「というわけで、ちょっと死んでみたのよ」
「すいません。貴女が何を言ってるのかさっぱりわかりません」
ここは泣く子も平伏す楽園の最高裁判所。
豪奢な卓に両肘を置いた映姫は、虫歯が痛むような顔つきで目の前の彼女を見つめた。
その永久凍土のように冷たい視線を事も無げに受け流し、癖のある緑の髪をふぁさりと掻き上げた幽香は、かわいそうなものでも見るような目を映姫に向ける。
「だーかーらー何度も言ってるでしょ? ほら、なんでも外には地獄めぐりとかいう遊びがあるらしいじゃない? んで私もやってみよーかなーって思ったんだけどー。なんつーか私ってば育ちがいいからさー。根がハイソってか、本物しか認めないってゆーか、どうせなら本物の地獄に行ってみよーかなーって」
「それで自らの命を絶ったというわけですかっ!?」
「やーねぇ。ちょっと心臓止めただけよ。身体の方はエリーに任せてあるし、しばらくのんびりしてみようかなーと」
「迷惑です。すぐにお帰りください」
「つれないわねぇ。私と貴女の仲じゃない」
「どんな仲ですか」
「王様と犬?」
「帰れ」
ニガウリを噛み潰したような映姫に対し、幽香は「血の池地獄ってお肌に良さそうねぇ」とパンフ片手にうきうきしていた。
ちなみに幽香が持っているパンフレットは是非曲直庁が年に二回発行しているもので、天国と地獄の観光名所がこれでもかと記載されている。仏陀と並んでカンダタ釣り、針の山→血の池→煉獄の鉄人レース、各種神仏のコスプレをして練り歩く天界カーニバルなどのイベント情報が目白押しで、中有の道に出店している各種飲食店の割引券までついており、死者は勿論、生者の間でも好評だ。
まぁ生者の場合、一方通行の片道キップになってしまうわけだがそこはそれ。巻末には米粒に文字を書く匠の技で『ご利用は自己責任で』と明記されているので安心である。
斯様に明るく楽しい死後ライフを、フルカラーのグラビア印刷(表紙は特殊紙に浮き出し箔押しの豪華仕様)で過剰なまでに訴えており、天狗や河童も裸足で逃げ出す高度な印刷技術を惜しみなく注ぎ込んで、しかもそれを無料配布するという太っ腹ぶりだ。
「そんなところにお金を使うから財政難になるのよ……」
疲れたような映姫の溜息もむべなるかな。
閉じた瞼の裏に浮かぶのは先月の給与明細。基本給はここ数十年据え置きの癖に、福利厚生やら設備維持やらの様々な名目で随分と天引きされるようになっていた。
自らの血肉にも等しいサラリーが、こんなコンビニで無料配布しているような雑誌に注がれていると思うと、思わず労組を扇動し無期限ストライキを敢行したくなる。
「いいからほら。さっさと案内しなさいよ」
「私はガイドじゃありません! それに貴女は一応死んでしまったわけですし、これから裁判を――」
「あー、いいわよんなもん。どうせ私は地獄逝きでしょ? 時間の無駄だわ」
「って自覚あったんですか?」
「そりゃまぁ、愛のままに我がままに、好き勝手放題生きてきたわけだしねぇ。それに天国なんて退屈しそうだもの。行けと言われたって御免だわ」
死して魂だけになろうとも幽香は幽香。
どこまでも倣岸。限りなく不遜。それでこそ風見幽香である。
「ですが手続き上、裁判をしないってわけにも……」
「ならさっさとしなさい。ったく、これだからお役所仕事は」
怒りを通り越して世の無情すら覚えた映姫は、遠くを見つめる眼差しで直属の部下の姿を思い浮かべる。普段なら一仕事終える度に、お茶飲んだり饅頭頬張ったり黒百合の尻を撫で回したりとダラダラし続けるところを「さっさと仕事に戻れこの穀潰し」と尻を蹴り上げるのが日課となっていたというのに、今日だけは逃げるように仕事へと戻っていった。つか逃げた。
「……なんで河に突き落とさなかったのよ」
「ん? 何か言った?」
「いいえ、別に?」
映姫は全てを諦めたような顔で、幽香の罪状について資料を纏める。
その余りにも膨大な罪科に眩暈を覚えると共に、これからのことを考え――映姫はもう一度深い溜息を吐いた。
§
「それで何処に案内してくれるの?」
「だから私はガイドじゃないと……そうですね。血の池地獄にでも浸かってくればいいんじゃないですか? 一万年くらい」
「身も心も蕩けそうね?」
「オススメですよ?」
「まぁ、それは兎も角」
幽香は腰に手を当てて周囲を見渡す。
錆が浮きまくっている針の山。
禿山と化した焦熱地獄。
巨大な釜は底が抜けたのか使用禁止の札が貼ってあるし、その他の拷問具も碌に使われていないのか、壊れたまんま放置されている。
「寂れまくってるわねぇ」
「……う」
地獄の財政難は年々深刻化しており、昨今の少子化により更なる悪化が予測されていた。
地獄というものは、罪人を生かさず殺さず苦しめることにより生前の罪を償わせるものであるからして、死者を本当に殺してしまうわけにはいかない。いかないのだが、先の見えぬまま長引く不況によって、このままでは本当に餓死させてしまいかねなかった。無論、極限まで飢えさせるという刑罰もあるにはあるが、それはあくまで刑罰であって、大して罪のない者を同じ目に合わせるわけにはいかない。
というわけで、罪人たちは自給自足を余儀なくされていた。
焦熱地獄の跡地に畑を耕したり、中有の道で商売に勤しむなどの勤労が義務付けられており、そこで得た収益を地獄の運営に回している。その過程で働く喜びに目覚め、生前の罪を悔いる者も出てきたから結果オーライと言えないこともないのだが、これではただの強制収容所と変わりがない。
そんな状況である以上、刑具の修繕が後回しにされるのも止むを得ないことだろう。
「地獄の名が泣くわね」
「……ぐ」
呆れたような幽香の言葉に、映姫は声を失う。
映姫とて罪人を必要以上に苦しめたいとは思っていない。ないが、これまで先人たちが培ってきた地獄という看板が形骸化してしまうことに、内心忸怩たる想いを抱いていた。
今はまだ地獄という名の幻想が、生きている人々の罪に対する抑止力となっているが、この現状が知れ渡れば、死が、地獄が、軽視される事になるだろう。
もしそうなれば――そんなこと映姫は考えたくもなかった。
「ふ、ん」
悔しそうに唇を噛む映姫に何を感じたのか、幽香は軽く鼻を鳴らす。
鬱陶しそうに、面倒くさそうに。
だけど不敵に口元を歪ませて。
「なんとかしてあげましょうか?」
「え?」
「要するにアレでしょ? お金がない、設備もない、でも地獄の恐ろしさを人々に知らしめねばならない……ってわけでしょ?」
「え、あ、まぁ、その」
「こんな怖ろしい目に遭うのなら、地獄になんて絶対行きたくないと、罪を犯さず慎ましく生きるべきだと……思い知らせてやれば良いのでしょう?」
「えと、あの」
「ならば――私に任せなさい」
そう言って幽香は微笑む。
それは心に蔦を巻きつけるような、深い部分に根を這わすような。
艶やかで、華やかな、毒のある、薔薇のような――破滅の笑み。
飲まれる。飲み込まれそうになる。
全てを委ね、甘えてしまいたくなる。
だがそんな想いを振り切るように首を振って、映姫は問う。
「……何を、するつもりですか?」
問いながらも、映姫には解っていた。
不吉すぎる笑みが意味するものを。
それがどのような結果を生むことになるかを。
そんな想いを見透かすように、幽香は更に笑みを深くする。
ついっと。
映姫の顎に指を這わせ、口付けでもするように持ち上げ、瞳を正面から覗きこんで。
「――私を誰だと思っているの?」
それは抗うことを許さぬ王の瞳。その瞳の前では、閻魔といえど平常心ではいられない。早鐘のように鳴り響く鼓動を読まれぬよう、幽香の手を強引に振り解いて睨みつける。
「……何をしようとしているのか、粗方見当はつきます。ですが……そのようなこと認めるわけにはいきません!」
知らず、上ずった声が出てしまったことに赤面しながら、映姫は更に視線を強めた。
意志の篭った強い瞳。射抜くような鋭い眼光。
そんな閻魔の視線を受けながらも、幽香は小馬鹿にするようにへらりと笑う。
「相変わらず融通が利かないわねぇ。そんな生き方疲れない?」
「茶化さないでください! そもそも貴女は罪人なんですよ? これ以上の妄言は止め、大人しく法の裁きを――」
「わかってるってば。でもさ、それはそれ、これはこれよ。貴女だって現状に憤りを感じているのでしょう? このままではいけないと思ってるんでしょう? 何とかしたいと思っているのでしょう? ならば――私を使いなさい。私を利用して現状を打破しなさい。有効だと、試す価値があると、そう思っているからこそ貴女も迷っているのでしょう? 薬も過ぎれば毒となるように、毒もまた使い方次第では薬となる。私という劇薬を使いこなせるかどうか――今は貴女の器量が問われているのよ?」
「ですが……」
言い淀む映姫の瞳に、先程までの強さはない。
目を逸らし、抗いながらも、頭の中では冷静に計算を始めている。
幽香を使うことによる影響。
法と照らし合わせての正当性。その抜け道。
確かに法的には不可能ではないし、上手く行けば地獄も昔の威光を取り戻せるだろう。
たとえ失敗したところで、その時は幽香を処罰するだけで済む。当然、それを命じた映姫もただでは済まないだろうが、閻魔という役職に就いた時点でその程度の覚悟はすでに出来ていた。ならば後は――
「……一つだけ教えてください」
「何?」
「そうすることで貴女にどんな得があるというのです? 他人に道具として使われることを良しとする貴女ではないでしょう? 聞かせてください――貴女の狙いは何ですか?」
「貴女を愛しているから」
「舌を引っこ抜きますよ?」
「冗談よ。そうねぇ、私の狙いかぁ。この私が損得勘定で動くような俗物だと思われてたなんて心外だけど。まぁ、一言で言うなら」
――面白そうだから、よ。
そう言って、幽香はもう一度微笑む。
その微笑みを、瞳を見つめ、
