1
「………………ん」
ぽつり、と頬に何かの当たる感触。
うっすらと瞼を開くと、一面は灰色の空。
視界に白い線が走ると、冷たい感触。
雨だ。
私はこんな所で何をしてるんだろう……。
あぁ思い出した。
花が異常に咲いた春も終わりを告げようとしている今、現世であの閻魔に会うとは思ってもいなかった。
それだけならまだしも、まさか『真面目に善行を積んでいますか』と聞いてくるとは。
当然紅魔館の主、レミリア・スカーレットお嬢様の完全で瀟洒な従者な私としてはこう答えるしかあるまい。
『悪魔の従者に何を言ってるんですか?』
我ながら良くできた答えだと思う。なのにあの閻魔ときたら、いきなり笏を投げつけて来るんですもの。何がいけなかったのかしら。
そこからはどうしたんだっけ? と思い出そうとした瞬間に記憶がフラッシュバックを起こす。
数多のナイフ、数多の笏、弾幕ごっこの一部始終が次々と蘇る。
時間を止めて避けたその先に白い光――
そこから先の記憶が無い。
灰色の空はゆっくりと雲が流れるだけで、それ以上は何も思い出せない。
「……っ! つつ……」
こうしていても仕方ないので体を起こそうとしてみたが、全身に痛みが走るのであえなく徒労となってしまった。おそらくあの光をまともに浴びたのだろう。そしてそのまま――
あぁ、負けたのか私。
いつ以来だろう、負けたのは。少なくとも記憶にあるのはあの紅霧の時が最後だ。
私も鈍ったのかしらね……。
右手を突き出し、空へと掲げてみる。しかしそこにはいつもの見慣れた私の手があるだけだった。
「…………ふぅ」
体に上手く力が入らない。やっぱり負けたのかと実感しなおすけれど、なんだか酷く気分が重たい。もちろん体も重いのだけど、そんなのはこのままじっとしていれば治るだろう。
はぁ、と溜息を吐く。なんだかさっきから溜息ばかりだ。
小雨が身体を濡らしていくのが少し心地良い。弾幕ごっこで火照った身体には少し休息が必要だろう。
曇天の空へと突き上げていた右腕を額に押しつけ、そのまま再度溜息を吐く。あの紅白の巫女と白黒魔法使いならまだしも、たかが閻魔程度に負けるなんて完全で瀟洒な従者としては充分に名折れだろう。
勝ち目が無かったわけじゃない。むしろ勝とうと思えば勝てたはずだ。
相手を……殺す気だったなら。
時間を止めて、相手の首を落とす。ただそれだけの事で私は充分勝てたはずだ。
もっとも、あの閻魔が首を落とされたぐらいで死ぬかどうか怪しいが、少なくとも勝ちは拾えただろう。
何故そうしなかったのか?
弾幕ごっこという遊びだったから?
かつては夜霧の幻影殺人鬼と呼ばれた私、十六夜咲夜ともあろう者がそんなごっこ程度の遊びに付き合うのだろうか?
もう思い出すのが億劫な程の遠い過去の私なら、問答無用で殺しにかかっていたはずだ。
丸くなったのだろうか、私は。
――いや、狗に成り下がったのか。
鎖につながれた狗……ね。なんとも今の私にお似合いじゃないかと思う。
そのまま首を横に傾ける。
どこまでも続くかのような草原には一面に花が咲き乱れている。まさしく幻のような草原が、今は雨に煙っていた。
目の前の白い小さな花が雨に打たれ、首を傾げながら揺れている。
その首振りと、こっちを向いた白い花弁が「どうしたの?」とでも言いたげで。
正直、疎ましい。
何が疎ましく感じるのか私にも解らないが、とりあえず溜息を吐く。
花は依然と咲き誇っていて、草原はまるで幻のよう。
夢のような花畑で倒れている私はまるでうち捨てられた人形みたい。もう踊れない人形は捨てられるのが運命なのだから。
私の思考が鬱へと向かっている事は解っている。でもなんだかそれを止める気にもならないのは何故だろう。
はぁ、と溜息。
凄く疲れた。このまま眠ってしまいたい。
雨、と言っても小雨と呼んでいい程度だが、それでも草原にとっての恵みは優しく降り続ける。
2
はぁ。
また溜息。
どうでもいいけど、このまま雨足が強まったら風邪をひいてしまうかもしれないわね。
そしたらそれは私をこんな所に放置してくれたあの閻魔の罪になるのかしら……本当にどうでもいいけど。
雲は低く、早く流れている。このままならばこれ以上雨は強くならないだろう。身体も疲れているし少し眠りたいわね。
今の私ではどうも内向的で自虐的な思考しか出来ないのは解かった。少し眠れば気も晴れてくれると思う。
そうして目を閉じようとした時だった、視界の端、空の片隅に黒い人影が映ったのは。
人影は曇天の中でも一際黒く、まるで絵本に出てくる魔女みたい。
そうこうしている内に人影はどんどん近づいて来て、その姿をはっきりと映し出す。
そしてその魔女は私のすぐそばまで降りて来て、開口一番にこう言った。
「なんだ咲夜じゃないか。こんな所で昼寝か?」
そういえば今の天気はまさに彼女の名の通りの霧雨。ここで出会ったのは必然だろうか。
「サボタージュとはメイド長も偉いもんだな」
不敵な笑いからは皮肉めいた言葉が次々と零れ出る。
いつもならば「あの閻魔に負けたらから動けないのよ」とでも言うのだけれど、それを言うのも何となく嫌だ。
「………別にどうと言う事は無いですわ」
私は上半身を起こしながら、ぶっきらぼうに言い捨てる事しかできなかった。
「あー? 機嫌悪いな……何かあったのか?」
さっきから続く魔理沙の軽口が非常に腹立たしくて仕方ない。
「うるさいわね、少し黙りなさい」
刺々しい言葉とともに右手で軽く振るう。瞬時に私の手からは銀の光が飛び出した。
「おっと」
しかし魔理沙は僅かに首を傾げるだけで私の投げたナイフを避けてみせる。
「なんだなんだ、随分荒っぽいじゃないか。しかもその恰好……誰かとやりあったのか?」
確かに今の私の服はあちこちが裂けている。
とてもじゃないが綺麗な恰好ですとはいえないだろう。
どうしてこういう時に限ってこいつは察しがいいのか。まぁ、だからこその世話好きなんだろうけどね。
「…………」
魔理沙の問いかけに私は沈黙で応じた。
「それで? もしかして負けたから拗ねちまってこんなところでオネンネか?」
三本に増えたナイフで返事を返してやる。
しかしそれでも魔理沙は一歩分の距離を移動するだけで避けてみせた。
「当たりなさいよ」
「今のお前じゃ百年経っても私に当てる事はできないぜ」
魔理沙がいつものようにニヤリと不敵な笑みを返してくる。
「うるさいわね! いいから消えなさいっ!」
私の激昂にも魔理沙は退かない。
「ふーむ、当たりのようだな。とりあえずここに居ると風邪をひいちまう。私の家で風呂でも入っていくといいぜ」
微かに、それでいて見るものを安心させるような笑みを浮かべながら、魔理沙が私に手を差し出してくれる。
「あ…………」
違う――
その姿を見て私は、違うと感じてしまった。
「なんだ、ほら、行くぞ」
私はどうしてもその手を取る事ができなかった。
一度感じた違和感はすぐに私の中で膨れ上がり、目の前の少女ではとてもじゃないがその手を握る事なんてできそうも無い。
「魔理沙……ごめんなさい」
「なんだ、どうした?」
不思議そうにこちらを見てくる顔が、どうにも眩しくて、それでもその手は私の取るべき手ではなかった。
「行けないわ」
「何でだよ、このまま風邪でもひきたいのか?」
「ごめんなさい」
「…………」
力なくうなだれる私に魔理沙は腕を組んで溜息で返事をする。
「らしくないな」
ポツリと言った。
「何があったかは聞かないでおく。だがとりあえずここじゃダメだ。お前が風邪を引いたら元も子もないからな。帰るか私の家に来るかしないと」
「今は、何もしたくないわ」
駄目だ。魔理沙の手は取れないし、まだ館に帰る気もしない。
「そうは言ってもな、このまま置いて帰るわけにもいかないんだ。帰りたくないなら引きずってでも家へ連れて行くぜ」
そう言った魔理沙の声はとても低くて、否が応でも連れて行くという意思が込められていた。
私の手を取ろうと魔理沙が近づいてくる。
駄目、今魔理沙の手を取ったら……! 私は、私は……!
――気がついた瞬間に身体は動いていた。
銀光が目の前を一薙ぎするのを私はまるで他人事のように見ていた。
「えっ……?」
「っと!」
呆とした私の声と、慌ててたたらを踏む魔理沙の声が聞こえる。
今、私は何をした?
違和感を感じて、右手へと視線を転じる。
そこには確かにナイフを握り締めた私の右手があった。
「おい、咲夜……今のは冗談か? それとも本気なのか?」
魔理沙の声はさっきよりもさらに低くて、冷たい。おそらく本気なのだろう。まるで私の内心を見透かすかのようにこちらを睨みつけてくる。
「え、あ……」
私は慌てて魔理沙から隠すように右手を背中へと回す。
「咲夜、どっちだ?」
まるで断罪者の如く私を見つめる魔理沙。
「ごめんなさい……」
私の口からはそれ以上の言葉が上る事は無い。
それこそ否定の言葉も、肯定の言葉も。
「そうじゃないだろう? 返事はどうなんだ、事と次第によっては私はお前を張り倒してでも担いで帰るぜ」
魔理沙はずるい。こちらの逃げ場を塞ぐような言い回しをしてくる。
「ごめん……それでも魔理沙の手は取れないわ」
私は慎重に言葉を選んで言った。
「ふう、やれやれ……あのお嬢様も咲夜ベッタリだと思ってたが、まさかお前までお嬢様ベッタリだとはな。まぁ私じゃお前の手は取れない。そういう事か」
溜息を吐いて空を見上げる魔理沙。空は変わらずに彼女の名前のとおりの霧雨を零している。
「それなら私の出る幕じゃなさそうだな」
それだけ言って魔理沙は私に背中を向ける。
「来るといいな」
向日葵のような笑顔を残して魔理沙は箒に乗り込んだ。
「……ごめん」
あぁ、パチュリー様や妹様は魔理沙のこんな笑顔に心を奪われたのか。今ならその気持ちが少し解かるような気がする。見ているこっちの心に入り込んで、いつまでも色褪せないような笑顔。この人なら、魔理沙ならきっと解ってくれると思わせる、全てを話したくなるような暖かい笑みだった。
でも、それでも今私が一番見たい笑顔じゃないのよ、魔理沙。
私が一番見たいのは……。
「なぁにアイツの事だ、後でしたり顔で来るに決まってる。それじゃあな」
そう言って魔理沙は飛んで行ってしまった。
魔理沙の背中を見つめる。何故あの時にナイフを振るってしまったのだろう。普通に断ればいいのに。むしろ引きずられてでも魔理沙の家に行った方が良かったのは解っている。それでも、魔理沙の手は取れなかった。
違う、とそう思ってしまった。
思ってしまったら最後、全身で拒否してしまった。その事は多分間違いじゃない、はず。
何が正しくて何が間違っているのだろう? こんな事を思い悩むのは自分でもナンセンスだと思うけど、考えてしまった物は仕方ない。
「…………はぁ」
溜息は小雨とともに地に落ち、私の気分と同じ部分へと落着する。
やはり少し眠ろう。風邪をひいたらそれでいいわよ、もう。
目を閉じれば幻想的な花畑は消え、曇り空も消える。身体にあたる雫が心地良くて、私は深く深く自分に埋没していった。
遠い昔、私の手を取ってくれたあの少女。見た目は私と同じぐらいだったのに、今では随分と私のほうが大きくなってしまった。それでもあの頃と変わらずに私を見ていてくれる。ならば今は?
来てくれる。きっとあの時のように。
3
「さ……や……っ! さく……! さくや……!」
わたしをよぶこえがきこえる。
「おきて……!」
わたしはくらくてふかいところにひとりでいた。
わたしをそのくらやみからすくってくれたのは……ダレ?
