――もし神さまがいるとしたら。
私は何を願うだろうか。
あの歌のように、大切な人を返してほしいと、そう願うのだろうか。
たとえ何もなくてもずっと笑っていられた、そんなあの頃を返してほしいと、願うのだろうか。
すっかりと通り慣れた事務所への道を歩きながら、そんな事を考える。
ふと周りを見てみれば、行き交う人々は皆忙しそうに。或いは楽しそうに。会社員、子供連れの主婦、制服姿は学校帰りのグループだろうか。そんな中にコートを羽織った姿が散見される辺りに冬の到来を感じるが、逆に言えばそんなところでくらいしか季節の移り変わりが実感出来ないというのも、中々に考え物な気がする。
思えば大通りの銀杏並木も一面黄色に染めた葉を散らせていた気がするが、言ってもその程度だ。
――春香はなんて言ってたっけ。
三日ほど前に会った友人の事を思い返しながら、同時にまだ三日しか経っていないのか、と考えた自分に少し驚いた。
今までの自分ならば、考えもしなかったであろう感覚。
それが新鮮でもあり、また少しだけ怖くもある。
変わっていく事への不安――そんな物はとうの昔に無くしてしまったと、そう思っていたのに。
ユニットとしてデビューを果たしてから半年ほど経って、最近は更に忙しくなってきたと思う。現に、こうして確認したからこそ半年と言えるのであって、自分の体感時間としては、精々二、三ヶ月といったところなのだ。
プロとしての舞台、初めて渡された、自分たちの為に作られた歌。
初めてのスタジオ、初めての収録、観客が一人も居ない中、それでもたくさんの目に見られている中で歌うという事も、もちろん初めての経験だった。
以前に全国区のコンクールで歌った時でも、聞き手には審査員だけではなく、少なからず一般の拝聴者がいたのだ。尤も、当時の自分はそれらを気にするような事もなかったのだけれど。
「まだあの娘のようにはいかないけれど、ね」
そんな呟きにも似た独り言を漏らしたところで、どこからか聞き慣れた、耳に優しい歌声が聞こえてきた。
音の発信源を追ってみれば、なるほど考え事をしている間に随分と歩いてきたようで、目の前には事務所にほど近いレコードショップがあった。
歌はその店の店頭に設定された、店の前を通る人へ向けたスピーカーから流されていたもの。見れば、ガラス越しの店内には店頭向けにその歌の元となるCDがディスプレイされていて、同じく設置されたモニターではプロモーション映像が流されている。
――とても同一人物とは思えないわね。
そんな少しばかりズレた事を思いながらも、やはりその歌声には感心してしまう。
今日、こうして歩きながら物思いに耽ってしまうような、そんな事態に陥った元凶とも言える曲。
並べられたCDのジャケットに映る彼女も、そしてモニターの中で歌い上げる彼女も本当に綺麗で。
こんな人になれたならと、全く思っていないと言えば、嘘になる。
彼女の名前は、三浦あずさ。
そして曲名は、隣に…。
Φ
「ねぇねぇ、昨日のトップトップ、見た?」
昼休みの教室。俄に騒がしくなる中で、不意にそんな声が聞こえてきた。
びっしりと注意点の書かれた譜表を見る手を休めてそちらへと向いてみれば、数人の女子グループが一人の机を取り囲んでいた。
学校という中、そしてクラスという集団の中であれば、ごくありふれた風景。
トップトップというのは、毎週火曜日に放送されている歌番組で、その歴史は始まってから十年を過ぎようかという長寿番組だ。
本当に実力のあるアーティストを、という名目は昔から変わらず、今でも希に名前も聞いた事のないようなグループや歌手が出てきては、世間の色を僅か一夜で塗り替える。そんな今時にしては珍しい、硬派な歌番組。
歌の道を進む者にとっては、トップトップに出演するというのが一つの目標でもあり、自分もいつかはと常々思っている。
だからだろうか、普段であれば気にも留めないはずの彼女らの話に、私は気付けば耳を傾けていた。
「やっぱり凄いよねぇ、三浦あずさ! 私もうテレビの前で感動して泣いちゃったよ」
「毎度の事だけど、ほんと麻美は涙脆いというか、感受性豊かというか」
「だってほら、歌詞とか凄くいいじゃない!? ほんとあれだね、あの歌詞を書いた人は天才だね」
そんな会話を聞きながら、不意にくすりと笑いが漏れてしまう。
――本人が今の話を聞いたら、果たしてなんと言うだろうか。
