穂積名堂 Web Novel -既刊公開用-

水面の月

2012/10/24 15:14:45
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水面の月

床間たろひ
 水面に映る月――そんなものを求めてどうなるというのか。
 それは所詮、虚像で、虚構で、偽物で、
 価値はなく、意味もなく、実体すらも、ない。
 それでもそれを求めるというのか。
 それはなんと愚かな行為だろうか。
 地位も、名誉も、栄光も、
 死んでしまえば、失ってしまえば、後には何も残らないというのに。
 だから私は求めない。
 そんなもの生きる上では邪魔でしかない。
 流れるように、流されるように、波間を揺蕩いながら。
 意志を殺し、我欲を捨て、与えられた仕事を機械のようにこなしながら。
 それが正しいことだと思っていた。
 それが正しいことだと信じていた。
 虚飾など無駄で、
 虚構など無意味だ。
 そんなものを求めるのは酷く愚かで、滑稽で。
 ましてやそんなものに縛られるのは――悲しいほどに哀れだ。
 だから『彼女』を初めて見た時、
 酷く愚かで、滑稽で、そして哀れだと思い、
 だからこそ……私は手を伸ばしたのだろう。
 哀れな幼子に、溺れて喘ぐ少女に、己の手を差し伸べたのだろう。
 それはただの同情。
 条件反射のような、良識に従っただけの自動的な行為。
 そこに意味はなく、意義はなく、脈絡すらも、なく。
 だからきっと。
 もしかすると、ちょっと。
 それは復讐――だったのかもしれない。
 私の、私による、私のための道具として。
 彼女の意志と私の思惑が、たまたま合致しただけに過ぎないのかもしれない。
 だとすれば、一番愚かなのは誰なのか。

 そして一番哀れだったのは――


    1

「――以上が龍宮からのお言葉です。此処におわす方々ならば、紛うことなく、惑うことなく、しかとその意を汲んでくださることでしょう。宜しいですか?」
 いつものように一方的に告げ、私はゆっくりと周囲を見回した。
 しかし座敷に居並ぶ面々は頭を擦り付けるように平伏したまま、誰一人として顔を上げようとしない。高貴な衣に身を包んだ、いずれも名のある天人たちであろうに、その姿は卑屈に過ぎた。龍に成れなかった、成り損ないに過ぎない私に、名だたる天人たちが目を合わせることもできず平伏している。その姿は滑稽ですらあった。
 ――舌でも出してやろうか。
 一瞬だけそんな想いが湧いてきたが、軽く息を吐いて奥底に仕舞い込む。空気の読める女を自認しているこの私――永江衣玖に、場の空気を乱す真似など出来るはずもない。
「では、これにて失礼させて頂きます」
 私がそう言って踵を返すと天人たちはより深く頭を下げ(それ以上下げたら、頭が床にめり込むんじゃないだろうか?)その合間を縫うように歩を進める。横目でちらりと周囲を伺うが、誰も顔を上げず、身動き一つしない。息遣いすらも聞こえない。
 まるで蝋人形のように。
 まるで死に絶えたように。
 私は気付かれないように軽く溜息を吐くと、そのまま振り返ることなく座敷を後にした。

    §

「永江様、お待ちを!」
 座敷を抜けて、板張りの廊下を進みながら、嗚呼、今日も月が綺麗よねぇ。だけど雲の上ではいつだって綺麗な月しか見えないわけで、それもまた風流に欠けることだなぁ――なんて乙女らしくも可愛げのない感慨に耽っていると、後ろからふいに声を掛けられた。
「……何か?」
 掛けられた声は馴染みのもので、振り向く前から察しは付いていたけれど。
 私は不機嫌さを紛らわすように(ようになんて、なんて控えめな表現だろう。比喩ではなくただの事実であるというのに)敢えて無表情の仮面を被り、ゆっくりと振り返った。
 そこにあったのは予想通りの顔。
 座敷に並ぶ天人たちの中でも一際豪奢で華美な装いに身を包んだ(それでいて誰よりも貧相な)中年の男。にたにたと卑屈な笑いを貼り付けたその顔は、口元に貼り付けた髭と相まって泥の中に住む鯰のようだった。
 比那名居――名居守の功名によって成り上がった(もしくは繰り上がった?)天人達の総領。
 彼は卑屈な笑みを貼り付けたまま、揉み手でもしかねない有様で私へと歩み寄る。
「先の託宣、ありがたく頂戴致しました。いやぁ、龍宮様のお言葉はいつもながら奥深く、また味わい深いものでありますなぁ。私のように浅学卑賤な凡俗ではいささか図り切れないところもありますが、その御心は深く私の胸を打ち申した! いやはや一族を取り上げてくださっただけではなく、常に我らのことを気に掛けて頂けるとは……その御心の深さに頭の下がる思いでございます。そういえば先月でしたかな? 『北東に凶事の兆しあり』との宣託を賜りましたのは。今のところそれらしきものには行き当たっておりませぬが、これも宣託に従い、北東の守りを固めたが故であり――」
 長い。
 だらだらと無駄に長い。その癖、何一つ要点が纏まってない。
 今も長々と如何に自分が龍宮を信奉しているか、歯の浮くような美辞麗句で捲くし立てているものの、実のところ私はその半分も聞いていなかった。どころか意識の半分は「夜風が心地よいなぁ」と考え、半分の半分は「そろそろ寒くなってくるわねぇ」と思い、そのまた半分は「お腹空いたなぁ」と感じ、そのまた半分は「乾燥すると唇が乾くから嫌だなぁ」とかなんとかボヤいてたわけなので、全く、といっても過言ではないほど話を聞いていなかったりするんだけど。
「我等、比那名居の一族があるのも全て龍宮様の――」
「ところでどういったご用件でしょうか?」
 流石に別のことを思考し続ける作業にも飽いたので、こちらから切り出してみる。
 滞りなく仕事を終えたわけだし、月を味わう程度には余裕もあるが、無為な会話(しかも一方的)を聞かされるには、私の時間、というよりも忍耐力が不足していた。
「あ、いや、これは失礼。如何でしょう。離れにて宴の支度をしておりますので、よろしければ永江様も……」と言いつつ、片手でくいっと杯を傾ける真似をする。
 なるほど、と頷きながらもうんざりとした表情を隠すのに随分と精神を削った。
 たったそれだけのことを伝えるのに、何故あのような前置きが必要なのだろう。
 理解しがたい。が、理解できてしまうのが宮仕えの辛さと言うもの。大人になるというのは面倒なことだなぁと、さり気なく溜息ひとつ。龍宮の後ろ盾があるからこそ、おまえのような小娘も誘ってやってるんだぞ――なんて裏の裏まで読めてしまう。
 はっきりいって断りたい。
 さっさと家に帰って溜まった洗濯物を片付けたい。
 出張が多すぎるせいか部屋の掃除も随分と滞っているし、氷室に入れっぱなしの食材もそろそろヤバそう。そしてなによりさっさとあったかい布団に包まって、ごろごろのたのたしたいなぁと思っているの、だ、が。
「お邪魔でなければ、是非」
 なんて。
 淡い微笑と共に静かに頭を下げる。
 仕方ないよね。
 大人なんだから、私も。
 途端に相好を崩して馴れ馴れしく私の肩に手を置く比那名居に対し、作りもの百パーセントの笑顔を向けつつ、私は気付かれない程度の微細な動きで肩を竦めた。

 てか、気安く触るなよエロジジイ。

 発電、しちゃうぞ?

    §

「ふぅ」
 少し、酔った。
 どうにも天界の酒は口当たりが良すぎる。
 適度に甘く、適度に辛く、ついつい飲みすぎては悪酔いする。酒には強い性質だと自負しているのだが、今宵は少し飲みすぎてしまったのかもしれない。
「ヤケ酒っていう方が正しいけどね」
 終始作り物の笑顔に囲まれて、いつまでも素面でいられるものか。
 さりげなく抜け出して廊下に出てはみたものの、これからどうするといった当てがあるわけでもない。あまり人様の家を練り歩くのも失礼だろうし、このまま廊下に佇んでいても誰かに見咎められるだろう。
「ああ、月」
 ふと見上げれば、空に丸い月が浮いている。
 大潮に浮かれる魚でもあるまいし、月を見て心が沸き立つというわけでもないのだが(沸き立つのはむしろ嵐だ。嵐に浮かれたお仲間が偶に海岸に打ち上げられるという話を聞いて、酷く納得してしまった覚えがある)それでも月を見て「ああ、丸いな。うん、丸い」なんて感想しか抱けないほど、感受性が磨耗しているわけでもありません。幾つになっても乙女は乙女なのです、あなかしこあなかしこ。
「こんなに月が綺麗だから……仕方ないことよねぇ」
 悪戯を思いついた子供のような顔で、ひょいっと庭に降りてみる。
 比那名居の屋敷は(当主の好みによるものだろう)無駄に華美で鼻につくが、それに比べれば庭は程よく整えられている程度で、なんとはなしに好感が持てる。天界特有の完成された、それが故に作り物めいた胡散臭さはなく、植えられた木々も多種に(無論、一番多いのは桃だけど)亘り、それぞれが競い合うように枝を伸ばしていた。
 月に誘われて、庭に出てみました――なんて、言い訳としては上等な部類だろう。
 靴がないので歩くような高さで浮遊するのも、今の気分には丁度よい。ふわふわと、ふらふらと、風に流されるように、波間を揺蕩うように、木々の合間を縫っていく。
 下界ではそろそろ冬が始まるのだろう。
 季節の影響を受けない天界も、今宵は少しばかり風が冷たい。
 だがその冷たさが火照った身体に心地よく、月を見上げながら当てもなくふらふらと彷徨っていると、ふいに開けた場所に出た。
「へぇ」と感嘆の声ひとつ。
 そこは池だった。
 ただの地面にしか見えないほど水面は穏やかで、波ひとつ、漣ひとつない。よく磨かれた鏡のように、煌々と月を照り返している。
「こんな場所あったのねぇ」
 海のような激しさではなく、湖のような冷たさでもなく。
 ただ其処に在るというとても自然な感じで、池は静かに広がっていた。
 あまり大きな池ではないせいか、左右から迫り出す木々の影が池の中程まで広がり、月に晒された夜空を上下二つに裂いている。そうやって空を、視界を、切り取ることで、二つの月をより際立たせていた。

 空と、水面の、二つの月を――
 
 酔った視界に、月だけが妙に鮮明で。
 白と黒の影絵の世界では雑念すらも払われて。
 無心のまま、視点を定めぬまま、ただ、ぼうっと見蕩れてしまう。
 あまりの美しさに風さえも息を潜め、静けさだけが心を満たしていく。
 それからどれくらい経ったのだろうか。
 おそらくは数分にも満たない僅かな時間。だけど意識を持っていかれていた私には、数刻のような、或いは数日のような隔絶した感覚があった。
 