映姫は僅かに首を振り、
溜息を吐き、疲れたように肩を落とし、
自らを掻き抱くように右手を左肘に回しながら――小さく頷いた。
§
「さーて、まずは現状の把握が必要ね」
ここは閻魔の執務室。
中心に黒檀の豪奢な机と椅子を据え、周囲の壁は膨大な書籍や資料で占められた圧迫感すら覚える室内。その部屋の中央で、椅子に腰掛け尊大に足を組んだ幽香は、扉の前に立ったままの映姫に向かって問い掛けるような視線を向けた。どちらが部屋の主か解らなくなる絵面だが、互いにその点について一ミクロンも疑問を抱かせないところが幽香の幽香たる所以である。
「そうですね……先程申し上げた通り、罪人たちへの刑罰は現在ほとんど行われていません。形式上、いえむしろ儀礼的に地獄に落とされたばかりの罪人に対しては刑罰が施されますが、その後はその者の適正を見極め、相応しい職場を紹介します」
「適正、ねぇ」
「浄頗梨の鏡を使うことで、その者の本質は解りますからね。概ね不満もなく受け入れられているようです。ちょっと前までは適当に職を与えていたのですが、職業適性の判断に浄頗梨の鏡を用いるようになってからというもの、収益率は三割を超える伸びを見せ――」
「んじゃ結構儲かってるんだ?」
「あ、いえ、それが……」
歯切れ悪く、映姫が言い淀んだ。
それに目ざとく気付いた幽香は、腰を浮かせて映姫へと詰め寄る。
「何か問題でもあるの?」
「はぁ……労働は義務である以上、全ての罪人は何らかの職を持っています。過去の経験から下手にこちらが手を出すより、罪人たちの裁量で自由に経済活動を行わせた方が、結果的に効率が良いのでそうしているのですが……その、なんというか……」
「何よ、はっきり言いなさい」
「その……獄卒たちの仕事が……」
「はぁ?」
「現在、この地獄には三百名以上の獄卒たちがいます。彼らは罪人に刑罰を与えるのが仕事なのですが……罪人が仕事に出ているということは、彼らの仕事がないというわけでして……暇を持て余しているというか……」
「つまり無駄飯喰らいってわけ?」
「いえ、そんな……」
言い淀んでいるが、それが正解なのだろう。
映姫の苦々しげな顔が、それを如実に物語っている。
「わっかんないわねぇ。そいつらも今は仕事がないんでしょ? んじゃ罪人と一緒に働かせればいいじゃない」
「いえ、それは……」
相変わらずはっきりとしない映姫へと、幽香は不機嫌そうな眼差しを向ける。
その視線を受けた映姫は、なおも迷い……やがて重々しく口を開いた。
「獄卒たちの職務は『罪人に罰を与える』ことです。罰を与えるべき罪人がいないという状態はあくまでも社会的な現象であり、彼らの手落ちではありません。彼らは己が職務に誇りを抱いており、それを仕事がないからといって他の職に回すことは、彼らの誇りを傷つける結果になるでしょう。ですから……その……」
「はん。誇り、ねぇ」
確かに彼らは罪人ではなく、自分の意思で獄卒となった者たちである。それを罪人たちと同じように副業に精を出せとは、流石の映姫も言い出しにくいのだろう。とはいえ――
「だからって、いつまでも遊ばせておくわけにはいかないでしょ? んでそいつらは今、何をしてるわけ?」
「はぁ。交代で罪人たちの職場を見回りに行く以外、特には……」
「本当に遊んでるっての!?」
幽香の叱責を受け、映姫は悔しそうに唇を噛む。
おそらく映姫は彼らの醜態を恥じると共に、そうせざるを得ない現状を生み出した己の不甲斐なさを責めているのだろう。無論、そうなった原因もまた映姫のせいではないのだが、さりとて誰を責めるわけにもいかないのだ。
地獄の財政がここまで厳しいものになったのは、三途の河で支払われる渡し賃が極端に減ったせいである。渡し賃とは生前親しかった者が『その人のために使ったお金の合計』であり、その者の縁の深さを示しているのだが、最近これがとみに少なくなったのだ。
人の縁が稀薄になった証拠であり、それを少しでも是正しようと、映姫は休日のたびに現世を訪れ生者に対し説教を行っている。だが――所詮は焼け石に水。それがこの世の摂理と割り切ることができれば良いのだが、それができないからこそ映姫は己が不徳を悔やむのだ。
どうしようもない世の無情を――どうにかしたいと思ったからこそ閻魔になったのだから。
そんな映姫の苦悩を察したわけではなかろうが、幽香は静かに首を振る。
映姫の生真面目な性格は、幽香も嫌というほど知っていた。
ならばそれは、本当にどうしようもないこと――なのだろう。
「ま、いいわ。とりあえず獄卒たちを働かせるのは駄目ってことね? 財政に関しては罪人たちが働いていることだし、今のところ何とかなっている、と」
「そう、ですね。収益を生むのが本意ではありませんから、極端な利潤追求は戒めておりますが……とりあえず食べていけるくらいは」
「それもまたしみったれた話だけどねぇ。まぁ、そっちはいいわ。どっちにしろすでに死んでしまった者に、今更地獄の恐ろしさを教えてやったところで無意味だもの。結局のところ、生きている者に地獄ってのは怖ろしいところだと思わせてやればいいんでしょ?」
「そうですね。ええ、仰るとおりです」
「ふむ……」
幽香は顎に手を当てて考え込む。
そのまましばらく考え込んでいた幽香だったが、やがてひとつ頷くと、再び映姫の方へと視線を向けた。
「獄卒の数は三百人くらいだっけ。詳しい組織構成を教えてくれない?」
「正確には三百五十六名です。鬼神長である牛頭と馬頭を中心に、十二人の部隊長がそれぞれ三十名ずつ隊を束ねております。部隊ごとに出納や警備、炊事や雑役などの役目を割り振られておりますが、先程申し上げましたように罪人たちへの刑罰が行われていない以上、これらの役目も形骸化してしまいました。現在では部隊ごとに交代で、農園や中有の道の巡回をしている程度です」
「ふむ。鬼神長ってのは貴女の部下なわけ?」
「あ、いえ。一応私の監督下にありますが、形式上は同格です。彼らは是非曲直庁によって任命された者たちでして、私より古くからこの地獄を治めております。獄卒たちからの信任も篤く、彼らなしでは獄卒たちの統率は不可能でしょう」
「ふぅん。トップは二人か……なら、その二人を潰せばいいってわけね?」
「何を不穏なことを……私が貴女に依頼したのは地獄の活性化、及び改善であって、現行組織の解体ではないのですよ?」
「まぁまぁ。この私に任せておきなさいって」
そう言って幽香は、にやりと笑った。
§
「こんにちはー。今日から獄卒長になりました風見幽香です☆ みなさんよろしくね?」
キラキラと目を輝かせ、向日葵ような笑みを浮かべた幽香は、そのままくるりと一回転。
ふわりと浮かんだスカートの端を摘むと、そのまま可愛らしく会釈した。
それは見る者全てが恋に落ちそうな可憐な仕草であったが、隣に立っていた映姫は頭痛を堪えるように蹲り、居並ぶ面々はみな一様に困惑する。
それはそうだろう。
急に呼び集められて何事かと思えば、いきなり出てきた頭も尻も軽そうな女が『今日から貴方たちのボスになります』ときたもんだ。藪から棒で突き飛ばされ、寝耳に水を流し込まれたようなもんである。隣に映姫がいる以上、ただの冗談ではないのだろうが、それにしたってはいそうですかと軽々しく頷くわけにはいかない。
議事堂に集められたのは、筋骨隆々のむくつけき鬼どもである。
昨今こそ碌に仕事もないが、それでも長年罪人たちを脅し、罰し、時には罪人たちによる謀反を実力で排除してきた猛者たちなのだ。幾ら閻魔のお墨付きとはいえ、あのようなあらゆる意味で軽そうな女に地獄の獄卒長など務まるはずがない。
そしてなにより――
「どういうつもりですか、四季様!」
深い怒りを秘めた声で、一人の男が進み出る。
いや、それは男と呼べるのか。
居並ぶ鬼どもの中でも一際高く、太く、そして大きく。
そして何よりもその首から上が異様だった。
――牛である。
太い二本の角と、獣毛に覆われた黒い貌。
牛頭人身であり、獄卒たちの長――阿傍であった。
「そやつが何者かは知りませんが、地獄の管理はこの阿傍に任されているはずです! その私に一言も断りなく、このような無体が通じるとお思いかっ!」
激しい怒りを隠そうともしない阿傍の声に、映姫の身体はびくりと跳ね、酷く申し訳なさそうに目を伏せる。普段ならこの程度の恫喝に屈する映姫ではないのだが……今は心細げに身を縮こませており、外見どおりの、ただのか弱い少女にしか見えなかった。
その余りにも普段と異なる有様に、阿傍は怪訝に眉を顰める。
怒りに煮えたぎっていた頭を冷やし、怒りではなく憂慮から改めて映姫の下に駆け寄ろうとするも、それを遮る影ひとつ。
言うまでもない。腰に手を当て、大きく胸を反らした幽香である。
「聞こえなかったのかしら? 今日から私が貴方たちのボスよ?」
「……退け、女。どのような手管を使ったか知らぬが、貴様ごときに地獄が務まるか」
「この私に逆らおうってわけ?」
「それを四季様に問い質そうというのだ。退け」
吐息も掛かるほどに顔を近づけ、睨み合う二人。
阿傍は仁王のように目を見開き、幽香は蔑むように目を細めて。
見下ろしながら、見上げながら、刃を交わすように。
阿傍の拳がばきりと鳴り、
幽香の目が一段と細められたその時――
「ちょ、ちょっと、こっちに来なさい!」
「へ?」
いきなり映姫が幽香の腕を掴んで、舞台の袖へと引っ張っていった。
「ちょっと何するのよ!」
「それはこっちの台詞です! 確かにお任せするとは言いましたが、あんな挑戦的な態度を取ることはないでしょう!?」
「何処がよ? 私はちゃんと紳士的に――」
「場の空気を読めと言っているのです!」
周囲の目がこちらに向いている以上、どうしても小声でならざるを得なかったが、映姫は今にも泣きそうな顔で幽香を睨んでいた。その捨てられた子犬のような痛々しい顔つきに、流石の幽香も毒気を抜かれる。
