ざあざあと雨が窓を叩いている。
「……二人とも、無事?」
小さな窓から見える外は、酷くくすんでいた。容赦なく吹きつける大粒の雨が窓硝子に跡を残し、色の消えた風景を無気味に歪ませている。昼だと言うのに空は灰色に染まり、薄暗い光しか地上には届いていなかった。
「……はい、なんとか。でもこの子が……」
「……うう、う……」
震えるようなか細い声と、うめき声。
それを掻き消すほどに、ごおんごおんと無機質な重低音がその部屋には響いていた。たえず同じ間隔で同じ音色を反響させているそれは、じわじわと恐怖感を煽っていくようで、誰の耳にも不快なものだった。
「……〝酔った〟みたいね。命に別状はないと思うけど、医務室に」
「は、はい。……咲夜さん。あの、外は」
その部屋にいるのは、三人の少女だった。鮮やかな銀髪にヘッドドレスを載せ、一部の隙もなく丈の短いスカートのメイド服を着た姿と、金髪に赤を基調にしたロングスカートの姿が、二人。片方は苦しそうに胸を上下させ、もう一人が介抱していた。
「私が直したわ。ちょっと苦労したけど、真っ直ぐ階段を下って行けば大丈夫」
「は、はい!」
咲夜と呼ばれた銀髪の姿の言葉に、金髪の方が頷くと、未だに呼吸の荒いもう片方を抱きかかえ、部屋を出て螺旋階段を駆け下りていく。ただ、その表情は安堵というよりも畏怖に近いものだった。
そしてその感情は、明らかに銀と青の姿へと向けられていた。
「……やれやれ」
その様を見送り、一人残った彼女は苦笑した。確かに怖がられても仕方ないような仕事をしているし、自分もそのように振舞ってはいるが、こういう時くらいは感謝して欲しいものだ、と溜息混じりに自嘲を捨てる。
分かっている。そんなもの、望むべくもない。あるとすればただ一人――
ただ、その一人が相手であろうと、多少の溝や隔絶は感じる。これは単に自分が馴染んでないだけかも知れないが、それが埋まる日は何時なのか。
……一瞬だけ、薄汚れた白い服を着た自身の姿がよぎる。
舌打ち。ぐりぐりと眉間に掌底を押し当てて、フラッシュバックしたものを押しつぶす。
一心地ついたあと、窓の方に視線をやれば、未だに雨が続いている。こっちの梅雨とはこういうものか。まったく、憂鬱だ。
――〝見つけた〟
風切り音を立てて振り向いた。その時にはすでにナイフを抜いている。護身用にも不審人物の掃除用にも使える彼女の必需品である。
しかし、振り向いた先に人影はない。あるのは乱雑に積まれた木製の化粧箱や宝箱、妙に豪奢な飾り付けがなされた剣などのがらくたしかない。
……疲れているのだろう。
何かの音を聞き間違えた、と結論付ける。そもそも人の声、あるいは音だったのかも怪しい。なにしろ耳には何も届いていない。
そう納得しておくと、咲夜はやや疲れた足取りで部屋を出ていった。
――ざあざあと、激しい土砂降りは続いている。
その音に、かたんと何かが動く音が混じった。
ごとごとと、積まれた化粧箱の一つが滑り落ちて、がしゃりと開く。
中に入っていた〝それ〟は、かちかちと今にも消えそうな音を立て――やがて止まった。
§
しとり、と音が聞こえる。
屋根を叩く音、煉瓦の道を流れる音、門を洗う音、湖に注がれる音。
梅雨の季節、降り注ぐ雨は憂鬱になりそうな音楽を奏でている。
この日、幻想郷中は大雨に見舞われていた。梅雨の時節だからして、特に珍しいことではないが、今年は特に雨量が多い。そのおかげで普段は鮮やかな深緑に覆われている山々も、人里も、湖すらも少し煙って色褪せて、水墨画をそのまま映したような風景を織り成している。
しかし、そんな降り注ぐ雨に色褪せても、紅魔館はなお紅かった。灰色の風景、いささか濁った湖の先、白黒の風景で一際目立つ彩度の西洋屋敷は、薄暗いこの日においても見失うことはない。
荘厳に佇む正門と、鮮やかに紅い薔薇の咲く中庭に訪れるものはなく、雨音の中においても、正門と壁によって仕切られた結界の内側は、なお静寂を保っている。
いつもは草木の世話をしているメイドや、正門を護っている門番も、この日は久しぶりの休暇を満喫していた。屋敷の中では、暇を持て余したメイドたちが思い思いに遊んでいることだろう。
といっても、さすがに制限はされるが。基本的に賭け事と決闘――弾幕ごっこはメイド長により固く禁じられている。
もし破ろうものなら、その刑罰は想像だに許されない。
あるものは地獄の針山のような無惨の姿を晒すといい、あるものは二度と表を歩けないほどの辱めを受けるというが、その実体については全く分かっていない。中には大切なものを奪われました、それは私の心です、と顔を赤らめて語るメイドまでいる始末である。しかし実際何をやっているのかはメイド長だけしか知らぬ。
その紅魔館の、常よりも広い屋敷のさらに奥まった場所。この紅い館の主、強大な吸血鬼であるレミリア・スカーレットが使う豪奢な部屋。そのすぐ隣に、質素、清楚ともいえるほどひっそりと一つの部屋があった。
広大な紅魔館において、数多いメイドを指揮し、荒事もこなす、比類なき若きメイド長――十六夜咲夜の部屋である。
部屋の中は質素ながら、少女らしい装飾があちこちに散見された。柔らかな色彩で彩られた壁紙には小さな花が描かれているし、調度品もどこか子供っぽい魅力が残っている。枕元に置かれた大きめのぬいぐるみは、その最たる物だろう。
壁のコルクボードに楚々と展示されている、何本かの艶やかなデザインのナイフを除けば、おおむね娘の一人部屋、といったところだろうか。
その窓際に置かれたベッドの上では、やはり少女が寝息を立てている。服装はゆったりとしたネグリジェ。そっとシーツを引き寄せ、大き目の枕を抱きしめ、かすかに胸を上下させて眠っていた。
まばらに花開いている、ややぞんざいに切り揃えられた銀色の髪。無作為でありながら人形のような可愛らしさを造形された表情は今は瞳を閉じ、シーツから光と影のコントラストで浮かび上がる肢体は、彫刻のように均整が取れていた。
完全、と言い換えていいかも知れない。事実、彼女は自身が従者として完全であり、瀟洒であると確信し、自己にそうあれかしと願って生きている。それは、この館――紅魔館に生きる意味を見出してから数年、ちょうど幻想郷に屋敷を移築したこの頃も、変わることはない。
――彼女が件のメイド長、十六夜咲夜である。
あまりの歳若さからは予想もつかないだろうが、ひとたび闘争に入ったときの苛烈さと普段の瀟洒さと無駄のなさから、メイド長に相応しいとされる理由が見て取れるだろう。
咲夜は、この長雨により久しぶりの休日を与えられ、それを利用してゆっくり羽を休めていたところだった。
その休日をふかふかのベッドでの安眠に使っていたのだが、もう寝るのは充分だと思ったのか、彼女はのんびりと起き上がった。
そして着替えを始めようと、ちょうどベッドの真後ろ、枕が転がっている方向のクローゼットを覗いて――動きを止めた。そのまま、少し困ったような表情を見せる。
……そういえば、私服は持っていない。
ほとんどがメイド服で事足りていたため、部屋着や今来ている寝間着以外は持っていない。
たまの休日、メイド以外の格好で過ごすのも悪くはないと思ったのだが。
せめて何かないかと、クローゼットを引っくり返す。引っくり返すといっても、そんなに服の量はない。予備のメイド服とか靴下とか下着とか、そんなものばかりだ。
ふと、一番奥に古ぼけたカバンを見つける。寝ぼけた茶色をした、年季の入っているカバンだ。少し埃をかぶっているあたり、蓄積された年月を語っている。
咲夜は少し悲しそうな懐かしそうな表情をすると、それには手をつけずにクローゼットを閉じた。
結局というか当然というか、私服らしきものは見つからず、咲夜はやや残念そうに、メイド服を手にとった。
気に入っていてしかも着慣れているとはいえ、仕事用の服と私服との区別が無意味になっている気がする。むしろ、本末が転倒というか真ん中からへし折れて本と末が同じ方向を向いているのではなかろうか。
そんな自分に少しだけ頭を痛めるが、咲夜は気を取り直すと服をベッドに置いて、そっとネグリジェを下に落とした。
――ふわりと舞う白絹の合間に、猫科の動物が描かれた布地が見え、
すぐに勢いよく広げられたブラウスに隠された。
誰も見ていない場所であろうと、油断しないのが完全で瀟洒な従者の心構えである。
着替え自体は手馴れたもので、数分もかからずに終わった。なめらかにブラウスを、リボンを、ガーターベルトを身につけ、スカートとベスト、ヘッドドレスをつける頃には、咲夜はすっかりとメイドになっていた。
そっと、太ももに大きなナイフを収めたシースを巻くのも忘れない。短めのスカートで隠せる位置に留め、決して見せないのが瀟洒である。
シースに収めたナイフは職人手作りの大ぶりなアタックナイフ。こちらに来てから本職の刀鍛冶にオーダーしてもらった逸品である。独特の形状には苦労させられた、とは職人の弁だが、それだけあって芸術性と実用性を見事に両立させている。例えば、咲夜が使えば刃こぼれせずに何でも切れる程度に。
彼女の最近の愛用品である。
「――さて。とりあえずお嬢様のところに行きましょうか」
着替え終えて、考える時間は数秒。何をするか。どう余暇を楽しむか。咲夜はほとんど知らなかったが、とりあえず自分の主のところに行けば何とかなると結論した。
一緒に紅茶でも飲んでみようか。そういえば最近、主人との茶会には付き合っていないのもある。どうも主人もそのことに不満そうだったし。
そうだ、せっかくの機会だからとっておきの茶葉を使ってみよう。遠い雪国の、砂糖の要らない甘い紅茶をこの前手に入れた。珍しいからと大事にとっておいたのだけど、主とお茶をするなら品も格も相応しいだろう―――
そんなことを考えながらそっとドアに手をかけて、咲夜はふと、そばに置いてある姿見に視線を向けた。身の丈より少し大きい鏡。
見慣れた、瀟洒な微笑が映っていた。
§
真っ白なテーブルの上で、かちゃり、と陶器が音を立てる。
鮮やかな白磁に紅色の薔薇をあしらったティーカップを傾けながら、咲夜はレミリアの笑顔を久方ぶりに見ていた。
ここのところ雨続きもあり、酷く不機嫌なことが多かったためである。運命すら手中に収める彼女でも、雨の日はその力を存分に振るえない。
