穂積名堂 Web Novel -既刊公開用-

甘雨

2012/08/21 01:38:27
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甘雨

Hodumi
 やんわりと流れる時間。
 それはとても楽しくもあり、とても真剣でもある時間。
 ゆっくりと一歩を行けばくたびれた床材が軋み、すぅと呼吸をすれば意識せずとも長き時間を経た臭いが鼻をつく。
 店そのものの雰囲気全て、漂う空気すら古めかしく感じてしまうここは、香霖堂。
 その店内にて、上白沢 慧音の視線は目的の品を求めて揺れ、彼女の手は目的の品を手に取ろうと進んでいた。

 その品とは紅花であったり、鬱金であったり、茜や藍であったり……

 目前に広がる縦横に長い商品棚の中、品目別に紙や布の袋で分別されたそれらを、彼女は無造作にひょいひょいと取っては、逆の手に持つ籠に収めていく。
 今慧音が手に取っている品は全て染料になるし、また別の使い道もある。が、彼女が取っている分は全て染料として利用されるだろう。
 何せ現在里々の方で染料が不足気味になってきている上、品不足に目をつけた商業組合が染料を買い占めた上で、値上げを宣言しているのだ。
 供給と消費の関係上、組合が値を吊り上げなくとも手に入れる為に余計な金銭を積み、時には危険を冒す者も出るので、買占め等々については特に改善せよとも言えない。ただ、一部の貧しい里に染料が行き渡らなくなっているのが問題なのだ。
 これから寒くなる一方であるからには、必然的に暇の時間が多くなる。だからその時間を使い、複数の里が合同で執り行なう迎春の祭りで披露する晴れ着を作るのが一般的だ。
 けれど染料が無ければ、年に一度の大祭で惨めな思いをするだろう。
 さすがに顰蹙を買うまではないだろうが、他の里の者等が存分に彩り鮮やかな晴れ着を纏っているのに自分は地味とあっては、女子供に限らず男でも心中察するに余りある。
「―――む」
 染料の受け皿となっていた籠が一杯になったので、慧音は香霖堂店主、森近 霖之助の元へ持って行く事にした。
「店主」
「はいはい」
「先ず、これだけ頼む」
 言いながら勘定台の上にどんと籠を置くと、霖之助は懐から算盤を抜きつつやや呆れた息を吐く。
「先ず、という事はまだ更に買うのでしょう」
「うん」
「……いっそ染料だけ買い占めると仰ってくれた方が早いような?」
 霖之助の言葉にも一理ある。慧音は里の者の為に更に買うつもりであり、確かにその方が早いかも分からない。
 が。
「しかしたまの買い物、選ぶ楽しさ手に取る楽しさを味わいたい」
 素直に慧音が言うと、霖之助は静かに笑みを浮かべた。
「そういう事なら、存分に」
 これに慧音は微笑ながら頷き返し、新たな籠を手に再び棚へと戻る。
 そうして、品々の値段に応じ霖之助が算盤を弾く音を聞きながら、慧音は再び目的の品に手を伸ばしていく。
 金銭的上限はあるし全く好きなようにともいかないが、思い切りの良い買い物をするというのは良いものだ。
 彼女の予算は、貧しい里の者達が迎春の祭りの為に貯め込んでいたもので、組合の値段設定ではどうにも賄えない為に『何か方策はないだろうか』と泣く泣く頼ってきたものである。
 これを受け、慧音が考えたのは香霖堂を覗いて見ようという事だ。
 香霖堂はどの里からも遠く、しかも近くに魔境である魔法の森があるという立地条件の為に、普通の人間は滅多に立ち寄らない。どころか存在すら知らない者の方が多いだろう。
 けれども店主の人間関係故か、はたまた人ならざる客の要望あってのものか、古道具屋の割に取り扱う品の幅が広い。
 だからこその穴場であり、価格も組合に左右されない良心さである。ただ霖之助の場合、組合など知った事ではないだろうが。

