夏の暑い日差しが紅魔館のテラスに容赦なく降り注いでいる。
「それで?」
ジリジリと肌を焼くような熱線を絶対零度の声が冷やしていく。
「あー……それでですね」
なんとも言いにくそう答えるのは、銀髪の少女にして、この紅魔館のメイド長、十六夜咲夜だった。
一方、その咲夜を極北の氷のような視線で見ているのは、紅魔館の主であるレミリア・スカーレット。テラスに用意された日傘の下にいるとはいえ、その顔はとても涼しいものとは言えない様子である。
「他のメイド達がいれば、まぁ少し不安ですけど、何とか回るのではないのかと……」
「…………」
「いえその、私が後で全部見回りますので、落ち度はそのときに全て何とかします」
「二十四点な答えね。まぁ貴女の優秀さが招いた落ち度とはいえ、ねぇ……」
そこでレミリアは一旦言葉を切って、
「それにしても……メイド達をくまなく配置したら自分の配置忘れてました、ってなかなか抜けてるわね、貴女」
「はぁ」
「褒めてないわよ。仕方ないわね、貴女は今日お休みってことでいいわ」
溜息をつきながら咲夜にそう告げると、レミリアはプイとそっぽを向いてしまう。
そのまま紅茶を口に含み嚥下したが、今日の紅茶はやけに温く、その事がレミリアをイライラさせる。
「いいわ、やはり人間は使えない。貴女、今日は外に出てなさい。幸い今日は人里でお祭りがあるそうだし、少し浮かれてスッキリしてきなさい」
ぶっきらぼうな口調で言いながら咲夜に下がれと手を振る。
「すいません……」
シュンとうなだれた咲夜はそのままトボトボと去ろうとする。
「いい? 人間の祭りだから、私は行かないわよ」
レミリアの追い打ちの言葉を背中で聞きながら、咲夜は扉の向こうに消えた。
咲夜が去ってしばらくたってから、レミリアはポツリと零した。
「まったく……これぐらいしないと休暇も取れないのね。やっぱり人間って使えないわ」
全ては彼女の仕業である、あらかじめ館のメイド全てに会うことで彼女らの運命を微妙に変え、その上で咲夜を呼び、仕上げをかける。その結果が彼女の仕事にぽっかりと穴を空ける事になったのだ。
しかしそこでレミリアは気がつき、自分の落ち度を呪った。
「しまった、紅茶を淹れなおさせればよかった……」
全ては後の祭りである。
休みならば仕方ない。それもよりによって外に出ていろ、などという命が下ってしまっては余計に館に居るわけにもいかない。
適当に外をブラつくより仕方あるまい。
そう決めた咲夜は大人しく紅魔館の門をくぐり、外に出た。途端に彼女に声をかける者がいる。長く紅い髪に大陸風の衣装に身を包んだ娘だ。
「あれ、咲夜さん? お出かけですか?」
その微笑みは真夏の太陽のように明るいが、ジリジリと肌を焼くような感じではなく、同時に涼風すら感じられる実に清々しい微笑みだった。
「ちょっとね……」
さすがにヘマしたので暇を出されました、などとは言えず、言葉を濁してみる。
紅髪の少女は紅美鈴といい、この館の門番を任されている少女である。朗らかな表情や佇まいを崩す事無く、まるで向日葵のように笑う少女だった。
しかし咲夜は知っている。いざという時にこそ、彼女の真価が発揮される事を。
近年になって流行りだしたという弾幕ごっこは苦手であるが、その華美で絢爛な弾幕はやはり一目置くべきだと思うし、何よりもごっこ遊びでない――つまり、本物の戦闘――方が彼女の本業なのだ。美鈴は体術の達人であり、半端に理性を持たない妖怪などは片手で片付ける。
門番とメイド長ではメイド長である咲夜の方が立場が上であるが、果たして彼女と本気で戦闘行為をした場合、彼女を倒せるか、というと疑問が残らないでもない。何しろ妖怪と人間だ。相手の拳一つで致命傷にどころか、彼女の場合は即死さえありうる。数年前の紅霧事件の時に侵入者である規格外の人間二人に敗れはしたものの、それ以外の侵入者を許した事は咲夜の記憶にはなかった。
「あぁそうだ咲夜さ……っとと」
「どうしたの?」
美鈴のにっこりとした、どこか安堵させるような表情はなぜか狂気すら感じさせる。
言いかけた言葉を慌てて飲み込んだ美鈴に咲夜は訪ねた。
「あー……いえ、なんでもないです。お出かけ、気を付けてくださいね」
「大丈夫よ、貴女じゃあるまいし、暢気に木陰で昼寝しに行くわけじゃないもの」
「な、何故それを?」
「よだれ」
「はっ!」
ばばっと慌てて腕で口周りを拭く美鈴をみて、やはりこの少女はどこか抜けていると思う。
咲夜はクスクスと笑いながら、
「ただのカマかけよ」
「なぁんだ、驚かさないで下さいよ……」
「罰は本気だけどね」
「えぇーっ」
「サボってたことは事実だし。そんなんじゃそろそろサボタージュの泰斗って呼ばれるわよ? それとも小野塚小町ってあだ名にしようかしらね」
「平身低頭一心不乱に警備させていただきますっ」
ビシッと敬礼して咲夜を見送る。言葉がメチャクチャなのはそれだけ彼女が動揺してるという事であろう。しかしその直後にはにこりと笑っている。あまりの屈託のなさに、これでは相手が誰であろうと毒気を抜かれてしまうだろう。
「気にしなくていいわ。だって私は――」
その笑顔につられたように咲夜は微笑を浮かべて、言った。
「今日はオフだからね」
その言葉だけを残し、咲夜は忽然と姿を消した。お得意の時間操作で飛んでいったのだろう。
気がつけば彼女は遥か彼方の空を飛んでいる。
その姿を見送りながら美鈴は内心で溜息を吐いた。