流れ水に弱い、という吸血鬼の宿命である。もし雨に打たれでもしたら、死すら覚悟しなければならない。
もちろん、五百年の歳月を経ているレミリアであれば雨に打たれたとしても死ぬことはないが、どっちにしろ力が弱まることには変わりない。
そんなことで、雨が長く続くとそのたびに館の空気は剣呑なものとなるのが常だったが、いくつかの例外といえる時間がこの茶会だった。特に今回は、珍しく咲夜が同席しているのも大きい。
レミリアは彼女が遠慮しすぎるのを嫌うのである。二人きりのときぐらいは多少くだけてもいいだろうと思うが、本人が誰が見ているか分からないと丁重に断るのだ。
命令してもいいが、それではやはりつまらないのだろう、レミリアは一度も咲夜に対し、命令で同席させたことはなかった。
「やっぱり貴方の紅茶が一番ね。品も格も申し分なし」
十二分に引き出された、砂糖無しでも甘い芳醇な香りを楽しみながら、レミリアが告げる。
その笑顔だけで、二人だけの茶会を過ごすだけの価値は十二分にあった、と咲夜は胸の内で思った。心なしか、浮かんでいる笑みも深い。
咲夜がこうして主と同席して紅茶を楽しむのは滅多にない休日の時だけである。
もう少し頻繁にとってもいいのでは、と言う声もメイドたちからは聞かれているが、彼女自身が良しとしていない。その仕事に対する過剰なまでの職業意識からして、仕事中毒じゃないかという噂まである。
「しかし、どうしてそんなに働きたがるのよ、貴方。確かにうちは休日も給料もほとんど出さないけど、にしても過重労働じゃない? 雇い主として監督責任があるわよ」
「動いている方が楽しいのですよ、お嬢様。それに私は――」
「そういう小細工無しで休め、と言っているのよ。確かに貴方は普通より便利だけど、使いすぎて壊したくないわ。私の従者なんだからたまには言うこと聞きなさい」
困ったように眉根を寄せる主に、咲夜は苦笑してカップを傾け、その表情を隠した。
確かにレミリアの言うことは正しい。実際、咲夜も人間ではある。が――
「大丈夫ですわ。私は普通よりも頑丈ですから」
「……もう、強情ね。やっぱりメイドにも週休二日制を導入したほうがいいのかしら。外だと最近流行ってるらしい、ってパチェが言ってた」
「……もう、また妙なことを吹き込みましたわね、パチュリー様ったら」
再び、咲夜は困ったような笑みを深めた。
パチュリーは、レミリアが客人として住まわせている無二の親友で、大量の書から得た知識を活用する知識人であり、七曜の力を操る魔女である。
ただ、ほとんどの情報が本からということで、間違っていることも多い。
「あら、妙なことじゃなくて事実よ。……珍しいわね、レミィと貴方がお茶してるなんて」
「あら、パチェこそ珍しいじゃない。図書館、湿気てるの?」
咲夜の鼓動が、少しだけ弾んだ。
それを顔へ出さないようにして、ティーカップをソーサーに置いてから振り向くと、妙にフリルの多いネグリジェ姿の不健康そうな少女がいた。
噂をすれば影。
パチュリー・ノーレッジである。
「湿気てるなら埃が舞わなくて助かるわ。ただ、本が黴にやられるからって、あの子が換気中なのよ。とてもじゃないけど居られる環境じゃないね、今現在」
どうやら埃や黴の胞子を追い出している最中のようだ。いつの間にか住み着いていた小悪魔が、気を利かせてやっているらしい。換気中の大図書室近くを通るメイドには気の毒だが、パチュリーは特に止めるつもりはないようだ。むしろ便利なので好きにやらせている節すら見える。
「というわけで、ここを少し借りるわ」
そういって、パチュリーはちょうど一つ空いていた椅子に座ると、持ち出してきたらしい本の一冊を取り、読み始めた。
すかさず咲夜がパチュリーの前の卓に紅茶を出せば、すぐさま卓の上に細い手が伸びる。
「ありがと」
短い礼に、咲夜が微笑んだ。この辺りの呼吸は、来てから半年ですっかり身につけている。かなり早い順応ともいえるかも知れない。
「……あ、そうだ。メイドから聞いた話だけど」
二杯目の紅茶が入る頃、パチュリーは本から顔を上げると、そんなことを言い出した。内容を思い出しているのか、、彼女なりの話術なのかは不明だが、彼女が何か話をする時は、たいてい大きく間を取ってから話す。
それは単なる世間話から、フランドールが暴れているといった緊急の要件でも変わらない。取る間が十秒か十分か、という違いはあるが。
「……ああ、時計塔ね」
ただ、その間はレミリアの即答によってほとんど出現することはない。
こと妙な事件や人物に関して、二人とも嗅覚が鋭い。そのため、基本的にはこんな回りくどい会話をせずとも大抵は通じる。パチュリーが明確に語るとすれば、それは第三者がいる場合である。
「……時計塔が、どうかなされたのですか?」
この場合は咲夜だった。色々と話を飛ばされているため、多少困ったような表情を浮かべている。
二人とも聡すぎるが故に、咲夜であっても話の展開が読めず、戸惑うことが多々ある。
「時計塔がまたおかしくなっているのよ」
レミリアは細い肩をすくめると、簡単に説明しだした。
時計塔とは、紅魔館中央から突き出す一際高い塔のことである。その頂きには巨大な時計と文字盤があり、今もなお時を精密に刻んでいる。
その動力は巨大な発条と無数の歯車によって生み出されているのだが、発条を巻き直すのは数年に一度でいいというのだから、その巨大さが良く分かる。
そしてその巨大さゆえ、内部の広さにも余裕がある。そこで、以前この館を使っていた人物はそこを宝物庫としても利用していた。
中に何があるかは、レミリアですら把握しきれていないらしい。単に興味がないとも言えるが。
「まあ、たまに貴方へ手入れを頼んでるから中の構造は知ってると思うけど。……で、宝物庫なんだけど、その中にどうも性質の悪い道具がいくつか混じってるらしくて、私の力が及ばない時には悪さをすることがあるのよ」
宝物庫に集められていたのは希少品や美術品だけではない。魔力を持ったフェティッシュも数多く収められている。
それらは普段、レミリアの発する妖気によってその活動を押さえ込まれているが、今日のように雨の日でその力が弱まっているときは、いきなり暴れだすことがあった。
基本的に無害ではあるが、迂闊に時計塔へ踏み込んだメイドの何人かは消え去ってしまうこともあるという。
「ああ、それなら覚えてますわ。……探し出すのが大変でした。正直、もうやりたくない仕事ですわね」
苦笑交じりに、咲夜は思い出を語る。
結局、そのメイドたちは別の空間に閉じ込められてしまったようで、後日、咲夜がどうにか引っ張り出したのである。
そのときの苦労は、今でもあまり思い出したくないものだった。色彩感覚を全て発狂させた挙句にユークリッド幾何学を根こそぎ壊滅させたような風景の中を延々と歩き回る体験など、普通の人間では耐え切れまい。
もちろん咲夜は普通とは違っていたし、メイドたちも普通とは違っていたが、メイドたちの方は今でも夢に見ることがある、と語っている。そういう意味では、疲れた、という程度に終わった咲夜の方は人間離れしている。
彼女の生まれつき持っていた異能が、そういった異常な時空に対して耐性をつけてくれているのかも知れない。
「それで、今日もまた似たようなことがあったのですか?」
「そうね。でしょ、パチェ?」
レミリアの声に、パチュリーは本に目を通しながら頷いた。伝えるべきことはもう伝えたと、いわんばかりの態度だったが、誰も気分を害することはなかった。
「にしても、あそこには封印をかけたはずなのに、もう解くなんてね。フランが悪さでもしたのかしら……まあ、いいわ。どっちにしろ、いい加減根本的に解決しないとね」
「では私が」
眉をひそめてうめくレミリアに、咲夜は自分の胸に手を当てた。
「でもせっかくあげた休みをいまさら引っ込めるなんて出来ないわよ」
「では紅魔館探検ツアーということでよろしいでしょうか?」
「……やれやれ、貴方には負けるわ」
にっこりと笑顔を向ける咲夜に、レミリアは苦笑した。
「では、すぐに取り掛からせていただきますわ」
そういうと咲夜は一礼し、
消えた。
一切の前触れもなく、風一つ起こさず、彼女はその場から消えていた。
速度ではない。手品でもない。彼女の持つ、反則とも言える異能である。その実体は、この館に使えるものであれば誰もが知っている。
それでいて、誰も敵うことはない。圧倒的に懸絶した能力は、例えその姿を見せようとも、抗うことすら出来ない。
ただ、それゆえに彼女はその生のほとんどを孤独に過ごしていたのだが――
「……やれやれ、張り切っちゃって」
「いいんじゃないの? やる気がないよりは」
その奇怪な事象を前にしても、残された二人は何ら反応をすることもなかった。むしろ、この程度なら当然だろう、と言わんばかりの態度である。
「ところで、あの異変の元凶って確か……咲夜で大丈夫なの?」
「大丈夫。私の従者は間違わない。手先も器用だから、時計を直すのもお手の物よ」
パチュリーの疑問符に、レミリアは笑みを浮かべ、迷いなく即答していた。
§
雨はまだ続いている。咲夜の主によれば明けるのは近い、とのことだったが、正直空の灰色具合から見て、咲夜にはそうは思えなかった。
長い、窓の少ない廊下を歩き、扉を抜けると、そこは異界だった。
先ほどまで身を置いていた世界を健常とすれば、ここは間違いなく、相対的に別の世界だった。
機関部に至る階段は捻れ狂い、まるで砕けた鏡を撒き散らしたかのようにあちこちへと飛び、はるか上まで続いている。この様子だと、空間の広さも狂っているのかも知れない。現に、はるか上まで伸びている階段は、すでに時計塔の高さを目測で超えていた。
色彩も完全に崩壊している。鮮やかな赤を基調に豪奢な装飾を施されているはずの壁も手すりも窓さえも、全てが原色に誇張され、マーブリングのように淀みながら、咲夜の目に届いていた。
「……今日は、随分と不機嫌みたいね。中に押し込められてる悪戯っ子は」
咲夜は困ったように眉をひそめると、腕を組んで溜め息をついた。
あちこちに、黒い染みのようなものが生まれ、妖力を奇怪に収斂させながら、テリトリーに足を踏み入れた咲夜へと近づいている。
この現象は、初めてのことだった。
咲夜自身、このように狂った状態の時計塔に入るのは初めてではあるが、どういった異常が起きているかは、被害を受けたメイドから一字一句洩らさず記憶している。