「起きてください咲夜さん!」
目の前に広がる紅い色。それは懐かしくて暖かくて、私の待ち望んだとても親しい紅い君。
ではなかった。
「良かった……起きたんですね……」
目の前に広がる紅い髪。
「美鈴……雨は?」
私を上から見つめる彼女――紅美鈴――はその名前通りに紅い髪を垂らしながら覗き込んでいた。
「いつの間にか上がってますね。それより、みんな心配して探しに出てますよ? 帰りましょう」
言うが早いか私の手を取り、立ち上がろうとする美鈴。
でも――
「あれ、どうしたんですか? 行きましょう?」
引かれたその腕に抵抗するように私は立ち上がらない。
どうにもならない違和感。
自覚してしまったのなら、そうするしかないでしょう?
「え?」
再び閃く銀の光。さっきと違ったのは私が自分の意志でもって振るった事。
すんでのところで手を引いた美鈴は信じられないような顔でこちらを見ている。私はさも当然とした顔を作ってみせる。
「咲夜さん? どういう……こと、ですか?」
いまだ呆然とした表情の美鈴に私はそっと優しく語りかける。
「ごめんなさいね? でも……残念だけど貴女でもないのよ」
優しく語りかけながら、私の中は激しい嚇怒に襲われていた。なまじ紅いだけに余計に勘に障る。私の知る紅い世界と、彼女の紅い髪では次元が違うのだ。
「それに……今は一人にしておいて欲しいのよ。解かったらとっとと消えて頂戴」
あくまでも表面は静かに、だけど確かな怒気を乗せた私の言葉が美鈴に突き刺さる。
「咲夜さん……その目は……」
何とかよろめかずに立ち上がった私の視界は一面の紅。
世界は曇天も草原も紅く染まり、私の頭が目の前の不届き者を殺せと喚きたてる。その声を無理矢理押し殺して囁きかける。
「それとも何? 今ここで私に殺されたいのかしら? それならそれで良いわよ。優しく丁寧に貴女を奪ってあげるわ」
この言葉がブラフ、つまりハッタリである事は自分でも解かっている。今の体調では絶対に美鈴に勝てないだろう。それでも、今の私は彼女を許せそうに無い。ぼろぼろに負けて館に連れ帰られても文句は言えないだろうし、その方が話が早い。
半ば諦めの境地でありながらも、ここで「はいそうですね」と答えられる程私も大人しくはない。
「ここで私が無理にでも連れ帰る、と言ってもですか?」
美鈴の腰が静かに落とされる。それは彼女が戦闘の姿勢に入ったことを示す。
「あら、大人しく捕まる気はないわよ?」
暗くなってきた空と、濡れた草原で私たちは向かい合う。私の手にはナイフが既に握られている。
果たして今の体調でどれだけ美鈴と勝負できるのか。現に今の私はまだ立つ事が精一杯で、時間を止められたとしても大した事はできないだろう。それでも、今はやるしかない。
ぽつ、ぽつ、と再び空から雫が零れてくる。
無言の時間がどれくらい経っただろう。
時間の消耗はこちらに不利と判断する。ならば勝負は一回きり。
――時間よ、止まれ――
全ての色を失い、モノクロームと化した世界が広がっていく。それと同時に頭が割れそうな痛みを訴えてくるが今は無視をする。
鼓動と熱を吐息にのせて吐き出し、それでもナイフを投げる。私の糸に操られたナイフは美鈴を取り囲み――
ばちん!
先に頭がやられた。
神経が残らず焼き切れるような痛みが私に襲い掛かり、同時に世界が色を取り戻す。
「ぐっあっ!」
私の意思とは無関係に口から痛みが吐き出されて、苦鳴となる。
慌てて美鈴へと視線を走らせると、すでに動き出していたナイフは美鈴に向かって吸い込まれるように収束して……
「破っ!」
気合一閃。美鈴の裂帛の気合が空気を震わせ、全てのナイフを落とした。
頭の中では割れ鐘のような大音量が痛覚を刺激して、あまりの痛みに私は思わず膝を地に付けてしまう。
「咲夜さん!」
私は美鈴がそばまで駆け寄ってくるのをまるで他人事のように見ていた。
「咲夜さん……血が……」
そこまで言って美鈴はハンカチを取り出し、私の鼻に押し当てる。
どうやら力の使いすぎに耐え切れず、鼻の毛細血管が破けたらしい。
「ごめんね……美鈴」
力なく答える私に美鈴は頭を横に振った。
「咲夜さん……もう帰りましょう」
その言葉に今度は私が頭を横に振る番だった。
「ごめん……」
「咲夜さんがそう言うのであれば……」
それでも……再び雨の振り出した今でも、ここに留まってみたかった。
私の想いを知ってか知らずか、美鈴は消え入りそうな声でそう答えた。そうだ、いつもこの娘はこういう反応をする。今の私が勝てないと知って、それでも私を、周囲を気遣って自分が一歩退いてしまう。
「それで? 今の館は誰が守ってるのかしら?」
「あっ!」
「良い度胸ね……やっぱりここで殺されたいのかしら」
私の静かな恫喝と見え透いたブラフを受け、美鈴はじり、と一歩だけ下がる。
「あはは……それじゃ私、『先に』戻りますね」
『先に』という言葉をわざと強調して美鈴がふわりと浮かび上がる。
そこでやっと気がついた。なんて私は馬鹿なんだろう、お嬢様を守るべき相手に対して本気で殺気を向けるなどと……。
「待ってますから……ね」
ポツリと言葉を残して美鈴が空へと消えていく。
その申し訳無さそうな顔は捨てられた子犬のようで私の良心が痛む。
「…………私は…………」
そこから先の言葉は私の口から滑る事無く、聞く者のいない呟きは、まるでそれがスイッチになったかのように強くなりだした雨とともに消えていった。
雨は先ほどの小雨のように私を優しく包むのではなく、今の私の気持ちを表すかのように激しく降り注いでいた。
激しい雨の中で私は独り濡れながら思う。
私は何をやってるんだろう……?
4
ざぁざぁと銀の雨が降りしきる。
まるで激しい自己嫌悪の中に居る私の心をそのまま表すかのように。友にナイフを突きつけた私を切り刻むように雨は私に叩き付けられる。
雨は容赦なく降り注ぎ、私の体温を奪っていく。
立ち尽くした私は動く気力も無くその場に座り込む。
いっそこのまま雨の中に消えてしまいたい。私の手はごく自然にナイフを持っていた。
この雨ではお嬢様だって来れまい。
銀のナイフを掲げ、首に押し付ける。
「ホントにまだ居るのね」
唐突にその言葉は掛けられた。
反射的にナイフを突きつけた先、ついさっきまでは気配もしなかったというのにそこには赤い番傘をさし、紅白の巫女装束に身を固めた博麗神社の巫女、博麗霊夢が居た。
「霊夢……」
私の声は虚ろに漏れ出し、霊夢本人に届いたかどうかも疑わしい。
「ん、魔理沙に言われて様子を見に来たんだけど。お邪魔だったかしら?」
霊夢がまるで散歩がてらに会ったような声をかけてくる。
「…………」
自分が今何をしようとしたのか、霊夢が声をかけねばきっと私は……
「まぁ目は覚めたみたいだけど? それで貴女はこれからどうする気なのかしら?」
霊夢は相も変わらずに声をかけてくる。その問に対する答えを今の私は持ち合わせていない。
「なんだったら家に来なさい。この雨じゃレミリアは来れないわ」
「だけど……それでも今はお嬢様を待ってみたいのよ」
「無駄ね」
私の言葉を霊夢はピシャリと否定した。
「普通に考えなさい。この雨の中で出かける吸血鬼がいるわけないでしょ。それにアンタをこのままにしておくわけにもいかないわ」
そのままずかずかと歩いてきて私の目の前に指を突きつける。ざぁざぁという雨音と、番傘をばちばちと叩く二つの雨音が混ざり合って、とてもうるさい。
それに、流れ水が吸血鬼の弱点の一つだなんて言われなくても分かる事だ。だって私は吸血鬼に仕える従者なのだから。
「いいわね、文句なら後から聞くから黙ってついて来なさい」
そう言ってくるりと背を向ける霊夢。私の足はそれでも動き出さなかった。
「どうせあの閻魔にでも負けた挙句に説教でも喰らったのでしょ? あんなのの言う事なんていちいち聞いてたらこっちの身が参っちゃうわ――何してるの、とっと来なさい」
「どうしてその事を……?」
「その後になるのかしら。神社に来たのよ、あいつ。特に貴女の事は言ってなかったけどね、後は私の勘よ。もっともその様子じゃ、また当たりみたいだけど」
そう言って霊夢は肩をすくめて見せる。
「でも……私は……お嬢様を待ちたいのよ」
口に出してみてはっきり解かった。私はお嬢様を待っている。あの時のように、私を拾ってくれる。今はそう思いたかった。
「だから言ったでしょう、それは無理よ」
霊夢にしては珍しく強い口調だった。その言葉で頭に血が上るのを自覚したが、それよりも早く私の口は言葉を発していた。
「貴女に何が解かるって言うのよ」
再び霊夢がこちらに向かって歩いてきた。
「少なくとも、この雨の中で動ける吸血鬼は居ない。それぐらいは私に分かるし、あんたの方がそれは良く分かってるでしょう?」
「それでもお嬢様なら来てくれるわ」
「あんたはあのお嬢様をこの雨の中に放り込みたいの?」
「そうじゃないでしょう!」
自然と語気が鋭くなっていく。頭に上った血は降りる事を知らず、さらなる灼熱を伴う。
「私はお嬢様を待ちたいのよ!」
「それだったら、なおさらこの雨の中では無理だって言ってるのよ」
「霊夢に何がわかるって言うのよ!!」
私の怒鳴り声は雨の音にも負けずに霊夢に突き刺さった……はずだった。
「私にはあんた達の気持ちなんて解かるわけがないわよ」
私の怒声を、そよぐ風と同じように受け流す霊夢。ますます気に入らない。
「それにねぇ……さっきから聞いてればお嬢様お嬢様って、あんたはアイツが居ないと何にも出来ないのか」
霊夢の言葉は雨よりも冷たい氷を含んでいた。
だけど私はそれに気が付けない。いや、気がついてなお無視をしたのだろう。認めてしまえば、この巫女の凪のような空気に飲み込まれてしまうような気がしたから。
「そうよ! 私はお嬢様の為の十六夜咲夜なんだから!」
「うるさい馬鹿」
私の声が響いた瞬間に霊夢は私の腹部に符を押し付ける。
そこから迸った霊力は私の気を失わせるのに充分な威力だった。いつもの私なら避けられるのだろうけど、それすらもできないとは……
薄れゆく意識の中で思う。
本当はお嬢様がこの雨の中を来れるはずが無い事だってわかっている。霊夢の言う事は正しい。でも……それでも……
私は……
5
パチパチと薪のはぜる音が聞こえる。
見上げれば木の梁が巡らされた、純和風の造りは先ほどの灰色の空とはまた違う。
「目が覚めた?」
傍らから声が聞こえる。
徐々に意識が覚醒していく。
「そうか……無理矢理つれて来られて……」
草原で霊夢の符を受けて倒れたんだっけ……
そのままゆっくりと上半身を起こし、ん~っと伸びをする。
「あぁ、服ならもう乾いてるわよ」
霊夢が壁を指差すと、そこには着慣れたいつものエプロンドレス――メイド服と言った方が早いか――と私の下着が掛けられていた。
「あぁ、ありがと」
んん? という事は今の私は何を着ているのかしら……?
視線を下ろすと、そこには霊夢がいつも寝る時に来ている白の襦袢の合わせ目と、そこからはみ出そうな私の……
「うわきゃあ!」
驚きと悲鳴の混じった間抜けな声を上げて慌てて襦袢の襟元をかき合わせる。
じょ、冗談じゃない! 誰がお嬢様以外に肌を許すものですか!
「何を今さら驚いてるのよ」
今さら? 既に事後? 既成事実なの!?
