穂積名堂 Web Novel -既刊公開用-

幽現の花

2010/10/02 02:23:47
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幽現の花

       序

 桜の木があった。
 花の時分にはまだ早いのか、枝を露出させた姿はまだ冷たい風と相俟って、肌寒い印象を抱かせる。
「……はぁ」
 そんな桜の前で佇む人影。吐く息は白く、けれども先日までと比べればいささか薄い。じきに春が訪れるのだろう。
 もっとも、空気はまだ十分に冷たいと言える程。冷えきった手を擦り合わせながら、身を縛る寒さを紛らわせるように視線を巡らせる。
 桜並木――そう言うには均整のとれていない、雑多な並び。桜の雑木林といえば上手く言い表せるだろうか。
「……はぁ」
 もう一度。今度ははっきりと溜息と解るそれが、先程よりも若干濃い靄となって、消えた。
 確かに花の時分にはいくらか早い。それでも周りの木々は小さな蕾を付け始めているというのに、目の前に立つ木にはどういう訳か一つたりとも見受けられない。
 周りの木々と比べても、大きさや成長具合が劣っている訳ではない。まだ枯れてしまったようにも見えない。けれど、花を付ける気配はない。
「お前の晴れ姿、一度くらいは見せてもらえぬものだろうか」
 この呟きも一体何度目だろうか。世界を白に染めていた雪も溶けて、あとはいよいよ春の訪れを待つばかり。そんな時分にこの場所を訪れては、今と同じように残る冷たさに手を摩り、薄く消えていく吐息に一抹の寂しさを募らせてきた。
 今年も期待は出来ないか――そう思って踵を返した時だった。
 吹いたのは、一陣の風。
「あら」
 現れたのは、果たして仏か、それとも鬼か。








       壱

「……ぜはぁっ!」
 白玉楼へと続く大階段を上りきったところで、幽香は両膝に手を着いて荒々しく息をついた。
 呼吸の度に喉が痛い。更には頭痛、目眩、脇腹痛いの三点セット。いっそこのまま大の字に倒れてしまいたいという衝動に駆られるが、それは大きすぎるプライドが許してくれそうになかった。
 真っ昼間の花畑でゴロ寝するのとは訳が違う。こんな状態で倒れたりしたら、しかも背中を地に付けてしまったりしたら――それはイコール負けなのだ。何に負けるのかは自分でもよく解らないが、とりあえず負けなのだ。
 だから出来ない。たとえ何に対しても、自ら負けを認めるような事は一切しない。故に倒れない。
 最強であり、最凶。
 自他共に認める、最も妖怪らしい妖怪。
 それこそが風見幽香なのだ。
 しかし勝ち負けで言えば、両膝に手をついて息を切らせているこんな状態も如何なものか。
 誰かに見られようものなら、それこそ色んな意味で負けてしまいそうなもの。けれど当の幽香はといえば、お構いなしにぜーぜーと荒れる息を隠そうともしないまま、まだ両膝に手をついて地面を睨みつけている。
 しかし、幽香もそこまで頭が回らない訳ではない。今この状態も、自分が感知出来る範囲内に誰もいないことが解っているからこそのもの。もしうっかり誰かがこの姿を見てしまおうものならば、きっとそいつは寸刻先の世界すら見ることは叶わないだろう。
「それにしても……」
 後ろを振り返ってみれば、そこにはたった今上り切った階段が遥か眼下へと続いている。
「一体何段あるのよ」
 それは上り始める前に呟いたのと一語一句違わぬ呟き。けれど幽香がそんな事を言ってしまうのも無理はない。事実、見下ろした先は先が霞んで見えないほど。上る前は朝だったのに、体内時計はとうに昼を過ぎていた。
「はぁ……っとと」
 いくらか呼吸も落ち着いたところで姿勢を正すと、今度は立ち眩みに襲われた。
 最強であり、最凶。
 身体能力ならば鬼や吸血鬼にも勝るとも劣らないものを持っている。しかし、こと体力となればそうはいかない。
 幽香の生活は基本的に食っちゃ寝なのだ。そこいらの妖怪――主に下僕のような二人――を日々肉体言語でもって苛めているものの、彼女にとってそれが運動になるかと言われれば、必ずしも首を縦に振ることは出来ない。そもそも一方的だから苛めと言えるのであって、ようは運動不足。
 その四文字が頭に浮かんだ瞬間、己の意志とは無関係に手が自然と脇腹へと伸びていく。だが肉を摘むという最も恐ろしい所業は、寸でのところで理性が押し止どめてくれた。
 摘める肉などあるはずがない。そう思っていても、恐ろしいものは恐ろしいのだ。もし、万が一、ひょとして――考えただけで、ぶるりと身体が震え上がる。
「……この仕返しはきっちりとさせてもらうわよ」
 そもそもどうして律義に階段を上ってきたのか――その答えは、なんとも単純なものだった。
 大階段の麓にこれ見よがしに置かれていた立て札。
 そこには西行寺の名の下に、なんとも達筆な文字でこんなことが書かれていたのだ。
『飛ぶの? 飛んじゃうの?』
 今となっては後悔の念しか生まれてこない。何故あの時、自分はあんな安い挑発に乗ってしまったのかと。
 それもこれも、全てはつい先日の事。
 今日と同じように、鬱陶しいくらいに澄み切った青空が眩しい日の事だった。

       φ

「だーかーらー」
 怒気を孕んだ声。組んだ腕の中で叩く人差し指。そんな募る苛立ちを隠そうとしないどころか目一杯撒き散らせながら、幽香は幻想郷の調停者とも言える二人の少女と相対していた。
「あの半人半霊が私の前にぼさっと立っていたのよ。解る?」
「それは解りました。しかし問題なのは、その後の貴方の行動でですね――」
「私が通る私の道に立ち塞がるというのであれば、それ即ち私への反逆よ。そして反逆者の辿る道はただの一つ。言うなればそれはこの世界の理であり、大自然の摂理。ならば自然の権化たる私がそれを実行しない方がおかしいというものでしょうよ。どぅーゆーあんだすたん?」
「ですから、それは貴方のルールであって、別に世界の理でもなんでもないと何度も言っているじゃないですか……」
「だーかーらー」
 早くも振り出しに戻った幽香の供述という名の言い訳を聞きながら、楽園の最高裁判官こと四季映姫は深く深く溜息を吐いた。
 もう一人の調停者たる博麗霊夢はといえば、そんな映姫とは対照的にどこまでも落ち着いた様子。縁側に敷いた座布団に座る姿勢も変えずに湯飲みを傾けて、
「あー、お茶が美味しいわ……」
 全く話を聞いていなかった。
 まだ些か寒さの残る季節。この三人に西行寺幽々子を加えた四人がここ博麗神社に集まったのは、なにも気の早すぎる花見をしようだとか、そんな事ではない。
「太陽の畑で変死体!? 被害者は白玉楼の庭師魂魄妖夢!」
 珍しく仕事をした天狗がばら蒔いた号外に、でかでかとそんな見出しが踊ったのがつい先日の事。
 ここのところすっかりと平和ボケしていた幻想郷の住民たちが、すわ何事かと震え上がったりしたのも束の間。犯人が幽香であったと知れば、誰もが「彼女はいつかやると思っていました」と答えたという。
 そうして事件はあっけなく解決したものの、推理小説と違ってそれだけでは話が終わらないのが実際の事件。幽々子は今回の所業に対して遺憾の意を表し、そんな彼女に幽香が潔く逆ギレ。そこから「よろしい、ならば戦争だ!」などという経過があったりなかったりして、今に至るという訳だ。
「だーかーらー」
 最早何度目になるか解らない、繰り返される幽香のトンデモ理論に、映姫がこれまた何度目になるか解らない溜息を吐いたその時、
「それで、霊夢の所見は?」
 このままではラチがあかないと思ったのだろう。それまでずっと傍観していた幽々子が流れを変えようと話を振ってみたものの、呼ばれて初めて気が付いたとでもいうように、霊夢がぱちくりと瞬き。傍観どころか完全に無視していたからには当然話など聞いているはずもなく、三人から向けられた視線に「あー……」とほんの少しだけ気まずそうに頬を掻いた。
 暫くそのまま、頬を掻いた手を顎に当てて考える素振りを見せていたかと思うと、また湯飲みを手にとってお茶を一口。
「話、聞いていました?」
「うるさいわね、解ってるわよ」
 横槍を入れる映姫にさも面倒そうに答えてから、霊夢はうんと一つ頷いて、
「幽香が悪い」
 それだけを言って、これで納得がいったとでもいう風に、続けて二度三度と頷いた。
「なっ……! ちょっと貴女、本当に私の話を聞いていたの!?」
 だがそれで納得がいかないのか、幽香が霊夢に食ってかかる。むしろ今の説明で誰が納得するのかと映姫も思ったが、折角矛先が霊夢に向かっているのだ。ここは口を挟まない方が得策だろう。
「うるさいうるさいうるさい。いいのよこれで、はい決定。終わり、終了、閉廷おやすみまた来夏」
 だが迫りくる幽香もなんのその。霊夢は一気に捲し立てると、そのまま部屋に戻って、午後の日差しにぬっくぬくにされた布団に潜ってしまった。
 そういえば、最初に訪れた時も布団にくるまっていたところを叩き起こしたのだったか。しかも来夏ということは夏まで寝るつもりか。一体どれだけ寝れば気が済むのだろうか、このぐうたら巫女は――と、色々と言いたいことはあったが、映姫はぐっと我慢した。ようやく解放されるのだ、余計なことはしないに限る。
「……まぁそんな訳らしいので、後は貴方達で決めてくださいね」
「ちょっと、それでいいの!? あんた裁判官なんでしょ!?」
「私は閻魔です。そもそも半人半霊は私の管轄ではない――というかどこの管轄でもありませんし、幻想郷で起きた事で博麗の巫女があのように言っているのですから、それに従うのが道理かと」
「じゃぁあんたは何しに来たのよ!」
「呼び出したのはそちらじゃないですか。はぁ……今日はずっと見ていた昼ドラの最終回だったのに」
「私は納得いかな――」
 続く叫びを遮るように、ぽんと肩が叩かれる。「誰だ邪魔する奴は!」とでも言うように血走らせた目を向けると、そこには満面の笑みを浮かべる幽々子の姿。
「そういう訳だから」

