「なにやってんだろな、私……」
愛用の小刀で竹串を削りながら、愚痴のひとつも零してみる。手元を見ずとも竹串くらいは削れるが、それ故に集中する必要もなく、おかげで余計なことをつらつら考えてしまい、ついつい愚痴のひとつも零れてしまうといった塩梅だ。
「よし」
とりあえず一本仕上げ、空に透かして確認する。後で軽くヤスリをかける必要はあるだろうが、反りもなく、ささくれもなく、それなりに満足のいく出来だった。思わず口元が緩む。我ながら単純だと思うが、何かを上手く作れた時というのは何だか理由もなく嬉しい。そういう時は飾りのない、心からの笑みを浮かべることができるのだ。それは浮かべるではなく、滲み出るというべきかもしれないが、そういう顔のできる自分は結構幸せなんじゃないかと、そんな心地になれてしまったりする。
「ほらほら、いつまで掛かってんのー? 次は薪割りだよー。日暮れまでに終わらせないと、お客さんが来ちゃうじゃない!」
「へいへい」
せっかちなオーナーの催促に軽く肩を竦める。やれやれと首を鳴らして立ち上がり、削った竹串を掻き集めて皿に並べると、次の仕事に取り掛かるべく支度にかかる。
私の名は藤原妹紅。
今の私は不死の鳳凰でも、竹林の守り人でも、健康マニアの焼き鳥屋さんでもなく。
小さな飲み屋の――しがないウェイトレスさんである。
§
どうしてこうなったのか。
話せば長くなるものの、我が身の不幸を知ってもらうためには我慢して聞いてもらうしかあるまい。正直なところ思い出すのも忌々しいが、しなくては話が始まらない。あれだ。説明責任ってやつだ。誰に対する責任なのかは不明だが、そこは考えてはいけないことだと本能が警鐘を鳴らしている。まあ、そういうメタな話は置いておくとして、とりあえず説明を始めるとしよう。
竹林を歩いていると、突然輝夜が襲い掛かってきた。
当然、私は問答無用で蹴り飛ばした。
しかし敵も然るもの引っ掻くもの。蹴り飛ばされてなお、きーきー喚きながら襲い掛かってきて、仕方なくいつもの弾幕ごっこへと移行したのである。
その後のことは――正直なところあまり覚えていない。
頭に血が上ると周りが見えなくなるのは私の悪い癖であるが、気がつくと竹林の一部が炎上していた。それ以外は里の建物の一部が半壊し、夜雀の屋台が爆発炎上したくらいの、まぁ、言ってしまえば慎ましいものである。とりあえず暴れる輝夜を簀巻きにして必死の消火活動を行ったものの、火を消し止めた頃には朝になっていて、如何に蓬莱人とはいえ無限の体力を誇るわけでもなく、体力の限界を迎えた私は疲労困憊の極みで焼け野原に大の字になって寝転んでいた時の話だ。
ちなみに里の方は輝夜の責任だったので、簀巻きにしたまま慧音に引き渡している。
その後どうなったかは知ったこっちゃないが、どうせそのうち誰か迎えにくるだろうし、例の薬師によって里に対する補償はつつがなく行われるだろう。どうせならできるだけ迎えが遅れて、思う存分里の吊るし上げを食らってりゃいいと思う。ちったぁ反省しろ、マジで。
とまぁ、いつもどおりの。
こっちとしては心底勘弁して欲しいとは思いつつも、よくある日常の一ページということで、このまま忘却の彼方に沈めて欲しいような出来事だったのだが――一つだけ看過しづらい点があった。
消し炭となった屋台の前で、マジ泣きしている夜雀である。
いくら妖怪とはいえ、このまま放っておくのも寝覚めが悪い。なにしろ見た目はいたいけな少女であるのに、鼻水も涙も垂れ流しでびーびー泣いているのだ。流石にこれを放っておけるほど人間辞めてるつもりもなく、限りなく土下座に近い形で謝り倒してみたものの、どうにもこうにも泣き止んでくれる気配はない。夜雀特有の甲高い泣き声が視力どころか思考能力すらも奪っていき、寝不足と疲労がラインダンスを踊っている私の頭では、どうすることもできず途方にくれるしかなかった。何にせよ、彼女の屋台を完膚なきまでに爆砕炎上させてしまったのが原因なのだし、そうなったのは完全に私の責任なのだから、それをどうにかしないことには彼女の機嫌も直るまい。
だから、まぁ、その。
「えーと……うちに来るか? 辺鄙なところだけど、改装すれば屋台の代わりにはなると思うし……無論、屋台の方も弁償させて貰うよ? それまでの、まぁ、繋ぎってことだけど」
彼女がぴたりと泣き止む。
泣き止んで、きょとんとした顔で見上げている。
「その、落ち着くまでは……私も店を手伝うからさ」
私の言葉を反芻するように首を傾げ、瞳を覗き込むようにじーっと見つめ、そしてふいに顔を輝かせたかと思うと、
こくこくと――何度も大きく頷いた。
§
「よぉ、姉ちゃん。タレ三本追加ね。あ、あと芋も」
「あいよ。芋はお湯割りでいいかい?」
「ああ、それで」
「毎度。んじゃちょっと待ってな」
昔取った杵柄というべきか。
長く生きていれば、糊口を凌ぐために様々な職を手につけることとなる。元貴族とはいえ接客自体は手馴れたものだし、やろうと思えば愛想笑いの一つくらい私だって浮かべることはできるのだ。この時間帯なら客の入りもそれほど多くないし、品数も少ないから(八目鰻の蒲焼しかない)注文を覚えるのも苦にならなかった。
元々身体を動かすのが好きな性質であるし、適度な忙しさは逆に望むところである。流石に私の家をそのまま改築するのは手間だったので、庭に簡単な東屋を設けただけの簡素な造りだが、四人掛けのテーブルを五席構えており、仮店舗としては上等な類だろう。常によくわからない歌詞を口ずさんでいる夜雀の歌が煩わしいと言えば煩わしいが、慣れてくればそれほど気にならない。気をしっかり持っていれば目が見えなくなることもないし、労働環境としては上等な部類と言えるだろう。
ただまぁ、ひとつ不満があるとすれば。
「ちょいとそこの店員さん? さっき頼んだ熱燗はまーだかーしらー?」
奥の席でにまにまと猫のように笑いながら、空になった銚子をふりふり振っている黒髪馬鹿がいることくらいだった。
「てか、なんでおまえがいるんだよ」
「ご挨拶ねぇ。私はただ、美味しいと評判の串焼きを食べにきただけよ?」
にまにまと。
そりゃもーもんのすごく嬉しそうに。
猫が鼠を見つけたような顔で店にやってきた輝夜の顔を見た瞬間、顔面に塩を叩き付けたい衝動に駆られたが、それはなんとかぎりぎりで飲み込んだ。今の私は店員そのいち。この話を聞いた者ならば誰でもすぐに思い浮かべるような、オチまで丸わかりなお約束に身を落とすほど耄碌はしていない。はずだ。たぶん。きっと。
「あ、あの姫様? 喧嘩は駄目ですからね? 来る前に約束しましたよね? ね?」
向かいの席に座っている月兎は、見ているこっちが気の毒になるくらい冷や汗を掻いていた。例の陰険薬師の姿が見えない以上、今日はコイツがお目付け役ってところなのだろう。お目付け役というか人身御供みたいなもんだが、あまりにも頼りなくて緩衝材の役目すら果たせそうにない。
「……熱燗だったよな。ちょっと待ってろ」
「あらあら。仮にもお客様に対してその言葉遣いはないんじゃない? そんなんじゃ育ちが知れちゃうわよー?」
「失礼致しました少々お待ちくださいっ!」
頑張れ、私。
耐えろ、私。
月兎が歯止めにならない以上、自分の意思で押し留めるしかないのだ。背を向けた私へと、ころころ鈴の鳴るような笑い声で追い討ちを掛けてくるが、奥歯を噛んでぐっと堪える。馬鹿に付き合ってるとこっちまで馬鹿になってしまうのだ。こないだ慧音に「いい加減大人になれ」と叱られたばかりだし、まして現在は夜雀に貸しているとはいえ、ここは住み慣れた愛しき我が家なのである。下手に暴れて家が壊れでもしたら、それこそ泣くに泣けないだろう。涙を枕に野宿するなんてのは幾らなんでも御免だった。
苦虫をまとめて千匹くらい噛み潰しながら厨房に戻ると、なーんにも考えてなさそうなお気楽な顔で、夜雀がいつものように歌っていた。
「タレ三本と芋お湯割。あと熱燗も急ぎでな」
「あーい」
夜雀は何が楽しいのか、ものすごく嬉しそうな顔で手にした包丁をキンキン鳴らす。厨房の隅に置いて魚篭から八目鰻を一匹掴み取ると、実に手際よく一発で目打ちした。そのまま流れるような包丁捌きで八目鰻を三枚に下ろし、次々に串を刺しては火に掛けていく。秘伝のタレを刷毛で塗る動作も歌うように滑らかで、無駄というものがほとんどない。
「……改めて見ると大したもんだな」
「んー、なにがー?」
「ああ、いや、なんでもないよ」
口にしようとして思い止まった。
どうにも他人を褒めるという行為は苦手である。それが心からの賛辞であろうと、言葉にした途端、薄っぺらく、嘘っぽく感じてしまって……そういうのが、なんとなく嫌なのだ。自意識過剰と判っちゃいるが、素晴らしいものを言葉で収まる程度の小さな枠に押し込めたくないというか……ううん、やっぱり上手く言葉にできない。言葉というものは難しいものだ。私なんかじゃ、千年どころか万年経っても上手く扱える気がしない。
夜雀は私の逡巡にも気付かず、楽しそうに串をひっくり返している。
何となく救われたような気がして、仕事に専念することにした。
串物は夜雀に任せて酒の用意をしておくとしよう。焼酎の瓶と湯飲みを棚から出しつつ、お湯の温度を確かめる。まだ温かったので竈に炭を足しておき、その間に溜まっていた洗い物を片付けることにした。客が少ないので用意した皿に余裕はあるが、いつ大量のお客さんがやってくるか判らない。辺鄙な場所にある小さな飲み屋ではあるが、仮にも飲食店である以上、やるべきことは幾らでもあるのだ。
適温になったお湯を焼酎に注ぎ、別の鍋に掛けていた熱燗をお湯から取り出して、表面についた水滴を手拭いで拭う。そうこうしているうちに「はーい、タレ三本おっまちー!」と夜雀が声を上げたので、手早く皿を差し出した。
「こっちも用意できたし、すぐ持ってくよ。あ、そっちの皿は洗ってあるから、拭いて棚に戻しといてくれな」
「あーい」
皿に盛った焼き串と酒を盆に載せ、テーブルへと向かう。
春が近いとはいえまだ風は冷たい。吹きっさらしのこの店は、テーブルごとに火鉢を焚いているもののちょっと火の気から離れると、途端に寒気が襲ってくるのだ。盆に載せた熱燗とお湯割りを零さないように気をつけながら、少しだけ足早にテーブルへと向かう。
テーブルの前に立つと、火鉢に手を当てていた男がぱっと目を輝かせた。
「お待ち。寒かったろ? 待たせて悪かったね」
