女のくせに、と笑われるかと思っていたが、案外そうでもなかった。物珍しさでグラウンドのフェンスの向こう、校舎の三階、通学路、あちらこちらから視線は時折投げかけられたものの、むしろ男一色の世界に飛び込んだのは格好良いことだと、口を開けば男も女も概ね好意的に言ってくれた。
直球の速度だって変化球の数だって、男連中のそれに一枚ずつ及ばない。そんな自分に、だったらコントロールや配球を磨けば良いだけだから、と言ってくれた先輩が実は甲子園を目指す四番打者だった――と知ったのは、
私が女子野球部に入ってから、またしばらく後のことだった。
掛け持ちを合わせてもやっと12人という、ギリギリの零細チーム。不遜なことを言えば、県立高校が自由な校風をアピールするための半ばお体裁として存続させているような名ばかりの部で、やれることといったら高が知れていた。少年野球時代からちゃんと野球を囓っていたのは自分の他にたった1人、その彼女も見様見真似程度だったとくればもう上には誰も居ないという状況、エースで四番にちゃっかり座って、それでも私が目標を見失わずにいられたのは、きっと彼のお陰だった。
「捕手が居ないのによく投げられるよなあ――お前」
「先輩が打ってくれたらキャッチ居なくても一緒じゃん?」
「いや的が定まらないだろ、って話。普通」
「……男の理屈ってやつだね」
「はぁ?」
振りかぶり、見据えたバッターボックスの向こうに橙色の太陽が落ちてゆく。
「女の練習はね……キャッチャー居る方が珍しかったの!」
えいやっ、と思い切り投げた直球は――佐恵の力みを嘲笑うように、打ち頃の高めに浮いた。
右打席に構えていた彼――四番センター本田のスイングに高々と舞い上げられる佐恵の全力。乾いた金属音は体育館の壁に跳ね返り、白球は空に溶け、夕焼け空と同じ色に染まる。
「そりゃ失礼」
「別に」
遥か頭上を悠然と超えてゆく打球。
会話はそこで途切れ、ボールがやがて引力に引っ張られて落ちてくるその落下点を、二人は息を殺してじっと見定めている。鴎が弧を描く空、汐の香りの混じる風。黄昏色が塗り潰してゆくまばらな街並と小山と、白かったはずの灰色のボール。
ぼこっ、と音がして、
乾いた土のグラウンドで、高々とバウンドする青春の一日。
「……センターフライ」
「どう見たってセンターオーバーだっつの」
「どんな箱庭みたいな球場でやってるってのよ」
「あんなの捕れるセンターが女子部に居るのかよ!」
ころころ地面を転げ回り、やがて勢いを失い、マウンドから遠く離れて打球は転がり止む。夕ご飯を焼く匂い。自転車通学の青白いヘルメットが危険な速度で歩道をぶっ飛ばす。通りすがりのテニス部が、ボールを拾って投げ返してくれた。
「男子部ならたぶん居るんじゃん? 俊足外野手」
「あのなぁ――」
取り留めの無い会話が、二人きりのダイヤモンドを駆け巡る。
私が高校に入って一年が過ぎる頃に、彼は三年生になろうとしていた。
当たり前のことだ。だけど、一つ歳が違うだけの高校生活がそう考えるととても短く見えて、何となくしょぼんとする。寂れた漁港がぽつり佇む寒村の高校で、二年生から不動の四番で県下では名の知れた存在――と、彼のことを教えてくれたのはローカルニュースの河崎アナウンサー。午後六時三〇分。
あんなのってどうせ提灯でしょ? と世間知らずの私がぬけぬけ言ったとき、彼の周りのいがぐり坊主達が笑いながら私をたしなめ、だけど彼だけは全然怒らなかった。根が真面目なのだ。そして、すべては笑い話なのだった。
プロ注目だとか甲子園が狙えるだとか、佐恵にはまるで現実味を感じられなかった。彼もきっとそうだった。九州の先っぽから眺める東京という地や、甲子園というグラウンドにしても私はどこか、遥か遠い、違う国のお話だと思い込んで疑っていなかったと思う。人よりも鴎の数の方が多い鄙びた街で、本当の事なんてきっと誰も知らない。クラスには、渋谷や新宿の景色を見たことがある子なんてほとんど居ない。プロのスカウトが来た、と。ある日クラスの誰かが興奮げに言った。本当に来たのかどうか、やっぱり誰も知らないまま終わった。今年はこの高校が夏の甲子園の有力候補だ、と、河崎アナよりは比較的真面目そうなキャスターが呟き始めた気の早い二月頃、本田は新三年生らしく、野球よりも受験のことを気に病み始めていた。つまりは、そういう価値観だったと思う。期末試験を控えて部活が途切れた日曜日に、私は彼を誘った。