「いや、だってさぁ。最初にビシっと締めとけば後が楽じゃない? 私は私なりに効率的に物事を進めようと――」
「今の貴女が阿傍に勝てるわけないでしょう!?」
映姫の言葉に、幽香は一瞬きょとんした顔を浮かべた。
少しばかり考え込むような素振りを見せ、ふいに不満げに口を窄める。
「……ひょっとして前に私が貴女に負けたから、そういうこと言うわけ? そりゃアイツも結構強そうだけどさぁ、貴女より強いってこたーないでしょ? あのね、前のはただの遊び。ただの弾幕ごっこじゃない。私がちょっと本気を出せば貴女だろうが誰だろうが――」
「そういうことじゃありません! 貴女、自分で気付いてなかったんですか!?」
「――? 何がよ?」
「今の貴方は魂だけの状態なんです。能力は肉体に依存するもの。つまり今の貴方は外見どおり、普通の女性と変わりがないのですよ?」
「――へ?」
その言葉に、幽香は鳩が豆大福を食べたような顔をする。
ぽかんと口を開け固まっていた幽香は、
慌てて両手を翳し、そこに力を集めようとして――
「な、何よこれ!? 弾幕すら放てないじゃない!」
「だからそう言っているでしょうに……魂だけの存在となったものは、その存在も精神だけに拠ることになります。個を保ったまま此処に来ることができる貴女の精神力、自我の強さには驚かされますが、本来ならそれで精一杯のはずなんですよ? だから罪人たちも地獄の鬼に逆らうことはできないのです。死者と生者の間には斯様に厚き壁があるのですよ」
「ってそれじゃアンタ、私に何をさせるつもりだったのよ!? こんな様じゃ地獄の獄卒長なんて務まるわけないじゃない!」
幽香に詰め寄られた映姫は、気まずそうに視線を逸らす。
「ですから……その……効果的に人をいたぶる方法とか、道具を使わずに精神的に痛めつける方法とかを指導して頂ければと……貴女、そういうの得意でしょう?」
弱々しく、途切れがちな映姫の言葉に、幽香はあんぐりと口を開けた。
「え、私そんなの聞いてないんだけど……」
「言いましたよ。言いましたとも。でも貴女聞いてなかったじゃないですか!」
思い当たる節があるのだろう。
幽香はしばらく天を仰ぎ、そしておもむろにがくりと項垂れた。
打ちひしがれたように、打ち砕かれたかのように。
力なく項垂れ、零れた前髪が目元を隠し、膝は今にも崩れそうで。
だが――
「ふ、ふふふふふふふ……そう、そうなんだ……そういう風に思われてたんだ……私……」
「いや、その……」
「効果的に人をいたぶる……? 道具も使わず精神的に痛めつけるのが得意……? へぇ……そっかぁ……私ってばそう思われてたんだぁ……あはは、知らなかったなぁ……うふ、うふふ、うふふふふふふふふふふ……………………」
「えと……幽香、さん?」
地の底から響いてくるような声に、映姫は思わずさん付けしてしまう。
この場から逃げ出すか、それとも手を差し伸べるか……散々迷った挙句、映姫はおそるおそる手を伸ばし、それより早く幽香が勢い良く顔を上げて――
「いいわよ……やってやろうじゃない!」
「へ? え、あ、ちょっと――!?」
映姫を押し退け阿傍の前に進み出た幽香は、毅然としてその牛面を睨みつける。
それは先程までの余裕に満ちた笑顔とは異なる、どこか凄惨な眼差しで。
それでもなお、それが己に課した運命であるかのように。
胸を張り、腰に手を当て、口元を吊り上げて――
「とりあえず……私がボスってのは決定事項よ。逆らうなら容赦はしないわ」
そう言って、
視線に一層の力を篭めて――阿傍を見上げた。
「……ほう?」
阿傍もまた怯まない。
嘲りを消し――真っ直ぐに幽香の目を見据える。
これでは先程までの二の舞。
違うのは幽香から余裕が消えたこと。阿傍から油断が消えたこと。
映姫も獄卒たちも、誰一人口を挟むことすらできない。固唾を呑むという言葉があるが、今はそれすらも許されなかった。唾を飲むという微細な動作さえ引き金になりかねないと、心ではなく身体で、理性ではなく本能で感じとっている。
二人の間の空気が、ちりちりと焦げていく。
密閉された火薬庫に閉じ込められているような息苦しさに、其処にいる誰もが押し潰されそうになった時――
「まぁまぁ、そんなにムキになるなよ」
ふいに――横合いから声を掛けられた。
水を注された二人が同時に視線を向けると、そこには飄々と笑う男の姿。
いや、それもまた男とは呼べぬだろう。
――馬だった。
黒いたてがみを揺らし、涼しげな笑みを受かべる馬頭――羅刹である。
「こんな可愛らしいお嬢さん相手にみっともないぜ? もっとスマートにいこうや、な?」
そう言って羅刹は笑う。
阿傍と並んで地獄を束ねる者の一人であり、実力を裏付ける屈強な肉体の持ち主でありながらも、その物腰は風のように軽い。
幽香は笑みを消し、無粋な闖入者へと刃のような視線を向ける。
だがそれを軽く受け流し、それどころか親しげに笑って幽香の肩に手を置いた。
「あんたが俺らのボスになるってわけか……いいんじゃねぇか? それも。女ってんなら四季様だってそうなんだ。実力さえあれば男だろうが女だろうが関係ない。そういうもんだろ?」
「む……それはそうだが……」
羅刹の指摘を受け、阿傍が口篭る。
確かに映姫が閻魔となった時も様々な諍いがあったものの、今では映姫を閻魔として認めぬ者はない。
特に阿傍の映姫に対する信頼は、もはや信仰の域にまで達していた。
なればこそ閻魔である映姫が決めたことに口を挟むわけにはいかない。いかないのだが――感情が先走り、軽率な行動をとってしまったことを認め、阿傍は恥じ入るように俯く。
「確かに……こやつに実力さえあれば我に異存はない。しかし地獄の獄卒長ともなれば、生半では務まらぬぞ?」
「そこをフォローすんのが俺らの役目じゃねぇか。なぁに、四季様のお墨付きなんだ。ただの女ってこたないんだろうし……それにアレだ。こんな可愛い子ちゃんがボスってんなら、俺たちもやる気が出るってもんだ。ねぇ、四季様?」
羅刹は飄々とした視線を映姫にも向ける。
いきなり話を振られた映姫は「ええ、まぁ……」と胡乱な返事を返した。
そんな映姫らしからぬ歯切れの悪さにまたも阿傍は眉を顰めたが――やがて深く息を吐くと、改めて幽香の方へと向き直る。
背筋を伸ばし、先程までの威圧するような気を鎮め、幽香の正面に立つと、
「そういうことであれば我らも異存はない。風見幽香、殿か。非礼は詫びよう。改めてこれからの地獄をお頼み申す」
そう言って――阿傍は深く頭を下げた。
事の成り行きを不機嫌そうに眺めていた幽香だったが、急に自分より一回りも二回りも大きな者に頭を下げられ、困惑したように目を見開く。
頭を下げたままの阿傍を見つめ、
戸惑ったように視線を彷徨わせ、
瞳から険を消し、ぽりぽりと頬を指で掻きながら、
「あー……うん。こっちも悪かったわ。そうね、どうせ私ひとりでできることなんて、たかが知れてるんだし、これからも貴方たちの力を借りることになると思う。だから、うん、こちらこそ宜しくお願いします、ね?」
照れたように、恥らうように顔を赤くした幽香は、ぎこちない仕草で頭を下げた。
頭を下げるのに慣れてないのだろう。
いや、もしかしたら初めてなのかもしれない。
そんな幽香の姿を見て、思わず映姫の顔もほころんだ。
傍若無人が常と思われている幽香であるが、礼に対して礼で返すだけの節度は持ち合わせていたのだろう。
咲き誇るだけが花ではない。
慎ましく、控えめな美しさも、花は同時に備えているものなのだ。
閻魔としての能力でそれを見抜いていた映姫だったが、幽香のプライドがそれを阻害していることもまた知っていた。それが少しでも崩れ、これから伸ばしていくことができれば、幽香はもっと素敵な淑女になることができるだろう。
おずおずと幽香が差し出した手を、阿傍が無骨な笑みと共に固く握る。
趨勢を見守っていた獄卒たちも、その光景に胸を撫で下ろしている。
そう。たとえ力がなくても、幽香にはただ存在するだけで人を惹き付けるだけの魅力があるのだ。阿傍たちと協力していけば、地獄が昔のような威厳を取り戻すのも、そう遠くない話なのかもしれない。
知らず涙を零した映姫が幽香に見咎められ、
幽香のからかいの言葉を受け、映姫がムキになって反論し、
阿傍や他の獄卒たちも、その光景を口元をほころばせながら和やかに見守って――
「おいおい、俺を忘れてもらっちゃ困るなぁ」
ふいに、
羅刹が笑みを浮かべて、幽香の前に立った。
「俺の名は羅刹。阿傍と同じく地獄の管理を任されているもんだ。及ばずながら俺も力を貸しましょう。これから宜しくお願いしますぜ?」
「え、あ、そうね。こちらこそ宜しくお願いします」
笑みを浮かべながら頭を下げる羅刹に対し、幽香も慌てて頭を下げた。
顔を上げた二人は、自然に笑みを交わす。
照れたように右手を差し出す幽香を見て「ああ、この子も大人になったのねぇ」という母親のような想いを抱いた映姫の目に再び涙が浮かび、阿傍もまた涙を流しながらうんうんと頷き、
幽香の差し出された右手を見つめ、
羅刹もまた笑みを浮かべながら、右手を差し伸ばし――
「おっと、手が滑った」
羅刹の手が
幽香の胸を
鷲掴みに した。
「――ひ」
漏れ出た声は映姫のもの。
感動のあまり紅潮していた頬が、冬のツンドラ地帯なみに青白く変わっていく。
「いやぁ、すまんすまん。まぁ、これからもお互い世話になるわけだし、この程度は大目に見てくれよ、な?」
そう言って、羅刹はわきわきと幽香の胸を弄る。
その光景に阿傍が目を丸くし、
映姫はこの世の終わりのような顔で静かに首を振り、
そして幽香は――
「へぼっ!?」
紫電のような閃光が羅刹を貫く。それは地から天へと遡る稲妻。瞬の風。睾丸陰茎共に一撃で粉砕され、思わず股間を押さえようと前屈みになった羅刹のたてがみを引っ掴んだ幽香は、そのまま再度閃光のような膝を羅刹の鼻先に叩き込む。噴水のような鼻血を撒き散らし、仰向けに倒れようとした羅刹の足を流れるように踵で刈って地面に押し倒すと、そのまま馬乗りになって――
