1
八月。少し古めかしい言い方をすれば、葉月。
木の葉が紅葉して落ちる月だから葉月だという説があるが、私個人としては、どちらかと言えば稲の穂が張る『穂張り月』という説の方が好ましい。
散りゆく時より、実りの時。
いずれ散ってしまう葉を、散る前からとやかく言ったところでどうなる事もない。それならば、収穫を目前に控えた稲穂の事を考えた方が、余程賢明だろう。散った葉では、芋は焼けてもお腹は膨らまない。
以前、幽々子様とそんな話をした事があったが、私がその旨を述べると、鈴を転がすような声で笑いながら「妖夢はまだまだお子様ねぇ」などと言われてしまった。
幽々子様ならばきっと同調してくれると思っていたのだが、どうやらその目論見は脆くも崩れてしまったようだ。そも、幽々子様や紫様のように、旧暦に倣って生活しているのならともかく、今の新暦では睦月、如月、弥生、烏月等といった呼び方は、あくまでも各月の代わりの呼称でしかない。そこに本来の意味などあるはずもなく、それは同時にそれらの言葉の由来といったものも意味を失ってしまったという事。
葉月というのは、元は旧暦の八月を差す言葉であり、旧暦の八月であれば、確かに葉は紅葉し、稲の穂は張り、月見月の別名というのも納得がいくというもの。
ならば、今の葉月は何の意味も持たない、ただの飾りの言葉でしかないのだろうか。
世間的にはそうなのかもしれない。
新暦で生きる今の人々には、そも由来などといったものは関係ないのかもしれない。
でも、私にとって、八月とは。
私にとって、葉月とは。
「妖夢、早くしないと置いていくわよ」
襖が開いた音が聞こえなかった割に、随分と鮮明に聞こえた声。噂をすればなんとやら。振り返ってみると、そこには襖から上半身を生やした幽々子様の姿があった。
なるほど、これでは襖の開く音が聞こえなかったのも納得がいく。
いや、そうじゃなくて。
改めて、襖から生えた主の姿を見る。
その身に纏うのは、いつもと同じ薄い蒼の着物。生地に描かれる柄は季節、曜日、更にはその日の天候までをも考慮しているらしいが、今日の柄は流水を模したものだった。それほどしっかりと着付けていない所為で、動く度に袖や裾が、肩下まで伸びた、緩く波打つ薄桃色の髪と一緒にふわりふわりと揺れ動く。正直、目のやり場に困るのだけれど。
「どうしたのよ、そんな呆れたり怒ったり、かと思えばいきなり目を背けたり、生えたり抜いたり破れたり、忙しそうね」
「言いたい事は色々とありますが、とりあえず、入ってくるならちゃんと襖を開けてからにしてください」
「あら、あらあら」
まるで今初めて自分の状態に気付いたとでもいうような素振りを見せて、幽々子様の上半身が襖の向こうへと沈んでいく。
かと思えば、次は取っ手の所から唐突に色の白い、細い手が生えてきた。
「切ってもいいですか」
「やぁね、冗談よ」
三度目の正直とでも言うべきか、今度こそすっと襖が横に滑る。
当然の事ではあるが、そこには幽々子様が立っていた。ふわりと漂うように浮いていた、と言った方が適当だろうか。
「なんだ、支度、もう済んでいたのね。いつまで経っても出てこないから、てっきりこ、ころ……ころ――」
「勝手に人を殺さないでくださいよ」
「転がされているかと思ったわ」
「そっち!?」
「いやねぇ、限りある命は大切にしなさいって、この間閻魔様に言われたのよ。所謂慈悲の心というものね。という訳で妖夢、試しにお団子を作ってみたの。食べる?」
「前振りを入れないと団子の一つも出せないのですか、あんたは」
「隠し味に走野老を入れてみたわ」
「……」
とんだ慈悲の心だった。というか、量によっては死ぬんじゃないのかな、それは。きっと、幽々子様の中にあるのは慈悲じゃなくて茲非とかだ。心がない。ひょっとすると、亡霊は皆こんな性格なんじゃなかろうかとさえ思えてきてしまう。
「やぁね、冗談よ」
こちらとしては、呆れるばかりなのだけれど。
それでも幽々子様は本当に楽しそうに笑ったまま。もっとも、普段からその表情が崩れるような事はほとんどなく、試しに怒っている所や泣いている所を想像してみたが、やはりというか、笑っている顔以外は出てこなかった。笑いすぎて泣いている所なら、嫌と言う程見た事はあるのだけれど。
「まぁ、でも」
仕切り直すように、改めて私の方を見ながら、幽々子様が言った。
「支度が出来ているのなら、そろそろ行きましょうか」
「そう、ですね」
詰まってしまった言葉を誤魔化すように、幽々子様から顔を背けて外を見やる。
既に太陽は西の山裾にその身を降ろしている。空は朱から紫へ。顕界では、蝉達がその活動の場を夜の虫達へ譲ろうとしているところだろうか。
確かに、いい頃合だと言える。今から発てば、そう急がずとも時間には間に合うだろうし、準備の事なども考えれば、早めに出ておくに越した事はない。
解っている。解ってはいるのだけれど。
「妖夢」
と。
不意に、声を掛けられた。
どこまでも優しい、柔らかな声。全てを見透かしているかのような、澄んだ声。
応えるべきか、振り返るべきか。だがそれらの結論が出る前に、そっと、肩越しに白い手が伸びてきた。同時に背に受けた、僅かな重み。全身を包む、春の午後の日溜りのような、暖かな匂い。
「妖夢」
再度、幽々子様が私の名前を呼んだ。
「大丈夫」
大丈夫。
それだけ。たったの一言。音にしてみれば、僅かに五つ。でも耳元で、囁くように紡がれたその言葉は、どこか揺らいでいた私の心の奥底にすとんと落ちて、そして広がっていく。
大丈夫。
声には出さず、繰り返す。
確かめるように、ゆっくりと。
「幽々子、さま」
知らず、声が出る。けれど、重ね合わせようとした手は虚しく空を切り、気付けばつい先程まで全身を包み込んでいた暖かな匂いも、蜉蝣のように消えてしまっていた。
今度こそ振り返ってみれば、何時の間に移動したのだろうか、幽々子様は部屋の入り口、開けたままになっていた襖に手を掛けて、こちらに背を向けていた。
「ほら、行くわよ」
振り向きもせずにそれだけを言うと、幽々子様の姿は襖の向こうへと消えてしまった。
少しだけ早口になったその声が、どこか少し上ずっているように聞こえたのは、ひょっとすると照れていたのだろうか。
「――大丈夫」
もう一度だけ小さく呟いて、私は立ち上がる。
「幽々子さま、待ってくださいよー」
「貴方がいつまでものんびりしているからでしょうに。そもそも妖夢には足りないものが多すぎるのよ。速さとか、速さとか、あと速さとか」
「いや、そんなに速さだけ身についても」
「早さとか」
「字面だけ変えてどうするんですか。というかそれで私にどうしろというんですか」
「ちょっぱやね」
「幽々子様、死語って知ってます?」
「妖夢、ここは冥界よ」
言葉の幽霊とか、見た事が無いです。
本当に、普段から何を考えていればこのようになるのか、甚だ検討が付かない。
「中々似合っているじゃない、それ」
でも、言われっぱなしなのは、やっぱり悔しいもので。
だから、私の頭、いつものリボンの代わりに付けられた、少し伸びた前髪を纏める小さな花の髪飾りを見て、そんな事を言った幽々子様に何か言い返してみたくなるのも、まぁ、道理だろう。
「当然です」
「あら、あらあら」
意外そうな顔をした後、またいつもの鈴を転がすような声で幽々子様が笑う。思惑通りといった所だろうか。
いよいよ外は宵闇が広がっていて、まだいくらか先まで見通せるにも関わらず、不意に伸ばした自分の手の先が見えなくなるような、不思議な感覚に囚われる。
確かにのんびりしすぎていたようで、こうなってしまっては少し急がなければ間に合わなくなってくる。
「それじゃぁ、行きましょうか」
後から出てきた幽々子様が、からころと下駄を鳴らした。
普段は移動の際もふわふわと漂うようにしているのだが、これもまた、幽々子様の言う所の風情というものなのだろう。
さて、ここから目的の場所までは、いくらか時間が掛かる。
その間に、一つ、話をしよう。
私達が今日、これから出向く事になった、その理由。
心優しい彼女との出逢いと、そして、別れの話を。
2
ボロい。
それが私の第一印象であり、全てだった。
言い換えるのならば、廃れているとか寂れているとか、小汚いとか貧乏臭いとか色々あるのだろうけれど。片仮名二文字と平仮名一文字、総計十一角からなるその言葉以上に、シンプルかつ的確な言葉を私は知らない。こんな事を幽々子様に言おうものなら「妖夢には語彙の語の字の言偏すらもないのねぇ」などとこけ落とされるのは自明の理。いや、それで済めばまだマシだと言える。
でもたとえ幽々子様といえど、今の私と同じ状況下に置かれれば、きっと同調してくれるに違いない。
なんというか、ここまでくると、逆にボロいという三文字以外の言葉を当て嵌めるのが失礼にさえ思えてくる。
傾いた柱。所々剥がれている壁と天井。奥の間との仕切りとなっていたはずの障子は穴だらけで、その役割の半分も果たせていそうになかった。
里の中心からそう離れた場所でもないというのに、前の通りには全くと言っていいほど人影がなく、たまに誰かが歩いてきても、まるで避けるかのように足早に過ぎてしまう。見た感じ、およそ人が住んでいるとは思えない、今にも崩れ落ちそうな、どこか薄気味悪さを漂わせるこのボロ家。人々が避けようとするのも無理のない話だろう。私だって、こんな所に誰かが住んでいるとは思っていなかった。いなかったという事は、つまり、
「妖夢さん妖夢さん魂魄妖夢さん!」
「一度呼べば解りますから」
「そうは言いましても、もしかしたら私が目を離したその隙に、妖夢さんが玉手箱を開けてしまったのかもしれないと思うとですね」
玉手箱があるのか、この家には。
ともあれ、ボロ家には確かに人が住んでいた。櫛枝葉月という名の少女が、一人で。その葉月が言うには、このボロ家は一般の民家ではなく、家の半分は店舗として門戸を開いているらしく、今私達が居るのが、その店舗部分。とは言っても、商品と呼べるような物は何も無く、あるのは脚の折れた椅子だった物と、辛うじて原型を留めている木箱と、無惨に散ったそれらの破片だけ。何の店であったかなど、解れと言う方が無理だろう。
「それで、何を出してくれるのですか?」
「あぁ、そうでしたそうでした。危うく忘れるところでした」
「自分から言い出しておいて、忘れるもなにも……」
「大丈夫です、これでも私は記憶力には自信がありますから。昨日の晩ご飯に何を食べたかなんて事くらいは、すぐに言えますよ?」
「それはまた、優れた記憶力をお持ちのようで」
「いえいえ。ところで、貴方はどちら様でしたっけ?」
「私が忘れられた!」
私は昨日の晩ご飯以下だったのか。
などと軽妙な会話を繰り広げてはいるが、実際のところ私が彼女、葉月と出会ったのは、つい先程の事だったりする。
なんてことはない、野暮用で里を訪れた際に、一人困っている所を助けた――と、有り体に言ってしまうとそういう事だ。私としては、別に特別な事をしたという意識はなかったのだけれど、葉月がどうしてもお礼がしたいと言うので、こうして彼女の家を兼ねた店に連れてこられたという訳だ。
中々にお喋りな性格らしく、ここに来るまでの道すがら、彼女の口が閉じる事はなかった。往往にして今のように話がどこかへ飛躍するのだが、基本的には礼儀もしっかりとしているようだし、まぁ、それも彼女なりの言葉遊びの一つなのだろう。そう思えばこそ、どうして里の人達は困っている彼女に対して、見て見ぬ振りをしていたのか、それが解らないのだけれど。
「それでですね、妖夢さん」
「何事もなかったかのように話を進めないでくださいよ」
「見ての通り、私の家は祖父の代から続く団子屋なのです」
人の話を全く聞かない娘だった。
疲れるなぁ、もう。
「あぁ、でも、このボロ家のどこをどう見たらその答えに辿り着けるのかが、私にはさっぱり解りませんが、なるほど団子屋でしたか」
「失敬な。以前は団子と言えば櫛枝と言われていたほどでですね……」
「でも今はもう潰れてしまった、と」
「潰れてなどいません!」
一転して声を張り上げた葉月に、思わず身が怯む。
確かに今のは失言だった。祖父の代から、今は一人、その辺りの事を考えれば、およその事情というものも汲み取れたはずなのに。
「すみません……今のは私が軽率すぎました」
「……」
俯いたまま、黙り込む葉月。
怒ってしまったのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。
怒りよりも、哀しみに染まった目。ここではない、どこかを。今ではない、いつかを見ているような、虚ろな瞳。
何をするでもなく、縁側で一人の時を過ごしている幽々子様が、時折今の葉月と同じ顔をしているのを思い出して、私も何も言えなくなってしまう。
私が近付いた事に気付くと、幽々子様は決まってばつが悪そうに微笑んでいた。だから私はその時の幽々子様が何を想い、何を見ていたのかを知らない。考えてみても、解らない。
葉月を目の前にしてもそれは同じで、お互いに黙々としたまま、時間だけが過ぎていく。
と、
「……確かに」
顔を俯かせたままではあったが、呟くような声で、葉月が言った。
「父と母は、私が幼い頃に病気で死んでしまいました。この店を立ち上げた祖父も、もういません」
ひとりぼっちなんですよ。
そう言って顔を上げた葉月もまた、幽々子様と同じように、ばつが悪そうに、目尻に涙を浮かべて、笑っていた。
「子供の私一人ではどうする事も出来ず、店もご覧の有様です。そう言われてしまうのも無理はないのかもしれません。でも――まだ私はいます。私が、います」
それは誰かに向けた言葉というよりも、むしろ自分に言い聞かせるような。
こんな時――。
こんな時は、どうすればいいのだろうか。
幽々子様ならば、きっとこんな場合でも戸惑うこともなく、最良の選択をするのだろうけれど、残念ながら私にはその選択肢すら浮かんでこない。
結果、黙って見守る事しか出来なくなる。いや、それだけで何を守れるというのか。私に出来る事など、ただ黙って立っているだけ。それだけなのだ。
「すみません、変な話をしてしまいましたね」
「あ、いや……」
「まぁそんな訳で、団子屋『櫛枝』はまだまだ営業中なのです。どうですか? 妖夢さんもお一つ。味は保障しますよ」
この話はもう終わりだと言わんばかりに、葉月が言う。
この辺りの切り替えは見事なもので、彼女の浮かべる笑みは、先程までの蔭りなどを一切感じさせない綺麗なものだった。屈託のない、向日葵が咲いたような、という言葉は些かありきたりかもしれないが、そんな言葉が本当に似合うような笑顔。釣られて、私の方も知らず頬が緩んでしまう。
「そういう事でしたら、一つ頂きましょう。お幾らで?」
「あぁいえ、お代は構いませんよ。元々お礼という事でお出ししようとしていた物ですし」
わたわたと胸の前で両手を振って、葉月は照れたような笑いを浮かべてみせた。
本当によく笑う子だなぁ。
幽々子様が見たら、きっと「かぁーわぁーいーいー」とか言いながら目を輝かせるに違いない。自分がどちらかと言えばそういう事が苦手な所為か、余計に眩しく見えてしまう。
「さぁ、どうぞどうぞ」
と、葉月は言うのだが、肝心の物がどこにも見あたらない。はて、思い返せば先程葉月が奥から出てきた時も手ぶらだったような気がするし、周りを見れども、皿の一つさえ確認出来ない。これはなんだろう、私は試されているのだろうか。
「すみません……私には何も見えないのですが……」
「え?」
そんな、満面の笑みのまま疑問符を浮かべられても。
「ですから、その団子は何処に……」
「…………?」
「……団子」
困り顔の私と、疑問符を飛ばし続ける葉月。
周りから見れば、何をしているのかと思われかねない状況だが、当事者である私だって、何をしているのかさっぱり解らない。
一体どれほどの時間をそうしていたのだろうか。いい加減嫌な汗が浮かんできた頃、部屋の中を埋め尽くさんばかりの勢いで疑問符を生み出していた葉月の頭から、遂に感嘆符が生えてきたのだ。
「あぁっ!?」
でもやっぱり疑問符も一緒に出てしまったらしい。一体その頭はどうなっているんだ。
ともあれ、これでようやく私の目が間違っていなかったという事が証明されたのだけれど、自分の間違いに気付いた葉月の方はと言えば、最初に出てきた時と同じように、慌ててまた奥へと引っ込んでしまった。
「妖夢さん妖夢さんこんにゃく妖夢さん!」
「一度呼べば解る上に間違ってますから」
「そうは言いましても、もしかしたら私が目を離したその隙に、そちら側の妖夢さんがこんにゃくになってしまったかもしれないと思うとですね」
葉月の指差す先には、私の半霊がふよふよと漂っている。
そうか、こいつはこんにゃくになるのか。
……非常食?