――さぁて、忙しいのはこれからだぞ、と。
特に目的があるわけでも無い。
目指してる場所も無ければ、行きたい場所も特に無い。
特にしなければならない事もないし、したい事だって今やらなければならない事は無い。
「こういう時、ここに来てるのは我ながら安直だわ」
咲夜の視線の下には博麗神社が鎮座している。
咲夜の出歩く場所といえば、ここか人里で必要最低限の買い物をするだけだ。
まぁ他にすることも無いし、と自分を納得させ、高度を下げていく。
「あら、今日は一人なのね」
「たまには一人になりたい時もあるのよ」
博麗霊夢はさして驚いた風も無く咲夜を迎えた。幻想郷の巫女はいつでもこうだ。誰が来ても当然のような顔をして、受け入れる。そのくせ、自分から動くのはあの古道具屋の所以外はめったに訪れない。誰でも空気のように受け入れるのに、自分が受け入れられるかなんて考えてもいない。誰からも好かれ、誰も好きにならない。楽園のお気楽な巫女は、まさしく無重力と言えた。
「お茶なら自分で淹れてね。あと素敵なお賽銭箱はあっち」
「悪魔の従者からのお金でもいいのかしら?」
「いいのよ、どうせ神様なんて信じてればそれだけでいいんだし。お願い事叶えればそれだけ神様の力だって増すわ。一石二鳥なのよ」
「気が向いたら葉っぱでも入れとくわ」
「ご利益無いわよ」
「いらないもの」
はぁ、と溜息を吐いた霊夢は座布団を勧めると、ちょっと待ってなさいと言い置き、咲夜の分のお茶を用意しに立ち上がる。
冷えた麦茶を渡しながら霊夢は訪ねる。
「それで? お賽銭入れに来たんじゃないなら、何しに来たのよ」
「用が無くてはいけない?」
「作ってあげようか? そこのお賽銭箱にお賽銭を入れる用事」
「御免こうむりますわ」と霊夢に返事をしてから、咲夜は気が着いた。
そういえば今日は人里で祭りがあるとの事だ。折角なので覗いてみようとは思うが、ここで霊夢に色々聞いてみるのもいいだろう。
「霊夢は今日のお祭りって行くの?」
「私は行かないわ、神事があってね」
「お気楽巫女に神事なんてあったの?」
「あるわよ、神事ぐらい」
と涼しげな顔で霊夢は言うが、咲夜が博麗神社を頻繁に訪れるようになって数年経って初めて聞いた話である。
「魔理沙でも誘えば? アイツならお祭とか好きそうだし」
そろそろ来るだろうしね、と霊夢はそれだけ言って麦茶を飲んでから、温いと呟いた。
「しっかし今日も暑いね。霊夢ー、冷たい茶はあるか?」
言いながらひょっこりと縁側に顔を見せたのは、当のご本人である霧雨魔理沙だった。
霊夢の感の良さはすでに未来予知の領域までいっているのではないかと疑うが、理由を聞けばいつも「なんとなく」としか答えが返ってくることはない。
「お、咲夜じゃないか。今日はお子守りじゃないのか?」
「私ぐらい有能だと、休みも取り放題なのよ」
「なんだ暇を出されたのか。珍しいな、あのお嬢様がお前抜きでいられると思えないぜ」
「あれでも五百歳よ。見た目は子供だけど」
「中身も子供だぜ」
「我侭なのよ」
「やっぱり子供じゃないか」
「…………」
魔理沙は基本的に裏表の無い、カラッと晴れた青空のような人間である事は間違いがなく、それが美点ともなっているのだが、いかんせん口が悪い。いや、この場合は口さががない、と言った方が正しいかもしれないが――
魔理沙は勝手知ったるなんとやら、とばかりに断りもなく上がり込むと、冷えた麦茶を湯飲みに注いで戻ってきた。
そのまま縁側に人間三人で座り込む。
「しかしこう暑いとなんだな、どっか行く気にもなれないな」
「全く同意ね」
「この暑い最中にウチに来てるあんたらの言う事じゃないわよ」
「ここは別だぜ」
「別腹ってやつね」
「腹は関係無いでしょうに」
「冷えた麦茶は別腹なのよ」
少女とはいえ、女。三人寄ればかしましいのである。
余談ではあるが、「かしましい」は漢字で表記すると「姦しい」となる。この漢字はそのまま女性が三人集まった状態を示す言葉であり、それだけ女性は古来より話好きであるのがよく解かる秀逸な漢字であると筆者は思う。
「それで、咲夜はなんで暇を出されたんだ?」
「有能だからですわ」
「サボリかよ。お前も泰斗だな」
「私より霊夢の方がサボってるんじゃない?」
「コイツは年中無休でサボってるから、すでにサボるのが仕事なんだぜ」
「失礼ね、ちゃんとやってるわよ。掃除とか」
「自分の家の掃除は仕事じゃないぜ」
「「アンタが言うな」」
「こいつは手厳しい」
二人同時に突っ込みを入れられ、肩をすくめて見せる魔理沙だが、その表情は全然困っていない。事実彼女は全然困っていないどころか散らかっているなら散らかっているなりに使い道を見出してしまう人間でもあるかだ。
「ところで魔理沙は今日のお祭りにには当然行くのよね」
咲夜が何気なく聞いてみると、魔理沙は露骨に眉をひそめ、苦虫を噛み潰したような表情をしてみせた。
「そうか、今日は人里で祭りがあるんだったな……」
「ちなみに私は行かないわよ。神事があるから」
「初耳だぜ。この神社の神事なんて大した事はなさそうだけどな」
「まぁ神事を行う事が目的じゃないからね。ウチの神社だと記念みたいなものだったかな、確か。聞いた話だけど」
「おいおい、随分あやふやな話だな。さすがは泰斗だぜ」
「いいのよ、神事自体が行われてればそれで」
「そう言えば霊夢は何するのかしら」
「神事」
「内容よ」