       φ

 そういう訳なのだ。
 とはいえ、形だけの口約束なぞ反故にしてしまえばいいし、そうするのは簡単なもの。しかし簡単だということは、当然約束を取り付けた側――幽々子も同様に容易く予測出来るということ。ならばそこは胡散臭いどこぞの妖怪と日々言葉遊びに興じている身。形だけの口約束を絶対のものにするだなんていうことは、彼女にしてみればお手の物だろう。
 幽香も舌戦になったところでそうそう負けることはないのだが、流石に幽々子が相手では分が悪かったのか。結果として、こうして冥界にいるという訳である。
「で、その屋敷はどこにあるのよ」
 呼吸もすっかり落ち着いて、目眩も引いたところで改めて周りを見てみると、目に入るのは幾本もの木が立ち並ぶ雑木林。枝先を仄かに彩る薄桃色を見るに、桜の木なのだろう。
 ――もうそんな時期なのか。
 当てもなく、ただどことなく道になっているような木々の間へと足を向けつつ、そんな事を思う。
 太陽の畑での一件以来、どうにも虫の居所が悪い日が続いていた所為で、落ち着いて花の様子を見る事も出来なかった。冥界の桜の時期がどうなのかは解らないが、顕界では他の花もその身を飾り付けようとしている頃だろうか。
「そういえば、来る途中に白いのを見たような気もするわね」
 遠目に見えただけだから確信は持てないが、あんなに色々と爛漫な奴は幻想郷といえどもそうはいない。はた迷惑な妖精であるものの、春の目印としてはこれ以上解りやすいものもないだろう。そうでなくとも、少し顔を上げればどこを向こうとも飛び込んで来る桜色。そう遠くはない春の訪れ、満開の姿を予見させるそれらを見ていると、ここが現世ではないという事も忘れそうになる。
「……いや、それはないか」
 一見しただけならば、そう思ってしまうかもしれない。けれど、注意を向ければ向けるほどに解る。感じる。そう、ここの花は――、
「少しばかり死の香りが強すぎる」
「それはまぁ、本場だから」
 不意にかけられた声。幽香がゆっくりと声のした方へ視線を向けると、そこには確かに一つの人影。一瞬姿が見えなかったように思えたのは、その髪の色故か。
「保護色?」
「……」
「なによ」
「いえ、そんな風に言われるのは初めてだったから」
 ちょっと驚いただけよ、と言って、横合いから吹いた風に靡く桜色の髪を押さえることもせずに、彼女――幽々子がころころ鈴を転がすような声で笑う。
「あぁでも、ちゃんと来てくれたのね。随分と遅かったから、反故にされたのではないかと心配していたのよ」
「……別に、時間までは指定されていなかったと思うのだけど」
「あら、あらあら」
 ころころと、ころころと。
 着物の袖に隠れた手を口元に添えて笑う幽々子を見て、幽香は辟易した。
 こいつには笑うという以外の表情があるのだろうか。会った事も見かけた事もほとんどなく、ましてや直接話をするのはこれが初めてと言っても差し支えない程度の関係。それでも、他の顔を想像するのが難しい。思い浮かべる事が出来ない。
「ふむ」
 そんな彼女であるからこそ、果たして苛めた時にどんな顔をしてくれるのだろうか、とも思う。泣き顔は、許しを乞う声は、絶望の淵に追い込まれた時はどうするのだろうか、そしてそこから更に突き落とされた時は――そんな自分の中の嗜虐的な部分が鎌首をもたげるのを感じながら、しかしそれが表に出ることはなかった。
「まぁでも、こんな所で立ち話をするのにはまだ少し早いようだから、行きましょうか」
 どうやって苛めてやろうかと思い始めたその時を狙ったかのように、幽々子が声をかけてきたのだ。
 指図されるのは好きではないが、ここで立ちっぱなしというのもどうかと思うのは幽香も同じ。売り言葉に買い言葉でつい「なら咲かせてあげましょうか?」と言いそうになったが、それも思うだけに留まった。たとえこの桜の木々が満開になったとしても、こんな亡霊嬢を相手に談話と洒落こむつもりは毛頭ない。何より、自分以外のために力を使うなどという選択肢自体が、幽香の中に存在しないのだ。
「それにしても、ご当主様が自らお出迎えだなんて、白玉楼も今話題の人員不足? それともリストラとか? まぁ適当な奴を寄越すよりかは、よっぽど賢明な判断だとは思うけど」
「その人員を削減したのは貴方じゃないの」
「あら、そうだったかしら」
 探るように、抉るように。けれど幽々子は笑みを崩さず、澱みない歩みで幽香の前を行く。
「――なんともはや」
 ともあれ、道らしきものはやはり道だったようで、すぐに屋敷が見えた。
 門構えからして純和風の、いかにもといったような物。
「……」
「どうしたの?」
 先ほどとは真逆。門の横の通用口を潜る幽々子に問われて、幽香が溜息一つ。
 別に広いとかでかいとかはさして興味もない。長年生きていると、次第にそういった部分が麻痺してくるのか、どうでもよくなってくるのだ。そもそも、見栄や世間体といったものを気にするのは人間くらいなもの。妖怪としての興味はといえば、
「面白味がないわねぇ」
「何を期待していたのよ」
「変形したりしないの?」
「そんな、鎧王じゃあるまいし」
 それでも、結局ころころと笑うのは幽々子の方。通用口の向こうに消える彼女の姿を追わず見送って、一人取り残された幽香は言葉通り、どこか面白くなさそうな顔で空を仰ぐ。
 天気は快晴。
 どこまでも一色に染まる青を眺めている内に、ふと何かを忘れているような気がしたが、思い出せないということは、所詮その程度のことなのだろう。そういった事は気にしないに限る。