 先の染料達に加え、慧音は紫根や弁柄といった品を次々と手に取っていく……

 ともあれ、折り良く雑貨の中に染料があったのは僥倖だろう。それも多数多種類に渡って。
「……ぬ」
 ふと、今まで目的の物と目に留まればすぐに伸びていた慧音の手が止まった。しかし、視線はそれを見たまま動かない。いや、動かせない。まさに釘付けだ。
 彼女の視線を一身に受ける品。
『紫貝』と素朴に記され、その棚の中に慎ましく鎮座する、他と比べて明らかに小さな袋。
 思わず手が伸びそうになり、いかん、落ち着け、と慧音は手を止める。
 ……そうだ。ここで紫貝を買う必要など無い。紫色が欲しいのであれば紫根があるじゃないか。うん。だから、一分につきその十倍の一匁の金を必要とするような超高級品、あぁいやしかし古代紫の色合いは中々――うわぁ落ち着け私。贅沢は敵、欲しがりません富めるまで。
 数瞬の葛藤。
 予算の不備という現実。
 ……しかし自腹を掻っ切れば或いは。
 だがそれは紫貝に一括してしまって良いものでは決してない。
 なので、慧音は見なかった事にしようとした。
 ……だからちらちらと振り返るんじゃない私。後ろ髪も引かれてなんかいない。ああいない。
 されど身体は正直者。
 ……ああもう、視界に入れるなったら私ー。
 慧音の懊悩は続くのであった。
「……なにやら悩んでいたようですが?」
 勘定台に置かれた籠の中身を取り出しつつ、霖之助が言う。
 あの後慧音は何度か棚と勘定台を往復し、その都度紫貝に焦がれていたのだから一言あって当然である。
「なんでもない」
 慧音は精一杯事も無げに言うと、霖之助は顔を上げた。
「本当に?」
 全てを見透かしてしまっているかのような、眼鏡の奥の双眸。
「本当だとも」
 慧音はこの遅滞のない返事を、淀みも揺らぎも無く言い切るのに常ならぬ精神力を要した。
 これに、そうですか、と応え籠の中身にとりかかった霖之助の目元が少し笑っていたように見えたが、慧音は錯覚という事にしておく。
 パチパチと算盤を弾く音が響き、慧音は腕を組んで霖之助が珠算を終えるのを待つ。
 ふと彼女が視線を流してみれば、勘定台の向こう、客は立ち入れないだろう店の奥に紅白な感じの装束を見かけた。
「時に、店主」
「なにか?」
 慧音の問い掛けに霖之助は俯いたまま返事をしながらも、珠算の音は止まない。
「ここは縫製もやっているのか」
 問われ、一瞬だけ珠算の音が止んだが、すぐに再開された。
「ええ」
 苦笑の混じった短い答え。しかし、過不足も無く適切なものだ。
 慧音は思う。
 返答に多くを語らないという事は、語りたくもない事なのか、もしくは大部分を此方の判断に任せるという事。
 そして、後者であれば判断の委任により自然と考えを巡らせる事になり、結果珠算を待つ間の暇つぶしにもなる。
 ……ふむ。
 という訳で霖之助の心遣いのままに、何故博麗の巫女が着ていそうな装束があるのかを慧音は考える事にした。もし前者だったとしても、口にしなければ差し障りは無いだろう。
 けれども、考えるといってもそう難しくは無い。
 今の店主の態度と日頃の巫女の態度からして、半ば無理矢理に装束を繕わされているのだろう。
 仮にも女子が男性に装束を繕わせるというのは、果たして如何なものか。
 しかし、あの巫女の事だ。一切気にしていまい。
「むぅ」
 そして、気付けば軽く腕を組み、思考を支えるように顎に手をやる慧音が居た。
 そんな慧音を霖之助は少し前から見ており、視線に気付いた彼女と目が合う。
 霖之助は軽く微笑んだ。
 ……あぁ、つまりこれは、見事に後者で見事に店主の目論見に嵌まって居た訳で。うん、自らその目論見に踏み込んだのだけれど、何処かもどかしい思いに駆られてきた。ぬぅ。
「お代はこのようになりましたが」
 しかし、慧音がもどかしさにどうこうなる前に霖之助が機先を制した。
 慧音としてはそんなに長く思考に没頭していた覚えは無いのだが……つい時間を忘れてしまったか、単純に霖之助の算盤術が優れているかのどちらかという事になる。
 ただ、そんな事はどちらでも良い事だ。
 つ、と慧音は霖之助が示した算盤の内容を見る。
 目が丸くなった。
「……良いのか?」
 率直な感想だ。組合が値段を吊り上げる前の値として換算しても、こうは安くならないだろう。
 すると霖之助の笑顔に胡散臭さが混じった。
「じゃあ高くしましょうか」
「いや、勘弁してくれ」
 掌で押すようにしながら拒否する。冗談めかした言い方だが、慧音はこの男ならやりかねない。むしろやるだろう、と思っていた。
 だから気が変わる前に、と示された額に見合うだけの金銭を巾着から順次出していく。
 …………よし、不足ない。
「これで」
「毎度どうも」
 歯切れ良く言い、霖之助は本日一番の笑顔を浮かべながら金銭を仕舞っていく。その笑顔は商売人である時点以上のものを感じるが、日頃の客層を鑑みれば気のせいではないだろう。
「しかし、きちんと包むのは勿論ですが、貴女一人で持ち帰るには無理がある量かと」
 お代を仕舞い終えた霖之助は尤もな事を言った。
 彼の視線は勘定台に乗り切らず、床に置いた籠に載せる等の工夫をしても尚余りある染料の山へと向けられている。
 この量は、見た感じ一人どころか三人や四人でも難しそうだ。
 一呼吸程置いて考え、慧音は霖之助に言った。
「まぁ、何度か往復するさ。……里の者を寄越したい所だが、此処は穴場だけに危険だし」
 すると、霖之助も少し考える素振りを見せる。
「……行き違いになるかもしれませんが、魔理沙が来たら届けるよう言いましょうか?」
 これは慧音からすると願っても無い話だった。魔理沙次第だが、事によっては里を空ける回数を大きく減らせるだろう。
「助かる。……お願いしても?」
「構いませんよ」
 快諾した霖之助に慧音は頭を下げた。