「なぁに。ちっとくらい待った方が酒の旨みも増すってもんさ」
嬉しそうに湯飲みを受け取る男の顔を見て、思わず口元が綻んだ。
客の喜んでくれる顔というものはいいものだ。
串物の皿をテーブルに並べつつ、もう二言三言客との会話を楽しもうとしていると、
「ちょっとー! いつまで待たせんのよ!」と、奥の席から無粋な声を掛けられた。
重い溜息を吐きつつ、次のテーブルに向かう。
自然と足取りが重くなるが、こればっかりは勘弁して欲しい。
「はーい、熱燗一丁お待たせしましたー」
「遅いわよこの愚図。凍えちゃうじゃない」
瞬間的に徳利を投げつけてやろうかという衝動に駆られたが、鋼の心で自制する。
ぷりぷりと頬を膨らませている輝夜の顔から目を逸らすと、月兎が祈りにも似た面持ちで私の顔を見つめていた。祈るような、というか実際に両手を合わせて拝んでいる。
「お待たせして申し訳ありませんでした……っ!」
あんな顔を見せられては流石に自重するしかない。
こいつに頭を下げているんじゃない、客に頭を下げているのだと自分に言い聞かせつつ、ぎちぎちと奥歯を噛み締める。
「まったくなってないわねぇ。ほら、さっさとよこしなさい」
私の盆からひったくるように徳利を奪うと、そのまま月兎の方に手渡した。突然目の前に徳利を突き付けられた月兎が目を白黒させつつ受け取ると、間を置かず輝夜の杯におずおずと注ぎ始める。腐りきっても姫は姫。手酌は矜持が許さないということだろう。
礼も言わず、さも当然といった顔で杯に注がれた酒を見つめて淡い笑みを浮かべると、輝夜はくいっと一息に酒を呷った。如何にも飲み慣れているといった感じの気風の良い飲み方で、場の空気にあった飲み方ってやつを憎らしいくらいに心得ている。思わず見惚れてしまった自分が、なんだかひどく腹立たしい。
飲み干した杯に月兎がおかわりを注ぐと、今度は口をつけようともせず、月兎の方に「おまえも飲め」と目で促した。月兎が戸惑いながらも自分の杯に酒を注ぐと、何故か輝夜が月兎をじ っと見つめている。その視線に気付いた月兎は一瞬びくりと身を竦め、意を決したように輝夜と同じく一息で飲み干した。途端に月兎の頬が朱に染まる。
その様を見て花のような笑みを浮かべた輝夜は、ひょいと手を伸ばして徳利を掴むと、そのままふりふりと右手で降りつつ「ほらほら、まーだこんなに残ってるわよー」といった顔でにまにまと笑った。月兎が疲れたように肩を落とす。はふりと酒臭い息を吐く。
なんというか……完全に玩具扱いだ。
こんなヤツに仕えねばならないかと思うと、月兎に同情を禁じえない。
私なら三日と持つまい。
「何言ってんの。あんたなんか一日でクビよクビ」
「って何で考えてること解るんだ!?」
「解るわよ。長い付き合いなんだし」
「ああもう嫌だなぁ、ほんっとに嫌だ」
「仕方ないじゃない。腐れ縁ってやつよ」
「さっさと発酵して浄化してくんないかなぁ」
そう言って私が苦虫を一万匹くらい噛み潰したような顔をしていると、
「あきらめなさいな。縁は異なもの味なもの……そう思えば貴女との関係も、珍味みたいなものよね。あら、これ結構美味しいじゃない?」
輝夜は手元の串を上品に齧りながら、にこにこと笑った。
こいつはいつも楽しそうにものを食う。
八目鰻は独特の臭みがあり、慣れない者にはかなりきついものだ。姫として蝶よ花よと育てられた輝夜には口に合わないだろうと思っていた。嫌がらせをしたつもりはないが、口にした瞬間顔を顰める輝夜の顔を想像してほくそえんでいたのもまた事実である。「この味が判らないとは、まだまだおまえも子供だな」とでも言ってやろうと思っていた。
だけど輝夜は笑っている。
にこにこと、楽しそうに、本当に楽しそうに。
「珍味、ねぇ」
まぁ、珍味ってのは苦かったり、臭かったり、後味悪かったりするもんだよな。
その癖、慣れると病みつきになったりするし。
そう考えると、うん。
「まぁ……ゆっくりしていきな。タレに飽きたら塩もある。良かったら食べてみろよ」
「ふぅん。そうね。それも何本か貰えるかしら?」
「毎度。普段はタレで誤魔化してるが、八目鰻ってのはもともと生臭いもんだからな。初心者にはあまり勧めない。だけどまぁ……おまえならイケるんじゃないか?」
「あら、楽しみね?」
「ったく。おまえってほんっと悪趣味だよな」
何となく愉快な心地になって、からかうような笑みを向けると、
「当然でしょ? だって私は姫なんだから」
珍しいものは大好きよ――そう言って、輝夜もまた子供のように笑った。
§
「にしんがぱっぱか、さんしはじゅうごー、新婚さんならいらっしゃーい♪」
相変わらず訳の分からない歌を歌いつつ、夜雀は今夜も楽しそうに串を焼く。
ここで八目鰻屋を始めてから一月余りが経ち、私もこの生活に慣れつつあった。昨日のうちに仕掛けた罠を朝の早い時間から回収し、炭作りや薪割り、店の掃除やら仕込みやらをしているうちに、気がつけば開店時間になっている。場所が場所なせいか、客といえば見知った顔ばかりだが、それなりに繁盛しているし、余計なことを考えないでいい程度には充実している。生の実感ってやつを噛み締める――なんて大仰なものではないが、このような生活が私の性に合っているのは確かだった。
「上手くやっているみたいじゃないか」
「まあね。あれから時々輝夜も顔を出すけど、店の中じゃ大人しいもんさ。実際、美味いしな。ここの串」
確かにな――そう頷いて、慧音が一串口に運ぶ。
「うん? タレを変えたか?」
「ああ、いつものタレにちょいと柚子を混ぜてみたんだ。隠し味程度だから普通は判らないだろうけど……気になるかい?」
「いや……うん。どちらかといえばこちらの方が好みだな。八目鰻の生臭さも消えて、後味も悪くない。それに仄かな柚子の香りが日本酒にもよく合っている」
「そっか。気に入って貰えたなら何よりだ。いや、ふと思いついただけだから、まだ店に出すのは憚られてたんだけどね。慧音のお墨付きなら店に置いてもいいかもなぁ」
「酷いな。私を実験台にしたのか?」
「こいつはサービスだ。お代は結構だよ」
こいつめ、と言って慧音が笑う。
今宵は満月。半獣人である慧音は、月にあてられて少しだけ獣寄りになっていた。二本の角、ふさふさした尻尾。口元からは牙が覗いているし、なによりも目の色がいつもと違う。
ほんの少しだけ――こわい瞳。
慧音はそれを恥じて、満月の夜は家に引き篭もるのが常だった。
私に言わせれば、そんなもの別に恥じることも隠すこともないと思うのだが、何か特別な用事でもない限り、この姿の慧音は人前に出ることを避けていた。厭っていたと言ってもいい。
だけどこの店では――慧音は慧音のまま、あるがままを曝け出している。
普通の人間が足を踏み入れない竹林の奥にあり、店主も従業員も揃って人でなし。そして客と言えば、やっぱり人でなしばかりである。現在も別のテーブルには三人の客が着いていたが、角を生やした慧音を見ても動じた様子もない。誰であろうと気楽に飲める――此処はそういう店だった。
「まぁ、慧音の場合、気にしすぎだと思うんだけどね」
「私だって里の者を信じていないわけではないさ。この姿のことは里の者なら誰だって知っているし、特に忌避されているということもない。だからまぁ……けじめだよ、ただの」
「けじめって……何のさ?」
「さて。おまえなら解ると思うんだがな」
「私が?」
「迷い人を送っても、里に入ろうとしないのはどうしてかな?」
「……ああ」
そういうこと、か。
最近は店にかまけているせいかおざなりになってはいるが、一時期は竹林に迷い込んだ人間を里まで送るという仕事をしていた。仕事である以上報酬を頂くわけだが、報酬を受け取る際にも、できるだけ里の中には足を踏み入れないようにしていたのである。
里に入れないというわけじゃない。
実際、必要なものがあれば里まで足を伸ばすこともある。
それでもできるだけ里に入ることを避けていたのは……何のことはない、私が人を怖れていただけなのだ。
私は千年以上の永い時を生き続けてきた蓬莱人である。不死のこの身が普通の人間にどう映るのか――それを文字通り、身を持って知っていた。思い知らされていた。
不死の秘密を求める人々に生命を狙われたこともあるし、親しかったはずの人に『化物』と蔑まれたこともあった。無論、魑魅魍魎の跋扈する幻想郷において、不死の人間ごとき特筆するには価しないということも十二分に理解しているつもりだが、それでもいつ『あの目』を向けられるかと思うと、迂闊に踏み込むのも躊躇われた。関わりを持つのが怖かった。
「私も同じだよ。信じていたいからこそ、どこかで線を引かねばな」
「ま、ね。うん、それは解るよ。うん、よく解る」
里の人間を信頼していないというわけじゃない。
信じていたいからこそ――恐れているのだ。
人の心は変わる。良くも悪くも、それが人間というものだ。
だからこそ付き合い方については慎重にならないと、双方にとって不幸な結果となるだろう。
自分の全てを受け入れて欲しいという願いは、私や慧音に限らず、人の枠からはみ出してしまった者全てが共有する思いであるが、それを強要するのは、それこそ相手の思いを踏みにじることとなってしまう。だからこそ人は線を引かねばならない。人が人でありたいと願うなら、他人を他人のまま、その在り方を許すことが必要なのだ。たとえそれが――自分の存在を否定するものであろうとも。
それを淋しいと思うのなら、その淋しさすらも飲み込まねばならない。
それが他人の存在を許すということだ。
「そういう意味では、この店の存在は有難いな。これからもちょくちょく寄らせてもらうよ」
「もっちろん大歓迎さ。これからも試作品の味見をお願いしたいしな」
「実験台の間違いだろう?」
「似たようなもんじゃないか」
そう言って互いに笑いあっていると、視界の端に人影が差した。
「おっと、いらっしゃいま……って、おや?」
目に留まったのは、ある意味見知った顔だった。
「や。お邪魔するわね」
「へぇ。こんなところにお店があったのねぇ」
東屋だから扉なんかないが、まぁ、形式に則って言うならば――暖簾をくぐってきたのは二人連れの客だった。一人は腰まで届く赤い髪をさらりと流し、一人は癖のある銀の髪を揉み上げのところだけ小さく三つ編にしている。二人ともいつもの、遠目からでも判る特徴的な姿と異なり、随分とラフな格好をしていた。赤毛はゆったりとした長袖のシャツにぴっちりとした橙色のパンツを穿き、銀髪は胸元の開いた白いセーターに七分丈の黒いタイツを穿いている。彼女たちの私服は初めてだが、普段とは随分印象が変わっていた。