「霊夢……もしや貴女……!」
もしそうだったとしたらもうお嬢様に顔向けできないわ……それにしても恐れるべきは霊夢ね。何ならいっそ今ここで――
「あのね、何を勘違いして百面相みたいな事してるのか分からないけど、濡れた服のままじゃ風邪ひくし。着せたまま布団に寝かせるわけにもいかないでしょう? 着替えさせただけよ」
「……ほんとに?」
「ほんとに」
確認するように目を覗き込む。霊夢はまったくいつも通りの、のんびりとした目でこちらを見つめてくる。
しばらく視線を交わした後、まぁ霊夢だし、という事で納得しておく事にした。
「まぁいいわ……乾いてるなら、着替えるから服を取って頂戴」
「その前に」
そう言って私の前にお膳が差し出される。
そこには白いご飯に漬物、味噌汁と焼いた魚が乗せられていた。
「まぁあんたの所は洋食だろうけど、家は和食だからね。こんなもんしかないけど、お腹減ってるでしょ?」
そう言ってふわりと微笑む霊夢。その笑顔は屈託無く、あどけない子どものようだけど、同時に何もかもを包み込んでくれる優しい母親のような顔だった。
「……ありがと」
なんだか馬鹿馬鹿しい話をしたせいか、すっかり毒気を抜かれてしまった。
素直に好意を受け取る程度には調子が戻ったって事かしら?
箸に手を伸ばし、食事を始める。
質素だけれども、だからこそ暖かみのある味に頬が綻んでしまう。
「霊夢は?」
「さっき食べた所よ」
どうやら随分と眠っていたらしい。気がつけばあれだけ不調だった身体も空腹を訴えるぐらいで、あの割れるような頭痛もどこかに行ってしまっていた。
「調子はどう? 一応あんたの体調を回復させるための結界を張っておいたわよ」
見れば私の寝ていた布団の四方になにやら小難しい字らしき紋様の書かれた符が置いてある。
「お手数おかけしますわ」
「それはどうも」
でも書いてある字が健康増進だったりする辺り、効果が疑わしいのだけど、今の私の状態を考えるとどうやら効き目は本物のようね。
「ん、やっといつも通りになったわね」
霊夢が優しく笑う。
やっと気がついた。魔理沙も美鈴も優しくしてくれたのに、肝心の私があの態度じゃねぇ。
これでは完全で瀟洒な従者の名折れだ。この汚名は必ず返上してあげるわ。
「霊夢……その、ごめんなさい」
私にしては随分としおらしい声で霊夢に謝る。
でも、霊夢がいなかったら私は今ごろあの草原で馬鹿な事をしでかしたに違いない。
銀のナイフ。
冷たい雨と冷たい光と冷たい想い。
首筋に感じた寒気と、ある種の歓喜。
それらは現状を認めず、逃げ出そうとした私の弱い心の表れなのかもしれない。
「何を言ってるの。困ってる時はお互い様よ」
「それでも、ね」
よっぽど余裕が無かったんだろう。本当に感謝してる、とは口に出さなくても伝わったみたいだ。
「後で魔理沙と美鈴にもきちんと謝っておかなくちゃね」
「そうね」
「その前に……ひとつやらなきゃいけない事を思い出したわ」
私は最後に残った焼き魚の欠片を口に放り込むと、言った。
「どんな事かしら?」
霊夢の意地の悪い笑顔を見るに既に察しているのだろう。
「もちろん……あの閻魔に一言お礼を言いに行くのよ」
「あら、一言で済むのかしら?」
「さぁ? ナイフなら一本では済まないと思うけどね?」
私も霊夢と同じ意地の悪い笑顔をしてるのだろう。
「私も説教喰らったのよねぇ……本来ならご一緒したいぐらいですわ」
澄ました顔で霊夢が言った。
「それならまとめてアイツに返しておくわ、ナイフ二本と健康増進の符でいいかしら?」
「ぷっ」
「ふふ」
お互いの顔を見て、やる事は一つだと理解した瞬間に噴きだしてしまう。
「「あはははははははははは!」」
その後、私たちはしばらく大きな声で涙を流しながら笑い転げた。
なんだか久しぶりに心の底から笑い転げたような気がする。
そして、笑いながら思う。
今という時間はもしかしたらとても大切なんだろう、と。
ひとしきり笑った後、私は自分の服へ着替え、出かける準備をする。
あちこちが破けていた服は、霊夢が修繕してくれたらしい。
こんな所まで世話をかけてしまった礼も、いずれ改めてしないとね。
「それじゃ、ご馳走様でした」
「御粗末様でした。お礼の件、よろしくね」
「かしこまりましたわ」
スカートの端を軽く抓み、右足を少しだけ下げて、会釈する。
霊夢は笑顔でヒラヒラと手を振りながら見送ってくれた。
その姿に私は心の中でだけありがとうと言って空へと飛び立つ。
雨はすっかり止み、所々に雲は残っているがおおむね晴れていると言ってもいいぐらいだ。
月はおりしも満月を往き過ぎている。
十六夜の下に完全で瀟洒な従者、十六夜咲夜という私が夜を飛んだ。
6
夜を飛び、空を抜けて彼岸の地へと辿り着く。
彼岸の花は紅く咲き誇っているものの、時たま見られる緑色はその花が落ちた証拠だろう。
あの死神もたまには真面目に仕事をしたという事だろうか。
だが、罪の数だけ咲き誇るという紫の桜は未だに満開だった。
その圧倒的な光景はやはり見るたびに息を呑む。
外の世界でどれだけの罪が行われ、どれだけの人間が死んだのかなんて私にはどうでもいい。
私は私の世界が欲しいだけで、それ以外には大した興味がないから。
そんな、紫の桜のふもとに彼女は居た。
何事かを悲しむような顔で花を見上げるその姿は罪を裁く閻魔の顔ではなく、一人の女性の憂いを帯びていた。
「お久しぶりですわ」
その傍に降り立ちながら声をかける。
「こんばんは。そんなに時間が経ったとは思えませんが、こんな所に何か用事でもあったのですか?」
振り向いた顔はあどけなさが残るものの、その威厳に満ちた様はまさに断罪者。
四季映姫・ヤマザナドゥ。
「昼間のお礼を申し上げに参りましたわ」
スカートをつまみ、霊夢にした時と同じように会釈をする。
「ふむ。己が身を悔い改め、懺悔する事はとても正しい。よろしい、訊きましょう」
手にした笏をこちらに向けて、閻魔は大仰に頷いて見せる。
「もっとも、お話はこちらですわ」
目の前で右手を振る。それだけで手品のように現れる銀のナイフ。
しゃらりと鳴るそれを見た閻魔――映姫の目が険しくなる。
「意趣返し、お礼参り、汚名返上……何をどう言い繕った所で復讐です。復讐とは何も生み出しません」
「私の気が晴れますわ」
しれっと言い返してやる。
「それは重畳。『気を晴らす』のは生きる上で大切な事。鬱屈した思考では何も生み出せない。ですが……晴らせますか?」
映姫の口元が弧を描き、その笑みはとても深く、濃い――
「それはもう、今宵の十六夜月のように晴れ晴れといたしますわ」
最上級のもてなしを、極上の微笑みを。
「貴女は少し目先の事に気を取られ過ぎる」
「今という時間を生きている証拠ですわ」
「今を大切にするのは良い事です。ですが、今だけを大切にするのは愚かな事です。それでは過去から何も学ばず、明日を見据える事も無い」
「ご高説いたみ入りますわ。ですが少し勘違いをなさっています」
「勘違いですか」
「今は言葉よりも確かな物がございますわ」
「なるほど」
「ええ」
「ならば……」
「ですので」
「弾幕を以って貴女に教えることにしましょう! 過ぎし日の罪人!」
「弾幕を以って貴女に返礼とさせて頂きますわ! 罪人裁きの罪人!」
先に動き出したのは私。
挨拶代わりに扇状にナイフを投げつつ、後を追うようにダッシュで間合いを詰める。
「ふっ!」
手にした笏を横薙ぎに振るう映姫。
放射状に放たれた幾多の笏は、私のナイフを打ち落とす為だろうか。
「甘いわね」
呟き、世界を止める。
モノクロームと成り果てた世界の中で、投げたナイフを全て回収し、笏を抜けたところで再び投げなおす。
彼女からすれば、自分の弾幕をすり抜けたように見えるだろう。
「ふむ……」
私のナイフを打ち落とす予定だった笏は外れ、ナイフだけが映姫に迫っていく。
それを見た彼女は垂直に飛び上がる事で回避。
「踊りなさい?」
私の声に導かれるようにナイフはその軌道を曲げ、目標へと追いすがる。
「なるほど。昼間よりも速度、密度、そしてその意気、完全に上回っていますね。しかしながら、まだまだ稚拙の域を出ません」
言葉と共に映姫の背中から左右に三本ずつ、計六本の閃光が噴き出す。
身体の向きを変えて、六本のレーザーを巧みに操って私のナイフを打ち払う。
間合いを詰める事が出来なかった私もまた飛び上がり、直線軌道のナイフを五本投げつける。
「断罪の剣です」
大きく振りかぶる映姫。その手に握られた笏はまばゆい光を発して天へと伸びる。
「甘んじて受けなさい」
罪を滅する光が空気を両断しながら迫る。
この時を待っていた。彼女には昼間、同じ手法でやられているのだから、今度こそそれを乗り越えてみせようじゃないか。
ギリギリまで引き付け、時間を停止させる。前髪が光に触れるか触れないかという所で何とか世界は私の手中に納まった。
映姫を包み込むようにナイフを配置していく。時間の止まった世界でも彼女は冷厳さを漂わせた無表情が印象的だった。
「同じ轍を踏むほど私は安い女じゃなくてよ?」
ナイフの設置が終わった段階で彼女の首筋にピタリとナイフを押し付け、時間停止を解除。
映姫は一瞬にしてナイフに取り囲まれ、正面から首筋に刃先を押し付けられていた。
無機質な瞳がこちらに向けられる。その右手の笏はいまだ振り下ろされたままで止まり、地上を貫いている。
「弾幕を以って、とは言いましたが」
つぷり、と刃が柔らかな肉に食い込む感触。紅い液体が溢れ出し、白い喉を染めていく。
「私は……弾幕『ごっこ』をするとは言っていません」
首にナイフを食い込ませながら、それでも彼女は右手の笏を振り上げた。
「なっ!」
白光が弾かれたように跳ね上がる。
あまりにも無謀、自らの命を顧みる事の無いその行動。そしてそこに込められた、冷徹とした断罪の意思。
裁判長とはこうも無慈悲にならなければならないのか。
逆袈裟に払われる白い剣は私の身体を斜めに蹂躙し、服を切り裂き、赤い血をその軌跡から迸らせる。
どくん、と心臓が大きく鼓動し、余計に血を噴き出させながら私の命と意識を刈り取っていく。
「仮面の下に隠した物を晒しなさい。偽りの笑みで隠せるほど、貴女の罪は軽くはありません」
閻魔の声が遠く聞こえる。
すべては紅い世界の向こうのような気がして。
頭の片隅だったはずの、紅い意識が全てを乗っ取ろうとがむしゃらに喚きたてる。
切れ。突け。斬れ。裂け。刺せ。
全てを紅い血で染め上げろ。
目の前の少女に紅い華を咲かせ、芸術的に犯し抜き、その臓物を綺麗に並べて、心の蔵を抉り出し、喉から空気の漏れ出すあの笛のような綺麗な呼吸音を響かせながら――
殺せ。
紅い闇が囁き、叫ぶ。
コロセ。
理性が狂気へと堕落して、狂気という理性が支配する。
ころせ。
かくして世界は血で紅く染まり、すべての正常は狂気へと飲み込まれて行く。罪の桜の下に罪を犯し続ける殺人人形が――
魔理沙の不敵な笑顔が私を見ている。
美鈴が申し訳無さそうにワタシを見ている。
霊夢が母のような暖かい目でわたしを見ている。
ついぞ、訪れる事の無かったお嬢様があの時の顔であの時と同じように手を差し伸べている。
殺せ。
それはいい事なの?
コロセ。
それは誰の言葉なの?
ころせ。
私として……十六夜咲夜として、それはいいのかしら?
