恋に憧れた事は、それこそ星の数ほどあったと思う。
恋愛もののマンガやドラマが好きで、それらを見る度にまた、それこそ作り話のような恋を夢想した。
そして、その度に現実に打ちのめされてきた。
打ちのめされてきた――というのは言い過ぎだろうと我ながら思うけれど、それでもやっぱり、物語の主人公のように心の底からときめくような恋に出会った事がないのも事実。
実際に誰かを好きになった事も、何度かはあった気がする。
けれどそのどれもが、今になって思えば本当に相手の事が好きだったと言える自信がない。
なんとなく「いいな」と思って、そうして目で追っていたりする内に自分はこの人が好きなのかな、とか思ったり、冷静に考えてみればそんなのばっかりだ。
それでもその時はそんな事を思っているはずもなくて、見ているだけでも気持ちがふわふわと浮き上がるようだったし、目が合えば暫く胸のどきどきが収まらなかったりもした。
世間一般的には、そういう事を恋と言うのであって、ならばやっぱり好きだったという事なのだろう。
でも、本当に、心の底から好きじゃなかった。
今なら解る。痛いほどに解る。
あれは幻影。
マンガやドラマを見て、自分もこんな恋をしてみたいと思った、そんな心が生み出した幻のようなもの。
本当の恋じゃない。
恋に恋焦がれた結果の、まやかしの恋心。
少し例えは違うけれど、吊り橋効果みたいなものだ。
そんなで、私はこの十六年間でまだ一度も本当の恋というものを経験した事がない。
そんな事を言うと、友人からは揃って
「この乙女ちっくめ!」
とか言われてしまうのだけれども。
いいじゃないか乙女ちっく。浪漫は人の心を豊かにするってお父さんも言っていたもの。
でも、同時にそれが「浪漫」でしかないという事も、最近は薄々感じるようになってきてしまった。
本当の恋に出会った事がない。
周りにもそんな真剣に恋をする人はいない。
皆「なんとなく」で付き合ったり別れたり。
私も一応はそんな年頃の娘であるからして、そういった類の話にはついつい乗ってしまったりもするのだけれど、やっぱりどこか違うのだ。
でも周りから見れば、私の方が「違う」訳で。
それでも私はやっぱり物語のような恋がしてみたくて。
そして現実はいつだって期待を裏切ってくれるのだ。
でも、今回ばかりは神さまの気まぐれか、はたまた悪魔の悪戯か、裏切る方向を盛大に間違えてくれたようだ。
「……はぁ」
溜息が出る。溜息が出てしまう。溜息でも吐かないとこいつはやっていられない。
本当にどうした事か。こんな事は予想していなかった。想像もしていなかった。妄想ですら生温かった。
「まー、それで今日二十三回目ね」
そんな折りに背後からかけられた声。
いつの間に休み時間になっていたのだろうか。教壇には既に先生の姿は無くて、教室のあちらこちらに生徒が散らばっているのが見えた。
「……はぁ」
「二十四回目、と」
言うと同時に、声の主がとすっと後ろからもたれ掛かってきて、肩越しににゅっと顔を出してきた。
まーは今日も柔らかいなぁ、などと言いながら、もっぱら私の友人一号であるところのみーこと里美が頬をすり寄せてくる。
スキンシップにしても少々度が過ぎてやいないかと思う事もあるけれど、まぁ彼女に関して言えば、それこそ今更な事なので黙って放置。
「私ね、ついに見つけたのかもしれない」
「ほう、私とまーにぴったりの式場でも見つけたの?」
「……なにそれ」
「じゃぁ女子更衣室の覗き穴とか?」
「何がじゃぁなのか解らないけど。というかそれってわざわざ覗く意味はあるの?」
言うと、彼女はふふんと得意げに鼻を鳴らして、
「覗き穴とは人類の叡智、そこから見るのは実像じゃない。溢れすぎて困るくらいの浪漫なのだよ、まーくん」
なるほど、豊かすぎる心も中々困ったものだ。
しかしまぁ、うん、女子が女子の更衣室を覗いてどうするんだろうか。ほんと、これさえ無ければ普通にいい娘なのになぁ。
「で、何を見つけたの?」
一度引っ込めた顔をまた逆側から突き出して、みーが言う。
なんのかんのと言いながらも、ちゃんと話は聞いてくれる辺りは非常に好ましい。ほんと、根はいい娘なんだけど。
「……あー」
と、答えを返そうとしたところで、思わず言葉が詰まってしまった。
なぜに?
