺。そんな人の醜い部分を掻き集めた象徴が、月都市において一際威容を放つこの戦艦ドックだ。

 そしてその奥に――星間弾道砲『大鵬』が、その筒先を空に向け静かに眠っていた。

 はっきり言って冗談で造られたとしか思えない。
 砲径十五メートル、砲身四百メートル。ドーム内に収まりきれない砲塔は虚空へ突き出し、都市を貫くアポロンの矢のように禍々しく聳え立っている。砲身内部は何万もの電磁石が並ぶ電磁カタパルトとなっており、リニアにより加速された砲弾は射出後十秒で月の重力を振り切り、砲弾後部に搭載した核パルスエンジンを用いて地上へ向かう。途中で燃料を喰い尽したエンジンを切り離し、大気圏突入時に外壁をパージしていく事で、熱核兵器を搭載した弾頭を地表に突き立てるのだ。極めて前時代的な旧式兵器である。
 拠点攻撃用としてなら、正確性、威力共にレーザーの方が効率的だし、制圧なら戦艦で十分だ。
 面倒な座標計算、莫大な燃料、希少金属による特殊鋼材……何をとっても無駄の一言だ。
 こんな物を造り上げたのはただの馬鹿だろう。大艦巨砲主義の極み、軍部の力を見せ付ける為の張子に過ぎない。
 事実、数回の試射を行った後は、整備もされぬままドックの奥で埃を被っていた。
 解体にも莫大な費用が掛かる為、そのままずっと放置されているのだ。

 だが私達の計画には、どうしてもこれが必要だった。

 月を捨てて蒼い星に行く。
 それが私達の出した結論。

 船は全て航宙局による完全制御の為、奪取は難しい。よしんば成功しても、王族の指揮する戦艦により容易く沈められてしまうだろう。時空間ゲートの開発は進めているが、座標軸設定の為に地上側にもゲートを設置する必要がある。設営の人員手配や費用を考えると、完成にあと百年は掛かるだろう。いくら永遠の命を得たとはいえ、そこまで気は長くない。
 だから、この前時代の遺物が必要なのだ。
 ごんごんと低い金属音を立てて、砲塔が照準設定を行っている。着弾点の指定は本来必要ないが、個人的な趣味でとある島国へと内密に設定し直している。子供の頃に映像で見た、四季のある美しい国。機会があれば、是非一度行ってみたいと思っていたのだ。
 ずん、と重い響きが、照準を終えた事を伝える。
 後は発射を待つだけ。立場上、ただの見学でしかない私は計器に近づく事も出来ない。照準設定は昨夜の内に調整していたので、私に出来るのはもう見守る事だけ。
 聳え立つ砲身。
 あの砲弾に入っているのは、熱核兵器でも細菌兵器でもなく……真っ白な姫の灰。
 灰となった姫の身体は銀のカプセルに収められ、撃ち出される時を静かに待っている。
 姫の扱いに頭を抱える王族に対し、私が進言したのがこれだ。禁忌を犯した大罪人として火刑に処し、その後穢れた大地へと流刑に処す。不死人の放逐と、王族の威光を示す為のイベントとしての効果を。
 新たに実権を握った王后は、処刑の理由を王位継承に関する醜聞ではなく、禁忌に触れたが故という事をアピールしなくてはならない。先の火刑も今回も、大掛かりな催事へと昇華する事で国民の目を逸らさねばならないのだ。
 本来なら、ここまで大掛かりにする必要はない。
 火刑後、そのまま宇宙に射出するだけで良いのだ。
 だから私は、王后の派手好きな性格と高い自尊心を利用した。
 歯の浮くような美辞麗句を並べ、その気にさせるのは難しい事ではない。費用面での反対意見もあったが、結局鶴の一声で私の案が採用される事になる。