殴った。
殴った。
さらに、殴った。
その様子を、獄卒の一人である蘆花(××歳 女)は後にこう語る。
『いやもう――死んだ、と思いましたね。格闘の世界じゃマウントの絶対性はすでに崩されているって言われますけど、それは殴る方が無意識に手加減してるからなんですよ。そりゃそうでしょう。頭を床に押し当てて本気で殴ればどうなるか、子供にだってわかりますよ。死にます。死ぬよね? 当たり前です。そりゃ戦ってる時は『死ね』とか『殺してやる』ってつもりで挑むでしょうよ。でもですね? 結果的に『死ぬ』のと、殺すつもりで『殺す』ってのはまた違うんですよ。全くの別物です。ほら、あたしら獄卒は罪人を痛めつけるのが仕事ですからね。そりゃー酷いこともします。でもですね? やっぱこう……嫌なんですよ。道具を使ってとかなら兎も角、素手で叩き殺すってのはねぇ。ほらゴキブリっているじゃないですか。そう、あの黒い悪魔。あれみたら普通の人は叩きますよね? 叩いて殺しちゃう。でもね、それって丸めた新聞紙とかハエタタキとか、なんか道具を使うでしょ? 手で叩き潰す人なんていないですよ。そりゃ汚いとか、バイキンが付くとか色々理由はあると思いますけどね。やっぱあるんですよ、自分の手で命を奪うことの罪悪感っていうか躊躇いっていうか……あるでしょ? そういうの。で、ですね。それがないんですわ、あの人。一発一発すんげー体重乗せて、しかもそれを連打ですからねー。羅刹様も最初は抵抗してましたけど、こう、ゴッ、ゴッていう岩をぶつけるような音から、バシャとかベシャとか濡れたタオルを壁にぶつけるような音に変わる頃には、もうピクリとも動きませんでしたねぇ。え、あたし? いやいやいや、止めるなんてとんでもない! あたしは勿論、誰一人動けませんでしたよ。完全に呑まれてましたねぇ。うん、あの場にいる全員が。まぁ、あたしゃ獄卒の中でも下っぱですし、たまに上に遊びに行くこともあるんですが、風見幽香の名前は何度か耳にしたことがあります。極悪非道、傍若無人、悪行三昧……まぁ、碌な噂はないですね。んで、そんなヤツが獄卒長になるって聞いて、けっこーマジにビビってたんすよ。ところが実際見ると可愛らしいお嬢さんでしょ? こりゃ噂はガセかなーって思ってたんですが……噂以上でしたねぇ。聞きしに勝るってーか、鬼気迫るってか。それにまぁ、こういっちゃ何ですけど……羅刹様は女の子にセクハラしまくって、顰蹙買ってましたしねー。あたしも何度か胸とか触られたことあるし、四季様にまで手を出してたって噂もあるし。だからなんていうのかな……獄卒のあたしがこう言うのもなんですが
――ちょっと憧れちゃいますね、漢として』
すでにボロ雑巾と化した羅刹を残して、ゆるりと幽香が立ち上がる。
服も、髪も、血に染めて。
三日月のように、歪な笑みを浮かべながら。
「ふ、ふふふ……そう、そうよね。こんなの私の柄じゃないよね……」
顔を上げる。
ゆらゆらと、鬼火のように瞳を揺らして。
「この私が……へらへら笑って、頭を下げて、挙句に乳まで揉まれて……」
ざわざわと。さわさわと。
緑の髪が、癖のある髪が、波打つように逆立っていき、
「あ、あの……幽香、さん?」
映姫の言葉も、最早届かない。
逆立つ髪も、赤光を放つ瞳も、三日月のような口元も、
その全てが絶望的なまでに手後れであることを示しており、
映姫も、阿傍も、獄卒たちもみな一様に声を呑んで――
そして――真の地獄が幕を開けた。
§
「獄卒どもよ……貴様らの主人は誰だ!」
「獄長! 獄長! 獄長!」
「貴様らの血、肉、魂! その全ては誰のものだ!」
「獄長! 獄長! 獄長!」
「知っているか? 貴様らが何と呼ばれているか……犬だ! ただエサを待つだけの去勢された犬だ! 許せるか? 貴様らはそれを許すのか? この地獄が……私が舐められているというのに、貴様らはそれを許容できるのか!? 許せんなぁ、許せるわけないわなぁ、ならばどうする? どうする? どうするつもりだ貴様らっ!?」
「闘争! 闘争! 闘争!」
「そうだ。その通りだ! 侮ることを許すな、軽んじるものを許すな、見くびるものを許すな、無視するものを許すな! 全てのものに焼き付けろ、我らの力を、苛烈さを、恐怖を! 奴らの目に、脳に、魂に! 二度と消えることのない『痛み』を刻み込んでやれ!」
「獄長! 獄長! 獄長!」
居並ぶ獄卒たちは感極まったように涙を流し、狂騒の拳を振り上げた。
一際高い歓声を、幽香は両手を広げて受け止める。
黒皮ビキニに黒マント。
肩や腰を艶やかに彩る凶悪な鎧。
そして――雄々しき二本の角を生やした金色の兜。
両手で鞭を振るい、地獄に伝わる由緒正しき獄長ルックに身を固めた幽香は、鳴り止まぬ獄卒たちのシュプレヒコールに満足そうな笑みを浮かべていた。
「……あんまり調子に乗らないでください。あくまでも貴方は代理なんですから」
隣に立っていた映姫が小声で話しかけると、幽香は悪戯っぽく微笑んだ。
「いいじゃない。ノってる時はノるべきよ。乗りたい風に乗り遅れたヤツは間抜けって――昔から言うでしょ?」
「誰が言ってるんですか、そんなこと……」
映姫は疲れたように首を振る。
そんな映姫の顔を見つめ、幽香は思わず吹き出した。
「それにしても見事にアザになってるわねぇ。あーあー綺麗な顔が台無しじゃない」
「殴ったのは貴方じゃないですか!」
映姫の右目には実に見事な青アザができていた。
暴れる幽香を取り押さえようとして、雷のような裏拳を喰らった時の名誉の負傷である。
「まぁまぁ、過ぎたことは言いっこなし。それにしても……うぷぷっ、まるでパンダね。白黒はっきりしててお似合いよ?」
「……今ここではっきり白黒つけましょうか?」
「冗談だってば」
割と本気で睨んでくる映姫を、あやすように幽香は笑う。
よく見れば幽香の身体も傷だらけだった。
顔も、手も、身体も、無数のアザが浮いている。
それでもそれを隠すことなく、
むしろ誇るように。
戦うことが己だと――全身で物語るように。
「それにしても……まさかアンタが私に手を貸すなんてねぇ」
「……仕方ないでしょう? あのまま放置するわけにもいかないじゃないですか」
あの時――怒りに我を忘れ、居並ぶ獄卒たちへと踊りかかった幽香であったが、所詮は多勢に無勢。当初は幽香の気勢に呑まれていた獄卒たちも次第に平静を取り戻し、団結し、反撃に移ろうとして……そこに割って入ったのが映姫であった。
幽香の後ろから飛び掛ろうとした獄卒たちを薙ぎ払い、まるで背中を預けるように。
獄卒の一人に突き飛ばされ、映姫にぶつかった幽香は驚いたように目を見開く。
互いに視線を交わす。一瞬だけ交わる視線。
そして――それだけで十分だった。
背中合わせに、目の前の敵だけを。
幽香の気迫に呑まれ、生存本能に突き動かされるように荒れ狂う鬼どもの目には、最早映姫すらも単なる障害としか映っていない。荒ぶる御霊と化し、目に付く全てを壊す暴徒と成り果てている。
だが映姫はそれを嘆くことなく。
手にした笏で突き、払い、薙ぎ倒し。
幽香もまた、背後に目を向けることなく。
拳を振るい、蹴りを放ち、猛り、吼え。
ただ、ただ、心赴くままに。
気が付けば、二人の他に立っている者はいなかった。
屍を積み上げ、血の河を踏み渡り、地獄の名に相応しく――二匹の修羅がいるだけだった。
「それにしても……」
「ん?」
「よくまぁ勝てましたねぇ。幾ら私のフォローがあったとはいえ、今の貴方の力が普通の女性と変わらないっていうのは事実なんですよ?」
「まぁ、そこは気合よね。逆上して見境なくそうとも、恐怖ってのは簡単に拭えるもんじゃないわ。最初にあの馬ヅラをシメた時点で、ビビったあいつらの負けだったのよ」
「そういうもんですか」
「そういうもんよ」
獄長コールを繰り返す鬼たちを見下ろして、幽香はそう結んだ。
喧嘩なんてそんなもの。
腕力とか、能力とか、そんなもの一切関係なく。
一度も引かなかった者が、自分を最後まで信じきった者が最後には勝つのだ。
なればこそ最強。それが故に最強。
『我が身に恥じるもの、一片とてなし』
最強とは――その高みへと辿り着いた者だけに与えられる称号なのである。
「でもまぁ……一応、礼を言っておくべきなのかしらね?」
「いりませんよ、こうなったのは私の責任でもありますし。それに――」
「それに?」
「セクハラは万死に値します」
「ぷっ……ははっ、あははははははっ!」
幽香が笑い、映姫も笑う。
実力で己を認めさせた幽香にもはや抗う者などなく、最強の獄卒長を迎えた地獄が以前のような活気を取り戻すのも、そう遠い話ではないだろう。
二人の前に敵はない。
この二人が組んだなら、勝てるものなど居はしない。
百年、千年と地獄の威光は翳ることなく、人々はその名を恐怖と共に刻むだろう。
四季映姫と風見幽香。
この二人の名と共に――
§
「って、逃げやがったぁぁぁぁあああああああああ!!」
夜明けの空に、映姫の絶叫が鳴り響く。
その響きに獄卒たちは身を竦め、老朽化著しかった地獄の釜が割れ、二度寝を決め込んでいた死神がべーっくしょいと派手なくしゃみをした。
映姫の手には一枚の手紙。
『飽きた』
斯様に簡素な一文を残して幽香の姿が消えたのは、地獄・ミッショネルズ結成から僅か三日目の朝のことであった――
その後、圧倒的なカリスマを失った地獄の獄卒たちはこれまで以上にやる気を失い、ストレスで胃に穴の開いた閻魔は長期療養を余儀なくされ、幽香の胸を突付いて遊んでいたエリーが地獄仕込みのフルコースを喰らったこと以外、概ね変わりなく平和であったそうな。
幽現を 問わず乱るる 花なれど
何処で咲くかは 風ぞ知るのみ