そう、迷宮を生むことはあっても、そこに住む妖物は生まなかった。
「まあ、推論としては――」
そして、妖弾は放たれる、
「試されてる感じね」
その前に、間合いも遠近法すらも無視し、咲夜はその『敵』を斬り捨てていた。
両手には優美な曲線を描くナイフ。その銀色に輝く刃には血の一滴すら張り付かず、咲夜の鋭い表情を映している。
それが、開戦の合図。
次々に、奇怪な角度へとねじれ狂った空間の隙間から、黒い不定形の〝何か〟が滲み出していく。ぶよぶよとした波打つアメーバのようなそれは、次々に妖気を掻き集め、解き放つ。鋭い槍へと整形された妖弾は、次々と雨のように咲夜へと降り注いでゆく。
咲夜はすでに走っていた。弾雨を潜り抜け、槍衾を飛び越え、狂わされた時計が脈打つ音を背景に、目の前を遮る粘体を妖弾を次々と切り捨て、飛び散った螺旋階段を上っていく。
飛んでいくことは出来ない。空間がねじれ狂っている以上、どこに飛び出すか分からない。ならば、階段を標に真っ直ぐ抜けるのみ――
実際、登ってみれば階段は螺旋を描いていた。外から見た風景が狂っていただけで、登ってみればちゃんと繋がっているようだ。
ただし、周りの景色は接ぎ当てをしたかのようにバラバラと狂った色彩を映している。
咲夜は思わず、その奇怪な風景に一瞬気を取られた。視界から追い出そうとしても、周囲全てが狂っているのであれば、否応なく意識へと侵食していく。目を閉じない限り、現実の悪夢は消えようとしない。
「ああもう……っ」
三半規管が僅かに戸惑い、足元がよろめく。走る速度が目に見えて落ちる。
そこを狙い、強く鋭く研ぎ澄まされた紫電の槍が無数に走った。
一瞬の後、咲夜は無惨に串刺しと――
ならなかった。霧のようにその姿は掻き消え、本来意志がないはずの妖物をして困惑と驚愕に奔走させしめた。それらは戸惑うように揺らぎ、妖気を収斂させることすら忘れ、眼ならぬ眼で咲夜がいたはずの地点を見つめている。
その隙を突いて、鮮やかな銀の光条が周囲にいたすべての歪みを撃ち抜いた。
いつの間にか、はるか上まで登っていた咲夜の放ったナイフが、まるで吸い込まれるように誘導されながら命中したのだ。
さらに奇怪なことには、放たれたナイフもまた壁らしき部分へと当たって跳ね返ると、次々に咲夜の手元へと帰っていく。
奇術を超えた、魔術の領域の技。
しかし、その技を以ってしてもなお、死斑のような黒い存在は次々と数を増やしている。無限とも思える群体に、彼女はいかなる手で応じるのか。
「鬱陶しいわね」
小さくため息をつくと、咲夜はナイフを収めた右手を軽く振った。
奇怪な技が再び発揮された。帰還していた十本のナイフが、まるでトランプのカードを広げるようにその数を増やしてゆく。その数、二十、三十、四十――
隠し持てるはずがない、隠しようのない質量が、次々と無から現れている。
しかし咲夜にとってはただ収納していたものを取り出しているに過ぎない。
「面倒だから、まとめて掃除ね」
かしゃん、と鋼を打ち鳴らすような音が響く。
咲夜は、そのナイフを真上に投げ放っていた。くるくると光を反射して舞い散るナイフはそのまま砕けた鏡のように落下を始め――
「覚悟しなさい塵芥」
その矛先を突然変える。全てが意志を持つかのように胎動し、狂気を覚えるような速度と旋回で暴走を始めた。
果たして、咲夜の周りで烈風が巻き起こった。
それは触れたもの全てを破砕する、鋼の刃で出来た竜巻、光り輝く烈風そのものである。
風が、轟と音を立てて領域を広げる。咲夜の周囲に集っていた妖物は、一切の例外なく、反撃すら許されずに最微塵へと分解されてゆく。
それと同時に、咲夜は再び走り出していた。
『力』を行使するのはそれなりに体力を消耗する。妖物ひしめく時計塔を切り抜けるには、短期決戦がふさわしい。そう判断しての強行突破。
荒れ狂う暴風は、突き進む先の妖物を、妖弾を、無粋な空間の歪みさえも根こそぎ砕き散らし、過剰なまでに咲夜の身を守り、己が役割を存分に果たしていた。
(五、四、三――)
しかし、咲夜に高揚はない。意識の奥では、冷静に結界を解く時間を計算し、カウントを落とし続けている。タイミングを間違えれば、逆に自分が不利な状態へと追い込まれかねないと知悉しているのである。
故に、不手際はない。全ては完璧に、瀟洒に。
軽やかなストライドで階段を駆け抜け、一際大きな踊り場へと飛び込んだ瞬間、
(二、一、――零!)
結界が爆発する。勢いをそのままに飛び散ったナイフは、押し留めようと抵抗していた妖物全てを容赦なく吹き飛ばし――
狂える景色の中、静寂を携え、踊り場で瀟洒にたたずむ咲夜だけを残した。
「……ここまで使うのは、久しぶりね」
咲夜はかすかに浮かんだ汗と上がった呼吸を整えると、自分のもたらした「掃除」の結果へ満足そうに微笑んだ。荒れ狂った鋼の乱舞は、今はすでにただ一本のナイフとして、その右手に収まっている。
それを軽く振り、手品のように掻き消すと、上へと視線を移す。階段の残りは十分の一もない。あとは気楽に登って、目的の部屋に入るだけだ。
……時計塔最上層、封印宝物庫。
咲夜は躊躇いなく、扉を開けた。
開けた。
開けて、止まった。
「なるほど。これは厄介ね」
咲夜の視界の先には、モノクロームと空虚に覆われた、広大すぎる世界がある。その色彩に、空間に、気配に、咲夜は長く慣れ親しんだ空気を感じていた。
咲夜の目の前にあったのは鏡だった。それは咲夜自身を、色彩を、空間を全て白黒に変換し、それ以外は一ミリたりとも違うことなくさかしまに映していた。
「ルイス・キャロルの絵本でもあったのかしら、鏡の国を作るだなんて」
苦笑しながら鏡に手を差し伸べると、触れる一歩手前で止まった。ぶよぶよした固いゼリーを突いているような、どこか心地良くも奇妙な感触が鏡と咲夜の指を遮っている。
何度か突いてみて、咲夜はそれが鍵穴に鍵を差し込まれるのを待つ扉だと直感した。
「向こうとこっちを合わせればいいのかしら」
どうやら、これは来訪者を選ぶ門のようだ。無言のまま謎を問いかけ、来訪者に入門する資格があれば良し、ないのなら締め出す。実に単純で効果的な防犯装置。
「まあ、それならそれで話は早いか」
だが、咲夜は鍵を持っていた。
モノクロの風景も、静止した空気も、死んだ気配も、全て慣れ親しんでいるもの。
つまるところ鍵は――
「それでは。貴方の時間、頂きます」
自身の中に在った。
瀟洒な微笑を浮かべたまま、かちりと、竜頭を押し込むようなイメージ。その空想を描き、自分にしか押せない引き金を引く。物心ついたときから疎まれ、しかし自身は親しんでいた、欠かせざる比翼の力。
そして世界は色彩を失い、静止する。
時空を完全に掌握した瀟洒な従者は、改めて鏡へと手を伸ばす。さかしまに映された姿も応じるように指を伸ばし――互いに触れ合った。
つぷん、と波打つように鏡の表面が揺れる。映し出された自身の姿は消え、ただ水面をつついているような冷たい感触が指から伝わっていく。
痺れるような心地良さに、咲夜は疲れた身体を任せたくなったが、それを深呼吸で自制すると、ゆっくりと指から手首、手首から肘へと一歩ずつ踏みしめながら水鏡をくぐっていく。
かちんかちんと、何故か苦しげに鳴る時計の音が頭に響いている。自分の鼓動にしては機械的に過ぎるが、咲夜は終わってから考えることにした。
腕を伝うひんやりとした感触が、体から余分な熱を吸う。その快感がすでに肩口まで来ていた。鏡の国への入り口は、すでに目と鼻とで触れられるほどに近い。
「……せえのっ」
咲夜は息を止めると、素潜りをするかように飛び込むと、鏡が水音を立てて波紋を広げた。
目を閉じた視界には光のみが透けている。全身の皮膚に冷たい感触が張り付いている。文字通り水の中だ。ただ、奇妙なことには何の抵抗もなく動ける。
さらにもう一歩。ぷつりと液体めいた感触が剥がれ、境界を通り抜けたことを感覚で理解した。
目を開けると、そこには圧倒的なまでの空白だけがあった。色彩は白で、地平線が見えるほどの空間。明らかに、紅魔館にある部屋ではない。
「……調度品の一つくらいは欲しいところね」
かすかな笑みを浮かべつつ、咲夜はとりあえず一歩を踏み出し、周囲を観察する。
くぐってきた鏡はいつの間にか消えていたが、咲夜は何故か気にならなかった。そんなものは必要なくなったのだろうと、どこか身体の奥底で理解している――ような気がする。
そのことを恐れるには、この領域はあまりに親しみやすいものであった。
と同時に、あまりにもがらんどうと思えた。
一つだけ残っていた外の窓を見ると、雲が薄くなったのか、明るい空の中、しとしとと雨が降り続いている。
――こち、と機械仕掛けの音が耳に届いた。
ちょうど自分の正面。
はるか先から届く、正体不明の駆動音。
「……」
こつん。
その鼓動に導かれて、咲夜は歩き出した。
あの音のある場所に、物語の幕がある。
そんな、奇妙な確信があった。
こち、こち。
こつん、こつん。
駆動音と足音が拍子を合わせている。少しずつ大きくなっていく駆動音が、足音を覆っていく。どちらが拍子を合わせているのか、それとも二つは同じものなのか。奇妙なほどに、両者は同調して呼応していた。
歩きながら周囲を観察すれば、ときおり白い風景がちらつき、外の映像が垣間見えた。肌に張り付く湿気は、外から流れ込む雨だろうか。
手でそっと拭うと、肌はぐっしょりと濡れていた。この分だと、服を乾かすのも大変そうだ。
拡張された空間が、現実と混じり始めているのである。もしこの空間が解除されたなら、咲夜は館の外に放り出されることになるのだろう。
(……維持するのが難しくなってるのかしら)
外界からの干渉を受けている。その時点で、この空間はすでに破綻していた。展開している存在が修復できるほどの力を持たぬ以上、ただ壊れるのを待つしかあるまい。
咲夜はなんとなく、この広大な静止空間を作り上げた魔導具へと思いを馳せた。
これだけの空間改変と外界への干渉、単独での活動能力を考えるによほど名のある、あるいは良く出来た魔導具なのだろう。それが何らかの理由で弱って、これだけの暴挙に出たと考えると、筋は通っているように思える。
ただ、道具は誰かに使われなければ自らの力を発揮できない。ひとりでに動き出すことなど――