周りには隠している、というか言う必要も無いと感じたから言っていないだけなのだが、渦中の三浦あずさこと、あずささんとは同じ事務所に所属している、いわば先輩後輩のようなものだ。トップトップに出演するのも、もう幾度目かになろうかというほどなのに、あずささんは私たちの事を気に掛けてくれているようで、いつも何かと話をしてくれる。
その中で、少し前、今回の新曲の収録が終わった頃、完成した曲をいち早く事務所で聴かせてくれた時の事。
新曲の『隣に…』は、あずささんの曲の中でも、今までにないほどの壮大さとドラマ性を秘めた曲で、譜割を見ただけでも、その難易度の高さが窺えた曲だった。
春香などはもう言葉でも出ないようで、本気で聞き惚れていたのだろう、曲が終わっても暫く放心したまま、戻ってくる様子がなかった程だ。
そして私が言った一言、あれこれと言った後に付け加えた、『歌詞も素晴らしいと思います』という言葉に返された答えが、
『確かにいい歌詞なんだけど……でも酷いと思わない? 私はまだ別れるどころか出会ってすらいないのに、それなのにこんな歌詞にするなんて。縁起が悪いったらないわよねぇ』
いつものおっとりとした間延びした声で、それでも辛辣な言葉を投げかけるあずささんは、何故だか子供のようにも見えたりして。
ひょっとしたら、私たちに歌を聴かせたかったというよりも、その愚痴を言うためだったのかもしれないと、今になって思う。
「如月さんは、どう思う?」
「――え?」
かけられた声に少し見上げてみれば、そこには先程まで向こうの輪の中にいたはずの今井さんの姿があった。
見れば、彼女がいたグループの女子も一様に不思議そうな顔をしてこちらを見ている。
それはそうだろう、声を掛けられた自分でさえ、彼女の行動が理解できないでいるのだから。
「昨日のトップトップ、見てなかった?」
それでも、彼女はこちらの事などお構いなしに話しかけてくる。
先程と変わらない調子で、先程と変わらない楽しそうな声で。
「見て、いたけれど……」
私が答えたからなのだろうか、彼女は細めていた目を更に細めて――心底嬉しそうに笑っていた。
「じゃあ大丈夫だっ。如月さんって歌とか詳しそうだしさ、どんな風に思うのかなーって」
その姿が一瞬春香と重なって、思わず口を噤んでしまう。そんな私を不審に思ったのか、彼女が「どうしたの?」とのぞき込むように身を屈めた。
「あ、いえ……そうね。私も彼女の歌は素晴らしいと思うわ。声量も発声も申し分ないし、本当に、手放しで賞賛出来るレベルかと」
「おー、流石如月さんだね、なんだか感想一つ取っても私とは言うことが違うよ」
普通であれば嫌味とも取られかねないそんな言葉であったけれど、素直に感心しているのだという事は、彼女の笑顔を見ていればよく解る。
――以前は、そんな事すら気づけなかったのに。
いや、そもそもこんな風に話をするという事そのものがなかったのか。
「あー、なんか呼ばれてるや。んじゃ如月さん、またね」
「……今井さんっ」
それは、意識して出した言葉ではなかった。
聞いて確かめてみたかった……そんな自分の中の思いが一人で勝手に飛び出たようなもの。
先程と同じように「どうしたの?」とこちらを振り返る彼女に、またしても口を閉ざしてしまう。
呼び止めて、それでどうしたかったのか。
確かに聞きたかった事はある。けれどそれを聞いて、果たして自分はどうしようというのか。
それでも無意識の内に呼び止めてしまったのは、きっと先程の一瞬、彼女と春香が重なった事に起因するのだろう。
「あの……どうして、私に?」
それは質問の内容ではない、私に声を掛けたという、その根本的な事に対しての疑問。
高校に入って一年も経っていないとはいえ、既に二学期も後半を向かえた頃。自分がクラスの中でも孤立している事は自覚していたし、最近は話しかけてくる人さえ滅多に居なかったのだ。
自分としては別にそれでも構わなかったのだけれど、だからこそ何故、と思ってしまう。
「さっきも言ったけど、如月さんって歌とか詳しそうだしさ、何か面白い事が聞けるかなーって」
自分の意図が伝わらなかったのか、と一瞬考えたが、彼女もそれは解っているようで、それに、と付け加えて少し考える素振りを見せた後、
「最近の如月さんは落ち着いてきたっていうか……丸くなったって言うのかな? だから、ね」
あえてそこで言葉を切って、彼女はくるりと背を向けた。
私はといえば、言外に込められた彼女の言葉を聞いて、すっかりと呆けてしまっていた。
そんな事を言われるとは、思ってもいなかったのだ。
Φ
「丸くなった……か」
事務所へと続く古びた階段を上りながら、昼間の事を思い返す。
