その日もまた雨の日で、私達の館はいつも以上に湖底の苔みたいでミルクを溶かしたような霧の中、景色にゆらゆら揺れていた。
その様はなんだかとてもあやふやな何かが館の有様、在り様を、根底から抜き取っていこうとしているようにも当時の私には見えていた。
――今日はあなたひとり?
映画のワンシーンみたいな光景の中。
――どうしたの。こっち来たら?
その日風邪をこじらせていたその子は部屋を訪れた私に確かそんなことを言って、脇から椅子を寄せてくれた。私達が生まれるずっと前から、この子はこういうことが得意だったそうだ。
――けほっ。
始めは小さな吐息。それは次第に大きくなり、彼女はベッドの中で背中を折って、少し咳き込む。
そしてようやく、治まった頃に掠れた声で、
――元気なさそう?
笑って、おどけた調子で言った。
もちろん、薄っぺらだとは思わなかった。
ただ私はといえばやはり難しい顔もできないで、極めて薄っぺらな調子で「どうだろうねえ」と返すのだ。
――そっかー。しかし、むぅ。
雨は降り続いている。
その子は、笑った後に頬を膨らせて呟く。
私はといえば、やはり難しい顔はできないで、極めて軽薄な調子で「外見てみた? 凄い雨」と問いかけた。
それを聞き、その子は静かに喉を鳴らしていた。
――今朝から皆そう言うんだから。他に言うこと、
「けほ」と、また咳き込む。
「調子悪い?」
私は多分、情けない声で訊いていたんだと思う。顔の窺えない彼女はそれに震えを更に強めて、
窓がびりびり鳴るくらい、笑った。
「なに?」と私は訊いた?
――そ、んな心配しないでいいから。死んだりもしないから。ね? 姉さんらしくなさすぎ、っは。
雨は降り続いていて、声は掠れたままだった。けど彼女は、それでも風が窓から吹き込むような透明な声で笑っていた。
――大丈夫、大丈夫だって。
その時の私はそんな曖昧な答えに多分、納得したような顔をした。
実際、それはただの風邪だったし、他の二人も別段深刻に考えてなんかいなかった。
雨はやたらに降り続けて、半分開いて、完全に閉じきらない窓はずっときぃきぃ揺れていた。
それが過去。
――ねえ、ひとつ面白いこと思いついたわ。
私は昔の私を責めない。でも尊重もできない。
過去は、確かに拠り所だけど。と、
――だいぶ後のことになるかもしれないけど、
少なくとも、今の私はそう思う。
――今よりもう少し、後になるかな……。ああ、でも、
ただ、それでも。それこそ今になってこそ、後悔とかを感じることもある。けれど解っている。どうにもならないことがある。それは過去のことであり、自分が生まれる前のことであり、時たまふとしたことから思い出すようなことでもある。
――やっぱりパス。もうちょっとだけ秘密かな。
全ては流れていく。
雨は降り続き、続いていく。
――ごめんね。でも、これ、妹からの伝言ね。
全ては変わっていく。それでも、
――忘れないでよ? 姉さん。
色濃く染み込んだ記憶の底で。
#
「――」
曖昧なままに、目が覚める。
自分がベッドに、いつも通りに納まっていることを確認してから薄目を開く。いつもの通り暗く、白けた光は遠くけれど確かに灯っていて、私はその絶妙な距離に手が届きそうで、届かなくて、
「……んー」
顔を上げて煙のように、少し重たいベッドを抜ける。ついた足元が一瞬沈む。
カーテン越しに漏れる光は白々しい上まだ頼りなく、どこかゆらゆら揺れていて、冷えた空気は肌着を通して肌を突く。暖かくなく変わらないカーペットの感触を確かめながら壁に架かっていたほとんど真っ赤の上着を羽織った。帽子は取らず、枕の形にへこんだ髪を手櫛で梳かす。何度か掻くと、湿気た髪は当然というように指に絡まった。
「降りようかな」
ベッドに転びまた髪を弄って、体が寒さに慣れた頃、起き上がって私は一人、部屋を出た。
高い天井からぶら下がる、煤のかかったシャンデリア。年に一度の大掃除までは、まだ当分の間があった。
「姉さん、起きてないだろうなー」
――何食べようかな。
幅広な階段を踏みながら、キッチンでの段取りを考えながら、廊下に降りた。
ぎぃと。つっかけの下で床板がしなり、廊下の端まで一際高い軋みが上がり、
「いっ」
私はぎょっとして、所在の知れない罪悪感に周囲を見回す。音はもしかすれば窓の外の庭園まで届いたかも、と思うほど、耳に無闇に響いていた。
「――――いやま、」
居ないよねぇ。
声になるほど、大きく息を吐き出した。
また、私は廊下をきしきし歩く。窓の外では、見れば降りしきる雨粒ばかりでよく見えない。
朝の始まりは白く曇っていた。
がちゃり、というドアノブの音がやけに重たい。
家の角にあるものだから、窓とガラス戸で二面が埋まり、やけに開けて見える部屋に顔を出す。
元来趣味以外には徹底して不精で物臭な私達だからしてキッチンとリビングも兼用で、流し台の向こうではソファーとテーブルが互いに噛み合い、その上には譜面の走り書きが山となっている。足を踏み入れると廊下よりはいくらか暖かく、見れば譜面を一枚踏んでいた。いつか姉のどっちかが言っていた。試しに書いてみたといっていたけど、結局馴染まないからと投げたようで。
案の定、誰もいない。
「あちゃあ」
でもまあ予測の範疇。と呟きながら少し歩き、壁に埋まった暖炉の側で膝を折る。薪が切れてるのを確認して更に「あちゃあ」と額を打った。「姉さん、また忘れたな……」
遠い雨音が、静かに天井から染みてくる。
雑貨ばかりで何かと狭いこの館でも、広さを感じるのは自室とここと、後は風呂場の他にない。暖炉を見限り立ち上がると、私は適当に部屋を見回す。長いテーブルに指を滑らせながら鳥の飛び出たままの時計を流し見つつ脇を抜け、最後に、窓の向こうを見た。
「うわー」
改めて、酷い雨だった。
白い軌跡と朝霧で、庭の姿は全くといっていいほど窺えない。開ききった蛇口を曇り空いっぱいに据え付けたように、雨音は止め処ない。
「雨音は嫌いじゃないけど」
ひたすらに降りしきるその様に。
「在り来たりだよねえ」
雨と霧に埋もれた景色。その様相もまた見る間に湧き出す露に埋もれて、私は窓から手を離す。「もちっと厚着するべきだったかなー」と腕をさすって震えてみせた。実際、抱いた二の腕は思った以上に冷えていた。
窓には手形の輪郭が残っていて、デッサンの崩れた紅葉が一枚貼り付いているようにも見える。そしてすぐに周囲に溶け、雨垂れを透かしていく。
「……ほんと、凄い雨」
と、情感溢れる声で言ってみる。
「ふぅむ」と息をつき、椅子を引きながら考える。腰を掛けて肘をつき、横目に窓を眺めて露の流れを目で追って、「ふぅむ」とまた呟く。
朝の定例行事を、腹の中身が呼んでいる。
生きちゃあいないのに。
「何か作ろうかなー」
ぽつりと漏らせば、気の早い私はもうそれだけで思い立つ。がたんと勢いをつけて椅子を引いた。
「それじゃあまずはパンから焼いて、」
昨日のままに流しに置かれたエプロンを掴んで腰を突き出し後手に巻き、
「――そうだ、それからハムエッグ」
という所まで考えて、「あ」と後ろの暖炉に思いが至る。
「あちゃあー」
薪がない。つまるところは火力がない。火力がなければ火が出ない。そっち方面の担当は、
「……二番目かー」
雨露は窓を伝い雨音は窓を叩き、変わらず、じわじわと館を覆っている。姉さん達が一人一人と降りてくる、少し前の時間。
雨は降り続いている。
#
「私さ、思いついたのよ良いこと。面白いこと」
いつものように雑音の多い朝だった。
二番目の姉さんのメルランは、いつものように藪の中から口火を切る。
「良いこと? それとも、面白いこと?」
どっちよ。と一番目の姉さんのルナサはいつも通りの低気圧で、
「けほ」
おまけに喉が枯れていた。
「良いことで、面白いことよ?」
それに対して、メルランは常に高気圧。雲を押しのけて、地上に太陽を拝借してきたかのようなご機嫌だ。それもまた、いつも通りのことだけど。
「例えば?」とルナサは問いかけ、泥水みたいな珈琲をすする。喉を鳴らして、たちまち渋い顔をして、「溶けてない」と呟いた。
「リリカ。これ水のまま溶かしたの?」
「だって火がなかったんだもの」
「メルラン?」
「だって雨が止まないんだもの」
「リリカ?」
「や、一周しないでよ」
口を少し開いたまま、ルナサは押し黙る。私達はまた食事を再開する。かちゃかちゃと金属音が響く中、一番目の姉さんは曖昧な目を所在なさ気に左右に振って、
「……こんな時、」
「へ」
「誰に目を向ければいいのかしら? こんな時」
カップが静かに、けれども私達からすれば破格の乱暴さで音を立てて置かれた。泥水が大きく波打ち「姉さん」と私が言うより早く、瞳がぐっと睨みつけ、への字を結んだ口が言う。
「何よ」
しゃーん、
と、何処かのガラスが砕けた音。
硬化した私と姉さんを他所に、メルランは頬をもごつかせながら言ってのけた。
「んー、景気のいい音ね。お祭りみたい」
「姉さん。騒霊の本分全うするのはいいんだけどさ、やるならなるたけ他所でね」
「ごめん。以後気をつける」
「それだって何度目って話よねー」
「ねー」
私はメルランと一緒にけらけら笑った。
ルナサは小声で何かを呟き「駄目ねえ」と結局天井を見上げていた。私は話を仕切りなおす意味で、テーブルの角を軽く小突いて音を立てた。
「……で、姉さん、何を思いついたっていうの? 具体的な話じゃないと私には解んないわ」
ルナサの釣り針にかかったような姿勢の横で、私は改めて姉さんに訊く。メルランはうんと頷き、
「折角の雨と考えるべきなのよ。ここはこの季節ならではの新曲を作りたいわ~」
「なるほど」
雨の日なんてものは、我が家にすればルナサとルナサのヴァイオリンのテンションが一オクターブ下がるだけの只の自然現象であり、それ以上でも以下でもない。変化を求める私の心はその申し出に諸手を上げた。
「いいじゃない。姉さんにしては珍しく一本筋の通った意見だわ」と視線をずらし「そっちの姉さんもどう?」
「首が疲れる……。あと目も」
明後日の発言が返ってくる。私は根気よくつばを散らし、内省の止め処を適当につけさせる。
「……なるほど。確かにメルランにしては言ってることの前後に脈絡がある」
「凄いわ。快挙かも知れないわねえ」
自分で言う次女に私は賞味期限も曖昧なサラダの皿を脇に寄せて告げる。
「で、調子はどうすんの。またフィーリング?」
メルランはそれに目を瞬かせ、
「あら、貴方達も作るの?」
「はい?」
私は脇に寄せていた賞味期限も曖昧なサラダの皿を胸元に戻し、キャベツの芯を特に意味もなくばきりと噛んだ。
「あー……?」
ルナサはなんとか飲み干し空になっていたカップを手繰り寄せ、粉っぽい珈琲をまた並々と注いで流し込む。瞳が潤む。
「苦」
がっしゃ、と何処かの花瓶が割れた音。
「……姉さん自重」
「反省する……」
『で、』
二人揃って二重の意味で苦い表情で問い返す。
『ひとりでやる気?』
「ええ。なんとなく」
メルランは綿菓子のように笑った。遠目には柔そうだがいざ触れてみるとあまり気持ちのよくないあの感触。ねばっこい。
「無理だあー」
「無理ね」
二人して言い捨てる。
「そう? じゃあ比べあいましょ」
メルランは、多分なにも聞いていない。
「比べるって?」
