「パチュリーさまー。最近雨ばかりで洗濯物が乾かなくて困っているのですよー」
「じゃあ少し晴らせておくわー」
☆ ☆
ここ最近の幻想郷は晴天に恵まれており、驚くほど上手く洗濯物が乾いていた。普段洗濯なんてしねえやつらまでがこぞって物干し竿をぶら下げたくらいだから、その晴天具合は想像に難くない。
ただ、この晴天も一週二週と続き、三週が終り四週になろうとした辺りでチルノが蒸発し、これは失踪による蒸発かそれとも蒸発による蒸発かなどと大真面目な議論が取沙汰されてようやく、天候の不自然を指摘する者が出始めたのである。
まあ、洗濯物がよく乾くくらいだから、飲み水だって上手い具合に蒸発していくわけで。最初は優雅に茶なぞ啜って静観していた博麗霊夢も、茶葉が底を突き、水瓶が底を突き、驚くことに井戸水までもが底を突き、挙句の果てに食い物が干物しかなくなったとあっては、この異変を調査すべく乗り出す以外の選択肢は存在しない。
ただ、それにはひとつ問題があって。
「ぐあー」
狂ったような空の昼時。霊夢はもう駄目だった。
腹が減り水分が失せ、たかが神社の青畳に寝転がるくらいが今現在は彼女の限界である。
「みーずー……」
転がりながら両手で辺り一帯をまさぐるが、悲しいかな、彼女の手に届く範囲に存在した食料といえば干しシイタケくらいのものである。一ヶ月ほど前に魔理沙が置いてった。そのときはシイタケだった。
「……」
霊夢はふと考える。このまま日照りが続いた場合、この干しシイタケはまさしく自らの行く末を暗示するものになるのではないか。
そういえば現在の霊夢は平常時の博麗霊夢よりも、むしろ干しシイタケに近い存在である気がする。低水分、それに伴うシワ、活動力無し。どうだ、まるきり似通っているではないか。それに対して干し霊夢と霊夢の共通点なんて背格好くらいのものである。
「ああ私ってむしろ干しシイタケだったんだあ」
と言い放ちたい所を霊夢はぐっとこらえた。
ぶるぶると頭を振り、拳をだんと畳みに叩きつける。
駄目だ、駄目だ、こんな思考に支配されているようじゃ本当に干からびてミイラになってしまう。この狂ったような晴天がいつまで続くのかは知らないが、今すぐにでもお天道様を怒鳴りつけてだまらせにゃあいかんのは明白だ。雨水を確保し、同時に生命を維持する。今現在の博麗霊夢が成すべきことは明らかなくらいに明白なのだ。
「よぉ……し……」
いざ、霊夢は己の全生命力をかけて立ち上がる。もちろん片手には、己と命運を共にするだろう干しシイタケを握って。
「……」
この干しシイタケが、博麗神社最後の食料だ。逆に言えば、この干しシイタケが残っていなければ、霊夢はこれからの大事を成すために空腹を満たすことが出来なかったであろう。
魔理沙。一ヶ月前にあのモノクロ魔女が気まぐれで置いていったシイタケはこんなにも立派な大役を果たす干しシイタケに化けたのである。いや、魔理沙のことだ、もしかしたら一ヶ月前、既にこの事態を見越していたのかもしれない。
そういえば彼女は、このシイタケを渡す際に何事か言っていたような気がする。きっとあれが彼女なりに自分を気遣った言葉だったのだ。悲しいかな、自分はそれに気づいてやれることが出来なかった。なんだ、魔理沙はあの時、シイタケをこちらへ放り投げながらなんと言っていた。思い出せ、思い出すのだ。
そう――
『おう霊夢。シイタケをマツタケにしようと思って魔法かけたら失敗しちまったぜ。魔力漬けで、もう食えないからおまえにやるよ』
あー。
☆ ☆
パチュリーは思うのだが、どうも長いこと知識人をやっていると、必要な知識を覚える技術よりも、無駄な知識を忘れる秘術のほうが遥かに重要であると感ずることがある。
というのも、人間だろうが妖怪だろうが生物一匹が脳内に蓄積できる情報量といやあ極々微々たる物であり、才能以外の手段で他人より多くのことを覚えようと思ったら、無駄な容量、無駄な知識を削除していくのが一番手っ取り早いだろう。
最近はそんな考えに従って、些細なことから忘れていくよう努力しているパチュリーであるが、紅魔館にて共同生活をしている十六夜咲夜及び配下のメイド、加えて小悪魔らへんはそう思っていないらしく、
『ねえねえパチュリーさまお昼ご飯のメニュー覚えていないわよ大丈夫かしら』
『さっき訪ねてきた妖怪の名前もすぐに忘れてしまったみたい、ええほんとうに』
『魔女も百年も生きていれば古くなってくるのねえ。そういえば夜中に館を徘徊していたような気もするわ』
『うわー本当に大丈夫かしらパチュリーさま』
という評判である。
さて、地下魔法図書館。
パチュリー・ノーレッジはふと何かを忘れている気がして考え込んだのだが、それは全く馬鹿馬鹿しいほど無意味な行為であった。というのも、考え込んだ数瞬後には、信じられない脚力で蹴られた図書館の扉が、絶望的な音を立てて吹き飛んだからである。
「パチュリーはいるわね」
理知外の演出を経て顔を出したのは博麗霊夢その人であり、やたら痩せ細っている。これは干し霊夢だろうか。しかしそれ以上に、彼女から放たれる殺気に対しうすら寒さを覚えるのだ。
「な、なにかしら」
パチュリーが毅然とした態度で言葉を返そうとした次の瞬間、既に霊夢は背後に立っていた。
「なっ」
驚く暇もなくぎりりと肩を掴まれる。
「ねえパチュリー。ここに一本の干しシイタケがあるの。一ヶ月前はシイタケだった干しシイタケよ。どう、可哀想だと思わないかしら」
意味不明だ。全く持って意味不明だ。なんだ、一体どうしたんだ幻想郷の調停者は、人間のくせして魔女を煮て焼いて食うつもりなのか。そこまで巫女は雑食になってしまったのか。
パチュリーが動転している間にも、霊夢の弁論は切ないほどに垂れ流されていく。
「でね、パチュリー。私が思うに、この干しシイタケは一ヶ月前の姿に戻りたがっているの。どうかしら、ここは一発、あなたの魔法で雨でも降らせてあげたらどうかしら。そう、この干しシイタケのために。シイタケのために!」
訳の分からない勢いでがくがくと肩を揺らされ、もはやパチュリーはダウン寸前である。
「わ、か、った、から。わかった、から。あ、雨を降らせればいいのね。降らせるわ、降らせるから振るのをやめて。肩を」
手を離す霊夢。ようやく開放されたパチュリーはぜいと息をついた。
「はー……」
雨と言ったか。
そういえば、年がら年中地下図書館に引き篭もっているパチュリーは、外の天気を気にしたことがあまりない。ついでに言うと時間の感覚はもっとない。まあ、んなこたあ果てしなくどうでもいい事柄ではある。
果たしてそんなことを考えながら、彼女は降雨の魔法を唱えるのであった。
「よし! これでもう、飲み水に困ることはないわねシイタケが。やっぱりキノコに一番適した天気って言えば雨だもの!」
しかし、なんて馬鹿らしい事にタダでもない貴重な魔力を使ってしまったのか。
ああ全く全く馬鹿らしい。
だからパチュリーは思うわけで。こんな馬鹿らしくつまらないことは、さっさと忘れて削除してしまうに越したことはないのだと。
☆ ☆
シイタケはマツタケにならない。
よくよく考えればトンビがタカを生む確率だって絶望的な数値であるし、カエルの子がオタマジャクシなのだって清々しいほど当然なのだ。
ただ、霧雨魔理沙は挫けないわけであって。
彼女はシイタケをマツタケにしようと本気で奮闘しているし、一度この研究を始めてしまったからには、納得いくまでは止められるはずもない。研究を始めた理由なんて今となってはどうでもいいことで、単にマツタケを腹いっぱい食ってみたかっただけである。それで十分なのだ。
だから魔理沙はシイタケをマツタケにしようと魔法をかけ続けるし、その行為は彼女にとっちゃあ全く持って道理の極みなのである。
雨の降りしきる昼時。霧雨魔法店の薄暗い店内で椅子に座った魔理沙は、小さくため息をついた。
「いつまで降るんだ、この雨は」
ここ数週か。天蓋がぶっ壊れたんじゃないかと思うくらいの大雨が休みなく降っている。
一ヶ月間の狂ったような晴朗の後、この狂ったような降雨の嵐。一体全体幻想郷の天気予報はどうなっているのだろうか。
「……うーむ」
今の魔理沙にとって一番の心配事といえばシイタケの栽培である。もちろん、マツタケ実験のための、だ。
晴れは良い。キノコは薄暗い場所で育てれば問題ないし、水は紅魔館の周囲にある湖から持ってくりゃあ良いからだ。そのまま飲み水にだって流用できるから、何も困ることはない。干からびるのは日がな一日畳の上でぐうたらしてる巫女さんくらいのものである。
ただ、雨。それも豪雨。これはまずい。
霧雨魔法店は多少ボロい。もう少し詳しく述べてみると、屋根にはところどころ雨漏りがある。
いや、すまなかった、嘘だ。そこらじゅうに雨漏りがある。シイタケ部屋にも雨漏りがある。
いくらキノコはじめじめ好きといっても限度が存在するわけで、それを超えたらぶっちゃけ腐る。だから困る。
事実、過剰な長雨のせいか、多くのシイタケは成長を待たず腐ってしまった。
「うーん」
頬杖を突く魔理沙。
まさかここまでシイタケの栽培に難儀するとは思わなかった。
雨。雨が降っていると箒で空を飛ぶこともままならない。弾幕だって張りづらい。全く良いことなしである。