こち、こち、こち。
こつん、こつん、こつん。
(ああ、あったわね)
胸中で呟いて、苦笑する。
この国では、長い年月を経た器物に神や妖が宿るという。人々はそれを九十九神といい、あるときは忌むべきもの、あるときは崇め大事にするものとして扱ってきた。
とすれば、西洋のものであれ、そのロジックを適用されれば即座に神や妖怪と化しても、別段不思議ではない。
こち、こち、こち、こち。
こつん、こつん、こつん、こつん。
気が付くと、疲れはほとんど感じなくなっていた。むしろ歩調が早まり、どこからか活力が湧いてくるようにも思える。近い終わりへと向かって、真っ直ぐに向かっているという感覚が身体を賦活させているのだろう。
そう、終劇はもうすぐそこまで――――
こち、こち、こち、こち――かちっ。
こつん、こつん、こつん、こつん――かつん。
足を止めた。
「……これは」
咲夜は突如目の前に現れたものを凝視している。
マジックのように現れたのは、真っ白な一本足のテーブルと、古ぼけた化粧箱。丁寧な装飾と鍵がついていて、宝箱のようにも見える。
その上に降り積もった埃は分厚く、長い年月を眠ったまま過ごしているのは間違いない。
「……ふぅん」
溜息のような呟き。そっと銀色の髪を指で梳いて、汗をぬぐう。それから軽く服の埃をはたいた。
物語はすでに終幕である。主演は自分なのだから、体裁は綺麗に整えておきたかった。
かちゃりと鍵の開く音がする。
ぎぃ、と息をついて、箱が口をあける。
「――時計」
入っていたのは銀色に輝く懐中時計だった。その鎖も、針も鮮やかな銀色を示していて、蓋の部分には月と十字を象った美しいレリーフが施されている。
咲夜はそれをそっと持ち上げて、手のひらの上に載せる。どこか暖かい、不思議な金属の感触。純銀、あるいはそれに近い何かというのは分かるが、それ以上は専門家ではない咲夜には把握できない。
ただ、これが凄まじい力を秘めた魔法の品というのは感覚で理解できた。手の平から流れ込む魔力が、秩序だった奔流が、悪魔の家の宝物にはふさわしいと直感させる。
導かれるようにそっと竜頭へと触れ、かちりと押す。すると、がちゃりとやや錆びた音を立てて蓋が開いた。
中もまた、信じられないほどに精緻だった。
時、分、秒に留まらず、太陽太陰の暦、月の満ち欠け、さらには地球の裏側の時間までもが解かるようになっている。しかもそれらの表示は全て整然と無駄なく矛盾なく詰め込まれ、恐るべき機能美を発揮していた。
世が世ならば、億の金をつぎ込んでも欲しがる者は後を絶つまい。
「……あら、動いてない?」
だが惜しむらくは、それは時計としての寿命を終えていた。
咲夜は一緒に入っていた鍵を使ってばねを巻き直してみたり、少し振り回してみたりなどして蘇生を試みるが、いずれも無為に終わった。
中の部品が老いて死んでしまったのか、それとも元々壊れてしまっていたのだろうか。ともあれ、それはすでに死んだか、生きていても瀕死の状態だった。万能といえど、寿命、あるいは経年劣化という病には勝てなかったのか。
「…………はぁ」
溜息を一つついて、どうしたものかと考える。時計を修理する心得などないが、かといって放っておくのも忍びない。
そんな風に感じるのは、なんとなく自身と重なる境遇であるのも理由の一つだろう。自身とて彼の吸血鬼の少女に拾われなければ、この時計のように死んでいったはず。
……そう、拾われなければ。
「あ」
そこで思い当たった。
なぜ自ら動くのか。なぜ誰かを求めたのか。
――なぜ、私なのか。
「あなた、私に来て欲しかったのね」
時計塔の奇妙な振る舞いが、そしてあの障害が全て繋がる。
あのメイドが閉じ込められた異変。
そこに咲夜が現れて解決した時から、この物語は始まっていたのだ。
時間と、空間を操る魔法の時計。
壊れかけたそれは、この国で生を得て、自らの最後の願いに、自らを拾う存在を、主を選んだ。自らを自在に操り、時空を支配する素晴らしき主を、自らの僅かな命を削って、彼は必死に求め願っていたのだ。仕えるべき主を、生きる意味を与える偉大な存在を。
――嗚呼、その切なる願いをこの私がどうして拒めようか。
貴方は、ある意味で私なのだから。
「……いいわ。貴方をもう独りにはしない」
切なく囁き頷いて。
時計をそっと両手で押し包み。
咲夜は『時』を『戻した』。
舞台が役割を終え、砕け散った。
世界が砕け散り、意識が暗転するその瞬間。
咲夜は、雲の切れ目を見た。
――目を覚ますと、自分が自室に戻っていることに気づいた。
慌てて起き出し、服装を確認すると元の寝巻きのままだった。
「……夢?」
首を傾げながら、ベッドサイドのテーブルに視線を向けると。
夢だったはずのものがそこにあった。
慌てて手にとって、竜頭を押す。ぱかりと開いた蓋の中では、秒針が元気よく動いている。
「……どっちなのよ、もう」
カーテンを開けると、雨は上がっていた。紗幕のように降りる日光で、虹が彩られている。窓に残る水滴と、ひさしから滴り落ちる露だけが、梅雨の残滓を伝えていた。
思わず、その光景に意識を奪われた。数週間ぶりに見た太陽と、空と、虹。それは、本当に居間まで自分が見てきたものと同一なのかと疑わしいほどに綺麗で――
「調子はどうかしら?」
「きゃっ!?」
意識を飛ばしていた隙間に、聞きなれた声が滑り込んだ。咲夜が慌てて振り向くと、
「お、お嬢様!?」
「なかなか起きないから心配したのよ。おかげでもう一日、休日を大盤振る舞いしたわ」
「も、申し訳ありませんすぐに――」
「いいのよ。それよりも」
レミリアは楽しそうに窓から空を見ると、
「せっかく晴れたんだし、一緒に散歩でもしましょう。日光は嫌いだけど、雨よりは好きだから」
くるりと、握っていた日傘を肩に乗せた。
「虹を歩いて、太陽の尻尾を捕まえてみない?」
「あ……」
まるで、太陽のような笑み。彼女は吸血鬼だと言うのに、これ以上なく似つかわしい、威厳を脱ぎ去った穏やかな表情。
それだけで、咲夜はサボりも何もかもどうでも良くなってしまい、
「――はい」
満面に微笑み返し、承諾した。
「それじゃあ決まりね。とりあえず着替えて――そうね、メイド服じゃ味気ないから、アレを着てちょうだい」
「……アレ、と申しますと?」
「貴方が初めてここに来たときの服よ。あの白いワンピース。時間を戻して直して、ちゃんと持ってること、知ってるのよ?」
その言葉に、咲夜の鼓動が強く跳ねた。
あの服は、ここで従者をやることに決めてから一度も袖を通していない。気に入らないわけではない。身体に合わないからでもない。
一人だった過去を思い出すから、着れない。
「……まったく、抜けてるわね」
身を硬くした咲夜を見かね、レミリアは溜息混じりに硬くなったその表情を覗き込むと、
「――貴方はもう独りではない。そうでしょ?」
そっと、咲夜の頬に触れた。
「止まない雨はない。貴方には、充分すぎるくらいに、共に歩むものがいる。従者が主と自らの使役するものを忘れるなんて駄目じゃない?」
こち、と一際強く、手の中の懐中時計が秒を刻んだ気がする。
咲夜が視線を移すと、変わらぬ姿の時計がいた。きらりと、純銀の輝きが月と十字を浮かべている。
「ね?」
にこやかな笑みで覗き込まれ、咲夜は肩の力を緩めた。鬱いでいた気を整理して追い出すように深呼吸すると、
「……失礼いたしました。喜んで」
改めて、笑顔で快諾した。
久しぶりに、心の芯から笑えたように思えた。
ひらり、と薄手の白い服を翻らせながら、咲夜はふと、姿見を覗いた。
鮮やかな銀色の髪。
腰で揺れる月と十字の銀時計。
そして変わらぬ瀟洒な笑み。
ただ、今は。
そこに暖かい何か素敵なものが混じっている。
そう、思えた。
§
「……ところで」
「あら、何か聞きたいことでも?」
日傘を持ち、レミリアの傍らに立ちながら、咲夜は疑問を口にした。
「この時計って、何なんでしょうか」
彼女が視線を向けた先には、小さな銀時計が鎖で結ばれ、揺れている。
「それはね――先代を滅ぼした魔狩人が持ってたものなのよ。意志の力により時間と空間を従える、究極の道具」
さらりと天気の話でもするかのようなレミリアの言葉に、咲夜はかすかに息を呑んだ。
「……そんな物騒なものがどうして」
「私が仇討ちしたからよ。所詮、時空も運命には敵わなかった。――今、貴方が私のそばにいるように」
「……そのようですわね」
咲夜は微笑すると、そっと時計を手に乗せた。
ちゃらりと鎖が揺れて、光を反射する。
月と十字の意匠は、太陽の下においても美しい。
「ですが、同じ能力を持つ私が持っていても意味がないのでは?」
「そんなことはないわよ」
レミリアは何かを思い出すような素振りを見せ、
「パチュリーが前に話してくれたことだけど。近しい力や作用を持つ魔導具は互いに共振して、より強力な力を引き出すらしいわ。それは魔法使いにも言えることで、そのために個人個人に合わせた魔導具がよく作られてきたそうよ。制御は難しいらしいけど」
「……つまり、私の力が強くなると?」
「そうね。その時計も一緒に使えば、たぶん世界中の時間と空間を際限なく弄れると思うわよ」
突然スケールが大きくなり、咲夜は転びそうになった。それでは文字通り創造神ではないか。
「……使い道がありませんわね」
「欲がないわねぇ。世界の支配者とかどう?」
冗談めかすレミリアに、咲夜は微笑んだ。
「お嬢様がいらっしゃるなら、すでに願いは叶っていますから」
「素晴らしい従者ね」
「光栄ですわ」
互いに笑顔を向け合うと、
「ま、とりあえずは館の拡張にでも使ってもらおうかしらね。固定化すればあとはほっといてもいいんでしょう」
「え、あ、はい。大丈夫ですけど……何故?」
「侵入者とか対策よ。ほら、あれだけ大きい屋敷に住んでたら狙われるじゃない。新しく荒事担当のメイドも雇い入れたいし、ちょうどいいわ」
くすくすと笑うレミリアに、咲夜は戸惑ったように動きを止め、やがて納得したように、悪魔の狗に相応しい瀟洒な微笑を返した。
あの主の表情は、何か素敵で派手なことを思いついたに決まっている。
「今年の夏は暑くなりそうよね」
「はい。……倫敦の霧が懐かしくなりますわ」
二人は青空を見上げ――
「じゃあ、霧でも出してみようかしら?」
――To be continued...?