「三人それぞれがソロで曲を作るのよ。雨が止むまでが期限で、その後どっかで聴いてもらえばいいじゃない」
メルランはやはり綿菓子の笑みを浮かべていた。私は「うさんくせー」と思いつつも考える。
長雨の季節はもうすぐ終わるのだ。ネタを集めて一日、練り上げ、形にするのに一日。雨上がりと同時に完成させるならちょうど良いじゃん――と、私は自分が幾分乗り気なのに気がつきつつも、
「姉さんやる気?」
隣の姉に問いかける。ルナサは「ん?」と視線を向けて、
「あら、私は賛成するわよ」
素っ気無く告げる。メルランはふぅんと呟いて、
「早いのねえ決断。そりゃあ受けるとは思ってたけど。予想外」
「私は常日頃から、妹の自主性を尊重、及び、育もうと思ってねえ」
「はい、はい。もっともなご意見でございます。ご高説、痛み入りますっ」
私はシニカルに膨らませた頬はそのまま、冷たいテーブルにうつ伏せた。
「ぶっすー、よ。ちぇー、何さ何さ」
「茶化さないの」
そう言うルナサも、どこかの幽霊お嬢と一緒。メルランも、私も、みんな頼りないと思ってる。
「姉さんもさ、自分のことっていうか、自己鍛錬とか、そういうのしなよー。絶対よ?」
「だから言ってるじゃない。私もやるって」
「三つ巴ねぇ。私は誰を食べちゃおうかしらん」
とぽとぽ。はむはむ。
粉っぽい珈琲がまた注がれている。賞味期限も曖昧なサラダが、向かいの姉に現在進行形で頬張られている。
「……冷たいー」
うつ伏せると、頬から熱が逃げていく。代り映えのない天気のせいで館中、どこもかしこも冷え切っている。頭にしろ手にしろ、体を動かす必要があるかな、と思った。
「――よし、オッケー」
テーブルを押し顔を上げる。
「やってろうじゃない。姉さん方、私はどっからでも受けて立つわよ」
「そうそう。それでこそ、俄然盛り上がってくるってものよねぇ」
「今回は、当然だけど手伝い禁止よ」
そう言って、私も私の姉たちも揃って笑う。
カップもお皿も、すっかり空になっていた。
ルナサは、規則正しくリズムにのっとって食器を水に当てていく。手が音色を確かめる度にむずがゆいタオルの音に混じって音符が生まれ、ゆらゆらと天井に昇っていく。
「手入れが要らない分、私の楽器って楽ねー」
インストルメントとかじゃない。「楽器」っていいネーミング。
指を押し込む。鍵盤が鳴き、音符がまたひとつ。
「まあー、音質が環境により変化するのも楽器の面白いところだと思うけどさー」
と、私は深めに指を沈める。紐を解いた風船のように音符が湧き、その向こうで皿をタオルで回すルナサが、
「というかさ、リリカは元から無縁じゃない。キーボードだし、そういうのって」
「や、私の楽器は私が鳴らしてるんでしょ」
「鳴らすのと鳴るのは違うじゃない。貴方は貴方の楽器が音を鳴らす原理を熟知した上で鳴らしてるの? そうは見えないけど」
「や、フィーリングで鳴らせてるだけ。ご名答。便利でしょ?」
「便利だけど、それが全部じゃ薄っぺらね」
「薄っぺらぁー?」
私はムッとして、鍵盤を奏でるままに言い返す。
「本物の全部なら縦横高さ完備してるってものよ。私の楽器は幻想の音そのもの。音のデパートなんだから」
「音楽の切り売りは感心できない」
「外の世界には色々と便利なものがあってねぇ。音を溜めておける円盤とかさ」
「勉強熱心だこと」
そう嘆息するルナサは、そこでなにやら真剣な様子で考え込んだようだった。皿回しの手を止めて、「そうねえ……」としばし停滞。曖昧な目でうーんと唸り、
「まあ、言われてみれば、便利かも」
「よねー」
「その円盤が」
「ちょー」
また皿が回る。私は窓際の壁にもたれかかって、鍵盤を膝に挟んで抱く。水音が続く。食器が軋む。 姉は真っ直ぐで騙されやすい。窓の向こう側で雨が降る。雨音が続く。視線を空気に放流する。
「――んー」
彼女のことを思い出すのは珍しくもないことではなく、さりとて四十九日と続くものでもなく、久しぶり、久方ぶりに再生した遠い記録は雨音と共に、指と踊るのだ。
普段から体の一部であるこの指も、この鍵盤も、この音も、浮び上がっては消えていく、ようするにアブクにも似たひとつの幻想であり、部屋の中をまさにアブクのように漂っていく色とりどりの音符の詩篇、音譜の紙片、それを生み出すためにあるものである。と、
――と、彼女は思ったのか、否か。
ただ、それとも、
「ふぁあ」
それとも、それとも、と、しつこく答えを追うほど老けてないし。
関係なしに、欠伸をひとつ。
「朝早かったんだっけ」
ルナサが視線を手元に落としたまま訊く。
「眠たい?」
「や、単なる心的ピリオド。の、つもり」
奥歯で残る欠伸を噛み殺しながら、私は答えた。
「そう」
ルナサは平然として答え一拍置くと、手にした皿を胸に抱いて、でも素直な疑問、と流し台から身を乗り出した。
「欠伸って意識して出せるものなの?」
「ぽいことは出来るよ。腹式呼吸の応用でさ」
「じゃあ私も出来るの?」
「姉さんじゃ無理でしょ」
「何でよ」
「腹芸とか、下手そうじゃん」
しゃーん。
「……」
「……失言」
誤魔化しがてら、私は鍵盤を叩くペースを少し速める。「そういやさ、」と話題を放る。
「メルランはゲップを狙って出せるって」
「あれは悪癖も究極ねー」
私は噴き出した。なんで知ってんのよ、と。
昨日の朝だってしてたじゃないの、とルナサもつられて歯を見せ笑った。何が何故だかげらげら笑った。「失礼な話しちゃって~」と声がした。
「へ」「え」
私達は同時に振り向き、朝風呂から出てきたばかりの次女の姿に二重の意味で絶望した。
流し台に置かれた皿が、水を一滴、滴らせた。
何故だかそれは、雨音よりも耳に残った。
雨は降り続いている。
#
ぼーっ、ぽっぼー。ぼっぽーっぽーっ。ぼーっ。
鳥が出たままの時計が、幾度かばねを弾いて的の外れた声で時を告げて、私は音符を浮かべる手を止めた。両手の平にふっと浮かべたキーボードに指を置き、耳を澄ませて視界を閉じた。
「……食後は乗り気になれないなぁ」
と、
「姉さんみたいな顔してる」
声のするほうへ目線を向ければ、訳知った気な顔でメルランが見下ろしている。鳥の出っ放しな時計の脇からず、ず、ず、と。上半身だけで。頬がやたらに赤いのは風呂上りの証明だった。
「なによ。ほかほかしちゃって」
「なぁんでも? 昼はちゃんと火も焚くわよ」
「失礼なこと言ってない?」
遠くでルナサの声がした。
「音速遅っ」「言ってないない。それよりさぁ、さっきみたいにお皿割らないでよ」
私が呟き、メルランが間延びした声で告げる。見ればその顔の下、半ばで止まった鳥の下には、脚立が置かれたままだった。
「……ふむ」
起き上がり、少し歩いて、よっ、と脚立に足を掛けた。軽く手を振り、「ちょい、姉さん邪魔ー」「はいはい~」爪先立ちで見上げると、薄く埃を積もらせる雲雀か何かと目が合った。
「……」
どこを見てるか解らない目。
「……こっちの方見ないで、」
よっ。と、
鳥の嘴を指で押し、き――――、と、木箱の中へ押し込んだ。薄闇の奥、軋む歯車が時計の過ごした年代を伺わせて、傍らで突き出るメルランは「壊れたわけじゃなくて、中身が死んでるわ」とか呟いた。「死んだものの立てる音は死んだ音。鬱な気分を呼び起こすの。嫌いじゃないけど、私はあまり好きじゃないわー。嫌いじゃないけど」
「ふぅん」
知った気な感じ。それなら、上の姉さんはそういうのが大好きなのかと尋ねたい。「こいつの元の鳴き声も、もう幻想の音なのかしらねー」そう私が言うとメルランは、にまぁ、と笑って壁に消えた。
「なによぉ」
凄んでみるけれど正直それも後悔した。膨らませた頬だけ損だった。まあ彼女は幽霊で、騒霊で、躁の気もある云わば躁霊。ましてや我が家の次女メルラン・プリズムリバー。壁にだって生えるだろう。その顔が、眼下からにゅっと現れて、
「姉さんのを手伝ってるんでもないんだったら、リリカ変じゃない?」
「わ」
何がよ。と問う。
「なぁんでも?」
顔が、今度は床から生えていた。「大体ねぇ」と綿菓子みたいな笑顔がジト目で言う。
「リリカの音は物珍しさがウリじゃないの。在り来たりな触れ幅の上下は上から下まで私と姉さんの領分なわけで」
「調子悪いなんて言わないけど」
続けざまの、今度は平坦な声。
「つまるところ、ネタ探しでもしてらっしゃい。って言いたいのよ」
少なくとも私はね。
気がつけば、皿の軋みは止んでいた。視線をやると、エプロンを後手に解きながら、ルナサは薄い眼差しとあるかないかも解らない薄い笑みで私を刺している。メルランは未だ生えている。
にまぁ、と笑っている。
なんだそれは。
「――、あー」
私は頭を掻いた。吐息を漏らしキーボードを消し、ふらりと立って、
「なんかなー、ちょっと出てくる」
「行ってらっしゃい」
「らっしゃい。まいど~。ぶくぶく」
ルサナは言ってテーブルに戻り、メルランは沈んだ。私は部屋を出ようとしてすたすたと戸口に手をかけて、そこでチャイムが鳴る。古ぼけた鐘の音に私は振り向いた。ルナサは目を細めた。もう線だった。メルランが「ぶく」と浮き上がった。またチャイムがなる。私は厭そうな顔をしたが、ルナサは一切の抵抗を認めず手を振るばかりで、メルランはにまぁと笑って、それでもまだそこにいる。いまくっている。
なんだそれは。
「すいませーん」
終には声がした。
依然鳴り響くチャイムに私は持てる力の限りに目を細めると「はいはい今すぐー!」不機嫌さを演出しながら部屋を出た。
「すいませーん!」
解りきってる。魂魄妖夢の声だった。
「あー、それと姉さん」
振り向き様に、指差して、
「幻想ってのはさ、別にレアものってことじゃないんだからね」
言うだけ無駄って解っていたけど、私は言った。
「解ってるわよ」
メルランはにこやかに頷いた。
「マイナーメジャーってことね」
「わざと言ってるでしょ」
「すいませんってば!」
魂魄妖夢の泣きそうな声だった。
雨は降り続いている。
#
この頃独白が増えた気がする。
そう、ちょうどこういう感じ。
これが姉のどちらかなら「ナイーブね」と言うか「にまぁ」と笑うか、どちらかか。まあ、彼女達は正反対なようで正しく反対だから、結局よく似たことをする。あんまり似過ぎて二人っきりで完結しすぎて、それこそ、
「私って他所の子じゃない?」
「はい?」
とか思いそうな程だ。まあ、それは単なる冗談にしても、
――じゃあ、彼女は?
それこそ何かの冗談のようで、それでも湧いてくる疑問。私は知らず眉根を寄せている。
「いや、実際どうなんだろ」
ふぅむ、と腕組みして考える。視界の端で緑と銀色のなにかが息を吐くような仕草をして、
「……独り言。酷い気がするけど、大丈夫?」
「ん、で、ああ、ご依頼なのよね。毎度あり」
「そうだけど、リリカ聴いてる?」
「いや」
整った髪と顔が頬を膨らませている。その膨れた頬だけが、やけに頭に焼きついた。
――ふぅむ。
好奇心が少し湧く。何気ない仕草で手を伸ばし、
「……なに?」
「そいっ」
「わ」
膨れた泡が弾けるように、打ち合わされた両手が妖夢の鼻先でぱちんと鳴って、声が上がる。私は伸ばした両手の向こう、広がった視界と途切れては甦る雨音を背にした妖夢を、今更に見た。
「はい。状況確認完了、と」
「はい?」
「や、問題ない。と言いたいけど、」
――結構やばい?