 ――私の思惑通りに。

 経験上、灰から復活するのに五日は掛かる。発射から地上到達まで約三日。姫の火刑からすでに二日経過しており、あの小さいカプセルの中で蘇生したら、復活と同時に圧死しかねない。蓬莱の薬は魂から肉体を構築するので、いざとなれば自分の意思で身体を小さく作り変える事も出来るが、できればその前に地上へと降ろしてあげたかった。地上に辿り着きさえすれば蓬莱の薬によって得た魔力で、カプセルを内部から破壊する事も出来るだろう。
 残る心配は無事地上に辿り着けるかどうか。
 照準設定には絶対の自信があるが、この砲の整備状況に不安が残る。十分な推力が得られず大気圏を突破出来なければ、永遠に宇宙を彷徨う事になるだろう。それだけは避けなければ――

 全ての準備が整い、秒読みが始まる。

 十……   だけど
 九……   計画通りに事を進める事が出来た。
 八……   一番懸念していたのは、
 七……   姫の精神が耐え切れるかどうか。
 六……   今まで『痛み』を知らなかった姫。
 五……   初めて味わうそれは、文字通り死の苦しみ。
 四……   肉体は再生できても、精神は耐えられるか。
 三……   だけど姫は耐えた。涼しげに、笑みすら浮かべて。
 二……   ならば大丈夫。これからも大丈夫。
 一……   後は私が地上に降りるだけ。
 零……   待っていて下さいね、姫。

 凄まじい轟音が鳴り響く。
 虚空へと突き出された砲身が火花を散らし、巨大なドックを震わせる。
 叩き付けるような衝撃に、思わず私はよろめいた。リニアカタパルトによる射出は本来無音の筈。だが大質量の物体が超高速で撃ち出された時に生じる衝撃波は、爆音として頭の中に鳴り響く。鼓膜ではなく心臓を穿つ轟音が身体の中で反響し続けている。
 モニターに目を移した時には、もう砲弾は月の重力を振り切っていた。予測弾道との誤差をチェックしたいが、見学者に過ぎない私はこれ以上何も出来ない。ただ、無事に着くよう祈るだけ。

「祈る? 何に? 私が?」

 思わず笑いが込み上げた。咄嗟に顔を左手で覆うが、隠しきれそうにない。身体を折り曲げ、肩を震わせる。
 周りの者たちが訝しげな顔をしていたが、どうにも堪え切れそうになかった。



  §



 それから十年が過ぎた。

 色んな事があった。

 だけど、私の中には何も残らなかった。

 父の死。八意家の全権掌握。『月兎』及び『天弓』の情報漏洩。『燕』『御鉢』の独立宣言。内乱の勃発。『燕』の消滅。『龍』『玉枝』『御鉢』の同盟国家設立。『火鼠』の永世中立宣言。『蓬莱山』のクーデター。王后と王子の処刑。そして今なお続く内乱……
 総人口の三分の一が命を落とし、各衛星都市はそれぞれの独立を目指して争い続けている。
 私は今も研究を続けていた。
 秘薬の精製を命じた王家は滅んだが、新たに政権を握った共和派がスポンサーとなって、引き続き研究を行っている。
 勿論、蓬莱の薬を他人に渡す気など初めからない。
 経過報告として、情報を小出しに提供しているだけだ。
 不完全な蓬莱の薬を飲んだ王后は、処刑に当たり中々絶命せず、処刑人の頭を悩ませたらしい。都合十二回処刑されても死なず、繰り返される死の痛みに正気を失って、最後には生きたまま核融合炉へ放り込まれたそうだ。
 形式上、王后派と見なされていた私も投獄されたが、研究の成果が認められ、新しく政権を握った共和派の重鎮たちから秘薬の完成を急かされている。
 つまりは頭がすげ代わっただけ。
 私の立場は何一つ変わらない。
 内乱及びクーデターの引き金は、衛星都市である『燕』『御鉢』が、『月兎』の軍事利用を目論んでいるという密告があったためである。
 王家は事実確認の為の内部視察を要求したが、『燕』『御鉢』はそれを拒否。その上、二都市が結託して独立宣言を行った事に因を発する。
 その三日後、『蓬莱山』の戦艦ドックが謎の襲撃を受け壊滅した。襲撃者は不明。単独犯と噂されるが、生存者がいないため未だに詳細は闇の中だ。各種センサーに残る痕跡から襲撃者は単体による時空間制御を用いて、ドック内部から破壊活動を行ったと推測される。そしてそれを契機に、本格的な内乱へと突入した。
 内乱において人工生命体である『月兎』と、単体で莫大な攻撃力を発揮する『天弓』は絶大な戦果を生んだ。民間人を装い敵地に侵入した『月兎』が、敵陣営の内部で一個師団に匹敵する破壊を齎すのだ。テロと変わらぬこの戦法は、両陣営に取り入れられ、テロに対してテロで報復という最悪の結果となる。
『蓬莱山』は反乱の要である『燕』に対し、『月兎』十体を投入。
 結果『燕』は歴史の上からも、地図の上からも消える事となる。――五万人の命と共に。
 その後、各衛星都市群は一時的に結託し、『蓬莱山』に対しての宣戦布告を行った。都市防御の要となる『密室』の完成までに、更に多くの人命を失う事となる。
 私は『月兎』『天弓』の情報漏洩の罪で投獄されたが、その一週間後に『蓬莱山』内部でクーデター勃発。その際も活躍したのは『月兎』だったそうだ。
 新たに政権を握った共和派から、私は闘う為の叡智を授けた救国の英雄として迎えられる。その後、政権を握った共和派が、五つの衛星都市に対し隷属を要求。独立を求める衛星都市群と、未だに不毛な内乱が続いている。