太宰府天満宮。
初めて行くなあ、と先輩は笑っていた。
「良いのか? 練習」
「今日は休み」
甲子園最右翼の期待を背負う四番打者と二人きりで出掛けることができたのは、私が女子部のエースで四番という看板を持っていたからで、本田先輩にとってはきっとそれ以外の理由なんて何も無かった。隙あらば私の投球練習に付き合ってくれていることを知っている部員達は、今更冷やかしもしない。でもそこから「野球」という二文字が抜け落ちた今日は、
(なんか……デートみたいだな)
それにやっと気付いて、電車の中で一人心を火照らせていた。
本田先輩の柔和な笑顔が、何故かしら深く、ひたすら私の印象に残っている。
「先輩は」
「ん」
「どこの大学行くか決めた?」
屋台に取り囲まれた参道で、のんびり歩きながら問い掛ける。
僅かに逡巡の沈黙を挟み、
「決めてない」
小さな声で、彼が答えた。
「……ダメな人ですね」
「ダメな人だよ」
そう言って、また笑う。
天満宮に着くと、彼は私に梅枝餅を買ってくれた。道真公に両手を合わせて、文武両道でお願いしますとお賽銭を投げて、おみくじを引いた。「おまえのカーディガン姿って、初めて見るなあ」といきなり言われて意味もなく、どきっとしたりした。早足の時間がゆっくり通りすぎる不思議な浮遊感の中で、二人で同じ東風の匂いを嗅いだ。それなりに幸せだったと思う。
その風、微かに混じる甘い香りに誘われてふと歩けば、美しく開いた紅梅が、行き交う人々を見下ろしている。
「飛び梅……かぁ」
「おまえが口にすると似合わないなあ」
「ちょっと」
唇を尖らせた私に先輩は、小さな照れ隠しの笑いをくれる。
「斎藤……おまえってさ」
「うん?」
頭をかりかり掻きながら、本田先輩は困ったように言う。
「将来って考えてる?」
「考えてるよ」
「ふうん」
何となく複雑そうに呟いた彼は、暗算中みたいな難しい顔で空を仰ぎ、問いを継ぐ。
「浮かぶ?」
「浮かばない」
また笑う。
「……やっぱり」
「うん」
自販機で買ってきたホットの缶コーヒーとミルクティの湯気が、不安と楽観を寄り添わせて青空を目指している。東京は遠い世界で、女子野球の県大会は一回戦がイコール準決勝なんて有様である。
満開に開いた飛び梅を、虚ろな瞳で見上げる本田先輩が、ほんの少し儚く見える。
「私、いつも思うけど」
「?」
「希望ってつまり――絶望できるかどうかだ、って思う」
あの梅の花は、私に教えてくれないだろうか。
私の夢が、一体、どこにあるのかと。
私は瞳に焼き付けるように、本田先輩の顔と、そして紅梅の匂やかなるを交互に見つめた。失意の内に太宰へ流れ着いた道真の見果てぬ夢を、飛び梅は、遙かな都から追いかけて追いかけてこの西の最果てまで来たという。一人の春を追いかけて咲いた健気な梅の下で、
道真は本当に、歴史に伝わる薄倖の人だったろうか。
彼は都から離れすぎたこの土地で、この梅に、一体どんな夢を見ただろう。
「……面白い事言ったね」
「……でしょ」
何かに絶望出来るってのは、きっと満ち足りたことだと思う。
簡単に優勝が手に入る野球の大会、三択問題みたいな四択問題みたいな進路のことも。
そして、今隣に座っている、すごいのかすごくないのかよく分からない、でも取りあえず、私にはよく笑ってくれる四番打者の先輩のことも。
「うん……いつか先輩を、真剣勝負で打ち取るのが夢」
「……そうか」
飲み干した後の缶を、ふたりまるで子供みたいに屑籠へ放り投げた。
立ち上がる。
「……やれるもんならやってみろ」
「首洗って待ってろ」
にやっ、と笑った本田先輩の瞳は、少しだけまた、輝きを取り戻していた。
最後に札所で、学業成就のお守りを二人で買った。
夏が引き裂かれる音がする。