そんな疑問が頭の中で膨らんでいく。それもそのはず、こういった話は別に、それこそ今更であるし、今までだって何度もみーには話している。向こうも恐らくは気付いているのだろう。いつも以上にくっついてくるのがその証拠だ。
私がこういう話を切り出そうとすると、彼女はいつもそれを察して先制攻撃を仕掛けてくる。
本人は「マーキング」とかなんとか言っていたのだけれど。
あんたは犬か。
とまぁそんな、言うなればいつもの慣れた会話のはずなのだ。
なのに、言葉が出ない。
いつもはあっさりと言ってのける最初の一言が、出てこない。
「うん?」
みーもそんな私を不思議に思ったのか、頬擦りを中断して、「どったの?」とでも言いたげな視線を向けてきた。
そんな顔で見られても困る。というか、どうしたのかと聞きたいのは寧ろ私の方だ。
声が出ない。言うべき言葉は解っているのに、喉の奥につっかえたまま、それ以上進んでくれない。
三組のさ、そうそう陸上部の。かっこいいよね。足速いし、スポーツ全般なんでも出来るんでしょ? すっごいよねぇ。それで頭もいいとか、反則じゃない? いやまぁ、私としては別にそんな所はどうでもいいと言えばどうでもいいんだけどね。
昨日ちょっとね、廊下の角でぶつかっちゃったんだけどさ、うん、なんてーの? なんてーの? うん、いや、ちょっと、うん、これは無理、ほんと無理だって。いや今なら解るよ。今までなんとなく抱いていた恋心なんて、所詮子供だましみたいなものだったんだって。ほら誰だっけ、芸能人でビビビっときたとか言ってる人いたでしょ? そう、正にそんな感じなんだけど、いやもうそんなんじゃないよこれは。ゴメン侮ってた。恋侮ってた。一目惚れとか正直信じてなかった。
いやでも一目惚れとか凄いロマンチックじゃね? ほんと、あの場面を絵にしたら私凄い花とか背負ってたよ。見開きで縁取られてたよ。うん、だからね、まぁつまるところさ、うん、なんだ、つまりその、
「す――」
「す?」
「――」
「す?」
「――っぷはぁ!」
好きかも。
非常に遺憾ながらも、みーに聞かせるにはすっかりと言い慣れてしまったその言葉は、やっぱりとでも言うべきか、喉の奥に張り付いたまま、出てきてくれようとはしなかった。
「ありゃりゃ……重傷だねぇ、こりゃ」
「うー……」
「こんなになるなら、恋なんてしなきゃよかった」
「そういうのって、普通は玉砕したりしてから言う台詞じゃないの?」
みーは軽々しくそんな事を言ってくれるけれど、これはもう、体験した当人でなければきっと解らない。
恋って切ないんだぜ!
恋って苦しいんだぜ!
マンガとかでしか見たことのないようなそんな言葉も、今なら声を大にして言えそうだ。実際、ちょっと叫んでみたい。
みー曰く、七十二回の溜息をもってして迎えた放課後。
私も彼女もどこの部活にも所属していない、所謂帰宅部。今日みたいによく晴れた日には、二人で街にでも繰り出してあちこち歩き回ったりもするのだけれど、気付けば屋上のベンチなぞに並んで座っていた。
フェンス越しに見えるグラウンドでは、運動部の生徒達が所狭しと練習に励んでいる。
野球部、サッカー部、ソフトボール部、そして――陸上部。
ついついそちらに目がいってしまう。
隣でみーが何かあれこれと喋っているようだったけれど、そんなものは聞こえない。
ひたすら走って、走って、走って。
「大変そうだなぁ……」
「ほう、あれか、あいつか、あんなのがいいのか」
「へっ!?」
驚いて隣を見ると、みーがじっとフェンスの向こうに広がるグラウンドを睨んでいた。
まさかバレたのだろうか。
ここから見えるグラウンドの生徒なんて、指先くらいの大きさにしか見えないのに?
「アレでしょ? 陸上部の――あ、今走った」
完璧にバレておいでであった。何だこいつ、人の心が読めるのか?