 これが、この十年の間に起こった出来事。

 私は自分の研究室で、秘薬の完成を急かされながらも、変わらぬ日々を過ごしていた。

「お疲れ様」
「お疲れ様です。まだ帰られないんですか?」
「ええ、もうちょっとだけレポートを進めておこうと思ってね。ほら、最近上が五月蝿いし」
「ははは、そうですね。では余り無理をされないよう」
「ありがとう。貴方もね」
「では、失礼します」
「はい、お疲れ様」

 ばたんとドアを閉めて、最後の研究員が帰っていく。
 私はキーボードに指を走らせながら、この十年の出来事を思い出していた。

 色々な事があった。

 だけど……私の中に何も残らなかった。 

「ふふっ、あはは、あはははははははは」

 誰も居ない研究室に、私の笑い声が響く。
 踊れ踊れ俗物ども。誰も彼も私の掌で踊るがいい。

『月兎』『天弓』『密室』の製法を洩らしたのは私だ。
 試験体にドックを破壊するよう命じたのも私だ。
 過ぎたる力を手にした人間の行動など予測するまでもない。個別に時期を見計らって情報を流せば、誰もが思い通りに動いていく。独立だ、自由だなどと大義名分を掲げて、やっている事は結局ただの殺し合い。馬鹿ばっかりだ。笑ってしまう程に。哀しくなる程に。

「あはははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは」

 笑いが止まらない。哂いが止まらない。いつまでもいつまでも引き攣ったような嗤いが止まらない。
 涙が零れる。嗤い過ぎて涙が零れる。ぽたぽたと、ぽたぽたと涙がとめどなく流れる。

 いつしか私は――ただ泣いていた。

 自分の手を汚さずに、だけど思惑通りに、私は何十万もの命を奪った。

 でも、本当は期待していたのかもしれない。
 力に溺れる事なく、平和な道を模索する者が現れる事を。
 力に媚びる事なく、自らの道を切り開く者が現れる事を。

 誰かが、私を終わらせてくれる事を――

 きっとそういう人間もいた。いた筈なんだ。
 ただその人たちには力がなかった。戦いの中、無意味にその命を散らしてしまった。価値も意味も尊厳も、全て炎の中に消えてしまったんだ。

「結局……誰も私を止められなかったのね」

 姫を送り出して十年。私は月における最後の疑問を解くために、此処に留まり続けた。
 だけど、もういい。これ以上は無意味だ。

 もう……月に留まる理由もない。

 私はモニターの電源を落とし、室内の明かりを消した。
 壁に背中を預け、ずるずるとへたり込む。冷たい壁に頬を当て、零れる涙を壁に委ねた。冷たい壁は無言で涙を撥ね退け、誰にも受け取られぬまま消えていく。
 その事が哀しくて、私はもう一粒だけ涙を零した。