「あー……祝詞と舞かな。誰にも見せちゃダメらしいけど」
「何でだ?」
「本当の神事は穢れを嫌うからね。秘めやかにしないとダメなのよ」
「デリケートね」
「私のようにな」
「「それはない」」
またしても二人同時に突っ込みを入れられ、魔理沙は口を尖らせてそっぽを向く。その様子が可笑しくて、残りの二人は笑い出すが、釣られて魔理沙も笑てしまう。巫女と魔法使いとメイドは相性がいいらしい。
神社の境内のどこからかセミが鳴いている。
公平な弾幕ごっこでお昼ご飯の当番を決め、魔理沙が素麺を茹でて、それを食べる。
食べた後はそれぞれでゴロゴロしていたが、ふと咲夜が口を開いた。
「そういえば魔理沙、結局貴方は祭りに行くの?」
「あー? 私は行かないぜー」
縁側の風通しのいい位置で寝転がりながら、すっかりダラけきった声で魔理沙がうだうだと返事をする。
霊夢と言えば座布団を折りたたんで枕にして、すっかり昼寝モードに入ってしまっていた。
「なんで? 好きそうじゃない」
「祭り自体は好きなんだがなー……実家あるから行きたくないんだよ。仲悪いし」
「ふぅん」
「てなわけで私はパスだ。行くんなら他所を当たってくれ」
そう言うと魔理沙はゴロリと咲夜に背を向けてしまった。
「あぁそうだ、寝てる場合じゃないわ」
寝ていたはずの霊夢が起き出すと、咲夜に視線を向け、ふんわりと微笑む。
何事かと咲夜が視線だけで聞くと、彼女はその笑みのまま、こういった。
「あんた、祭りに行くなら浴衣が必要でしょ? 私が持ってるのあげるから、こっちに来て」
太鼓の音がする。
それは破魔の音となって、地を揺らす。
笛の音がする。
それは天高く、魂送りの標となって、空へ抜けていく。
人の声がする。
それは賑やかさと暖かみを伴って、終わることを忘れ、人々は踊り、唄い、酔う。
茜を通り越え、群青のベールが引かれた空は晴れ渡り、星が瞬き、月が昇り始めていた。
本来ならば家に閉じこもるはずの人々は太鼓と笛の音に引き寄せられ、外を歩く。
狭い幻想郷の、それも一つしかない人里によくもこれだけの人がいたものだ、と咲夜は素直に感心した。
咲夜は霊夢にもらった紺の浴衣を着ていた。所々に時計があしらわれた、まるで彼女のためにあつらえたかのようなデザインであり、持っていたはずの霊夢は「こんな浴衣、私持ってたっけ……」と呟いたほどだ。
結局の所、咲夜は一人で祭りに行く事になった。何しろ彼女が親しい人間と言えば霊夢と魔理沙だけであり、あとは妖怪ばかりだったから仕方ないことであった。
里の大通りには露店と神輿が出ており、大勢の男達が威勢のいい掛け声とともに担いで練り歩く。
普段なら夕刻を過ぎた時間で閉まってしまう店も、特別に明りが灯されている。
行き交う人々は幸せそうな表情を浮かべる親子連れから付き合っているのだろう男女が、仲睦まじく手を繋いで歩いていたり、子供だけの集まりがやれあっちに行こう、それともこっちがいいかと露店に目を輝かせて歩いている。
まるで遠い昔に戻ったかのような感傷を感じるが、それも昔の事だと、あの人口だけが多く、霧に包まれた街の事だと思い直し、あてどもなく咲夜は歩いた。
――そういえば、ゆっくりと歩いてみることなんて中々無かったわね……
射的の露店を見ながらそんな事を思ってみる。人里は訪れる事はあっても、目的だけ果たせばさっさと帰ってきてしまうのが常だったので、ある意味で新鮮さをを感じる。
しかし――
「あんまり面白いものじゃないわね……」
咲夜は呟いた。
まるで何もかもが遠く感じられる。談笑する親子も、頬を染めながら歩く男女も、走り回る子供達も、全て一枚のガラスを隔てた別の世界のように感じられる。自分だけがまるで別種の生き物のようだ。
大勢の人間の中にいるのに、孤独を感じる、という矛盾。
――昔は慣れてたのにねぇ。
誰の中にも存在できなくても大して気にも止めなかった自分をかえりみて、苦笑したくなる。
それでも昔は昔、今は今はだと思い直す。
しばらく歩いてみて、適当に焼きそばなんかを買ってみたけど、高い、まずい、多くて食べきれない、という三重苦だった。
クジを引いておもちゃをもらう年齢でもなく、お腹は焼きそばで必要以上に満腹。とりあえずお茶だけを露店で求め、ブラブラした所でやる事が無くなってしまった。
いっそ帰ってしまおうかと悩んでると、いつの間にか街の外れの方まで歩いてきてしまっているのに気がつく。
そういえば随分歩いたような気がする。ここら辺で少し休むのもいいかもしれない
辺りには田畑が広がっているが、夜の帳に覆われ、よくは見えない。手近な土手に腰を下ろし、里のほうを見ると、ここまで届く太鼓や笛の音と、かすかな喧騒が聞こえた。
「遠いわねぇ……」
何もかもが遠い。あの太鼓も、笛も、喧騒も。
楽しいはずの場所なのに、ちっとも楽しくない。
――もとより楽しめるはずのない人間だとはわかってたのにね……
独白だけが続く。
――つくづく私は人間じゃないんだなぁ。
想いは、言葉にならない。
――今では悪魔の狗だし。
言葉にならない想いは、咲夜の中にだけ溜まっていく。
――そもそも、初めから、私は……
吐き出せない。消す事もできない。
――誰かに好かれたことなんてあったっけ。
膝を抱える。まるで胎児のように。
――必要とされるだけなの、かな。
不意に視界がボヤける。
――あれ、なんでだろ。ま、いっか……
抱えた膝に顔を押し付ける。
その時だった。咲夜の背後から聞き慣れたあの声がしたのは。