       φ

「――それにしても」
 無駄に広い屋敷の中。純粋な和風の家に物珍しさとちょっとした懐かしさを感じていたのも束の間。早々に飽きた幽香は、終わりの見えない幽々子の御家自慢を右から左へと聞き流しながら、縁側を先に行く彼女には目も向けずに、ただ眼前に広がる、これまた無駄に広い庭先を眺めていた。
「噂には聞いていたけど、ほんとに辛気臭い所ね」
 ここまでなんだかんだと騒いでいたから気付かなかったが、冥界にはまず音がない。
 草木は生えている。見れば兎のような小動物の姿も確認出来るし、空には鳥も飛んでいる。
 見た目こそ地上とそうは変わらないのに、そこに音だけが存在していない。
「……」
 知らず、足が止まる。
 改めて一歩。確かに床板を踏んだ感触はあるのに、床が軋む音は聞こえてこない。床板が新しいといえば済むかもしれないが、足裏の触れた部分はそうは答えない。改めて庭先へと向いてみると、兎が草を掻き分ける音も聞こえてこなければ、空を飛ぶ鳥が翼を羽ばたかせる音も聞こえてこない。
 その所為か、酷く感覚が鈍る。自分の存在さえもが曖昧になる。
 さもすればここにいるのは自分だけで、実際は周りには何もないのではないか。あれらは全て幻で、音と同じようにそこには何も存在していないのではないか。
 真っ白な空間。どこまでもどこまでもただ白だけが続く世界。目も鼻も口もない、真っ白なヒトガタが何人も歩き、同じように真っ白なケモノが駆ける。けれどそれらは全て存在しながら存在していない、ただの白。地面と空の境界線も解らず、自分が上を向いているのか下を向いているのか、立っているのかどうかも解らずに、ぐるぐると、ぐるぐると白が回っていく。
 それすらも、自分が回っているのか周りが回っているのか――
「ここは」
 静かな一声が、どこか遠い所に飛んでいた意識を取り戻させた。
 御家自慢はいつの間に終わったのか、前を歩いていた幽々子も足を止めて、その瞳を庭先へと向けていた。
「全ての死した者の集まる所。彼らは現象として存在していても、モノとして存在していない。故に世界に干渉できない。してはいけない」
 精々周りの気温を下げるくらいね――どこか遠くを眺めたまま、幽々子が言う。生気を感じさせない白い横顔は、文字どおり幽々しいもので、なるほど冥界のお姫様かと思わせるには十分だった。
 冥界という檻の中のお姫様、なんて。
「でも、貴女は触れるじゃない」
「ふぁひ?」
 無造作に近づいていったかと思うと、むんずと幽々子の両頬を掴んで、更にぐにぐにと揉みしだく。あ、なにこれ超柔らかい。
「ひゃっれわはひはほうへひひゃほほ」
「何言ってるのか全然解らないわよ。日本語を喋りなさいこの肌超人め」
「ははひゃはひゅはふへひひゅはひゃひゃはひ」
 ――わぁ、凄く面白い。
 なんでこういう時に限ってあの騒がしい天狗がいないのか。いつも澄ました顔をして気取っている肌超人のこの有り様、今正にスキャンダラスな現場が発生しているというのに。そんなだからいつまで経っても三流のぺーぺーなのだ。
 まぁいい、それなら一人で楽しむだけだと、幽香は更にぐねぐねと。
「ほんと、何をしていたらこんなになるのよ」
「ひひぇひゃひーんひゃはい?」
「…………」
「ひひゃいひひゃいひひゃいひひゃい」

       φ

「ゆゆこ、もうお嫁にいけない」
「止めなさい気色悪い」
 よよよ、と撓垂れる幽々子は、けれど幽香の声を聞いて「あらそう?」とすぐに復活。流石に演技だったのだろう、あっけらかんとしたその様子は普段の彼女に違いなかった。多少疲れの色が見えるのは、小一時間も頬をこねくり回されていた事を考えれば当然か。
「改めて言うと、私は亡霊だから」
「? 亡霊も幽霊も似たようなものでしょう」
「あら、あらあら」
 一瞬意外そうな顔をしたかと思うと、すぐに幽々子はくつくつと笑い出した。よほど可笑しかったのだろうか、しまいには涙の浮かんだ目尻を指で摩りながら、
「貴方がそんな事を言うだなんて、ねぇ?」
「なによ、また揉むわよ」
「あぁごめんなさい。そんなに不貞腐れないでちょうだい」
 それでも少しだけ警戒したのか、守るように両手を頬に当てる幽々子を見て、幽香は溜息。
 どうにもやり辛い。
 妖怪であろうと妖精であろうと、そしてもちろん人間であろうと、理性といったものを持ち合わせている相手であれば、僅かなりとも何かしらの感情が向けられるもの。それがどんなに小さなものでも、敏感に察して対応と言う名の苛め方を考える。それが幽香の常だった。
 しかしこの亡霊嬢は、その辺りがどうにも定まらない。
 畏怖、恐怖、畏敬情愛慈悲羨望――あらゆる感情が入り乱れている。その表情こそずっと微笑んでいるものの、内に秘める感情は水面を漂う木の葉のようにゆらゆらと揺らいだまま、決して留まる事はない。何か一つを嗅ぎ取ってそこから返そうとしても、その時にはもう別の感情が向けられているのだ。
 知らずにそれらを行っているのであれば、天然という言葉で片付けることも出来るだろう。
 しかし幽香とてそこまで目が節穴な訳ではない。
 ――面倒ねぇ。
 先日の不良天人が引き起こした一連の出来事は、幽香も風の噂程度には聞き及んでいる。それだけでも幻想郷の天候が目まぐるしく、しかも局地的に移り変わっていったことの原理は十分に推察が出来た。
 問題は、当時の冥界の天気だ。
 当事者達の言い分を伝え聞くに、この娘はわざと雪を降らせていたのではないだろうか。
 自分の気質など、そうそう操れるものではない。天候の強弱程度であれば幽香も出来ないことはないが、まったく別の天候にするだなんていうことは、常識的に考えれば不可能だ。
「何か言った?」
「……別に」
 相手をしていても疲れるだけか。
 このような状況は幽香にとって非常に好ましくないものではあったが、だからといって事を荒立てては、それこそ幽々子の思う壷だろう。
 そんな事を思いながら、幽香は再び視線を庭先へと向ける。
「幽霊、か」
 現象として存在していても、モノとして存在していない。
 つまりはそういう事なのだろう。
 先程まで跳びはねていた小兎もどこかへ行ってしまったのだろうか、その姿は見当たらない。
 この草も、木も、吹く風さえも、全てが幽霊だというのだろうか。
「たとえそうだとしても、私の手に掛かれば――」
「あら、やる気になったの?」
 横合いから、幽々子の声。
 目を細めた表情は変えないまま「じゃぁこれね」と細い棒切れを渡されて、幽香の頭にぽんと疑問符が沸いて出た。
「なにこれ」
「見れば解るでしょう? はたきよ」
 なるほど確かに。細い棒切れの先には何やらもさもさと羽根がくっついている。自分の館の中で夢月がよく手に持っていた物ともそう差異はない。これはつまりはたきであって、はたきとは主に掃除に用いる用具だ。
「貴女をはたけばいいの?」
「あら、私は埃じゃないわよ」
 ここに来た理由も忘れたのかと言われて、はてと幽香は考える。
 考えて、考えて、もひとつ考えて。
「冗談じゃないわよ!」
 豪快に叫んだ。
「あんたは私に家政婦をやれというの!?」
「物分かりがいいじゃない。そういうところ、好きよ」
「ふざけないで! この私に、この風見幽香に、メイドの真似事をさせようだなんて、何様のつもり!?」
「ゆゆ様。とまぁ冗談はさておいても、真似事では困るわ。だってそういう約束でしょう? それとも反故にする? 私はそれでも構わないけれど……」
 私はね、と幽々子に言われて、幽香がぐっと言葉に詰まる。
 閻魔と博麗の巫女が取り定めた今回の辞令。
 人間の間ではそこまでの影響力はないだろう。けれど幻想郷に住む妖怪にとってはそうもいかない。
 今ここで幽香が逆らえば、それはすぐにでも幻想郷に広まるだろう。いくらジャーナリスト気取りの天狗を根絶やしにしたところで、それは止められようもない事実だ。
 風見幽香は所詮その程度。
 そう思われてしまえば、妖怪にとってそれはもう死に等しい。
 取り戻せないもの。癒えない傷。これから先、どれだけ幽香がその圧倒的な力をもって己を誇示してみせても、それではピエロでしかない。
 これがもう何十、何百年と前であったのならば、問答無用で暴れる事も出来ただろう。しかし今はもう許されない。自身が許さない。そんな事をすれば、余計に立場を悪くするのは目に見えている。
「……くっ」
 苦渋にまみれた顔で、幽香が葛藤する。
 己のプライドとプライドが激しく鬩ぎ合い、火花を散らす。選択肢は二つに一つ。どちらを選んだところで、待っているのはただ屈辱のみ。それでも幽香は考える。一筋の光を見出そうと、あらん限りの未来を予測する。
 そのまま一体どれほどの時間が流れただろうか。幽香の頬を伝った汗が顎からぽとりと一滴、そして幽々子はただ静かに微笑んだまま。
「……やりま……す……」
 苦虫を噛み潰したように答える幽香を見て、幽々子が満足そうに頷いた。
「貴方ならきっとそう言ってくれると思ったわ。じゃぁお願いね」
「……覚えてなさいよ」
「あら、怖い怖い」
 空は快晴、日差しは良好。風も穏やかで気温もそれなり。
 風見幽香の白玉楼での生活は、こうして始まった。