オンとオフをきっちり使い分けているということだろう。
目元の険も取れて、二人とも随分と柔らかい表情をしていた。
「こんなところに来るなんて珍しいな。十六夜咲夜と……えーと、なんだっけ?」
「紅美鈴です! って、なんだかこの遣り取りも随分と懐かしい気がするわ……」
ああ、そんな名前だっけ。
神社の宴会で何度か顔を合わせたことはあるが、考えてみれば名前を聞くのは初めてだった気がする。だけどなんだろう。このお約束をきっちりクリアしたような謎の達成感は……いや、深く考えまい。考えてはいけない事というのは確実に存在するのだ。
「まぁ、いいや。今日は飲みにきたのかい?」
「ええ。屋台だった頃は常連だったんだけどねぇ。しばらく仕事が忙しくて顔出せない間に、いつの間にか場所を移ってるんだもん。こないだ里で聞いてびっくりしたわ」
「あー……そういや告知とかしてなかったもんなぁ。悪かったね」
「気にしなくていいわよ。私、ここの串焼きのファンなのよねぇ! うふふ、久しぶりだから楽しみだわぁ」
からからと笑う美鈴の顔を見て、こちらも自然に笑みが湧く。
「そうかい。ま、ごゆっくり。ああ、注文は何にする?」
「とりあえずタレと塩を十本ずつ! 酒は……っと咲夜さん何にします?」
すでに席に着いていた咲夜は、ふむ、と空を仰ぎ、
「そうね。大分暖かくなってきたことだし……今日は冷で」
「んじゃ、私もそれで」
「あいよ。銘柄の指定とかあるかい?」
「選べるほど種類あるの?」
「甘いのか、辛いのか、くらいなら」
「じゃあ私は辛口で」と咲夜が告げると、
「それじゃ私は甘口にします。咲夜さん、後でとっかえっこしましょうよ!」
そう言って美鈴がきゃらきゃらと笑った。
友達同士ってやつだろうか。華がありすぎてちょいと眩しいくらいだ。
注文を伝えに厨房に戻る途中、慧音と目があった。
慧音がテーブルの下で軽く手を振り、私は目線で軽く応える。
華やかな会話を続ける二人の声を背中に受けて、
今度は仕事抜きで慧音と飲みたいな――なんてそんなことを考えた。
§
「だーら何度も言ってるじゃないれすかっ! わらひは何もあなたがいつもサボってるとは言いません。えーえーそりゃもうしっかりがんばってるとは思いまふれすよ? ちゃんとノルマはこなしてるし、死者とのこみ……こみ……? こみゅみゅけーしょんもりっぱな仕事だと思います。ですけどね、ですけどね、ですけどですけどですけどね! よりにもよってこんな日に遅刻しなくてもいいじゃないですか !?」
「あー……いや、すんません。十王の視察があるってこと忘れて、うっかり話しこんでしまいまして……」
「そんなことだからそんなことだから!」
あー、うるせ。
今日の客は酒が頭の変なとこに入りでもしたのか妙に喧しい。できれば近寄りたくないのだが、こっちも商売。酔っ払い相手だからといって背中を向けるわけにはいかない。
「はーい、タレ三本と麦焼酎ロックお待ちー」
できるだけ視線を合わさないように、こそこそとテーブルに皿を並べていると、
「ねぇ! あなたもそう思うれしょ!?」
いきなり二人組みの背のちっこい方が立ち上がって、私の胸倉を掴んだ。身長差があるため胸倉を掴むというよりもぶら下がっているような形だが、涙でぼろぼろな顔を見ていると何だか哀れで振りほどくのも躊躇われる。
「そりゃー言い訳かもしれませんけどっ! 私たちだってがんばってるんです! がんばってるんですよっ! たまたま! ぐうぜん! 思ったより仕事が溜まってしまって大変な時期だというのに上が急に視察くるとか言い出して、それでちょっとだけ通常業務が遅れてしまっただけなんです! なのに小町が遅刻したもんだから業務の遅れは全て私たちの怠慢だと判ぜられてしまったんですよ!? 違うんです違うんですってば! ねぇ、そうでしょう!?」
同意を求められても困るのだが、とりあえず「そうですね」と返しておいた。
酔っ払いをあしらう秘訣はとにかく肯定しておくことである。それで満足したのか、ちっこい方はぐねぐねと椅子にへたりこんだ。テーブルに突っ伏してまだ何かぶつぶつ言っているが、とりあえず見なかったことにした。連れの赤毛が両手を合わせて「ごめん」と目で謝っていたが、飲み屋をやっている以上こんなことは日常茶飯事である。軽く手を上げて「いいよ」と返しておく。
何だか判らないけど、仕事でストレスがたまっているのだろう。
それを吐き出させてやるのも私らの仕事だ。
「お役所ってのも大変なんだねぇ」
気楽な我が身を振り返って、しみじみと呟いてみる。
二人とも時々見かける顔だが、何をやっているかはよく知らない。ただまぁ、会話の端々から役人っぽいなと伺えるだけだ。一応これでも貴族の娘だし、宮仕えの苦労ってやつはなんとなく想像できる。堅苦しくて息が詰まりそうで、とても自分には務まりそうにない。
「あらら。随分と荒れてるわねぇ」
「うわっ!?」
いきなり目の前の空間に亀裂が走り、そこから女の顔がにゅっと突き出てきた。
「って……おまえかよ。心臓に悪いからいきなり現れるなって言っただろうが」
「あらあら、では今度、福寿草でも差し入れましょうか?」
「自力で何とかするから遠慮しとくよ」
頼もしいわねぇと、ころころ笑いながら八雲紫が微笑む。
永夜の時に会って以来何度か宴会で顔を合わせていたが、未だにこいつが何を考えているのか解らない。まぁ、別に解りたくもないけれど。
「つれないこと言うわねぇ」
「当たり前のように心を読むな。んで、どうしたんだよ? 客として来たんなら座ればいいだろが。席なら幾らでも空いてるよ」
最初はそこそこ客が入っていたものの、大トラがいるせいで他の客はそそくさといなくなってしまった。営業妨害も甚だしいが、なんとなく追い出すのも忍びなくてさっきから開店休業状態である。こいつの神経の太さならあの程度の酔っ払いなど平気だろうし、どれだけ胡散臭かろうと客は客だ。
「今日は遠慮しておくわ。ああ、そうそう、串物を二十本ほど包んでくれない? 幽々子が食べたいって言ってたのを思い出したの」
「例の亡霊嬢かい? 食べたきゃ店に来ればいいのに……ってああ、あいつまだ蓬莱人が苦手なのか?」
「食えない相手は苦手なのよ。幽々子も、私も、ね」
そう言って紫は、扇子で口元を隠し、にまにまと笑う。
食えない相手はどっちだよと思うが、一応客なわけだし飲み込んでおくとしよう。
「んじゃ焼いてくるからちょっと待ってな。タレでいいかい?」
「そうねぇ。それじゃ半分は塩にしてもらえる?」
「あいよ。匂いが移るから包みは別にしとくな。っと、ああ、そうだ。そういやあんたに頼みたいことがあったんだ。すっかり忘れてたよ」
「私に? これは珍しいこともあったものね」
「いやさ、あんたは外の世界にも顔が利くんだろ? もし良かったら『白ワイン』ってやつを仕入れてもらえないかなぁって」
きょとんとした顔で紫がこっちを見つめている。
こいつのこんな顔は実に珍しい。というか初めてじゃないだろうか。
「貴女が他人に頼みごとする方が珍しいと思うけどね」
「だから当たり前のように心を読むなって。いやさ、こないだ紅魔館のメイドがうちに来たんだけど……タレならともかく、塩だとやっぱ臭みが気になるらしくてな。メイド曰く、臭みのある魚は白ワインで煮込むと美味いってことでさ。ちょいと試してみたいんだけど……紅魔館には赤しか置いてないらしくてなぁ。あそこ以外じゃワインなんて手に入らないし」
「ああ、なるほど。それで私ってわけね」
「無論それなりに対価は払うよ。手数料も込みでな。どうだい?」
「お安い御用よ。シャトー・ディケムでもコルトン・シャルルマーニでもよりどりみどりね」
「あー……あんまり余裕ないんで安いやつがいいな。まだ実際に使えるかどうかも解らないし、今はまだ試してみようってだけだから」
「それならドメーヌ・ド・ラ・ロマネコンティのモンラッシェなんかがお勧めかしら。ワインなんて古ければ古いほど高くなるものだけど、これなら最近当たり年があったばかりだしね。今なら安く手に入るわよ?」
「ろ、ろま……? うーん、よく判らないけど、それで一つ頼むよ」
「任せて。明日にでも持ってくるわ」
「ああ。んじゃ包んでくるから待っててくれ」
注文を伝えに厨房へと向かいながら、あいつも割と話の判るやつだなーと認識を改めることにした。
紫が「任せて」と満面の笑顔を浮かべた時に、なんだか背筋がぞくりとしたような気がしたが――きっと気のせいだろう、うん。
§
後日領収書を受け取った時、めんたまが飛び出た。
もう二度とあいつのことなんか信じない。
§
「はぁい、みなさんこんばんはー! みんな大好き文々。新聞の、記者にして編集者にして配達員でもある幻想郷最速の美人レポーター! ご存知射命丸の文ちゃんですよー! えー、そんなわけで今日はオシャレスポットとして最近話題のこのお店をご紹介させて頂こうと、竹林の奥にひっそりと佇む隠れ家的魅力に溢れまくったこのお店に、いつもどおりノーアポでやってまいりましたー! 突撃! 隣のバンコラン!」
「うるせぇ、かえれ」
とりあえずタイキックで店の外に蹴り飛ばしておいた。
インパクトの瞬間「きゃん!」とか可愛らしい声を上げていたが、それもどっかで聞いたネタである。このような状況下でも抜け目なく人気取りに走るその根性には、ある意味感心しないでもない。絶対見習いたくないけど。
「てゆーか酷いですよぅ。いきなり乙女のお尻を蹴っ飛ばすなんて」
「やかましい。あたしゃ自分のことをちゃん付けで呼ぶようなやつは問答無用で蹴り飛ばすと決めてるんだ。客ならともかく、そうじゃないなら帰れ」
「そんな! それじゃ幼女はどうすればいいんですか!?」
「幼女はいいんだ。幼女なら何をやっても許される」
「なるほど。それなら仕方ないですねっ」
何か判ってくれた。
あまり嬉しくないけど。
「何にせよ、見ての通り今忙しいんだ。取材だか何だか知らないが後にしてくれないか?」
親指で背後の店内を指し示す。
