1.
梅雨の一日、憂鬱な午後。雨はやまない。
大学に背を向けて歩く二人の女性は、本日の全過程を終え、薄暗い道路にコツコツと靴を打ち付けている。点在する水たまりを器用に避けられるのは、終始俯いたまま歩いているせいだ。
湿った地面に絶え間なく叩き付けられる雨の合間を縫い、足並みの揃わない行進が続いていく。
堪え切れずにため息を吐いたのは、公道側を歩いていた女性だった。白いカッターシャツの袖を肘の内側まで捲くり、悪路にも屈せずスカートを履き、緑の黒髪をなびかせながら歩く姿は実に凛々しい。
彼女の隣を歩く女性は、またかと言いたそうに彼女の横顔を窺う。彼女とは対照的な金糸の髪に、薄いスミレ色のブラウスを柔らかく纏っている。その佇まいに相応しい柔和な笑みをたたえ、俯いたまま雨の道を行く隣人に語りかける。
「蓮子は、あなたのため息が他人に与える影響を少し真剣に考えるべきだと思うわ」
「あなたの、なんて嬉しいこと言ってくれるわね。メリーは」
「茶化さないでよ」
蓮子の瞳が暗く沈んでいるのは、濃紺の傘に顔が隠れているせいだと思う。それ以外に、彼女が不貞腐れている理由が見付からなかった。雨が降れば定期的に気分が乾くような、少女漫画じみた湿っぽさを彼女に期待することはできない。
普段の蓮子なら、歩道と車道を分かつ縁石の上を律儀に歩いているはずだ。そのような無邪気な蛮勇を犯さずにいるだけでも、彼女が通常の精神状態でないことが窺える。
彼女は言う。
「憂鬱ねえ」
傘に隠れた視界の上を仰ぎ見るように、蓮子は顎を上向けた。
背の低い家々が立ち並び、側溝から溢れ返った大量の雨水が細い路地を大きく横切っている。歩道を侵食する大きな川を跨ごうとし、その隙に、黒光りする大型二輪が、川の存在などもろともせずに二人の横を通り過ぎた。黒い雫が跳ねる。
蓮子は被弾した。
湿ったアスファルトを踏み鳴らすゴムの濁音が徐々に遠ざかり、メリーは沸々と湧き上がっているであろう怒号の警鐘を蓮子の中に聞く。
「……」
無防備だった。陰鬱な心境で憂鬱な空を見上げていたことも災いした。
傘は雨を避ける道具ではなく、単に顔を守る防壁でしかない。狡猾な足払いを喰らったとしても、その責任を大きな傘にだけ負わせることはできない。が。
「よし」
蓮子は瞳を輝かせる。黒い予感がメリーの中に芽生え、すぐさまそれは確信へと変貌する。
「ちょっと今の二輪スクラップにしてくるわね」
「蓮子やめて蓮子」
「何よメリー、私がそんな冗談を言うとでも?」
ふ、と強張った表情が緩み、メリーが安堵した隙に蓮子は隘路を蹴る。
「持ち主ごとぶっ潰すに決まってるじゃない」
放り投げられた傘は、地面に落ちるより早くメリーに掬い上げられた。だが制止の声が掛かるよりも更に速く、蓮子の背中は遠ざかっていく。
消えた蓮子は、バイクが消えた角を曲がったところで、すごすごと帰って来た。その身体を適度に濡らし、不満そうに笑いながら。
「いやぁ、あっちもなかなか速いもんで、早々に見失っちゃったわ。あははは」
「どうしてそんなに嬉しそうなの」
「復讐ってのは、往々にして生きる力になるものなのよ」
メリーには理解したくもない真実だったが、蓮子が元気を取り戻したのなら文句を言うのも筋違いだ。拾い上げた傘を蓮子に渡し、内側に溜まった雫が彼女の肩に落ちる。
「あ、嫌がらせ?」
「すぐに拳を作らないでよ。怖いじゃない」
「怖がらせるためにやってんじゃない」
ろくでもない結論は聞き流し、メリーは蓮子を置き去りにして歩き始める。呆と突っ立っているだけでも、靴の内側に染み込む雨水の温もりを感じる。歩けば泥が跳ね、佇めば身体が冷え、俯けば背中が濡れる。蓮子に教えられなくても、雨の日が憂鬱なものであることは分かっている。
メリーは、蓮子がバイクを見失った路地を左に曲がる。ここを過ぎれば、間もなく蓮子と別れることになる。普段の通い慣れた道とは違うけれど、ここからでも部屋に辿り着ける。袋小路の道と交わるようにちょっとした水路が走っており、橋とは名ばかりの危なっかしい板があったと記憶している。もしかしたら別の路地かもしれないが、そのときはそのときだ。
そんな近道に特別な思いを馳せることもなく、上も下も見ず、前だけを見据えて直進する。
「――あ」
そうして。
ごく自然に足を止めたメリーのうなじを、蓮子の指先が丁寧になぞる。
「ぅひゃぁっ!」
「あら変な声」
「心配の仕方ってもんがあるでしょう! 心臓が止まったらどうするのよ!」
「こんなんで心停止しそうな人のうなじなんか触らないわよ。失礼ね、全く」
悪びれもせず、傘を差したまま腕組みする。矢継ぎ早に展開する蓮子の思考を追走しようなどと、考えるだけ時間の無駄だ。彼女の後には誰も付いて行けない。メリーはそれを理解しているから、あえて彼女を完全に理解しようとはしなかった。足りない部分は想像で補完し、余った部分は還元する。それで全てはうまくいく――のだとしたら、それ以上のことはないのにな、とメリーも思う。
ともあれ、目下の懸案事項は宇佐見蓮子個人に内在している問題と、もうひとつ。責任の所在を求めるならば、酷く不名誉なことではあるけれど、それはメリーことマエリベリー・ハーンに内在する問題だ。
メリーは無言で中空を指差す。蓮子もその指先が示す方を見る。
指し示す先にあるものは、一本の柳と水かさの増した水路、そこに架かる小さな板の橋。加えて、事件現場に常駐しているような、人の形をした不恰好なテープ。白ではなく紫、角がなく滑らかな流線形という違いはあれど、それは確かに人間の輪郭で、アスファルトに寝転んだままではなく、何かを訴えるように、見るもの全てを呪うように、直立した状態で柳の木の下に佇んでいた。
柳の枝から垂れる無数の雨粒も厭わずに、異形の紫がそこに君臨している。
あぁ、やっぱり。
見えるということは、あんまり気持ちのいいものじゃないな。
呆然と、メリーはそう思った。
2.
ベッドに寝転がり、象牙色の天井を仰ぐ。薄暗い部屋に明かりを灯すこともせず、メリーはただ雨が壁を打つ音に聞き入っていた。
まぶたの上から蒼色の瞳を撫で、その球体に閉じ込められた異能を想う。
彼女が何故「結界の境目を見る」という能力を有しているのか、その確たる原因は彼女自身にも分かっていない。だがメリーにとって「結界の境目が見える」という結果が重要であるように、秘封倶楽部にとっても「結界の境目が見えるメリー」の存在が必要不可欠なのである。
秘封倶楽部は、この世界に張り巡らされた結界を暴き、あわよくばその向こう側に飛び込むことを目的とした霊能サークルである。メリーの能力が無ければ、秘封倶楽部は平々凡々とした不良サークルに成り下がってしまう。
尤も、そういった必要の有無だけが秘封倶楽部を繋ぐ糸でないことは、蓮子も、メリーもまた十分に理解していることなのだけど。
「雨、雨、雨―」
口に出して呟いてみても、大した意味はなかったのだ。
寝返りを打ち、湿気に乱された髪の毛を指先で梳く。視界の端に曇りガラスが映り、その向こうに見える灰色の空に嫌気が差す。堂々巡りだ。
切りがないなぁ、とメリーはベッドから降りる。うつ伏せから四つんばいになり、猫のように背筋を伸ばして大きな欠伸をひとつ。誰かに見られたら赤面のあまり発火してしまいそうな体勢を満喫し、おまけに拳を丸めて何度か顔を洗い、最後にもう一回だけ不恰好に欠伸をする。
幸い、メリーの無防備な姿態を傍観する者もなく、外は雨が降っていて、空の色は純粋な黒色に染まりつつあった。
翌日。予報通りの雨空を睨み付けても空は晴れない。気分も晴れないままだ。それでもメリーは自身の心に折り合いをつけ、空と同じ色をした傘の柄を掴む。今日も大学に行かなければならない。雨が降っているのに。雨はやまないのに。
「はぁ、憂鬱……」
言葉にすれば余計に気が重くなる。一段と沈んだ玄関に立ち尽くし、一向に乾く気配のない洗濯物を振り返る。心なしか体調も優れないような気がする。メリーは、お腹を擦りながら後ろ手に扉を閉めた。
部屋を出て、集合ポストがある正面玄関までやってくると、昨日と同じ濃紺の傘を差した蓮子の姿があった。メリーに感染した憂鬱など何処吹く風で、よっと威勢よく手を挙げる。
「おはよーメリー。今日も昨日に引き続き相変わらずの雨よー。いやんなるわねー」
「おはよう。私は正直、あなたのその間延びした口調がいやんなるわ」
蓮子は憤慨した。
「毒舌ね。ちょうどいいから、それ採取して科学研にでも提供した方がいいんじゃない? いいアルバイトにもなるし」
「つまらないこと言ってないで、早く行くわよ」
「本気なのに……」
余計に性質が悪かった。
その後もぶつくさと愚痴りながら、そぼ降る雨の中を二人して歩く。時折会話は途切れ、時には一方的に蓮子が喋り、メリーは憂鬱に染められるけれど、それでも気まずいと感じることはない。
一度、蓮子の横を自転車が駆け抜け、昨日の再現かとメリーが戦慄したものの、蓮子が求めているのはそのような瑣末な闘争ではないようだ。
「蓮子、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
彼女は縁石を歩いている。その行動に意味はないのだろう。意味のあることばかりやっていてもつまらないでしょう、とは蓮子の弁だ。
「んー、倫理的に答えられる内容になら、ちゃんと答えるわよ」
「例えば」
「太ったーとか、ごく一部だけ痩せたーとか」
「倫理というか人格の問題よね、それ」
「メリーは太った」
「何それ」
メリーは憤慨した。
「か、傘回し!」
「全く……下らないことばっかり言ってると、いつか天罰が下るわよ。私の」
「それは人災って言うのよメリー!」
「あぁもう、うるさいなぁ……」
空いた指でやや捻れ気味の前髪に触れ、相変わらずの天候を憂う。思い通りにはならない。四季の流れは無慈悲に過ぎる。長らくその周期に身を任せておいて、今更それに気付くというのも鈍感に過ぎるとは思うのだけど。
それでも、繰り返されていた習慣が崩されたことに気付けないほど、鈍感でも不感症でもない。
「蓮子。どうして私の部屋に来たの」
詰問する。歩みは止めないまま、ざあざあと鳴り響く雑音の中をすり抜けていく。
約束はしていなかった。何の連絡もないまま訪れることはあったが、大学が始まる時間帯に、メリーが外出する時間を見計らってアパートの前にいるということは、出会ってこの方ただの一度もなかったのだ。
何かある。メリーがそう考え、構えてしまうのも無理はなかった。
「察するに、そうね。昨日の歪み。妥当な線だと思うわ」
蓮子の横顔に、弱り切った表情を見る。
「それは、確かに妥当ね。うん、あそこに近付いたらちゃんと話そうとは思ってたんだけど。不安だったんなら、ごめんね。猜疑心に曇った心を見抜けないようじゃ、そりゃあ結界の境目も見えないってもんよね」
参った参った、と帽子の上から頭を叩く。高温多湿のこの季節は、あまりに蒸れるものだからメリーは帽子を被らない。だが蓮子は相も変わらず、闇色のハットを律儀に被り続けている。
メリーもそれ以上は蓮子を責めず、ため息のようなものを鼻から抜く。
「ま、別にいいわ。理由も分かったし。でも」
「でも?」
蓮子が縁石の上から降りる。車道と歩道を隔てていた線は終わりを告げ、間もなく例の水路に到着する。
「大学が先、結界は後。これは、蓮子の言う倫理観の問題よ」
滞りなく講義も終了し、閑散とした部屋の中でメリーが友人たちと他愛もない話に耽っていると、傘を担いだまま古めかしいドアを力ずくでこじ開ける蓮子の雄姿が見えた。
メリーは額に手のひらを添え、友人たちが同情するように肩に手を置く。蓮子の瞳は蛍光灯のそれよりも爛々と輝いていて、夏の虫ならば容易に飛び込んで行くのではないかと一抹の不安を覚えてしまうほどだった。
「メリー! メリーはどこ!」
「いや、目が合ってるし……」
「あぁごめん、メリー借りていくわね!」
「どうぞどうぞ」
「トイチで返してねー」
「ちょっとあなたたち……」
左腕をむんずと掴まれ、満面の笑みでメリーを拉致する蓮子に友人たちは微笑ましく手を振る。メリーは思う。いつか、彼女たちに神罰が下りますよう。主に自分の手で。
大学の裏口を通り抜け、何個めかの水溜りを越え、掴まれたメリーの左腕が蓮子の体温と掛け合わされてじっとり汗ばんで来た頃、メリーはようやく彼女の腕を振り解くことに成功した。なによー、と寂しそうに口を尖らせる蓮子も、周囲を見渡してここが当面の目的地であると知るや、台風の目に入ったかのような晴れやかな笑みを浮かべるのだった。