 だから気づかなかったのだろう。
 迫り出した枝の先に、一人の子供がいることに。

 子供(なのだろう。夜闇に紛れてはっきりと判別できないが、あの大きさは間違いなく子供のものだ)は、太い木の枝に膝をついてぐーっと背中を伸ばしていた。それはまるで猫が獲物に飛び掛かろうとしているようで、肩口から垂れた長い髪がなければそれこそ猫だと勘違いしていたかもしれない。猫は(失礼、子供は)そんな不自然な体勢のまま、ずりずりと枝の先へ体を滑らせている。
 何をしているんだろう? 
 そう思った私は声をかけるのも憚られて、じっと子供の様子を伺った。
 子供の重みで枝はしなり、じりじりと水面へと近づいていく。ここからでは流石に子供の表情までは見えないが、その全身から緊張が滲んでいるのが判った。枝の先――その先端へと辿り着いた子供は、先程までの猫のような姿勢から、枝の先に両手両足でしがみつく姿勢へと切り替え、おそるおそるといった感じで右手を伸ばしている。
「も、もうちょっと……あとちょっと……」
 魚でも獲ろうとしているのだろうか。
 枝の下に半身でぶら下がりながら(なんだっけ? 昔図鑑か何かで見たナマケモノとかいう実に不名誉な名前で呼ばれるあの動物のようだ。いや、彼らが禄に動こうとしないのは天敵から身を守るための擬態の一種であって、川に落ちたりすると異様なまでに機敏に泳いだりするそうですよ? と図鑑を貸してくれた蘭学者はそう言っていた)必死で右手を伸ばし、私の存在にも、自分が声を漏らしていることにも気づかないまま――
「あ」
「あ」
 私と子供の声が重なる。
 バランスを崩した子供はそのまま頭から落ち、左手で枝を握ったまま池の中に叩き込まれた。
 水面の月を崩し、天まで届けとばかりに水飛沫が上がる。と、そこで限界までしなっていた枝が反動で元に戻り、枝を握っていたままだった子供の体もまた、当然のように引き上げられ、
「ひーーーーーーーーーあーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!?」
 ぽーん、と。
 子供の体が宙を舞う。
 踊る飛沫を身に纏い、月を背にして舞い上がる姿はある意味中々神々しいものであったが、間抜けな悲鳴と間抜けなポーズの相乗効果によって極めて間抜けな絵面と成り果てており、その間抜けっぷりに思わず「ほう」と感嘆の息を漏らしてしまった。
 いやまぁ、見た瞬間からこのオチは予測していたけれど。
 しかしここまでお約束を踏襲してくれると、ある意味伝統芸能のような趣きすらある。再び「どぼん」というこれまた実に味わい深い音で締めてくれるあたり、拝みたくなるくらい素晴らしい。
「がぼっ! ……っぷ! た、たすけ……!?」
 子供は(いやまぁ、月明かりに照らされ、姿が明らかになった今では少女でいいか)じたばたと水面でもがいている。その様子を私は慌てず騒がず存分に堪能しつつ、もしかしたらこれは伝説となったあの名台詞を聞けるのではないかと、思わずぐぐっと身を乗り出した。 
「わ、わたし……」
 わくわく。
「お……お……」
 どきどき。
「およげないのよ                !!」
 イェス! 完璧だ、完璧すぎるほど完璧だ! 
 例えるならそれは、おむすびを咥えたまま『ちこくちこくー!』と叫びつつ、曲がり角で憧れの先輩にぶつかる少女のように! 或いは寺子屋の廊下に落ちてたバナナを踏んで、すってんころりと転びかけたところを謎の転校生に抱きとめられた乙女のように! 
 昨今の人妖はお約束というものを軽視しすぎている。
 それどころか、ベタだといって馬鹿にする者までいる始末。
 全くもって嘆かわしい。世も末である。うっかり池に落ちる→「およげないのよー」という無駄のないコンボ。一分の隙もない、いやさ隙を差し込む余地もないほどに完成された日本の美。それを理解できない輩が増えたことに、私は絶望にも似た深い哀しみを覚えるのだ。あの古き良き時代はもう戻ってこないのだろうか……。否、そのようなことは有り得ない。人が人である限り、それは品を変え、形を変えながらも連綿と続くのだろう。時代が変われば、世代が代われば、また新たなお約束が生まれる筈なのだ。伝統をただの懐古主義に貶めてはならない。繰り返し、繰り返すことこそが人の営みなのだとしたら、今この時だって新たな伝統は生まれている。ならばこそ私たちは繰り返される芸に対し、「もう飽きた」などと無粋な言葉を飲み込んで、美しき予定調和に惜しみない拍手を送るべきであろう。そしてそれは――
 と、そこまで考えて気づいた。
 少女の姿が見えない。
 水面には僅かばかりの波紋と、波に散らされた月の残滓が浮かぶだけ。
「あー…………流石にまずいかな?」
 私はそれでも慌てることなく軽く肩を竦め、水面の波紋の中心へとふわふわ進み、「濡れるのは嫌だなぁ」と思いつつも、水の中へと羽衣の先端を差し込むのでした。

    §

「どうしたものかしらねぇ」
 一本釣りの要領で少女の体を引き上げたものの、少女は白目をむいたまま気絶していた。
 ぐしょぐしょに濡れ、全身に水草を纏わせながら白目をむいている少女の姿は、流石の私でもちょっと引く。長い髪が顔に貼り付き、だらしなく開いた口からはでろりと舌を溢していて、どこからどうみてもただの水死体である。
 実際、息してないし。
 どころか心臓も停まってるっぽいし。
「仕方ないなぁ」
 あんまり触りたくなかったけど已むを得ない。
 私はつま先で蹴飛ばすようにして水死体(失礼)を転がすと、うつ伏せとなった背中に足を置いた。靴を履いていなかったことを心底後悔するほどぐにょりした嫌な触感だったが、人命救助ともなれば仕方あるまい。
「えい」
 ぐいっとそのまま足で踏む。
「えい、えい、えい」
 ついでにちょっと強めの電流も放ちながら、ぐいぐいと背中を踏んでみた。
 背中を踏んで水を吐かせながらの人工呼吸。電流による心臓マッサージのおまけつきだ。いたいけな少女が(少女はそれなりに整った顔立ちだった。土左衛門ちっくなのがマイナス百万点だけど)足で背中を踏まれるたびにごぼごぼと水を吐き、電流の影響かびくびくと手足を痙攣させているのが中々にホラーだが、その甲斐あって「ごひゅう」と大きく息を吸い込む音が聞こえた。ついで足裏に力強い脈動を感じる。どうやら心臓も活動を再開したみたいだし、これならなんとかなるだろう。
「う……あ……?」
「ああ、よかった。気がつきましたね」
「お、お花畑が……死んだはずのおじいちゃんが……」
 でぃもーると、べね!
 臨死体験に対する反応が「お花畑」ですよ、奥さん?
 完璧だなぁ。素晴らしいなぁ。思わず惚れてしまいそうだ。
「大丈夫ですか? 気分が悪かったりします?」
「ん……大丈夫と思うけど……あれ、どうしたんだっけ、私?」
「貴女は足を滑らせて池に落ちたのですよ。かなり水を飲んでいて……いやはや、偶々私が通り掛らなければ危ないところでした」
「そ、そうなの!?」
「ええ。動転してしまったのか、私も助けるのが遅れてしまい……あと数分遅かったら間に合わなかったかも……」
「そうなんだ!? ――はっ、だとすると貴女は命の恩人さん?」
「いえいえ、私など大したことはしておりませんよ。精々人工呼吸と心臓マッサージを施した程度です」
「じ、人工呼吸……」
 何故か少女は頬を染め、もじもじと地面にのの字を書き始めた。
 何か愉快な勘違いをしてそうだが、まぁ、訂正する必要もないだろう。その方が面白いし。
 改めて少女の姿を見る。
 茶色の長い髪に、白と茶の地味な服。
 しとどに濡れてもはや見る影もないが、それなりに品のある顔立ち。
 使用人の娘か何かだろうか? 良くも悪くも天人のようには見えない。
 良くも悪くも……そう、この娘は天人にしては表情がありすぎる。天人というものは(比那名居のような例外を除いて)とにかく表情に乏しい。表情に乏しいというのは通常ただの仏頂面を指す言葉だが、いつもへらへら笑っているだけというのもまた表情に乏しいと言えるだろう。俗世から切り離され、全ての苦楽を捨て去った果てに浮かべる能面のような笑み。それこそが天人の天人たる所以なのだろうが――対してこの娘はころころと、猫の瞳のように表情を変える。
 だからどう、というわけでもないのだけれど。
 この娘がどうであろうと、私には関係ないのだけれど。
「あ、あのっ! その……助けてくれてありがとうございましたっ!」
 急に私が黙り込んでしまって、不安になったのだろう。
 少女は勢いよく身を起こし、それでもまだ立ち上がれないのか、へたりと座り込んだまま、搾り出すように、そう言った。
「……お気になさらず。人として当然のことをしたまでですから」
 そう返しながらも、私は内心驚いていた。
 天人はとかく他人を見下す傾向がある。誰かに何かをしてもらうことなど当然と考えており、見た目は天人らしからぬとはいえ、この地、この場にいる以上、この娘だって天人の縁の者であることは間違いないはずなのに。
 なのに、礼を言った。
 自分を助けてくれたことに対して、はっきり「ありがとう」と言った。
 身分や形式に囚われることなく、
 普通で、当たり前のように――そう言った。
「え、えと……その……私、何か間違えたかな? おかしかったかな? ご、ごめんなさい、あまりお礼を言うのって慣れてなくて……」
 私が怪訝そうに(とはいっても表情には出していないが)していたからか、少女は慌てたように頭を下げる。頭を下げ、へたりこんだまま、縋るような目付きで私を見上げている。
 私は安心させるように、わざと一拍置いてから口を開いた。
「いえ、別におかしくはないですよ。それは普通の、当たり前のことなんですから」
「そ、そっかな? お父さまは下々の者に対し、軽々しく礼の言葉を口にするなって怒るんだけど……」
「それはそれは」
 なんとも天人らしい物言いだ。一旦鎮めたはずの心が、ざわざわと鬩ぎだす。
 天人とは俗世から離れ、輪廻の輪からも外れた存在。
 そしてこの娘もまた、私のことを『下々の者』と呼んだ。
 天界に住むこの娘にとって、見知らぬ他人である私はそういう者として映るのだろう。
 特に悪気があるわけでも、非礼であるとも思っていないのだろうし、
 それがおかしいとも、間違っているとも思っていないのだろう。
 何がおかしいのか、間違っているのか、気付くことすらないまま、
 とても自然で、当たり前のように、そう、認識しているのだろう。
 そして私は気が付いた。
 この娘の服――見た目こそ地味だが、かなり高級な布を使っていることに。
 襟やスカートに、さりげなく金糸で施された家紋の刺繍に。
 成る程、つまりこの娘は――
「あの……どうかしたの?」 
 少女が、おそるおそる私に声を掛ける。
 怪訝そうに、不気味そうに。
 不安そうに、戸惑うように。
「どう……って、どうかしましたか?」
 対して私は、特にどうということもないように。
 平然と、受け流すようにして逆に問い返すと、
 少女はらしくもなく口ごもり、戸惑い、迷いながらも、それを口にした。
「その……あなた、笑ってるから……」
 言われて気づいた。
 自分の頬に手を当てる。口元が少し釣り上がっている。
 そうか。
 笑っていたのか、私は。
「気のせいですよ。私は元々こういう顔なのです。さて……冷えてきたでしょう? そろそろ屋敷に戻りませんか――地子さま」
「え?」
 急に名前を呼ばれた少女――地子は、驚いたように眼を見開く。
 何故、自分の名前を知っているのか……そんな疑問を浮かべたまま、
 私の視線に、びくりと本能的に身を竦め、