「なーにやってんのよ、貴女は」
慌てて振り向く。
そこには浴衣を着込んだレミリア、パチュリー、美鈴が立っていた。
レミリアは夜目にも鮮やかな上品な紅にコウモリの柄を合わせた浴衣を着ており、その恰好のまま、腕を組んで咲夜を見下ろしている。
パチュリーはいつもの無表情でこちらを見ているし、美鈴はどうしたものかと泣きそうな顔をしていた。
「探しちゃったじゃない。私が呼んだらすぐに来るっていういつもの貴女はどうしたのよ。これだから人間は使えないわ」
「…………不器用」
「えと、その、あの」
それぞれが好き勝手に喋る。
事態が飲み込めずに、咲夜は呆然と呟いた。
「あの、お嬢様達はどうして……? 人間のお祭りですよ……? 来ないって……」
「気が変わったの」
レミリアは強めの口調で言うと、フンとそっぽを向いてしまう。
「それにしても、人間の祭りを見に来てやろうと思って来たっていうのに、当の人間であるアナタがどこにもいないじゃない。おかげで探し回る羽目になるし、こっちは大変だったんだからね?」
「探しましたよー」
「案内人がいないのにあんな雑踏の中にいたら、それこそ迷うわ」
口々に好き勝手な事を言う。
レミリアが前に出ると咲夜の耳元に口を近づけて、小さくささやいた。
「遅れて、ごめん」
「お嬢さっ!」
咲夜が何を言うよりも早くレミリアはその場を離れ、
「ほら、咲夜がいないと何を楽しんだらいいのか解からないわ。時間ももうあんまりなさそうだし。とっとと行くわよ」
大きな声で咲夜の言葉を遮ると、レミリアはとっとと走り出してしまう。
咲夜は立ち上がると、着物の裾を軽く叩いて、後を追い出した。
「お嬢様、あまりはしゃいだら転んでしまいますよ」
「あ、待って下さいよ〜」
「やっぱり不器用ね……」
「パチェ、美鈴、早くしないと終わっちゃうわよ!」
美鈴とパチュリーも後を追って動き始める。全員が笑顔を浮かべていた。
レミリアの背中を追いながら、
――あぁ、私はこの方がいいんだな。
と思った。
紅魔館こそが咲夜のいるべき場所であり、生涯をかけて守るべき物がそこにある。
胸を張ってそう言える。これ以上の幸せがどこにある?
祭りはまだ続いている。
祭り好きの幻想郷の住人達の事だ、最低でも夜半までは続くのだろう。よく見れば子供の数は減り、大人が締める割合が増えてきているが、それとともに様々なアルコールの匂いが強くなってきていた。
「さすがに人数は減ってきましたね」
往来を歩きながら美鈴が言う。ちなみにその手の紙皿にはこれでもかというぐらいの量の焼きそばが盛られており、彼女はそれをまったく気にせずに食べている。さらに言えば、これが三皿目だという事実も忘れてはいけない。
「それでも、さっきよりは活気付いているわ。お酒のせいね」
手にした杏子飴をくるくると回しながら舐めていたレミリアが答える。この杏子飴は、店の人とジャンケンで勝ったらもう一本サービスという触れ込みがしてあり、彼女はそこで二連勝して四本にしてきた物だ。それを全員に渡してある。
「そうね、子供数が減っているだけで、大人の数と、アルコールの勢い。というのが正しいのかも知れないわね」
ぐい、とカクテルの入ったコップを傾けながらパチュリーが続く。喘息持ちなのに、やたらとカクテル類の酒が好きなのだ。
「幻想郷らしい、ということなのでしょう」
どこからかかっぱらったであろう団扇でやんわりと自分を煽っている咲夜がそう締めた。
その時である。聞き慣れた声がすると、そこには酔っ払った顔の霊夢がいた。
「あーっ! アンタらなんでいるのよ!」
「まぁまぁ霊夢。折角の祭りなんだから気にしたら負けだぜ」
傍らにいるのはいつもの白黒、魔理沙だ。
「アンタ達ぃー、ここは人間の祭りなのよ。解かってるの?」
「解かってるわよ」
「何を今さらですわ」
「酔っ払いの妄言ね」
「そこの紫に言われたくないわよ!」
「まーまー霊夢さん。まだ残ってるじゃないですか。お代わり持ってきますんで、ささ、ぐぐーと」
「え、なんか悪いわね。じゃお言葉に甘えて」
「おー、さすがは霊夢。いい呑みっぷりじゃないか」
「あはははははははは!」
「ところで霊夢」
「何よレミリア」
「別に暴れたり悪いことしようって言うんじゃないわ。ただ、楽しくしたいだけなのよ。それじゃダメかしら?」
「霊夢さーん、お代わり二つ持ってきたんで、ぐぐーとやっちゃって下さい!」
「え、あ、うん」
「ささ、ぐぐぐぃっと!」
「んぐっ、んぐっ、ぷはぁぁぁぁぁぁぁ! やっぱり美味しぃー!」
「みんなー。霊夢がいてもいいって」
「あれー? 私いつの間に……まぁいっかー! レミリアも飲めー!」
「これ、日本酒? 苦手なんだけど……」
「お嬢様、好き嫌いは良くありませんわ」
祭りは続いていく。終わる事の無い一夜はまだ始まったばかりだ。
夜が明ければ、またそれぞれの生活に戻っていく。しかしそれは次の祭りへの準備期間でしかなく、それが繰り返されていくだけだ。
独りだけで始まった咲夜の夜は、今大勢の人妖によって紡ぎ出されている。
繋がりあったという糸は絡み、もつれ、より複雑に、そして強固になっていく。
それが絆という、咲夜の手に入れた物なのかもしれない。
アルコールに頬を赤らめたレミリアは、魔理沙に酌をしている咲夜を見ながら、誰にも聞こえない声で呟いた。
「貴女という華が咲くのを見れて私は幸せだわ。この時が、この夜が、いつまでも続く事を私は素直に願うよ」