雨は駄目だ。なんとかせねば。
そうしてひとつ思考を回した魔理沙。まあ、幻想郷で五行術に長けているヤツなんか大体決まっているもので。弾き出す答えもまた択一。
「あー……」
パチュリーならなんとかできるかなあ。
☆ ☆
紅魔館。地下図書館。
どうも最近、自分に関する変なうわさが加速しているなあとパチュリーは思う。
曰く、
『ええ、パチュリーさまったら、お昼ごはんはまだかしら、って何回も聞くんですよ。食べたはずなのに。なまじ頭の良い方ですから、私のほうが間違っているのかと思ってしまいます』、とか。
曰く、
『ぱ、パチュリーさま、私の名前、いつまでたっても覚えてくれないんです……ぐすっ、いくら私が新米だからって……ひどいです……』、とか。
曰く、
『パチュリーさま、私の名前、いつまでたっても覚えてくれないんです……。というか咲夜さんも覚えてくれませんし。むしろ誰も覚えてくれませんね。なんか言っててあんまり悲しくない自分が悔しいです』、とか。
まあ仕方ないではないか、とパチュリーは思う。この世全ての知識を蓄えようと思ったら、無駄な情報に使う脳内メモリなど一片も存在しないのだ。朝ごはんが何だったかとか、もう会わないだろうメイドの名前だとか、優先順位の低い知識はついついないがしろにしてしまうわけであるし、反省する気もさらさら無い。
さて地下図書館。
ふとパチュリーは何かを忘れている気がして考え込んだのだが、やはりそれは全く持って図々しいほど無意味な行為であり、というのも、考え込んだ次の刹那には、圧倒的な暴力に屈した図書館の扉が猛々しい音を立てて崩れ去ったからである。
「よお、パチュリーはいるな」
派手な道程を経て現れたのは魔理沙の顔であり、どうにも既視感溢れる光景なのだが、あまり良く思い出せない。多分当時はどうでもいいことだからといって忘れてしまったのだろう。
「……何かしら」
と応答した次の瞬間には魔理沙の顔がすぐ目の前にあった。
「っ」
近い近いと突っ込む間もなく、魔理沙はパチュリーの両肩に手を置いて、ずずいと顔を近づけてくるのだ。
「本当に突然ですまないんだが、パチュリー。ここに腐ったシイタケがある。どうだ、可哀想だとは思わないか」
言葉の通り、腐ったシイタケを突き出し突きつけてくる魔理沙。ますます顔も近づいてくるわけで、腐りシイタケと魔理沙顔に挟まれたパチュリーは訳の分からない有象無象の雑念に駆られる。
「キノコを近づけないで……」
「よーしわかった、もっと近づけてやろう」
「いーやぁー」
「どうだ身に染みたろう。腐っている。悲しいほどに腐っているんだこのシイタケは。それもこれも全てはこの長雨のせいだぜ。分かるな」
知らん。分かるわけがない。なんせパチュリーはここ数ヶ月の間地下図書館から出た覚えは無く、従って外の天気などまるで無関係なのである。
「このシイタケだってあと少しでマツタケになるとこだったんだきっと! 嗅いでみろ、香りを! シイタケとマツタケの中間くらいだぜ多分!」
腐っている。
「というわけでパチュリー、この意味の分からん雨を止めて天気を変えてくれないか」
「別にキノコのために天気まで変えなくてもいいと思うけど……」
「馬鹿だなパチュリーは。食糧不足になって最後に残っていたシイタケが食えなかったりしたら困るだろう」
「そんな巫女いないわよ……」
「というわけでだな」
ようやく魔理沙は顔を遠ざけ、腐ったシイタケを後ろに放り投げながら言った。
「曇りだ。曇りがいい。晴れは水汲みが面倒くさくなるし、雨はシイタケが腐っちまう。しかし曇りは適度な湿度に室温で、シイタケ栽培には最高だぜ。おそらく」
魔女の勘は巫女ほど正確でないが、カラスの天気予報欄よりもあてになる。
まあ、もはやパチュリーにとって外の天気なんて全くこれっぽっち一片ほどの価値もないわけで、この理不尽な状況が打破されるならそれ以外はどうでもいいのだ。
「あーはいはい……曇りにするからとっとと出て行って頂戴ね……」
「おう、珍しく話が分かるなパチュリー。当然ついでに本も貰っていくわけなんだが、それだけじゃあ申し訳ない気がしてきたぜ」
どうでもいいから本だけは置いてけというのに、魔理沙はお礼までくれてありがたいことである。
「よっしゃ、今私が研究中の『シイタケとみせかけてマツタケダケ』の菌を図書館中においてくからな。上手く育ったら食ってもいいぜ」
「やーめーてー……」
パチュリーのうめきむなしく由緒正しい霧雨製菌類は置いていかれるわけである。
「あーもう、最近無駄なことばかりな気がするわ、……良く覚えてないけど」
それはやはりどうして、まだまだ無駄が多いのだ。すべからく無駄は排除すべしというわけで、要は削除してしまうに越したことはないのだと。
「しかしお前の図書館はキノコの育ちがよさそうだなー……」
去り際魔理沙の呟いた一言だって、三歩も歩けば忘れてしまうに違いない。
☆ ☆
疲れる。
それもこれも全部ここ最近の狂った天候にあるのだ、と鈴仙は思う。
おさらいしてみよう。一ヶ月近く続いた干ばつの後に数週間の豪雨。と思ったら今度はずーっと曇りっぱなし。
いや、まあ干ばつや豪雨自体は別にいいのだ。鈴仙だってこう見えてそれなりに長生きであるからして、多少の天候不順は経験したことがある。
ただ、面倒くさいのは彼女の主人達であって。
その、なんだ。人よりはるかに長いスパンを生きている蓬莱人にとって、うん十年に一度の天候災害は四季に等しく、まるでリゾート気分。
例えば、先の干ばつの際はこうであった。
『みてみて永琳この狂ったような旱魃! すごいわねえ。三日くらい縁側にたっていたら肌が真っ黒に焼けて脱水症状と日射病を併発するもの!』
『ほら姫様、皮がべりべりむけますよ三味線でも作りましょうか。あっははは』
豪雨の際はこうだった。
『みてみて永琳! この壊れたように叩きつける雨! 氾濫した川を泳いだらこんなに簡単に溺れられるのよ! ライフセーバーなんて必要ないわね! 死亡率百パーセントだから!』
『いやいや姫様、溺れながら喋ってもごぼごぼいうだけで何言ってるかサッパリです。あっはは』
もうみてらんない。
普段退屈な分、たまの災害に浮かれるのだろうか。蓬莱人の自然への接し方はハードでついていけない。
んで、曇りになって落ち着いたと思ったのだ。曇りが続いたって何の被害もないわけであるから。
それが間違いだった。
「永琳―。つまらないー」
「そうですねえ」
大災害の興奮冷めやらぬ蓬莱人たちはいつにも増して退屈に敏感になるようで。
「また日照りが一ヶ月くらい続いて大旱魃になったり、泉が干上がって魚介類がのた打ち回ったりしないのかしら。ずっと曇りじゃなんの変化もなくて面白みがないわ」
「そうですねえ。じゃあうどんげ。手段は何でもいいから晴れにしなさい。頼んだわ」
そう、この天候不順の被害が鈴仙に及んだ瞬間である。
「何で私が……」
ぶちぶちと愚痴をこぼしながら永遠亭を出発する鈴仙の行く先は明白である。
天候を操るヤツなんて幻想郷中探してもそうは存在せぬわけで、まあ鈴仙の知り合いにいるとすれば紅魔館の魔女くらいのものであるのだ。
☆ ☆
もはやパチュリーの乱心は公然の秘密である。
『うわっ! キノコ!』
図書館へ入ろうとしたメイドが叫んだのはついこの間のことだったらしい。
彼女の証言はこうだ。
『図書館の扉を開けたらそこはキノコ園でした』
パチュリーはキノコに埋もれていたとか。
『なんでキノコが生えてきたのか分からない、ってパチュリー様言うんですよ。あんな量が自然に生えるわけないじゃないですか。本当にもうヤバいんじゃないかと思います。キノコは美味しかったです。今日お前が食った夕食もそれだよ!』
暴言を吐いたメイドは、まもなく自らすみやかに辞表を提出、これを受理されたのだが、メイド間の噂に戸を立てることは出来なかった。
『本格的にパチュリー様がおかしいらしいわね』
『でもパチュリー様はいままで紅魔館の頭脳労働を一手に引き受けてきたんだもの。これからは私たちがパチュリー様を補助してあげなくちゃ!』
何故だかわからないが上がっていくメイドたちの士気ばかりが不気味である。
さて紅魔館地下図書館。
パチュリーはどうもなにか忘れている気がして思考を巡らせたのだがそれはやはり大方が無意味な行動であって、というのも何らかの答えに思い至る寸前、小悪魔から声をかけられたからである。
「パチュリー様、お客様のようですよ」
どうも最近小悪魔及びメイドたちは自分を丁重に扱いすぎる。まあなんでもいいのだけれど。
「すみませぇん……。ちょっと頼みたいことがあって訪ねたのですが」
図書館の扉から顔を半分覗かせたのは鈴仙・優曇華院・イナバその人。
パチュリーはほっとした。とりあえずこいつは幻想郷住人の中では傍若無人度が低いから。
「何かしら。永遠亭とはそんなに親しいつもりはないのだけれど」
鈴仙はへこへことこちらへ歩いてき、言う。
「ええ、それが、ちょっと師匠から言いつけられてですね。この曇り天気を快晴にしてやりたいのですが、それでパチュリーさんの力をお借りしたくて」
そうか、今の天気は曇りだったのか。
と、鈴仙のほうへ向き直ったパチュリーはぐらりときた。
「お願いできますか?」