店内は大盛況で、七つに増やしたテーブルは全て埋まっていた。さっき天狗も言っていたとおり、最近は竹林の奥にあるこの店の雰囲気が隠れ家っぽいということで、様々な人妖の溜まり場となっているのである。近くのテーブルでは紅白と白黒が互いの意地と尊厳を懸けて飲み比べをしているし、それを床に座った小鬼が無責任に囃し立てている。その隣では最近越してきた山の上の神様二人が美味そうに串を頬張っているし、その足元には潰れた巫女がだらしなくひっくり返っていた。そのまた別のテーブルでは一人でやってきた女の客を口説こうと男たちが必死に話しかけているけど……あれ幽香だぞ? 下手な真似をして鼻の下を伸ばすよりも早く花の下に埋められないよう、とりあえず祈るとしよう。
「ほぇー、大盛況ですねぇ」
天狗は目を丸くして驚嘆の声を上げた。
きょろきょろと、興味深そうな顔であちこちに視線を飛ばしている。
「このお店って、オープンしてから半年経ってないんですよねぇ。それでこれですか」
「まぁ、夜雀の屋台の延長だしな。その時からの固定客もいるし、顔見知りの口コミで結構広まったりもしたんだよ。ありがたい話さ」
「あらら、それじゃもうみんなこのお店のこと知っているんですねぇ。うーん、それじゃ記事にならないかなぁ」
「客が増えるのはありがたいし、店の紹介になるんなら取材だってやぶさかじゃないけどね。あんたの新聞がどれだけ読まれているか知らないが、それなりに数だけはばら撒くんだろう?それだけでチラシ代わりにはなるだろうしな」
「そんな言い方酷いですよぅ」
天狗がむくれたように頬を膨らませる。天狗というのはどこまでも食えないやつらなので、こういった子供じみた所作も演技なのかもしれない。とはいえその全てが演技だとしたら、大した役者である。私が思うに彼女の場合は、役を演じているうちに役に取り込まれてしまった類ではないだろうか。そうでなければ売れない新聞をああも熱心に作ったりはすまい。
「んじゃ、私は仕事に戻るから。明日の昼なら取材を受けてもいいよ」
「むぅ、仕方ないですねぇ。それじゃ今日のところは客としてお邪魔させて頂きます」
「え、あ、ちょっと」
私の言葉を振り切って、天狗はつかつかと店の奥に進んでいく。そして最初から当たりをつけていたのだろう一つのテーブルの前に立つと、にっこりと、それはそれは華やかな笑みを浮かべた。
「あっらー、奇遇ですねぇ! 貴女もいらっしゃってたんですかー?」
その席には河童が一人で座っていた。
天狗が店にやってきた瞬間から付け合せの胡瓜を齧った状態のまま硬直していたが、水を向けられた途端「や、やぁ、奇遇だね」と天狗に会釈する。微妙に頬が引きつり、冷や汗がテーブルに落ちる。
「いっやー、実は取材を申し込んだんですけど、すげなく断られてしまいましてねぇ! 今日のところは大人しくお客さんとしてゆっくりさせて貰おうと思ってるんですが、相席しても宜しいでしょうか!」
わざとらしく大声で、店中に響き渡るように。
河童は目を白黒とさせながら、私の方に救いを求めるような視線を向けた。
だけどもう無理。コイツにはもうぜーんぶばれている。
「諦めろ」と小さく首を振ると、河童も全てを悟ったように肩を落とした。
「では、失礼して」
そう言って天狗が河童の対面に座る。
テーブルに肘をつき、にこにこと笑いながら河童に目を向ける。
「お一人ですか?」
「ええ……まぁ、その、なんというか……」
「いやいや、こんな良いお店があるなんて、寡聞にして知りませんでしたよ。にとりさんも人が悪いなぁ。ご存知でしたら誘ってくださっても良かったのに」
「え、あ、そ、そうですね。申し訳ないで……す……よ?」
可哀想に、河童の方は笑顔の重圧に押し潰されそうになっている。
まぁ、もっと重圧を感じているやつもいるのだけれど。
「ねぇ、椛?」
「ふぎっ!?」
テーブルの下でぶるぶる震えていたであろう白狼天狗は、いきなり声を掛けられて驚くと同時に天板に頭をぶつけていた。天狗は動じた様子もなく、にこにこと笑いながらテーブルの下を覗き込む。
「あれあれー? 今は仕事中じゃありませんでしたっけー? どうしてこんなところにいるのかなー? 不思議だなー?」
白狼天狗の方はもう声も出せないといった有様で、手にしたコップを震える両手で握り締めていた。天狗の姿を認めた時点で即座にテーブルの下に潜り込んだ判断力、決断力、身体能力は見事なものであったが、流石に天狗の目から逃れることはできなかったか。
テーブルの下から引きずり出された白狼天狗は、無理矢理天狗の横に座らせられて、もう生きた心地もしないといった顔で青褪めている。河童は我関せずを決め込んで胡瓜をがりがりと齧っているし、天狗は天狗で白狼天狗から奪い取った酒をくぴくぴ飲みつつ、ねちねちと白狼天狗をいじめている。
「うん、まぁ……生きろ?」
哀れな白狼天狗からそっと目を逸らしつつ、「お客様同士のトラブルには、当店は一切関知致しません」という張り紙でも貼っておこうかなと、割と本気で検討することにした。
§
気がつけば夏になっていた。蝉が鳴くにはまだ早いだろうが、それもあと数日といったところか。ねっとりとした風が、一段と強さを増した木漏れ日が、夏の到来を告げている。
夜雀に軒先を貸してから、かれこれ半年が経過したわけだ。
早いものだという気もするし、そんなものかという気もする。今日も今日とて日課となった薪割りをこなしながら、額に浮いた汗を拭った。午前中に終わらせないと後が辛い。もうひと頑張りするとしよう。
「てかまぁ、随分と健康的な生活になっちまったもんだ」
以前は昼に寝て夜に起きるという生活を続けていた。如何に蓬莱人とはいえ夜目が利くわけではないし、危険を避けるためにも夜は起きて昼に眠るという動物みたいな生活を送っていたのだ。危険といったところで、たとえ寝込みを襲われようとも私が死ぬことはないのだが、それでもまぁ、生きているのか死んでいるのかよく解らない私のような生き物にとって、夜の闇の方が居心地良かったのは確かである。
鉈を軽く突き立て、そのまま薪ごと振り下ろす。
単純な作業であるが、これが中々難しい。刃が寝てしまえば綺麗に割れないし、慎重になりすぎるとこれまた上手く割れない。指は痺れるし、下手をすれば刃が欠ける。半端に割れた薪はどこに飛んでいくか解らないし、向こう脛に当たって死ぬような思いをすることもある。つかあった。
見た目以上に難しい作業ではあるが、慣れてくるとこれも結構楽しいものだ。
リズムよくぽんぽん割っていけると気持ちがいいし、なんだか熟練の剣士になったような心地になる。こう、芯を食った手応えというのだろうか、そういうものが実に気持ちよいのだ。
「とりあえずこんなもんかな」
割った薪を縄で縛り上げて一纏めにしておく。
さて、次は炭焼きだ。竹串の追加と仕込みの準備もしなければならない。最近は客の要望に応える形で、八目鰻以外の皿も出すようにしていた。夜雀が経営者である以上、当然鳥はご法度だが、岩魚や鮎の塩焼きとか、山菜のおひたしなんかも出すようにしていて、これが中々好評なのである。慧音を通して里とも契約を結び、多様な酒も手に入るようになったし、なんというか凄く充実していた。夜雀の機嫌を取るために始めた店だが、今となっては私自身の生き甲斐でもある。東屋も拡張して今では十卓ほどに増やしているし、口コミや天狗の新聞の影響か、一見の客も増えつつある。そろそろもう一人くらい従業員を増やしてもいいかもしれない。
「暇そうなやつの心当たりなんて、両手の指じゃ足りないしな」
知り合いの顔を幾つか思い浮かべる。
即戦力として紅魔館のメイド長が真っ先に浮かぶが、流石にそれはあの吸血鬼が許さないだろう。他に暇そうなやつとして……森に住んでる白黒とかはどうだろう? あれで意外と根は真面目だし、機転も利くから客商売には向いていそうだ。盗み食いが多そうなのが玉に瑕だが、その分は給料から差っ引いておけばいいことである。永遠亭の月兎なんかもいいかもしれない。男受けも良さそうだし、更なる集客効果が望めそうだ。そういう意味ではあの人形遣いもいいかもしれない。愛想に欠けるが見栄えはいいし、器用だし、厨房を任せることもできそうだ。そうそう、暇そうといえば妖精たちの姿が思い浮かぶ。あいつらはそれこそ猫よりも仕事の役に立たないが、上手くおだてれば実に熱心に働くということも知っていた。使い方次第ではそこらの人妖よりもよっぽど素直に働いてくれることだろう。後は……
そしてふと――自分が酷く幸せであることに気がついた。
昔は思い浮かべることのできる顔なんて、片手で足りる数でしかなかった。
できるだけ人と交わることを避けてきたし、深い関わりを持ちたいとも思わなかった。
だけど今は……これだけの数を思い浮かべることができる。今までの人生に後悔がないと言えば嘘になるが、それでも今ここにいるために辿らなければならない道だったと思えば、それも別に悪くないかと思えるのだ。
「しっあわっせはー、あーるいってこないー、だーからあっるいてゆくんだねー♪」
夜雀が歌いながら鍋を洗っている。
こいつはいつも楽しそうだ。
いつだって、どんな時だって、楽しそうに歌う。歌いながら働く。
だからまぁ、ひょっとしたら。
「おまえのおかげかもな」
「うんー? なにがー?」
夜雀が不思議そうな顔で見つめてくるが、何でもないよと手を振ると、しばらく首をくりくり回してから再び歌い始めた。
多分こいつは、何で私と一緒に店をやるようになったのか、それすら覚えていないだろう。
屋台の修復はとっくに終わっていたが、直した屋台を見せたところ「なんだっけこれ?」と小首を傾げた。とぼけているわけじゃなく、本気で忘れていた。
正直な話――夜雀に屋台を渡す時、これでこの生活が終わるのかと思うと、ほんの少しだけ怖かった。伝えるのを躊躇った。それでも意を決して伝えたというのに、これである。気が抜けた。気が抜けて、抜けすぎて、思わず笑ってしまった。空まで届きそうな大声で笑った。
だからまぁ、うん。
「ありがとう、な」
今度は夜雀も気付かなかったようで、楽しそうに別の鍋を洗っている。
軽く肩を竦めて空を見上げれば、抜けるような青空が広がっていた。
鬱蒼と茂る竹林の、奇跡のように開いた穴から、雲もなく、どこまでも青い、本物の空。
空に手を伸ばすように、ぐっと大きく背中を反らす。
どこまでも行けそうな空と、陽気な歌。
後はまぁ、ちょっとのお酒と、旨い串焼きと、一緒に飲む相手がいてくれるなら。
「悪くないよね……生きるってのも」
今宵も暑くなりそうだ。
美味しい酒でも冷やして、やってくる誰かを待つとしよう。