「……二人とも、無事?」
小さな窓から見える外は、酷くくすんでいた。容赦なく吹きつける大粒の雨が窓硝子に跡を残し、色の消えた風景を無気味に歪ませている。昼だと言うのに空は灰色に染まり、薄暗い光しか地上には届いていなかった。
「……はい、なんとか。でもこの子が……」
「……うう、う……」
震えるようなか細い声と、うめき声。
それを掻き消すほどに、ごおんごおんと無機質な重低音がその部屋には響いていた。たえず同じ間隔で同じ音色を反響させているそれは、じわじわと恐怖感を煽っていくようで、誰の耳にも不快なものだった。
「……〝酔った〟みたいね。命に別状はないと思うけど、医務室に」
「は、はい。……咲夜さん。あの、外は」
その部屋にいるのは、三人の少女だった。鮮やかな銀髪にヘッドドレスを載せ、一部の隙もなく丈の短いスカートのメイド服を着た姿と、金髪に赤を基調にしたロングスカートの姿が、二人。片方は苦しそうに胸を上下させ、もう一人が介抱していた。
「私が直したわ。ちょっと苦労したけど、真っ直ぐ階段を下って行けば大丈夫」
「は、はい!」
咲夜と呼ばれた銀髪の姿の言葉に、金髪の方が頷くと、未だに呼吸の荒いもう片方を抱きかかえ、部屋を出て螺旋階段を駆け下りていく。ただ、その表情は安堵というよりも畏怖に近いものだった。
そしてその感情は、明らかに銀と青の姿へと向けられていた。
「……やれやれ」
その様を見送り、一人残った彼女は苦笑した。確かに怖がられても仕方ないような仕事をしているし、自分もそのように振舞ってはいるが、こういう時くらいは感謝して欲しいものだ、と溜息混じりに自嘲を捨てる。
分かっている。そんなもの、望むべくもない。あるとすればただ一人――
ただ、その一人が相手であろうと、多少の溝や隔絶は感じる。これは単に自分が馴染んでないだけかも知れないが、それが埋まる日は何時なのか。
……一瞬だけ、薄汚れた白い服を着た自身の姿がよぎる。
舌打ち。ぐりぐりと眉間に掌底を押し当てて、フラッシュバックしたものを押しつぶす。
一心地ついたあと、窓の方に視線をやれば、未だに雨が続いている。こっちの梅雨とはこういうものか。まったく、憂鬱だ。
――〝見つけた〟
風切り音を立てて振り向いた。その時にはすでにナイフを抜いている。護身用にも不審人物の掃除用にも使える彼女の必需品である。
しかし、振り向いた先に人影はない。あるのは乱雑に積まれた木製の化粧箱や宝箱、妙に豪奢な飾り付けがなされた剣などのがらくたしかない。
……疲れているのだろう。
何かの音を聞き間違えた、と結論付ける。そもそも人の声、あるいは音だったのかも怪しい。なにしろ耳には何も届いていない。
そう納得しておくと、咲夜はやや疲れた足取りで部屋を出ていった。
――ざあざあと、激しい土砂降りは続いている。
その音に、かたんと何かが動く音が混じった。
ごとごとと、積まれた化粧箱の一つが滑り落ちて、がしゃりと開く。
中に入っていた〝それ〟は、かちかちと今にも消えそうな音を立て――やがて止まった。
§
しとり、と音が聞こえる。
屋根を叩く音、煉瓦の道を流れる音、門を洗う音、湖に注がれる音。
梅雨の季節、降り注ぐ雨は憂鬱になりそうな音楽を奏でている。
この日、幻想郷中は大雨に見舞われていた。梅雨の時節だからして、特に珍しいことではないが、今年は特に雨量が多い。そのおかげで普段は鮮やかな深緑に覆われている山々も、人里も、湖すらも少し煙って色褪せて、水墨画をそのまま映したような風景を織り成している。
しかし、そんな降り注ぐ雨に色褪せても、紅魔館はなお紅かった。灰色の風景、いささか濁った湖の先、白黒の風景で一際目立つ彩度の西洋屋敷は、薄暗いこの日においても見失うことはない。
荘厳に佇む正門と、鮮やかに紅い薔薇の咲く中庭に訪れるものはなく、雨音の中においても、正門と壁によって仕切られた結界の内側は、なお静寂を保っている。
いつもは草木の世話をしているメイドや、正門を護っている門番も、この日は久しぶりの休暇を満喫していた。屋敷の中では、暇を持て余したメイドたちが思い思いに遊んでいることだろう。
といっても、さすがに制限はされるが。基本的に賭け事と決闘――弾幕ごっこはメイド長により固く禁じられている。
もし破ろうものなら、その刑罰は想像だに許されない。
あるものは地獄の針山のような無惨の姿を晒すといい、あるものは二度と表を歩けないほどの辱めを受けるというが、その実体については全く分かっていない。中には大切なものを奪われました、それは私の心です、と顔を赤らめて語るメイドまでいる始末である。しかし実際何をやっているのかはメイド長だけしか知らぬ。
その紅魔館の、常よりも広い屋敷のさらに奥まった場所。この紅い館の主、強大な吸血鬼であるレミリア・スカーレットが使う豪奢な部屋。そのすぐ隣に、質素、清楚ともいえるほどひっそりと一つの部屋があった。
広大な紅魔館において、数多いメイドを指揮し、荒事もこなす、比類なき若きメイド長――十六夜咲夜の部屋である。
部屋の中は質素ながら、少女らしい装飾があちこちに散見された。柔らかな色彩で彩られた壁紙には小さな花が描かれているし、調度品もどこか子供っぽい魅力が残っている。枕元に置かれた大きめのぬいぐるみは、その最たる物だろう。
壁のコルクボードに楚々と展示されている、何本かの艶やかなデザインのナイフを除けば、おおむね娘の一人部屋、といったところだろうか。
その窓際に置かれたベッドの上では、やはり少女が寝息を立てている。服装はゆったりとしたネグリジェ。そっとシーツを引き寄せ、大き目の枕を抱きしめ、かすかに胸を上下させて眠っていた。
まばらに花開いている、ややぞんざいに切り揃えられた銀色の髪。無作為でありながら人形のような可愛らしさを造形された表情は今は瞳を閉じ、シーツから光と影のコントラストで浮かび上がる肢体は、彫刻のように均整が取れていた。
完全、と言い換えていいかも知れない。事実、彼女は自身が従者として完全であり、瀟洒であると確信し、自己にそうあれかしと願って生きている。それは、この館――紅魔館に生きる意味を見出してから数年、ちょうど幻想郷に屋敷を移築したこの頃も、変わることはない。
――彼女が件のメイド長、十六夜咲夜である。
あまりの歳若さからは予想もつかないだろうが、ひとたび闘争に入ったときの苛烈さと普段の瀟洒さと無駄のなさから、メイド長に相応しいとされる理由が見て取れるだろう。
咲夜は、この長雨により久しぶりの休日を与えられ、それを利用してゆっくり羽を休めていたところだった。
その休日をふかふかのベッドでの安眠に使っていたのだが、もう寝るのは充分だと思ったのか、彼女はのんびりと起き上がった。
そして着替えを始めようと、ちょうどベッドの真後ろ、枕が転がっている方向のクローゼットを覗いて――動きを止めた。そのまま、少し困ったような表情を見せる。
……そういえば、私服は持っていない。
ほとんどがメイド服で事足りていたため、部屋着や今来ている寝間着以外は持っていない。
たまの休日、メイド以外の格好で過ごすのも悪くはないと思ったのだが。
せめて何かないかと、クローゼットを引っくり返す。引っくり返すといっても、そんなに服の量はない。予備のメイド服とか靴下とか下着とか、そんなものばかりだ。
ふと、一番奥に古ぼけたカバンを見つける。寝ぼけた茶色をした、年季の入っているカバンだ。少し埃をかぶっているあたり、蓄積された年月を語っている。
咲夜は少し悲しそうな懐かしそうな表情をすると、それには手をつけずにクローゼットを閉じた。
結局というか当然というか、私服らしきものは見つからず、咲夜はやや残念そうに、メイド服を手にとった。
気に入っていてしかも着慣れているとはいえ、仕事用の服と私服との区別が無意味になっている気がする。むしろ、本末が転倒というか真ん中からへし折れて本と末が同じ方向を向いているのではなかろうか。
そんな自分に少しだけ頭を痛めるが、咲夜は気を取り直すと服をベッドに置いて、そっとネグリジェを下に落とした。
――ふわりと舞う白絹の合間に、猫科の動物が描かれた布地が見え、
すぐに勢いよく広げられたブラウスに隠された。
誰も見ていない場所であろうと、油断しないのが完全で瀟洒な従者の心構えである。
着替え自体は手馴れたもので、数分もかからずに終わった。なめらかにブラウスを、リボンを、ガーターベルトを身につけ、スカートとベスト、ヘッドドレスをつける頃には、咲夜はすっかりとメイドになっていた。
そっと、太ももに大きなナイフを収めたシースを巻くのも忘れない。短めのスカートで隠せる位置に留め、決して見せないのが瀟洒である。
シースに収めたナイフは職人手作りの大ぶりなアタックナイフ。こちらに来てから本職の刀鍛冶にオーダーしてもらった逸品である。独特の形状には苦労させられた、とは職人の弁だが、それだけあって芸術性と実用性を見事に両立させている。例えば、咲夜が使えば刃こぼれせずに何でも切れる程度に。
彼女の最近の愛用品である。
「――さて。とりあえずお嬢様のところに行きましょうか」
着替え終えて、考える時間は数秒。何をするか。どう余暇を楽しむか。咲夜はほとんど知らなかったが、とりあえず自分の主のところに行けば何とかなると結論した。
一緒に紅茶でも飲んでみようか。そういえば最近、主人との茶会には付き合っていないのもある。どうも主人もそのことに不満そうだったし。
そうだ、せっかくの機会だからとっておきの茶葉を使ってみよう。遠い雪国の、砂糖の要らない甘い紅茶をこの前手に入れた。珍しいからと大事にとっておいたのだけど、主とお茶をするなら品も格も相応しいだろう―――
そんなことを考えながらそっとドアに手をかけて、咲夜はふと、そばに置いてある姿見に視線を向けた。身の丈より少し大きい鏡。
見慣れた、瀟洒な微笑が映っていた。
§
真っ白なテーブルの上で、かちゃり、と陶器が音を立てる。
鮮やかな白磁に紅色の薔薇をあしらったティーカップを傾けながら、咲夜はレミリアの笑顔を久方ぶりに見ていた。
ここのところ雨続きもあり、酷く不機嫌なことが多かったためである。運命すら手中に収める彼女でも、雨の日はその力を存分に振るえない。
流れ水に弱い、という吸血鬼の宿命である。もし雨に打たれでもしたら、死すら覚悟しなければならない。