「姫……結局、此処には価値のあるものなんて……何一つ、何一つありませんでしたよ……」

 明かりの消えた研究室に、呟きが空しく漂う。
 
 不思議な事に、

 何も返事は返ってこなかった――








 翌日、私は秘薬研究の為と称して、完成体のサンプル回収を進言した。

 地上に堕とされた――『蓬莱山 輝夜』の回収を。







 終章 



 大きく息を吸い込む。
 濃密な空気が身体全体に染み込んでいく。空気に味があるなんて知らなかった。風、水、空。その全てに色がある。
 ここは生命に満ち溢れていた。
 見上げる先には真円の月。白い輝きが浩々と地上を照らしている。白い円の中に浮かぶ兎形の黒い染み。ただそれだけの詰まらない灰色の星。
 私はあんなところで、今まで生きてきたのか。
 成る程、あれでは心が磨耗するはずだ。
 あそこは人の生きる場所ではない。地上から隔離された牢獄。殻の中だけしか生存の許されない閉じた密室。それが月だったんだ。
 私は視線を戻して足元を見た。赤黒く粘つく大地と濃密な血の臭い。流れる赤が河となり、再び大地に還っていく。
 累々と血塗れの死体が転がっている。
 大量に積まれた死体の山。どれもこれもバラバラで、何処までが誰の身体なのかも判らない。鎧を纏った武者、刀を下げた侍、そして――月の同胞達。
 様々な人達。バラバラな人達。バラバラになった人達。
 バラバラになった人達は、それでも流れる血だけはやっぱり同じ赤色で、大地を赤く紅く染めている。

 誰が殺した?

 私が殺した。

 私を含む十三名の研究員が姫を迎えに上がった時、待ち構えていた鎧武者の軍勢が一斉に矢を射掛けた。
 矢は雨のように降り注ぎ、逃げ遅れた研究員数名が身体中を貫かれ絶命した。尚も降り注ぐ矢の雨。他の者はみな我先にと逃げ出したが、私は呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
 鉄の鏃が私を貫く。
 肩を、胸を、腹を、目を――何度も何度も貫いていく。久々に味わう死の感触が、私の脊髄を痺れさせる。

 姫には、迎えに上がる事を伝えていた筈。
 なのにこれは――

 あぁ、そうか。そういう事か。

 私は無造作に右手を振るった。
 身体を駆け巡る膨大な魔力、それを形にしないまま叩き付けた。
 カタチのないモノが、カタチのあるモノたちを粉砕していく。轟音と絶叫が鼓膜を震わせ、鋼で固めた鎧武者が紙細工のように千切れていく。
 鮮血を撒き散らし、泣き叫ぶ暇も、理解する時間も与えられず、ただの肉片となっていく。
 ふと振り返れば、呆然と立ち竦む同胞たちの顔。

 ――あぁそうか。

 彼らは知らなかったんだっけ。
 私が、壊す『力』も持っている事を。

 そうね。これが最後なんだし。

 魅せて上げましょう――存分に。

 鎧武者達に向き直る。
 幾度も矢に貫かれながら、平然と佇む私の姿に怯えている。仲間を殺されたというのに、誰一人動こうとしない。
 私はくすりと笑って、右目に突き立った矢を引き抜いた。鏃に貫かれた眼球が零れ、つつっと糸を引くそれをぺろりと舐め上げる。
 誰かの悲鳴が上がった。誰もが狂ったように矢を放つ。先程とは異なり、今度は私一人を目掛けて、一斉に。
 その前に私は走り出していた。
 右手を振るい、左手を翳し、砲弾を具現化して開放する。時間も空間もその全てが我が手中。これはもう戦いではない。一方的な蹂躙。一方的な虐殺。吹き飛び、千切れ、虚空に飲まれ、人から物へと成り果てる。
 
 誰も私に触れられない。
 誰も私を止められない。
 壊れる、壊れる、壊れていく。誰もが粉々に壊れていく。

 姫、見ているのでしょう? 
 何処かで、この宴を眺めているのでしょう?