降りしきるアブラゼミの鳴き声もどこか残酷で、一つずつ終わりに向かって近づいてゆくアウトカウントが、夏の熱気を孕んで球場全体を追い立てる。
背中を伝う汗が冷たい。
自分がやっている競技と同じとは思えない熱気に涙が出そうになる。水を得た焦躁という名の魚が、グラウンドで明らかに暴れ回っているのに私はどうだ。アルプススタンドに埋もれる期待と焦りと、割れるような歓声の中のたった一つにしかなれないでいる。
九回、二死満塁。一点差。
マンガみたいなシチュエーションにスタンドが沸き返り、悠然と右の打席に向かう背中の大きさを私は一人、大歓声の中でずっと考えている。
『俺が打席に立ってやる』
『はい。……え? どういう意味ですか?』
『お前は真剣に投げろ。俺も本気で打つ。――俺が言うのもあれだけど、よく打つ打者に立ってもらった方が投手は絶対身になるもんだ』
『え……は、はい! ありがとうございます!』
絶望のない希望は無い。そしてあの頃は、希望に溢れていた。
だというのに。
野球への情熱がどうとかではなく、つまり本田先輩がいつもいつもホームランや火の出るようなクリーンヒットで夕方の一打席勝負を圧倒的に制してゆくことの悔しさでもなくて、ただひたすらに私自身がどこへ向かうのかを模索していた。投手と打者に力以外の上下関係なんて無いから、と、後輩の私にタメ口を許してくれた優しさも今、二死満塁の打席には欠片も漂っていない。
私が追いかけている夢は何で、
彼が追いかけている夢は何。
私は私に問い掛ける。
2ストライク1ボール、と電光掲示板が叫んでいる。悲鳴にも似た三塁ベンチの声。メガホン越しの応援団。大太鼓を叩き潰す音とそれに覆い被さる圧倒的な蝉の声。甲子園というお伽の国への切符を、ゆらゆらいたずらに泳がせる夏の陽炎。
華々しくトウキョウのプロ野球にスカウトされ、活躍する彼が見たかったのか。
夕方のグラウンドで私が打ち倒せる相手としての彼が良かったのか。
今、答えをはっきりと思う。
濁った金属音が響き渡り、力ない打球がセカンドの正面に転がっていった。
沸き上がる歓声、塗り潰す悲鳴、失われる二つの声の境界。放り棄てられて宙を舞う最後の青春。丁寧な送球が一塁ベース上のミットを目指した。ベースから遙か遠い場所の彼が、懸命に、本物の絶望と戦って必死に走っている。
私も、あんなに絶望できるだろうか。
心を無くした空蝉のように、アルプスの真ん中で私だけがただ、物言わぬ棒となって立ちすくんでいる。
「ごめん……」
「は?」
「最後の打席ね、迷ってた」
「何に」
「私……本当に先輩に、打って欲しいのかな、って」
「…………ごめん。よく分かんない」
「私にも分かんない」
「いや、違う――」
太宰府のあの時と同じように、彼はかりかりと頭を掻く。
「俺……なんか、鈍いから」
白い月が、真っ暗な夜空の真ん中に浮かんでいる。球拾いが忘れたボールが一個、フェンス際のよもぎに呑まれて転がっている。校庭をぐるりと囲んだカクテル光線の鉄塔が、グラウンドの隅っこに僅かに残ったサッカー部とラグビー部と、一人ずつ残った男子野球部と女子野球部の活動を照らし出す。
「斎藤」
「何……ですか」
口調が自然と敬語に戻ってしまう。彼が、首を横に振る。
「斎藤佐恵」
「……何? 先輩」
「一打席勝負」
途方に暮れていた顔を上げる。
ベンチにもたれ掛かっていた銀色のバットを、本田が拾い上げた。ほんの今し方までそこでやっていた監督の最後の訓辞と選手達の嗚咽の細波を、まるで夏の熱気ごと呑み込んでしまった銀色の棒状の青春そのもの。
四番打者の腕の中、照明灯の光に冷たく冴え返る。
「今から……?」
「俺は今日で夏が終わる。おまえは今夏の優勝投手。今から、じゃない。今しかないだろ」
気圧される。
こくり、と、無言で頷くしかなかった。
二人きりの延長戦が始まる。
私は、次第に怖くなっていった。
初球のストレートを彼は空振りして、私の心の敏感な場所を焦らし始める。焦燥の魚が、夏の球場から夜のグラウンドに歩いてきた。
「……速くなったな」