「駄目そうな感じね。ほんと」
「なんだろうなぁ」と額を小突く。喩えるなら、脳の裏庭に雑草が生えている。息をするように、耳の奥から雑音が生まれていく。がさがさして、とてもじゃないけど落ち着かない。私達みたいなタイプの幽霊はまさか、脳がレコード仕様。なんてことはないだろうか。
「まあ、ストレスのせいでいいわ」
「ストレス」
銀髪に、青っぽい目。おまけにいつもの緑に緑のカッパを着重ねて、傘代わりに刀を下げる魂魄妖夢は目を瞬いた。
「ストレスとは無縁そうに見えるのにね。貴方達とかは特に」
「まあ実際無いけどね。そういうの」
というか、突っ込まれると困っちゃうし。
「でも妖夢、貴方も半分はお仲間じゃない。半分くらい解らない?」
そう言われてみて、妖夢は真剣に考えたようだった。軽く一フレーズの雨音を挟んだ後、
「……いや、半分じゃはっきりとはねぇ」
というか、何でそんなことを訊かれるのか。という疑問が最後に発せられると、唇に当てていた指は傍らで揺れている幽霊分の自分を撫でる指にそのまま変わった。
「リリカ知ってる? 空気が肌に寒い日でも、元から寒い肌は寒くはならないのよ」
「あそ。で、いつも通りでいいのよね?」
「もっと驚いてよ」
ムッとして、向ける青い目でそんなことを言う。半人半霊というのはメンタルバランスが不安定なのだろうか。この子を見ると、いつもそう思う。
「とにかくそうね。いつも通りでお願いします」
妖夢は、かしこまった調子でそう言った。
「最近うちの幽霊も元気が有り余っちゃって」
「有り余るってことは、湧き出してくるのよね。幽霊の元気ってどこから湧いてくるのかしら」
「そうね、マッサージとか?」
「押したら生き返るツボとか、あるのよねー」
「それじゃあ幽々子様が自重してるわけないわ」
妖夢はおかしそうに手を振った。私もけらけら笑った。
「話が進んでない」
ルナサが背後に立っていて、その場はあっさりお開きとなった。
耳の奥の雨音が、まだ雨が続いていることを見るより先に伝えてくる。振り向いた妖夢は「合羽を着て来て良かったわ。半霊は元から冷えてるし」と当たりも障りもないことを言った。私は、思ったままにこう言った。
「でも凄い雨じゃない」
――カッパでどうにかなるものかしら。
雨は降り続いている。
『じゃあまあ、後。よろしく』
いつもの通りに館を出る時、ルナサは「今日はひとりで行ってくる」と言い残して妖夢と二人で出て行った。勝負は継続中だしね、と含みを残していく辺り、あれは牽制球だろう。
「いってらっしゃいー」
特に感慨も無く、手を振った。
私達のソロ活動は、今に始まったことじゃない。
手を振り見送った私からして、独立し始めた百一匹目の猿だった。どう数えても三匹だけど、あの姉二人が芋洗いを真似るように社交的になったとも思えないけど、事実。私達は、昔と比べれば一人歩きが増えていた。
そして今日、ルナサはひとりで行った。
元からソロでやるのが好きな性質ではあったけど、ただひとつルナサに誤算があるとするなら、近頃同じくソロにはまっているはずの次女のこと。
『年長者に学んでくるわー。背中で泣く方法とか、色々。鬱べし鬱べし』
――もちろんだけど、遠目にねー。
にまぁ、と笑っていた。
手は振ってやらなかった。
「時間巻き戻ってるんじゃないのー?」
朝と同じ。椅子にもたれ机に足掛け。膝の上にはキーボード。ソファーを更地にする元気があれば全身でアタックしたかったけど、と足を揺らす。椅子と目線とが僅かに傾き、見上げた天井がふらふらと流れていく。
あーあ、と呟いた。
「結局独立独歩じゃん。姉さんたち、読んでて出てったんじゃないわよね。や、あり得るかなー」
勢い任せで指を走らせ、適当に鍵盤を押し流す。適当なテンポで適当が音になって飛び出していく。適当な音は適当な調子で部屋を疾走し、
「げ」
が、
っしゃーん、ばり、ばりばり、
と、
「……っちゃー、」
背もたれを折らんばかりに首を曲げた。額に手を当て「姉さんじゃあるまいし」と小さく口を動かした。ぱらぱらと、欠片が床に落ちる音。
「……まーいいか」
思考が、てんでバラけて這い回る。
――一部の例外を除き、大抵の場合三人一組で行動する我が三姉妹は私的に大変都合がいい。元より旋律の補完を引き受けている私だから、オブラートの厚みだって思いのままだし、まして――、
「ンの、ああもう」
――音の根っこは姉が握っている分、苦楽は抜きにしてたとしても、私は随分楽な立場じゃないの。そう思うし――
「ちゃう、違う。駄目じゃんこんなの」
舌打ちするのはかっこ悪い。けどやった。
ちっ。
「戻ろ」
尻尾の丸まった思考を置き去って、私はすっかり風通しのよくなった部屋を出た。玄関を素通りしてから廊下を抜け、いつも埃っぽい階段を上って自分の部屋へ。ベッドにばふんと座り込み、
「ふぅー」
バネを揺らして寝転ぶと、何故荒れたかも解らない気持ちが何故だか随分落ち着いた。
自分以外誰もいないというのは今なら館全てにいえることだけど、自分の部屋というのはやはり特別な空間だった。
窓越しに聞こえる雨音は居間のものより部屋が狭い分より強く、ベッドから垂れ下がった踵が踏むカーペットの「ジャリッ」という音も掻き消すほどに厚ぼったくて、
「まだ早いけど、いい加減掃除するべきかなー」
呟いて靴の踵をぐりぐり動かすと、重たい雨音のその下でじゃりじゃり擦れる音がした。靴を履きかえる習慣は随分前から曖昧で、そのせいもやはりあるだろうけど、私は気にしない。
「まあ、気を取り直して」
寝て覚めたときと同じに、けれどずっと機敏に起き上がり、手の平を胸元で翳して「よっ」と念じる。重量を少しも感じさせず、真っ赤な羽根突きのキーボードがそこに生まれる。軽く叩いて、気持ちばかりの様子見。
「まずは音ありきだし、どうしよっかなー」
軽く握った拳が、原料不明の盤面を打つ度音がする。無から急に現れては消え、また現れたりするのだから、本来実体を持たないこの楽器、姉達や自分が持つこれらはあくまで幽霊に違ない。
「……」
眇めた目が、口の端っこが、好奇心に尻を蹴り上げられる。
「……そういや、手入れとか」
したことないしなー。
言い訳をしながら、視線の外へ腕を遣る。ベッドから手の届く範囲には大体のものが揃っているのが、不精者の生活術。さっと指先に掴んだのはこっちが使わないうちに勝手に渇いてしまったのでそのままに置き捨てた不義理不忠のペンであり、私がそれを盤面の継ぎ目に「どおりゃ」差し込むのに、躊躇があるはずもなかった。
ぎしっ、とペンの穂先が芯まで食い込む。音を立てているのが盤かペンかは解らないけど、まだペンは折れない。折れてない。
いける。
「さぁ」握りを逆手に、
「て、」手首を返し、
「と!」笑みを浮かべて思いっきり捻り、
いよいよ仕事道具の内部事情にお立ち会
――ばぎん。
致命的な音は、土砂降りの雨で聞こえなかった。
おびただしい鳴き声を空に響かせ、激しい雨の中鳥が飛ぶ。遠くプリズムリバー館が、緩々と、煙と音符を吹いていた。
#
「やあ姉さん」
「あらメルラン」
ルナサは冥界は落ち着きを湛え静謐を美徳とする世界だと感じていたし、であって欲しいという人並みな妥協と欲求もまた持っていたから、今日もまた、毎度のように雲霞と沸き立つ冥界の幽霊に「囀るべからず」と得意の沈鬱なメロディーでしょんぼりさせてやることに微塵も容赦はしなかった。それにいつもなら三人で演じるこの演奏も、ルナサ一人ならば三倍以上の速さで終わる。
当の依頼を寄越した西行寺家の幽々子さえ、
「あら、お早いのね」
と目を瞬かせ、誰よりしょんぼりしてみせた。
冥界を舞う桜に染まったの空の中、無用となった背中の扇と両手の扇子を、所在なさ気にぶら下げて。
「お嬢様が自重してくださっていれば、更に早く、それこそ一念で落ち着かせて見せますけれど」
見上げるルナサはにべもなく告げると、手にした楽器、手にしない楽器全てを宙に溶かし、手ぶらになって息をつく。幽々子はまた目を瞬かせて、頬に手を当て困ってみせる。
「妖夢の立場がないわねぇ。でも、音符も出ないうちに人の心に音は届くの?」
と、と地面に履物が触れると同時、背と手の扇も全て閉じ、次元を減らして消え去った。ルナサは答え、
「音はあくまで音。本物の音楽は音以外の全てで奏でるものなのよ。音は後付け。後から勝手に出てくるもの。……なのですよ」
慌てて語尾を付け加える。
「ああ、音自体には意味はない、っていつも言っているものね、貴方。でもそれ嘘よね。最近は」
それを気にするでも幽々子は薄い得心顔で、
「ねえ、妖夢」
それから桜弁が百数枚ほど冥界の地に落ちた頃、
――はーい、只今ー。
言ったと同時に立ち現れるメイドでもなし、半人半霊は未熟だった。遥か白玉の屋敷から駆けって来るその姿に、ルナサは「凄く耳がいいのね」と見当違いのフォローを入れた。
「そうね。足も速いのよ、凄く。ただし潰しの利かないスプリンターだけど」
幽々子も素知らぬ顔で言葉を受ける。ルナサは細めた眼差しでそれを眺め、
「短所を挙げればきりがないって顔してる」
「やぁねぇ」
幽々子は、今度こそ苦笑した。
そこにメルランが現れる。
「やあ姉さん」
「あらメルラン」
ルナサは先刻承知という顔をしてそれを迎えた。メルランもちょっと前から知られてましたという顔をして、
「面白いわ。リリカが愉快なことをしてるわよ」
ルナサはきょとんとした。
「貴方、私とあの子のどっちを見てたのよ」
「どっちもよ。私目がいいもん」
「そうだっけ」
ルナサはまたきょとんとした。そのうちに妖夢が辿り着き、「如何様でしょう」「うふふ、呼んでみただけ。ああ、嘘ウソ。お茶用意しておいて」「はあ」と元来た道を返していく。ルナサはその背に「よければ渋いのを用意しておいて」と呼びかける。
「はあ」と返事があってしばらくして、
「――あっ、はい! 解りましたー!」
訂正が返る。三人は笑って、後を追う。白玉楼の庭は広く、すっかりテンションを落とした霊魂が辺りをゆっくり漂って、この地の名前をその身で示しているかのようだとルナサは思った。
「ねえねえ姉さん」
「んー?」
舞い散る桜は秋桜。飛び舞う小さな花弁を見上げ、メルランは歩き揺れる視線を泳がせながら問いかける。ルナサは僅かに耳を動かした。
「ねえ姉さん」
「なに?」
「レイラのこと覚えてる?」
「さあ」
「あら、意外に淡白な反応」
秋桜の花の大海が大きく波打ち、風を運ぶ。
幽々子は時折瞬きしながら、歩みを止めて小道をそっと振り返る。
「……と、いうか」
ルナサは、前髪を風に任せるままに其処に立つ、ルナサ・プリズムリバーは、
「なんで?」
きょとんとした。
「彼女は死んだわ」
今更? という目をして、当然のことを告げる。当然のことを当然のように、当然と告げる。
「覚えてるわよ。貴方も覚えてるでしょ?」
当然と、問いかける。メルランは、口の端っこを持ち上げたまま其処に立つ、メルラン・プリズムリバーは、
「さぁて」
口の端っこを持ち上げたまま頷いて、風に乗るように、手を振り上げる。
「でも、レイラはいつも一緒じゃない」
桜弁が舞い散る。ルナサは頬に落ちる影に一度目をやり、次いで自分の頭上でくすくす笑う、逆さまになったメルランに、
「なに。身内同士で営業妨害する気なの?」
ジト目でそう呟いた。
逆さまのメルランはにまぁ、と笑う。
「心外だわー。これは姉さんの後始末よ?」
「これが頼まれた仕事。だったんじゃない」
「知ってる癖に。姉さん一人の音じゃあ、みんなしょんぼりしすぎなのよ。リリカはいないから、結局付け焼刃なんだけど」
む。と長女は口をつぐむ。
「それに、私も自分がしたいようにやるもんね」
そんなルナサの表情はどこ吹く風と、穏やかな空気は変わらず素肌を撫でていく。そして、
「――ああ、そういうこと」
ルナサは静かに目を瞬かせ、手を振り上げる。
光が点り、見慣れた器を形作る。膨らみ、撓り、
「確かにそうね」
ヴァイオリンが宙に生まれる。
「そうそう。解ってるじゃない」
メルランは両手の平を左右で広げる。そのスペースにボッと光が浮び出し、膨らみ、渦巻き、
「いつだってそう」
トランペットが誕生する。
二人は空を見上げる。
冥界の空は晴れている。
ルナサはヴァイオリンを手に取り肩に乗せ、顎で挟み、弓を握って、弦に置き、
「誰への曲?」
「世界中の人達に」
メルランはバルブを指先で軽く押さえ、くるっと体勢を後ろに倒すと、空に伸び行く金管に、「妹孝行ね」
「そりゃあもう」
すうっと胸を膨らませ、
すいっと弓を摘み上げ、
ふうっと息を送り込む。
ふわっと弦に滑らせる。
吐息は音になり、音は波になり、波は空になり。
舞う秋桜の波の中、吐息は空に、
「格好つけね。貴方達」
誰がそのときそう言ったのか。
「ほら、見てご覧なさいな」
扇子が翻る。口元は窺えない。それでも笑みを確信させる声色で、扇子を返し、西行寺幽々子は空を見上げた。
「今が春じゃなくて残念だわー」
その呟きは、その場の誰にも届かないまま静かに消えた。ただ、
「この時期宴会なんてごめんですよー」
妖夢は、はぁと吐息を漏らした。
「……って、あれ。幽々子様?」
湯さしを傾けたまま、振り返り見回した厨の中は薄暗く、茶出しの香りが段々と薄まっていっても、窓から注ぐ影がゆらゆら揺れても、しばらく少女は目を瞬かせていた。