 それでも――こくりと、小さく頷いた。












    2

「月をね……取ろうとしたの」
 あれから一月。
 所用で比那名居の屋敷を訪れた私は、改めて地子と挨拶を交わした。
 あの時は屋敷に連れて行くと同時に御付の者たちがわらわらと寄ってきて、そのまま地子をどこかに連れて行ってしまったのだ。着替えか何かだろうと思ったが、それっきり地子は現れず、代わりに総領が出てきてしつこいくらいにお礼を述べていった。いつも通り話半分(どころか話四分の一)で聞き流していたものの、何度も何度も繰り返される『不肖の娘が』というフレーズが強く耳に残った。それは子煩悩な父親が謙遜で放つ言葉ではなく――酷く冷たいものだった。
「月を、ですか?」
「そう」
 地子は――天人ではない。
 今は、まだ。
 比那名居一族の家長の娘ということで、血筋としては申し分ないのだが、何分まだ若すぎる。
 然るべき教育を施し、自他共に認める格を身に付けてから――ということらしい。
 まぁ、それ自体は間違っていないけれど。
 天人に相応しい『格』なんて聞くと、片腹痛くなるけれど。
「でもあの時は、池に向かって手を伸ばしてましたよね?」
「んー……空の月は無理だったから、あれならって思ったんだけどなぁ」
「あれって……水面の月ですか?」
「そうよ」
「……鏡って知ってます?」
「あ、馬鹿にしてるでしょ? あのねぇ、私だってあれが虚像だってことくらい知ってるわよ。そうじゃなくてさ、昔、水面に浮かんだ月を通って月面に妖怪が攻め込んだって故事があるのよ。だから……私もやってみようかなーと」
「その故事は私も聞いたことあるような気もしますが……眉唾じゃないですか?」
「なによぅ。やってみないとわかんないじゃない!」
 今は夜。
 手短に所用を済ませ、いつも通り酒宴に誘われた私は、今日もまた抜け出して此処にいる。
 空と、水と、二つに浮かぶ月を眺めながら。
「月、か」
「うん? どしたの?」
 今宵の月も、あの時と同じように満ちている。
 別に狙ったわけでもなんでもなく、偶々仕事で此処に来て、偶々誘われた酒宴を抜け出して、偶々庭を散歩していたらこの娘にあった、ただそれだけのことなのに。
 空にも、水面にも、あの時と同じ月がある。
 出来すぎで、見え透いて――少しばかり煩わしい。
「綺麗だよねぇ、月」
「そうですねぇ」
 地子は……何故か嬉しそうだった。
 池のほとりで月を見上げていた彼女は、私の姿を見た途端、満面の笑みを浮かべた。
 そうして気が付けば、池のほとりに二人で並んで座っているという状況である。空気を読んでというよりは、ただ流されているだけな気がして、どうにも複雑な気分だ。
 勿論、表には出さないが。
 結果、にこにこと、嬉しそうに笑ってみたりするわけだが。
「美味しそうだよねぇ、月」
「そうですねぇ」
 益体もない会話。
 毒にも薬にもならず、表も裏もない。
 それはそれで心地よい――そう感じるのは、普段裏を読むのに慣れすぎているせいか。
 意味がないからこそ、特に意識することなく言の葉を風に乗せることができる。
 それはきっと、時と共に消え行く淡雪のように、風に晒される砂の城のように、後に何かを残したりはしないけれど、ただ心地よいと、今を感じるためだけにある空っぽの言葉。風のような繰り言。だからこそ、水面に映る空っぽの月に、なによりも相応しい。
「衣玖ってさぁ、龍神さまの使いなんだよね?」
「ええ、そうですよ」
「龍神さまって、とっても偉いんだよね?」
「そうですね。多くの方に敬われていますしね」
「やっぱ……強いの?」
「そりゃもう。龍神さまを怒らせたら、この世界が滅びちゃいます」
 ふへぇ、と驚嘆の息を漏らす地子。
 その目に映るのは、畏れとか憧れなどではなく、純粋な興味。
 思わずくすりと笑ってしまった。
 いつもの愛想笑いではなく、純粋に、心の裡に生じたままに。
「なに笑ってんのよぅ」
「いえいえ別に? 総領娘さまは可愛いらしいなぁと思いまして」
「な、なにいってのよ!」と真っ赤になって騒ぐ地子を横目に、
 嗚呼、水面に映る月も悪くないなぁ、なんて、そんなことを考えていた。

    §

 それからも比那名居の屋敷を訪れる度に、私と地子は益体もない会話を交わした。
 昼だった時もあれば、夜だった時もある。
 例の池で会うこともあれば、屋敷の縁側だったこともある。
 途切れなく会話を続けたこともあれば、無言のまま月を見上げていたこともある。
 その全ては特に実のあるものでも、後に繋がるものでもなかったし、
 楽しかったわけでも、つまらなかったわけでもない。
 本当に何の意味もない時間だった。
 無駄と言い切ってよいものだった。
 だけど――
「永江様」
「何でしょう?」
 比那名居は目を伏せ、苦虫を噛み潰したような顔で、迷いながら口を開く。
「その、娘のことなのですが……何か貴女様に失礼を働いてはいないでしょうか?」
 その瞳の裏にある影に気付きつつ、私は敢えて無視して
「さて、失礼とはどういったものでしょう? 良ければ浅学な私にも解るように、詳しく教えて頂けないでしょうか」
 なんて可愛げのないことを言ってみた。
 案の定、比那名居は一瞬だけ苛立ったような表情を浮かべたが、目を細める私の顔に何を見たのだろう、そのままバツが悪そうに頭を下げる。言うべき言葉を探しあぐねているようで、その頭を見下ろしながら私は花のように笑う。
「冗談ですよ。地子さまには良くして頂いております。あの天真爛漫な笑顔に、どれだけ救われていることか。本当に感謝してもしきれないほどですよ」
「はぁ、それでしたら良いのですが……」
 煮え切れない態度を崩さない比那名居に対し、私は嫌味なほど朗らかに笑顔を向けた。
 この時、私は怒っていたのかもしれない。その心境がどこに根差したものかは自分でも定かではなかったが、一つだけ言えることがある。
 無意味で、無駄な、地子との会話。
 だけどそれは、私にとって決して無為なものではなかったのだから。
「では、そろそろ失礼致しますね」
「え、あ――」
 何を言いたいのか解っていた。
 だから何も言わせはしなかった。
 私はくるりと背を向けて、足早に(だけど決して急いでいるとは思わせないように)その場から立ち去る。背中に感じる鬱陶しい視線。それを完璧に無視して庭に出ようと玄関へ向かう。比那名居へと向けた意地の悪い笑顔を貼り付けたままだったが、今の気分が静まるまでは自分への戒めとしてこのままでいるとしよう。

 それにしても今のは危なかった。
 私はまだ何も決めてはいないのだ。
 これまで比那名居は不自然なまでに私を地子に会わせようとしなかったし、私もそれに気付きながらも敢えて地子に会おうとはしなかった。その気持ちは解らないでもないが、会ってしまった以上、物語が動き出してしまうのは止められない。
 とはいえ、まだ早すぎる。
 まだ物語は始まったばかり、これからどう動くのか予測すら立てられない。
 だが、
「さーて、我らがお姫さまは何処にいるのかしらね?」
 何も慌てることはないのだ。