「言わないで良い、そんなこと」
キャッチャーが居ないのが、普通の女子野球だった。
バックネットまでボールを拾いに行った彼が、よもぎ色に薄汚れた夏をマウンドへ投げ返す。
二球目の変化球を、彼は当て損ねた。チップしたファールボールが、バックネットの上の方にぶつかってつんざくような音になる。サッカー部が遙か後ろで、こちらを少し振り返った。
「最後はでも、ちゃんと応援してたんですよ!」
「はあ?」
「私、先輩に打って欲しかった……です!」
息つく間も置かず、三球目のフォームに入る。大きく振りかぶり、肩を開くな、腰を使え、下半身主導のフォームだ、とにかく腕を鋭く振るんだ、彼から教わったすべてを私は込めて、
彼だけに打ってほしい球を投げ込む。
二人きり、高校最後のダイヤモンド。見えないランナーが塁を埋めた。照りつける陽射し、三塁ベンチと九人の野手と、蝉と応援団と大太鼓の声。夏の魔物。茹だる様な暑さと陽炎の海。
今度こそ私は、私も、あの夏の球場で、本物の絶望と戦っている。
ボールが、指から離れた。
「……!!」
ぶん、と、鈍く風を切る音だけが聞こえた。
打席の後ろ、ワンバウンドして砂煙を吐いた球は、直球の勢いのままバックネットにぶつかって激しい音を立ててそこに止まる。
「ナイスボール!」
「……」
黙っていた。
「……これですっきりした。吹っ切れたよ。ありがとう」
「ずるいです」
間髪を入れず、それだけ、絞り出した。
バッターボックスが堪えようもなく、ぐにゃりと歪む。
「……は?」
「ずるいです!」
叫んで、くるっと後ろを向いた。大きな咳払いを一つしたら、溢れ掛けた気持ちはすぐに止まった。彼の打席に背を向けて天を仰ぎ、――あの日頭上を遥か越えていった打球の行方を、そして今日のセカンドゴロを、私はまた追憶の中に追いかけた。
――私、本当に先輩に、打って欲しいのかな、って。
そう思っていた。
私の夢は、私の夢を追いかけられる日々そのものだった。
なのに。なのに。
熱気が消える。大太鼓が止む。ベンチはまた空っぽになり、大音声の蝉達は一様に空蝉となった。
ボールを拾いに行く者は誰もいない。
観衆の居ない最後の試合が現実感を食べ尽くす。季節という名の審判が、あまりにも静かなゲームセットを告げる。
東京の大学に受かった! と電話を受けたのは、奇しくも私が来春の第一志望の必勝祈願で、太宰府に足を運んでいるその時だった。
「野球は?」
「続ける。続けるために東京行くんだ」
「そっか。良かった」
私はほっとした。辞めてしまうのだろうか、とずっと心配していたから、少し安心する。
「でも大学野球だったら、九州でも出来るのに」
「それもそうなんだけど」
電話の奥から、駅の構内アナウンスが聞こえる。ここからだと博多にでも出なきゃ聞けないような、まくし立てるような情報が飛び交う本物のホーム。
合格発表を見に来た、と彼があまりにもあっさり言うから私は度肝を抜かれた。不合格だったらどうすんのよ、すごい無駄足じゃない、と茶々を入れて彼にまた笑われて、
ぽつりと言われた。
「俺さ、都会行きたかったんだ」
すべての音が消える。
「……」
「……」
「……そっか」
「うん」
なぜか、また、ちょっとだけほっとした。
これで本当に、恐らくは本当に――最後のイニングの攻撃が、終わった気がしたのだ。
「先輩。合格おめでと」
「ありがと。斎藤も頑張れよ、大学でも女子野球のあるところは今多いしさ。……なんなら東京来い、そしたら俺の」
「すみません」
すっかり聞き慣れてしまっている先輩の声を、気付けば私は、久々の敬語で遮っていた。
そしてもう迷わぬよう二の息を継がず、そのまま努めて明るい声を絞り出す。
「私、野球辞めますから」
それだけ、告げた。
卒業式までにまた「デートしましょうね」と言って、私は携帯電話を切った。
名残惜しい東京の向こう側をポケットにねじ込み、行き交う観光客に混じり、彼らが愛でるその梅の花を私も見上げた。
一年前の、ちょうどあの日と同じように。
隣に、今日はもう居ない人の事を想いながら。