もちろん、五百年の歳月を経ているレミリアであれば雨に打たれたとしても死ぬことはないが、どっちにしろ力が弱まることには変わりない。
そんなことで、雨が長く続くとそのたびに館の空気は剣呑なものとなるのが常だったが、いくつかの例外といえる時間がこの茶会だった。特に今回は、珍しく咲夜が同席しているのも大きい。
レミリアは彼女が遠慮しすぎるのを嫌うのである。二人きりのときぐらいは多少くだけてもいいだろうと思うが、本人が誰が見ているか分からないと丁重に断るのだ。
命令してもいいが、それではやはりつまらないのだろう、レミリアは一度も咲夜に対し、命令で同席させたことはなかった。
「やっぱり貴方の紅茶が一番ね。品も格も申し分なし」
十二分に引き出された、砂糖無しでも甘い芳醇な香りを楽しみながら、レミリアが告げる。
その笑顔だけで、二人だけの茶会を過ごすだけの価値は十二分にあった、と咲夜は胸の内で思った。心なしか、浮かんでいる笑みも深い。
咲夜がこうして主と同席して紅茶を楽しむのは滅多にない休日の時だけである。
もう少し頻繁にとってもいいのでは、と言う声もメイドたちからは聞かれているが、彼女自身が良しとしていない。その仕事に対する過剰なまでの職業意識からして、仕事中毒じゃないかという噂まである。
「しかし、どうしてそんなに働きたがるのよ、貴方。確かにうちは休日も給料もほとんど出さないけど、にしても過重労働じゃない? 雇い主として監督責任があるわよ」
「動いている方が楽しいのですよ、お嬢様。それに私は――」
「そういう小細工無しで休め、と言っているのよ。確かに貴方は普通より便利だけど、使いすぎて壊したくないわ。私の従者なんだからたまには言うこと聞きなさい」
困ったように眉根を寄せる主に、咲夜は苦笑してカップを傾け、その表情を隠した。
確かにレミリアの言うことは正しい。実際、咲夜も人間ではある。が――
「大丈夫ですわ。私は普通よりも頑丈ですから」
「……もう、強情ね。やっぱりメイドにも週休二日制を導入したほうがいいのかしら。外だと最近流行ってるらしい、ってパチェが言ってた」
「……もう、また妙なことを吹き込みましたわね、パチュリー様ったら」
再び、咲夜は困ったような笑みを深めた。
パチュリーは、レミリアが客人として住まわせている無二の親友で、大量の書から得た知識を活用する知識人であり、七曜の力を操る魔女である。
ただ、ほとんどの情報が本からということで、間違っていることも多い。
「あら、妙なことじゃなくて事実よ。……珍しいわね、レミィと貴方がお茶してるなんて」
「あら、パチェこそ珍しいじゃない。図書館、湿気てるの?」
咲夜の鼓動が、少しだけ弾んだ。
それを顔へ出さないようにして、ティーカップをソーサーに置いてから振り向くと、妙にフリルの多いネグリジェ姿の不健康そうな少女がいた。
噂をすれば影。
パチュリー・ノーレッジである。
「湿気てるなら埃が舞わなくて助かるわ。ただ、本が黴にやられるからって、あの子が換気中なのよ。とてもじゃないけど居られる環境じゃないね、今現在」
どうやら埃や黴の胞子を追い出している最中のようだ。いつの間にか住み着いていた小悪魔が、気を利かせてやっているらしい。換気中の大図書室近くを通るメイドには気の毒だが、パチュリーは特に止めるつもりはないようだ。むしろ便利なので好きにやらせている節すら見える。
「というわけで、ここを少し借りるわ」
そういって、パチュリーはちょうど一つ空いていた椅子に座ると、持ち出してきたらしい本の一冊を取り、読み始めた。
すかさず咲夜がパチュリーの前の卓に紅茶を出せば、すぐさま卓の上に細い手が伸びる。
「ありがと」
短い礼に、咲夜が微笑んだ。この辺りの呼吸は、来てから半年ですっかり身につけている。かなり早い順応ともいえるかも知れない。
「……あ、そうだ。メイドから聞いた話だけど」
二杯目の紅茶が入る頃、パチュリーは本から顔を上げると、そんなことを言い出した。内容を思い出しているのか、、彼女なりの話術なのかは不明だが、彼女が何か話をする時は、たいてい大きく間を取ってから話す。
それは単なる世間話から、フランドールが暴れているといった緊急の要件でも変わらない。取る間が十秒か十分か、という違いはあるが。
「……ああ、時計塔ね」
ただ、その間はレミリアの即答によってほとんど出現することはない。
こと妙な事件や人物に関して、二人とも嗅覚が鋭い。そのため、基本的にはこんな回りくどい会話をせずとも大抵は通じる。パチュリーが明確に語るとすれば、それは第三者がいる場合である。
「……時計塔が、どうかなされたのですか?」
この場合は咲夜だった。色々と話を飛ばされているため、多少困ったような表情を浮かべている。
二人とも聡すぎるが故に、咲夜であっても話の展開が読めず、戸惑うことが多々ある。
「時計塔がまたおかしくなっているのよ」
レミリアは細い肩をすくめると、簡単に説明しだした。
時計塔とは、紅魔館中央から突き出す一際高い塔のことである。その頂きには巨大な時計と文字盤があり、今もなお時を精密に刻んでいる。
その動力は巨大な発条と無数の歯車によって生み出されているのだが、発条を巻き直すのは数年に一度でいいというのだから、その巨大さが良く分かる。
そしてその巨大さゆえ、内部の広さにも余裕がある。そこで、以前この館を使っていた人物はそこを宝物庫としても利用していた。
中に何があるかは、レミリアですら把握しきれていないらしい。単に興味がないとも言えるが。
「まあ、たまに貴方へ手入れを頼んでるから中の構造は知ってると思うけど。……で、宝物庫なんだけど、その中にどうも性質の悪い道具がいくつか混じってるらしくて、私の力が及ばない時には悪さをすることがあるのよ」
宝物庫に集められていたのは希少品や美術品だけではない。魔力を持ったフェティッシュも数多く収められている。
それらは普段、レミリアの発する妖気によってその活動を押さえ込まれているが、今日のように雨の日でその力が弱まっているときは、いきなり暴れだすことがあった。
基本的に無害ではあるが、迂闊に時計塔へ踏み込んだメイドの何人かは消え去ってしまうこともあるという。
「ああ、それなら覚えてますわ。……探し出すのが大変でした。正直、もうやりたくない仕事ですわね」
苦笑交じりに、咲夜は思い出を語る。
結局、そのメイドたちは別の空間に閉じ込められてしまったようで、後日、咲夜がどうにか引っ張り出したのである。
そのときの苦労は、今でもあまり思い出したくないものだった。色彩感覚を全て発狂させた挙句にユークリッド幾何学を根こそぎ壊滅させたような風景の中を延々と歩き回る体験など、普通の人間では耐え切れまい。
もちろん咲夜は普通とは違っていたし、メイドたちも普通とは違っていたが、メイドたちの方は今でも夢に見ることがある、と語っている。そういう意味では、疲れた、という程度に終わった咲夜の方は人間離れしている。
彼女の生まれつき持っていた異能が、そういった異常な時空に対して耐性をつけてくれているのかも知れない。
「それで、今日もまた似たようなことがあったのですか?」
「そうね。でしょ、パチェ?」
レミリアの声に、パチュリーは本に目を通しながら頷いた。伝えるべきことはもう伝えたと、いわんばかりの態度だったが、誰も気分を害することはなかった。
「にしても、あそこには封印をかけたはずなのに、もう解くなんてね。フランが悪さでもしたのかしら……まあ、いいわ。どっちにしろ、いい加減根本的に解決しないとね」
「では私が」
眉をひそめてうめくレミリアに、咲夜は自分の胸に手を当てた。
「でもせっかくあげた休みをいまさら引っ込めるなんて出来ないわよ」
「では紅魔館探検ツアーということでよろしいでしょうか?」
「……やれやれ、貴方には負けるわ」
にっこりと笑顔を向ける咲夜に、レミリアは苦笑した。
「では、すぐに取り掛からせていただきますわ」
そういうと咲夜は一礼し、
消えた。
一切の前触れもなく、風一つ起こさず、彼女はその場から消えていた。
速度ではない。手品でもない。彼女の持つ、反則とも言える異能である。その実体は、この館に使えるものであれば誰もが知っている。
それでいて、誰も敵うことはない。圧倒的に懸絶した能力は、例えその姿を見せようとも、抗うことすら出来ない。
ただ、それゆえに彼女はその生のほとんどを孤独に過ごしていたのだが――
「……やれやれ、張り切っちゃって」
「いいんじゃないの? やる気がないよりは」
その奇怪な事象を前にしても、残された二人は何ら反応をすることもなかった。むしろ、この程度なら当然だろう、と言わんばかりの態度である。
「ところで、あの異変の元凶って確か……咲夜で大丈夫なの?」
「大丈夫。私の従者は間違わない。手先も器用だから、時計を直すのもお手の物よ」
パチュリーの疑問符に、レミリアは笑みを浮かべ、迷いなく即答していた。
§
雨はまだ続いている。咲夜の主によれば明けるのは近い、とのことだったが、正直空の灰色具合から見て、咲夜にはそうは思えなかった。
長い、窓の少ない廊下を歩き、扉を抜けると、そこは異界だった。
先ほどまで身を置いていた世界を健常とすれば、ここは間違いなく、相対的に別の世界だった。
機関部に至る階段は捻れ狂い、まるで砕けた鏡を撒き散らしたかのようにあちこちへと飛び、はるか上まで続いている。この様子だと、空間の広さも狂っているのかも知れない。現に、はるか上まで伸びている階段は、すでに時計塔の高さを目測で超えていた。
色彩も完全に崩壊している。鮮やかな赤を基調に豪奢な装飾を施されているはずの壁も手すりも窓さえも、全てが原色に誇張され、マーブリングのように淀みながら、咲夜の目に届いていた。
「……今日は、随分と不機嫌みたいね。中に押し込められてる悪戯っ子は」
咲夜は困ったように眉をひそめると、腕を組んで溜め息をついた。
あちこちに、黒い染みのようなものが生まれ、妖力を奇怪に収斂させながら、テリトリーに足を踏み入れた咲夜へと近づいている。
この現象は、初めてのことだった。
咲夜自身、このように狂った状態の時計塔に入るのは初めてではあるが、どういった異常が起きているかは、被害を受けたメイドから一字一句洩らさず記憶している。