走り続けてきたせいで、傘の甲斐もなく足元はずぶ濡れになっている。引きずられていたメリーも同様、洗濯物を干せない時期に余計な洗い物が出来たものだと苦笑するしかなかった。
ならばいっそ、足元が多少疎かになっても構わないくらいの短いスカートを履く、という選択肢もある。メリーは鏡の中に映っている自身の姿を想像し、笑っていいのか泣いていいのか、何は無くとも恥ずかしくて外に出られないことだけを理解する。そして如何に短いスカートを履いていたとしても平然と市街地を駆け抜けていそうな蓮子に、瞳の焦点を合わせた。
左右をコンクリートの壁に囲まれた小路。奥まったところに柳があり、路地と交差する形で水路が流れている。氾濫を未然に防ぐために水路の幅はやや広めに取られており、深さにしても同様だった。口の広がった水路は、一週間前から降り続いている雨の影響によりかなり高い位置まで増水している。
轟々と流れる側溝の泥水が、瞬く間に次から次へと水路に飛び込んでいく。
そんなことが絶え間なく繰り返され、名前もない川はこの一時期だけありとあらゆる全てのものを飲み込む濁流と化していた。
「怖いわねぇ」
メリーは頷き、先導する蓮子の後に続いた。一人ではどうにも息苦しかった。黴と錆が混じったような、腐敗した匂いが漂っている。呼吸をするのも億劫だ。それは結界の境界に接敵できる能力を持つが故の苦悩なのか、それとも第六感として蓮子も感じ得る平凡な衝動なのか。
蓮子は、力強く宣言した。
「それでは、これより秘封倶楽部の活動を開始致します! 総員準備!」
「二人しかいないけど……ていうか、まだ始まってなかったの?」
「細かいことが気になって仕方ないメリーは近いうちに禿げるとして、まずはあの怪しげな柳の木を調べてみましょう」
「いやもうどうでもいいけどさ」
諦観する。
今日の蓮子は興奮のあまり傘を放り投げることもなく、時折顎の先に指を掛けたり、しゃがみ込んでしきりに唸ったりなどしながら、柳の木に潜む謎を解き明かそうと試みる。
一方のメリーは、柳に寄り添うようにして立っている紫色の輪郭が、蓮子と重ならないように祈っている。メリーより頭ひとつ高い、事件現場を象ったあからさまな絶望の証明は、降り注ぐ雨と吹き付ける風にも耐え、呆然と、敢然と、何かを訴えるように二人を見下ろしている。
不気味だった。
不意にこちらに駆け出してきそうな、得体の知れない恐怖を抱く。見えるのは境界だけで、その向こう側にあるものは何も見えない。あるかどうかさえ分からない。
「メリー、その線ってどのあたりにあるのー」
単独調査ではにっちもさっちも行かなくなって、蓮子はたまらずメリーに助けを求める。急に呼ばれたメリーははっと顔を上げ、声の正体が見慣れた人影だと気付いて安堵の息を漏らす。
「えぇ、そうね。ちょうど、柳の下にある縁石のあたりかしら。車道にはみ出して……うん、そこ。あぁ、でもまだ触らないでね。危ないから」
メリーが見た中でも異端に属する境界だ。警戒するに越したことはない。それ故に興味を惹かれてしまうのは、やむを得ないことだとしても。
蓮子は手を伸ばしかけ、メリーの忠告に従ってすぐさま懐に引っ込めた。歩道から柳の裏に回り込み、何かないものかと目を皿にして探し続ける蓮子の丸まった背中が、濃紺の傘と相まって巨大な毒茸みたいだなと他人事のように思う。
友達甲斐のないことを考えているメリーを他所に、蓮子はその猫背を真っすぐに伸ばして足元を見下ろしていた。何故だか急に不安になったメリーは、傘の布を打つ雨と、水路を削り取るような黄土色の濁流に負けない声で彼女に問いかけた。
「ちょっと、どうしたのよ蓮子――」
項垂れて俯いた彼女の後ろに立ち、肩を叩こうと手を伸ばす。その際に、彼女の見ていたものが視界に入った。
それは、花束と呼ぶにはあまりにも不恰好な群集だった。リボンも包み紙も添えられていない紫陽花の群れは、恭しくこうべを垂れる柳を振り仰ぐように、青、白、紫の花弁を得意げにさらしている。
柳の根本から生えている色鮮やかな紫陽花は、柳の枝を経て降って来る玉の雫を全身に浴びて、ふやけることもなく潤っている。
今は梅雨だ。だから、紫陽花が咲いていることを疑問に思う必要はない。ただ紫陽花の根本に突き刺してある色落ちした花瓶が、蓮子の目に、メリーの瞳に焼き付いて離れないのだった。
蓮子の横顔から、同情や悲哀といったものは見出せなかった。ぽつりと、どこからか落ちてきた雫が傘を弱く叩いた。
「やっぱり、そういうことなのかしら」
二人が並べば、傘が邪魔になる。メリーは自分の傘を蓮子のそれよりも高く掲げ、無理やりにでも彼女の表情が読み取れるよう配慮した。
聞きようによっては悲しんでいるようにも取れる蓮子の言葉を、メリーは額面通りの意味でしかないと解釈した。
「やっぱり、そういうことなんだと思うけど」
「そうかな」
「そうだよ」
メリーの傘に溜まった雨粒が蓮子の傘に落ち、最後はメリーの足元に不時着する。アスファルトに弾かれた雫は、メリーの靴に吸収されて影も形もなくなった。
蓮子は時計を見る。曇り空が広がっていては、彼女の特技は発揮できない。
どちらともなく曇り切った空を仰ぎ見、降り続く雨の重さに顔を強張らせる。憂鬱に締め付けられる程度の感傷を抱けるのなら、まだ心は乾き切っていないのだろうと信じながら。
蓮子は言う。
「雨、やまないね」
梅雨だからね、とメリーは言った。
冴えない答えに蓮子は肩を竦め、それに憤ったメリーが傘を振り回して蓮子から顰蹙を買う。
人の形をした結界は、切れることなく、ただそこに在った。
3.
ぬるま湯に浸かりながら息をしているようだ、とメリーは思う。
発達した前線はメリーの遥か上空に停滞し、人に似た境界を見定めた頃から延々と雨を降らし続けている。何もしない、何もできない一週間は長く厳しい。大学に行き、喋り、遊ぶ間もなくサークル活動に勤しみ、帰る。帰れば生活の最低基準を満たすために家事をしなければならない。蓮子はその文化的に最低限度必要な家庭の仕事すらも怠っている節があるけれど、それでもなお生きていけるのだから、人間というものは存外しぶとく出来ているものだ。
メリーは薄暗い部屋の明かりを点け、冷蔵庫に何が入っているかを確認すべく、欠伸混じりに台所へと出向した。
彼女が住んでいる部屋のチャイムは、そのスピーカーが台所の天井近くに設置されている。自動的にエコーがかかり、フィルターもない剥き出しの電子音は聞き慣れていても身体が強張る。だが多少なりとも気が抜けているなら、そんなことなど簡単に失念してしまう。
「ふあぁ……」
引っ切りなしに襲い掛かって来る欠伸に終止符を打つべく、これで最後と決めてかかった欠伸の最中、雷鳴、稲妻、疾風迅雷を彷彿とさせる音波が、メリーを直撃した。
「――ぅえあッ!」
と情けない悲鳴が続けざまに漏れ、地味にチャイムを連打している無粋な訪問者の来襲を知る。ため息は肺の奥底で氷結した。胸に重ねた両手が、まだまだ自分は未熟者だと教えてくれる。
手の甲が汗ばんでいる。ぬるま湯に浸かっているな、とメリーは思った。
「……現在、蓮子さんはお断りしています」
『この世にどんだけ蓮子さんがいると思ってるのよ!』
「あんまりいないから安心なさい……」
怒るのも面倒になって、メリーはドア越しに喚き散らしている蓮子を招き入れた。畳んだ傘を肩に担ぎ、真新しい大学ノートを掲げている。そのにこやかな笑みが忌々しい。
部屋に入った蓮子は、テーブルにノートを置いてすぐさまベッドに倒れ込んだ。数秒後には心地よく寝息を立て、うつ伏せのまま枕を抱き締めて死んだように眠っていた。
「何しに来たのよ、一体……」
メリーは自分の後ろ髪を撫でる。予想した通り、激しく跳ねているようだった。
雨音に蓮子の寝息が溶け、音の広がりは増したと言えども、メリーは自身の退屈を解消する直接的な手段を見付けられないでいた。ベッドの棚に置いた目覚まし時計とクマの縫いぐるみ、ベージュのカーテン、灰色の雲と黒い空、冷蔵庫の振動、稲妻、雨音、寝息、衣擦れ、呻き声。
気が滅入りそうだった。
テーブルに置かれたノートを見逃していたのは、蓮子の許可なく閲覧していいものか悩んでいたせいだった。表紙には、罫線と罫線の行間に記された『宇佐見蓮子』の筆記しかない。物理学とも心理学とも日記とも雑記とも書かれていない。
メリーはノートを開いた。
一頁目に書かれている文字の羅列を読み飛ばし、次の頁に移ろうと紙をめくり、最初の一頁以外は何も書かれていないことを知る。改めて、一頁に刻まれた言葉の意味を汲み取る。
『六・一六に発見された結界に関する報告』
「メリー」
背筋が凍る。
冷たく厳しい響きではなかった。単純な呼びかけであったはずの聞き慣れた声色を、原始の恐怖とすげかえてしまった。その原因は、暗黙の了解を背約したメリーの中にある。
振り返ると、横になったまま目を開けている蓮子がいた。怒気も侮蔑も感じられない。徹底された鉄面皮が、彼女の顔に貼り付いていた。
席を外そうとして、蓮子の瞳に射竦められる。立ち上がれない。寝息はいつから消えていたのだろう。そも、初めから狸寝入りしている可能性を何故疑わなかったのだろう。
それは、そうする理由がなかったからだ。
「あなたは、見てしまったのね」
ノートには、表題以外にも何か文字が書かれていた。メリーはまだそれらの意味を全て咀嚼していない。とんだ不徹底さだ。歯噛みする。
気だるげに身体を起こした蓮子は、動くことができないメリーからノートを取り上げる。ふん、と小さく鼻を鳴らして、街に夜が降りてくる様相をつぶさに観察する。
「献花には確たる理由が必要よ。誰かがそこで死んでいなければならない。加害者と被害者がいなければならない。あれは自殺ではなかった。私には分かる」
息を飲む。次に続く言葉を二人は知っていた。
蓮子は言う。
「だって、私が殺したんだもの」
稲光が室内を染める。
鈍く輝く銃口が、額に突き付けられていた。
メリーは言う。
「……嘘でしょう」
「うん」
首肯する仕草だけは、やけに可愛らしかった。
……明かりが消えていれば完璧だったのにな、とメリーは悔やんだ。蓮子が考えていることを先読みしていれば、とても楽だったのに。意味のあることばかりをしていても、確かにつまらない人生なのだろうなとは思うのだし。
「もうこうなったらもくげきしゃをみなごろしにするしかないわー」
「それはもういいから」
「そう?」下唇に人差し指を添える姿が、いやに子どもっぽい。懐から出したモデルガン――であると信じたい――を太もものホルダーに収め、疑惑溢れるノートを再びテーブルに放り投げる。
蓮子もメリーの対面に座り、重苦しい雷が鳴り終わる頃には、先程の小芝居など記憶の彼方に葬り去られていた。
雨足が強くなる。
「気になるのよ、あの場所」
「でも、もう終わったことでしょう」
紫色の献花を思い返す。あの柳の下に何が埋まっているか、それを探るのは無粋に思えた。
蓮子は悩ましげに頬杖を突き、ノートに書かれた一節を指でなぞる。
『死んだのは誰?』
「確かに、下世話な好奇心のなせる業だとは思うんだけどね。気にはなるのよ。そういうことなんだろうけど、それだけじゃないって気はしてる」
勘だけどね、と付け加えて、蓮子は不意に立ち上がった。その手には彼女のものらしい箸がある。メリーは全く気付かなかった。
「お腹が空いたわ。ご飯にしましょう」
「蓮子、ここ私の部屋」
「箸は持って来てるから大丈夫よ!」
景気のいい笑顔だった。
蓮子の提案を感情の赴くままに拒絶できる性格ならば、彼女はおそらくメリーの部屋に訪れていなかった。蓮子もメリーもそれを十二分に理解しているから、ため息を吐きこそすれ、この豪雨の中に親友を叩き出そうとはしないし、蓮子もまた思い切り迷惑を掛けてやろうと思えるのだった。
一足早く台所に赴く蓮子の背中を見送り、レポートとはお世辞にも言えない箇条書きの報告書を閉じた。
それでも最後に目に留まってしまった一節は、蓮子の冗談を抜きにしても、早急に忘れることはできないだろうと思った。
『事件には加害者と被害者が必要。
加害者は誰?』
講義前の一室は酷くざわついている。窘める者のいない雑然とした空間は、定時を迎えれば自動的に沈黙する。号令を放つ者はいないが、足並みを乱す者も少ない。雑音、騒音、喧騒の類を嫌う者は、イヤフォンやヘッドフォンで防御策を取っている。声を大にする者は稀だ。