《完》
愛用の小刀で竹串を削りながら、愚痴のひとつも零してみる。手元を見ずとも竹串くらいは削れるが、それ故に集中する必要もなく、おかげで余計なことをつらつら考えてしまい、ついつい愚痴のひとつも零れてしまうといった塩梅だ。
「よし」
とりあえず一本仕上げ、空に透かして確認する。後で軽くヤスリをかける必要はあるだろうが、反りもなく、ささくれもなく、それなりに満足のいく出来だった。思わず口元が緩む。我ながら単純だと思うが、何かを上手く作れた時というのは何だか理由もなく嬉しい。そういう時は飾りのない、心からの笑みを浮かべることができるのだ。それは浮かべるではなく、滲み出るというべきかもしれないが、そういう顔のできる自分は結構幸せなんじゃないかと、そんな心地になれてしまったりする。
「ほらほら、いつまで掛かってんのー? 次は薪割りだよー。日暮れまでに終わらせないと、お客さんが来ちゃうじゃない!」
「へいへい」
せっかちなオーナーの催促に軽く肩を竦める。やれやれと首を鳴らして立ち上がり、削った竹串を掻き集めて皿に並べると、次の仕事に取り掛かるべく支度にかかる。
私の名は藤原妹紅。
今の私は不死の鳳凰でも、竹林の守り人でも、健康マニアの焼き鳥屋さんでもなく。
小さな飲み屋の――しがないウェイトレスさんである。
§
どうしてこうなったのか。
話せば長くなるものの、我が身の不幸を知ってもらうためには我慢して聞いてもらうしかあるまい。正直なところ思い出すのも忌々しいが、しなくては話が始まらない。あれだ。説明責任ってやつだ。誰に対する責任なのかは不明だが、そこは考えてはいけないことだと本能が警鐘を鳴らしている。まあ、そういうメタな話は置いておくとして、とりあえず説明を始めるとしよう。
竹林を歩いていると、突然輝夜が襲い掛かってきた。
当然、私は問答無用で蹴り飛ばした。
しかし敵も然るもの引っ掻くもの。蹴り飛ばされてなお、きーきー喚きながら襲い掛かってきて、仕方なくいつもの弾幕ごっこへと移行したのである。
その後のことは――正直なところあまり覚えていない。
頭に血が上ると周りが見えなくなるのは私の悪い癖であるが、気がつくと竹林の一部が炎上していた。それ以外は里の建物の一部が半壊し、夜雀の屋台が爆発炎上したくらいの、まぁ、言ってしまえば慎ましいものである。とりあえず暴れる輝夜を簀巻きにして必死の消火活動を行ったものの、火を消し止めた頃には朝になっていて、如何に蓬莱人とはいえ無限の体力を誇るわけでもなく、体力の限界を迎えた私は疲労困憊の極みで焼け野原に大の字になって寝転んでいた時の話だ。
ちなみに里の方は輝夜の責任だったので、簀巻きにしたまま慧音に引き渡している。
その後どうなったかは知ったこっちゃないが、どうせそのうち誰か迎えにくるだろうし、例の薬師によって里に対する補償はつつがなく行われるだろう。どうせならできるだけ迎えが遅れて、思う存分里の吊るし上げを食らってりゃいいと思う。ちったぁ反省しろ、マジで。
とまぁ、いつもどおりの。
こっちとしては心底勘弁して欲しいとは思いつつも、よくある日常の一ページということで、このまま忘却の彼方に沈めて欲しいような出来事だったのだが――一つだけ看過しづらい点があった。
消し炭となった屋台の前で、マジ泣きしている夜雀である。
いくら妖怪とはいえ、このまま放っておくのも寝覚めが悪い。なにしろ見た目はいたいけな少女であるのに、鼻水も涙も垂れ流しでびーびー泣いているのだ。流石にこれを放っておけるほど人間辞めてるつもりもなく、限りなく土下座に近い形で謝り倒してみたものの、どうにもこうにも泣き止んでくれる気配はない。夜雀特有の甲高い泣き声が視力どころか思考能力すらも奪っていき、寝不足と疲労がラインダンスを踊っている私の頭では、どうすることもできず途方にくれるしかなかった。何にせよ、彼女の屋台を完膚なきまでに爆砕炎上させてしまったのが原因なのだし、そうなったのは完全に私の責任なのだから、それをどうにかしないことには彼女の機嫌も直るまい。
だから、まぁ、その。
「えーと……うちに来るか? 辺鄙なところだけど、改装すれば屋台の代わりにはなると思うし……無論、屋台の方も弁償させて貰うよ? それまでの、まぁ、繋ぎってことだけど」
彼女がぴたりと泣き止む。
泣き止んで、きょとんとした顔で見上げている。
「その、落ち着くまでは……私も店を手伝うからさ」
私の言葉を反芻するように首を傾げ、瞳を覗き込むようにじーっと見つめ、そしてふいに顔を輝かせたかと思うと、
こくこくと――何度も大きく頷いた。
§
「よぉ、姉ちゃん。タレ三本追加ね。あ、あと芋も」
「あいよ。芋はお湯割りでいいかい?」
「ああ、それで」
「毎度。んじゃちょっと待ってな」
昔取った杵柄というべきか。
長く生きていれば、糊口を凌ぐために様々な職を手につけることとなる。元貴族とはいえ接客自体は手馴れたものだし、やろうと思えば愛想笑いの一つくらい私だって浮かべることはできるのだ。この時間帯なら客の入りもそれほど多くないし、品数も少ないから(八目鰻の蒲焼しかない)注文を覚えるのも苦にならなかった。
元々身体を動かすのが好きな性質であるし、適度な忙しさは逆に望むところである。流石に私の家をそのまま改築するのは手間だったので、庭に簡単な東屋を設けただけの簡素な造りだが、四人掛けのテーブルを五席構えており、仮店舗としては上等な類だろう。常によくわからない歌詞を口ずさんでいる夜雀の歌が煩わしいと言えば煩わしいが、慣れてくればそれほど気にならない。気をしっかり持っていれば目が見えなくなることもないし、労働環境としては上等な部類と言えるだろう。
ただまぁ、ひとつ不満があるとすれば。
「ちょいとそこの店員さん? さっき頼んだ熱燗はまーだかーしらー?」
奥の席でにまにまと猫のように笑いながら、空になった銚子をふりふり振っている黒髪馬鹿がいることくらいだった。
「てか、なんでおまえがいるんだよ」
「ご挨拶ねぇ。私はただ、美味しいと評判の串焼きを食べにきただけよ?」
にまにまと。
そりゃもーもんのすごく嬉しそうに。
猫が鼠を見つけたような顔で店にやってきた輝夜の顔を見た瞬間、顔面に塩を叩き付けたい衝動に駆られたが、それはなんとかぎりぎりで飲み込んだ。今の私は店員そのいち。この話を聞いた者ならば誰でもすぐに思い浮かべるような、オチまで丸わかりなお約束に身を落とすほど耄碌はしていない。はずだ。たぶん。きっと。
「あ、あの姫様? 喧嘩は駄目ですからね? 来る前に約束しましたよね? ね?」
向かいの席に座っている月兎は、見ているこっちが気の毒になるくらい冷や汗を掻いていた。例の陰険薬師の姿が見えない以上、今日はコイツがお目付け役ってところなのだろう。お目付け役というか人身御供みたいなもんだが、あまりにも頼りなくて緩衝材の役目すら果たせそうにない。
「……熱燗だったよな。ちょっと待ってろ」
「あらあら。仮にもお客様に対してその言葉遣いはないんじゃない? そんなんじゃ育ちが知れちゃうわよー?」
「失礼致しました少々お待ちくださいっ!」
頑張れ、私。
耐えろ、私。
月兎が歯止めにならない以上、自分の意思で押し留めるしかないのだ。背を向けた私へと、ころころ鈴の鳴るような笑い声で追い討ちを掛けてくるが、奥歯を噛んでぐっと堪える。馬鹿に付き合ってるとこっちまで馬鹿になってしまうのだ。こないだ慧音に「いい加減大人になれ」と叱られたばかりだし、まして現在は夜雀に貸しているとはいえ、ここは住み慣れた愛しき我が家なのである。下手に暴れて家が壊れでもしたら、それこそ泣くに泣けないだろう。涙を枕に野宿するなんてのは幾らなんでも御免だった。
苦虫をまとめて千匹くらい噛み潰しながら厨房に戻ると、なーんにも考えてなさそうなお気楽な顔で、夜雀がいつものように歌っていた。
「タレ三本と芋お湯割。あと熱燗も急ぎでな」
「あーい」
夜雀は何が楽しいのか、ものすごく嬉しそうな顔で手にした包丁をキンキン鳴らす。厨房の隅に置いて魚篭から八目鰻を一匹掴み取ると、実に手際よく一発で目打ちした。そのまま流れるような包丁捌きで八目鰻を三枚に下ろし、次々に串を刺しては火に掛けていく。秘伝のタレを刷毛で塗る動作も歌うように滑らかで、無駄というものがほとんどない。
「……改めて見ると大したもんだな」
「んー、なにがー?」
「ああ、いや、なんでもないよ」
口にしようとして思い止まった。
どうにも他人を褒めるという行為は苦手である。それが心からの賛辞であろうと、言葉にした途端、薄っぺらく、嘘っぽく感じてしまって……そういうのが、なんとなく嫌なのだ。自意識過剰と判っちゃいるが、素晴らしいものを言葉で収まる程度の小さな枠に押し込めたくないというか……ううん、やっぱり上手く言葉にできない。言葉というものは難しいものだ。私なんかじゃ、千年どころか万年経っても上手く扱える気がしない。
夜雀は私の逡巡にも気付かず、楽しそうに串をひっくり返している。
何となく救われたような気がして、仕事に専念することにした。
串物は夜雀に任せて酒の用意をしておくとしよう。焼酎の瓶と湯飲みを棚から出しつつ、お湯の温度を確かめる。まだ温かったので竈に炭を足しておき、その間に溜まっていた洗い物を片付けることにした。客が少ないので用意した皿に余裕はあるが、いつ大量のお客さんがやってくるか判らない。辺鄙な場所にある小さな飲み屋ではあるが、仮にも飲食店である以上、やるべきことは幾らでもあるのだ。
適温になったお湯を焼酎に注ぎ、別の鍋に掛けていた熱燗をお湯から取り出して、表面についた水滴を手拭いで拭う。そうこうしているうちに「はーい、タレ三本おっまちー!」と夜雀が声を上げたので、手早く皿を差し出した。
「こっちも用意できたし、すぐ持ってくよ。あ、そっちの皿は洗ってあるから、拭いて棚に戻しといてくれな」
「あーい」
皿に盛った焼き串と酒を盆に載せ、テーブルへと向かう。
春が近いとはいえまだ風は冷たい。吹きっさらしのこの店は、テーブルごとに火鉢を焚いているもののちょっと火の気から離れると、途端に寒気が襲ってくるのだ。盆に載せた熱燗とお湯割りを零さないように気をつけながら、少しだけ足早にテーブルへと向かう。
テーブルの前に立つと、火鉢に手を当てていた男がぱっと目を輝かせた。
「お待ち。寒かったろ? 待たせて悪かったね」