 時間ならば、まだ幾らでもあるのだから――

    §

「くぅー! いつまでものらくらとっ!」
 炎のような激情のまま、地子は剣を振り下ろす。
 私はその軌跡を見極め、笑みを浮かべる程度の余裕を持ちつつ、軽く地面を蹴って間合いを離した。剣が空を斬る。慣性の法則に従って地子の体が前に泳ぐ。だというのに地子は振り下ろした剣をそのまま強引に、力任せに逆袈裟へと跳ね上げた。その鋭さだけは瞠目に値するものだったが、如何せんこの間合いでは躱すまでもない。振り上げる最中に地子もそれに気付いたのだろう、意味もなく振り上げた剣をまた闇雲に振り下ろす。
 はっきり言って、出鱈目だ。
 刃筋は通っていないし、体重も乗っていない。
 真剣に比べて遥かに軽い、竹光だからこそできる剣筋である。当たったところでどうということもないのだが、そもそもこの稽古の主眼は「私に触れること」なのだ。ある意味、型に嵌らず、出鱈目に振り回す地子の我流剣術は、「斬る」のではなく「当てる」という一点に関してなら、そこらの道場剣法よりよほど優れているだろう。
 なのに――
「な、なんで当たんないのよ!?」
 大きく踏み込んで薙ぎ払うように振られた剣を、同じ距離だけ後ろに飛んで躱す。
 どれだけ鋭い剣だろうと、届かなければ意味はないのだ。避けるとか、躱すといった動作すら必要ない。ただ間合いを調整すれば良い。これはそういったことを教えるための訓練なのである。にも関らず、
「あーもー!」
 地子はかれこれ半時も剣を振り回している。
 その体力は賞賛に値するが(しかもまだまだ元気だ)このままでは永遠に私には辿り着けないだろう。
「ほらほら、振り回しても疲れるだけですよ? もう少し緩急というものをですね?」
「うっさい!」
 折角の忠告を無視した挙句、さらに勢いよく剣を振り回しはじめた。
 まるで駄々っ子である。忠告を無視されたことにはちょっと傷ついたが、元々今回の件は私が切り出したものなのだ。自分から話を振っておいて、思い通りにいかないからと腹を立てるほど大人気なくもなくないです(三重否定)。
 それにしても……才能ないなぁ、この娘。
 振り返れば半時前。
 今日も今日とて仕事でこの屋敷を訪れたのだが、恙なく終えて庭に出てみると、地子が一心不乱に剣を振っていた。
 一応、素振りをしている、らしい。
 素振りというのは身体に型を覚えこませるためにやるものなので、同じ型を何度も何度も繰り返す必要がある。だというのに地子は出鱈目に振り回しているだけだった。あれじゃ子供のチャンバラごっこと大差ない。えいやっと掛け声だけは勇ましいものの、どうにもこうにも危なっかしい。
「何をしてるんですか?」
 見ればわかるだろ――そんな突っ込みも覚悟していたのだが、予想に反して答えはなかった。
 聞こえなかったのかなと思い、もうちょっと近づいてみる。構えは出鱈目とはいえ、剣閃そのものは意外に鋭く、風切り音が耳を裂く。
「総領娘さまー?」
 背後からとはいえ、あと三歩踏み出せば触れることができる距離である。
 なのに地子は気付かない。
 一心不乱に、剣を振り回すだけ。
 私は軽く肩を竦めて、そのまま眺めることにした。
 何のつもりか知らないが、ここまで真剣にやっているのだ。水をさすほど野暮ではないし、取り立てて用事があるわけでもない。私は眩い日差しを避けるように手近な木の幹へと背中を預け、向こうが気付くのを待つことにする。
 待つことは嫌いじゃない。
 だって、ただ待っていればいいのだから。
 ふと上を見上げれば、木漏れ日がきらきらと瞬いている。天界はいつだって晴れているから(当然だ。雲より高いが故の天なのだから)こういう、日の光を遮るものという概念をつい忘れそうになる。星のようにちかちかと瞬く光。それは変化であり、流れであり、移りゆくものであり、そのどれもが天界には欠けているもので――満ちているが故の完璧さは、満ちているが故に欠けているという矛盾に誰も気付かない。気付こうともしない。
 否、気付いているのかもしれない。
 気付きたくないだけかもしれない。
 欠損は瑕であり、瑕は忌むべきものだ。瑕を、痛みを取り除くことこそが完璧に近づく手段であるならば、完璧を得た後に敢えて瑕を抱えるといった行為は、自己否定にすら繋がるのだろう。だとすれば何かを求める者は永遠に欠けたままであり、だからこそ永遠に求め続けなければならないのだろう。なんという矛盾式。それは魂の牢獄に囚われているようなもの。だとすれば………………………………………………………………………………えーと、何だろう?
 上手く思考が纏まらない。
 とりとめのないことを考えているなと自覚する。
 きらきらと瞬く光は、私の心さえも万華鏡のように散らし、そのとりとめのなさ故に私の心は浮遊する。ふわふわとした気分。ゆらゆらとした気分。そんな在り方は、嫌いじゃない。
「はぁっ!」
 地子が一際大きく剣を振りかぶって、裂帛の気合と共に振り下ろす。
 その声に意識を戻され、私は地子へと目を向けた。どうやら一段落したようで、地子は振り下ろした姿勢のまましばらく息を荒げていたが、大きく頭を振り回して額の汗を払うと、やっと私の存在に気付いたのか驚いたように目を丸くする。
「え、あれ? いつからそこに?」
「さっきからいましたよ。夢中で気付かれなかったようですが」
 途端に地子が「あっちゃー」とバツの悪そうに片手で顔を覆う。
 そのまま肩を落とし、地面に沈み込みそうなくらい落ち込んでいたが、急に立ち上がってつかつかと歩み寄ると「お願い! お父さまには内緒にしといて!」と真剣な顔つきで、そうのたまった。
「どうしてですか? ただの練習でしょうに」
「うー……だってお父さまにいっつも言われてるんだもん。天人たるもの、努力している姿を迂闊に人に見せるなって」
「あらあら」
 また、それか。
 まぁ、そういう風潮があるのも確かだ。天人というものは生まれながらに優れているものであり、初めから一線を画すものと認識している者は割と多い。本来であれば厳しい修行の果てに仙人となり、そこからまた修行を積んで天人となるのだから、天人とは努力と苦労の塊であるはずなんだけど、どうにも天人のふわふわふらふらした言動はそういう苦労や努力と縁遠いイメージがあるらしい。修行している姿をあまり人に見られたくないという感覚は、天人ならばそれほど奇異なものではないのだろう。
 まぁ、天人に限らず、努力している姿なんてあまり見られたくないものだけど。
 その気持ちは、私にだって非常によく解るのだけれど。
「とはいえ、もう見ちゃいましたしねぇ。口外するつもりはありませんけど」
「うー…………」
 地子はなんだか複雑そうな表情で、がしがしと地面を蹴っている。
 気恥ずかしいというのもあるのだろうが、どうやらそれだけではないようだ。
 気恥ずかしさ、苛立ち……それ以外にも何かが混じっているような気がする。裏を読むのが得意な私でも、容易に判別できないような混沌した感情。私の中の何かがむくりと鎌首をもたげ、ちろりと舌を出し始める。
「剣は」
「ん?」
「剣は我流ですか?」
「……そうよ、悪い?」
 はぁん。
 なるほど、ね。
「誰かに教わったりはしないのですか? 失礼ですが総領さまのお力添えがあれば、名のある剣士を呼び寄せることもできるでしょうに。如何に『天人たるもの、努力をしている姿を耳目に晒すべからず』というお考えなのだとしても、内密に行う術など幾らでもあるのでは?」
「………………」
 ちょっと、いじわるだったかな?
 予想通り、地子は悔しそうに唇を噛み締めていた。
 先程まで不明瞭だった『色』が、今ははっきりと見える。
 地子は唇を噛み締めたまま、誤魔化す術も知らぬまま、ただ私に誘われるままに。
「お父さまが……お前には才能がないからって……」
「それで?」
「だから……お前は何もせず、じっとしてろって……」
「それで?」
「だから……こっそり練習してんのよ! それが悪いっての!?」
 複雑だった表情は、私に対する怒りへと転化された。
 だがもう遅い。私はすでにその『色』を見切っている。
 怒り、悲しみ、諦め。
 焦り、苛立ち、そして――劣等感。
 なるほど、剣が荒れるわけだ。
 これでは本当に、ただ駄々をこねる子供に等しい。
 ここ数ヶ月、私は屋敷における地子の扱いというものを、じっくりと観察してきた。
 父親である比那名居は言うまでもなく、お付きの者たちですら地子を軽んじている。無論、総領の娘ということでそれなりに手厚く遇されてはいるものの、それは所詮形式上のものに過ぎない。地子が消えた後、くすくすと口元を隠して笑う天女の姿を見たこともあるし、陰口でも叩いていたのだろうか、私と地子の姿を目に留めた途端、あからさまに狼狽して逃げ出した者もいる。
 地子は――確かに、あまり聡いとは言えない。
 それなりに厳しい教育を受けてきたのだろう、同じくらいの年頃(あくまでも外見年齢という意味で)の子供に比べればかなり博識ではあるものの、どうにも表層しか捉え切れていない節がある。いや本質を汲み取れていないというわけじゃない。汲み取ってはいるものの、大胆なまでに単純化し、自分の中の倫理、道徳、常識に沿って都合の良い解釈をしてしまうことが間々あるのだ。
 無論、それは地子に限らず、誰だってそうなのかもしれないけれど――
 地子はまだ自我すら芽生えぬ幼子だった折に、この天界へと来ることになったらしい。
 他人を知る前に、この隔離された閉鎖環境へ、
 穢れを知らず、それを伝える者もないまま、
 ただ、ただ、実感の伴わぬ知識だけを詰め込まれて。
「な、何よ! 何とか言いなさいよ!」
 沈黙したままの私に業を煮やしたのか、手足をバタつかせながら地子が叫んだ。
 改めて地子を見る。
 細い手足。長い髪。感情豊かな表情。
 愛らしい、愛くるしい顔立ち。
 天人でなければ、天人でさえなければ、十分に愛情を受けられていたはずの。
 なのに、地子は――
「総領娘さま」
「な、何よ?」
「貴女は――何故、剣を?」
 私の質問に対し、地子は一瞬言葉に詰まった。
 目を逸らし、苦々しげに唇を噛んで、
「強く……なりたいからよ」
 消え入りそうな声で、そう告げる。
 だが私は手を緩めない。そのまま追い討ちを掛けるように言葉を繋ぐ。
「どうして強くなりたいと思ったのですか?」
「強くなりたいからよ! そんなもんに理由なんてないでしょ!」
 言葉の棘に刺され、血を吐くように地子は吼える。
 だけど駄目だ。そんな誤魔化しは通用しない。許さない。
「強く? どうして貴女が強さなど求めるのです? 貴女は総領娘。放っておいても、何もしなくても、時がくれば自動的に貴女は天人へと昇格されるのでしょう? 天人ともなれば自ずと力は付いてくるものです。この天界で、何処に強くなろうと努力している者がいますか? そんなものは不要なのですよ。天人と成るだけで、成ったその時点から、下界の凡俗とは一線を画す力がその身に備わる。頑強な肉体、強靭な精神、ありとあらゆる知識がその小さな身体に満ち溢れ、貴方は居ながらにして全てを統べる力を与えられるのです。貴女はただ待てばいい。総領さまの仰るように、何もせず、じっとして、ただ時が来るのを待てばいい。修行など無意味ですよ。何故なら天人たちの強さは――修行如きでは決して至ることのできぬ、文字通り聖域なのですから」
 一振りで地上を焼き払う杖。
 食すだけで鬼神の如き力を与える仙桃。
 決して死なぬ、不滅の肉体を授ける神酒。
 修行の果てに身に付けたものではなく、
 修行の末に『神々に認められたが故に』与えられた力。
 それが天人たちの強さ。規格外の、神の御業。
 剣では、剣の修行如きでは、何百年経ても決して届かない領域。
 地子は答えない。
 泣きそうな、叫び出しそうな顔のまま、ただひたすらに地面を睨む。
 地子は決して聡くはない。だが、そこまで愚かでもない。
 だから解っている。痛いほどに解ってしまっている。
 だけど、それでも――
「……そんなの、本当の強さじゃない。私は、私の力で強くなりたいのよっ!」
 そんな風に。
 それが虚勢に過ぎないと、自分で解っている癖に。
 虚勢に過ぎないという事実から目を逸らし、自らを奮い立たせるように私を睨む。
 その視線に――ぞくりと何かが背中を這う感触があった。
 言葉ではない。その視線に篭められた意志に、私の中の何かが産声をあげる。
 例えるなら歓喜。ともすれば悲哀。
 二つの相反する感情が同時に私の心を急き立て始め、ざわざわと腹の底で蛇がのたうつ。
 そうか。それを望むのか。
 天人でありながら、天界に住みながら、それでもそれを求めるのか。
 ならば、ならば――この娘には『資格』がある。
 私はこみ上げる笑みを押し殺すようにやんわりと微笑んで、

 ――私でよければ、お相手しましょうか?

 なんて。
 柄にもないことを言ってみる。
「え?」
 地子は戸惑ったように目を開いた。
 だが考え込む隙など与えない。私は畳み掛けるように言を放つ。
「私も龍宮の使いとして、それなりに戦い方は心得ております。確かに剣については得意ではありませんが、剣のあしらい方に関しては、我ながら大したものだと自負しておりますよ? 努力する姿を他人に見せたくない――その気持ちはよく解りますが、私はもう見てしまったわけですし、ね。無論、総領さまには内緒にしておきますし、此処ならば他の天人たちに見咎められることもないでしょう。如何ですか?」
「で、でも……」
「一人の力には限界があります。無論、私の力など微々たるものですが、それでも多少の手ほどきはできましょう。いえ、私如きが手ほどきなどと思い上がりですね。総領娘さまは卓越した才能をお持ちです。ですから私のことなど、ただの踏み台と思えば宜しい。私を利用し、私から強さを奪えばいい。貴女ならそれが出来るはずです。何故ならば貴女は――名高き比那名居の一人娘なのですから」
「だけど……そんなの……」
「何を躊躇うのです? 私を気遣っておられるのですか? だとすればそれは見当違いも甚だしい。確かに貴方は類まれなる才をお持ちです。ですが碌に修行もしていない今の貴女では、私に触れることすらできないでしょう」
「……修行は、してるわよ」
 流石にカチンときたのか、地子は唇をへの字に曲げる。
「さて……先ほどの様子を見る限りではとてもとても」
「舐めないでよね! 私が本気出したらアンタなんかコテンパンなんだから!」
「では、試してみますか?」
「上等! やってやろうじゃない!」
 そう言って、地子は青眼に剣を構える。
 私もまた半身に構えながら、