「それで、今度は大丈夫なのですか?」
「お任せください。思えば、先程は妖夢さんが玉手箱を開けてしまってやいないかと、それが心配になって出てきただけでした」
あぁ……やっぱりあるんだ、玉手箱。
「そんな訳で、お待たせしました。これがかの有名な櫛枝の団子! ……のような物です」
「ちょっと待って」
「なんですか、ここまできてやっぱり玉手箱を開けさせろと言うのですか? いけませんよ駄目ですよ、あれには私の夢と希望と将来の可能性が詰まっているのですから。いくら妖夢さんといえど、そう易々と開けてもらっては困るというものです」
「いや、玉手箱じゃなくて……って、それってどんな玉手箱ですか」
「開けると主に背が伸びます」
なんとも幼気な玉手箱だった。
「別に私はそんなに身長に困ってはいないのですが……」
「なんと! 妖夢さんは今のままで構わないというのですか!?」
「別段、不便に感じた事もありませんから」
というか、自分より小さい相手にそんな風に言われると、少し傷つくなぁ。
「うーん、一般大衆よりも一部の特化した少数に狙いを定めるとは、妖夢さんも中々に特殊ですね」
「何が!?」
「横文字で言うと、マニアックですね」
「いや、私はちゃんと育つから! 伸びるから!」
「大丈夫です。いつの世でも特殊な嗜好を持つ方というのはいらっしゃいますから。私には理解できかねますが、きっと妖夢さんにも需要というものはあるのでしょう」
「ですから……」
「よ、このロリコン」
「私が!?」
疲れる会話だった。
幽々子様との日々の会話の中で、こういった事に対してはかなり鍛えられていると思っていたのだけれど、どうやら世の中にはまだまだ強者がいるらしい。
あぁでも、幽々子様は亡霊だから変わらないとしても、霊夢も魔理沙も最初に会った頃に比べたら、幾分か背が伸びていたような気も……。
私はと言えば、この四年間で一分たりとも伸びた覚えがない。
……大丈夫だよね……?
「どうかされましたか、妖夢さん」
「いえ、少し将来に不安を……」
「なるほど、悩める乙女という訳ですね。かっこいいですっ」
どうやら褒めてくれているようだったが、生憎と私が受けた傷は思いの外深かったようだ。
本当にこのままだったらどうしよう。
幽々子様とまではいかずとも、せめて霊夢……いや、藍、そう、藍くらいには――
「奇跡は起こらないから奇跡、と言うそうですね」
「なにその! 私口に出してました? 出してしまってました!?」
「まぁまぁ妖夢さん。そんなに気にせずとも、小さな胸が好きな人だっていますよ」
「胸!? 違うよ! 背だよ! 身長だよ! 胸じゃないよ!」
「なるほど、胸はそのままで構わない、と」
「くっ……!」
もう泣いていいかな。七二回くらい。
「蒼い鳥なんていませんよ」
「うるさいだまれ」
結局。
一方的にのされていてはどうにもならないと反撃を試みたものの、それもまた見事に返り討ちに遭い、深く心に傷を負った私は、復調するまでに半刻程の時間を要してしまった。
「そう気を落とさず、どうです? 一つ、櫛枝特製の団子でも」
「あぁ……そういえばそんな話でしたね」
辛うじて原型を留めている椅子に崩れ落ちるように座ると、どこに持っていたのだろうか、机代わりにされた木箱の上に、葉月が小さな小皿を差し出した。
一見の限りでは、特になんの変哲もない、串にささった三つの緑色をした団子。
「なるほど、草団子――蓬ですか?」
「いえ、これは春の内に採取した七草で……」
「ほう……珍しいですね」
食べ物に釣られて気を取り直すというのは、どうにも個人的にいただけないのだけれど。
それでもまぁ、沈んでいるよりかはずっとマシだろうし、話の流れを変える切欠としては、この上なく解りやすい。
もうこれ以上は脱線しまいと、湯飲みに注がれるお茶の音を聞きながら、小皿の上の串へと手を伸ばす。
先程まで騒ぎ立てていたのが嘘のような静けさ。表の通りには相変わらず人の影が見受けられないが、それが返って涼しさを感じさせてくれる。こういうのを風情と言うのだろうか。
「いただきます」
軽く一礼して、一口。
「…………」
……うわぁ。
なんだろう、この口の中に広がるなんとも言えないものは。
春の七草なんて、精々粥に入れて食べた事くらいしかないけれど、少なくともこんな味ではなかったような気がする。
「どうでしょう? 七草でそれぞれ作ろうと思ったら芹が見つからなかったので、代わりに見つけたよく似た物を入れてみたのですが」
「死ぬよ!」
それは毒芹です。
「むぅ、新機軸を狙ってみたのですが、ダメでしたか」
「ちゃんと調べてから使ってくださいよ……」
「ではこちらなどどうでしょう? 草団子などと言って、葉ばかりを材料とするのはどうかと思い発案した一品、鈴蘭の花の団子です」
「なんでそんな毒物ばっかりなんですか」
「妖夢さん、好き嫌いをしていては大きくなりませんよ。胸とか」
「食べたらそれこそ大きくなれなくなるよ!」
「ならば、逆転の発想により生まれた一品、団子の素となる粉をまぶした――きな粉です」
「もはや団子ですらないですよね!?」
どうしてこの店が今のような状態になったのかが、なんとなく解ったような気がする。
うん、これじゃあ誰も買おうとは思わないだろうなぁ。
「いやいや妖夢さん」
「よもやその言葉を幽々子さま以外の口から聞く日が来るとは思いもしませんでしたが、なんでしょうか」
「いつまでも型にはまった考えに囚われていてはいけないのです。そう、動き続ける世界、変わりゆく社会、日進月歩していくそれらから取り残されない為にも、常に新しい試みというものは必要だと思う訳なのですよ」
「して、その心は?」
「今度行われる里の祭は、もう勝ったも同然です」
「確かに、話題は持ちきりでしょうね」
大量毒殺事件の現場として、だけど。
本当に、この娘は店を再建させるとか、そういった事は考えているのだろうか。いや、考えてはいるのだろうけれど……。なんだかこう、意志と行動の歯車が噛み合ってないというか、双方ともにそもそも歯が無いというか。あぁ、なるほど、だから里の人達も――。
そんな私の心の内など知らずに、葉月は「そうでしょう、そうでしょう」と得意気に腰に手を当てて切ない胸を張っていた。
……さっきの玉手箱って、開けたら胸も大きくなるのだろうか。
いや、別に気にしてないですよ?
ともあれ、このまま放置していては、里が謎の集団中毒死で滅びかねない。私とて、冥界の住人とはいえ、この里には大層世話になっているし、何より事を知ってしまった以上、私のすべき事はただの一つ――なのだろう。
どちらにせよ、私には選択肢を選べるほどの立ち回りなど、出来るはずもないのだから。
3
「それで、私に作り方を教えろ、と?」
晩の飯時もとうに過ぎた頃。青白い光を纏って庭先を飛び回る、羽虫達の幽霊を縁側から眺めながら、気怠げに、さもつまらなさそうな声で、幽々子様はそう言った。何が原因なのか、いつもの明るさは形を潜め、月明かりの中に浮かぶ愁いを帯びたその顔は、どこまでも白く、改めてその身が生きているそれではない事を伺わせる。
「そんなの、妖夢が教えてあげればいいじゃない」
「いや、解っていたのなら、その場で教えていますよ。……そもそも、私が菓子の事など右も左も解らないという事は、幽々子さまもご存じでしょう?」
今ひとつ興が乗らないのか、ふぅん、と気の抜けた返事を一つ。次いでくぁ、と一際大きな欠伸を漏らしたかと思うと、それきり黙り込んでしまった。
どうやら単に眠かっただけらしい。あんたは子供か。
「何か言った?」
「いいえ、何も」
もしくはもう年か。
「幽々子さま、何も言ってませんから。無言のまま死蝶を出さないでください」
あれから。
一つくらいはまともな物もあるだろう、という希望的観測の下に葉月の一人団子祭に付き合っていたのだが、出てくる物はどれもこれもこちらの予想の遥か斜め上を突き破る勢いで、残念ながら私の希望が叶う事は一度たりともなかった。恐らく、幽々子様が一時期毒草の類に嵌っていなければ、今頃私は立派な一つの霊魂となっていただろう。
そんな紆余曲折を経て、これはどうにかせねばなるまい、という結論に辿り着いた、のだが。まぁ、そこもまたある意味予想通りと言うか、なんというか。「普通の物はないのか」という私の申し出に対し、返ってきた葉月の言葉はといえば、
「その質問に答えるには、まず何をもって普通とするのか、という所から話さなければいけませんね」
とても解りやすい誤魔化しだった。
なんだかんだと言っても、やはりまだ子供という事なのだろうか。
「そもそも団子というのは、奈良時代に遣唐使が唐朝より持ち帰った八種類の――」
「無いのですか」
「胡麻を混ぜた黒や白の丸形を碁とみたて、団子と改め呼ぶようになり――」
「無いんですね」
「失敬な」
当然、そんな子供騙しのような手が私に通用するはずもなく。葉月の方もこれ以上は無駄だと悟ったのか、頬を膨らませて黙ってしまった。どうやら今度こそ怒ってしまったらしい。
確かに、ここまでの葉月を見る限り、いきなり普通の物を作れと言ったところで、はいと答える事はしないだろう。でも、果たして普通の団子一つ作る事が、そんなにも嫌なものなのだろうか。
「櫛枝の団子に、普通などという言葉はないのですっ」
怒った素振りを隠しもせずに、葉月が言った。
「祖父が作る団子は、それはそれは美味しい物でした。店は連日客足が途絶える事はなく、祖父の団子を食べた人は皆幸せそうに頬を緩ませていました」
「へぇ……」
なるほど、ようやく合点がいった。
つまりは、葉月もまた『私と同じ』という訳だ。
そう思うと、途端に葉月の事が身近に思えてくる。どころか、私はこの葉月という少女に対する見方を、少々変えなくてはいけないのかもしれない。
私も毎日の鍛錬を怠った事は無いが、それは結局のところ、現状を維持するためのものであり、現状を引き延ばすためのものでしかない。葉月のように、現状を打破しようと思った事など、果たしてこれまでにたったの一度でもあっただろうか。
確かに、私は現状にこれといって不満を感じている事もないし、与えられた役目や今の生活には、特に異を唱えるような事もない。言ってしまえば、現状を変える必要性というものが無いのだが、それはそれとして、大切なのは心の持ちよう、意気込みなのだ。
「すみません、どうやら私の方が勘違いをしていたようです。葉月の想いを考えもせずに、勝手な事ばかり言ってしまいました」
「いえ、解っていただければいいのです」
そう言う葉月の顔は、どこか清々しく。これも印象の差というものなのだろうか。
「つまり、葉月はそのお爺さんの作った物とは違う手で、それを超えたい、と」
「いえ、ただ単に祖父の作っていた団子の作り方が解らないだけです」
「…………」
なんだろう。もう帰っていかな、私。
葉月の方を見てみれば、そこにあるのは先程と同じ、清々しいまでの笑顔。何故だろう、先程と同じであるはずなのに、受ける印象が正反対になった気がする。
つまるところ、何も考えていないのですね。
「いやもう、なんと言うべきか。ここまでくると逆に感心してしまいますね」
「そんなに褒められると……葉月、照れちゃう」
「褒めてない上にキャラ変わってますから」
とはいえ、どうしたものか。
葉月の祖父が作っていたという団子が相当の物だったという事は、話の端々からも伺える。となると、やはり普通の団子という訳にはいかないのだろう。かと言って、その祖父が作っていたという団子が一体どのようなものだったのか、私には皆目見当が付つかない。
度々里に買い物に出向いていた所為か、すっかりと里の人々には私が炊事の役割も担っていると思われている節があるのだが、私は単なる買い出し役に過ぎない。帯刀している所から、刃物の扱いに長けているとも思われているのかもしれないが、炊事は炊事で、それを専門とする幽霊が毎日頑張ってくれている訳で。私も全く料理に手を出さない訳ではないが、そのような事から必然的に包丁を握る回数も減ってしまうのだ。
結果、私の料理の腕前というものは、至って平均、並でしかない。
そのような私が、団子の、それも誰をも幸せに出来るほどの物の作り方を、ましてやその材料となる物を、知る訳がないのだ。
「別に、私は祖父を超えたいとか、そんな事は思っていません。むしろ、祖父の作ったあの団子をもう一度食べられるのであれば、そしてこの団子屋『櫛枝』にまた皆さんが来てくれるのならば、それが一番です」
「その割には、殺人団子ばかり作っていたのですね……」
あれ。
なんだろう。今、何かが頭の中を過ぎっていった気がするのだけれど……。
「……あ、」
「遂に自殺の方法が決まりましたか?」
「いつの間にそんな話に!?」
「いえ、妖夢さんの顔を見ていると、不意に先程の事を思い出しまして」
「私がいつ自殺の話をしたというのか!」
あー。
駄目だ。
恐らく葉月の事で思うところがあったのだろうけれど、それが彼女の何に対する事なのか。何故そう思ったのか。今ので完全に頭の中から出て行ってしまったらしく、思い出そうとしたところで、果たして何を思い出せばいいのか、それすらもが解らない。
「……あ、」
「やはりここは切腹ですか」
「いや、その話はもういいから……」
本当に。ここまでくると、わざとやっているのではないかと思ってしまう。
「ふむ、では一応聞いてあげましょう」
「なんでそんな偉そうに……」
いや待て、待つんだ妖夢。ここで言い返していたら、また話が明後日どころか一ヶ月後辺りにまで飛んでいってしまう。我慢。そう、ここは我慢だ妖夢。
「えぇと、ですね。幽々子様――あぁ、私が仕えているお屋敷のお嬢様なのですが、菓子作り、特に和菓子の方面は色々と手広くやっていまいて」
「……ほう」
「もしかしたら、葉月のお爺さんが作っていた団子というのも、解るかもしれませんよ?」
「なるほど……幽々子……西行寺、ですか」
「あぁ、知っていたのですか」
「えぇまぁ、有名な方ですから……」
何があったのか、途端に覇気を失ってしまった葉月が、消え入りそうな声で呟き、俯いてしまった。
まぁ、解らなくもないのだけれど。
西行寺幽々子。
その名前を知っているのならば、その実態を知っているのならば、大多数の人はあまり関わりを持ちたくないというのが、実際のところなのだろう。この葉月もまた、その大多数の中の一人という訳だ。
その辺りの事は私も承知しているし、今では納得もしている。
今では、と言う通り、初めて顕界へと使いに出された頃は、それこそ幽々子様への侮辱と取ってしまい、刀を突きつけたりもしていたものだけれど。
しかし、このような所にまでその名が知られているとは思わなかったが、思い返してみれば、先日御阿礼の子が公開したという幻想郷縁起。あの中に幽々子様の事も書かれていたのだから、知っていても不思議ではない、という事か。……幻想郷縁起と言えば、何故か私の事まで書かれていたのだが。まぁそれは今は置いておこう。
とりあえず、今は目の前の葉月に幽々子様の安全性を説明しなければ。
「大丈夫。色々言われているかもしれませんが、別にそんなに恐い人でもありませんから」
「……」
「それに、今回の事であれば、私が作り方を聞いてきて、それを葉月に教えればいい訳ですし。直接会わなくても済みますよ」
「……どうして」
「はい?」
「どうして、そこまでしてくれるのですか……?」
「…………」
どうして、か。
改めて言われてみれば、自分でもどうしてここまでしているのかと思わなくもない。
顕界にあまり関わるなという事は、幽々子様にも、そしてあの閻魔様にも言われている。
節度というものから考えれば、今回の事は多分に過ぎていると言ってもいいだろう。
でも、それは、たぶん、
「私も……葉月と同じ、ですから」
きっと、そういう事なのだろう。
その答えは果たして正しく、そして同時に間違ってもいたのだけれど。
4
「――だ、か」
不意に幽々子様が何かを呟いたのだが、手持ち無沙汰になって、羽虫の幽霊の一匹を目で追っていた私には、それを聞き取る事が出来なかった。
「何か言いました?」
「いいえ、何も」
「……むぅ」
先程までの気怠さもどこへやら。妙にしっかりとした口調で言い返してきた幽々子様が、一人でくすくすと笑っている。もしかしなくても、それは私の真似ですか。
何も言ってないのに……。
「でも、本当に不思議なものね。不思議で、そして面白い。巡り巡って一廻り、という訳ね。ここまでくると、裏で誰かに糸を引かれているのではないかと疑ってしまうわ」
「はい?」
「と、言う訳で」
一頻り笑って気が済んだのか、ぽんと膝を叩いて幽々子様が立ち上がった。
「今日はもう寝るわ。妖夢、貴方も休みなさい。明日もまた行くのでしょう? その――」
「葉月、です」
「そう、葉月の所へ」
それを最後に、お休み、と言い残して幽々子様は自室へと戻っていってしまった。
その姿が廊下の角に消えていくのを見届けてから、少し、考えてみる。
先の言葉は、果たして何に対するものだったのだろうか。話の流れからしてみれば、恐らくは葉月の事なのだろうけれど。あまりにも的を外しているというか、話している場所が違うというか……。幽々子様に限って言えば、そんな事は日常茶飯事なのだから、そこまで気にする必要も無いと言えば無いのだろうけれど。
でも、言い方から察するに、もしかすると幽々子様は葉月の事を知っているのではないのだろうか? もしくは、私が一度葉月と会った事がある? 巡り巡って一廻り、つまりは過去に何かしらの関係があったと、そう思えなくもない。しかし、博麗神社で催される宴会に出向くようになるまでは、幽々子様も私も、顕界に出た事など、それこそ皆無と言っても過言ではなかったように思える。
「とは言っても」
考えてみたところで、全ては仮定、憶測に過ぎない。もしそれらが正しかったとしても、だからどうしたという結論にしかならないのだ。
迷った時は、行動する。
考えるのは私の仕事ではないし、立ち止まるのも私の性分ではない。私に出来る事は、いつの時もただの一つ。目の前に続く道を、信じて進むだけ。
さしずめ、今やるべきは――
「休む前に庭の見回り、か」
確認するように声に出して、庭先へと目を向ける。
月明かりに誘われて飛び去ってしまったのか、青白い光を纏って飛び回っていた羽虫達の姿は、そこにはもう残っていなかった。
「あ……結局作り方教えてもらってない……」
5
「ゆーゆーこーさーまー」
翌日。
出かける前に、なんとかして話を聞かせてもらおうと、朝からずっとその姿を探しているのだけれど、中々どうして、こういう時に限って見つからないのは何故なのか。
無駄に広い屋敷の中、行き違う事もあるかもしれないが、それでももう三度ほど回っているのだ。なのに、見つからないどころか返事すら無いという事は、知らない間に外に出てしまわれた可能性も否めない。
「それならそれで、一言くらい声を掛けていっても……」
と、
「あら、別に嫌がらせだとか、そういうのじゃないのよ?」
「幽々子さま?」
声が聞こえた方へと振り返ってみるが、そこに幽々子様の姿はなく、ただ壁があるだけ。
はて、空耳だったか。
そう思った、その時だった。
「うわぁ!?」
突然、声の聞こえた壁から、手が出てきたのだ。
ぬるり――そんな、本来であれば聞こえるはずのない音を纏って、それは殊更ゆっくりと、壁から『生えて』きた。
それはまるで、墓穴から這い出てきた亡者のように――。
「失礼ね。人をゾンビみたいに」
「――って、幽々子さまじゃないですか。何をしているんですか、何を」
「見れば解るでしょう? 壁抜けよ。壁抜け。昨日ようやく出来るようになったの」
「はぁ……」
何をやっているんだ、この人は。
「あら妖夢、面白くなさそうな顔ね」
「というか、今まで抜けられなかった事の方が驚きです」
「亡霊は幽霊とは違うもの。たとえ自分が亡霊だと解っていても、やっぱり難しいものなのよ。いえ、亡霊だと思うからこそ、難しいのかしらね」
……口を挟むべきではなかったか。
何か新しい事に手を付けると、いつもこれだ。喋らずにはいられない、子供のような一面、と言えば聞こえは良いが、延々と話を聞かされるこちらの身にもなっていただきたい。
「逆もまた然り。薄くするのは難しくても、濃くするのは案外簡単なのよ。まぁそれでも、私ほどにもなれば、こう、亡霊としての格が違うとでも言うのかしら? 妖夢には解らないかもしれないけれど、この壁抜けはただの壁抜けじゃないのよ? 何故かと言うと……」
「さいですか」
「……つれないわねぇ? 幽々子、泣いちゃう」
落胆したように、幽々子様が言う。そんな事で落胆されても、正直なところ、本当にどうでもいいと思ってしまったのだから仕方がない。
幽々子様はよほど堪えたのか、それとも演技か、よよよ、と些か大袈裟に品を作って、再び壁の中へと埋まっていってしまった。うん、まず間違いなく後者だろう。
一体何がしたかったのだろうか、あの人は。
「あれ?」
その、幽々子様が埋まっていった壁の下。先程までは無かったであろう、折り畳まれた小さな紙片を見つけて、拾ってみる。
「これは……」
丁寧に開いてみれば、そこには『ゆゆこ印の特製茶団子』などという表題の下に、材料や手順が事細かに書かれていた。可愛らしい挿絵付きで。
「…………」
ほんと、なんで普通に行動できないかなぁ……?