普段ならメリーもそんな喧騒の片棒を担ぎ、友人たちと他愛のない会話に花を咲かせているのだが、今日に限っては聞き役に徹していた。左に二人、メリーは廊下側の最後列に位置し、熟睡するにも早退するにも絶好の座標にいた。
声を掛けても愛想笑い、セクハラじみた話題を振っても無反応とくれば、聡明な友人たちが彼女の異変に気付かないわけがない。額にエメラルド色の髪留めを着けた友人が、メリーの頬を突付きながら言う。
「うわあ、メリーぶさいくー」
「……」
「ごめんなさい」
謝った。
もう一人の友人は、背中に垂らした長く流麗な黒髪をかきあげながら、メリーの頭を親しげにぽんぽん叩く。
「そんなに塞ぎ込んでると、また食べなくてもいいごはんを食べちゃうことになるわよ。だから、えーと、ご、ごめん……」
謝らざるを得なかった。
崖に佇む自殺志願者の背中を押す友人たちの気遣いで、メリーは相当に追いつめられていた。聡明な友人たちではあったが、若干空気を読めなかったのが仇となった。
突っ伏したまま眠ってしまいたいと思った。
だが、背中を撫でられたり頭を叩かれたり胸を揉まれたり尻を撫でられたりなどすれば、元気を出す気がなくとも元気になるというものだ。手始めに頭蓋骨が割れるくらいの拳骨を両者に喰らわせた後、メリーは彼女たちに聞きたいことがあったのだと思い至る。
患部を押さえうんうん呻いている友人たちに、メリーは何事もなかったかのように質問する。
「ねぇ。何年か前に、この近辺で何か大きな事件が起こらなかった?」
二人は目を丸くする。反応したのは、隣で突っ伏していた友人だった。
「それまたどうして」
髪留めを擦りながら、不思議そうに問い返す。メリーは悩む素振りも見せず、即座に答える。
「大学の抜け道に、それっぽいところがあってね。曰くつきみたいだから、もしかしたらと思ったの」
確信には触れず、意味が通るように伝える。二人は顔を見合わせ、こめかみを叩いたり腕組みをしたりと、記憶を掘り下げているような格好だけはしていた。
「どうだろね。接触事故とか喧嘩とかなら、大学の近くでもしょっちゅう起こってるけど」
「メリーが言ってるのは、そういうことじゃないんでしょう?」
沈黙してはならないと分かっていても、容易に答えられないことも確かだった。口を噤んだわずかな隙を見計らって、長い髪を胸の前に垂らした友人が、これ見よがしにため息を吐く。
「あなたの意志は尊重するけど……死なない死なないと思って危ないことばっかりやってると、いつか取り返しのつかないことになるわよ。覚えておきなさい」
「うん。ありがとう」
メリーは、素直に感謝の意を告げる。
彼女の口から反省の言葉が出て来なくても、結局は危険を冒すのだと友人たちも分かっている。メリーは知らずとも、彼女があの宇佐見蓮子と同じ部類に属する人間であることは、もはや周知の事実だった。それは秘封倶楽部という単純なカテゴリーに留まらず、思想、行動、能力の本質が似ているということも挙げられる。
似ていなければ、秘封倶楽部など結成するはずがないじゃない、と友人たちは後に語っている。
黒髪を震わせ、露骨に嘆息してみせる。親交の浅い者なら不愉快に感じても仕方ないため息も、親しい者なら単に子どもの我がままを甘んじて受け入れる親の心境であることが分かる。
その行動で、この友人が何か重要な情報を握っていることを知る。
「私が知っているのは、大学前の交差点で研究生が玉突き事故に巻き込まれたのと、水路と柳があった路地で、女の人が亡くなったのと……」
「飛び降り自殺なんてのもなかったっけ? あー、それはもっと山沿いだったかなぁ」
髪留めを外し、手元でくるくると回しながら情報を補足する。
「でも、あのビルでは殺人事件も起きてたんでしょう? 近々取り壊されるって話だけど、結局解決したのかしら……」
情報が錯綜する。その取捨選択に忙しいメリーには、白髭を生やした助教授が、梅雨時に相応しく重苦しそうに扉を開ける音が全く聞こえなかった。故に講義が始まったことも気付かず、ノートを取ることも怠り、友人たちに大きな貸しを作ることになった。
蓮子は大学付属の図書館で調べ物をしていたから、メリーは一人で帰路に着いた。蓮子と同様に、メリーもまた確かめておきたいことがあった。そのためには現場に赴き、結界の歪みを確認する必要がある。
これは既に終わっている話だ。掘り返しても、きっと死体すら出て来ない。だが蓮子が言ったように、頭の隅にこびり付いて離れないのだった。
友人たちの誘いを断って、雨の中をただひたすらに歩いて行く。憂鬱そうに俯きもしない。真実を暴く、などという探偵願望があるのでもない。
結界を暴く。
目的があるとすれば、それくらいなもので。
「あれは、不幸な事故だった……」
柳と献花がある水路まで、もう少し。メリーの隣を走るものは何もなかった。雨の勢いは昨日よりいくぶんか和らいでいて、傘の皮を打つ雨粒も意気が弱い。側溝から溢れた雨水が道路に川を作ることもなく、メリーはくぼんだアスファルトに出来た水たまりだけを警戒していればよかった。
久しく、太陽を見ていない。
メリーは角を曲がり、項垂れたまま立ち尽くしている柳の木と、こちらを向いて――いるように思う――人の形を模し、直立不動のまま微動だにしない結界の歪みを確認した。
違和感は、思えば初めからあった。結界の境目、歪み、切れ目、境界に値するものに近付けばそれ相応の不和は生じるものだけれど、今回のそれは境界の接触によるものばかりではないように感じる。
一歩ずつ前進し、紫色の歪みに接近する。鼓動が速くなる。呼吸がぎこちない。頭蓋が熱い。降雨の影響など全く感じられない。熱い。熱い。涼しい場所はどこだ。
「――まず、いけない」
歪みに犯されてはいけないと、余った手で頬を打つ。患部から発せられる熱は、むしろ茹だった頭を冷やしてくれた。
呼吸を整え、しっかと前を見据える。水路の濁流がうるさい。歪んだ輪郭の向こう側に見える灰色の雲は、メリーが見ているそれと同じ存在なのか。メリーは考えて、やはり詮無いことだと切って捨てる。
歪みの前に立ち、柳の枝から垂れる雨粒がメリーの足元を濡らし始める。囁くように、自分に言い聞かせるようにして、メリーは呟いた。
「被害者はいた。加害者もいた。未練や、怨念もあったのでしょう。そんな負の感情が、歪みを生む温床になったんだと言うのは簡単だけど」
まぶたの上から、左の目をこする。
因子も条件もほぼ完璧に揃っているのに、因子を因子と気付かず、条件を条件と捉えられていない。扉も鍵も目の前にあって、ただ鍵の回し方が分からないとでもいうように。
歯痒くて、唇を噛む。奥歯が軋み、濁流の喧しさに気が触れそうになる。いけない、歪みに呑まれている、そう実感しても、不快なものを無理やり巻き戻すことは難しかった。
吐いたため息が、急速に心を乾かす。探偵を気取るには、まだまだ修練が足りないようだ。
「……駄目ね。私一人じゃ、ここが限界か」
悔しがっても構わない場面なのに、愚痴を吐く気にはなれなかった。彼女ならば、宇佐見蓮子ならばこの事件を解決してくれると思った。とうに解決している事件だとしても、きっと納得のいく形で疑問を解消してくれるだろう、という確信があった。
「帰ろう」
自分自身を洗脳して、歪みに背を向ける。服の内側に汗が染み込んで、要所要所がべたついていた。気持ちが悪い。裾や袖口を引っ張り、通気を良くしながら硬く湿った道を引き返す。板張りの橋を渡るには、水路の勢いが少し激しすぎる。いくら近道できるとはいえ、その上を越えて行く気にはなれなかった。
傘を握る手も汗ばんできたから、メリーは傘の柄を右から左に持ち替えようとする。その際、視界の隅に黒い塊が飛び込んできた。野良猫かしら、と目を凝らしてみる。
鈍重な、土手っ腹に響く排気音は聞こえない。雨音に掻き消されているのだろうとメリーは思ったが、それが希望的観測でしかないことも分かっていた。
「え――」
二輪は、雨を引き裂きながら接近する。
地面に低く構える黒い塊は、野を駆ける肉食動物のようにも思えた。漆黒の大型二輪。搭乗者は黒いヘルメットに黒のライダースーツ。視認できた情報はそれだけで、性別、体型、表情、メリーが知りたいことはひとつも分からなかった。
走馬灯のように脳裏をよぎったのは、親切な友人たちの忠告だった。危険だ。取り返しがつかない。死ぬ。殺される。口にすれば冗談にしかならない言葉も、この瞬間に発するならば比類ないくらいの真実味を帯びる。
死を自覚するのとほぼ同時に、何が因子で、何が条件であったかを悟る。手遅れだとしても、収穫があったのは嬉しかった。
「あ」
接触するまでわずか数秒、あるいは一秒に満たなかったのかもしれないが、結果が同じなら過程がどうあっても意味はなかった。
単車。事故。被害者。加害者。紫陽花。柳。橋。壁。袋小路。結界。
点と点が線に繋がった。
制限を過度に越えた速度で駆け抜けて来る黒い影を、メリーは無意識のうちに紙一重で回避する。サイドミラーが脇腹を掠め、その衝撃で何歩か後退る。痛みと痺れに呻きを上げる前に、彼女は自身に覆い被さってくる紫色の歪みを感じた。
人を象った結界の境目が、メリーと重なる。
……あぁ、やっぱり。
私は、主人公にはなれないんだな。
そう諦観して、メリーは意識を閉じた。
……今日も雨が降っている。薄暗い。梅雨だからって、こんなに雨が続かなくてもいいのに。
傘は重く、色調も暗いから気分まで沈んでいくよう。鬱々とする。ただでさえ最近は嫌なことが多いのに、これ以上底に沈んだら私は一体どうなってしまうんだろう。
自転車も使えず、スーパーまでの道程さえも鬱陶しい。湿気は髪や肌どころか心までも侵していく。指にかかる鞄の重みも増す。嘆息する。
ざあざあと降り注ぐ雨は、やむ気配すら見せてくれない。
傘に当たる雨粒の音がやかましく、耳を閉ざそうとしても両手が既に塞がっていた。気が塞ぐ。
ため息の音は重く、よろけながら角を曲がる。確か近道があったはずだ。今は水路が増水して危ないかもしれないけど、早く部屋に帰って温かいものでも飲みたい。お腹も空いたし、気分を晴らさないとやってられない――
――え。
「……え?」
低く曇った音が聞こえて、唐突に振り返る。そこには重苦しく唸りを上げる単車が低く構えていて、私は、呆然と立ち尽くすことしか――
――違えている。
ライダーが右手を掲げているのは鞄を掠め取るためだ。何故彼女を狙ったのかは分からない。偶然か故意か、そこにある因果を知るには材料が足りない。問題は別のところにある。
サイドミラーに弾き飛ばされ、彼女はたたらを踏んで後退した。茫然自失だったせいもあったのだろう、その拍子に水路へ落ちてしまった。
――ここだ。
私は彼女で、彼女は私。どこで幽明の境を越えたのか、それを測るより先に私はこの水の中から脱しなければならない。視界は黒く濁っていた。耳朶の浸水は甚だしく、鼻と口にも多量の濁流が飛び込んでいるはずだ。なのに私は、酷く冷静に自身の地獄を客観視している。隔靴掻痒の苦痛も今際の際の快楽もない。窒息も絶命の過程でしかないのならば、終焉の間際に恍惚があったところで無意味に過ぎる。ぬるま湯に浸かりながら呼吸をしているようだ。手を伸ばす。感覚はない。視界は明滅する。意識が断絶していないのは、性質の悪い奇跡としか思えなかった。
耳朶を貫く音色は雨音にも似て、私を出口のない憂鬱へと誘う。けれども私は底から這い出でる術を知っている。叫ぶ口はなく唱える舌もない。唯一この手のひらを広げ、助けを求めることしかできないのだけど、それでも。
激流の合間を縫うように、声が聞こえる。
幻覚でも厭わない。それを真実と信じている限り、私にとってそれは紛れもない救いの言葉で。
「メリー」
何故、動揺も叱責の色もない優しい声色なのかは知らない。
ただ、差し伸べた手を硬く握り締められていることが嬉しくて、私は――マエリベリー・ハーンは、探偵の登場に感動した。
「こんにちは、メリー……水泳の季節には、まだ早いわよ」
冗談めかした言葉が胸を突いてやまなかったけれど、恥ずかしいから、涙は流さずにいた。
雨が降っていることを思えば、全身が濡れそぼっていることも素直に受け入れられた。否定すべきものがあるとすれば、それは服が役に立たなくなったという一点のみである。
蓮子に助け起こされたメリーはしばらく彼女の手を握り締めていたが、今更繋ぐ理由もないなと悟って手のひらを離す。
「つれないわねえ、メリーは」残念そうに呟く蓮子の瞳が潤んでいるのは、湿気が多いせいだろうとメリーは見当を付ける。それ以外の如何なる理由があったとしても、メリーには「ありがとう」としか言うことができないのだ。