「では、こちらを」
「ああ」
 慧音は、取り敢えず、とかさ張らない程度に霖之助が纏めた分を受け取った。
 和紙で作られた頑丈な袋は片腕で抱える事のできる大きさで、ずしりと重さを感じられる程小分けされた染料が詰められている。
「では、なるべく早い内に、また」
「今後ともご贔屓に」
 客と店主の間で交わされる別れの言葉。そして、会釈。
 慧音は踵を返し、みしぎしと音を立て、香霖堂を後にしようと袋を持たぬ方の手で戸を押し開く。
「……おや」
 来た時は雲もまばらな晴れだったのだが、今や空は薄ぼけた灰色に染まり、静かに雨を降らせていた。
 そんな訳で当然、慧音は傘を持っていない。そして抱えている物の事を考えれば、濡れる訳にもいかないのは一層の事だ。
 従って慧音は戸から手を下げ、再び踵を返し、戸が閉じる軋み音を聞きながらぎしりみしり。
「店主」
 誰も居ない勘定台に向けて言うと、店の奥から霖之助が現れた。
 勘定台周りの染料がいくらか減っている事からして、既に売り物ではなくなったそれらを仕舞い込んでいたのだろう。
「おや、まだ何か買い忘れでも?」
 彼は意外そうに言った。
 慧音は苦笑を返す。
「いやそうでなく。……雨が降っているのだが、何かないか?」
「なら、そこの蛇の目傘を貸しましょう」
 言いつつ霖之助は慧音の右後方を指し示した。
「ん……と、あれか? 助かる……お代は?」
「只で良いですよ。売る訳でもないですし」
「しかし……賃貸も立派な商売の筈」
 事、あまり流行っているとはいえない店が、儲けの手を逃すとは思えない。
 そう慧音は考えたのだが、霖之助はいやいやとばかりに首を振った。
「買う都度代金を払ってくれる貴重なお客様には、これくらいの特典はあって然るものでしょう」
 この言葉に、慧音は素直に成る程、という感想は抱けない。
 買うという事は代金の支払いがあって当然だろうに、何故その当然をこなすだけで特典が存在してしまえるのか。ふと考えてしまうと、店主に対し同情の念を禁じえなかった。
「ありがとう」
 だけども折角の只である。慧音にとって断る理由はどこにも無い。
 言って、頭を下げ、三度踵を返した。
 幾つかある蛇の目傘の内、紺の色が鮮やかな新橋を手に取る。
 一旦紙袋を床に置き、買う訳でもないのに慧音はつい蛇の目傘を矯めつ眇めつしてしまう。
 ……うん。これ、今使っている蛇の目が駄目になってしまったら、買おう。
 存外良いものだったので、慧音はこの蛇の目傘が気に入ってしまった。ただ、買うといってもその時までこれが売れ残っていればの話である。何せ彼女の物持ちの良さは人のそれとは比べ物にならない。
「買っていかれますか?」
 ふと、背から慧音の思考が読めているかのような霖之助の声。
 振り向けば、彼は勘定台から此方側に出てきていた。
「あ、いや。以前から使っているのが他にまだあるから」
「そうでしたか」
 商売人として全く正常な落胆に、慧音は少しばかり悪い気になってしまう。
「すまない。買う訳でも無しに、ああ検品するような真似をして」
「いえいえ、詫びる必要はありませんよ。……そちらで宜しいので?」
「え?」
 詫びる必要が無いとの事に対し詫びそうになった所での話の切り替えに一瞬付いて行けず、慧音はやや間の抜けた声を出してしまった。
「あ、ああ。これを借りさせてもらう」
 頬に熱を感じるほど恥ずかしく思いながら、すぐに肯定する。
「どうぞ。あ、言うまでも無いでしょうが、返す際は出来るだけ綺麗にして返す様お願いします」
「うん。無論だ。何せこれは売り物なのだし」
「左様でしたか。それでは道中お気をつけて」
 再び会釈を交わし、霖之助は両手の塞がった慧音を気遣って店の戸を押し開いた。
 細やかな心遣いに和みを覚えながら、慧音は香霖堂を後にする。


 軒先で蛇の目傘をばっと開き、歩き始めながら天へ向けた。
「―――さ、て」
 地に降る静かな雨が、蛇の目傘に弾かれ短くも断続的な音を傘の内へ響かせる。
 響く雨音に心地よさを覚えながら、里へと足を向けた。
 楚々と降るこの雨は、降り始めてそう経っていないのだろう。
 靴が踏み締める地面はまだ硬く、雨天特有のぬかるみはどこにも見当たらない。
 そして、一つ気付く事があった。
 霜月の時期の雨というのは、勢いに関わらず冷たい雨だ。にも関わらず、今降っている雨は冷えていない。それどころか温かくすらある。
 夏の温い雨がこの寒い時期に降れば、こんな感じだろうか?
 あまりに不釣合いな雨だが、しかし、悪くはない。春が遅れたりするような異常気象に比べれば可愛いものだし、たまにはこんな事があっても良いだろう。
 知らず口元に笑みが浮かび、実感できる程機嫌が良くなっていた。雨天に深く感じ入る程私は風流では無かったが、こうも身を以って感じれば誰だって―――
 思いの最中、ふと、炎を纏う彼女の姿が過ぎる。
 緩んだ口元が締まるが、すぐに、我ながら驚くほど自然に弧を描いた。
 そう、こんな雨なら、どんなささくれた心でも癒し薄め、そっと流してしまえるだろう。今頃、彼女もどこかでこの雨を浴びているだろうか?
 それとも、もう浴びたろうか?
 又は、いずれ浴びるだろうか?
 こんな雨を浴びれば、きっと、彼女も和らぐだろう。きっと。ほんの少しかもしれないけれど。
 足を止め、蛇の目傘の淵から窺える範囲の空をじっと見上げる。
 そうであれば、どんなに良いだろうか。
 思いを巡らせながら、私は時ならぬ温かな雨の中を改めて歩き出す。
 その足取りは、少しでも長くこの雨を感じていたいばかりに酷く緩やか。
「染料の心配はするな、と頼んできた里の皆に早く伝えるべきなのだろう……けれど」
 けれど、現状急ぐというのは余りに不似合いに思える。
 この、大地や草木を労わるように染み入る、この雨の中を走るなどと。
 やはり歩くべきだろう。
 こんな雰囲気の中で走らねばならない程切迫してはいないのだから。
 里の皆に済まないとは思うけれど。
「……なんとも、我ながら……勝手だな」
 笑みが苦笑になった。