「いや、まーの見る先をずっと見てたら誰でも解るって」
「やっぱり読まれてる!?」
「で、アレなんでしょ?」
そんな私のことなどお構いなしに、みーがぐっと顔を寄せてくる。だから近いって。
普段であれば、茶化したりふざけてじゃれあったりするような、そんな距離。でもじっと見てくるみーの目がいやに真剣みを帯びていて、思わず喉を鳴らしてしまった。
そんな眼差しから逃げるように、顔を逸らす。
そしてまた、彼が目に入る。
途端、ボっと顔が赤くなるのが自分でも解った。
今までにだって、人を好きになった事はある。
でも、そんなのとはもう根本的に違うのだ。
二、三言葉を交わせれば、それだけで嬉しかった。
同じ時間を共有出来るだけで、楽しかった。
でもこれは、そんな清く正しい恋なんてレベルじゃない。
顔を見るのも恥ずかしい。
声を掛けるなんて、出来るはずがない。
話しかけられたりしたらだなんて、考えるだけでも頭が沸騰しそうだ。
今時中学生でもそんな風にはならねーよ、と自分でも思う。
でも仕方ないじゃないか。なるものはなるんだから。
そんな事ばかり考えて、また胸がいっぱいになる。また何も考えられなくなる。また――溜息が出る。
「七十三回目」
少し呆れたようなみーの言葉に、どこからともなく申し訳なさが込み上げてくる。
「……ごめん」
だから、謝ってみた。
何に対して申し訳なく思っているのか、何に対して謝っているのか。そんなどこに向けたのかも解らないような謝罪は、言われた相手にしても受け取り方に困るだろうに、それでも謝らずにはいられなかった。
「――いいよ」
けれど、みーはほんの少しだけ間を置いて、ただそれだけを言った。
その言葉は。みーの言葉は。
果たして、何に対する答えだったのか。
「でも、そこまで本気ならあれだね、これはもう突撃するしかないね!」
「へっ!?」
一転して、みーはぐっと拳を握ったかと思うと、もう片方の手で力強く私の肩を叩いてきた。
その目はこれでもかというくらいにキラキラと輝いていて、先程とは別の意味でなんだか逸らしたくなってくる。
「突撃って――えぇ!? 無理無理、ぜぇーったいに無理!」
話し掛けるなんて出来るはずがないと思ったばかりなのに、そんないきなりこ、こここここここくは
「ふわぁ――」
思わず意識が飛びかけた。さもすればそのまま後ろに倒れそうになったところを、みーに支えられてなんとか持ち直した。
促されるままに一度、二度と深く息を吸い込んで、ゆっくりと吐いて、少しずつ落ち着きを取り戻す。
「今時中学生でもそんな風にはならんぜよ」
「知ってる」
それでもまだ少しふらついていた私の頭を、みーが強引に自分の膝元に押さえ込む。もう少し丁寧に扱ってくれと言いたくなるようなものだったけれど、言葉でも行動でも返す気力がないので、大人しくされるがままにしておいた。
夕暮れが近づけば、吹く風にもいくらか冷たさが混ざってくる。横向きになった世界。スカートの布地越しに伝わる温もりは、そんな中で程よく温くて、放っておけばこのまま寝むってしまいそうなほどだった。
「私はね」
グラウンドから聞こえてくる喧噪の中に溶け入りそうな声で、みーがぽつりと言葉を漏らした。同時に、細い指が膝上に置いた私の頭をそっと撫でる。
何度も、何度も。
「いつだって、まーの味方だから」
優しく、酷く優しく。
梳いた髪がさらりとみーの肌に落ちる。
「……いいの?」
本当は、解っていた。
申し訳なく思った理由も。
謝った理由も。
「さっきも言った」
みーはどうにもこうにも困ったやつで。
「……」
でも、ほんとは凄くいいやつで。
「違うよ」
私の髪を梳いていた手を止めて、みーが言う。
「私はただの臆病者。一歩を踏み出すことも、退くことも出来ない、中途半端な卑怯者」
「……」
「だからね、まーが本気なら。本当にそうしたいと思うのなら、私は応援するよ?」
一瞬の間。
続くはずだった言葉を飲み込んだのだろう。なんとなく言いたいことは解った。解ってしまった。
みーに膝枕をされたまま、けれどその顔を見るのはどことなく抵抗があって、ずっと遠い空を見ていた。
東の空は、いつの間にか青みが消えて夜の藍へと染まり始めていた。屋上のコンクリートに伸びる影は細く長く。振り向けば、さぞや綺麗な夕焼け空が広がっているのだろう。
「……いいの?」
藍色に染まる空を見ながら言った、同じ言葉。そこに込めた意味も、きっとさっきと同じ。
