エピローグ
「もう行くの? もう少しゆっくりしていけばいいのに」
「そうはいきませんよ。なんてったって、私はクビになっちゃったんですから」
ま、そりゃそうか――と、咲夜さんが肩を竦める。
ここは紅魔館のロビー。
朝の光が眩しく差し込むその場所は、とても吸血鬼の棲む館とは思えないほど明るく、清涼な空気に満ちていた。
「これからどうするつもり?」
「んー、里には顔出せないし……考えてないです。てきとーにぷらぷらしようかと」
「いい加減ねぇ。まぁ、この辺りにはそんなに強い妖怪はいないけど」
「そりゃここに集中しちゃってますもんねぇ」
悪魔たちの棲む館。
そんなところに足を伸ばす愚か者なんて滅多にいまい。
無論――私はその愚か者のひとりだ。
「まぁ、気が向いたら顔を出しなさいな。今度はお客様として歓迎するわよ?」
「それは楽しみです。一度でいいから素敵なメイドさんにお茶を出してもらいたいと思っていたんですよ」
期待していいわ、そう言って咲夜さんは花のような笑みを浮かべた。
夜に咲く花。そういう名であり、それこそが相応しいと思っていたが、ひょっとしたら彼女は陽光の下でこそ本来の輝きを発揮するのかもしれない――そんな気がした。
それにしても、
咲夜――その響きによって、否応なく昨夜のことが思い返される。
それは血も凍る光景。地獄のような惨劇。
英雄は不在、聖剣も紛失、賢者も使徒も出番のないまま――世界は救われた。
レミリア様も咲夜さんも、世界を救ったという意識はあるまい。
当然だろう。相手はただ……自滅しただけなのだから。
肩透かしにも程がある。もし私がこの物語の読者なら、即座にこの本を投げ捨てていただろう。それくらい――つまらない結末だった。
「ねぇ、咲夜さん?」
「なに?」
「……呆れてたり、します?」
敵にすらなれなかった私を。
何ひとつ為せなかった私を。
世界を滅ぼせなかった――敗残者を。
「別に? こっちとしては助かったってとこね。私だってまだ死にたくないし」
そんな風に、
まるで何事もなかったように。
「だけど……ちょっと意外だったかな?」
「何がでしょう?」
「貴女も――そんなに気落ちしてないみたいじゃない?」
咲夜さんは微笑みを浮かべたまま、こちらを見ている。
私の瞳を、確かめるように、探るように。
「……身の程は弁えています。私には世界なんて重すぎますよ」
そして私もまた、微笑みを浮かべたまま、そう返した。
そう、私に世界は重すぎる。何度同じ選択を迫られても、やっぱり同じ結末に至るだろう。
私は弱い。どうしようもないほどに弱い。
でも弱いから手に入るものもあるのだと、そう、知ったから。
だから今は――そんなに辛くない。
「……そうね。世界なんて重すぎるわよね」
「ええ、ぎっくり腰になっちゃいます」
「それは本当に勘弁して欲しいわね……」
咲夜さんは遠い目をして、辛そうに目を瞑る。
……ひょっとして経験者なのだろうか、ぎっくり腰の。
重労働だもんなぁ、ここの仕事。
お嬢様相手だと、特に。
「そういえば、レミリア様は?」
「寝てるわ。二、三日は動くことも無理そうね。ああ、そうそう。お嬢様から伝言を預かっていたんだっけ。うっかり忘れるところだった」
「伝言って……私にですか? レミリア様から?」
「ええ、貴女に」
「……拒否権はありますか?」
「残念ながら」
がっくりと肩を落とす。
うん、拒否権なんて上等なもの、私にあるわけなかった。
「では、いくわよ? 『目障りだ。とっとと失せろ、この負け犬が』――だそうよ?」
「…………」
「感想は?」
「……何というか……流石ですね」
「当然よ。私の自慢のお嬢様ですもの」
そう言って、咲夜さんは誇らしげに胸を張る。
うん、やっぱなんか、この人はこの人で変な人だった。
「貴女からお嬢様に伝言はないかしら? 今なら安くしとくわよ?」
「お金取るんですかっ!?」
「冗談よ。今日だけ特別無料サービス」
「では……そうですね。『お世話になりました』とお伝えください」
「あら、それだけでいいの?」
「ええ」
面白い答えを期待されていたのかもしれないが、生憎そんな甲斐性はない。
面白みのない、つまらないヤツなのだ、私は。
「ああ、そうそう。もうひとつ伝言があったんだわ。聞く?」
「……お願いします」
「では……『苛めて欲しくなったら、また来い』だそうよ?」
…………。
……何というか、本当に流石だ。
思い返せばレミリア様からは苛められた記憶しかないけれど。
フランが代弁してくれたように、一度ぶん殴らなければ気が済まないと思っていたけれど。
不思議と、どうしても、嫌いに、なれない。
「……すいません、さっきの伝言にひとつ追加しても宜しいですか?」
「今はサービス期間中だからね。幾つでもいいわよ?」
「では……『ありがとうございました。また近いうちにお邪魔すると思いますので、その時はお手柔らかに』とお伝えください」
「あら、貴女マゾだったの?」
「咲夜さんっ!?」
冗談よ、と言って笑う咲夜さん。
とはいえ、そう言われるのも無理はないだろう。
うん、私ってば本当にマゾなのかもしれない。
だって……あの人を小馬鹿にするような声を、また聞きたいと思っているのだから。
「ちゃんと伝えるわ。今の貴女の表情も一緒に、ね?」
そう言って咲夜さんは、
もう一度花のような笑みを浮かべた――
§
咲夜さんと別れて庭に出る。
眩い朝の光の下、よく手入れされた花壇にはたくさんのコスモスが揺れていた。
そういえばゆっくり庭を眺める暇もなかったなぁ、と今更ながら後悔する。赤やピンク、そして白い花弁を揺らすコスモスの群を眺めながら足を進めていくと、
門柱に寄りかかって、こっちに手を振っている美鈴さんに気が付いた。
「や。なんかクビになったんだって? あはは、何やらかしたのよー」
いつもどおりにこやかに笑って、遠慮なくストレートに聞いてくる美鈴さん。
うん、何というか、その生き方が羨ましい。
「なーんて。ほんとは知ってるけどさ」
あっはっはっと大きく口を開けながら笑って、ぱしぱしと私の肩を叩く。
「美鈴さんも……昨日のこと知ってたんですか?」
「昨日のこと? いや、全然。私が聞いたのはミサトがあの子に手を出して、怒ったお嬢様にクビを言い渡されたってだけ。いやー、やるじゃない!」
「やってませんっ!」
いや、ある意味やらかしたと言えなくもないけどっ。
否定できないのが悲しいけどっ。
「んで、これからどうするの? ロミオでジュリエッてみる?」