 雨の中を行く内、慧音は知らず鼻歌を歌っていた。相変わらずの断続的な響きを伴奏に、特に考えるでもなく旋律を奏でていく。
 ……いや、旋律という程大層なものでもないか。所詮は無意識。つまり私の地が素直に出ている訳であって、そう考えると尚更―――
「はっ、詮無い事だ」
 思考の最中、慧音はそれを打ち消すように言葉を発し、軽く頭を振る。
 だが、そんなどうでも良い事をつい真面目に考えてしまう。
 普段はそうでもないのに……やはりこれは、この雨のせいだろうか。
 この、穏やかで優しさすら感じる……この雨。
 嗚呼これならば、と納得できる。
 慧音は微笑んだ。
「……ん……あれは」
 ふと、慧音が何を見るでもなく巡らせた視線に異物が映った。よく見て見れば、草原の中、子供と思しき誰かが倒れているじゃないか。
 知覚と行動は同時。いや、もしかしたら行動の方が早かったのかもしれない。
 何せ気付いた時点で、慧音は疾風の如く駆け出しているからだ。
 しかし、仰向けに倒れている子供の姿が明らかになると、彼女の足は自然と減速していった。
 確かに子供である。見た感じそこは間違いない。可愛いし。
 が、頭からにゅっと長い角が左右に生えていれば、その時点で慧音の保護対象からは逸脱する。
 そういえば、と慧音は、この娘を最近神社周りで見た事があった。
 そう……確か最近幻想郷にやって来たとかいう、鬼だ。
「…………」
 見れば向こうは突如駆けて来た慧音に不思議そうな視線を向けていた。
 それはそれで当然だろう。
 そう思いつつ、慧音は率直に言った。
「……何をしている。鬼が、こんな所で」
 しかも雨の中。晴れならまだしも、雨の中でだ。
 見れば袖の無い白いブラウスに、上品な紫色が染められたスカートもしとどに濡れて、どうやらこの雨の降り始めから待ち構えていたように浴びていたに違いない。
「んー? ……見て分からない?」
 すると鬼は、こちらが分からない事の方こそ不思議でならないような顔で応えた。
 慧音の口から溜息が漏れる。
「分かっていたら聞くと思うか?」
 言うと、くくっ、と鬼は笑った。
「聞かないねぇ」
 遊ばれているような気がしないでもないが、さりとて相手は鬼。多分、素なのだろう。
 そう考えつつ、慧音は対話を進める。
「だろう。それで?」
「雨を浴びてるのさ」
 応えは簡潔だった。
 確かに全くその通りである。
 本来ならここで適当に相槌を打って、この場を立ち去るべきなのだろう。
 しかし慧音は他に言いたい事があった。
 ここからは単純に好奇心になる。
「……何の意味が?」
「気持ち良いじゃない」
 またも簡潔だった。
 いくら気持ちが良いからって、普通、野外で着衣のまま雨を浴びるだろうか。
 ……まぁこの雨は確かに、季節に似合わず暖かいから浴びてしまいたく――なるものだろうか?
 心中、慧音は首を捻る。
「それにしても―――」
「私の名前は、伊吹の萃香。萃香で良いよ。最近こっちに来た鬼だよ」
「え、あ」
 更に問おうとした所で、不意に鬼―――萃香が名乗る。
 あぁしまった、そういえばそうだった、と慧音は己の失敗を軽く責めた。
「それで、あんたの名前は?」
 名乗りに続いた萃香の問い。
 そう。思えば慧音は萃香の名を知らず、そして萃香の方も慧音の名を知らなかった。そしてそもそも初対面。
 となれば先ず名乗っておくべきだろう。期せずして話し込んでしまいつつある訳だから。
 出会いの唐突さに、慧音はそこの辺りが麻痺してしまっていたらしい。
 こほん、と咳払いを一つ。
「私は上白沢 慧音。同じく慧音で良い。……私はワーハクタクだ」
 しっかり名乗り返すと、萃香はにかっ、と歯を見せて笑った。
「そう。私も慧音もお互い珍しいねぇ」
「……そうだな」
「そして、あんたはそういう意味で珍しいだけでなく、別な意味でも珍しいよねぇ」
「知っていたのか?」
 萃香の言葉に、つい慧音は驚きを少し面に出してしまう。
 これに、当然とばかりに萃香は頷いた。
「あんただって、神社で私を見た事がきっとあるでしょうに」
「ああ」
「なら逆があっても全然不思議じゃない。場所はまぁ違うだろうけれど」
「成る……程」
 そうか? と慧音は思ってしまったが、すぐにまぁいいかと思った。
 知られて何か不都合がある訳でもないのだし。
「で?」
「ん?」
 萃香の丸い瞳が真っ直ぐ慧音に向けられている。
「さっきあんた、何か言いかけてたじゃない」
「あぁ、そうだった。……気持ち良いから雨を浴びているそうだが」
「まぁね」
「そんなに気持ちが良いのか?」
 言ってから、慧音はしつこいか? とも思った。というか萃香の受け取り方によっては矛盾しているとも取られるだろう。
「そりゃもう」
 しかし萃香は笑顔で答えた。
 が、すぐにその笑顔が曇る。
「ちょっと。あんまり寄らないでよ。雨が翳る」
「え? あ、すまない」
 未だかつて言われた事のない一言を受け、慧音は半歩引いた。
「というか詮無い事聞くね」
 慧音を視線で追いつつ萃香が言う。
「詮無い……?」
 慧音は首を傾げる。そうだろうか。
「気付いてないみたいだから言うけどさ」
「私が……何かに気付いていないと言うのか?」
「うん」
 あまりにはっきりと頷かれたものだから、慧音は黙って萃香の言葉を聞くことにした。
「つまりあんたも浴びたいんでしょうに。この時ならぬ甘雨をさ。そうでもなければ、最初の会話一つであんたはもうここには居ない筈だよ」
「…………」
「違う? まぁ、浴びたいってより浴びてみたい、なのかもしれないけど」
 萃香の言葉を受け、慧音は考える。
 言われて見れば確かにその通りで、興味を覚えなければさっさと立ち去って当然なのだ。始めは萃香の行動が気になっていたからなのだが、今やそれ以上に……
「確かに、言うとおり……なのかもしれない」
 この雨を、蛇の目傘を隔てた音で楽しむのではなく、直接浴びてみたかったのかも。
 慧音の言葉に、萃香は口端をどこか意地悪気に吊り上げた。
「なら浴びようよ。気持ちいいよ?」
「いや、しかし」
「何を躊躇うのさ? あんただって半分は妖怪でしょうに。なら、身を以って自然を感じるのもたまには必要な事だと思うけど?」
「……それはそうだが」
「あぁ、濡れるのが嫌なんだ?」
「…………」
 それもある。
「そんな瑣末な事、乾かす手ならいくらでもあるじゃないの」
「いや、そうじゃない。この紙袋の中身を里の者に届け、安心させてやらねばならないんだ」
「でもそれは、何時だって良いんじゃないの? 今すぐでなければ都合が悪い?」
「現にこうして、里の者の望みが叶っているんだ。ならば、早く伝えた方が―――」
「の、割にさ。特に急いでいるように見えなかったどころか、こうして私と話し込んでいるのはどういう事かな」
 慧音にとって苦しい言い訳だった上に、萃香の突っ込みも的を射ていた為、実に窮地である。
「う」
「さー、素直になろうか」
「むむう」
 笑う鬼。
 戸惑うワーハクタク。
 いつの間にか直接雨を浴びるか否かの話になっており、いつの間にか慧音は萃香の押しに負ける形になっていた。
「しかし……濡れ地に横たわるというのは……」
「どーせずぶ濡れになるじゃん」
 萃香の言葉を受け、慧音は蛇の目傘の淵から窺える空を見る。
 雨脚は相変わらずで、雨そのものも相変わらずで、鼠色の雲は薄らぐ様子は無い。
 慧音にとって鬼にたぶらかされたような気がしなくもないが、内心浴びたいという思いが欠片も無ければ鼻で笑って終わる事柄である。そうしなかったのは、つまり、そういう事なのだろう。
 決断が必要だった。躊躇は鬼の言葉によってかなり薄らいでいる事だし。
「…………」
 そして、慧音は一つ息を吐くと、軽く周囲を見回し枝振りの良い木を探す。
 すぐに見つかった。
 では、とそこへ足を向け、慧音は歩き始める。
 その背を萃香が興味深そうに視線で追っていた。
 木の傍まで来た慧音は、根元を確認する。
「……よし、濡れていないな」
 風が強い訳でもないから、枝振りの良い木の根元なら濡れていないだろうと予測していたのだ。
 慧音は木にもたれるようにして染料の詰まった紙袋を置くと、傍らに帽子を置き、そしてそれらを覆うようにして蛇の目傘を置いた。
 かくて準備は万端、である。
 踵を返し、慧音は木陰から出た。