いつかこの寂れた街に、東から風が吹けば思い出したい。
遠く離れた都の夢を、私も観られるだろうか――そう思ったらなぜだろう、少しだけ、悔し涙が溢れてきた。
直球の速度だって変化球の数だって、男連中のそれに一枚ずつ及ばない。そんな自分に、だったらコントロールや配球を磨けば良いだけだから、と言ってくれた先輩が実は甲子園を目指す四番打者だった――と知ったのは、
私が女子野球部に入ってから、またしばらく後のことだった。
掛け持ちを合わせてもやっと12人という、ギリギリの零細チーム。不遜なことを言えば、県立高校が自由な校風をアピールするための半ばお体裁として存続させているような名ばかりの部で、やれることといったら高が知れていた。少年野球時代からちゃんと野球を囓っていたのは自分の他にたった1人、その彼女も見様見真似程度だったとくればもう上には誰も居ないという状況、エースで四番にちゃっかり座って、それでも私が目標を見失わずにいられたのは、きっと彼のお陰だった。
「捕手が居ないのによく投げられるよなあ――お前」
「先輩が打ってくれたらキャッチ居なくても一緒じゃん?」
「いや的が定まらないだろ、って話。普通」
「……男の理屈ってやつだね」
「はぁ?」
振りかぶり、見据えたバッターボックスの向こうに橙色の太陽が落ちてゆく。
「女の練習はね……キャッチャー居る方が珍しかったの!」
えいやっ、と思い切り投げた直球は――佐恵の力みを嘲笑うように、打ち頃の高めに浮いた。
右打席に構えていた彼――四番センター本田のスイングに高々と舞い上げられる佐恵の全力。乾いた金属音は体育館の壁に跳ね返り、白球は空に溶け、夕焼け空と同じ色に染まる。
「そりゃ失礼」
「別に」
遥か頭上を悠然と超えてゆく打球。
会話はそこで途切れ、ボールがやがて引力に引っ張られて落ちてくるその落下点を、二人は息を殺してじっと見定めている。鴎が弧を描く空、汐の香りの混じる風。黄昏色が塗り潰してゆくまばらな街並と小山と、白かったはずの灰色のボール。
ぼこっ、と音がして、
乾いた土のグラウンドで、高々とバウンドする青春の一日。
「……センターフライ」
「どう見たってセンターオーバーだっつの」
「どんな箱庭みたいな球場でやってるってのよ」
「あんなの捕れるセンターが女子部に居るのかよ!」
ころころ地面を転げ回り、やがて勢いを失い、マウンドから遠く離れて打球は転がり止む。夕ご飯を焼く匂い。自転車通学の青白いヘルメットが危険な速度で歩道をぶっ飛ばす。通りすがりのテニス部が、ボールを拾って投げ返してくれた。
「男子部ならたぶん居るんじゃん? 俊足外野手」
「あのなぁ――」
取り留めの無い会話が、二人きりのダイヤモンドを駆け巡る。
私が高校に入って一年が過ぎる頃に、彼は三年生になろうとしていた。
当たり前のことだ。だけど、一つ歳が違うだけの高校生活がそう考えるととても短く見えて、何となくしょぼんとする。寂れた漁港がぽつり佇む寒村の高校で、二年生から不動の四番で県下では名の知れた存在――と、彼のことを教えてくれたのはローカルニュースの河崎アナウンサー。午後六時三〇分。
あんなのってどうせ提灯でしょ? と世間知らずの私がぬけぬけ言ったとき、彼の周りのいがぐり坊主達が笑いながら私をたしなめ、だけど彼だけは全然怒らなかった。根が真面目なのだ。そして、すべては笑い話なのだった。
プロ注目だとか甲子園が狙えるだとか、佐恵にはまるで現実味を感じられなかった。彼もきっとそうだった。九州の先っぽから眺める東京という地や、甲子園というグラウンドにしても私はどこか、遥か遠い、違う国のお話だと思い込んで疑っていなかったと思う。人よりも鴎の数の方が多い鄙びた街で、本当の事なんてきっと誰も知らない。クラスには、渋谷や新宿の景色を見たことがある子なんてほとんど居ない。プロのスカウトが来た、と。ある日クラスの誰かが興奮げに言った。本当に来たのかどうか、やっぱり誰も知らないまま終わった。今年はこの高校が夏の甲子園の有力候補だ、と、河崎アナよりは比較的真面目そうなキャスターが呟き始めた気の早い二月頃、本田は新三年生らしく、野球よりも受験のことを気に病み始めていた。つまりは、そういう価値観だったと思う。期末試験を控えて部活が途切れた日曜日に、私は彼を誘った。