どうも宇宙兎の赤目で見つめられると視界がぐらぐらする。
「お願いしますよお」
知ってか知らずか幻視を発動させてやがる。
いや多分知ってる。
やばいあたまぐるぐるまわってはきそう。
「……分かったから。晴らせておくからさっさと帰りなさい……うげ」
「わー、ありがとうございます」
約束取り付けた兎はとっとと帰って行った。
「あー……気分悪いわ」
なんだったか。天気を晴らすのだったか。
ああもう良くわかんないけどロイヤルフレアでいいだろうと。
☆ ☆
紅魔館から白熱のロイヤルフレアがうちあがったのを見て頭にきたのは霊夢である。
「なんなのあいつ。雨にしろっていったじゃない。曇りくらいなら大方が雨に近いからいいけれど、あんなパーティ全員に大ダメージみたいな魔法を打ち上げるなんて非常識も大概だわ」
言ったそばから地を蹴って、巫女に近い速度で駆けつけるのが霊夢の博麗たる所以である。
☆ ☆
ヴワル魔法図書館に掃除は必要ない、とパチュリーは思っている。
ひとつの理由はその理知外な敷地面積にあり、またひとつの理由は蔵書の管理難度にあるのだが、ただまあしかし、それらは全くもって小さな理由であり、片付けようと思えば大体を片付けることが出来る。そもそも小悪魔は掃除好きだ。
なんで必要ないか。
「パチュリーさまー。どうでしょう。見える範囲は片付けてみたのですが――」
図書館の扉が吹き飛んだ。
あまりの暴力に耐え切れず、留め金すら無力化したそれは豪快な音を立てて床を滑り、ど派手なエフェクトと共に、先ほどから小悪魔が整理整頓していた本棚をぶち倒した。
「――やっぱり無駄だったようですねえ」
「……だから必要ないっていってるじゃない」
掃除したそばから荒れていく。
その度にパチュリーは自分の人気に辟易するのである。
「パチュリーはいるわね!」
扉を破壊した張本人が博麗霊夢であるのは全く予想範囲内の出来事であり、むしろ、普段から堅牢さには気を使っている図書館の扉を吹き飛ばせる輩はそれなりに少ないのだ。
「なにかしら。貴女はもう少しマナーというも」
パチュリーの毅然とした対応は大人としては立派なものであったが、幻想郷的にはのろまでしかなかった。
「うるさい」
巫女にとって、瞬き程度の時間で相手の懐に飛び込み極道も真っ青の形相で肩を掴みすみやかに脅しへ移行するのは比較的初歩の攻撃である。
「あんたね! 雨を降らせなさい、ってあれほどいったでしょう! 別にたまに晴れるくらいなら私も文句なんて言わないわよ! でもロイヤルフレアは極端すぎでしょう! 色々干からびたらどうしてくれるのよ色々!」
がくがくと肩を揺らされるパチュリーは、うーあーとしか返事を返せない。
「雨! 雨! 雨ね! 雨よ! 聞こえてる?」
「やーめーてー……」
あるだけの巫女力で肩を揺らされるパチュリーはもはや即席二日酔いコース直行であり、小悪魔は思わずTKOを取ろうとして弾幕勝負にジャッジが存在しないルール不備を呪った。
やばい、と小悪魔は思うのだ。
パチュリーさまと霊夢の間に何があったかは知らないが、自分の主、ノーレッジ女史が危機なのはびっくりするほど明白だ。
加えて、最近メイドたちから口をすっぱくして言われていることがある。
『パチュリー様はそろそろ老後の幸せ探しを始めるべきだわ』
『そう、魔女は国民でないから年金が出ないのよ。紅魔館はもっと社会保障関連を整備すべきね』
『小悪魔、貴女は一番パチュリー様のそばにいるのだから、パチュリー様が大変なとき、変なとき、必ず力になってあげないといけないのよ』
うんうん、いい話だ。と、メイドたちは涙を流して語っていた。
そのときが今なのだ。
小悪魔は目を瞑った。
大きく息を吸った。
道端で変質者に出くわした女子高生のような主人の悲鳴が聞こえてきた。
それで決心した。
くあっ、と気合つきでパチュリーの肩を掴む霊夢の手を切って間に飛び込み、口裂け女の撃退法ってなんだったっけよく覚えてないやリンスリンスと呟きながら叫ぶのである。
「ぱ、パチュリーさまをいじめないでっ!」
しん、と静まる図書館内。
あれ、べっこうあめだったっけ。
小悪魔はおそるおそる霊夢を見上げた。
「……あんたも一緒に祝ってあげようか?」
こえぇぇ。
サイレントセレナのお化けみたいな降雨の術式は紅魔館の外からでもよく観察することが出来たという。
☆ ☆
一方が裕福になりゃあ片方が困窮するってのは悲しいほどに世の中の常であり、幻想郷だってそのことわりの範囲内である。
まあ、どちらかといえば精神的な裕福さを選択する輩の多い土地柄であるからして、生活に大打撃の来る貧困ってのは少ないわけではあるが。
魔理沙だってこんなときでなければそれほど貧困には敏感でなかったわけなのだがしかし。
「おい、また晴れになったと思ったら今度は台風みたいな雨ばっかりだぜ。つーかサイレントなんとかだろあれ。パチュリーのヤツ、どうも私にじゃれたくって仕方が無いみたいだな」
さて猫度一番が高いのはどいつなのかと。
☆ ☆
突発的なサイレントセレナは紅魔館を水浸しにした。
図書館から洪水のように吹き出る水を最初に見たメイドは次のように叫んだとか
『パチュリー様! トイレはあちらです!』
それに合わせて紅魔館ではパチュリーの老後に関する有識者会議が開かれ、一連の事件を公的に対処しようとする方針が明確となった。
『吸血鬼の館で流水を発生させるなんて、さすがにおかしいとしか言えません。これからパチュリー様は図書館の名誉会長に籍を置いてもらい、実務を全て小悪魔に任せてはどうでしょう』
『パチュリー様は老後施設に?』
とまあ大体の趣旨がこんな感じであり、実行に移すのもそう遠くないと思われる。
そんな中、小悪魔は霊夢に荒らされ加えて水びたしとなった図書館を掃除していた。この子の甲斐甲斐しさには頭が下がるばかりである。
「小悪魔。というか貴女、そうやって無駄な経験や知識ばかり溜め込むから成長が遅いのよ。無駄なものは忘れてしまうのが一番いいのよ」
「そんなことありません! どんな些細な知識だって絶対に役に立つときがありますよ! それに私はパチュリーさまの老……なんでもないんですがっ!」
「はあ?」
「とにかくパチュリーさまの身の回りを綺麗にですね! これでどうでしょう」
そこで扉の向こう側から気が遠くなるほどのエネルギー量を有したレーザーが放たれるのはもはや約束の事項であり、堅牢という二文字熟語が眉唾だと思えるくらい気軽に図書館の扉は吹き飛ぶのである。
「やっぱり掃除はしない方がいいわ。無駄な行為の繰り返しは精神的にきついもの」
「……ですねえ」
焼け焦げた図書館の扉跡へ顔を出したのはどう見ても魔理沙であり、いつものように浮かべる軽快な笑顔が今日ばかりは恐ろしい。
「ようパチュリー。今日のお前の猫度は九十点だぜ。ベクトル表示でな!」
ああもう駄目だ全然意味が分からない、今日の魔理沙はやる満々気だ。
「何か用……」
どうも主人公キャラってのは瞬間移動が標準装備であるようで、呟いた次の刹那には本棚二つ分くらいは移動している。
「いやあ、別にな。お前が雨を降らせたのを責めようってわけじゃないんだ。私は霊夢ほど短気じゃないし、アリスほど捻くれてもいないからな」
じゃあ何をしにきたのよ、とパチュリーが問う暇も無く魔理沙は続ける。
「今日はな、お前と遊びに来たんだ。知ってたか? 私は昔から早口言葉が得意でなあ。特に雨の降った日は無性に誰かに聞かせたくなるんだよ。聞いてくれるか」
「い、言ってみなさい……」
「マスタースパークマスタースパークマスタースパークマスタースパークマスタースパークマス」
「いやあああぁぁ」
一言ごとにどかんどかんと繰り出される光線は図書館の屋台骨を大いに揺らし、散らかるというかむしろ崩壊とか壊滅とかいった言葉を記すべき惨状である。
「あー? まだ雨かー? いやー今日は口のすべりもいいぜー」
「わ、わかったから、口を止めてー」
パチュリーがいじめられている。
助けられるのは自分しかいない。
それを一瞬で感じ取ったのはもちろん小悪魔であった。
先の対博麗霊夢戦ではあまりに手馴れたたメンチ切りに心底ビビってしまった小悪魔だが、今日はそうもいかない。
相手だって魔理沙だ。傍若無人が物乞いをして飛び回っているような巫女に比べれば遥かにマシな相手である。
「魔理沙さん! パチュリーさまに頼み事をするなら私を倒してからにしてください!」
「なまむぎなまごめミルキーウェイ」
派手に吹っ飛び黒こげになった小悪魔はしかし冷静に考える。
うんだから弾幕勝負でとめるのはいくらなんでも無茶なのだ。魔理沙の巫女より優れている部分はある程度のコミュニケーション能力であって、決して小悪魔を下回る弾幕能力ではない。つまり小悪魔がこの事態を冷静に対処したいのなら、今現在のパチュリー・ノーレッジが万全の状態でないことを伝えればいいわけで、魔理沙だって巫女ではないから、そのあたりは一般常識を考慮しておとなしく帰ってくれるかもしれない。
うんそのラインでいこう。
「魔理沙さん、パチュリーさまは顔色が優れなくてですね」
「坊主が屏風に上手にブレイジングスター」
メルヘン坊主を頭に思い描きながら吹き飛んだ小悪魔はやはり冷静に立ち返る。
