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「全くもう……なんでこの私がっ」
硬い靴音を響かせながら、楽園の最高裁判長である四季映姫・ヤマザナドゥはひとりゴチていた。硬い床、硬い壁、硬い天井。全てが厳粛に編まれた廊下はその声すらも無情に弾き、自ら放った言葉に貫かれては映姫の顔も余計に歪む。
ここは楽園の最高裁判所――ではない。
京都担当である閻魔が不在の間、代理として映姫が派遣され、かれこれ三日が過ぎようとしていた。
基本的に人口が少なく、それが故に仕事もなく、暇を持て余しては現世で説教を行っていた映姫であったが、流石に首都として栄える京都においてはそんな余裕など欠片もない。職務に忙殺され、こちらに赴任してからというもの碌に眠れぬ夜を過ごしていた。己が職務に殉じることを誇りとする映姫であるが、流石に疲労が蓄積し、思わず愚痴のひとつも零れてしまう。そんな自分に嫌気が差し、尚のこと苛立つという終わりなき悪循環。これでは自然と足音も、荒いものにならざるを得ない。
足を止め、息を吐く。
思考をフラットに戻そうと、もう一度深く息を吸い込んだ瞬間――背後からぱたぱたという足音が聞こえてきた。
「四季さま ! 待ってくださいよぅ 」
間延びした声に振り返れば、秘書官である芹生が資料を両手に山と抱えて駆けてくるのが見えた。京都なら「せりお」じゃなく「せりょう」だろうと思わないでもなかったが、人の名前に突っ込むのも無粋と首を振り、こほんと咳払いをして居住まいを正す。
「失礼。少し急ぎ過ぎましたね。申し訳ありません」
やっとの思いで追いつき、息を切らせていた芹生だが、頭を下げる映姫を見た途端、目を白黒させてぶんぶんと首を振った。
「ちょ!? 謝らないでください恐れ多い! それもこれもみんな私がトロいのがいけないのです! 四季様が頭を下げる必要など……」
「いえ、先の私は荒ぶる感情に身を任せ、ついつい先を急いでしまいました。周囲を顧みず、感情に流されるなど閻魔として恥ずべきこと。特に貴方には迷惑を掛けてしまったようです。本当に申し訳ありませんでした」
「いえいえっ! 四季様はぜんぜんまったく悪くありませんっ! 私ってば昔から何をやらせてもトロくてみんなに馬鹿にされてましたし……八代様に目を掛けて頂けなかったら私なんて……ですから全て私が悪いのです。四季様に非などあるはずも……」
「いえいえいえ、部下の力量を見極め、それに合わせるのが上司としての責務です。無論、ただ怠けていたというのであれば叱責することもあるでしょうが、貴方は一生懸命やっているじゃないですか。今回の件は私情によって余裕をなくし、部下の状況を見極めることのできなかった、いえ見極めようともしなかった、私の落ち度なのです。そのように貴方が徒に己を責めることなんて……」
「いえいえいえいえっ!」
――うん、君たちウザい。
もしも全てを見通す神が存在するなら、そのように思ったであろう鬱陶しい会話は、まだまだまだまだ続いている。真面目で融通の利かない上司と、やっぱり真面目で頑なな部下の組み合わせだと、話がちっとも進みゃしない。今頃鬼の居ぬ間のなんとやらで存分に羽を伸ばしているであろう三途の河の渡し守であれば、このようなこともなかろうに。
「いえいえ、ここは私が」
「いえいえ、やっぱり私が」
忘年会の会計時におっさん連中の間で交わされるような鬱陶しい会話は、結局それから五分以上も続けられることとなった――
§
映姫が楽園と呼ばれる幻想郷担当の閻魔であるように、ここ京都にも閻魔の役は設けられている。
八代亜姫・ヤマラクヨウ――この度めでたく結婚し、ハネムーンに出かけた彼女は、その間の代理として同期である映姫を指名してきた。無論、映姫も幻想郷における職務があるため、代理など無理とはっきりきっぱり断ったのだが、十王から「きみ、ヒマでしょ?」と言われて返答に窮し、結局あれよあれよという間に決定してしまったのである。宮仕えの辛さとはいえ、映姫の顔がニガヨモギを噛んだように歪むのも致し方あるまい。
「そもそも閻魔の癖にデキちゃった婚って何よ。いつの間にそんな……こちとら彼氏どころか出会いすらないってのに。そもそもあいつは昔から要領だけはよくて、いつもいつもこっちに皺寄せが……おまけにハネムーンはハワイですって!? 私なんてパスポートすら持っていないというのに……」
「あの~四季さま?」
「それに相手はただの人間という話じゃないですか。このご時世、身分がどうこう言うつもりはありませんが、閻魔ならもっと相応しい相手もいるでしょう?」
「その、四季さま?」
「そもそも閻魔の癖に現世をふらふら遊び歩き、クラブでナンパされたのが馴れ初めというんですから規律も何もあったもんじゃ……十王も十王です! 諌めるどころか、ご祝儀として気前よく恩赦をバラまく始末。これでは地獄のみならず天界まで軽んじられてしまうではありませんか! 全くもって嘆かわしい。おまけに私にまで『まだ結婚しないの?』とか『彼氏とかいないの?』とか『いま、いくつだっけ?』とかなんとか色々言ってくださりやがって……ほっとけっての!仏だけに! 仏だけにっ!」
「いや、全然上手くないですよぅ」
ぎちぎちと笏を握り締めていた映姫は、芹生のツッコミでふと我に返ると、何事もなかったように、こほんと咳払いをした。
「それで最初の被告人は?」
「先程、こちらに着いたと報告が」
「そうですか。では……」
映姫は手にした閻魔帳を広げる。
閻魔帳にはその者が生前に起こした全ての事柄が記されており、それを紐解くだけでその者の全てを知ることができるのだ。無論、この世に生きる者全ての記録となれば、抱えきれないほど膨大な量となってしまうのだが、是非曲直庁から支給されている最新式の閻魔帳では、対象となる人物の記録だけを呼び出し、自動的に帳面に記すことが可能となっている。その場合、対象となる人物の真名を知ることが必要であり、それを聞き出すのは渡し守の役目であるため、どうにかして真名を聞きだそうと、三途の河の渡し守たちは実に愛想よく死者に語りかけるのである。どこぞの死神の場合、話に夢中になりすぎて真名を聞きだすのを忘れ、その度映姫に蹴り飛ばされたりするのだが……それはまた別の話。
「して、今回の被告人の名は?」
まだ何も記されておらず、真っ白なままの閻魔帳に目を落としながら映姫は尋ねる。
問われた芹生は、顔をきゅっと引き締め、
背筋を伸ばし、傷を愁い、死を悼むように、
――宇佐見蓮子です、と。
厳粛な面持ちで、新たなる死者の名を告げた。
§
宇佐見蓮子――東京出身、京都在中。
○○大学の二回生であり、超統一物理学専攻。
両親は健在で、大学進学を機に近くのマンションにて一人暮らしをしている模様。留学生であり、友人でもあるマエリベリー・ハーンと秘封倶楽部という非公式サークルを結成し、日夜『不思議なこと』の探索、調査を行っているらしい。
「そして享年十九歳、と」
閻魔帳の記録はそこで途切れていた。
綺麗にページの端で。
まるで以後の記録には何の価値もないという風に。
少しばかり変わったところはあるものの、宇佐見蓮子は普通の学生である。その若さで……と映姫は痛ましげに目を伏せるが、死因の項目を見た瞬間、映姫の顔がとても言葉では言い尽くせないような複雑なものへと変わっていった。
「今時、バナナの皮にすっころんでって……」
しかも友人であるメリーを引っ掛けようとしたところを見咎められ、慌てて逃げ出したら転んだとか。
「はいはい、地獄逝き地獄逝き」
「あー……四季さま。気持ちはよーっくわかりますが、ここはちゃんと裁判を……」
「わかってます。わかってますよ、うふふのふ」
京都ってばこんなんばっかか、と映姫が思うのも無理はない。先日も酔った勢いで清水の舞台から飛び降りたとか、ネトゲにハマりすぎて餓死したとか、「春香ぁぁぁあああ! 俺だぁぁぁあああ! 結婚してくれぇぇぇえええ!!」と叫びながら全裸で国道に飛び出し車に撥ねられたとか、何故か映姫が担当する死者はそんなんばっかりなのだ。
京都でも幻想郷と同じく、十二時間ごとの交代制になっているのだが、もう一人の閻魔の方にはそれなりに、所謂ふつーの死者が来ているそうな。なのに何故か映姫が担当するのはそんなんばっかりなのである。
「類が友を――」
「何か言いましたか、芹生」
「いえいえ、なんでもありませんっ!」
裁判所の扉の前で閻魔帳を眺めていた映姫は、疲れたように首を振り、改めて顔を引き締めた。
死にたくて死んだものなどいない。
どれだけ不条理な死であろうと、それはそれだけの事であり、それだけでしかない。そこに差異はなく、善悪すらもない。
閻魔が裁くのは、あくまでも生前の行いである。
なればこそ、どんなに間抜けな死に様であろうとも、そこに私情を挟んではならない。
映姫は読み掛けの閻魔帳を閉じると、凛と背筋を伸ばして扉に手をかける。閻魔としての、裁判官としての仮面を被り、軽く咳払いをして喉の調子を確かめてから、おもむろに扉を押し開く。
幻想郷の裁判所と同じく、ゴシック調の巨大な柱が特徴的なだだっ広い空間。被告を見下ろすように設えた階段状の床。威厳を振り撒く豪奢な机。
そして――机の前に立つ、少女の背中。
死に装束である白い着物へと身を包んだ少女にちらりと視線を向けると、厳粛さを演出するために敢えて目を瞑り、そのままゆっくりと歩を進める。傍聴席はなく、弁護人もおらず、ただ被告と裁判官のみの、一方的で、それが故に揺るぎない、絶対公正な裁判を始めようと。
補佐及び記録係でもある芹生を引き連れて粛々と進み、机の前についたところで、はじめて被告人である宇佐見蓮子へと目を向けた。
死因の項が頭を掠める。
だがそれを邪念と切り捨て、曇りなき眼で宇佐見蓮子をいう存在を見通そうと――
「――え?」
思わず、声が漏れた。
机を挟んだ向かいに立つ少女。
その目を見た瞬間、自然に声が漏れていた。
予断は禁物。そう自らを戒めながらも、あの死因を知った後では宇佐見蓮子がどういう少女なのか、漠然とイメージしていたのは否めない。少しばかり抜けているところはあるが、天真爛漫で悪戯好きでいつも楽しそうに笑っているような、当たり前の、普通の少女としてのイメージ。
だが目の前の少女は、
全てを憎むように、全てに挑むように、
冷ややかに目を細め、不快そうに眉を顰めて、
正面に立つ映姫を――睨んでいた。
――これが、宇佐見蓮子?
映姫がそう思ったのも無理はない。
外見的には普通の少女である。肩に掛かる黒髪は艶やかで、十九歳という年齢しては若干小柄であるものの、愛らしい、十二分に魅力的な女の子だ。
だが、瞳が。
黒く、大きな二つの輝きが、
彼女の持つ魅力の全てを――殺していた。
それほどまでに棘のある眼差し。一介の女学生に出せるはずもない殺気すら篭った視線。閻魔である映姫ですら、一瞬たじろぐほどの。
視線に飲まれていた映姫は、ごくりと唾を飲み込むことでその視線と相対する。目を細め、声を落とし、神妙に口を開く。
「貴女が宇佐見……蓮子さんですか?」
確認のための、ただの問い掛け。
だが少女は不快そうに目を細めると、肯定も否定もしないままふいっとそっぽを向いてしまった。
その態度に映姫は一瞬むっとしたが――もう一度問い質そうとして何故か躊躇い、とりあえず隣に立つ芹生を耳元に呼び寄せる。
「……もう一度確認します。あれが『宇佐見蓮子』なんですよね?」
「え、ええ」
「人違いじゃないですよね?」
「おそらくは……」
その声が段々と小さくなっていくが、別に芹生は少女の様子に戸惑っているわけではない。渡し守から引継ぎ、此処まで案内したのは芹生自身なのだ。映姫もそれを知っていたからこそ、先に芹生に問い掛けたのである。
人違いなど有る筈もない。
とはいえ――
「彼女は……はじめから、あんな感じですか?」
「はい……私も気になって渡し守に聞いてみたのですが、最初からああだったそうで。どれだけ話しかけても一言も口を利かず、辛うじて名前だけは確認が取れたそうですが……」
「ふむ」
改めて映姫は少女の方を眺める。
顔を顰めたまま両腕を組んだ少女は、苛立ちを隠そうともせず爪先で床を蹴っていた。
「自分が死んだことを理解できていない、とか?」
「どうでしょう? 渡し守の言葉にも何の反応も示さなかったそうですし……ひょっとしたら有り得るかもしれませんが」
「ふぅむ」
死して尚、自らの死を認められない者もいる。
これは何かの間違いだと、死神の手を振り解いて現世に帰ろうとする者も。
彼らに死んだということを認めさせるのも死神の役目であり、どうしても認めようとしない者には、手にした鎌で魂を刈り取る権利すら認められていた。無論それは最終手段であり、説得もまた死神としての大事な役目なのだが――
「何も反応せず、何も抵抗せず、ですか。それでは死神の怠慢と咎めるわけにはいきませんね」
死を受け入れたから、此処にいる。
そう、認識するしかないだろう。
「失礼しました。では改めて裁判を行います」
映姫は改めて少女に向き直り、背筋を伸ばして宣言する。閻魔帳に記された記録とのギャップは気になるが、外見や態度と内面が異なる者などこれまでに飽きるほど見てきた。最初は戸惑ったものの、通常通り裁判を進めることで、彼女の隠された本質を暴くことになるだろう。
「宇佐見蓮子――京都在住の大学二回生。専攻は超統一物理学で、友人であるマエリベリー・ハーンと共にオカルトサークルである秘封倶楽部とやらを結成している……間違いありませんね?」
閻魔帳で確認済みの公式記録。
とりあえず公にされている情報を晒し、徐々に内面へと切り込んでいく裁判の常道。最初は映姫の述べる記録を淡々と聞き流していた死者たちも、隠された秘密を次々と暴かれていくうちに、驚き、戸惑い、否定して――そしていつしか項垂れる。
それが閻魔の神性裁判。
天知る、地知る、人ぞ知る……全てを知る閻魔に隠し事などできるはずもなく、犯した罪を、その全てを暴かれた者には、最早抵抗する気力も残っていない。
これはそのための第一歩。
軽い小手調べとしての、私は何でも知っているぞという事を示すパフォーマンス。
だが――
「いいえ」
少女は冷めた瞳を向けたまま、眉を顰め、抗うように両腕を組んで――閻魔の言葉を否定した。
「宇佐見蓮子……それは間違いなく私の名前よ。でも私は大学生じゃないし、専門は統計学だし、マエリベリー・ハーンなんて舌を噛みそうな名前は知らないし、サークル活動なんてやったこともないわ」
戸惑う映姫を無視して一息に告げると、蓮子は再び視線を逸らす。
伝えることは全て伝えたと。
そう、切り捨てるように。
「……どういうことですか?」
映姫の問い掛けにも、もう答えない。
つまらなそうに、視線を宙に彷徨わせるだけ。
「……どういうことです、芹生?」
埒があかないと判じたのか、映姫は再び芹生へと視線を向ける。問われた芹生はあたふたと狼狽し、申し訳なさそうに首を振った。
軽く溜息を吐いた映姫は、改めて手元の閻魔帳へと視線を落とす。さっきまでは死因のインパクトが強すぎて、彼女の性格や経歴、それら生前の記録まではきちんと把握していなかったのだ。無言のまま『宇佐見蓮子』の記録に目を通し、彼女の本質を見極めようと読み進めるうちに――映姫の顔が真冬のツンドラ地帯のように青ざめていく。落ち着きなく閻魔帳を縦にしたり横にしたり、かと思えば帳面に顔を埋めたり呆然と空を仰いだりと、実に忙しなく。
唐突にはじまった映姫の奇行に、思わず芹生が目を丸くする。だが映姫はそれに気付く余裕もないまま挙動不審な行動を続け、そうしてやっと、映姫はおそるおそるといった感じで顔を上げた。
「う、宇佐見……蓮子さん?」
「……なによ」
その弱々しく自信なさげな声に、芹生は鳩が豆大福を喰らったような顔になり、壁を睨んでいた蓮子すらも怪訝そうに眉を顰める。
「えーと……貴女は友人であるマエリベリー・ハーンを罠に嵌めようとして、うっかり死んでしまったそうですが……」
「はぁ? なによそれ?」
「ま、漫画なんかでよくあるように、人が本当にバナナで転ぶのかを知りたいと思った貴女は、廊下にバナナの皮を山ほど並べていたところで友人に声を掛けられ、驚くと同時に自分で敷いたバナナを踏んで転んで頭を打ったと……」
「……そんなバカ、いるわけないでしょ」
「で、ですよねー」
目に見えて狼狽している映姫に対し、唖然としていた芹生であったが、やっとの思いで我に返ると、意を決して口を開く。
「あ、あの、四季さま、どうされたのですか? なんだか顔色が優れませんが……」
何故か汗をダラダラ流していた映姫は、芹生に返事を返すことなく、青ざめた顔のまま、それでも覚悟を決めたように、蓮子の顔を真っ直ぐに見つめて今一度問い掛ける。
「宇佐見蓮子さん……貴女は今、お幾つですか?」
それに対して蓮子は、露骨に顔を顰めながら、
「十四だけど……それがどうしたってのよ?」
吐き捨てるように、そう言った。
2
「記憶喪失って……あの娘がですか?」
呆れたような芹生の声に、映姫は軽く首を振る。
「転んだ拍子に頭でも打ったんでしょうね。今の彼女は十四歳のところで記憶が止まっているようです。それ以降のことは何も覚えていない、と」
「でも、死者なのに記憶喪失って」