「で、どこを掃除すればいいのよ」
「そうねぇ……全部、と言うと貴方も迷うでしょうから、とりあえず菊の間から順番に始めていけばいいんじゃないかしら」
「どこよそれは……」
「部屋の名前と場所は、ここに来るまでに全部説明してあげたじゃないの。もしかして聞いていなかったの?」
「あぁ、御家自慢じゃなかったのね、あれ」
 聞いていたのかと言われれば、もちろん聞いていなかったのだが、よもやそれを口に出す訳にはいかない。幸い、右から左へ流していたような事でも、一度聞いたものは勝手に頭が覚えていてくれている。どんな些細なものでも、言葉尻を捉えて相手を詰る為に自然と鍛えられた特技が、思わぬところで役に立った。
「――ちょっと待って。全部って、この屋敷を全部!?」
 この屋敷にどれだけの部屋があるのかは知らないが、外から見た様子を思い出すだけでも、ざっと夢幻館と同程度か、或いはそれ以上。これを今から一人で全て片付けろというのか。
 思わず冗談じゃない、と叫びそうになったが、そこに割り込むように幽々子の声。
「あら、妖夢は毎日やっていたわよ?」
「……くっ!」
 それは脅迫だった。
 幽々子の言葉が真実かどうかなんてことは解らない。けれどここで退けば、それは敗北を意味する。
 紛う事なく、それは脅迫だった。
「この私を脅そうというの……?」
「心外ね。実際にやっていたのだから、別に脅しでもなんでもない、ただの事実よ」
 ころころと笑う声も、今はただただ鬱陶しい。
 退けば屈辱。されど前に進んだところで、待っているのは屈辱。
 屈辱にまみれて醜く生きるか、それとも屈辱の果てに死ぬか――。
 幽香が選んだのは前者。どこかに打開策――手っ取り早い話、幽々子を抹消してしまえばいい――があると思って、長い葛藤の末に選択したのだが、早くも限界だった。
 しかし退く訳にはいかない。
 たとえ屈辱しか待っていなくても、ただ前進あるのみ。幽香の辞書に退く、媚びる、顧みるだなんて言葉は載っていないのだ。
「別にあんたのためにやるんじゃないわよ!」
「……デレはあるのかしら」




       φ

 日が西の山裾に沈んで久しく、夜もすっかりと更けた頃。
 そんな夜闇に紛れて、縁側を行く影が一つ。
「音が立たないっていうのは、こういう時には便利ね」
 呟く声は、幽香のもの。
 顕界であれば、このくらいの時期になってくると、夜間といえど中々静寂という言葉も当て嵌め辛くなってくる。そこに紛れるというのも一つの手ではあるものの、如何せん音の発生源は勝手気ままな自然の住人達。思い通りにいかない場合も少なくない。
 しかし無音の状態が約束されているのであれば、周りの音を気にすることも、またそれらに気を取られることもなく、そして集中するという点においてはこれ以上ない状況。
 目的の場所に向かって、迷う事なく進む足取りはけれど慎重に。
 生まれて初めてはたきを持って、生まれて初めて掃除という行為に勤しんで、それが終わったのがつい先程のこと。
 鞭ならば手にしたこともあるし、粛正という名の大掃除なら今までにも行ってきたが、もちろんそんな事が役に立つはずもなく。
 なにも律義に言われた通り屋敷中を掃除しなくてもよかったのかもしれないが、一度受けた挑戦を途中で投げ出すのも癪に障る。掃除と称して全てを魔砲で消し去ってもよかったのだけれど、それではどこぞの人間と同レベル。そんなことを幽香が許せるはずがなかった。
 そう、事はもっとスマートに運ばなければならない。
「こういうのは、あまり好きじゃないのだけれど……」
 それも仕方のないことか、と自分を納得させる。
 なにせ日中の奴ときたら、見事なまでに隙がないのだ。
 顔だけ見ていればずっとぽえぽえと笑っているのだが、どれだけ張り付いていても一切ボロを出さない。
 何よりも恐ろしいのは、その笑顔が本物だという事だ。
 本心を隠すためのものでもなければ、本物に見せかけようとしているようにも見えない。本当に、心の底から全てを楽しんでいるが故の、本物の笑み。なのに、そこには欠片も付け入る隙がない。
「そういえば……」
 言いかけて、はて何がそういえばなのかと自問するが、答えは出てこない。
 昼に冥界に入った時にも似たような事があったが、原因も、その先にあるものもサッパリと解らない。
 やはり生きた身のままこんな所にいるのが悪いのか。そうでなくともこの季節、花の代名詞たる自分が地上にいないとあっては、それこそ沽券にかかわる。
 こんな所で一生を終えるつもりなどない。
 それ以前に、誰かに使われるだなんていうのは耐えられない。
 ならばやるべき事は既に決まっている。
「さて、と」
 辿り着いた部屋の前で、静かに深呼吸。
 ただ相手を屠るだけならば、いつも通りで構わない。けれど今はなるべく事を荒立てないよう配慮する必要がある。妖怪の目をもってしても見ることの叶わないような範囲まで誰の気配もないことは解っているが、それでもどこから、誰が見ているか解らないもの。万全を期すには入念すぎるくらいが丁度いいのだ。
 右手に愛用の傘を携えて、障子に隔てられた向こう側を窺う。
 夜襲など自分の柄でないという事は解っているが、あからさまにやるには相手も己を取り巻く状況も悪すぎる。
 静かに、あくまでも静かに、跡形もなく消し飛ばしてしまえばいい。そうすれば晴れて自由の身だ。
 証拠もなければ目撃者もいない。何か言われたところで、幽々子が失踪したと言えばどうにでもなる。
 実に短絡的な思考であるものの、実行出来たのであればこれ以上のものはない。
「……」
 部屋の中にも問題なしと見て、そろりと障子を横に滑らせる。
 音が立たないとはいえ、気取られてしまっては全てが水の泡。待っているのは楽しい楽しい奴隷生活だ。
 身を滑らせるように室内に侵入。部屋の中央に敷かれた布団に目標を見定める。起きる気配はない。ならば後は実行するのみ。
 一撃で。
 跡形もなく。
 消し飛ば――
「あらあら、こんな時間にどうしたの?」
 いざ傘を突き立ててくれようとしたその姿勢のまま、幽香がびくりと身を強ばらせた。
 驚いたのは声をかけられたからというだけではない。
 その声が、自分の背後から聞こえてきたのだ。
「いつの間に――」
 ぎぎぎ、と首を軋ませながら振り返ると、そこには確かに幽々子の姿。
 布団には膨らみがある。そして幽霊だろうが亡霊だろうが、幽香がその気配を読み間違えるなどという事はありえない。
 しかし、視線を戻して一気にかけ布団を捲ってみると、やはりというかその中身はものの見事に空っぽだった。
「一緒に寝たいのなら、そう言えばいいのに」
「誰があんたなんかと!」
「朝までお相手するのだって、やぶさかではないわよ?」
「なんであんたなんかと!」
「貴方っていい声で鳴いてくれそうだもの」
「今ここでお前を泣かせてやろうか!?」
 その後も幽香の叫びは鳴り止むことなく、疲れ果てて宛がわれた自分の部屋に戻る頃には、うっすらと東の空が白んでいた。






       幕間

「珍しい所に珍しい人間がいるわ」
 かけられた声に振り返ると、一人の少女が肩にかけた傘をくるくると回しながらこちらを見ていた。
 その姿に驚き半分、もう半分は安堵しながら、少女に向かって会釈する。
「珍しいといえば、貴女のそれも随分と珍しい」
「そう? 傘なんてもう百年も二百年も前からあるじゃない」
「傘自体は。しかしそうやって使われるのはあまり見かけませぬ故」
 言われて、少女は回していた手を止めて、しげしげと己の頭上を覆う傘を見上げた。
 確かに傘といえば儀式などに使うのが主だったところ。こうして個人が日常の中で手にしている場面は、珍しいと言われても無理のないところか。
「邪魔ではありませんか?」
「閉じることが出来ないのが欠点ね。でも眩しい時は日の光も遮る事が出来るし、便利な物よ。それにしても――」
 少女の問い。今度はこちらが聞かれる番だった。
「その格好。風の噂で聞いてはいたけれど、本当だったのね」
「いやはや、お恥ずかしい」
 丸めた頭。身に纏う袈裟。それらは僧の装束だった。
「人間の社会なんてあまり興味もないのだけれど、随分と偉かったんじゃないの?」
「さて、これといった切っ掛けがあった訳でもありません。世を捨てたかった――そのような有体なものですよ」
「? 世を捨てたから出家するのではないの?」
「誰しもが同じこと。悟りの境地へと向かい、その先を求めて出家する。真の世捨て人であられれば、そも出家などなされぬでしょう」
「ふーん……よく解らないわね」
「所詮は人の道。そうですね……貴女と出会った事も、比度の一因かもしれませぬな」
「私に憧れでもしたの?」
「……そうかもしれません」





