穂積名堂 Web Novel -既刊公開用-

悠々来々

2012/12/08 14:59:50
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悠々来々

 ――目を覚ます切っ掛けとは、果たして如何様なものだろうか。
 蝉の声が五月蠅かったからか。烏がけたたましく鳴いたからか。周りの竹がざあと揺れたからか。差し込む日差しが眩しかったからか。或いは十分な睡眠を得たからか。寝返りを打った時にどこかをぶつけたりしたからか。喉が渇いたからか。腹が減ったからか。
 それとも、嫌な夢でも見たからか。
「――――」
 ぐるりと回る視界に頭痛を覚えて、妹紅は開いた瞳をきゅっと閉じた。そうして浮かんでくるのは先程まで見ていた夢の情景。前に夢など見たのは果たしていつの頃だっただろう。久しぶりに横になって休んだ所為かと、そんな事を考えた。
 別に嫌な夢だったという訳ではない。どちらかといえばよく解らない、不思議な夢だった。
 確かなのはとりあえず目が回ったという事と、おかげですこぶる気分が悪いという事だ。
 ぽつんと一人、立っていた。
 真っ白な地面に真っ白な空。壁はなく、どこまでもただただ白い、真っ平らな地面と空が続く世界。自分というものさえ曖昧で、何もなく、ただ何もなく。立っていると思っていたが、存在していたのは視界だけで他の一切を感じる事がない。一歩を進んだという実感はあっても、足を動かしたという感覚はなく、また地面を踏みしめている感触もない。前を向いても後ろを向いても、上を見ても下を見てもやはり何もなく、やがてその視界がぐるりと回ったかと思うと、今度はその真っ白な地面が、空がぐるりと回り出した。
 白い世界。真っ白な世界。
 回っているかどうかも見た目には解らないのに、ただ一つの視界は確かにそれらが回っていると認識して、ぐるぐると、ぐるぐると、回り回って回って回って――そうして目が覚めた。
 目を回した気分の悪さも幾らか収まったところで、閉じた瞼をそろそろと開く。思い出すとまたぐらりと視界が揺れて、少し頭が痛くなった。
 どうしたものかと久しく見なかった天井をぼんやりと眺めながら、妹紅が緩慢な仕草で視界を覆っていた前髪を払う。髪は容易くさらりと横に流れたが、触れた額の不快感に思わず手を止めた。
 寝汗が酷い。
 自覚してみれば尚一層。首や腕にもじっとりと汗が滲み、夜間の内に余程吸い込んだのか、背腹に触れる服の生地がやけに冷たかった。腹を冷やすだろうかと、まだいくらか靄のかかった頭で考えながら、それでも起き上がる気にはなれず、ごろりと寝返りを打つ。
 格子窓から差し込む光を見るに、巳の刻を過ぎた頃だろうか。少々寝過ぎたのもあんな夢を見た原因かと思いながら、視線は天井から床の上へ。日の当たる部分は暖かさよりも暑さが勝る季節。じりじりと焼かれるような熱を感じる肌とは裏腹に、床の上に散らばった長い髪は陽光に照らされて、日の中だというのに星のように煌めいていた。
 試しにいくらか纏めて摘み上げると、先程払った前髪と同じように、離した先からさらりと落ちていく。寝汗でべたつく肌とはあまりにも対照的で、妹紅にはそれが自分のものではない、何かの飾り物のように思えた。
 白い髪。真っ白い髪。
 何も生まれた頃からこのような色だった訳ではない。
 不死となる前、まだ妹紅がなんの変哲もないただの人間だった頃は、髪も人並みに黒かったのだ。人は大勢居たのに、関わる相手の少なかった家の中、それでも何人かの女中には綺麗な髪だと褒められた事もあった。いつから今のようになってしまったのかは思い出せないが、ある時自分の髪から色が失われているのに気付いて愕然とした事は覚えている。
 不死の体。死ねない体。例え粉微塵にされようとも、瞬時に元に戻ってしまう。死んでもいない、生きてもいない、老いることなく病むことなく、育つことのない蓬莱人。
 けれど、そんな状態でもほんのいくつかだけ変わるものがある。
 何も食わなければ腹は減るし、病にはかからずとも今のように体調を崩す事はある。放っておけば爪は伸びるし髪も伸びる。文字通り死ぬほど苦しい思いをしたくなければ、結局人として人らしい生活をしなければいけないのだ。
 蓬莱人となっても人を辞めたつもりのない妹紅にとってみれば、それらは有り難い事だったのだが、人であろうと思えば思うほどに、この白い髪が現実を突きつけてくる。
 昔々に誰かが言っていた。人の髪が色付いているのは生きるために必要だからだと。
 最近だと紫外線がどうのという話も聞いたが、つまりはこの体はもう生きるための何かを必要としていないのだ。蓬莱の薬によって全てが無効化されてしまう、言ってしまえば〝死んでも構わない〟この体では、もう髪を黒く彩る必要がないという訳だ。
 恐らくは目の色も同様なのだろう。髪が色を失った頃から、妹紅の瞳は白兎のような紅い色へと変わっていた。
 改めて見てみれば、肌もどこか普通の人よりも白い印象を受ける。藤原の家にいた頃は外に出る事が許されず、そのおかげで元々色が白かったのが原因かと思っていたが、果たして真相はどちらなのか、今の妹紅には解らない。誰かに聞けば解る事かもしれないが、どちらであれ答えを知る気にはなれなかった。
 もう一度床に散らばる髪を掬い上げて、さらさらと流していく。
 白い髪。真っ白い髪。
 真っ白な世界。
 幻想郷に来てから忘れかけていた、かつての日々が脳裏を過ぎる。
 なるほど、そうしてみればやはり嫌な夢だったのかもしれない。
 そんな妹紅を嘲笑いにきたのか、外で蝉が一匹、けたたましく鳴き始めた。