 如何です。楽しんで頂けてますか?

 空に浮かび軍勢を見下ろす。後方で喚いてる豪奢な兜を被った男へと目を向ける。あれが頭か。
 脳裏に弓を描く。正確に、愛用の弓を想い描く。
 材質、木目、僅かな傷も正確に。左手に魔力を込め、空気中に漂う塵を集め、イメージ通りに再構築して――左手に弓を具現化させた。
 左手に弓を構え、足を肩巾まで広げて背筋を伸ばす。
 宙に浮かんだ状態で胴作りなど無意味だが、これは精神統一するための大切な儀式。身体に刻み込んだ『死射』を呼び起こす魔術起動式。
 背骨を軸に肩、胴、腰、膝、踵の線が平行になるよう『五重十文字』を描き、大樹を抱くように弓構えを行う。静かに吸い込んだ息吹を丹田へ溜める。心気合一。色即是空。弓を引いているという事すら忘我し、五感を起動させたまま『死者』と化す。
 有と無。虚と実。その狭間を揺れる心と体。次第にその揺れ巾は小さくなっていき――ついに天地一如と成った。
 後はもう機械のように、身体に染み付いた動作をなぞるだけ。顔を曲げ視界に的を収めるが、狙うという我欲はすでにない。平行に番えた矢を、頭上に抱え『大三』へ移行。三分ほど引かれた弓。その中に身体を押し込むように胸で割っていき、弦と弓を軋ませながら大きく『引き分け』ていく。
 ぎりぎりと軋む弓。きりきりと唄う弦。押手の点と勝手の点が平行に結ばれ、正中線と射軸が美しい十字架を描き出す。
 弦に軋む、魔力を編んだ光の矢。弓が軋んで、弦が引かれる毎に輝きを増していく。
 限界まで引き絞られた弓が悲鳴を上げるが、未だ「会」には至らない。
 まだ、まだ至っていない。
 満ちていく、己の中に虚が満ちていく。
 意識を、命を、肉体すらも捨て去り、ただひたすらに、その先にある『時』を待ち続け、

 そして――出『会』う。
 
 男は痛みすら感じなかっただろう。
 矢は兜を紙のように貫き、男の額に死を穿った。
 貫いた矢はそのまま大地へと刺さり、刹那――死と破壊を振り撒いた。
 空気が割れる。極光が薙ぐ。大地が裂ける。
 勇壮な鎧武者たちが木の葉のように舞い、噴き上げられた土砂が血と肉を纏いながら雨のように降り注ぐ。
 ぼたぼたと、ぼたぼたと。

 赤い雨は――中々止みそうになかった。





 宴が終わる。頭を無くした軍勢は、蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていく。
 これで良い。これ以上は姫も望むまい。
 私は身体に突き立ったままの矢を抜きながら、地上へ降り立った。
 ふと気づくと、月の同胞達が真っ青な顔で私を見ている。矢傷は治りが早い。もう血は流れていない筈だが。

 あぁ、そうか。

 まだ右目が戻っていなかった。
 眼窩の空洞を晒したままでは刺激が強かろう。とりあえず瞼を閉じて空洞を隠しておく。

 さて、と。

「ごめんなさい。お待たせしたわね」

 私はにっこりと微笑んだ。

 母性的で、理知的で、穏やかな――微笑みを。

 彼らは動けない。青ざめたまま震えるだけ。
 自らの運命を悟りながらも、蛇に飲まれる蛙のように、指一本動かす事が出来ない。
 そんな彼らの様子を見て、私は静かに失望する。
 避けられぬ死に抗おうともしない彼らにではなく、未だに少しだけ期待していた自分に。