      弐

「くぁ……」
 漏れる欠伸を隠そうともしないで、幽香は無造作に包丁を振り下ろした。
 ドン、と豪快な音と共に大根が真っ二つになる。
 もひとつドン。更にドン。
 添えるはずの左手は、欠伸で浮いた目尻の涙を摩るのに忙しい。
 四度振り下ろした衝撃で、大根が一切れあらぬ方向へ飛び立ったが、それも気にしない。
 昨日とも言えない時間帯、明け方まで続いた喧噪からまだ数時間。ようやく寝られると布団に潜り込んだまではよかったものの、すぐにふよふよと漂う霊魂たちに取り囲まれた。
 すわ何事かと思わず数個消し飛ばしてしまったが、彼ら(彼女ら?)がその身を張って伝えてきた事を聞くに、どうやら今日は妖夢が炊事当番だったらしい。そうなれば、当然妖夢の代わりに居る幽香にそのお鉢が回ってくる訳で、ようは朝御飯の時間だった。
 霊魂にまで指図されるだなんて、私も落ちぶれたものねぇ――などと、普段であれば即死罪に処するような事をぽやぽやと考えているのも、寝不足の頭故か。
 ほとんど寝ていないおかげで怠さの残る身体を引きずって、ふらふらとした足取りで台所に入り、残っていた食材から適当に選び出していく。料理などここ数百年ほどした事はなかったが、頭では忘れても体はきちんと覚えている。
 ドン、と何度目かの衝撃。
 まな板の上には千切りともみじん切りとも、角切りともぶつ切りとも言えない大根の成れの果てが積み上がっていたが、それもきっと寝不足の所為なのだろう。
 頭では忘れても、体はきちんと覚えている。
「…………」
 しかし、いくら睡魔に襲われようとも、身体を動かしていれば自然と目も冷めてくるもの。
 ふと冷静さを取り戻した幽香は、何故自分がご丁寧にエプロンまで付けて台所に立っているのかと憤慨し、けれど次の瞬間には口の端を吊り上げ、しょぼくれていた瞳を目一杯ギラつかせていた。
 所謂、いじめっ子の笑みだった。


「へぇ……」
 卓の上に並ぶ皿を見て、次に傍らに立つエプロン姿の幽香を見て、そしてもう一度卓の上に並ぶ皿を見て、幽々子は意外そうに目を丸めた。
「ふふん、私がその気になればこの程度、正に朝飯前というやつね」
 片手を腰に当てて、もう片方の手に持ったお玉で肩を叩きながら、幽香が得意げに胸を張る。
 しかしその胸中には、少々焦りの色があった。
 幽々子もほとんど寝ていないはずなのに、それでも太陽が昇り切った頃にはちゃんと起きてきて、幽香が朝食の用意が出来たと言えば、すぐに身嗜みを整えて食膳に着いたのだ。目の下に隈が出来ているという事もなければ、肌が荒れているようにも見えない。どこかほわほわしているのはいつもの事だとして、それ以外に起きぬけからこれまで、そして今も彼女の振る舞いに寝不足の文字は全く窺えなかった。
 ――この肌超人め。
 そう思いながらも、幽香の目は卓上に並べた料理から動かすことが出来なかった。
 一見すればなんの変哲もない献立。しかしその中に込められた物に対する期待は並々ならぬものがある。隠し味に愛情を注いでみただとか、そんな世迷い言を言うつもりはない。もっとずっと現実的な物だ。
 たとえば毒とか。
「……」
 朝食ということで献立自体は少ないものの、その全てに余す事なく毒を盛ってみた。それもとびきりの物ばかりだ。
 昨日屋敷中を掃除して回っていた時に、ふと見た庭の一角に見つけた小さな花壇。日頃から草花と共に生活している幽香は、一目でそこに植えられている物が何かを見極めたが、その時はなんでまたそんな物を、としか思っていなかった。しかし先程大根の成れの果てを前にそれを思い出し、すぐさま庭に飛び出して採取。刈った分は能力で元に戻すという徹底振りだ。花を操る能力といえど、そのくらいは気合でどうにでもなる。
 特にオススメの一品は、走野老をふんだんに使った大豆と山菜の煮付け。食べると幻覚症状が出て走り回ると言われる、中々に素敵なものだ。
 時間があれば、顕界に下りて毒人形からあれこれと譲り受ける事も出来たのだろうが、それでも仕上がりは上々だと言える。
「貴方は食べないの?」
 幽々子に問われて、思わず「ひぇ?」と声が上ずった。
「あー、私は作ってる最中にあれこれつまみ食いしていたから――」
 ふざけた言い訳。自分に対して反吐が出る。
 しかしそれもこれまで。あと数十分もすれば自由の身なのだ。
 例によって目撃者は無し。死体は隠したり埋めたりしなくても、跡形なく消し炭にしてしまえば問題ない。
 完璧な流れだ。完璧すぎて涙が出てくる。
「そう? それじゃぁ、いただきます」
 手を合わせて、行儀よく一礼。
 ちゃんとするもんだと感心しつつも、視線は右手の箸と空いた左手に釘付け。怪しまれないように注意はしているものの、どうしても見てしまう。
 そんな幽香の胸中なぞ露知らず、幽々子が最初に取ったのは、吸物の椀だった。
 本当にちゃんとしていると思うが、そんな事はどうでもいい。本命に辿り着くまでに気づかれては元も子もない。成分は一切弱めず、けれど味は全て隠し通す。味見などはもちろんしていないが、そこは問題ないはずだ。
 頭では忘れていても、身体はしっかりと覚えている。
「――」
 しかし、一口啜っただけで、幽々子の手がぴたりと止まった。
 気づかれたか、と幽香がお玉を振り上げる。
 こうなった以上、最早頼れるのは己のみ。少々順番は狂ったが、最終的に消し飛ばす事に変わりはないのだ。ならばまどろっこしい事などせず、シンプルに、ただの一撃で、葬り去ってしまえばいい。
 ただのお玉と思う事なかれ。彼女が手にすれば、たとえそれが朽ち果てる寸前の物であろうとも、何物にも勝る武器となる。武器とはそれその物に力があるのではない。それを扱う者が如何にして振るうかによって、初めて力となるのだ。
「美味しいわね」
「へ?」
 だがお玉はその目的を果たす前に急停止。振り下ろした腕をどうにか寸でで止めて、今度は幽香が目を丸くした。
「意外だったわ。正直炊事にはあまり期待していなかったから、他の者にもあまり無理強いはさせるなと言っておいたのだけれど……どうやら私の見込み違いだったようね。もちろん良い意味で、よ」
「……」
「? どうしたの、そんなお玉を突き出して」
「え、あ、いや――当たり前じゃない。この私を誰だと思っているのよ」
 ぎこちない仕草でお玉を引きながら、幽香が引きつった笑みを浮かべる。
 ――バレた訳じゃないのよね。
「それにこの山菜の煮付け。走野老がいい味出しているわね」
 バレバレだった。
「あぁでも、それを抜いても美味しいわね。貴方、料理人としてうちで働いてみない?」
「死ね!」

       幕間

「また珍しい所に珍しい人間がいるわ」
 その声を聞いて、どこか安心する自分がいた。
 不思議なものだと思う。こちら側から見れば、彼女は脅威でしかないはずなのに。
「海を越えてまで、御苦労様ね」
「貴女様も。ここのところお見かけしませんでしたが、よもやこのような所にまで足を伸ばされているとは、思いもよりませんでした」
「私は季節の花と共に移動しているだけ。そして今は桜を追いかけている最中。またすぐ東へと行くわ」
 なるほどと納得すると共に、彼女らしいとも思う。
 花の妖怪なのだと、以前彼女は自分の事をそう言った。
「貴女様は……」
 言いかけて、これは果たして聞いてもいい事なのだろうかと口を噤む。それは聞く事への躊躇いというよりも、聞いた後への疑問。自分はどのような答えを期待しているというのか。世を捨てたはずなのに、都での日々も然る事ながら、まだまだ捨てられぬものが多すぎる。
「あら」
 彼女の上げた一声に、我を取り戻す。思いの外考え込んでしまったようであったが、幸いにしてこちらの呟きは聞かれなかったようだ。
「怠け者がいるわね」
 見れば、確かに一本だけ花を付けていない木があった。かつて毎年咲くことを願っていたあの木と同じように、周りからぽつんと取り残された、寂しい姿。
「枯れているようにも見えませぬな」
「怠けているだけよ。己の本分も忘れてね」
 言うや、彼女がその木に手を翳す。するとどうだろうか、みるみる内に蕾が付き、膨らみ、一斉に花を咲かせたではないか。
「これは……」
 間もなく満開となったその姿は、この一帯の中でも殊更秀でているように見えた。
「自信過剰ね。確かに貴方は素晴らしいものを持っている。でも後から一人で咲いたところで、その時にはもう次なる主役が居るもの。見向きもされなくなる前に、己を思い出しなさい」
 これが彼女の力なのだろうか。だとすれば、あの木も――、
「あの子は怠けている訳ではない。だから私は手を出さない。変な期待はしないことね」
 駄目よ――と。振り向いた彼女はそれだけ言って、桜吹雪の中へと消えていった。