「不可思議な発言は慎んでください。そんなんじゃないですよ」
そう、そんなんじゃない。
私とフランは、そんな関係じゃない。
「あの子を連れて逃げるっていうなら手を貸すわよ? 面白そうだし」
「だからしませんって。本当にそんなんじゃないんですよ……」
なんか疲れる。
美鈴さんがフランのことをどこまで知っているかわからなかったので、説明すべきかどうか迷ったが……この分なら何も言わない方がいいだろう。
無邪気で無垢で、優しい子。
美鈴さんの中のフランがそうなのだとしたら、そのままで良いと思う。
「では、そろそろ行きますね」
「あら、もう? 残念。もっと色々聞き出したかったのに」
「ご期待に応えることができるような話は何もないですよ。それでは……色々とお世話になりました」
深く、頭を下げる。
何も教えて上げられないのは心苦しいが、ならばせめてこの人の笑顔を曇らせるような真似だけはしたくなかった。
それにお世話になったというのも本当だ。
もし、この人と出会わなければ……きっと私はどこかでのたれ死んでいただろうから。
「うん。それじゃ元気でね」
「ええ、美鈴さんも」
「それじゃ」
軽く手を振って、軽く別れる。
この軽さが心地よい反面、どこか少し物足りない。
美鈴さんと別れて、
門をくぐろうとして――
「ありがとう、ね。あの子を救ってくれて」
美鈴さんは、そう言った。
慌てて振り返る。
美鈴さんはいつもどおりにこにこと笑ったまま、一粒だけ――涙を零した。
「美鈴さん……」
「言ったでしょ? 私の勘は外れたことないって」
その笑顔を見て、私は悟る。
この人は、全てを知っているのだと。
全てを知った上で――このように笑えるのだと。
「早く行きなさい。あの子が待ってるんでしょ?」
「――はい!」
もう一度深く頭を下げて、私は駆け出す。
そしてその背中を、
「門はいつでも開けておくわ。気が向いたら、またいらっしゃい」
その言葉が、力強く押してくれた――
§
蒼い湖。
朝の光に照らされ、水面がきらきらと輝いている。
その照り返しの中、岸辺に立つ大きな木にもたれるようにして――『彼女』がいた。
「や」
彼女は軽く、手を上げる。
まるで友達と待ち合わせでもしているような気楽さで、
フランドール・スカーレットが――其処にいる。
「待たせちゃったかな? ごめんね、ちょっと話こんじゃってさ」
「んー、いいよ、べつに。退屈なんてしてないしー」
それは私を気遣うための嘘ではなく、
目を細めて湖面を眺めるフランの顔は、本当に楽しそうだった。
「どう? 初めて外に出た感想は?」
「まあまあってとこね?」
そう言って、フランは生意気そうににやりと笑う。
「にしてもアレだなー。もっとミサトは驚くと思ってたのに。つまんないなー」
「まぁ、予感してたしね? 美鈴さんにも教えてもらったし」
「ったく。ほんっと美鈴はおしゃべりなんだから」
朝の光の中でフランがぷーっと頬を膨らませる。
どうみても照れ隠しな、それは怒っているふり。
「やっぱり……フランは太陽なんて平気だったんだね?」
「まあね。どころか流れる水も十字架も聖水だって平気よ? にんにくは……ちょっと勘弁して欲しいけど」
吸血鬼に掛けられた呪い。いや、枷はその力の大きさによって度合いを増す。
それが物語における理。悪役としての性格付け。
だけど自我すら与えられなかったフランには――そもそも枷の必要すらなかった。
暗い地下室で、いつの日か爆発する時をじっと待ち続ける時限爆弾。
タイマーもセットされていない、来るはずのないその日を待ち続けるだけの――それがフランドール・スカーレットという存在だった。
だから、己の存在を証明したかった。
世界に仇なす『敵』としての個性を、私は此処にいるのだと――世界に対して示したかった。
でも……
「後悔してる? 私なんかを選んじゃって」
これだけは、ぜひ聞いておきたかった。
あの結末は自分の限界を知るという意味では私にとって納得のいくものだったけれど、フランにとってはどうだったのかを知っておきたかった。
それに対し、フランは実にあっさりと、
「してるよ? もんのすごーーーーーーーーーーーっく後悔してる」
「……さいですか」
まぁ、そりゃそうだよね。
最後の最後の最後になって、本当の意味で裏切られたわけだし。
「でもさ。うん、それでも、いや、それがよかったんだなーって思う」
「え?」
「わたしもミサトとおんなじだよ。世界を壊せなくてほっとしてる。そういう自分がいるって知ることができたし。うん、だから」
――ミサトでよかったよ。
そんな風に、湖面を眺めながら、淡い笑みを浮かべる。
それはどこか淋しげで、そして少しだけ大人びた――そんな笑み。
「……そっか」
「そうだよ」
何にもないフラン。何も持ってなかったフラン。
でも、その奥には、本当に幽かだけど、本当に僅かだけど――自分の意思が残っていた。
全てを知るフランは悲しみだけを集めて、そうすることで世界を滅ぼすための『理由』を求めていたけれど……世界は悲しみだけで作られているわけじゃない。
嬉しいことも、
楽しいことも一杯あって。
そして奥の奥の奥に隠れていた本当のフランは、
もっと見たいと、
もっと知りたいと――そう願っていたのだ。
だから世界は壊せない。そんなことできるわけがない。
だって世界が壊れたら――楽しいこともなくなってしまうのだから。
「それにいち早く気付いたミサトは、たとえ自分が悪者になってでも少女の夢を守ろうとしたのである――なーんてオチならかっちょいいんだけどねー。違うじゃん? ミサトはただのヘタレじゃん?」
「……返す言葉もございません」
まぁ、なんとなーく、そう思っていたのも事実だけど。
だって、ほら? 私をベースにしてるって割に、フランってばあんまり性格良くないし。
きっと、隠れていたフランそのものの自我が影響してんだろうなーって思っていたし。
「なにいってんの。性格の悪さはミサト譲りよ?」
「あれ!? な、なんでまだ私の考えてることが解るの!?」
顔見りゃわかるわよ――そう言って、フランが呆れたように肩を竦める。
そう、私たちはもう繋がっていない。世界の嘆きも聞こえない。
あの夜、フランが私のことをもう要らないと言った時点で、契約は破棄されている。
それでも、
「やっぱ……解っちゃうのか……」
「フェイシャルトレーニング、積まなきゃね?」
うん、精進するとしよう。
とはいえ……そろそろ、頃合、かな?