    §

 蝉の声と焼けるような日差しにいよいよ寝転んでいるのも億劫になって、妹紅は渋々といった体で身を起こした。
 よほど印象に残っていたのか、何も考えずにいるとすぐに夢の情景が頭の中に広がって、回ってもいない視界に目を回して頭が痛くなる。それに加えて、時間としては十分すぎる程寝ていたはずなのにまだ残っている眠気。夢見の悪さか、或いは単に寝過ぎただけか。どちらにしてもまずは気を晴らすべきかと勝手に向かう。
 聞くところによれば、山では河童達の技術によって自動的に川から水を汲み上げたりする事が出来るらしいが、残念ながらそのように便利な物はここには無い。おまけに井戸も掘っていなければ、あるのは昨日せっせと運んだ水を溜め込んだ水瓶が一つだけ。
 部屋の中の暑さも相まって、蓋を土間に置くのもそこそこに両手で掬った水を勢いよく顔に叩きつけた。
 昨日汲んだばかりだからか、思いのほか水は冷たく、そうなるといっそのこと直に顔を突っ込みたくなる衝動に駆られる。水瓶の中身が減っている時であれば思うに留まるのだが、今は水面を揺らせばこぼれ落ちそうなほどの量。しかしそんな事をすれば、水が溢れ出して少なからず困った事になる。
 どうするべきかと妹紅が葛藤していると、鼻先から先程浴びた水が一滴、瓶の中へと還っていった。水面を叩く音、広がる波紋。そこから感じる水の冷たさ、顔を突っ込んだ時の快感は想像に難くない。
 次の瞬間、気付けば妹紅の顔は水の中にあった。
 顔だけでなく、頭も水の冷たさを感じて一気に覚めていく。
 滲む視界はそれでも先程までよりも鮮明に映り、首筋から徐々に全身へと広がっていく、なんとも言えない心地よさに五感の全てが研ぎ澄まされていくのを感じ、それが更に更にという欲を産み出して妹紅がより一層身を乗り出した時だった。
「!?」
 最初は何が起こったのかがまるで理解出来なかった。
 今の今まで感じていた心地よさも瞬時に吹き飛び、鼻から入った水に鼻腔の奥を刺激されて、思わず肺の中の空気を全部口から吐き出してしまう。視界はただ暗く、もがく手足は瓶を叩くがそれでも一向に状況は変わらず、上も下も解らないまま苦しさだけが増していく。意識のどこかで溺れたのだと気付いたが、冷静さを欠いた脳内ではそれもすぐに泡となって消えてしまい、やがてふっつりと、全てが闇に閉ざされてしまった。
 次に気付いた時、それまでの騒ぎが嘘のように、妹紅は静かに水瓶から顔だけを出していた。
 もう慣れてしまった事だからよく解る。解りたくなくても解ってしまう。
 全身を包む倦怠感は残念ながら寝起きだからという訳ではなく、死んだ体が再生した直後に感じるそれで、恐らく、というよりか確実にそういう事なのだろう。冗談であってくれと思ったが、ぐるりと巡らせた瞳に映るのはあちこちに水が飛び跳ねた跡の残る現状。
 水の中に浸かっていた両手で目を擦ってみたが、映る情景は変わらなかった。
 気怠さ以上に、余りの馬鹿馬鹿しさに呆れて深い深い溜息が漏れる。
 文字通り生き返ったおかげで眠気も頭痛も飛んでしまったのか、これ以上ないというくらいにすっきりとしていたが、それも意識の面だけ。気分の方はといえば、梅雨時の雨雲のようにどんよりと沈んでいた。
 寝惚けて水瓶に落ちて溺れ死ぬなど、末代まで嗤われても仕方のない事をしでかしてしまったのだから、無理もない。
 せめてもの救いは、目撃者がいないという事と、この体に流れる血は恐らく自分の代で最後だろうという事か。もっとも、語って聞かせる子孫がいない代わりに当事者がいつまでも生き証人として存在し続けるのだから、そういう点ではむしろ救われないのかもしれないが。
 しかし浮こうが沈もうが、不死であるが故に健康な体はこんな時でも正直に現状を告げてくる。未だに外で鳴き続けている蝉に勝るとも劣らない虫の声。昨日も三食食べただろうに、溺れた際に飲んでしまった水だけでは満足してくれなかったようだった。
 見てみれば、溺れ死んでいた間に部屋に差し込む陽光の角度も僅かながらに上がっている。
 昼には少し早く、朝というには最早遅い、そんな時間帯。
 さてと考えたところで一つ身震い。元よりいつまでも水瓶に入っている理由もないのだから、これ以上体を冷やすこともないと瓶の縁に手を掛けて一気に体を引き上げた。そのまま土間に降り立つと、途端に足下が水浸しになってしまったが、放っておけばすぐに乾くだろうと気にもせずに部屋へと戻る。一歩進む度に、指先から髪先から雫が滴り落ちては足下に跡を残していく。ぺちぺちと、普段は鳴らない足音が少しだけ楽しい。
 土間から部屋へ、といってもその間は五歩にも満たない。板敷きの、これといって何もない質素な部屋。それはあくまでも良く言えばという事で、実際この部屋の状況を言い表すのであれば寂れた部屋と言うべきかと、妹紅は思う。
 色褪せた卓袱台の横を通り、数少ない家具であるところの箪笥の前へ。
 その気になれば濡れて重くなった服もすぐに乾かせるのだが、折角の新しい一日、どうせなら着替えた方が気も変わるだろうと妹紅は考える。何よりも今の服をそのまま着ていると先程の、正しく惨めな状態と書いて惨状を思い出してしまいそうで嫌だったのだ。
 膝をつき、さて何を着ようかと箪笥の取っ手に手を掛けたところで、妹紅がはたと動きを止めた。ぴちょんと一滴、袖の端から雫が落ちる。
 よく考えなくても、この状態で新しい服を出してしまってはそれも濡れてしまう。ならばと取っ手に掛けていた手を引いて、代わりに釦へとその手を伸ばす。一つ、二つ、三つと外したところで、ふと思い出したようにもんぺを吊っていた肩紐を解く。立ち上がると留める物のなくなったもんぺがすとんと落ちて白い両脚が露わになったが、妹紅は気にする風でもなく続いて上も脱ぎ去った。
 その様子はあまりに堂々。とはいえ永く生きる内に恥じらいなど捨て去ったという訳でもなく、外ならまだしも、家の中では誰かの視線を気にする必要もないというだけのこと。
 生傷が絶えないような生活を送っているものの、今は蓬莱の薬の力によって生まれ変わったばかりの体。傷一つない、陶器のように白く滑らかな肌は芸術性すらも感じさせるものであったが、当の本人はそんな事は気にも掛けず、面倒だとばかりに下着すらも取り払って、脱いだ服と纏めて先程の土間の方、水屋へと向けて放り投げた。
 背中に張り付く髪が冷たくて気持ちよかったが、それとは相反する不快感も同時に襲ってくる。乾かそうにも一度水気を払った方がいいかと思い、首の後ろに手を入れて一呼吸。一気に両手を広げて髪を掻き上げると、水飛沫が部屋一杯に吹き上げた。格子窓から入る光が水滴の間をどんどん反射して、まるで万華鏡のように部屋の中が煌めきで満たされていく。
 ――星が降っている。
 そんな情景にどこか楽しくなって、くるりくるりと両手を広げて回ってみれば、真っ白な髪もまた光の中で同じように煌めいた。残った水気も舞い散る光の粒子と一緒に散り散りになっていき、やがて即興の舞台は終わりを告げる。
 終わってみれば、何をやっているんだと頭の中で冷静な部分が呆れていたが、まぁ綺麗だったからいいじゃないかと思い直した。
 仕上げとばかりに、火が上がらない程度に体の周りを熱して髪と体を乾かす。手拭い要らずの便利な体。横着をするなと言われる事もあるが、妹紅にとってみれば力の有効活用であって、そんな風に言われる筋合いはないと本気で考えている。
 気を取り直して開いた箪笥の中。服を脱ぐ前には何を着ようかと考えていたが、実際はそんな風に選べるほど種類があるという訳ではない。
 数はそれなりにある。けれど種類はとても少ない。
 特に服装に気を遣う事もなければ、自然と動きやすいものや気に入った形、柄のものが増えてくる。結果として箪笥の中には似たり寄ったりなものばかりがぎゅうと詰め込まれるようになってしまった。
 季節によって袖の有る無しや生地の厚さを変えたりはするものの、精々その程度。千を超える年月を生きてきたといっても体は少女。たまにはと数年に一度くらいの頻度で思う事はあるし、ほんの二百年ほど前まではいつもと違う服装に小さな喜びを感じていた事もあった。
 けれど、そういう時に限って輝夜が現れたりするのだ。
 今でこそお互い少しばかり大人しくなった面はあるものの、当時は二人とも相手の姿を見れば即座に殺しにかかっていたような時代。
 死をも厭わない殺し合いは容易に服をボロ切れにして、そういう事が続く内に見た目よりも機能性や修繕のし易さばかりを考えるようになってしまった。
 恥じらいはまだ捨てていないと思えても、こういう部分では枯れてしまったと言われれば否定できないな、と妹紅は思う。それにすっかりと馴染んでしまった今となっては、他にどんな服を着ればいいのかが解らない。記憶を遡ってみたところで、どんな服を着て喜んでいたのかも朧気にしか思い出せなかった。
 一つ、溜息が漏れる。
 考えたところで仕方のない事は多い。またその内綺麗な服を着たくなる事もあるだろう。その時にはまたその時着たい物を着ればいいかと考えて、一番上に置かれていた服を手に取った。
「…………」
 しかしそれを崩さないように横に置いて、もう一度箪笥の中へと手を伸ばす。改めて取り出した服もまた似たようなものだったが、他に比べて少しだけ生地が新しい。ついこの間新調したばかりのものだ。
 新しいというだけで結局はいつもの恰好なのだが、それでも幾らか気分が晴れやかになる。
 少し固い生地、馴染んでいない肌触り。触れた背中がこそばゆくて思わず背筋が伸びた。
 そうして一人、浮かれ気分で着替えを済ませたところで、すっかりと存在を忘れていた腹の虫がぐうと声を上げた。続けて二度三度。早く飯を寄越せと赤子のように喚き立てる腹を片手で押さえて、妹紅が土間の方へと視線を向ける。
 玄関の引き戸の近くに置かれた重量感のある米俵は昨日買った物。そういえばせっせと水を運んだのものその所為だったかと昨日の事を思い出す。そこから視線を右に移していくと、壁に掛けられた暇潰しも兼ねた作業道具。同じように壁に並ぶ調理道具。その下には調理用にと組んだ台が一つ。上に転がる野菜類は早めに食べてしまわないとすぐ駄目になってしまうだろうか。こういう時は炎よりも冷気を操る事が出来た方がいいのにと思ったりもする。更に右へ。見たくもない濡れた衣類の塊。嫌になってまた右へ。見たくもない水瓶がでんと居座っていた。
 ふむと一つ頷いて、格子窓から外を見る。青々と茂る竹林の向こうに広がる空は雲一つ無い快晴。直に太陽を見たという訳でもないのに、思わず目を細めてしまうほどの真昼の日差しが、今という季節をより一層感じさせた。
 無色透明の夏の空気。さやと舞い込む竹林の間を抜けてきた風。土と草の匂いに紛れて届いた、腹の音を加速させる何やら美味しそうな匂い。
 今度はよしと声に出して、妹紅が箪笥の上に置いてあった財布を掴む。
 思い立ったが吉日。善は急げ。膳も急げと狭い家の中を駆けて、上がり口の前に置いていた靴へと飛び込むように両の足を突き入れた。
 立ち止まるのももどかしくて、靴を履きながら片足で飛んで玄関へと向かう。引き戸に手を掛けて一息に滑らせてみると、先程とは比べものにならないくらい、濃密な土の匂いが鼻腔をくすぐった。夏の匂い。生き物の匂い。これだけでもどこからか活力が沸いてくる。外に出ようという気を起こさせる。
 勢いよく開いた戸に驚いたのか、ジジと音を立てて飛び立つ蝉の後を目で追いながら、開いた戸に手を突いてもう片方の靴もしっかりと履く。仕上げにとつま先で数度地面を叩いて感触を確かめながら、妹紅が一度家の中へと振り向いた。
 忘れ物は無し、他に何かやっておく事も特にない。濡れた衣類をそのまま放置しておいていいものかと一瞬考えたが、すぐに頭の外へと追い出した。
 そして改めて前を向いて敷居を跨ぐと、遮る物の無くなった夏の日差しが全身に降り注いできた。その出所を辿って空を仰げば、天高くにさんさんと輝く太陽の姿。
 ひさし代わりにかざした手を通り抜けるほどの眩しさに、思わず瞼を閉じる。
 つんと刺すような痛みを覚えて目頭を押さえている間にも、夏が妹紅を包み込む。早くもじわりと汗が滲んできたが、汗を掻くということはまだこの体も少しは生きようとしてくれているのだろうかと考えて、頬が緩むのを感じていた。
 このまま夏を堪能していてもよかったのだが、忘れそうになるとすぐに体の内側から抗議の声が上がってくるような状況では、おちおち散歩もしていられない。
 長い夏の一日。そう慌てる事もないかと思い直して、閉じていた瞳を開く。
 人には暑さを感じさせる空気も、虫や植物にはありがたいのか、映るものはどれもが活き活きとしていて、今の季節を、今の時間を謳歌しているようだった。
 そんな様子を眺めながら、後ろ手に戸を閉めて妹紅が歩き出す。聞こえてくる蝉の合唱。どこからこんな所にまで運ばれてくるのか、先程も感じた美味しそうな匂い。柄にもなく鼻歌を口ずさみながら、粒子を振りまく真っ白な髪に真っ青な空を映して、今日は食べ歩きなんてのもいいかもしれないと、そんな事を考えた。