「ちゃんと見ていたつもりだったんだけどねぇ」
――心配はいらない。あの子たちのことは。
結局、そう思っていただけだった。
『冥界の空はいつも晴れている』
いつか天狗の特集記事に、こんな書き出しが載っていた。
『それは第一に其処が雲の上に位置しているからでもあるし、主の心が、曇ることを知らないからとも言われている。』
「背伸びしすぎたのかしら」
ルナサは上を見上げたまま、顎を傾ける。弓を静かに弦に乗せ、気の向くままに傾けた。
「見てみなさい。お嬢様」
呆れたわ。と視線だけを傍らにやり、
「……ほんとにもう」
一人きりで、また息を吐く。「呆れた」と。
冥界の地に、無数の影が落ちていた。
影は揺れ、回り、踊るように空を巡り、実際に踊り、巨大な雲を形成し、冥界の空を覆うそれらを、黒くシルエットに変えて流れる。雲にならないもっと多くの霊魂が、その周囲を遠大な半径で回遊するかのように、尾をなびかせ飛んでいく。白玉の星雲が、冥界の空を流れていく。
その流れの中心でメルランは、高らかに笑ってトランペットを天に翳す。そこから漏れ出す心の波に雲は乗り、波に合わせて宙を舞う。
「いい波だわー。もっとやっちゃってー」
幽々子は舞っている。羽のような笑顔を浮かべ、ただ波間で蝶のように舞っている。メルランは、
「合点承知ー!」
天井知らずの笑顔を浮べ、輝く光を空に撒く。光は次の瞬間から様々な楽器へ姿を変えて、操りなれた手足のように更に光を撒いていく。
腹からの声を空に放つ。
「まだまだ足りないかしらー!?」
星雲の流れは留まることを知らず、
「よぉーし!」
楽器から溢れる波が、光と風を伴い空を奔る。
「青天井も抜いちゃって、もっと高ぁい大空まで、いっちゃいましょうかどこまでもー!」
雲が踊る。霊が踊る。蝶が舞う。
「それじゃあ、私はここまでね」
見上げた空にルナサはこぼす。ヴァイオリンを、奏でる腕はそのままに、
弓を引く。
その音に、特殊な力は何もなかった。代わりのように風が舞い、桜を一斉に空に舞い上げた。高く高く、それは冥界にはあるはずのない雲に届き、波に乗り、テンションに乗せられ、漂い始める。
「――確かに、」
腕を返し、弓とヴァイオリンを逆手に握った。
「いるのかしら。ここに」
視線を持ち上げ、ただ風の中に身を晒すと、ルナサはふうっと息を吐いた。
「けほ」
「わっ」
遠く屋敷で、妖夢が縁側から空を見ていた。
「凄い。冥界に雨が降るなんて!」
舞い上がった桜弁が静かに舞い降り、冥界の地に、ゆっくり帰り始めようとしていた。
――雨って言うより雪じゃないかしら。この場合。
さくさくと、歩きながらにルナサは思う。
ここの庭師ってどうしてこう、と。
「でも――ほんと、背伸びしすぎた」
格好はつけたくないし、流儀じゃない。でも、花を添えるのは端役の役目だと思っている。けど、
「ほんと二人じゃあ、またやり直しだじゃない」
三人の騒霊は、三匹の鼬にも似ている。
「まだまだ、独り立ちは難しそう」
ルナサは空を一度見上げ、
「そういえば」
思い出した、と足を止めた。何となく振り返ると空から零れ落ちてくる風が、体をびゅんと追い抜いていく。空から零れ始めた桜の雨の中、妹と亡霊の姫と夢幻の霊の舞う空の下、
「リリカ、どうかしたんだっけ」
ぽり、と頬をかく。三人姉妹の長女は、あくまでもいつもの曖昧な眼で呟きそして、
「まあいいか」
幽かに微笑み、そのまま屋敷へ向っていく。
また風が走り、桜の欠片が舞い散った。漏れ出た魂は形をとり、風に巻かれ静かに揺られ、空へとゆっくり、昇っていく。
冥界に雨が降った日と、その日妖夢は記した。そして『雨』に『云』と書き足された、その日の日記を後日見て、二重の意味で妖夢は嘆いた。
うちの主ってどうしてこう、と。
『……え? だって雨じゃ水腹になっちゃうし、雪はお腹が冷えちゃうわ』
――雲が一番、お腹が膨らむのよねー。
後に天狗はこう記している。
「西行寺の幽霊嬢、後かく語りき。
げに冥界に雲は湧きまじ。
文々。」
#
雨音は絶えない。
記憶は消えない。
これが二度目の夢という確信はあった。彼女が風邪をこじらせた後、今度は私がこじらせた。
見覚えのある風景。映画のワンシーンにも似た光景。私はベッドから身を起こし、背中を向けた、視線の先の彼女を呼んだ。
――ああ。目ぇー覚めたんだね。
背負った影はそのままで、返事があった。
視線の先には、窓と窓際のテーブル。
彼女は椅子に座って振り向かないまま、何かをずっと続けていた。硬質的な音が、部屋に静かに木霊している。何かを書き留めているのだと、私はおぼろげに理解した。
――ちょっと待ってて。もうすぐ終わるから。
「なに書いてんの?」
――ん、もうちょっと。
彼女は、それでも数秒答えを据え置き、最後に大き目の音をピリオドに、「ふう」と椅子を振り向けた。「はい、おしまい」と指先に翻すそれは、
「……なにこれ」
彼女がぶら下げた紙を、私はまじまじと眺めた。やたらめったら大きな文字に、子どもっぽい筆致、『このやしきをおゆずりします』。
そう書かれた紙切れをひらひらさせて、
――どう?
彼女は尋ねてくる。私は見上げ、即答した。
「へたくそ」
――上手く書けないんだからしょうがないじゃん。
むぅと眉を上げて、弱気な調子で彼女は言った。
「……ていうかさ、これ」
紙を受け取り、更に見つめる。紙の隅には彼女の名前が、譲渡のサインとして記してある。
「遺言じゃないわよね」
――いや、そうなんだけど。
「今更?」
ぱき、ん。
雨音に埋もれた部屋のどこかで、響く鋭い破砕音。ポルターガイストの悪癖だと彼女はいつも言っていたけど、未だに取れないこれは癖というより性なんじゃないかと時々思う。その彼女は今、ただ瞬きをしながら私を見ている。
――言い争うのこそ今更なんじゃないの?
「……」
私はもう、全ての抗弁は無駄だと思った。
「……かもねー」
つまらなそうに呟いて、私は全部誤魔化した。
「正直な話ね」
不思議な雰囲気だった。
言い争う気は何も湧かないのに、会話を途絶えさせるのが、何故だかとても怖かった。
「いつまでも、誰も死んだりしないでさ、ずっとこのままだと思ってた」
――そう。ごめん。
「甘かったなかなー」
――かもね。
「曖昧さは救いなんだろうね」
――うん。
「あとどれくらい」
――知らない。
「それも救い?」
――どうだろうね。
「字、ほんとへたくそ」
――似たり寄ったりの癖に。
「私の方が上手いわね。ゼッ、たい、にっ」
――どうだか。
うだうだと、私達は語り合った。
彼女は家の財産全てを譲渡すると言っていた。つまんない話だった。どれも四セットあるカップやお皿は、好きにすればいいとも言っていた。多分、ずっとそのままだろうと私は言った。彼女も、多分そうなると頷いていた。雨垂れが流れ、影を少しずつ伸ばしていく。
これは余談。
楽器は好きにすればいいとも言っていた。
彼女は音楽は聴くのも奏でるのも好きだったけど、上の三人はそうでもなかったらしい。最初は元の姉さん達そのままが欲しかったけど、結局は諦めたとも言っていた。自分の力の限界、自由意志の尊重、難しいことは解らないけど、と。彼女は自分で言って、自分で笑って、そして自分で、少し泣いた。
――本物になりたい?
そんな彼女の問いに、私は結局答えなかった。
強い風が、窓を細かく震わせる。暖かくしようか、と彼女は言って、視線を遣る。たちどころにボッと音がして、赤々とした光が揺れ始める。
「ねぇ、最近調子がおかしい気がするんだけど」
二人してベッドに腰掛け、私達は喋り合った。
――どんな風に?
「なーんか、テンション上がらないんだわ。いつも通りに上手くいかないしさ、妖夢に会った時も、何かぼんやりしちゃってて」
――そうねぇ。
彼女は楽しそうに思案して、そうだという風に手を打った。「いい薬があるわ」そう言っていた。
――まずは小さいグラスと、
ポン、と片手にグラスが出てくる。
――次に、ちょっとしたお酒。
どこからか、ふらりと飛んできたボトルがひとりでにコルクを吐き出すと、グラスの真上で頭を垂れた。
「飲めって?」
――そうよ?
「そっちも飲んでよ。飲み比べ」
――子どもになにやらせる気よー。
それでも、苦笑する彼女はグラスを二つ、手に載せた。「何に乾杯する?」私のその問いかけに、
――そうね、『世界中の人たちが、どうかずっと、ずっと幸せでありますように』。
彼女は答えて、笑った。
「見上げた心がけ」
――他愛のない願い事くらい、スケールは大きく行きたいものねー。
私達は、一度だけ乾杯をして、一口に喉を鳴らして、燃えるような液体を飲み干して、そのままベッドに絡み合うようにして、どさっと倒れた。
「ねえ、」
――なぁに?
二人とも、息が少し荒かった。
「これ何に効くの?」
――心の燃料よ。元気が出るの。それだけ。
「それだけ?」
――それだけ。あ、あとはあれかな――っうぷ。
僅かな空白の時間が過ぎていく。
それから二人して数十秒も笑い合って、理由も解らず大泣きもして、勢い任せで怒鳴り合って、降り続ける雨に負けないほどにケンカもして、
――ねえ姉さん。もう一枚、紙余っちゃったんだけどさ、なにか書かない?
「そうねー……あ。んじゃあさ――」
――あー、面白いかも。決定!
「よぉし、私の方が字が上手いってこと、すぐに証明してあげるわ」
肩を寄せ合ってペンを紙面へ走らせながら、「下手くそ」「そっちこそ」と言い合った。飽きるまでそうして手を動かした後私達は、そのままベッドに倒れ込む。
「ねえ、レイラー」
――なにー、姉さん。
「レイラはさ、この後死んじゃったんだよね」
耳まで真っ赤だと思った。息のひとつひとつが吹けば燃え上がりそうに熱かった。雨に埋もれたこの館の、雨音に埋もれたこの部屋の中で、私達だけが確かな熱量で存在していた。彼女は、一度答えに躊躇ったように私には見えた。
――……ごめん、もう帰らなきゃ。
「嫌よ」
――過去は縋り付くものじゃないんでしょ?
「知らない」
彼女は少し困ったような笑みを浮かべて、
――姉さん、わがまま。
何かを叫んだ気がした。
ただ、はっきり覚えているのはそこまでだった。
感情の爆発は後にも先にもその時の一度きりで瞼の重い私の意識はそこで、唐突に終わっている。
醒めた夢は急速に頭から熱を奪っていく。
そして知らしめる。突きつけるのだ。
妹が死んだのは、それから数年後のことだった。
#
気がつけば、私は空を見つめていた。
溢れ出した音符も、沸き立った砂埃も既にない。身を起こしても、さっきまでと何も変わらない。
「……ん」
ぐい、と目元を拭う。
「うわ。ぐしゃぐしゃ」
手を振ると、水滴が弧を描いて床に散った。私は指先に残る、水滴になりきれない僅かな水分を頬に勢いよく擦り込むと、最後に両手で、
「痛いっ!」と頬を張った。
「――うぅ、予想通り」
凄い痛い。と呟きながら辺りを見回す。部屋は天井の大穴を除けば、何も変わっていなかった。我が魂のキーボードは、ベッドの上で僅かに煙を噴いていた。その渋るような燻りが、ぽかんと見つめる犯人への抗議に見えた。
「……あー」
赤子をあやすように、手元にぎゅっと抱きすくめる。「ごめんごめん。つい好奇心でさー」くるりと返して指を滑らすと、鍵盤は、釈然としない、という様子で一度煙を吐き出すと、ぽろぽろ旋律を紡いでいく。
「よしよし。ありがと」
私は似合わない笑顔で盤面を撫で、そして盤面の切れ間から僅かに飛び出た紙片に今更ながらに気が付いた。す、と手を伸ばし、紙片の端をつまむと、譜面みたいな落書きが覗く、私は、
「――」
私は、自分でもよく解らない顔をして、
「封印っ」
ぐいっ。と内部へ突き入れる。奥のほうでがさりと音がすると、私は盤面の歪みを元あったように押し直す。心なしか、胸が少しだけ熱かった。
「恥ずかしいなぁ。ほんと」
――過去は、背負って歩いて、自慢する。
「そう決めた。……さぁて、活動再開かしら」
今は勝負の真っ最中。
「姉さん達には、負けてらんないしね」
その背後で、ぽたぽた雫が落ちては跳ねる。空まで抜けた屋根の下、小さな溜まりができていく。
煙と音符は昇っていく。
激しい雨は誰の意図も解さないようにただ降り続け、その中を昇る煙は段々と千路に散っていく。
音符はただ昇っていく。
激しい雨は雲の只中を過ぎていく内に消え去り、飛び出した空の上では全くの皆無になっている。
音符は風に揺られている。
巨大な雲が、天を、地を、ゆっくりと滑る。
遠く去って行った雨雲を七色の橋が追っていく。紅く染まった空の下、薄紅色の雲海の上を大きな橋が伸びていく。
音符は一瞬膨れ上がった。そして虹色の橋を越えたところでぶるりと震え、弾けて消えた。
入れ替わり、鳴り始める音がある。
まだ夜闇の遠い夕焼けに、旋律が零れていく。それは酷く調子っ外れで子どもじみていて、そしてどこか、笑い出す寸前の少女の笑みにも似た、そんな旋律に思えた。
音色に染まる空の下、雨は降り続いている。
もうしばらくは。
〈終〉
その様はなんだかとてもあやふやな何かが館の有様、在り様を、根底から抜き取っていこうとしているようにも当時の私には見えていた。
――今日はあなたひとり?