 ―――途端、遮る物を持たぬ彼女に降り注ぐ雨。

 頭頂に、鼻頭に、髪に、双肩に、双胸に、両腕に、裾に。
 降っては染みて、降っては染みていく。
 自身が濡れて行くのを理解しつつ、慧音は萃香の元へと歩き始める。
 一歩を踏むにつれ雨は染み込みを増し、裾や髪はやや重く、振る腕は少しずつ冷たくなっていく。
 そうして萃香の元へ着いた時、慧音はしっとり濡れていた。
 濡れた者同士、視線を交わし笑顔を浮かべる。
「そうだな、隣、良いか」
「良いも悪いもここ等は私の土地じゃないもの。お好きにすれば良いさ~」
「……それもそうか」
 言うや、慧音は萃香の隣にばったりと仰向けに倒れた。濡れた地面に押し付けられ、頭、背、腰、尻にじっとりとした濡れの感覚がくる。
 背の下になった髪もしっかりと水気を吸っただろう。
 そして、天から降り注ぐ雨。
 見上げる空から線となって降り、額に跳ね、鼻梁に跳ね、頬に跳ね、掌に跳ねる。
 眩しくも暗くもない空から注がれ、髪に染み、肌に染み、服に染み、心に沁みる。
 眼に入った雨にも不快は無く、ただただ自然と共に、在るがままにと感じさせる。
 天へ向けた全身に雨は跳ね、染みていく。
「ああ、これは……中々……」
 身体を濡らす雨への感想を洩らし、夢想の闇の中で降雨を味わおうと慧音は瞼を閉じた。
 耳に心地よい雨音は闇の中で自然との一体感を助長させ、雨によって重さを増した髪や衣服が、地へと呑まれていくような錯覚を起こさせる。
 湿気に富んだ大気の気配は視覚に頼らない今の慧音にとって自分とそう変わらず、大気全体に己が広がっているかのような錯覚を起こさせる。
 そして、自ら濡れ、地面も濡れ、大気も濡れ、今や森羅万象が濡れそぼっている。
 そんな中にあるのだから、地に呑まれるのではなく、大気に広がるのではなく、それら全てが融合しているかのような錯覚を、いや、実感として慧音は得始めていた。
「良いでしょ」
 不意に萃香の声が慧音の耳に届く。
 声音からして心底愉しそうな萃香は慧音が瞼を閉じたのを見て、自分と同様に彼女が雨を、延いては自然そのものを愉しんでいるという事を察していた。
「うん。とても、良い」
 素直に慧音は答える。雨を浴び、心は凪に、穏やかに。
 つ、と瞼を開いた慧音が隣を見れば、萃香は満面の笑みを以って雨を全身で受け止めていた。
 その口が大きく開いているのは、つまり視聴触嗅の四感に止まらず、大胆に味覚をも使い、五感全てで余す所無く雨を、自然を愉しんでいるのだろう。
 成る程、と思った慧音は、視線を空へ向けつつ口を開けた。ただし、萃香のようにほぼ全開という程ではなく、人差し指一本を咥えられるかどうかという程度である。
 遮る物のない相手に対し、雨は平等だ。
 降り注ぐ雨は慧音の口の中にも及び、ゆっくりと口腔に溜まっていく。
 味は感じなかった。そも、何かしら味のある雨など慧音は知らないけれど。
 そして、慧音は一口弱分程度口腔に溜まった雨を極自然に嚥下する。
「ん……」
 美味しい。
 味覚は雨に味など無いと伝えているが、それでも慧音は嚥下した雨を美味しいと思った。雨を呑んだ事で更に自然と一体化したのだ、という思いもあったろうし、今の慧音には暖かなこの雨は甘露にも等しいのである。
 再びその甘露を味わおうと、慧音はそっと唇を開いた。
 それに合わせ、瞼を閉じる。
 慧音にとっては、視覚を排除した方がより深く自然を愉しむ事が出来るからだ。
 夢想の闇と雨音の中、慧音はゆったりと自然を感じていた。


 雨を視る。
 動きを視線で追うも良いし、視界を切る雨線が幾つか数えるも良いだろう。
 雨を聴く。
 雲から零れ、大気を滑り、木に跳ね草に跳ね、やがて地に吸われるまでを。
 雨を触る。
 広げた掌に積もる雨を握り、腕や頬、鼻梁に積もった雨の流れを指で追う。
 雨を嗅ぐ。
 雨が存分に染み渡る大気を鼻から吸い、口から吐き、心行くまで堪能する。
 雨を含む。
 開いた口に溜まった雨、舌に降った雨、それらを揺らし嚥下し味を楽しむ。
 うん、実に素敵。
 萃香は快活な笑みを浮かべた。
 天に寄り萃まった雨雲が零す雫は大地を潤し、大気を湿らせ、度を越さなければ晴れ以上に森羅万象に活力を齎す。
 天から地へ。
 地から川へ。
 川から海へ。
 海から天へ。
 雨とは当たり前のように世界を巡り、その過程で見聞したものを内包し、不純になっていく。
 だが再び天へと戻り、降り注ぐ雨は純粋さを取り戻している。そしてまた世界を巡り、ゆっくりと不純になっていくのだ。
 永遠に続くであろう雨の繰り返しは、生命の興亡にも似ているだろう。
「だから―――」
 呟き、萃香は舌を出して雨を受けた。
 降り注ぐ雨。
 ぽつり、と舌先を突く。
 この雨は純粋であり、また、言うなれば生まれたての水なのだ。
 そしてそれを浴び、呑むという事は新生の活力を身に受け入れる事と同じである。
 雨はぽつり、ぽつりと舌を突く。
 萃香は舌を戻し、口腔に直接振り込んだ分も含めて一飲みした。
 身に染みる分も含め、尚一層自然との一体感が増していく。
 それと同時に、生まれ変わったような思いも強まっていく。
 やはり人ならぬ者は、種に関わらず直接的な自然との付き合いが大事だろう。
 雨から得られる自然は、沢で泳ぐのとは全く違う水気と活力を与えてくれる。
 にま、と口元を綻ばせた萃香は、ふと隣の慧音へと視線を向けた。
「……わぁ」
 小さく、慧音の邪魔にならない程度に萃香は驚きを声にする。
 萃香の視線の先、濡れそぼった事で体の線を艶かしく露にする慧音は、神聖さすら感じさせる程真摯に自然と向き合っているように見えたのだ。
 額に張り付いた前髪、力み無く引き結ばれた唇、静かな呼吸音、規則正しく上下する胸丘。
 まるで眠っているかのように、慧音は静謐さを以って雨を受けていた。
 ……躊躇した割に、分かってるじゃん。
 萃香は素直に感心し、天へと視線を戻す。
 雨は、この時ならぬ暖かな雨は、未だ止む気配が無い。
 慧音と萃香は、ただひたすら甘雨を浴び続けた。