「それで?」
ジリジリと肌を焼くような熱線を絶対零度の声が冷やしていく。
「あー……それでですね」
なんとも言いにくそう答えるのは、銀髪の少女にして、この紅魔館のメイド長、十六夜咲夜だった。
一方、その咲夜を極北の氷のような視線で見ているのは、紅魔館の主であるレミリア・スカーレット。テラスに用意された日傘の下にいるとはいえ、その顔はとても涼しいものとは言えない様子である。
「他のメイド達がいれば、まぁ少し不安ですけど、何とか回るのではないのかと……」
「…………」
「いえその、私が後で全部見回りますので、落ち度はそのときに全て何とかします」
「二十四点な答えね。まぁ貴女の優秀さが招いた落ち度とはいえ、ねぇ……」
そこでレミリアは一旦言葉を切って、
「それにしても……メイド達をくまなく配置したら自分の配置忘れてました、ってなかなか抜けてるわね、貴女」
「はぁ」
「褒めてないわよ。仕方ないわね、貴女は今日お休みってことでいいわ」
溜息をつきながら咲夜にそう告げると、レミリアはプイとそっぽを向いてしまう。
そのまま紅茶を口に含み嚥下したが、今日の紅茶はやけに温く、その事がレミリアをイライラさせる。
「いいわ、やはり人間は使えない。貴女、今日は外に出てなさい。幸い今日は人里でお祭りがあるそうだし、少し浮かれてスッキリしてきなさい」
ぶっきらぼうな口調で言いながら咲夜に下がれと手を振る。
「すいません……」
シュンとうなだれた咲夜はそのままトボトボと去ろうとする。
「いい? 人間の祭りだから、私は行かないわよ」
レミリアの追い打ちの言葉を背中で聞きながら、咲夜は扉の向こうに消えた。
咲夜が去ってしばらくたってから、レミリアはポツリと零した。
「まったく……これぐらいしないと休暇も取れないのね。やっぱり人間って使えないわ」
全ては彼女の仕業である、あらかじめ館のメイド全てに会うことで彼女らの運命を微妙に変え、その上で咲夜を呼び、仕上げをかける。その結果が彼女の仕事にぽっかりと穴を空ける事になったのだ。
しかしそこでレミリアは気がつき、自分の落ち度を呪った。
「しまった、紅茶を淹れなおさせればよかった……」
全ては後の祭りである。
休みならば仕方ない。それもよりによって外に出ていろ、などという命が下ってしまっては余計に館に居るわけにもいかない。
適当に外をブラつくより仕方あるまい。
そう決めた咲夜は大人しく紅魔館の門をくぐり、外に出た。途端に彼女に声をかける者がいる。長く紅い髪に大陸風の衣装に身を包んだ娘だ。
「あれ、咲夜さん? お出かけですか?」
その微笑みは真夏の太陽のように明るいが、ジリジリと肌を焼くような感じではなく、同時に涼風すら感じられる実に清々しい微笑みだった。
「ちょっとね……」
さすがにヘマしたので暇を出されました、などとは言えず、言葉を濁してみる。
紅髪の少女は紅美鈴といい、この館の門番を任されている少女である。朗らかな表情や佇まいを崩す事無く、まるで向日葵のように笑う少女だった。
しかし咲夜は知っている。いざという時にこそ、彼女の真価が発揮される事を。
近年になって流行りだしたという弾幕ごっこは苦手であるが、その華美で絢爛な弾幕はやはり一目置くべきだと思うし、何よりもごっこ遊びでない――つまり、本物の戦闘――方が彼女の本業なのだ。美鈴は体術の達人であり、半端に理性を持たない妖怪などは片手で片付ける。
門番とメイド長ではメイド長である咲夜の方が立場が上であるが、果たして彼女と本気で戦闘行為をした場合、彼女を倒せるか、というと疑問が残らないでもない。何しろ妖怪と人間だ。相手の拳一つで致命傷にどころか、彼女の場合は即死さえありうる。数年前の紅霧事件の時に侵入者である規格外の人間二人に敗れはしたものの、それ以外の侵入者を許した事は咲夜の記憶にはなかった。
「あぁそうだ咲夜さ……っとと」
「どうしたの?」
美鈴のにっこりとした、どこか安堵させるような表情はなぜか狂気すら感じさせる。
言いかけた言葉を慌てて飲み込んだ美鈴に咲夜は訪ねた。
「あー……いえ、なんでもないです。お出かけ、気を付けてくださいね」
「大丈夫よ、貴女じゃあるまいし、暢気に木陰で昼寝しに行くわけじゃないもの」
「な、何故それを?」
「よだれ」
「はっ!」
ばばっと慌てて腕で口周りを拭く美鈴をみて、やはりこの少女はどこか抜けていると思う。
咲夜はクスクスと笑いながら、
「ただのカマかけよ」
「なぁんだ、驚かさないで下さいよ……」
「罰は本気だけどね」
「えぇーっ」
「サボってたことは事実だし。そんなんじゃそろそろサボタージュの泰斗って呼ばれるわよ? それとも小野塚小町ってあだ名にしようかしらね」
「平身低頭一心不乱に警備させていただきますっ」
ビシッと敬礼して咲夜を見送る。言葉がメチャクチャなのはそれだけ彼女が動揺してるという事であろう。しかしその直後にはにこりと笑っている。あまりの屈託のなさに、これでは相手が誰であろうと毒気を抜かれてしまうだろう。
「気にしなくていいわ。だって私は――」
その笑顔につられたように咲夜は微笑を浮かべて、言った。
「今日はオフだからね」
その言葉だけを残し、咲夜は忽然と姿を消した。お得意の時間操作で飛んでいったのだろう。
気がつけば彼女は遥か彼方の空を飛んでいる。
その姿を見送りながら美鈴は内心で溜息を吐いた。
――さぁて、忙しいのはこれからだぞ、と。