不公平だな、と嘆息する。安堵に満ちたものになるはずだった吐息は、メリーの予想に反して全く可愛げのないしけたため息に堕ちた。
メリーは今まで自分が浸かっていた水路を見下ろし、胃の奥に残っているかもしれない泥水の感触に激しくむせ返る。蓮子はうずくまったメリーの硬い背中を優しく擦り、彼女の耳元で「大丈夫だよ」と繰り返し語りかける。
やはり、公平じゃない。
「怖かった……」縋り付く。
「うん、怖かったんだね」肩にかかる手は温かく、濡れた身体を体温だけで温めようとしているようにも思えた。
雨は、いつの間にか収まっていた。蓮子が持っていた傘と、メリーが落とした傘が水たまりに浸かっている。台無しだった。
メリーは言う。
「終わったことなんだけど、言うね」
「うん」蓮子は頷く。
「加害者が、被害者になってたんだ」
例の歪みを窺おうとして、既にその輪郭が消失していることを知る。同時に、雨粒を一身に受けていた柳の木も、板の橋も、初めから存在しなかったかのように綺麗さっぱり無くなっていた。
焦げ目の残る切り株と、その根本に不恰好な花瓶が図々しく突き刺さっている。紫陽花も消えて無くなっていた。分厚い雲間から差し込む光は、天使の階段と名指しされるに相応しい。
メリーは続ける。
蓮子の手が肩から外れたが、その温もりはまだ体内に残っていた。
「あの歪みは、轢かれた人のものだと思っていたけど……本当は、轢いた人のものだったのね」
開かれたまま放り投げられた傘を拾い上げ、その石突で境界があった地点をなぞる。あの紫の輪郭は、メリーより頭ひとつ抜きん出ていた。メリーはただ境目の異質さに目を奪われていたが、答えはそのとき既に示されていたのだ。
あれは、男性の輪郭だ。
他にも、蓮子があの二輪を追いかけた時、蓮子は袋小路であるにもかかわらずあの二輪を見失っていた。橋を越えたのではないか。しかしあの重量には耐えられまい。裏口があったのではないか。しかしあるのは壁ばかりだ。
「因子も、条件も揃っていた。やっぱり、私には探偵の才能がないということね……」
嘆息し、項垂れて傘を閉じる。
蓮子も傘を畳み、へばりついた水滴を乱暴に振り払う。肩に担ぐような真似はしなかったものの、男の子のように棒を持つだけでやけに格好よく見えるから不思議なものだ。
「数年前の新聞に、その事故の詳細が載っていたわ。大型二輪が女性を轢き、バイクを運転していた男性はハンドル操作を誤って柳に激突した。降雨だったことも災いし、事故直後に二輪は爆破炎上。女性は水路に落ちたものの軽傷で済み、男性は意識不明の重体……」
「てことは、まだ死んだって決まったわけじゃないの?」
台風の目に飛び込んだような晴天を仰ぐ蓮子。その後ろに木の橋はない。流されたのか、それとも初めから存在しなかったのか。メリーには分からなかった。
「それは、私にも分からないわ。でも」
一拍置いて、蓮子はステッキのように傘を回した。淑女であるはずの性別でも、彼女には紳士という語彙が適切であるように思える。
「生きている人の念と、死んだ人の念。それは一体、どちらの方が強いんだろうね」
蓮子が空を仰いだから、そのついででもなかったのだけど、メリーはつと青空を見上げた。緩やかに流れる雲が、でこぼこな地平線に集積する。久しぶりに姿を現した太陽は大きく傾き、光に満ちた地上を橙色の逢魔ヶ刻に落とし込むだろう。空気も冷え、気温も冷たくなってきた。
まずい、と思ったが既に遅かった。
「くちゅっ!」
メリーは豪快にくしゃみをする。
蓮子はにやにやと笑っている。
恥ずかしいやら情けないやら、メリーは広げられたままの傘で蓮子に殴りかかった。蓮子は己の傘でそれを迎撃し、返す刀で身体の線がくっきり出てしまっているメリーの胸部を突いた。
柳も橋も、献花も境界もない袋小路に、蒼天から煌びやかな光が降り注いでいる。可愛らしい女性の鳴き声が響き、続けざまに、女性とは思えないくらいの太く鈍い悲鳴が轟いた。
4.
憂鬱な午後、雨は降らない。
天気予報に誑かされて持参してきた蝙蝠傘は、一度も開かれることなく円卓の下に引っ掛けられている。その名に相応しくだらんと垂れ下がった傘には目もくれず、卓上で相対した女学生両名は、臆面もなく晴れ渡る空を眺めていた。
台風一過の青空を彷彿とさせる澄み切った天上を傍観し、メリーは人差し指でテンポよくテーブルを叩いている。蓮子は傾けていたカップをコースターに戻し、彼女の悪癖を目ざとく指摘する。
「ご機嫌がよろしくないようね、メリーさん」
「そんなことは……あるのかな。やっぱり」
「額に『おなかすいた』って書いてあるわよ」
「すいてるけど。すいてるけど」
二度繰り返し、通り掛かりの店員にモンブランを注文する。お飲み物は要りませんと先手を打ち、メリーはテーブルを打っていた指で自身のこめかみを突く。
「どうなのかしら、と思って」
「何が」と問い返す蓮子の手には白磁のカップがある。薄い赤桃色の唇に吸い込まれる琥珀の水が、やたらと淫らに見えた。
「あの輪郭。あれはもう解決した事件でしょう」
「そうね。私たちが、興味本位で穿り返しただけのことよ」
たったそれだけ、と蓮子は肩を竦める。
メリーは続けた。
「引っかかるの。世界に不思議なことがあるのは知ってる。結界の境目なんてものがあって、その向こうに何か得体の知れない世界があることも」
店員がトレイを運んでくる。メリーは口を噤み、黙ったままそれを受け取って黙礼を返した。
「食べないの?」と蓮子が視線を送り、スプーンを振りかざしたためメリーも己の陣地を守らねばならなかった。栗の触感が舌の上を転がり、甘い香りが鼻腔を逆流する。恍惚に打ちひしがれる表情を盗み見、にやにやと微笑む蓮子にも慣れた。
「だけど、あれは私たちが確認してきた歪みとは一線を画している。全くの勘だけどね、蓮子。私には、そんな気がするのよ」
白磁器の縁に掛けた銀のスプーンには、濃厚なクリームが色濃くへばりついている。意志の光に満ちたメリーの瞳が、そっくりそのまま蓮子の瞳に叩き付けられた。蓮子はモンブラン侵攻の手を止め、深窓の令嬢に似せた幽玄さで頬杖を突く。
「いいとこ突いてるわ、メリー。安楽椅子探偵は難しいけれど、悲劇のヒロインなら連番確定よ」
「お断りするわ。クリーニング代も馬鹿にならないし……」
嘆息し、蓮子の表情を一瞥する。年若い安楽椅子探偵は、メリーを試すように微笑んでいた。
「ヒント、いる?」
「知ってるなら、答えを言ってくれたらいいじゃない。けち」
蓮子の表情に変化がないことを知り、メリーは観念して手のひらを振った。
「ヒント、お願い」
「素直じゃないわねぇ、メリーは……あぁ、ヒントは『逆』よ。これが解けたら、メリーにも私立マエリベリー探偵事務所を構えられるくらいの実力が秘められてるってことね」
戯れ言は右から左へと聞き流し、メリーはヒントを頼りに思考の海へ没入する。けれども、執拗にモンブランを狙う狡猾なスプーンの猛襲には決して屈しない。蓮子の舌打ちが聞こえ、店員に追加注文を頼む声も聞いた。
逆。加害者と被害者。存在しなかった二輪と橋と柳と献花。結界の境目。それらの逆。
メリーは目を見開いた。
「……そう、結界か」
「ご明察。入口と出口って言えば分かりやすかったんだけど、それじゃあつまらないでしょう?」
「処理施設が不完全燃焼起こしてるのに、新鮮な可燃物放り込まれても困るのよ。全く……」
「言い得て妙ね」
メリーは力なく背もたれに寄りかかり、窓の向こうに流れる人影を眺める。蓮子が注文したカスタードプリンが届き、浮かれたように歓声を上げる蓮子の気持ちも、今のメリーなら甘んじて受け入れられる。
――例えば、ひとつの扉がある。この事件における扉があの輪郭。メリーはあの輪郭が扉であることを理解していながら、その向こうにあるものが異界だと信じて疑わなかった。けれど本当は、メリーの立っていた場所が既に異界の内側だったのだ。
あの境目を、異界の入口でなく出口と考えれば分かりやすい。あれに触れると異界に達する――のではなく、あれに触れれば現実に戻れる、そう考える必要があった。
異界ならば、現実には存在していない柳や紫陽花、バイクや橋がメリーの前に現れたことの説明もつく。尤も、確たる証拠のない幻想的な仮説の域を超えない証明に過ぎないのだけど。
「でも……だとしたら、私たちはいつの間に結界に入っていたのかしら」
明かし切れない疑念を口にすると、プリンを頬張っていた蓮子がスプーンを咥えたままもごもごと回答する。
「そら、お天道様に聞いてみないと分かんないけど、多分、この時期になるとあそこを中心にした結界が構成されてるんじゃないかな」
分かんないけど、と蓮子は反復し、欠けたプリンの山を銀のスプーンで一閃した。はむはむと咀嚼する彼女の恍惚とした笑みが実に幸せそうで、メリーは胸の中にこもっている疑問を吐き出すことができなかった。
蓮子が再び落ち着きを取り戻した頃には、彼女の瞳は達観した色に染まっていた。ガラス越しに広がる何の変哲もない空の果てを見据え、悲しむべきものを慈しむような、聖母にも似た笑みで。
「きっと、やり直そうとしてるんだね」
白磁のカップから湯気が立ち昇り、紅茶の上品な香りが二人の胸に染み渡る。扉が開かれ、当たり障りのない挨拶が交わされた。
空想する。
確定された結末から逃れるために、雨の路地をただひたすら走り続けるバイク。その足掻きはみな同じ結果に収束し、そしてまた終わりのない自損事故が続いていく。
あの輪郭が異界からの出口だとして、異界にはまだ黒いバイクが取り残されているのだろうか、とメリーは思う。表の事象と裏の事象、両極端な世界を同時に覗くことは不可能なのだけれど。
モンブランに手を付ける。蓮子はプリンに夢中で、モンブランを打ち崩す余裕がないらしい。胸を撫で下ろす。
「でもね、メリー」
油断していた。食道を伝っていくスポンジが気管に詰まり、漫画のように胸を叩く。メリーの痴態をくすくすと笑いながら、蓮子は不意に窓の外を眺める。メリーもそれにつられて外の通りを窺ったものの、つい今しがた駆け抜けて行ったバイクの色までは確認できなかった。
目が点になる。
蓮子は、慈悲深く微笑んでいた。
「こっちの世界に戻ってきても、柳の下に献花はなかった。それは、どうしてだと思う?」
秘封倶楽部の面々が店を出てからも降雨の兆しなど微塵も現れず、蝙蝠傘を戦わせながら漫然と見慣れた路地を二人で歩いている。予報が外れても日々は滞ることなく続く。それはそれで得がたく、とても素晴らしいものだとメリーは思う。
道路には久々の太陽でも除去しきれない水たまりが数多く点在しており、油断していると泥が跳ねてスカートを汚してしまう。けれども蓮子はメリーの心配などお構いなしに、ひょいひょいと水たまりを飛び越えていく。
「あなたは、もしかしたら私に泥が飛ぶかもしれないってことを考慮……ああもういいわよ。前を向け前を」
後ろを向きながら前に進んでいた蓮子が再び前を向く。
帰路に着く途中、あの現場を通りがかった。足は止めず、視界の端に切り株と花瓶があることを確認する。紫色の輪郭もない。既に終わっていた話が、ようやく完結した。
けれども。
何故、花瓶があったのだろう。
あの紫陽花が献花でも、柳の根本に生えていただけの雜花であっても、花瓶には相応の理由が必要だ。バイク事故に犠牲者はいなかった。ならば、あの花瓶は、他の事故による犠牲者に当てられた器であるはず。
ヒントはあった。あそこに橋はなかったのに、どうして橋があると思っていた。橋はなかった。あの水路でも人は溺れる。橋が腐れ落ち、どこかの誰かが増水した水路に落ちて――
『水路と柳があった路地で、女の人が亡くなったのと……』
「メリー!」
呼びかけられ、思考を中断する。名残惜しそうに事故現場を一瞥し、振り切るように路地を行き過ぎた。
「はいはい……」
感傷に浸る暇もなく蓮子は前進し、留まるべきか否かを苦悩するメリーを牽引する。後ろ髪を引かれるような思いは側溝に捨て、メリーは乾きかけた道路を歩き始める。
子どものようにはしゃぎ、歩道と公道を隔てる縁石をバランスよく駆け抜ける蓮子。無邪気な探偵の後ろ姿を見、近い未来に起こり得る残酷な未来に意地悪く破顔する。
「付いてこれるものなら付いてきなさい!」
「蓮子、私は注意したからね」
「ん?」と訝しむ蓮子をよそに、メリーはさっさと縁石から身を引いた。
そして小首を傾げてもなお縁石に君臨する蓮子の脇を、真っ白なワゴンが黒い水しぶきを立てながら駆け抜けて行った。