「んじゃ、お別れだね? ミサトはこれからどうするの?」
別れの気配を察したかのように、フランが問い掛ける。
そういうところ、私のコピーにしちゃ如才ないなーとも思ってしまったりする。
ちょっと、羨ましい。
「そうねぇ……しばらくこの辺をぷらぷらしてみようかと」
「この辺を?」
「どうせ私はヘタレだしね。あんまり遠くに行くのも怖いし、近すぎるのもアレだし」
館にいると、またフランに会いたくなってしまうだろう。
そうなれば――私の負の心に引きずられて、フランがまた暴走するかもしれない。
自分を律する強い心を持っていない私は、それでいて遠く離れることもできない未練たらたらの私には、そういう付かず離れずの曖昧な距離が丁度いいと思うのだ。
「そっか」
フランは頷く。
賢しい彼女は、私のそういう想いすらもきっとお見通し。
だからそんな風に、小さく頷くだけだった。
「フランはどうするの? これから」
「んー、『週末』を越えて生き延びれるなんて思ってなかったからさー、なーんにも考えてないのよねー。今までは良くも悪くも零からやり直しだったわけだし。正直、戸惑ってるわ」
「そういうもんなの?」
「そういうもんなの」
木にもたれて、フランが天を仰ぐ。
木漏れ日に目を細め、少し困ったような顔で。
「でも……」
「でも?」
「弾幕ごっこだっけ? あれはもっかいやってみたい、かな?」
昨夜の、レミリア様との戦いを、
思い返すように、フランが目を閉じる。
思い出を舌の上に乗せて、転がして、口元に幽かな笑みを浮かべて。
「そっか」
「ミサトともやってみたいな?」
「いや、それはふつーに無理だから」
だから私は、ただの妖精そのいちなんだって。
だけど――それはフランにとって、初めて手に入れた『やりたい』こと。
世界を壊すという使命しか与えらなかった少女が、やっと手に入れた自分だけの願い。
だから私も願うとしよう。
いつの日かフランが、弾幕ごっこに興じられる日々が来ることを。
彼女と対等に戦えるだけの――『誰か』が現れることを。
「ま、それまではふっつーの吸血鬼でもやるとするわ。太陽に怯え、流水を恐れる……ふつうの吸血鬼をね?」
フランが木陰から右手を差し伸べる。
途端に日の光を浴びた右手が、しゅうしゅうと白い煙を吹き上げた。
手を下ろして木陰に戻すと、まるで何事もなかったかのように右手は元に戻る。
「……それって何の意味があるの?」
「吸血鬼は人間に倒されるものなんでしょ? んじゃ、ハンデくらいはあげないとね?」
「そういうもんなの?」
「そういうもんなの」
理解しがたいが、そういうものなのだろう。
それが――きっと人と鬼の正しい在り方なのだ。
吸血鬼として生きていく。それが彼女の選んだ道。
選択の余地なく定められた使命ではなく、
自分の意思で選び取った役柄を、演じ続けていくことを――
なら、きっと。
そんな生き方も、わるくない。
「じゃ、そろそろ行くわ」
「そうね。頃合かしらね」
ざっ、と。
示し合わせたように、互いに足を踏み出し、私たちは正面から向かい合う。
私は見下ろし、彼女は見上げる。互いの瞳が結ばれる。
ざん、と。
強い風が吹く。
だけど私たちは風に抗って、真っ直ぐに立って、互いに見つめあって。
「ありがとう、ね」
「うん、ありがとう」
私は弱すぎて、フランは強すぎた。
弱い私は世界を憎むしかなかったし、強いフランは自分を持つことができなかった。
きっと私たちは、そのままだったら、そこから一歩も踏み出せなかっただろう。
私は夜を彷徨い、フランは地下に篭ったまま、世界と関わる術を見失ったままだろう。
でも二人なら。
弱さを補い、強さを抑え、踏み出すことができるはずだ。
週末を超えて、まだ見ぬ明日へと向かえるはずだ。
だから私は大丈夫。
私たちは――大丈夫。
フランがリボンを解き、無言で差し出した。
だから私も無言で受け取って、そっと胸に押し当てる。
それは友情の証。私たちは繋がっているのだと、それを忘れないための優しい戒め。
さあ、そろそろ行くとしよう。
別れの言葉なんかいらない。そんなもの必要ない。
私たちはただ、
微笑みを浮かべ、ぱんと互いの右手を打ち鳴らし、すれ違うように別れていく。
これで長かった物語は終わり。
私が知っているのはここまでだ。私の知っている『彼女』の話はここで終わる。
だけど世界は終わらない。
ここから先、私は私の、彼女は彼女の物語を紡いでいく。
だから私たちは前を向いて、
一歩一歩確かめるように、それぞれの道を――歩いていこう。
『ここまで? それとも、これから?』
チルノは最強である。
彼女は妖精で、氷雪を操り、そして今まで一度も負けたことがない。
他の妖精たちは彼女の姿を見ただけで恐れおののき、尻尾を巻いて逃げ出すのだ。
そしてただの最強ではない。
己の力に驕ることなく、常に努力を怠らないという最強の中の最強である。
だから今日もチルノは己を高めるべく、すでに日課と化した厳しい特訓に励むのであった。
「むきー! なんでうまくいかないのよっ!」
足を投げ出し、地べたに座り込んだ彼女の前には幾つかの氷の塊。その中には特訓の相手に選ばれてしまった哀れなカエルが、まるで時を止められたかのように飛び跳ねようとした姿のまま閉じ込められていた。
チルノは氷に向かって両手を伸ばす。
むーっと唸りながら、口元を引き締め、翳した両手に力を篭める。
チルノの目が真剣を帯びていくと同時に氷は徐々に溶け始め――やがてパリンと乾いた音を立てて砕け散ってしまった。
「あー、もう!」
砕けた氷を払いのけるように両足をばたばたさせると、その音に驚いて近くにいたコオロギが逃げていく。
チルノは、自分でも気付かないうちに連勝記録を伸ばしていた。
実に最強である。
「つまんない。もうやーめたっ」
カエルの凍結、及び解凍という高度な特訓は、チルノの気紛れによって一旦中止となる。未だ成功率は三割を超えることがないが、いずれチルノは思いのままにカエルを凍らしたり戻したりできるようになるだろう。そうすれば今のようにわざわざカエルをたくさん捕まえてこなくても、一匹のカエルを何度も何度も凍らせて遊ぶことができるはずだ。
実に合理的である。
その溢れんばかりの知性もまた、チルノの最強を示す証のひとつだ。
さてチルノは最強であるが故に、とある悩みを抱えていた。
具体的に言えば友達がいないのである。