殺せ。
コロセ。
ころせ。
私の中で二つの声がせめぎ合う。
霞む意識、落下する体、全てが遠くに感じられ――私は紅に飲み込まれていった。
「過ぎたる満月、十六夜。聞いて呆れますね。満ち足りる事もなく欠けているだけの貴女が……」
決して折れず、曲がらず、鋼すら含んだ映姫の声も紅く沈んでいった。
* * *
紅い闇の世界で二人の私が囁く。
紅い私が殺せと喚き、怒鳴り、青い私は疑問を投げかける。
どちらも主張しか繰り返さず、平行線に繰り返される殺意と疑問。
それを傍観する私。
解かっている。
私を含めた私達は常に喚いてきた。
お嬢様に拾われてから、私達は上手く折り合いを付けてきた。
昔よりも随分小さくなった声たちが、今になって一斉に噴出したようなものだ。
「不毛ね、私は」
傍観している私がポツリと呟く。
「不毛だから殺すのよ」
「不毛だから何もしないのよ」
紅い私と青い私が答える。
それぞれが好き勝手に喚くのを見ているのはまるで他人が自分の気持ちを代弁しているかのような違和感。
それは紅い私も、青い私も同じ気持ちだった。
「もうみんな殺して私が私になるわ」
「もうみんな居なくなってしまえばいいのよ、私だけの世界を作り出せばいいじゃない」
「待ちなさい。そんな事したところで、その後はどうする気なのよ」
好き勝手に喚く私達に私は疑問を投げかける。
「もちろん、殺すわ。殺せばずっと一緒だもの。お嬢様も、美鈴も、霊夢も、魔理沙も、みんな殺してしまえば」
「もちろん、世界を全て否定してしまえばそんな事は瑣末だわ」
紅い私は完全な殺戮を人形のように。
青い私は完全な孤独を人形のように。
私と同じ顔で、同じ声で、まったくの矛盾を囁きかける。その言葉を否定する事はできない。彼女たちとて、私の大事な一部だから。
なら私は?
私は……なんだ?
私は、私は、私はワタシはわたしは……。
紅い意識に白い光が差し込む。
「迷っているようですね。それはそうでしょう。何故なら貴方は……自分を持っていない。自分を知らない。自分を見ていない」
折れず、曲がらず、固い声が囁く。
「貴女が自分だと思いこんでいるものは、ただの理想。そうありたいと願う綺麗なカタチでしかない。そんなものは――幻想です」
その声は白い光の中から聞こえてくるにも関わらず、どうしようもない黒さを含んでいた。
「十六夜咲夜――その名は貴方に重過ぎる。そのままでは……潰れてしまいますよ?」
矛盾を内包した声はあくまでも優しく、厳しい。
だからこそ、今の私に必要なんじゃないのだろうか。
じゃあ私は? 私の名前は?
「だから貴方の本質は『 』なのですよ」
失われた名前。それを聞いた私達の、私の世界はいともあっさり、音も無く――
崩壊した。
* * *
暗く。冥く。どこまでも落ちていく。
深遠に、地獄に、天国に、全てに、虚無に、事象の地平線の向こう側に。
落ちてゆく私達は全てを手放して、何もかもを失う。
私という存在に最後に残ったのは、一つの声。
「さくや……うん、そうね。十六夜咲夜なんてどうかしら」
その声は私を形作るモノ。永遠に幼い紅い月。
記憶の遥か向こうにして、今も色褪せない「私が私になったとき」の声。
そうだ、私は十六夜咲夜だ。殺人人形も、操り人形も確かに私だけれども、今の、そしてこれからの私は、未来永劫に十六夜咲夜なの。
この名の下に、完全で瀟洒な従者でなければならない。
だから私は語りかける。私たちに。
「見なさい、貴方達の周りを」
気がつけば、私達の周囲には幾重にも張り巡らされた、紅い、糸。
それはとても長く、遠い所まで伸びている。
糸の先、そこには小さくて、力をこめればすぐに折れてしまいそうな小さな手。
「そうね」
「そうだったわね」
納得した二人に確認するように呟く。
「そう。私たちは守らなくてはならない」
「そう。私たちはあの手を取り、決して離してはならない」
「そう。私たちは行かねばならない。何処までも、あの手を因果の地平、その果てまで辿り着いても握り締めなければならない」
二人が答え、私が続く。
孤独に震える魂を守るのは私しかいないのだ。
五百年の孤独に耐え、汚泥の匂いのする路地裏から連れ出してくれたあの手を守って、これから先、全ての因果から外される孤独から彼女を守り、彼女の全てにならなくてはならない。
だって――
「「「私は十六夜咲夜ですもの」」」
三人の声は一つの、私の答えを導き出した。
紅い糸が私を包み込み、全ての私達を、意識が、銀色に――
わたしは、ワタシは、私は――!
* * *
「私はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
その叫びで私は私を取り戻す。
身体を丸めて回転させ、足から着地する。
地面を抉り、膝から崩れそうになるが、それでも私は倒れない。
いや、倒れられない。
唇を強く噛み締め、痛みで飛びそうな意識を無理矢理繋ぎとめる。
服は斜めに裂け、その機能を完全に失っているが、それを気にする程じゃない。
服の下、これでも白い方だと自慢の肌は鋭い白光により身体を斜めに蹂躙され、紅い血をボタボタと垂れ流す。
それでも、ここで倒れたら意味がない。
魔理沙のお節介が。
美鈴の気遣いが。
霊夢の優しさが。
お嬢様だけではない。私はたくさんの友人に支えられている。
だから――
「だから! ここで! アンタに……勝つ!」
強く噛み締めた過ぎたために破けた唇から血を吐くように私は自らを叱咤する。
瞳を煌々と紅く滾らせ、気合で持ち直す。
「あくまでも受け入れないつもりですか? その目は貴女自身でもあるのですよ」
冬の湖のような瞳で映姫が見据えてくる。
「残念ね……どこまで往っても私は私。十六夜咲夜なのよ!」
言葉と共に大きく地面を踏みしめ、ありったけのナイフを投げつける。
「その結果が今の貴女の状態ではないですか。この状況を覆す術など無いでしょう」
地に立つ私を見下ろし、冷静に笏を横に振るう映姫。投げつけたナイフの倍を越える笏の弾幕がナイフを打ち落としていく。
その隙に映姫の後ろに移動し、ナイフを振りかぶる。
「いい加減そのお喋りにも飽きたわ。貴女は傍観者でしかない。他人が私の事をどう言った所で私は私。変わる事は無いわ」
驚異的な反射速度で振り返った映姫に受け止められる。硬い金属に斬りつけたような手応えの向こう、彼女の無表情は揺らがない。
「貴女の目……紅と青が交互に瞬いています。それが貴女の答えという事でよろしいか」
笏を振り払い、押し返されるが、ナイフを投げつけながら時間停止で背後に移動。
挟み撃ちの状態で襲い掛かる。
「その答えは」
映姫は大きく両手を広げ、半回転。左手に生み出した弾で直進するナイフを打ち落とし、斬撃はまたしても笏に阻まれる。
「はい、そしていいえ――ですわ。紅と青だけでは足りませんの」
執拗なまでの近距離の攻防は銀の雨で映姫を包み込む。
しかし、多少服を掠める事はあっても映姫自身には届かない。
「完全には瀟洒な銀が必要ですわ」
何度目かの攻防の末、至近距離でにらみ合いながら私は答えてやる。
「よろしい、そこまで言うのならばこの状況を覆して見せなさい!」
映姫が一際大きく叫び、笏を払うと同時に弾幕を展開する。
近距離のままでは避けることすら出来ないので、後退を余儀なくされる。
「これを以って審判とします。ギルティ・オワ・ノットギルティ!」
天高く伸びる白光。逃げ道は映姫から放たれた弾幕でふさがれた。そして裁きの光を振り下ろす映姫はまさに裁判長の顔つき。
これぞまさに審判で裁判。判決にして断罪。
――だが、この近距離から遠距離に変わる瞬間を私は待っていたとしたら?
両手のナイフを交差させ、白光を受け止める。
重苦しい衝撃が腕を走り抜けるのを半ば無視しながら、私は世界という時計の針を打ち付ける。
「なっ……」
驚愕に飲まれた表情のまま凍りついた映姫。
驚異的な反射能力も、抜群の判断能力すらも凍りついた瞬間を、確かに私は縫い止めた。
至近距離まで再び接近し、右足を軽く下げ、スカートの端を小さく摘み、軽く会釈をしながら世界は時を紡ぎだす。
そして。
「銀符」
闇夜に、
「パーフェクトメイド」
銀の華が咲いた――
お互い、服どころか身体もボロボロだった。
映姫がそうであるかは解らないが、私は体力を使い果たし、立っているのも億劫だ。
「なるほど、狂気を乗り越えてなお正常である。貴女の真髄、見させて頂きました。満月とは狂気を表します。それを乗り越えたからこその十六夜という名なのでしょう。あなたの主人も中々良い名付け方をする」
「私のお嬢様ですもの、当然ですわ」
「今回は私の負けです。貴女は昼間の時より遥かに良い目をしている。今後も善行に励むと良いでしょう」
そう言って彼女はふわりと浮かび上がり、彼岸の向こう側へと帰っていく。
「そうそう、桜の木の反対側に居る方、あとは任せましたよ。それでは」
何事か分からない事を言って映姫は去っていった。
緊張が解けたのだろうか、ニ、三歩程後ろへとフラつくと桜の木にもたれ掛かる。
「少し……疲れたわね……」
そのままズルズルと腰をおろす。見上げれば満開の桜が視界に入って来た。
「綺麗……」
自然と口をついて言葉が漏れる。
「そう、罪の桜は綺麗よ。甘くて苦い禁断の蜜の味だから」
じゃり、と足音が背後から聞こえ、姿を現したのは――
「お嬢様……」
永遠に幼い紅い月が目の前にいた。
「よく頑張ったわね、咲夜。帰りましょうか」
お嬢様が手を差し出す。初めて出会ったのあの時のように。
「はい」
今度こそ、素直に私は手を差し出した。
7
優しい歌声が聞こえる。
とても聞きなれた、少女らしく澄んだ、しかしとても威厳のある、冷たくて、優しい声。
歌声に誘われるように、私の瞼がゆっくりと開かれる。
目の前には薄いピンクの帽子と、色素の薄い空色の髪の毛。
横にはピンと張られ、空を切り裂くように伸ばされた黒い蝙蝠の翼。
優しい歌声は前から聞こえて来た。
そっか、動けないから背負ってもらって空を飛んでいるんだっけ……。
そして背負って貰っているうちにウトウトとして――歌が止んだ。
「起きたの?」
歌と同じ優しい声がそうたずねる。
「うっかり寝てしまいました」
風にそよぐ髪の毛が少しくすぐったい。
「そう」
「ええ」
私としては寝たことで体力は回復している。今なら空を飛んで帰ることぐらい何でもない、けれど……
「私にとって、お嬢様の背中は世界で一番安心できる場所ですから……」
だから、もう少しだけ、こうしていたい。
後の言葉は口にせずともお嬢様には伝わるのだろうか。
「そう。なら、家に着くまでそこにいるといい」
いつもより少しだけぶっきらぼうな口調は照れているのだろうか。
それがなんとなく可笑しくてくすくすと忍び笑いをしてしまう。
見上げれば大きな大きな月。
満月を少し過ぎた、真円ではない、完全ではない満月。
雲は無く、晴れわたった夜空と申し訳程度に輝く星々。
「いい月夜ですね」
「まるで貴女のようにね」
「褒めても何も出ませんよ?」
くすくす、と笑い声が漏れてくる。
「もう少し寝てなさい。まだ家に着くまで時間はあるわ」
お嬢様が背中の子どもに語りかけるように優しい声音でうながす。
「お言葉に甘えさせてもらいますね」
お嬢様の背に身体を預け目を閉じる。
すぐに眠気は訪れ、私は冷たいはずの背中に確かな温もりを感じながら眠りに落ちていく。
そんな安心できる暗闇の向こうから、お嬢様の声が聞こえて来る。
「咲き誇りなさい。私の愛しい愛しい永遠の花」
その声は、例えようも無いほど優しくて。
だからこそ答えを返してはいけないように思えたので、おとなしく眠りの海へ沈んでいく。
ゆっくりと――
ふかく――
やすらかに―――
やさしいうたを ききながら――
「………………ん」
ぽつり、と頬に何かの当たる感触。
うっすらと瞼を開くと、一面は灰色の空。
視界に白い線が走ると、冷たい感触。
雨だ。
私はこんな所で何をしてるんだろう……。
あぁ思い出した。
花が異常に咲いた春も終わりを告げようとしている今、現世であの閻魔に会うとは思ってもいなかった。
それだけならまだしも、まさか『真面目に善行を積んでいますか』と聞いてくるとは。
当然紅魔館の主、レミリア・スカーレットお嬢様の完全で瀟洒な従者な私としてはこう答えるしかあるまい。
『悪魔の従者に何を言ってるんですか?』
我ながら良くできた答えだと思う。なのにあの閻魔ときたら、いきなり笏を投げつけて来るんですもの。何がいけなかったのかしら。
そこからはどうしたんだっけ? と思い出そうとした瞬間に記憶がフラッシュバックを起こす。
数多のナイフ、数多の笏、弾幕ごっこの一部始終が次々と蘇る。
時間を止めて避けたその先に白い光――
そこから先の記憶が無い。
灰色の空はゆっくりと雲が流れるだけで、それ以上は何も思い出せない。
「……っ! つつ……」
こうしていても仕方ないので体を起こそうとしてみたが、全身に痛みが走るのであえなく徒労となってしまった。おそらくあの光をまともに浴びたのだろう。そしてそのまま――
あぁ、負けたのか私。
いつ以来だろう、負けたのは。少なくとも記憶にあるのはあの紅霧の時が最後だ。
私も鈍ったのかしらね……。
右手を突き出し、空へと掲げてみる。しかしそこにはいつもの見慣れた私の手があるだけだった。
「…………ふぅ」
体に上手く力が入らない。やっぱり負けたのかと実感しなおすけれど、なんだか酷く気分が重たい。もちろん体も重いのだけど、そんなのはこのままじっとしていれば治るだろう。
はぁ、と溜息を吐く。なんだかさっきから溜息ばかりだ。
小雨が身体を濡らしていくのが少し心地良い。弾幕ごっこで火照った身体には少し休息が必要だろう。
曇天の空へと突き上げていた右腕を額に押しつけ、そのまま再度溜息を吐く。あの紅白の巫女と白黒魔法使いならまだしも、たかが閻魔程度に負けるなんて完全で瀟洒な従者としては充分に名折れだろう。
勝ち目が無かったわけじゃない。むしろ勝とうと思えば勝てたはずだ。
相手を……殺す気だったなら。
時間を止めて、相手の首を落とす。ただそれだけの事で私は充分勝てたはずだ。
もっとも、あの閻魔が首を落とされたぐらいで死ぬかどうか怪しいが、少なくとも勝ちは拾えただろう。
何故そうしなかったのか?