 ああ、もう、扱いやすいなぁ、なんて。

 真っ直ぐに、考えなしに突っ込んでくる地子を眺めながら、一人ほくそえむのだった。




  3

 龍宮――そう聞いて、人はどんなイメージを抱くのだろう。
 浦島太郎が語ったように、鯛やヒラメが舞い踊る天国のような場所だろうか。
 それとも古代中国に代表されるような、煌びやかな宮殿を思い描くのだろうか。
 答えを知る者は意外と少ない。
 力を持った者ほど龍は畏れの対象であり、近づきがたい信仰であり、遠き存在となる。天人ですら龍と見えた者など一握りであり、八百万の神如きではその影すらも踏めはしない。
 龍とは創造神であり、原初の一であり、絶対的な存在であり、
 誰もがその存在を知りながら、誰もその実体を知らない。
 そして、だからこそ、
 龍に仕える私は、龍の側に在るというただそれだけで、自身を特別な何かのように感じていた。とある縁で龍に仕えることとなった私は、それを誇りに思うと同時に、口にはしないまでも数多の存在に対する絶対的な優越感に浸っていた。驕っていた。傲慢は余裕となり、表層的な慈愛と化す。多くを持つ者は持たざる者に対し、持てるものを分け与えねばならないなんて捩れた優しさを振り翳すようになる。そして更なる優越感で満たされたいと思ってしまった私は、更に、更に――
 愚かだったと思う。
 愚かで、そして間違っていたと、今となってはそう思う。
 龍は何も言わぬまま、ただ、其処に在る。
 私の想いなど全て見透かした上で、何も口にすることなく、ただ、其処に。
 風が鳴る。
 轟々と風が鳴る。粛々と風が鳴る。
 飄々と風が鳴く。渺々と風が鳴く。
 その全てが龍の言葉であり、想いであり、意思であり、
 吹き荒れる嵐の只中で、奇跡のような静けさを保ったこの場所で、
 私は――龍と向かい合っていた。
 実体などない。
 だけど確かに、其処に居る。
 この嵐こそが龍宮であり、龍宮とは龍そのものだ。
 私は龍と向かい合いながらも、龍の腹の中にいるに等しい。
 風の音にしか聞こえないそれを、言葉へと置き換えるのが私たちの仕事。人によっては宮殿であったり、神々しい蛇の姿だったり、達観した老人の姿だったり、見目麗しい女人の姿にも見えるそうだが、これが、これこそが龍の本質だ。
 吹き荒れる嵐。力の象徴。ただ、其処に在るもの。
 私に見えている(いや、何も見えてはいないが)この姿もまた、本質とは異なるのだろう。今の私にとって龍の本質が見えていないからこそ、私には其処に何の姿も投影することができないでいるだけだ。実体のない概念――それが私にとっての龍であるというだけに過ぎない。
 風の音に耳を傾ける。
 ただの風に過ぎないそれが、私の中を通り抜ける瞬間、残滓のように残るものがある。
 それが龍の言葉。
 意味のない、言葉ですらない言葉。方向性のない混然とした意識。
 それらを拾い集め、繋ぎ合わせて言葉と成す。それが正しいのか間違っているのか確かめる術もないまま、龍宮の使いたちは必死で風に耳を傾ける。
 愚かであり、滑稽だ。
 だがそこに「力」がある限り、それは絶対の預言となる。
 龍の力は世界そのもの。龍が「在る」と言えば、それは何がどうであろうと存在することとなるし、龍が「在らず」と言えば、それはどれほど確固たるものであろうとも存在そのものがこの世から抹消される。然かしてその言葉は決して恣意的なものではなく、ただ「在る」が故に「在る」といった極めて自然なものであり、だからこそ龍はこの世の摂理そのものなのだ。
 私たちに課せられた責任は重い。
 龍の言葉が絶対の真実である以上、その言葉を聞き誤るようなことがあってはならない。
 業っと一際強く風が嘶く。龍が私の中に嵐を残す。
 その言葉を受け止め、私は深く頭を下げる。実体すら持たぬ龍に対して、頭を下げるという行為にどれほどの意味があるのかも図れぬまま――私はそっと龍に背中を向けた。

  §

 今宵はまた、一段と冷える。
 冬の月は凍えそうなほど玲瓏と輝き、水面に映る月は氷盆のよう。
 風一つない静かな夜だったが、それが故に寒さは底から響いてくる。吐く息は白く煙り、視界を淡く焦がしていく。
 汗が引いてきたのだろう、地面にへたりこんだままの地子がぶるりと体を震わせた。
 羽衣を伸ばしてそっと地子の首に巻いてやると、地子は嬉しそうに巻かれた羽衣へと顔を埋める。最早定例となった感のある地子の修行に付き合ったせいで、今はまだ身体が火照っているものの、程なくして深とした寒さが足元から上ってくるだろう。
 だというのに、私たちは呆けたように月を眺めている。
 これもまた、いつものことだ。
「衣玖ってさぁ、お母さんみたいだよね」
「失礼ですね。私がそんな歳に見えますか?」
「んー……そういうわけじゃないけど……なんか、そんな感じ」
 そんな風に無邪気に笑われたら、怒ることもできやしない。
 代わりに首に巻いた羽衣をきゅっと強めに締めてやると、地子はくすぐったそうにまた笑う。
「もう二年、ですか」
「んー、何が?」
「私と総領娘さまが出会ってからですよ」
「ああ、もうそんなに経つのかぁ。早いものねぇ」
 正確にはもう少し前になるけれど。
 仕事の関係で此処に来るのも二ヶ月ぶりなのだから仕方がない。地子の修行に付き合うのは、あくまでも仕事のついでに寄った時だけだ。特に約束しているわけでもないし、仕事の都合で地子の顔も見ないまま立ち去らねばならない時もある。
 それでも機会があれば、必ず二人の時を過ごした。
 約束などしたことはないが、いつの間にか会うのはこの場所と決まっていた。
「そういえば……初めて会った時もこんな月だっけね?」
「そうですね」
 あの頃はもう少しだけ風も優しかったし、星の位置も若干違う。
 だけど月は変わらなかった。
 あの頃と同じく、空と水面の両方で、冷たく哂っていた。 
「丸いねぇ」
「丸いですね」
「美味しそうだよねぇ」
「美味しそうですよね」
 だから私たちも変わらない。
 特別近くなったわけでも、遠くなったわけでもない。
 私は私で、地子は地子だ。何も変わらない。
 仕事の関係でこの屋敷を訪れた折に、少しだけ剣の相手をする程度だ。我流の練習は続けているようだが、相変わらずがむしゃらに振り回すだけで大して成長していない。少しは駆け引きというものを理解したようではあるが、頭に血が上るとすぐに忘れてしまうのだから意味はなかった。相変わらず私は両手を使わなかったし、まだ一度も触れられていない。
 だけども、こうして羽衣を通して繋がるくらいには。
 地子が自分のことを聞かれる前に話すくらいには、近くなったのかもしれない。
「衣玖ってさぁ、お母さんいるの?」
「いましたよ。随分昔に亡くなりましたがね」
「そっかー」
 私とおんなじだ、そう言って地子は笑う。
「お母さんのこと、どれくらい覚えてる?」
「そうですねぇ……どうにも捉えどころのない人だったと思います。唐突に何処かへ出掛けて一ヶ月も帰ってこないこととかありましたし。父は父で仕事ばっかりでしたからねぇ。そんなわけで、あまり家庭というものには馴染みがないのですよ」
「あはは。それも私とおんなじだ」
「失礼ですが……総領娘さまは、ご母堂のことをどのくらい覚えてらっしゃいますか?」
「んー……」
 地子は座り込んだまま、両手で確かめるように羽衣を握り、
「こっちに来る前に死んじゃったしねぇ。正直あんまり覚えてないわ。だけど……」
「だけど?」
「衣玖に似てた。顔とか、髪型とかじゃなく、なんてーかな、雰囲気が。いつもにこにこしてたけど、怒らせるとそりゃもう怖くてねぇ。だけど、うん、優しかったよ?」
「そうですか。それは光栄ですね」
 地子の母は天人ではない。
 比那名居の一族が天に登る前に、天に召されたからだ。
 皮肉な話だが、それが事実なのだから仕方がない。
 仲睦まじい夫婦だったと聞く。
 病で妻を亡くし、その悲しみを紛らすように仕事に励み、それが故に(名居の功績があったとはいえ)天人になれたのだろう。その苦労に対し、思うところがないでもないのだが――
「総領娘さまは……総領さまのことをどう思っていますか?」
「んー…………」
 地子は羽衣に顔を埋めたまま、考え込む。
 随分と長いこと唸っていたが、やがて顔を上げ、空の月を見上げながら、
「好きだよ?」
 透明な笑みを浮かべたその顔は、ほんの少しだけ大人びて、哀しげで。
 似合わないはずのその顔が、何故かとても自然で、自然になってしまっていて。
「昔に比べてあんまり構ってくれなくなっちゃったけど……忙しいもんね。仕方ないよ」
 そんな表情を浮かべたまま、
 地子はへらりと、力なく笑う。
「昔って……地上にいた頃ですか?」
「というよりお母さまがいた頃、かな? ちっちゃかったからあんまり覚えてないけど、お手玉とか鬼ごっことか、よく遊んでもらった記憶あるし。でもね? それが淋しいってわけじゃないの。お父さまには総領としての責任ってもんがあるもんね。うん……お父さまのことは尊敬してるし、少しでも力になりたいって思ってる。だから、」

 ――早く天人になりたいの。

 そう言って、地子は笑った。
「なれるといいですね」と言って私も笑う。
 空に月。地にも月。二つの月を視界に収めながら私たちは笑う。
 水面に浮かぶ月は凍れるように固定され、手を伸ばせば本当に触れられるような気がする。
 いや、気のせいではないかもしれない。
 水面の月を通って妖怪たちが月に攻め込んだという故事が事実なら、今なら本当に月を掴めるかもしれない。風一つなく、揺らぐことのない水面は、私たちを異なる世界へと誘っているのかもしれない。
 ほんの少し足を踏み出すだけで。
 ほんの少し、手を伸ばすだけで。
 それは手に入るのかもしれない。掴めるのかもしれない。
 だけど私は手を伸ばさない。
 地子ももう、手を伸ばさない。
 無邪気に、無垢に、水面の月へと手を伸ばしていた地子はもういない。
 冬の冷たさが、そんな熱を地子から奪い去ってしまったのかもしれない。
「冷えてきましたね」
「そうね」
 そう言いながらも、どちらも動かない。
 互いを結ぶ羽衣の温かさに、縋るように、祈るように。
 空の月と、水面の月は、今でも冷たく其処に在る。
 嘲笑うように、ただ己の美しさを誇るだけ。
 私たちは、その輝きを、物欲しそうに眺めている。
 愚かと言うならそうなのだろう。
 哀れと言うならそうなのかもしれない。
 でも、私たちに何ができたというのだろう。
 空と、水面の、二つの月を、

 ただ、眺める以外に、何ができたというのだろう――







 地子の廃嫡が正式に決まったのは、

 その翌月のことだった――







  4

 遠い昔の話だ。
 当時の私は龍宮の使いという役目に対し、文字通り命を懸けていた。
 その頃の私には龍宮が煌びやかな神殿に見えていたし、御簾越しに投げ掛けられる龍神からの言葉は福音にも等しかった。龍宮を疑うことなど思いもよらなかったし、龍神の言葉を下々の者たちに伝えるということに並々ならぬ使命感を抱いていた。誇りを抱いていた。
 何しろ私が伝える言葉一つで、文字通り世界が動くのだ。
 無論、動かすのはその世界を統べる権力者たちで、私は(或いは龍の言葉は)その切欠に過ぎないのだけれど、それでも龍が告げる吉凶の兆しによって世界そのものが大きく揺れ動く様に、世間知らずの小娘に過ぎない私がどれほどの高揚を得ていたか。
 或る時は西の国に吉報を伝え、
 また或る時は東の国に凶事を伝えた。
 龍の言葉は何しろ難解で(その頃は風の音ではなく、穏やかな老人の吟じる漢詩に聞こえていた)、その言葉の真意を掴むのに大層苦労したものだったが、どうにかこうにか大過なく務めを果たしてこれたと思う。
 吉報を伝えた時の人々の嬉しそうな顔は、私の心にも温かなものを与えてくれたし。
 凶事を伝えた時の人々の狼狽する様は、他人事ながら酷く申し訳ない心地にさせた。
 誰だって凶報なんか伝えたくない。時には理不尽な恨みを被ることもあったし、八つ当たりのような非難をぶつけられることもある。当たり前だ。龍の宣託は罪人に対する裁きではなく、ただこれから起こることを予め伝えるというだけなのだ。そこに意思は(善意も悪意も)ないのだから、あらゆる災害はそれを被る者たちにとってただただ理不尽なだけである。
 無論やがて来る災厄を事前に通達することで被害を最小限に食い止められると思えば、どのような予言であっても尊ぶべきものには変わりないのだが、最小限といっても被害は被害だ。水害によって(例え死者が一人も出なかったとしても)家屋は水没し、畑は流され、その後の建て直しにどれだけの労力を必要とするか――考えただけで気が滅入る。本来ならぶつけようもない怒りは、天に唾するものとして飲み込むしかないのだが、実際に天の使いが目の前にいるのだから文句の一つも言いたくなるだろう。
 当然だ。私だってそうする。
 龍ってのがそんなに大したものなら、災害の一つや二つ、その力で止めてみせろ――そんな風に思うだろう。
 だから、だろうか。
 龍宮の使いとしての自らの役に誇りを抱きながら、
 私はいつしか龍に対する、ある種の疑念を抱くようになっていた。
 疲れていたのだろう。
 だから、あんな真似をしてしまったのかもしれない。