    §

 竹林を越え、草原を越え、地面が草むらから人の手が入った道へと変わって、ぽつぽつと人の家が見え始めたところで妹紅が一旦足を止めた。
 木々も少なく開けた場所。竹林を出るまで絶えることなく聞こえていた蝉の声も少し遠く、今は道沿いに生えた一本の木から聞こえてくる一匹だけのもの。有り余る生気を叩きつけているかのように鳴くクマゼミの声。
 そういえばと思い返してみれば、先程まで聞いていた、今も遠くに聞こえる大合唱の中でもクマゼミの声が多かった。昼を過ぎればアブラゼミに変わりそうなものの、これだけクマゼミが多いという事は、今年の夏もそろそろ盛りなのだろうか。
 額に浮いた汗を手の甲で拭いながら、改めて里の方を見る。
 昨日、米を買いに来た時も同じ事をしていた。
 気にする必要はないと解っているものの、それでもこうして足が止まる。
 いざ里に入ってしまえば気にならなくなるし、思い出す事もない。その度にもういいんだと思うのだが、次にこの場所に来るとまたこうして足を止めてしまう。
 大きく息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出した。
 今日も大丈夫。何も問題はない。むしろ問題があるとすれば、きっといつまでもこんな所で立ち止まっている自分の方なのだろう。
 そんな妹紅を誘うかのように、背後から飛んできた蜻蛉が一匹、ふらふらと軌道を変えながら里の方へと向かっていった。そしてそれを追いかけてか、それとも漂ってくる昼時の匂いに釣られてか、茶色の猫が足下をすり抜けて同じように里へと歩いていく。
 人も妖怪も、虫も動物も集まる幻想郷の里。小さくなる先導者の背中を見て、妹紅は少しだけ肩の荷が下りたような気がした。
 踏み出した一歩は家を出た時のように軽く、次こそはもう立ち止まらなくていいかもしれないと、いつもと同じように思いながら、けれどいつもよりかは幾分軽い足取りで二匹の後を追いかけていく。
 道なりに進んでいくと次第に並ぶ家が増え、それに伴って人の姿も増えていった。先程の蜻蛉はとうに姿を見失い、猫もまた行き交う人々の足下を器用にすり抜けて何処かへと行ってしまった。
 人に慣れている様子を見る辺り、普段から里に出入りしているのだろう。時間も丁度正午を過ぎた辺り。何処かで餌をねだっているのかもしれない。
 里の中心へと延びる道は、いよいよ行き来する人が多くなって、余所見をしていると危うくぶつかってしまいそうになる。それでもまだ幾分少なく思えるのはお昼時だからか、或いはこの肌を焼くような暑さに参ってしまった人が多いからか。
 頬を伝う汗を手で拭って、手拭いの一つでも持ってくればよかったかと僅かな後悔。自分の能力故に熱さにはある程度慣れているが、日の暑さは炎の熱さとはまた別のもの。
 拭っても拭っても浮いてくる汗に、新しい服を着てきたのは勿体なかったかと、少しだけ残念に思った。
 そうしてしばらく進んでいくと、立ち並ぶ建物の様相が徐々に家のそれから店のそれへと変わっていく。
 店頭で客引きの声を上げる者。買い物などそっちのけで店主と談笑している者もいれば、酒の席を設けた店では、まだ日も高いというのに早くも顔を赤らめている者がいた。
 日も高いといえば、こんな時間でも人々の中に時折妖怪の姿を見かける事が出来た。
 人間と同じように店を覗き、店の側も慣れているのか雑談に興じている姿も見受けられる。
 なんとはなしに視線を投げた花屋もまたそんな一場面。一人の妖怪と、その隣には店番を任されていたのだろう、幼い娘の姿。しかし一見すると妖怪の方が店員で、娘の方が客のようにも見える。それくらい妖怪の彼女が花に囲まれている姿が自然に見えたのだ。
 すると妖怪の方がこちらに気付いたのか、振り向いた彼女と目が合った。
 話した事はないが、名前は知っている。むしろこの幻想郷で、少なくとも里とその一帯で彼女の名前を知らない者はいないだろう。そして名前を知っていれば、自ずと彼女にまつわる話も聞こえてくるもので。
 関わり合いにならない方がいいだろうと思いはするものの、目が合ってしまった以上は露骨に無視をするのも憚られる。
 どうしたものかと考えていると、彼女が柔らかな笑みを浮かべて小さく手を振ってきた。
 果たしてそれは同じようにこちらのことを知っているからなのか、それとも単に目が合った通行人に対するものなのか。自意識過剰という訳ではないが、恐らくは前者だろうと考えて、妹紅は片手を上げてそれに応えた。とはいえ話し掛けるような事はなく、向こうもそれだけで気が済んだのか、花屋の娘に向き直って何やら話を再開させたようだった。
 要らない火種を増やしてしまったかな、と歩き出しながら妹紅が思う。何処かでちりんと一つ、風鈴が夏の午後を奏でていた。
 里の中心近く、食事処が増えてくると、先程までとは違った喧騒に包まれる。
 昼飯時とあってどの店も繁盛しており、そうなると何を食べようかと考えるよりも先に、席の空いている店を探す方が苦労しそうだった。
 辺りに漂う香ばしい匂いに刺激されたのか、五月蠅かった腹の音が一層高くなる。それが聞こえてしまったのか、通りがかりにくすりと嫌味のない笑みを浮かべた女性に照れ笑いを返して、さてどうしたものかと妹紅は辺りを見回した。
 ここに来るまでに道端で一芸を披露している者の姿も見かけたが、腹の虫の歌声では笑いを得られても小銭を稼ぐ事は無理だろう。そうなるとなんでもいいからとりあえず腹に何か入れておくべきかとも思うが、久しぶりの外食、折角だから拘りたいという思いもある。当初の予定通り食べ歩きをするにしても、細かい物ばかりで腹を膨らませるのはなんだか勿体ない。まずは六分目か七分目か、その辺りまで腹に入れてからの方がいいだろう。とりとめもなくそんな事を思いながら、立ち並ぶ店へと視線を投げかけていく。
 蕎麦やうどんといった麺類。一通り揃った定食屋。最近だと洋食を出す店も見受けられる。
 焼鳥屋など、酒を主とした店はまだ暖簾が掛かっていない所が多い。日が暮れてからが本番なのだろう。その頃には今より妖怪も増えて、もっと賑わっているのかもしれない。
 黄昏時、灯りの入った店から聞こえる昼間とは違った喧騒。人と妖怪入り交じった笑い声。
 幻想郷だからだろうか。それとも時代の流れなのだろうか。どちらにしても、不思議な世の中になったものだと妹紅は思う。人間と妖怪が共存出来るなどと、一体誰が考えただろうか。
 とはいえ、この幻想郷でも人間は人間として、妖怪は妖怪としてそれぞれの本分を全うしている。ただ酒の席だけは、そんなものは全て関係ないとばかりに共に笑うのだ。
 そんな少し先の情景に想いを馳せている内に、何かが目の前を過ぎった気がして妹紅が足を止めた。
 よく立ち止まる日だと思いながら、何かが通り過ぎた方へと視線を向けると、すぐ目の前を蜻蛉が一匹、ふらふらと軌道を変えながら飛んでいた。もしやと思って反対側の足下を見てみると、先程と同じ茶色の猫がのっそりと後をついて行っていた。
 恐らくは飯にありつけたのだろう、その足取りは里に入る前に見た時と比べて若干重い。食べ過ぎたのだろうかと考えて、笑みが零れた。
 しかしふと周りを見渡すと、いつの間にか辺りには住宅が軒を連ねていて、店が賑わう中心からは随分と外れた場所。知らない間にそんなに歩いたのだろうかと、妹紅が後ろを振り向いてみれば、確かに遠くに人の賑わいが見て取れる。それでもなんとなくこのまま戻るのも気が引けて、もう一度足下の猫を見た。
 ところが猫は既にそこにはおらず、はてとその姿を探すと左側の家と家の間、細い路地の間にその背中が見つかった。一方的な奴だと思ったが、それも当然のことだろう。向こうにしてみれば、妹紅など餌をくれないただの人間に過ぎないのだから。
 空腹はいよいよ腹の虫に催促をされなくとも我慢が出来ない程度になっていたが、まだ何を食べようかということさえ決まっていない。
 ならばと一つ考えて、妹紅は路地を往く猫の背中を追いかけた。次の餌場に向かうかもしれない。もしそうならば昼飯はそこにしようと考えたのだ。
 蜻蛉の先導で道行く二匹と一人。人間妖怪妖精動物、多種多様な生き物が暮らすこの幻想郷でも、これほど統一性のない、珍しい組み合わせもないだろう。道行く人がどんな顔をするかとも思ったが、猫はあまり人通りの多い場所は好まないのか、それとも本当に蜻蛉が先を行っているのか、ともあれ道中これといって人とすれ違う事はなかった。
 そうして路地を抜け、通りを渡り、また路地を抜け、人様の家の庭先に入っていった時は流石についていくのを躊躇ったが、上ならば構わないだろうと、心の中で詫びを入れつつ飛び越えて、辿り着いたのは一件のめし屋の前だった。
 あまり里の地理には詳しくない妹紅だが、それでも店の位置くらいは大体把握している。しかし目の前の店は初めて見るもので、それどころかこの場所のおおよその位置すら妹紅には解らなかった。
 猫を追いかけて振り回されていたというのもあるが、迷いの竹林と呼ばれるような場所に住む妹紅にしてみれば、その程度で位置感覚が狂うという事はない。
 店は一見すると普通のめし屋で、入り口の戸には商い中と書かれた札が掛けられていた。軒先に掛かる暖簾を見るにうどん屋なのだろう。幻想郷では客席を設けるような店でも大半が通りに面した前面を開放しているのだが、この店の戸は磨り硝子でその横の窓も障子が貼られていて、外からでは中の様子が窺えない。それに多くの店が建ち並ぶ中心の通りからは外れているのか行き交う人の姿もまばらで、およそ流行っているとは思えなかった。
 どうしたものかと考えあぐねていると、猫が戸の前に座って随分と低い声で鳴いた。視線を巡らせてみると、蜻蛉はどうやら店の軒先に留まっているようだ。どうにもただの虫ではなさそうなあの蜻蛉。虫の形をした妖怪なのだろうかと、そんなことをふと思う。
 ともすれば猫の方も――と視線を下ろしたところで、店の戸ががらりと音を立てて横に開かれた。
 出てきたのは短く刈り込んだ白髪交じりの頭に腰の前掛けという、いかにもといった感じの初老の男だった。気の優しそうな顔つきで、あらかじめ解っていたのか、小皿に盛った飯を猫の前にそっと差し出した。猫の方も慣れた様子で、置かれた皿に顔を寄せている。
 店主は何をするでもなく、猫の前に屈んでその様子を眺めていたが、やがてこちらに気付いたのか、立ち上がると会釈と一緒に「お客さんかな」と尋ねてきた。その声もまた見た目通りというか、好々爺という言葉が似合いそうな落ち着いたもの。
 どうしようかとも考えたが、腹はいい加減限界を訴えていたし、元より猫に任せた事を反故にするつもりはない。
 そうやって妹紅はこくりと頷いて、どうぞと微笑んで先に戻る店主に続いて、店の中へと足を踏み入れた。その時、ちらりと戸の横に座る猫を見下ろしたが、向こうは餌を食べるのに夢中なのか、それとも最初から妹紅に興味などないのか、相も変わらず素知らぬ顔のまま。
 じっと見るとようやく顔を上げたのだが、それはどちらかといえば『ニャンだテメー、オレの昼飯を邪魔するとはいい度胸じゃねーか』とでも言いたいようで、尾っぽをぴんと伸ばしていた。