「普通ならば死と同時に、それまでの怪我や病気からは解放されます。ですから本来ならば有り得ないはずなのですが……魂というものはデリケートですからね。身体の損傷と同時に、魂にも傷がついてしまったのかもしれません」
ほへぇっと感心したような声を漏らす芹生を横目で眺めながら、映姫は深い溜息を吐く。
「おまけに死者の取り違えまで起こるなんて……こんなの前代未聞ですよ、まったく!」
そう、蓮子はまだ死ぬ運命ではなかった。
閻魔帳には確かに『バナナで転んで頭を打った蓮子が死ぬ』ところまで書いてあったのだが、それ以降のページが二枚ほどひっついており、それを無理矢理開いてみると、死に掛けた蓮子が奇跡的に蘇生する件までちゃんと書いてあったのである。
蓮子の死がページの左端に綺麗に収まっていたことや、本来有り得るはずのない閻魔帳の裁断ミス。また丁度その閉じられていたページに次の段落が掛かっていたことなど、幾つもの不幸な偶然が重なった結果ではあるが、それに当事者の記憶喪失まで加わったとなると、最早何者かの悪意を感じずにはいられない。
「漫画みたいですよねぇ」
「それは漫画に対して失礼です。こんなご都合主義の極みのような頭の悪い話……まともな人間なら思いついたりしません」
「で、どうされるんですか?」
「閻魔帳の記録は絶対です。ですから彼女が奇跡的に蘇生したと明記されている以上、それに従わなければなりません。今、十王へと掛け合っておりますが、身体の修復を行い、記憶を消した上で、何事もなかったかのように現世にお帰り頂くことになるでしょうね」
「それ……いいんですか?」
「いいわけないでしょう!?」
突然大声を出した映姫に、芹生がびくりと身体を竦める。だが怯える芹生に構わず、映姫は肩を震わせながら尚も声を荒げた。
「そんないい加減なことが許されるわけないじゃないですか! 仮にも生と死を司る是非曲直庁が、手違いだからといってほいほい生き返らせるなど……いえ、それはいいんです。ミスはミス。それはそれできちんと受け止め、彼女を現世に帰す手段を講じようとするのは間違っておりません。ですが記憶を消し、全てをなかったことにしようなどと……それでは事件の隠蔽ではないですか! そのような不正、到底許されるものではありません!」
「あ、あの、四季さま、落ち着いて」
「これが落ち着いていられますか! そもそも本来であれば、閻魔が常に死者をチェックし、誤ってこちらに来そうな者があれば、事前に、速やかに送り返すのが筋なんですよ!? それもこれもアイツが結婚に浮かれたかなんだか知りませんが、チェックを疎かにしたままハネムーンに出かけてしまったせいじゃないですか! その時点で気づいていれば何も問題はなかったはずなのに……あの娘の身体はすでに荼毘に付されているんですよ? 身体の修復やら周囲の人間の記憶操作、その他諸々の始末で全部署がパンクしてるじゃないですか!」
「わかります。わかりますので、その、少しトーンを落として……」
尚も肩を震わせる映姫に対し、半分腰が引けながらもどうどうと諌める芹生は、やがて疲れたように肩を落とした。
「確かに今はどこもてんやわんやですしねぇ。他の死者たちも全部詰め所で待機させてますし。早くなんとかしないと……」
「ぜーんぶアイツが悪いのです。即刻呼び戻して責任を取らせなさい」
「そんな無茶な……」
同期の気安さか、誰にでも公平であろうとする映姫が、八代に対しては特に厳しいような気がした。それもまた友情というものかもしれないなーと芹生は思う。先に嫁に行かれて八つ当たりしてんのかなという思いもないではないが、それはあらゆる者を、特に自分を不幸にする気がしたので心の底に沈めておく。口は災いのもと。君子危うきに近寄らず。つるかめつるかめ。
「とりあえず諸々の処理が終わるのは、明日の朝になると思います。それまで……どうしましょうか?」
矛先を変えようとする芹生の言葉に、映姫は真面目な顔で考え込んだ。
「そう、ですね。しばらくは裁判もできないでしょうし……芹生、貴女は他の部署を手伝ってやってください。今はどこも猫の手だって借りたいでしょうし」
「了解しました。四季さまはどうされます?」
「私は外様ですしね。下手に手を出せば邪魔になるだけでしょう。それに」
「それに?」
映姫は軽く息を吐く。
小さな笑みを浮かべ、視線を宙に向けて、
「あの娘を、放っておくわけにもいきませんしね」
白装束に身を包んだ少女の、諦めたような、拗ねているような瞳を思い浮かべ――映姫は手にした笏を固く握り締めた。
§
「構わないでくれる? 私のことは放っておいてくれればいいから」
「…………」
応接室で待っていた蓮子に、声を掛けたのが五分前。
現状の説明と、今回の不手際に対する謝罪を切々と述べていた映姫を徹底的に無視した挙句、ようやっと口を開いたと思えばこれである。無論、非はこちらにあるのだしと、できるだけ下手に出ていた映姫だったが、流石に堪忍袋の緒がブチきれそうだった。
「こ、今回の件はこちらの手落ちですし、明日の朝には貴女も現世に帰れるでしょう。身体の修復も、周囲の記憶操作も同時に行いますので、貴女はただ転んで気を失っただけということになります。無論、貴女自身の記憶も後ほど修正致しますので、ここでの会話も記憶からは消える事となり、同時に失われた記憶を取り戻す施術も行いますので……」
沸騰した鍋のように沸き立つ心を、鋼の精神力で自制する。どうせ記憶の改竄を行うのだ。時間が来るまで放っておけばいい――そういう想いもないではないが、閻魔としてそのような欺瞞を許すわけにはいかなかった。
それもまた、所詮は安っぽい自己満足。
そう、解っていても捨てられない。
蓮子は映姫の言葉も届いていないように、不機嫌そうに眉を顰めたまま、映姫の方へと顔も向けようとしない。怒りを通り越して疲労感すら覚える映姫であったが、気を取り直し、更に口を開こうとした時――
「……いい」
「はい?」
「別に生き返らせてくれなくてもいい……そう言ってるのよ」
「え? ですが」
「いいって言ってるでしょ! 余計な事しないで!」
唐突な蓮子の叫びに、映姫は目を丸くする。
聞き違いかと思ったが、蓮子もまた自分の声に驚いたように目を丸くし、急にバツの悪そうな顔を浮かべて、視線をテーブルに置かれた湯呑みへと向けた。
いつもなら怒りを感じていただろう。
無数の、余りにも多くの、理不尽で不条理で無意味な死をその目で見てきた閻魔だからこそ、生命を軽視する物言いは決して許せるものではない。千を超える言葉で、万を超える想いを胸に、この救いようのない愚か者を、強かに打ちのめすことだってできただろう。
「……何故です?」
なのに、問うた。
「貴女は……生きていたくないのですか?」
生命に対する侮蔑を前に、怒るより先に問うていた。
なぜなら蓮子の瞳が、伏せられたままの目が、
捨てられた子供のように、道を失った旅人のように、
拗ねているように、怒っているように、
泣いているように、戸惑っているように、
そう――見えたから。
蓮子は答えない。
瞳を伏せ、テーブルの上の湯呑みを、
一度も手をつけなかったそれを、ただ、凝っと。
湯呑みを満たした緑茶に、蓮子の顔が映っている。
ゆらゆらと、ゆらゆらと、揺れている。
泣きそうな、引き裂かれそうな顔を、
ゆらゆらと、ゆらゆらと――
沈黙が閉じた室内を支配する。同じ部屋にいるのに、壁で閉ざされたように二人は隔絶されている。裁く者と裁かれる者。人と閻魔。生者と死者……多分そういうことではなく、何かが根本的に隔てられている。
この時、映姫は初めて蓮子に興味を持ったのかもしれない。今までは死因とのギャップから、必要以上に厳しい目で見ていたのかもしれない。
彼女は――記憶を失っているのだ。
自覚もないまま、手違いとはいえ一度死んでしまったのである。それはどれほど心細く、不安なことだろう。あの異様なまでの敵愾心は彼女なりの自衛手段なのかもしれない。何の力も持っていない彼女に、身を守るための、他にどんな術があるというのか。
それに彼女の心は十四歳で止まっているのだ。
その年頃ならあの反抗的な態度も、思春期特有の自然なものと言えるのではないだろうか。それにいちいち目くじらを立てるのも大人げないのではないか?
さて、どうしたものかしらね――そんな風に思いながら、映姫は手元のお茶を一口啜る。
迷いを断ち切るはずの閻魔が、女の子ひとりの扱いに迷っている。その状況につい口元が緩んでしまう。
「……なに笑ってるのよ?」
「いえ、別に」
むーっと、蓮子が口を突き出して睨んでいる。
その顔が何だか可愛らしく思えて、映姫はもう一度、今度ははっきりと、穏やかな笑みを浮かべた。
§
「蘇生の準備は整っていますか?」
「あー……割と手間取ってますねぇ。当初の予定通り明日の朝までには、と思っているのですが」
「そうですか。まぁ、焦ることはありません。それよりも手違いのないよう、慎重に進めてください」
はぁ、と生返事をする芹生だったが、内心ちょっと驚いていた。まだ三日足らずの付き合いでしかないが、こういう時『最速を心掛けなさい。その上で一切のミスを許しません』なんて無茶な命令を平気でしてくるものだと思っていたからだ。ミスがないようにというのは当たり前だが、焦る必要はないというのはどういう意味だろう。そんなに気の長そうな人には見えないのに――
そう思いつつ芹生が視線を向けると、映姫は近寄りがたいほど一心に手元の閻魔帳を睨んでいた。普段なら速読技能を駆使して一瞬で読み終わるというのに、まるで行間を読むように、一文字一文字ゆっくりと目で追いかけている。
「それ、彼女の記録ですか?」
「え? ええ、宇佐見蓮子の記録です。ちょっと気になることがありましてね」
「はぁ、何か問題でも?」
「さて……それを知りたくて、記録を読み返しているんですが」
答えながらも、映姫は目を離さない。
その様子にこれ以上声を掛けるのも憚られて、芹生が手にしたお茶に口を付けようとすると、
「芹生……貴女は幻想を信じますか?」
ふいに、映姫が問い掛けた。
驚いた芹生が再び視線を向けるも、映姫は閻魔帳へと視線を落としたまま、まるで独り言のように。
「私の担当する幻想郷には、現世ですでに失われてしまったもの――所謂幻想が平気な顔で闊歩しているから今ひとつ実感が湧かなかったのですが……そうですね、貴女は全能なる神の存在を信じますか?」
「え、えと……?」
「私たちはそれこそ神や仏に仕える身です。だからこんな質問はおかしいかもしれませんが……でも、だからこそ神とて万能ではないことを私たちは知っている。神だって誤ることもある。仏だって全てを救えるわけではない。違いますか?」
「あ、いや、それは……」
芹生は戸惑う。
是非曲直庁内における神仏に対する批判は、別に禁止されているわけではない。とはいえそれは、特に自分たちのような者が、迂闊に口にして良いものではないはずだ。
「別におかしな話ではないでしょう? 私だって閻魔でありながらミスは犯すし、貴女だって完璧とは言えないでしょう? 完璧な、決して間違いを犯さない存在など、それこそ幻想の中にしか存在しない」
「そ、それは……でも……」
お茶を持つ手が自然と震える。
自分は今、決して聞いてはいけない言葉を聞いているんじゃないだろうか……そんな不安が鎌首をもたげ、無性に恐ろしくなる。
「そして、だからこそ、私たちは幻想を纏う。絶対的で普遍的な『正義』という仮面を被ることで、死者を裁き生者を導く。人々をより良き道へと、誤らないように、迷わぬように。神は決して誤らない――その幻想を利用して」
「四季さま……それ以上は……」
声すら震える。
だが映姫は、容赦なく、非情なまでに厳しく。
「真実を知れば……失望させてしまうのでしょうね。そう、今のあの娘のように」
それきり、映姫は口を開かない。
閻魔帳に目を落としたまま、もう顔も上げない。
沈黙に耐え切れず、芹生が逃げるように退室した後も、ただ黙々と。
宇佐見蓮子の記録を、
彼女の歩いてきた道を、
その全てを――自らの足でなぞるように。
§
「星を見れば現在の時刻が判る能力、か」
蝋燭だけの心細い明かりの中、ぽつりと零した呟きが、部屋の壁に溶けていく。
夜も更け、そろそろ日も変わろうかという時刻。
とはいえ是非曲直庁は眠らず、今も慌しく動き回っている。無論慌しいのは蓮子の蘇生に携わる者たちであり、外様である映姫だけが取り残されているような状況だ。
世界に置いていかれたように。
誰もいない執務室に、たった一人で。
「心細いから? 不安だったから? いいえ、きっと違うのね」
最初はそうだったのかもしれない。
でもそんな状況が続けば、きっと人は、一人ぼっちの心細さにすら、気付けばいつしか慣れている。心は磨耗し、熱を失い、そして静かに消えていく。
誰にも看取られぬまま。
いつまでも、どこまでも、独りのまま。
それはなんて残酷で、おそろしいことだろう。
それはなんて悲しく、救いのないことだろう。
だからきっと――これは彼女なりの戦いなのだ。
世界という巨大で途方もない存在と向き合うためには、普通のままではいられない。何もないちっぽけな自分に耐えられないなら、特別な何かになるしかない。普通の、何の変哲もない普通の生き方は、それはそれで尊く、大切なものではあるけれど……
ふと、映姫は手元の閻魔帳へと目を向ける。
何度も読み返した彼女の記録。だがそこに書かれているのはただの客観的な事実にすぎない。彼女が何処で何をしたかは書かれていても、彼女が何を思っていたかは解らない。
「でも、だからこそ、閻魔が存在する」
ただの記録を記憶とするために。
羅列された事実から、真実を暴くために。
是非曲直庁に明文化された法はない。法は全て閻魔の裡にある。それぞれの閻魔が持つ倫理、常識、規律によって裁量を下す権限が与えられており、十王だろうとその裁決に口を出すことはない。
それは十王をはじめとする神仏の、閻魔に対する信頼であると同時に、人の犯す罪など神仏にとっては些細な、どうでもよいことだと思われているのかもしれないと、時に空しく思うこともある。
それでも、閻魔であることを誇りと思うから。
救われぬ魂を救うための、それが唯一の術だと知っているから。
「だから私は閻魔になった。一介の石仏に過ぎなかった私が、それでも誰かを救いたいと願うなら……特別な何かになるしかなかった」
それが閻魔。
神仏に願い、祈り、請うた末の顕現した奇跡。
「だから……あの娘も同じなのね」
宇佐見蓮子――世界に対して余りにもちっぽけな彼女が、それでも世界と向き合うために。
「ならばこれも、私の務め、か」
蝋燭が消える。
薄暗かった室内が、完全に闇に沈みこむ。
だが構わず闇に身を委ね、椅子の背もたれに深く背中を預けると、映姫はそっと静かな笑みを――その口元に浮かべた。
3
「……ふん」
宿直用のベッドに横たわったまま、蓮子は何度目になるか判らない寝返りを打った。
眠れない。身体は睡眠を欲しているのに、精神だけが尖っている、そんな感じ。
「そっか。今の私は幽霊だっけ」
なら身体というのもおかしな話か。
馬鹿馬鹿しい――そう呟いて、蓮子はもう一度布団で身体を包み込む。枕が硬い。ベッドが軋む。時計の音が煩い。そんな些細なことが気になって、ちっとも眠れる気がしない。
ふと視線を横に向ける。燭台の灯りすら途絶えた室内だが、暗がりにもとっくに目は慣れていた。飾り気のない白い壁、かちこち煩い柱時計、飲みかけのお茶が放置された丸テーブル。そして……仄かに明るい窓の外。
二分、躊躇った。
無理矢理目を閉じて、眠ってしまおうと思った。
「ああ、もう!」
だけどそれも何だか負けな気がして、腹立ち紛れにシーツを跳ね除ける。勢いよく身を起こし、素足のままずかずかと窓の前に立ち、そのまま引き千切るようにカーテンを開けた。そしてもう何度も見た、すでに見飽きてしまった風景を、きつく睨みつける。
昼でもなく、夜でもない、ぼんやりとした空。
厚い雲に覆われ、そのくせ雲そのものが発光しているようにうっすらと明るく、そしてそれ以外は木々のひとつさえない、荒涼とした彩りに欠ける景色。
これが――彼岸。
死した者が集う、最期の場所。
それは多くの者がイメージするように、淋しくて切なくて胸の奥が締め付けられるような、そんな光景。
「は、ん」
だからこそ笑ってしまう。
余りにも思い描いた通り。まるで子供騙しだ。今時どんな三流映画だって、こんな手抜きのあからさまな死後の風景なんてないだろう。
「私ってば意外と発想が貧困だったのね……いや、意外ってほどでもないか」
軽く自嘲しながら、窓に手を触れる。ちょっと力を加えるだけで割れてしまいそうなガラスに、敢えてもたれて息を吐く。
張り詰めすぎだ――それは自覚している。
閻魔だかなんだか知らないが、あそこまで敵意を剥き出しにする必要はなかった。どうせ明日には全て終わるのに、大人げなかったと反省する。
「にしたって、ねぇ? わざとらしくでっかい鎌をぶら下げた死神に、これまたそれっぽい三途の河。おまけにいかにもって感じの閻魔まで……そりゃ馬鹿にしてんのかって気にもなるわよ」
閻魔も死神も女の子だったのは気になるが。
ひょっとして今まで気付かなかっただけで、自分はそういう趣味でも持っているのだろうか?