そもそも常時のパチュリーからして顔色悪いんだから今更体調がどうのこうのといってみたところで誰も気にしないのは至極簡単な方程式だったのだ。うん。これはミスだった。
それじゃあ次に小悪魔がすべきことは明確で、
……明確で。
……えー。
「……どうしましょう」
魔理沙は、そろそろ飽きてきたな、などといいながら語彙力は尽きていないようである。
パチュリーの方はといえば、めんたまぐるぐるのむきゅー状態で、もう色々期待するのは無理だろう。
「……」
悪魔は口先から生まれてくる。
謀り語って強請って詐欺り、騙して奪って得して納む。その口説き文句こそが悪魔の魔法であり真髄。口先こそが爪以上に手入れをしておくべき武器である。たとえそれが小悪魔だとしても本質は常に変わらず眼前に横たわるのだ。
考えろ小悪魔。
自分はパチュリーほど頭の回る生き物でないが、下積みの量は誰にも負けたことが無い。
特にこのヴワル魔法図書館に関する日々の記憶ならば、どんなに小さなことでも心に留めておこうと努力してきたはずだ。
今日、魔理沙がこうして図書館へやってきて難癖つけている理由もその記憶の枠内であるはずだし、解決方法もきっと出てくるに違いない。
小悪魔はおさらいする。
そもそもの原因は天候不順にあったはず。
諸々の展開は置いておくとして、魔理沙は雨が降ったら困るらしい。キノコが腐ってしまうから。
ここを何とかしてやらんといけないわけである。
天候とキノコを切り離してやればいいわけだ。
「うん」
ああ、やはりそうじゃないか。
経験というものは重要で、どんな些細な事だって何らかの役に立つ可能性があるということが証明されたといえる。
キノコなんて家庭料理での使用方法程度しか知らない小悪魔であるが、どこで一番よく育つかは経験した後、記憶しているハズだ。
そこまで考えきった小悪魔は凛とした顔を前へ向け、魔理沙に向かって言葉を紡ぐのだった。
「魔理沙さん、天候なんか変えなくったって、キノコが育つ場所はありますよ」
「あ?」
いまいち小悪魔の台詞を理解しきれない魔理沙とパチュリーは同時に彼女の顔を見る。
小悪魔はそんな二人に悪魔の笑みで返すのだ
「この図書館、以前、魔理沙さんがなんとかキノコの菌を植え付けて言った後、元気に育ちすぎてしまって大変だったんですよ。だから、ここのじめじめはきっとキノコ栽培に向いているんです」
「あー……、菌植え付けて帰ったとか。あったなそんなこと」
「ですから、キノコ栽培に図書館の一部をお貸しします。それなら外が雨でも関係ありません」
それならそれでいーぜー、と適当な返事を返す魔理沙を横に、パチュリーだけが不思議そうな顔をしているわけである。
「……そんなことあったかしら」
「だからいったでしょう、パチュリーさま。些細なことだって役に立つんです」
「ふーん……」
むーんと考え込むパチュリーをよそに小悪魔と魔理沙の契約はどんどんと進み、万事一件落着の形で合意するに相成った。
「じゃあなーパチュリー。これから世話になるぜ。キノコがなー」
騒がしいのが去った後、残るのは二人ばかりなわけであり。
先ほどから考え込んでいたパチュリーが顔を上げるのもまた二人ぼっちになったときである。
「ねえ小悪魔」
「はい」
「私の今日の昼ごはんはなんだったかしら」
「胃の調子が良くないと申されましたので、ばなな一本にりんごを三切れ添えました。飲み物はオレンジジュースを一杯」
「朝は」
「真っ赤で渋い紅茶にビスケットです。お菓子を朝食べるのはいけないと言いましたのに」
「昨日の夜は」
「いらないといって就寝されました」
「門番の名前は」
「紅美鈴さんですよ。忘れたんですか?」
ふーん、ふーん、と頷いたパチュリーは幾ばくか床を見つめた後、含みを持った笑みで小悪魔を見るのだった。
「……貴女、便利ね」
☆ ☆
幻想郷の豪雨が止んだのはその数日後である。
☆ ☆
未曾有の天候不順から幾日かが明け、幻想郷は比較的ノーマルな空模様に戻っていた。
鈴仙は普通や日常といった単語が嫌いでないのだが、残念なことに彼女の主人達はそうでもないらしい。
「ねー永琳―。普通って普通だってこと以外は普通でいいんだけどねー。なんとか普通外の普通ってないのかしらねえ」
「まあ普通じゃない普通も普通に体験していればいずれ普通になるのでしょうね」
理解しづらい会話だが、本人たちもまた道理を通す気は元から無いのだろう。
何はともあれ幻想郷は平和である。
日照りが続いて干ばつになることもないし、台風が押し寄せて大洪水ということも無い。もちろん不自然な曇り空は言うまでも無く。
蓬莱人たちも、もうだいたい落ち着いたみたいだし、鈴仙が日々を縁側の日向ぼっこで過ごせる程度には平穏。これで火の鳥が寝ていてくれれば従者は用無しとまで言えるだろう。
「あー……暇―……」
縁側で呆けている鈴仙に師匠からのお使いが課されたのはそんなときであった。
「うどんげ、ちょっと紅魔館の魔女まで薬を届けていらっしゃい」
薬の内容や効用は患者の重大なプライバシーである故に聞かされなかったが、まあ相手が病弱魔女であるのなら詮索する必要もまた皆無である。
届けるだけの簡単な任務だ。とっとと終わらせてしまおう、といった調子で鈴仙は飛び立つのであった。
☆ ☆
どうも館内の雰囲気が前に来たときと違う。
そう鈴仙が思い始めるのは早かった。
まずメイドたちの噂話が物々しい。
『パチュリー様ったら……で、小悪魔大丈夫かしら。そもそも施設とかの件はどうなったの?』
『ねー……、秀才は怖いわあ……』
『いや違うのよ、あれはむしろ小悪魔がパチュリー様を操っててね。一連の事件は全部小悪魔が』
よくわからないしわかりたくもない。
あ、こちらですよー、と道案内してくれるメイドの笑顔に不信感さえ抱きながら、鈴仙は廊下を進む。
「はい、こちらがパチュリー様の図書館です」
鈴仙は、眼前に佇んでいる、半円の下に長方形を足した形の扉を見上げた。
扉自体は前と変わってない。
ただ、少しひしゃげて焦げ跡がついているだけで使用するに当たって問題はないだろう。
だが何故だろう、その扉が見ため以上の重量感を持って感じるのは。ごごご、と効果音が聞こえてきそうなのは何故なのだろう。
「あ、開けていいですか?」
一応、隣にいたメイドに許しを請ってみるが、メイドの方は、あ、私がいなくなってから開けてくださいね、とやはり笑顔で返すだけだった。
「……」
鈴仙はそっとドアノブにさわろうと ドン! して突然の物音にたじろいた。
「……」
大きな耳で中の様子を伺ってみるが、防音設備がしっかりしているせいだろうか、いまいちよくわからない。
「あー……」
もう一度ドアノブに手をかける。
どちらにしろ開けないことには任務が完了しないのだ。完了しないと師匠にアレコレなのだ。
よく分からない動物の防護本能に従っている場合ではないのだ
よし、ままよ。
ゆっくりと大きく深呼吸をしてからぐっと肩に力をいれた。
ばしんと開かれる扉。
すぐさま喧騒が耳に入ってくる。
「はい小悪魔。二十六ページ三行目の台詞」
「は、『ですから、もし無限の可能性を定義するに当たって数学的帰納法の使用が不可避であるならば、カントに憧れた私は高校の専攻を哲学でなく数学にすべきだったのです』……でしたっけ」
「それは二行目」
とりあえず小悪魔が調教を受けていた。
「おー小悪魔―。またいい感じのキノコが出来たぜ。色艶サイズ種類覚えておいてくれよなー」
「……紙に記録しておけばいいじゃないですか」
図書館の天まで届きそうなキノコの山に埋まって、心底楽しそうにしている魔理沙がいた。
「あ、永遠亭に注文しておいた薬が来たようね。これで小悪魔の脳の容積も二倍になるわ。覚えられる知識も二倍、私が憶えなくて済む無駄知識も二倍二倍ばいばい」
そこで鈴仙は扉を閉めた。
遠ざかる喧騒。
薬をそっと扉の前に置き、紅魔館を後にした。
☆ ☆
「ですから! なんで本の本文を全部覚えなくちゃいけないんですか! 書いてあるんだから重要な所だけでいいじゃないですか!」
「あら、パチュリーさまがおっしゃるのならどんな知識でも覚えて見せます、って言ったのは貴女じゃない」
「おーい、ベニテングダケと見せかけてマツタケダケがなあー」
「それはそうですけどっ! そんな細かすぎることまで覚えてるからパチュリーさまは容量が足りなくなるんですよ!」
「でもこれからは小悪魔が覚えてくれるから楽でいいわー」
「ですからっ!」
「おーい、こっちマツタケだとおもったらベニテングダケだったよ」
「私今年で何歳だったっけー」
「二歳くらいじゃないですかっ!」
とまあ、一連の騒動で得たものといやあ小悪魔の苦労と魔理沙のキノコくらいのものであり、天気を操る輩が変わらず天気と無関係な場所に陣取っているのもまた不可思議なことである。
托鉢にきた巫女がそれらをすべてぶんどり、見境無くキノコを食ったあげく毒にあたって数日間寝込んだ後日談を考えれば、結局は天候を楽しむだけ楽しんだ永遠亭の一人勝ちなのかもしれない。
ああ、こうした物語には出来る限り参加せず、傍観者の立場から罵声を飛ばすに限るのであると。
「あれー小悪魔、今日で引き篭もり何日目だったっけ」
「洗濯物が溜まってて仕方ないくらいです!」