 溜息と共に、右手に魔力をこめる。
 眼球の再生完了。
 魔弾の装填完了。
 顔も向けぬまま、すっと手を伸ばし、
 悲鳴と懇願にも、そっと耳を閉ざし、

 ――彼らを、肉片へと変えた。







 もう一度、大きく息を吸い込む。
 濃密な空気が身体全体に染み込んでいく。空気に味があるなんて知らなかった。風、水、空。その全てに色がある。
 ここは生命に満ち溢れて、いた。
 見上げる先には真円の月。白い輝きが浩々と地上を照らしている。白い円の中に浮かぶ兎形の黒い染み。ただそれだけの詰まらない灰色の星。
 私は視線を戻して足元を見た。粘つく大地と濃密な血の臭い。流れる赤が河となり、再び大地に還っていく。
 累々と血塗れの死体が転がっていた。
 諾々と赤い河が流れていた。

 そして夜は、黙ってそれを見ていた。
 
 自らの手を汚したのは、これが初めて。
 たった今、私は大勢の生命を奪った――なのに私の心はまるで動かない。悦びも哀しみもなく、ただ空しいだけ。
 もう少し何かあると思っていた。
 だけど、何も、感じなかった。
 
 どうやら私は、完全に終わっているらしい。
 
 そしてそれは――姫も同じ。

 煌々と照らす月の下。
 小高い丘の上で、累々と並ぶ屍の上で、姫は月を見上げていた。
 白き貌に、黒曜石のような瞳。
 艶やかな髪は足元に届くほど長く、風がその先を千々に乱し、夜を捕えるかの如く広がっていた。
 姫は無言で月を見ている。
 その瞳には何の感情も浮かんでいない。その輝きの奥で何を想うのか、私如きでは探ることもできない。
 
 喜びも、怒りも、哀しみもない――漆黒の瞳。
 
 私は死体を避けて、姫へと足を向ける。
 その瞳に誘われるように、その美しさを穢さぬように、黙したまま姫の隣に立った。
 姫の隣で、もう一度月を見上げる。丘の上だからか、先程より少しだけ空に近い。私達は無言で月を見上げた。

 遥かに遠い――生まれた場所を、置いてきた過去を。

「……帰りたいですか?」
「まさか」
「これからどうされます?」
「そうね。どうしようかしらね」

 私達は視線を合わさず、ただ月だけを見上げている。
 風に煽られても、瞬きもせず。太陽の輝きを映すだけの虚ろな鏡を、虚空に浮かぶ孤独な星を。
 風の音だけの、静かな時。
 私は姫を急かさない。そんな必要はない。
 何故なら、私の道はすでに――

「そうだ。あのお馬鹿さんたちに投げ掛けた難題。貴女なら解けるかしら?」
「解いてみせますよ。貴女を手に入れる事が出来るなら」

 悪戯っぽく、楽しげに笑う姫。
 私もそれに、笑みで応えて。

「行きましょう、永琳。貴女となら、手に入らないものなんて何もないわ」

 強い風に髪を靡かせ、姫は輝く夜へと歩き出す。
 それこそが、私が仕える主の背中。
 その背中を眩しく思いながら、
 共に在る事を誇りに思いながら、
 最後にもう一度だけ、虚空の月を見上げて、

「お供しますよ。永遠に」

 姫と共に、永い夜を歩き出した――




                  


                           《終》
 まずは謝罪を。

 冒頭にも書きましたように、これは2006年の例大祭において『空蝉』という同人誌にて公開したものです。
 文花帖、求聞史紀、儚月抄などの発表前であり、永夜抄の設定を元に書いたものです。
 そのため設定や世界観もオリジナルのものとなっています。
 本来、そのまま黒歴史として静かに眠らせるべきだったのですが、この話をできるだけ多くの人に読んでもらいたいと思って投稿させて頂きました。
 独自設定が強すぎて、不快に思われる方もいらっしゃると思います。
 ですが、少しでも面白いと思ってくださる方がいれば嬉しいです。

 ご批評、ご批判、お待ちしております。
床間たろひ
コメント



1.無評価Marylada削除
Boy that relaly helps me the heck out.
2.無評価Kelenna削除
qaifan:¿Te ha servido de algo estudiar el Talmud o el Zohar?A mí como judío e israelita, esos escritos no me dijeron algo en especial. Si condujeran a la verdad resaltarían a Ha Mashiaj y mi pueblo en su totalidad entonces habría recibido a Ye.hmºasFGuttÃann.