「ないない、ないわよほんとにもう」
頭に浮かんだ閻魔の顔を、ぶんぶんと手で払う。
閻魔は、明日には現世に戻れると言っていた。
ならばこれが、夢の落としどころってやつだろう。
死んだという自覚もないし、本当は十九歳だって言われてもピンとこない。ベッドに入る前に湯浴みをさせてもらったが、そこの鏡に映る姿を見ても記憶の中の自分と特に変わった様子もないし、何の感慨も浮かんでこない。
「未来の自分が想像できないってオチなら笑うわね。どうせなら素敵な未来を見せて欲しいもんだわ」
自分の胸に手を当てて、軽く絶望の溜息を吐く。
それともこれは、大人になんてなりたくないという暗喩なのだろうか。
それもまたありがちで、気の滅入る話だ。
「どうしようっか、な」
眠ろうとしても眠れない。それはもう嫌ってほどに理解している。気晴らしに散歩にでも出掛けたいが、流石にそれは許されないだろう。
「お酒でも飲みたいな」
父親に付き合って、何度かお酒を嗜んだことがある。
割とお酒には強い性質らしく、父が隠し持っていた秘蔵のブランデーを一人で空けて、こっぴどく叱られたこともあった。
お酒は好きだ。
ワインも、ウイスキーも、ブランデーも。
ビールも、焼酎も、日本酒も。
甘い香り。ぴりりとした舌触り。喉を通る熱い塊。 嫌なことも憂鬱なことも、みんなふわふわとどうでも良くなっていく。雲の上を歩いているような、あったかい布団に包まれているような、ちょっとだけ幸せな気持ちになれてしまう。
「そうね。それだけは楽しみ、かな?」
大人になれば、いつでも好きな時にお酒が飲める。
お洒落なバーに行くのもいい。賑やかな居酒屋も悪くない。明かりを消した部屋で、月を眺めながらグラスを傾けるのも良いだろう。
この世にはまだまだ自分の知らない酒がある。
それを味わうことは、今の自分にとって唯一の、明確で、誰に聞かせても恥じることのない、胸を張って言える夢の形ではあるだろう。
「でもって……それだけなのよね」
それ以外は、口にするのも憚るような、
考えただけで赤面するような、
幼稚で、くだらない、夢。
「ほんっと、どうしよっかなー」
時計を見ると、すでに十二時を回っている。このまま朝まで眠れぬ夜を過ごすのはやりきれないなと思った瞬間――見透かしたようなタイミングで、ノックの音が響いた。
「夜分遅く失礼します。もう……お休みになられましたか?」
それは、聞き飽きた閻魔の声。
惑う。迷う。揺れ動く。返事をすべきか逡巡する。
だが蓮子は諦めたように舌打ちすると、軽く爪を噛み、不機嫌そうな顔を無理矢理作り出して、
「どうぞ? 丁度退屈してたところよ」
澄ました声で、そう答えた。
§
「だいたいねー。なーにが閻魔よ、はっずかしいー」
「なにがですかなにがですか! わたしは閻魔ですよ、どっからどーみても立派な閻魔ですよ。敬いなさい。つか敬え」
「なーにいってんだか。閻魔っていったらふつーは髭づらのムサいおっさんでしょー? こーんなちんちくりんの閻魔さまとか、生まれてこのかた聞いたことないわよ」
「わ、私はちんちくりんなんかじゃありません! そもそも髭づらのムサいおっさんとか、そっちが勝手に思い描いてただけでしょーが!」
「だーっておばあちゃんがそーいってたもん。おばあちゃんはうそつかないもん。なにー? アンタおばあちゃんがうそついたってゆーわけ?」
「い、いやそれは是非曲直庁の流したイメージ戦略というか……そ、そんなことどうでもいいじゃないですか! どっちにしろ私は閻魔なのです。死後の魂を裁くえらーい神さまなのです。崇めなさい奉りなさい」
「ほらほら、ちょっと立ってみ?」
「な、なんですかなんですか?」
「ほらーやっぱわらひより背ぇ低いじゃん!」
「うぐ!?」
「わたひは中学生なのよー? それより低いってどーなのさー?」
「だ、だから貴女は記憶を失ってるだけで、身体は成人女性だと言ってるでしょう!? 私は普通です! 普通よりちょっぴり小柄なだけです!」
「そんなのしらないもーん。わたひはぴっちぴちの十四歳だもーん」
そう言って蓮子はけたけた笑い、映姫はあまりの悔しさに目に涙を浮かべている。
一体何がどうしてこうなったのか。
話は二時間ほど前に遡る。
「で、何の用なわけ?」
相変わらずの挑むような蓮子の視線を、もう慣れたとでも言うように受け流し、映姫は悠然と微笑んだ。
「眠れないんじゃないかと思いましてね? 慣れない場所に一人置き去りにされ、心細かったんじゃないかなーと」
「馬鹿にしてんの? 私は子供じゃないっての」
「子供じゃない、ですか? いえいえ、私から見れば貴女など、ぜんぜんまったくお子さまです」
「……喧嘩売ってるわけ?」
「まさか。私は私なりに貴女と打ち解けたいと思っているのですよ。それに――」
映姫は頭に載せた冠を持ち上げると、ひょいっと蓮子のベッドに放り投げる。
「今はオフですから」
閻魔の証である豪奢な冠を投げ捨て、映姫はふんわりと柔らかく綻んだ。
それまでの、閻魔としての威厳を捨て。
まるで、ただの女の子のように。
「……オフって?」
蓮子は怪訝そうに眉を顰める。
だが映姫は蓮子の視線を無視してずかずかと部屋の隅に足を向けると、一見するとただの壁としか思えない場所にしゃがみこみ、とん、と軽く手で突いた。
途端、壁の一部がくるりと回り、黒い穴が口を開ける。そこには大小様々なビンが並び、アルコール独特のツンとした臭いが鼻をついた。
「むぅ、こんなところに隠していましたか。まったく、死神というのはどこも同じですね」
「な、なに言ってんの?」
「ここは元々死神専用の宿直室なんです。仕事で遅くなった死神が、一時的に休めるように設けられているのですけどね? 基本的に法廷内での飲酒、喫煙は禁じられているのですが、どこにでも外れものというのはいるものでして……こうしてご禁制の品を持ち込む不届き者が後を絶たないのですよ」
口だけはへの字に曲げて、目は嬉しそうに細めながら、映姫はいそいそと酒ビンを床に並べていく。呆気に取られている蓮子に背を向けたまま、穴の中に身体ごと突っ込み、「あ、スルメまであるじゃないですか。まったくもって許しがたいですね」とかなんとかぶつぶつ呟いている。
日本酒に焼酎。
ウイスキーにブランデー。
奥には箱に入った缶ビールまで。
それら全てを引っ張り出して並べると、映姫はふぅとわざとらしく大仰な息を吐いた。
「あるとは思ってましたが、まさかこれほどとは……京都の規律も緩みきっていますね。まぁ、上がアレだし、予測どおりといえば予測どおりですが」
酒ビンに囲まれた映姫は、床にどかりと胡坐をかくと、手招きするように目で誘う。
「さぁさぁ、貴女もこちらにおいでなさいな。これらは禁制品。そのままにしておくわけにはいきませんが、だからといって捨てるのも勿体な……いやいや、これらを作ってくれた方々に対して失礼というものです。というわけで、私たちで片付けてしまおうと思うのですが如何ですか?」
「い、如何って……」
蓮子は目を丸くするしかない。
つい先程子供扱いされたかと思えば、今度はそこに座って酒を飲めという。その変わり身の早さについていけない。
どうすればいいか迷っていると、映姫は蓮子を無視してさっさと日本酒の口を切り、手元の杯にどくどくと注ぎ始めた。おっとっとと言いながら杯のぎりぎりまで酒を注ぎ、注ぎ終わった途端口元に当てて躊躇いもせずぐーっと飲み干す。
「ぷはー。ふむ、なかなか良いですね。口当たりはまろやかだし、喉越しもするりとしている。個人的にはもっと辛口な方が好みですが、これはこれで大変よろしい」
うむうむと頷きながら再び杯に酒を注ぐと、映姫はまた一息に空けた。零れるような笑みを浮かべ、目元をとろんと蕩かしながら。
罠だ――それは解っていた。
演技力に欠けるというか、嘘が吐けないというか、そんなの蓮子の目から見てもバレバレだ。
このまま無視しようか。
そうすればコイツは意地になって、いつまでもこの一人上手を続けるだろう。それはそれで愉快な気持ちがしないでもない。それでも――
「……頂くわ」
蓮子は映姫の正面にどかりと座る。
腹も据わった。覚悟も決めた。罠だろうが何だろうがどうでもいい。ただ、杯に口を付けた時に浮かんだ幸せそうな笑みはきっと本物だから……それに委ねてみようと思ったのだ。
「でもさ。閻魔が未成年に酒を勧めて……タダで済むと思ってんの?」
ただ、ちょっとだけ。
そのまま思惑に乗るのも腹立だしかったので、そんな意地悪なことを言ってみる。
すると閻魔は、冠を脱いだ彼女は、
「ないしょですよ?」
口に人差し指を当て、
悪戯っぽく、子供のように――笑った。
§
「あー……も、むり。も、のめない」
大の字に寝っ転がった蓮子の周りには、大小様々な空き瓶が転がっている。けふりと吐いた息も酒臭く、アルコール純度百パーセントって感じだ。
「ありゃりゃ、まったくだらしないれすねー? たかがこの程度の酒くりゃいで」
そういう映姫も呂律が回っていない。壁に背を預けてしゃがみこんだまま、目もとろんとしている。けたけた笑いながら杯を傾けるが、口に入るよりも零れる方が断然多く、いつもの詰襟のボタンは全部外され、最早全身酒まみれである。
「あ、あたひは未成年だっつーの……」
「ふふん。あなたくりゃいの歳で、もっと飲むやつはいっぱいいるですよー? 巫女とか魔法使いとか……鬼とか神に飲み比べを挑むような馬鹿ちんが、そりゃもー売るほどいますれす、はい」
「なにそれ? ばっかじゃらいの?」
「閻魔に飲み比べを挑む馬鹿とどっこいれすよ」
むーっと唸りながら、蓮子が寝返りを打った。
ふと、柱時計に目を向ける。
すでに時刻は二時を回っていた。閻魔がやってきたのが十二時だったから、あれから二時間以上も飲みっぱなしというわけである。
「つかこんなペースで飲んだらそりゃ潰れるっての!あーもー、わらひはもっとこう、ゆっくりのんびり味わいながらってのが好きなのにー」
「わたひだってそーれすよぅ? でもしかたないじゃないですか。これは飲み会じゃなく禁制品の処分なんれすから」
「そっかー、しかたないのねぇ」
「しかたないのですしかたないのです」
酔いどれたちの頭の悪い会話は続く。
二人とも臨界突破しているのは明白で、蓮子はしなびた蛇の抜け殻のようになってるし、映姫は映姫で誰もいない宙を指してけたけたけたけた笑っていた。いい加減誰か止めろよというツッコミも入りそうなもんだが、閻魔と扱い難そうな死者のいるこの部屋に入ってくるような酔狂な者などいるはずもなく、酔狂な住人たちは相変わらず手酌でがんがん酒を飲み尽くしていた。
「それにしても強いれすねぇ……人間にしては、ひっく、なかなかやるじゃないれすか」
「ったりまえっしょー? うちの田舎じゃ『うわばみ蓮子』って呼ばれてたんらから!」
「あんた、都会っ子れしょうに」
「気分よ気分、いい気分!」
蓮子は寝っ転がったまま両足を内側に曲げ、足の裏をぱしぱしと打ち付けた。シンバルを持ったチンパンジーのように、そりゃもーぱしぱしと。
「ほらほら着物でそんなかっこしたら、大事なところがまるみえれすよー? まったくもってはしたない。いいれすか? 女性というものは常に慎みを持ちつつですね?」
「うーるーさーいー」
尚も説教を続ける映姫を無視して両足をばたばたさせていた蓮子は、突然「だーんごむーしー」と某ネコ型ロボットのような声で宣言し、寝っ転がった状態から両足を勢いよく振り上げて倒立した。おまけにそのまま後転しはじめる。ごろごろごろごろとどこまでも転がっていき、壁に後頭部を打ち付けて蹲った。そのまま動かない。死んだのかもしれない。
「……ら、らいじょうぶれすか?」
動かなくなった蓮子へと、ずりずり膝をついたまま近寄った映姫は、ぴくりとも動かない蓮子のつむじを人差し指で突付く。
動かない。
つむじをぐりぐりしてみる。
やっぱり動かない。ただの屍のようだ。
流石に心配になって、映姫が蓮子の両肩に手を回し、 軽く揺さぶろうとした瞬間、蓮子は顔を上げ、映姫の肩をがしりと掴み、にっこりと微笑んで――
「ぎゃぁぁぁぁぁああああああああああああ!?」
両肩を押さえられ、逃げ場のない映姫の顔面へと、それはそれは見事な噴水ゲロを浴びせかけた。
§
「うう、きぼぢわるい……」
「私だって気持ち悪いですよ。水浴びしたせいで酔いも全部飛んじゃいましたし……全くもって最悪です」
頭からゲロを浴びせられた映姫は、濡れた髪を手拭いで拭いながら、拗ねたように答える。
その姿を見て、ふと蓮子が眉を顰めた。
「んー? アンタ着替えたんじゃなかったの? なんでまたその服着てんのさ?」
「着替えましたよ? これは私の私服です」
「……さっきとどこが違うの?」
「全然違うじゃないですか! ほら、襟や袖に刺繍があるでしょう? 肩当もありませんし」
「あっそう……」
なんとなく突っ込むのも憚られて、蓮子は無視することに決めた。そもそも気持ち悪さの方が勝って、そんなことどうでもよかった。
「あーもー……流石に飲み過ぎ。しばらくお酒は見たくもないわ」
そう言って、蓮子は大きく伸びをする。
昼か夜かも定かでない虚ろな空の下で、せめて肺の空気だけでも入れ替えようと。
今は外。酔いを醒ますために水浴びをし、そのまましばらく外で涼むことにしたのだ。未だ全身酒臭く、その度にぐっと吐き気が込み上げるが、着替えをしたこともあって先程よりはマシな気分である。
「しっかし相変わらず辛気臭い空ねぇ。星でも見えればちっとはマシなのに」
伸びをするついでに、蓮子は空を見上げた。
夜中だというのにほんのりと明るく、それでいて分厚い雲が空を覆っていて、なんともすっきりしない気分になる。
「あの雲も結界の一部ですよ。あれもまた生と死を別つもの。三途の河と一緒です」
答えながら、映姫もまた空を見上げた。
厚い雲を、少しだけ哀しそうに。
「……はん。つまりあれは天井ってわけだ。此処は牢獄で、私は囚人、そしてアンタは裁判官。解りやすすぎて涙が出るわね」
蓮子がそう毒づくと、映姫は驚いたように目を見開いて、蓮子へと視線を向ける。
咄嗟に口を開こうとして、そして、躊躇う。
口にしたものか迷い、やがて意を決したように。
「貴女は……まだこれを現実と認めないのですか?」
その言葉に、蓮子はへらりと自嘲の笑みを浮かべた。
酒で口が軽くなっているだけだと。
言い訳するように、軽く肩を竦めて。
「認めてはいるわ。貴女も、此処も、私の妄想が生み出したものではなく、現実と同じように確たる存在なのだと。でもね、それでもね? やっぱり私には信じられない。嘘っぽいのよ。この世界も、この空も、そしてアンタも」
信じられないことが悔しいのだ、と。
そう、目を細めながら。
「人間が観測することによって、はじめて宇宙は生まれた、そのように形作られた……シュレンディンガーの猫や観測問題を例に取るまでもなく、少しだけ知識を齧った子供なら、誰でも一度は考えたことがあるはずよ? この世界は自分の見ている夢かもしれないって。思い通りにいかないことも多いけど、それもまた自身の無意識が生み出した、人生における適度なスパイスと言えない事もないしね? そしてなにより、私は私の意識を認識しているけれど、私には他人の意識の存在を決して証明することが出来ない。だってそうでしょう? 私の意に沿わない答えを、私の無意識が用意することで、私は、私の主人格は、この世界が妄想ではなく現実だと安心することが出来る。そうであろうという風に、私の無意識が騙そうとしているのかもしれないんだもの。そして私にはそれを証明する術がない。五感は全て脳で受け取る……その脳が嘘を吐いているのなら、私には決して見破れない。だって」
――私の本心は、その嘘こそを望んでいるのだから。
騙されることを望んでいるのだ。
そんなの、騙されない方がおかしい。
無論、そんなことはないと解っている。思春期特有の肥大したエゴが、世界の全てを自分の裡に置いておきたいと願っているだけだと、それこそ都合の良い妄想に過ぎないと、でも――
「死後の世界……それはある意味、私の疑問に対する決定的な答えとなるはずだったわ。私という存在が死によって失われることで、初めて私は第三者的視点を獲得することができる。そうすることでやっと、私はこの世界を外側から認識できるはずだったのよ。この世界は私の妄想じゃないと。私の周囲には、ちゃんと私と同じように自分の意思を持った存在がいるんだと。なのに……」
死後の世界も現世と同じで。
より一層、作り物じみて、滑稽で。
蓮子は空を見上げて沈黙する。
厚い雲の先を見通そうと目を凝らし、それが出来ないことに絶望し、それでも、それでもなお、空を――
「貴女は……自分が嫌いですか?」
「嫌いよ」
「……何故です?」
「弱いから」
一瞬の躊躇いすらない、刹那の回答。
予めそう答えようと、決めていたかのように。
特別な何かに憧れるも、自分には何もない。世界と向き合うだけの力もなく、流されるだけの覚悟もない。抜群の記憶力を誇り神童と呼ばれた彼女は、それでも自身を特別だと思えなかった。賢しさ故に、己の凡庸さをも理解してしまった。
捨てられた子供のように、道を失った旅人のように、
拗ねているように、怒っているように、
泣いているように、戸惑っているように、
そんな目で――空を見上げたまま。
押し潰されそうな重い沈黙。
静かな、死んだような夜を、蓮子は哂う。
厚い雲に覆われ、光を閉ざすこの空こそが、自分の心の在り方なのだと、そう、自分を嘲笑う。口元を歪め、所在なく立ち尽くしたまま――
そんな蓮子を眺めつつ、映姫は重々しく口を開いた。
「特別なものになりたいですか?」
その言葉に、蓮子は力なく笑う。
例えば閻魔。例えば死神。
ESPでもUMAでもUFOだって何でもいい。
特別な、世界と相対するに足る証を、資格を、
そんなものを求めるのかと。
「なれるならね?」
まだ酔いが残っているのか。
それともこれは夢だと諦めているのか。
その言葉は、するりと蓮子の口から漏れていた。
世界は不思議が溢れている。
なのに彼女はそれを嘘だと知っている。
賢い彼女にはその嘘すらも見破れてしまう。
この世には――不思議なものなどなにもない。
「重症ですね」
「死んだ方がいいくらいにね」
蓮子の歪んだ笑みを眺め、映姫は肩を竦める。
そしてそのまま振り返り、建物の影に向かって唐突に声を掛けた。
「芹生」
「ひ、ひゃい!」
あからさまな狼狽の声と共に、建物の影に隠れていた赤髪の少女が転がり出る。地面に手をついたまま、盗み聞きしていた気まずさからか、叱られた子犬のような目で映姫を見上げている。
突然の闖入者に蓮子は目を丸くしたが、映姫は動ずることなくにっこり微笑んで、身体ごと芹生の方を向いた。
「貴女は元渡し守ですよね? まだ自分の舟は持っていますか?」
倒れこんだ芹生の前にしゃがみ、目線を合わせるようにして優しく尋ねる。その柔らかく、笑顔を浮かべたままの映姫の声に何故か不吉なものを感じた芹生は、大量の汗を流しながらこくこくと頷いた。