―――翌日。
「っきしゅ」
 少々手狭だが、簡素な庵に小さな咳の音が響く。
 庵の中心、囲炉裏にくべられた鍋には粥がふつふつと煮え、湿気に富んだ湯気を放出していた。
「まさかねぇ」
 粥を御玉杓子で掻き混ぜつつ、萃香は囲炉裏端で呆れたように息を吐く。
 彼女が見つめる先、囲炉裏の傍に敷かれた布団には慧音が寝かされていた。
 今の慧音は額に布一枚隔てて氷嚢が乗せられ、布団には更に上から獣の毛皮が被されている。そして、平時と変わらぬ萃香と違い、慧音の頬は赤く、瞳も何処か胡乱で頼りない。
「……本当に寝てたとは」
「っきゅしゅ」
 萃香の言葉と慧音の咳が重なった。
「面目ない」
 掠れ切った声。老婆の如き嗄れ声。誰が聞いても重症と思う程の声だ。
 だがそうまでなってしまったのも仕方の無い事だろう。
 何せ萃香の言葉の通り、慧音は雨を浴びる心地よさについ眠ってしまっていたのだ。
 恐らく、萃香が彼女に感心した辺りで、既に寝てしまっていたと考えて良い。瞼を閉じた事が大きなリラックス効果を生んでしまったのだろうか。
 ともあれ、いくら季節外れの暖かな雨とはいえ、冬将軍が到来しそうな季節にずぶ濡れで眠ってしまうというのはよろしくない。実によろしくない。
 萃香が慧音の眠りに気付いたのは、甘雨が止んで暫くしてからだ。
 重い色合いの雲が流れるのを眺め、萃香は雨後の余韻を楽しむつもりで暫くぼんやりしていたのだが、そのぼんやりを慧音の大きなくしゃみが砕いたのである。
 流れる雲の裂け目から眩い陽光が零れる中、萃香はガタガタ震える慧音を見て思わず唖然としていた。ぱっかりと開いた口も塞がらなかった。
 ともあれ、見た感じ余りにも危なそうなので萃香は慧音に染み付いた水気を散らし、続いて自身も乾燥させた後、彼女を片腕で抱えて朧気な案内に沿って庵まで運んだのである。
 蛇の目傘と染料の入った紙袋は萃香がもう一往復する事で回収し、現在庵の土間にそれぞれ置いてあった。
「さ、て。……ん」
 鍋から抜き出した御玉杓子に付着した柔らかな米粒を舐め取ると、萃香は得心した表情になる。
「ほら、粥出来たよ。起きられる?」
 木目がそのままの粗末な椀に、たっぷりと粥を盛りつつの言葉。
 これに、慧音は動こうとする努力のみで答えた。
 要は身動ぎするばかりで起き上がれない。
「無理そう、だ」
 それから、慧音は言葉で答えた。
 その間萃香は彼女の方へ一瞥も送っていなかったので、頑張ってる最中の表情が割と可笑しかった事は知られずにすんでいる。
「無理? じゃあ食べさせてあげよっか」
 指で千切った梅干を散らした粥と適当な匙を手に、萃香はさも嬉しそうに言った。
 実際、萃香は病床の者に何かを食べさせるなんていう事はやった事がないから楽しみで仕方ないのだろう。
 何せ鬼は諺になるくらい病床に伏せないからで、萃香自身も何百年と生きているが、彼女の知る限り同族は皆いつでも健康であった。
 そんな経緯を以って萃香は嬉しそうなのだが、慧音からすれば若干の不安と警戒心を引き起こすには充分だ。
 だって鬼だし。
「……頼、む」
 だが病床の身である以上、栄養補給は必要不可欠である。だから慧音は、いくらなんでも謂れの無い虐待はしないだろう、と半分麻痺している頭で前向きに思考していた。
「分かった~」
 答えと共に立ち上がると、病床の相手を慮ってかそれとも元から軽いからか、殆ど足音を立てずに萃香は慧音の枕元まで歩く。
 見下ろす鬼。
 僅かな間。
「……ここから垂らすから、口開けてて? っていうのはどうだろう」
 そして、途方も無い笑みを浮かべる。
「…………」
 これに慧音は唖然とし、後悔し、それから少し思い直して、視線だけで出来る限り非難するに留めた。冗談に付き合う体力は残っていないからだ。
「ごめんごめん」
 舌を軽く出しながら素直に応じ、萃香はその場に胡坐をかく。
 匙で梅干の千切り身が乗った粥を掬い、ふぅっと息を吹きかける。
 萃香の能力を以ってすれば息を吹きかけるまでもないが、今、萃香は状況を楽しんでいる為に、自らの能力を使う事を無粋と捉えていた。
 二度三度と息を吹きかけ、湯気が大分弱まった辺りで慧音の口元へ運ぶ。
「はいあーん」
 手本を見せるように口を開いたままの萃香。
 それを見上げる慧音は、幾許かの逡巡の後、観念した風に口を開けた。
 そこへそっと粥が押し込まれる。
 ぎこちないながらも、零す事無く萃香は食べさせる事が出来た。
 ゆっくりと粥を租借する慧音を見つつ、ほにゃ、と相好を崩す。もぐもぐと口を動かす慧音に、母性とか可愛らしさとか暖かさとかを感じているのだろう。丁度、お人形遊びが近いかもしれない。