梅雨の一日、憂鬱な午後。雨はやまない。
大学に背を向けて歩く二人の女性は、本日の全過程を終え、薄暗い道路にコツコツと靴を打ち付けている。点在する水たまりを器用に避けられるのは、終始俯いたまま歩いているせいだ。
湿った地面に絶え間なく叩き付けられる雨の合間を縫い、足並みの揃わない行進が続いていく。
堪え切れずにため息を吐いたのは、公道側を歩いていた女性だった。白いカッターシャツの袖を肘の内側まで捲くり、悪路にも屈せずスカートを履き、緑の黒髪をなびかせながら歩く姿は実に凛々しい。
彼女の隣を歩く女性は、またかと言いたそうに彼女の横顔を窺う。彼女とは対照的な金糸の髪に、薄いスミレ色のブラウスを柔らかく纏っている。その佇まいに相応しい柔和な笑みをたたえ、俯いたまま雨の道を行く隣人に語りかける。
「蓮子は、あなたのため息が他人に与える影響を少し真剣に考えるべきだと思うわ」
「あなたの、なんて嬉しいこと言ってくれるわね。メリーは」
「茶化さないでよ」
蓮子の瞳が暗く沈んでいるのは、濃紺の傘に顔が隠れているせいだと思う。それ以外に、彼女が不貞腐れている理由が見付からなかった。雨が降れば定期的に気分が乾くような、少女漫画じみた湿っぽさを彼女に期待することはできない。
普段の蓮子なら、歩道と車道を分かつ縁石の上を律儀に歩いているはずだ。そのような無邪気な蛮勇を犯さずにいるだけでも、彼女が通常の精神状態でないことが窺える。
彼女は言う。
「憂鬱ねえ」
傘に隠れた視界の上を仰ぎ見るように、蓮子は顎を上向けた。
背の低い家々が立ち並び、側溝から溢れ返った大量の雨水が細い路地を大きく横切っている。歩道を侵食する大きな川を跨ごうとし、その隙に、黒光りする大型二輪が、川の存在などもろともせずに二人の横を通り過ぎた。黒い雫が跳ねる。
蓮子は被弾した。
湿ったアスファルトを踏み鳴らすゴムの濁音が徐々に遠ざかり、メリーは沸々と湧き上がっているであろう怒号の警鐘を蓮子の中に聞く。
「……」
無防備だった。陰鬱な心境で憂鬱な空を見上げていたことも災いした。
傘は雨を避ける道具ではなく、単に顔を守る防壁でしかない。狡猾な足払いを喰らったとしても、その責任を大きな傘にだけ負わせることはできない。が。
「よし」
蓮子は瞳を輝かせる。黒い予感がメリーの中に芽生え、すぐさまそれは確信へと変貌する。
「ちょっと今の二輪スクラップにしてくるわね」
「蓮子やめて蓮子」
「何よメリー、私がそんな冗談を言うとでも?」
ふ、と強張った表情が緩み、メリーが安堵した隙に蓮子は隘路を蹴る。
「持ち主ごとぶっ潰すに決まってるじゃない」
放り投げられた傘は、地面に落ちるより早くメリーに掬い上げられた。だが制止の声が掛かるよりも更に速く、蓮子の背中は遠ざかっていく。
消えた蓮子は、バイクが消えた角を曲がったところで、すごすごと帰って来た。その身体を適度に濡らし、不満そうに笑いながら。
「いやぁ、あっちもなかなか速いもんで、早々に見失っちゃったわ。あははは」
「どうしてそんなに嬉しそうなの」
「復讐ってのは、往々にして生きる力になるものなのよ」
メリーには理解したくもない真実だったが、蓮子が元気を取り戻したのなら文句を言うのも筋違いだ。拾い上げた傘を蓮子に渡し、内側に溜まった雫が彼女の肩に落ちる。
「あ、嫌がらせ?」
「すぐに拳を作らないでよ。怖いじゃない」
「怖がらせるためにやってんじゃない」
ろくでもない結論は聞き流し、メリーは蓮子を置き去りにして歩き始める。呆と突っ立っているだけでも、靴の内側に染み込む雨水の温もりを感じる。歩けば泥が跳ね、佇めば身体が冷え、俯けば背中が濡れる。蓮子に教えられなくても、雨の日が憂鬱なものであることは分かっている。
メリーは、蓮子がバイクを見失った路地を左に曲がる。ここを過ぎれば、間もなく蓮子と別れることになる。普段の通い慣れた道とは違うけれど、ここからでも部屋に辿り着ける。袋小路の道と交わるようにちょっとした水路が走っており、橋とは名ばかりの危なっかしい板があったと記憶している。もしかしたら別の路地かもしれないが、そのときはそのときだ。
そんな近道に特別な思いを馳せることもなく、上も下も見ず、前だけを見据えて直進する。
「――あ」
そうして。
ごく自然に足を止めたメリーのうなじを、蓮子の指先が丁寧になぞる。
「ぅひゃぁっ!」
「あら変な声」
「心配の仕方ってもんがあるでしょう! 心臓が止まったらどうするのよ!」
「こんなんで心停止しそうな人のうなじなんか触らないわよ。失礼ね、全く」
悪びれもせず、傘を差したまま腕組みする。矢継ぎ早に展開する蓮子の思考を追走しようなどと、考えるだけ時間の無駄だ。彼女の後には誰も付いて行けない。メリーはそれを理解しているから、あえて彼女を完全に理解しようとはしなかった。足りない部分は想像で補完し、余った部分は還元する。それで全てはうまくいく――のだとしたら、それ以上のことはないのにな、とメリーも思う。
ともあれ、目下の懸案事項は宇佐見蓮子個人に内在している問題と、もうひとつ。責任の所在を求めるならば、酷く不名誉なことではあるけれど、それはメリーことマエリベリー・ハーンに内在する問題だ。
メリーは無言で中空を指差す。蓮子もその指先が示す方を見る。
指し示す先にあるものは、一本の柳と水かさの増した水路、そこに架かる小さな板の橋。加えて、事件現場に常駐しているような、人の形をした不恰好なテープ。白ではなく紫、角がなく滑らかな流線形という違いはあれど、それは確かに人間の輪郭で、アスファルトに寝転んだままではなく、何かを訴えるように、見るもの全てを呪うように、直立した状態で柳の木の下に佇んでいた。
柳の枝から垂れる無数の雨粒も厭わずに、異形の紫がそこに君臨している。
あぁ、やっぱり。
見えるということは、あんまり気持ちのいいものじゃないな。
呆然と、メリーはそう思った。
2.
ベッドに寝転がり、象牙色の天井を仰ぐ。薄暗い部屋に明かりを灯すこともせず、メリーはただ雨が壁を打つ音に聞き入っていた。
まぶたの上から蒼色の瞳を撫で、その球体に閉じ込められた異能を想う。
彼女が何故「結界の境目を見る」という能力を有しているのか、その確たる原因は彼女自身にも分かっていない。だがメリーにとって「結界の境目が見える」という結果が重要であるように、秘封倶楽部にとっても「結界の境目が見えるメリー」の存在が必要不可欠なのである。
秘封倶楽部は、この世界に張り巡らされた結界を暴き、あわよくばその向こう側に飛び込むことを目的とした霊能サークルである。メリーの能力が無ければ、秘封倶楽部は平々凡々とした不良サークルに成り下がってしまう。
尤も、そういった必要の有無だけが秘封倶楽部を繋ぐ糸でないことは、蓮子も、メリーもまた十分に理解していることなのだけど。
「雨、雨、雨―」
口に出して呟いてみても、大した意味はなかったのだ。
寝返りを打ち、湿気に乱された髪の毛を指先で梳く。視界の端に曇りガラスが映り、その向こうに見える灰色の空に嫌気が差す。堂々巡りだ。
切りがないなぁ、とメリーはベッドから降りる。うつ伏せから四つんばいになり、猫のように背筋を伸ばして大きな欠伸をひとつ。誰かに見られたら赤面のあまり発火してしまいそうな体勢を満喫し、おまけに拳を丸めて何度か顔を洗い、最後にもう一回だけ不恰好に欠伸をする。
幸い、メリーの無防備な姿態を傍観する者もなく、外は雨が降っていて、空の色は純粋な黒色に染まりつつあった。
翌日。予報通りの雨空を睨み付けても空は晴れない。気分も晴れないままだ。それでもメリーは自身の心に折り合いをつけ、空と同じ色をした傘の柄を掴む。今日も大学に行かなければならない。雨が降っているのに。雨はやまないのに。
「はぁ、憂鬱……」
言葉にすれば余計に気が重くなる。一段と沈んだ玄関に立ち尽くし、一向に乾く気配のない洗濯物を振り返る。心なしか体調も優れないような気がする。メリーは、お腹を擦りながら後ろ手に扉を閉めた。
部屋を出て、集合ポストがある正面玄関までやってくると、昨日と同じ濃紺の傘を差した蓮子の姿があった。メリーに感染した憂鬱など何処吹く風で、よっと威勢よく手を挙げる。
「おはよーメリー。今日も昨日に引き続き相変わらずの雨よー。いやんなるわねー」
「おはよう。私は正直、あなたのその間延びした口調がいやんなるわ」
蓮子は憤慨した。
「毒舌ね。ちょうどいいから、それ採取して科学研にでも提供した方がいいんじゃない? いいアルバイトにもなるし」
「つまらないこと言ってないで、早く行くわよ」
「本気なのに……」
余計に性質が悪かった。
その後もぶつくさと愚痴りながら、そぼ降る雨の中を二人して歩く。時折会話は途切れ、時には一方的に蓮子が喋り、メリーは憂鬱に染められるけれど、それでも気まずいと感じることはない。
一度、蓮子の横を自転車が駆け抜け、昨日の再現かとメリーが戦慄したものの、蓮子が求めているのはそのような瑣末な闘争ではないようだ。
「蓮子、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
彼女は縁石を歩いている。その行動に意味はないのだろう。意味のあることばかりやっていてもつまらないでしょう、とは蓮子の弁だ。
「んー、倫理的に答えられる内容になら、ちゃんと答えるわよ」
「例えば」
「太ったーとか、ごく一部だけ痩せたーとか」
「倫理というか人格の問題よね、それ」
「メリーは太った」
「何それ」
メリーは憤慨した。
「か、傘回し!」
「全く……下らないことばっかり言ってると、いつか天罰が下るわよ。私の」
「それは人災って言うのよメリー!」
「あぁもう、うるさいなぁ……」
空いた指でやや捻れ気味の前髪に触れ、相変わらずの天候を憂う。思い通りにはならない。四季の流れは無慈悲に過ぎる。長らくその周期に身を任せておいて、今更それに気付くというのも鈍感に過ぎるとは思うのだけど。
それでも、繰り返されていた習慣が崩されたことに気付けないほど、鈍感でも不感症でもない。
「蓮子。どうして私の部屋に来たの」
詰問する。歩みは止めないまま、ざあざあと鳴り響く雑音の中をすり抜けていく。
約束はしていなかった。何の連絡もないまま訪れることはあったが、大学が始まる時間帯に、メリーが外出する時間を見計らってアパートの前にいるということは、出会ってこの方ただの一度もなかったのだ。
何かある。メリーがそう考え、構えてしまうのも無理はなかった。
「察するに、そうね。昨日の歪み。妥当な線だと思うわ」
蓮子の横顔に、弱り切った表情を見る。
「それは、確かに妥当ね。うん、あそこに近付いたらちゃんと話そうとは思ってたんだけど。不安だったんなら、ごめんね。猜疑心に曇った心を見抜けないようじゃ、そりゃあ結界の境目も見えないってもんよね」
参った参った、と帽子の上から頭を叩く。高温多湿のこの季節は、あまりに蒸れるものだからメリーは帽子を被らない。だが蓮子は相も変わらず、闇色のハットを律儀に被り続けている。
メリーもそれ以上は蓮子を責めず、ため息のようなものを鼻から抜く。
「ま、別にいいわ。理由も分かったし。でも」
「でも?」
蓮子が縁石の上から降りる。車道と歩道を隔てていた線は終わりを告げ、間もなく例の水路に到着する。
「大学が先、結界は後。これは、蓮子の言う倫理観の問題よ」
滞りなく講義も終了し、閑散とした部屋の中でメリーが友人たちと他愛もない話に耽っていると、傘を担いだまま古めかしいドアを力ずくでこじ開ける蓮子の雄姿が見えた。
メリーは額に手のひらを添え、友人たちが同情するように肩に手を置く。蓮子の瞳は蛍光灯のそれよりも爛々と輝いていて、夏の虫ならば容易に飛び込んで行くのではないかと一抹の不安を覚えてしまうほどだった。
「メリー! メリーはどこ!」
「いや、目が合ってるし……」
「あぁごめん、メリー借りていくわね!」
「どうぞどうぞ」
「トイチで返してねー」
「ちょっとあなたたち……」
左腕をむんずと掴まれ、満面の笑みでメリーを拉致する蓮子に友人たちは微笑ましく手を振る。メリーは思う。いつか、彼女たちに神罰が下りますよう。主に自分の手で。
大学の裏口を通り抜け、何個めかの水溜りを越え、掴まれたメリーの左腕が蓮子の体温と掛け合わされてじっとり汗ばんで来た頃、メリーはようやく彼女の腕を振り解くことに成功した。なによー、と寂しそうに口を尖らせる蓮子も、周囲を見渡してここが当面の目的地であると知るや、台風の目に入ったかのような晴れやかな笑みを浮かべるのだった。