「それではちょっと舟を出してくれませんか? 忙しいのなら無理にとは言いませんが……暇ですよね? こんなところで盗み聞きしてるくらいですし?」
「あ、いや、その、廊下の窓からお二人の姿が見えたもので……」
「暇ですよね?」
「は、はい!」
有無を言わせぬ物言いに、芹生は地面にこすりつけて平伏する。サボっているところを見つかった死神がどうなるか――その噂は遠く、京都の地まで届いていた。八大地獄を合わせたよりなお過酷なその責めは、地獄の鬼神長ですら泣いて許しを請うという。鬼すらも跨いで通る『オニマタ映姫』――その二つ名は伊達ではない。
「さて、それでは行きましょうか?」
状況の変化に付いていけず目を白黒とさせていた蓮子と、跪いたまま涙目になっていた芹生は、異口同音で「何処へ?」と訊ねる。
二人の視線を受け止めた映姫は、
にっこりと、子供のように目を細めて、
「星を見に行きましょう」と、
輝くような笑顔で、そう言った。
4
「どういうつもり? こんなところまで連れ出して」
「まぁまぁ、いいじゃないですか。どうせ朝には現世に戻るんですし。こんな経験、向こうに戻ったら中々できませんよ?」
「……私、もう眠いんだけど」
「ほらほら、若いんだから文句を言わない。夜更かしは若いうちだけの特権です」
あからさまに不機嫌そうな蓮子を連れて、映姫は夜の道をひた歩く。芹生に舟の番をしておくよう言い残し川岸を歩き始めた映姫の顔は、どこか楽しそうにほころんでいた。
その顔を見て、蓮子は軽く肩を竦める。
そして諦めたような溜息を吐くと、改めて周囲を見渡した。濃密な土の匂い。あちこちから聞こえる虫の声。近くを流れる小川のせせらぎ。全てが灰色に沈んだ彼岸とは異なる、生命溢れる夜の道。
「いきなり舟に乗せられたと思ったら、こんなところまで連れてきて……本当、どういうつもりなわけ?」
「彼岸では星が見えませんしね。どうです? 大したものだと思いませんか?」
映姫が天を指差しながら、くるりと振り返った。
指先に釣られ、蓮子も顔を上げる。
そこには――
「――あ」
見上げた先には、空を別つ光の帯。
天の川――古来そう呼ばれる、銀河の積層。
彦星と織姫などの様々な伝承を生み出し、詩に詠まれ、耳に馴染み、にも関わらず最近では街の光に押しやられ、肉眼ではぼんやりとしか見ることのできなくなってしまった幻の光景。
なのに、それが、煌々と。
天の川の名に相応しく、黒き空を悠々と。
思わず声を漏らした蓮子は、呆けたように空を見上げていた。それはまるで、夜そのものが輝いているような、余りにも眩し過ぎて星座の形すら解らなくなるほどの、無限に等しい星の渦。大気の揺らぎによって生じる瞬きは、銀河そのものが一個の生き物であるかのように、ざわざわと、ざわざわと波打って。
夜明けまであと数時間。
あと僅かで東の空が黎明に染まる。
だが、今はまだ、世界を支配しているのは星たちで、虫たちの合唱が勢いを増す中、蓮子は呼吸すら忘れたように、ただ、ただ、空を見上げて――
「どうです? 大したものでしょう?」
「……ふん。ちょっと驚いただけよ」
からかうような映姫の声で我に返った蓮子は、すぐに気を取り直し、いつもの不機嫌そうな表情を浮かべる。無理をしているのがバレバレの、無理矢理作ったへの字口で、それでもちらちらと空を見上げながら。
「……なに笑ってんのよ」
「いえいえ、中々可愛いものだと思いまして。それがアレですかね? 現世で流行りの『ツンデレ』ってやつですかね?」
「なにそれ、ばっかじゃないの!?」
「こういう時はアレですかね? 『もえー』とか言えばいいんですかね?」
「違うっつーの! いいから黙ってなさいよ!」
「はいはい」
明らかに笑いを堪えている映姫をじろりと睨んで、蓮子は再び睨むような顔つきのまま夜空を見上げる。
だが、それも長くは続かない。
今にも落ちてきそうな空の下、次第にその表情すらも溶けていき、少女にだけ許された透明で、真っ直ぐな、何ものにも染まらない自然な顔で。
立ち尽したまま、星の光を、天から零れる雫を、深く、静かに、身体の隅々へと染み込ませるように――
それからどのくらい経ったのだろう。
ふと、映姫が口を開いた。
「やっぱり、世界はつまらないですか?」
その途端、蓮子の表情が変わる。
星の輝きを網膜に焼き付けようとしていた無心の表情が崩れ、頑なな、世界そのものを拒絶するような厳しい顔に戻して。
「つまらないわ」
「どうして?」
「自分が……嫌いだから」
そんな風に、意固地に。
意固地になってしまう自分に、更に腹を立てながら。
「星は、つまらないですか?」
「……綺麗だとは思う。でも、それだけよ」
「綺麗ということは、それだけで価値があると思いませんか?」
「……かもね。でもそれは主観に過ぎない。私にとって価値あるものと、世界にとって意味のあるものは同義ではないわ。一瞬の……気の迷いみたいなものよ」
今見ている星空も、眼球を通して脳に映し出される虚像に過ぎない。星を見て湧き上がる感情が、他者と共有できるとは限らないのだ。
例えば今隣に立っている閻魔と、自分が見ているものが同じとは限らない。共有できぬ美に、いったい何の意味があるというのか。人は独りだ。どこまでいっても独りだ。独りにしか……なれないのだ。
泣きそうな顔で、蓮子は空を見上げている。側に誰かがいるからこそ、生じてしまう孤独感。それに必死で耐えながら、涙を零すまいと上を向いて。
そんな蓮子を眺めながら、映姫は僅かに肩を竦めた。
「私だってこの星空を綺麗だと思いますよ? ですがその感情も……貴女に言わせれば偽物に過ぎないのでしょうか?」
「我ながら傲慢だと思うわ。他人と感動を共有することを小難しく考えすぎだって。でもね、仕方ないわよ。私には、他人が何を考えているかなんて解らないんだから……アンタと違ってね?」
そう言って、自らの身体を抱きながら。
思春期特有の、理由なき疎外感。
そう言ってしまうには、切実過ぎる表情で。
だから映姫は、言葉を選びながら慎重に口を開く。
「閻魔とて……全てを見通せるわけではありませんよ? その者が歩んだ道を知ることはできても、その者が何を思って歩いたのかは解りません。ですから想像するのです。記録から当人の心情を推測し、事実の羅列からその者にとっての真実を導き出す。それが正解なのかどうか、私にだって解りません。絶対の法に基づき、隠された罪を裁くと偉そうに言ったところで、結局は私の主観に過ぎないのですから。ひょっとすると、間違えることだってあるかもしれませんね?」
「……いいの? そんなこと言っちゃって」
「今はオフですから」
冠を外した映姫が羽のように笑い。
蓮子もまた、釣られたように淡い笑みを浮かべる。
星空の下、互いに仮面を外した、自然な顔で。
「不思議なものに惹かれますか?」
「そ、ね。不思議なものってことはつまり、この私にも解らないものってことだもの。たとえそれすら、私の脳内で生み出した都合の良い謀りごとなのだとしても……それがあれば、少しだけど安心できるわ」
この世界は幻じゃないと。
自分の外側にも、ちゃんと世界は存在するのだと。
そんな、風に。
「私は不思議ではありませんか?」
「ははっ、アンタは閻魔って割に人間っぽすぎるわよ。そうね……いいとこ仕事に疲れきったOLってとこかしらね?」
「むむ、否定したいところですが、微妙に否定できないのが悔しいですね……」
「お人よしだし、背もちっちゃいし」
「せ、背は関係ないでしょう!?」
ぶんぶんと手を振り回す映姫をあしらうように、蓮子はとんと後ろに跳ねる。手を後ろで組んで、からかうような笑みを浮かべて。
「あはは。でもね? 私、アンタのこと好きよ? こんなにしゃべったのはじめてだもの」
年頃の女の子のように華やかに。
だけどそれは、どこかぎこちないまま、
無理をしているような、仮初の、偽物で。
「何でだろう、何か何でも話せる気がするの! アンタだけは、私が何を言っても見捨てないって!」
両手を広げて、星の海を泳ぐように。
爪先立って、浮かれたようにくるりと回って。
「まだお酒が残ってるのかな? うふふ、何だかとってもいい気分! ねぇ、私と一緒に踊らない?」
くるくると、くるくると。
踊りながら、はしゃぎながら、無理に笑顔を作って。
でも、それは――
「夢だから、ですか?」
その仮初で、偽物の笑顔は、
言葉一つで、容易く打ち砕かれるほど脆くて。
「そうよ」
そう言って浮かべた笑みは、
哀しいほど、どこか酷く乾いていて。
「これは夢だもの。私は死後の世界なんて信じない、死神なんて信じない、閻魔なんて信じられない。でもいいじゃない。今は、今だけは、こんな風にはしゃいじゃってもさ? どうせ明日には醒めるんだもの」
笑いながら、回りながら。
目に、うっすらと涙を浮かべて。
蓮子が星を見上げる。
映姫もまた、顔を上げる。
満天の星が、眩い夜が、冷酷なほど美しく。
自分たちとは関係のないところで、何万光年も離れた場所で、己が生命を燃やして。取り残された迷い子たちを、見下すように、嘲笑うかのように――
泣いている子供。泣いている蓮子。
笑いながら、踊りながら、蓮子は静かに泣いている。
道化じみた笑顔を貼り付け、滑稽なほど必死に。
でも映姫は、泣いている子供へ手を差し伸べることなく、冷たく、断ち切るように。
「星を見れば時刻が解る……貴女はその力を覚えていますか?」
唐突に、それを口にした。
案の定、蓮子はきょとんとした顔を浮かべる。
「何処にいようと星の位置を見定めさえすれば、今が何時なのか秒単位で解る……そんな力があったことを貴女は覚えていますか?」
「……なによ、それ」
「記憶を失った貴女は覚えていないかもしれませんが、貴女はそんな不思議な能力を持っていたそうです。その力と、貴女の友人が持っていた『世界の結界を視る力』を使って、貴方たち二人のサークル――秘封倶楽部は世界に隠された秘密を、昼となく夜となく探っていたと、記録にはそう残っています」
「…………」
「もう一度、空を見上げて御覧なさい。今が何時なのか解りますか?」
蓮子は戸惑いながら空を見上げる。
輝く星を睨み、何かを見つけ出そうと首を巡らせながら目を凝らす。でも――
「わかるわけ、ないじゃない」
悔しそうに、目を細めて。
打ちひしがれたように、そう言って、項垂れて。
「大体何よ、星を見れば時刻が解るって……そんなの時計を持っていれば済む話じゃない! 本当の私はそんな下らない能力を得意気に触れ回ってたってわけ?はん! いらないわよ、そんなもの!」
「でも、時計がない時は便利ですよ?」
「だから、そんな……」
「時計、持っていますか?」
「…………」
「実は私も持っていないんですよ。困りましたね、これでは今何時なのか解りません。朝までに彼岸に戻らないといけないというのに」
残念そうに呟いて、映姫は深く溜息を吐いた。
その飄々とした、小馬鹿にするような態度に、蓮子はむっと顔を顰める。
「じゃあ、さっさと帰ればいいじゃない。いつまでもこんなとこでダラダラしてないでさ!」
「いえいえ、折角ここまで来たんですもの。どうせなら時間いっぱい楽しみたいじゃないですか。あー困りましたねぇ、こんな時に時計さえあれば……」
映姫は深く肩を落としながら、ちらりと蓮子の方を覗き見た。その期待するような眼差しから逃れるように、蓮子は足元へと視線を落とす。
「そんなもの……どうだって……」
「いいえ。時間は大切なものなのです。今を知るが故に過去を知り、過去を知るが故に未来を知る。己が座標を定めることで、人は次なる一歩を踏み出すことができる。時間に縛られるのは愚かなことですが、縛られるが故に、本来自己の内部だけで完結するはずの時の流れを、見知らぬ他人とも共有できるのですよ? 時間という概念がなければ他人と世界を共有することもできない……それはとても淋しいことですが、逆に言えば、ただそれだけで世界と繋がることができるのです。それはそれで素敵なことと思いませんか?」
「別に淋しくなんか……」
「では、悔しいの間違いかしら?」
「…………」
「さて、今何時か解りますか?」
「わかるわけ……ないじゃない……」
「私は解りますよ? 今は三時五十三分二十三秒です。あ、今二十五秒になりましたね」
蓮子は弾かれたように顔を上げる。
そこには笏で口元を隠し、にまりと哂う閻魔の顔。
「ね? 便利でしょ?」
「……適当に言ってるんじゃないでしょうね?」
「いいえ? 確かめてもらっても構いませんよ?」
「……本当に星を見れば時刻がわかるっての?」
「まさか。部屋に柱時計が掛かっていたでしょう? あの部屋を出たのが二時十一分二十五秒。そしてそれから一時間四十二分五十八秒経過した――ただそれだけのことです」
「だから、なんでそれが――」
「私はただ数えていただけです。正確なリズムで、一分一秒休むことなく」
蓮子は声を失う。
だが閻魔は、にまにまと笑ったまま、
――不思議だと、そう思ったでしょう?
そう言って、
更に笑みを深くした。
「……くだらないわ。そんなのインチキじゃない」
「そうですか?」
「そうよ。そんなの私にだって――」
「だからそれが、貴女のやっていた事ですよ」
殺意すら乗せて、蓮子がきつく睨む。
だが刃のような視線を、映姫は風のように受け流し、
「貴女ならできるでしょう? 驚異的な記憶力を持ち、九歳にして米国の研究機関に招聘された経緯を持つ貴女なら。数々の論文を残し、神童と持て囃された貴女なら。そして――天才と呼ばれた者たちが集うアカデミーの中で、己の限界を悟り、打ちのめされ、逃げ出した貴女なら」
「特別だった貴女は、特別ではなかった。世界に何百、何千と溢れる天才たちの一人でしかなかった。その事実に耐えられなかったのでしょう?」
「本当に特別だった『彼女』を前に、別の世界を視る目を持った『彼女』を前に、自分も特別であると示すにはそれしかなかったんでしょう?」
「星を見れば時刻が解る――ロマンチックですよね。不思議ですよね。でもその裏で、貴方は必死に数を数えていたのです。一分一秒休むことなく」
――本当に特別な『彼女』と、対等でいるために。
そう言って、映姫は蓮子へと顔を向けた。
なによ、それ――そう言いながらも、蓮子はそれ以上言葉を紡げない。視線から逃れるように顔を伏せ、凍えるように肩を震わせて。
それは欺瞞を、曖昧を、模糊を、決して許さぬ断罪者の瞳。心に闇を抱えたままでは、到底抗うことのできないこわい視線。震える。震えてしまう。言葉にならぬ恐怖が蓮子の心を縛り上げる。こんなものと今まで対峙していたのかと、こんなものの隣にいたのかと、生まれてきたことすら後悔しそうな恐怖に捕らわれかけたその時――
閻魔は、ふいに瞳から険を消し、
星を見上げ、柔らかい笑顔を浮かべて。
「いいんじゃないですか? そういうのも」
嘘を許さぬ閻魔は、
あっさりと、風のように軽く。
「仮初でも、偽物でも、いいんじゃないですか?」
――貴女がそれを望むなら。
星を見上げたまま、そう言った。
その言葉に蓮子はしばらく茫然とし、
軽く首を振ると、噛み付くように映姫を睨んだ。
「……嘘を許さないのが閻魔じゃなかったの?」
「もちろん許しませんよ? 貴女が地獄に落ちた時、しっかり舌を引っこ抜いて差し上げます。嘘が嘘のままなら、ね?」
「……どういうこと?」
「嘘はバレるから嘘なのです。バレなければそれはいつしか真実となる。閻魔帳にすら貴女の能力は『星を見るだけで時刻と場所がわかる』と明記されているのですよ? それはつまり天すら欺き通したということです。貴女が本当に天寿を全うするまで、一分一秒休むことなく嘘を貫き通したなら――それはきっと真実となるでしょう」
「……閻魔の癖に嘘を吐けっての?」
蓮子の鋭い視線を前に、
閻魔は、冠を脱いだ彼女は、
悪戯っぽく目を細め、口元に指を当てて、
「ないしょですよ?」
子供のように、そう、笑った。
5
蘇生の準備が整い、別れの時が訪れる。
裁判所の地下にある、何もないだだっ広い空間。
その真ん中には一枚の大きな鏡があり、鏡から眩い光が放たれていて、前に立つ二人の姿も光に飲まれておぼろげに霞んでいた。
一人は白装束に身を包み、表情を消したまま足元を見つめ、一人は豪奢な冠を被り、手にした笏を胸の前に構えて静かに目を閉じている。
二人は何も言わない。
無言のまま、鏡の前で立ち尽くしたまま。
白装束の少女は、少しだけ不機嫌そうに。
どこか怯えているような、何かを言いたくて、でも切り出せないといった様子で、何度も顔を上げ、その度に俯いて、歯痒そうに唇を噛んで、でもやっぱり言葉にできなくて――そしてやっと、覚悟を決めたように口を開いた。
「……私、記憶を失ってるんだっけ?」
「ええ、ですが安心なさい。蘇生処置は完璧ですから、蘇った後はちゃんと記憶も戻りますよ」
「大学生で、星を見れば時刻が解るっていう変な目を持ってて、変な友人がいるんだっけ?」
「ええ」
「秘封倶楽部とかいうのを作って、変なものを求めて、いつも楽しそうに笑って」
「ええ」
「……できるかな。私に、そんなこと」
「さて? それは私の関知するところではありません。所詮、貴女自身の問題です」
そう、と呟いた少女は、蓮子は、彼女は、
不安そうな、縋るような視線を向けて、
そして急に、決壊するように、崩壊するように、
目を見開き、涙を浮かべ、声を振り絞って。
「私は――!」
引き攣るような叫び。
万感の想いを込め、それ以上は言葉にならず、それでもなお足りない言葉を瞳に託し、両の拳を固く握り締めて。待ち受ける不安、自己を蝕む劣等感。色んなものに囚われ、身動きもできない少女が、精一杯何かを掴もうと手を伸ばすように。
だが映姫は、閻魔は、人ならざるものは、
ぴしりと、冷たく、断ち切るように。
「笑いなさい」と。
苦しい時も、病める時も、一分一秒休むことなく。
笑い続けろと、嘘を吐き続けろと。
いつの日か――嘘を本物に変える、その日まで。
「……厳しいね」
「閻魔ですから」
その視線を、言葉を受けた蓮子は、
一瞬言葉に詰まり、肩を竦め、思わず苦笑して、
「やってみるわ」
そう言って、軽く右手を上げながら、
力強く足を踏み出し、振り返ることなく、
光の中へと消えていった――
6
「やー苦労掛けちゃったわねぇ。メンゴメンゴ」
「……貴方は少しいい加減すぎる。閻魔たるもの、全ての者に対し規範とならねばならぬというのに、全くもって貴女ときたら……」
「まぁまぁ、説教は後にしてこれ食べない? お土産のマカデミアンナッツ。結構イケるわよ?」
派手なビキニの水着に腰みのを巻いたハワイアンな彼女は、手にした黒い物体を映姫の前に差し出した。その格好の上に閻魔の制服である詰襟を羽織り、冠をだらしなく斜めに被った彼女は、なんというか全てを冒涜しているような有様で、映姫は苦虫を噛み潰すようにチョコを飲み下す。
「それより……死者の取り違えだなんて許されることではありませんよ? 今回の件はあまねく十王に報告させて頂きますから、それなりの処罰は覚悟しておいてください」