卑怯者はどっちだ。
どっちの方が臆病者だ。
「うむす。お姉さんに任されよ」
でも、みーはやっぱり凄くいいやつで。
「……優しすぎなんだよね」
「何か言った?」
「誕生日は私の方が先だって言ったの」
Φ
一歩を踏み出すことのなんと難しいことか。
今日こそは、今日こそはと決意を固めても、いざ事を起こそうとすると、途端に足が竦んでしまう。
そんなに鈍感な訳じゃない。相手の事だって少しは解る。
それでも、それでもだ。
一歩を踏み出すことのなんと難しいことか。
結局のところ、私はどこまでもヘタレで、どこまでも臆病で、いざとあと何度思えば、この足は前に進んでくれるのだろうか。
目の前に立たれた。即座に逃げ出した。
思い切って声を掛けてみた。顔から火が出るかと思った。
遠くから眺めていた。この上なく幸せだった。
何故かお菓子なんて貰った。一週間ニヤケっぱなしだった。
その時に手が触れた事を思いだした。卒倒した。
そうこうしている内に、すっかりと時間が経ってしまった。
近づけば近づくほど、離れてしまうのが怖くなってきた。
臆病者の私は、停滞を選んだ。
付かず、離れず、平行線。
それでよかった。
それでいいはずだった。
実際、毎日が幸せだった。
けれど、同時に後悔の念も強くなっていった。
言わなければ、届かない気持ちがある。
言葉に乗せなければ、伝わらない想いがある。
解った気になって、それで安心して、停滞したまま。
いつかは離れていくと思っていた。
この時間はいつまでも続かないのだと、解っていた。
言わなければいけない言葉がある。
伝えなければいけない想いがある。
彼女は、ずっと待っていてくれたのだ。
思い上がりかもしれない。
自惚れているのかもしれない。
けれど、もし言えていたら、伝えられていたらと思えばこそ、後悔の念は更に強くなっていくのだ。
だから。
言わなければいけない。
伝えなければいけない。
たとえその結果として、深い悲しみを背負う事になっても。
だから――私は応援しよう。
どうか、彼女が後悔だけはしないように。
恋愛もののマンガやドラマが好きで、それらを見る度にまた、それこそ作り話のような恋を夢想した。
そして、その度に現実に打ちのめされてきた。
打ちのめされてきた――というのは言い過ぎだろうと我ながら思うけれど、それでもやっぱり、物語の主人公のように心の底からときめくような恋に出会った事がないのも事実。
実際に誰かを好きになった事も、何度かはあった気がする。
けれどそのどれもが、今になって思えば本当に相手の事が好きだったと言える自信がない。
なんとなく「いいな」と思って、そうして目で追っていたりする内に自分はこの人が好きなのかな、とか思ったり、冷静に考えてみればそんなのばっかりだ。
それでもその時はそんな事を思っているはずもなくて、見ているだけでも気持ちがふわふわと浮き上がるようだったし、目が合えば暫く胸のどきどきが収まらなかったりもした。
世間一般的には、そういう事を恋と言うのであって、ならばやっぱり好きだったという事なのだろう。
でも、本当に、心の底から好きじゃなかった。
今なら解る。痛いほどに解る。
あれは幻影。
マンガやドラマを見て、自分もこんな恋をしてみたいと思った、そんな心が生み出した幻のようなもの。
本当の恋じゃない。
恋に恋焦がれた結果の、まやかしの恋心。
少し例えは違うけれど、吊り橋効果みたいなものだ。
そんなで、私はこの十六年間でまだ一度も本当の恋というものを経験した事がない。
そんな事を言うと、友人からは揃って
「この乙女ちっくめ!」
とか言われてしまうのだけれども。
いいじゃないか乙女ちっく。浪漫は人の心を豊かにするってお父さんも言っていたもの。
でも、同時にそれが「浪漫」でしかないという事も、最近は薄々感じるようになってきてしまった。
本当の恋に出会った事がない。
周りにもそんな真剣に恋をする人はいない。
皆「なんとなく」で付き合ったり別れたり。
私も一応はそんな年頃の娘であるからして、そういった類の話にはついつい乗ってしまったりもするのだけれど、やっぱりどこか違うのだ。
でも周りから見れば、私の方が「違う」訳で。
それでも私はやっぱり物語のような恋がしてみたくて。
そして現実はいつだって期待を裏切ってくれるのだ。
でも、今回ばかりは神さまの気まぐれか、はたまた悪魔の悪戯か、裏切る方向を盛大に間違えてくれたようだ。