「じゃあちょっと晴らせておくわねー」
いや、まったく。
「じゃあ少し晴らせておくわー」
☆ ☆
ここ最近の幻想郷は晴天に恵まれており、驚くほど上手く洗濯物が乾いていた。普段洗濯なんてしねえやつらまでがこぞって物干し竿をぶら下げたくらいだから、その晴天具合は想像に難くない。
ただ、この晴天も一週二週と続き、三週が終り四週になろうとした辺りでチルノが蒸発し、これは失踪による蒸発かそれとも蒸発による蒸発かなどと大真面目な議論が取沙汰されてようやく、天候の不自然を指摘する者が出始めたのである。
まあ、洗濯物がよく乾くくらいだから、飲み水だって上手い具合に蒸発していくわけで。最初は優雅に茶なぞ啜って静観していた博麗霊夢も、茶葉が底を突き、水瓶が底を突き、驚くことに井戸水までもが底を突き、挙句の果てに食い物が干物しかなくなったとあっては、この異変を調査すべく乗り出す以外の選択肢は存在しない。
ただ、それにはひとつ問題があって。
「ぐあー」
狂ったような空の昼時。霊夢はもう駄目だった。
腹が減り水分が失せ、たかが神社の青畳に寝転がるくらいが今現在は彼女の限界である。
「みーずー……」
転がりながら両手で辺り一帯をまさぐるが、悲しいかな、彼女の手に届く範囲に存在した食料といえば干しシイタケくらいのものである。一ヶ月ほど前に魔理沙が置いてった。そのときはシイタケだった。
「……」
霊夢はふと考える。このまま日照りが続いた場合、この干しシイタケはまさしく自らの行く末を暗示するものになるのではないか。
そういえば現在の霊夢は平常時の博麗霊夢よりも、むしろ干しシイタケに近い存在である気がする。低水分、それに伴うシワ、活動力無し。どうだ、まるきり似通っているではないか。それに対して干し霊夢と霊夢の共通点なんて背格好くらいのものである。
「ああ私ってむしろ干しシイタケだったんだあ」
と言い放ちたい所を霊夢はぐっとこらえた。
ぶるぶると頭を振り、拳をだんと畳みに叩きつける。
駄目だ、駄目だ、こんな思考に支配されているようじゃ本当に干からびてミイラになってしまう。この狂ったような晴天がいつまで続くのかは知らないが、今すぐにでもお天道様を怒鳴りつけてだまらせにゃあいかんのは明白だ。雨水を確保し、同時に生命を維持する。今現在の博麗霊夢が成すべきことは明らかなくらいに明白なのだ。
「よぉ……し……」
いざ、霊夢は己の全生命力をかけて立ち上がる。もちろん片手には、己と命運を共にするだろう干しシイタケを握って。
「……」
この干しシイタケが、博麗神社最後の食料だ。逆に言えば、この干しシイタケが残っていなければ、霊夢はこれからの大事を成すために空腹を満たすことが出来なかったであろう。
魔理沙。一ヶ月前にあのモノクロ魔女が気まぐれで置いていったシイタケはこんなにも立派な大役を果たす干しシイタケに化けたのである。いや、魔理沙のことだ、もしかしたら一ヶ月前、既にこの事態を見越していたのかもしれない。
そういえば彼女は、このシイタケを渡す際に何事か言っていたような気がする。きっとあれが彼女なりに自分を気遣った言葉だったのだ。悲しいかな、自分はそれに気づいてやれることが出来なかった。なんだ、魔理沙はあの時、シイタケをこちらへ放り投げながらなんと言っていた。思い出せ、思い出すのだ。
そう――
『おう霊夢。シイタケをマツタケにしようと思って魔法かけたら失敗しちまったぜ。魔力漬けで、もう食えないからおまえにやるよ』
あー。
☆ ☆
パチュリーは思うのだが、どうも長いこと知識人をやっていると、必要な知識を覚える技術よりも、無駄な知識を忘れる秘術のほうが遥かに重要であると感ずることがある。
というのも、人間だろうが妖怪だろうが生物一匹が脳内に蓄積できる情報量といやあ極々微々たる物であり、才能以外の手段で他人より多くのことを覚えようと思ったら、無駄な容量、無駄な知識を削除していくのが一番手っ取り早いだろう。
最近はそんな考えに従って、些細なことから忘れていくよう努力しているパチュリーであるが、紅魔館にて共同生活をしている十六夜咲夜及び配下のメイド、加えて小悪魔らへんはそう思っていないらしく、
『ねえねえパチュリーさまお昼ご飯のメニュー覚えていないわよ大丈夫かしら』
『さっき訪ねてきた妖怪の名前もすぐに忘れてしまったみたい、ええほんとうに』
『魔女も百年も生きていれば古くなってくるのねえ。そういえば夜中に館を徘徊していたような気もするわ』
『うわー本当に大丈夫かしらパチュリーさま』
という評判である。
さて、地下魔法図書館。
パチュリー・ノーレッジはふと何かを忘れている気がして考え込んだのだが、それは全く馬鹿馬鹿しいほど無意味な行為であった。というのも、考え込んだ数瞬後には、信じられない脚力で蹴られた図書館の扉が、絶望的な音を立てて吹き飛んだからである。
「パチュリーはいるわね」
理知外の演出を経て顔を出したのは博麗霊夢その人であり、やたら痩せ細っている。これは干し霊夢だろうか。しかしそれ以上に、彼女から放たれる殺気に対しうすら寒さを覚えるのだ。
「な、なにかしら」
パチュリーが毅然とした態度で言葉を返そうとした次の瞬間、既に霊夢は背後に立っていた。
「なっ」
驚く暇もなくぎりりと肩を掴まれる。
「ねえパチュリー。ここに一本の干しシイタケがあるの。一ヶ月前はシイタケだった干しシイタケよ。どう、可哀想だと思わないかしら」
意味不明だ。全く持って意味不明だ。なんだ、一体どうしたんだ幻想郷の調停者は、人間のくせして魔女を煮て焼いて食うつもりなのか。そこまで巫女は雑食になってしまったのか。
パチュリーが動転している間にも、霊夢の弁論は切ないほどに垂れ流されていく。
「でね、パチュリー。私が思うに、この干しシイタケは一ヶ月前の姿に戻りたがっているの。どうかしら、ここは一発、あなたの魔法で雨でも降らせてあげたらどうかしら。そう、この干しシイタケのために。シイタケのために!」
訳の分からない勢いでがくがくと肩を揺らされ、もはやパチュリーはダウン寸前である。
「わ、か、った、から。わかった、から。あ、雨を降らせればいいのね。降らせるわ、降らせるから振るのをやめて。肩を」
手を離す霊夢。ようやく開放されたパチュリーはぜいと息をついた。
「はー……」
雨と言ったか。
そういえば、年がら年中地下図書館に引き篭もっているパチュリーは、外の天気を気にしたことがあまりない。ついでに言うと時間の感覚はもっとない。まあ、んなこたあ果てしなくどうでもいい事柄ではある。
果たしてそんなことを考えながら、彼女は降雨の魔法を唱えるのであった。
「よし! これでもう、飲み水に困ることはないわねシイタケが。やっぱりキノコに一番適した天気って言えば雨だもの!」
しかし、なんて馬鹿らしい事にタダでもない貴重な魔力を使ってしまったのか。
ああ全く全く馬鹿らしい。
だからパチュリーは思うわけで。こんな馬鹿らしくつまらないことは、さっさと忘れて削除してしまうに越したことはないのだと。
☆ ☆
シイタケはマツタケにならない。
よくよく考えればトンビがタカを生む確率だって絶望的な数値であるし、カエルの子がオタマジャクシなのだって清々しいほど当然なのだ。
ただ、霧雨魔理沙は挫けないわけであって。
彼女はシイタケをマツタケにしようと本気で奮闘しているし、一度この研究を始めてしまったからには、納得いくまでは止められるはずもない。研究を始めた理由なんて今となってはどうでもいいことで、単にマツタケを腹いっぱい食ってみたかっただけである。それで十分なのだ。
だから魔理沙はシイタケをマツタケにしようと魔法をかけ続けるし、その行為は彼女にとっちゃあ全く持って道理の極みなのである。
雨の降りしきる昼時。霧雨魔法店の薄暗い店内で椅子に座った魔理沙は、小さくため息をついた。
「いつまで降るんだ、この雨は」
ここ数週か。天蓋がぶっ壊れたんじゃないかと思うくらいの大雨が休みなく降っている。
一ヶ月間の狂ったような晴朗の後、この狂ったような降雨の嵐。一体全体幻想郷の天気予報はどうなっているのだろうか。
「……うーむ」
今の魔理沙にとって一番の心配事といえばシイタケの栽培である。もちろん、マツタケ実験のための、だ。
晴れは良い。キノコは薄暗い場所で育てれば問題ないし、水は紅魔館の周囲にある湖から持ってくりゃあ良いからだ。そのまま飲み水にだって流用できるから、何も困ることはない。干からびるのは日がな一日畳の上でぐうたらしてる巫女さんくらいのものである。
ただ、雨。それも豪雨。これはまずい。
霧雨魔法店は多少ボロい。もう少し詳しく述べてみると、屋根にはところどころ雨漏りがある。
いや、すまなかった、嘘だ。そこらじゅうに雨漏りがある。シイタケ部屋にも雨漏りがある。
いくらキノコはじめじめ好きといっても限度が存在するわけで、それを超えたらぶっちゃけ腐る。だから困る。
事実、過剰な長雨のせいか、多くのシイタケは成長を待たず腐ってしまった。
「うーん」
頬杖を突く魔理沙。
まさかここまでシイタケの栽培に難儀するとは思わなかった。
雨。雨が降っていると箒で空を飛ぶこともままならない。弾幕だって張りづらい。全く良いことなしである。
雨は駄目だ。なんとかせねば。