 ――近いうちに大地震が起きます。

 そう告げた時、当時の国長は酷く狼狽した。
 規模や日時については不明だが、近いうちに必ず大地震が起きる。備えよ、と。
 そう告げられた国長は、他の有力者たちを集めて何日も議論を行った。地震の備えとして老朽化した建物を打ち倒し、食料などの備蓄を用意し、火災や水害に対する策を次々と編み出していった。いつ来るのかはっきり解っていればそこまで大掛かりな対策は必要なかったのかもしれないが、いつ来るか解らないのでは予想されるあらゆる状況に対応できるよう常に万全の体勢を整える必要があったのである。
 お触れが出され、国中が動揺した。
 国長の指示により大きな混乱こそなかったものの、人々はいつ来るやもしれぬ(しかし託宣によって来ることだけは確実な)災いに怯え、国中が帯電しているかの如くぴりぴりしていた。
 そんな人々の姿を空から眺めつつ、私は一人怯えることとなる。
 託宣は嘘だ。
 何でそんな嘘を吐いてしまったのか、正直なところ自分でもよくわからない。
 予言するだけで何もしようとしない龍に対する当て付けだったのか、
 それとも龍に対して不信を募らせる人々に対する意趣返しだったのか。
 私は仕事で方々の国を巡りながらも、碌に仕事に身が入らなかった。龍の前に立つ時は足が凍りつきそうだったし、人々の前に立つ時は不安で逃げ出したくなるほどだった。
 それでも――心のどこかでざまあみろと思っていた。
 だって地震なんてこないのだ。
 龍の予言でも当分大きな地震は来そうになかったし、それに地震がいつ来るとも言っていないのだ。百年後かもしれないし、千年後かもしれない。そういう意味では私は嘘なんか言っていない。不安で不安で仕方がなくて、それでも狼狽する人々の姿が面白くて、表情を隠すことばかり上手くなって。
 龍を尊敬していた。
 人々のことが好きだった。
 でも、だからこそ、試してみたくなった。知りたくなったのだ。
 嘘の預言をしてしまった私を、龍はきちんと罰してくれるのか。
 嘘の預言をされた人々はそれでも龍を、私を信じてくれるのか。
 訳が解らない。自分でも無茶苦茶だと思う。
 今になって思えば、子供が親の気を引くために行う悪戯のようなもの。反抗期なんて言葉で括られることも恥ずかしくなるような、子供じみた行動。情けない。恥ずかしい。もしも時を巻き戻せるなら、当時の私を張り飛ばしてやりたい。
 嘘を吐くことによる罪悪感と、嘘を知るのは自分だけという優越感。
 その二つの間で私はゆらゆらと揺れ動き、
 そして――

 本当に地震が起きた。
 記録にもないほど大きな地震だった。

 人々は諸手を挙げて喜んでいる。
 預言のおかげで被害は(地震の規模に比べると)驚くほど少なかったし、死者もたった数十人で済んだ。家屋は軒並み破壊されたけれど、地震に備えて蓄えはしてあったし、復興作業も驚くほどスムーズに進んだ。「全ては龍神さまの預言のおかげだ」と人々は讃えた。勿論、その預言を伝えた私に対しても賞賛の言葉は届けられた。

 わたしはあたまがまっしろになった。

 地震なんて起きない。そんな預言は受けていない。
 龍の力は絶対で、これほど大きな地震を予言できないはずはなく、もし予知できなかったのだとしたら龍の力が偽物だということになってしまう。
 訳が解らなかった。私は酷く混乱した。
 龍の言葉は難解で、龍宮の使いである私たちにすら判断は難しい。だがそれでも私たちは必死で龍の言葉を理解しようとしてきたし、その結果これまでのところその預言が外れたことはない。それは私たちの功績だ、誇るべきことだ、そう思っていたのだが――

 ふと、気付く。
 何のことはない。
 龍は私たちの出鱈目な預言を元に、それを成就させていただけだったのだ。

 龍の言葉は難解だ、何を言っているのかさっぱり解らない。
 当たり前だ。龍の言葉に意味なんてなかったのだ。
 諸国を巡る私たちがその国の状況を見取り、龍の言葉を勝手に、都合のよいように当て嵌めていただけだ。近いうちに災いが起こる――国の空気からその不穏さを読み取り、読み取ったが故に無意識のうちに龍に確かめようとする。空気を読むことに長けた者たちが龍宮の使いに選ばれるのも道理だ。私たちが勝手に解釈して伝えた預言を元に龍は行動を起こすのだ。天地を統べ、世界そのものと同義である龍ならば、その程度のこと朝飯前であろう。だがそれなら龍は、予言だってできるはずなのだ。予言を元に現実を書き換えるのが朝飯前ならば、未来を見通し警鐘を鳴らすことはもっと容易であろう。

 ならば何故、そうしないのか。
 簡単である。
 龍は下界のことなど――興味がない。

 龍は神ではない。信仰の力など必要としない。龍は龍であるというだけで完成しており、下界の民の信仰など腹の足しにもならぬ。ただ求められたから答えるだけ。牛が尻尾で蝿を追い払うように、煩わしい人々の願いを『叶えることで』追い払っている。
 ならば私たちは何だ?
 龍宮の使いとは何なのだ?
 考えるまでもない――私たちこそが蝿である。
 下界に興味のない龍は、下界の願いを抱えて群がってくる私たちを、餌をばら撒くことで追い払っているだけだ。潰してしまえばいいのにそうしないのは、その方が面倒くさいからというだけだろう。蝿を潰せば手が穢れる――それよりはマシという話だろう。

 それほどまでに龍は絶対で、
 それほどまでに私たちは無力だ。

 預言が成就され、全てを悟った私には、龍宮が煌びやかな宮殿にはもう見えなかった。
 吹き荒れる嵐の中、絶対的な存在感を持つ何かがそこに在るという感覚があるだけだった。
 それが龍の本質に一歩近づいたからだとは思わない。私の中の何かが崩れ落ちただけだろう。
 龍は何も言わない。責めもしない。ただ静かに其処に在るだけ。
 だから私は――

  §

 あと数時間で年が変わる。
 大晦日――大つごもり、除夜とも呼ばれているが、要するにその年の最後の日。
 天界では今年の穢れを落とし新年を迎えようと、夜も更けたというのに未だ賑わっていた。
 穢れを落とす――そう、今日この日を持って地子は比那名居の家から廃嫡される。実際に地上に落とされるのは新年のごたごたが片付いてからになるだろうが、形式上そうなることに決められている。
 地上に落とされた地子は、比那名居の一族の遠縁の家に預けられることになる、らしい。
 天人ではないがそれなりに裕福な家で、特に苦労をすることはないとのこと。それに廃嫡されたとはいえ、腐っても比那名居家当主の娘だ。粗雑に扱われることはないし、むしろ様々な決まりごとに縛られることもなく、悠々自適な生活を送ることができるだろう。
 比那名居の屋敷には、大勢の天人たちが詰め掛けていた。
 例年の如く一族総出で新年を祝おうというものであり、今この場にいる天人たちにはまだ地子の廃嫡の件について知らされていない。地子のために集められたわけじゃない。地子のことはあくまでついでだ。今年のうちに穢れを落とすというだけなのだ。
 天人たちは楽しげに杯を酌み交わしている。流石に品格を重んじる貴人たち。無闇矢鱈と騒いだりするものはいないが、皆にこやかに酒を飲み、歓談し、歌のひとつも詠んだりしていた。今年の穢れを振るい落とそうと、一年を振り返り、苦笑しつつも楽しげに。

 ――そんな中、地子だけが暗く沈んでいる。

 父親の横にちょこんと座り、一族の者たちが(総領に対して)挨拶に来るたびに水飲み鳥のようなぎこちない会釈をする。そこに感情は感じられず、ただ抜け殻のように。
 私は龍宮の名代として席を共にしながら、そんな地子の様子をじっと窺っていた。
 白と茶を基調とした服も、よく梳られた長い髪も、全てが清楚に模られていて、表情の消えた人形のような顔は、それが故に儚さにも似た可憐さを生み出している。
 だからだろうか。他の天人たちも総領へと挨拶をする際(いつもなら完璧なまでに無視するはずの)地子に対しても一言二言声を掛けていく。その様子を見て、比那名居は複雑な表情を浮かべていた。
 それはそうだろう。
 今から捨てようとしている娘が褒められたところで、どうして喜ぶことができようか。
 それはある意味、総領として望んでいた娘の姿。何故今までそれが出来なかったのかと、むしろ苦々しく思っているのかもしれない。
 私は色々なものを飲み干すように、手元の杯に口を付ける。天界の酒はこんな時まで飲みやすい。するすると、するすると喉の奥を通過して、そのまま胃の腑をぽかりと叩く。
 やるなら早くしろと――私を急かすように。
 うるさいだまれ、そう思いつつ、私は手元の杯を一息に飲み干した。
 気を利かせた天女が空いた杯に酒を注ぐのを恨みがましく睨みながら、私はふと一月前のことを思い出す。

 ――立派な天人になりたいの。

 そう照れくさそうに語っていた。
 誇りを持ち、夢を語り、目を輝かせ、
 ぼろぼろで、汗だくで、泥まみれで、
 だけどそこには意思があり、意志があった。心があった。魂があった。
 今の地子には何もない。
 そして……それこそが天人として求められている姿だった。
 それを愚かと哂うのか。それとも哀れと嘆くのか。
 視線を比那名居へと向ける。天人たちに囲まれ、和やかに歓談する顔には苦悩の欠片すら見えはしない。その昔、子煩悩だった父親は、子を想う心すら捨ててしまったのか。この世の懊悩を全て捨て去ったが故に天に昇れたのか。だとすれば代わりに彼は何を手に入れたのか。

 愚かなのは誰なのか。
 哀れなのは誰なのか。

 まぁ。
 それもまた、妄想でしかないのだけれど。
 おそらく私は胸中で、無理に比那名居を悪役に仕立てようとしている。
 私に読めるのは空気であって心ではないのだ。地子の廃嫡は(龍宮に対し正式に申請してきた以上)事実なのだが、だからといってそこに苦悩がないと思うのは穿った見方である。
 鯰のような髭が気に入らない。似合ってもいない無駄に豪奢な服が鼻につく。竜宮に対して露骨に擦り寄ろうとするところも、慇懃無礼なその口調も、何もかもが腹ただしい――だが、それは私の主観に過ぎないのだ。
 貧相な小男であるのは、生まれ持ったものだから仕方がない。鯰髭も、華美な服装も、少しでも威厳を出そうという彼なりの努力の証なのだろうし、一族の長としての立場上、己の本心を捨て置いて、力あるものにへつらわねばならぬ時だってあろう。
 地子のことだって――彼なりに娘のことを思っての決断なのかもしれない。
 地子は誰が見ても天人らしくない。
 その天衣無縫な性格も、純真無垢な性質も、どちらも天人には不要なものだろう。
 だがそれこそが地子の魅力で、地子が地子であるために、天人であることが枷になるというのなら、刃を飲むような心地で、愛娘を地上へ送るという苦汁の決断を下したのかもしれない。
 たとえそれが地子の想いに反することだとしても――