「……はぁ」
溜息が出る。溜息が出てしまう。溜息でも吐かないとこいつはやっていられない。
本当にどうした事か。こんな事は予想していなかった。想像もしていなかった。妄想ですら生温かった。
「まー、それで今日二十三回目ね」
そんな折りに背後からかけられた声。
いつの間に休み時間になっていたのだろうか。教壇には既に先生の姿は無くて、教室のあちらこちらに生徒が散らばっているのが見えた。
「……はぁ」
「二十四回目、と」
言うと同時に、声の主がとすっと後ろからもたれ掛かってきて、肩越しににゅっと顔を出してきた。
まーは今日も柔らかいなぁ、などと言いながら、もっぱら私の友人一号であるところのみーこと里美が頬をすり寄せてくる。
スキンシップにしても少々度が過ぎてやいないかと思う事もあるけれど、まぁ彼女に関して言えば、それこそ今更な事なので黙って放置。
「私ね、ついに見つけたのかもしれない」
「ほう、私とまーにぴったりの式場でも見つけたの?」
「……なにそれ」
「じゃぁ女子更衣室の覗き穴とか?」
「何がじゃぁなのか解らないけど。というかそれってわざわざ覗く意味はあるの?」
言うと、彼女はふふんと得意げに鼻を鳴らして、
「覗き穴とは人類の叡智、そこから見るのは実像じゃない。溢れすぎて困るくらいの浪漫なのだよ、まーくん」
なるほど、豊かすぎる心も中々困ったものだ。
しかしまぁ、うん、女子が女子の更衣室を覗いてどうするんだろうか。ほんと、これさえ無ければ普通にいい娘なのになぁ。
「で、何を見つけたの?」
一度引っ込めた顔をまた逆側から突き出して、みーが言う。
なんのかんのと言いながらも、ちゃんと話は聞いてくれる辺りは非常に好ましい。ほんと、根はいい娘なんだけど。
「……あー」
と、答えを返そうとしたところで、思わず言葉が詰まってしまった。
なぜに?
そんな疑問が頭の中で膨らんでいく。それもそのはず、こういった話は別に、それこそ今更であるし、今までだって何度もみーには話している。向こうも恐らくは気付いているのだろう。いつも以上にくっついてくるのがその証拠だ。
私がこういう話を切り出そうとすると、彼女はいつもそれを察して先制攻撃を仕掛けてくる。
本人は「マーキング」とかなんとか言っていたのだけれど。
あんたは犬か。
とまぁそんな、言うなればいつもの慣れた会話のはずなのだ。
なのに、言葉が出ない。
いつもはあっさりと言ってのける最初の一言が、出てこない。
「うん?」
みーもそんな私を不思議に思ったのか、頬擦りを中断して、「どったの?」とでも言いたげな視線を向けてきた。
そんな顔で見られても困る。というか、どうしたのかと聞きたいのは寧ろ私の方だ。
声が出ない。言うべき言葉は解っているのに、喉の奥につっかえたまま、それ以上進んでくれない。
三組のさ、そうそう陸上部の。かっこいいよね。足速いし、スポーツ全般なんでも出来るんでしょ? すっごいよねぇ。それで頭もいいとか、反則じゃない? いやまぁ、私としては別にそんな所はどうでもいいと言えばどうでもいいんだけどね。
昨日ちょっとね、廊下の角でぶつかっちゃったんだけどさ、うん、なんてーの? なんてーの? うん、いや、ちょっと、うん、これは無理、ほんと無理だって。いや今なら解るよ。今までなんとなく抱いていた恋心なんて、所詮子供だましみたいなものだったんだって。ほら誰だっけ、芸能人でビビビっときたとか言ってる人いたでしょ? そう、正にそんな感じなんだけど、いやもうそんなんじゃないよこれは。ゴメン侮ってた。恋侮ってた。一目惚れとか正直信じてなかった。
いやでも一目惚れとか凄いロマンチックじゃね? ほんと、あの場面を絵にしたら私凄い花とか背負ってたよ。見開きで縁取られてたよ。うん、だからね、まぁつまるところさ、うん、なんだ、つまりその、
「す――」
「す?」
「――」
「す?」
「――っぷはぁ!」
好きかも。
非常に遺憾ながらも、みーに聞かせるにはすっかりと言い慣れてしまったその言葉は、やっぱりとでも言うべきか、喉の奥に張り付いたまま、出てきてくれようとはしなかった。
「ありゃりゃ……重傷だねぇ、こりゃ」
「うー……」
「こんなになるなら、恋なんてしなきゃよかった」
「そういうのって、普通は玉砕したりしてから言う台詞じゃないの?」
みーは軽々しくそんな事を言ってくれるけれど、これはもう、体験した当人でなければきっと解らない。
恋って切ないんだぜ!