最強と孤高は等号で結ばれる。最強であるが故に誰もがチルノを恐れて近づかない。最強であるチルノには淋しいという俗な感傷などないが、カエルを凍らせてもそれを自慢できる相手がいないというのは実に面白くなかった。妖精たちはちょっと苛めるとすぐ逃げていくし、カエルはそもそもしゃべれない。まったくつまらない。つまらないから、チルノはつい不機嫌になってしまう。
その時――チルノはどこからともなく聞こえてくる、その『歌』に気が付いた。
気付くと同時に、野生の動物のように臨戦態勢へと移行する。見慣れないもの、聞きなれない音に対しては油断なく警戒する――それが弱肉強食の世界で生き延びる術である。近くの茂みにでも身を隠し、目をギラギラと輝かせて異変の原因を探るのが良策であろう。
だがチルノは最強である。
最強であるから、身を隠すなんて姑息な真似はしない。
その『歌』が聞こえる方に、堂々と、ずんずんと向かっていった。流石である。
「む?」
そこに――そいつはいた。
湖畔に転がる大きな岩に腰掛けた一人の少女。
水色のワンピース。白いブラウス。そして緑色の長い髪。
その長い髪を頭の横で括っている。黄色いリボンが風に揺れている。
そしてその背中には――薄い、蜻蛉のような羽根が、まるで背伸びをするように伸びていた。
そいつは湖を眺め、軽く目を細めて歌っている。
まるで誰かに聞かせるように。
まるで誰かに伝えようとしているように。
視線の先を追う。
少女は湖の対岸にある――紅い館を見つめていた。
チルノは最強である。
最強であるからには、己の最強っぷりを常に示さなければならない。
つまりこの何者か解らぬ人物へと誰何の声を掛け、自分の存在を示さなければならない。
だが……チルノはそうしなかった。
じっと、佇んだまま、少女の歌を聴いていた。
決して上手いわけでもない。声が良いってわけでもない。
だけどもっと聴きたいと、そう思ってしまうような歌声でありメロディーであった。
少女の歌が終わる。
最後に静かな笑みを浮かべて、少女が目を閉じる。
それは淋しげで、どこか大人びた不思議な笑み。
チルノは――そんな表情を、今まで一度も見たことがなかった。
「ん?」
「あ」
少女がチルノに気付く。
気が付けば、チルノは少女の目の前に立っていた。
チルノは動揺する。
己が最強であることを自負しているが、こんなシチュエーションは初めての経験である。威嚇するか、それとも問答無用で攻撃するか、立ち尽くしたまま迷っていると、
「あなたは妖精さん?」
向こうから声を掛けてきた。
少女の瞳が自分へと向けられる。
それはまるで、この湖のような――静かな蒼。
「その場所……」
「ん?」
「そこはあたいのとくとーせきよっ!」
チルノは先手を取られた屈辱を跳ね返そうと、声を張り上げる。
確かに少女が腰掛けている岩は、チルノのお気に入りの場所だった。そこに寝っ転がって、ひなたぼっこをするのが大好きだった。そこは玉座であり、最強である自分しか座ることの許されない特別な席だった。
「あ、ごめん。すぐ退くから……」
「いいっ!」
「え?」
「とくべつに許してあげるっ! そこにいなさいっ!」
「は、はい?」
少女は腰を浮かしかけたまま、戸惑ったようにチルノを見つめている。
少女の背は高く、おまけに大きな岩に腰掛けているものだから、自然とチルノは見下ろされる形になってしまっていた。それが気に入らなくて、チルノは背中の羽根をはばたかせると、大岩に登って、少女の隣に立って、腕を組んだまま少女を見下ろすようにする。
「あんた、何者?」
「何者って……私は妖精だけど……?」
「そんなの見りゃわかるわよ! 何の妖精かってきいてるの!」
こいつは頭が悪いのだろうか?
そんなことを考えながら、チルノは少女を見下ろす。
質問の意味を図りかねているかのように少女は戸惑っていたが、やがて顔を上げて、遠くを見るような視線のまま――ぽつりと零す。
「解らないんだ。私は私が何者なのか……知らないの」
やっぱり馬鹿だ、チルノはそう思った。
自分は自分が氷精だと知っている。誰に教えられたわけでもなく、初めから知っている。
他の妖精たちだってそうだ。
あいつらは馬鹿だが、自分が何の妖精かくらいはちゃんと弁えていた。
「アンタ、馬鹿なの?」
「ば、馬鹿って……」
「だってそうじゃない! 自分が何なのかって、そんなのみんな知ってるわよ!」
「……そうだね。みんな、知ってるんだよ、ね」
まただ。
またこいつは、淋しそうな笑みを浮かべる。
その笑みは、チルノの心をどうしようもなく掻き乱した。
なんだか気持ち悪い。背中がむずむずする。
だからチルノは、さっさと話題を変えることにした。
「……さっきの。あれ、なんて歌?」
「え、と……?」
「さっきアンタが歌ってたヤツよ! それもおぼえてないのっ!」
「い、いや、覚えてるよ? 覚えてるわよ、一応……」
チルノの剣幕に、少女は怯えているかのように身を竦める。
「あれはね……遠く離れた友達に、私は元気だよって伝える歌。タイトルはもう思い出せないけど……うん、サビの部分が好きだったんだ」
――君を忘れたこの世界を、愛せた時は会いに行くよ
その歌は、最後の方でそんな風に言っていた。
チルノにはよく意味が解らなかったけれど、なんとなくその響きは好きだった。
「ふぅん」
「……気に入ったの?」
「……………………………………ちょっと、ね」
チルノは耳まで真っ赤にしながら、ぷいっとそっぽを向く。
その姿がおかしかったのか、少女はくすくすと笑った。「な、なにがおかしいのよっ!」そう言ってチルノは怒鳴ったが、少女はそれでも笑みを抑えようとはしなかった。それはさっきまでのどこか淋しげな笑みとは違って、本当に、本当に楽しそうな――
「あたい、チルノ。アンタは?」
「え?」
「名前よ、名前! アンタの名前を聞いてんの!」
照れたように真っ赤になりながら、チルノはぶんぶんと腕を振り回す。
チルノは最強である。最強であるが故に孤独である。
だけどこいつなら――話を聞いてくれるかもしれない。
カエルを凍らせてみたら、凄いと言ってくれるかもしれない。
だから名前を聞いた。人に名前を尋ねる時は、自分から名乗るべきと教わったからそうした。
名前を知らないと、声を掛けることもできないから。
友達に――なれないから。
そいつは、ちょっと頭の足りないそいつは、
少しだけ考え込むように顎に手を当て、
やがて顔を上げ、
とても柔らかく微笑みながら、
「私の名前は――」
〜to be continued 『東方紅魔郷』〜