そう、迷宮を生むことはあっても、そこに住む妖物は生まなかった。
「まあ、推論としては――」
そして、妖弾は放たれる、
「試されてる感じね」
その前に、間合いも遠近法すらも無視し、咲夜はその『敵』を斬り捨てていた。
両手には優美な曲線を描くナイフ。その銀色に輝く刃には血の一滴すら張り付かず、咲夜の鋭い表情を映している。
それが、開戦の合図。
次々に、奇怪な角度へとねじれ狂った空間の隙間から、黒い不定形の〝何か〟が滲み出していく。ぶよぶよとした波打つアメーバのようなそれは、次々に妖気を掻き集め、解き放つ。鋭い槍へと整形された妖弾は、次々と雨のように咲夜へと降り注いでゆく。
咲夜はすでに走っていた。弾雨を潜り抜け、槍衾を飛び越え、狂わされた時計が脈打つ音を背景に、目の前を遮る粘体を妖弾を次々と切り捨て、飛び散った螺旋階段を上っていく。
飛んでいくことは出来ない。空間がねじれ狂っている以上、どこに飛び出すか分からない。ならば、階段を標に真っ直ぐ抜けるのみ――
実際、登ってみれば階段は螺旋を描いていた。外から見た風景が狂っていただけで、登ってみればちゃんと繋がっているようだ。
ただし、周りの景色は接ぎ当てをしたかのようにバラバラと狂った色彩を映している。
咲夜は思わず、その奇怪な風景に一瞬気を取られた。視界から追い出そうとしても、周囲全てが狂っているのであれば、否応なく意識へと侵食していく。目を閉じない限り、現実の悪夢は消えようとしない。
「ああもう……っ」
三半規管が僅かに戸惑い、足元がよろめく。走る速度が目に見えて落ちる。
そこを狙い、強く鋭く研ぎ澄まされた紫電の槍が無数に走った。
一瞬の後、咲夜は無惨に串刺しと――
ならなかった。霧のようにその姿は掻き消え、本来意志がないはずの妖物をして困惑と驚愕に奔走させしめた。それらは戸惑うように揺らぎ、妖気を収斂させることすら忘れ、眼ならぬ眼で咲夜がいたはずの地点を見つめている。
その隙を突いて、鮮やかな銀の光条が周囲にいたすべての歪みを撃ち抜いた。
いつの間にか、はるか上まで登っていた咲夜の放ったナイフが、まるで吸い込まれるように誘導されながら命中したのだ。
さらに奇怪なことには、放たれたナイフもまた壁らしき部分へと当たって跳ね返ると、次々に咲夜の手元へと帰っていく。
奇術を超えた、魔術の領域の技。
しかし、その技を以ってしてもなお、死斑のような黒い存在は次々と数を増やしている。無限とも思える群体に、彼女はいかなる手で応じるのか。
「鬱陶しいわね」
小さくため息をつくと、咲夜はナイフを収めた右手を軽く振った。
奇怪な技が再び発揮された。帰還していた十本のナイフが、まるでトランプのカードを広げるようにその数を増やしてゆく。その数、二十、三十、四十――
隠し持てるはずがない、隠しようのない質量が、次々と無から現れている。
しかし咲夜にとってはただ収納していたものを取り出しているに過ぎない。
「面倒だから、まとめて掃除ね」
かしゃん、と鋼を打ち鳴らすような音が響く。
咲夜は、そのナイフを真上に投げ放っていた。くるくると光を反射して舞い散るナイフはそのまま砕けた鏡のように落下を始め――
「覚悟しなさい塵芥」
その矛先を突然変える。全てが意志を持つかのように胎動し、狂気を覚えるような速度と旋回で暴走を始めた。
果たして、咲夜の周りで烈風が巻き起こった。
それは触れたもの全てを破砕する、鋼の刃で出来た竜巻、光り輝く烈風そのものである。
風が、轟と音を立てて領域を広げる。咲夜の周囲に集っていた妖物は、一切の例外なく、反撃すら許されずに最微塵へと分解されてゆく。
それと同時に、咲夜は再び走り出していた。
『力』を行使するのはそれなりに体力を消耗する。妖物ひしめく時計塔を切り抜けるには、短期決戦がふさわしい。そう判断しての強行突破。
荒れ狂う暴風は、突き進む先の妖物を、妖弾を、無粋な空間の歪みさえも根こそぎ砕き散らし、過剰なまでに咲夜の身を守り、己が役割を存分に果たしていた。
(五、四、三――)
しかし、咲夜に高揚はない。意識の奥では、冷静に結界を解く時間を計算し、カウントを落とし続けている。タイミングを間違えれば、逆に自分が不利な状態へと追い込まれかねないと知悉しているのである。
故に、不手際はない。全ては完璧に、瀟洒に。
軽やかなストライドで階段を駆け抜け、一際大きな踊り場へと飛び込んだ瞬間、
(二、一、――零!)
結界が爆発する。勢いをそのままに飛び散ったナイフは、押し留めようと抵抗していた妖物全てを容赦なく吹き飛ばし――
狂える景色の中、静寂を携え、踊り場で瀟洒にたたずむ咲夜だけを残した。
「……ここまで使うのは、久しぶりね」
咲夜はかすかに浮かんだ汗と上がった呼吸を整えると、自分のもたらした「掃除」の結果へ満足そうに微笑んだ。荒れ狂った鋼の乱舞は、今はすでにただ一本のナイフとして、その右手に収まっている。
それを軽く振り、手品のように掻き消すと、上へと視線を移す。階段の残りは十分の一もない。あとは気楽に登って、目的の部屋に入るだけだ。
……時計塔最上層、封印宝物庫。
咲夜は躊躇いなく、扉を開けた。
開けた。
開けて、止まった。
「なるほど。これは厄介ね」
咲夜の視界の先には、モノクロームと空虚に覆われた、広大すぎる世界がある。その色彩に、空間に、気配に、咲夜は長く慣れ親しんだ空気を感じていた。
咲夜の目の前にあったのは鏡だった。それは咲夜自身を、色彩を、空間を全て白黒に変換し、それ以外は一ミリたりとも違うことなくさかしまに映していた。
「ルイス・キャロルの絵本でもあったのかしら、鏡の国を作るだなんて」
苦笑しながら鏡に手を差し伸べると、触れる一歩手前で止まった。ぶよぶよした固いゼリーを突いているような、どこか心地良くも奇妙な感触が鏡と咲夜の指を遮っている。
何度か突いてみて、咲夜はそれが鍵穴に鍵を差し込まれるのを待つ扉だと直感した。
「向こうとこっちを合わせればいいのかしら」
どうやら、これは来訪者を選ぶ門のようだ。無言のまま謎を問いかけ、来訪者に入門する資格があれば良し、ないのなら締め出す。実に単純で効果的な防犯装置。
「まあ、それならそれで話は早いか」
だが、咲夜は鍵を持っていた。
モノクロの風景も、静止した空気も、死んだ気配も、全て慣れ親しんでいるもの。
つまるところ鍵は――
「それでは。貴方の時間、頂きます」
自身の中に在った。
瀟洒な微笑を浮かべたまま、かちりと、竜頭を押し込むようなイメージ。その空想を描き、自分にしか押せない引き金を引く。物心ついたときから疎まれ、しかし自身は親しんでいた、欠かせざる比翼の力。
そして世界は色彩を失い、静止する。
時空を完全に掌握した瀟洒な従者は、改めて鏡へと手を伸ばす。さかしまに映された姿も応じるように指を伸ばし――互いに触れ合った。
つぷん、と波打つように鏡の表面が揺れる。映し出された自身の姿は消え、ただ水面をつついているような冷たい感触が指から伝わっていく。
痺れるような心地良さに、咲夜は疲れた身体を任せたくなったが、それを深呼吸で自制すると、ゆっくりと指から手首、手首から肘へと一歩ずつ踏みしめながら水鏡をくぐっていく。
かちんかちんと、何故か苦しげに鳴る時計の音が頭に響いている。自分の鼓動にしては機械的に過ぎるが、咲夜は終わってから考えることにした。
腕を伝うひんやりとした感触が、体から余分な熱を吸う。その快感がすでに肩口まで来ていた。鏡の国への入り口は、すでに目と鼻とで触れられるほどに近い。
「……せえのっ」
咲夜は息を止めると、素潜りをするかように飛び込むと、鏡が水音を立てて波紋を広げた。
目を閉じた視界には光のみが透けている。全身の皮膚に冷たい感触が張り付いている。文字通り水の中だ。ただ、奇妙なことには何の抵抗もなく動ける。
さらにもう一歩。ぷつりと液体めいた感触が剥がれ、境界を通り抜けたことを感覚で理解した。
目を開けると、そこには圧倒的なまでの空白だけがあった。色彩は白で、地平線が見えるほどの空間。明らかに、紅魔館にある部屋ではない。
「……調度品の一つくらいは欲しいところね」
かすかな笑みを浮かべつつ、咲夜はとりあえず一歩を踏み出し、周囲を観察する。
くぐってきた鏡はいつの間にか消えていたが、咲夜は何故か気にならなかった。そんなものは必要なくなったのだろうと、どこか身体の奥底で理解している――ような気がする。
そのことを恐れるには、この領域はあまりに親しみやすいものであった。
と同時に、あまりにもがらんどうと思えた。
一つだけ残っていた外の窓を見ると、雲が薄くなったのか、明るい空の中、しとしとと雨が降り続いている。
――こち、と機械仕掛けの音が耳に届いた。
ちょうど自分の正面。
はるか先から届く、正体不明の駆動音。
「……」
こつん。
その鼓動に導かれて、咲夜は歩き出した。
あの音のある場所に、物語の幕がある。
そんな、奇妙な確信があった。
こち、こち。
こつん、こつん。
駆動音と足音が拍子を合わせている。少しずつ大きくなっていく駆動音が、足音を覆っていく。どちらが拍子を合わせているのか、それとも二つは同じものなのか。奇妙なほどに、両者は同調して呼応していた。
歩きながら周囲を観察すれば、ときおり白い風景がちらつき、外の映像が垣間見えた。肌に張り付く湿気は、外から流れ込む雨だろうか。
手でそっと拭うと、肌はぐっしょりと濡れていた。この分だと、服を乾かすのも大変そうだ。
拡張された空間が、現実と混じり始めているのである。もしこの空間が解除されたなら、咲夜は館の外に放り出されることになるのだろう。
(……維持するのが難しくなってるのかしら)
外界からの干渉を受けている。その時点で、この空間はすでに破綻していた。展開している存在が修復できるほどの力を持たぬ以上、ただ壊れるのを待つしかあるまい。
咲夜はなんとなく、この広大な静止空間を作り上げた魔導具へと思いを馳せた。
これだけの空間改変と外界への干渉、単独での活動能力を考えるによほど名のある、あるいは良く出来た魔導具なのだろう。それが何らかの理由で弱って、これだけの暴挙に出たと考えると、筋は通っているように思える。
ただ、道具は誰かに使われなければ自らの力を発揮できない。ひとりでに動き出すことなど――