「なんにするね。といっても、申し訳ないが選べるほどのものもないけどねぇ」
 店主の声に、壁に掛けられたお品書きと書かれた板を見やる。確かに言うとおり品数は多くない。蕎麦もやっているかと思ったが、掛けられた板に書かれているのはうどんのみ。それでもかけ、きつね、山菜、月見に山かけ、他にも釜揚げやざるなど、うどんと聞いて思い浮かぶ一通りのものは揃っている。逆に言えば、どれを頼んでもそこまで大きく外す事がないとも言える。
 店内も同様にほどほどのもので、二人掛けのものが二つと、あとはつけ台にいくつか程度。
 二人掛けの方へと案内されて、受け取ったおしぼりで手を拭きながら、何を頼むか考える。はしたないとは思いつつも、店主が背を向けている隙を見て額の汗も拭ってから、改めて壁の品書きへと目を移した。
 ある程度腹に入れておきたいという当初の目的を考えれば、かけは外しておくべきだろう。まだこれから上がっていくであろう気温の事を考えると、ざるという選択肢には心惹かれるが、腹の足しになるかというと少し疑問が残る。そうなれば残ってくるのはきつねか山菜か。山かけは流石に少し辛いだろうか。
 きつねか山菜か。残る二択に悩む頭を冷やそうと、おしぼりと一緒に渡された水に手を伸ばして、もう一度考える。
 しかし、そうして考え抜いた答えをいざ告げようとしたところで、妹紅の声を遮るように店主が声を掛けてきた。
「ごめんなさいねぇ、今ほとんど出せる材料が無いんですよ。月見なら出せるけど、それでいいかい?」
 予想外の言葉に、店主を呼ぼうと上げかけた手を下ろす。
 なるほど流行らないのはそういう訳かとも思ったが、ここまできて店を出るのも憚られる。
 選択肢が無い以上従う他ないと妹紅が了承の意を伝えると、店主は変わらぬ優しい声で「折角お若いお客さんが来てくれたのに、申し訳ないねぇ」とつけ台の向こうで謝った。
 構わないよ、と妹紅は口には出さずに呟いて、水を手に取った。
 猫任せにしていたとはいえ、任せると決めたのが自分の意志ならば、この店を選んだというのも自分の意志。それに今日の予定は食べ歩き。ならば多少予定が狂ったところで、後からいくらでも上乗せ出来るだろう。
 つけ台の向こうで調理を進める店主の背中を一瞥して、改めて店内をぐるりと見渡す。
 質素な作り。壁も柱も、今自分が座っている椅子も、それほど年数が経っているようには見えない。修繕したか、それとも店を始めてまだ間もないのか。
 客は妹紅以外には一人もおらず、店員も店主一人だけ。店内には鍋の茹でる音だけが小さく響き、外の喧騒は届かない。障子窓が夏の強すぎる日差しを緩和しているおかげか、調理場で火を焚いている割には、それほど暑くは感じなかった。
「はい、おまちどうさま」
 あらかじめ幾らか事前に準備されているのだろう、思いのほか早く出てきたどんぶりと箸を受け取って、早速妹紅が手を合わせる。
 どんぶりはそこそこの大きさで、中のうどんも予想していたよりも量がある。
 月見となる卵は一つ。早くも熱で白身が色を付け始めていた。他には薬味として葱が乗っているのと、多少残りがあったのだろうか、恐らくは山菜うどんに付ける物なのだろう山菜がいくらか添えられていた。
 しかしいざ食べようとして、ほんの少しだけ困ったことがあった。注文を考えていた時に、何故月見だけが意識の外に漏れていたのか、その理由が解ってしまったのだ。
 なんてことはない、月という単語を自然と嫌がっていたというだけのこと。
 改めて妹紅は手を合わせ、律儀に一礼してからどんぶりを手に取った。月がどうだろうと今は関係ない。悪いのはどこかのお姫様であって、ここの店主にもこのうどんにも罪はない。それ以前に、立ち上る湯気と出し汁の匂いを前にして、最早我慢も限界だった。
 卵の黄身を割ってときほぐし、麺を啜ったものの、その熱さに思わず箸を落としかける。
 どうにか落とさずに済んだ箸を持ち直して、もう一度麺を掬い上げる。口に入れる前に執拗に息を吹きかけて冷まし、それでもおっかなびっくりといった体でゆっくりと啜った。
 口の中で咀嚼しながら、ほうと妹紅が感心する。
 こんな店だからと多少侮っていた所為もあるのだろうが、それを抜きにしてもこのうどんは美味しかった。派手さはないけれど、店主と同じようにゆったりとして優しい、そんな味。
 そもそもうどんに派手とかあるのだろうかと自嘲しながら、次はといた卵を絡めて啜る。先程とはまた違った風味で、これも良いと妹紅が胸の内で頷いた。三口四口と続ける内に次第に熱さにも慣れてきて、そこからは止まることなく箸を進めていく。その様子に店主がつけ台の向こうで柔和な笑みを浮かべていたが、妹紅は気付かない。
 そうして半分ほど食べた頃だろうか。不意に店の戸が開いたかと思うと、一人の壮年の男が店へと入ってきた。流石にそれには気付いた妹紅が顔を上げると、男の方は客がいたことに驚いたのか、入り口の所で目を丸くしたまま立ちつくしていた。
 顔見知りなのだろうか、気さくな感じの店主に声を掛けられても動かないままの男の顔を見て、妹紅がはてと疑問符を浮かべた。どこかで見たことがあるような、ないような。
 記憶に引っかかりはするものの、どうにも答えが出てこない。とりあえず恥じらいを持つ少女として途中で止めたままのうどんだけでもどうにかせねばなるまいと、口から一本垂れていた麺を音を立てずに啜って口の中へと収める。
 正面を向いて真顔で行われたそれはなんとも言えない光景だったのだが、男はそれでようやく気を取り戻したのか、両手をぱんと叩いて妹紅の方へと駆け寄ってきた。
「おいあんた、藤原のお嬢ちゃんじゃねえか!」
 無遠慮に肩をばんばんと叩かれながら、何が起こったのかよく解らないまま妹紅がとりあえず頷いた。
「いやぁよかった! ずっと会いたいと思っていたんだが中々見つけられなくてなぁ。竹林も何度か行ったんだけども奥までは入りづれえし、迷えばまた会えるかと思ったりもしたが、その前に妖怪に食われちまって死体でご対面なんていうのは正直勘弁願いたかったんだ!」
 などなど、喋る口も妹紅の肩を叩き続ける手も止める事を知らないような男の形振りに、妹紅はやはりこの男には一度会った事があると確信した。
 今年の春先、竹林で迷っていたところを保護して出口まで案内した男だ。確か筍を採りに林に入って、夢中になるあまり奥まで足を踏み入れすぎて迷子になったという典型的な例だったと覚えている。普段あまり人の顔というものを覚えようとしない妹紅ではあるが、この突き抜けすぎた陽気の持ち主。顔は忘れても言動はそうそう忘れられない。
 返事をしようにも口の中にはまだうどんが残っていて、そうでなくても男の話は途切れる所がなく、口を挟む余裕がない。
 そうして妹紅が肩を叩かれ続けたところによると、どうやら男は妹紅に礼をしようとしていたらしい。
 けれども滅多に里に出てこない上、人間が竹林の中にある妹紅の家にたどり着くことはほぼ不可能。たまに里に現れたと思ったらその時は外に出ていて入れ違い。最早為す術無しかと諦めかけていた矢先に、こんな一人も客が入らないような店で見かけたものだから、ついお気が逸ってしまったのだという。竹林で案内をしていた時も、意気消沈していたと言った割には今と同じような状態だったような気がするのだが、生憎とそこまで詳しく覚えていない。
 ようやく解放された頃には、残ったうどんはすっかりと伸びてしまっていた。
 それでも出汁の美味さが変わる事はなく、多少麺が頼りなくなってしまったものの、最後まで満足のいく物だった。
 最後に出し汁を全部飲み干して、どんぶりに箸を置いて手を合わせ、最初と同じように律儀に一礼。
 勘定を済ませようと横を向くと、そこではつけ台の席に座った男が、先程と同じような調子で店主と話していた。やはりそれも男の一方的な話だったのだが、店主の方も慣れているのか時折声を上げて笑い、要所でしっかりと相槌を打っている。
 よくやるものだと思いながら、さてどうしようかと伺っていると、気付いた店主が男に声を掛け、妹紅の方へと向き直った。
「ありがとう。お嬢さんのお口には合ったかな?」
 問われて妹紅が勿論だと答えようとしたのだが、取り出した財布の中身を見て思わず全身が固まった。
 ――金がない。
 中にあるのは僅かな小銭。そんなはずはないと思ったが、思い返してみれば昨日米俵を買った時にこれで暫く暮らしていけると持ち金のほとんどを費やしてしまった。
 元々その気になれば自給自足でもなんら問題なく、更にその気になれば断食の末に餓死したとしても構わない。そんな生活を続けていたからあまり金を持つという意識がないのだ。
 そういえば幾らか財布に入っていた気がする。いつもそんな感じでなんとなく里に出て、なんとなく買い物をしていた。流石に普段は買う前に有り金を数えているのだが、今回は全てにおいてうっかりしていたとしか言えない。
 固まったままの姿を不思議に思ったのか、男もこちらを向いていた。何かを言われた気がしたが、冷や汗を流す妹紅にその言葉は届かず、頭の中ではなんと説明するべきかというそれだけがぐるぐると回っていた。
 幻想郷では金の価値などあってないようなものではあるが、しかしないようでちゃんとある。
 物々交換でもまかり通るのだが、今の妹紅にはその交換する物さえ何もない。家に戻れば米俵もあるし、何か生活に役立ちそうな道具を作って渡す事も出来る。人の良さそうな店主の事だ、そんな提案でも受け入れてくれそうな気はするものの、しかしだからこそ、そういった事はしたくない。
 どうするべきか。どうすればいいのか。
 店に入る前よりも大量に湧き出た嫌な汗が全身を冷やし、固まったままの妹紅の体を震えさせる。
 素直に謝ろう。そう思った時だった。
「そうだ藤原のお嬢ちゃん! 折角こうして会えたんだ、ここは一つ、俺に払わせてはくれねえかい?」
 それまでずっと様子を窺っていた男が、最初に店に入ってきた時と同じように両手をぱんと叩いて、そのまま妹紅の両肩に乱暴に叩きつけた。
 痛くないと言えば嘘になる、というより普通に痛かったのだが、妹紅は言われた言葉の意味が解らなかったのか、きょとんとしたまま男の顔を見るしか出来なかった。
「おうそうだ! なにもこれでチャラにしてくれというんじゃねえ! むしろこんな事でチャラにされたら俺が困っちまう。なぁおやっさん、いいだろう?」
 妹紅の肩を前後にがくがくと揺らす男に問われて、店主は「まあ私はなんでも構わんよ」と優しく微笑んだ。それを聞いて男はますます妹紅の肩を強く揺らして、
「よし決まりだ! あんたも受け取ってくれるだろう? そうか、受け取ってくれるか! 流石藤原のお嬢ちゃんだ! 懐がひれえ!」
 揺さぶられるがままになっていた妹紅は、はいともいいえとも言うことが出来ず、気付いた時には「また来てくださいね」という店主の声に見送られて店の外に立っていた。
 財布を開いた姿勢のまま、ようやく我を取り戻した時には全てが終わった後。今更戻って謝るのも、それはそれで男に申し訳ないかと思って溜息一つ。
 らしくない事をしてしまったと嘆く妹紅の足下で、空になった皿の前で丸まっていた茶色の猫が『ナァ』と眠そうに一声鳴いた。