特に目的があるわけでも無い。
目指してる場所も無ければ、行きたい場所も特に無い。
特にしなければならない事もないし、したい事だって今やらなければならない事は無い。
「こういう時、ここに来てるのは我ながら安直だわ」
咲夜の視線の下には博麗神社が鎮座している。
咲夜の出歩く場所といえば、ここか人里で必要最低限の買い物をするだけだ。
まぁ他にすることも無いし、と自分を納得させ、高度を下げていく。
「あら、今日は一人なのね」
「たまには一人になりたい時もあるのよ」
博麗霊夢はさして驚いた風も無く咲夜を迎えた。幻想郷の巫女はいつでもこうだ。誰が来ても当然のような顔をして、受け入れる。そのくせ、自分から動くのはあの古道具屋の所以外はめったに訪れない。誰でも空気のように受け入れるのに、自分が受け入れられるかなんて考えてもいない。誰からも好かれ、誰も好きにならない。楽園のお気楽な巫女は、まさしく無重力と言えた。
「お茶なら自分で淹れてね。あと素敵なお賽銭箱はあっち」
「悪魔の従者からのお金でもいいのかしら?」
「いいのよ、どうせ神様なんて信じてればそれだけでいいんだし。お願い事叶えればそれだけ神様の力だって増すわ。一石二鳥なのよ」
「気が向いたら葉っぱでも入れとくわ」
「ご利益無いわよ」
「いらないもの」
はぁ、と溜息を吐いた霊夢は座布団を勧めると、ちょっと待ってなさいと言い置き、咲夜の分のお茶を用意しに立ち上がる。
冷えた麦茶を渡しながら霊夢は訪ねる。
「それで? お賽銭入れに来たんじゃないなら、何しに来たのよ」
「用が無くてはいけない?」
「作ってあげようか? そこのお賽銭箱にお賽銭を入れる用事」
「御免こうむりますわ」と霊夢に返事をしてから、咲夜は気が着いた。
そういえば今日は人里で祭りがあるとの事だ。折角なので覗いてみようとは思うが、ここで霊夢に色々聞いてみるのもいいだろう。
「霊夢は今日のお祭りって行くの?」
「私は行かないわ、神事があってね」
「お気楽巫女に神事なんてあったの?」
「あるわよ、神事ぐらい」
と涼しげな顔で霊夢は言うが、咲夜が博麗神社を頻繁に訪れるようになって数年経って初めて聞いた話である。
「魔理沙でも誘えば? アイツならお祭とか好きそうだし」
そろそろ来るだろうしね、と霊夢はそれだけ言って麦茶を飲んでから、温いと呟いた。
「しっかし今日も暑いね。霊夢ー、冷たい茶はあるか?」
言いながらひょっこりと縁側に顔を見せたのは、当のご本人である霧雨魔理沙だった。
霊夢の感の良さはすでに未来予知の領域までいっているのではないかと疑うが、理由を聞けばいつも「なんとなく」としか答えが返ってくることはない。
「お、咲夜じゃないか。今日はお子守りじゃないのか?」
「私ぐらい有能だと、休みも取り放題なのよ」
「なんだ暇を出されたのか。珍しいな、あのお嬢様がお前抜きでいられると思えないぜ」
「あれでも五百歳よ。見た目は子供だけど」
「中身も子供だぜ」
「我侭なのよ」
「やっぱり子供じゃないか」
「…………」
魔理沙は基本的に裏表の無い、カラッと晴れた青空のような人間である事は間違いがなく、それが美点ともなっているのだが、いかんせん口が悪い。いや、この場合は口さががない、と言った方が正しいかもしれないが――
魔理沙は勝手知ったるなんとやら、とばかりに断りもなく上がり込むと、冷えた麦茶を湯飲みに注いで戻ってきた。
そのまま縁側に人間三人で座り込む。
「しかしこう暑いとなんだな、どっか行く気にもなれないな」
「全く同意ね」
「この暑い最中にウチに来てるあんたらの言う事じゃないわよ」
「ここは別だぜ」
「別腹ってやつね」
「腹は関係無いでしょうに」
「冷えた麦茶は別腹なのよ」
少女とはいえ、女。三人寄ればかしましいのである。
余談ではあるが、「かしましい」は漢字で表記すると「姦しい」となる。この漢字はそのまま女性が三人集まった状態を示す言葉であり、それだけ女性は古来より話好きであるのがよく解かる秀逸な漢字であると筆者は思う。
「それで、咲夜はなんで暇を出されたんだ?」
「有能だからですわ」
「サボリかよ。お前も泰斗だな」
「私より霊夢の方がサボってるんじゃない?」
「コイツは年中無休でサボってるから、すでにサボるのが仕事なんだぜ」
「失礼ね、ちゃんとやってるわよ。掃除とか」
「自分の家の掃除は仕事じゃないぜ」
「「アンタが言うな」」
「こいつは手厳しい」
二人同時に突っ込みを入れられ、肩をすくめて見せる魔理沙だが、その表情は全然困っていない。事実彼女は全然困っていないどころか散らかっているなら散らかっているなりに使い道を見出してしまう人間でもあるかだ。
「ところで魔理沙は今日のお祭りにには当然行くのよね」
咲夜が何気なく聞いてみると、魔理沙は露骨に眉をひそめ、苦虫を噛み潰したような表情をしてみせた。
「そうか、今日は人里で祭りがあるんだったな……」
「ちなみに私は行かないわよ。神事があるから」
「初耳だぜ。この神社の神事なんて大した事はなさそうだけどな」
「まぁ神事を行う事が目的じゃないからね。ウチの神社だと記念みたいなものだったかな、確か。聞いた話だけど」
「おいおい、随分あやふやな話だな。さすがは泰斗だぜ」
「いいのよ、神事自体が行われてればそれで」
「そう言えば霊夢は何するのかしら」
「神事」
「内容よ」
「あー……祝詞と舞かな。誰にも見せちゃダメらしいけど」