(詠み人知らず)
「すいません。貴女が何を言ってるのかさっぱりわかりません」
ここは泣く子も平伏す楽園の最高裁判所。
豪奢な卓に両肘を置いた映姫は、虫歯が痛むような顔つきで目の前の彼女を見つめた。
その永久凍土のように冷たい視線を事も無げに受け流し、癖のある緑の髪をふぁさりと掻き上げた幽香は、かわいそうなものでも見るような目を映姫に向ける。
「だーかーらー何度も言ってるでしょ? ほら、なんでも外には地獄めぐりとかいう遊びがあるらしいじゃない? んで私もやってみよーかなーって思ったんだけどー。なんつーか私ってば育ちがいいからさー。根がハイソってか、本物しか認めないってゆーか、どうせなら本物の地獄に行ってみよーかなーって」
「それで自らの命を絶ったというわけですかっ!?」
「やーねぇ。ちょっと心臓止めただけよ。身体の方はエリーに任せてあるし、しばらくのんびりしてみようかなーと」
「迷惑です。すぐにお帰りください」
「つれないわねぇ。私と貴女の仲じゃない」
「どんな仲ですか」
「王様と犬?」
「帰れ」
ニガウリを噛み潰したような映姫に対し、幽香は「血の池地獄ってお肌に良さそうねぇ」とパンフ片手にうきうきしていた。
ちなみに幽香が持っているパンフレットは是非曲直庁が年に二回発行しているもので、天国と地獄の観光名所がこれでもかと記載されている。仏陀と並んでカンダタ釣り、針の山→血の池→煉獄の鉄人レース、各種神仏のコスプレをして練り歩く天界カーニバルなどのイベント情報が目白押しで、中有の道に出店している各種飲食店の割引券までついており、死者は勿論、生者の間でも好評だ。
まぁ生者の場合、一方通行の片道キップになってしまうわけだがそこはそれ。巻末には米粒に文字を書く匠の技で『ご利用は自己責任で』と明記されているので安心である。
斯様に明るく楽しい死後ライフを、フルカラーのグラビア印刷(表紙は特殊紙に浮き出し箔押しの豪華仕様)で過剰なまでに訴えており、天狗や河童も裸足で逃げ出す高度な印刷技術を惜しみなく注ぎ込んで、しかもそれを無料配布するという太っ腹ぶりだ。
「そんなところにお金を使うから財政難になるのよ……」
疲れたような映姫の溜息もむべなるかな。
閉じた瞼の裏に浮かぶのは先月の給与明細。基本給はここ数十年据え置きの癖に、福利厚生やら設備維持やらの様々な名目で随分と天引きされるようになっていた。
自らの血肉にも等しいサラリーが、こんなコンビニで無料配布しているような雑誌に注がれていると思うと、思わず労組を扇動し無期限ストライキを敢行したくなる。
「いいからほら。さっさと案内しなさいよ」
「私はガイドじゃありません! それに貴女は一応死んでしまったわけですし、これから裁判を――」
「あー、いいわよんなもん。どうせ私は地獄逝きでしょ? 時間の無駄だわ」
「って自覚あったんですか?」
「そりゃまぁ、愛のままに我がままに、好き勝手放題生きてきたわけだしねぇ。それに天国なんて退屈しそうだもの。行けと言われたって御免だわ」
死して魂だけになろうとも幽香は幽香。
どこまでも倣岸。限りなく不遜。それでこそ風見幽香である。
「ですが手続き上、裁判をしないってわけにも……」
「ならさっさとしなさい。ったく、これだからお役所仕事は」
怒りを通り越して世の無情すら覚えた映姫は、遠くを見つめる眼差しで直属の部下の姿を思い浮かべる。普段なら一仕事終える度に、お茶飲んだり饅頭頬張ったり黒百合の尻を撫で回したりとダラダラし続けるところを「さっさと仕事に戻れこの穀潰し」と尻を蹴り上げるのが日課となっていたというのに、今日だけは逃げるように仕事へと戻っていった。つか逃げた。
「……なんで河に突き落とさなかったのよ」
「ん? 何か言った?」
「いいえ、別に?」
映姫は全てを諦めたような顔で、幽香の罪状について資料を纏める。
その余りにも膨大な罪科に眩暈を覚えると共に、これからのことを考え――映姫はもう一度深い溜息を吐いた。
§
「それで何処に案内してくれるの?」
「だから私はガイドじゃないと……そうですね。血の池地獄にでも浸かってくればいいんじゃないですか? 一万年くらい」
「身も心も蕩けそうね?」
「オススメですよ?」
「まぁ、それは兎も角」
幽香は腰に手を当てて周囲を見渡す。
錆が浮きまくっている針の山。
禿山と化した焦熱地獄。
巨大な釜は底が抜けたのか使用禁止の札が貼ってあるし、その他の拷問具も碌に使われていないのか、壊れたまんま放置されている。
「寂れまくってるわねぇ」
「……う」
地獄の財政難は年々深刻化しており、昨今の少子化により更なる悪化が予測されていた。
地獄というものは、罪人を生かさず殺さず苦しめることにより生前の罪を償わせるものであるからして、死者を本当に殺してしまうわけにはいかない。いかないのだが、先の見えぬまま長引く不況によって、このままでは本当に餓死させてしまいかねなかった。無論、極限まで飢えさせるという刑罰もあるにはあるが、それはあくまで刑罰であって、大して罪のない者を同じ目に合わせるわけにはいかない。
というわけで、罪人たちは自給自足を余儀なくされていた。
焦熱地獄の跡地に畑を耕したり、中有の道で商売に勤しむなどの勤労が義務付けられており、そこで得た収益を地獄の運営に回している。その過程で働く喜びに目覚め、生前の罪を悔いる者も出てきたから結果オーライと言えないこともないのだが、これではただの強制収容所と変わりがない。
そんな状況である以上、刑具の修繕が後回しにされるのも止むを得ないことだろう。
「地獄の名が泣くわね」
「……ぐ」
呆れたような幽香の言葉に、映姫は声を失う。
映姫とて罪人を必要以上に苦しめたいとは思っていない。ないが、これまで先人たちが培ってきた地獄という看板が形骸化してしまうことに、内心忸怩たる想いを抱いていた。
今はまだ地獄という名の幻想が、生きている人々の罪に対する抑止力となっているが、この現状が知れ渡れば、死が、地獄が、軽視される事になるだろう。
もしそうなれば――そんなこと映姫は考えたくもなかった。
「ふ、ん」
悔しそうに唇を噛む映姫に何を感じたのか、幽香は軽く鼻を鳴らす。
鬱陶しそうに、面倒くさそうに。
だけど不敵に口元を歪ませて。
「なんとかしてあげましょうか?」
「え?」
「要するにアレでしょ? お金がない、設備もない、でも地獄の恐ろしさを人々に知らしめねばならない……ってわけでしょ?」
「え、あ、まぁ、その」
「こんな怖ろしい目に遭うのなら、地獄になんて絶対行きたくないと、罪を犯さず慎ましく生きるべきだと……思い知らせてやれば良いのでしょう?」
「えと、あの」
「ならば――私に任せなさい」
そう言って幽香は微笑む。
それは心に蔦を巻きつけるような、深い部分に根を這わすような。
艶やかで、華やかな、毒のある、薔薇のような――破滅の笑み。
飲まれる。飲み込まれそうになる。
全てを委ね、甘えてしまいたくなる。
だがそんな想いを振り切るように首を振って、映姫は問う。
「……何を、するつもりですか?」
問いながらも、映姫には解っていた。
不吉すぎる笑みが意味するものを。
それがどのような結果を生むことになるかを。
そんな想いを見透かすように、幽香は更に笑みを深くする。
ついっと。
映姫の顎に指を這わせ、口付けでもするように持ち上げ、瞳を正面から覗きこんで。
「――私を誰だと思っているの?」
それは抗うことを許さぬ王の瞳。その瞳の前では、閻魔といえど平常心ではいられない。早鐘のように鳴り響く鼓動を読まれぬよう、幽香の手を強引に振り解いて睨みつける。
「……何をしようとしているのか、粗方見当はつきます。ですが……そのようなこと認めるわけにはいきません!」
知らず、上ずった声が出てしまったことに赤面しながら、映姫は更に視線を強めた。
意志の篭った強い瞳。射抜くような鋭い眼光。
そんな閻魔の視線を受けながらも、幽香は小馬鹿にするようにへらりと笑う。
「相変わらず融通が利かないわねぇ。そんな生き方疲れない?」
「茶化さないでください! そもそも貴女は罪人なんですよ? これ以上の妄言は止め、大人しく法の裁きを――」
「わかってるってば。でもさ、それはそれ、これはこれよ。貴女だって現状に憤りを感じているのでしょう? このままではいけないと思ってるんでしょう? 何とかしたいと思っているのでしょう? ならば――私を使いなさい。私を利用して現状を打破しなさい。有効だと、試す価値があると、そう思っているからこそ貴女も迷っているのでしょう? 薬も過ぎれば毒となるように、毒もまた使い方次第では薬となる。私という劇薬を使いこなせるかどうか――今は貴女の器量が問われているのよ?」
「ですが……」
言い淀む映姫の瞳に、先程までの強さはない。
目を逸らし、抗いながらも、頭の中では冷静に計算を始めている。
幽香を使うことによる影響。
法と照らし合わせての正当性。その抜け道。
確かに法的には不可能ではないし、上手く行けば地獄も昔の威光を取り戻せるだろう。
たとえ失敗したところで、その時は幽香を処罰するだけで済む。当然、それを命じた映姫もただでは済まないだろうが、閻魔という役職に就いた時点でその程度の覚悟はすでに出来ていた。ならば後は――
「……一つだけ教えてください」
「何?」
「そうすることで貴女にどんな得があるというのです? 他人に道具として使われることを良しとする貴女ではないでしょう? 聞かせてください――貴女の狙いは何ですか?」
「貴女を愛しているから」
「舌を引っこ抜きますよ?」
「冗談よ。そうねぇ、私の狙いかぁ。この私が損得勘定で動くような俗物だと思われてたなんて心外だけど。まぁ、一言で言うなら」
――面白そうだから、よ。
そう言って、幽香はもう一度微笑む。
その微笑みを、瞳を見つめ、
映姫は僅かに首を振り、