それは兎も角として、これでようやく葉月の所へと行ける。この紙に書かれている物が、果たして葉月の祖父が作っていた物なのかどうかは解らないが……どちらにせよ、あの殺人団子をばら蒔かれるよりかは遥かにマシだろう。
6
「はぁ、なるほど……茶団子、ですか」
私から調理法の書いた紙を受け取って、ざっと目を通した葉月が一言。
今日も昨日と変わらず、店の前の通りにはほとんど人の姿はなく、閑散としている。里の中心に近いという事もあって、一応通りに面して家屋が並んでいるのだが、この店の隣近所、一帯のそれらからはおよそ人の気配がせず、生活の跡も見られない。
完全な孤立。
少しばかり度が過ぎていやしないかと思いもするが、それを葉月に聞くというのも、中々に躊躇われる。
葉月の方へと目を向けてみれば、両手でしかと持った紙を睨んだまま、暫く難しい顔をしていたかと思うと、持っていた紙を遠ざけたり、目と鼻の先まで近付けてみたり、右に回してみたり、左に回してみたり。終いには、紙は見事な紙風船へとその姿を変えていた。
「とりゃっ!」
威勢の良い掛け声一つ。同時に繰り出された葉月の蹴りが、見事に紙風船を捕らえた。その小さな体躯からは想像も付かない、しっかりと腰の入った、綺麗な姿勢での蹴りだった。
蹴られた紙風船はといえば、これもまた綺麗な放物線を描き、まるで吸い込まれるかのように、屑籠なのだろう籠の中へと一直線。
嗚呼……もう少し葉月と出逢うのが早ければ、以前流行ったサッカーの時に、きっと良い戦力になっただろうに、実に勿体ない。
――って、そうじゃなくて
一連の動作にすっかり見蕩れてしまった自分を改めるように、頭を振る。
「いきなり何をするんですか。折角幽々子さまが書いてくれたのに……」
「いえ、妖夢さんが触れていた物かと思うと、つい」
「酷い!?」
「大丈夫です。材料も手順も全て覚えましたから」
「そういう問題では……」
そこまで嫌われるような事をした覚えはないんだけどなぁ……。
――あ。
もしかすると、私ではなく、幽々子様が書いた物だから、なのか。昨日の反応からするとそちらの方が正しいような気がするが、果たしてただ亡霊だというだけで、そこまで嫌われるものなのだろうか。
でも、覚えたという事は、少なからず受け入れてくれたという事――なのだろう。
「それで、書かれていた団子という物は、お爺さんの作られていた物と同じそれだったのでしょうか?」
「実際に作ってみないと解りませんが……確率は高い、かもしれません」
ほう、と感心する私を置いて、葉月はどこか煮え切らない様子で、口元をまごつかせていた。どう言えばいいのか解らない、といった感じだ。
「葉月?」
「あー……いえ、なんでもありません。では行きましょうか」
「え……どこへですか」
「妖夢さん……」
葉月は私に対し、心底呆れたような顔を向けていた。
考えてみるが、やっぱり解らない。そもそも、行くとだけ言われて、それで解れという方が無理があるとは思わないのか。
「仕方がありません。頭が可哀想な妖夢さんの為に、説明してあげましょう」
「頭がは余計です……」
「ふむ、そうですか……。では言い直しましょう」
「別にわざわざ正さなくても構いませんが……」
「心が可哀想な妖夢さん」
「より酷くなった気がする!?」
「剣の腕が可哀想な妖夢さん」
「割と本気で傷つくよ!」
「胸が可哀想な妖夢さん」
「言うと思ったよ! というかいい加減忘れようよ、その話は!」
「生きているのが可哀想な妖夢さん」
「存在否定にまで!?」
「やっちゃった感がする辺り、本当に残念ですね」
「それはこっちの台詞だ!」
本当に、葉月と話していると物凄く体力を使う。
幽々子様の場合は、捕まえようとしても逃げていく蝶を追いかけるようなものだけれど、葉月の場合は真っ直ぐに飛んできた蜂が、そのまま体当たりをしてくるような、そんな感じ。
疲れる上に、痛い。主に私の心が。
「まぁ、妖夢さんが可哀想なのは後に回すとしてですね」
「置いておいてはくれないのですね……」
「先程の紙に書かれていた物ですが、ここには材料が無いのですよ」
「あぁ、なるほど。茶団子……でしたっけ? でも、茶葉の収穫は春先なのでは?」
今は七月。いよいよ夏も盛りを迎えようかという頃だ。
「それは普通に飲む為のお茶用に収穫する場合です。それでも春先に摘む物を一番茶、それ以降にも二番茶、三番茶として、数回にわたって収穫する場合がほとんどですが」
「へぇ……お茶の事も詳しいのですね」
「妖夢さんが浅学すぎるだけですよ」
とだけ言って、葉月はこちらに構う事もなく外へと出てしまった。
私もすぐにその後を追って、店を出る。暫く屋内にいた所為か、日差しが余計に眩しい。
空は今日も雲一つ無い、見事な快晴。じっとしていても汗が滲み出てくる顕界の夏の暑さは、冥界暮らしの自分にとっては少々辛いものがある。葉月の方を見れば、やはりそこは顕界の住人なのか、暑そうな素振りなど見せず、その顔には汗一つ浮いてはいなかった。
そうして、何かに使うのだろうか、折り畳んで尚両手で抱える程もある布を持った葉月についていく形で、私達は茶葉の採取へと向かう事になった。徒歩で。
「でも、勝手に摘み取ったりして、いいのでしょうか?」
「妖夢さんは本当に何も知らないのですねぇ……」
ほとほと呆れたような声で、前を向いたまま葉月が答えた。
実際知らなかったのだから仕方がないとはいえ、ここまで呆れられてばかりだと、どうにも自分が情けなくなってしまう。と同時に、また何か酷い言葉が飛んでくるのかもしれないと身構えてみたのだが、葉月は変わらず前を向いたまま、その足を止める事はしなかった。
「そもそも、茶団子には主に抹茶を使います。抹茶は甜茶を原料としますが、この甜茶という物は、他の一般的な茶とは少し違い、収穫の前に一作業しなければいけないのですよ。収穫した後の行程にも違いはあるのですが、まぁ今は置いておきましょう。ちなみに、今から向かう場所に生えているのは、野生の茶の木ですので、勝手も何も、私の自由です」
「なるほど」
感嘆する、という言葉は、正に今のような場合を言うのだろう。
話す内に、里を出て、道は小高い山の中へと入っていく。
緩やかな上り坂。直接日光に晒されていた里の道とは違い、木々が影を作ってくれている分、こちらの方が幾らか涼しかった。
それにしても。
本当に、何故この娘が、これほどの娘が、誰にも相手にされず、一人であのような生活を送らなければならないのか。確かに普段の言動には少々問題があるかもしれないが、慣れればそれも味のある会話になるだろう。疲れるけれど。
巡り巡って、一廻り。
不意に、幽々子様の言葉が脳裏に甦る。
あれはもしかすると、里の人達と葉月、ないしは葉月の両親、祖父の間にあった『何か』を差しているのかもしれない。それにしても、里の全員から関係を絶たれるような事など、果たしてあるのだろうか。
前を歩く葉月の背中は、店を出た時から何も変わらず。暑さも疲れも感じていないかのように、平然と山道を進んでいく。いくら暑さの所為で私の歩みが遅れ気味になっているとはいえ、余所見をすれば置いて行かれそうな程の健脚ぶり。本当に、大したものだと思う。
「あ……そういえば葉月、一つ気になっていたのですが」
「どうかしましたか?」
「ご両親が亡くなられてから、葉月はお爺さんと二人だったんですよね?」
「えぇ……まぁ、そうなりますね」
「その時に、お爺さんから団子の作り方等は教わらなかったのですか?」
そうだ。
昨日浮かんだ疑問。結局聞けず終いだったのは、その事なのだ。
葉月が一人っ子であれば、両親が亡くなった時点で店を継ぐのは葉月一人という事になる。
ならば、祖父が作り上げたという物は、必然的に葉月に伝えられていくのではないのだろうか。私がそうであったように――。
「普通は、そうでしょうね」
「と言うと?」
などと反射的に答えてから、すぐに私は自分の軽率さを後悔した。
家庭の事情など、他人がそう易々と踏み込んでいい場所ではない。見れば、葉月は顔を俯かせ、心なしかその肩が震えているようにも見える。昨日も同じような事をしてしまったというのに、自分は一体何をしているのか。
「気にしなくていいですよ」
と、私の胸の内を見透かしたかのように、葉月が言った。
俯いた顔を上げ、でもやっぱり振り返らないまま。
「父と母が亡くなった後は、中々どうして色々ありましたので。それどころではなかったというのが一番大きいでしょうか」
「…………」
同じだから、か。
どこまでも無責任な言葉だ。状況が同じであっても、環境まで同じなはずがないのに。
私だって、何もかもが順風満帆だった訳でもない。むしろ、どちらかと言えば恵まれていたのだろう。何よりも、私には幽々子様がいたのだから。
「――、と」
内側へと向いていた思考が、頭上から降り注ぐ陽光の眩しさに中断させられた。
両手で庇を作って周りを見渡すと、どうやらこの辺りだけ意図的に木が伐採されているのか、開けた場所になっているようだった。比較的傾斜も緩い場所らしく、周りを木々に囲まれた中に突如として現れた草原といった感じで。更に膝を超える草の合間に見える白百合の花が、中々に幻想的な雰囲気を感じさせる。
「あれ……?」
その白百合のすぐ近くに見えるのは、石、だろうか?
見てみると、草原の中、白百合の花がある場所からは、決まって大き目の石がその頭を覗かせていた。まるで――。
「あれ、全部お墓なんですよ」
「え?」
私の疑問を悟ったのか、いつの間にか立ち止まっていた葉月が、草原の中に点在するそれらを見て、呟くように言った。
「里の人達の共同墓地……ですか?」
「共同……そうですね。そう言えなくもないです。ただし――里に捨てられた人達の、ですけどね」
「へ……?」
捨てられた? どういう事だ?