「何でだ?」
「本当の神事は穢れを嫌うからね。秘めやかにしないとダメなのよ」
「デリケートね」
「私のようにな」
「「それはない」」
またしても二人同時に突っ込みを入れられ、魔理沙は口を尖らせてそっぽを向く。その様子が可笑しくて、残りの二人は笑い出すが、釣られて魔理沙も笑てしまう。巫女と魔法使いとメイドは相性がいいらしい。
神社の境内のどこからかセミが鳴いている。
公平な弾幕ごっこでお昼ご飯の当番を決め、魔理沙が素麺を茹でて、それを食べる。
食べた後はそれぞれでゴロゴロしていたが、ふと咲夜が口を開いた。
「そういえば魔理沙、結局貴方は祭りに行くの?」
「あー? 私は行かないぜー」
縁側の風通しのいい位置で寝転がりながら、すっかりダラけきった声で魔理沙がうだうだと返事をする。
霊夢と言えば座布団を折りたたんで枕にして、すっかり昼寝モードに入ってしまっていた。
「なんで? 好きそうじゃない」
「祭り自体は好きなんだがなー……実家あるから行きたくないんだよ。仲悪いし」
「ふぅん」
「てなわけで私はパスだ。行くんなら他所を当たってくれ」
そう言うと魔理沙はゴロリと咲夜に背を向けてしまった。
「あぁそうだ、寝てる場合じゃないわ」
寝ていたはずの霊夢が起き出すと、咲夜に視線を向け、ふんわりと微笑む。
何事かと咲夜が視線だけで聞くと、彼女はその笑みのまま、こういった。
「あんた、祭りに行くなら浴衣が必要でしょ? 私が持ってるのあげるから、こっちに来て」
太鼓の音がする。
それは破魔の音となって、地を揺らす。
笛の音がする。
それは天高く、魂送りの標となって、空へ抜けていく。
人の声がする。
それは賑やかさと暖かみを伴って、終わることを忘れ、人々は踊り、唄い、酔う。
茜を通り越え、群青のベールが引かれた空は晴れ渡り、星が瞬き、月が昇り始めていた。
本来ならば家に閉じこもるはずの人々は太鼓と笛の音に引き寄せられ、外を歩く。
狭い幻想郷の、それも一つしかない人里によくもこれだけの人がいたものだ、と咲夜は素直に感心した。
咲夜は霊夢にもらった紺の浴衣を着ていた。所々に時計があしらわれた、まるで彼女のためにあつらえたかのようなデザインであり、持っていたはずの霊夢は「こんな浴衣、私持ってたっけ……」と呟いたほどだ。
結局の所、咲夜は一人で祭りに行く事になった。何しろ彼女が親しい人間と言えば霊夢と魔理沙だけであり、あとは妖怪ばかりだったから仕方ないことであった。
里の大通りには露店と神輿が出ており、大勢の男達が威勢のいい掛け声とともに担いで練り歩く。
普段なら夕刻を過ぎた時間で閉まってしまう店も、特別に明りが灯されている。
行き交う人々は幸せそうな表情を浮かべる親子連れから付き合っているのだろう男女が、仲睦まじく手を繋いで歩いていたり、子供だけの集まりがやれあっちに行こう、それともこっちがいいかと露店に目を輝かせて歩いている。
まるで遠い昔に戻ったかのような感傷を感じるが、それも昔の事だと、あの人口だけが多く、霧に包まれた街の事だと思い直し、あてどもなく咲夜は歩いた。
――そういえば、ゆっくりと歩いてみることなんて中々無かったわね……
射的の露店を見ながらそんな事を思ってみる。人里は訪れる事はあっても、目的だけ果たせばさっさと帰ってきてしまうのが常だったので、ある意味で新鮮さをを感じる。
しかし――
「あんまり面白いものじゃないわね……」
咲夜は呟いた。
まるで何もかもが遠く感じられる。談笑する親子も、頬を染めながら歩く男女も、走り回る子供達も、全て一枚のガラスを隔てた別の世界のように感じられる。自分だけがまるで別種の生き物のようだ。
大勢の人間の中にいるのに、孤独を感じる、という矛盾。
――昔は慣れてたのにねぇ。
誰の中にも存在できなくても大して気にも止めなかった自分をかえりみて、苦笑したくなる。
それでも昔は昔、今は今はだと思い直す。
しばらく歩いてみて、適当に焼きそばなんかを買ってみたけど、高い、まずい、多くて食べきれない、という三重苦だった。
クジを引いておもちゃをもらう年齢でもなく、お腹は焼きそばで必要以上に満腹。とりあえずお茶だけを露店で求め、ブラブラした所でやる事が無くなってしまった。
いっそ帰ってしまおうかと悩んでると、いつの間にか街の外れの方まで歩いてきてしまっているのに気がつく。
そういえば随分歩いたような気がする。ここら辺で少し休むのもいいかもしれない
辺りには田畑が広がっているが、夜の帳に覆われ、よくは見えない。手近な土手に腰を下ろし、里のほうを見ると、ここまで届く太鼓や笛の音と、かすかな喧騒が聞こえた。
「遠いわねぇ……」
何もかもが遠い。あの太鼓も、笛も、喧騒も。
楽しいはずの場所なのに、ちっとも楽しくない。
――もとより楽しめるはずのない人間だとはわかってたのにね……
独白だけが続く。
――つくづく私は人間じゃないんだなぁ。
想いは、言葉にならない。
――今では悪魔の狗だし。
言葉にならない想いは、咲夜の中にだけ溜まっていく。
――そもそも、初めから、私は……
吐き出せない。消す事もできない。
――誰かに好かれたことなんてあったっけ。
膝を抱える。まるで胎児のように。
――必要とされるだけなの、かな。
不意に視界がボヤける。
――あれ、なんでだろ。ま、いっか……
抱えた膝に顔を押し付ける。
その時だった。咲夜の背後から聞き慣れたあの声がしたのは。