映画のワンシーンみたいな光景の中。
――どうしたの。こっち来たら?
その日風邪をこじらせていたその子は部屋を訪れた私に確かそんなことを言って、脇から椅子を寄せてくれた。私達が生まれるずっと前から、この子はこういうことが得意だったそうだ。
――けほっ。
始めは小さな吐息。それは次第に大きくなり、彼女はベッドの中で背中を折って、少し咳き込む。
そしてようやく、治まった頃に掠れた声で、
――元気なさそう?
笑って、おどけた調子で言った。
もちろん、薄っぺらだとは思わなかった。
ただ私はといえばやはり難しい顔もできないで、極めて薄っぺらな調子で「どうだろうねえ」と返すのだ。
――そっかー。しかし、むぅ。
雨は降り続いている。
その子は、笑った後に頬を膨らせて呟く。
私はといえば、やはり難しい顔はできないで、極めて軽薄な調子で「外見てみた? 凄い雨」と問いかけた。
それを聞き、その子は静かに喉を鳴らしていた。
――今朝から皆そう言うんだから。他に言うこと、
「けほ」と、また咳き込む。
「調子悪い?」
私は多分、情けない声で訊いていたんだと思う。顔の窺えない彼女はそれに震えを更に強めて、
窓がびりびり鳴るくらい、笑った。
「なに?」と私は訊いた?
――そ、んな心配しないでいいから。死んだりもしないから。ね? 姉さんらしくなさすぎ、っは。
雨は降り続いていて、声は掠れたままだった。けど彼女は、それでも風が窓から吹き込むような透明な声で笑っていた。
――大丈夫、大丈夫だって。
その時の私はそんな曖昧な答えに多分、納得したような顔をした。
実際、それはただの風邪だったし、他の二人も別段深刻に考えてなんかいなかった。
雨はやたらに降り続けて、半分開いて、完全に閉じきらない窓はずっときぃきぃ揺れていた。
それが過去。
――ねえ、ひとつ面白いこと思いついたわ。
私は昔の私を責めない。でも尊重もできない。
過去は、確かに拠り所だけど。と、
――だいぶ後のことになるかもしれないけど、
少なくとも、今の私はそう思う。
――今よりもう少し、後になるかな……。ああ、でも、
ただ、それでも。それこそ今になってこそ、後悔とかを感じることもある。けれど解っている。どうにもならないことがある。それは過去のことであり、自分が生まれる前のことであり、時たまふとしたことから思い出すようなことでもある。
――やっぱりパス。もうちょっとだけ秘密かな。
全ては流れていく。
雨は降り続き、続いていく。
――ごめんね。でも、これ、妹からの伝言ね。
全ては変わっていく。それでも、
――忘れないでよ? 姉さん。
色濃く染み込んだ記憶の底で。
#
「――」
曖昧なままに、目が覚める。
自分がベッドに、いつも通りに納まっていることを確認してから薄目を開く。いつもの通り暗く、白けた光は遠くけれど確かに灯っていて、私はその絶妙な距離に手が届きそうで、届かなくて、
「……んー」
顔を上げて煙のように、少し重たいベッドを抜ける。ついた足元が一瞬沈む。
カーテン越しに漏れる光は白々しい上まだ頼りなく、どこかゆらゆら揺れていて、冷えた空気は肌着を通して肌を突く。暖かくなく変わらないカーペットの感触を確かめながら壁に架かっていたほとんど真っ赤の上着を羽織った。帽子は取らず、枕の形にへこんだ髪を手櫛で梳かす。何度か掻くと、湿気た髪は当然というように指に絡まった。
「降りようかな」
ベッドに転びまた髪を弄って、体が寒さに慣れた頃、起き上がって私は一人、部屋を出た。
高い天井からぶら下がる、煤のかかったシャンデリア。年に一度の大掃除までは、まだ当分の間があった。
「姉さん、起きてないだろうなー」
――何食べようかな。
幅広な階段を踏みながら、キッチンでの段取りを考えながら、廊下に降りた。
ぎぃと。つっかけの下で床板がしなり、廊下の端まで一際高い軋みが上がり、
「いっ」
私はぎょっとして、所在の知れない罪悪感に周囲を見回す。音はもしかすれば窓の外の庭園まで届いたかも、と思うほど、耳に無闇に響いていた。
「――――いやま、」
居ないよねぇ。
声になるほど、大きく息を吐き出した。
また、私は廊下をきしきし歩く。窓の外では、見れば降りしきる雨粒ばかりでよく見えない。
朝の始まりは白く曇っていた。
がちゃり、というドアノブの音がやけに重たい。
家の角にあるものだから、窓とガラス戸で二面が埋まり、やけに開けて見える部屋に顔を出す。
元来趣味以外には徹底して不精で物臭な私達だからしてキッチンとリビングも兼用で、流し台の向こうではソファーとテーブルが互いに噛み合い、その上には譜面の走り書きが山となっている。足を踏み入れると廊下よりはいくらか暖かく、見れば譜面を一枚踏んでいた。いつか姉のどっちかが言っていた。試しに書いてみたといっていたけど、結局馴染まないからと投げたようで。
案の定、誰もいない。
「あちゃあ」
でもまあ予測の範疇。と呟きながら少し歩き、壁に埋まった暖炉の側で膝を折る。薪が切れてるのを確認して更に「あちゃあ」と額を打った。「姉さん、また忘れたな……」
遠い雨音が、静かに天井から染みてくる。
雑貨ばかりで何かと狭いこの館でも、広さを感じるのは自室とここと、後は風呂場の他にない。暖炉を見限り立ち上がると、私は適当に部屋を見回す。長いテーブルに指を滑らせながら鳥の飛び出たままの時計を流し見つつ脇を抜け、最後に、窓の向こうを見た。
「うわー」
改めて、酷い雨だった。
白い軌跡と朝霧で、庭の姿は全くといっていいほど窺えない。開ききった蛇口を曇り空いっぱいに据え付けたように、雨音は止め処ない。
「雨音は嫌いじゃないけど」
ひたすらに降りしきるその様に。
「在り来たりだよねえ」
雨と霧に埋もれた景色。その様相もまた見る間に湧き出す露に埋もれて、私は窓から手を離す。「もちっと厚着するべきだったかなー」と腕をさすって震えてみせた。実際、抱いた二の腕は思った以上に冷えていた。
窓には手形の輪郭が残っていて、デッサンの崩れた紅葉が一枚貼り付いているようにも見える。そしてすぐに周囲に溶け、雨垂れを透かしていく。
「……ほんと、凄い雨」
と、情感溢れる声で言ってみる。
「ふぅむ」と息をつき、椅子を引きながら考える。腰を掛けて肘をつき、横目に窓を眺めて露の流れを目で追って、「ふぅむ」とまた呟く。
朝の定例行事を、腹の中身が呼んでいる。
生きちゃあいないのに。
「何か作ろうかなー」
ぽつりと漏らせば、気の早い私はもうそれだけで思い立つ。がたんと勢いをつけて椅子を引いた。
「それじゃあまずはパンから焼いて、」
昨日のままに流しに置かれたエプロンを掴んで腰を突き出し後手に巻き、
「――そうだ、それからハムエッグ」
という所まで考えて、「あ」と後ろの暖炉に思いが至る。
「あちゃあー」
薪がない。つまるところは火力がない。火力がなければ火が出ない。そっち方面の担当は、
「……二番目かー」
雨露は窓を伝い雨音は窓を叩き、変わらず、じわじわと館を覆っている。姉さん達が一人一人と降りてくる、少し前の時間。
雨は降り続いている。
#
「私さ、思いついたのよ良いこと。面白いこと」
いつものように雑音の多い朝だった。
二番目の姉さんのメルランは、いつものように藪の中から口火を切る。
「良いこと? それとも、面白いこと?」
どっちよ。と一番目の姉さんのルナサはいつも通りの低気圧で、
「けほ」
おまけに喉が枯れていた。
「良いことで、面白いことよ?」
それに対して、メルランは常に高気圧。雲を押しのけて、地上に太陽を拝借してきたかのようなご機嫌だ。それもまた、いつも通りのことだけど。
「例えば?」とルナサは問いかけ、泥水みたいな珈琲をすする。喉を鳴らして、たちまち渋い顔をして、「溶けてない」と呟いた。
「リリカ。これ水のまま溶かしたの?」
「だって火がなかったんだもの」
「メルラン?」
「だって雨が止まないんだもの」
「リリカ?」
「や、一周しないでよ」
口を少し開いたまま、ルナサは押し黙る。私達はまた食事を再開する。かちゃかちゃと金属音が響く中、一番目の姉さんは曖昧な目を所在なさ気に左右に振って、
「……こんな時、」
「へ」
「誰に目を向ければいいのかしら? こんな時」
カップが静かに、けれども私達からすれば破格の乱暴さで音を立てて置かれた。泥水が大きく波打ち「姉さん」と私が言うより早く、瞳がぐっと睨みつけ、への字を結んだ口が言う。
「何よ」
しゃーん、
と、何処かのガラスが砕けた音。
硬化した私と姉さんを他所に、メルランは頬をもごつかせながら言ってのけた。
「んー、景気のいい音ね。お祭りみたい」
「姉さん。騒霊の本分全うするのはいいんだけどさ、やるならなるたけ他所でね」
「ごめん。以後気をつける」
「それだって何度目って話よねー」
「ねー」
私はメルランと一緒にけらけら笑った。
ルナサは小声で何かを呟き「駄目ねえ」と結局天井を見上げていた。私は話を仕切りなおす意味で、テーブルの角を軽く小突いて音を立てた。
「……で、姉さん、何を思いついたっていうの? 具体的な話じゃないと私には解んないわ」
ルナサの釣り針にかかったような姿勢の横で、私は改めて姉さんに訊く。メルランはうんと頷き、
「折角の雨と考えるべきなのよ。ここはこの季節ならではの新曲を作りたいわ~」
「なるほど」
雨の日なんてものは、我が家にすればルナサとルナサのヴァイオリンのテンションが一オクターブ下がるだけの只の自然現象であり、それ以上でも以下でもない。変化を求める私の心はその申し出に諸手を上げた。
「いいじゃない。姉さんにしては珍しく一本筋の通った意見だわ」と視線をずらし「そっちの姉さんもどう?」
「首が疲れる……。あと目も」
明後日の発言が返ってくる。私は根気よくつばを散らし、内省の止め処を適当につけさせる。
「……なるほど。確かにメルランにしては言ってることの前後に脈絡がある」
「凄いわ。快挙かも知れないわねえ」
自分で言う次女に私は賞味期限も曖昧なサラダの皿を脇に寄せて告げる。
「で、調子はどうすんの。またフィーリング?」
メルランはそれに目を瞬かせ、
「あら、貴方達も作るの?」
「はい?」
私は脇に寄せていた賞味期限も曖昧なサラダの皿を胸元に戻し、キャベツの芯を特に意味もなくばきりと噛んだ。
「あー……?」
ルナサはなんとか飲み干し空になっていたカップを手繰り寄せ、粉っぽい珈琲をまた並々と注いで流し込む。瞳が潤む。
「苦」
がっしゃ、と何処かの花瓶が割れた音。
「……姉さん自重」
「反省する……」
『で、』
二人揃って二重の意味で苦い表情で問い返す。
『ひとりでやる気?』
「ええ。なんとなく」
メルランは綿菓子のように笑った。遠目には柔そうだがいざ触れてみるとあまり気持ちのよくないあの感触。ねばっこい。
「無理だあー」
「無理ね」
二人して言い捨てる。
「そう? じゃあ比べあいましょ」
メルランは、多分なにも聞いていない。
「比べるって?」
「三人それぞれがソロで曲を作るのよ。雨が止むまでが期限で、その後どっかで聴いてもらえばいいじゃない」
メルランはやはり綿菓子の笑みを浮かべていた。私は「うさんくせー」と思いつつも考える。