次の言葉を待ってみても、葉月はじっと黙ったまま、立ち並ぶ墓標から目を逸らさない。
その顔は、どこか悲しそうで、どこか悔しそうで――こちらから声を掛ける事も、憚られてしまう。
「行きましょうか。茶の木があるのは、もうすぐですから……」
けれど、葉月がそれ以上何かを語る事はなく。再び私に背を向けると、一人先へと行ってしまった。
先程までと同じ、暑さも疲れも感じさせない、淀みない足取りで。
汗一つ、流す事なく。
7
「へぇ……お茶の木って、こんなのなんですねぇ」
「とはいえ、ここに生えている物は、完全に野生の物という訳でもありませんが」
「そうなのですか?」
「昔、祖父が栽培していた物が、そのまま放置されてこのように。私も久しぶりに来たのですが、まだ残っているようで何よりです」
なるほど、茶団子の可能性が高いというのは、その辺りからきていたのか。
などと思っていた私を余所に、葉月がずっと抱えていた布を広げ始めた。
布は、いざ広げてみると畳六枚分にもなろうかという程の物で、葉月が手際よくお茶の木の上へと被せるように乗せていく。聞いてみると、どうやらこれは被覆栽培というらしく、わざと日の光を当てないようにするための物らしい。そうして二十日程光を遮る事で、抹茶の前身となる甜茶に使える葉になるのだという。
「本来ならば、時期や被覆の仕方など、もっとしっかりとした方法でやらなければいけないのですが……まぁ、それなりにはなるでしょう」
「へぇ……」
さっきからそんな生返事しかしてないなぁ、私。
と、どうしたのか。布を広げる作業の途中で、葉月がその手を止めて顔を俯かせていた。
「葉月?」
「……妖夢さん、少し手伝ってもらえますか?」
「え? あぁ、もちろん構いませんよ」
「では、こちらの端をあちら側に、お願いします」
「解りました。被せて下で止めればいいんですね?」
「はい……しっかりと固定してください。飛ばないように……しっかりと」
葉月から布を受け取り、指定された場所へと向かう。しかし、実際に持ってみて解る、布の大きさ。どうにかして摺らないようにと気をつけてみたのだが、結果として引き摺るような形になってしまった。枝に引っかかっていたり、破れたりしていなかを確認して、木の根元にしゃがみ込む。止める――とは言っても、杭のような物も無い。根元の幹にでも結んでおけばいいのだろうか。
「妖夢……さん」
「あぁ、丁度良かった。止める場所ですが、下の幹に括り付けてもいいのでしょうか?」
「そうですね。しっかりと止めてください。こんな風に――」
「へ?」
気がつくと、首の周りにひんやりとした、少し色の白い手が添えられていた。
「葉月……?」
振り向くと、顔を俯かせた葉月の姿。逆光で影となっている為に、その表情までは読み取れないが、笑っている――ように見えた。
「妖夢さんは、本当に優しい人ですねぇ」
妙に間延びした、呟くようなその声。そのたった一言で、私の心は驚きを超え、恐怖を超え、一瞬の内に絶望へと染まっていく。
何が起こったのかも解らない。
何をされているのかも解らない。
ただ、見えない何かが、私の中を否応なく犯していく。犯し尽くしていく。
「はづ、き?」
「優しいです……殺したくなる、くらいっ……!」
「なっ――」
突然、葉月が私の首を締め上げたのだ。一瞬何が起こったのかが解らず、頭が混乱状態に陥った。葉月はその小さな体躯からは信じられないような力で私の首をを締め上げ、そしてそのまま持ち上げていく。まるで重さを感じさせない、人形のように。
なんとか振り解こうとしてみるが、葉月の両手は万力のようにがっちりと私の首を掴んだまま、びくともしない。ならばと足を振り上げようとしたところで、一気に体が宙吊りにされたかと思うと、勢いよく、後ろにあったのであろう大きな木の幹に叩きつけられた。
「っか……!」
背中に受けた衝撃で、肺の中の空気は全部外へと抜けてしまった。なおも葉月の手から力が抜けるような事はなく、もはや抵抗しようにも腕が上がらない。人外の如き力で締め上げる葉月の両手は、窒息するよりも先に、首を引きちぎってしまいそうだ。
ぼやけてきた視界の中で、どうにか葉月の方へと目を向ける。
葉月は。
櫛枝葉月は。
どこまでも、どこまでもその顔を歪めて、やはり……笑っていた。
「ぁ……ぅ…ぃ……」
「貴方のおかげで、無事に私は祖父の団子を継ぐ事が出来そうです。感謝していますよ」
歪んだ笑顔のまま、葉月が言う。
「でも妖夢さん。嗚呼、妖夢さん。貴方がいけないのですよ。貴方がそんな事だから――」
体中の感覚さえもが失われていく中で、何故だか葉月の発する声だけが、やたらと鮮明に聞こえてくる。そして、その言葉は言霊となって、無防備になった私の中を掻き回していくのだ。
明確な、意志を持って。
この上ない、殺意を持って。
そうだ、私は知っている。これが何かを知っている。櫛枝葉月が何かを私は知っている。
なるほど、そう考えれば全ての辻褄が合う。葉月が一人な理由も、幽々子様が言っていた事の意味も、全て……。
「…………」
でも、もう声も出ない。
声だけでなく、手足どころか、指先すらも動かせない。
意識も朦朧としている。
これが、死ぬという事。
半人半霊の私が死ぬと、どうなるのだろうか。
閻魔様ですら裁く事の出来ない私は、一体どこへ行くのだろうか。
ただ一つの心配事が、脳裏に描かれる。
「ゆ………ゅ……こ…………ぁ……」
「無様ねぇ、妖夢」
声が、聞こえた。
聞き慣れた、酷く耳に懐かしい、声が。
瞬間、万力の如き力で首を締め上げていた葉月の手から解法されたかと思うと、崩れ落ちる私を、後ろから伸びた手が抱き抱えるようにして支えたのだ。
「げほっ! がっ! ……っは!」
空気を求めて逆に噎せ返った私を支える、細くて白い、手。
見れば、片手で私を支え、もう片方の手で葉月の腕を掴み上げるその手は、正しく私の背後、木の幹から生えていたのだ。
こんな事が出来る人を、私は他に知らない。それはつまり、先程聞こえた声が空耳では無かったという事。
そして彼女は、西行寺幽々子は、私の背後の木の中から、ぬるり――と、聞こえるはずのない音を纏って、現れた。
薄い桜色の髪を揺らして。
蒼い着物の端を靡かせて。
「だから言ったじゃない。亡霊が己の存在を濃くする事は簡単だ――って。こんな娘っ子にだって出来るんだもの。尤も、意識してやっている訳でもなさそうだけれど」
いくらか落ち着きを取り戻したところで、幽々子様が言った。
存在を濃くする。それはつまり、己を希薄にする事によって壁を抜けるのとは、正反対。確かな質量、確かな力、存在そのものの、強化。
そう、突然現れた幽々子様に腕を捻り上げられ、呆然とした顔をしている、幽々子様の言うところの娘っ子、櫛枝葉月もまた――亡霊、だったのだ。
「――っ、離せっ!」
「言われなくとも」
我を取り戻した葉月の怒声に怯む事もなく、幽々子様が一息にその体を吹き飛ばす。吹き飛ばされた葉月は、受け身を取る事も出来ず、そのまま対面の木へと叩きつけられた。木が折れるほど――とまではいかなかったが、大きく揺れた枝から葉が落ちるほどの衝撃だった。
あまりにも圧倒的な、力の差。亡霊としての、格の違い。
「いつになるかしら。閻魔様から言われていたのよね。顕界の里にけったいな亡霊がいるから、どうにかしろ……って。普段は冥界から出るな、なんて言う癖に、ねぇ」
静かに、幽々子様が言う。
「私としては、里がどうなろうと別段どうでもよかったから、放っておいたのだけれど。貴方も残念ね。この子に手を出したりしなければ、見逃されていたのに……。とはいえ、それが解っていても手を出す辺り、所詮は怨霊といったところなのかしらね」
「どういう事ですか?」
問い掛けて、抱き抱えられた格好のまま振り返ってみるが、幽々子様は葉月の方へと視線を向けたまま。釣られて見てみれば、葉月は片膝を付いた格好で、怨めしげに、奥底から湧き出る負の感情を抑えようともせずに、こちらを睨んでいた。
8
昔の事――まだ私が生まれるより前の、そんな時代。幻想郷の里に、とある一家がいたという。生まれたばかりの娘と、その両親、そして娘の祖父が一人。どこにでもあるような、ごく普通の家庭だったらしい。
その家は団子屋を営んでいたのだが、それが中々に評判の店で、人々は毎日その店の団子を求めて訪れていた。人当たりの良い一家の人望は厚く、多くの人から慕われていたそうだ。
だが、一家の娘がもうじき十歳になろうかという頃、里の中でとある病が広がった。
のどかだった里が、一転して戦々恐々とした状態に陥るのは、すぐの事だった。
原因も解らず、どんな薬も効かない。
次々と病に倒れていく中、残された人々は、一つの決断をする事になる。
これ以上病に掛かる人が増えないように……そんな理由で、けれど尤もな理由で……病気に掛かった人達は、文字通り里から『捨てられた』のだという。
しかもそれは、病に掛かった人だけに留まらず、その家族にまで及んだ。
誰であろうと関係なく、恐いくらいに平等に。つい先日まで、里の皆から好意の目を向けられていた一家であろうと、例外ではなかった。
一家の中で最初に病に掛かったのは、娘の両親だったそうだ。
まだ幼かった娘は、愕然とした。
突然病に倒れた両親の事よりも、里の人々からの視線が、一昼夜にして逆転した事に、娘は驚きを隠せなかった。
あんなにも暖かく、優しかった人々が、どうしてここまで態度を変える事が出来るのかと、娘には不思議で仕方が無く、同時にどうしようもなく悲しかった。
そして、看病の甲斐も虚しく、両親は幼い娘を祖父に託して病の淵に倒れた。
それでも、まだ、結局と言うべきか、残された娘と祖父は、一度捨てられた一家は、里に戻る事は、出来なかった。
やがて祖父も病に掛かってしまい、残されたのはまだ幼い娘一人。
娘は必死に助けを求めたが、当然人々の反応は冷たかった。中には救いの手を差しのべてくれる人もいたのだが、それらも長くは続かなかった。
娘は絶望した。そして同時に、酷く人々を憎み、怨み、罵った。
何故、誰も助けてくれないのか。
皆、祖父の事が好きだったのではないのか、と。
祖父が亡くなっても、暫くして娘自身が病に倒れても、娘は最後のその瞬間まで、怨みの念を抱き続けていた。そしてその怨念は、死して尚消える事はなく。
「そうして、めでたく亡霊が一人、生まれたという訳よ」
迷惑な話よねぇ、と付け加えて、幽々子様は話を締め括った。
幽々子様の手から離れて、葉月を見る。彼女はまだ打ち付けれられた場所に片膝を付いたまま、こちらを睨み付けていた。
「葉月、どうして……」
「怨霊に向かって『どうして』だなんて問い掛けは無意味よ。まぁでも、この場合は少し特殊かしらね」
一歩を踏み出し、私の前に出た幽々子様が右手を葉月へと向けると、それに呼応するかのように、葉月の周りにおびただしい数の蝶が現れた。
死蝶――全てのモノを死に誘う、冥府の使い――
既に死んでいる亡霊の死、それは輪廻の輪からも外れ、無へと還る完全なる消滅に他ならない。
葉月もそれが解っているのか、それとも本能的なものなのか、死蝶によって作られた檻の中で、為す術もなく、それでも真っ直ぐにこちらを見ていた。
「彼女自身の怨みの念というものは、長い時間の中で大分薄らいでいたのではないかしら。相手が妖夢だったという事もあるにせよ、ね。勿論、怨む事によって自己を確立させていた訳だから、完全に無くなるなんて事はないのだけれど。時間なんていうものは、残酷以外の何物でもないわ。想いは色褪せ、風化し、そして劣化していく。現に、この幼い亡霊は、この数十年、誰一人としてその怨みの念を向けていない。誰も殺していない」
「え……?」
「百年程前だったかしらね。私が閻魔様から話を聞いたのは。当時はそれはもう、酷かったという話よ。ねぇ? 櫛枝の娘」
問われても。
葉月は、答えなかった。
「……まぁいいわ。妖夢、貴方もここに来るまでに見たでしょう? あの墓場を」
墓場。
山の中にぽっかりと開けた、白百合の咲き乱れる草原――あれらが全て墓だとするならば、一体どれほどの人が、過去の流行病で倒れたというのだろうか。
「突然の病、他の住人から受けた扱い。世を怨んで死んでいった者がいなかったと考える方が無理があるでしょう。そしてあの場所は、幸か不幸か、地形的に見ても絶好の溜まり場となっていた。個々の念は微弱でも、それらが集まれば立派な怨みとなるわ。そして今日、溜まりに溜まった怨念は、絶好の器を見つけた」
「…………」
「そういう事なのよ」
丁度話の終わりを待っていたかのように、一陣の風が吹いた。
幽々子様と葉月は、一瞬の隙をも見逃さないとでもように、互いの視線を交差させていた。
私に手を出したから――その言葉は何よりも嬉しかったのだけれど、それは、再び怨みの念に囚われてしまった葉月を、幽々子様がこれ以上見逃すような事はしないという事。
確かに、今の葉月を野放しにするような事は、絶対に避けなければいけないのだろう。
けれど。
だけど。
このままで、本当にいいのだろうか。
消滅への道しか、残されていないというのか。
ならばせめて――。
「さて、世間話はこれくらいにしておきましょうか」
静かな声で、幽々子様が言う。
「櫛枝葉月、貴方は少々この世界の理から外れすぎたわ」
最後の言葉を、粛々と。。
「これ以上の存在は許されない。よって――」
「幽々子さま」
声は、思った以上にすんなりと出た。
頭の中は、今も頭上に広がる蒼穹のように冴え渡り、あれほど揺らいでいた心も、自分でも驚く程に静まっている。
「どうか、死蝶をお収めください」
「妖夢?」
「これは……私がやらなければいけない、事なのです」
消滅への道しか、残されていないというのなら。
どうかせめて――。
「…………」
「幽々子さま」
「……解ったわ」
幽々子様が振り向き、私の後ろへと下がる。と同時に、葉月を取り囲んでいた死蝶は、一羽残らずその姿を消した。
「ありがとう、ございます」
「…………」
肩越しに顧みるが、幽々子様は背を向けたまま、こちらを向く事はなかった。
私がこれから何をしようとしているのか、解っているのだろう。
「妖夢さん……」
呼ばれて、前へと向き直る。
そこで、ようやく葉月は、葉月という名を語る怨霊は、私を見たのだ。
「妖夢さん、貴方は本当に優しい人ですね……愚かなくらいに」
「自分のけりは自分でつける。ただそれだけです」
私は一刀を抜き、葉月に向けて構えた。
二刀も、二の手もいらない。一振りで、全てを終わらせなければいけないのだ。
「葉月、最後に一つだけ、聞いておきたい事があります」
「…………」
「貴方は――」
瞬間、吹き抜けた風が私の言葉を攫っていく。それでも葉月には届いたのか、僅かに口の端を上げた。それが答えという事なのだろう。
それきり二人、黙り込む。幽々子様は今も背を向けてくれているだろうか。
どこから飛んできたのか、二人の間に木の葉が一枚、ひらりと舞い落ちてきた。
なんとも、都合の良すぎる展開。
でも、今はそれに感謝しよう。
結局私は、最後の最後まで決める事が出来なかったのだから――。
そして、木の葉がゆっくりと、地面に落ちて――、
「――!」
刹那の間、互いに踏み込み、ただの一歩で交差し、そして……私は剣を振り抜いた。
そのまま私は、先程まで葉月が立っていた場所へと崩れ落ちた。
手応えはあった。今までの中でも、一番の一撃だっただろう。
でも、私は崩れ落ちた姿勢のまま、動く事が出来なかった。
もしも私がもっと成熟していたのであれば。本当に覚悟が出来ていたのであれば。
私は後ろを、振り向けたのだろうか。
「妖夢」
「…………」
「白楼剣、使わなかったのね」
私が右手に握る、己の身長ほどもある長刀を見て、幽々子様が言う。
振るった刀は、楼観剣。
それが、最後まで迷い迷った末に、結局自分では決める事の出来なかった、私の答え――。
「これで、正しかったのでしょうか……?」
「それはもう、貴方自身が解っている事でしょう?」
嗚呼、本当に。
どうしてこの人は、なんでも見透かしてしまうのか。
あの刹那の間、剣を振るったその時に、確かに葉月は言ったのだ。
――ありがとう――と。
想いは時間と共に色褪せて、風化して、劣化する。ならばその空いてしまった穴を埋める為に、別の想いが生まれたとしても、なんら不思議ではない。
櫛枝葉月。
十の年月を生き、百の年月を死んだ少女。
彼女はあまりにも……そう、愚かなくらいに、優しすぎたのだ。
9
「ほら、妖夢がのんびりしているから、すっかり始まってしまっているじゃない」
「歩いていくんだ、などと言って聞かなかった幽々子さまの所為な気もしますけど」
「そういえば、地獄が人員不足だとかいう話を聞いたわねぇ……」
「何故そこで脅しにくるのですか……」
「やぁね、冗談よ」
祭の灯りは、もうすぐそこにまで迫っていた。
風に乗って聞こえてくる祭り囃子に合わせるように、早速幽々子様がくるくると回りながら、下駄を鳴らす。
からころ。
からころ。
からころ、と。
今日は一年に一度、幻想郷の里で行われる夏祭り。
それも、ただ遊びに来た訳ではなく、なんと私達が屋台を出すのだというから、世の中解らないものである。
出す物は当然、決まっている。
「あれ?」
しかし、見てみれば私達の屋台の前に、何やら人集りが出来ているではないか。
ひょっとすると、遅刻してしまった所為で、他の誰かに屋台を乗っ取られたのだろうか?