    §

 すっかり予定が狂ってしまったと、当てもなく妹紅がぶらぶらと里の中を歩き回る。
 あの後、猫も蜻蛉も今日はもうお開きだと言わんばかりに店の前から動こうとせず、仕方なしと掛けた別れの挨拶も案の定無下にされてしまった。
 そうして一人、持ち金がなければ楽しみにしていた食べ歩きもままならず、せめて雰囲気だけでもと中心の通りに戻ってきたのだが、逆に虚しくなるだけだった。
 それでも頭上の太陽は変わらず妹紅を照らし、じりじりと肌を焦がしてくる。位置を見るに、今は未の刻を過ぎた頃だろうか。随分と時間が経ったような気がしていたが、まだまだ一日は長そうだ。
 やる事が無いのであれば、家に戻るという選択肢もあるものの、残念ながらこんな調子であの惨状と対面する気概はない。もしこのまま家に戻れば、二度と帰らなくなるか、二度と家から出なくなるかの二択だろうと妹紅は思う。
 何か気張らしになるような事があればと、天を仰いでいた視線を下ろすと、里の外れにある高台の所で目が留まった。里を一望出来る場所に建つ一件の家。慧音の家だった。
 あそこに行けば、彼女に会えば気も晴れるだろうかと考える。何もなくてもいい、ただ話をするだけでも十分だろう。幸か不幸か、話のネタには困りそうもない。
 しかしそう思う一方で、用事もないのに訪ねていいものかと考えてしまう。慣れ親しんだ相手とはいえ、普段は慧音の方から訪ねてくるか、里の中で偶然出会うかというもの。
 聞きたい事があったり、やむを得ない事情の場合はこちらから訪ねる事もあったが、こうして単に暇だからという理由で行くとなると、どうしても躊躇してしまう。たとえそれが慧音であっても、こちらから近付きすぎてしまってはいないだろうかと、どこかで線を引いてしまう。
 しかし、それも、まぁ。
 里に入る時と同じ、考えすぎなのだろうと妹紅は思う。
 何かを変えるには、明日からでは遅いのだ。時間は無限にあるとはいえ、過ぎた時間は戻ってこない。折角の今日、折角の今、出来る事はなんでもやってみるべきだと改めて、妹紅は高台を目指して歩いていった。
 その道中、里の中心から外れに向かう人は少なく、店がなくなり、家もまばらになる頃にはすれ違う人もいなくなる。人の喧騒が遠くなり、代わりに里の中ではかき消されていた風の音や鳥の鳴き声、揺れた草から飛び出した飛蝗の羽音などが耳に届く。
 人々の産み出す熱気というものも嫌いではないが、それでもやはり、落ち着きたい時にはこういった環境の方が好ましい。
 そうしている間に辿り着いた高台の麓。里の側から見れば切り立った崖になっていて、登るにはぐるりと裏側を囲むように延びる道を通るしかない。急ぎであればここから飛び上がっていくのだが、それも今は無粋かと考えた。
 高台の上へと通じる道。振り返ってみれば、歩いて通るのは初めてのこと。
 見たことのない場所。歩いたことのない道。ちょっとした冒険気分になって、妹紅は小走りに山道へと入っていった。
 坂道は狭く、二人で歩くのもやっとというような幅。両側に並ぶ木々が頭上を屋根のように覆っていて、枝葉の隙間から差し込む光の筋が、より一層この場所を特別に見せてくれる。
 そんな光の隧道をどれほど歩いただろうか。けたたましいアブラゼミの声と午後の熱気と終わらない坂道に、いい加減冒険気分よりも疲労の方が勝ってきた頃、唐突に真正面から日の光を浴びて、妹紅が思わず両手を前にかざして足を止めた。
 目眩にも似た突き刺すような痛み。閉じた瞼の裏で尚も白い光が断続的に瞬いている。
 幾らか落ち着いたところで、また光にやられないようにと下を向いてそろそろと瞼を開く。
 まだ少し視界が白く濁っていたが、それもすぐに薄くなる。そうしてゆっくりと顔を上げていき、その先に見えた景色に妹紅は絶句した。
 青い空が、どこまでも広がっていた。
 眼下に広がる里の集落。その先に聳える妖怪の山は頂までもがはっきりと見える。そこから右へ右へと視線を移せば草原が広がり、奥には鬱蒼と生い茂る森の緑。更に右には山が連なっていて、その中に小さく朱い鳥居が見えた。
 逆を向けば、遠くにおどろおどろしい紅い館がある。けれどその周りの湖は夏の陽光を反射してきらきらと輝いていて、まるで宝石のようだった。
 残念ながら後ろは見られなかったので竹林の方は臨めないが、それでも大した景色だと思う。空を飛べるとはいっても、そうそう高く飛び上がった事のない妹紅にしてみれば、このような景色は初めてと言っても過言ではない。今までこの場所を訪れた時にどうしてもっとしっかりと見なかったのかと、過去の自分に問い質してやりたかった。
 なによりも、この場所には空がある。
 普段は見上げなければ見えない空が、目の前に広がっている。
 一層高く聳える妖怪の山。その周りも山々が頂きを連ね、山裾からは大きな入道雲が空へ天へと昇っていた。その上部には薄い雲が広がり、更にその上は絵の具で塗り潰したかのような真っ青な空。
 夏の空が、どこまでも広がっていた。
 大きく息を吸い込むと、新鮮な空気が肺を満たしていく。少し高い所に来ただけでこんなにも違うものかと、改めて感嘆した。
 とはいえ、何もここまで景観を楽しみに来たのではない。目的を思い出した妹紅がここまでの行動を顧みて、恥ずかしげに頬を掻く。今日は少しはしゃぎすぎだろうかと、そろそろと周りを窺ってみるが、幸いにして辺りに人の気配なく、ほっと胸を撫で下ろした。
 しかし、そこではてと疑問が湧いて出た。
 気配を探った時、確かにこの辺りには人の存在は感じられなかった。年の功とでもいうべきか、妹紅の観察力は中々のもの。こちらに注意を向けていなくても、故意に隠していたりしなければ、大体は相手の存在が掴めるのだ。
 それほどしっかりと見た訳ではないが、それでも何かしらの動きを感じれば、たとえそれが壁の向こう側だったとしても違和感として気に留まる。
 昼寝でもしているのだろうかと、妹紅が慧音の家へと足を向ける。律儀に閉ざされた窓と玄関口は、確かに住人の不在を連想させた。
 玄関の戸を叩いてみるが、返事はなし。閉じた戸口に手を掛けると、予想に反してがらりと横に滑った。もし寝ていたら起こすのも悪いと思って忍び足で中へと入ってみたが、やはりというべきか、求める姿はどこにも見つけられなかった。そもそも靴が見えない時点で気付くべきだったかと、少し反省。
 ともあれ、これでまた暇になってしまった。
 登ってきた時とは気持ちも足取りも打って変わって、ゆっくりと坂道を降りながら、さてどうしようかと先程と全く同じ事で頭を悩ませる。
 知り合いはここ最近になって両手では足りない程度には増えたのだが、持て余した暇をぶつけられるような間柄となると、片手でも余ってしまう。そしてこの場所が潰えた今、残された選択肢は皆無だった。
 例外として、暇もそれ以外の何かも憎しみと一緒にぶつけられる相手はいるのだが、生憎と今はそういう気分ではない。出会ってしまえばその後の事は解らないが、わざわざ自分からけしかけるような事はしなくていいだろう。
 それに、と胸元に手を当てて妹紅は考える。
 ――新品だもんなぁ。