弾幕ごっこという遊びだったから?
かつては夜霧の幻影殺人鬼と呼ばれた私、十六夜咲夜ともあろう者がそんなごっこ程度の遊びに付き合うのだろうか?
もう思い出すのが億劫な程の遠い過去の私なら、問答無用で殺しにかかっていたはずだ。
丸くなったのだろうか、私は。
――いや、狗に成り下がったのか。
鎖につながれた狗……ね。なんとも今の私にお似合いじゃないかと思う。
そのまま首を横に傾ける。
どこまでも続くかのような草原には一面に花が咲き乱れている。まさしく幻のような草原が、今は雨に煙っていた。
目の前の白い小さな花が雨に打たれ、首を傾げながら揺れている。
その首振りと、こっちを向いた白い花弁が「どうしたの?」とでも言いたげで。
正直、疎ましい。
何が疎ましく感じるのか私にも解らないが、とりあえず溜息を吐く。
花は依然と咲き誇っていて、草原はまるで幻のよう。
夢のような花畑で倒れている私はまるでうち捨てられた人形みたい。もう踊れない人形は捨てられるのが運命なのだから。
私の思考が鬱へと向かっている事は解っている。でもなんだかそれを止める気にもならないのは何故だろう。
はぁ、と溜息。
凄く疲れた。このまま眠ってしまいたい。
雨、と言っても小雨と呼んでいい程度だが、それでも草原にとっての恵みは優しく降り続ける。
2
はぁ。
また溜息。
どうでもいいけど、このまま雨足が強まったら風邪をひいてしまうかもしれないわね。
そしたらそれは私をこんな所に放置してくれたあの閻魔の罪になるのかしら……本当にどうでもいいけど。
雲は低く、早く流れている。このままならばこれ以上雨は強くならないだろう。身体も疲れているし少し眠りたいわね。
今の私ではどうも内向的で自虐的な思考しか出来ないのは解かった。少し眠れば気も晴れてくれると思う。
そうして目を閉じようとした時だった、視界の端、空の片隅に黒い人影が映ったのは。
人影は曇天の中でも一際黒く、まるで絵本に出てくる魔女みたい。
そうこうしている内に人影はどんどん近づいて来て、その姿をはっきりと映し出す。
そしてその魔女は私のすぐそばまで降りて来て、開口一番にこう言った。
「なんだ咲夜じゃないか。こんな所で昼寝か?」
そういえば今の天気はまさに彼女の名の通りの霧雨。ここで出会ったのは必然だろうか。
「サボタージュとはメイド長も偉いもんだな」
不敵な笑いからは皮肉めいた言葉が次々と零れ出る。
いつもならば「あの閻魔に負けたらから動けないのよ」とでも言うのだけれど、それを言うのも何となく嫌だ。
「………別にどうと言う事は無いですわ」
私は上半身を起こしながら、ぶっきらぼうに言い捨てる事しかできなかった。
「あー? 機嫌悪いな……何かあったのか?」
さっきから続く魔理沙の軽口が非常に腹立たしくて仕方ない。
「うるさいわね、少し黙りなさい」
刺々しい言葉とともに右手で軽く振るう。瞬時に私の手からは銀の光が飛び出した。
「おっと」
しかし魔理沙は僅かに首を傾げるだけで私の投げたナイフを避けてみせる。
「なんだなんだ、随分荒っぽいじゃないか。しかもその恰好……誰かとやりあったのか?」
確かに今の私の服はあちこちが裂けている。
とてもじゃないが綺麗な恰好ですとはいえないだろう。
どうしてこういう時に限ってこいつは察しがいいのか。まぁ、だからこその世話好きなんだろうけどね。
「…………」
魔理沙の問いかけに私は沈黙で応じた。
「それで? もしかして負けたから拗ねちまってこんなところでオネンネか?」
三本に増えたナイフで返事を返してやる。
しかしそれでも魔理沙は一歩分の距離を移動するだけで避けてみせた。
「当たりなさいよ」
「今のお前じゃ百年経っても私に当てる事はできないぜ」
魔理沙がいつものようにニヤリと不敵な笑みを返してくる。
「うるさいわね! いいから消えなさいっ!」
私の激昂にも魔理沙は退かない。
「ふーむ、当たりのようだな。とりあえずここに居ると風邪をひいちまう。私の家で風呂でも入っていくといいぜ」
微かに、それでいて見るものを安心させるような笑みを浮かべながら、魔理沙が私に手を差し出してくれる。
「あ…………」
違う――
その姿を見て私は、違うと感じてしまった。
「なんだ、ほら、行くぞ」
私はどうしてもその手を取る事ができなかった。
一度感じた違和感はすぐに私の中で膨れ上がり、目の前の少女ではとてもじゃないがその手を握る事なんてできそうも無い。
「魔理沙……ごめんなさい」
「なんだ、どうした?」
不思議そうにこちらを見てくる顔が、どうにも眩しくて、それでもその手は私の取るべき手ではなかった。
「行けないわ」
「何でだよ、このまま風邪でもひきたいのか?」
「ごめんなさい」
「…………」
力なくうなだれる私に魔理沙は腕を組んで溜息で返事をする。
「らしくないな」
ポツリと言った。
「何があったかは聞かないでおく。だがとりあえずここじゃダメだ。お前が風邪を引いたら元も子もないからな。帰るか私の家に来るかしないと」
「今は、何もしたくないわ」
駄目だ。魔理沙の手は取れないし、まだ館に帰る気もしない。
「そうは言ってもな、このまま置いて帰るわけにもいかないんだ。帰りたくないなら引きずってでも家へ連れて行くぜ」
そう言った魔理沙の声はとても低くて、否が応でも連れて行くという意思が込められていた。
私の手を取ろうと魔理沙が近づいてくる。
駄目、今魔理沙の手を取ったら……! 私は、私は……!
――気がついた瞬間に身体は動いていた。
銀光が目の前を一薙ぎするのを私はまるで他人事のように見ていた。
「えっ……?」
「っと!」
呆とした私の声と、慌ててたたらを踏む魔理沙の声が聞こえる。
今、私は何をした?
違和感を感じて、右手へと視線を転じる。
そこには確かにナイフを握り締めた私の右手があった。
「おい、咲夜……今のは冗談か? それとも本気なのか?」
魔理沙の声はさっきよりもさらに低くて、冷たい。おそらく本気なのだろう。まるで私の内心を見透かすかのようにこちらを睨みつけてくる。
「え、あ……」
私は慌てて魔理沙から隠すように右手を背中へと回す。
「咲夜、どっちだ?」
まるで断罪者の如く私を見つめる魔理沙。
「ごめんなさい……」
私の口からはそれ以上の言葉が上る事は無い。
それこそ否定の言葉も、肯定の言葉も。
「そうじゃないだろう? 返事はどうなんだ、事と次第によっては私はお前を張り倒してでも担いで帰るぜ」
魔理沙はずるい。こちらの逃げ場を塞ぐような言い回しをしてくる。
「ごめん……それでも魔理沙の手は取れないわ」
私は慎重に言葉を選んで言った。
「ふう、やれやれ……あのお嬢様も咲夜ベッタリだと思ってたが、まさかお前までお嬢様ベッタリだとはな。まぁ私じゃお前の手は取れない。そういう事か」
溜息を吐いて空を見上げる魔理沙。空は変わらずに彼女の名前のとおりの霧雨を零している。
「それなら私の出る幕じゃなさそうだな」
それだけ言って魔理沙は私に背中を向ける。
「来るといいな」
向日葵のような笑顔を残して魔理沙は箒に乗り込んだ。
「……ごめん」
あぁ、パチュリー様や妹様は魔理沙のこんな笑顔に心を奪われたのか。今ならその気持ちが少し解かるような気がする。見ているこっちの心に入り込んで、いつまでも色褪せないような笑顔。この人なら、魔理沙ならきっと解ってくれると思わせる、全てを話したくなるような暖かい笑みだった。
でも、それでも今私が一番見たい笑顔じゃないのよ、魔理沙。
私が一番見たいのは……。
「なぁにアイツの事だ、後でしたり顔で来るに決まってる。それじゃあな」
そう言って魔理沙は飛んで行ってしまった。
魔理沙の背中を見つめる。何故あの時にナイフを振るってしまったのだろう。普通に断ればいいのに。むしろ引きずられてでも魔理沙の家に行った方が良かったのは解っている。それでも、魔理沙の手は取れなかった。
違う、とそう思ってしまった。
思ってしまったら最後、全身で拒否してしまった。その事は多分間違いじゃない、はず。
何が正しくて何が間違っているのだろう? こんな事を思い悩むのは自分でもナンセンスだと思うけど、考えてしまった物は仕方ない。
「…………はぁ」
溜息は小雨とともに地に落ち、私の気分と同じ部分へと落着する。
やはり少し眠ろう。風邪をひいたらそれでいいわよ、もう。
目を閉じれば幻想的な花畑は消え、曇り空も消える。身体にあたる雫が心地良くて、私は深く深く自分に埋没していった。
遠い昔、私の手を取ってくれたあの少女。見た目は私と同じぐらいだったのに、今では随分と私のほうが大きくなってしまった。それでもあの頃と変わらずに私を見ていてくれる。ならば今は?
来てくれる。きっとあの時のように。
3
「さ……や……っ! さく……! さくや……!」
わたしをよぶこえがきこえる。
「おきて……!」
わたしはくらくてふかいところにひとりでいた。
わたしをそのくらやみからすくってくれたのは……ダレ?