太宰府天満宮。
初めて行くなあ、と先輩は笑っていた。
「良いのか? 練習」
「今日は休み」
甲子園最右翼の期待を背負う四番打者と二人きりで出掛けることができたのは、私が女子部のエースで四番という看板を持っていたからで、本田先輩にとってはきっとそれ以外の理由なんて何も無かった。隙あらば私の投球練習に付き合ってくれていることを知っている部員達は、今更冷やかしもしない。でもそこから「野球」という二文字が抜け落ちた今日は、
(なんか……デートみたいだな)
それにやっと気付いて、電車の中で一人心を火照らせていた。
本田先輩の柔和な笑顔が、何故かしら深く、ひたすら私の印象に残っている。
「先輩は」
「ん」
「どこの大学行くか決めた?」
屋台に取り囲まれた参道で、のんびり歩きながら問い掛ける。
僅かに逡巡の沈黙を挟み、
「決めてない」
小さな声で、彼が答えた。
「……ダメな人ですね」
「ダメな人だよ」
そう言って、また笑う。
天満宮に着くと、彼は私に梅枝餅を買ってくれた。道真公に両手を合わせて、文武両道でお願いしますとお賽銭を投げて、おみくじを引いた。「おまえのカーディガン姿って、初めて見るなあ」といきなり言われて意味もなく、どきっとしたりした。早足の時間がゆっくり通りすぎる不思議な浮遊感の中で、二人で同じ東風の匂いを嗅いだ。それなりに幸せだったと思う。
その風、微かに混じる甘い香りに誘われてふと歩けば、美しく開いた紅梅が、行き交う人々を見下ろしている。
「飛び梅……かぁ」
「おまえが口にすると似合わないなあ」
「ちょっと」
唇を尖らせた私に先輩は、小さな照れ隠しの笑いをくれる。
「斎藤……おまえってさ」
「うん?」
頭をかりかり掻きながら、本田先輩は困ったように言う。
「将来って考えてる?」
「考えてるよ」
「ふうん」
何となく複雑そうに呟いた彼は、暗算中みたいな難しい顔で空を仰ぎ、問いを継ぐ。
「浮かぶ?」
「浮かばない」
また笑う。
「……やっぱり」
「うん」
自販機で買ってきたホットの缶コーヒーとミルクティの湯気が、不安と楽観を寄り添わせて青空を目指している。東京は遠い世界で、女子野球の県大会は一回戦がイコール準決勝なんて有様である。
満開に開いた飛び梅を、虚ろな瞳で見上げる本田先輩が、ほんの少し儚く見える。
「私、いつも思うけど」
「?」
「希望ってつまり――絶望できるかどうかだ、って思う」
あの梅の花は、私に教えてくれないだろうか。
私の夢が、一体、どこにあるのかと。
私は瞳に焼き付けるように、本田先輩の顔と、そして紅梅の匂やかなるを交互に見つめた。失意の内に太宰へ流れ着いた道真の見果てぬ夢を、飛び梅は、遙かな都から追いかけて追いかけてこの西の最果てまで来たという。一人の春を追いかけて咲いた健気な梅の下で、
道真は本当に、歴史に伝わる薄倖の人だったろうか。
彼は都から離れすぎたこの土地で、この梅に、一体どんな夢を見ただろう。
「……面白い事言ったね」
「……でしょ」
何かに絶望出来るってのは、きっと満ち足りたことだと思う。
簡単に優勝が手に入る野球の大会、三択問題みたいな四択問題みたいな進路のことも。
そして、今隣に座っている、すごいのかすごくないのかよく分からない、でも取りあえず、私にはよく笑ってくれる四番打者の先輩のことも。
「うん……いつか先輩を、真剣勝負で打ち取るのが夢」
「……そうか」
飲み干した後の缶を、ふたりまるで子供みたいに屑籠へ放り投げた。
立ち上がる。
「……やれるもんならやってみろ」
「首洗って待ってろ」
にやっ、と笑った本田先輩の瞳は、少しだけまた、輝きを取り戻していた。
最後に札所で、学業成就のお守りを二人で買った。
夏が引き裂かれる音がする。
降りしきるアブラゼミの鳴き声もどこか残酷で、一つずつ終わりに向かって近づいてゆくアウトカウントが、夏の熱気を孕んで球場全体を追い立てる。