熊すら逃げ出す映姫の視線を、柳に風と受け流した彼女――八代亜姫は、映姫の頭の上に肘を置いて手にした閻魔帳をぺろりとめくる。その余りに無礼な振る舞いに激昂した映姫が、勢いよく立ち上がってその手を払い除けようとした時――
「んー、それなんだけどさぁ。こっちの記録見る限り、ミスはないのよねぇ」
八代の何気ない一言に、映姫は立ち上がろうとした格好のまま、ぴたりと固まってしまった。
「……は?」
「だからさー。宇佐見蓮子は十四歳にして天寿を全うすることになってんのよ。偶々落ちてたバナナの皮を踏んで、そのままぽっくりと」
「……へ?」
「あくまでもこっちの記録では、ね?」
そういって彼女は、自分の閻魔帳を映姫の目の前でひらひらとぶらさげて見せる。
ひったくるようにして奪い取った映姫は、顔を埋めるようにして閻魔帳に書かれた記録に目を通し――読み進めるうちにその顔がみるみる青ざめていった。
「アンタさぁ、私のじゃなく、自分の閻魔帳を読んだんじゃない? 知ってた? こっちとそっちじゃ時間の流れがズレてるって」
映姫の顔が青を通り越して白になる。
そう、幻想郷と現世では時間の流れが異なるのだ。
厳密に何年ズレているというわけでなく、数年の時もあれば何十年、何百年とズレている時もあるという。
博麗大結界――現世と幻想郷を区切る強固な結界は、
時間の流れすらも歪めてしまった。結界を張った当事者たちにとってもそれは不測の事態であり、様々な対策が練られたそうだが、結局上手くいかず、最終的には当事者の一人である大妖怪による「面白そうだし別にいいんじゃない?」の一言で、そのまま放置することになったらしい。
そして幻想郷担当である映姫の閻魔帳に、以後の蓮子の記録が載っていたということは――何年後か、何十年後かは不明だが、宇佐見蓮子が幻想郷を訪れたということ。そして――
「そ、それじゃ、あの娘は記憶障害などではなく……いえ、それどころか、私は未来を変えてしまったということですか!?」
「んー、ま、そうなるかな? まぁ、自分が何で死んだのかは覚えてなかったみたいだし、記憶障害っちゃ記憶障害なんだろうけど……べっつにいいんじゃない? そっちに続きが載ってるってことは、ここであの子の運命が変わるのも、最初っから織り込み済みってことなんだろうし」
「で、ですがそれは……」
「嘘も貫き通せば真実になる――でしょ?」
その言葉に映姫は弾かれたように顔を上げ、
やがて諦めたように、深く溜息をついた。
「……お見通しですか」
「仮にも閻魔だしね?」
そして二人は鏡に目を向ける。
執務室に設えられた卓の上にある、一枚の鏡。
そこには白いブラウスと黒い帽子を被った、十四歳の少女が映っている。十四歳にしては発育がよく、大学生にも見間違えそうな早熟な少女が、凛と顔を上げ、挑むような視線を夜空に向けている。
彼女は星を見上げ、「二十二時五十三分四十三秒」と呟いた後――手元の懐中時計を見てがっくりと肩を落とした。
「まだまだ先は長そうね?」
「そう、ですね」
だが、二人の閻魔は見ていた。
肩を落とした彼女が顔を上げ、不敵な笑顔を浮かべながら、星を睨んでいる姿を。
それはどこか不器用で、とても笑顔と呼べるものではなかったけれど、それでも笑おうと、無理矢理でも笑おうと、口元を吊り上げていて。
力強くて、真っ直ぐで、
仮初の偽物かもしれないけれど、
いつか本物に変わると――
そう、信じられる笑顔だった。
「全くもう……なんでこの私がっ」
硬い靴音を響かせながら、楽園の最高裁判長である四季映姫・ヤマザナドゥはひとりゴチていた。硬い床、硬い壁、硬い天井。全てが厳粛に編まれた廊下はその声すらも無情に弾き、自ら放った言葉に貫かれては映姫の顔も余計に歪む。
ここは楽園の最高裁判所――ではない。
京都担当である閻魔が不在の間、代理として映姫が派遣され、かれこれ三日が過ぎようとしていた。
基本的に人口が少なく、それが故に仕事もなく、暇を持て余しては現世で説教を行っていた映姫であったが、流石に首都として栄える京都においてはそんな余裕など欠片もない。職務に忙殺され、こちらに赴任してからというもの碌に眠れぬ夜を過ごしていた。己が職務に殉じることを誇りとする映姫であるが、流石に疲労が蓄積し、思わず愚痴のひとつも零れてしまう。そんな自分に嫌気が差し、尚のこと苛立つという終わりなき悪循環。これでは自然と足音も、荒いものにならざるを得ない。
足を止め、息を吐く。
思考をフラットに戻そうと、もう一度深く息を吸い込んだ瞬間――背後からぱたぱたという足音が聞こえてきた。
「四季さま ! 待ってくださいよぅ 」
間延びした声に振り返れば、秘書官である芹生が資料を両手に山と抱えて駆けてくるのが見えた。京都なら「せりお」じゃなく「せりょう」だろうと思わないでもなかったが、人の名前に突っ込むのも無粋と首を振り、こほんと咳払いをして居住まいを正す。
「失礼。少し急ぎ過ぎましたね。申し訳ありません」
やっとの思いで追いつき、息を切らせていた芹生だが、頭を下げる映姫を見た途端、目を白黒させてぶんぶんと首を振った。
「ちょ!? 謝らないでください恐れ多い! それもこれもみんな私がトロいのがいけないのです! 四季様が頭を下げる必要など……」
「いえ、先の私は荒ぶる感情に身を任せ、ついつい先を急いでしまいました。周囲を顧みず、感情に流されるなど閻魔として恥ずべきこと。特に貴方には迷惑を掛けてしまったようです。本当に申し訳ありませんでした」
「いえいえっ! 四季様はぜんぜんまったく悪くありませんっ! 私ってば昔から何をやらせてもトロくてみんなに馬鹿にされてましたし……八代様に目を掛けて頂けなかったら私なんて……ですから全て私が悪いのです。四季様に非などあるはずも……」
「いえいえいえ、部下の力量を見極め、それに合わせるのが上司としての責務です。無論、ただ怠けていたというのであれば叱責することもあるでしょうが、貴方は一生懸命やっているじゃないですか。今回の件は私情によって余裕をなくし、部下の状況を見極めることのできなかった、いえ見極めようともしなかった、私の落ち度なのです。そのように貴方が徒に己を責めることなんて……」
「いえいえいえいえっ!」
――うん、君たちウザい。
もしも全てを見通す神が存在するなら、そのように思ったであろう鬱陶しい会話は、まだまだまだまだ続いている。真面目で融通の利かない上司と、やっぱり真面目で頑なな部下の組み合わせだと、話がちっとも進みゃしない。今頃鬼の居ぬ間のなんとやらで存分に羽を伸ばしているであろう三途の河の渡し守であれば、このようなこともなかろうに。
「いえいえ、ここは私が」
「いえいえ、やっぱり私が」
忘年会の会計時におっさん連中の間で交わされるような鬱陶しい会話は、結局それから五分以上も続けられることとなった――
§
映姫が楽園と呼ばれる幻想郷担当の閻魔であるように、ここ京都にも閻魔の役は設けられている。
八代亜姫・ヤマラクヨウ――この度めでたく結婚し、ハネムーンに出かけた彼女は、その間の代理として同期である映姫を指名してきた。無論、映姫も幻想郷における職務があるため、代理など無理とはっきりきっぱり断ったのだが、十王から「きみ、ヒマでしょ?」と言われて返答に窮し、結局あれよあれよという間に決定してしまったのである。宮仕えの辛さとはいえ、映姫の顔がニガヨモギを噛んだように歪むのも致し方あるまい。
「そもそも閻魔の癖にデキちゃった婚って何よ。いつの間にそんな……こちとら彼氏どころか出会いすらないってのに。そもそもあいつは昔から要領だけはよくて、いつもいつもこっちに皺寄せが……おまけにハネムーンはハワイですって!? 私なんてパスポートすら持っていないというのに……」
「あの~四季さま?」
「それに相手はただの人間という話じゃないですか。このご時世、身分がどうこう言うつもりはありませんが、閻魔ならもっと相応しい相手もいるでしょう?」
「その、四季さま?」
「そもそも閻魔の癖に現世をふらふら遊び歩き、クラブでナンパされたのが馴れ初めというんですから規律も何もあったもんじゃ……十王も十王です! 諌めるどころか、ご祝儀として気前よく恩赦をバラまく始末。これでは地獄のみならず天界まで軽んじられてしまうではありませんか! 全くもって嘆かわしい。おまけに私にまで『まだ結婚しないの?』とか『彼氏とかいないの?』とか『いま、いくつだっけ?』とかなんとか色々言ってくださりやがって……ほっとけっての!仏だけに! 仏だけにっ!」
「いや、全然上手くないですよぅ」
ぎちぎちと笏を握り締めていた映姫は、芹生のツッコミでふと我に返ると、何事もなかったように、こほんと咳払いをした。
「それで最初の被告人は?」
「先程、こちらに着いたと報告が」
「そうですか。では……」
映姫は手にした閻魔帳を広げる。
閻魔帳にはその者が生前に起こした全ての事柄が記されており、それを紐解くだけでその者の全てを知ることができるのだ。無論、この世に生きる者全ての記録となれば、抱えきれないほど膨大な量となってしまうのだが、是非曲直庁から支給されている最新式の閻魔帳では、対象となる人物の記録だけを呼び出し、自動的に帳面に記すことが可能となっている。その場合、対象となる人物の真名を知ることが必要であり、それを聞き出すのは渡し守の役目であるため、どうにかして真名を聞きだそうと、三途の河の渡し守たちは実に愛想よく死者に語りかけるのである。どこぞの死神の場合、話に夢中になりすぎて真名を聞きだすのを忘れ、その度映姫に蹴り飛ばされたりするのだが……それはまた別の話。
「して、今回の被告人の名は?」
まだ何も記されておらず、真っ白なままの閻魔帳に目を落としながら映姫は尋ねる。
問われた芹生は、顔をきゅっと引き締め、
背筋を伸ばし、傷を愁い、死を悼むように、
――宇佐見蓮子です、と。
厳粛な面持ちで、新たなる死者の名を告げた。
§
宇佐見蓮子――東京出身、京都在中。
○○大学の二回生であり、超統一物理学専攻。
両親は健在で、大学進学を機に近くのマンションにて一人暮らしをしている模様。留学生であり、友人でもあるマエリベリー・ハーンと秘封倶楽部という非公式サークルを結成し、日夜『不思議なこと』の探索、調査を行っているらしい。
「そして享年十九歳、と」
閻魔帳の記録はそこで途切れていた。
綺麗にページの端で。
まるで以後の記録には何の価値もないという風に。
少しばかり変わったところはあるものの、宇佐見蓮子は普通の学生である。その若さで……と映姫は痛ましげに目を伏せるが、死因の項目を見た瞬間、映姫の顔がとても言葉では言い尽くせないような複雑なものへと変わっていった。
「今時、バナナの皮にすっころんでって……」
しかも友人であるメリーを引っ掛けようとしたところを見咎められ、慌てて逃げ出したら転んだとか。
「はいはい、地獄逝き地獄逝き」
「あー……四季さま。気持ちはよーっくわかりますが、ここはちゃんと裁判を……」
「わかってます。わかってますよ、うふふのふ」
京都ってばこんなんばっかか、と映姫が思うのも無理はない。先日も酔った勢いで清水の舞台から飛び降りたとか、ネトゲにハマりすぎて餓死したとか、「春香ぁぁぁあああ! 俺だぁぁぁあああ! 結婚してくれぇぇぇえええ!!」と叫びながら全裸で国道に飛び出し車に撥ねられたとか、何故か映姫が担当する死者はそんなんばっかりなのだ。
京都でも幻想郷と同じく、十二時間ごとの交代制になっているのだが、もう一人の閻魔の方にはそれなりに、所謂ふつーの死者が来ているそうな。なのに何故か映姫が担当するのはそんなんばっかりなのである。
「類が友を――」
「何か言いましたか、芹生」
「いえいえ、なんでもありませんっ!」
裁判所の扉の前で閻魔帳を眺めていた映姫は、疲れたように首を振り、改めて顔を引き締めた。
死にたくて死んだものなどいない。
どれだけ不条理な死であろうと、それはそれだけの事であり、それだけでしかない。そこに差異はなく、善悪すらもない。
閻魔が裁くのは、あくまでも生前の行いである。
なればこそ、どんなに間抜けな死に様であろうとも、そこに私情を挟んではならない。
映姫は読み掛けの閻魔帳を閉じると、凛と背筋を伸ばして扉に手をかける。閻魔としての、裁判官としての仮面を被り、軽く咳払いをして喉の調子を確かめてから、おもむろに扉を押し開く。
幻想郷の裁判所と同じく、ゴシック調の巨大な柱が特徴的なだだっ広い空間。被告を見下ろすように設えた階段状の床。威厳を振り撒く豪奢な机。
そして――机の前に立つ、少女の背中。
死に装束である白い着物へと身を包んだ少女にちらりと視線を向けると、厳粛さを演出するために敢えて目を瞑り、そのままゆっくりと歩を進める。傍聴席はなく、弁護人もおらず、ただ被告と裁判官のみの、一方的で、それが故に揺るぎない、絶対公正な裁判を始めようと。
補佐及び記録係でもある芹生を引き連れて粛々と進み、机の前についたところで、はじめて被告人である宇佐見蓮子へと目を向けた。
死因の項が頭を掠める。
だがそれを邪念と切り捨て、曇りなき眼で宇佐見蓮子をいう存在を見通そうと――
「――え?」
思わず、声が漏れた。
机を挟んだ向かいに立つ少女。
その目を見た瞬間、自然に声が漏れていた。
予断は禁物。そう自らを戒めながらも、あの死因を知った後では宇佐見蓮子がどういう少女なのか、漠然とイメージしていたのは否めない。少しばかり抜けているところはあるが、天真爛漫で悪戯好きでいつも楽しそうに笑っているような、当たり前の、普通の少女としてのイメージ。
だが目の前の少女は、
全てを憎むように、全てに挑むように、
冷ややかに目を細め、不快そうに眉を顰めて、
正面に立つ映姫を――睨んでいた。
――これが、宇佐見蓮子?
映姫がそう思ったのも無理はない。
外見的には普通の少女である。肩に掛かる黒髪は艶やかで、十九歳という年齢しては若干小柄であるものの、愛らしい、十二分に魅力的な女の子だ。
だが、瞳が。
黒く、大きな二つの輝きが、
彼女の持つ魅力の全てを――殺していた。
それほどまでに棘のある眼差し。一介の女学生に出せるはずもない殺気すら篭った視線。閻魔である映姫ですら、一瞬たじろぐほどの。
視線に飲まれていた映姫は、ごくりと唾を飲み込むことでその視線と相対する。目を細め、声を落とし、神妙に口を開く。
「貴女が宇佐見……蓮子さんですか?」
確認のための、ただの問い掛け。
だが少女は不快そうに目を細めると、肯定も否定もしないままふいっとそっぽを向いてしまった。
その態度に映姫は一瞬むっとしたが――もう一度問い質そうとして何故か躊躇い、とりあえず隣に立つ芹生を耳元に呼び寄せる。
「……もう一度確認します。あれが『宇佐見蓮子』なんですよね?」
「え、ええ」
「人違いじゃないですよね?」
「おそらくは……」
その声が段々と小さくなっていくが、別に芹生は少女の様子に戸惑っているわけではない。渡し守から引継ぎ、此処まで案内したのは芹生自身なのだ。映姫もそれを知っていたからこそ、先に芹生に問い掛けたのである。
人違いなど有る筈もない。
とはいえ――
「彼女は……はじめから、あんな感じですか?」
「はい……私も気になって渡し守に聞いてみたのですが、最初からああだったそうで。どれだけ話しかけても一言も口を利かず、辛うじて名前だけは確認が取れたそうですが……」
「ふむ」
改めて映姫は少女の方を眺める。
顔を顰めたまま両腕を組んだ少女は、苛立ちを隠そうともせず爪先で床を蹴っていた。
「自分が死んだことを理解できていない、とか?」
「どうでしょう? 渡し守の言葉にも何の反応も示さなかったそうですし……ひょっとしたら有り得るかもしれませんが」
「ふぅむ」
死して尚、自らの死を認められない者もいる。
これは何かの間違いだと、死神の手を振り解いて現世に帰ろうとする者も。
彼らに死んだということを認めさせるのも死神の役目であり、どうしても認めようとしない者には、手にした鎌で魂を刈り取る権利すら認められていた。無論それは最終手段であり、説得もまた死神としての大事な役目なのだが――
「何も反応せず、何も抵抗せず、ですか。それでは死神の怠慢と咎めるわけにはいきませんね」
死を受け入れたから、此処にいる。
そう、認識するしかないだろう。
「失礼しました。では改めて裁判を行います」
映姫は改めて少女に向き直り、背筋を伸ばして宣言する。閻魔帳に記された記録とのギャップは気になるが、外見や態度と内面が異なる者などこれまでに飽きるほど見てきた。最初は戸惑ったものの、通常通り裁判を進めることで、彼女の隠された本質を暴くことになるだろう。
「宇佐見蓮子――京都在住の大学二回生。専攻は超統一物理学で、友人であるマエリベリー・ハーンと共にオカルトサークルである秘封倶楽部とやらを結成している……間違いありませんね?」
閻魔帳で確認済みの公式記録。
とりあえず公にされている情報を晒し、徐々に内面へと切り込んでいく裁判の常道。最初は映姫の述べる記録を淡々と聞き流していた死者たちも、隠された秘密を次々と暴かれていくうちに、驚き、戸惑い、否定して――そしていつしか項垂れる。
それが閻魔の神性裁判。
天知る、地知る、人ぞ知る……全てを知る閻魔に隠し事などできるはずもなく、犯した罪を、その全てを暴かれた者には、最早抵抗する気力も残っていない。
これはそのための第一歩。
軽い小手調べとしての、私は何でも知っているぞという事を示すパフォーマンス。
だが――
「いいえ」
少女は冷めた瞳を向けたまま、眉を顰め、抗うように両腕を組んで――閻魔の言葉を否定した。
「宇佐見蓮子……それは間違いなく私の名前よ。でも私は大学生じゃないし、専門は統計学だし、マエリベリー・ハーンなんて舌を噛みそうな名前は知らないし、サークル活動なんてやったこともないわ」
戸惑う映姫を無視して一息に告げると、蓮子は再び視線を逸らす。
伝えることは全て伝えたと。
そう、切り捨てるように。
「……どういうことですか?」
映姫の問い掛けにも、もう答えない。
つまらなそうに、視線を宙に彷徨わせるだけ。
「……どういうことです、芹生?」
埒があかないと判じたのか、映姫は再び芹生へと視線を向ける。問われた芹生はあたふたと狼狽し、申し訳なさそうに首を振った。
軽く溜息を吐いた映姫は、改めて手元の閻魔帳へと視線を落とす。さっきまでは死因のインパクトが強すぎて、彼女の性格や経歴、それら生前の記録まではきちんと把握していなかったのだ。無言のまま『宇佐見蓮子』の記録に目を通し、彼女の本質を見極めようと読み進めるうちに――映姫の顔が真冬のツンドラ地帯のように青ざめていく。落ち着きなく閻魔帳を縦にしたり横にしたり、かと思えば帳面に顔を埋めたり呆然と空を仰いだりと、実に忙しなく。
唐突にはじまった映姫の奇行に、思わず芹生が目を丸くする。だが映姫はそれに気付く余裕もないまま挙動不審な行動を続け、そうしてやっと、映姫はおそるおそるといった感じで顔を上げた。