       参

「お、幽香さんじゃないですか。うちで買い物をしてくれるだなんて珍しい。どうですこの人参、今朝取れたばかりのお勧めですよ」
「うるさい黙れ。聞いたら殺す。誰かに言っても殺す。そしてこれ以上口を開いても殺す」
 それからというもの、幽香の日常はすっかりと奴隷生活の中に埋まっていっていた。
 当番制で回ってくる屋敷の中の雑用に加えて、妖夢が一手に引き受けていた庭の見回り、そして下界の里への買い出しも全てこなさなくてはいけないのだ。
 見回りなどは、わざわざ歩き回らずとも幽香がちょっと一帯に殺気を放てば、それだけで誰も近づくことなど出来なくなるのだが、ある日幽々子に「ピリピリするからそれは禁止ね」と言われて以来、永遠に続くのではないかと思えるほどの庭を歩き回るハメになった。おかげで冬の間にやっぱりちょっと危ないことになっていたあれこれも解消されたのだが、それだけでは到底釣り合わないほど、今の状況は幽香にとって地獄そのものだった。
 あれから何度も幽々子抹殺を試みてみたものの、悉くが失敗。一度業を煮やして真正面から襲いかかってみたが、そんな時に限って三流パパラッチがやってくる始末。その現場を収めるや脱兎の如く逃げ出した鴉を追いかけて、途中で捕まえて色々と引きずり下ろした時の反応はなんとも満足させるものがあったが、それでもまだ足りない。カメラも粉砕して、地獄というものを存分に叩き込んでおいたから、バラされるような事はないと思うが、やはりこのままではいけない。いいはずがない。
「次は……櫛枝の団子? なんでこれだけ店まで指定してあるのよ。団子なんてどれでも同じでしょうに――」
 渡された覚書きを見て、深い深い溜息を付く。
 何故自分が、なんてことはもう考えるのをやめていた。いつか必ず好機は巡ってくるはずなのだ。その時のためにも、今はただ耐えるのみ。一時の屈辱も、来るべき時に全て返してやればいい。


「ただいま戻りましたよ、と」
 すっかりと慣れた足取りで屋敷の裏手に回り、勝手口から中へと入る。
 台所には、今日の炊事当番である幽霊達の姿。最初の内は、ふよふよ漂う霊魂がちゃんと包丁や鍋などの調理器具を使って料理をする様に驚きもしたものだが、慣れとは恐ろしいもので、今では幽香もすっかりとそんな中に馴染んでしまっていた。
「…………」
「大丈夫よ、ちゃんと書かれていた物は全部揃えてきたから」
「…………」
「何も問題はないわ。状態も全て一級品。文句はないでしょう?」
 そしていつの間にか幽霊達と会話が出来るようにまでなっていた。
 これも最初は幽霊達がその身を張って己が体を文字の形にしていたのだが、そんな事が続く内にまず幽霊を個別に見分けられるようになり、そうなれば相手によって何が言いたいのかも大体解るようになって、そしてこの有り様だ。
 幽香の心境としては「ご覧の有り様だよ!」とでもいうようなものだったが、何故か妙に懐いてくる幽霊達の手前、無下にするのも憚られた。
 まぁ中には「踏んでください!」だとか意味不明なことを言い出す輩もいたりしたのだが、そういうものは無視するに限る。
「頑張っているみたいねぇ」
 再び勝手口から外に出て庭先へ。すると一服していたのだろうか、縁側に腰掛ける幽々子がこちらに気付いて声をかけてきた。
「……おかげさまで」
「ほんと、妖夢と違って役に立つわね。このまま永久就職とかどうかしら」
「はいはい、また今度ね」
 これから見回りだから、と告げて早々に背を向ける。取り合ったところで、最終的には彼女のペースに乗せられて疲れるだけ。ならば無駄に相手をしなくとも、適当にあしらっておけばいい。まだ時ではないのだ。
 これが相手をしたくないというのであれば、幽々子もいくらでも乗せてからかう事も出来るのだが、幽香があえて相手をしないという事は、彼女にも解っているのだろう。それ以上は何も言わず、ただ「頑張ってね」と見送るだけだった。
「……ふん」
 その去り際、いつものようにぽやぽやと微笑む幽々子の顔が、少しだけ寂しそうに見えたのは、きっと気の所為だろう。

       φ

「あー、どいつもこいつもうるさいわ……」
 冥界には音がない。そう思っていたのはいつだったか。
 それは単純に幽霊達の声を聞くことが出来なかったから、結果として無音の状態が続いていたというだけのこと。声が聞こえるようになった今、幽香の中で冥界という世界の印象は大きく変わっていた。
 騒々しいことこの上ない。
 春の所為なのか、それとも元々そうなのか。少なくとも花見に興じる幽霊達の騒がしさは、地上のそれと変わりない。むしろこちらの方がその点においては上回っているようにも思えた。
 絡んでくる酔っ払いをとりあえず殴り飛ばし、尻を撫で回そうとした輩は漏れなく輪廻の輪から外れていただく。後から閻魔に何か言われるかもしれないが、そんな事は知ったこっちゃない。蹴る、殴る、踏みにじるの繰り返し。いい加減鬱陶しくなってきたところで、周りの連中にメンチをきると同時に控えていた殺気を撒き散らすと、一斉に大人しくなってくださった。
「異常なし、と」
 そんな幽霊達の喧噪を後にして、更に庭の中を歩いて行く。
 二百由旬というのは誇張があるにしても、そう言われてもおかしくないと思える程度には広い白玉楼の庭。見渡す限りに桜の木々が並び、そのどれもが満開の時を迎えていた。
 確かに、これだけの桜が一斉に咲き乱れる様は絶景の一言に尽きるのだが、それでも幽香にはどこか物足りなかった。
「咲くは生の象徴。散るは死の象徴。想いを宿らせ咲かすなら、さて己自身が霊である貴方達は、一体何をその身に宿らせているのかしらね」
 まだ屋敷に近い、幽霊達が騒いでいるような所には、生きた桜もいくらか散見された。けれど奥へと進めば進むほどその数は減り、およそ幽霊達も寄り付かないような所にまで来ると、そこにはもう生きた桜は一本もない。
 確かに幽霊の声は聞こえるようになった。
 おかげでこの桜達の声も聞くことが出来る。
 しかし、何かが違うのだ。どこかが違うのだ。
 今も静かに、桜の木の霊達は己が身を彩る花を風に揺らしている。
 音もなく、ただ静かに。
 違うのだ。
 地上の桜は。
 生きた桜は。
「…………?」
 音のない風に乗って、流れてきた物。
 鼻頭に乗ったそれを見て、幽香がゆっくりと視線を巡らす。
「こっちかしらね」
 何かを見つけたという訳でもない。ただ風に乗ってきたのだから、風上に向かえばいいのだろうという単純なもの。
 しかし、流石にここまでは手入れも届いていないのか、無造作に生える木々の間には道もなければ、誰かが足を踏み入れたような形跡もない。変則的に並ぶ木々によって先の様子も伺えず、どちらを見ても似たような景色は気を抜けばすぐにでも迷いそうだ。
 それでも幽香は進んで行く。
 澱むこともなく、逸ることもなく。
「…………」
 何故だろうか。
 一歩を進める度に、妙な既視感を覚える。
 見たこともなければ聞いたこともなく、もちろん訪れたことなどない場所なのに。
 そもそも今までに冥界を訪れたのも、精々片手で数えられるほどでしかない。そしてその全てはほんの入り口を潜った程度。このような所など、あることさえ知らなかった。
 それに、胸中を巡るのは既視感というよりも、どちらかといえば懐かしさにも似たような、そんな感情。これを既視感と言うのかもしれないが、それにしては余りにも色濃い想い。
「そういえば、何故だかここに来てから似たようなことが多いわね」
 初日に感じたもの、その後も幾度か思ったこと。その時は特に気にすることもなかったが、こうなればいよいよもって怪しくなってくる。
「……っと」
 不意に、音のない風が幽香の髪を攫う。弱いものではあるものの、顔にかからないようにと髪を片手で抑えようとして――その風に乗せられたものに気づいて、幽香は納得したように瞼を閉じた。
「そういうことなのね」
 ともなれば、目指す場所はもうすぐそこだろう。
 幹を妙な形に捻った木を過ぎて、浮き出た根を越えて、
「そう、この場所は――!?」
 呟きが、突然吹き上げた風に攫われる。巻き上げられた桜の花びらが、文字通り吹雪のように視界を遮って、行く手を阻まれた幽香が思わず両腕で顔を覆って、立ち止まった。
「……やっぱり、貴方だったのね」
 風は一瞬。襟を正した幽香が見つめる先は、少し開けた場所になっていた。そしてその中心に立つ、一つの影。
「随分と大きくなったわねぇ」
 影は答えず、けれど幽香にはその言葉がしっかりと聞こえていた。
 空へ、天へと枝を伸ばし、並ぶものもなくただ一人悠然と構えるその姿。
 ――あまりにも懐かしい、一本の桜がそこにあった。