「なーにやってんのよ、貴女は」
慌てて振り向く。
そこには浴衣を着込んだレミリア、パチュリー、美鈴が立っていた。
レミリアは夜目にも鮮やかな上品な紅にコウモリの柄を合わせた浴衣を着ており、その恰好のまま、腕を組んで咲夜を見下ろしている。
パチュリーはいつもの無表情でこちらを見ているし、美鈴はどうしたものかと泣きそうな顔をしていた。
「探しちゃったじゃない。私が呼んだらすぐに来るっていういつもの貴女はどうしたのよ。これだから人間は使えないわ」
「…………不器用」
「えと、その、あの」
それぞれが好き勝手に喋る。
事態が飲み込めずに、咲夜は呆然と呟いた。
「あの、お嬢様達はどうして……? 人間のお祭りですよ……? 来ないって……」
「気が変わったの」
レミリアは強めの口調で言うと、フンとそっぽを向いてしまう。
「それにしても、人間の祭りを見に来てやろうと思って来たっていうのに、当の人間であるアナタがどこにもいないじゃない。おかげで探し回る羽目になるし、こっちは大変だったんだからね?」
「探しましたよー」
「案内人がいないのにあんな雑踏の中にいたら、それこそ迷うわ」
口々に好き勝手な事を言う。
レミリアが前に出ると咲夜の耳元に口を近づけて、小さくささやいた。
「遅れて、ごめん」
「お嬢さっ!」
咲夜が何を言うよりも早くレミリアはその場を離れ、
「ほら、咲夜がいないと何を楽しんだらいいのか解からないわ。時間ももうあんまりなさそうだし。とっとと行くわよ」
大きな声で咲夜の言葉を遮ると、レミリアはとっとと走り出してしまう。
咲夜は立ち上がると、着物の裾を軽く叩いて、後を追い出した。
「お嬢様、あまりはしゃいだら転んでしまいますよ」
「あ、待って下さいよ〜」
「やっぱり不器用ね……」
「パチェ、美鈴、早くしないと終わっちゃうわよ!」
美鈴とパチュリーも後を追って動き始める。全員が笑顔を浮かべていた。
レミリアの背中を追いながら、
――あぁ、私はこの方がいいんだな。
と思った。
紅魔館こそが咲夜のいるべき場所であり、生涯をかけて守るべき物がそこにある。
胸を張ってそう言える。これ以上の幸せがどこにある?
祭りはまだ続いている。
祭り好きの幻想郷の住人達の事だ、最低でも夜半までは続くのだろう。よく見れば子供の数は減り、大人が締める割合が増えてきているが、それとともに様々なアルコールの匂いが強くなってきていた。
「さすがに人数は減ってきましたね」
往来を歩きながら美鈴が言う。ちなみにその手の紙皿にはこれでもかというぐらいの量の焼きそばが盛られており、彼女はそれをまったく気にせずに食べている。さらに言えば、これが三皿目だという事実も忘れてはいけない。
「それでも、さっきよりは活気付いているわ。お酒のせいね」
手にした杏子飴をくるくると回しながら舐めていたレミリアが答える。この杏子飴は、店の人とジャンケンで勝ったらもう一本サービスという触れ込みがしてあり、彼女はそこで二連勝して四本にしてきた物だ。それを全員に渡してある。
「そうね、子供数が減っているだけで、大人の数と、アルコールの勢い。というのが正しいのかも知れないわね」
ぐい、とカクテルの入ったコップを傾けながらパチュリーが続く。喘息持ちなのに、やたらとカクテル類の酒が好きなのだ。
「幻想郷らしい、ということなのでしょう」
どこからかかっぱらったであろう団扇でやんわりと自分を煽っている咲夜がそう締めた。
その時である。聞き慣れた声がすると、そこには酔っ払った顔の霊夢がいた。
「あーっ! アンタらなんでいるのよ!」
「まぁまぁ霊夢。折角の祭りなんだから気にしたら負けだぜ」
傍らにいるのはいつもの白黒、魔理沙だ。
「アンタ達ぃー、ここは人間の祭りなのよ。解かってるの?」
「解かってるわよ」
「何を今さらですわ」
「酔っ払いの妄言ね」
「そこの紫に言われたくないわよ!」
「まーまー霊夢さん。まだ残ってるじゃないですか。お代わり持ってきますんで、ささ、ぐぐーと」
「え、なんか悪いわね。じゃお言葉に甘えて」
「おー、さすがは霊夢。いい呑みっぷりじゃないか」
「あはははははははは!」
「ところで霊夢」
「何よレミリア」
「別に暴れたり悪いことしようって言うんじゃないわ。ただ、楽しくしたいだけなのよ。それじゃダメかしら?」
「霊夢さーん、お代わり二つ持ってきたんで、ぐぐーとやっちゃって下さい!」
「え、あ、うん」
「ささ、ぐぐぐぃっと!」
「んぐっ、んぐっ、ぷはぁぁぁぁぁぁぁ! やっぱり美味しぃー!」
「みんなー。霊夢がいてもいいって」
「あれー? 私いつの間に……まぁいっかー! レミリアも飲めー!」
「これ、日本酒? 苦手なんだけど……」
「お嬢様、好き嫌いは良くありませんわ」
祭りは続いていく。終わる事の無い一夜はまだ始まったばかりだ。
夜が明ければ、またそれぞれの生活に戻っていく。しかしそれは次の祭りへの準備期間でしかなく、それが繰り返されていくだけだ。
独りだけで始まった咲夜の夜は、今大勢の人妖によって紡ぎ出されている。
繋がりあったという糸は絡み、もつれ、より複雑に、そして強固になっていく。
それが絆という、咲夜の手に入れた物なのかもしれない。
アルコールに頬を赤らめたレミリアは、魔理沙に酌をしている咲夜を見ながら、誰にも聞こえない声で呟いた。
「貴女という華が咲くのを見れて私は幸せだわ。この時が、この夜が、いつまでも続く事を私は素直に願うよ」