そうしてひとつ思考を回した魔理沙。まあ、幻想郷で五行術に長けているヤツなんか大体決まっているもので。弾き出す答えもまた択一。
「あー……」
パチュリーならなんとかできるかなあ。
☆ ☆
紅魔館。地下図書館。
どうも最近、自分に関する変なうわさが加速しているなあとパチュリーは思う。
曰く、
『ええ、パチュリーさまったら、お昼ごはんはまだかしら、って何回も聞くんですよ。食べたはずなのに。なまじ頭の良い方ですから、私のほうが間違っているのかと思ってしまいます』、とか。
曰く、
『ぱ、パチュリーさま、私の名前、いつまでたっても覚えてくれないんです……ぐすっ、いくら私が新米だからって……ひどいです……』、とか。
曰く、
『パチュリーさま、私の名前、いつまでたっても覚えてくれないんです……。というか咲夜さんも覚えてくれませんし。むしろ誰も覚えてくれませんね。なんか言っててあんまり悲しくない自分が悔しいです』、とか。
まあ仕方ないではないか、とパチュリーは思う。この世全ての知識を蓄えようと思ったら、無駄な情報に使う脳内メモリなど一片も存在しないのだ。朝ごはんが何だったかとか、もう会わないだろうメイドの名前だとか、優先順位の低い知識はついついないがしろにしてしまうわけであるし、反省する気もさらさら無い。
さて地下図書館。
ふとパチュリーは何かを忘れている気がして考え込んだのだが、やはりそれは全く持って図々しいほど無意味な行為であり、というのも、考え込んだ次の刹那には、圧倒的な暴力に屈した図書館の扉が猛々しい音を立てて崩れ去ったからである。
「よお、パチュリーはいるな」
派手な道程を経て現れたのは魔理沙の顔であり、どうにも既視感溢れる光景なのだが、あまり良く思い出せない。多分当時はどうでもいいことだからといって忘れてしまったのだろう。
「……何かしら」
と応答した次の瞬間には魔理沙の顔がすぐ目の前にあった。
「っ」
近い近いと突っ込む間もなく、魔理沙はパチュリーの両肩に手を置いて、ずずいと顔を近づけてくるのだ。
「本当に突然ですまないんだが、パチュリー。ここに腐ったシイタケがある。どうだ、可哀想だとは思わないか」
言葉の通り、腐ったシイタケを突き出し突きつけてくる魔理沙。ますます顔も近づいてくるわけで、腐りシイタケと魔理沙顔に挟まれたパチュリーは訳の分からない有象無象の雑念に駆られる。
「キノコを近づけないで……」
「よーしわかった、もっと近づけてやろう」
「いーやぁー」
「どうだ身に染みたろう。腐っている。悲しいほどに腐っているんだこのシイタケは。それもこれも全てはこの長雨のせいだぜ。分かるな」
知らん。分かるわけがない。なんせパチュリーはここ数ヶ月の間地下図書館から出た覚えは無く、従って外の天気などまるで無関係なのである。
「このシイタケだってあと少しでマツタケになるとこだったんだきっと! 嗅いでみろ、香りを! シイタケとマツタケの中間くらいだぜ多分!」
腐っている。
「というわけでパチュリー、この意味の分からん雨を止めて天気を変えてくれないか」
「別にキノコのために天気まで変えなくてもいいと思うけど……」
「馬鹿だなパチュリーは。食糧不足になって最後に残っていたシイタケが食えなかったりしたら困るだろう」
「そんな巫女いないわよ……」
「というわけでだな」
ようやく魔理沙は顔を遠ざけ、腐ったシイタケを後ろに放り投げながら言った。
「曇りだ。曇りがいい。晴れは水汲みが面倒くさくなるし、雨はシイタケが腐っちまう。しかし曇りは適度な湿度に室温で、シイタケ栽培には最高だぜ。おそらく」
魔女の勘は巫女ほど正確でないが、カラスの天気予報欄よりもあてになる。
まあ、もはやパチュリーにとって外の天気なんて全くこれっぽっち一片ほどの価値もないわけで、この理不尽な状況が打破されるならそれ以外はどうでもいいのだ。
「あーはいはい……曇りにするからとっとと出て行って頂戴ね……」
「おう、珍しく話が分かるなパチュリー。当然ついでに本も貰っていくわけなんだが、それだけじゃあ申し訳ない気がしてきたぜ」
どうでもいいから本だけは置いてけというのに、魔理沙はお礼までくれてありがたいことである。
「よっしゃ、今私が研究中の『シイタケとみせかけてマツタケダケ』の菌を図書館中においてくからな。上手く育ったら食ってもいいぜ」
「やーめーてー……」
パチュリーのうめきむなしく由緒正しい霧雨製菌類は置いていかれるわけである。
「あーもう、最近無駄なことばかりな気がするわ、……良く覚えてないけど」
それはやはりどうして、まだまだ無駄が多いのだ。すべからく無駄は排除すべしというわけで、要は削除してしまうに越したことはないのだと。
「しかしお前の図書館はキノコの育ちがよさそうだなー……」
去り際魔理沙の呟いた一言だって、三歩も歩けば忘れてしまうに違いない。
☆ ☆
疲れる。
それもこれも全部ここ最近の狂った天候にあるのだ、と鈴仙は思う。
おさらいしてみよう。一ヶ月近く続いた干ばつの後に数週間の豪雨。と思ったら今度はずーっと曇りっぱなし。
いや、まあ干ばつや豪雨自体は別にいいのだ。鈴仙だってこう見えてそれなりに長生きであるからして、多少の天候不順は経験したことがある。
ただ、面倒くさいのは彼女の主人達であって。
その、なんだ。人よりはるかに長いスパンを生きている蓬莱人にとって、うん十年に一度の天候災害は四季に等しく、まるでリゾート気分。
例えば、先の干ばつの際はこうであった。
『みてみて永琳この狂ったような旱魃! すごいわねえ。三日くらい縁側にたっていたら肌が真っ黒に焼けて脱水症状と日射病を併発するもの!』
『ほら姫様、皮がべりべりむけますよ三味線でも作りましょうか。あっははは』
豪雨の際はこうだった。
『みてみて永琳! この壊れたように叩きつける雨! 氾濫した川を泳いだらこんなに簡単に溺れられるのよ! ライフセーバーなんて必要ないわね! 死亡率百パーセントだから!』
『いやいや姫様、溺れながら喋ってもごぼごぼいうだけで何言ってるかサッパリです。あっはは』
もうみてらんない。
普段退屈な分、たまの災害に浮かれるのだろうか。蓬莱人の自然への接し方はハードでついていけない。
んで、曇りになって落ち着いたと思ったのだ。曇りが続いたって何の被害もないわけであるから。
それが間違いだった。
「永琳―。つまらないー」
「そうですねえ」
大災害の興奮冷めやらぬ蓬莱人たちはいつにも増して退屈に敏感になるようで。
「また日照りが一ヶ月くらい続いて大旱魃になったり、泉が干上がって魚介類がのた打ち回ったりしないのかしら。ずっと曇りじゃなんの変化もなくて面白みがないわ」
「そうですねえ。じゃあうどんげ。手段は何でもいいから晴れにしなさい。頼んだわ」
そう、この天候不順の被害が鈴仙に及んだ瞬間である。
「何で私が……」
ぶちぶちと愚痴をこぼしながら永遠亭を出発する鈴仙の行く先は明白である。
天候を操るヤツなんて幻想郷中探してもそうは存在せぬわけで、まあ鈴仙の知り合いにいるとすれば紅魔館の魔女くらいのものであるのだ。
☆ ☆
もはやパチュリーの乱心は公然の秘密である。
『うわっ! キノコ!』
図書館へ入ろうとしたメイドが叫んだのはついこの間のことだったらしい。
彼女の証言はこうだ。
『図書館の扉を開けたらそこはキノコ園でした』
パチュリーはキノコに埋もれていたとか。
『なんでキノコが生えてきたのか分からない、ってパチュリー様言うんですよ。あんな量が自然に生えるわけないじゃないですか。本当にもうヤバいんじゃないかと思います。キノコは美味しかったです。今日お前が食った夕食もそれだよ!』
暴言を吐いたメイドは、まもなく自らすみやかに辞表を提出、これを受理されたのだが、メイド間の噂に戸を立てることは出来なかった。
『本格的にパチュリー様がおかしいらしいわね』
『でもパチュリー様はいままで紅魔館の頭脳労働を一手に引き受けてきたんだもの。これからは私たちがパチュリー様を補助してあげなくちゃ!』
何故だかわからないが上がっていくメイドたちの士気ばかりが不気味である。
さて紅魔館地下図書館。
パチュリーはどうもなにか忘れている気がして思考を巡らせたのだがそれはやはり大方が無意味な行動であって、というのも何らかの答えに思い至る寸前、小悪魔から声をかけられたからである。
「パチュリー様、お客様のようですよ」
どうも最近小悪魔及びメイドたちは自分を丁重に扱いすぎる。まあなんでもいいのだけれど。
「すみませぇん……。ちょっと頼みたいことがあって訪ねたのですが」
図書館の扉から顔を半分覗かせたのは鈴仙・優曇華院・イナバその人。
パチュリーはほっとした。とりあえずこいつは幻想郷住人の中では傍若無人度が低いから。
「何かしら。永遠亭とはそんなに親しいつもりはないのだけれど」
鈴仙はへこへことこちらへ歩いてき、言う。
「ええ、それが、ちょっと師匠から言いつけられてですね。この曇り天気を快晴にしてやりたいのですが、それでパチュリーさんの力をお借りしたくて」
そうか、今の天気は曇りだったのか。
と、鈴仙のほうへ向き直ったパチュリーはぐらりときた。
「お願いできますか?」
どうも宇宙兎の赤目で見つめられると視界がぐらぐらする。