それならば、即刻立ち退いていただかなければなるまい。
浴衣姿の人の中を掻き分けるようにして、なんとか屋台の中が見える所まで進む。
果たしてそこには、目論見通り私達の屋台を使っている輩がいた――のだが。
「幽々子さま」
「なぁに? というか凄い人ねぇ。大人気じゃない」
「……知ってましたね?」
「あら、あらあら」
ようやく人混みの中から私の隣に出てきた幽々子様が、屋台の方を見て、いつものように鈴を転がすような声で笑った。
うん、絶対知ってたよね、この人。
「妖夢さん妖夢さん金毘羅妖夢さん!」
言いたい事は色々とあったのだけれど、屋台の中から聞こえてきた声に対して私が出来た事はといえば、溜息を吐く事だけだった。
「一度呼べば解る上に、そんな大層なものじゃありませんから」
「どちらでも構いませんが、そんな所で木偶人形のように突っ立っている暇があるのなら、手伝おうなどとは思わないのですかっ!」
相変わらずの酷い言い種に、思わず笑ってしまう。
まぁ、言いたい事も、聞きたい事も、後から存分に話せばいいだろう。
まだまだ夜は始まったばかり。
祭はこれからなのだから。
「そんな髪飾りでお洒落したって、胸は大きくなりませんよ?」
「五月蠅いよ!」
八月。少し古めかしい言い方をすれば、葉月。
木の葉が紅葉して落ちる月だから葉月だという説があるが、私個人としては、どちらかと言えば稲の穂が張る『穂張り月』という説の方が好ましい。
散りゆく時より、実りの時。
いずれ散ってしまう葉を、散る前からとやかく言ったところでどうなる事もない。それならば、収穫を目前に控えた稲穂の事を考えた方が、余程賢明だろう。散った葉では、芋は焼けてもお腹は膨らまない。
以前、幽々子様とそんな話をした事があったが、私がその旨を述べると、鈴を転がすような声で笑いながら「妖夢はまだまだお子様ねぇ」などと言われてしまった。
幽々子様ならばきっと同調してくれると思っていたのだが、どうやらその目論見は脆くも崩れてしまったようだ。そも、幽々子様や紫様のように、旧暦に倣って生活しているのならともかく、今の新暦では睦月、如月、弥生、烏月等といった呼び方は、あくまでも各月の代わりの呼称でしかない。そこに本来の意味などあるはずもなく、それは同時にそれらの言葉の由来といったものも意味を失ってしまったという事。
葉月というのは、元は旧暦の八月を差す言葉であり、旧暦の八月であれば、確かに葉は紅葉し、稲の穂は張り、月見月の別名というのも納得がいくというもの。
ならば、今の葉月は何の意味も持たない、ただの飾りの言葉でしかないのだろうか。
世間的にはそうなのかもしれない。
新暦で生きる今の人々には、そも由来などといったものは関係ないのかもしれない。
でも、私にとって、八月とは。
私にとって、葉月とは。
「妖夢、早くしないと置いていくわよ」
襖が開いた音が聞こえなかった割に、随分と鮮明に聞こえた声。噂をすればなんとやら。振り返ってみると、そこには襖から上半身を生やした幽々子様の姿があった。
なるほど、これでは襖の開く音が聞こえなかったのも納得がいく。
いや、そうじゃなくて。
改めて、襖から生えた主の姿を見る。
その身に纏うのは、いつもと同じ薄い蒼の着物。生地に描かれる柄は季節、曜日、更にはその日の天候までをも考慮しているらしいが、今日の柄は流水を模したものだった。それほどしっかりと着付けていない所為で、動く度に袖や裾が、肩下まで伸びた、緩く波打つ薄桃色の髪と一緒にふわりふわりと揺れ動く。正直、目のやり場に困るのだけれど。
「どうしたのよ、そんな呆れたり怒ったり、かと思えばいきなり目を背けたり、生えたり抜いたり破れたり、忙しそうね」
「言いたい事は色々とありますが、とりあえず、入ってくるならちゃんと襖を開けてからにしてください」
「あら、あらあら」
まるで今初めて自分の状態に気付いたとでもいうような素振りを見せて、幽々子様の上半身が襖の向こうへと沈んでいく。
かと思えば、次は取っ手の所から唐突に色の白い、細い手が生えてきた。
「切ってもいいですか」
「やぁね、冗談よ」
三度目の正直とでも言うべきか、今度こそすっと襖が横に滑る。
当然の事ではあるが、そこには幽々子様が立っていた。ふわりと漂うように浮いていた、と言った方が適当だろうか。
「なんだ、支度、もう済んでいたのね。いつまで経っても出てこないから、てっきりこ、ころ……ころ――」
「勝手に人を殺さないでくださいよ」
「転がされているかと思ったわ」
「そっち!?」
「いやねぇ、限りある命は大切にしなさいって、この間閻魔様に言われたのよ。所謂慈悲の心というものね。という訳で妖夢、試しにお団子を作ってみたの。食べる?」
「前振りを入れないと団子の一つも出せないのですか、あんたは」
「隠し味に走野老を入れてみたわ」
「……」
とんだ慈悲の心だった。というか、量によっては死ぬんじゃないのかな、それは。きっと、幽々子様の中にあるのは慈悲じゃなくて茲非とかだ。心がない。ひょっとすると、亡霊は皆こんな性格なんじゃなかろうかとさえ思えてきてしまう。
「やぁね、冗談よ」
こちらとしては、呆れるばかりなのだけれど。
それでも幽々子様は本当に楽しそうに笑ったまま。もっとも、普段からその表情が崩れるような事はほとんどなく、試しに怒っている所や泣いている所を想像してみたが、やはりというか、笑っている顔以外は出てこなかった。笑いすぎて泣いている所なら、嫌と言う程見た事はあるのだけれど。
「まぁ、でも」
仕切り直すように、改めて私の方を見ながら、幽々子様が言った。
「支度が出来ているのなら、そろそろ行きましょうか」
「そう、ですね」
詰まってしまった言葉を誤魔化すように、幽々子様から顔を背けて外を見やる。
既に太陽は西の山裾にその身を降ろしている。空は朱から紫へ。顕界では、蝉達がその活動の場を夜の虫達へ譲ろうとしているところだろうか。
確かに、いい頃合だと言える。今から発てば、そう急がずとも時間には間に合うだろうし、準備の事なども考えれば、早めに出ておくに越した事はない。
解っている。解ってはいるのだけれど。
「妖夢」
と。
不意に、声を掛けられた。
どこまでも優しい、柔らかな声。全てを見透かしているかのような、澄んだ声。
応えるべきか、振り返るべきか。だがそれらの結論が出る前に、そっと、肩越しに白い手が伸びてきた。同時に背に受けた、僅かな重み。全身を包む、春の午後の日溜りのような、暖かな匂い。
「妖夢」
再度、幽々子様が私の名前を呼んだ。
「大丈夫」
大丈夫。
それだけ。たったの一言。音にしてみれば、僅かに五つ。でも耳元で、囁くように紡がれたその言葉は、どこか揺らいでいた私の心の奥底にすとんと落ちて、そして広がっていく。
大丈夫。
声には出さず、繰り返す。
確かめるように、ゆっくりと。
「幽々子、さま」
知らず、声が出る。けれど、重ね合わせようとした手は虚しく空を切り、気付けばつい先程まで全身を包み込んでいた暖かな匂いも、蜉蝣のように消えてしまっていた。
今度こそ振り返ってみれば、何時の間に移動したのだろうか、幽々子様は部屋の入り口、開けたままになっていた襖に手を掛けて、こちらに背を向けていた。
「ほら、行くわよ」
振り向きもせずにそれだけを言うと、幽々子様の姿は襖の向こうへと消えてしまった。
少しだけ早口になったその声が、どこか少し上ずっているように聞こえたのは、ひょっとすると照れていたのだろうか。
「――大丈夫」
もう一度だけ小さく呟いて、私は立ち上がる。
「幽々子さま、待ってくださいよー」
「貴方がいつまでものんびりしているからでしょうに。そもそも妖夢には足りないものが多すぎるのよ。速さとか、速さとか、あと速さとか」
「いや、そんなに速さだけ身についても」
「早さとか」
「字面だけ変えてどうするんですか。というかそれで私にどうしろというんですか」
「ちょっぱやね」
「幽々子様、死語って知ってます?」
「妖夢、ここは冥界よ」
言葉の幽霊とか、見た事が無いです。
本当に、普段から何を考えていればこのようになるのか、甚だ検討が付かない。
「中々似合っているじゃない、それ」
でも、言われっぱなしなのは、やっぱり悔しいもので。
だから、私の頭、いつものリボンの代わりに付けられた、少し伸びた前髪を纏める小さな花の髪飾りを見て、そんな事を言った幽々子様に何か言い返してみたくなるのも、まぁ、道理だろう。
「当然です」
「あら、あらあら」
意外そうな顔をした後、またいつもの鈴を転がすような声で幽々子様が笑う。思惑通りといった所だろうか。
いよいよ外は宵闇が広がっていて、まだいくらか先まで見通せるにも関わらず、不意に伸ばした自分の手の先が見えなくなるような、不思議な感覚に囚われる。
確かにのんびりしすぎていたようで、こうなってしまっては少し急がなければ間に合わなくなってくる。
「それじゃぁ、行きましょうか」
後から出てきた幽々子様が、からころと下駄を鳴らした。
普段は移動の際もふわふわと漂うようにしているのだが、これもまた、幽々子様の言う所の風情というものなのだろう。
さて、ここから目的の場所までは、いくらか時間が掛かる。
その間に、一つ、話をしよう。
私達が今日、これから出向く事になった、その理由。
心優しい彼女との出逢いと、そして、別れの話を。
2
ボロい。
それが私の第一印象であり、全てだった。
言い換えるのならば、廃れているとか寂れているとか、小汚いとか貧乏臭いとか色々あるのだろうけれど。片仮名二文字と平仮名一文字、総計十一角からなるその言葉以上に、シンプルかつ的確な言葉を私は知らない。こんな事を幽々子様に言おうものなら「妖夢には語彙の語の字の言偏すらもないのねぇ」などとこけ落とされるのは自明の理。いや、それで済めばまだマシだと言える。
でもたとえ幽々子様といえど、今の私と同じ状況下に置かれれば、きっと同調してくれるに違いない。
なんというか、ここまでくると、逆にボロいという三文字以外の言葉を当て嵌めるのが失礼にさえ思えてくる。
傾いた柱。所々剥がれている壁と天井。奥の間との仕切りとなっていたはずの障子は穴だらけで、その役割の半分も果たせていそうになかった。
里の中心からそう離れた場所でもないというのに、前の通りには全くと言っていいほど人影がなく、たまに誰かが歩いてきても、まるで避けるかのように足早に過ぎてしまう。見た感じ、およそ人が住んでいるとは思えない、今にも崩れ落ちそうな、どこか薄気味悪さを漂わせるこのボロ家。人々が避けようとするのも無理のない話だろう。私だって、こんな所に誰かが住んでいるとは思っていなかった。いなかったという事は、つまり、
「妖夢さん妖夢さん魂魄妖夢さん!」
「一度呼べば解りますから」
「そうは言いましても、もしかしたら私が目を離したその隙に、妖夢さんが玉手箱を開けてしまったのかもしれないと思うとですね」
玉手箱があるのか、この家には。
ともあれ、ボロ家には確かに人が住んでいた。櫛枝葉月という名の少女が、一人で。その葉月が言うには、このボロ家は一般の民家ではなく、家の半分は店舗として門戸を開いているらしく、今私達が居るのが、その店舗部分。とは言っても、商品と呼べるような物は何も無く、あるのは脚の折れた椅子だった物と、辛うじて原型を留めている木箱と、無惨に散ったそれらの破片だけ。何の店であったかなど、解れと言う方が無理だろう。
「それで、何を出してくれるのですか?」
「あぁ、そうでしたそうでした。危うく忘れるところでした」
「自分から言い出しておいて、忘れるもなにも……」
「大丈夫です、これでも私は記憶力には自信がありますから。昨日の晩ご飯に何を食べたかなんて事くらいは、すぐに言えますよ?」
「それはまた、優れた記憶力をお持ちのようで」
「いえいえ。ところで、貴方はどちら様でしたっけ?」
「私が忘れられた!」
私は昨日の晩ご飯以下だったのか。
などと軽妙な会話を繰り広げてはいるが、実際のところ私が彼女、葉月と出会ったのは、つい先程の事だったりする。
なんてことはない、野暮用で里を訪れた際に、一人困っている所を助けた――と、有り体に言ってしまうとそういう事だ。私としては、別に特別な事をしたという意識はなかったのだけれど、葉月がどうしてもお礼がしたいと言うので、こうして彼女の家を兼ねた店に連れてこられたという訳だ。
中々にお喋りな性格らしく、ここに来るまでの道すがら、彼女の口が閉じる事はなかった。往往にして今のように話がどこかへ飛躍するのだが、基本的には礼儀もしっかりとしているようだし、まぁ、それも彼女なりの言葉遊びの一つなのだろう。そう思えばこそ、どうして里の人達は困っている彼女に対して、見て見ぬ振りをしていたのか、それが解らないのだけれど。
「それでですね、妖夢さん」
「何事もなかったかのように話を進めないでくださいよ」
「見ての通り、私の家は祖父の代から続く団子屋なのです」
人の話を全く聞かない娘だった。
疲れるなぁ、もう。
「あぁ、でも、このボロ家のどこをどう見たらその答えに辿り着けるのかが、私にはさっぱり解りませんが、なるほど団子屋でしたか」
「失敬な。以前は団子と言えば櫛枝と言われていたほどでですね……」
「でも今はもう潰れてしまった、と」
「潰れてなどいません!」
一転して声を張り上げた葉月に、思わず身が怯む。
確かに今のは失言だった。祖父の代から、今は一人、その辺りの事を考えれば、およその事情というものも汲み取れたはずなのに。
「すみません……今のは私が軽率すぎました」
「……」
俯いたまま、黙り込む葉月。
怒ってしまったのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。
怒りよりも、哀しみに染まった目。ここではない、どこかを。今ではない、いつかを見ているような、虚ろな瞳。
何をするでもなく、縁側で一人の時を過ごしている幽々子様が、時折今の葉月と同じ顔をしているのを思い出して、私も何も言えなくなってしまう。
私が近付いた事に気付くと、幽々子様は決まってばつが悪そうに微笑んでいた。だから私はその時の幽々子様が何を想い、何を見ていたのかを知らない。考えてみても、解らない。
葉月を目の前にしてもそれは同じで、お互いに黙々としたまま、時間だけが過ぎていく。
と、
「……確かに」
顔を俯かせたままではあったが、呟くような声で、葉月が言った。
「父と母は、私が幼い頃に病気で死んでしまいました。この店を立ち上げた祖父も、もういません」
ひとりぼっちなんですよ。
そう言って顔を上げた葉月もまた、幽々子様と同じように、ばつが悪そうに、目尻に涙を浮かべて、笑っていた。
「子供の私一人ではどうする事も出来ず、店もご覧の有様です。そう言われてしまうのも無理はないのかもしれません。でも――まだ私はいます。私が、います」
それは誰かに向けた言葉というよりも、むしろ自分に言い聞かせるような。
こんな時――。
こんな時は、どうすればいいのだろうか。
幽々子様ならば、きっとこんな場合でも戸惑うこともなく、最良の選択をするのだろうけれど、残念ながら私にはその選択肢すら浮かんでこない。
結果、黙って見守る事しか出来なくなる。いや、それだけで何を守れるというのか。私に出来る事など、ただ黙って立っているだけ。それだけなのだ。
「すみません、変な話をしてしまいましたね」
「あ、いや……」
「まぁそんな訳で、団子屋『櫛枝』はまだまだ営業中なのです。どうですか? 妖夢さんもお一つ。味は保障しますよ」
この話はもう終わりだと言わんばかりに、葉月が言う。
この辺りの切り替えは見事なもので、彼女の浮かべる笑みは、先程までの蔭りなどを一切感じさせない綺麗なものだった。屈託のない、向日葵が咲いたような、という言葉は些かありきたりかもしれないが、そんな言葉が本当に似合うような笑顔。釣られて、私の方も知らず頬が緩んでしまう。
「そういう事でしたら、一つ頂きましょう。お幾らで?」
「あぁいえ、お代は構いませんよ。元々お礼という事でお出ししようとしていた物ですし」
わたわたと胸の前で両手を振って、葉月は照れたような笑いを浮かべてみせた。
本当によく笑う子だなぁ。
幽々子様が見たら、きっと「かぁーわぁーいーいー」とか言いながら目を輝かせるに違いない。自分がどちらかと言えばそういう事が苦手な所為か、余計に眩しく見えてしまう。
「さぁ、どうぞどうぞ」
と、葉月は言うのだが、肝心の物がどこにも見あたらない。はて、思い返せば先程葉月が奥から出てきた時も手ぶらだったような気がするし、周りを見れども、皿の一つさえ確認出来ない。これはなんだろう、私は試されているのだろうか。
「すみません……私には何も見えないのですが……」
「え?」
そんな、満面の笑みのまま疑問符を浮かべられても。
「ですから、その団子は何処に……」
「…………?」
「……団子」
困り顔の私と、疑問符を飛ばし続ける葉月。
周りから見れば、何をしているのかと思われかねない状況だが、当事者である私だって、何をしているのかさっぱり解らない。
一体どれほどの時間をそうしていたのだろうか。いい加減嫌な汗が浮かんできた頃、部屋の中を埋め尽くさんばかりの勢いで疑問符を生み出していた葉月の頭から、遂に感嘆符が生えてきたのだ。
「あぁっ!?」
でもやっぱり疑問符も一緒に出てしまったらしい。一体その頭はどうなっているんだ。
ともあれ、これでようやく私の目が間違っていなかったという事が証明されたのだけれど、自分の間違いに気付いた葉月の方はと言えば、最初に出てきた時と同じように、慌ててまた奥へと引っ込んでしまった。
「妖夢さん妖夢さんこんにゃく妖夢さん!」
「一度呼べば解る上に間違ってますから」
「そうは言いましても、もしかしたら私が目を離したその隙に、そちら側の妖夢さんがこんにゃくになってしまったかもしれないと思うとですね」
葉月の指差す先には、私の半霊がふよふよと漂っている。
そうか、こいつはこんにゃくになるのか。
……非常食?