走り続けてきたせいで、傘の甲斐もなく足元はずぶ濡れになっている。引きずられていたメリーも同様、洗濯物を干せない時期に余計な洗い物が出来たものだと苦笑するしかなかった。
ならばいっそ、足元が多少疎かになっても構わないくらいの短いスカートを履く、という選択肢もある。メリーは鏡の中に映っている自身の姿を想像し、笑っていいのか泣いていいのか、何は無くとも恥ずかしくて外に出られないことだけを理解する。そして如何に短いスカートを履いていたとしても平然と市街地を駆け抜けていそうな蓮子に、瞳の焦点を合わせた。
左右をコンクリートの壁に囲まれた小路。奥まったところに柳があり、路地と交差する形で水路が流れている。氾濫を未然に防ぐために水路の幅はやや広めに取られており、深さにしても同様だった。口の広がった水路は、一週間前から降り続いている雨の影響によりかなり高い位置まで増水している。
轟々と流れる側溝の泥水が、瞬く間に次から次へと水路に飛び込んでいく。
そんなことが絶え間なく繰り返され、名前もない川はこの一時期だけありとあらゆる全てのものを飲み込む濁流と化していた。
「怖いわねぇ」
メリーは頷き、先導する蓮子の後に続いた。一人ではどうにも息苦しかった。黴と錆が混じったような、腐敗した匂いが漂っている。呼吸をするのも億劫だ。それは結界の境界に接敵できる能力を持つが故の苦悩なのか、それとも第六感として蓮子も感じ得る平凡な衝動なのか。
蓮子は、力強く宣言した。
「それでは、これより秘封倶楽部の活動を開始致します! 総員準備!」
「二人しかいないけど……ていうか、まだ始まってなかったの?」
「細かいことが気になって仕方ないメリーは近いうちに禿げるとして、まずはあの怪しげな柳の木を調べてみましょう」
「いやもうどうでもいいけどさ」
諦観する。
今日の蓮子は興奮のあまり傘を放り投げることもなく、時折顎の先に指を掛けたり、しゃがみ込んでしきりに唸ったりなどしながら、柳の木に潜む謎を解き明かそうと試みる。
一方のメリーは、柳に寄り添うようにして立っている紫色の輪郭が、蓮子と重ならないように祈っている。メリーより頭ひとつ高い、事件現場を象ったあからさまな絶望の証明は、降り注ぐ雨と吹き付ける風にも耐え、呆然と、敢然と、何かを訴えるように二人を見下ろしている。
不気味だった。
不意にこちらに駆け出してきそうな、得体の知れない恐怖を抱く。見えるのは境界だけで、その向こう側にあるものは何も見えない。あるかどうかさえ分からない。
「メリー、その線ってどのあたりにあるのー」
単独調査ではにっちもさっちも行かなくなって、蓮子はたまらずメリーに助けを求める。急に呼ばれたメリーははっと顔を上げ、声の正体が見慣れた人影だと気付いて安堵の息を漏らす。
「えぇ、そうね。ちょうど、柳の下にある縁石のあたりかしら。車道にはみ出して……うん、そこ。あぁ、でもまだ触らないでね。危ないから」
メリーが見た中でも異端に属する境界だ。警戒するに越したことはない。それ故に興味を惹かれてしまうのは、やむを得ないことだとしても。
蓮子は手を伸ばしかけ、メリーの忠告に従ってすぐさま懐に引っ込めた。歩道から柳の裏に回り込み、何かないものかと目を皿にして探し続ける蓮子の丸まった背中が、濃紺の傘と相まって巨大な毒茸みたいだなと他人事のように思う。
友達甲斐のないことを考えているメリーを他所に、蓮子はその猫背を真っすぐに伸ばして足元を見下ろしていた。何故だか急に不安になったメリーは、傘の布を打つ雨と、水路を削り取るような黄土色の濁流に負けない声で彼女に問いかけた。
「ちょっと、どうしたのよ蓮子――」
項垂れて俯いた彼女の後ろに立ち、肩を叩こうと手を伸ばす。その際に、彼女の見ていたものが視界に入った。
それは、花束と呼ぶにはあまりにも不恰好な群集だった。リボンも包み紙も添えられていない紫陽花の群れは、恭しくこうべを垂れる柳を振り仰ぐように、青、白、紫の花弁を得意げにさらしている。
柳の根本から生えている色鮮やかな紫陽花は、柳の枝を経て降って来る玉の雫を全身に浴びて、ふやけることもなく潤っている。
今は梅雨だ。だから、紫陽花が咲いていることを疑問に思う必要はない。ただ紫陽花の根本に突き刺してある色落ちした花瓶が、蓮子の目に、メリーの瞳に焼き付いて離れないのだった。
蓮子の横顔から、同情や悲哀といったものは見出せなかった。ぽつりと、どこからか落ちてきた雫が傘を弱く叩いた。
「やっぱり、そういうことなのかしら」
二人が並べば、傘が邪魔になる。メリーは自分の傘を蓮子のそれよりも高く掲げ、無理やりにでも彼女の表情が読み取れるよう配慮した。
聞きようによっては悲しんでいるようにも取れる蓮子の言葉を、メリーは額面通りの意味でしかないと解釈した。
「やっぱり、そういうことなんだと思うけど」
「そうかな」
「そうだよ」
メリーの傘に溜まった雨粒が蓮子の傘に落ち、最後はメリーの足元に不時着する。アスファルトに弾かれた雫は、メリーの靴に吸収されて影も形もなくなった。
蓮子は時計を見る。曇り空が広がっていては、彼女の特技は発揮できない。
どちらともなく曇り切った空を仰ぎ見、降り続く雨の重さに顔を強張らせる。憂鬱に締め付けられる程度の感傷を抱けるのなら、まだ心は乾き切っていないのだろうと信じながら。
蓮子は言う。
「雨、やまないね」
梅雨だからね、とメリーは言った。
冴えない答えに蓮子は肩を竦め、それに憤ったメリーが傘を振り回して蓮子から顰蹙を買う。
人の形をした結界は、切れることなく、ただそこに在った。
3.
ぬるま湯に浸かりながら息をしているようだ、とメリーは思う。
発達した前線はメリーの遥か上空に停滞し、人に似た境界を見定めた頃から延々と雨を降らし続けている。何もしない、何もできない一週間は長く厳しい。大学に行き、喋り、遊ぶ間もなくサークル活動に勤しみ、帰る。帰れば生活の最低基準を満たすために家事をしなければならない。蓮子はその文化的に最低限度必要な家庭の仕事すらも怠っている節があるけれど、それでもなお生きていけるのだから、人間というものは存外しぶとく出来ているものだ。
メリーは薄暗い部屋の明かりを点け、冷蔵庫に何が入っているかを確認すべく、欠伸混じりに台所へと出向した。
彼女が住んでいる部屋のチャイムは、そのスピーカーが台所の天井近くに設置されている。自動的にエコーがかかり、フィルターもない剥き出しの電子音は聞き慣れていても身体が強張る。だが多少なりとも気が抜けているなら、そんなことなど簡単に失念してしまう。
「ふあぁ……」
引っ切りなしに襲い掛かって来る欠伸に終止符を打つべく、これで最後と決めてかかった欠伸の最中、雷鳴、稲妻、疾風迅雷を彷彿とさせる音波が、メリーを直撃した。
「――ぅえあッ!」
と情けない悲鳴が続けざまに漏れ、地味にチャイムを連打している無粋な訪問者の来襲を知る。ため息は肺の奥底で氷結した。胸に重ねた両手が、まだまだ自分は未熟者だと教えてくれる。
手の甲が汗ばんでいる。ぬるま湯に浸かっているな、とメリーは思った。
「……現在、蓮子さんはお断りしています」
『この世にどんだけ蓮子さんがいると思ってるのよ!』
「あんまりいないから安心なさい……」
怒るのも面倒になって、メリーはドア越しに喚き散らしている蓮子を招き入れた。畳んだ傘を肩に担ぎ、真新しい大学ノートを掲げている。そのにこやかな笑みが忌々しい。
部屋に入った蓮子は、テーブルにノートを置いてすぐさまベッドに倒れ込んだ。数秒後には心地よく寝息を立て、うつ伏せのまま枕を抱き締めて死んだように眠っていた。
「何しに来たのよ、一体……」
メリーは自分の後ろ髪を撫でる。予想した通り、激しく跳ねているようだった。
雨音に蓮子の寝息が溶け、音の広がりは増したと言えども、メリーは自身の退屈を解消する直接的な手段を見付けられないでいた。ベッドの棚に置いた目覚まし時計とクマの縫いぐるみ、ベージュのカーテン、灰色の雲と黒い空、冷蔵庫の振動、稲妻、雨音、寝息、衣擦れ、呻き声。
気が滅入りそうだった。
テーブルに置かれたノートを見逃していたのは、蓮子の許可なく閲覧していいものか悩んでいたせいだった。表紙には、罫線と罫線の行間に記された『宇佐見蓮子』の筆記しかない。物理学とも心理学とも日記とも雑記とも書かれていない。
メリーはノートを開いた。
一頁目に書かれている文字の羅列を読み飛ばし、次の頁に移ろうと紙をめくり、最初の一頁以外は何も書かれていないことを知る。改めて、一頁に刻まれた言葉の意味を汲み取る。
『六・一六に発見された結界に関する報告』
「メリー」
背筋が凍る。
冷たく厳しい響きではなかった。単純な呼びかけであったはずの聞き慣れた声色を、原始の恐怖とすげかえてしまった。その原因は、暗黙の了解を背約したメリーの中にある。
振り返ると、横になったまま目を開けている蓮子がいた。怒気も侮蔑も感じられない。徹底された鉄面皮が、彼女の顔に貼り付いていた。
席を外そうとして、蓮子の瞳に射竦められる。立ち上がれない。寝息はいつから消えていたのだろう。そも、初めから狸寝入りしている可能性を何故疑わなかったのだろう。
それは、そうする理由がなかったからだ。
「あなたは、見てしまったのね」
ノートには、表題以外にも何か文字が書かれていた。メリーはまだそれらの意味を全て咀嚼していない。とんだ不徹底さだ。歯噛みする。
気だるげに身体を起こした蓮子は、動くことができないメリーからノートを取り上げる。ふん、と小さく鼻を鳴らして、街に夜が降りてくる様相をつぶさに観察する。
「献花には確たる理由が必要よ。誰かがそこで死んでいなければならない。加害者と被害者がいなければならない。あれは自殺ではなかった。私には分かる」
息を飲む。次に続く言葉を二人は知っていた。
蓮子は言う。
「だって、私が殺したんだもの」
稲光が室内を染める。
鈍く輝く銃口が、額に突き付けられていた。
メリーは言う。
「……嘘でしょう」
「うん」
首肯する仕草だけは、やけに可愛らしかった。
……明かりが消えていれば完璧だったのにな、とメリーは悔やんだ。蓮子が考えていることを先読みしていれば、とても楽だったのに。意味のあることばかりをしていても、確かにつまらない人生なのだろうなとは思うのだし。
「もうこうなったらもくげきしゃをみなごろしにするしかないわー」
「それはもういいから」
「そう?」下唇に人差し指を添える姿が、いやに子どもっぽい。懐から出したモデルガン――であると信じたい――を太もものホルダーに収め、疑惑溢れるノートを再びテーブルに放り投げる。
蓮子もメリーの対面に座り、重苦しい雷が鳴り終わる頃には、先程の小芝居など記憶の彼方に葬り去られていた。
雨足が強くなる。
「気になるのよ、あの場所」
「でも、もう終わったことでしょう」
紫色の献花を思い返す。あの柳の下に何が埋まっているか、それを探るのは無粋に思えた。
蓮子は悩ましげに頬杖を突き、ノートに書かれた一節を指でなぞる。
『死んだのは誰?』
「確かに、下世話な好奇心のなせる業だとは思うんだけどね。気にはなるのよ。そういうことなんだろうけど、それだけじゃないって気はしてる」
勘だけどね、と付け加えて、蓮子は不意に立ち上がった。その手には彼女のものらしい箸がある。メリーは全く気付かなかった。
「お腹が空いたわ。ご飯にしましょう」
「蓮子、ここ私の部屋」
「箸は持って来てるから大丈夫よ!」
景気のいい笑顔だった。
蓮子の提案を感情の赴くままに拒絶できる性格ならば、彼女はおそらくメリーの部屋に訪れていなかった。蓮子もメリーもそれを十二分に理解しているから、ため息を吐きこそすれ、この豪雨の中に親友を叩き出そうとはしないし、蓮子もまた思い切り迷惑を掛けてやろうと思えるのだった。
一足早く台所に赴く蓮子の背中を見送り、レポートとはお世辞にも言えない箇条書きの報告書を閉じた。
それでも最後に目に留まってしまった一節は、蓮子の冗談を抜きにしても、早急に忘れることはできないだろうと思った。
『事件には加害者と被害者が必要。
加害者は誰?』
講義前の一室は酷くざわついている。窘める者のいない雑然とした空間は、定時を迎えれば自動的に沈黙する。号令を放つ者はいないが、足並みを乱す者も少ない。雑音、騒音、喧騒の類を嫌う者は、イヤフォンやヘッドフォンで防御策を取っている。声を大にする者は稀だ。