「起きてください咲夜さん!」
目の前に広がる紅い色。それは懐かしくて暖かくて、私の待ち望んだとても親しい紅い君。
ではなかった。
「良かった……起きたんですね……」
目の前に広がる紅い髪。
「美鈴……雨は?」
私を上から見つめる彼女――紅美鈴――はその名前通りに紅い髪を垂らしながら覗き込んでいた。
「いつの間にか上がってますね。それより、みんな心配して探しに出てますよ? 帰りましょう」
言うが早いか私の手を取り、立ち上がろうとする美鈴。
でも――
「あれ、どうしたんですか? 行きましょう?」
引かれたその腕に抵抗するように私は立ち上がらない。
どうにもならない違和感。
自覚してしまったのなら、そうするしかないでしょう?
「え?」
再び閃く銀の光。さっきと違ったのは私が自分の意志でもって振るった事。
すんでのところで手を引いた美鈴は信じられないような顔でこちらを見ている。私はさも当然とした顔を作ってみせる。
「咲夜さん? どういう……こと、ですか?」
いまだ呆然とした表情の美鈴に私はそっと優しく語りかける。
「ごめんなさいね? でも……残念だけど貴女でもないのよ」
優しく語りかけながら、私の中は激しい嚇怒に襲われていた。なまじ紅いだけに余計に勘に障る。私の知る紅い世界と、彼女の紅い髪では次元が違うのだ。
「それに……今は一人にしておいて欲しいのよ。解かったらとっとと消えて頂戴」
あくまでも表面は静かに、だけど確かな怒気を乗せた私の言葉が美鈴に突き刺さる。
「咲夜さん……その目は……」
何とかよろめかずに立ち上がった私の視界は一面の紅。
世界は曇天も草原も紅く染まり、私の頭が目の前の不届き者を殺せと喚きたてる。その声を無理矢理押し殺して囁きかける。
「それとも何? 今ここで私に殺されたいのかしら? それならそれで良いわよ。優しく丁寧に貴女を奪ってあげるわ」
この言葉がブラフ、つまりハッタリである事は自分でも解かっている。今の体調では絶対に美鈴に勝てないだろう。それでも、今の私は彼女を許せそうに無い。ぼろぼろに負けて館に連れ帰られても文句は言えないだろうし、その方が話が早い。
半ば諦めの境地でありながらも、ここで「はいそうですね」と答えられる程私も大人しくはない。
「ここで私が無理にでも連れ帰る、と言ってもですか?」
美鈴の腰が静かに落とされる。それは彼女が戦闘の姿勢に入ったことを示す。
「あら、大人しく捕まる気はないわよ?」
暗くなってきた空と、濡れた草原で私たちは向かい合う。私の手にはナイフが既に握られている。
果たして今の体調でどれだけ美鈴と勝負できるのか。現に今の私はまだ立つ事が精一杯で、時間を止められたとしても大した事はできないだろう。それでも、今はやるしかない。
ぽつ、ぽつ、と再び空から雫が零れてくる。
無言の時間がどれくらい経っただろう。
時間の消耗はこちらに不利と判断する。ならば勝負は一回きり。
――時間よ、止まれ――
全ての色を失い、モノクロームと化した世界が広がっていく。それと同時に頭が割れそうな痛みを訴えてくるが今は無視をする。
鼓動と熱を吐息にのせて吐き出し、それでもナイフを投げる。私の糸に操られたナイフは美鈴を取り囲み――
ばちん!
先に頭がやられた。
神経が残らず焼き切れるような痛みが私に襲い掛かり、同時に世界が色を取り戻す。
「ぐっあっ!」
私の意思とは無関係に口から痛みが吐き出されて、苦鳴となる。
慌てて美鈴へと視線を走らせると、すでに動き出していたナイフは美鈴に向かって吸い込まれるように収束して……
「破っ!」
気合一閃。美鈴の裂帛の気合が空気を震わせ、全てのナイフを落とした。
頭の中では割れ鐘のような大音量が痛覚を刺激して、あまりの痛みに私は思わず膝を地に付けてしまう。
「咲夜さん!」
私は美鈴がそばまで駆け寄ってくるのをまるで他人事のように見ていた。
「咲夜さん……血が……」
そこまで言って美鈴はハンカチを取り出し、私の鼻に押し当てる。
どうやら力の使いすぎに耐え切れず、鼻の毛細血管が破けたらしい。
「ごめんね……美鈴」
力なく答える私に美鈴は頭を横に振った。
「咲夜さん……もう帰りましょう」
その言葉に今度は私が頭を横に振る番だった。
「ごめん……」
「咲夜さんがそう言うのであれば……」
それでも……再び雨の振り出した今でも、ここに留まってみたかった。
私の想いを知ってか知らずか、美鈴は消え入りそうな声でそう答えた。そうだ、いつもこの娘はこういう反応をする。今の私が勝てないと知って、それでも私を、周囲を気遣って自分が一歩退いてしまう。
「それで? 今の館は誰が守ってるのかしら?」
「あっ!」
「良い度胸ね……やっぱりここで殺されたいのかしら」
私の静かな恫喝と見え透いたブラフを受け、美鈴はじり、と一歩だけ下がる。
「あはは……それじゃ私、『先に』戻りますね」
『先に』という言葉をわざと強調して美鈴がふわりと浮かび上がる。
そこでやっと気がついた。なんて私は馬鹿なんだろう、お嬢様を守るべき相手に対して本気で殺気を向けるなどと……。
「待ってますから……ね」
ポツリと言葉を残して美鈴が空へと消えていく。
その申し訳無さそうな顔は捨てられた子犬のようで私の良心が痛む。
「…………私は…………」
そこから先の言葉は私の口から滑る事無く、聞く者のいない呟きは、まるでそれがスイッチになったかのように強くなりだした雨とともに消えていった。
雨は先ほどの小雨のように私を優しく包むのではなく、今の私の気持ちを表すかのように激しく降り注いでいた。
激しい雨の中で私は独り濡れながら思う。
私は何をやってるんだろう……?
4
ざぁざぁと銀の雨が降りしきる。
まるで激しい自己嫌悪の中に居る私の心をそのまま表すかのように。友にナイフを突きつけた私を切り刻むように雨は私に叩き付けられる。
雨は容赦なく降り注ぎ、私の体温を奪っていく。
立ち尽くした私は動く気力も無くその場に座り込む。
いっそこのまま雨の中に消えてしまいたい。私の手はごく自然にナイフを持っていた。
この雨ではお嬢様だって来れまい。
銀のナイフを掲げ、首に押し付ける。
「ホントにまだ居るのね」
唐突にその言葉は掛けられた。
反射的にナイフを突きつけた先、ついさっきまでは気配もしなかったというのにそこには赤い番傘をさし、紅白の巫女装束に身を固めた博麗神社の巫女、博麗霊夢が居た。
「霊夢……」
私の声は虚ろに漏れ出し、霊夢本人に届いたかどうかも疑わしい。
「ん、魔理沙に言われて様子を見に来たんだけど。お邪魔だったかしら?」
霊夢がまるで散歩がてらに会ったような声をかけてくる。
「…………」
自分が今何をしようとしたのか、霊夢が声をかけねばきっと私は……
「まぁ目は覚めたみたいだけど? それで貴女はこれからどうする気なのかしら?」
霊夢は相も変わらずに声をかけてくる。その問に対する答えを今の私は持ち合わせていない。
「なんだったら家に来なさい。この雨じゃレミリアは来れないわ」
「だけど……それでも今はお嬢様を待ってみたいのよ」
「無駄ね」
私の言葉を霊夢はピシャリと否定した。
「普通に考えなさい。この雨の中で出かける吸血鬼がいるわけないでしょ。それにアンタをこのままにしておくわけにもいかないわ」
そのままずかずかと歩いてきて私の目の前に指を突きつける。ざぁざぁという雨音と、番傘をばちばちと叩く二つの雨音が混ざり合って、とてもうるさい。
それに、流れ水が吸血鬼の弱点の一つだなんて言われなくても分かる事だ。だって私は吸血鬼に仕える従者なのだから。
「いいわね、文句なら後から聞くから黙ってついて来なさい」
そう言ってくるりと背を向ける霊夢。私の足はそれでも動き出さなかった。
「どうせあの閻魔にでも負けた挙句に説教でも喰らったのでしょ? あんなのの言う事なんていちいち聞いてたらこっちの身が参っちゃうわ――何してるの、とっと来なさい」
「どうしてその事を……?」
「その後になるのかしら。神社に来たのよ、あいつ。特に貴女の事は言ってなかったけどね、後は私の勘よ。もっともその様子じゃ、また当たりみたいだけど」
そう言って霊夢は肩をすくめて見せる。
「でも……私は……お嬢様を待ちたいのよ」
口に出してみてはっきり解かった。私はお嬢様を待っている。あの時のように、私を拾ってくれる。今はそう思いたかった。
「だから言ったでしょう、それは無理よ」
霊夢にしては珍しく強い口調だった。その言葉で頭に血が上るのを自覚したが、それよりも早く私の口は言葉を発していた。
「貴女に何が解かるって言うのよ」
再び霊夢がこちらに向かって歩いてきた。
「少なくとも、この雨の中で動ける吸血鬼は居ない。それぐらいは私に分かるし、あんたの方がそれは良く分かってるでしょう?」
「それでもお嬢様なら来てくれるわ」
「あんたはあのお嬢様をこの雨の中に放り込みたいの?」
「そうじゃないでしょう!」
自然と語気が鋭くなっていく。頭に上った血は降りる事を知らず、さらなる灼熱を伴う。
「私はお嬢様を待ちたいのよ!」
「それだったら、なおさらこの雨の中では無理だって言ってるのよ」
「霊夢に何がわかるって言うのよ!!」
私の怒鳴り声は雨の音にも負けずに霊夢に突き刺さった……はずだった。
「私にはあんた達の気持ちなんて解かるわけがないわよ」
私の怒声を、そよぐ風と同じように受け流す霊夢。ますます気に入らない。
「それにねぇ……さっきから聞いてればお嬢様お嬢様って、あんたはアイツが居ないと何にも出来ないのか」
霊夢の言葉は雨よりも冷たい氷を含んでいた。
だけど私はそれに気が付けない。いや、気がついてなお無視をしたのだろう。認めてしまえば、この巫女の凪のような空気に飲み込まれてしまうような気がしたから。
「そうよ! 私はお嬢様の為の十六夜咲夜なんだから!」
「うるさい馬鹿」
私の声が響いた瞬間に霊夢は私の腹部に符を押し付ける。
そこから迸った霊力は私の気を失わせるのに充分な威力だった。いつもの私なら避けられるのだろうけど、それすらもできないとは……
薄れゆく意識の中で思う。
本当はお嬢様がこの雨の中を来れるはずが無い事だってわかっている。霊夢の言う事は正しい。でも……それでも……
私は……
5
パチパチと薪のはぜる音が聞こえる。
見上げれば木の梁が巡らされた、純和風の造りは先ほどの灰色の空とはまた違う。
「目が覚めた?」
傍らから声が聞こえる。
徐々に意識が覚醒していく。
「そうか……無理矢理つれて来られて……」
草原で霊夢の符を受けて倒れたんだっけ……
そのままゆっくりと上半身を起こし、ん~っと伸びをする。
「あぁ、服ならもう乾いてるわよ」
霊夢が壁を指差すと、そこには着慣れたいつものエプロンドレス――メイド服と言った方が早いか――と私の下着が掛けられていた。
「あぁ、ありがと」
んん? という事は今の私は何を着ているのかしら……?
視線を下ろすと、そこには霊夢がいつも寝る時に来ている白の襦袢の合わせ目と、そこからはみ出そうな私の……
「うわきゃあ!」
驚きと悲鳴の混じった間抜けな声を上げて慌てて襦袢の襟元をかき合わせる。
じょ、冗談じゃない! 誰がお嬢様以外に肌を許すものですか!
「何を今さら驚いてるのよ」
今さら? 既に事後? 既成事実なの!?