こち、こち、こち。
こつん、こつん、こつん。
(ああ、あったわね)
胸中で呟いて、苦笑する。
この国では、長い年月を経た器物に神や妖が宿るという。人々はそれを九十九神といい、あるときは忌むべきもの、あるときは崇め大事にするものとして扱ってきた。
とすれば、西洋のものであれ、そのロジックを適用されれば即座に神や妖怪と化しても、別段不思議ではない。
こち、こち、こち、こち。
こつん、こつん、こつん、こつん。
気が付くと、疲れはほとんど感じなくなっていた。むしろ歩調が早まり、どこからか活力が湧いてくるようにも思える。近い終わりへと向かって、真っ直ぐに向かっているという感覚が身体を賦活させているのだろう。
そう、終劇はもうすぐそこまで――――
こち、こち、こち、こち――かちっ。
こつん、こつん、こつん、こつん――かつん。
足を止めた。
「……これは」
咲夜は突如目の前に現れたものを凝視している。
マジックのように現れたのは、真っ白な一本足のテーブルと、古ぼけた化粧箱。丁寧な装飾と鍵がついていて、宝箱のようにも見える。
その上に降り積もった埃は分厚く、長い年月を眠ったまま過ごしているのは間違いない。
「……ふぅん」
溜息のような呟き。そっと銀色の髪を指で梳いて、汗をぬぐう。それから軽く服の埃をはたいた。
物語はすでに終幕である。主演は自分なのだから、体裁は綺麗に整えておきたかった。
かちゃりと鍵の開く音がする。
ぎぃ、と息をついて、箱が口をあける。
「――時計」
入っていたのは銀色に輝く懐中時計だった。その鎖も、針も鮮やかな銀色を示していて、蓋の部分には月と十字を象った美しいレリーフが施されている。
咲夜はそれをそっと持ち上げて、手のひらの上に載せる。どこか暖かい、不思議な金属の感触。純銀、あるいはそれに近い何かというのは分かるが、それ以上は専門家ではない咲夜には把握できない。
ただ、これが凄まじい力を秘めた魔法の品というのは感覚で理解できた。手の平から流れ込む魔力が、秩序だった奔流が、悪魔の家の宝物にはふさわしいと直感させる。
導かれるようにそっと竜頭へと触れ、かちりと押す。すると、がちゃりとやや錆びた音を立てて蓋が開いた。
中もまた、信じられないほどに精緻だった。
時、分、秒に留まらず、太陽太陰の暦、月の満ち欠け、さらには地球の裏側の時間までもが解かるようになっている。しかもそれらの表示は全て整然と無駄なく矛盾なく詰め込まれ、恐るべき機能美を発揮していた。
世が世ならば、億の金をつぎ込んでも欲しがる者は後を絶つまい。
「……あら、動いてない?」
だが惜しむらくは、それは時計としての寿命を終えていた。
咲夜は一緒に入っていた鍵を使ってばねを巻き直してみたり、少し振り回してみたりなどして蘇生を試みるが、いずれも無為に終わった。
中の部品が老いて死んでしまったのか、それとも元々壊れてしまっていたのだろうか。ともあれ、それはすでに死んだか、生きていても瀕死の状態だった。万能といえど、寿命、あるいは経年劣化という病には勝てなかったのか。
「…………はぁ」
溜息を一つついて、どうしたものかと考える。時計を修理する心得などないが、かといって放っておくのも忍びない。
そんな風に感じるのは、なんとなく自身と重なる境遇であるのも理由の一つだろう。自身とて彼の吸血鬼の少女に拾われなければ、この時計のように死んでいったはず。
……そう、拾われなければ。
「あ」
そこで思い当たった。
なぜ自ら動くのか。なぜ誰かを求めたのか。
――なぜ、私なのか。
「あなた、私に来て欲しかったのね」
時計塔の奇妙な振る舞いが、そしてあの障害が全て繋がる。
あのメイドが閉じ込められた異変。
そこに咲夜が現れて解決した時から、この物語は始まっていたのだ。
時間と、空間を操る魔法の時計。
壊れかけたそれは、この国で生を得て、自らの最後の願いに、自らを拾う存在を、主を選んだ。自らを自在に操り、時空を支配する素晴らしき主を、自らの僅かな命を削って、彼は必死に求め願っていたのだ。仕えるべき主を、生きる意味を与える偉大な存在を。
――嗚呼、その切なる願いをこの私がどうして拒めようか。
貴方は、ある意味で私なのだから。
「……いいわ。貴方をもう独りにはしない」
切なく囁き頷いて。
時計をそっと両手で押し包み。
咲夜は『時』を『戻した』。
舞台が役割を終え、砕け散った。
世界が砕け散り、意識が暗転するその瞬間。
咲夜は、雲の切れ目を見た。
――目を覚ますと、自分が自室に戻っていることに気づいた。
慌てて起き出し、服装を確認すると元の寝巻きのままだった。
「……夢?」
首を傾げながら、ベッドサイドのテーブルに視線を向けると。
夢だったはずのものがそこにあった。
慌てて手にとって、竜頭を押す。ぱかりと開いた蓋の中では、秒針が元気よく動いている。
「……どっちなのよ、もう」
カーテンを開けると、雨は上がっていた。紗幕のように降りる日光で、虹が彩られている。窓に残る水滴と、ひさしから滴り落ちる露だけが、梅雨の残滓を伝えていた。
思わず、その光景に意識を奪われた。数週間ぶりに見た太陽と、空と、虹。それは、本当に居間まで自分が見てきたものと同一なのかと疑わしいほどに綺麗で――
「調子はどうかしら?」
「きゃっ!?」
意識を飛ばしていた隙間に、聞きなれた声が滑り込んだ。咲夜が慌てて振り向くと、
「お、お嬢様!?」
「なかなか起きないから心配したのよ。おかげでもう一日、休日を大盤振る舞いしたわ」
「も、申し訳ありませんすぐに――」
「いいのよ。それよりも」
レミリアは楽しそうに窓から空を見ると、
「せっかく晴れたんだし、一緒に散歩でもしましょう。日光は嫌いだけど、雨よりは好きだから」
くるりと、握っていた日傘を肩に乗せた。
「虹を歩いて、太陽の尻尾を捕まえてみない?」
「あ……」
まるで、太陽のような笑み。彼女は吸血鬼だと言うのに、これ以上なく似つかわしい、威厳を脱ぎ去った穏やかな表情。
それだけで、咲夜はサボりも何もかもどうでも良くなってしまい、
「――はい」
満面に微笑み返し、承諾した。
「それじゃあ決まりね。とりあえず着替えて――そうね、メイド服じゃ味気ないから、アレを着てちょうだい」
「……アレ、と申しますと?」
「貴方が初めてここに来たときの服よ。あの白いワンピース。時間を戻して直して、ちゃんと持ってること、知ってるのよ?」
その言葉に、咲夜の鼓動が強く跳ねた。
あの服は、ここで従者をやることに決めてから一度も袖を通していない。気に入らないわけではない。身体に合わないからでもない。
一人だった過去を思い出すから、着れない。
「……まったく、抜けてるわね」
身を硬くした咲夜を見かね、レミリアは溜息混じりに硬くなったその表情を覗き込むと、
「――貴方はもう独りではない。そうでしょ?」
そっと、咲夜の頬に触れた。
「止まない雨はない。貴方には、充分すぎるくらいに、共に歩むものがいる。従者が主と自らの使役するものを忘れるなんて駄目じゃない?」
こち、と一際強く、手の中の懐中時計が秒を刻んだ気がする。
咲夜が視線を移すと、変わらぬ姿の時計がいた。きらりと、純銀の輝きが月と十字を浮かべている。
「ね?」
にこやかな笑みで覗き込まれ、咲夜は肩の力を緩めた。鬱いでいた気を整理して追い出すように深呼吸すると、
「……失礼いたしました。喜んで」
改めて、笑顔で快諾した。
久しぶりに、心の芯から笑えたように思えた。
ひらり、と薄手の白い服を翻らせながら、咲夜はふと、姿見を覗いた。
鮮やかな銀色の髪。
腰で揺れる月と十字の銀時計。
そして変わらぬ瀟洒な笑み。
ただ、今は。
そこに暖かい何か素敵なものが混じっている。
そう、思えた。
§
「……ところで」
「あら、何か聞きたいことでも?」
日傘を持ち、レミリアの傍らに立ちながら、咲夜は疑問を口にした。
「この時計って、何なんでしょうか」
彼女が視線を向けた先には、小さな銀時計が鎖で結ばれ、揺れている。
「それはね――先代を滅ぼした魔狩人が持ってたものなのよ。意志の力により時間と空間を従える、究極の道具」
さらりと天気の話でもするかのようなレミリアの言葉に、咲夜はかすかに息を呑んだ。
「……そんな物騒なものがどうして」
「私が仇討ちしたからよ。所詮、時空も運命には敵わなかった。――今、貴方が私のそばにいるように」
「……そのようですわね」
咲夜は微笑すると、そっと時計を手に乗せた。
ちゃらりと鎖が揺れて、光を反射する。
月と十字の意匠は、太陽の下においても美しい。
「ですが、同じ能力を持つ私が持っていても意味がないのでは?」
「そんなことはないわよ」
レミリアは何かを思い出すような素振りを見せ、
「パチュリーが前に話してくれたことだけど。近しい力や作用を持つ魔導具は互いに共振して、より強力な力を引き出すらしいわ。それは魔法使いにも言えることで、そのために個人個人に合わせた魔導具がよく作られてきたそうよ。制御は難しいらしいけど」
「……つまり、私の力が強くなると?」
「そうね。その時計も一緒に使えば、たぶん世界中の時間と空間を際限なく弄れると思うわよ」
突然スケールが大きくなり、咲夜は転びそうになった。それでは文字通り創造神ではないか。
「……使い道がありませんわね」
「欲がないわねぇ。世界の支配者とかどう?」
冗談めかすレミリアに、咲夜は微笑んだ。
「お嬢様がいらっしゃるなら、すでに願いは叶っていますから」
「素晴らしい従者ね」
「光栄ですわ」
互いに笑顔を向け合うと、
「ま、とりあえずは館の拡張にでも使ってもらおうかしらね。固定化すればあとはほっといてもいいんでしょう」
「え、あ、はい。大丈夫ですけど……何故?」
「侵入者とか対策よ。ほら、あれだけ大きい屋敷に住んでたら狙われるじゃない。新しく荒事担当のメイドも雇い入れたいし、ちょうどいいわ」
くすくすと笑うレミリアに、咲夜は戸惑ったように動きを止め、やがて納得したように、悪魔の狗に相応しい瀟洒な微笑を返した。
あの主の表情は、何か素敵で派手なことを思いついたに決まっている。
「今年の夏は暑くなりそうよね」
「はい。……倫敦の霧が懐かしくなりますわ」
二人は青空を見上げ――
「じゃあ、霧でも出してみようかしら?」
――To be continued...?