普段ならメリーもそんな喧騒の片棒を担ぎ、友人たちと他愛のない会話に花を咲かせているのだが、今日に限っては聞き役に徹していた。左に二人、メリーは廊下側の最後列に位置し、熟睡するにも早退するにも絶好の座標にいた。
声を掛けても愛想笑い、セクハラじみた話題を振っても無反応とくれば、聡明な友人たちが彼女の異変に気付かないわけがない。額にエメラルド色の髪留めを着けた友人が、メリーの頬を突付きながら言う。
「うわあ、メリーぶさいくー」
「……」
「ごめんなさい」
謝った。
もう一人の友人は、背中に垂らした長く流麗な黒髪をかきあげながら、メリーの頭を親しげにぽんぽん叩く。
「そんなに塞ぎ込んでると、また食べなくてもいいごはんを食べちゃうことになるわよ。だから、えーと、ご、ごめん……」
謝らざるを得なかった。
崖に佇む自殺志願者の背中を押す友人たちの気遣いで、メリーは相当に追いつめられていた。聡明な友人たちではあったが、若干空気を読めなかったのが仇となった。
突っ伏したまま眠ってしまいたいと思った。
だが、背中を撫でられたり頭を叩かれたり胸を揉まれたり尻を撫でられたりなどすれば、元気を出す気がなくとも元気になるというものだ。手始めに頭蓋骨が割れるくらいの拳骨を両者に喰らわせた後、メリーは彼女たちに聞きたいことがあったのだと思い至る。
患部を押さえうんうん呻いている友人たちに、メリーは何事もなかったかのように質問する。
「ねぇ。何年か前に、この近辺で何か大きな事件が起こらなかった?」
二人は目を丸くする。反応したのは、隣で突っ伏していた友人だった。
「それまたどうして」
髪留めを擦りながら、不思議そうに問い返す。メリーは悩む素振りも見せず、即座に答える。
「大学の抜け道に、それっぽいところがあってね。曰くつきみたいだから、もしかしたらと思ったの」
確信には触れず、意味が通るように伝える。二人は顔を見合わせ、こめかみを叩いたり腕組みをしたりと、記憶を掘り下げているような格好だけはしていた。
「どうだろね。接触事故とか喧嘩とかなら、大学の近くでもしょっちゅう起こってるけど」
「メリーが言ってるのは、そういうことじゃないんでしょう?」
沈黙してはならないと分かっていても、容易に答えられないことも確かだった。口を噤んだわずかな隙を見計らって、長い髪を胸の前に垂らした友人が、これ見よがしにため息を吐く。
「あなたの意志は尊重するけど……死なない死なないと思って危ないことばっかりやってると、いつか取り返しのつかないことになるわよ。覚えておきなさい」
「うん。ありがとう」
メリーは、素直に感謝の意を告げる。
彼女の口から反省の言葉が出て来なくても、結局は危険を冒すのだと友人たちも分かっている。メリーは知らずとも、彼女があの宇佐見蓮子と同じ部類に属する人間であることは、もはや周知の事実だった。それは秘封倶楽部という単純なカテゴリーに留まらず、思想、行動、能力の本質が似ているということも挙げられる。
似ていなければ、秘封倶楽部など結成するはずがないじゃない、と友人たちは後に語っている。
黒髪を震わせ、露骨に嘆息してみせる。親交の浅い者なら不愉快に感じても仕方ないため息も、親しい者なら単に子どもの我がままを甘んじて受け入れる親の心境であることが分かる。
その行動で、この友人が何か重要な情報を握っていることを知る。
「私が知っているのは、大学前の交差点で研究生が玉突き事故に巻き込まれたのと、水路と柳があった路地で、女の人が亡くなったのと……」
「飛び降り自殺なんてのもなかったっけ? あー、それはもっと山沿いだったかなぁ」
髪留めを外し、手元でくるくると回しながら情報を補足する。
「でも、あのビルでは殺人事件も起きてたんでしょう? 近々取り壊されるって話だけど、結局解決したのかしら……」
情報が錯綜する。その取捨選択に忙しいメリーには、白髭を生やした助教授が、梅雨時に相応しく重苦しそうに扉を開ける音が全く聞こえなかった。故に講義が始まったことも気付かず、ノートを取ることも怠り、友人たちに大きな貸しを作ることになった。
蓮子は大学付属の図書館で調べ物をしていたから、メリーは一人で帰路に着いた。蓮子と同様に、メリーもまた確かめておきたいことがあった。そのためには現場に赴き、結界の歪みを確認する必要がある。
これは既に終わっている話だ。掘り返しても、きっと死体すら出て来ない。だが蓮子が言ったように、頭の隅にこびり付いて離れないのだった。
友人たちの誘いを断って、雨の中をただひたすらに歩いて行く。憂鬱そうに俯きもしない。真実を暴く、などという探偵願望があるのでもない。
結界を暴く。
目的があるとすれば、それくらいなもので。
「あれは、不幸な事故だった……」
柳と献花がある水路まで、もう少し。メリーの隣を走るものは何もなかった。雨の勢いは昨日よりいくぶんか和らいでいて、傘の皮を打つ雨粒も意気が弱い。側溝から溢れた雨水が道路に川を作ることもなく、メリーはくぼんだアスファルトに出来た水たまりだけを警戒していればよかった。
久しく、太陽を見ていない。
メリーは角を曲がり、項垂れたまま立ち尽くしている柳の木と、こちらを向いて――いるように思う――人の形を模し、直立不動のまま微動だにしない結界の歪みを確認した。
違和感は、思えば初めからあった。結界の境目、歪み、切れ目、境界に値するものに近付けばそれ相応の不和は生じるものだけれど、今回のそれは境界の接触によるものばかりではないように感じる。
一歩ずつ前進し、紫色の歪みに接近する。鼓動が速くなる。呼吸がぎこちない。頭蓋が熱い。降雨の影響など全く感じられない。熱い。熱い。涼しい場所はどこだ。
「――まず、いけない」
歪みに犯されてはいけないと、余った手で頬を打つ。患部から発せられる熱は、むしろ茹だった頭を冷やしてくれた。
呼吸を整え、しっかと前を見据える。水路の濁流がうるさい。歪んだ輪郭の向こう側に見える灰色の雲は、メリーが見ているそれと同じ存在なのか。メリーは考えて、やはり詮無いことだと切って捨てる。
歪みの前に立ち、柳の枝から垂れる雨粒がメリーの足元を濡らし始める。囁くように、自分に言い聞かせるようにして、メリーは呟いた。
「被害者はいた。加害者もいた。未練や、怨念もあったのでしょう。そんな負の感情が、歪みを生む温床になったんだと言うのは簡単だけど」
まぶたの上から、左の目をこする。
因子も条件もほぼ完璧に揃っているのに、因子を因子と気付かず、条件を条件と捉えられていない。扉も鍵も目の前にあって、ただ鍵の回し方が分からないとでもいうように。
歯痒くて、唇を噛む。奥歯が軋み、濁流の喧しさに気が触れそうになる。いけない、歪みに呑まれている、そう実感しても、不快なものを無理やり巻き戻すことは難しかった。
吐いたため息が、急速に心を乾かす。探偵を気取るには、まだまだ修練が足りないようだ。
「……駄目ね。私一人じゃ、ここが限界か」
悔しがっても構わない場面なのに、愚痴を吐く気にはなれなかった。彼女ならば、宇佐見蓮子ならばこの事件を解決してくれると思った。とうに解決している事件だとしても、きっと納得のいく形で疑問を解消してくれるだろう、という確信があった。
「帰ろう」
自分自身を洗脳して、歪みに背を向ける。服の内側に汗が染み込んで、要所要所がべたついていた。気持ちが悪い。裾や袖口を引っ張り、通気を良くしながら硬く湿った道を引き返す。板張りの橋を渡るには、水路の勢いが少し激しすぎる。いくら近道できるとはいえ、その上を越えて行く気にはなれなかった。
傘を握る手も汗ばんできたから、メリーは傘の柄を右から左に持ち替えようとする。その際、視界の隅に黒い塊が飛び込んできた。野良猫かしら、と目を凝らしてみる。
鈍重な、土手っ腹に響く排気音は聞こえない。雨音に掻き消されているのだろうとメリーは思ったが、それが希望的観測でしかないことも分かっていた。
「え――」
二輪は、雨を引き裂きながら接近する。
地面に低く構える黒い塊は、野を駆ける肉食動物のようにも思えた。漆黒の大型二輪。搭乗者は黒いヘルメットに黒のライダースーツ。視認できた情報はそれだけで、性別、体型、表情、メリーが知りたいことはひとつも分からなかった。
走馬灯のように脳裏をよぎったのは、親切な友人たちの忠告だった。危険だ。取り返しがつかない。死ぬ。殺される。口にすれば冗談にしかならない言葉も、この瞬間に発するならば比類ないくらいの真実味を帯びる。
死を自覚するのとほぼ同時に、何が因子で、何が条件であったかを悟る。手遅れだとしても、収穫があったのは嬉しかった。
「あ」
接触するまでわずか数秒、あるいは一秒に満たなかったのかもしれないが、結果が同じなら過程がどうあっても意味はなかった。
単車。事故。被害者。加害者。紫陽花。柳。橋。壁。袋小路。結界。
点と点が線に繋がった。
制限を過度に越えた速度で駆け抜けて来る黒い影を、メリーは無意識のうちに紙一重で回避する。サイドミラーが脇腹を掠め、その衝撃で何歩か後退る。痛みと痺れに呻きを上げる前に、彼女は自身に覆い被さってくる紫色の歪みを感じた。
人を象った結界の境目が、メリーと重なる。
……あぁ、やっぱり。
私は、主人公にはなれないんだな。
そう諦観して、メリーは意識を閉じた。
……今日も雨が降っている。薄暗い。梅雨だからって、こんなに雨が続かなくてもいいのに。
傘は重く、色調も暗いから気分まで沈んでいくよう。鬱々とする。ただでさえ最近は嫌なことが多いのに、これ以上底に沈んだら私は一体どうなってしまうんだろう。
自転車も使えず、スーパーまでの道程さえも鬱陶しい。湿気は髪や肌どころか心までも侵していく。指にかかる鞄の重みも増す。嘆息する。
ざあざあと降り注ぐ雨は、やむ気配すら見せてくれない。
傘に当たる雨粒の音がやかましく、耳を閉ざそうとしても両手が既に塞がっていた。気が塞ぐ。
ため息の音は重く、よろけながら角を曲がる。確か近道があったはずだ。今は水路が増水して危ないかもしれないけど、早く部屋に帰って温かいものでも飲みたい。お腹も空いたし、気分を晴らさないとやってられない――
――え。
「……え?」
低く曇った音が聞こえて、唐突に振り返る。そこには重苦しく唸りを上げる単車が低く構えていて、私は、呆然と立ち尽くすことしか――
――違えている。
ライダーが右手を掲げているのは鞄を掠め取るためだ。何故彼女を狙ったのかは分からない。偶然か故意か、そこにある因果を知るには材料が足りない。問題は別のところにある。
サイドミラーに弾き飛ばされ、彼女はたたらを踏んで後退した。茫然自失だったせいもあったのだろう、その拍子に水路へ落ちてしまった。
――ここだ。
私は彼女で、彼女は私。どこで幽明の境を越えたのか、それを測るより先に私はこの水の中から脱しなければならない。視界は黒く濁っていた。耳朶の浸水は甚だしく、鼻と口にも多量の濁流が飛び込んでいるはずだ。なのに私は、酷く冷静に自身の地獄を客観視している。隔靴掻痒の苦痛も今際の際の快楽もない。窒息も絶命の過程でしかないのならば、終焉の間際に恍惚があったところで無意味に過ぎる。ぬるま湯に浸かりながら呼吸をしているようだ。手を伸ばす。感覚はない。視界は明滅する。意識が断絶していないのは、性質の悪い奇跡としか思えなかった。
耳朶を貫く音色は雨音にも似て、私を出口のない憂鬱へと誘う。けれども私は底から這い出でる術を知っている。叫ぶ口はなく唱える舌もない。唯一この手のひらを広げ、助けを求めることしかできないのだけど、それでも。
激流の合間を縫うように、声が聞こえる。
幻覚でも厭わない。それを真実と信じている限り、私にとってそれは紛れもない救いの言葉で。
「メリー」
何故、動揺も叱責の色もない優しい声色なのかは知らない。
ただ、差し伸べた手を硬く握り締められていることが嬉しくて、私は――マエリベリー・ハーンは、探偵の登場に感動した。
「こんにちは、メリー……水泳の季節には、まだ早いわよ」
冗談めかした言葉が胸を突いてやまなかったけれど、恥ずかしいから、涙は流さずにいた。
雨が降っていることを思えば、全身が濡れそぼっていることも素直に受け入れられた。否定すべきものがあるとすれば、それは服が役に立たなくなったという一点のみである。
蓮子に助け起こされたメリーはしばらく彼女の手を握り締めていたが、今更繋ぐ理由もないなと悟って手のひらを離す。
「つれないわねえ、メリーは」残念そうに呟く蓮子の瞳が潤んでいるのは、湿気が多いせいだろうとメリーは見当を付ける。それ以外の如何なる理由があったとしても、メリーには「ありがとう」としか言うことができないのだ。