「霊夢……もしや貴女……!」
もしそうだったとしたらもうお嬢様に顔向けできないわ……それにしても恐れるべきは霊夢ね。何ならいっそ今ここで――
「あのね、何を勘違いして百面相みたいな事してるのか分からないけど、濡れた服のままじゃ風邪ひくし。着せたまま布団に寝かせるわけにもいかないでしょう? 着替えさせただけよ」
「……ほんとに?」
「ほんとに」
確認するように目を覗き込む。霊夢はまったくいつも通りの、のんびりとした目でこちらを見つめてくる。
しばらく視線を交わした後、まぁ霊夢だし、という事で納得しておく事にした。
「まぁいいわ……乾いてるなら、着替えるから服を取って頂戴」
「その前に」
そう言って私の前にお膳が差し出される。
そこには白いご飯に漬物、味噌汁と焼いた魚が乗せられていた。
「まぁあんたの所は洋食だろうけど、家は和食だからね。こんなもんしかないけど、お腹減ってるでしょ?」
そう言ってふわりと微笑む霊夢。その笑顔は屈託無く、あどけない子どものようだけど、同時に何もかもを包み込んでくれる優しい母親のような顔だった。
「……ありがと」
なんだか馬鹿馬鹿しい話をしたせいか、すっかり毒気を抜かれてしまった。
素直に好意を受け取る程度には調子が戻ったって事かしら?
箸に手を伸ばし、食事を始める。
質素だけれども、だからこそ暖かみのある味に頬が綻んでしまう。
「霊夢は?」
「さっき食べた所よ」
どうやら随分と眠っていたらしい。気がつけばあれだけ不調だった身体も空腹を訴えるぐらいで、あの割れるような頭痛もどこかに行ってしまっていた。
「調子はどう? 一応あんたの体調を回復させるための結界を張っておいたわよ」
見れば私の寝ていた布団の四方になにやら小難しい字らしき紋様の書かれた符が置いてある。
「お手数おかけしますわ」
「それはどうも」
でも書いてある字が健康増進だったりする辺り、効果が疑わしいのだけど、今の私の状態を考えるとどうやら効き目は本物のようね。
「ん、やっといつも通りになったわね」
霊夢が優しく笑う。
やっと気がついた。魔理沙も美鈴も優しくしてくれたのに、肝心の私があの態度じゃねぇ。
これでは完全で瀟洒な従者の名折れだ。この汚名は必ず返上してあげるわ。
「霊夢……その、ごめんなさい」
私にしては随分としおらしい声で霊夢に謝る。
でも、霊夢がいなかったら私は今ごろあの草原で馬鹿な事をしでかしたに違いない。
銀のナイフ。
冷たい雨と冷たい光と冷たい想い。
首筋に感じた寒気と、ある種の歓喜。
それらは現状を認めず、逃げ出そうとした私の弱い心の表れなのかもしれない。
「何を言ってるの。困ってる時はお互い様よ」
「それでも、ね」
よっぽど余裕が無かったんだろう。本当に感謝してる、とは口に出さなくても伝わったみたいだ。
「後で魔理沙と美鈴にもきちんと謝っておかなくちゃね」
「そうね」
「その前に……ひとつやらなきゃいけない事を思い出したわ」
私は最後に残った焼き魚の欠片を口に放り込むと、言った。
「どんな事かしら?」
霊夢の意地の悪い笑顔を見るに既に察しているのだろう。
「もちろん……あの閻魔に一言お礼を言いに行くのよ」
「あら、一言で済むのかしら?」
「さぁ? ナイフなら一本では済まないと思うけどね?」
私も霊夢と同じ意地の悪い笑顔をしてるのだろう。
「私も説教喰らったのよねぇ……本来ならご一緒したいぐらいですわ」
澄ました顔で霊夢が言った。
「それならまとめてアイツに返しておくわ、ナイフ二本と健康増進の符でいいかしら?」
「ぷっ」
「ふふ」
お互いの顔を見て、やる事は一つだと理解した瞬間に噴きだしてしまう。
「「あはははははははははは!」」
その後、私たちはしばらく大きな声で涙を流しながら笑い転げた。
なんだか久しぶりに心の底から笑い転げたような気がする。
そして、笑いながら思う。
今という時間はもしかしたらとても大切なんだろう、と。
ひとしきり笑った後、私は自分の服へ着替え、出かける準備をする。
あちこちが破けていた服は、霊夢が修繕してくれたらしい。
こんな所まで世話をかけてしまった礼も、いずれ改めてしないとね。
「それじゃ、ご馳走様でした」
「御粗末様でした。お礼の件、よろしくね」
「かしこまりましたわ」
スカートの端を軽く抓み、右足を少しだけ下げて、会釈する。
霊夢は笑顔でヒラヒラと手を振りながら見送ってくれた。
その姿に私は心の中でだけありがとうと言って空へと飛び立つ。
雨はすっかり止み、所々に雲は残っているがおおむね晴れていると言ってもいいぐらいだ。
月はおりしも満月を往き過ぎている。
十六夜の下に完全で瀟洒な従者、十六夜咲夜という私が夜を飛んだ。
6
夜を飛び、空を抜けて彼岸の地へと辿り着く。
彼岸の花は紅く咲き誇っているものの、時たま見られる緑色はその花が落ちた証拠だろう。
あの死神もたまには真面目に仕事をしたという事だろうか。
だが、罪の数だけ咲き誇るという紫の桜は未だに満開だった。
その圧倒的な光景はやはり見るたびに息を呑む。
外の世界でどれだけの罪が行われ、どれだけの人間が死んだのかなんて私にはどうでもいい。
私は私の世界が欲しいだけで、それ以外には大した興味がないから。
そんな、紫の桜のふもとに彼女は居た。
何事かを悲しむような顔で花を見上げるその姿は罪を裁く閻魔の顔ではなく、一人の女性の憂いを帯びていた。
「お久しぶりですわ」
その傍に降り立ちながら声をかける。
「こんばんは。そんなに時間が経ったとは思えませんが、こんな所に何か用事でもあったのですか?」
振り向いた顔はあどけなさが残るものの、その威厳に満ちた様はまさに断罪者。
四季映姫・ヤマザナドゥ。
「昼間のお礼を申し上げに参りましたわ」
スカートをつまみ、霊夢にした時と同じように会釈をする。
「ふむ。己が身を悔い改め、懺悔する事はとても正しい。よろしい、訊きましょう」
手にした笏をこちらに向けて、閻魔は大仰に頷いて見せる。
「もっとも、お話はこちらですわ」
目の前で右手を振る。それだけで手品のように現れる銀のナイフ。
しゃらりと鳴るそれを見た閻魔――映姫の目が険しくなる。
「意趣返し、お礼参り、汚名返上……何をどう言い繕った所で復讐です。復讐とは何も生み出しません」
「私の気が晴れますわ」
しれっと言い返してやる。
「それは重畳。『気を晴らす』のは生きる上で大切な事。鬱屈した思考では何も生み出せない。ですが……晴らせますか?」
映姫の口元が弧を描き、その笑みはとても深く、濃い――
「それはもう、今宵の十六夜月のように晴れ晴れといたしますわ」
最上級のもてなしを、極上の微笑みを。
「貴女は少し目先の事に気を取られ過ぎる」
「今という時間を生きている証拠ですわ」
「今を大切にするのは良い事です。ですが、今だけを大切にするのは愚かな事です。それでは過去から何も学ばず、明日を見据える事も無い」
「ご高説いたみ入りますわ。ですが少し勘違いをなさっています」
「勘違いですか」
「今は言葉よりも確かな物がございますわ」
「なるほど」
「ええ」
「ならば……」
「ですので」
「弾幕を以って貴女に教えることにしましょう! 過ぎし日の罪人!」
「弾幕を以って貴女に返礼とさせて頂きますわ! 罪人裁きの罪人!」
先に動き出したのは私。
挨拶代わりに扇状にナイフを投げつつ、後を追うようにダッシュで間合いを詰める。
「ふっ!」
手にした笏を横薙ぎに振るう映姫。
放射状に放たれた幾多の笏は、私のナイフを打ち落とす為だろうか。
「甘いわね」
呟き、世界を止める。
モノクロームと成り果てた世界の中で、投げたナイフを全て回収し、笏を抜けたところで再び投げなおす。
彼女からすれば、自分の弾幕をすり抜けたように見えるだろう。
「ふむ……」
私のナイフを打ち落とす予定だった笏は外れ、ナイフだけが映姫に迫っていく。
それを見た彼女は垂直に飛び上がる事で回避。
「踊りなさい?」
私の声に導かれるようにナイフはその軌道を曲げ、目標へと追いすがる。
「なるほど。昼間よりも速度、密度、そしてその意気、完全に上回っていますね。しかしながら、まだまだ稚拙の域を出ません」
言葉と共に映姫の背中から左右に三本ずつ、計六本の閃光が噴き出す。
身体の向きを変えて、六本のレーザーを巧みに操って私のナイフを打ち払う。
間合いを詰める事が出来なかった私もまた飛び上がり、直線軌道のナイフを五本投げつける。
「断罪の剣です」
大きく振りかぶる映姫。その手に握られた笏はまばゆい光を発して天へと伸びる。
「甘んじて受けなさい」
罪を滅する光が空気を両断しながら迫る。
この時を待っていた。彼女には昼間、同じ手法でやられているのだから、今度こそそれを乗り越えてみせようじゃないか。
ギリギリまで引き付け、時間を停止させる。前髪が光に触れるか触れないかという所で何とか世界は私の手中に納まった。
映姫を包み込むようにナイフを配置していく。時間の止まった世界でも彼女は冷厳さを漂わせた無表情が印象的だった。
「同じ轍を踏むほど私は安い女じゃなくてよ?」
ナイフの設置が終わった段階で彼女の首筋にピタリとナイフを押し付け、時間停止を解除。
映姫は一瞬にしてナイフに取り囲まれ、正面から首筋に刃先を押し付けられていた。
無機質な瞳がこちらに向けられる。その右手の笏はいまだ振り下ろされたままで止まり、地上を貫いている。
「弾幕を以って、とは言いましたが」
つぷり、と刃が柔らかな肉に食い込む感触。紅い液体が溢れ出し、白い喉を染めていく。
「私は……弾幕『ごっこ』をするとは言っていません」
首にナイフを食い込ませながら、それでも彼女は右手の笏を振り上げた。
「なっ!」
白光が弾かれたように跳ね上がる。
あまりにも無謀、自らの命を顧みる事の無いその行動。そしてそこに込められた、冷徹とした断罪の意思。
裁判長とはこうも無慈悲にならなければならないのか。
逆袈裟に払われる白い剣は私の身体を斜めに蹂躙し、服を切り裂き、赤い血をその軌跡から迸らせる。
どくん、と心臓が大きく鼓動し、余計に血を噴き出させながら私の命と意識を刈り取っていく。
「仮面の下に隠した物を晒しなさい。偽りの笑みで隠せるほど、貴女の罪は軽くはありません」
閻魔の声が遠く聞こえる。
すべては紅い世界の向こうのような気がして。
頭の片隅だったはずの、紅い意識が全てを乗っ取ろうとがむしゃらに喚きたてる。
切れ。突け。斬れ。裂け。刺せ。
全てを紅い血で染め上げろ。
目の前の少女に紅い華を咲かせ、芸術的に犯し抜き、その臓物を綺麗に並べて、心の蔵を抉り出し、喉から空気の漏れ出すあの笛のような綺麗な呼吸音を響かせながら――
殺せ。
紅い闇が囁き、叫ぶ。
コロセ。
理性が狂気へと堕落して、狂気という理性が支配する。
ころせ。
かくして世界は血で紅く染まり、すべての正常は狂気へと飲み込まれて行く。罪の桜の下に罪を犯し続ける殺人人形が――
魔理沙の不敵な笑顔が私を見ている。
美鈴が申し訳無さそうにワタシを見ている。
霊夢が母のような暖かい目でわたしを見ている。
ついぞ、訪れる事の無かったお嬢様があの時の顔であの時と同じように手を差し伸べている。
殺せ。
それはいい事なの?
コロセ。
それは誰の言葉なの?
ころせ。
私として……十六夜咲夜として、それはいいのかしら?