長雨の季節はもうすぐ終わるのだ。ネタを集めて一日、練り上げ、形にするのに一日。雨上がりと同時に完成させるならちょうど良いじゃん――と、私は自分が幾分乗り気なのに気がつきつつも、
「姉さんやる気?」
隣の姉に問いかける。ルナサは「ん?」と視線を向けて、
「あら、私は賛成するわよ」
素っ気無く告げる。メルランはふぅんと呟いて、
「早いのねえ決断。そりゃあ受けるとは思ってたけど。予想外」
「私は常日頃から、妹の自主性を尊重、及び、育もうと思ってねえ」
「はい、はい。もっともなご意見でございます。ご高説、痛み入りますっ」
私はシニカルに膨らませた頬はそのまま、冷たいテーブルにうつ伏せた。
「ぶっすー、よ。ちぇー、何さ何さ」
「茶化さないの」
そう言うルナサも、どこかの幽霊お嬢と一緒。メルランも、私も、みんな頼りないと思ってる。
「姉さんもさ、自分のことっていうか、自己鍛錬とか、そういうのしなよー。絶対よ?」
「だから言ってるじゃない。私もやるって」
「三つ巴ねぇ。私は誰を食べちゃおうかしらん」
とぽとぽ。はむはむ。
粉っぽい珈琲がまた注がれている。賞味期限も曖昧なサラダが、向かいの姉に現在進行形で頬張られている。
「……冷たいー」
うつ伏せると、頬から熱が逃げていく。代り映えのない天気のせいで館中、どこもかしこも冷え切っている。頭にしろ手にしろ、体を動かす必要があるかな、と思った。
「――よし、オッケー」
テーブルを押し顔を上げる。
「やってろうじゃない。姉さん方、私はどっからでも受けて立つわよ」
「そうそう。それでこそ、俄然盛り上がってくるってものよねぇ」
「今回は、当然だけど手伝い禁止よ」
そう言って、私も私の姉たちも揃って笑う。
カップもお皿も、すっかり空になっていた。
ルナサは、規則正しくリズムにのっとって食器を水に当てていく。手が音色を確かめる度にむずがゆいタオルの音に混じって音符が生まれ、ゆらゆらと天井に昇っていく。
「手入れが要らない分、私の楽器って楽ねー」
インストルメントとかじゃない。「楽器」っていいネーミング。
指を押し込む。鍵盤が鳴き、音符がまたひとつ。
「まあー、音質が環境により変化するのも楽器の面白いところだと思うけどさー」
と、私は深めに指を沈める。紐を解いた風船のように音符が湧き、その向こうで皿をタオルで回すルナサが、
「というかさ、リリカは元から無縁じゃない。キーボードだし、そういうのって」
「や、私の楽器は私が鳴らしてるんでしょ」
「鳴らすのと鳴るのは違うじゃない。貴方は貴方の楽器が音を鳴らす原理を熟知した上で鳴らしてるの? そうは見えないけど」
「や、フィーリングで鳴らせてるだけ。ご名答。便利でしょ?」
「便利だけど、それが全部じゃ薄っぺらね」
「薄っぺらぁー?」
私はムッとして、鍵盤を奏でるままに言い返す。
「本物の全部なら縦横高さ完備してるってものよ。私の楽器は幻想の音そのもの。音のデパートなんだから」
「音楽の切り売りは感心できない」
「外の世界には色々と便利なものがあってねぇ。音を溜めておける円盤とかさ」
「勉強熱心だこと」
そう嘆息するルナサは、そこでなにやら真剣な様子で考え込んだようだった。皿回しの手を止めて、「そうねえ……」としばし停滞。曖昧な目でうーんと唸り、
「まあ、言われてみれば、便利かも」
「よねー」
「その円盤が」
「ちょー」
また皿が回る。私は窓際の壁にもたれかかって、鍵盤を膝に挟んで抱く。水音が続く。食器が軋む。 姉は真っ直ぐで騙されやすい。窓の向こう側で雨が降る。雨音が続く。視線を空気に放流する。
「――んー」
彼女のことを思い出すのは珍しくもないことではなく、さりとて四十九日と続くものでもなく、久しぶり、久方ぶりに再生した遠い記録は雨音と共に、指と踊るのだ。
普段から体の一部であるこの指も、この鍵盤も、この音も、浮び上がっては消えていく、ようするにアブクにも似たひとつの幻想であり、部屋の中をまさにアブクのように漂っていく色とりどりの音符の詩篇、音譜の紙片、それを生み出すためにあるものである。と、
――と、彼女は思ったのか、否か。
ただ、それとも、
「ふぁあ」
それとも、それとも、と、しつこく答えを追うほど老けてないし。
関係なしに、欠伸をひとつ。
「朝早かったんだっけ」
ルナサが視線を手元に落としたまま訊く。
「眠たい?」
「や、単なる心的ピリオド。の、つもり」
奥歯で残る欠伸を噛み殺しながら、私は答えた。
「そう」
ルナサは平然として答え一拍置くと、手にした皿を胸に抱いて、でも素直な疑問、と流し台から身を乗り出した。
「欠伸って意識して出せるものなの?」
「ぽいことは出来るよ。腹式呼吸の応用でさ」
「じゃあ私も出来るの?」
「姉さんじゃ無理でしょ」
「何でよ」
「腹芸とか、下手そうじゃん」
しゃーん。
「……」
「……失言」
誤魔化しがてら、私は鍵盤を叩くペースを少し速める。「そういやさ、」と話題を放る。
「メルランはゲップを狙って出せるって」
「あれは悪癖も究極ねー」
私は噴き出した。なんで知ってんのよ、と。
昨日の朝だってしてたじゃないの、とルナサもつられて歯を見せ笑った。何が何故だかげらげら笑った。「失礼な話しちゃって~」と声がした。
「へ」「え」
私達は同時に振り向き、朝風呂から出てきたばかりの次女の姿に二重の意味で絶望した。
流し台に置かれた皿が、水を一滴、滴らせた。
何故だかそれは、雨音よりも耳に残った。
雨は降り続いている。
#
ぼーっ、ぽっぼー。ぼっぽーっぽーっ。ぼーっ。
鳥が出たままの時計が、幾度かばねを弾いて的の外れた声で時を告げて、私は音符を浮かべる手を止めた。両手の平にふっと浮かべたキーボードに指を置き、耳を澄ませて視界を閉じた。
「……食後は乗り気になれないなぁ」
と、
「姉さんみたいな顔してる」
声のするほうへ目線を向ければ、訳知った気な顔でメルランが見下ろしている。鳥の出っ放しな時計の脇からず、ず、ず、と。上半身だけで。頬がやたらに赤いのは風呂上りの証明だった。
「なによ。ほかほかしちゃって」
「なぁんでも? 昼はちゃんと火も焚くわよ」
「失礼なこと言ってない?」
遠くでルナサの声がした。
「音速遅っ」「言ってないない。それよりさぁ、さっきみたいにお皿割らないでよ」
私が呟き、メルランが間延びした声で告げる。見ればその顔の下、半ばで止まった鳥の下には、脚立が置かれたままだった。
「……ふむ」
起き上がり、少し歩いて、よっ、と脚立に足を掛けた。軽く手を振り、「ちょい、姉さん邪魔ー」「はいはい~」爪先立ちで見上げると、薄く埃を積もらせる雲雀か何かと目が合った。
「……」
どこを見てるか解らない目。
「……こっちの方見ないで、」
よっ。と、
鳥の嘴を指で押し、き――――、と、木箱の中へ押し込んだ。薄闇の奥、軋む歯車が時計の過ごした年代を伺わせて、傍らで突き出るメルランは「壊れたわけじゃなくて、中身が死んでるわ」とか呟いた。「死んだものの立てる音は死んだ音。鬱な気分を呼び起こすの。嫌いじゃないけど、私はあまり好きじゃないわー。嫌いじゃないけど」
「ふぅん」
知った気な感じ。それなら、上の姉さんはそういうのが大好きなのかと尋ねたい。「こいつの元の鳴き声も、もう幻想の音なのかしらねー」そう私が言うとメルランは、にまぁ、と笑って壁に消えた。
「なによぉ」
凄んでみるけれど正直それも後悔した。膨らませた頬だけ損だった。まあ彼女は幽霊で、騒霊で、躁の気もある云わば躁霊。ましてや我が家の次女メルラン・プリズムリバー。壁にだって生えるだろう。その顔が、眼下からにゅっと現れて、
「姉さんのを手伝ってるんでもないんだったら、リリカ変じゃない?」
「わ」
何がよ。と問う。
「なぁんでも?」
顔が、今度は床から生えていた。「大体ねぇ」と綿菓子みたいな笑顔がジト目で言う。
「リリカの音は物珍しさがウリじゃないの。在り来たりな触れ幅の上下は上から下まで私と姉さんの領分なわけで」
「調子悪いなんて言わないけど」
続けざまの、今度は平坦な声。
「つまるところ、ネタ探しでもしてらっしゃい。って言いたいのよ」
少なくとも私はね。
気がつけば、皿の軋みは止んでいた。視線をやると、エプロンを後手に解きながら、ルナサは薄い眼差しとあるかないかも解らない薄い笑みで私を刺している。メルランは未だ生えている。
にまぁ、と笑っている。
なんだそれは。
「――、あー」
私は頭を掻いた。吐息を漏らしキーボードを消し、ふらりと立って、
「なんかなー、ちょっと出てくる」
「行ってらっしゃい」
「らっしゃい。まいど~。ぶくぶく」
ルサナは言ってテーブルに戻り、メルランは沈んだ。私は部屋を出ようとしてすたすたと戸口に手をかけて、そこでチャイムが鳴る。古ぼけた鐘の音に私は振り向いた。ルナサは目を細めた。もう線だった。メルランが「ぶく」と浮き上がった。またチャイムがなる。私は厭そうな顔をしたが、ルナサは一切の抵抗を認めず手を振るばかりで、メルランはにまぁと笑って、それでもまだそこにいる。いまくっている。
なんだそれは。
「すいませーん」
終には声がした。
依然鳴り響くチャイムに私は持てる力の限りに目を細めると「はいはい今すぐー!」不機嫌さを演出しながら部屋を出た。
「すいませーん!」
解りきってる。魂魄妖夢の声だった。
「あー、それと姉さん」
振り向き様に、指差して、
「幻想ってのはさ、別にレアものってことじゃないんだからね」
言うだけ無駄って解っていたけど、私は言った。
「解ってるわよ」
メルランはにこやかに頷いた。
「マイナーメジャーってことね」
「わざと言ってるでしょ」
「すいませんってば!」
魂魄妖夢の泣きそうな声だった。
雨は降り続いている。
#
この頃独白が増えた気がする。
そう、ちょうどこういう感じ。
これが姉のどちらかなら「ナイーブね」と言うか「にまぁ」と笑うか、どちらかか。まあ、彼女達は正反対なようで正しく反対だから、結局よく似たことをする。あんまり似過ぎて二人っきりで完結しすぎて、それこそ、
「私って他所の子じゃない?」
「はい?」
とか思いそうな程だ。まあ、それは単なる冗談にしても、
――じゃあ、彼女は?
それこそ何かの冗談のようで、それでも湧いてくる疑問。私は知らず眉根を寄せている。
「いや、実際どうなんだろ」
ふぅむ、と腕組みして考える。視界の端で緑と銀色のなにかが息を吐くような仕草をして、
「……独り言。酷い気がするけど、大丈夫?」
「ん、で、ああ、ご依頼なのよね。毎度あり」
「そうだけど、リリカ聴いてる?」
「いや」
整った髪と顔が頬を膨らませている。その膨れた頬だけが、やけに頭に焼きついた。
――ふぅむ。
好奇心が少し湧く。何気ない仕草で手を伸ばし、
「……なに?」
「そいっ」
「わ」
膨れた泡が弾けるように、打ち合わされた両手が妖夢の鼻先でぱちんと鳴って、声が上がる。私は伸ばした両手の向こう、広がった視界と途切れては甦る雨音を背にした妖夢を、今更に見た。
「はい。状況確認完了、と」
「はい?」
「や、問題ない。と言いたいけど、」
――結構やばい?