『WEEK END』 NEVER END
「もう行くの? もう少しゆっくりしていけばいいのに」
「そうはいきませんよ。なんてったって、私はクビになっちゃったんですから」
ま、そりゃそうか――と、咲夜さんが肩を竦める。
ここは紅魔館のロビー。
朝の光が眩しく差し込むその場所は、とても吸血鬼の棲む館とは思えないほど明るく、清涼な空気に満ちていた。
「これからどうするつもり?」
「んー、里には顔出せないし……考えてないです。てきとーにぷらぷらしようかと」
「いい加減ねぇ。まぁ、この辺りにはそんなに強い妖怪はいないけど」
「そりゃここに集中しちゃってますもんねぇ」
悪魔たちの棲む館。
そんなところに足を伸ばす愚か者なんて滅多にいまい。
無論――私はその愚か者のひとりだ。
「まぁ、気が向いたら顔を出しなさいな。今度はお客様として歓迎するわよ?」
「それは楽しみです。一度でいいから素敵なメイドさんにお茶を出してもらいたいと思っていたんですよ」
期待していいわ、そう言って咲夜さんは花のような笑みを浮かべた。
夜に咲く花。そういう名であり、それこそが相応しいと思っていたが、ひょっとしたら彼女は陽光の下でこそ本来の輝きを発揮するのかもしれない――そんな気がした。
それにしても、
咲夜――その響きによって、否応なく昨夜のことが思い返される。
それは血も凍る光景。地獄のような惨劇。
英雄は不在、聖剣も紛失、賢者も使徒も出番のないまま――世界は救われた。
レミリア様も咲夜さんも、世界を救ったという意識はあるまい。
当然だろう。相手はただ……自滅しただけなのだから。
肩透かしにも程がある。もし私がこの物語の読者なら、即座にこの本を投げ捨てていただろう。それくらい――つまらない結末だった。
「ねぇ、咲夜さん?」
「なに?」
「……呆れてたり、します?」
敵にすらなれなかった私を。
何ひとつ為せなかった私を。
世界を滅ぼせなかった――敗残者を。
「別に? こっちとしては助かったってとこね。私だってまだ死にたくないし」
そんな風に、
まるで何事もなかったように。
「だけど……ちょっと意外だったかな?」
「何がでしょう?」
「貴女も――そんなに気落ちしてないみたいじゃない?」
咲夜さんは微笑みを浮かべたまま、こちらを見ている。
私の瞳を、確かめるように、探るように。
「……身の程は弁えています。私には世界なんて重すぎますよ」
そして私もまた、微笑みを浮かべたまま、そう返した。
そう、私に世界は重すぎる。何度同じ選択を迫られても、やっぱり同じ結末に至るだろう。
私は弱い。どうしようもないほどに弱い。
でも弱いから手に入るものもあるのだと、そう、知ったから。
だから今は――そんなに辛くない。
「……そうね。世界なんて重すぎるわよね」
「ええ、ぎっくり腰になっちゃいます」
「それは本当に勘弁して欲しいわね……」
咲夜さんは遠い目をして、辛そうに目を瞑る。
……ひょっとして経験者なのだろうか、ぎっくり腰の。
重労働だもんなぁ、ここの仕事。
お嬢様相手だと、特に。
「そういえば、レミリア様は?」
「寝てるわ。二、三日は動くことも無理そうね。ああ、そうそう。お嬢様から伝言を預かっていたんだっけ。うっかり忘れるところだった」
「伝言って……私にですか? レミリア様から?」
「ええ、貴女に」
「……拒否権はありますか?」
「残念ながら」
がっくりと肩を落とす。
うん、拒否権なんて上等なもの、私にあるわけなかった。
「では、いくわよ? 『目障りだ。とっとと失せろ、この負け犬が』――だそうよ?」
「…………」
「感想は?」
「……何というか……流石ですね」
「当然よ。私の自慢のお嬢様ですもの」
そう言って、咲夜さんは誇らしげに胸を張る。
うん、やっぱなんか、この人はこの人で変な人だった。
「貴女からお嬢様に伝言はないかしら? 今なら安くしとくわよ?」
「お金取るんですかっ!?」
「冗談よ。今日だけ特別無料サービス」
「では……そうですね。『お世話になりました』とお伝えください」
「あら、それだけでいいの?」
「ええ」
面白い答えを期待されていたのかもしれないが、生憎そんな甲斐性はない。
面白みのない、つまらないヤツなのだ、私は。
「ああ、そうそう。もうひとつ伝言があったんだわ。聞く?」
「……お願いします」
「では……『苛めて欲しくなったら、また来い』だそうよ?」
…………。
……何というか、本当に流石だ。
思い返せばレミリア様からは苛められた記憶しかないけれど。
フランが代弁してくれたように、一度ぶん殴らなければ気が済まないと思っていたけれど。
不思議と、どうしても、嫌いに、なれない。
「……すいません、さっきの伝言にひとつ追加しても宜しいですか?」
「今はサービス期間中だからね。幾つでもいいわよ?」
「では……『ありがとうございました。また近いうちにお邪魔すると思いますので、その時はお手柔らかに』とお伝えください」
「あら、貴女マゾだったの?」
「咲夜さんっ!?」
冗談よ、と言って笑う咲夜さん。
とはいえ、そう言われるのも無理はないだろう。
うん、私ってば本当にマゾなのかもしれない。
だって……あの人を小馬鹿にするような声を、また聞きたいと思っているのだから。
「ちゃんと伝えるわ。今の貴女の表情も一緒に、ね?」
そう言って咲夜さんは、
もう一度花のような笑みを浮かべた――
§
咲夜さんと別れて庭に出る。
眩い朝の光の下、よく手入れされた花壇にはたくさんのコスモスが揺れていた。
そういえばゆっくり庭を眺める暇もなかったなぁ、と今更ながら後悔する。赤やピンク、そして白い花弁を揺らすコスモスの群を眺めながら足を進めていくと、
門柱に寄りかかって、こっちに手を振っている美鈴さんに気が付いた。
「や。なんかクビになったんだって? あはは、何やらかしたのよー」
いつもどおりにこやかに笑って、遠慮なくストレートに聞いてくる美鈴さん。
うん、何というか、その生き方が羨ましい。
「なーんて。ほんとは知ってるけどさ」
あっはっはっと大きく口を開けながら笑って、ぱしぱしと私の肩を叩く。
「美鈴さんも……昨日のこと知ってたんですか?」
「昨日のこと? いや、全然。私が聞いたのはミサトがあの子に手を出して、怒ったお嬢様にクビを言い渡されたってだけ。いやー、やるじゃない!」
「やってませんっ!」
いや、ある意味やらかしたと言えなくもないけどっ。
否定できないのが悲しいけどっ。
「んで、これからどうするの? ロミオでジュリエッてみる?」