 下に肌着を着ているとはいえ、幾らか汗を吸い込んでしまった生地は固さもなくなって、一日ですっかりと慣れてしまったが、それでもまだ余所の物のような気のする、新しい布地の匂いは残っている。その内馴染んで消えてしまうもの。せめてそれまでは、この服を着ている間くらい無茶は控えておこうと、そんなことを思った。
 坂道を下り終え、自然の声に見送られて人の喧騒の中へと戻る。通りは相変わらず人が多いが、先程に比べてどこか女性の比率が多いようにも見受けられた。夕飯のための買い出しだろうか、皆が何かしらの包みを持っている。
 そんな様子を見ながら、そういえば夕食はどうしようかと考えかけたが、これもまた選べるほどの何かがある訳ではない。
 持ち金はないが、家に戻れば米がある。野菜もあった。それだけで十分だろう。
 放置してきた惨状を思えば帰る事を若干躊躇ってしまうが、そうそう嫌がってばかりもいられない。どうせ後片付けはしなければいけないのだから、それならばいっそ早い内にやってしまった方がいいだろう。
 そうやって帰路を進む中、途中串屋の親父に呼び止められて、なんぞ世話になったお礼だと、そんなどこかで聞いたような言葉と一緒に頂戴した串を頬張っていた時だった。
 行き交う人にぶつからないように、右へ左へと歩いていると、不意に後ろから腰の辺りに衝撃を受けた。
 誰かの邪魔をしてしまっただろうかと振り返ってみるも、特に誰の姿もなく。まだ残る感触に視線を下ろしてみると、どこからやってきたのか、妹紅の腰に子供がしがみついていた。
 見覚えのある頭を少し手荒に撫でてやると、埋めていた顔を上げた子供がにかっと歯を見せて笑みを浮かべた。
 はたと気付いて子供の後ろに視線を向けると、しがみついてきた男の子の他にも同じような年頃の子供達が数人。どれも見知った顔ばかり。普段慧音が開いている寺子屋の生徒達だった。
「もこねーちゃん、外に連れてってよ!」
 腰にしがみついていた男の子が、はつらつとした声でそんなお願いをしてきた。
 どうやら皆で集まって、先程妹紅が歩いてきた道――畑の方へと遊びに行こうとしていた途中らしい。それを聞いて、なるほどと納得する。
 確かに広く放たれたあの場所は里の中では一番広く、よく子供達の遊び場になっている。ところがこの時期は作物が育っているため、畑の中まで思う存分走り回る事は出来ない。その点里の外、妹紅の住む迷いの竹林や博麗神社へと向かう道には広大な草原が広がっている。子供達にとってはこの上ない遊び場。しかし完全に里の外側になるため、子供達だけでは行く事を許されていない。だからこそのお願いという訳だ。
 以前にも、妹紅は二度ほど子供達を連れ出した事があった。
 一度目は勝手に連れ出して、慧音にとても怒られた。
 二度目は縋る子供達に根負けした慧音に、付き添いを頼まれた時だった。
 妹紅としては頼まれれば断る理由などないのだが、そういう経緯もあるので二つ返事で引き受ける訳にはいかない。だから慧音の許しを得てからだと伝えると、子供達は互いの顔を見ながらその内黙り込んでしまった。
 許してくれないとでも思ったのだろうかとその様子を眺めていると、そこで代表するようにしがみついたままの男の子が口を開いた。
「慧音先生、朝からずっといないんだ」
 まだ寺子屋に残っているから家に居なかったのか――子供達を見てそんな風に考えていた妹紅は、男の子の言葉に少なからず驚いたが、それでもこの幻想郷、そうそう大事には至らないだろうと思い直す。子供達が黙ってしまったのは、許されるか否かというよりも、誰も慧音の居場所を知らなかったからという訳だ。
 期待と不安の入り交じった瞳を向けられて、妹紅はふむと一つ頷いた。まだ日が落ちるまでは数刻ある。明るい内であればそうそう危険はないだろうし、自分がいれば妖怪も妖精も滅多な事では手を出してこないだろう。威嚇が通じないような相手がいないという訳ではないが、そういう輩はそもそも子供などに構う事はない。
 また後で慧音に怒られるかもしれないが、それでも子供達の期待を裏切る訳にはいかない。
 妹紅がもう一度くしゃくしゃと男の子の頭を撫でて笑みを浮かべると、それだけで伝わったのか、子供達が一斉に沸き立った。男の子達と、それに負けず劣らず元気の有り余っている女の子が我先にと背中を向けて走っていき、残った二人の女の子とそれぞれ手を繋いで歩き出す。
「勝手に先に出ちゃだめだよー!」
 右手を繋いだ女の子が前を行く子供達に向かって声を上げると、早くも小さくなった前方から元気のいい声が返ってくる。楽しみを前にした子供であれば返事だけという事も考えられるが、慧音の教えか、それとも親の育て方がいいのか、彼らがそういった、特に約束事を破る事はほとんどない。だからといって待たせるのも悪いかと思って、少しだけ歩く速度を速めた。
 里に訪れる事が滅多にない妹紅が、子供達と顔を合わせる機会というのは本当に少ない。けれど慧音に付き添って、或いは彼女を訪ねて寺子屋に足を運んだ時は必ずと言っていいほど子供達の遊び相手になっている。行儀が良いといってもやはり子供。妹紅が来た時には授業もそこそこに遊びに出る事が多いため、子供達の間ではもしかすると慧音よりも人気者なのかもしれない。
 すれ違う大人達も解っているのか、あまり遠くに行くんじゃないぞと声を掛けられ、その度に右手の側の女の子が大丈夫だと答えを返す。
 子供達の中では一番年長の彼女。少し前まではやんちゃなおてんば娘だったが、最近は年長者としての自覚も出てきたのか、面倒見も良くなって皆のお姉さんといった感じになっている。
 とはいえ、年長者といってもようやく十を超えたばかり。本当は皆と一緒に駆け出したかったのだろう、時折そんな思いが足を速めてしまい、その度に恥ずかしそうに歩幅を戻す姿に思わず笑みを零すと、彼女はますます頬を朱に染めた。
 そんな様子を見て、左手の側の女の子もまた笑みを漏らす。皆の中では一番大人しい、花屋の娘の子だ。
 引っ込み思案であまり自分から何かを言ったりする事はないものの、慣れた相手には案外よく喋るようで、稗田の娘と話している姿を時折見かけたりもする。
 その他にも、昼前にも見かけたが、なんとあの風見幽香と普通に話が出来る、里の中でも珍しい人材だったりもするのだが、本人としては花が好きなお姉さんだとか、そういう認識でしかないのだろう。
 そうして里の外れへと歩いていくと、一番外側に建つ小屋の前で先に行った子供達が今か今かと待ちかまえている様子が見て取れた。
 里の内と外はどこかで厳密に区切られている訳ではない。塀もなければ柵もなく、畑が広がり始めた辺りからがおおよそ里として認識されている。
 その畑の端よりもまだ手前にある小屋に辿り着くと、皆が歓声を上げて迎えてくれた。ここからは皆一緒だ。
 待っている間に何をして遊ぶのかを決めていたのか、子供達が矢継ぎ早に妹紅にその内容を伝えてくる。その一つ一つに笑い声を上げたり感心してみたり、妹紅としても退屈はしない。
 夏の日差しも跳ね返しそうな子供達の笑顔を見ていると、こちらまで元気が湧いてくる。
 蝉の声もかき消してしまいそうな小さな台風を引き連れて、妹紅が野道を歩いていく。