「お願いしますよお」
知ってか知らずか幻視を発動させてやがる。
いや多分知ってる。
やばいあたまぐるぐるまわってはきそう。
「……分かったから。晴らせておくからさっさと帰りなさい……うげ」
「わー、ありがとうございます」
約束取り付けた兎はとっとと帰って行った。
「あー……気分悪いわ」
なんだったか。天気を晴らすのだったか。
ああもう良くわかんないけどロイヤルフレアでいいだろうと。
☆ ☆
紅魔館から白熱のロイヤルフレアがうちあがったのを見て頭にきたのは霊夢である。
「なんなのあいつ。雨にしろっていったじゃない。曇りくらいなら大方が雨に近いからいいけれど、あんなパーティ全員に大ダメージみたいな魔法を打ち上げるなんて非常識も大概だわ」
言ったそばから地を蹴って、巫女に近い速度で駆けつけるのが霊夢の博麗たる所以である。
☆ ☆
ヴワル魔法図書館に掃除は必要ない、とパチュリーは思っている。
ひとつの理由はその理知外な敷地面積にあり、またひとつの理由は蔵書の管理難度にあるのだが、ただまあしかし、それらは全くもって小さな理由であり、片付けようと思えば大体を片付けることが出来る。そもそも小悪魔は掃除好きだ。
なんで必要ないか。
「パチュリーさまー。どうでしょう。見える範囲は片付けてみたのですが――」
図書館の扉が吹き飛んだ。
あまりの暴力に耐え切れず、留め金すら無力化したそれは豪快な音を立てて床を滑り、ど派手なエフェクトと共に、先ほどから小悪魔が整理整頓していた本棚をぶち倒した。
「――やっぱり無駄だったようですねえ」
「……だから必要ないっていってるじゃない」
掃除したそばから荒れていく。
その度にパチュリーは自分の人気に辟易するのである。
「パチュリーはいるわね!」
扉を破壊した張本人が博麗霊夢であるのは全く予想範囲内の出来事であり、むしろ、普段から堅牢さには気を使っている図書館の扉を吹き飛ばせる輩はそれなりに少ないのだ。
「なにかしら。貴女はもう少しマナーというも」
パチュリーの毅然とした対応は大人としては立派なものであったが、幻想郷的にはのろまでしかなかった。
「うるさい」
巫女にとって、瞬き程度の時間で相手の懐に飛び込み極道も真っ青の形相で肩を掴みすみやかに脅しへ移行するのは比較的初歩の攻撃である。
「あんたね! 雨を降らせなさい、ってあれほどいったでしょう! 別にたまに晴れるくらいなら私も文句なんて言わないわよ! でもロイヤルフレアは極端すぎでしょう! 色々干からびたらどうしてくれるのよ色々!」
がくがくと肩を揺らされるパチュリーは、うーあーとしか返事を返せない。
「雨! 雨! 雨ね! 雨よ! 聞こえてる?」
「やーめーてー……」
あるだけの巫女力で肩を揺らされるパチュリーはもはや即席二日酔いコース直行であり、小悪魔は思わずTKOを取ろうとして弾幕勝負にジャッジが存在しないルール不備を呪った。
やばい、と小悪魔は思うのだ。
パチュリーさまと霊夢の間に何があったかは知らないが、自分の主、ノーレッジ女史が危機なのはびっくりするほど明白だ。
加えて、最近メイドたちから口をすっぱくして言われていることがある。
『パチュリー様はそろそろ老後の幸せ探しを始めるべきだわ』
『そう、魔女は国民でないから年金が出ないのよ。紅魔館はもっと社会保障関連を整備すべきね』
『小悪魔、貴女は一番パチュリー様のそばにいるのだから、パチュリー様が大変なとき、変なとき、必ず力になってあげないといけないのよ』
うんうん、いい話だ。と、メイドたちは涙を流して語っていた。
そのときが今なのだ。
小悪魔は目を瞑った。
大きく息を吸った。
道端で変質者に出くわした女子高生のような主人の悲鳴が聞こえてきた。
それで決心した。
くあっ、と気合つきでパチュリーの肩を掴む霊夢の手を切って間に飛び込み、口裂け女の撃退法ってなんだったっけよく覚えてないやリンスリンスと呟きながら叫ぶのである。
「ぱ、パチュリーさまをいじめないでっ!」
しん、と静まる図書館内。
あれ、べっこうあめだったっけ。
小悪魔はおそるおそる霊夢を見上げた。
「……あんたも一緒に祝ってあげようか?」
こえぇぇ。
サイレントセレナのお化けみたいな降雨の術式は紅魔館の外からでもよく観察することが出来たという。
☆ ☆
一方が裕福になりゃあ片方が困窮するってのは悲しいほどに世の中の常であり、幻想郷だってそのことわりの範囲内である。
まあ、どちらかといえば精神的な裕福さを選択する輩の多い土地柄であるからして、生活に大打撃の来る貧困ってのは少ないわけではあるが。
魔理沙だってこんなときでなければそれほど貧困には敏感でなかったわけなのだがしかし。
「おい、また晴れになったと思ったら今度は台風みたいな雨ばっかりだぜ。つーかサイレントなんとかだろあれ。パチュリーのヤツ、どうも私にじゃれたくって仕方が無いみたいだな」
さて猫度一番が高いのはどいつなのかと。
☆ ☆
突発的なサイレントセレナは紅魔館を水浸しにした。
図書館から洪水のように吹き出る水を最初に見たメイドは次のように叫んだとか
『パチュリー様! トイレはあちらです!』
それに合わせて紅魔館ではパチュリーの老後に関する有識者会議が開かれ、一連の事件を公的に対処しようとする方針が明確となった。
『吸血鬼の館で流水を発生させるなんて、さすがにおかしいとしか言えません。これからパチュリー様は図書館の名誉会長に籍を置いてもらい、実務を全て小悪魔に任せてはどうでしょう』
『パチュリー様は老後施設に?』
とまあ大体の趣旨がこんな感じであり、実行に移すのもそう遠くないと思われる。
そんな中、小悪魔は霊夢に荒らされ加えて水びたしとなった図書館を掃除していた。この子の甲斐甲斐しさには頭が下がるばかりである。
「小悪魔。というか貴女、そうやって無駄な経験や知識ばかり溜め込むから成長が遅いのよ。無駄なものは忘れてしまうのが一番いいのよ」
「そんなことありません! どんな些細な知識だって絶対に役に立つときがありますよ! それに私はパチュリーさまの老……なんでもないんですがっ!」
「はあ?」
「とにかくパチュリーさまの身の回りを綺麗にですね! これでどうでしょう」
そこで扉の向こう側から気が遠くなるほどのエネルギー量を有したレーザーが放たれるのはもはや約束の事項であり、堅牢という二文字熟語が眉唾だと思えるくらい気軽に図書館の扉は吹き飛ぶのである。
「やっぱり掃除はしない方がいいわ。無駄な行為の繰り返しは精神的にきついもの」
「……ですねえ」
焼け焦げた図書館の扉跡へ顔を出したのはどう見ても魔理沙であり、いつものように浮かべる軽快な笑顔が今日ばかりは恐ろしい。
「ようパチュリー。今日のお前の猫度は九十点だぜ。ベクトル表示でな!」
ああもう駄目だ全然意味が分からない、今日の魔理沙はやる満々気だ。
「何か用……」
どうも主人公キャラってのは瞬間移動が標準装備であるようで、呟いた次の刹那には本棚二つ分くらいは移動している。
「いやあ、別にな。お前が雨を降らせたのを責めようってわけじゃないんだ。私は霊夢ほど短気じゃないし、アリスほど捻くれてもいないからな」
じゃあ何をしにきたのよ、とパチュリーが問う暇も無く魔理沙は続ける。
「今日はな、お前と遊びに来たんだ。知ってたか? 私は昔から早口言葉が得意でなあ。特に雨の降った日は無性に誰かに聞かせたくなるんだよ。聞いてくれるか」
「い、言ってみなさい……」
「マスタースパークマスタースパークマスタースパークマスタースパークマスタースパークマス」
「いやあああぁぁ」
一言ごとにどかんどかんと繰り出される光線は図書館の屋台骨を大いに揺らし、散らかるというかむしろ崩壊とか壊滅とかいった言葉を記すべき惨状である。
「あー? まだ雨かー? いやー今日は口のすべりもいいぜー」
「わ、わかったから、口を止めてー」
パチュリーがいじめられている。
助けられるのは自分しかいない。
それを一瞬で感じ取ったのはもちろん小悪魔であった。
先の対博麗霊夢戦ではあまりに手馴れたたメンチ切りに心底ビビってしまった小悪魔だが、今日はそうもいかない。
相手だって魔理沙だ。傍若無人が物乞いをして飛び回っているような巫女に比べれば遥かにマシな相手である。
「魔理沙さん! パチュリーさまに頼み事をするなら私を倒してからにしてください!」
「なまむぎなまごめミルキーウェイ」
派手に吹っ飛び黒こげになった小悪魔はしかし冷静に考える。
うんだから弾幕勝負でとめるのはいくらなんでも無茶なのだ。魔理沙の巫女より優れている部分はある程度のコミュニケーション能力であって、決して小悪魔を下回る弾幕能力ではない。つまり小悪魔がこの事態を冷静に対処したいのなら、今現在のパチュリー・ノーレッジが万全の状態でないことを伝えればいいわけで、魔理沙だって巫女ではないから、そのあたりは一般常識を考慮しておとなしく帰ってくれるかもしれない。
うんそのラインでいこう。
「魔理沙さん、パチュリーさまは顔色が優れなくてですね」
「坊主が屏風に上手にブレイジングスター」
メルヘン坊主を頭に思い描きながら吹き飛んだ小悪魔はやはり冷静に立ち返る。