「不可思議な発言は慎んでください。そんなんじゃないですよ」
そう、そんなんじゃない。
私とフランは、そんな関係じゃない。
「あの子を連れて逃げるっていうなら手を貸すわよ? 面白そうだし」
「だからしませんって。本当にそんなんじゃないんですよ……」
なんか疲れる。
美鈴さんがフランのことをどこまで知っているかわからなかったので、説明すべきかどうか迷ったが……この分なら何も言わない方がいいだろう。
無邪気で無垢で、優しい子。
美鈴さんの中のフランがそうなのだとしたら、そのままで良いと思う。
「では、そろそろ行きますね」
「あら、もう? 残念。もっと色々聞き出したかったのに」
「ご期待に応えることができるような話は何もないですよ。それでは……色々とお世話になりました」
深く、頭を下げる。
何も教えて上げられないのは心苦しいが、ならばせめてこの人の笑顔を曇らせるような真似だけはしたくなかった。
それにお世話になったというのも本当だ。
もし、この人と出会わなければ……きっと私はどこかでのたれ死んでいただろうから。
「うん。それじゃ元気でね」
「ええ、美鈴さんも」
「それじゃ」
軽く手を振って、軽く別れる。
この軽さが心地よい反面、どこか少し物足りない。
美鈴さんと別れて、
門をくぐろうとして――
「ありがとう、ね。あの子を救ってくれて」
美鈴さんは、そう言った。
慌てて振り返る。
美鈴さんはいつもどおりにこにこと笑ったまま、一粒だけ――涙を零した。
「美鈴さん……」
「言ったでしょ? 私の勘は外れたことないって」
その笑顔を見て、私は悟る。
この人は、全てを知っているのだと。
全てを知った上で――このように笑えるのだと。
「早く行きなさい。あの子が待ってるんでしょ?」
「――はい!」
もう一度深く頭を下げて、私は駆け出す。
そしてその背中を、
「門はいつでも開けておくわ。気が向いたら、またいらっしゃい」
その言葉が、力強く押してくれた――
§
蒼い湖。
朝の光に照らされ、水面がきらきらと輝いている。
その照り返しの中、岸辺に立つ大きな木にもたれるようにして――『彼女』がいた。
「や」
彼女は軽く、手を上げる。
まるで友達と待ち合わせでもしているような気楽さで、
フランドール・スカーレットが――其処にいる。
「待たせちゃったかな? ごめんね、ちょっと話こんじゃってさ」
「んー、いいよ、べつに。退屈なんてしてないしー」
それは私を気遣うための嘘ではなく、
目を細めて湖面を眺めるフランの顔は、本当に楽しそうだった。
「どう? 初めて外に出た感想は?」
「まあまあってとこね?」
そう言って、フランは生意気そうににやりと笑う。
「にしてもアレだなー。もっとミサトは驚くと思ってたのに。つまんないなー」
「まぁ、予感してたしね? 美鈴さんにも教えてもらったし」
「ったく。ほんっと美鈴はおしゃべりなんだから」
朝の光の中でフランがぷーっと頬を膨らませる。
どうみても照れ隠しな、それは怒っているふり。
「やっぱり……フランは太陽なんて平気だったんだね?」
「まあね。どころか流れる水も十字架も聖水だって平気よ? にんにくは……ちょっと勘弁して欲しいけど」
吸血鬼に掛けられた呪い。いや、枷はその力の大きさによって度合いを増す。
それが物語における理。悪役としての性格付け。
だけど自我すら与えられなかったフランには――そもそも枷の必要すらなかった。
暗い地下室で、いつの日か爆発する時をじっと待ち続ける時限爆弾。
タイマーもセットされていない、来るはずのないその日を待ち続けるだけの――それがフランドール・スカーレットという存在だった。
だから、己の存在を証明したかった。
世界に仇なす『敵』としての個性を、私は此処にいるのだと――世界に対して示したかった。
でも……
「後悔してる? 私なんかを選んじゃって」
これだけは、ぜひ聞いておきたかった。
あの結末は自分の限界を知るという意味では私にとって納得のいくものだったけれど、フランにとってはどうだったのかを知っておきたかった。
それに対し、フランは実にあっさりと、
「してるよ? もんのすごーーーーーーーーーーーっく後悔してる」
「……さいですか」
まぁ、そりゃそうだよね。
最後の最後の最後になって、本当の意味で裏切られたわけだし。
「でもさ。うん、それでも、いや、それがよかったんだなーって思う」
「え?」
「わたしもミサトとおんなじだよ。世界を壊せなくてほっとしてる。そういう自分がいるって知ることができたし。うん、だから」
――ミサトでよかったよ。
そんな風に、湖面を眺めながら、淡い笑みを浮かべる。
それはどこか淋しげで、そして少しだけ大人びた――そんな笑み。
「……そっか」
「そうだよ」
何にもないフラン。何も持ってなかったフラン。
でも、その奥には、本当に幽かだけど、本当に僅かだけど――自分の意思が残っていた。
全てを知るフランは悲しみだけを集めて、そうすることで世界を滅ぼすための『理由』を求めていたけれど……世界は悲しみだけで作られているわけじゃない。
嬉しいことも、
楽しいことも一杯あって。
そして奥の奥の奥に隠れていた本当のフランは、
もっと見たいと、
もっと知りたいと――そう願っていたのだ。
だから世界は壊せない。そんなことできるわけがない。
だって世界が壊れたら――楽しいこともなくなってしまうのだから。
「それにいち早く気付いたミサトは、たとえ自分が悪者になってでも少女の夢を守ろうとしたのである――なーんてオチならかっちょいいんだけどねー。違うじゃん? ミサトはただのヘタレじゃん?」
「……返す言葉もございません」
まぁ、なんとなーく、そう思っていたのも事実だけど。
だって、ほら? 私をベースにしてるって割に、フランってばあんまり性格良くないし。
きっと、隠れていたフランそのものの自我が影響してんだろうなーって思っていたし。
「なにいってんの。性格の悪さはミサト譲りよ?」
「あれ!? な、なんでまだ私の考えてることが解るの!?」
顔見りゃわかるわよ――そう言って、フランが呆れたように肩を竦める。
そう、私たちはもう繋がっていない。世界の嘆きも聞こえない。
あの夜、フランが私のことをもう要らないと言った時点で、契約は破棄されている。
それでも、
「やっぱ……解っちゃうのか……」
「フェイシャルトレーニング、積まなきゃね?」
うん、精進するとしよう。
とはいえ……そろそろ、頃合、かな?