自分では何も変わったつもりはないのだけれど、周りから見ればそういう所もあるのだろうか。
実際、あるからこそああやって今井さんが声をかけてきたりもしたのだろう。
ならば、変わったのは何故か――。
「おはようございます、如月千早です」
いつものように錆び付いた鉄扉を開けながら、これもすっかりと慣れてしまった挨拶をする。
「あら、千早ちゃん……と、おはようございます。もうそんな時間なのね」
そしてこれも慣れてきたもので、事務所の奥からひょっこりと顔を出してきた音無さんに、改めて軽く会釈をして、私は事務所の中へと入っていく。
学校が終わってからこうして事務所に通う事は、私にとってはもう日常の一部だった。
今は新曲の曲と歌詞を覚えなければいけない時でもあるので、そうなるとこの場所が一番集中できるのだ。
誰にも邪魔されず、誰にも干渉されない、そんな場所。
家にも外にも居場所のない自分にとっては、本当に、心を休められる数少ない場所。
けれど、どうしてだろうか。
そんな場所だったはずの事務所も、近頃はどうしてだか、ほんの少しだけもの悲しさのようなものを感じてしまう。
歌を覚える段階で、まだ歌う事が出来ないからだろうか。
そんな風に思ってみたものの、それもまた少しだけ違うような気がして。
事務机の並ぶ部屋の中程に設けられた、フリーに使える机の上に譜表を広げながら、またあの言葉が頭を過ぎった。
――もし神さまがいるとしたら。
今なら、この得体の知れない感情の正体を教えてくださいと、そんな事を言ってしまうかもしれない。
「……春香」
それは、自然に漏れた呟き。
それは、きっと自分の中に渦巻く『何か』の正体。
「なぁに? 千早ちゃん」
「……へ?」
幻聴だと思ったのも無理はない。
だって今日は平日で、長期休暇期間でもなければ祝日でもない、本当に普通の平日で。
彼女が、ここにいるはずはないのだ。
だけど。
けれど。
「春香……?」
「だからどうしたの、千早ちゃん」
いつの間にそこにいたのか、机を挟んだ向かい側の椅子に、確かに彼女の姿があった。
いつもの笑顔で、見慣れたリボンを揺らしながら。
「どうして? だって今日は平日で……」
「あー、うん。そうなんだけどね、なんだかうちの学校が創立記念日とかで休みになってて……でも千早ちゃんも酷いなぁ、私、さっきからずっと居たんだよ?」
言われてみればそんな気もしたけれど、どうしても上手く思い出す事が出来ない。
心のどこかで、今日は居ないのだと決めつけていたのだろうか。
「入り口の所で素通りされた時は、私嫌われちゃったのかと思ったんだよ?」
「そんな事、ある訳が……」
あぁ――ダメだ。
上手く声が出ない。
どうしても震えてしまう。
「うん、解ってるよ」
そう言って、春香が笑顔を向けてくれる。
春という季節に咲き乱れる花々のような、鮮やかな、柔らかい笑顔。
そこで、ようやく私は気付く事が出来た。気付いてしまったといってもいいかもしれない。
結局私は、会いたかったのだ。
春香に会って、またこの笑顔が見たかったのだ。
本当に、以前の自分では考えられないような感覚。
歌さえあればいいと、そう思っていた。
歌う事さえ出来ればいいと、本気で思っていた。
そこに間違いがあるだなんて、微塵も思っていなかった。
でも彼女に出会って、そして彼女の歌を聴いて。
少し稚拙な、けれどどこまでも真っ直ぐなその歌は、私に色々な事を思い出させてくれた。
それは、歌を歌うという事の中にあって、何よりも大切なもの。
忘れてはいけないはずなのに、どこかに置いてきてしまっていた、そんなもの。
今でも時々忘れてしまいそうになるけれど、それでも彼女のこの笑顔を見ていれば、いつだって私は思い出す事が出来る。
いつだって私は、歌う事が出来る。
「……ありがとう」
「私、何かお礼を言われるような事したっけ?」
「なんとなく、そんな気分だったのよ」
「? うーん……千早ちゃんは難しいなぁ」
「二人とも、お茶にしない? 私もちょっと一息入れたかったところだし」
「そうですね、いただきます」
「あ、小鳥さん。私手伝いまうわぁぁっ!?」
「春香ちゃんっ! 大丈夫!?」
変わらない事、変わっていく事、色々な事があって、今の自分がある。
変わっていく事は少し怖いけれど、それでも彼女と一緒ならば、きっとそれも大丈夫だろう。
二人でならば、どこまでも羽ばたいていける……そんな気がするのだ。
だからどうか。
――もし神さまがいるとしたら。
どうかこの瞬間が、少しでも長く続きますように。
(完)