       幕間

「早速家が恋しくなったのかしら?」
 いつも彼女は唐突に現れる。どれだけ慣れようと思っても、気配の一つも感じさせる事なく近付かれては、それもままならないというもの。
「いつも貴女様には驚かされてばかりで、寿命が縮む思いです」
「私を見れば、減った分の寿命も延びるでしょう」
「確かに。貴女様のような見目麗しい方を見られるのであれば、もうしばし生きようとも思えるかもしれませぬな」
「こちらから言っておいてなんだけど、僧とは思えない言葉ね」
「然り。私のような俗物には、悟りは果てしなく遠き道。今こうしてここにいることも、また私の弱さなのです」
 そう、人がどう言おうとも、これが紛れも無い自分自身。
 いつまで経っても断ち切れず、見放そうと思っても叶わない。
 彼女もこちらが見ていたものを見つけたのだろうか。門外よりしげしげと中を眺めつつ、
「娘?」
「いやはや、お恥ずかしい」
 門より見える庭先に、幼き娘の姿。
 彼女はこちらとあちらを忙しなく見比べて「似てる……のかしら?」と思案顔。
 そんな様子を気付かれてしまったのか、娘はこちらを一瞥すると、
「行きましょう、あそこのお坊様が怖いから」
 と、遊戯の相手をしていた家の者の袖を引いて、中へと入ってしまった。
「…………」
「…………」
「…………ぷふっ」
 何も出来ずにその姿を見送ったところで、耐え切れなくなったのだろう、彼女が盛大に吹き出した。
「あはははは! 自分の、娘に、怖いからって!」
「……私が出家した時には、まだ物心もついていないような年頃でした故」
「それにしても、見事な振られっぷりねぇ?」
 片手で腹を押さえて、もう片手で目尻を摩りつつ、尚も彼女は笑い続ける。その姿は童女のようでもあって、普段の彼女からは思いも寄らぬ光景に、思わず返す言葉も詰まらせてしまう。
「しかしながら、貴女様には礼を申さねばなりませぬ」
「あら、話題逸らし?」
「そういう訳では……」
 まぁ続けなさい、と彼女。
「あの娘に、貴女様から名を一字頂きましたもので」
「へぇ、私の名前を?」
「はい。貴女様のように、花を愛せる者に、と。娘は名を――」
「ちょっと待って、当ててあげるわ」
 こちらの言葉を遮って、彼女が考えを巡らせ始めた。
 いくつか名と思しきものを呟いては、また次へと、また次へと。
 そして、
「桜香!」
「外れです」
 辿り着いた答えは自信があったのか。不正解を告げるこちらの返事に、彼女は心底落胆した様子だった。
「貴方なら絶対にこれだと思ったのだけれどもねぇ」
「いや、それも良い名です。娘が生まれた時に貴方から授かったのであれば、是非とも頂戴したかったのですが」
「んー、まぁいいわ。それで、正解は?」
「娘の名は――」
















       肆

 それは不思議な朝だった。
 幽々子がいつもと同じ時間に目を覚まし、障子を開けて縁側へと出ると、丁度幽香が通りかかって、
「おはよう。朝御飯もう出来るわよ」
 と一声。
 起きぬけばかりは流石に少しばかり頭の回転が遅い幽々子ではあるが、それでもこれには思わず目を丸くしてしまった。ここのところの幽香とのやりとりといえば、完全無視か罵詈雑言のどちらかが常だったのだ。あんなに険もなにもない、むしろどこか暖かみさえあるような朝の挨拶など、一度として聞いたことがない。
 思わず空を見上げてみるが、天気は快晴。雪も槍も降ってくる様子はなかった。
 そして不思議な事は立て続けに起きる。
「……いただきます?」
「いただきます」
 身嗜みを整えていつもの部屋へ。すると何の因果か気まぐれか、卓を挟んだ反対側には同じように献立が並び、そして幽香が座していたのだ。
「どうしたのよ、そんなに疑問符ばかり飛ばして」
「幽香……さん?」
 思わずさん付けで呼んでしまった。
「なによ、ほら冷める前に食べる。箸を動かす」
 相も変わらず疑問符を撒き散らせながら、幽々子が言われた通り箸を片手に、吸い物の椀を取った。
「…………」
「どうしたのよ、固まっちゃって」
「美味しい」
「当たり前じゃない。私を誰だと思っているのよ」
 確かに幽香の料理は、毎回何かしらの毒物が盛られていた事を除いても、決して下手なものではなかった。むしろ最初に言った通り、予想を上回るものだった。
 しかし、今日の物は違う。純粋に美味しいのだ。
 料理の腕だけなら、妖夢もそこそこのものがあったし、他の炊事係の幽霊達もそう悪くない。
 それになにより幽々子自身も相当な腕前であるからして、美味しい物というのであれば、それこそ普段から食べている。
 だというのに。
「あったかい」
「炊き立てなんだから当たり前でしょう? どうしたのよ、遂にボケた?」
 これは一体どうしたことかと幽々子が考えている内に、先に片付けてしまった幽香が重ねた皿を持って立ち上がった。
「それじゃ私はちょっと出てくるから。片付けは幽霊達がやってくれるから、そのまま置いておいていいわよ」
「…………」
「返事は」
「……はい」
 答える幽々子に満足したのか、幽香はうむと一つ頷いて部屋を出て行ってしまった。
 ――白玉楼で働け。
 そう言ったのは自分であったし、その点では今日の幽香は間違いなく満点だと言える。しかし、幽々子が思い描いていたものは、どちらかと言えば昨日までの喧噪の方が正しい。
 あの風見幽香を好きに出来る。
 そう思って仕組んだ今回の一連の出来事だったのだ。
 なのに、あれではまるで――、
「どうしたものかしらねぇ」
 箸と口を動かしながら考えてみても、サッパリ解らない。
 確かなことは、どの料理も格別に美味しくて、食べ終わる頃にはちゃんと幽霊達が片付けにやってきた事だけだった。