恋って苦しいんだぜ!
マンガとかでしか見たことのないようなそんな言葉も、今なら声を大にして言えそうだ。実際、ちょっと叫んでみたい。
みー曰く、七十二回の溜息をもってして迎えた放課後。
私も彼女もどこの部活にも所属していない、所謂帰宅部。今日みたいによく晴れた日には、二人で街にでも繰り出してあちこち歩き回ったりもするのだけれど、気付けば屋上のベンチなぞに並んで座っていた。
フェンス越しに見えるグラウンドでは、運動部の生徒達が所狭しと練習に励んでいる。
野球部、サッカー部、ソフトボール部、そして――陸上部。
ついついそちらに目がいってしまう。
隣でみーが何かあれこれと喋っているようだったけれど、そんなものは聞こえない。
ひたすら走って、走って、走って。
「大変そうだなぁ……」
「ほう、あれか、あいつか、あんなのがいいのか」
「へっ!?」
驚いて隣を見ると、みーがじっとフェンスの向こうに広がるグラウンドを睨んでいた。
まさかバレたのだろうか。
ここから見えるグラウンドの生徒なんて、指先くらいの大きさにしか見えないのに?
「アレでしょ? 陸上部の――あ、今走った」
完璧にバレておいでであった。何だこいつ、人の心が読めるのか?
「いや、まーの見る先をずっと見てたら誰でも解るって」
「やっぱり読まれてる!?」
「で、アレなんでしょ?」
そんな私のことなどお構いなしに、みーがぐっと顔を寄せてくる。だから近いって。
普段であれば、茶化したりふざけてじゃれあったりするような、そんな距離。でもじっと見てくるみーの目がいやに真剣みを帯びていて、思わず喉を鳴らしてしまった。
そんな眼差しから逃げるように、顔を逸らす。
そしてまた、彼が目に入る。
途端、ボっと顔が赤くなるのが自分でも解った。
今までにだって、人を好きになった事はある。
でも、そんなのとはもう根本的に違うのだ。
二、三言葉を交わせれば、それだけで嬉しかった。
同じ時間を共有出来るだけで、楽しかった。
でもこれは、そんな清く正しい恋なんてレベルじゃない。
顔を見るのも恥ずかしい。
声を掛けるなんて、出来るはずがない。
話しかけられたりしたらだなんて、考えるだけでも頭が沸騰しそうだ。
今時中学生でもそんな風にはならねーよ、と自分でも思う。
でも仕方ないじゃないか。なるものはなるんだから。
そんな事ばかり考えて、また胸がいっぱいになる。また何も考えられなくなる。また――溜息が出る。
「七十三回目」
少し呆れたようなみーの言葉に、どこからともなく申し訳なさが込み上げてくる。
「……ごめん」
だから、謝ってみた。
何に対して申し訳なく思っているのか、何に対して謝っているのか。そんなどこに向けたのかも解らないような謝罪は、言われた相手にしても受け取り方に困るだろうに、それでも謝らずにはいられなかった。
「――いいよ」
けれど、みーはほんの少しだけ間を置いて、ただそれだけを言った。
その言葉は。みーの言葉は。
果たして、何に対する答えだったのか。
「でも、そこまで本気ならあれだね、これはもう突撃するしかないね!」
「へっ!?」
一転して、みーはぐっと拳を握ったかと思うと、もう片方の手で力強く私の肩を叩いてきた。
その目はこれでもかというくらいにキラキラと輝いていて、先程とは別の意味でなんだか逸らしたくなってくる。
「突撃って――えぇ!? 無理無理、ぜぇーったいに無理!」
話し掛けるなんて出来るはずがないと思ったばかりなのに、そんないきなりこ、こここここここくは
「ふわぁ――」
思わず意識が飛びかけた。さもすればそのまま後ろに倒れそうになったところを、みーに支えられてなんとか持ち直した。
促されるままに一度、二度と深く息を吸い込んで、ゆっくりと吐いて、少しずつ落ち着きを取り戻す。
「今時中学生でもそんな風にはならんぜよ」
「知ってる」