「なぁに。ちっとくらい待った方が酒の旨みも増すってもんさ」
嬉しそうに湯飲みを受け取る男の顔を見て、思わず口元が綻んだ。
客の喜んでくれる顔というものはいいものだ。
串物の皿をテーブルに並べつつ、もう二言三言客との会話を楽しもうとしていると、
「ちょっとー! いつまで待たせんのよ!」と、奥の席から無粋な声を掛けられた。
重い溜息を吐きつつ、次のテーブルに向かう。
自然と足取りが重くなるが、こればっかりは勘弁して欲しい。
「はーい、熱燗一丁お待たせしましたー」
「遅いわよこの愚図。凍えちゃうじゃない」
瞬間的に徳利を投げつけてやろうかという衝動に駆られたが、鋼の心で自制する。
ぷりぷりと頬を膨らませている輝夜の顔から目を逸らすと、月兎が祈りにも似た面持ちで私の顔を見つめていた。祈るような、というか実際に両手を合わせて拝んでいる。
「お待たせして申し訳ありませんでした……っ!」
あんな顔を見せられては流石に自重するしかない。
こいつに頭を下げているんじゃない、客に頭を下げているのだと自分に言い聞かせつつ、ぎちぎちと奥歯を噛み締める。
「まったくなってないわねぇ。ほら、さっさとよこしなさい」
私の盆からひったくるように徳利を奪うと、そのまま月兎の方に手渡した。突然目の前に徳利を突き付けられた月兎が目を白黒させつつ受け取ると、間を置かず輝夜の杯におずおずと注ぎ始める。腐りきっても姫は姫。手酌は矜持が許さないということだろう。
礼も言わず、さも当然といった顔で杯に注がれた酒を見つめて淡い笑みを浮かべると、輝夜はくいっと一息に酒を呷った。如何にも飲み慣れているといった感じの気風の良い飲み方で、場の空気にあった飲み方ってやつを憎らしいくらいに心得ている。思わず見惚れてしまった自分が、なんだかひどく腹立たしい。
飲み干した杯に月兎がおかわりを注ぐと、今度は口をつけようともせず、月兎の方に「おまえも飲め」と目で促した。月兎が戸惑いながらも自分の杯に酒を注ぐと、何故か輝夜が月兎をじ っと見つめている。その視線に気付いた月兎は一瞬びくりと身を竦め、意を決したように輝夜と同じく一息で飲み干した。途端に月兎の頬が朱に染まる。
その様を見て花のような笑みを浮かべた輝夜は、ひょいと手を伸ばして徳利を掴むと、そのままふりふりと右手で降りつつ「ほらほら、まーだこんなに残ってるわよー」といった顔でにまにまと笑った。月兎が疲れたように肩を落とす。はふりと酒臭い息を吐く。
なんというか……完全に玩具扱いだ。
こんなヤツに仕えねばならないかと思うと、月兎に同情を禁じえない。
私なら三日と持つまい。
「何言ってんの。あんたなんか一日でクビよクビ」
「って何で考えてること解るんだ!?」
「解るわよ。長い付き合いなんだし」
「ああもう嫌だなぁ、ほんっとに嫌だ」
「仕方ないじゃない。腐れ縁ってやつよ」
「さっさと発酵して浄化してくんないかなぁ」
そう言って私が苦虫を一万匹くらい噛み潰したような顔をしていると、
「あきらめなさいな。縁は異なもの味なもの……そう思えば貴女との関係も、珍味みたいなものよね。あら、これ結構美味しいじゃない?」
輝夜は手元の串を上品に齧りながら、にこにこと笑った。
こいつはいつも楽しそうにものを食う。
八目鰻は独特の臭みがあり、慣れない者にはかなりきついものだ。姫として蝶よ花よと育てられた輝夜には口に合わないだろうと思っていた。嫌がらせをしたつもりはないが、口にした瞬間顔を顰める輝夜の顔を想像してほくそえんでいたのもまた事実である。「この味が判らないとは、まだまだおまえも子供だな」とでも言ってやろうと思っていた。
だけど輝夜は笑っている。
にこにこと、楽しそうに、本当に楽しそうに。
「珍味、ねぇ」
まぁ、珍味ってのは苦かったり、臭かったり、後味悪かったりするもんだよな。
その癖、慣れると病みつきになったりするし。
そう考えると、うん。
「まぁ……ゆっくりしていきな。タレに飽きたら塩もある。良かったら食べてみろよ」
「ふぅん。そうね。それも何本か貰えるかしら?」
「毎度。普段はタレで誤魔化してるが、八目鰻ってのはもともと生臭いもんだからな。初心者にはあまり勧めない。だけどまぁ……おまえならイケるんじゃないか?」
「あら、楽しみね?」
「ったく。おまえってほんっと悪趣味だよな」
何となく愉快な心地になって、からかうような笑みを向けると、
「当然でしょ? だって私は姫なんだから」
珍しいものは大好きよ――そう言って、輝夜もまた子供のように笑った。
§
「にしんがぱっぱか、さんしはじゅうごー、新婚さんならいらっしゃーい♪」
相変わらず訳の分からない歌を歌いつつ、夜雀は今夜も楽しそうに串を焼く。
ここで八目鰻屋を始めてから一月余りが経ち、私もこの生活に慣れつつあった。昨日のうちに仕掛けた罠を朝の早い時間から回収し、炭作りや薪割り、店の掃除やら仕込みやらをしているうちに、気がつけば開店時間になっている。場所が場所なせいか、客といえば見知った顔ばかりだが、それなりに繁盛しているし、余計なことを考えないでいい程度には充実している。生の実感ってやつを噛み締める――なんて大仰なものではないが、このような生活が私の性に合っているのは確かだった。
「上手くやっているみたいじゃないか」
「まあね。あれから時々輝夜も顔を出すけど、店の中じゃ大人しいもんさ。実際、美味いしな。ここの串」
確かにな――そう頷いて、慧音が一串口に運ぶ。
「うん? タレを変えたか?」
「ああ、いつものタレにちょいと柚子を混ぜてみたんだ。隠し味程度だから普通は判らないだろうけど……気になるかい?」
「いや……うん。どちらかといえばこちらの方が好みだな。八目鰻の生臭さも消えて、後味も悪くない。それに仄かな柚子の香りが日本酒にもよく合っている」
「そっか。気に入って貰えたなら何よりだ。いや、ふと思いついただけだから、まだ店に出すのは憚られてたんだけどね。慧音のお墨付きなら店に置いてもいいかもなぁ」
「酷いな。私を実験台にしたのか?」
「こいつはサービスだ。お代は結構だよ」
こいつめ、と言って慧音が笑う。
今宵は満月。半獣人である慧音は、月にあてられて少しだけ獣寄りになっていた。二本の角、ふさふさした尻尾。口元からは牙が覗いているし、なによりも目の色がいつもと違う。
ほんの少しだけ――こわい瞳。
慧音はそれを恥じて、満月の夜は家に引き篭もるのが常だった。
私に言わせれば、そんなもの別に恥じることも隠すこともないと思うのだが、何か特別な用事でもない限り、この姿の慧音は人前に出ることを避けていた。厭っていたと言ってもいい。
だけどこの店では――慧音は慧音のまま、あるがままを曝け出している。
普通の人間が足を踏み入れない竹林の奥にあり、店主も従業員も揃って人でなし。そして客と言えば、やっぱり人でなしばかりである。現在も別のテーブルには三人の客が着いていたが、角を生やした慧音を見ても動じた様子もない。誰であろうと気楽に飲める――此処はそういう店だった。
「まぁ、慧音の場合、気にしすぎだと思うんだけどね」
「私だって里の者を信じていないわけではないさ。この姿のことは里の者なら誰だって知っているし、特に忌避されているということもない。だからまぁ……けじめだよ、ただの」
「けじめって……何のさ?」
「さて。おまえなら解ると思うんだがな」
「私が?」
「迷い人を送っても、里に入ろうとしないのはどうしてかな?」
「……ああ」
そういうこと、か。
最近は店にかまけているせいかおざなりになってはいるが、一時期は竹林に迷い込んだ人間を里まで送るという仕事をしていた。仕事である以上報酬を頂くわけだが、報酬を受け取る際にも、できるだけ里の中には足を踏み入れないようにしていたのである。
里に入れないというわけじゃない。
実際、必要なものがあれば里まで足を伸ばすこともある。
それでもできるだけ里に入ることを避けていたのは……何のことはない、私が人を怖れていただけなのだ。
私は千年以上の永い時を生き続けてきた蓬莱人である。不死のこの身が普通の人間にどう映るのか――それを文字通り、身を持って知っていた。思い知らされていた。
不死の秘密を求める人々に生命を狙われたこともあるし、親しかったはずの人に『化物』と蔑まれたこともあった。無論、魑魅魍魎の跋扈する幻想郷において、不死の人間ごとき特筆するには価しないということも十二分に理解しているつもりだが、それでもいつ『あの目』を向けられるかと思うと、迂闊に踏み込むのも躊躇われた。関わりを持つのが怖かった。
「私も同じだよ。信じていたいからこそ、どこかで線を引かねばな」
「ま、ね。うん、それは解るよ。うん、よく解る」
里の人間を信頼していないというわけじゃない。
信じていたいからこそ――恐れているのだ。
人の心は変わる。良くも悪くも、それが人間というものだ。
だからこそ付き合い方については慎重にならないと、双方にとって不幸な結果となるだろう。
自分の全てを受け入れて欲しいという願いは、私や慧音に限らず、人の枠からはみ出してしまった者全てが共有する思いであるが、それを強要するのは、それこそ相手の思いを踏みにじることとなってしまう。だからこそ人は線を引かねばならない。人が人でありたいと願うなら、他人を他人のまま、その在り方を許すことが必要なのだ。たとえそれが――自分の存在を否定するものであろうとも。
それを淋しいと思うのなら、その淋しさすらも飲み込まねばならない。
それが他人の存在を許すということだ。
「そういう意味では、この店の存在は有難いな。これからもちょくちょく寄らせてもらうよ」
「もっちろん大歓迎さ。これからも試作品の味見をお願いしたいしな」
「実験台の間違いだろう?」
「似たようなもんじゃないか」
そう言って互いに笑いあっていると、視界の端に人影が差した。
「おっと、いらっしゃいま……って、おや?」
目に留まったのは、ある意味見知った顔だった。
「や。お邪魔するわね」
「へぇ。こんなところにお店があったのねぇ」
東屋だから扉なんかないが、まぁ、形式に則って言うならば――暖簾をくぐってきたのは二人連れの客だった。一人は腰まで届く赤い髪をさらりと流し、一人は癖のある銀の髪を揉み上げのところだけ小さく三つ編にしている。二人ともいつもの、遠目からでも判る特徴的な姿と異なり、随分とラフな格好をしていた。赤毛はゆったりとした長袖のシャツにぴっちりとした橙色のパンツを穿き、銀髪は胸元の開いた白いセーターに七分丈の黒いタイツを穿いている。彼女たちの私服は初めてだが、普段とは随分印象が変わっていた。