       φ

「まったく、私の長い人生の中で、一度あるかないかというくらいの大サービスよ」
 昨日の桜の前で、幽香が一人呟いた。
 周りの木々はどれも満開。されどこの木だけは、やはり花を付けないまま、寂しい姿を晒していた。
「それにしても、どうりでここら一帯に生きた桜が無い訳だ」
 最初は奥まった所だから手が行き届いていないだけかとも思っていたが、この木を前にしてようやく解った。
 あまりにも大きすぎるのだ。
 周りを桜の木の幽霊達に囲まれて、一体どれだけの年月をこの木は一人ここで過ごしてきたのだろうか。
「あいつは……そう、貴方の下にはいないのね。妖怪桜の? はぁ……そんな事をするから妖怪化したりするのよ」
 それは幽香だけに聞こえる声。幽香だからこそ聞こえる声。
 初めて会った時から変わらない、優しい声だった。
「懐かしいわね……あら、無理を言わないでほしいわね。いくら私が大妖怪だといっても、忘れるものは忘れるのよ」
 思い出したんだから、これでいいじゃない――と、幽香と桜の会話は続く。
 幽香とてそこまでこの木と共に在った日が長かった訳ではないが、それでも積もる話はいくらでもある。
「咲かせるつもりはないの?」
 それは二度目の問い。
 そして返ってくる答えもまた、二度目の答え。
 幽香はそれを聞いて、ただ静かに「そう」とだけ言って、幹に手を沿えた。
 生者と死者。生きた桜と桜の幽霊。その明確な差が、そこにはあった。
「――遅いご登場ね」
 呟いた幽香の視線を受けて、立ち並ぶ桜の木々の間からそっと幽々子が姿を現した。
「こんな所にいたのね」
「ありきたりな台詞ね。もっと視野を広く取らないと、老けるわよ」
「あら、老けるのは貴方だけよ」
「死んでいるから?」
「えぇ」
 会話はそこで途切れて、二人の間に沈黙が降りる。
 幽香も、幽々子も、桜の木も動きを見せず、言葉もなく。風に攫われる髪と服の裾だけが、時が流れている事を知らせてくれる。
 そうして、その暖かい沈黙を先に破ったのは、幽々子の方だった。
「御飯、美味しかったわ」
「私がちょっと本気を出せば、あのくらい簡単なものよ」
「…………」
「…………」
 会話は続かない。
 どことなく気恥ずかしいような、そんな雰囲気の中で、けれど幽々子はすぅ、と息を吸い込んで、
「――――」
 それは本当に小さな呟き。風が吹かなければ、きっと届かなかっただろう言葉。
「それは、ひょっとしなくても私の事を言っているのかしら……?」
 けれど、それが聞こえたらしい幽香は、先程までの厳かな雰囲気もどこへやら。こめかみに青筋を立てて、肩を大きく震わせていた。
「あら、この場に他に誰かいるのかしら?」
 対する幽々子もいつもの調子に戻ったのか、目を細めてころころと笑っている。
「ほんと、どこで育て方を間違えたのかしらねぇ?」
「育てられた覚えもありませんもの」
 一方は肩を震わせながら。
 もう一方は挑戦的な笑みを絶やさずに。
 けれど、睨み合いは長くは続かない。
「――くくっ」
「――ふふっ」
 零れた声。そうなればもう後は流れるまま。
 そうして白玉楼の一角で、二人の笑い声が上がったその時だった。
「あら」
「へぇ」
 二人をずっと見ていた桜が、一斉にその枝という枝に花を付けたのだ。
 みるみる内に蕾が付き、膨らみ、見る間に大木は薄桃色に包まれていき、やがてそれは満開となって、花を揺らした。
 さわさわと。
 さわさわと。
 それは生きている者の証。
 生きているものだけが奏でる事の出来る、風の歌声。
「貴方の力?」
 聞かれて、幽香はゆっくりと首を横に振る。
「私は何もしていない。これはこの子の意志、そしてあいつの願い。そう……この子は怠け者なんかじゃない。ただ誰かの為に、ただそれだけの為に、ずっと待っていた」
 見事、だった。
 冥界にある他のどの桜よりも。
 顕界にある他のどの桜よりも。
 記憶の中の、いつかの桜よりも
 ただ誰かの為に。
 ただ自分の晴れ姿を見てほしくて。
「さて、と」
 言うと同時に、組んだ手を思い切り上に伸ばして、幽香が幽々子に向き直る。
「私はここまで。もういいでしょう?」
 それは別れの言葉。最後の合図。
「……そうね」
 ふっ、と幽々子が微笑む。それは春の桜のような、暖かな笑顔。
 釣られて、幽香も微笑む。それは夏の向日葵のような、眩しい笑顔。
 これ以上言葉はいらない。
 満開となった桜が見守る下で、幽香が一歩を踏み出して――、
「ゆーゆーこーさーまー」
 あれもこれもそれもどれもブチ破るような間抜けた声が、響いてきた。
「あら妖夢、随分と遅かったわね」
「いや、そう言われましても……これでも自分ではかなり頑張った方だと思うのですが……」
 現れたのは、紛れも無い本家本元白玉楼のお庭番、魂魄妖夢だった。
 白いブラウス、緑色の揃いの上着とスカート、頭には黒いリボンでワンポイント。側を漂う半霊も、腰に差した一刀、背に回した一刀もいつもと同じ。
 間違いなく、魂魄妖夢だった。
「……え? あれ? なんでそいつが?」
 目の前の出来事がまるで理解出来ないといった様子で、幽香が疑問符を撒き散らす。
 それはそうだ。
 妖夢は確かに殺したのだ。この手で、確実に、それはもう報道されれば「被害者は全身を強く打って」なんて言われるくらいに、確実なものだったのだ。
 生命力の強い妖怪ならともかく、半人半霊が助かるような状態ではなかったのだ。
「……なんで?」
「いや、それがですね」
 そんな幽香に、当事者であるところの妖夢向き直って、切り出した。
 曰く。
「確かに私は死にました。いや、貴方に殺されたんですけどね……。まぁでも、それをとやかく言っても仕方がありません。実際死んでしまった訳ですから。最初はあぁこれで私も閻魔様の所に行くのか。どうにかして冥界に行かせてはもらえないだろうか、なんて事を考えていたのですけれど、その閻魔様から、私は死んでも閻魔様の所には行けないと言われていたの思い出しまして。で、気づいたらなんだか暗闇の中に立っていたのです。どこに行っても、どこまで行っても暗闇で、あぁこれが私の行く末だったのだな、と。その時はなんだかもう諦めの方が強かったですね。どうにも出来ませんでしたし……。でも、その時だったんです。遠くに小さな光が見えて、更にはなんだか私の名前を呼ぶ声まで聞こえてきました。よく光の方へ行ったら戻れなくなるだなんて言いますけれど、それでも他にどうしようもない訳ですから、行くしかありませんでした。そうして私が光に辿り着くと、光はその形を変えて、人の姿になったのです。随分と線の細い方だったのが印象的でした。あ、あとなんかやたらとお酒を呑んでおられたのも。ともあれ、その方に言われたのです。『ガッツがあればどうにかなるよ』って」
「それで、気合を入れたら生き返った……と?」
「はい」
 答える妖夢の目はどこまでも真剣で、その言葉に嘘など一つもないと言わんばかりだった。
 実際こうして生き返っているのだし、その話が本当かどうかなど、この際関係ない。
 そう、問題はもっと別の所にある。
「……謀ったわね?」
「あら、あらあら」
「……この私を」
「な、なんのことかしらぁ〜?」
 答えなど聞くまでもない。この狼狽ぶりを見れば、真実はただの一つ。
「妖夢、これは最後の命令よ。目の前の花を斬りなさい」
「いや、最後とか言われましても……。私が何も出来ずにミンチにされたのは、幽々子さまもご存じでしょう?」
「じゃぁこうしましょう。私は逃げるから、貴方は時間を稼いでちょうだい」
「結局同じじゃないですか! というか、そもそもどうしてこんなのに手を出そうとしたんですか! そしてどうしてそれに私を巻き込むんですか!」
「あら、私は貴方の無念を晴らしてあげようと……」
「ではその無念、今ここで晴らしてくださいっ!」
「あ、ちょ、妖夢、主を置いて先に逃げる従者が何処にいるのよ!」
 さて、どうやらあちらは鬼ごっこを所望のようだ。
 捕まえたらどうしてくれようか。
 そうだ、エリーやらくるみやらの代わりに夢幻館で働かせるのも悪くない。
 やられた事はやり返す。もちろん利子は秒単位で増えていく親切設計だ。
 決まれば後は実行に移すのみ。ずしりと重みのある一歩を踏み出して、しかし幽香は飛び立つことなく、何かに気付いたように、ふい、と肩越しに後ろを振り返って、
「……またね」
 それだけを言って、微笑んだ。
 けれどそれも一瞬の事。すぐに鬼神の如き形相を浮かべると、天狗も裸足で逃げ出すような勢いで二人の後を追っていったのだった。
 幽に咲く現の花は、そんな彼女を見送って、ただそよと風に己を揺らしていた。

       終章

「珍しい人間はまだ生きていたのね」
 久しく聞いていなかったその声に、どれだけ救われただろうか。
 世を捨て、仏の道を説いたところで、結局死の恐怖は拭い去れない。
 それとも己がそこまで至る事が出来なかったというだけなのか。
「それでも、こうして最期に貴女様に会わせていただけたという事には、感謝しなければいけませんな」
「何のこと?」
「いえ、こちらの話です故、お気になさらないでください」
 ふぅん、と。どこまでも彼女は彼女のままだった。
 その姿も出会った頃から何も変わらず、それが改めて己との違いを、人との違いを思わせる。
「しかし、結局最期までこれの花を見ることは叶いませんでした」
 座り込み、背を預けた木を見上げて、思わず溜息が漏れる。
 この木も昔に比べれば随分と大きくなった。けれど、その間も花を付けたという話は聞かぬまま。こちらばかりが歳を取ってしまった。
「あら、そうでもないんじゃない?」
「おぉ――」
 彼女の言葉。見上げた先。
 それはこの世のものとは思えない光景だった。
 一つ風が吹いたかと思うと、それを切っ掛けに枝の先々に蕾が膨らみ、瞬く間に花が開いていったのだ。
「……貴女様の?」
「私は何もしていないわ。これはこの子の意志。そして貴方の願い。そう……この子は怠け者なんかじゃない。ただ誰かの為に、ただそれだけの為に、ずっと待っていた」
 己が最も輝ける、その時を。
「――貴女様」
「別に名前で呼んでもいいのだけれど」
「……幽香様」
「なにかしら」
「お願いを、聞いてはいただけませんか」
「ほう。人の子が、この私に物を頼むと」
「娘に」
「…………」
「幽々子に、これを見せてやっては、もらえませぬか」
 人間に私の名前は重すぎる。
 娘の不思議な力を知った時、彼女はそう言った。
 ならば、それは罪。
 業を背負わせてしまった、己の罪。
 償うことの出来ない罪ならば、せめて安らぎを。この世の彩りを見てほしい。
「……気が向いたらね」
「ありがとう、ございます……」











 それは遠い昔の事。
 ある所に、花をこよなく愛する歌人がいました。
 ある所に、花をくまなく愛する妖怪がいました。

 二人がどうして出会い、どんな物語を綴っていったのか。

 それはまた、別の物語――
コメント



1.無評価みぅ削除
あの、突然すみません・・・ひとつわからない点があるのですが
妖夢が生き返ったときに『ガッツがあればどうにかなるよ』と言ってた人は誰なんでしょうか?
2.無評価Lovie削除
I co, dalej będziesz robił to co teraz robisz czy zmienisz branże? A tak nawiasem mówiąc to miedzy wierszami w blogu jak i książce można wywsnoikować że pomimo tego wszystkiego jesteś bardzo osamotnionym człowiekiem. Taki mały biedy Adaś G.