溜息を吐き、疲れたように肩を落とし、
自らを掻き抱くように右手を左肘に回しながら――小さく頷いた。
§
「さーて、まずは現状の把握が必要ね」
ここは閻魔の執務室。
中心に黒檀の豪奢な机と椅子を据え、周囲の壁は膨大な書籍や資料で占められた圧迫感すら覚える室内。その部屋の中央で、椅子に腰掛け尊大に足を組んだ幽香は、扉の前に立ったままの映姫に向かって問い掛けるような視線を向けた。どちらが部屋の主か解らなくなる絵面だが、互いにその点について一ミクロンも疑問を抱かせないところが幽香の幽香たる所以である。
「そうですね……先程申し上げた通り、罪人たちへの刑罰は現在ほとんど行われていません。形式上、いえむしろ儀礼的に地獄に落とされたばかりの罪人に対しては刑罰が施されますが、その後はその者の適正を見極め、相応しい職場を紹介します」
「適正、ねぇ」
「浄頗梨の鏡を使うことで、その者の本質は解りますからね。概ね不満もなく受け入れられているようです。ちょっと前までは適当に職を与えていたのですが、職業適性の判断に浄頗梨の鏡を用いるようになってからというもの、収益率は三割を超える伸びを見せ――」
「んじゃ結構儲かってるんだ?」
「あ、いえ、それが……」
歯切れ悪く、映姫が言い淀んだ。
それに目ざとく気付いた幽香は、腰を浮かせて映姫へと詰め寄る。
「何か問題でもあるの?」
「はぁ……労働は義務である以上、全ての罪人は何らかの職を持っています。過去の経験から下手にこちらが手を出すより、罪人たちの裁量で自由に経済活動を行わせた方が、結果的に効率が良いのでそうしているのですが……その、なんというか……」
「何よ、はっきり言いなさい」
「その……獄卒たちの仕事が……」
「はぁ?」
「現在、この地獄には三百名以上の獄卒たちがいます。彼らは罪人に刑罰を与えるのが仕事なのですが……罪人が仕事に出ているということは、彼らの仕事がないというわけでして……暇を持て余しているというか……」
「つまり無駄飯喰らいってわけ?」
「いえ、そんな……」
言い淀んでいるが、それが正解なのだろう。
映姫の苦々しげな顔が、それを如実に物語っている。
「わっかんないわねぇ。そいつらも今は仕事がないんでしょ? んじゃ罪人と一緒に働かせればいいじゃない」
「いえ、それは……」
相変わらずはっきりとしない映姫へと、幽香は不機嫌そうな眼差しを向ける。
その視線を受けた映姫は、なおも迷い……やがて重々しく口を開いた。
「獄卒たちの職務は『罪人に罰を与える』ことです。罰を与えるべき罪人がいないという状態はあくまでも社会的な現象であり、彼らの手落ちではありません。彼らは己が職務に誇りを抱いており、それを仕事がないからといって他の職に回すことは、彼らの誇りを傷つける結果になるでしょう。ですから……その……」
「はん。誇り、ねぇ」
確かに彼らは罪人ではなく、自分の意思で獄卒となった者たちである。それを罪人たちと同じように副業に精を出せとは、流石の映姫も言い出しにくいのだろう。とはいえ――
「だからって、いつまでも遊ばせておくわけにはいかないでしょ? んでそいつらは今、何をしてるわけ?」
「はぁ。交代で罪人たちの職場を見回りに行く以外、特には……」
「本当に遊んでるっての!?」
幽香の叱責を受け、映姫は悔しそうに唇を噛む。
おそらく映姫は彼らの醜態を恥じると共に、そうせざるを得ない現状を生み出した己の不甲斐なさを責めているのだろう。無論、そうなった原因もまた映姫のせいではないのだが、さりとて誰を責めるわけにもいかないのだ。
地獄の財政がここまで厳しいものになったのは、三途の河で支払われる渡し賃が極端に減ったせいである。渡し賃とは生前親しかった者が『その人のために使ったお金の合計』であり、その者の縁の深さを示しているのだが、最近これがとみに少なくなったのだ。
人の縁が稀薄になった証拠であり、それを少しでも是正しようと、映姫は休日のたびに現世を訪れ生者に対し説教を行っている。だが――所詮は焼け石に水。それがこの世の摂理と割り切ることができれば良いのだが、それができないからこそ映姫は己が不徳を悔やむのだ。
どうしようもない世の無情を――どうにかしたいと思ったからこそ閻魔になったのだから。
そんな映姫の苦悩を察したわけではなかろうが、幽香は静かに首を振る。
映姫の生真面目な性格は、幽香も嫌というほど知っていた。
ならばそれは、本当にどうしようもないこと――なのだろう。
「ま、いいわ。とりあえず獄卒たちを働かせるのは駄目ってことね? 財政に関しては罪人たちが働いていることだし、今のところ何とかなっている、と」
「そう、ですね。収益を生むのが本意ではありませんから、極端な利潤追求は戒めておりますが……とりあえず食べていけるくらいは」
「それもまたしみったれた話だけどねぇ。まぁ、そっちはいいわ。どっちにしろすでに死んでしまった者に、今更地獄の恐ろしさを教えてやったところで無意味だもの。結局のところ、生きている者に地獄ってのは怖ろしいところだと思わせてやればいいんでしょ?」
「そうですね。ええ、仰るとおりです」
「ふむ……」
幽香は顎に手を当てて考え込む。
そのまましばらく考え込んでいた幽香だったが、やがてひとつ頷くと、再び映姫の方へと視線を向けた。
「獄卒の数は三百人くらいだっけ。詳しい組織構成を教えてくれない?」
「正確には三百五十六名です。鬼神長である牛頭と馬頭を中心に、十二人の部隊長がそれぞれ三十名ずつ隊を束ねております。部隊ごとに出納や警備、炊事や雑役などの役目を割り振られておりますが、先程申し上げましたように罪人たちへの刑罰が行われていない以上、これらの役目も形骸化してしまいました。現在では部隊ごとに交代で、農園や中有の道の巡回をしている程度です」
「ふむ。鬼神長ってのは貴女の部下なわけ?」
「あ、いえ。一応私の監督下にありますが、形式上は同格です。彼らは是非曲直庁によって任命された者たちでして、私より古くからこの地獄を治めております。獄卒たちからの信任も篤く、彼らなしでは獄卒たちの統率は不可能でしょう」
「ふぅん。トップは二人か……なら、その二人を潰せばいいってわけね?」
「何を不穏なことを……私が貴女に依頼したのは地獄の活性化、及び改善であって、現行組織の解体ではないのですよ?」
「まぁまぁ。この私に任せておきなさいって」
そう言って幽香は、にやりと笑った。
§
「こんにちはー。今日から獄卒長になりました風見幽香です☆ みなさんよろしくね?」
キラキラと目を輝かせ、向日葵ような笑みを浮かべた幽香は、そのままくるりと一回転。
ふわりと浮かんだスカートの端を摘むと、そのまま可愛らしく会釈した。
それは見る者全てが恋に落ちそうな可憐な仕草であったが、隣に立っていた映姫は頭痛を堪えるように蹲り、居並ぶ面々はみな一様に困惑する。
それはそうだろう。
急に呼び集められて何事かと思えば、いきなり出てきた頭も尻も軽そうな女が『今日から貴方たちのボスになります』ときたもんだ。藪から棒で突き飛ばされ、寝耳に水を流し込まれたようなもんである。隣に映姫がいる以上、ただの冗談ではないのだろうが、それにしたってはいそうですかと軽々しく頷くわけにはいかない。
議事堂に集められたのは、筋骨隆々のむくつけき鬼どもである。
昨今こそ碌に仕事もないが、それでも長年罪人たちを脅し、罰し、時には罪人たちによる謀反を実力で排除してきた猛者たちなのだ。幾ら閻魔のお墨付きとはいえ、あのようなあらゆる意味で軽そうな女に地獄の獄卒長など務まるはずがない。
そしてなにより――
「どういうつもりですか、四季様!」
深い怒りを秘めた声で、一人の男が進み出る。
いや、それは男と呼べるのか。
居並ぶ鬼どもの中でも一際高く、太く、そして大きく。
そして何よりもその首から上が異様だった。
――牛である。
太い二本の角と、獣毛に覆われた黒い貌。
牛頭人身であり、獄卒たちの長――阿傍であった。
「そやつが何者かは知りませんが、地獄の管理はこの阿傍に任されているはずです! その私に一言も断りなく、このような無体が通じるとお思いかっ!」
激しい怒りを隠そうともしない阿傍の声に、映姫の身体はびくりと跳ね、酷く申し訳なさそうに目を伏せる。普段ならこの程度の恫喝に屈する映姫ではないのだが……今は心細げに身を縮こませており、外見どおりの、ただのか弱い少女にしか見えなかった。
その余りにも普段と異なる有様に、阿傍は怪訝に眉を顰める。
怒りに煮えたぎっていた頭を冷やし、怒りではなく憂慮から改めて映姫の下に駆け寄ろうとするも、それを遮る影ひとつ。
言うまでもない。腰に手を当て、大きく胸を反らした幽香である。
「聞こえなかったのかしら? 今日から私が貴方たちのボスよ?」
「……退け、女。どのような手管を使ったか知らぬが、貴様ごときに地獄が務まるか」
「この私に逆らおうってわけ?」
「それを四季様に問い質そうというのだ。退け」
吐息も掛かるほどに顔を近づけ、睨み合う二人。
阿傍は仁王のように目を見開き、幽香は蔑むように目を細めて。
見下ろしながら、見上げながら、刃を交わすように。
阿傍の拳がばきりと鳴り、
幽香の目が一段と細められたその時――
「ちょ、ちょっと、こっちに来なさい!」
「へ?」
いきなり映姫が幽香の腕を掴んで、舞台の袖へと引っ張っていった。
「ちょっと何するのよ!」
「それはこっちの台詞です! 確かにお任せするとは言いましたが、あんな挑戦的な態度を取ることはないでしょう!?」
「何処がよ? 私はちゃんと紳士的に――」
「場の空気を読めと言っているのです!」
周囲の目がこちらに向いている以上、どうしても小声でならざるを得なかったが、映姫は今にも泣きそうな顔で幽香を睨んでいた。その捨てられた子犬のような痛々しい顔つきに、流石の幽香も毒気を抜かれる。