オンとオフをきっちり使い分けているということだろう。
目元の険も取れて、二人とも随分と柔らかい表情をしていた。
「こんなところに来るなんて珍しいな。十六夜咲夜と……えーと、なんだっけ?」
「紅美鈴です! って、なんだかこの遣り取りも随分と懐かしい気がするわ……」
ああ、そんな名前だっけ。
神社の宴会で何度か顔を合わせたことはあるが、考えてみれば名前を聞くのは初めてだった気がする。だけどなんだろう。このお約束をきっちりクリアしたような謎の達成感は……いや、深く考えまい。考えてはいけない事というのは確実に存在するのだ。
「まぁ、いいや。今日は飲みにきたのかい?」
「ええ。屋台だった頃は常連だったんだけどねぇ。しばらく仕事が忙しくて顔出せない間に、いつの間にか場所を移ってるんだもん。こないだ里で聞いてびっくりしたわ」
「あー……そういや告知とかしてなかったもんなぁ。悪かったね」
「気にしなくていいわよ。私、ここの串焼きのファンなのよねぇ! うふふ、久しぶりだから楽しみだわぁ」
からからと笑う美鈴の顔を見て、こちらも自然に笑みが湧く。
「そうかい。ま、ごゆっくり。ああ、注文は何にする?」
「とりあえずタレと塩を十本ずつ! 酒は……っと咲夜さん何にします?」
すでに席に着いていた咲夜は、ふむ、と空を仰ぎ、
「そうね。大分暖かくなってきたことだし……今日は冷で」
「んじゃ、私もそれで」
「あいよ。銘柄の指定とかあるかい?」
「選べるほど種類あるの?」
「甘いのか、辛いのか、くらいなら」
「じゃあ私は辛口で」と咲夜が告げると、
「それじゃ私は甘口にします。咲夜さん、後でとっかえっこしましょうよ!」
そう言って美鈴がきゃらきゃらと笑った。
友達同士ってやつだろうか。華がありすぎてちょいと眩しいくらいだ。
注文を伝えに厨房に戻る途中、慧音と目があった。
慧音がテーブルの下で軽く手を振り、私は目線で軽く応える。
華やかな会話を続ける二人の声を背中に受けて、
今度は仕事抜きで慧音と飲みたいな――なんてそんなことを考えた。
§
「だーら何度も言ってるじゃないれすかっ! わらひは何もあなたがいつもサボってるとは言いません。えーえーそりゃもうしっかりがんばってるとは思いまふれすよ? ちゃんとノルマはこなしてるし、死者とのこみ……こみ……? こみゅみゅけーしょんもりっぱな仕事だと思います。ですけどね、ですけどね、ですけどですけどですけどね! よりにもよってこんな日に遅刻しなくてもいいじゃないですか !?」
「あー……いや、すんません。十王の視察があるってこと忘れて、うっかり話しこんでしまいまして……」
「そんなことだからそんなことだから!」
あー、うるせ。
今日の客は酒が頭の変なとこに入りでもしたのか妙に喧しい。できれば近寄りたくないのだが、こっちも商売。酔っ払い相手だからといって背中を向けるわけにはいかない。
「はーい、タレ三本と麦焼酎ロックお待ちー」
できるだけ視線を合わさないように、こそこそとテーブルに皿を並べていると、
「ねぇ! あなたもそう思うれしょ!?」
いきなり二人組みの背のちっこい方が立ち上がって、私の胸倉を掴んだ。身長差があるため胸倉を掴むというよりもぶら下がっているような形だが、涙でぼろぼろな顔を見ていると何だか哀れで振りほどくのも躊躇われる。
「そりゃー言い訳かもしれませんけどっ! 私たちだってがんばってるんです! がんばってるんですよっ! たまたま! ぐうぜん! 思ったより仕事が溜まってしまって大変な時期だというのに上が急に視察くるとか言い出して、それでちょっとだけ通常業務が遅れてしまっただけなんです! なのに小町が遅刻したもんだから業務の遅れは全て私たちの怠慢だと判ぜられてしまったんですよ!? 違うんです違うんですってば! ねぇ、そうでしょう!?」
同意を求められても困るのだが、とりあえず「そうですね」と返しておいた。
酔っ払いをあしらう秘訣はとにかく肯定しておくことである。それで満足したのか、ちっこい方はぐねぐねと椅子にへたりこんだ。テーブルに突っ伏してまだ何かぶつぶつ言っているが、とりあえず見なかったことにした。連れの赤毛が両手を合わせて「ごめん」と目で謝っていたが、飲み屋をやっている以上こんなことは日常茶飯事である。軽く手を上げて「いいよ」と返しておく。
何だか判らないけど、仕事でストレスがたまっているのだろう。
それを吐き出させてやるのも私らの仕事だ。
「お役所ってのも大変なんだねぇ」
気楽な我が身を振り返って、しみじみと呟いてみる。
二人とも時々見かける顔だが、何をやっているかはよく知らない。ただまぁ、会話の端々から役人っぽいなと伺えるだけだ。一応これでも貴族の娘だし、宮仕えの苦労ってやつはなんとなく想像できる。堅苦しくて息が詰まりそうで、とても自分には務まりそうにない。
「あらら。随分と荒れてるわねぇ」
「うわっ!?」
いきなり目の前の空間に亀裂が走り、そこから女の顔がにゅっと突き出てきた。
「って……おまえかよ。心臓に悪いからいきなり現れるなって言っただろうが」
「あらあら、では今度、福寿草でも差し入れましょうか?」
「自力で何とかするから遠慮しとくよ」
頼もしいわねぇと、ころころ笑いながら八雲紫が微笑む。
永夜の時に会って以来何度か宴会で顔を合わせていたが、未だにこいつが何を考えているのか解らない。まぁ、別に解りたくもないけれど。
「つれないこと言うわねぇ」
「当たり前のように心を読むな。んで、どうしたんだよ? 客として来たんなら座ればいいだろが。席なら幾らでも空いてるよ」
最初はそこそこ客が入っていたものの、大トラがいるせいで他の客はそそくさといなくなってしまった。営業妨害も甚だしいが、なんとなく追い出すのも忍びなくてさっきから開店休業状態である。こいつの神経の太さならあの程度の酔っ払いなど平気だろうし、どれだけ胡散臭かろうと客は客だ。
「今日は遠慮しておくわ。ああ、そうそう、串物を二十本ほど包んでくれない? 幽々子が食べたいって言ってたのを思い出したの」
「例の亡霊嬢かい? 食べたきゃ店に来ればいいのに……ってああ、あいつまだ蓬莱人が苦手なのか?」
「食えない相手は苦手なのよ。幽々子も、私も、ね」
そう言って紫は、扇子で口元を隠し、にまにまと笑う。
食えない相手はどっちだよと思うが、一応客なわけだし飲み込んでおくとしよう。
「んじゃ焼いてくるからちょっと待ってな。タレでいいかい?」
「そうねぇ。それじゃ半分は塩にしてもらえる?」
「あいよ。匂いが移るから包みは別にしとくな。っと、ああ、そうだ。そういやあんたに頼みたいことがあったんだ。すっかり忘れてたよ」
「私に? これは珍しいこともあったものね」
「いやさ、あんたは外の世界にも顔が利くんだろ? もし良かったら『白ワイン』ってやつを仕入れてもらえないかなぁって」
きょとんとした顔で紫がこっちを見つめている。
こいつのこんな顔は実に珍しい。というか初めてじゃないだろうか。
「貴女が他人に頼みごとする方が珍しいと思うけどね」
「だから当たり前のように心を読むなって。いやさ、こないだ紅魔館のメイドがうちに来たんだけど……タレならともかく、塩だとやっぱ臭みが気になるらしくてな。メイド曰く、臭みのある魚は白ワインで煮込むと美味いってことでさ。ちょいと試してみたいんだけど……紅魔館には赤しか置いてないらしくてなぁ。あそこ以外じゃワインなんて手に入らないし」
「ああ、なるほど。それで私ってわけね」
「無論それなりに対価は払うよ。手数料も込みでな。どうだい?」
「お安い御用よ。シャトー・ディケムでもコルトン・シャルルマーニでもよりどりみどりね」
「あー……あんまり余裕ないんで安いやつがいいな。まだ実際に使えるかどうかも解らないし、今はまだ試してみようってだけだから」
「それならドメーヌ・ド・ラ・ロマネコンティのモンラッシェなんかがお勧めかしら。ワインなんて古ければ古いほど高くなるものだけど、これなら最近当たり年があったばかりだしね。今なら安く手に入るわよ?」
「ろ、ろま……? うーん、よく判らないけど、それで一つ頼むよ」
「任せて。明日にでも持ってくるわ」
「ああ。んじゃ包んでくるから待っててくれ」
注文を伝えに厨房へと向かいながら、あいつも割と話の判るやつだなーと認識を改めることにした。
紫が「任せて」と満面の笑顔を浮かべた時に、なんだか背筋がぞくりとしたような気がしたが――きっと気のせいだろう、うん。
§
後日領収書を受け取った時、めんたまが飛び出た。
もう二度とあいつのことなんか信じない。
§
「はぁい、みなさんこんばんはー! みんな大好き文々。新聞の、記者にして編集者にして配達員でもある幻想郷最速の美人レポーター! ご存知射命丸の文ちゃんですよー! えー、そんなわけで今日はオシャレスポットとして最近話題のこのお店をご紹介させて頂こうと、竹林の奥にひっそりと佇む隠れ家的魅力に溢れまくったこのお店に、いつもどおりノーアポでやってまいりましたー! 突撃! 隣のバンコラン!」
「うるせぇ、かえれ」
とりあえずタイキックで店の外に蹴り飛ばしておいた。
インパクトの瞬間「きゃん!」とか可愛らしい声を上げていたが、それもどっかで聞いたネタである。このような状況下でも抜け目なく人気取りに走るその根性には、ある意味感心しないでもない。絶対見習いたくないけど。
「てゆーか酷いですよぅ。いきなり乙女のお尻を蹴っ飛ばすなんて」
「やかましい。あたしゃ自分のことをちゃん付けで呼ぶようなやつは問答無用で蹴り飛ばすと決めてるんだ。客ならともかく、そうじゃないなら帰れ」
「そんな! それじゃ幼女はどうすればいいんですか!?」
「幼女はいいんだ。幼女なら何をやっても許される」
「なるほど。それなら仕方ないですねっ」
何か判ってくれた。
あまり嬉しくないけど。
「何にせよ、見ての通り今忙しいんだ。取材だか何だか知らないが後にしてくれないか?」
親指で背後の店内を指し示す。