そもそも常時のパチュリーからして顔色悪いんだから今更体調がどうのこうのといってみたところで誰も気にしないのは至極簡単な方程式だったのだ。うん。これはミスだった。
それじゃあ次に小悪魔がすべきことは明確で、
……明確で。
……えー。
「……どうしましょう」
魔理沙は、そろそろ飽きてきたな、などといいながら語彙力は尽きていないようである。
パチュリーの方はといえば、めんたまぐるぐるのむきゅー状態で、もう色々期待するのは無理だろう。
「……」
悪魔は口先から生まれてくる。
謀り語って強請って詐欺り、騙して奪って得して納む。その口説き文句こそが悪魔の魔法であり真髄。口先こそが爪以上に手入れをしておくべき武器である。たとえそれが小悪魔だとしても本質は常に変わらず眼前に横たわるのだ。
考えろ小悪魔。
自分はパチュリーほど頭の回る生き物でないが、下積みの量は誰にも負けたことが無い。
特にこのヴワル魔法図書館に関する日々の記憶ならば、どんなに小さなことでも心に留めておこうと努力してきたはずだ。
今日、魔理沙がこうして図書館へやってきて難癖つけている理由もその記憶の枠内であるはずだし、解決方法もきっと出てくるに違いない。
小悪魔はおさらいする。
そもそもの原因は天候不順にあったはず。
諸々の展開は置いておくとして、魔理沙は雨が降ったら困るらしい。キノコが腐ってしまうから。
ここを何とかしてやらんといけないわけである。
天候とキノコを切り離してやればいいわけだ。
「うん」
ああ、やはりそうじゃないか。
経験というものは重要で、どんな些細な事だって何らかの役に立つ可能性があるということが証明されたといえる。
キノコなんて家庭料理での使用方法程度しか知らない小悪魔であるが、どこで一番よく育つかは経験した後、記憶しているハズだ。
そこまで考えきった小悪魔は凛とした顔を前へ向け、魔理沙に向かって言葉を紡ぐのだった。
「魔理沙さん、天候なんか変えなくったって、キノコが育つ場所はありますよ」
「あ?」
いまいち小悪魔の台詞を理解しきれない魔理沙とパチュリーは同時に彼女の顔を見る。
小悪魔はそんな二人に悪魔の笑みで返すのだ
「この図書館、以前、魔理沙さんがなんとかキノコの菌を植え付けて言った後、元気に育ちすぎてしまって大変だったんですよ。だから、ここのじめじめはきっとキノコ栽培に向いているんです」
「あー……、菌植え付けて帰ったとか。あったなそんなこと」
「ですから、キノコ栽培に図書館の一部をお貸しします。それなら外が雨でも関係ありません」
それならそれでいーぜー、と適当な返事を返す魔理沙を横に、パチュリーだけが不思議そうな顔をしているわけである。
「……そんなことあったかしら」
「だからいったでしょう、パチュリーさま。些細なことだって役に立つんです」
「ふーん……」
むーんと考え込むパチュリーをよそに小悪魔と魔理沙の契約はどんどんと進み、万事一件落着の形で合意するに相成った。
「じゃあなーパチュリー。これから世話になるぜ。キノコがなー」
騒がしいのが去った後、残るのは二人ばかりなわけであり。
先ほどから考え込んでいたパチュリーが顔を上げるのもまた二人ぼっちになったときである。
「ねえ小悪魔」
「はい」
「私の今日の昼ごはんはなんだったかしら」
「胃の調子が良くないと申されましたので、ばなな一本にりんごを三切れ添えました。飲み物はオレンジジュースを一杯」
「朝は」
「真っ赤で渋い紅茶にビスケットです。お菓子を朝食べるのはいけないと言いましたのに」
「昨日の夜は」
「いらないといって就寝されました」
「門番の名前は」
「紅美鈴さんですよ。忘れたんですか?」
ふーん、ふーん、と頷いたパチュリーは幾ばくか床を見つめた後、含みを持った笑みで小悪魔を見るのだった。
「……貴女、便利ね」
☆ ☆
幻想郷の豪雨が止んだのはその数日後である。
☆ ☆
未曾有の天候不順から幾日かが明け、幻想郷は比較的ノーマルな空模様に戻っていた。
鈴仙は普通や日常といった単語が嫌いでないのだが、残念なことに彼女の主人達はそうでもないらしい。
「ねー永琳―。普通って普通だってこと以外は普通でいいんだけどねー。なんとか普通外の普通ってないのかしらねえ」
「まあ普通じゃない普通も普通に体験していればいずれ普通になるのでしょうね」
理解しづらい会話だが、本人たちもまた道理を通す気は元から無いのだろう。
何はともあれ幻想郷は平和である。
日照りが続いて干ばつになることもないし、台風が押し寄せて大洪水ということも無い。もちろん不自然な曇り空は言うまでも無く。
蓬莱人たちも、もうだいたい落ち着いたみたいだし、鈴仙が日々を縁側の日向ぼっこで過ごせる程度には平穏。これで火の鳥が寝ていてくれれば従者は用無しとまで言えるだろう。
「あー……暇―……」
縁側で呆けている鈴仙に師匠からのお使いが課されたのはそんなときであった。
「うどんげ、ちょっと紅魔館の魔女まで薬を届けていらっしゃい」
薬の内容や効用は患者の重大なプライバシーである故に聞かされなかったが、まあ相手が病弱魔女であるのなら詮索する必要もまた皆無である。
届けるだけの簡単な任務だ。とっとと終わらせてしまおう、といった調子で鈴仙は飛び立つのであった。
☆ ☆
どうも館内の雰囲気が前に来たときと違う。
そう鈴仙が思い始めるのは早かった。
まずメイドたちの噂話が物々しい。
『パチュリー様ったら……で、小悪魔大丈夫かしら。そもそも施設とかの件はどうなったの?』
『ねー……、秀才は怖いわあ……』
『いや違うのよ、あれはむしろ小悪魔がパチュリー様を操っててね。一連の事件は全部小悪魔が』
よくわからないしわかりたくもない。
あ、こちらですよー、と道案内してくれるメイドの笑顔に不信感さえ抱きながら、鈴仙は廊下を進む。
「はい、こちらがパチュリー様の図書館です」
鈴仙は、眼前に佇んでいる、半円の下に長方形を足した形の扉を見上げた。
扉自体は前と変わってない。
ただ、少しひしゃげて焦げ跡がついているだけで使用するに当たって問題はないだろう。
だが何故だろう、その扉が見ため以上の重量感を持って感じるのは。ごごご、と効果音が聞こえてきそうなのは何故なのだろう。
「あ、開けていいですか?」
一応、隣にいたメイドに許しを請ってみるが、メイドの方は、あ、私がいなくなってから開けてくださいね、とやはり笑顔で返すだけだった。
「……」
鈴仙はそっとドアノブにさわろうと ドン! して突然の物音にたじろいた。
「……」
大きな耳で中の様子を伺ってみるが、防音設備がしっかりしているせいだろうか、いまいちよくわからない。
「あー……」
もう一度ドアノブに手をかける。
どちらにしろ開けないことには任務が完了しないのだ。完了しないと師匠にアレコレなのだ。
よく分からない動物の防護本能に従っている場合ではないのだ
よし、ままよ。
ゆっくりと大きく深呼吸をしてからぐっと肩に力をいれた。
ばしんと開かれる扉。
すぐさま喧騒が耳に入ってくる。
「はい小悪魔。二十六ページ三行目の台詞」
「は、『ですから、もし無限の可能性を定義するに当たって数学的帰納法の使用が不可避であるならば、カントに憧れた私は高校の専攻を哲学でなく数学にすべきだったのです』……でしたっけ」
「それは二行目」
とりあえず小悪魔が調教を受けていた。
「おー小悪魔―。またいい感じのキノコが出来たぜ。色艶サイズ種類覚えておいてくれよなー」
「……紙に記録しておけばいいじゃないですか」
図書館の天まで届きそうなキノコの山に埋まって、心底楽しそうにしている魔理沙がいた。
「あ、永遠亭に注文しておいた薬が来たようね。これで小悪魔の脳の容積も二倍になるわ。覚えられる知識も二倍、私が憶えなくて済む無駄知識も二倍二倍ばいばい」
そこで鈴仙は扉を閉めた。
遠ざかる喧騒。
薬をそっと扉の前に置き、紅魔館を後にした。
☆ ☆
「ですから! なんで本の本文を全部覚えなくちゃいけないんですか! 書いてあるんだから重要な所だけでいいじゃないですか!」
「あら、パチュリーさまがおっしゃるのならどんな知識でも覚えて見せます、って言ったのは貴女じゃない」
「おーい、ベニテングダケと見せかけてマツタケダケがなあー」
「それはそうですけどっ! そんな細かすぎることまで覚えてるからパチュリーさまは容量が足りなくなるんですよ!」
「でもこれからは小悪魔が覚えてくれるから楽でいいわー」
「ですからっ!」
「おーい、こっちマツタケだとおもったらベニテングダケだったよ」
「私今年で何歳だったっけー」
「二歳くらいじゃないですかっ!」
とまあ、一連の騒動で得たものといやあ小悪魔の苦労と魔理沙のキノコくらいのものであり、天気を操る輩が変わらず天気と無関係な場所に陣取っているのもまた不可思議なことである。
托鉢にきた巫女がそれらをすべてぶんどり、見境無くキノコを食ったあげく毒にあたって数日間寝込んだ後日談を考えれば、結局は天候を楽しむだけ楽しんだ永遠亭の一人勝ちなのかもしれない。
ああ、こうした物語には出来る限り参加せず、傍観者の立場から罵声を飛ばすに限るのであると。
「あれー小悪魔、今日で引き篭もり何日目だったっけ」
「洗濯物が溜まってて仕方ないくらいです!」
「じゃあちょっと晴らせておくわねー」
いや、まったく。