「駄目そうな感じね。ほんと」
「なんだろうなぁ」と額を小突く。喩えるなら、脳の裏庭に雑草が生えている。息をするように、耳の奥から雑音が生まれていく。がさがさして、とてもじゃないけど落ち着かない。私達みたいなタイプの幽霊はまさか、脳がレコード仕様。なんてことはないだろうか。
「まあ、ストレスのせいでいいわ」
「ストレス」
銀髪に、青っぽい目。おまけにいつもの緑に緑のカッパを着重ねて、傘代わりに刀を下げる魂魄妖夢は目を瞬いた。
「ストレスとは無縁そうに見えるのにね。貴方達とかは特に」
「まあ実際無いけどね。そういうの」
というか、突っ込まれると困っちゃうし。
「でも妖夢、貴方も半分はお仲間じゃない。半分くらい解らない?」
そう言われてみて、妖夢は真剣に考えたようだった。軽く一フレーズの雨音を挟んだ後、
「……いや、半分じゃはっきりとはねぇ」
というか、何でそんなことを訊かれるのか。という疑問が最後に発せられると、唇に当てていた指は傍らで揺れている幽霊分の自分を撫でる指にそのまま変わった。
「リリカ知ってる? 空気が肌に寒い日でも、元から寒い肌は寒くはならないのよ」
「あそ。で、いつも通りでいいのよね?」
「もっと驚いてよ」
ムッとして、向ける青い目でそんなことを言う。半人半霊というのはメンタルバランスが不安定なのだろうか。この子を見ると、いつもそう思う。
「とにかくそうね。いつも通りでお願いします」
妖夢は、かしこまった調子でそう言った。
「最近うちの幽霊も元気が有り余っちゃって」
「有り余るってことは、湧き出してくるのよね。幽霊の元気ってどこから湧いてくるのかしら」
「そうね、マッサージとか?」
「押したら生き返るツボとか、あるのよねー」
「それじゃあ幽々子様が自重してるわけないわ」
妖夢はおかしそうに手を振った。私もけらけら笑った。
「話が進んでない」
ルナサが背後に立っていて、その場はあっさりお開きとなった。
耳の奥の雨音が、まだ雨が続いていることを見るより先に伝えてくる。振り向いた妖夢は「合羽を着て来て良かったわ。半霊は元から冷えてるし」と当たりも障りもないことを言った。私は、思ったままにこう言った。
「でも凄い雨じゃない」
――カッパでどうにかなるものかしら。
雨は降り続いている。
『じゃあまあ、後。よろしく』
いつもの通りに館を出る時、ルナサは「今日はひとりで行ってくる」と言い残して妖夢と二人で出て行った。勝負は継続中だしね、と含みを残していく辺り、あれは牽制球だろう。
「いってらっしゃいー」
特に感慨も無く、手を振った。
私達のソロ活動は、今に始まったことじゃない。
手を振り見送った私からして、独立し始めた百一匹目の猿だった。どう数えても三匹だけど、あの姉二人が芋洗いを真似るように社交的になったとも思えないけど、事実。私達は、昔と比べれば一人歩きが増えていた。
そして今日、ルナサはひとりで行った。
元からソロでやるのが好きな性質ではあったけど、ただひとつルナサに誤算があるとするなら、近頃同じくソロにはまっているはずの次女のこと。
『年長者に学んでくるわー。背中で泣く方法とか、色々。鬱べし鬱べし』
――もちろんだけど、遠目にねー。
にまぁ、と笑っていた。
手は振ってやらなかった。
「時間巻き戻ってるんじゃないのー?」
朝と同じ。椅子にもたれ机に足掛け。膝の上にはキーボード。ソファーを更地にする元気があれば全身でアタックしたかったけど、と足を揺らす。椅子と目線とが僅かに傾き、見上げた天井がふらふらと流れていく。
あーあ、と呟いた。
「結局独立独歩じゃん。姉さんたち、読んでて出てったんじゃないわよね。や、あり得るかなー」
勢い任せで指を走らせ、適当に鍵盤を押し流す。適当なテンポで適当が音になって飛び出していく。適当な音は適当な調子で部屋を疾走し、
「げ」
が、
っしゃーん、ばり、ばりばり、
と、
「……っちゃー、」
背もたれを折らんばかりに首を曲げた。額に手を当て「姉さんじゃあるまいし」と小さく口を動かした。ぱらぱらと、欠片が床に落ちる音。
「……まーいいか」
思考が、てんでバラけて這い回る。
――一部の例外を除き、大抵の場合三人一組で行動する我が三姉妹は私的に大変都合がいい。元より旋律の補完を引き受けている私だから、オブラートの厚みだって思いのままだし、まして――、
「ンの、ああもう」
――音の根っこは姉が握っている分、苦楽は抜きにしてたとしても、私は随分楽な立場じゃないの。そう思うし――
「ちゃう、違う。駄目じゃんこんなの」
舌打ちするのはかっこ悪い。けどやった。
ちっ。
「戻ろ」
尻尾の丸まった思考を置き去って、私はすっかり風通しのよくなった部屋を出た。玄関を素通りしてから廊下を抜け、いつも埃っぽい階段を上って自分の部屋へ。ベッドにばふんと座り込み、
「ふぅー」
バネを揺らして寝転ぶと、何故荒れたかも解らない気持ちが何故だか随分落ち着いた。
自分以外誰もいないというのは今なら館全てにいえることだけど、自分の部屋というのはやはり特別な空間だった。
窓越しに聞こえる雨音は居間のものより部屋が狭い分より強く、ベッドから垂れ下がった踵が踏むカーペットの「ジャリッ」という音も掻き消すほどに厚ぼったくて、
「まだ早いけど、いい加減掃除するべきかなー」
呟いて靴の踵をぐりぐり動かすと、重たい雨音のその下でじゃりじゃり擦れる音がした。靴を履きかえる習慣は随分前から曖昧で、そのせいもやはりあるだろうけど、私は気にしない。
「まあ、気を取り直して」
寝て覚めたときと同じに、けれどずっと機敏に起き上がり、手の平を胸元で翳して「よっ」と念じる。重量を少しも感じさせず、真っ赤な羽根突きのキーボードがそこに生まれる。軽く叩いて、気持ちばかりの様子見。
「まずは音ありきだし、どうしよっかなー」
軽く握った拳が、原料不明の盤面を打つ度音がする。無から急に現れては消え、また現れたりするのだから、本来実体を持たないこの楽器、姉達や自分が持つこれらはあくまで幽霊に違ない。
「……」
眇めた目が、口の端っこが、好奇心に尻を蹴り上げられる。
「……そういや、手入れとか」
したことないしなー。
言い訳をしながら、視線の外へ腕を遣る。ベッドから手の届く範囲には大体のものが揃っているのが、不精者の生活術。さっと指先に掴んだのはこっちが使わないうちに勝手に渇いてしまったのでそのままに置き捨てた不義理不忠のペンであり、私がそれを盤面の継ぎ目に「どおりゃ」差し込むのに、躊躇があるはずもなかった。
ぎしっ、とペンの穂先が芯まで食い込む。音を立てているのが盤かペンかは解らないけど、まだペンは折れない。折れてない。
いける。
「さぁ」握りを逆手に、
「て、」手首を返し、
「と!」笑みを浮かべて思いっきり捻り、
いよいよ仕事道具の内部事情にお立ち会
――ばぎん。
致命的な音は、土砂降りの雨で聞こえなかった。
おびただしい鳴き声を空に響かせ、激しい雨の中鳥が飛ぶ。遠くプリズムリバー館が、緩々と、煙と音符を吹いていた。
#
「やあ姉さん」
「あらメルラン」
ルナサは冥界は落ち着きを湛え静謐を美徳とする世界だと感じていたし、であって欲しいという人並みな妥協と欲求もまた持っていたから、今日もまた、毎度のように雲霞と沸き立つ冥界の幽霊に「囀るべからず」と得意の沈鬱なメロディーでしょんぼりさせてやることに微塵も容赦はしなかった。それにいつもなら三人で演じるこの演奏も、ルナサ一人ならば三倍以上の速さで終わる。
当の依頼を寄越した西行寺家の幽々子さえ、
「あら、お早いのね」
と目を瞬かせ、誰よりしょんぼりしてみせた。
冥界を舞う桜に染まったの空の中、無用となった背中の扇と両手の扇子を、所在なさ気にぶら下げて。
「お嬢様が自重してくださっていれば、更に早く、それこそ一念で落ち着かせて見せますけれど」
見上げるルナサはにべもなく告げると、手にした楽器、手にしない楽器全てを宙に溶かし、手ぶらになって息をつく。幽々子はまた目を瞬かせて、頬に手を当て困ってみせる。
「妖夢の立場がないわねぇ。でも、音符も出ないうちに人の心に音は届くの?」
と、と地面に履物が触れると同時、背と手の扇も全て閉じ、次元を減らして消え去った。ルナサは答え、
「音はあくまで音。本物の音楽は音以外の全てで奏でるものなのよ。音は後付け。後から勝手に出てくるもの。……なのですよ」
慌てて語尾を付け加える。
「ああ、音自体には意味はない、っていつも言っているものね、貴方。でもそれ嘘よね。最近は」
それを気にするでも幽々子は薄い得心顔で、
「ねえ、妖夢」
それから桜弁が百数枚ほど冥界の地に落ちた頃、
――はーい、只今ー。
言ったと同時に立ち現れるメイドでもなし、半人半霊は未熟だった。遥か白玉の屋敷から駆けって来るその姿に、ルナサは「凄く耳がいいのね」と見当違いのフォローを入れた。
「そうね。足も速いのよ、凄く。ただし潰しの利かないスプリンターだけど」
幽々子も素知らぬ顔で言葉を受ける。ルナサは細めた眼差しでそれを眺め、
「短所を挙げればきりがないって顔してる」
「やぁねぇ」
幽々子は、今度こそ苦笑した。
そこにメルランが現れる。
「やあ姉さん」
「あらメルラン」
ルナサは先刻承知という顔をしてそれを迎えた。メルランもちょっと前から知られてましたという顔をして、
「面白いわ。リリカが愉快なことをしてるわよ」
ルナサはきょとんとした。
「貴方、私とあの子のどっちを見てたのよ」
「どっちもよ。私目がいいもん」
「そうだっけ」
ルナサはまたきょとんとした。そのうちに妖夢が辿り着き、「如何様でしょう」「うふふ、呼んでみただけ。ああ、嘘ウソ。お茶用意しておいて」「はあ」と元来た道を返していく。ルナサはその背に「よければ渋いのを用意しておいて」と呼びかける。
「はあ」と返事があってしばらくして、
「――あっ、はい! 解りましたー!」
訂正が返る。三人は笑って、後を追う。白玉楼の庭は広く、すっかりテンションを落とした霊魂が辺りをゆっくり漂って、この地の名前をその身で示しているかのようだとルナサは思った。
「ねえねえ姉さん」
「んー?」
舞い散る桜は秋桜。飛び舞う小さな花弁を見上げ、メルランは歩き揺れる視線を泳がせながら問いかける。ルナサは僅かに耳を動かした。
「ねえ姉さん」
「なに?」
「レイラのこと覚えてる?」
「さあ」
「あら、意外に淡白な反応」
秋桜の花の大海が大きく波打ち、風を運ぶ。
幽々子は時折瞬きしながら、歩みを止めて小道をそっと振り返る。
「……と、いうか」
ルナサは、前髪を風に任せるままに其処に立つ、ルナサ・プリズムリバーは、
「なんで?」
きょとんとした。
「彼女は死んだわ」
今更? という目をして、当然のことを告げる。当然のことを当然のように、当然と告げる。
「覚えてるわよ。貴方も覚えてるでしょ?」
当然と、問いかける。メルランは、口の端っこを持ち上げたまま其処に立つ、メルラン・プリズムリバーは、
「さぁて」
口の端っこを持ち上げたまま頷いて、風に乗るように、手を振り上げる。
「でも、レイラはいつも一緒じゃない」
桜弁が舞い散る。ルナサは頬に落ちる影に一度目をやり、次いで自分の頭上でくすくす笑う、逆さまになったメルランに、
「なに。身内同士で営業妨害する気なの?」
ジト目でそう呟いた。
逆さまのメルランはにまぁ、と笑う。
「心外だわー。これは姉さんの後始末よ?」
「これが頼まれた仕事。だったんじゃない」
「知ってる癖に。姉さん一人の音じゃあ、みんなしょんぼりしすぎなのよ。リリカはいないから、結局付け焼刃なんだけど」
む。と長女は口をつぐむ。
「それに、私も自分がしたいようにやるもんね」
そんなルナサの表情はどこ吹く風と、穏やかな空気は変わらず素肌を撫でていく。そして、
「――ああ、そういうこと」
ルナサは静かに目を瞬かせ、手を振り上げる。
光が点り、見慣れた器を形作る。膨らみ、撓り、
「確かにそうね」
ヴァイオリンが宙に生まれる。
「そうそう。解ってるじゃない」
メルランは両手の平を左右で広げる。そのスペースにボッと光が浮び出し、膨らみ、渦巻き、
「いつだってそう」
トランペットが誕生する。
二人は空を見上げる。
冥界の空は晴れている。
ルナサはヴァイオリンを手に取り肩に乗せ、顎で挟み、弓を握って、弦に置き、
「誰への曲?」
「世界中の人達に」
メルランはバルブを指先で軽く押さえ、くるっと体勢を後ろに倒すと、空に伸び行く金管に、「妹孝行ね」
「そりゃあもう」
すうっと胸を膨らませ、
すいっと弓を摘み上げ、
ふうっと息を送り込む。
ふわっと弦に滑らせる。
吐息は音になり、音は波になり、波は空になり。
舞う秋桜の波の中、吐息は空に、
「格好つけね。貴方達」
誰がそのときそう言ったのか。
「ほら、見てご覧なさいな」
扇子が翻る。口元は窺えない。それでも笑みを確信させる声色で、扇子を返し、西行寺幽々子は空を見上げた。
「今が春じゃなくて残念だわー」
その呟きは、その場の誰にも届かないまま静かに消えた。ただ、
「この時期宴会なんてごめんですよー」
妖夢は、はぁと吐息を漏らした。
「……って、あれ。幽々子様?」