「それで、今度は大丈夫なのですか?」
「お任せください。思えば、先程は妖夢さんが玉手箱を開けてしまってやいないかと、それが心配になって出てきただけでした」
あぁ……やっぱりあるんだ、玉手箱。
「そんな訳で、お待たせしました。これがかの有名な櫛枝の団子! ……のような物です」
「ちょっと待って」
「なんですか、ここまできてやっぱり玉手箱を開けさせろと言うのですか? いけませんよ駄目ですよ、あれには私の夢と希望と将来の可能性が詰まっているのですから。いくら妖夢さんといえど、そう易々と開けてもらっては困るというものです」
「いや、玉手箱じゃなくて……って、それってどんな玉手箱ですか」
「開けると主に背が伸びます」
なんとも幼気な玉手箱だった。
「別に私はそんなに身長に困ってはいないのですが……」
「なんと! 妖夢さんは今のままで構わないというのですか!?」
「別段、不便に感じた事もありませんから」
というか、自分より小さい相手にそんな風に言われると、少し傷つくなぁ。
「うーん、一般大衆よりも一部の特化した少数に狙いを定めるとは、妖夢さんも中々に特殊ですね」
「何が!?」
「横文字で言うと、マニアックですね」
「いや、私はちゃんと育つから! 伸びるから!」
「大丈夫です。いつの世でも特殊な嗜好を持つ方というのはいらっしゃいますから。私には理解できかねますが、きっと妖夢さんにも需要というものはあるのでしょう」
「ですから……」
「よ、このロリコン」
「私が!?」
疲れる会話だった。
幽々子様との日々の会話の中で、こういった事に対してはかなり鍛えられていると思っていたのだけれど、どうやら世の中にはまだまだ強者がいるらしい。
あぁでも、幽々子様は亡霊だから変わらないとしても、霊夢も魔理沙も最初に会った頃に比べたら、幾分か背が伸びていたような気も……。
私はと言えば、この四年間で一分たりとも伸びた覚えがない。
……大丈夫だよね……?
「どうかされましたか、妖夢さん」
「いえ、少し将来に不安を……」
「なるほど、悩める乙女という訳ですね。かっこいいですっ」
どうやら褒めてくれているようだったが、生憎と私が受けた傷は思いの外深かったようだ。
本当にこのままだったらどうしよう。
幽々子様とまではいかずとも、せめて霊夢……いや、藍、そう、藍くらいには――
「奇跡は起こらないから奇跡、と言うそうですね」
「なにその! 私口に出してました? 出してしまってました!?」
「まぁまぁ妖夢さん。そんなに気にせずとも、小さな胸が好きな人だっていますよ」
「胸!? 違うよ! 背だよ! 身長だよ! 胸じゃないよ!」
「なるほど、胸はそのままで構わない、と」
「くっ……!」
もう泣いていいかな。七二回くらい。
「蒼い鳥なんていませんよ」
「うるさいだまれ」
結局。
一方的にのされていてはどうにもならないと反撃を試みたものの、それもまた見事に返り討ちに遭い、深く心に傷を負った私は、復調するまでに半刻程の時間を要してしまった。
「そう気を落とさず、どうです? 一つ、櫛枝特製の団子でも」
「あぁ……そういえばそんな話でしたね」
辛うじて原型を留めている椅子に崩れ落ちるように座ると、どこに持っていたのだろうか、机代わりにされた木箱の上に、葉月が小さな小皿を差し出した。
一見の限りでは、特になんの変哲もない、串にささった三つの緑色をした団子。
「なるほど、草団子――蓬ですか?」
「いえ、これは春の内に採取した七草で……」
「ほう……珍しいですね」
食べ物に釣られて気を取り直すというのは、どうにも個人的にいただけないのだけれど。
それでもまぁ、沈んでいるよりかはずっとマシだろうし、話の流れを変える切欠としては、この上なく解りやすい。
もうこれ以上は脱線しまいと、湯飲みに注がれるお茶の音を聞きながら、小皿の上の串へと手を伸ばす。
先程まで騒ぎ立てていたのが嘘のような静けさ。表の通りには相変わらず人の影が見受けられないが、それが返って涼しさを感じさせてくれる。こういうのを風情と言うのだろうか。
「いただきます」
軽く一礼して、一口。
「…………」
……うわぁ。
なんだろう、この口の中に広がるなんとも言えないものは。
春の七草なんて、精々粥に入れて食べた事くらいしかないけれど、少なくともこんな味ではなかったような気がする。
「どうでしょう? 七草でそれぞれ作ろうと思ったら芹が見つからなかったので、代わりに見つけたよく似た物を入れてみたのですが」
「死ぬよ!」
それは毒芹です。
「むぅ、新機軸を狙ってみたのですが、ダメでしたか」
「ちゃんと調べてから使ってくださいよ……」
「ではこちらなどどうでしょう? 草団子などと言って、葉ばかりを材料とするのはどうかと思い発案した一品、鈴蘭の花の団子です」
「なんでそんな毒物ばっかりなんですか」
「妖夢さん、好き嫌いをしていては大きくなりませんよ。胸とか」
「食べたらそれこそ大きくなれなくなるよ!」
「ならば、逆転の発想により生まれた一品、団子の素となる粉をまぶした――きな粉です」
「もはや団子ですらないですよね!?」
どうしてこの店が今のような状態になったのかが、なんとなく解ったような気がする。
うん、これじゃあ誰も買おうとは思わないだろうなぁ。
「いやいや妖夢さん」
「よもやその言葉を幽々子さま以外の口から聞く日が来るとは思いもしませんでしたが、なんでしょうか」
「いつまでも型にはまった考えに囚われていてはいけないのです。そう、動き続ける世界、変わりゆく社会、日進月歩していくそれらから取り残されない為にも、常に新しい試みというものは必要だと思う訳なのですよ」
「して、その心は?」
「今度行われる里の祭は、もう勝ったも同然です」
「確かに、話題は持ちきりでしょうね」
大量毒殺事件の現場として、だけど。
本当に、この娘は店を再建させるとか、そういった事は考えているのだろうか。いや、考えてはいるのだろうけれど……。なんだかこう、意志と行動の歯車が噛み合ってないというか、双方ともにそもそも歯が無いというか。あぁ、なるほど、だから里の人達も――。
そんな私の心の内など知らずに、葉月は「そうでしょう、そうでしょう」と得意気に腰に手を当てて切ない胸を張っていた。
……さっきの玉手箱って、開けたら胸も大きくなるのだろうか。
いや、別に気にしてないですよ?
ともあれ、このまま放置していては、里が謎の集団中毒死で滅びかねない。私とて、冥界の住人とはいえ、この里には大層世話になっているし、何より事を知ってしまった以上、私のすべき事はただの一つ――なのだろう。
どちらにせよ、私には選択肢を選べるほどの立ち回りなど、出来るはずもないのだから。
3
「それで、私に作り方を教えろ、と?」
晩の飯時もとうに過ぎた頃。青白い光を纏って庭先を飛び回る、羽虫達の幽霊を縁側から眺めながら、気怠げに、さもつまらなさそうな声で、幽々子様はそう言った。何が原因なのか、いつもの明るさは形を潜め、月明かりの中に浮かぶ愁いを帯びたその顔は、どこまでも白く、改めてその身が生きているそれではない事を伺わせる。
「そんなの、妖夢が教えてあげればいいじゃない」
「いや、解っていたのなら、その場で教えていますよ。……そもそも、私が菓子の事など右も左も解らないという事は、幽々子さまもご存じでしょう?」
今ひとつ興が乗らないのか、ふぅん、と気の抜けた返事を一つ。次いでくぁ、と一際大きな欠伸を漏らしたかと思うと、それきり黙り込んでしまった。
どうやら単に眠かっただけらしい。あんたは子供か。
「何か言った?」
「いいえ、何も」
もしくはもう年か。
「幽々子さま、何も言ってませんから。無言のまま死蝶を出さないでください」
あれから。
一つくらいはまともな物もあるだろう、という希望的観測の下に葉月の一人団子祭に付き合っていたのだが、出てくる物はどれもこれもこちらの予想の遥か斜め上を突き破る勢いで、残念ながら私の希望が叶う事は一度たりともなかった。恐らく、幽々子様が一時期毒草の類に嵌っていなければ、今頃私は立派な一つの霊魂となっていただろう。
そんな紆余曲折を経て、これはどうにかせねばなるまい、という結論に辿り着いた、のだが。まぁ、そこもまたある意味予想通りと言うか、なんというか。「普通の物はないのか」という私の申し出に対し、返ってきた葉月の言葉はといえば、
「その質問に答えるには、まず何をもって普通とするのか、という所から話さなければいけませんね」
とても解りやすい誤魔化しだった。
なんだかんだと言っても、やはりまだ子供という事なのだろうか。
「そもそも団子というのは、奈良時代に遣唐使が唐朝より持ち帰った八種類の――」
「無いのですか」
「胡麻を混ぜた黒や白の丸形を碁とみたて、団子と改め呼ぶようになり――」
「無いんですね」
「失敬な」
当然、そんな子供騙しのような手が私に通用するはずもなく。葉月の方もこれ以上は無駄だと悟ったのか、頬を膨らませて黙ってしまった。どうやら今度こそ怒ってしまったらしい。
確かに、ここまでの葉月を見る限り、いきなり普通の物を作れと言ったところで、はいと答える事はしないだろう。でも、果たして普通の団子一つ作る事が、そんなにも嫌なものなのだろうか。
「櫛枝の団子に、普通などという言葉はないのですっ」
怒った素振りを隠しもせずに、葉月が言った。
「祖父が作る団子は、それはそれは美味しい物でした。店は連日客足が途絶える事はなく、祖父の団子を食べた人は皆幸せそうに頬を緩ませていました」
「へぇ……」
なるほど、ようやく合点がいった。
つまりは、葉月もまた『私と同じ』という訳だ。
そう思うと、途端に葉月の事が身近に思えてくる。どころか、私はこの葉月という少女に対する見方を、少々変えなくてはいけないのかもしれない。
私も毎日の鍛錬を怠った事は無いが、それは結局のところ、現状を維持するためのものであり、現状を引き延ばすためのものでしかない。葉月のように、現状を打破しようと思った事など、果たしてこれまでにたったの一度でもあっただろうか。
確かに、私は現状にこれといって不満を感じている事もないし、与えられた役目や今の生活には、特に異を唱えるような事もない。言ってしまえば、現状を変える必要性というものが無いのだが、それはそれとして、大切なのは心の持ちよう、意気込みなのだ。
「すみません、どうやら私の方が勘違いをしていたようです。葉月の想いを考えもせずに、勝手な事ばかり言ってしまいました」
「いえ、解っていただければいいのです」
そう言う葉月の顔は、どこか清々しく。これも印象の差というものなのだろうか。
「つまり、葉月はそのお爺さんの作った物とは違う手で、それを超えたい、と」
「いえ、ただ単に祖父の作っていた団子の作り方が解らないだけです」
「…………」
なんだろう。もう帰っていかな、私。
葉月の方を見てみれば、そこにあるのは先程と同じ、清々しいまでの笑顔。何故だろう、先程と同じであるはずなのに、受ける印象が正反対になった気がする。
つまるところ、何も考えていないのですね。
「いやもう、なんと言うべきか。ここまでくると逆に感心してしまいますね」
「そんなに褒められると……葉月、照れちゃう」
「褒めてない上にキャラ変わってますから」
とはいえ、どうしたものか。
葉月の祖父が作っていたという団子が相当の物だったという事は、話の端々からも伺える。となると、やはり普通の団子という訳にはいかないのだろう。かと言って、その祖父が作っていたという団子が一体どのようなものだったのか、私には皆目見当が付つかない。
度々里に買い物に出向いていた所為か、すっかりと里の人々には私が炊事の役割も担っていると思われている節があるのだが、私は単なる買い出し役に過ぎない。帯刀している所から、刃物の扱いに長けているとも思われているのかもしれないが、炊事は炊事で、それを専門とする幽霊が毎日頑張ってくれている訳で。私も全く料理に手を出さない訳ではないが、そのような事から必然的に包丁を握る回数も減ってしまうのだ。
結果、私の料理の腕前というものは、至って平均、並でしかない。
そのような私が、団子の、それも誰をも幸せに出来るほどの物の作り方を、ましてやその材料となる物を、知る訳がないのだ。
「別に、私は祖父を超えたいとか、そんな事は思っていません。むしろ、祖父の作ったあの団子をもう一度食べられるのであれば、そしてこの団子屋『櫛枝』にまた皆さんが来てくれるのならば、それが一番です」
「その割には、殺人団子ばかり作っていたのですね……」
あれ。
なんだろう。今、何かが頭の中を過ぎっていった気がするのだけれど……。
「……あ、」
「遂に自殺の方法が決まりましたか?」
「いつの間にそんな話に!?」
「いえ、妖夢さんの顔を見ていると、不意に先程の事を思い出しまして」
「私がいつ自殺の話をしたというのか!」
あー。
駄目だ。
恐らく葉月の事で思うところがあったのだろうけれど、それが彼女の何に対する事なのか。何故そう思ったのか。今ので完全に頭の中から出て行ってしまったらしく、思い出そうとしたところで、果たして何を思い出せばいいのか、それすらもが解らない。
「……あ、」
「やはりここは切腹ですか」
「いや、その話はもういいから……」
本当に。ここまでくると、わざとやっているのではないかと思ってしまう。
「ふむ、では一応聞いてあげましょう」
「なんでそんな偉そうに……」
いや待て、待つんだ妖夢。ここで言い返していたら、また話が明後日どころか一ヶ月後辺りにまで飛んでいってしまう。我慢。そう、ここは我慢だ妖夢。
「えぇと、ですね。幽々子様――あぁ、私が仕えているお屋敷のお嬢様なのですが、菓子作り、特に和菓子の方面は色々と手広くやっていまいて」
「……ほう」
「もしかしたら、葉月のお爺さんが作っていた団子というのも、解るかもしれませんよ?」
「なるほど……幽々子……西行寺、ですか」
「あぁ、知っていたのですか」
「えぇまぁ、有名な方ですから……」
何があったのか、途端に覇気を失ってしまった葉月が、消え入りそうな声で呟き、俯いてしまった。
まぁ、解らなくもないのだけれど。
西行寺幽々子。
その名前を知っているのならば、その実態を知っているのならば、大多数の人はあまり関わりを持ちたくないというのが、実際のところなのだろう。この葉月もまた、その大多数の中の一人という訳だ。
その辺りの事は私も承知しているし、今では納得もしている。
今では、と言う通り、初めて顕界へと使いに出された頃は、それこそ幽々子様への侮辱と取ってしまい、刀を突きつけたりもしていたものだけれど。
しかし、このような所にまでその名が知られているとは思わなかったが、思い返してみれば、先日御阿礼の子が公開したという幻想郷縁起。あの中に幽々子様の事も書かれていたのだから、知っていても不思議ではない、という事か。……幻想郷縁起と言えば、何故か私の事まで書かれていたのだが。まぁそれは今は置いておこう。
とりあえず、今は目の前の葉月に幽々子様の安全性を説明しなければ。
「大丈夫。色々言われているかもしれませんが、別にそんなに恐い人でもありませんから」
「……」
「それに、今回の事であれば、私が作り方を聞いてきて、それを葉月に教えればいい訳ですし。直接会わなくても済みますよ」
「……どうして」
「はい?」
「どうして、そこまでしてくれるのですか……?」
「…………」
どうして、か。
改めて言われてみれば、自分でもどうしてここまでしているのかと思わなくもない。
顕界にあまり関わるなという事は、幽々子様にも、そしてあの閻魔様にも言われている。
節度というものから考えれば、今回の事は多分に過ぎていると言ってもいいだろう。
でも、それは、たぶん、
「私も……葉月と同じ、ですから」
きっと、そういう事なのだろう。
その答えは果たして正しく、そして同時に間違ってもいたのだけれど。
4
「――だ、か」
不意に幽々子様が何かを呟いたのだが、手持ち無沙汰になって、羽虫の幽霊の一匹を目で追っていた私には、それを聞き取る事が出来なかった。
「何か言いました?」
「いいえ、何も」
「……むぅ」
先程までの気怠さもどこへやら。妙にしっかりとした口調で言い返してきた幽々子様が、一人でくすくすと笑っている。もしかしなくても、それは私の真似ですか。
何も言ってないのに……。
「でも、本当に不思議なものね。不思議で、そして面白い。巡り巡って一廻り、という訳ね。ここまでくると、裏で誰かに糸を引かれているのではないかと疑ってしまうわ」
「はい?」
「と、言う訳で」
一頻り笑って気が済んだのか、ぽんと膝を叩いて幽々子様が立ち上がった。
「今日はもう寝るわ。妖夢、貴方も休みなさい。明日もまた行くのでしょう? その――」
「葉月、です」
「そう、葉月の所へ」
それを最後に、お休み、と言い残して幽々子様は自室へと戻っていってしまった。
その姿が廊下の角に消えていくのを見届けてから、少し、考えてみる。
先の言葉は、果たして何に対するものだったのだろうか。話の流れからしてみれば、恐らくは葉月の事なのだろうけれど。あまりにも的を外しているというか、話している場所が違うというか……。幽々子様に限って言えば、そんな事は日常茶飯事なのだから、そこまで気にする必要も無いと言えば無いのだろうけれど。
でも、言い方から察するに、もしかすると幽々子様は葉月の事を知っているのではないのだろうか? もしくは、私が一度葉月と会った事がある? 巡り巡って一廻り、つまりは過去に何かしらの関係があったと、そう思えなくもない。しかし、博麗神社で催される宴会に出向くようになるまでは、幽々子様も私も、顕界に出た事など、それこそ皆無と言っても過言ではなかったように思える。
「とは言っても」
考えてみたところで、全ては仮定、憶測に過ぎない。もしそれらが正しかったとしても、だからどうしたという結論にしかならないのだ。
迷った時は、行動する。
考えるのは私の仕事ではないし、立ち止まるのも私の性分ではない。私に出来る事は、いつの時もただの一つ。目の前に続く道を、信じて進むだけ。
さしずめ、今やるべきは――
「休む前に庭の見回り、か」
確認するように声に出して、庭先へと目を向ける。
月明かりに誘われて飛び去ってしまったのか、青白い光を纏って飛び回っていた羽虫達の姿は、そこにはもう残っていなかった。
「あ……結局作り方教えてもらってない……」
5
「ゆーゆーこーさーまー」
翌日。
出かける前に、なんとかして話を聞かせてもらおうと、朝からずっとその姿を探しているのだけれど、中々どうして、こういう時に限って見つからないのは何故なのか。
無駄に広い屋敷の中、行き違う事もあるかもしれないが、それでももう三度ほど回っているのだ。なのに、見つからないどころか返事すら無いという事は、知らない間に外に出てしまわれた可能性も否めない。
「それならそれで、一言くらい声を掛けていっても……」
と、
「あら、別に嫌がらせだとか、そういうのじゃないのよ?」
「幽々子さま?」
声が聞こえた方へと振り返ってみるが、そこに幽々子様の姿はなく、ただ壁があるだけ。
はて、空耳だったか。
そう思った、その時だった。
「うわぁ!?」
突然、声の聞こえた壁から、手が出てきたのだ。
ぬるり――そんな、本来であれば聞こえるはずのない音を纏って、それは殊更ゆっくりと、壁から『生えて』きた。
それはまるで、墓穴から這い出てきた亡者のように――。
「失礼ね。人をゾンビみたいに」
「――って、幽々子さまじゃないですか。何をしているんですか、何を」
「見れば解るでしょう? 壁抜けよ。壁抜け。昨日ようやく出来るようになったの」
「はぁ……」
何をやっているんだ、この人は。
「あら妖夢、面白くなさそうな顔ね」
「というか、今まで抜けられなかった事の方が驚きです」
「亡霊は幽霊とは違うもの。たとえ自分が亡霊だと解っていても、やっぱり難しいものなのよ。いえ、亡霊だと思うからこそ、難しいのかしらね」
……口を挟むべきではなかったか。
何か新しい事に手を付けると、いつもこれだ。喋らずにはいられない、子供のような一面、と言えば聞こえは良いが、延々と話を聞かされるこちらの身にもなっていただきたい。
「逆もまた然り。薄くするのは難しくても、濃くするのは案外簡単なのよ。まぁそれでも、私ほどにもなれば、こう、亡霊としての格が違うとでも言うのかしら? 妖夢には解らないかもしれないけれど、この壁抜けはただの壁抜けじゃないのよ? 何故かと言うと……」
「さいですか」
「……つれないわねぇ? 幽々子、泣いちゃう」
落胆したように、幽々子様が言う。そんな事で落胆されても、正直なところ、本当にどうでもいいと思ってしまったのだから仕方がない。
幽々子様はよほど堪えたのか、それとも演技か、よよよ、と些か大袈裟に品を作って、再び壁の中へと埋まっていってしまった。うん、まず間違いなく後者だろう。
一体何がしたかったのだろうか、あの人は。
「あれ?」
その、幽々子様が埋まっていった壁の下。先程までは無かったであろう、折り畳まれた小さな紙片を見つけて、拾ってみる。
「これは……」
丁寧に開いてみれば、そこには『ゆゆこ印の特製茶団子』などという表題の下に、材料や手順が事細かに書かれていた。可愛らしい挿絵付きで。
「…………」
ほんと、なんで普通に行動できないかなぁ……?