背中を伝う汗が冷たい。
自分がやっている競技と同じとは思えない熱気に涙が出そうになる。水を得た焦躁という名の魚が、グラウンドで明らかに暴れ回っているのに私はどうだ。アルプススタンドに埋もれる期待と焦りと、割れるような歓声の中のたった一つにしかなれないでいる。
九回、二死満塁。一点差。
マンガみたいなシチュエーションにスタンドが沸き返り、悠然と右の打席に向かう背中の大きさを私は一人、大歓声の中でずっと考えている。
『俺が打席に立ってやる』
『はい。……え? どういう意味ですか?』
『お前は真剣に投げろ。俺も本気で打つ。――俺が言うのもあれだけど、よく打つ打者に立ってもらった方が投手は絶対身になるもんだ』
『え……は、はい! ありがとうございます!』
絶望のない希望は無い。そしてあの頃は、希望に溢れていた。
だというのに。
野球への情熱がどうとかではなく、つまり本田先輩がいつもいつもホームランや火の出るようなクリーンヒットで夕方の一打席勝負を圧倒的に制してゆくことの悔しさでもなくて、ただひたすらに私自身がどこへ向かうのかを模索していた。投手と打者に力以外の上下関係なんて無いから、と、後輩の私にタメ口を許してくれた優しさも今、二死満塁の打席には欠片も漂っていない。
私が追いかけている夢は何で、
彼が追いかけている夢は何。
私は私に問い掛ける。
2ストライク1ボール、と電光掲示板が叫んでいる。悲鳴にも似た三塁ベンチの声。メガホン越しの応援団。大太鼓を叩き潰す音とそれに覆い被さる圧倒的な蝉の声。甲子園というお伽の国への切符を、ゆらゆらいたずらに泳がせる夏の陽炎。
華々しくトウキョウのプロ野球にスカウトされ、活躍する彼が見たかったのか。
夕方のグラウンドで私が打ち倒せる相手としての彼が良かったのか。
今、答えをはっきりと思う。
濁った金属音が響き渡り、力ない打球がセカンドの正面に転がっていった。
沸き上がる歓声、塗り潰す悲鳴、失われる二つの声の境界。放り棄てられて宙を舞う最後の青春。丁寧な送球が一塁ベース上のミットを目指した。ベースから遙か遠い場所の彼が、懸命に、本物の絶望と戦って必死に走っている。
私も、あんなに絶望できるだろうか。
心を無くした空蝉のように、アルプスの真ん中で私だけがただ、物言わぬ棒となって立ちすくんでいる。
「ごめん……」
「は?」
「最後の打席ね、迷ってた」
「何に」
「私……本当に先輩に、打って欲しいのかな、って」
「…………ごめん。よく分かんない」
「私にも分かんない」
「いや、違う――」
太宰府のあの時と同じように、彼はかりかりと頭を掻く。
「俺……なんか、鈍いから」
白い月が、真っ暗な夜空の真ん中に浮かんでいる。球拾いが忘れたボールが一個、フェンス際のよもぎに呑まれて転がっている。校庭をぐるりと囲んだカクテル光線の鉄塔が、グラウンドの隅っこに僅かに残ったサッカー部とラグビー部と、一人ずつ残った男子野球部と女子野球部の活動を照らし出す。
「斎藤」
「何……ですか」
口調が自然と敬語に戻ってしまう。彼が、首を横に振る。
「斎藤佐恵」
「……何? 先輩」
「一打席勝負」
途方に暮れていた顔を上げる。
ベンチにもたれ掛かっていた銀色のバットを、本田が拾い上げた。ほんの今し方までそこでやっていた監督の最後の訓辞と選手達の嗚咽の細波を、まるで夏の熱気ごと呑み込んでしまった銀色の棒状の青春そのもの。
四番打者の腕の中、照明灯の光に冷たく冴え返る。
「今から……?」
「俺は今日で夏が終わる。おまえは今夏の優勝投手。今から、じゃない。今しかないだろ」
気圧される。
こくり、と、無言で頷くしかなかった。
二人きりの延長戦が始まる。
私は、次第に怖くなっていった。
初球のストレートを彼は空振りして、私の心の敏感な場所を焦らし始める。焦燥の魚が、夏の球場から夜のグラウンドに歩いてきた。
「……速くなったな」
「言わないで良い、そんなこと」
キャッチャーが居ないのが、普通の女子野球だった。
バックネットまでボールを拾いに行った彼が、よもぎ色に薄汚れた夏をマウンドへ投げ返す。