湯さしを傾けたまま、振り返り見回した厨の中は薄暗く、茶出しの香りが段々と薄まっていっても、窓から注ぐ影がゆらゆら揺れても、しばらく少女は目を瞬かせていた。
「ちゃんと見ていたつもりだったんだけどねぇ」
――心配はいらない。あの子たちのことは。
結局、そう思っていただけだった。
『冥界の空はいつも晴れている』
いつか天狗の特集記事に、こんな書き出しが載っていた。
『それは第一に其処が雲の上に位置しているからでもあるし、主の心が、曇ることを知らないからとも言われている。』
「背伸びしすぎたのかしら」
ルナサは上を見上げたまま、顎を傾ける。弓を静かに弦に乗せ、気の向くままに傾けた。
「見てみなさい。お嬢様」
呆れたわ。と視線だけを傍らにやり、
「……ほんとにもう」
一人きりで、また息を吐く。「呆れた」と。
冥界の地に、無数の影が落ちていた。
影は揺れ、回り、踊るように空を巡り、実際に踊り、巨大な雲を形成し、冥界の空を覆うそれらを、黒くシルエットに変えて流れる。雲にならないもっと多くの霊魂が、その周囲を遠大な半径で回遊するかのように、尾をなびかせ飛んでいく。白玉の星雲が、冥界の空を流れていく。
その流れの中心でメルランは、高らかに笑ってトランペットを天に翳す。そこから漏れ出す心の波に雲は乗り、波に合わせて宙を舞う。
「いい波だわー。もっとやっちゃってー」
幽々子は舞っている。羽のような笑顔を浮かべ、ただ波間で蝶のように舞っている。メルランは、
「合点承知ー!」
天井知らずの笑顔を浮べ、輝く光を空に撒く。光は次の瞬間から様々な楽器へ姿を変えて、操りなれた手足のように更に光を撒いていく。
腹からの声を空に放つ。
「まだまだ足りないかしらー!?」
星雲の流れは留まることを知らず、
「よぉーし!」
楽器から溢れる波が、光と風を伴い空を奔る。
「青天井も抜いちゃって、もっと高ぁい大空まで、いっちゃいましょうかどこまでもー!」
雲が踊る。霊が踊る。蝶が舞う。
「それじゃあ、私はここまでね」
見上げた空にルナサはこぼす。ヴァイオリンを、奏でる腕はそのままに、
弓を引く。
その音に、特殊な力は何もなかった。代わりのように風が舞い、桜を一斉に空に舞い上げた。高く高く、それは冥界にはあるはずのない雲に届き、波に乗り、テンションに乗せられ、漂い始める。
「――確かに、」
腕を返し、弓とヴァイオリンを逆手に握った。
「いるのかしら。ここに」
視線を持ち上げ、ただ風の中に身を晒すと、ルナサはふうっと息を吐いた。
「けほ」
「わっ」
遠く屋敷で、妖夢が縁側から空を見ていた。
「凄い。冥界に雨が降るなんて!」
舞い上がった桜弁が静かに舞い降り、冥界の地に、ゆっくり帰り始めようとしていた。
――雨って言うより雪じゃないかしら。この場合。
さくさくと、歩きながらにルナサは思う。
ここの庭師ってどうしてこう、と。
「でも――ほんと、背伸びしすぎた」
格好はつけたくないし、流儀じゃない。でも、花を添えるのは端役の役目だと思っている。けど、
「ほんと二人じゃあ、またやり直しだじゃない」
三人の騒霊は、三匹の鼬にも似ている。
「まだまだ、独り立ちは難しそう」
ルナサは空を一度見上げ、
「そういえば」
思い出した、と足を止めた。何となく振り返ると空から零れ落ちてくる風が、体をびゅんと追い抜いていく。空から零れ始めた桜の雨の中、妹と亡霊の姫と夢幻の霊の舞う空の下、
「リリカ、どうかしたんだっけ」
ぽり、と頬をかく。三人姉妹の長女は、あくまでもいつもの曖昧な眼で呟きそして、
「まあいいか」
幽かに微笑み、そのまま屋敷へ向っていく。
また風が走り、桜の欠片が舞い散った。漏れ出た魂は形をとり、風に巻かれ静かに揺られ、空へとゆっくり、昇っていく。
冥界に雨が降った日と、その日妖夢は記した。そして『雨』に『云』と書き足された、その日の日記を後日見て、二重の意味で妖夢は嘆いた。
うちの主ってどうしてこう、と。
『……え? だって雨じゃ水腹になっちゃうし、雪はお腹が冷えちゃうわ』
――雲が一番、お腹が膨らむのよねー。
後に天狗はこう記している。
「西行寺の幽霊嬢、後かく語りき。
げに冥界に雲は湧きまじ。
文々。」
#
雨音は絶えない。
記憶は消えない。
これが二度目の夢という確信はあった。彼女が風邪をこじらせた後、今度は私がこじらせた。
見覚えのある風景。映画のワンシーンにも似た光景。私はベッドから身を起こし、背中を向けた、視線の先の彼女を呼んだ。
――ああ。目ぇー覚めたんだね。
背負った影はそのままで、返事があった。
視線の先には、窓と窓際のテーブル。
彼女は椅子に座って振り向かないまま、何かをずっと続けていた。硬質的な音が、部屋に静かに木霊している。何かを書き留めているのだと、私はおぼろげに理解した。
――ちょっと待ってて。もうすぐ終わるから。
「なに書いてんの?」
――ん、もうちょっと。
彼女は、それでも数秒答えを据え置き、最後に大き目の音をピリオドに、「ふう」と椅子を振り向けた。「はい、おしまい」と指先に翻すそれは、
「……なにこれ」
彼女がぶら下げた紙を、私はまじまじと眺めた。やたらめったら大きな文字に、子どもっぽい筆致、『このやしきをおゆずりします』。
そう書かれた紙切れをひらひらさせて、
――どう?
彼女は尋ねてくる。私は見上げ、即答した。
「へたくそ」
――上手く書けないんだからしょうがないじゃん。
むぅと眉を上げて、弱気な調子で彼女は言った。
「……ていうかさ、これ」
紙を受け取り、更に見つめる。紙の隅には彼女の名前が、譲渡のサインとして記してある。
「遺言じゃないわよね」
――いや、そうなんだけど。
「今更?」
ぱき、ん。
雨音に埋もれた部屋のどこかで、響く鋭い破砕音。ポルターガイストの悪癖だと彼女はいつも言っていたけど、未だに取れないこれは癖というより性なんじゃないかと時々思う。その彼女は今、ただ瞬きをしながら私を見ている。
――言い争うのこそ今更なんじゃないの?
「……」
私はもう、全ての抗弁は無駄だと思った。
「……かもねー」
つまらなそうに呟いて、私は全部誤魔化した。
「正直な話ね」
不思議な雰囲気だった。
言い争う気は何も湧かないのに、会話を途絶えさせるのが、何故だかとても怖かった。
「いつまでも、誰も死んだりしないでさ、ずっとこのままだと思ってた」
――そう。ごめん。
「甘かったなかなー」
――かもね。
「曖昧さは救いなんだろうね」
――うん。
「あとどれくらい」
――知らない。
「それも救い?」
――どうだろうね。
「字、ほんとへたくそ」
――似たり寄ったりの癖に。
「私の方が上手いわね。ゼッ、たい、にっ」
――どうだか。
うだうだと、私達は語り合った。
彼女は家の財産全てを譲渡すると言っていた。つまんない話だった。どれも四セットあるカップやお皿は、好きにすればいいとも言っていた。多分、ずっとそのままだろうと私は言った。彼女も、多分そうなると頷いていた。雨垂れが流れ、影を少しずつ伸ばしていく。
これは余談。
楽器は好きにすればいいとも言っていた。
彼女は音楽は聴くのも奏でるのも好きだったけど、上の三人はそうでもなかったらしい。最初は元の姉さん達そのままが欲しかったけど、結局は諦めたとも言っていた。自分の力の限界、自由意志の尊重、難しいことは解らないけど、と。彼女は自分で言って、自分で笑って、そして自分で、少し泣いた。
――本物になりたい?
そんな彼女の問いに、私は結局答えなかった。
強い風が、窓を細かく震わせる。暖かくしようか、と彼女は言って、視線を遣る。たちどころにボッと音がして、赤々とした光が揺れ始める。
「ねぇ、最近調子がおかしい気がするんだけど」
二人してベッドに腰掛け、私達は喋り合った。
――どんな風に?
「なーんか、テンション上がらないんだわ。いつも通りに上手くいかないしさ、妖夢に会った時も、何かぼんやりしちゃってて」
――そうねぇ。
彼女は楽しそうに思案して、そうだという風に手を打った。「いい薬があるわ」そう言っていた。
――まずは小さいグラスと、
ポン、と片手にグラスが出てくる。
――次に、ちょっとしたお酒。
どこからか、ふらりと飛んできたボトルがひとりでにコルクを吐き出すと、グラスの真上で頭を垂れた。
「飲めって?」
――そうよ?
「そっちも飲んでよ。飲み比べ」
――子どもになにやらせる気よー。
それでも、苦笑する彼女はグラスを二つ、手に載せた。「何に乾杯する?」私のその問いかけに、
――そうね、『世界中の人たちが、どうかずっと、ずっと幸せでありますように』。
彼女は答えて、笑った。
「見上げた心がけ」
――他愛のない願い事くらい、スケールは大きく行きたいものねー。
私達は、一度だけ乾杯をして、一口に喉を鳴らして、燃えるような液体を飲み干して、そのままベッドに絡み合うようにして、どさっと倒れた。
「ねえ、」
――なぁに?
二人とも、息が少し荒かった。
「これ何に効くの?」
――心の燃料よ。元気が出るの。それだけ。
「それだけ?」
――それだけ。あ、あとはあれかな――っうぷ。
僅かな空白の時間が過ぎていく。
それから二人して数十秒も笑い合って、理由も解らず大泣きもして、勢い任せで怒鳴り合って、降り続ける雨に負けないほどにケンカもして、
――ねえ姉さん。もう一枚、紙余っちゃったんだけどさ、なにか書かない?
「そうねー……あ。んじゃあさ――」
――あー、面白いかも。決定!
「よぉし、私の方が字が上手いってこと、すぐに証明してあげるわ」
肩を寄せ合ってペンを紙面へ走らせながら、「下手くそ」「そっちこそ」と言い合った。飽きるまでそうして手を動かした後私達は、そのままベッドに倒れ込む。
「ねえ、レイラー」
――なにー、姉さん。
「レイラはさ、この後死んじゃったんだよね」
耳まで真っ赤だと思った。息のひとつひとつが吹けば燃え上がりそうに熱かった。雨に埋もれたこの館の、雨音に埋もれたこの部屋の中で、私達だけが確かな熱量で存在していた。彼女は、一度答えに躊躇ったように私には見えた。
――……ごめん、もう帰らなきゃ。
「嫌よ」
――過去は縋り付くものじゃないんでしょ?
「知らない」
彼女は少し困ったような笑みを浮かべて、
――姉さん、わがまま。
何かを叫んだ気がした。
ただ、はっきり覚えているのはそこまでだった。
感情の爆発は後にも先にもその時の一度きりで瞼の重い私の意識はそこで、唐突に終わっている。
醒めた夢は急速に頭から熱を奪っていく。
そして知らしめる。突きつけるのだ。
妹が死んだのは、それから数年後のことだった。
#
気がつけば、私は空を見つめていた。
溢れ出した音符も、沸き立った砂埃も既にない。身を起こしても、さっきまでと何も変わらない。
「……ん」
ぐい、と目元を拭う。
「うわ。ぐしゃぐしゃ」
手を振ると、水滴が弧を描いて床に散った。私は指先に残る、水滴になりきれない僅かな水分を頬に勢いよく擦り込むと、最後に両手で、
「痛いっ!」と頬を張った。
「――うぅ、予想通り」
凄い痛い。と呟きながら辺りを見回す。部屋は天井の大穴を除けば、何も変わっていなかった。我が魂のキーボードは、ベッドの上で僅かに煙を噴いていた。その渋るような燻りが、ぽかんと見つめる犯人への抗議に見えた。
「……あー」
赤子をあやすように、手元にぎゅっと抱きすくめる。「ごめんごめん。つい好奇心でさー」くるりと返して指を滑らすと、鍵盤は、釈然としない、という様子で一度煙を吐き出すと、ぽろぽろ旋律を紡いでいく。
「よしよし。ありがと」
私は似合わない笑顔で盤面を撫で、そして盤面の切れ間から僅かに飛び出た紙片に今更ながらに気が付いた。す、と手を伸ばし、紙片の端をつまむと、譜面みたいな落書きが覗く、私は、
「――」
私は、自分でもよく解らない顔をして、
「封印っ」
ぐいっ。と内部へ突き入れる。奥のほうでがさりと音がすると、私は盤面の歪みを元あったように押し直す。心なしか、胸が少しだけ熱かった。
「恥ずかしいなぁ。ほんと」
――過去は、背負って歩いて、自慢する。
「そう決めた。……さぁて、活動再開かしら」
今は勝負の真っ最中。
「姉さん達には、負けてらんないしね」
その背後で、ぽたぽた雫が落ちては跳ねる。空まで抜けた屋根の下、小さな溜まりができていく。
煙と音符は昇っていく。
激しい雨は誰の意図も解さないようにただ降り続け、その中を昇る煙は段々と千路に散っていく。
音符はただ昇っていく。
激しい雨は雲の只中を過ぎていく内に消え去り、飛び出した空の上では全くの皆無になっている。
音符は風に揺られている。
巨大な雲が、天を、地を、ゆっくりと滑る。
遠く去って行った雨雲を七色の橋が追っていく。紅く染まった空の下、薄紅色の雲海の上を大きな橋が伸びていく。
音符は一瞬膨れ上がった。そして虹色の橋を越えたところでぶるりと震え、弾けて消えた。
入れ替わり、鳴り始める音がある。
まだ夜闇の遠い夕焼けに、旋律が零れていく。それは酷く調子っ外れで子どもじみていて、そしてどこか、笑い出す寸前の少女の笑みにも似た、そんな旋律に思えた。
音色に染まる空の下、雨は降り続いている。
もうしばらくは。
〈終〉