それは兎も角として、これでようやく葉月の所へと行ける。この紙に書かれている物が、果たして葉月の祖父が作っていた物なのかどうかは解らないが……どちらにせよ、あの殺人団子をばら蒔かれるよりかは遥かにマシだろう。
6
「はぁ、なるほど……茶団子、ですか」
私から調理法の書いた紙を受け取って、ざっと目を通した葉月が一言。
今日も昨日と変わらず、店の前の通りにはほとんど人の姿はなく、閑散としている。里の中心に近いという事もあって、一応通りに面して家屋が並んでいるのだが、この店の隣近所、一帯のそれらからはおよそ人の気配がせず、生活の跡も見られない。
完全な孤立。
少しばかり度が過ぎていやしないかと思いもするが、それを葉月に聞くというのも、中々に躊躇われる。
葉月の方へと目を向けてみれば、両手でしかと持った紙を睨んだまま、暫く難しい顔をしていたかと思うと、持っていた紙を遠ざけたり、目と鼻の先まで近付けてみたり、右に回してみたり、左に回してみたり。終いには、紙は見事な紙風船へとその姿を変えていた。
「とりゃっ!」
威勢の良い掛け声一つ。同時に繰り出された葉月の蹴りが、見事に紙風船を捕らえた。その小さな体躯からは想像も付かない、しっかりと腰の入った、綺麗な姿勢での蹴りだった。
蹴られた紙風船はといえば、これもまた綺麗な放物線を描き、まるで吸い込まれるかのように、屑籠なのだろう籠の中へと一直線。
嗚呼……もう少し葉月と出逢うのが早ければ、以前流行ったサッカーの時に、きっと良い戦力になっただろうに、実に勿体ない。
――って、そうじゃなくて
一連の動作にすっかり見蕩れてしまった自分を改めるように、頭を振る。
「いきなり何をするんですか。折角幽々子さまが書いてくれたのに……」
「いえ、妖夢さんが触れていた物かと思うと、つい」
「酷い!?」
「大丈夫です。材料も手順も全て覚えましたから」
「そういう問題では……」
そこまで嫌われるような事をした覚えはないんだけどなぁ……。
――あ。
もしかすると、私ではなく、幽々子様が書いた物だから、なのか。昨日の反応からするとそちらの方が正しいような気がするが、果たしてただ亡霊だというだけで、そこまで嫌われるものなのだろうか。
でも、覚えたという事は、少なからず受け入れてくれたという事――なのだろう。
「それで、書かれていた団子という物は、お爺さんの作られていた物と同じそれだったのでしょうか?」
「実際に作ってみないと解りませんが……確率は高い、かもしれません」
ほう、と感心する私を置いて、葉月はどこか煮え切らない様子で、口元をまごつかせていた。どう言えばいいのか解らない、といった感じだ。
「葉月?」
「あー……いえ、なんでもありません。では行きましょうか」
「え……どこへですか」
「妖夢さん……」
葉月は私に対し、心底呆れたような顔を向けていた。
考えてみるが、やっぱり解らない。そもそも、行くとだけ言われて、それで解れという方が無理があるとは思わないのか。
「仕方がありません。頭が可哀想な妖夢さんの為に、説明してあげましょう」
「頭がは余計です……」
「ふむ、そうですか……。では言い直しましょう」
「別にわざわざ正さなくても構いませんが……」
「心が可哀想な妖夢さん」
「より酷くなった気がする!?」
「剣の腕が可哀想な妖夢さん」
「割と本気で傷つくよ!」
「胸が可哀想な妖夢さん」
「言うと思ったよ! というかいい加減忘れようよ、その話は!」
「生きているのが可哀想な妖夢さん」
「存在否定にまで!?」
「やっちゃった感がする辺り、本当に残念ですね」
「それはこっちの台詞だ!」
本当に、葉月と話していると物凄く体力を使う。
幽々子様の場合は、捕まえようとしても逃げていく蝶を追いかけるようなものだけれど、葉月の場合は真っ直ぐに飛んできた蜂が、そのまま体当たりをしてくるような、そんな感じ。
疲れる上に、痛い。主に私の心が。
「まぁ、妖夢さんが可哀想なのは後に回すとしてですね」
「置いておいてはくれないのですね……」
「先程の紙に書かれていた物ですが、ここには材料が無いのですよ」
「あぁ、なるほど。茶団子……でしたっけ? でも、茶葉の収穫は春先なのでは?」
今は七月。いよいよ夏も盛りを迎えようかという頃だ。
「それは普通に飲む為のお茶用に収穫する場合です。それでも春先に摘む物を一番茶、それ以降にも二番茶、三番茶として、数回にわたって収穫する場合がほとんどですが」
「へぇ……お茶の事も詳しいのですね」
「妖夢さんが浅学すぎるだけですよ」
とだけ言って、葉月はこちらに構う事もなく外へと出てしまった。
私もすぐにその後を追って、店を出る。暫く屋内にいた所為か、日差しが余計に眩しい。
空は今日も雲一つ無い、見事な快晴。じっとしていても汗が滲み出てくる顕界の夏の暑さは、冥界暮らしの自分にとっては少々辛いものがある。葉月の方を見れば、やはりそこは顕界の住人なのか、暑そうな素振りなど見せず、その顔には汗一つ浮いてはいなかった。
そうして、何かに使うのだろうか、折り畳んで尚両手で抱える程もある布を持った葉月についていく形で、私達は茶葉の採取へと向かう事になった。徒歩で。
「でも、勝手に摘み取ったりして、いいのでしょうか?」
「妖夢さんは本当に何も知らないのですねぇ……」
ほとほと呆れたような声で、前を向いたまま葉月が答えた。
実際知らなかったのだから仕方がないとはいえ、ここまで呆れられてばかりだと、どうにも自分が情けなくなってしまう。と同時に、また何か酷い言葉が飛んでくるのかもしれないと身構えてみたのだが、葉月は変わらず前を向いたまま、その足を止める事はしなかった。
「そもそも、茶団子には主に抹茶を使います。抹茶は甜茶を原料としますが、この甜茶という物は、他の一般的な茶とは少し違い、収穫の前に一作業しなければいけないのですよ。収穫した後の行程にも違いはあるのですが、まぁ今は置いておきましょう。ちなみに、今から向かう場所に生えているのは、野生の茶の木ですので、勝手も何も、私の自由です」
「なるほど」
感嘆する、という言葉は、正に今のような場合を言うのだろう。
話す内に、里を出て、道は小高い山の中へと入っていく。
緩やかな上り坂。直接日光に晒されていた里の道とは違い、木々が影を作ってくれている分、こちらの方が幾らか涼しかった。
それにしても。
本当に、何故この娘が、これほどの娘が、誰にも相手にされず、一人であのような生活を送らなければならないのか。確かに普段の言動には少々問題があるかもしれないが、慣れればそれも味のある会話になるだろう。疲れるけれど。
巡り巡って、一廻り。
不意に、幽々子様の言葉が脳裏に甦る。
あれはもしかすると、里の人達と葉月、ないしは葉月の両親、祖父の間にあった『何か』を差しているのかもしれない。それにしても、里の全員から関係を絶たれるような事など、果たしてあるのだろうか。
前を歩く葉月の背中は、店を出た時から何も変わらず。暑さも疲れも感じていないかのように、平然と山道を進んでいく。いくら暑さの所為で私の歩みが遅れ気味になっているとはいえ、余所見をすれば置いて行かれそうな程の健脚ぶり。本当に、大したものだと思う。
「あ……そういえば葉月、一つ気になっていたのですが」
「どうかしましたか?」
「ご両親が亡くなられてから、葉月はお爺さんと二人だったんですよね?」
「えぇ……まぁ、そうなりますね」
「その時に、お爺さんから団子の作り方等は教わらなかったのですか?」
そうだ。
昨日浮かんだ疑問。結局聞けず終いだったのは、その事なのだ。
葉月が一人っ子であれば、両親が亡くなった時点で店を継ぐのは葉月一人という事になる。
ならば、祖父が作り上げたという物は、必然的に葉月に伝えられていくのではないのだろうか。私がそうであったように――。
「普通は、そうでしょうね」
「と言うと?」
などと反射的に答えてから、すぐに私は自分の軽率さを後悔した。
家庭の事情など、他人がそう易々と踏み込んでいい場所ではない。見れば、葉月は顔を俯かせ、心なしかその肩が震えているようにも見える。昨日も同じような事をしてしまったというのに、自分は一体何をしているのか。
「気にしなくていいですよ」
と、私の胸の内を見透かしたかのように、葉月が言った。
俯いた顔を上げ、でもやっぱり振り返らないまま。
「父と母が亡くなった後は、中々どうして色々ありましたので。それどころではなかったというのが一番大きいでしょうか」
「…………」
同じだから、か。
どこまでも無責任な言葉だ。状況が同じであっても、環境まで同じなはずがないのに。
私だって、何もかもが順風満帆だった訳でもない。むしろ、どちらかと言えば恵まれていたのだろう。何よりも、私には幽々子様がいたのだから。
「――、と」
内側へと向いていた思考が、頭上から降り注ぐ陽光の眩しさに中断させられた。
両手で庇を作って周りを見渡すと、どうやらこの辺りだけ意図的に木が伐採されているのか、開けた場所になっているようだった。比較的傾斜も緩い場所らしく、周りを木々に囲まれた中に突如として現れた草原といった感じで。更に膝を超える草の合間に見える白百合の花が、中々に幻想的な雰囲気を感じさせる。
「あれ……?」
その白百合のすぐ近くに見えるのは、石、だろうか?
見てみると、草原の中、白百合の花がある場所からは、決まって大き目の石がその頭を覗かせていた。まるで――。
「あれ、全部お墓なんですよ」
「え?」
私の疑問を悟ったのか、いつの間にか立ち止まっていた葉月が、草原の中に点在するそれらを見て、呟くように言った。
「里の人達の共同墓地……ですか?」
「共同……そうですね。そう言えなくもないです。ただし――里に捨てられた人達の、ですけどね」
「へ……?」
捨てられた? どういう事だ?