「う、宇佐見……蓮子さん?」
「……なによ」
その弱々しく自信なさげな声に、芹生は鳩が豆大福を喰らったような顔になり、壁を睨んでいた蓮子すらも怪訝そうに眉を顰める。
「えーと……貴女は友人であるマエリベリー・ハーンを罠に嵌めようとして、うっかり死んでしまったそうですが……」
「はぁ? なによそれ?」
「ま、漫画なんかでよくあるように、人が本当にバナナで転ぶのかを知りたいと思った貴女は、廊下にバナナの皮を山ほど並べていたところで友人に声を掛けられ、驚くと同時に自分で敷いたバナナを踏んで転んで頭を打ったと……」
「……そんなバカ、いるわけないでしょ」
「で、ですよねー」
目に見えて狼狽している映姫に対し、唖然としていた芹生であったが、やっとの思いで我に返ると、意を決して口を開く。
「あ、あの、四季さま、どうされたのですか? なんだか顔色が優れませんが……」
何故か汗をダラダラ流していた映姫は、芹生に返事を返すことなく、青ざめた顔のまま、それでも覚悟を決めたように、蓮子の顔を真っ直ぐに見つめて今一度問い掛ける。
「宇佐見蓮子さん……貴女は今、お幾つですか?」
それに対して蓮子は、露骨に顔を顰めながら、
「十四だけど……それがどうしたってのよ?」
吐き捨てるように、そう言った。
2
「記憶喪失って……あの娘がですか?」
呆れたような芹生の声に、映姫は軽く首を振る。
「転んだ拍子に頭でも打ったんでしょうね。今の彼女は十四歳のところで記憶が止まっているようです。それ以降のことは何も覚えていない、と」
「でも、死者なのに記憶喪失って」
「普通ならば死と同時に、それまでの怪我や病気からは解放されます。ですから本来ならば有り得ないはずなのですが……魂というものはデリケートですからね。身体の損傷と同時に、魂にも傷がついてしまったのかもしれません」
ほへぇっと感心したような声を漏らす芹生を横目で眺めながら、映姫は深い溜息を吐く。
「おまけに死者の取り違えまで起こるなんて……こんなの前代未聞ですよ、まったく!」
そう、蓮子はまだ死ぬ運命ではなかった。
閻魔帳には確かに『バナナで転んで頭を打った蓮子が死ぬ』ところまで書いてあったのだが、それ以降のページが二枚ほどひっついており、それを無理矢理開いてみると、死に掛けた蓮子が奇跡的に蘇生する件までちゃんと書いてあったのである。
蓮子の死がページの左端に綺麗に収まっていたことや、本来有り得るはずのない閻魔帳の裁断ミス。また丁度その閉じられていたページに次の段落が掛かっていたことなど、幾つもの不幸な偶然が重なった結果ではあるが、それに当事者の記憶喪失まで加わったとなると、最早何者かの悪意を感じずにはいられない。
「漫画みたいですよねぇ」
「それは漫画に対して失礼です。こんなご都合主義の極みのような頭の悪い話……まともな人間なら思いついたりしません」
「で、どうされるんですか?」
「閻魔帳の記録は絶対です。ですから彼女が奇跡的に蘇生したと明記されている以上、それに従わなければなりません。今、十王へと掛け合っておりますが、身体の修復を行い、記憶を消した上で、何事もなかったかのように現世にお帰り頂くことになるでしょうね」
「それ……いいんですか?」
「いいわけないでしょう!?」
突然大声を出した映姫に、芹生がびくりと身体を竦める。だが怯える芹生に構わず、映姫は肩を震わせながら尚も声を荒げた。
「そんないい加減なことが許されるわけないじゃないですか! 仮にも生と死を司る是非曲直庁が、手違いだからといってほいほい生き返らせるなど……いえ、それはいいんです。ミスはミス。それはそれできちんと受け止め、彼女を現世に帰す手段を講じようとするのは間違っておりません。ですが記憶を消し、全てをなかったことにしようなどと……それでは事件の隠蔽ではないですか! そのような不正、到底許されるものではありません!」
「あ、あの、四季さま、落ち着いて」
「これが落ち着いていられますか! そもそも本来であれば、閻魔が常に死者をチェックし、誤ってこちらに来そうな者があれば、事前に、速やかに送り返すのが筋なんですよ!? それもこれもアイツが結婚に浮かれたかなんだか知りませんが、チェックを疎かにしたままハネムーンに出かけてしまったせいじゃないですか! その時点で気づいていれば何も問題はなかったはずなのに……あの娘の身体はすでに荼毘に付されているんですよ? 身体の修復やら周囲の人間の記憶操作、その他諸々の始末で全部署がパンクしてるじゃないですか!」
「わかります。わかりますので、その、少しトーンを落として……」
尚も肩を震わせる映姫に対し、半分腰が引けながらもどうどうと諌める芹生は、やがて疲れたように肩を落とした。
「確かに今はどこもてんやわんやですしねぇ。他の死者たちも全部詰め所で待機させてますし。早くなんとかしないと……」
「ぜーんぶアイツが悪いのです。即刻呼び戻して責任を取らせなさい」
「そんな無茶な……」
同期の気安さか、誰にでも公平であろうとする映姫が、八代に対しては特に厳しいような気がした。それもまた友情というものかもしれないなーと芹生は思う。先に嫁に行かれて八つ当たりしてんのかなという思いもないではないが、それはあらゆる者を、特に自分を不幸にする気がしたので心の底に沈めておく。口は災いのもと。君子危うきに近寄らず。つるかめつるかめ。
「とりあえず諸々の処理が終わるのは、明日の朝になると思います。それまで……どうしましょうか?」
矛先を変えようとする芹生の言葉に、映姫は真面目な顔で考え込んだ。
「そう、ですね。しばらくは裁判もできないでしょうし……芹生、貴女は他の部署を手伝ってやってください。今はどこも猫の手だって借りたいでしょうし」
「了解しました。四季さまはどうされます?」
「私は外様ですしね。下手に手を出せば邪魔になるだけでしょう。それに」
「それに?」
映姫は軽く息を吐く。
小さな笑みを浮かべ、視線を宙に向けて、
「あの娘を、放っておくわけにもいきませんしね」
白装束に身を包んだ少女の、諦めたような、拗ねているような瞳を思い浮かべ――映姫は手にした笏を固く握り締めた。
§
「構わないでくれる? 私のことは放っておいてくれればいいから」
「…………」
応接室で待っていた蓮子に、声を掛けたのが五分前。
現状の説明と、今回の不手際に対する謝罪を切々と述べていた映姫を徹底的に無視した挙句、ようやっと口を開いたと思えばこれである。無論、非はこちらにあるのだしと、できるだけ下手に出ていた映姫だったが、流石に堪忍袋の緒がブチきれそうだった。
「こ、今回の件はこちらの手落ちですし、明日の朝には貴女も現世に帰れるでしょう。身体の修復も、周囲の記憶操作も同時に行いますので、貴女はただ転んで気を失っただけということになります。無論、貴女自身の記憶も後ほど修正致しますので、ここでの会話も記憶からは消える事となり、同時に失われた記憶を取り戻す施術も行いますので……」
沸騰した鍋のように沸き立つ心を、鋼の精神力で自制する。どうせ記憶の改竄を行うのだ。時間が来るまで放っておけばいい――そういう想いもないではないが、閻魔としてそのような欺瞞を許すわけにはいかなかった。
それもまた、所詮は安っぽい自己満足。
そう、解っていても捨てられない。
蓮子は映姫の言葉も届いていないように、不機嫌そうに眉を顰めたまま、映姫の方へと顔も向けようとしない。怒りを通り越して疲労感すら覚える映姫であったが、気を取り直し、更に口を開こうとした時――
「……いい」
「はい?」
「別に生き返らせてくれなくてもいい……そう言ってるのよ」
「え? ですが」
「いいって言ってるでしょ! 余計な事しないで!」
唐突な蓮子の叫びに、映姫は目を丸くする。
聞き違いかと思ったが、蓮子もまた自分の声に驚いたように目を丸くし、急にバツの悪そうな顔を浮かべて、視線をテーブルに置かれた湯呑みへと向けた。
いつもなら怒りを感じていただろう。
無数の、余りにも多くの、理不尽で不条理で無意味な死をその目で見てきた閻魔だからこそ、生命を軽視する物言いは決して許せるものではない。千を超える言葉で、万を超える想いを胸に、この救いようのない愚か者を、強かに打ちのめすことだってできただろう。
「……何故です?」
なのに、問うた。
「貴女は……生きていたくないのですか?」
生命に対する侮蔑を前に、怒るより先に問うていた。
なぜなら蓮子の瞳が、伏せられたままの目が、
捨てられた子供のように、道を失った旅人のように、
拗ねているように、怒っているように、
泣いているように、戸惑っているように、
そう――見えたから。
蓮子は答えない。
瞳を伏せ、テーブルの上の湯呑みを、
一度も手をつけなかったそれを、ただ、凝っと。
湯呑みを満たした緑茶に、蓮子の顔が映っている。
ゆらゆらと、ゆらゆらと、揺れている。
泣きそうな、引き裂かれそうな顔を、
ゆらゆらと、ゆらゆらと――
沈黙が閉じた室内を支配する。同じ部屋にいるのに、壁で閉ざされたように二人は隔絶されている。裁く者と裁かれる者。人と閻魔。生者と死者……多分そういうことではなく、何かが根本的に隔てられている。
この時、映姫は初めて蓮子に興味を持ったのかもしれない。今までは死因とのギャップから、必要以上に厳しい目で見ていたのかもしれない。
彼女は――記憶を失っているのだ。
自覚もないまま、手違いとはいえ一度死んでしまったのである。それはどれほど心細く、不安なことだろう。あの異様なまでの敵愾心は彼女なりの自衛手段なのかもしれない。何の力も持っていない彼女に、身を守るための、他にどんな術があるというのか。
それに彼女の心は十四歳で止まっているのだ。
その年頃ならあの反抗的な態度も、思春期特有の自然なものと言えるのではないだろうか。それにいちいち目くじらを立てるのも大人げないのではないか?
さて、どうしたものかしらね――そんな風に思いながら、映姫は手元のお茶を一口啜る。
迷いを断ち切るはずの閻魔が、女の子ひとりの扱いに迷っている。その状況につい口元が緩んでしまう。
「……なに笑ってるのよ?」
「いえ、別に」
むーっと、蓮子が口を突き出して睨んでいる。
その顔が何だか可愛らしく思えて、映姫はもう一度、今度ははっきりと、穏やかな笑みを浮かべた。
§
「蘇生の準備は整っていますか?」
「あー……割と手間取ってますねぇ。当初の予定通り明日の朝までには、と思っているのですが」
「そうですか。まぁ、焦ることはありません。それよりも手違いのないよう、慎重に進めてください」
はぁ、と生返事をする芹生だったが、内心ちょっと驚いていた。まだ三日足らずの付き合いでしかないが、こういう時『最速を心掛けなさい。その上で一切のミスを許しません』なんて無茶な命令を平気でしてくるものだと思っていたからだ。ミスがないようにというのは当たり前だが、焦る必要はないというのはどういう意味だろう。そんなに気の長そうな人には見えないのに――
そう思いつつ芹生が視線を向けると、映姫は近寄りがたいほど一心に手元の閻魔帳を睨んでいた。普段なら速読技能を駆使して一瞬で読み終わるというのに、まるで行間を読むように、一文字一文字ゆっくりと目で追いかけている。
「それ、彼女の記録ですか?」
「え? ええ、宇佐見蓮子の記録です。ちょっと気になることがありましてね」
「はぁ、何か問題でも?」
「さて……それを知りたくて、記録を読み返しているんですが」
答えながらも、映姫は目を離さない。
その様子にこれ以上声を掛けるのも憚られて、芹生が手にしたお茶に口を付けようとすると、
「芹生……貴女は幻想を信じますか?」
ふいに、映姫が問い掛けた。
驚いた芹生が再び視線を向けるも、映姫は閻魔帳へと視線を落としたまま、まるで独り言のように。
「私の担当する幻想郷には、現世ですでに失われてしまったもの――所謂幻想が平気な顔で闊歩しているから今ひとつ実感が湧かなかったのですが……そうですね、貴女は全能なる神の存在を信じますか?」
「え、えと……?」
「私たちはそれこそ神や仏に仕える身です。だからこんな質問はおかしいかもしれませんが……でも、だからこそ神とて万能ではないことを私たちは知っている。神だって誤ることもある。仏だって全てを救えるわけではない。違いますか?」
「あ、いや、それは……」
芹生は戸惑う。
是非曲直庁内における神仏に対する批判は、別に禁止されているわけではない。とはいえそれは、特に自分たちのような者が、迂闊に口にして良いものではないはずだ。
「別におかしな話ではないでしょう? 私だって閻魔でありながらミスは犯すし、貴女だって完璧とは言えないでしょう? 完璧な、決して間違いを犯さない存在など、それこそ幻想の中にしか存在しない」
「そ、それは……でも……」
お茶を持つ手が自然と震える。
自分は今、決して聞いてはいけない言葉を聞いているんじゃないだろうか……そんな不安が鎌首をもたげ、無性に恐ろしくなる。
「そして、だからこそ、私たちは幻想を纏う。絶対的で普遍的な『正義』という仮面を被ることで、死者を裁き生者を導く。人々をより良き道へと、誤らないように、迷わぬように。神は決して誤らない――その幻想を利用して」
「四季さま……それ以上は……」
声すら震える。
だが映姫は、容赦なく、非情なまでに厳しく。
「真実を知れば……失望させてしまうのでしょうね。そう、今のあの娘のように」
それきり、映姫は口を開かない。
閻魔帳に目を落としたまま、もう顔も上げない。
沈黙に耐え切れず、芹生が逃げるように退室した後も、ただ黙々と。
宇佐見蓮子の記録を、
彼女の歩いてきた道を、
その全てを――自らの足でなぞるように。
§
「星を見れば現在の時刻が判る能力、か」
蝋燭だけの心細い明かりの中、ぽつりと零した呟きが、部屋の壁に溶けていく。
夜も更け、そろそろ日も変わろうかという時刻。
とはいえ是非曲直庁は眠らず、今も慌しく動き回っている。無論慌しいのは蓮子の蘇生に携わる者たちであり、外様である映姫だけが取り残されているような状況だ。
世界に置いていかれたように。
誰もいない執務室に、たった一人で。
「心細いから? 不安だったから? いいえ、きっと違うのね」
最初はそうだったのかもしれない。
でもそんな状況が続けば、きっと人は、一人ぼっちの心細さにすら、気付けばいつしか慣れている。心は磨耗し、熱を失い、そして静かに消えていく。
誰にも看取られぬまま。
いつまでも、どこまでも、独りのまま。
それはなんて残酷で、おそろしいことだろう。
それはなんて悲しく、救いのないことだろう。
だからきっと――これは彼女なりの戦いなのだ。
世界という巨大で途方もない存在と向き合うためには、普通のままではいられない。何もないちっぽけな自分に耐えられないなら、特別な何かになるしかない。普通の、何の変哲もない普通の生き方は、それはそれで尊く、大切なものではあるけれど……
ふと、映姫は手元の閻魔帳へと目を向ける。
何度も読み返した彼女の記録。だがそこに書かれているのはただの客観的な事実にすぎない。彼女が何処で何をしたかは書かれていても、彼女が何を思っていたかは解らない。
「でも、だからこそ、閻魔が存在する」
ただの記録を記憶とするために。
羅列された事実から、真実を暴くために。
是非曲直庁に明文化された法はない。法は全て閻魔の裡にある。それぞれの閻魔が持つ倫理、常識、規律によって裁量を下す権限が与えられており、十王だろうとその裁決に口を出すことはない。
それは十王をはじめとする神仏の、閻魔に対する信頼であると同時に、人の犯す罪など神仏にとっては些細な、どうでもよいことだと思われているのかもしれないと、時に空しく思うこともある。
それでも、閻魔であることを誇りと思うから。
救われぬ魂を救うための、それが唯一の術だと知っているから。
「だから私は閻魔になった。一介の石仏に過ぎなかった私が、それでも誰かを救いたいと願うなら……特別な何かになるしかなかった」
それが閻魔。
神仏に願い、祈り、請うた末の顕現した奇跡。
「だから……あの娘も同じなのね」
宇佐見蓮子――世界に対して余りにもちっぽけな彼女が、それでも世界と向き合うために。
「ならばこれも、私の務め、か」
蝋燭が消える。
薄暗かった室内が、完全に闇に沈みこむ。
だが構わず闇に身を委ね、椅子の背もたれに深く背中を預けると、映姫はそっと静かな笑みを――その口元に浮かべた。
3
「……ふん」
宿直用のベッドに横たわったまま、蓮子は何度目になるか判らない寝返りを打った。
眠れない。身体は睡眠を欲しているのに、精神だけが尖っている、そんな感じ。
「そっか。今の私は幽霊だっけ」
なら身体というのもおかしな話か。
馬鹿馬鹿しい――そう呟いて、蓮子はもう一度布団で身体を包み込む。枕が硬い。ベッドが軋む。時計の音が煩い。そんな些細なことが気になって、ちっとも眠れる気がしない。
ふと視線を横に向ける。燭台の灯りすら途絶えた室内だが、暗がりにもとっくに目は慣れていた。飾り気のない白い壁、かちこち煩い柱時計、飲みかけのお茶が放置された丸テーブル。そして……仄かに明るい窓の外。
二分、躊躇った。
無理矢理目を閉じて、眠ってしまおうと思った。
「ああ、もう!」
だけどそれも何だか負けな気がして、腹立ち紛れにシーツを跳ね除ける。勢いよく身を起こし、素足のままずかずかと窓の前に立ち、そのまま引き千切るようにカーテンを開けた。そしてもう何度も見た、すでに見飽きてしまった風景を、きつく睨みつける。
昼でもなく、夜でもない、ぼんやりとした空。
厚い雲に覆われ、そのくせ雲そのものが発光しているようにうっすらと明るく、そしてそれ以外は木々のひとつさえない、荒涼とした彩りに欠ける景色。
これが――彼岸。
死した者が集う、最期の場所。
それは多くの者がイメージするように、淋しくて切なくて胸の奥が締め付けられるような、そんな光景。
「は、ん」
だからこそ笑ってしまう。
余りにも思い描いた通り。まるで子供騙しだ。今時どんな三流映画だって、こんな手抜きのあからさまな死後の風景なんてないだろう。
「私ってば意外と発想が貧困だったのね……いや、意外ってほどでもないか」
軽く自嘲しながら、窓に手を触れる。ちょっと力を加えるだけで割れてしまいそうなガラスに、敢えてもたれて息を吐く。
張り詰めすぎだ――それは自覚している。
閻魔だかなんだか知らないが、あそこまで敵意を剥き出しにする必要はなかった。どうせ明日には全て終わるのに、大人げなかったと反省する。
「にしたって、ねぇ? わざとらしくでっかい鎌をぶら下げた死神に、これまたそれっぽい三途の河。おまけにいかにもって感じの閻魔まで……そりゃ馬鹿にしてんのかって気にもなるわよ」
閻魔も死神も女の子だったのは気になるが。
ひょっとして今まで気付かなかっただけで、自分はそういう趣味でも持っているのだろうか?