「いや、だってさぁ。最初にビシっと締めとけば後が楽じゃない? 私は私なりに効率的に物事を進めようと――」
「今の貴女が阿傍に勝てるわけないでしょう!?」
映姫の言葉に、幽香は一瞬きょとんした顔を浮かべた。
少しばかり考え込むような素振りを見せ、ふいに不満げに口を窄める。
「……ひょっとして前に私が貴女に負けたから、そういうこと言うわけ? そりゃアイツも結構強そうだけどさぁ、貴女より強いってこたーないでしょ? あのね、前のはただの遊び。ただの弾幕ごっこじゃない。私がちょっと本気を出せば貴女だろうが誰だろうが――」
「そういうことじゃありません! 貴女、自分で気付いてなかったんですか!?」
「――? 何がよ?」
「今の貴方は魂だけの状態なんです。能力は肉体に依存するもの。つまり今の貴方は外見どおり、普通の女性と変わりがないのですよ?」
「――へ?」
その言葉に、幽香は鳩が豆大福を食べたような顔をする。
ぽかんと口を開け固まっていた幽香は、
慌てて両手を翳し、そこに力を集めようとして――
「な、何よこれ!? 弾幕すら放てないじゃない!」
「だからそう言っているでしょうに……魂だけの存在となったものは、その存在も精神だけに拠ることになります。個を保ったまま此処に来ることができる貴女の精神力、自我の強さには驚かされますが、本来ならそれで精一杯のはずなんですよ? だから罪人たちも地獄の鬼に逆らうことはできないのです。死者と生者の間には斯様に厚き壁があるのですよ」
「ってそれじゃアンタ、私に何をさせるつもりだったのよ!? こんな様じゃ地獄の獄卒長なんて務まるわけないじゃない!」
幽香に詰め寄られた映姫は、気まずそうに視線を逸らす。
「ですから……その……効果的に人をいたぶる方法とか、道具を使わずに精神的に痛めつける方法とかを指導して頂ければと……貴女、そういうの得意でしょう?」
弱々しく、途切れがちな映姫の言葉に、幽香はあんぐりと口を開けた。
「え、私そんなの聞いてないんだけど……」
「言いましたよ。言いましたとも。でも貴女聞いてなかったじゃないですか!」
思い当たる節があるのだろう。
幽香はしばらく天を仰ぎ、そしておもむろにがくりと項垂れた。
打ちひしがれたように、打ち砕かれたかのように。
力なく項垂れ、零れた前髪が目元を隠し、膝は今にも崩れそうで。
だが――
「ふ、ふふふふふふふ……そう、そうなんだ……そういう風に思われてたんだ……私……」
「いや、その……」
「効果的に人をいたぶる……? 道具も使わず精神的に痛めつけるのが得意……? へぇ……そっかぁ……私ってばそう思われてたんだぁ……あはは、知らなかったなぁ……うふ、うふふ、うふふふふふふふふふふ……………………」
「えと……幽香、さん?」
地の底から響いてくるような声に、映姫は思わずさん付けしてしまう。
この場から逃げ出すか、それとも手を差し伸べるか……散々迷った挙句、映姫はおそるおそる手を伸ばし、それより早く幽香が勢い良く顔を上げて――
「いいわよ……やってやろうじゃない!」
「へ? え、あ、ちょっと――!?」
映姫を押し退け阿傍の前に進み出た幽香は、毅然としてその牛面を睨みつける。
それは先程までの余裕に満ちた笑顔とは異なる、どこか凄惨な眼差しで。
それでもなお、それが己に課した運命であるかのように。
胸を張り、腰に手を当て、口元を吊り上げて――
「とりあえず……私がボスってのは決定事項よ。逆らうなら容赦はしないわ」
そう言って、
視線に一層の力を篭めて――阿傍を見上げた。
「……ほう?」
阿傍もまた怯まない。
嘲りを消し――真っ直ぐに幽香の目を見据える。
これでは先程までの二の舞。
違うのは幽香から余裕が消えたこと。阿傍から油断が消えたこと。
映姫も獄卒たちも、誰一人口を挟むことすらできない。固唾を呑むという言葉があるが、今はそれすらも許されなかった。唾を飲むという微細な動作さえ引き金になりかねないと、心ではなく身体で、理性ではなく本能で感じとっている。
二人の間の空気が、ちりちりと焦げていく。
密閉された火薬庫に閉じ込められているような息苦しさに、其処にいる誰もが押し潰されそうになった時――
「まぁまぁ、そんなにムキになるなよ」
ふいに――横合いから声を掛けられた。
水を注された二人が同時に視線を向けると、そこには飄々と笑う男の姿。
いや、それもまた男とは呼べぬだろう。
――馬だった。
黒いたてがみを揺らし、涼しげな笑みを受かべる馬頭――羅刹である。
「こんな可愛らしいお嬢さん相手にみっともないぜ? もっとスマートにいこうや、な?」
そう言って羅刹は笑う。
阿傍と並んで地獄を束ねる者の一人であり、実力を裏付ける屈強な肉体の持ち主でありながらも、その物腰は風のように軽い。
幽香は笑みを消し、無粋な闖入者へと刃のような視線を向ける。
だがそれを軽く受け流し、それどころか親しげに笑って幽香の肩に手を置いた。
「あんたが俺らのボスになるってわけか……いいんじゃねぇか? それも。女ってんなら四季様だってそうなんだ。実力さえあれば男だろうが女だろうが関係ない。そういうもんだろ?」
「む……それはそうだが……」
羅刹の指摘を受け、阿傍が口篭る。
確かに映姫が閻魔となった時も様々な諍いがあったものの、今では映姫を閻魔として認めぬ者はない。
特に阿傍の映姫に対する信頼は、もはや信仰の域にまで達していた。
なればこそ閻魔である映姫が決めたことに口を挟むわけにはいかない。いかないのだが――感情が先走り、軽率な行動をとってしまったことを認め、阿傍は恥じ入るように俯く。
「確かに……こやつに実力さえあれば我に異存はない。しかし地獄の獄卒長ともなれば、生半では務まらぬぞ?」
「そこをフォローすんのが俺らの役目じゃねぇか。なぁに、四季様のお墨付きなんだ。ただの女ってこたないんだろうし……それにアレだ。こんな可愛い子ちゃんがボスってんなら、俺たちもやる気が出るってもんだ。ねぇ、四季様?」
羅刹は飄々とした視線を映姫にも向ける。
いきなり話を振られた映姫は「ええ、まぁ……」と胡乱な返事を返した。
そんな映姫らしからぬ歯切れの悪さにまたも阿傍は眉を顰めたが――やがて深く息を吐くと、改めて幽香の方へと向き直る。
背筋を伸ばし、先程までの威圧するような気を鎮め、幽香の正面に立つと、
「そういうことであれば我らも異存はない。風見幽香、殿か。非礼は詫びよう。改めてこれからの地獄をお頼み申す」
そう言って――阿傍は深く頭を下げた。
事の成り行きを不機嫌そうに眺めていた幽香だったが、急に自分より一回りも二回りも大きな者に頭を下げられ、困惑したように目を見開く。
頭を下げたままの阿傍を見つめ、
戸惑ったように視線を彷徨わせ、
瞳から険を消し、ぽりぽりと頬を指で掻きながら、
「あー……うん。こっちも悪かったわ。そうね、どうせ私ひとりでできることなんて、たかが知れてるんだし、これからも貴方たちの力を借りることになると思う。だから、うん、こちらこそ宜しくお願いします、ね?」
照れたように、恥らうように顔を赤くした幽香は、ぎこちない仕草で頭を下げた。
頭を下げるのに慣れてないのだろう。
いや、もしかしたら初めてなのかもしれない。
そんな幽香の姿を見て、思わず映姫の顔もほころんだ。
傍若無人が常と思われている幽香であるが、礼に対して礼で返すだけの節度は持ち合わせていたのだろう。
咲き誇るだけが花ではない。
慎ましく、控えめな美しさも、花は同時に備えているものなのだ。
閻魔としての能力でそれを見抜いていた映姫だったが、幽香のプライドがそれを阻害していることもまた知っていた。それが少しでも崩れ、これから伸ばしていくことができれば、幽香はもっと素敵な淑女になることができるだろう。
おずおずと幽香が差し出した手を、阿傍が無骨な笑みと共に固く握る。
趨勢を見守っていた獄卒たちも、その光景に胸を撫で下ろしている。
そう。たとえ力がなくても、幽香にはただ存在するだけで人を惹き付けるだけの魅力があるのだ。阿傍たちと協力していけば、地獄が昔のような威厳を取り戻すのも、そう遠くない話なのかもしれない。
知らず涙を零した映姫が幽香に見咎められ、
幽香のからかいの言葉を受け、映姫がムキになって反論し、
阿傍や他の獄卒たちも、その光景を口元をほころばせながら和やかに見守って――
「おいおい、俺を忘れてもらっちゃ困るなぁ」
ふいに、
羅刹が笑みを浮かべて、幽香の前に立った。
「俺の名は羅刹。阿傍と同じく地獄の管理を任されているもんだ。及ばずながら俺も力を貸しましょう。これから宜しくお願いしますぜ?」
「え、あ、そうね。こちらこそ宜しくお願いします」
笑みを浮かべながら頭を下げる羅刹に対し、幽香も慌てて頭を下げた。
顔を上げた二人は、自然に笑みを交わす。
照れたように右手を差し出す幽香を見て「ああ、この子も大人になったのねぇ」という母親のような想いを抱いた映姫の目に再び涙が浮かび、阿傍もまた涙を流しながらうんうんと頷き、
幽香の差し出された右手を見つめ、
羅刹もまた笑みを浮かべながら、右手を差し伸ばし――
「おっと、手が滑った」
羅刹の手が
幽香の胸を
鷲掴みに した。
「――ひ」
漏れ出た声は映姫のもの。
感動のあまり紅潮していた頬が、冬のツンドラ地帯なみに青白く変わっていく。
「いやぁ、すまんすまん。まぁ、これからもお互い世話になるわけだし、この程度は大目に見てくれよ、な?」
そう言って、羅刹はわきわきと幽香の胸を弄る。
その光景に阿傍が目を丸くし、
映姫はこの世の終わりのような顔で静かに首を振り、
そして幽香は――
「へぼっ!?」
紫電のような閃光が羅刹を貫く。それは地から天へと遡る稲妻。瞬の風。睾丸陰茎共に一撃で粉砕され、思わず股間を押さえようと前屈みになった羅刹のたてがみを引っ掴んだ幽香は、そのまま再度閃光のような膝を羅刹の鼻先に叩き込む。噴水のような鼻血を撒き散らし、仰向けに倒れようとした羅刹の足を流れるように踵で刈って地面に押し倒すと、そのまま馬乗りになって――