二球目の変化球を、彼は当て損ねた。チップしたファールボールが、バックネットの上の方にぶつかってつんざくような音になる。サッカー部が遙か後ろで、こちらを少し振り返った。
「最後はでも、ちゃんと応援してたんですよ!」
「はあ?」
「私、先輩に打って欲しかった……です!」
息つく間も置かず、三球目のフォームに入る。大きく振りかぶり、肩を開くな、腰を使え、下半身主導のフォームだ、とにかく腕を鋭く振るんだ、彼から教わったすべてを私は込めて、
彼だけに打ってほしい球を投げ込む。
二人きり、高校最後のダイヤモンド。見えないランナーが塁を埋めた。照りつける陽射し、三塁ベンチと九人の野手と、蝉と応援団と大太鼓の声。夏の魔物。茹だる様な暑さと陽炎の海。
今度こそ私は、私も、あの夏の球場で、本物の絶望と戦っている。
ボールが、指から離れた。
「……!!」
ぶん、と、鈍く風を切る音だけが聞こえた。
打席の後ろ、ワンバウンドして砂煙を吐いた球は、直球の勢いのままバックネットにぶつかって激しい音を立ててそこに止まる。
「ナイスボール!」
「……」
黙っていた。
「……これですっきりした。吹っ切れたよ。ありがとう」
「ずるいです」
間髪を入れず、それだけ、絞り出した。
バッターボックスが堪えようもなく、ぐにゃりと歪む。
「……は?」
「ずるいです!」
叫んで、くるっと後ろを向いた。大きな咳払いを一つしたら、溢れ掛けた気持ちはすぐに止まった。彼の打席に背を向けて天を仰ぎ、――あの日頭上を遥か越えていった打球の行方を、そして今日のセカンドゴロを、私はまた追憶の中に追いかけた。
――私、本当に先輩に、打って欲しいのかな、って。
そう思っていた。
私の夢は、私の夢を追いかけられる日々そのものだった。
なのに。なのに。
熱気が消える。大太鼓が止む。ベンチはまた空っぽになり、大音声の蝉達は一様に空蝉となった。
ボールを拾いに行く者は誰もいない。
観衆の居ない最後の試合が現実感を食べ尽くす。季節という名の審判が、あまりにも静かなゲームセットを告げる。
東京の大学に受かった! と電話を受けたのは、奇しくも私が来春の第一志望の必勝祈願で、太宰府に足を運んでいるその時だった。
「野球は?」
「続ける。続けるために東京行くんだ」
「そっか。良かった」
私はほっとした。辞めてしまうのだろうか、とずっと心配していたから、少し安心する。
「でも大学野球だったら、九州でも出来るのに」
「それもそうなんだけど」
電話の奥から、駅の構内アナウンスが聞こえる。ここからだと博多にでも出なきゃ聞けないような、まくし立てるような情報が飛び交う本物のホーム。
合格発表を見に来た、と彼があまりにもあっさり言うから私は度肝を抜かれた。不合格だったらどうすんのよ、すごい無駄足じゃない、と茶々を入れて彼にまた笑われて、
ぽつりと言われた。
「俺さ、都会行きたかったんだ」
すべての音が消える。
「……」
「……」
「……そっか」
「うん」
なぜか、また、ちょっとだけほっとした。
これで本当に、恐らくは本当に――最後のイニングの攻撃が、終わった気がしたのだ。
「先輩。合格おめでと」
「ありがと。斎藤も頑張れよ、大学でも女子野球のあるところは今多いしさ。……なんなら東京来い、そしたら俺の」
「すみません」
すっかり聞き慣れてしまっている先輩の声を、気付けば私は、久々の敬語で遮っていた。
そしてもう迷わぬよう二の息を継がず、そのまま努めて明るい声を絞り出す。
「私、野球辞めますから」
それだけ、告げた。
卒業式までにまた「デートしましょうね」と言って、私は携帯電話を切った。
名残惜しい東京の向こう側をポケットにねじ込み、行き交う観光客に混じり、彼らが愛でるその梅の花を私も見上げた。
一年前の、ちょうどあの日と同じように。
隣に、今日はもう居ない人の事を想いながら。
いつかこの寂れた街に、東から風が吹けば思い出したい。
遠く離れた都の夢を、私も観られるだろうか――そう思ったらなぜだろう、少しだけ、悔し涙が溢れてきた。