それでもまだ少しふらついていた私の頭を、みーが強引に自分の膝元に押さえ込む。もう少し丁寧に扱ってくれと言いたくなるようなものだったけれど、言葉でも行動でも返す気力がないので、大人しくされるがままにしておいた。
夕暮れが近づけば、吹く風にもいくらか冷たさが混ざってくる。横向きになった世界。スカートの布地越しに伝わる温もりは、そんな中で程よく温くて、放っておけばこのまま寝むってしまいそうなほどだった。
「私はね」
グラウンドから聞こえてくる喧噪の中に溶け入りそうな声で、みーがぽつりと言葉を漏らした。同時に、細い指が膝上に置いた私の頭をそっと撫でる。
何度も、何度も。
「いつだって、まーの味方だから」
優しく、酷く優しく。
梳いた髪がさらりとみーの肌に落ちる。
「……いいの?」
本当は、解っていた。
申し訳なく思った理由も。
謝った理由も。
「さっきも言った」
みーはどうにもこうにも困ったやつで。
「……」
でも、ほんとは凄くいいやつで。
「違うよ」
私の髪を梳いていた手を止めて、みーが言う。
「私はただの臆病者。一歩を踏み出すことも、退くことも出来ない、中途半端な卑怯者」
「……」
「だからね、まーが本気なら。本当にそうしたいと思うのなら、私は応援するよ?」
一瞬の間。
続くはずだった言葉を飲み込んだのだろう。なんとなく言いたいことは解った。解ってしまった。
みーに膝枕をされたまま、けれどその顔を見るのはどことなく抵抗があって、ずっと遠い空を見ていた。
東の空は、いつの間にか青みが消えて夜の藍へと染まり始めていた。屋上のコンクリートに伸びる影は細く長く。振り向けば、さぞや綺麗な夕焼け空が広がっているのだろう。
「……いいの?」
藍色に染まる空を見ながら言った、同じ言葉。そこに込めた意味も、きっとさっきと同じ。
卑怯者はどっちだ。
どっちの方が臆病者だ。
「うむす。お姉さんに任されよ」
でも、みーはやっぱり凄くいいやつで。
「……優しすぎなんだよね」
「何か言った?」
「誕生日は私の方が先だって言ったの」
Φ
一歩を踏み出すことのなんと難しいことか。
今日こそは、今日こそはと決意を固めても、いざ事を起こそうとすると、途端に足が竦んでしまう。
そんなに鈍感な訳じゃない。相手の事だって少しは解る。
それでも、それでもだ。
一歩を踏み出すことのなんと難しいことか。
結局のところ、私はどこまでもヘタレで、どこまでも臆病で、いざとあと何度思えば、この足は前に進んでくれるのだろうか。
目の前に立たれた。即座に逃げ出した。
思い切って声を掛けてみた。顔から火が出るかと思った。
遠くから眺めていた。この上なく幸せだった。
何故かお菓子なんて貰った。一週間ニヤケっぱなしだった。
その時に手が触れた事を思いだした。卒倒した。
そうこうしている内に、すっかりと時間が経ってしまった。
近づけば近づくほど、離れてしまうのが怖くなってきた。
臆病者の私は、停滞を選んだ。
付かず、離れず、平行線。
それでよかった。
それでいいはずだった。
実際、毎日が幸せだった。
けれど、同時に後悔の念も強くなっていった。
言わなければ、届かない気持ちがある。
言葉に乗せなければ、伝わらない想いがある。
解った気になって、それで安心して、停滞したまま。
いつかは離れていくと思っていた。
この時間はいつまでも続かないのだと、解っていた。
言わなければいけない言葉がある。
伝えなければいけない想いがある。
彼女は、ずっと待っていてくれたのだ。
思い上がりかもしれない。
自惚れているのかもしれない。
けれど、もし言えていたら、伝えられていたらと思えばこそ、後悔の念は更に強くなっていくのだ。
だから。
言わなければいけない。
伝えなければいけない。
たとえその結果として、深い悲しみを背負う事になっても。
だから――私は応援しよう。
どうか、彼女が後悔だけはしないように。