    §

 勢い任せに倒れ込んだ背中を、草と土が受け止めた。虫達が一斉に飛び出したが、そんな事を気にする余裕もないといった風に、妹紅が苦しげに目を瞑って息を荒げていた。
 ――そこいらの妖怪よりもよっぽど恐ろしい。
 自由に駆け回れる草原という場に出た子供達は、まるで水を得た魚のように活気に満ち溢れ、無尽蔵かとも思える体力を前にして、遂に妹紅の方が先に根を上げてしまったのだ。
 以前草原に出た時はそんな事はなかったのだが、考えてみればそれも去年の事。一年という歳月は大人達にはあっという間でも、子供達には考えられないほどの時間。成長の度合いもまた、大人達の想像を超えるような速さなのだ。
 妹紅とて普段から体一つで生活しているのだから体力に自信がない訳ではないが、いくら蓬莱の薬といっても体力まで超人のようにはなってくれない。輝夜との勝負であれば幾らでも気力で踏ん張る事が出来るのだが、純粋に体力勝負となった場合、こうして先に倒れてしまう事も稀にある。
 とはいえ妹紅とて蓬莱人。妖怪並とまではいかずとも、普通の人間に比べれば体力の面でも十分勝っている。本当にどこからあんな元気が出てくるのかと、開いた瞳に青い空を映して、妹紅は盛大に溜息を吐いた。
 そうやって暫く寝転んでいると、荒れていた呼吸も次第に落ち着いてきた。
 まだまだ遊び足りないというような子供達の声があちこちから聞こえてくる。放っておいて大丈夫だろうかと思ったが、気配だけでも自分がここにいるという事を示しておけば、連中もおいそれと構ってはこないだろう。その範囲外に出られると流石に困った事になるが、その辺りは弁えている子達だ。倒れる前にあの年長の女の子にも言っておいたから、ひとまず安心していいかと妹紅は思う。
 とはいえやはり子供達。何があるか解らないのだが、情けない事に多少呼吸が落ち着いたところで体は動かせそうになかった。
 せめてもと子供達の声に耳を傾けて、皆の居場所だけでも把握しておく。
 真っ青な空。
 見る角度が違うからか、慧音の家がある高台から見たものとはまた別のものに見える。
 じっと一点を見ていると、まるで空に吸い込まれてしまいそうな気がして、一瞬感じた浮遊感にびくりと体を震わせた。
 長閑なものだと思う。
 この地に来るまでは考えもしなかったような出来事。大昔にもこうして草原に大の字になって寝転んでいた事があったような気がするが、気持ちはきっと今とは正反対。
 先の見えない未来を恐れて閉じこもり、追い立てる過去に怯えて絶望していた。
 思い出したくないが、忘れてはいけない事。時効など永遠に訪れない、己自信の過ちだ。
 一つ、溜息。
 それでも今は思い出さなくていいだろうと、浮かびかけた黒い感情を頭の隅へと追いやった。
 風に揺れる草がちくちくと頬を掠めるが、その痛みもどこか楽しい。
 火照った体もほどよく静まり、土と草の匂いが入り交じった、濃密な夏の空気が肺を満たす。
 おろしたての服はすっかり土に汚れてしまったが、勿体ないとは感じない。同じように土に汚れてしまった真っ白だった髪は、それでもまだ午後の日差しに煌めいて、光の粒子を振りまいていた。
 そうして全身の力を抜いてみると、この草原に、大地に抱かれているような気がしてくる。
 柔らかな土の感触は母の腕のようで、感じる暖かさは温もりといったところか。
 それこそもう、思い出そうとしても思い出せない、遠い遠い昔の出来事。けれど、体は確かに覚えている。幼い自分を抱いてくれた母の温もりを。幼い自分の頭を撫でてくれた、母の優しさを。
 そうなると聞こえてくる子供達の声も子守唄のようで、いけないとは思いつつも自然と瞼が降りてくる。なんとか堪えようと瞼を開いてみるものの、それも長くは続かない。
 意識が眠りへと落ちる寸前、母親の声が聞こえたような気がした。