「んじゃ、お別れだね? ミサトはこれからどうするの?」
別れの気配を察したかのように、フランが問い掛ける。
そういうところ、私のコピーにしちゃ如才ないなーとも思ってしまったりする。
ちょっと、羨ましい。
「そうねぇ……しばらくこの辺をぷらぷらしてみようかと」
「この辺を?」
「どうせ私はヘタレだしね。あんまり遠くに行くのも怖いし、近すぎるのもアレだし」
館にいると、またフランに会いたくなってしまうだろう。
そうなれば――私の負の心に引きずられて、フランがまた暴走するかもしれない。
自分を律する強い心を持っていない私は、それでいて遠く離れることもできない未練たらたらの私には、そういう付かず離れずの曖昧な距離が丁度いいと思うのだ。
「そっか」
フランは頷く。
賢しい彼女は、私のそういう想いすらもきっとお見通し。
だからそんな風に、小さく頷くだけだった。
「フランはどうするの? これから」
「んー、『週末』を越えて生き延びれるなんて思ってなかったからさー、なーんにも考えてないのよねー。今までは良くも悪くも零からやり直しだったわけだし。正直、戸惑ってるわ」
「そういうもんなの?」
「そういうもんなの」
木にもたれて、フランが天を仰ぐ。
木漏れ日に目を細め、少し困ったような顔で。
「でも……」
「でも?」
「弾幕ごっこだっけ? あれはもっかいやってみたい、かな?」
昨夜の、レミリア様との戦いを、
思い返すように、フランが目を閉じる。
思い出を舌の上に乗せて、転がして、口元に幽かな笑みを浮かべて。
「そっか」
「ミサトともやってみたいな?」
「いや、それはふつーに無理だから」
だから私は、ただの妖精そのいちなんだって。
だけど――それはフランにとって、初めて手に入れた『やりたい』こと。
世界を壊すという使命しか与えらなかった少女が、やっと手に入れた自分だけの願い。
だから私も願うとしよう。
いつの日かフランが、弾幕ごっこに興じられる日々が来ることを。
彼女と対等に戦えるだけの――『誰か』が現れることを。
「ま、それまではふっつーの吸血鬼でもやるとするわ。太陽に怯え、流水を恐れる……ふつうの吸血鬼をね?」
フランが木陰から右手を差し伸べる。
途端に日の光を浴びた右手が、しゅうしゅうと白い煙を吹き上げた。
手を下ろして木陰に戻すと、まるで何事もなかったかのように右手は元に戻る。
「……それって何の意味があるの?」
「吸血鬼は人間に倒されるものなんでしょ? んじゃ、ハンデくらいはあげないとね?」
「そういうもんなの?」
「そういうもんなの」
理解しがたいが、そういうものなのだろう。
それが――きっと人と鬼の正しい在り方なのだ。
吸血鬼として生きていく。それが彼女の選んだ道。
選択の余地なく定められた使命ではなく、
自分の意思で選び取った役柄を、演じ続けていくことを――
なら、きっと。
そんな生き方も、わるくない。
「じゃ、そろそろ行くわ」
「そうね。頃合かしらね」
ざっ、と。
示し合わせたように、互いに足を踏み出し、私たちは正面から向かい合う。
私は見下ろし、彼女は見上げる。互いの瞳が結ばれる。
ざん、と。
強い風が吹く。
だけど私たちは風に抗って、真っ直ぐに立って、互いに見つめあって。
「ありがとう、ね」
「うん、ありがとう」
私は弱すぎて、フランは強すぎた。
弱い私は世界を憎むしかなかったし、強いフランは自分を持つことができなかった。
きっと私たちは、そのままだったら、そこから一歩も踏み出せなかっただろう。
私は夜を彷徨い、フランは地下に篭ったまま、世界と関わる術を見失ったままだろう。
でも二人なら。
弱さを補い、強さを抑え、踏み出すことができるはずだ。
週末を超えて、まだ見ぬ明日へと向かえるはずだ。
だから私は大丈夫。
私たちは――大丈夫。
フランがリボンを解き、無言で差し出した。
だから私も無言で受け取って、そっと胸に押し当てる。
それは友情の証。私たちは繋がっているのだと、それを忘れないための優しい戒め。
さあ、そろそろ行くとしよう。
別れの言葉なんかいらない。そんなもの必要ない。
私たちはただ、
微笑みを浮かべ、ぱんと互いの右手を打ち鳴らし、すれ違うように別れていく。
これで長かった物語は終わり。
私が知っているのはここまでだ。私の知っている『彼女』の話はここで終わる。
だけど世界は終わらない。
ここから先、私は私の、彼女は彼女の物語を紡いでいく。
だから私たちは前を向いて、
一歩一歩確かめるように、それぞれの道を――歩いていこう。
『ここまで? それとも、これから?』
チルノは最強である。
彼女は妖精で、氷雪を操り、そして今まで一度も負けたことがない。
他の妖精たちは彼女の姿を見ただけで恐れおののき、尻尾を巻いて逃げ出すのだ。
そしてただの最強ではない。
己の力に驕ることなく、常に努力を怠らないという最強の中の最強である。
だから今日もチルノは己を高めるべく、すでに日課と化した厳しい特訓に励むのであった。
「むきー! なんでうまくいかないのよっ!」
足を投げ出し、地べたに座り込んだ彼女の前には幾つかの氷の塊。その中には特訓の相手に選ばれてしまった哀れなカエルが、まるで時を止められたかのように飛び跳ねようとした姿のまま閉じ込められていた。
チルノは氷に向かって両手を伸ばす。
むーっと唸りながら、口元を引き締め、翳した両手に力を篭める。
チルノの目が真剣を帯びていくと同時に氷は徐々に溶け始め――やがてパリンと乾いた音を立てて砕け散ってしまった。
「あー、もう!」
砕けた氷を払いのけるように両足をばたばたさせると、その音に驚いて近くにいたコオロギが逃げていく。
チルノは、自分でも気付かないうちに連勝記録を伸ばしていた。
実に最強である。
「つまんない。もうやーめたっ」
カエルの凍結、及び解凍という高度な特訓は、チルノの気紛れによって一旦中止となる。未だ成功率は三割を超えることがないが、いずれチルノは思いのままにカエルを凍らしたり戻したりできるようになるだろう。そうすれば今のようにわざわざカエルをたくさん捕まえてこなくても、一匹のカエルを何度も何度も凍らせて遊ぶことができるはずだ。
実に合理的である。
その溢れんばかりの知性もまた、チルノの最強を示す証のひとつだ。
さてチルノは最強であるが故に、とある悩みを抱えていた。
具体的に言えば友達がいないのである。