次の言葉を待ってみても、葉月はじっと黙ったまま、立ち並ぶ墓標から目を逸らさない。
その顔は、どこか悲しそうで、どこか悔しそうで――こちらから声を掛ける事も、憚られてしまう。
「行きましょうか。茶の木があるのは、もうすぐですから……」
けれど、葉月がそれ以上何かを語る事はなく。再び私に背を向けると、一人先へと行ってしまった。
先程までと同じ、暑さも疲れも感じさせない、淀みない足取りで。
汗一つ、流す事なく。
7
「へぇ……お茶の木って、こんなのなんですねぇ」
「とはいえ、ここに生えている物は、完全に野生の物という訳でもありませんが」
「そうなのですか?」
「昔、祖父が栽培していた物が、そのまま放置されてこのように。私も久しぶりに来たのですが、まだ残っているようで何よりです」
なるほど、茶団子の可能性が高いというのは、その辺りからきていたのか。
などと思っていた私を余所に、葉月がずっと抱えていた布を広げ始めた。
布は、いざ広げてみると畳六枚分にもなろうかという程の物で、葉月が手際よくお茶の木の上へと被せるように乗せていく。聞いてみると、どうやらこれは被覆栽培というらしく、わざと日の光を当てないようにするための物らしい。そうして二十日程光を遮る事で、抹茶の前身となる甜茶に使える葉になるのだという。
「本来ならば、時期や被覆の仕方など、もっとしっかりとした方法でやらなければいけないのですが……まぁ、それなりにはなるでしょう」
「へぇ……」
さっきからそんな生返事しかしてないなぁ、私。
と、どうしたのか。布を広げる作業の途中で、葉月がその手を止めて顔を俯かせていた。
「葉月?」
「……妖夢さん、少し手伝ってもらえますか?」
「え? あぁ、もちろん構いませんよ」
「では、こちらの端をあちら側に、お願いします」
「解りました。被せて下で止めればいいんですね?」
「はい……しっかりと固定してください。飛ばないように……しっかりと」
葉月から布を受け取り、指定された場所へと向かう。しかし、実際に持ってみて解る、布の大きさ。どうにかして摺らないようにと気をつけてみたのだが、結果として引き摺るような形になってしまった。枝に引っかかっていたり、破れたりしていなかを確認して、木の根元にしゃがみ込む。止める――とは言っても、杭のような物も無い。根元の幹にでも結んでおけばいいのだろうか。
「妖夢……さん」
「あぁ、丁度良かった。止める場所ですが、下の幹に括り付けてもいいのでしょうか?」
「そうですね。しっかりと止めてください。こんな風に――」
「へ?」
気がつくと、首の周りにひんやりとした、少し色の白い手が添えられていた。
「葉月……?」
振り向くと、顔を俯かせた葉月の姿。逆光で影となっている為に、その表情までは読み取れないが、笑っている――ように見えた。
「妖夢さんは、本当に優しい人ですねぇ」
妙に間延びした、呟くようなその声。そのたった一言で、私の心は驚きを超え、恐怖を超え、一瞬の内に絶望へと染まっていく。
何が起こったのかも解らない。
何をされているのかも解らない。
ただ、見えない何かが、私の中を否応なく犯していく。犯し尽くしていく。
「はづ、き?」
「優しいです……殺したくなる、くらいっ……!」
「なっ――」
突然、葉月が私の首を締め上げたのだ。一瞬何が起こったのかが解らず、頭が混乱状態に陥った。葉月はその小さな体躯からは信じられないような力で私の首をを締め上げ、そしてそのまま持ち上げていく。まるで重さを感じさせない、人形のように。
なんとか振り解こうとしてみるが、葉月の両手は万力のようにがっちりと私の首を掴んだまま、びくともしない。ならばと足を振り上げようとしたところで、一気に体が宙吊りにされたかと思うと、勢いよく、後ろにあったのであろう大きな木の幹に叩きつけられた。
「っか……!」
背中に受けた衝撃で、肺の中の空気は全部外へと抜けてしまった。なおも葉月の手から力が抜けるような事はなく、もはや抵抗しようにも腕が上がらない。人外の如き力で締め上げる葉月の両手は、窒息するよりも先に、首を引きちぎってしまいそうだ。
ぼやけてきた視界の中で、どうにか葉月の方へと目を向ける。
葉月は。
櫛枝葉月は。
どこまでも、どこまでもその顔を歪めて、やはり……笑っていた。
「ぁ……ぅ…ぃ……」
「貴方のおかげで、無事に私は祖父の団子を継ぐ事が出来そうです。感謝していますよ」
歪んだ笑顔のまま、葉月が言う。
「でも妖夢さん。嗚呼、妖夢さん。貴方がいけないのですよ。貴方がそんな事だから――」
体中の感覚さえもが失われていく中で、何故だか葉月の発する声だけが、やたらと鮮明に聞こえてくる。そして、その言葉は言霊となって、無防備になった私の中を掻き回していくのだ。
明確な、意志を持って。
この上ない、殺意を持って。
そうだ、私は知っている。これが何かを知っている。櫛枝葉月が何かを私は知っている。
なるほど、そう考えれば全ての辻褄が合う。葉月が一人な理由も、幽々子様が言っていた事の意味も、全て……。
「…………」
でも、もう声も出ない。
声だけでなく、手足どころか、指先すらも動かせない。
意識も朦朧としている。
これが、死ぬという事。
半人半霊の私が死ぬと、どうなるのだろうか。
閻魔様ですら裁く事の出来ない私は、一体どこへ行くのだろうか。
ただ一つの心配事が、脳裏に描かれる。
「ゆ………ゅ……こ…………ぁ……」
「無様ねぇ、妖夢」
声が、聞こえた。
聞き慣れた、酷く耳に懐かしい、声が。
瞬間、万力の如き力で首を締め上げていた葉月の手から解法されたかと思うと、崩れ落ちる私を、後ろから伸びた手が抱き抱えるようにして支えたのだ。
「げほっ! がっ! ……っは!」
空気を求めて逆に噎せ返った私を支える、細くて白い、手。
見れば、片手で私を支え、もう片方の手で葉月の腕を掴み上げるその手は、正しく私の背後、木の幹から生えていたのだ。
こんな事が出来る人を、私は他に知らない。それはつまり、先程聞こえた声が空耳では無かったという事。
そして彼女は、西行寺幽々子は、私の背後の木の中から、ぬるり――と、聞こえるはずのない音を纏って、現れた。
薄い桜色の髪を揺らして。
蒼い着物の端を靡かせて。
「だから言ったじゃない。亡霊が己の存在を濃くする事は簡単だ――って。こんな娘っ子にだって出来るんだもの。尤も、意識してやっている訳でもなさそうだけれど」
いくらか落ち着きを取り戻したところで、幽々子様が言った。
存在を濃くする。それはつまり、己を希薄にする事によって壁を抜けるのとは、正反対。確かな質量、確かな力、存在そのものの、強化。
そう、突然現れた幽々子様に腕を捻り上げられ、呆然とした顔をしている、幽々子様の言うところの娘っ子、櫛枝葉月もまた――亡霊、だったのだ。
「――っ、離せっ!」
「言われなくとも」
我を取り戻した葉月の怒声に怯む事もなく、幽々子様が一息にその体を吹き飛ばす。吹き飛ばされた葉月は、受け身を取る事も出来ず、そのまま対面の木へと叩きつけられた。木が折れるほど――とまではいかなかったが、大きく揺れた枝から葉が落ちるほどの衝撃だった。
あまりにも圧倒的な、力の差。亡霊としての、格の違い。
「いつになるかしら。閻魔様から言われていたのよね。顕界の里にけったいな亡霊がいるから、どうにかしろ……って。普段は冥界から出るな、なんて言う癖に、ねぇ」
静かに、幽々子様が言う。
「私としては、里がどうなろうと別段どうでもよかったから、放っておいたのだけれど。貴方も残念ね。この子に手を出したりしなければ、見逃されていたのに……。とはいえ、それが解っていても手を出す辺り、所詮は怨霊といったところなのかしらね」
「どういう事ですか?」
問い掛けて、抱き抱えられた格好のまま振り返ってみるが、幽々子様は葉月の方へと視線を向けたまま。釣られて見てみれば、葉月は片膝を付いた格好で、怨めしげに、奥底から湧き出る負の感情を抑えようともせずに、こちらを睨んでいた。
8
昔の事――まだ私が生まれるより前の、そんな時代。幻想郷の里に、とある一家がいたという。生まれたばかりの娘と、その両親、そして娘の祖父が一人。どこにでもあるような、ごく普通の家庭だったらしい。
その家は団子屋を営んでいたのだが、それが中々に評判の店で、人々は毎日その店の団子を求めて訪れていた。人当たりの良い一家の人望は厚く、多くの人から慕われていたそうだ。
だが、一家の娘がもうじき十歳になろうかという頃、里の中でとある病が広がった。
のどかだった里が、一転して戦々恐々とした状態に陥るのは、すぐの事だった。
原因も解らず、どんな薬も効かない。
次々と病に倒れていく中、残された人々は、一つの決断をする事になる。
これ以上病に掛かる人が増えないように……そんな理由で、けれど尤もな理由で……病気に掛かった人達は、文字通り里から『捨てられた』のだという。
しかもそれは、病に掛かった人だけに留まらず、その家族にまで及んだ。
誰であろうと関係なく、恐いくらいに平等に。つい先日まで、里の皆から好意の目を向けられていた一家であろうと、例外ではなかった。
一家の中で最初に病に掛かったのは、娘の両親だったそうだ。
まだ幼かった娘は、愕然とした。
突然病に倒れた両親の事よりも、里の人々からの視線が、一昼夜にして逆転した事に、娘は驚きを隠せなかった。
あんなにも暖かく、優しかった人々が、どうしてここまで態度を変える事が出来るのかと、娘には不思議で仕方が無く、同時にどうしようもなく悲しかった。
そして、看病の甲斐も虚しく、両親は幼い娘を祖父に託して病の淵に倒れた。
それでも、まだ、結局と言うべきか、残された娘と祖父は、一度捨てられた一家は、里に戻る事は、出来なかった。
やがて祖父も病に掛かってしまい、残されたのはまだ幼い娘一人。
娘は必死に助けを求めたが、当然人々の反応は冷たかった。中には救いの手を差しのべてくれる人もいたのだが、それらも長くは続かなかった。
娘は絶望した。そして同時に、酷く人々を憎み、怨み、罵った。
何故、誰も助けてくれないのか。
皆、祖父の事が好きだったのではないのか、と。
祖父が亡くなっても、暫くして娘自身が病に倒れても、娘は最後のその瞬間まで、怨みの念を抱き続けていた。そしてその怨念は、死して尚消える事はなく。
「そうして、めでたく亡霊が一人、生まれたという訳よ」
迷惑な話よねぇ、と付け加えて、幽々子様は話を締め括った。
幽々子様の手から離れて、葉月を見る。彼女はまだ打ち付けれられた場所に片膝を付いたまま、こちらを睨み付けていた。
「葉月、どうして……」
「怨霊に向かって『どうして』だなんて問い掛けは無意味よ。まぁでも、この場合は少し特殊かしらね」
一歩を踏み出し、私の前に出た幽々子様が右手を葉月へと向けると、それに呼応するかのように、葉月の周りにおびただしい数の蝶が現れた。
死蝶――全てのモノを死に誘う、冥府の使い――
既に死んでいる亡霊の死、それは輪廻の輪からも外れ、無へと還る完全なる消滅に他ならない。
葉月もそれが解っているのか、それとも本能的なものなのか、死蝶によって作られた檻の中で、為す術もなく、それでも真っ直ぐにこちらを見ていた。
「彼女自身の怨みの念というものは、長い時間の中で大分薄らいでいたのではないかしら。相手が妖夢だったという事もあるにせよ、ね。勿論、怨む事によって自己を確立させていた訳だから、完全に無くなるなんて事はないのだけれど。時間なんていうものは、残酷以外の何物でもないわ。想いは色褪せ、風化し、そして劣化していく。現に、この幼い亡霊は、この数十年、誰一人としてその怨みの念を向けていない。誰も殺していない」
「え……?」
「百年程前だったかしらね。私が閻魔様から話を聞いたのは。当時はそれはもう、酷かったという話よ。ねぇ? 櫛枝の娘」
問われても。
葉月は、答えなかった。
「……まぁいいわ。妖夢、貴方もここに来るまでに見たでしょう? あの墓場を」
墓場。
山の中にぽっかりと開けた、白百合の咲き乱れる草原――あれらが全て墓だとするならば、一体どれほどの人が、過去の流行病で倒れたというのだろうか。
「突然の病、他の住人から受けた扱い。世を怨んで死んでいった者がいなかったと考える方が無理があるでしょう。そしてあの場所は、幸か不幸か、地形的に見ても絶好の溜まり場となっていた。個々の念は微弱でも、それらが集まれば立派な怨みとなるわ。そして今日、溜まりに溜まった怨念は、絶好の器を見つけた」
「…………」
「そういう事なのよ」
丁度話の終わりを待っていたかのように、一陣の風が吹いた。
幽々子様と葉月は、一瞬の隙をも見逃さないとでもように、互いの視線を交差させていた。
私に手を出したから――その言葉は何よりも嬉しかったのだけれど、それは、再び怨みの念に囚われてしまった葉月を、幽々子様がこれ以上見逃すような事はしないという事。
確かに、今の葉月を野放しにするような事は、絶対に避けなければいけないのだろう。
けれど。
だけど。
このままで、本当にいいのだろうか。
消滅への道しか、残されていないというのか。
ならばせめて――。
「さて、世間話はこれくらいにしておきましょうか」
静かな声で、幽々子様が言う。
「櫛枝葉月、貴方は少々この世界の理から外れすぎたわ」
最後の言葉を、粛々と。。
「これ以上の存在は許されない。よって――」
「幽々子さま」
声は、思った以上にすんなりと出た。
頭の中は、今も頭上に広がる蒼穹のように冴え渡り、あれほど揺らいでいた心も、自分でも驚く程に静まっている。
「どうか、死蝶をお収めください」
「妖夢?」
「これは……私がやらなければいけない、事なのです」
消滅への道しか、残されていないというのなら。
どうかせめて――。
「…………」
「幽々子さま」
「……解ったわ」
幽々子様が振り向き、私の後ろへと下がる。と同時に、葉月を取り囲んでいた死蝶は、一羽残らずその姿を消した。
「ありがとう、ございます」
「…………」
肩越しに顧みるが、幽々子様は背を向けたまま、こちらを向く事はなかった。
私がこれから何をしようとしているのか、解っているのだろう。
「妖夢さん……」
呼ばれて、前へと向き直る。
そこで、ようやく葉月は、葉月という名を語る怨霊は、私を見たのだ。
「妖夢さん、貴方は本当に優しい人ですね……愚かなくらいに」
「自分のけりは自分でつける。ただそれだけです」
私は一刀を抜き、葉月に向けて構えた。
二刀も、二の手もいらない。一振りで、全てを終わらせなければいけないのだ。
「葉月、最後に一つだけ、聞いておきたい事があります」
「…………」
「貴方は――」
瞬間、吹き抜けた風が私の言葉を攫っていく。それでも葉月には届いたのか、僅かに口の端を上げた。それが答えという事なのだろう。
それきり二人、黙り込む。幽々子様は今も背を向けてくれているだろうか。
どこから飛んできたのか、二人の間に木の葉が一枚、ひらりと舞い落ちてきた。
なんとも、都合の良すぎる展開。
でも、今はそれに感謝しよう。
結局私は、最後の最後まで決める事が出来なかったのだから――。
そして、木の葉がゆっくりと、地面に落ちて――、
「――!」
刹那の間、互いに踏み込み、ただの一歩で交差し、そして……私は剣を振り抜いた。
そのまま私は、先程まで葉月が立っていた場所へと崩れ落ちた。
手応えはあった。今までの中でも、一番の一撃だっただろう。
でも、私は崩れ落ちた姿勢のまま、動く事が出来なかった。
もしも私がもっと成熟していたのであれば。本当に覚悟が出来ていたのであれば。
私は後ろを、振り向けたのだろうか。
「妖夢」
「…………」
「白楼剣、使わなかったのね」
私が右手に握る、己の身長ほどもある長刀を見て、幽々子様が言う。
振るった刀は、楼観剣。
それが、最後まで迷い迷った末に、結局自分では決める事の出来なかった、私の答え――。
「これで、正しかったのでしょうか……?」
「それはもう、貴方自身が解っている事でしょう?」
嗚呼、本当に。
どうしてこの人は、なんでも見透かしてしまうのか。
あの刹那の間、剣を振るったその時に、確かに葉月は言ったのだ。
――ありがとう――と。
想いは時間と共に色褪せて、風化して、劣化する。ならばその空いてしまった穴を埋める為に、別の想いが生まれたとしても、なんら不思議ではない。
櫛枝葉月。
十の年月を生き、百の年月を死んだ少女。
彼女はあまりにも……そう、愚かなくらいに、優しすぎたのだ。
9
「ほら、妖夢がのんびりしているから、すっかり始まってしまっているじゃない」
「歩いていくんだ、などと言って聞かなかった幽々子さまの所為な気もしますけど」
「そういえば、地獄が人員不足だとかいう話を聞いたわねぇ……」
「何故そこで脅しにくるのですか……」
「やぁね、冗談よ」
祭の灯りは、もうすぐそこにまで迫っていた。
風に乗って聞こえてくる祭り囃子に合わせるように、早速幽々子様がくるくると回りながら、下駄を鳴らす。
からころ。
からころ。
からころ、と。
今日は一年に一度、幻想郷の里で行われる夏祭り。
それも、ただ遊びに来た訳ではなく、なんと私達が屋台を出すのだというから、世の中解らないものである。
出す物は当然、決まっている。
「あれ?」
しかし、見てみれば私達の屋台の前に、何やら人集りが出来ているではないか。
ひょっとすると、遅刻してしまった所為で、他の誰かに屋台を乗っ取られたのだろうか?
それならば、即刻立ち退いていただかなければなるまい。
浴衣姿の人の中を掻き分けるようにして、なんとか屋台の中が見える所まで進む。
果たしてそこには、目論見通り私達の屋台を使っている輩がいた――のだが。
「幽々子さま」
「なぁに? というか凄い人ねぇ。大人気じゃない」
「……知ってましたね?」
「あら、あらあら」
ようやく人混みの中から私の隣に出てきた幽々子様が、屋台の方を見て、いつものように鈴を転がすような声で笑った。
うん、絶対知ってたよね、この人。
「妖夢さん妖夢さん金毘羅妖夢さん!」
言いたい事は色々とあったのだけれど、屋台の中から聞こえてきた声に対して私が出来た事はといえば、溜息を吐く事だけだった。
「一度呼べば解る上に、そんな大層なものじゃありませんから」
「どちらでも構いませんが、そんな所で木偶人形のように突っ立っている暇があるのなら、手伝おうなどとは思わないのですかっ!」
相変わらずの酷い言い種に、思わず笑ってしまう。
まぁ、言いたい事も、聞きたい事も、後から存分に話せばいいだろう。
まだまだ夜は始まったばかり。
祭はこれからなのだから。
「そんな髪飾りでお洒落したって、胸は大きくなりませんよ?」
「五月蠅いよ!」