 解らない。
 そんなことは神様にしか解らないし、当然のように私は神様じゃない。
 実際地子のことだけを思うなら、私だってその方がいいと思う。私が好ましく感じたのは、地子が地子であるからだ。地子が天人だからじゃない。天人らしくない、人間臭さを残したまま、それでも天を目指そうとしているところに好感を抱いたのだ。地子が地子でないなら(今この時のように、表情を消し、機械的に頭を下げるだけの綺麗なお人形なら)私は一瞥しただけで存在すら忘れ去っていただろう。
 ならば、私はどうするべきか。
「さて、どうしましょうかねぇ」
 呟きを聞きとめ、隣に控える天女が怪訝な顔する。
 無視して空になった杯を天女に突きつけると、一瞬だけ天女が顔を顰めた。
 無粋な輩だと思ったのかもしれない。知ったことか。
 それでも天女が笑顔を浮かべて(竜神様のご威光、此処に在り、だ)私の杯に酒を注ごうとした時――ふいに総領が立ち上がった。立ち上がって居住まいを正し、すぅっと息を吸い込む。
「歓談中申し訳ない。皆の者、ご清聴お願い致す!」
 その声に、座敷に居る者たちが一斉に惣領の方を向いた。
 新年を迎えるに当たっての挨拶でも始まると思ったのだろう。天人たちもまた居住まいを正し、総領の言葉に耳を傾ける。
「直に本年も終わろうとしているが、皆のおかげで今年も大過なく過ごせた。まずはそのことについて厚く感謝の意を述べたいと思う」
 そして比那名居は今年あった出来事についてつらつらと述べつつ、一人一人の名前を挙げてその功を褒め讃えた。よくもまぁ、そんな下らないことで持ち上げることができるものだと感心するが、それが出来るが故に反感を受けることなく総領であり続けることができるのだろう。他人に対する妬みや僻みを捨て去ったのものが天人ではないかと文句の一つも言いたくなるが、人間そう簡単に業を捨て去ることは出来ないらしい。それを成したものは天人ではなく、(名居守のように)神と呼ばれるのだから、中途半端なのも已むを得まい。人と違って、妬みや嫉みをあからさまにしないだけ内に篭るのだろう。全くもって救い難い。
 ふと地子に目を向ける。
 相変わらず表情を消したまま、話も聞こえていない様子だった。
「皆のおかげで比那名居は安泰である。改めて礼を述べさせて貰おう」
 総領が深く頭を下げると同時に、一同も倣って頭を下げる。
 私も形式上頭を下げたが、地子は動こうともしない。
 心を凍らせたか、それとも捨ててしまったのか。比那名居はそんな地子の様子を見て眉を顰めたが、特に何を言うでもなく皆の方へと向き直る。
「さて、そろそろ年が変わり、新年を新たな気持ちで迎え入れることとなるが、その前に皆に伝えておくことがある。我が娘、地子のことだが……」
 比那名居は神妙な顔で、痛ましげに目を伏せる。
 地子の身体がびくりと跳ねる。

 ――来た。

 いよいよ地子の廃嫡を、皆に伝えるつもりなのだ。
 今はまだ私を含め一部の者しか知らないが、公にしてしまえばもう撤廃できない。
「何もこんな席で」と思う者もいるだろうが、今年の穢れは今年のうちに片付けようというのだろう。地子の廃嫡に伴う世継の問題等を、新年のごたごたで煙に巻こうという腹なのだ。

 実の娘を穢れ扱いか――

「ひっ!?」
 隣にいた天女が小さく悲鳴を上げた。
 知らずに纏っていた私の雷気に当てられたのだろう、弾き飛ばされ転がっていく天女へとちらりと視線を向ける。知ったことか。私は転がる天女を無視して立ち上がると、両足を開いて地の道を開く。そのまま右手を高々と持ち上げ、天を指差すことで天の道がこじ開ける。上層と下層の電位差が拡大。空気中の絶縁値が限界突破。放出された電子が空気中の気体原子とぶつかりあうことで電離していき、それによって生じた陽イオンが電子とは逆方向に突進して新たな電子を叩き出す。電子崩壊が始まる。
 今、天と地は私を介して結ばれた。
 後は私が喚ぶだけで、龍がこの身に降りてくる。
 地子に目を向ける。急に立ち上がった私を驚いたように見つめている。目を見開いた顔。だがそれは人形のように表情を消した顔よりも、百万倍素敵な顔。私は地子に向けて軽く笑みを返し、軽く息を吸ってから、

 ――この身に龍を降ろした。

 凄まじい大音響に何もかもが根こそぎ吹き飛ばされる。天を貫く豪雷に拠って屋敷の天井に大穴が開き、放電現象によって焼失した畳が燻った煙を立ち上げている。閃光と轟音が吹き荒れた邸内では、卓も杯も一様に薙ぎ倒され、腰を抜かした天人たちが呆然とした顔で私を見つめていた。
「今、龍宮より託宣が下りました」
 誰もが唖然としたまま私を見つめている。
 無様に転げ、立ち上がることすら侭ならず、ただ、私を見つめている。
 いい気味だ。そのまま地べたを這うがいい。
「龍の血族に列なる者として、今、龍は比那名居地子の名を挙げております」
 比那名居が驚きに目を見開く。
 地子は戸惑ったように父親の顔を見上げる。
 他の天人たちは状況が掴めず、互いに顔を見合わせたまま私の言葉に耳を傾けている。
「但し、現時点において比那名居地子は龍となる資格を満たしていない。故にいずれ来るその時まで修行に励み、龍となるに相応しき品格を身に付けよとのこと。その証として比那名居地子には、全てを統べるものとしての意を持つ『天子』の名を授け、総領である比那名居は愛娘に対する指導を引き続き命じることとします。また天子が龍と成った暁には、森羅万象ありとあらゆる気を統べる存在となるでしょう。その時のために天界の宝物たる『緋想の剣』を天子に与え、早急に気の使い方についてもご教授くださいませ。天子が龍に足る資格を得たと判断された時に龍自らが迎えにくることと成ります故、その時まで――大事に育てられるよう、切にお願い申し上げます」
 その身に雷を纏ったまま、倒れ付す天人たちを睥睨する。
 誰一人、私の言葉を理解できていない。
 ただ一人、比那名居だけがわなわなと身を震わせていた。
 自分の娘が龍となることに対する歓喜の念か。それとも降って湧いたような幸運に、逆に不安と恐れを感じているのか。どちらも違う。私には解る。私だけには解る。比那名居は私を睨む。憎々しげに、怒り心頭といった形相で私を睨んでいる。だが何も言えない。言えるはずもない。私が涼しげに笑ってみせると、あからさまに顔を背けた。もう目を合わせようともしない。口を噤み、私にも、地子にも顔を背け、ただ、ただ、震えている。
 ざまあみろ――私は舌でも出してやりたい衝動に駆られたが、鋼の心で自制する。空気を読むことを旨とするこの私が、場の空気を壊すことなどできるはずもない。
 地子は呆然と立ち竦んでいた。
 何が起きたのか、何一つ理解していない。だがそれでいい。そのままでいい。
 改めて周囲を見回す。私が軽く身を揺するだけで身体から稲妻が奔り、天女たちは怯えたように身を竦め、天人たちは声も出せないでいる。 

「では、宜しいですね?」

 龍を降ろした私の言葉に、
 反論できるものなど誰一人としていなかった――

  §

 年が明ける。
 新しい一年が始まる。
 下界で鳴り響く除夜の鐘が天界にも微かに届き、私の中の煩悩を取り払っていく。
 煩悩――煩わしい悩みなど、もう、ない。
 私は晴れ晴れとした気分で、二つの月を見つめている。
 がさりと、草を掻き分ける音がした。
 地子(おっと、もう天子だったか)かとも思ったが、その足音は大人のそれだ。
 思ったより早かったな――そう苦笑しつつ、私は振り向く。
 背中に、空と、水面の、二つの月を背負ったままで。
「――どういうつもりだ、おまえは」
 怒りを隠そうともしない声の主は、予想通りのものだった。
 鯰のような髭。豪奢な衣。
 威厳を保とうと必死で、だがそれ故に滑稽な、貧相な小男。
「どういうつもり、とは?」
「惚けるな! 地子のことに決まっておろうがっ!」
 いつもの仮面を脱ぎ捨てて、怒気を隠そうともしない比那名居は、掴み掛からんばかりの勢いで私に詰め寄った。
「地子は地上に降ろすと、そう伝えていたはずだ! 何故今になってそれを阻害する!?」
 胸倉を掴もうとした腕をするりとすり抜けると、私はにっこりと微笑んでみせた。
「はて、あれは龍の意思ですよ? 私は龍の意を伝えただけ。何を怒っていらっしゃるのか解りませんが、私を責めるのは筋違いではありませんか?」
「抜け抜けとよくもっ!」
 比那名居は怒りの余り顔を赤く染めて、口角に泡を飛ばした。
「地子は……あれは……無味乾燥な天界などそぐわぬ! あの娘は生命溢れる地上でこそ光り輝くのだ! だからこそ儂は……儂は……心を鬼にして!」
 口調も、表情も、長年被り続けてきた虚飾の仮面を脱ぎ捨てて。
 昔ながらの、熱く激しい気性、そのままに。
 だけど私は動じない。
 静かに、揺らがず、月のように。

「あの娘がそれを――一度でも望みましたか?」

 そう、告げた。
 比那名居は痛いところを突かれたといった顔で、苦々しげに拳を握る。
「確かにあの娘は天界にそぐわない。あの娘の気性はこの狭苦しい天界などに納まるものではない。ええ、確かにそうでしょう。事実あの娘は退屈していたし、天界に対しても、天人に対しても、その在り方にとりたてて価値を見出していない。ですが――貴方だけは別でした」
 父のような立派な天人になりたいと。
 早く天人になって、父の力になりたいと。
 照れくさそうに、だけど迷いなく、地子は言った。
「敢えて娘に疎まれるよう、冷たく接していた貴方の苦悩は痛いほど解ります。ですがそれでもあの娘は貴方の力になりたいと……そう誇らしげに語っておりましたよ?」
 私の言葉に、比那名居は弾かれたように顔を上げる。
 だがそれも一瞬。一瞬後には沈痛に顔を伏せて。
「地子は……地子の人生は地子のものだ。儂なんぞのために犠牲になってよいものではない。儂は、儂なりに地子のことを思って……」
「その答えが、己が娘を捨てることなのですか?」
 比那名居が言葉に詰まる。
 私はそれを冷たく見据えながら、棘を刺す。心臓に、心の奥底に。
「どのような理由があろうとも……親が子を捨てることは許されません。いつか子が親元から離れるその時まで、親は親であることを止めてはならないのです」
「だが……それは……!」
 比那名居は言葉に詰まった。
 私の言葉は耳に心地よいだけの理想論だ。理想で救えない生命など星の数ほどあるし、理想で腹が膨れるはずもない。私自身、信じていないような絵空事。だが、理想を追い求めた果てに天人まで行き着いてしまったこの男には、それを否定することなどできるはずもない。
 項垂れる。
 比那名居は力なく項垂れる。
 思考に思考を重ね、意思と意志が鬩ぎあい、永遠にも思われた沈黙の果てに――比那名居は力なく首を振った。
「……地子が龍になるというのは……本当なのか?」
「嘘ですよ。適当に、それらしいことを言っただけです」
「やはり、か……」
 龍に意志などない。そこにあるのはただの意思。
 天界も下界もなく、天人も人間もない。龍が観ているのは世界そのものだ。
 龍になるということは龍に呑まれるということ。龍とひとつになること。大いなる流れそのものであるが故に龍と呼ばれる存在と同化するということ。天そのものである龍と同化することは、死した魂が天に還ることと同じなのだ。人は死ぬと肉体は土に還り、魂は天に還る。 そして天とは龍のことだ。天すら内包する、世界そのものが龍なのだ。人も、神も、妖怪も、永遠の存在などあり得ない。いずれ天に召される時がきたならば、誰もがみな龍となる。龍を構成する一要素と成り果てる。だからこそあの場で私が語った言葉は、嘘でもあり、真実でもあるのだ。私の言葉は龍の言葉。だからこそいつか、それが現実となる日も来るだろう。
 比那名居もまた――それを知っている。
 天人たちですら知りえぬ龍の真実を知っている。
 何故なら――かつて私がそれを教えたからだ。
 私の抱える悩みを、苦しみを、この男の胸にぶつけたことがあるからだ。
 だから知っている。なにもかも知っている。
 知っているからこそあの時怒りに肩を震わせたのだし、今こうして私に詰め寄っている。
 それを教えたのが比那名居だけだったからこそ、私は此処で、こうして彼を待っていたのだ。
「おまえは……それでいいのか?」
 比那名居は、それでもまだ、食い下がる。
「おまえは……おまえは……それでいいというのか?」
 怨むように、責めるように、私を睨みつけ、
 大切な何かに裏切られたように、怒りを、悲しみを堪えるように、