店内は大盛況で、七つに増やしたテーブルは全て埋まっていた。さっき天狗も言っていたとおり、最近は竹林の奥にあるこの店の雰囲気が隠れ家っぽいということで、様々な人妖の溜まり場となっているのである。近くのテーブルでは紅白と白黒が互いの意地と尊厳を懸けて飲み比べをしているし、それを床に座った小鬼が無責任に囃し立てている。その隣では最近越してきた山の上の神様二人が美味そうに串を頬張っているし、その足元には潰れた巫女がだらしなくひっくり返っていた。そのまた別のテーブルでは一人でやってきた女の客を口説こうと男たちが必死に話しかけているけど……あれ幽香だぞ? 下手な真似をして鼻の下を伸ばすよりも早く花の下に埋められないよう、とりあえず祈るとしよう。
「ほぇー、大盛況ですねぇ」
天狗は目を丸くして驚嘆の声を上げた。
きょろきょろと、興味深そうな顔であちこちに視線を飛ばしている。
「このお店って、オープンしてから半年経ってないんですよねぇ。それでこれですか」
「まぁ、夜雀の屋台の延長だしな。その時からの固定客もいるし、顔見知りの口コミで結構広まったりもしたんだよ。ありがたい話さ」
「あらら、それじゃもうみんなこのお店のこと知っているんですねぇ。うーん、それじゃ記事にならないかなぁ」
「客が増えるのはありがたいし、店の紹介になるんなら取材だってやぶさかじゃないけどね。あんたの新聞がどれだけ読まれているか知らないが、それなりに数だけはばら撒くんだろう?それだけでチラシ代わりにはなるだろうしな」
「そんな言い方酷いですよぅ」
天狗がむくれたように頬を膨らませる。天狗というのはどこまでも食えないやつらなので、こういった子供じみた所作も演技なのかもしれない。とはいえその全てが演技だとしたら、大した役者である。私が思うに彼女の場合は、役を演じているうちに役に取り込まれてしまった類ではないだろうか。そうでなければ売れない新聞をああも熱心に作ったりはすまい。
「んじゃ、私は仕事に戻るから。明日の昼なら取材を受けてもいいよ」
「むぅ、仕方ないですねぇ。それじゃ今日のところは客としてお邪魔させて頂きます」
「え、あ、ちょっと」
私の言葉を振り切って、天狗はつかつかと店の奥に進んでいく。そして最初から当たりをつけていたのだろう一つのテーブルの前に立つと、にっこりと、それはそれは華やかな笑みを浮かべた。
「あっらー、奇遇ですねぇ! 貴女もいらっしゃってたんですかー?」
その席には河童が一人で座っていた。
天狗が店にやってきた瞬間から付け合せの胡瓜を齧った状態のまま硬直していたが、水を向けられた途端「や、やぁ、奇遇だね」と天狗に会釈する。微妙に頬が引きつり、冷や汗がテーブルに落ちる。
「いっやー、実は取材を申し込んだんですけど、すげなく断られてしまいましてねぇ! 今日のところは大人しくお客さんとしてゆっくりさせて貰おうと思ってるんですが、相席しても宜しいでしょうか!」
わざとらしく大声で、店中に響き渡るように。
河童は目を白黒とさせながら、私の方に救いを求めるような視線を向けた。
だけどもう無理。コイツにはもうぜーんぶばれている。
「諦めろ」と小さく首を振ると、河童も全てを悟ったように肩を落とした。
「では、失礼して」
そう言って天狗が河童の対面に座る。
テーブルに肘をつき、にこにこと笑いながら河童に目を向ける。
「お一人ですか?」
「ええ……まぁ、その、なんというか……」
「いやいや、こんな良いお店があるなんて、寡聞にして知りませんでしたよ。にとりさんも人が悪いなぁ。ご存知でしたら誘ってくださっても良かったのに」
「え、あ、そ、そうですね。申し訳ないで……す……よ?」
可哀想に、河童の方は笑顔の重圧に押し潰されそうになっている。
まぁ、もっと重圧を感じているやつもいるのだけれど。
「ねぇ、椛?」
「ふぎっ!?」
テーブルの下でぶるぶる震えていたであろう白狼天狗は、いきなり声を掛けられて驚くと同時に天板に頭をぶつけていた。天狗は動じた様子もなく、にこにこと笑いながらテーブルの下を覗き込む。
「あれあれー? 今は仕事中じゃありませんでしたっけー? どうしてこんなところにいるのかなー? 不思議だなー?」
白狼天狗の方はもう声も出せないといった有様で、手にしたコップを震える両手で握り締めていた。天狗の姿を認めた時点で即座にテーブルの下に潜り込んだ判断力、決断力、身体能力は見事なものであったが、流石に天狗の目から逃れることはできなかったか。
テーブルの下から引きずり出された白狼天狗は、無理矢理天狗の横に座らせられて、もう生きた心地もしないといった顔で青褪めている。河童は我関せずを決め込んで胡瓜をがりがりと齧っているし、天狗は天狗で白狼天狗から奪い取った酒をくぴくぴ飲みつつ、ねちねちと白狼天狗をいじめている。
「うん、まぁ……生きろ?」
哀れな白狼天狗からそっと目を逸らしつつ、「お客様同士のトラブルには、当店は一切関知致しません」という張り紙でも貼っておこうかなと、割と本気で検討することにした。
§
気がつけば夏になっていた。蝉が鳴くにはまだ早いだろうが、それもあと数日といったところか。ねっとりとした風が、一段と強さを増した木漏れ日が、夏の到来を告げている。
夜雀に軒先を貸してから、かれこれ半年が経過したわけだ。
早いものだという気もするし、そんなものかという気もする。今日も今日とて日課となった薪割りをこなしながら、額に浮いた汗を拭った。午前中に終わらせないと後が辛い。もうひと頑張りするとしよう。
「てかまぁ、随分と健康的な生活になっちまったもんだ」
以前は昼に寝て夜に起きるという生活を続けていた。如何に蓬莱人とはいえ夜目が利くわけではないし、危険を避けるためにも夜は起きて昼に眠るという動物みたいな生活を送っていたのだ。危険といったところで、たとえ寝込みを襲われようとも私が死ぬことはないのだが、それでもまぁ、生きているのか死んでいるのかよく解らない私のような生き物にとって、夜の闇の方が居心地良かったのは確かである。
鉈を軽く突き立て、そのまま薪ごと振り下ろす。
単純な作業であるが、これが中々難しい。刃が寝てしまえば綺麗に割れないし、慎重になりすぎるとこれまた上手く割れない。指は痺れるし、下手をすれば刃が欠ける。半端に割れた薪はどこに飛んでいくか解らないし、向こう脛に当たって死ぬような思いをすることもある。つかあった。
見た目以上に難しい作業ではあるが、慣れてくるとこれも結構楽しいものだ。
リズムよくぽんぽん割っていけると気持ちがいいし、なんだか熟練の剣士になったような心地になる。こう、芯を食った手応えというのだろうか、そういうものが実に気持ちよいのだ。
「とりあえずこんなもんかな」
割った薪を縄で縛り上げて一纏めにしておく。
さて、次は炭焼きだ。竹串の追加と仕込みの準備もしなければならない。最近は客の要望に応える形で、八目鰻以外の皿も出すようにしていた。夜雀が経営者である以上、当然鳥はご法度だが、岩魚や鮎の塩焼きとか、山菜のおひたしなんかも出すようにしていて、これが中々好評なのである。慧音を通して里とも契約を結び、多様な酒も手に入るようになったし、なんというか凄く充実していた。夜雀の機嫌を取るために始めた店だが、今となっては私自身の生き甲斐でもある。東屋も拡張して今では十卓ほどに増やしているし、口コミや天狗の新聞の影響か、一見の客も増えつつある。そろそろもう一人くらい従業員を増やしてもいいかもしれない。
「暇そうなやつの心当たりなんて、両手の指じゃ足りないしな」
知り合いの顔を幾つか思い浮かべる。
即戦力として紅魔館のメイド長が真っ先に浮かぶが、流石にそれはあの吸血鬼が許さないだろう。他に暇そうなやつとして……森に住んでる白黒とかはどうだろう? あれで意外と根は真面目だし、機転も利くから客商売には向いていそうだ。盗み食いが多そうなのが玉に瑕だが、その分は給料から差っ引いておけばいいことである。永遠亭の月兎なんかもいいかもしれない。男受けも良さそうだし、更なる集客効果が望めそうだ。そういう意味ではあの人形遣いもいいかもしれない。愛想に欠けるが見栄えはいいし、器用だし、厨房を任せることもできそうだ。そうそう、暇そうといえば妖精たちの姿が思い浮かぶ。あいつらはそれこそ猫よりも仕事の役に立たないが、上手くおだてれば実に熱心に働くということも知っていた。使い方次第ではそこらの人妖よりもよっぽど素直に働いてくれることだろう。後は……
そしてふと――自分が酷く幸せであることに気がついた。
昔は思い浮かべることのできる顔なんて、片手で足りる数でしかなかった。
できるだけ人と交わることを避けてきたし、深い関わりを持ちたいとも思わなかった。
だけど今は……これだけの数を思い浮かべることができる。今までの人生に後悔がないと言えば嘘になるが、それでも今ここにいるために辿らなければならない道だったと思えば、それも別に悪くないかと思えるのだ。
「しっあわっせはー、あーるいってこないー、だーからあっるいてゆくんだねー♪」
夜雀が歌いながら鍋を洗っている。
こいつはいつも楽しそうだ。
いつだって、どんな時だって、楽しそうに歌う。歌いながら働く。
だからまぁ、ひょっとしたら。
「おまえのおかげかもな」
「うんー? なにがー?」
夜雀が不思議そうな顔で見つめてくるが、何でもないよと手を振ると、しばらく首をくりくり回してから再び歌い始めた。
多分こいつは、何で私と一緒に店をやるようになったのか、それすら覚えていないだろう。
屋台の修復はとっくに終わっていたが、直した屋台を見せたところ「なんだっけこれ?」と小首を傾げた。とぼけているわけじゃなく、本気で忘れていた。
正直な話――夜雀に屋台を渡す時、これでこの生活が終わるのかと思うと、ほんの少しだけ怖かった。伝えるのを躊躇った。それでも意を決して伝えたというのに、これである。気が抜けた。気が抜けて、抜けすぎて、思わず笑ってしまった。空まで届きそうな大声で笑った。
だからまぁ、うん。
「ありがとう、な」
今度は夜雀も気付かなかったようで、楽しそうに別の鍋を洗っている。
軽く肩を竦めて空を見上げれば、抜けるような青空が広がっていた。
鬱蒼と茂る竹林の、奇跡のように開いた穴から、雲もなく、どこまでも青い、本物の空。
空に手を伸ばすように、ぐっと大きく背中を反らす。
どこまでも行けそうな空と、陽気な歌。
後はまぁ、ちょっとのお酒と、旨い串焼きと、一緒に飲む相手がいてくれるなら。
「悪くないよね……生きるってのも」
今宵も暑くなりそうだ。
美味しい酒でも冷やして、やってくる誰かを待つとしよう。
《完》