最強と孤高は等号で結ばれる。最強であるが故に誰もがチルノを恐れて近づかない。最強であるチルノには淋しいという俗な感傷などないが、カエルを凍らせてもそれを自慢できる相手がいないというのは実に面白くなかった。妖精たちはちょっと苛めるとすぐ逃げていくし、カエルはそもそもしゃべれない。まったくつまらない。つまらないから、チルノはつい不機嫌になってしまう。
その時――チルノはどこからともなく聞こえてくる、その『歌』に気が付いた。
気付くと同時に、野生の動物のように臨戦態勢へと移行する。見慣れないもの、聞きなれない音に対しては油断なく警戒する――それが弱肉強食の世界で生き延びる術である。近くの茂みにでも身を隠し、目をギラギラと輝かせて異変の原因を探るのが良策であろう。
だがチルノは最強である。
最強であるから、身を隠すなんて姑息な真似はしない。
その『歌』が聞こえる方に、堂々と、ずんずんと向かっていった。流石である。
「む?」
そこに――そいつはいた。
湖畔に転がる大きな岩に腰掛けた一人の少女。
水色のワンピース。白いブラウス。そして緑色の長い髪。
その長い髪を頭の横で括っている。黄色いリボンが風に揺れている。
そしてその背中には――薄い、蜻蛉のような羽根が、まるで背伸びをするように伸びていた。
そいつは湖を眺め、軽く目を細めて歌っている。
まるで誰かに聞かせるように。
まるで誰かに伝えようとしているように。
視線の先を追う。
少女は湖の対岸にある――紅い館を見つめていた。
チルノは最強である。
最強であるからには、己の最強っぷりを常に示さなければならない。
つまりこの何者か解らぬ人物へと誰何の声を掛け、自分の存在を示さなければならない。
だが……チルノはそうしなかった。
じっと、佇んだまま、少女の歌を聴いていた。
決して上手いわけでもない。声が良いってわけでもない。
だけどもっと聴きたいと、そう思ってしまうような歌声でありメロディーであった。
少女の歌が終わる。
最後に静かな笑みを浮かべて、少女が目を閉じる。
それは淋しげで、どこか大人びた不思議な笑み。
チルノは――そんな表情を、今まで一度も見たことがなかった。
「ん?」
「あ」
少女がチルノに気付く。
気が付けば、チルノは少女の目の前に立っていた。
チルノは動揺する。
己が最強であることを自負しているが、こんなシチュエーションは初めての経験である。威嚇するか、それとも問答無用で攻撃するか、立ち尽くしたまま迷っていると、
「あなたは妖精さん?」
向こうから声を掛けてきた。
少女の瞳が自分へと向けられる。
それはまるで、この湖のような――静かな蒼。
「その場所……」
「ん?」
「そこはあたいのとくとーせきよっ!」
チルノは先手を取られた屈辱を跳ね返そうと、声を張り上げる。
確かに少女が腰掛けている岩は、チルノのお気に入りの場所だった。そこに寝っ転がって、ひなたぼっこをするのが大好きだった。そこは玉座であり、最強である自分しか座ることの許されない特別な席だった。
「あ、ごめん。すぐ退くから……」
「いいっ!」
「え?」
「とくべつに許してあげるっ! そこにいなさいっ!」
「は、はい?」
少女は腰を浮かしかけたまま、戸惑ったようにチルノを見つめている。
少女の背は高く、おまけに大きな岩に腰掛けているものだから、自然とチルノは見下ろされる形になってしまっていた。それが気に入らなくて、チルノは背中の羽根をはばたかせると、大岩に登って、少女の隣に立って、腕を組んだまま少女を見下ろすようにする。
「あんた、何者?」
「何者って……私は妖精だけど……?」
「そんなの見りゃわかるわよ! 何の妖精かってきいてるの!」
こいつは頭が悪いのだろうか?
そんなことを考えながら、チルノは少女を見下ろす。
質問の意味を図りかねているかのように少女は戸惑っていたが、やがて顔を上げて、遠くを見るような視線のまま――ぽつりと零す。
「解らないんだ。私は私が何者なのか……知らないの」
やっぱり馬鹿だ、チルノはそう思った。
自分は自分が氷精だと知っている。誰に教えられたわけでもなく、初めから知っている。
他の妖精たちだってそうだ。
あいつらは馬鹿だが、自分が何の妖精かくらいはちゃんと弁えていた。
「アンタ、馬鹿なの?」
「ば、馬鹿って……」
「だってそうじゃない! 自分が何なのかって、そんなのみんな知ってるわよ!」
「……そうだね。みんな、知ってるんだよ、ね」
まただ。
またこいつは、淋しそうな笑みを浮かべる。
その笑みは、チルノの心をどうしようもなく掻き乱した。
なんだか気持ち悪い。背中がむずむずする。
だからチルノは、さっさと話題を変えることにした。
「……さっきの。あれ、なんて歌?」
「え、と……?」
「さっきアンタが歌ってたヤツよ! それもおぼえてないのっ!」
「い、いや、覚えてるよ? 覚えてるわよ、一応……」
チルノの剣幕に、少女は怯えているかのように身を竦める。
「あれはね……遠く離れた友達に、私は元気だよって伝える歌。タイトルはもう思い出せないけど……うん、サビの部分が好きだったんだ」
――君を忘れたこの世界を、愛せた時は会いに行くよ
その歌は、最後の方でそんな風に言っていた。
チルノにはよく意味が解らなかったけれど、なんとなくその響きは好きだった。
「ふぅん」
「……気に入ったの?」
「……………………………………ちょっと、ね」
チルノは耳まで真っ赤にしながら、ぷいっとそっぽを向く。
その姿がおかしかったのか、少女はくすくすと笑った。「な、なにがおかしいのよっ!」そう言ってチルノは怒鳴ったが、少女はそれでも笑みを抑えようとはしなかった。それはさっきまでのどこか淋しげな笑みとは違って、本当に、本当に楽しそうな――
「あたい、チルノ。アンタは?」
「え?」
「名前よ、名前! アンタの名前を聞いてんの!」
照れたように真っ赤になりながら、チルノはぶんぶんと腕を振り回す。
チルノは最強である。最強であるが故に孤独である。
だけどこいつなら――話を聞いてくれるかもしれない。
カエルを凍らせてみたら、凄いと言ってくれるかもしれない。
だから名前を聞いた。人に名前を尋ねる時は、自分から名乗るべきと教わったからそうした。
名前を知らないと、声を掛けることもできないから。
友達に――なれないから。
そいつは、ちょっと頭の足りないそいつは、
少しだけ考え込むように顎に手を当て、
やがて顔を上げ、
とても柔らかく微笑みながら、
「私の名前は――」
〜to be continued 『東方紅魔郷』〜
『WEEK END』 NEVER END