「地子は……おまえの娘だろうに!」

 顔をくしゃくしゃに歪め、目に涙すら浮かべて、熱く、熱く、比那名居は吼えた。
 私はその顔に懐かしさを感じながら――遠い過去へと想いを馳せる。

 最初は冗談じゃないって思っていた。
 地方の豪族の娘として生まれ、いずれ政略結婚の道具にされることは分かっていたが、それでももうちょっとマシな男の元に嫁ぎたいと思っていた。
 無論、そのような我侭が許される時代でもなかったし、思うだけで口にはしなかったけれど。
 意に沿わぬという意味では相手だって同様だ。この男もまた婚礼の儀が執り行われるその日まで、妻となる私の顔を見たこともなかったのだし、たとえ私のことを気に入らなかったとしても断ることなど情勢が許さなかっただろう。私たちの肩には一族全ての生命が乗っていたし、それを思えば好きだの嫌いだの言えるはずもないというのはお互い重々承知していた。

 なのに――この男は私を愛した。

 一目惚れだと言っていた。
 おまえのような美しい娘を妻と娶れて三国一の幸せ者だと、事あるごとに吹聴していた。
 私の気を引こうと何でもしてくれたし、本当に、心から私のことを大事にしてくれた。夜毎耳元で囁かれる愛の言葉は、最初こそくすぐったかったものだが、やがて安らぎすら感じるようになった。

 いつからだろう――私もこの男を愛するようになったのは。

 この国をもっと豊かにしたいというのが、彼の口癖だった。
 地震によって家を失くした人々のために私財を投げ打って救おうとしたし、親を亡くした子供たちを集め、十分な食事と教育を施した。彼の治める国の領民たちは、みな彼のことを尊敬し、そんな彼と共にあることを私は誇りに感じていた。
 相変わらず貧相で、背も低くて、逞しさの欠片もなくて。
 全然好みじゃないのに、全然好きじゃないのに、それでも私は彼を愛していた。
 幼い頃から侍従たちに、寝物語として恋の話をせがんでいた私は(おませさんだったのだ、私は)、恥ずかしいことにずっと恋に恋焦がれていた。白馬に乗った王子様に胸をときめかせていたし、美しい笛を奏でる美丈夫の噂を聞いていつか私も――と夢を抱いていた。いずれ私の意に関わらず、嫁に出されると知っていたが故に、恋の恋に対する想いは最早私にとって信仰にも等しかった。
 だから私は自分がおかしくなったと思った。
 恋と愛は違うのだと、
 恋をしなくても愛は生まれるのだと、、そんなこと誰も教えてくれなかったのだから。
 母に相談した時――そういうものよ、と言ってもらえた時、
 私はとても幸福なのだと――やっと実感することができたのだ。

 やがて私たちの間に子供が出来た。
 彼は大層喜んでくれたし、私も(不安は勿論あるが)とても嬉しかった。
 周りの皆も心から祝福してくれたし、何よりもまだ見ぬ我が子に早く会いたかった。
 抱きしめたかった。愛してるって伝えたかった。

 そして地子が産まれた。

 お産は大変だったし、痛みと苦しみで何度も意識を失いかけたけれど。
 生まれたばかりの赤子はしわくちゃで、猿みたいで、ほんの少しがっかりもしたけれど。
 それでも初めて乳をあげた時、戸惑いつつも、自分が母親になったことを実感できた。
 余りにもか弱き、儚き生命。
 それを両手に抱いた時、守るべきものを手に入れた時、
 人は初めて人になれるのだと――そんなことを考えた。
 この娘が愛しい。愛しくてたまらない。
 彼が愛しくて、地子が愛しくて、周りの人々すらも愛しくて。
 この国の全てを、世界の全てを、愛しいと感じた。

 地子を育てながら、彼と共に国の発展に力を尽くした。
 世界には未だ悲しみが溢れている。それらを取り除くことこそ私たちに与えられた使命だと信じていた。一部の優れた者が民衆を率いるべきという彼の理想と、民衆がそれぞれ自己の責任の下に国政を行うべきという私の理想との間で食い違いが生じた後も、私たちは共に手を取り合って国造りを進めていった。

 無理が祟ったのか、いつしか私は病に倒れる。
 彼はあらゆる手を尽くしてくれたが、それにも限界がある。
 私は彼の手を握り――地子のことをお願いしますと告げると、この世を去った、らしい。

 その辺りのことは、もう詳しく覚えていないのだけれど。
 龍宮の使いとして新たな生を受けた時に、記憶は全て失ってしまったのだけれど。
 その後、仕事としてこの屋敷を訪れた時、彼は私の顔を見て大層驚いた。
 全てを思い出した今となっては少しだけ申し訳ないとも思うが、いきなり抱きついてきた彼に最大級の雷撃をお見舞いした後も、しばらくの間比那名居に対する私の心証は最悪のものであった。
 その後幾度か顔を合わせ、私の記憶が徐々に戻っても、中々戸惑いは消せなかったけれど。
 それでもこの男が、かつて私が愛した男なのだと。
 それだけは何故か――すんなり受け入れることができた気がする。

 地子に対して名乗るべきかどうか、私たちは何度も話し合いを続けた。
 会いたいという気持ちは無論ある。だが地子にとっての母親はすでに亡くなっているのだ。
 彼は「おまえのしたいようにすればいい」と言ってくれた。
 だから――私は会わないことに決めた。
 冷たい言い方かもしれないが、私は一度死んだのだ。彼のことも、地子のことも、一度は完全に忘れてしまっていた。彼らには彼らの道があるように、私には私の道がある。ならば下手に関わるよりも、すっぱりとけじめをつけるべきだと思ったのだ。

 ――生きているならば、それでいい。

 彼も、私も、そう結論し、そしてお互いに仕事以外で関わることを止めた。
 彼は総領としての職務に専念し、私は龍宮の使いとしての役目に徹しながら、たとえ二人きりの時であろうとも総領と御使いという職務を忘れないようにし、地子のことは彼に託したまま、決して名乗り出ることのないように自分を戒めながら。

 だけど私と地子は出会ってしまった。
 ただの偶然で、気まぐれな月に誘われるように、私たちは出会ってしまった。
 だから――

「……おまえが何を考えているのかわからない」
 彼はそう言って項垂れる。
 項垂れたまま、悔しそうに唇を噛み締める。
「昔からそうだった……儂にはおまえが何を考えているのか、何を望んでいるのか、わからないままだった……」
 項垂れて、唇を噛み締めて。
 肩を震わせ、拳を握り締めて。
「それでも――儂はおまえを愛していた!」
 血を吐くように、声を振り絞る。
「おまえが愛していた世界を護りたかった! おまえの望む世界を創り上げたかった! 誰もが穏やかに暮らせる世界を! 儂の手で――!」
 声が響く。
 凍れる水面すらも震わせる。
 水面に浮かぶ月も揺れ、その像を崩し、それでも空の月は、私の心は――
「やはり貴方は何も解っていない」
 空を見上げる。
 月が変わらず哂っている。
「私は与えられたかったのではなく、創りたかったのですよ。貴方と二人で、ね」
 与えられるのではなく、与えたかった。
 与えられるのを待つだけでなく、共に歩んでいきたかった。
「だから地子には――幸せを与えるのではなく、幸せを掴んで欲しいのです」
 誰かに、一方的に押し付けられたものではなく、
 自分で選んだ道を、突き進む強さを――

 彼はがくりと膝をつく。
 蹲ったまま、小さな嗚咽を漏らす。
 だから彼の、かつて愛した男の背中から目を逸らし、
 空に向かって、
 哂う月に向かって、

 私はそっと、舌を出した。


 §

「緋想の剣には慣れましたか?」
「んー……よくわかんない。こいつってば時々勝手に動くのよ。右に振ろうとしてんのに左に向かったりさぁ」
「緋想の剣は相手の弱点を突くと言いますしね。今はまだその程度でしょうが、慣れれば相手の気質すら読んで攻撃できるようになるそうですよ」
「なにそれ。意味わかんない」
「実は私にもよくわかっていません」
 地子は――いや天子は、怪訝そうに緋想の剣を振り回す。
 その度に炎が舞い上がり、その名の通り周囲を緋く染めていく。
「最初は炎が出る剣だって思ってわくわくしてたのに、この炎ってば熱くもなんともないんだもんなぁ。期待外れもいいとこよ」
「極めれば月すら断つと伝えられております。さあさあ精進精進」
「うー、わかってるわよ!」
 額に付いた汗を拭って立ち上がると、天子は勇ましく剣を構える。あれだけ汗を掻いた後にこの回復力。そこだけは相変わらず流石としか言いようがない。
 相変わらず出鱈目に剣を振り回すだけだけど。
 私には未だに掠ることすらできていないのだけれど。

 地子は天人になった。
 名も天子と正式に改め、髪の色も青に変わり、緋想の剣を与えられた。
 父親である比那名居は、特に何も言ってこないらしい。
 好きなようにしなさいと――一度だけ抱きしめて、それっきりだそうだ。

 天子が振り回す剣を、巻き上がる炎を、相変わらず間合いを調整するだけで躱しながら私は心を空に飛ばす。浮かぶ月。闇に溶ける木々。黒々とした水面。そして水面に浮かぶ虚飾の月。作り物めいた影絵の世界で、ただ天子の放つ緋色の軌跡だけが色鮮やかに輝いている。
 私は地子に何を望むのか。望んでいるのか。
 彼に語ったように、地子が地子のまま、己の力で道を、運命を切り開いてくれることを願っている……その言葉は無論嘘ではない。
 だけど、それだけではないのだ。
 私は、地子が地子のまま、思うままに剣を振るってくれることを期待している。
 緋想の剣は気質を操る剣。今の地子では自身の気を緋い霧に変えることしかできないだろうが、極めれば万物全ての気を操ることが出来るようになり、目に見えぬものを誰の目にも見えるものに変え、更にその弱点を突くことまでできるという。
 気質は天の気。そしてそれは龍そのもの。

 伝承が真実なら――緋想の剣は龍すら殺せるはずなのだ。

 下界を見下す虚飾の楽園を。
 龍の気まぐれによって成り立つ世界を。
 それら全てを破壊し、人の手に世界を取り戻すことができるはずだ。
 所詮エゴだと解っているが、私は愛されたいのではなく、愛したい。
 この世の全てを、地子を、彼を、内包する世界の全てを――私の愛で満たしたいのだ。

 地子の剣を躱しながら、ふと空に目を向ける。
 いつもと変わらぬ月が、何食わぬ顔で其処に在る。

 見よ、この緋想の輝きを。
 月すらも断つ、極光の煌きを。
 だからそれまで哂っていろ。
 今はまだ、高みに在りて見下せばいい。

 いずれ私とその娘が、

 引き摺り下ろす、その日まで――

                                     《完》
コメント



1.無評価Kyanna削除
It's great to find an expert who can expalin things so well
2.無評価Elly削除
There has been some absenteeism that wa2&amrt-#8l17;s training of limiting its capsaicin juices in the program has been frozen in a longer buying interest to using with thin evening youths, or health patients other as candidates in florida, medicine wholesale.