    §

 はっと妹紅が目を覚ますと、青かった空はすっかりと夕焼け色に染まっていた。
 東の方に首を向けると徐々に藍色が濃くなって、早くも瞬く星がいくつか見えた。
 やってしまったと焦りを覚えて身を起こそうとするが、右腕に重みを感じて止められてしまう。何事かと思って見てみれば、妹紅の腕を枕代わりにして眠る花屋の娘がそこにいた。
 あどけない寝顔は無垢な少女そのもので、思わず溜息が漏れてしまう。
 それと一緒に急いた気も抜けてしまったのか、焦りはなくなったものの、今度は動けない現状に困ってしまう。他の子供達がどうしているかが気になるが、下手に動かして起こしてしまうのも気が引ける。
 しかし、そんな戸惑いが伝わってしまったのか、女の子が小さく呻くとそのまま瞼を開き、ぼんやりとした目で妹紅の顔を見た。
 起こしてしまった事を詫びると、女の子は首をふるふると左右に振って、自分の足で立ち上がる。どうやら寝惚けていたのも最初だけのようで、すっかりと起きてしまったようだった。
 とてとてと駆けていく女の子の背中を見送って、悪いことをしてしまったかと思いながら妹紅も立ち上がる。そしてさて他の子供達は何処へ行ったのかと視線を巡らせていると、不意に袖を引っ張られた。
 振り向くと、いつの間にか戻ってきていた花屋の娘が尚も袖を引っ張っていた。もう片方の手には、先程はなかった花冠を持っている。
「はいっ」
 察した妹紅が女の子の前に屈むと、ぽんと頭の上に花冠を乗せられた。
「さっき作ったの。妹紅お姉ちゃんにあげるね」
 乗せられた自分の姿がどのように見えているのかは解らないが、彼女の持っていた花冠は子供が作るにしては随分と手の込んだ物のようにも見えた。大小様々、鮮やかに彩られた花冠。その辺りは流石に花屋の娘といったところか。
 似合ってる、と言ってくれた女の子にお礼を言って頭を撫でると、くすぐったそうに彼女が笑った。
 そんな事をしている内に、あちこちから子供達が二人の元へと駆け寄ってきた。男の子も女の子も一人残らず土に汚れていたが、これまた一人残らず全員が、夕日に照らされて真っ赤になった顔に、満足したというような笑みを浮かべている。十分に遊んだのだろう、一人が「帰るか!」と声を上げると、皆がそれに追随して「おう!」と勇ましく握り拳を挙げた。まだまだ体力は余っているらしい。本当に末恐ろしい子供達だ。
 そうして帰り道、妹紅が手を繋いでいるのは花屋の娘だけ。年長の女の子は先頭に立って、木の枝を指揮棒代わりに振り回して何やら大きな声で歌っていた。それは妹紅も知っている童謡だ。幻想郷に来る前に聞いたのか、それとも来てから聞いたのかは覚えていないが、歌詞は今でも思い出せる。
 他の子供達も合わせて歌うが、皆が好き勝手に歌うので音程も調子もばらばらだった。
 それでも誰も歌うのを止めようとはしない。
 真っ赤な夕焼け空に向かって響く歌声。どこかでヒグラシがカナカナと鳴いていた。
 けれど、次第に歌声が震えてくる。何かに堪えるようなそれも一瞬。誰かがついに堪えきれなくなって吹き出すと、一斉に皆が笑い声を上げた。
 妹紅も一緒になって、笑って、笑って、笑い続けた。
 背中に延びる長い影。遠くに聞こえる烏の鳴き声。やがて見えてきた里からは、夕飯の準備をしているのだろう、どの家からも煙が上っているのが見て取れた。
 不意に訪れた静寂。近付く別れの時間。里まではもう少し、すぐそこにもうあの小屋が見えている。
 その時、またさっきの歌が聞こえてきた。妹紅のすぐ横、花屋の娘の声だった。
 そこからまた一人、また一人と歌い始める。
 再度始まる合唱は、けれど先程とは違ってきちんと皆声を揃えていた。のんびりと響く子供達の歌声。そんな様子を眺めていると、一人、また一人と妹紅の方へ顔を向けてきた。歌は止めないまま、見れば花屋の娘もこちらを見上げていた。
 少しだけ握る手に力を込めて、大きく息を吸う。
 満開の笑みが、咲いていた。

    §

 里に戻ると、あちこちから漂う美味しそうな匂いに釣られたのか、子供達は一斉に散り散りになっていった。大きな声で別れを告げて、また明日と背中を向けて走っていく。
 つい先程までの大所帯が嘘のように、妹紅と手を繋いだ花屋の娘だけが残っていた。
 その女の子も家まで送り届けて、最後に一人。
 なんとなく遠くに見た高台の上。まだ戻っていないのだろうか、灯りはついていなかった。
 日はすっかりと山の向こうに沈んでしまい、辺りには早速夜の闇が広がっていっている。店の並ぶ中心の方からはそんな闇にも負けない明るさと笑い声が聞こえてくるが、混ざろうという気にはなれなかった。どのみち持ち金もない。
 暫く立ちつくして、空を仰ぐ。
 天を埋め尽くす星々の中に、ぽっかりと浮かぶ真円の月。
 そこに何を思ったのか。そこに何を見たのか。
 ほぅと一息ついて、妹紅が踵を返して歩いていく。
 今度は小さく、先程の歌を歌いながら。
 次第に家も少なくなり、畑の傍に建てられた小屋もまばらになった頃には、けたたましくも静かな夜の虫達の声で満たされる。音の大きさだけなら昼間よりも五月蠅いかもしれないというほどだが、それでも聞こえてくる音はどれもが耳に優しい。
 歌を止めて、そんな虫達の声に耳を傾けたまま、竹林へと辿る道を歩いていく。
 コオロギ、鈴虫、ツクワムシもどこかで鳴いている。虫だけでなく、フクロウやミミズクなどの声も聞こえてきた。
 そのまま歩き歩いて竹林へ。
 竹林の中は月と星の明かりが降り注いでいた先程までとは打って変わって、一寸先も見通せないような闇に覆われていた。
 火を灯せば灯りになるが、構わないといった風に妹紅は歩いていく。
 日を追う毎に姿を変えていく竹林。それでも妹紅は迷わない。それどころか、目を瞑っていても家に帰り着けるとさえ思う。
 慣れた道。慣れすぎた道。実際に目を瞑って歩いてみるが、竹にぶつかる事もなければ、躓くような事もない。元々ほとんど見えていなかった視界ではあるものの、目を閉じた事で一層虫達の合奏が鮮明になる。
 それに混ざって、一歩一歩、落ちた竹の葉を踏みしめる音が体の内と外から聞こえてきた。
 かさりかさりと鳴る歩みに合わせて、家に帰ったらどうしようかと考える。
 すっかりと遅くなってしまったから、さっさと寝てしまおうか。でも体だけは拭いておきたい。折角の新品の服なんだから、汚れが染みつく前に洗っておくべきか。
 洗濯という言葉に若干気を落としつつ、それでも歩みは止まらない。
 無造作に生える竹をまるで見えているかのようになんなく避けて、我が家へと向かっていく。
 そうやって、とりあえず飯は食べようという結論に至ったところで、瞼の向こう側に仄かな灯りを感じて目を開く。
 だが、目の前に映るものを見たところで、初めて妹紅が歩みを止めた。
 そこにあるのは自分の家よりも何倍も大きな屋敷。永遠亭――輝夜の住む家だった。
 確かに慣れた道。確かに見慣れた風景。
 しかし、そのどちらもが決定的なまでに間違っている。
 気が乗っていればこのまま乗り込んでもよかったのだが、生憎とそんな気分には程遠い。
「遅かったわね。待ちくたびれたわよ」
 だというのに、蓬莱山輝夜という女はこういう時に限って姿を現すのだ。
 盛大に溜息を吐いて振り返ると、竹林の闇の中から見飽きた顔がするりと滑り出してきた。どうして屋敷の側ではなく背後から出てきたのかは解らないが、恐らく聞いたところで碌な答えは返ってこないだろうと諦める。まともに付き合っていては、堪忍袋の緒が何本あっても足りないのだ。
 だが、無視して通り過ぎようとしたその時、ぽそりと輝夜が漏らした「あの白沢もいるのだけれど」という一言に思わず振り向いてしまった。
「そう怖い顔をしないの。今日はちょっと手伝ってもらっただけよ。何もしてないわ」
 本当よ、と輝夜が妹紅の唇にそっと人差し指を当てた。
 ただ触れただけなのに、まるで封じられてしまったかのように口を動かす事が出来ず、妹紅がぐぅと唸る。
 それを見てころころと鈴が鳴るような声で小さく笑った輝夜が、指を離して屋敷の方へと歩き出した。
「今日はなんでも、私と貴女がここに来た日なんだそうよ」
 一度振り返って「覚えてない?」と輝夜が問う。
「もちろん年代にずれはあるけれど、なんだかそういう事らしいわ」
 言いながら、輝夜が両手を広げてくるくると回る。それは奇しくも朝方に妹紅がやっていたのと同じだったが、触れずに置いておく。月の光を受けて輝く黒い髪が本当に綺麗で、それだけが少し悔しかった。
「それをたまたまあの白沢に言ったら、こうして見事に蚊帳の外へ追い出されてしまったの。朝からずっと、ね」
 酷いわねぇ、と言って、輝夜が動きを止めた。屋敷を背に、月明かりに照らされてこちらを向いた姿がまた憎たらしいくらいに絵になっている。
 どこまでもお姫様で。いつまでもお姫様で。
 けれど、同じ蓬莱人。
 妹紅が輝夜と同じなのか、輝夜が妹紅と同じなのか。それは妹紅には解らない。
 ただ解っていることは、二人とももうどこへも行けないという事だ。
 妹紅は地上を追われ、輝夜は月を追われ、そうしてこの幻想郷に辿り着いて、もうどこへも行けない。
 いや、と妹紅は考える。
 永遠に変わる事がないと思っていた時間にも変化はある。今、こうしてこの場所にいるように。その変化は自分ではなく、周りによってもたらされる。そうして巡り巡って、廻り廻ったその先に、また別の道が待っているのかもしれない。
 その時にはここではない、別のどこかにいるのだろうか。
 けれど。
 きっと。
「まぁいいわ。これでやっと中に入れる」
 くるりと反転。妹紅に背中を向けた輝夜が改めて屋敷へと歩き出す。
 そして肩越しにこちらを振り返って、
「どうしたの、行くわよ妹紅」
 遠い遠い、歳を経た今でも尚考える事の出来ないほど遠い未来。
 それでもきっとすぐ近くには、こいつがいるのだろう。
 まぁ、それも悪くはない。


「――待てよ、輝夜」



《完》
コメント



1.無評価Torn削除
That inhsgit would have saved us a lot of effort early on.