不公平だな、と嘆息する。安堵に満ちたものになるはずだった吐息は、メリーの予想に反して全く可愛げのないしけたため息に堕ちた。
メリーは今まで自分が浸かっていた水路を見下ろし、胃の奥に残っているかもしれない泥水の感触に激しくむせ返る。蓮子はうずくまったメリーの硬い背中を優しく擦り、彼女の耳元で「大丈夫だよ」と繰り返し語りかける。
やはり、公平じゃない。
「怖かった……」縋り付く。
「うん、怖かったんだね」肩にかかる手は温かく、濡れた身体を体温だけで温めようとしているようにも思えた。
雨は、いつの間にか収まっていた。蓮子が持っていた傘と、メリーが落とした傘が水たまりに浸かっている。台無しだった。
メリーは言う。
「終わったことなんだけど、言うね」
「うん」蓮子は頷く。
「加害者が、被害者になってたんだ」
例の歪みを窺おうとして、既にその輪郭が消失していることを知る。同時に、雨粒を一身に受けていた柳の木も、板の橋も、初めから存在しなかったかのように綺麗さっぱり無くなっていた。
焦げ目の残る切り株と、その根本に不恰好な花瓶が図々しく突き刺さっている。紫陽花も消えて無くなっていた。分厚い雲間から差し込む光は、天使の階段と名指しされるに相応しい。
メリーは続ける。
蓮子の手が肩から外れたが、その温もりはまだ体内に残っていた。
「あの歪みは、轢かれた人のものだと思っていたけど……本当は、轢いた人のものだったのね」
開かれたまま放り投げられた傘を拾い上げ、その石突で境界があった地点をなぞる。あの紫の輪郭は、メリーより頭ひとつ抜きん出ていた。メリーはただ境目の異質さに目を奪われていたが、答えはそのとき既に示されていたのだ。
あれは、男性の輪郭だ。
他にも、蓮子があの二輪を追いかけた時、蓮子は袋小路であるにもかかわらずあの二輪を見失っていた。橋を越えたのではないか。しかしあの重量には耐えられまい。裏口があったのではないか。しかしあるのは壁ばかりだ。
「因子も、条件も揃っていた。やっぱり、私には探偵の才能がないということね……」
嘆息し、項垂れて傘を閉じる。
蓮子も傘を畳み、へばりついた水滴を乱暴に振り払う。肩に担ぐような真似はしなかったものの、男の子のように棒を持つだけでやけに格好よく見えるから不思議なものだ。
「数年前の新聞に、その事故の詳細が載っていたわ。大型二輪が女性を轢き、バイクを運転していた男性はハンドル操作を誤って柳に激突した。降雨だったことも災いし、事故直後に二輪は爆破炎上。女性は水路に落ちたものの軽傷で済み、男性は意識不明の重体……」
「てことは、まだ死んだって決まったわけじゃないの?」
台風の目に飛び込んだような晴天を仰ぐ蓮子。その後ろに木の橋はない。流されたのか、それとも初めから存在しなかったのか。メリーには分からなかった。
「それは、私にも分からないわ。でも」
一拍置いて、蓮子はステッキのように傘を回した。淑女であるはずの性別でも、彼女には紳士という語彙が適切であるように思える。
「生きている人の念と、死んだ人の念。それは一体、どちらの方が強いんだろうね」
蓮子が空を仰いだから、そのついででもなかったのだけど、メリーはつと青空を見上げた。緩やかに流れる雲が、でこぼこな地平線に集積する。久しぶりに姿を現した太陽は大きく傾き、光に満ちた地上を橙色の逢魔ヶ刻に落とし込むだろう。空気も冷え、気温も冷たくなってきた。
まずい、と思ったが既に遅かった。
「くちゅっ!」
メリーは豪快にくしゃみをする。
蓮子はにやにやと笑っている。
恥ずかしいやら情けないやら、メリーは広げられたままの傘で蓮子に殴りかかった。蓮子は己の傘でそれを迎撃し、返す刀で身体の線がくっきり出てしまっているメリーの胸部を突いた。
柳も橋も、献花も境界もない袋小路に、蒼天から煌びやかな光が降り注いでいる。可愛らしい女性の鳴き声が響き、続けざまに、女性とは思えないくらいの太く鈍い悲鳴が轟いた。
4.
憂鬱な午後、雨は降らない。
天気予報に誑かされて持参してきた蝙蝠傘は、一度も開かれることなく円卓の下に引っ掛けられている。その名に相応しくだらんと垂れ下がった傘には目もくれず、卓上で相対した女学生両名は、臆面もなく晴れ渡る空を眺めていた。
台風一過の青空を彷彿とさせる澄み切った天上を傍観し、メリーは人差し指でテンポよくテーブルを叩いている。蓮子は傾けていたカップをコースターに戻し、彼女の悪癖を目ざとく指摘する。
「ご機嫌がよろしくないようね、メリーさん」
「そんなことは……あるのかな。やっぱり」
「額に『おなかすいた』って書いてあるわよ」
「すいてるけど。すいてるけど」
二度繰り返し、通り掛かりの店員にモンブランを注文する。お飲み物は要りませんと先手を打ち、メリーはテーブルを打っていた指で自身のこめかみを突く。
「どうなのかしら、と思って」
「何が」と問い返す蓮子の手には白磁のカップがある。薄い赤桃色の唇に吸い込まれる琥珀の水が、やたらと淫らに見えた。
「あの輪郭。あれはもう解決した事件でしょう」
「そうね。私たちが、興味本位で穿り返しただけのことよ」
たったそれだけ、と蓮子は肩を竦める。
メリーは続けた。
「引っかかるの。世界に不思議なことがあるのは知ってる。結界の境目なんてものがあって、その向こうに何か得体の知れない世界があることも」
店員がトレイを運んでくる。メリーは口を噤み、黙ったままそれを受け取って黙礼を返した。
「食べないの?」と蓮子が視線を送り、スプーンを振りかざしたためメリーも己の陣地を守らねばならなかった。栗の触感が舌の上を転がり、甘い香りが鼻腔を逆流する。恍惚に打ちひしがれる表情を盗み見、にやにやと微笑む蓮子にも慣れた。
「だけど、あれは私たちが確認してきた歪みとは一線を画している。全くの勘だけどね、蓮子。私には、そんな気がするのよ」
白磁器の縁に掛けた銀のスプーンには、濃厚なクリームが色濃くへばりついている。意志の光に満ちたメリーの瞳が、そっくりそのまま蓮子の瞳に叩き付けられた。蓮子はモンブラン侵攻の手を止め、深窓の令嬢に似せた幽玄さで頬杖を突く。
「いいとこ突いてるわ、メリー。安楽椅子探偵は難しいけれど、悲劇のヒロインなら連番確定よ」
「お断りするわ。クリーニング代も馬鹿にならないし……」
嘆息し、蓮子の表情を一瞥する。年若い安楽椅子探偵は、メリーを試すように微笑んでいた。
「ヒント、いる?」
「知ってるなら、答えを言ってくれたらいいじゃない。けち」
蓮子の表情に変化がないことを知り、メリーは観念して手のひらを振った。
「ヒント、お願い」
「素直じゃないわねぇ、メリーは……あぁ、ヒントは『逆』よ。これが解けたら、メリーにも私立マエリベリー探偵事務所を構えられるくらいの実力が秘められてるってことね」
戯れ言は右から左へと聞き流し、メリーはヒントを頼りに思考の海へ没入する。けれども、執拗にモンブランを狙う狡猾なスプーンの猛襲には決して屈しない。蓮子の舌打ちが聞こえ、店員に追加注文を頼む声も聞いた。
逆。加害者と被害者。存在しなかった二輪と橋と柳と献花。結界の境目。それらの逆。
メリーは目を見開いた。
「……そう、結界か」
「ご明察。入口と出口って言えば分かりやすかったんだけど、それじゃあつまらないでしょう?」
「処理施設が不完全燃焼起こしてるのに、新鮮な可燃物放り込まれても困るのよ。全く……」
「言い得て妙ね」
メリーは力なく背もたれに寄りかかり、窓の向こうに流れる人影を眺める。蓮子が注文したカスタードプリンが届き、浮かれたように歓声を上げる蓮子の気持ちも、今のメリーなら甘んじて受け入れられる。
――例えば、ひとつの扉がある。この事件における扉があの輪郭。メリーはあの輪郭が扉であることを理解していながら、その向こうにあるものが異界だと信じて疑わなかった。けれど本当は、メリーの立っていた場所が既に異界の内側だったのだ。
あの境目を、異界の入口でなく出口と考えれば分かりやすい。あれに触れると異界に達する――のではなく、あれに触れれば現実に戻れる、そう考える必要があった。
異界ならば、現実には存在していない柳や紫陽花、バイクや橋がメリーの前に現れたことの説明もつく。尤も、確たる証拠のない幻想的な仮説の域を超えない証明に過ぎないのだけど。
「でも……だとしたら、私たちはいつの間に結界に入っていたのかしら」
明かし切れない疑念を口にすると、プリンを頬張っていた蓮子がスプーンを咥えたままもごもごと回答する。
「そら、お天道様に聞いてみないと分かんないけど、多分、この時期になるとあそこを中心にした結界が構成されてるんじゃないかな」
分かんないけど、と蓮子は反復し、欠けたプリンの山を銀のスプーンで一閃した。はむはむと咀嚼する彼女の恍惚とした笑みが実に幸せそうで、メリーは胸の中にこもっている疑問を吐き出すことができなかった。
蓮子が再び落ち着きを取り戻した頃には、彼女の瞳は達観した色に染まっていた。ガラス越しに広がる何の変哲もない空の果てを見据え、悲しむべきものを慈しむような、聖母にも似た笑みで。
「きっと、やり直そうとしてるんだね」
白磁のカップから湯気が立ち昇り、紅茶の上品な香りが二人の胸に染み渡る。扉が開かれ、当たり障りのない挨拶が交わされた。
空想する。
確定された結末から逃れるために、雨の路地をただひたすら走り続けるバイク。その足掻きはみな同じ結果に収束し、そしてまた終わりのない自損事故が続いていく。
あの輪郭が異界からの出口だとして、異界にはまだ黒いバイクが取り残されているのだろうか、とメリーは思う。表の事象と裏の事象、両極端な世界を同時に覗くことは不可能なのだけれど。
モンブランに手を付ける。蓮子はプリンに夢中で、モンブランを打ち崩す余裕がないらしい。胸を撫で下ろす。
「でもね、メリー」
油断していた。食道を伝っていくスポンジが気管に詰まり、漫画のように胸を叩く。メリーの痴態をくすくすと笑いながら、蓮子は不意に窓の外を眺める。メリーもそれにつられて外の通りを窺ったものの、つい今しがた駆け抜けて行ったバイクの色までは確認できなかった。
目が点になる。
蓮子は、慈悲深く微笑んでいた。
「こっちの世界に戻ってきても、柳の下に献花はなかった。それは、どうしてだと思う?」
秘封倶楽部の面々が店を出てからも降雨の兆しなど微塵も現れず、蝙蝠傘を戦わせながら漫然と見慣れた路地を二人で歩いている。予報が外れても日々は滞ることなく続く。それはそれで得がたく、とても素晴らしいものだとメリーは思う。
道路には久々の太陽でも除去しきれない水たまりが数多く点在しており、油断していると泥が跳ねてスカートを汚してしまう。けれども蓮子はメリーの心配などお構いなしに、ひょいひょいと水たまりを飛び越えていく。
「あなたは、もしかしたら私に泥が飛ぶかもしれないってことを考慮……ああもういいわよ。前を向け前を」
後ろを向きながら前に進んでいた蓮子が再び前を向く。
帰路に着く途中、あの現場を通りがかった。足は止めず、視界の端に切り株と花瓶があることを確認する。紫色の輪郭もない。既に終わっていた話が、ようやく完結した。
けれども。
何故、花瓶があったのだろう。
あの紫陽花が献花でも、柳の根本に生えていただけの雜花であっても、花瓶には相応の理由が必要だ。バイク事故に犠牲者はいなかった。ならば、あの花瓶は、他の事故による犠牲者に当てられた器であるはず。
ヒントはあった。あそこに橋はなかったのに、どうして橋があると思っていた。橋はなかった。あの水路でも人は溺れる。橋が腐れ落ち、どこかの誰かが増水した水路に落ちて――
『水路と柳があった路地で、女の人が亡くなったのと……』
「メリー!」
呼びかけられ、思考を中断する。名残惜しそうに事故現場を一瞥し、振り切るように路地を行き過ぎた。
「はいはい……」
感傷に浸る暇もなく蓮子は前進し、留まるべきか否かを苦悩するメリーを牽引する。後ろ髪を引かれるような思いは側溝に捨て、メリーは乾きかけた道路を歩き始める。
子どものようにはしゃぎ、歩道と公道を隔てる縁石をバランスよく駆け抜ける蓮子。無邪気な探偵の後ろ姿を見、近い未来に起こり得る残酷な未来に意地悪く破顔する。
「付いてこれるものなら付いてきなさい!」
「蓮子、私は注意したからね」
「ん?」と訝しむ蓮子をよそに、メリーはさっさと縁石から身を引いた。
そして小首を傾げてもなお縁石に君臨する蓮子の脇を、真っ白なワゴンが黒い水しぶきを立てながら駆け抜けて行った。