 嚥下した所へ萃香は声をかける。
「どう?」
 様々な種類の問い掛けが集約された一言。
「美味い」
 これに、慧音は様々な種類の答えが集約された一言で返した。
 熱過ぎず温過ぎず、味の方も問題無いという訳である。
「へへぇ」
 慧音の答えに照れ臭そうに微笑み、萃香は匙を粥につけた。
 ふぅふぅと吹く息の音を聞きながら、慧音はふと、ある事を思い出す。
「……萃香」
 言葉と共に、彼女は視線を僅かだけ天井から萃香側へと流した。
「ん?」
「染料は……西北西の里へ、持って行っては、いないのか?」
 きょとんとする萃香に、慧音は喉の痛みに途切れがちになりながらも言う。
「うん」
 するとあっさり明確に答えが返された。
 慧音の眉根が微かに寄る。
「それは……困る。あの里には、染料が……必要なんだ」
「でもさ、だからって私が持ってくって訳にもいかないでしょうに」
 慧音の要求も尤もだが、萃香の言い分も確かにそうだ。
 ただでさえ人為らぬ者相手には神経過剰な里の者。そこへ角の生えた童女が現れようものなら、一騒ぎは間違いないだろう。
 そう萃香の言葉に納得しつつ、とすると蛇の目傘も返してない事に慧音は気付いた。霖之助は次の機会のついでで良いと言っていたが、これもまた早い方が良いだろう。染料の回収にも繋がるし。
「……なら、私が」
 言って慧音は動こうとするが、身動ぎから先の段階には至れない。
「どう考えても無理でしょうに」
 尚も頑張ろうとする慧音に、萃香はたっぷりと溜息を吐いた。
「大体、昨日あんたをここに持ってきた後、立ってられもしない癖に無茶しようとするから私が力づくで寝かせたって事、忘れた?」
「…………言われて、思い出した」
 萃香の言葉通りである。千鳥足の方がまだましな状態だというのに、慧音は染料を里へ届けようとしたのだ。
 萃香がいくら言っても聞かなかったため、鳩尾に鉄拳が打ち込まれる事で解決した訳だが。
「ま、治るまで寝てたら? ほら、あーん」
 つい、と差し出される匙。
 その上で温かな湯気を立てる粥。
 染料は今すぐ必要という訳ではないし、冷やした事による風邪ならばそう治るのに時間はかからないだろう。
 粥を口に含み、慧音はゆっくり咀嚼する。
 その様を、萃香がとても面白そうにしながら見つめていた。
「……ところで」
 口の中が空になってから慧音は言う。
「ん?」
「素朴な疑問がある」
 萃香は言葉を返さず、代わりに疑問符を表現した表情を慧音に向けた。
「なんで、私の世話を?」
 先程から、さも自然に氷嚢を取り替えたり粥を作ったりしてくれているものだから、慧音はつい甘えてしまっていたのである。だが考えてみれば、妙な事態と言えるだろう。
 鬼が他者の世話をする、等というのは。
「いけなかった?」
 慧音の思いも他所に、不思議そうに萃香は言った。看病して当然、と言わんばかりである。
 ますます慧音は疑問を感じた。
「いや、非常に助かっている、し、いずれ礼を返したい、と思っているが―――」
「助かってるなら良いじゃん」
 慧音の言葉を遮りつつ、萃香は笑顔を見せる。
「後、礼は要らないから」
 そして、慧音が思いもしない事を言った。
「何故?」
 この疑問に萃香の表情は一変、笑みからやや申し訳なさそうな気弱な表情になる。
「そりゃあ、まぁ、全原因が私にあるからさ。私があんたを誘わなきゃ、今頃こうはなってないだろうし」
 萃香の言い分はこの一言に集約されていた。何せ彼女からすれば、今の慧音の有様はすっかり自分のせいなのだから。
「……そう……か?」
 対し、慧音は果たしてそうだろうかと思った。
 確かに誘われた結果雨を浴びたのは事実だが、彼女自身全く興味が無かった訳ではないので、萃香ばかりが原因とも言い切れないのだ。
「そうさ」
 けれども、萃香が淀みなく断言するものだから。
 慧音は幾つかの言葉を噤む事にした。普段であれば違ったかもしれないが。
「という訳だから、養生したら? 何となくだけど、あんたは真面目そうだから休むのが苦手っぽそうだし」
 大当たりである。今回だって、日頃の無理が無ければこうも拗らせなかったろう。
 少し気にしていた事をびしっと指摘され、慧音が少しばつの悪い表情になった所へ、粥の乗った匙が出された。
「あーん」
 自分が原因だから、と萃香は言っているが、慧音が真に分からないのは、どうしてこうも楽しそうなのか、という事である。
 ただ、今は聞くよりも食べる方を優先すべきだろうと判断し、慧音は匙を頬張った。