殴った。
殴った。
さらに、殴った。
その様子を、獄卒の一人である蘆花(××歳 女)は後にこう語る。
『いやもう――死んだ、と思いましたね。格闘の世界じゃマウントの絶対性はすでに崩されているって言われますけど、それは殴る方が無意識に手加減してるからなんですよ。そりゃそうでしょう。頭を床に押し当てて本気で殴ればどうなるか、子供にだってわかりますよ。死にます。死ぬよね? 当たり前です。そりゃ戦ってる時は『死ね』とか『殺してやる』ってつもりで挑むでしょうよ。でもですね? 結果的に『死ぬ』のと、殺すつもりで『殺す』ってのはまた違うんですよ。全くの別物です。ほら、あたしら獄卒は罪人を痛めつけるのが仕事ですからね。そりゃー酷いこともします。でもですね? やっぱこう……嫌なんですよ。道具を使ってとかなら兎も角、素手で叩き殺すってのはねぇ。ほらゴキブリっているじゃないですか。そう、あの黒い悪魔。あれみたら普通の人は叩きますよね? 叩いて殺しちゃう。でもね、それって丸めた新聞紙とかハエタタキとか、なんか道具を使うでしょ? 手で叩き潰す人なんていないですよ。そりゃ汚いとか、バイキンが付くとか色々理由はあると思いますけどね。やっぱあるんですよ、自分の手で命を奪うことの罪悪感っていうか躊躇いっていうか……あるでしょ? そういうの。で、ですね。それがないんですわ、あの人。一発一発すんげー体重乗せて、しかもそれを連打ですからねー。羅刹様も最初は抵抗してましたけど、こう、ゴッ、ゴッていう岩をぶつけるような音から、バシャとかベシャとか濡れたタオルを壁にぶつけるような音に変わる頃には、もうピクリとも動きませんでしたねぇ。え、あたし? いやいやいや、止めるなんてとんでもない! あたしは勿論、誰一人動けませんでしたよ。完全に呑まれてましたねぇ。うん、あの場にいる全員が。まぁ、あたしゃ獄卒の中でも下っぱですし、たまに上に遊びに行くこともあるんですが、風見幽香の名前は何度か耳にしたことがあります。極悪非道、傍若無人、悪行三昧……まぁ、碌な噂はないですね。んで、そんなヤツが獄卒長になるって聞いて、けっこーマジにビビってたんすよ。ところが実際見ると可愛らしいお嬢さんでしょ? こりゃ噂はガセかなーって思ってたんですが……噂以上でしたねぇ。聞きしに勝るってーか、鬼気迫るってか。それにまぁ、こういっちゃ何ですけど……羅刹様は女の子にセクハラしまくって、顰蹙買ってましたしねー。あたしも何度か胸とか触られたことあるし、四季様にまで手を出してたって噂もあるし。だからなんていうのかな……獄卒のあたしがこう言うのもなんですが
――ちょっと憧れちゃいますね、漢として』
すでにボロ雑巾と化した羅刹を残して、ゆるりと幽香が立ち上がる。
服も、髪も、血に染めて。
三日月のように、歪な笑みを浮かべながら。
「ふ、ふふふ……そう、そうよね。こんなの私の柄じゃないよね……」
顔を上げる。
ゆらゆらと、鬼火のように瞳を揺らして。
「この私が……へらへら笑って、頭を下げて、挙句に乳まで揉まれて……」
ざわざわと。さわさわと。
緑の髪が、癖のある髪が、波打つように逆立っていき、
「あ、あの……幽香、さん?」
映姫の言葉も、最早届かない。
逆立つ髪も、赤光を放つ瞳も、三日月のような口元も、
その全てが絶望的なまでに手後れであることを示しており、
映姫も、阿傍も、獄卒たちもみな一様に声を呑んで――
そして――真の地獄が幕を開けた。
§
「獄卒どもよ……貴様らの主人は誰だ!」
「獄長! 獄長! 獄長!」
「貴様らの血、肉、魂! その全ては誰のものだ!」
「獄長! 獄長! 獄長!」
「知っているか? 貴様らが何と呼ばれているか……犬だ! ただエサを待つだけの去勢された犬だ! 許せるか? 貴様らはそれを許すのか? この地獄が……私が舐められているというのに、貴様らはそれを許容できるのか!? 許せんなぁ、許せるわけないわなぁ、ならばどうする? どうする? どうするつもりだ貴様らっ!?」
「闘争! 闘争! 闘争!」
「そうだ。その通りだ! 侮ることを許すな、軽んじるものを許すな、見くびるものを許すな、無視するものを許すな! 全てのものに焼き付けろ、我らの力を、苛烈さを、恐怖を! 奴らの目に、脳に、魂に! 二度と消えることのない『痛み』を刻み込んでやれ!」
「獄長! 獄長! 獄長!」
居並ぶ獄卒たちは感極まったように涙を流し、狂騒の拳を振り上げた。
一際高い歓声を、幽香は両手を広げて受け止める。
黒皮ビキニに黒マント。
肩や腰を艶やかに彩る凶悪な鎧。
そして――雄々しき二本の角を生やした金色の兜。
両手で鞭を振るい、地獄に伝わる由緒正しき獄長ルックに身を固めた幽香は、鳴り止まぬ獄卒たちのシュプレヒコールに満足そうな笑みを浮かべていた。
「……あんまり調子に乗らないでください。あくまでも貴方は代理なんですから」
隣に立っていた映姫が小声で話しかけると、幽香は悪戯っぽく微笑んだ。
「いいじゃない。ノってる時はノるべきよ。乗りたい風に乗り遅れたヤツは間抜けって――昔から言うでしょ?」
「誰が言ってるんですか、そんなこと……」
映姫は疲れたように首を振る。
そんな映姫の顔を見つめ、幽香は思わず吹き出した。
「それにしても見事にアザになってるわねぇ。あーあー綺麗な顔が台無しじゃない」
「殴ったのは貴方じゃないですか!」
映姫の右目には実に見事な青アザができていた。
暴れる幽香を取り押さえようとして、雷のような裏拳を喰らった時の名誉の負傷である。
「まぁまぁ、過ぎたことは言いっこなし。それにしても……うぷぷっ、まるでパンダね。白黒はっきりしててお似合いよ?」
「……今ここではっきり白黒つけましょうか?」
「冗談だってば」
割と本気で睨んでくる映姫を、あやすように幽香は笑う。
よく見れば幽香の身体も傷だらけだった。
顔も、手も、身体も、無数のアザが浮いている。
それでもそれを隠すことなく、
むしろ誇るように。
戦うことが己だと――全身で物語るように。
「それにしても……まさかアンタが私に手を貸すなんてねぇ」
「……仕方ないでしょう? あのまま放置するわけにもいかないじゃないですか」
あの時――怒りに我を忘れ、居並ぶ獄卒たちへと踊りかかった幽香であったが、所詮は多勢に無勢。当初は幽香の気勢に呑まれていた獄卒たちも次第に平静を取り戻し、団結し、反撃に移ろうとして……そこに割って入ったのが映姫であった。
幽香の後ろから飛び掛ろうとした獄卒たちを薙ぎ払い、まるで背中を預けるように。
獄卒の一人に突き飛ばされ、映姫にぶつかった幽香は驚いたように目を見開く。
互いに視線を交わす。一瞬だけ交わる視線。
そして――それだけで十分だった。
背中合わせに、目の前の敵だけを。
幽香の気迫に呑まれ、生存本能に突き動かされるように荒れ狂う鬼どもの目には、最早映姫すらも単なる障害としか映っていない。荒ぶる御霊と化し、目に付く全てを壊す暴徒と成り果てている。
だが映姫はそれを嘆くことなく。
手にした笏で突き、払い、薙ぎ倒し。
幽香もまた、背後に目を向けることなく。
拳を振るい、蹴りを放ち、猛り、吼え。
ただ、ただ、心赴くままに。
気が付けば、二人の他に立っている者はいなかった。
屍を積み上げ、血の河を踏み渡り、地獄の名に相応しく――二匹の修羅がいるだけだった。
「それにしても……」
「ん?」
「よくまぁ勝てましたねぇ。幾ら私のフォローがあったとはいえ、今の貴方の力が普通の女性と変わらないっていうのは事実なんですよ?」
「まぁ、そこは気合よね。逆上して見境なくそうとも、恐怖ってのは簡単に拭えるもんじゃないわ。最初にあの馬ヅラをシメた時点で、ビビったあいつらの負けだったのよ」
「そういうもんですか」
「そういうもんよ」
獄長コールを繰り返す鬼たちを見下ろして、幽香はそう結んだ。
喧嘩なんてそんなもの。
腕力とか、能力とか、そんなもの一切関係なく。
一度も引かなかった者が、自分を最後まで信じきった者が最後には勝つのだ。
なればこそ最強。それが故に最強。
『我が身に恥じるもの、一片とてなし』
最強とは――その高みへと辿り着いた者だけに与えられる称号なのである。
「でもまぁ……一応、礼を言っておくべきなのかしらね?」
「いりませんよ、こうなったのは私の責任でもありますし。それに――」
「それに?」
「セクハラは万死に値します」
「ぷっ……ははっ、あははははははっ!」
幽香が笑い、映姫も笑う。
実力で己を認めさせた幽香にもはや抗う者などなく、最強の獄卒長を迎えた地獄が以前のような活気を取り戻すのも、そう遠い話ではないだろう。
二人の前に敵はない。
この二人が組んだなら、勝てるものなど居はしない。
百年、千年と地獄の威光は翳ることなく、人々はその名を恐怖と共に刻むだろう。
四季映姫と風見幽香。
この二人の名と共に――
§
「って、逃げやがったぁぁぁぁあああああああああ!!」
夜明けの空に、映姫の絶叫が鳴り響く。
その響きに獄卒たちは身を竦め、老朽化著しかった地獄の釜が割れ、二度寝を決め込んでいた死神がべーっくしょいと派手なくしゃみをした。
映姫の手には一枚の手紙。
『飽きた』
斯様に簡素な一文を残して幽香の姿が消えたのは、地獄・ミッショネルズ結成から僅か三日目の朝のことであった――
その後、圧倒的なカリスマを失った地獄の獄卒たちはこれまで以上にやる気を失い、ストレスで胃に穴の開いた閻魔は長期療養を余儀なくされ、幽香の胸を突付いて遊んでいたエリーが地獄仕込みのフルコースを喰らったこと以外、概ね変わりなく平和であったそうな。
幽現を 問わず乱るる 花なれど
何処で咲くかは 風ぞ知るのみ
(詠み人知らず)