「ないない、ないわよほんとにもう」
頭に浮かんだ閻魔の顔を、ぶんぶんと手で払う。
閻魔は、明日には現世に戻れると言っていた。
ならばこれが、夢の落としどころってやつだろう。
死んだという自覚もないし、本当は十九歳だって言われてもピンとこない。ベッドに入る前に湯浴みをさせてもらったが、そこの鏡に映る姿を見ても記憶の中の自分と特に変わった様子もないし、何の感慨も浮かんでこない。
「未来の自分が想像できないってオチなら笑うわね。どうせなら素敵な未来を見せて欲しいもんだわ」
自分の胸に手を当てて、軽く絶望の溜息を吐く。
それともこれは、大人になんてなりたくないという暗喩なのだろうか。
それもまたありがちで、気の滅入る話だ。
「どうしようっか、な」
眠ろうとしても眠れない。それはもう嫌ってほどに理解している。気晴らしに散歩にでも出掛けたいが、流石にそれは許されないだろう。
「お酒でも飲みたいな」
父親に付き合って、何度かお酒を嗜んだことがある。
割とお酒には強い性質らしく、父が隠し持っていた秘蔵のブランデーを一人で空けて、こっぴどく叱られたこともあった。
お酒は好きだ。
ワインも、ウイスキーも、ブランデーも。
ビールも、焼酎も、日本酒も。
甘い香り。ぴりりとした舌触り。喉を通る熱い塊。 嫌なことも憂鬱なことも、みんなふわふわとどうでも良くなっていく。雲の上を歩いているような、あったかい布団に包まれているような、ちょっとだけ幸せな気持ちになれてしまう。
「そうね。それだけは楽しみ、かな?」
大人になれば、いつでも好きな時にお酒が飲める。
お洒落なバーに行くのもいい。賑やかな居酒屋も悪くない。明かりを消した部屋で、月を眺めながらグラスを傾けるのも良いだろう。
この世にはまだまだ自分の知らない酒がある。
それを味わうことは、今の自分にとって唯一の、明確で、誰に聞かせても恥じることのない、胸を張って言える夢の形ではあるだろう。
「でもって……それだけなのよね」
それ以外は、口にするのも憚るような、
考えただけで赤面するような、
幼稚で、くだらない、夢。
「ほんっと、どうしよっかなー」
時計を見ると、すでに十二時を回っている。このまま朝まで眠れぬ夜を過ごすのはやりきれないなと思った瞬間――見透かしたようなタイミングで、ノックの音が響いた。
「夜分遅く失礼します。もう……お休みになられましたか?」
それは、聞き飽きた閻魔の声。
惑う。迷う。揺れ動く。返事をすべきか逡巡する。
だが蓮子は諦めたように舌打ちすると、軽く爪を噛み、不機嫌そうな顔を無理矢理作り出して、
「どうぞ? 丁度退屈してたところよ」
澄ました声で、そう答えた。
§
「だいたいねー。なーにが閻魔よ、はっずかしいー」
「なにがですかなにがですか! わたしは閻魔ですよ、どっからどーみても立派な閻魔ですよ。敬いなさい。つか敬え」
「なーにいってんだか。閻魔っていったらふつーは髭づらのムサいおっさんでしょー? こーんなちんちくりんの閻魔さまとか、生まれてこのかた聞いたことないわよ」
「わ、私はちんちくりんなんかじゃありません! そもそも髭づらのムサいおっさんとか、そっちが勝手に思い描いてただけでしょーが!」
「だーっておばあちゃんがそーいってたもん。おばあちゃんはうそつかないもん。なにー? アンタおばあちゃんがうそついたってゆーわけ?」
「い、いやそれは是非曲直庁の流したイメージ戦略というか……そ、そんなことどうでもいいじゃないですか! どっちにしろ私は閻魔なのです。死後の魂を裁くえらーい神さまなのです。崇めなさい奉りなさい」
「ほらほら、ちょっと立ってみ?」
「な、なんですかなんですか?」
「ほらーやっぱわらひより背ぇ低いじゃん!」
「うぐ!?」
「わたひは中学生なのよー? それより低いってどーなのさー?」
「だ、だから貴女は記憶を失ってるだけで、身体は成人女性だと言ってるでしょう!? 私は普通です! 普通よりちょっぴり小柄なだけです!」
「そんなのしらないもーん。わたひはぴっちぴちの十四歳だもーん」
そう言って蓮子はけたけた笑い、映姫はあまりの悔しさに目に涙を浮かべている。
一体何がどうしてこうなったのか。
話は二時間ほど前に遡る。
「で、何の用なわけ?」
相変わらずの挑むような蓮子の視線を、もう慣れたとでも言うように受け流し、映姫は悠然と微笑んだ。
「眠れないんじゃないかと思いましてね? 慣れない場所に一人置き去りにされ、心細かったんじゃないかなーと」
「馬鹿にしてんの? 私は子供じゃないっての」
「子供じゃない、ですか? いえいえ、私から見れば貴女など、ぜんぜんまったくお子さまです」
「……喧嘩売ってるわけ?」
「まさか。私は私なりに貴女と打ち解けたいと思っているのですよ。それに――」
映姫は頭に載せた冠を持ち上げると、ひょいっと蓮子のベッドに放り投げる。
「今はオフですから」
閻魔の証である豪奢な冠を投げ捨て、映姫はふんわりと柔らかく綻んだ。
それまでの、閻魔としての威厳を捨て。
まるで、ただの女の子のように。
「……オフって?」
蓮子は怪訝そうに眉を顰める。
だが映姫は蓮子の視線を無視してずかずかと部屋の隅に足を向けると、一見するとただの壁としか思えない場所にしゃがみこみ、とん、と軽く手で突いた。
途端、壁の一部がくるりと回り、黒い穴が口を開ける。そこには大小様々なビンが並び、アルコール独特のツンとした臭いが鼻をついた。
「むぅ、こんなところに隠していましたか。まったく、死神というのはどこも同じですね」
「な、なに言ってんの?」
「ここは元々死神専用の宿直室なんです。仕事で遅くなった死神が、一時的に休めるように設けられているのですけどね? 基本的に法廷内での飲酒、喫煙は禁じられているのですが、どこにでも外れものというのはいるものでして……こうしてご禁制の品を持ち込む不届き者が後を絶たないのですよ」
口だけはへの字に曲げて、目は嬉しそうに細めながら、映姫はいそいそと酒ビンを床に並べていく。呆気に取られている蓮子に背を向けたまま、穴の中に身体ごと突っ込み、「あ、スルメまであるじゃないですか。まったくもって許しがたいですね」とかなんとかぶつぶつ呟いている。
日本酒に焼酎。
ウイスキーにブランデー。
奥には箱に入った缶ビールまで。
それら全てを引っ張り出して並べると、映姫はふぅとわざとらしく大仰な息を吐いた。
「あるとは思ってましたが、まさかこれほどとは……京都の規律も緩みきっていますね。まぁ、上がアレだし、予測どおりといえば予測どおりですが」
酒ビンに囲まれた映姫は、床にどかりと胡坐をかくと、手招きするように目で誘う。
「さぁさぁ、貴女もこちらにおいでなさいな。これらは禁制品。そのままにしておくわけにはいきませんが、だからといって捨てるのも勿体な……いやいや、これらを作ってくれた方々に対して失礼というものです。というわけで、私たちで片付けてしまおうと思うのですが如何ですか?」
「い、如何って……」
蓮子は目を丸くするしかない。
つい先程子供扱いされたかと思えば、今度はそこに座って酒を飲めという。その変わり身の早さについていけない。
どうすればいいか迷っていると、映姫は蓮子を無視してさっさと日本酒の口を切り、手元の杯にどくどくと注ぎ始めた。おっとっとと言いながら杯のぎりぎりまで酒を注ぎ、注ぎ終わった途端口元に当てて躊躇いもせずぐーっと飲み干す。
「ぷはー。ふむ、なかなか良いですね。口当たりはまろやかだし、喉越しもするりとしている。個人的にはもっと辛口な方が好みですが、これはこれで大変よろしい」
うむうむと頷きながら再び杯に酒を注ぐと、映姫はまた一息に空けた。零れるような笑みを浮かべ、目元をとろんと蕩かしながら。
罠だ――それは解っていた。
演技力に欠けるというか、嘘が吐けないというか、そんなの蓮子の目から見てもバレバレだ。
このまま無視しようか。
そうすればコイツは意地になって、いつまでもこの一人上手を続けるだろう。それはそれで愉快な気持ちがしないでもない。それでも――
「……頂くわ」
蓮子は映姫の正面にどかりと座る。
腹も据わった。覚悟も決めた。罠だろうが何だろうがどうでもいい。ただ、杯に口を付けた時に浮かんだ幸せそうな笑みはきっと本物だから……それに委ねてみようと思ったのだ。
「でもさ。閻魔が未成年に酒を勧めて……タダで済むと思ってんの?」
ただ、ちょっとだけ。
そのまま思惑に乗るのも腹立だしかったので、そんな意地悪なことを言ってみる。
すると閻魔は、冠を脱いだ彼女は、
「ないしょですよ?」
口に人差し指を当て、
悪戯っぽく、子供のように――笑った。
§
「あー……も、むり。も、のめない」
大の字に寝っ転がった蓮子の周りには、大小様々な空き瓶が転がっている。けふりと吐いた息も酒臭く、アルコール純度百パーセントって感じだ。
「ありゃりゃ、まったくだらしないれすねー? たかがこの程度の酒くりゃいで」
そういう映姫も呂律が回っていない。壁に背を預けてしゃがみこんだまま、目もとろんとしている。けたけた笑いながら杯を傾けるが、口に入るよりも零れる方が断然多く、いつもの詰襟のボタンは全部外され、最早全身酒まみれである。
「あ、あたひは未成年だっつーの……」
「ふふん。あなたくりゃいの歳で、もっと飲むやつはいっぱいいるですよー? 巫女とか魔法使いとか……鬼とか神に飲み比べを挑むような馬鹿ちんが、そりゃもー売るほどいますれす、はい」
「なにそれ? ばっかじゃらいの?」
「閻魔に飲み比べを挑む馬鹿とどっこいれすよ」
むーっと唸りながら、蓮子が寝返りを打った。
ふと、柱時計に目を向ける。
すでに時刻は二時を回っていた。閻魔がやってきたのが十二時だったから、あれから二時間以上も飲みっぱなしというわけである。
「つかこんなペースで飲んだらそりゃ潰れるっての!あーもー、わらひはもっとこう、ゆっくりのんびり味わいながらってのが好きなのにー」
「わたひだってそーれすよぅ? でもしかたないじゃないですか。これは飲み会じゃなく禁制品の処分なんれすから」
「そっかー、しかたないのねぇ」
「しかたないのですしかたないのです」
酔いどれたちの頭の悪い会話は続く。
二人とも臨界突破しているのは明白で、蓮子はしなびた蛇の抜け殻のようになってるし、映姫は映姫で誰もいない宙を指してけたけたけたけた笑っていた。いい加減誰か止めろよというツッコミも入りそうなもんだが、閻魔と扱い難そうな死者のいるこの部屋に入ってくるような酔狂な者などいるはずもなく、酔狂な住人たちは相変わらず手酌でがんがん酒を飲み尽くしていた。
「それにしても強いれすねぇ……人間にしては、ひっく、なかなかやるじゃないれすか」
「ったりまえっしょー? うちの田舎じゃ『うわばみ蓮子』って呼ばれてたんらから!」
「あんた、都会っ子れしょうに」
「気分よ気分、いい気分!」
蓮子は寝っ転がったまま両足を内側に曲げ、足の裏をぱしぱしと打ち付けた。シンバルを持ったチンパンジーのように、そりゃもーぱしぱしと。
「ほらほら着物でそんなかっこしたら、大事なところがまるみえれすよー? まったくもってはしたない。いいれすか? 女性というものは常に慎みを持ちつつですね?」
「うーるーさーいー」
尚も説教を続ける映姫を無視して両足をばたばたさせていた蓮子は、突然「だーんごむーしー」と某ネコ型ロボットのような声で宣言し、寝っ転がった状態から両足を勢いよく振り上げて倒立した。おまけにそのまま後転しはじめる。ごろごろごろごろとどこまでも転がっていき、壁に後頭部を打ち付けて蹲った。そのまま動かない。死んだのかもしれない。
「……ら、らいじょうぶれすか?」
動かなくなった蓮子へと、ずりずり膝をついたまま近寄った映姫は、ぴくりとも動かない蓮子のつむじを人差し指で突付く。
動かない。
つむじをぐりぐりしてみる。
やっぱり動かない。ただの屍のようだ。
流石に心配になって、映姫が蓮子の両肩に手を回し、 軽く揺さぶろうとした瞬間、蓮子は顔を上げ、映姫の肩をがしりと掴み、にっこりと微笑んで――
「ぎゃぁぁぁぁぁああああああああああああ!?」
両肩を押さえられ、逃げ場のない映姫の顔面へと、それはそれは見事な噴水ゲロを浴びせかけた。
§
「うう、きぼぢわるい……」
「私だって気持ち悪いですよ。水浴びしたせいで酔いも全部飛んじゃいましたし……全くもって最悪です」
頭からゲロを浴びせられた映姫は、濡れた髪を手拭いで拭いながら、拗ねたように答える。
その姿を見て、ふと蓮子が眉を顰めた。
「んー? アンタ着替えたんじゃなかったの? なんでまたその服着てんのさ?」
「着替えましたよ? これは私の私服です」
「……さっきとどこが違うの?」
「全然違うじゃないですか! ほら、襟や袖に刺繍があるでしょう? 肩当もありませんし」
「あっそう……」
なんとなく突っ込むのも憚られて、蓮子は無視することに決めた。そもそも気持ち悪さの方が勝って、そんなことどうでもよかった。
「あーもー……流石に飲み過ぎ。しばらくお酒は見たくもないわ」
そう言って、蓮子は大きく伸びをする。
昼か夜かも定かでない虚ろな空の下で、せめて肺の空気だけでも入れ替えようと。
今は外。酔いを醒ますために水浴びをし、そのまましばらく外で涼むことにしたのだ。未だ全身酒臭く、その度にぐっと吐き気が込み上げるが、着替えをしたこともあって先程よりはマシな気分である。
「しっかし相変わらず辛気臭い空ねぇ。星でも見えればちっとはマシなのに」
伸びをするついでに、蓮子は空を見上げた。
夜中だというのにほんのりと明るく、それでいて分厚い雲が空を覆っていて、なんともすっきりしない気分になる。
「あの雲も結界の一部ですよ。あれもまた生と死を別つもの。三途の河と一緒です」
答えながら、映姫もまた空を見上げた。
厚い雲を、少しだけ哀しそうに。
「……はん。つまりあれは天井ってわけだ。此処は牢獄で、私は囚人、そしてアンタは裁判官。解りやすすぎて涙が出るわね」
蓮子がそう毒づくと、映姫は驚いたように目を見開いて、蓮子へと視線を向ける。
咄嗟に口を開こうとして、そして、躊躇う。
口にしたものか迷い、やがて意を決したように。
「貴女は……まだこれを現実と認めないのですか?」
その言葉に、蓮子はへらりと自嘲の笑みを浮かべた。
酒で口が軽くなっているだけだと。
言い訳するように、軽く肩を竦めて。
「認めてはいるわ。貴女も、此処も、私の妄想が生み出したものではなく、現実と同じように確たる存在なのだと。でもね、それでもね? やっぱり私には信じられない。嘘っぽいのよ。この世界も、この空も、そしてアンタも」
信じられないことが悔しいのだ、と。
そう、目を細めながら。
「人間が観測することによって、はじめて宇宙は生まれた、そのように形作られた……シュレンディンガーの猫や観測問題を例に取るまでもなく、少しだけ知識を齧った子供なら、誰でも一度は考えたことがあるはずよ? この世界は自分の見ている夢かもしれないって。思い通りにいかないことも多いけど、それもまた自身の無意識が生み出した、人生における適度なスパイスと言えない事もないしね? そしてなにより、私は私の意識を認識しているけれど、私には他人の意識の存在を決して証明することが出来ない。だってそうでしょう? 私の意に沿わない答えを、私の無意識が用意することで、私は、私の主人格は、この世界が妄想ではなく現実だと安心することが出来る。そうであろうという風に、私の無意識が騙そうとしているのかもしれないんだもの。そして私にはそれを証明する術がない。五感は全て脳で受け取る……その脳が嘘を吐いているのなら、私には決して見破れない。だって」
――私の本心は、その嘘こそを望んでいるのだから。
騙されることを望んでいるのだ。
そんなの、騙されない方がおかしい。
無論、そんなことはないと解っている。思春期特有の肥大したエゴが、世界の全てを自分の裡に置いておきたいと願っているだけだと、それこそ都合の良い妄想に過ぎないと、でも――
「死後の世界……それはある意味、私の疑問に対する決定的な答えとなるはずだったわ。私という存在が死によって失われることで、初めて私は第三者的視点を獲得することができる。そうすることでやっと、私はこの世界を外側から認識できるはずだったのよ。この世界は私の妄想じゃないと。私の周囲には、ちゃんと私と同じように自分の意思を持った存在がいるんだと。なのに……」
死後の世界も現世と同じで。
より一層、作り物じみて、滑稽で。
蓮子は空を見上げて沈黙する。
厚い雲の先を見通そうと目を凝らし、それが出来ないことに絶望し、それでも、それでもなお、空を――
「貴女は……自分が嫌いですか?」
「嫌いよ」
「……何故です?」
「弱いから」
一瞬の躊躇いすらない、刹那の回答。
予めそう答えようと、決めていたかのように。
特別な何かに憧れるも、自分には何もない。世界と向き合うだけの力もなく、流されるだけの覚悟もない。抜群の記憶力を誇り神童と呼ばれた彼女は、それでも自身を特別だと思えなかった。賢しさ故に、己の凡庸さをも理解してしまった。
捨てられた子供のように、道を失った旅人のように、
拗ねているように、怒っているように、
泣いているように、戸惑っているように、
そんな目で――空を見上げたまま。
押し潰されそうな重い沈黙。
静かな、死んだような夜を、蓮子は哂う。
厚い雲に覆われ、光を閉ざすこの空こそが、自分の心の在り方なのだと、そう、自分を嘲笑う。口元を歪め、所在なく立ち尽くしたまま――
そんな蓮子を眺めつつ、映姫は重々しく口を開いた。
「特別なものになりたいですか?」
その言葉に、蓮子は力なく笑う。
例えば閻魔。例えば死神。
ESPでもUMAでもUFOだって何でもいい。
特別な、世界と相対するに足る証を、資格を、
そんなものを求めるのかと。
「なれるならね?」
まだ酔いが残っているのか。
それともこれは夢だと諦めているのか。
その言葉は、するりと蓮子の口から漏れていた。
世界は不思議が溢れている。
なのに彼女はそれを嘘だと知っている。
賢い彼女にはその嘘すらも見破れてしまう。
この世には――不思議なものなどなにもない。
「重症ですね」
「死んだ方がいいくらいにね」
蓮子の歪んだ笑みを眺め、映姫は肩を竦める。
そしてそのまま振り返り、建物の影に向かって唐突に声を掛けた。
「芹生」
「ひ、ひゃい!」
あからさまな狼狽の声と共に、建物の影に隠れていた赤髪の少女が転がり出る。地面に手をついたまま、盗み聞きしていた気まずさからか、叱られた子犬のような目で映姫を見上げている。
突然の闖入者に蓮子は目を丸くしたが、映姫は動ずることなくにっこり微笑んで、身体ごと芹生の方を向いた。
「貴女は元渡し守ですよね? まだ自分の舟は持っていますか?」
倒れこんだ芹生の前にしゃがみ、目線を合わせるようにして優しく尋ねる。その柔らかく、笑顔を浮かべたままの映姫の声に何故か不吉なものを感じた芹生は、大量の汗を流しながらこくこくと頷いた。
「それではちょっと舟を出してくれませんか? 忙しいのなら無理にとは言いませんが……暇ですよね? こんなところで盗み聞きしてるくらいですし?」
「あ、いや、その、廊下の窓からお二人の姿が見えたもので……」
「暇ですよね?」
「は、はい!」
有無を言わせぬ物言いに、芹生は地面にこすりつけて平伏する。サボっているところを見つかった死神がどうなるか――その噂は遠く、京都の地まで届いていた。八大地獄を合わせたよりなお過酷なその責めは、地獄の鬼神長ですら泣いて許しを請うという。鬼すらも跨いで通る『オニマタ映姫』――その二つ名は伊達ではない。
「さて、それでは行きましょうか?」
状況の変化に付いていけず目を白黒とさせていた蓮子と、跪いたまま涙目になっていた芹生は、異口同音で「何処へ?」と訊ねる。
二人の視線を受け止めた映姫は、
にっこりと、子供のように目を細めて、
「星を見に行きましょう」と、
輝くような笑顔で、そう言った。
4
「どういうつもり? こんなところまで連れ出して」
「まぁまぁ、いいじゃないですか。どうせ朝には現世に戻るんですし。こんな経験、向こうに戻ったら中々できませんよ?」
「……私、もう眠いんだけど」
「ほらほら、若いんだから文句を言わない。夜更かしは若いうちだけの特権です」
あからさまに不機嫌そうな蓮子を連れて、映姫は夜の道をひた歩く。芹生に舟の番をしておくよう言い残し川岸を歩き始めた映姫の顔は、どこか楽しそうにほころんでいた。
その顔を見て、蓮子は軽く肩を竦める。
そして諦めたような溜息を吐くと、改めて周囲を見渡した。濃密な土の匂い。あちこちから聞こえる虫の声。近くを流れる小川のせせらぎ。全てが灰色に沈んだ彼岸とは異なる、生命溢れる夜の道。