「あ」
 粥を慧音に食べさせ終え、自身も鍋の中身を片付けて一息ついた頃、不意の一声と同時に萃香は耳を欹てた。
「どうした?」
 唐突な動きに、慧音は声をかける。
 少しの間萃香は答えなかったが、やがて頷くと、
「いや、また……雨がね」
 そう答えた。
「そうか。……ん。良く、降るな」
 返事の最中、慧音の方も雨を聞き取ったのか、納得した表情になる。
「本当に」
 言い、それから萃香は胡坐の膝に頬杖を突く。
「……紫が何か弄ったのかしら」
 この呟きはあまりにも小さく、慧音の耳には届かない。所詮憶測でしかないのだから、下手に聞かせて悩ませるよりはいいだろう。
 雨音は遠く静かに響いていた。
「…………」
 そして、慧音は再び眠りに誘われる。
 しんと静かになった慧音を見、それから、萃香は呟いた。
「んー……当分止まないかな、また」
 ひょっとしたら、これは慧音に対する計らいなのかもしれない。勿論紫からではなく、自然や天からのという意味で。
「ふぁ~、あ、ふ……」
 そんな事を思いつつ、萃香は大欠伸をする。
 不意の眠気に、氷嚢も当分は無事だろうし、ご飯は食べさせたばかりだし、と確認した後、彼女はばたりと仰向けに倒れた。
「ひゅー……」
 倒れるのと寝付くのは同時。既に安穏とした寝息が鬼の口から零れている。
 外では、あの甘雨が降り続いていた。
コメント



1.無評価Andralyn削除
Why does this have to be the ONLY rellabie source? Oh well, gj!