殺せ。
コロセ。
ころせ。
私の中で二つの声がせめぎ合う。
霞む意識、落下する体、全てが遠くに感じられ――私は紅に飲み込まれていった。
「過ぎたる満月、十六夜。聞いて呆れますね。満ち足りる事もなく欠けているだけの貴女が……」
決して折れず、曲がらず、鋼すら含んだ映姫の声も紅く沈んでいった。
* * *
紅い闇の世界で二人の私が囁く。
紅い私が殺せと喚き、怒鳴り、青い私は疑問を投げかける。
どちらも主張しか繰り返さず、平行線に繰り返される殺意と疑問。
それを傍観する私。
解かっている。
私を含めた私達は常に喚いてきた。
お嬢様に拾われてから、私達は上手く折り合いを付けてきた。
昔よりも随分小さくなった声たちが、今になって一斉に噴出したようなものだ。
「不毛ね、私は」
傍観している私がポツリと呟く。
「不毛だから殺すのよ」
「不毛だから何もしないのよ」
紅い私と青い私が答える。
それぞれが好き勝手に喚くのを見ているのはまるで他人が自分の気持ちを代弁しているかのような違和感。
それは紅い私も、青い私も同じ気持ちだった。
「もうみんな殺して私が私になるわ」
「もうみんな居なくなってしまえばいいのよ、私だけの世界を作り出せばいいじゃない」
「待ちなさい。そんな事したところで、その後はどうする気なのよ」
好き勝手に喚く私達に私は疑問を投げかける。
「もちろん、殺すわ。殺せばずっと一緒だもの。お嬢様も、美鈴も、霊夢も、魔理沙も、みんな殺してしまえば」
「もちろん、世界を全て否定してしまえばそんな事は瑣末だわ」
紅い私は完全な殺戮を人形のように。
青い私は完全な孤独を人形のように。
私と同じ顔で、同じ声で、まったくの矛盾を囁きかける。その言葉を否定する事はできない。彼女たちとて、私の大事な一部だから。
なら私は?
私は……なんだ?
私は、私は、私はワタシはわたしは……。
紅い意識に白い光が差し込む。
「迷っているようですね。それはそうでしょう。何故なら貴方は……自分を持っていない。自分を知らない。自分を見ていない」
折れず、曲がらず、固い声が囁く。
「貴女が自分だと思いこんでいるものは、ただの理想。そうありたいと願う綺麗なカタチでしかない。そんなものは――幻想です」
その声は白い光の中から聞こえてくるにも関わらず、どうしようもない黒さを含んでいた。
「十六夜咲夜――その名は貴方に重過ぎる。そのままでは……潰れてしまいますよ?」
矛盾を内包した声はあくまでも優しく、厳しい。
だからこそ、今の私に必要なんじゃないのだろうか。
じゃあ私は? 私の名前は?
「だから貴方の本質は『 』なのですよ」
失われた名前。それを聞いた私達の、私の世界はいともあっさり、音も無く――
崩壊した。
* * *
暗く。冥く。どこまでも落ちていく。
深遠に、地獄に、天国に、全てに、虚無に、事象の地平線の向こう側に。
落ちてゆく私達は全てを手放して、何もかもを失う。
私という存在に最後に残ったのは、一つの声。
「さくや……うん、そうね。十六夜咲夜なんてどうかしら」
その声は私を形作るモノ。永遠に幼い紅い月。
記憶の遥か向こうにして、今も色褪せない「私が私になったとき」の声。
そうだ、私は十六夜咲夜だ。殺人人形も、操り人形も確かに私だけれども、今の、そしてこれからの私は、未来永劫に十六夜咲夜なの。
この名の下に、完全で瀟洒な従者でなければならない。
だから私は語りかける。私たちに。
「見なさい、貴方達の周りを」
気がつけば、私達の周囲には幾重にも張り巡らされた、紅い、糸。
それはとても長く、遠い所まで伸びている。
糸の先、そこには小さくて、力をこめればすぐに折れてしまいそうな小さな手。
「そうね」
「そうだったわね」
納得した二人に確認するように呟く。
「そう。私たちは守らなくてはならない」
「そう。私たちはあの手を取り、決して離してはならない」
「そう。私たちは行かねばならない。何処までも、あの手を因果の地平、その果てまで辿り着いても握り締めなければならない」
二人が答え、私が続く。
孤独に震える魂を守るのは私しかいないのだ。
五百年の孤独に耐え、汚泥の匂いのする路地裏から連れ出してくれたあの手を守って、これから先、全ての因果から外される孤独から彼女を守り、彼女の全てにならなくてはならない。
だって――
「「「私は十六夜咲夜ですもの」」」
三人の声は一つの、私の答えを導き出した。
紅い糸が私を包み込み、全ての私達を、意識が、銀色に――
わたしは、ワタシは、私は――!
* * *
「私はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
その叫びで私は私を取り戻す。
身体を丸めて回転させ、足から着地する。
地面を抉り、膝から崩れそうになるが、それでも私は倒れない。
いや、倒れられない。
唇を強く噛み締め、痛みで飛びそうな意識を無理矢理繋ぎとめる。
服は斜めに裂け、その機能を完全に失っているが、それを気にする程じゃない。
服の下、これでも白い方だと自慢の肌は鋭い白光により身体を斜めに蹂躙され、紅い血をボタボタと垂れ流す。
それでも、ここで倒れたら意味がない。
魔理沙のお節介が。
美鈴の気遣いが。
霊夢の優しさが。
お嬢様だけではない。私はたくさんの友人に支えられている。
だから――
「だから! ここで! アンタに……勝つ!」
強く噛み締めた過ぎたために破けた唇から血を吐くように私は自らを叱咤する。
瞳を煌々と紅く滾らせ、気合で持ち直す。
「あくまでも受け入れないつもりですか? その目は貴女自身でもあるのですよ」
冬の湖のような瞳で映姫が見据えてくる。
「残念ね……どこまで往っても私は私。十六夜咲夜なのよ!」
言葉と共に大きく地面を踏みしめ、ありったけのナイフを投げつける。
「その結果が今の貴女の状態ではないですか。この状況を覆す術など無いでしょう」
地に立つ私を見下ろし、冷静に笏を横に振るう映姫。投げつけたナイフの倍を越える笏の弾幕がナイフを打ち落としていく。
その隙に映姫の後ろに移動し、ナイフを振りかぶる。
「いい加減そのお喋りにも飽きたわ。貴女は傍観者でしかない。他人が私の事をどう言った所で私は私。変わる事は無いわ」
驚異的な反射速度で振り返った映姫に受け止められる。硬い金属に斬りつけたような手応えの向こう、彼女の無表情は揺らがない。
「貴女の目……紅と青が交互に瞬いています。それが貴女の答えという事でよろしいか」
笏を振り払い、押し返されるが、ナイフを投げつけながら時間停止で背後に移動。
挟み撃ちの状態で襲い掛かる。
「その答えは」
映姫は大きく両手を広げ、半回転。左手に生み出した弾で直進するナイフを打ち落とし、斬撃はまたしても笏に阻まれる。
「はい、そしていいえ――ですわ。紅と青だけでは足りませんの」
執拗なまでの近距離の攻防は銀の雨で映姫を包み込む。
しかし、多少服を掠める事はあっても映姫自身には届かない。
「完全には瀟洒な銀が必要ですわ」
何度目かの攻防の末、至近距離でにらみ合いながら私は答えてやる。
「よろしい、そこまで言うのならばこの状況を覆して見せなさい!」
映姫が一際大きく叫び、笏を払うと同時に弾幕を展開する。
近距離のままでは避けることすら出来ないので、後退を余儀なくされる。
「これを以って審判とします。ギルティ・オワ・ノットギルティ!」
天高く伸びる白光。逃げ道は映姫から放たれた弾幕でふさがれた。そして裁きの光を振り下ろす映姫はまさに裁判長の顔つき。
これぞまさに審判で裁判。判決にして断罪。
――だが、この近距離から遠距離に変わる瞬間を私は待っていたとしたら?
両手のナイフを交差させ、白光を受け止める。
重苦しい衝撃が腕を走り抜けるのを半ば無視しながら、私は世界という時計の針を打ち付ける。
「なっ……」
驚愕に飲まれた表情のまま凍りついた映姫。
驚異的な反射能力も、抜群の判断能力すらも凍りついた瞬間を、確かに私は縫い止めた。
至近距離まで再び接近し、右足を軽く下げ、スカートの端を小さく摘み、軽く会釈をしながら世界は時を紡ぎだす。
そして。
「銀符」
闇夜に、
「パーフェクトメイド」
銀の華が咲いた――
お互い、服どころか身体もボロボロだった。
映姫がそうであるかは解らないが、私は体力を使い果たし、立っているのも億劫だ。
「なるほど、狂気を乗り越えてなお正常である。貴女の真髄、見させて頂きました。満月とは狂気を表します。それを乗り越えたからこその十六夜という名なのでしょう。あなたの主人も中々良い名付け方をする」
「私のお嬢様ですもの、当然ですわ」
「今回は私の負けです。貴女は昼間の時より遥かに良い目をしている。今後も善行に励むと良いでしょう」
そう言って彼女はふわりと浮かび上がり、彼岸の向こう側へと帰っていく。
「そうそう、桜の木の反対側に居る方、あとは任せましたよ。それでは」
何事か分からない事を言って映姫は去っていった。
緊張が解けたのだろうか、ニ、三歩程後ろへとフラつくと桜の木にもたれ掛かる。
「少し……疲れたわね……」
そのままズルズルと腰をおろす。見上げれば満開の桜が視界に入って来た。
「綺麗……」
自然と口をついて言葉が漏れる。
「そう、罪の桜は綺麗よ。甘くて苦い禁断の蜜の味だから」
じゃり、と足音が背後から聞こえ、姿を現したのは――
「お嬢様……」
永遠に幼い紅い月が目の前にいた。
「よく頑張ったわね、咲夜。帰りましょうか」
お嬢様が手を差し出す。初めて出会ったのあの時のように。
「はい」
今度こそ、素直に私は手を差し出した。
7
優しい歌声が聞こえる。
とても聞きなれた、少女らしく澄んだ、しかしとても威厳のある、冷たくて、優しい声。
歌声に誘われるように、私の瞼がゆっくりと開かれる。
目の前には薄いピンクの帽子と、色素の薄い空色の髪の毛。
横にはピンと張られ、空を切り裂くように伸ばされた黒い蝙蝠の翼。
優しい歌声は前から聞こえて来た。
そっか、動けないから背負ってもらって空を飛んでいるんだっけ……。
そして背負って貰っているうちにウトウトとして――歌が止んだ。
「起きたの?」
歌と同じ優しい声がそうたずねる。
「うっかり寝てしまいました」
風にそよぐ髪の毛が少しくすぐったい。
「そう」
「ええ」
私としては寝たことで体力は回復している。今なら空を飛んで帰ることぐらい何でもない、けれど……
「私にとって、お嬢様の背中は世界で一番安心できる場所ですから……」
だから、もう少しだけ、こうしていたい。
後の言葉は口にせずともお嬢様には伝わるのだろうか。
「そう。なら、家に着くまでそこにいるといい」
いつもより少しだけぶっきらぼうな口調は照れているのだろうか。
それがなんとなく可笑しくてくすくすと忍び笑いをしてしまう。
見上げれば大きな大きな月。
満月を少し過ぎた、真円ではない、完全ではない満月。
雲は無く、晴れわたった夜空と申し訳程度に輝く星々。
「いい月夜ですね」
「まるで貴女のようにね」
「褒めても何も出ませんよ?」
くすくす、と笑い声が漏れてくる。
「もう少し寝てなさい。まだ家に着くまで時間はあるわ」
お嬢様が背中の子どもに語りかけるように優しい声音でうながす。
「お言葉に甘えさせてもらいますね」
お嬢様の背に身体を預け目を閉じる。
すぐに眠気は訪れ、私は冷たいはずの背中に確かな温もりを感じながら眠りに落ちていく。
そんな安心できる暗闇の向こうから、お嬢様の声が聞こえて来る。
「咲き誇りなさい。私の愛しい愛しい永遠の花」
その声は、例えようも無いほど優しくて。
だからこそ答えを返してはいけないように思えたので、おとなしく眠りの海へ沈んでいく。
ゆっくりと――
ふかく――
やすらかに―――
やさしいうたを ききながら――