「いきなり舟に乗せられたと思ったら、こんなところまで連れてきて……本当、どういうつもりなわけ?」
「彼岸では星が見えませんしね。どうです? 大したものだと思いませんか?」
映姫が天を指差しながら、くるりと振り返った。
指先に釣られ、蓮子も顔を上げる。
そこには――
「――あ」
見上げた先には、空を別つ光の帯。
天の川――古来そう呼ばれる、銀河の積層。
彦星と織姫などの様々な伝承を生み出し、詩に詠まれ、耳に馴染み、にも関わらず最近では街の光に押しやられ、肉眼ではぼんやりとしか見ることのできなくなってしまった幻の光景。
なのに、それが、煌々と。
天の川の名に相応しく、黒き空を悠々と。
思わず声を漏らした蓮子は、呆けたように空を見上げていた。それはまるで、夜そのものが輝いているような、余りにも眩し過ぎて星座の形すら解らなくなるほどの、無限に等しい星の渦。大気の揺らぎによって生じる瞬きは、銀河そのものが一個の生き物であるかのように、ざわざわと、ざわざわと波打って。
夜明けまであと数時間。
あと僅かで東の空が黎明に染まる。
だが、今はまだ、世界を支配しているのは星たちで、虫たちの合唱が勢いを増す中、蓮子は呼吸すら忘れたように、ただ、ただ、空を見上げて――
「どうです? 大したものでしょう?」
「……ふん。ちょっと驚いただけよ」
からかうような映姫の声で我に返った蓮子は、すぐに気を取り直し、いつもの不機嫌そうな表情を浮かべる。無理をしているのがバレバレの、無理矢理作ったへの字口で、それでもちらちらと空を見上げながら。
「……なに笑ってんのよ」
「いえいえ、中々可愛いものだと思いまして。それがアレですかね? 現世で流行りの『ツンデレ』ってやつですかね?」
「なにそれ、ばっかじゃないの!?」
「こういう時はアレですかね? 『もえー』とか言えばいいんですかね?」
「違うっつーの! いいから黙ってなさいよ!」
「はいはい」
明らかに笑いを堪えている映姫をじろりと睨んで、蓮子は再び睨むような顔つきのまま夜空を見上げる。
だが、それも長くは続かない。
今にも落ちてきそうな空の下、次第にその表情すらも溶けていき、少女にだけ許された透明で、真っ直ぐな、何ものにも染まらない自然な顔で。
立ち尽したまま、星の光を、天から零れる雫を、深く、静かに、身体の隅々へと染み込ませるように――
それからどのくらい経ったのだろう。
ふと、映姫が口を開いた。
「やっぱり、世界はつまらないですか?」
その途端、蓮子の表情が変わる。
星の輝きを網膜に焼き付けようとしていた無心の表情が崩れ、頑なな、世界そのものを拒絶するような厳しい顔に戻して。
「つまらないわ」
「どうして?」
「自分が……嫌いだから」
そんな風に、意固地に。
意固地になってしまう自分に、更に腹を立てながら。
「星は、つまらないですか?」
「……綺麗だとは思う。でも、それだけよ」
「綺麗ということは、それだけで価値があると思いませんか?」
「……かもね。でもそれは主観に過ぎない。私にとって価値あるものと、世界にとって意味のあるものは同義ではないわ。一瞬の……気の迷いみたいなものよ」
今見ている星空も、眼球を通して脳に映し出される虚像に過ぎない。星を見て湧き上がる感情が、他者と共有できるとは限らないのだ。
例えば今隣に立っている閻魔と、自分が見ているものが同じとは限らない。共有できぬ美に、いったい何の意味があるというのか。人は独りだ。どこまでいっても独りだ。独りにしか……なれないのだ。
泣きそうな顔で、蓮子は空を見上げている。側に誰かがいるからこそ、生じてしまう孤独感。それに必死で耐えながら、涙を零すまいと上を向いて。
そんな蓮子を眺めながら、映姫は僅かに肩を竦めた。
「私だってこの星空を綺麗だと思いますよ? ですがその感情も……貴女に言わせれば偽物に過ぎないのでしょうか?」
「我ながら傲慢だと思うわ。他人と感動を共有することを小難しく考えすぎだって。でもね、仕方ないわよ。私には、他人が何を考えているかなんて解らないんだから……アンタと違ってね?」
そう言って、自らの身体を抱きながら。
思春期特有の、理由なき疎外感。
そう言ってしまうには、切実過ぎる表情で。
だから映姫は、言葉を選びながら慎重に口を開く。
「閻魔とて……全てを見通せるわけではありませんよ? その者が歩んだ道を知ることはできても、その者が何を思って歩いたのかは解りません。ですから想像するのです。記録から当人の心情を推測し、事実の羅列からその者にとっての真実を導き出す。それが正解なのかどうか、私にだって解りません。絶対の法に基づき、隠された罪を裁くと偉そうに言ったところで、結局は私の主観に過ぎないのですから。ひょっとすると、間違えることだってあるかもしれませんね?」
「……いいの? そんなこと言っちゃって」
「今はオフですから」
冠を外した映姫が羽のように笑い。
蓮子もまた、釣られたように淡い笑みを浮かべる。
星空の下、互いに仮面を外した、自然な顔で。
「不思議なものに惹かれますか?」
「そ、ね。不思議なものってことはつまり、この私にも解らないものってことだもの。たとえそれすら、私の脳内で生み出した都合の良い謀りごとなのだとしても……それがあれば、少しだけど安心できるわ」
この世界は幻じゃないと。
自分の外側にも、ちゃんと世界は存在するのだと。
そんな、風に。
「私は不思議ではありませんか?」
「ははっ、アンタは閻魔って割に人間っぽすぎるわよ。そうね……いいとこ仕事に疲れきったOLってとこかしらね?」
「むむ、否定したいところですが、微妙に否定できないのが悔しいですね……」
「お人よしだし、背もちっちゃいし」
「せ、背は関係ないでしょう!?」
ぶんぶんと手を振り回す映姫をあしらうように、蓮子はとんと後ろに跳ねる。手を後ろで組んで、からかうような笑みを浮かべて。
「あはは。でもね? 私、アンタのこと好きよ? こんなにしゃべったのはじめてだもの」
年頃の女の子のように華やかに。
だけどそれは、どこかぎこちないまま、
無理をしているような、仮初の、偽物で。
「何でだろう、何か何でも話せる気がするの! アンタだけは、私が何を言っても見捨てないって!」
両手を広げて、星の海を泳ぐように。
爪先立って、浮かれたようにくるりと回って。
「まだお酒が残ってるのかな? うふふ、何だかとってもいい気分! ねぇ、私と一緒に踊らない?」
くるくると、くるくると。
踊りながら、はしゃぎながら、無理に笑顔を作って。
でも、それは――
「夢だから、ですか?」
その仮初で、偽物の笑顔は、
言葉一つで、容易く打ち砕かれるほど脆くて。
「そうよ」
そう言って浮かべた笑みは、
哀しいほど、どこか酷く乾いていて。
「これは夢だもの。私は死後の世界なんて信じない、死神なんて信じない、閻魔なんて信じられない。でもいいじゃない。今は、今だけは、こんな風にはしゃいじゃってもさ? どうせ明日には醒めるんだもの」
笑いながら、回りながら。
目に、うっすらと涙を浮かべて。
蓮子が星を見上げる。
映姫もまた、顔を上げる。
満天の星が、眩い夜が、冷酷なほど美しく。
自分たちとは関係のないところで、何万光年も離れた場所で、己が生命を燃やして。取り残された迷い子たちを、見下すように、嘲笑うかのように――
泣いている子供。泣いている蓮子。
笑いながら、踊りながら、蓮子は静かに泣いている。
道化じみた笑顔を貼り付け、滑稽なほど必死に。
でも映姫は、泣いている子供へ手を差し伸べることなく、冷たく、断ち切るように。
「星を見れば時刻が解る……貴女はその力を覚えていますか?」
唐突に、それを口にした。
案の定、蓮子はきょとんとした顔を浮かべる。
「何処にいようと星の位置を見定めさえすれば、今が何時なのか秒単位で解る……そんな力があったことを貴女は覚えていますか?」
「……なによ、それ」
「記憶を失った貴女は覚えていないかもしれませんが、貴女はそんな不思議な能力を持っていたそうです。その力と、貴女の友人が持っていた『世界の結界を視る力』を使って、貴方たち二人のサークル――秘封倶楽部は世界に隠された秘密を、昼となく夜となく探っていたと、記録にはそう残っています」
「…………」
「もう一度、空を見上げて御覧なさい。今が何時なのか解りますか?」
蓮子は戸惑いながら空を見上げる。
輝く星を睨み、何かを見つけ出そうと首を巡らせながら目を凝らす。でも――
「わかるわけ、ないじゃない」
悔しそうに、目を細めて。
打ちひしがれたように、そう言って、項垂れて。
「大体何よ、星を見れば時刻が解るって……そんなの時計を持っていれば済む話じゃない! 本当の私はそんな下らない能力を得意気に触れ回ってたってわけ?はん! いらないわよ、そんなもの!」
「でも、時計がない時は便利ですよ?」
「だから、そんな……」
「時計、持っていますか?」
「…………」
「実は私も持っていないんですよ。困りましたね、これでは今何時なのか解りません。朝までに彼岸に戻らないといけないというのに」
残念そうに呟いて、映姫は深く溜息を吐いた。
その飄々とした、小馬鹿にするような態度に、蓮子はむっと顔を顰める。
「じゃあ、さっさと帰ればいいじゃない。いつまでもこんなとこでダラダラしてないでさ!」
「いえいえ、折角ここまで来たんですもの。どうせなら時間いっぱい楽しみたいじゃないですか。あー困りましたねぇ、こんな時に時計さえあれば……」
映姫は深く肩を落としながら、ちらりと蓮子の方を覗き見た。その期待するような眼差しから逃れるように、蓮子は足元へと視線を落とす。
「そんなもの……どうだって……」
「いいえ。時間は大切なものなのです。今を知るが故に過去を知り、過去を知るが故に未来を知る。己が座標を定めることで、人は次なる一歩を踏み出すことができる。時間に縛られるのは愚かなことですが、縛られるが故に、本来自己の内部だけで完結するはずの時の流れを、見知らぬ他人とも共有できるのですよ? 時間という概念がなければ他人と世界を共有することもできない……それはとても淋しいことですが、逆に言えば、ただそれだけで世界と繋がることができるのです。それはそれで素敵なことと思いませんか?」
「別に淋しくなんか……」
「では、悔しいの間違いかしら?」
「…………」
「さて、今何時か解りますか?」
「わかるわけ……ないじゃない……」
「私は解りますよ? 今は三時五十三分二十三秒です。あ、今二十五秒になりましたね」
蓮子は弾かれたように顔を上げる。
そこには笏で口元を隠し、にまりと哂う閻魔の顔。
「ね? 便利でしょ?」
「……適当に言ってるんじゃないでしょうね?」
「いいえ? 確かめてもらっても構いませんよ?」
「……本当に星を見れば時刻がわかるっての?」
「まさか。部屋に柱時計が掛かっていたでしょう? あの部屋を出たのが二時十一分二十五秒。そしてそれから一時間四十二分五十八秒経過した――ただそれだけのことです」
「だから、なんでそれが――」
「私はただ数えていただけです。正確なリズムで、一分一秒休むことなく」
蓮子は声を失う。
だが閻魔は、にまにまと笑ったまま、
――不思議だと、そう思ったでしょう?
そう言って、
更に笑みを深くした。
「……くだらないわ。そんなのインチキじゃない」
「そうですか?」
「そうよ。そんなの私にだって――」
「だからそれが、貴女のやっていた事ですよ」
殺意すら乗せて、蓮子がきつく睨む。
だが刃のような視線を、映姫は風のように受け流し、
「貴女ならできるでしょう? 驚異的な記憶力を持ち、九歳にして米国の研究機関に招聘された経緯を持つ貴女なら。数々の論文を残し、神童と持て囃された貴女なら。そして――天才と呼ばれた者たちが集うアカデミーの中で、己の限界を悟り、打ちのめされ、逃げ出した貴女なら」
「特別だった貴女は、特別ではなかった。世界に何百、何千と溢れる天才たちの一人でしかなかった。その事実に耐えられなかったのでしょう?」
「本当に特別だった『彼女』を前に、別の世界を視る目を持った『彼女』を前に、自分も特別であると示すにはそれしかなかったんでしょう?」
「星を見れば時刻が解る――ロマンチックですよね。不思議ですよね。でもその裏で、貴方は必死に数を数えていたのです。一分一秒休むことなく」
――本当に特別な『彼女』と、対等でいるために。
そう言って、映姫は蓮子へと顔を向けた。
なによ、それ――そう言いながらも、蓮子はそれ以上言葉を紡げない。視線から逃れるように顔を伏せ、凍えるように肩を震わせて。
それは欺瞞を、曖昧を、模糊を、決して許さぬ断罪者の瞳。心に闇を抱えたままでは、到底抗うことのできないこわい視線。震える。震えてしまう。言葉にならぬ恐怖が蓮子の心を縛り上げる。こんなものと今まで対峙していたのかと、こんなものの隣にいたのかと、生まれてきたことすら後悔しそうな恐怖に捕らわれかけたその時――
閻魔は、ふいに瞳から険を消し、
星を見上げ、柔らかい笑顔を浮かべて。
「いいんじゃないですか? そういうのも」
嘘を許さぬ閻魔は、
あっさりと、風のように軽く。
「仮初でも、偽物でも、いいんじゃないですか?」
――貴女がそれを望むなら。
星を見上げたまま、そう言った。
その言葉に蓮子はしばらく茫然とし、
軽く首を振ると、噛み付くように映姫を睨んだ。
「……嘘を許さないのが閻魔じゃなかったの?」
「もちろん許しませんよ? 貴女が地獄に落ちた時、しっかり舌を引っこ抜いて差し上げます。嘘が嘘のままなら、ね?」
「……どういうこと?」
「嘘はバレるから嘘なのです。バレなければそれはいつしか真実となる。閻魔帳にすら貴女の能力は『星を見るだけで時刻と場所がわかる』と明記されているのですよ? それはつまり天すら欺き通したということです。貴女が本当に天寿を全うするまで、一分一秒休むことなく嘘を貫き通したなら――それはきっと真実となるでしょう」
「……閻魔の癖に嘘を吐けっての?」
蓮子の鋭い視線を前に、
閻魔は、冠を脱いだ彼女は、
悪戯っぽく目を細め、口元に指を当てて、
「ないしょですよ?」
子供のように、そう、笑った。
5
蘇生の準備が整い、別れの時が訪れる。
裁判所の地下にある、何もないだだっ広い空間。
その真ん中には一枚の大きな鏡があり、鏡から眩い光が放たれていて、前に立つ二人の姿も光に飲まれておぼろげに霞んでいた。
一人は白装束に身を包み、表情を消したまま足元を見つめ、一人は豪奢な冠を被り、手にした笏を胸の前に構えて静かに目を閉じている。
二人は何も言わない。
無言のまま、鏡の前で立ち尽くしたまま。
白装束の少女は、少しだけ不機嫌そうに。
どこか怯えているような、何かを言いたくて、でも切り出せないといった様子で、何度も顔を上げ、その度に俯いて、歯痒そうに唇を噛んで、でもやっぱり言葉にできなくて――そしてやっと、覚悟を決めたように口を開いた。
「……私、記憶を失ってるんだっけ?」
「ええ、ですが安心なさい。蘇生処置は完璧ですから、蘇った後はちゃんと記憶も戻りますよ」
「大学生で、星を見れば時刻が解るっていう変な目を持ってて、変な友人がいるんだっけ?」
「ええ」
「秘封倶楽部とかいうのを作って、変なものを求めて、いつも楽しそうに笑って」
「ええ」
「……できるかな。私に、そんなこと」
「さて? それは私の関知するところではありません。所詮、貴女自身の問題です」
そう、と呟いた少女は、蓮子は、彼女は、
不安そうな、縋るような視線を向けて、
そして急に、決壊するように、崩壊するように、
目を見開き、涙を浮かべ、声を振り絞って。
「私は――!」
引き攣るような叫び。
万感の想いを込め、それ以上は言葉にならず、それでもなお足りない言葉を瞳に託し、両の拳を固く握り締めて。待ち受ける不安、自己を蝕む劣等感。色んなものに囚われ、身動きもできない少女が、精一杯何かを掴もうと手を伸ばすように。
だが映姫は、閻魔は、人ならざるものは、
ぴしりと、冷たく、断ち切るように。
「笑いなさい」と。
苦しい時も、病める時も、一分一秒休むことなく。
笑い続けろと、嘘を吐き続けろと。
いつの日か――嘘を本物に変える、その日まで。
「……厳しいね」
「閻魔ですから」
その視線を、言葉を受けた蓮子は、
一瞬言葉に詰まり、肩を竦め、思わず苦笑して、
「やってみるわ」
そう言って、軽く右手を上げながら、
力強く足を踏み出し、振り返ることなく、
光の中へと消えていった――
6
「やー苦労掛けちゃったわねぇ。メンゴメンゴ」
「……貴方は少しいい加減すぎる。閻魔たるもの、全ての者に対し規範とならねばならぬというのに、全くもって貴女ときたら……」
「まぁまぁ、説教は後にしてこれ食べない? お土産のマカデミアンナッツ。結構イケるわよ?」
派手なビキニの水着に腰みのを巻いたハワイアンな彼女は、手にした黒い物体を映姫の前に差し出した。その格好の上に閻魔の制服である詰襟を羽織り、冠をだらしなく斜めに被った彼女は、なんというか全てを冒涜しているような有様で、映姫は苦虫を噛み潰すようにチョコを飲み下す。
「それより……死者の取り違えだなんて許されることではありませんよ? 今回の件はあまねく十王に報告させて頂きますから、それなりの処罰は覚悟しておいてください」
熊すら逃げ出す映姫の視線を、柳に風と受け流した彼女――八代亜姫は、映姫の頭の上に肘を置いて手にした閻魔帳をぺろりとめくる。その余りに無礼な振る舞いに激昂した映姫が、勢いよく立ち上がってその手を払い除けようとした時――
「んー、それなんだけどさぁ。こっちの記録見る限り、ミスはないのよねぇ」
八代の何気ない一言に、映姫は立ち上がろうとした格好のまま、ぴたりと固まってしまった。
「……は?」
「だからさー。宇佐見蓮子は十四歳にして天寿を全うすることになってんのよ。偶々落ちてたバナナの皮を踏んで、そのままぽっくりと」
「……へ?」
「あくまでもこっちの記録では、ね?」
そういって彼女は、自分の閻魔帳を映姫の目の前でひらひらとぶらさげて見せる。
ひったくるようにして奪い取った映姫は、顔を埋めるようにして閻魔帳に書かれた記録に目を通し――読み進めるうちにその顔がみるみる青ざめていった。
「アンタさぁ、私のじゃなく、自分の閻魔帳を読んだんじゃない? 知ってた? こっちとそっちじゃ時間の流れがズレてるって」
映姫の顔が青を通り越して白になる。
そう、幻想郷と現世では時間の流れが異なるのだ。
厳密に何年ズレているというわけでなく、数年の時もあれば何十年、何百年とズレている時もあるという。
博麗大結界――現世と幻想郷を区切る強固な結界は、
時間の流れすらも歪めてしまった。結界を張った当事者たちにとってもそれは不測の事態であり、様々な対策が練られたそうだが、結局上手くいかず、最終的には当事者の一人である大妖怪による「面白そうだし別にいいんじゃない?」の一言で、そのまま放置することになったらしい。
そして幻想郷担当である映姫の閻魔帳に、以後の蓮子の記録が載っていたということは――何年後か、何十年後かは不明だが、宇佐見蓮子が幻想郷を訪れたということ。そして――
「そ、それじゃ、あの娘は記憶障害などではなく……いえ、それどころか、私は未来を変えてしまったということですか!?」
「んー、ま、そうなるかな? まぁ、自分が何で死んだのかは覚えてなかったみたいだし、記憶障害っちゃ記憶障害なんだろうけど……べっつにいいんじゃない? そっちに続きが載ってるってことは、ここであの子の運命が変わるのも、最初っから織り込み済みってことなんだろうし」
「で、ですがそれは……」
「嘘も貫き通せば真実になる――でしょ?」
その言葉に映姫は弾かれたように顔を上げ、
やがて諦めたように、深く溜息をついた。
「……お見通しですか」
「仮にも閻魔だしね?」
そして二人は鏡に目を向ける。
執務室に設えられた卓の上にある、一枚の鏡。
そこには白いブラウスと黒い帽子を被った、十四歳の少女が映っている。十四歳にしては発育がよく、大学生にも見間違えそうな早熟な少女が、凛と顔を上げ、挑むような視線を夜空に向けている。
彼女は星を見上げ、「二十二時五十三分四十三秒」と呟いた後――手元の懐中時計を見てがっくりと肩を落とした。
「まだまだ先は長そうね?」
「そう、ですね」
だが、二人の閻魔は見ていた。
肩を落とした彼女が顔を上げ、不敵な笑顔を浮かべながら、星を睨んでいる姿を。
それはどこか不器用で、とても笑顔と呼べるものではなかったけれど、それでも笑おうと、無理矢理でも笑おうと、口元を吊り上げていて。
力強くて、真っ直ぐで、
仮初の偽物かもしれないけれど、
いつか本物に変わると――
そう、信じられる笑顔だった。